Comments
Description
Transcript
見る/開く - 茨城大学
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 大学改革のために--諸学の関係を求めて 古井. 伸哉 茨城大学教養部紀要(26): 551-566 1994 http://hdl.handle.net/10109/9755 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html 大学改革のために For the Reformation of the University 一諸学の関係を求めて一 一〇nthe Interrelation Among the Studies一 古 井 伸 哉 (Shinya FURUI) June.27.1993 花無心にして蝶を招き蝶無心にして花を訪ねる花開くとき蝶来たり蝶来たるとき 花開く 知らずして 帝則に従う 良寛 哲学ノートNo.1 之を如何,之を如何と日わざる者は,吾之を如何ともすること末きのみ。 孔子 定 義 諸学を関係づける概念について K.マルクスは,人間の社会システムが持つ,経済的システムを捕えるための,一つのモデルを提 供している。 彼の経済システムへの入口は何よりもあの価値形態論である。 しかし,それは諸学の関係を捕えるためには射程が狭い。 より,高次の概念が必要である。 任意のシステムを捕える基本概念は形態,機能,構造の概念である。 これであれば,理論物理学が対象とするシステムであれ,より高次の学問群であれ,捕えうる。 璽とは,そのシステムがもつみかけのしたがって現象レベルでのいわゆる「形」である。 壁能とは,今,対象とするシステムのもつ「働き」である。 盤造とは,システムが現象レベルでは,この形を持ち(形態),このような「働き」(機能)をす る,理由を与える本質概念である。端的に云えば「働き」を制御するメカニズムである。 552 茨城大学教養部紀要(第26号) 注 意! 多くの対象は,重層構造を持つ。よって対象とされるシステムはその一つの層を示すことが一般 的である。 これより形態,機能,構造は層を変えると相対的概念となる。 一つの層での機能は他の層での構造となるなどである。 システムを安定的に保持するものがある。人間の集団にあっては,価値観にかかわるものである。 真・善・美といわれるそれである。感性にあたるものがそれである。美術音楽etc.がそれである。 例として,地域の社会での“葬式”で形態,機能,構造を説明するのは省略しよう。 注 武谷 三男(理論物理学)は,1942年にニュートン力学の形成について(弁証法の諸問題 理論社)認識論:三段階論を発表した。これによると現象論的,実体論的,本質論的,各段階 をたどって,人間の認識はすすむとしている。これらは,こSでの形態,機能,構造にそれぞ れ対応している。 文 献 ピアジェ晩年に語る。J−C.ブランギェ著,大浜 幾久子訳,国土社 July,2,1993 哲学ノートNo.2 君子は器を身に蔵し,時を待ちて動く,窮すれば則ち変ず,変ずれば則ち通ず。 孔子 「共時」と「通時」の関係性について A.例で語る 設問,一方通行の授業は,いかにして相互交通の授業に変化するか。(「通時」) 1人の教官は,同時に二つ以上の教室で講義はできない。ましてや相互交通の授業は不可能 (「共時」) , 他方,テレビ授業で1人の教官は同時に二つ以上の教室に向かって講義ができる。しかし。これ は一方通行の授業である。(「共時」) 設問の答に入る。 施設の充実で上記のテレビ授業が増加していけば,テレビ授業と同時に存在する一方通行の授 業,つまり両者の共存は(異質な二つの授業の同時存在:「共時」),一方通行の授業を相互交通の 授業に変化させるべき「圧力」となる。(仮定:テレビ授業は相互交通の授業が最も困難なもので ある)二つの授業の関係性は「共時」。 553 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 この「圧力」は一方通行の授業群からいくつかの相互交通型の授業を発生させる。(「通時」) B.一般化 1.一般に対象とするシステムには異質な部分系が同時に存在する。異質な部分系の関係性は「共 時」的である。或は「共時」的関係性で捕らえる必要がある。何故なら,考えているシステム の安定性を保障するメカニズム(「構造」哲学ノートNo.1)を明確にすることが必要であるから。 また,このことによって対象とするシステムの固有性がはっきりするからである。部分系の相 互関係は互いに相手を変化させる原因となる。これがある部分系をして他のものに変質させる のである。(「通時」) 要約 部分系の関係性(「共時」)が,ある部分系の変質転化(「通時」)を引き起こす。 2.「共時」,「通時」の全面展開(世界;人間の/自然の重層化) 一メタシステム移行=進化一 システムの異質な部分系が相互に関係し合って,部分系の変質(「通時」)がある特定のもの だけではなく多くの部5il系にも起こることがある。 このような場合,システムは一般的には不安定になり従前の構造が機能しなくなる。システ ム全体が新しいシステムに転化する。(メタシステム移行),これは新しいシステムの発生であ る,新しいシステムの発生前に多くの場合,カオスが生じるとされつsある。文献2参照。この システムは,もとのシステムと比較して形態,機能,構造すべてについて異質なものである。か くして新しいシステムが生み出され安定する。(新たな「共時」の発生) 注 意! 新たなシステムの発生(「通時」)があっても,元の旧システムは,新しく発生したものと重層し て共存するのが一般的である(「共時」)。メタシステム移行とはこのことである。 3.学問がその固有性を持つのは,それが対象とするシステムについて「共時」と「通時」の両 者が射程に入っている時である。学問が学問たるためには当然のことながら固有の規律がある のはいうまでもない。 4.ソシュール晩年の「沈黙」(アナグラム研究への没頭)は,「通時」の必要性に気づきつつあ ったことを偲ばせる,あるいは始めからソシュールは知っていた。 文 献 1.ソシュールを読む 丸山 圭三郎著 岩波セミナーブックス2 2混沌からの秩序 Lプリゴジン/1.スタンジェール著 伏見 康治等訳 みすず書房 注 通時とは進化の,歴史の,形態等の変質の時間。共時とは,共有する時間である。 例で語る。 今,道路上の自動車(システムAとする)と,店先のダルマ(システムBとする)を考える。 554 茨城大学教養部紀要(第26号) Aが走って動いても,Bがひっくりかえっても, AもBも何も基本的に変化はない。但し, Aは 事故を起こして大破する,Bは火事で燃焼しないかぎり。このときAとBは共有する時間で変 化しているという。 July.11.1993 哲学ノートNo.3 行蔵は我に存す。殿誉は人の主張,我に与えからず関せずと存じ候。 勝 海舟 人間の“内化”と“外化”について 一自立した近代人とは一 与えられた身体によって人間の“行為のシエマ”(注)が発達する。 このことにより,身体の外にある世界が対自化する。これが“外化”である。この外化により,ひ との外的世界が形成される。 同時に“表象連合”が身体の内側に形成される。 表象連合とは,行為のシエマのイメージ化されたものである。対自化された表象連合を“意識”と 言う。対自化されていない表象連合を“無意識”という。このような表象連合の形成を“内化”と 言う。 思考とは,表象連合の制御である(V.F。トウルチン:人間の現象としての科学,岩波現代選書)。 つまり,完成された思考とは,意識された表象連合に対する“行為”(操作)による制御である。こS での行為は必ずしも身体活動(手,足等を使っての)を意味しない。 何故ならば,以下の理由による。 ひとの外化にあっても,内化にあっても,身体とその外,身体とその内に,“シンボル”が介在的 に発生する。 こSでシンボルとは,物理的音による“もの”(物とは限らない)の表現,つまり“ことば”ばか りではなく,目に見,書くことのできる文字,記号,ときには特定の物など全てを指す。 意識された表象連合を,シンボルによって外のものとし,シンボルで表現することを,表象連合 の外化と言う。 外化した表象連合をシンボルを使用し,制御することを“形式的操作”(J.ピアジェによる)によ る思考と言う。完成した思考方法とはこれである。 したがって,意識された表象連合を制御する行為は身体活動を意味しない。一般にシンボルに対 する,シンボルによる制御でさえありうる。 一般にはこの“行為”はJ.ピアジェの言うように形式的操作と呼ぶのが適切であろう。 このようにして,身体を機軸にひとの外の世界が構成され,同時に内の世界も構成される。それ だけではない,身体の“外”との間に,シンボルが介在し,また同時に身体の“内”との間にもシ ンボルが介在する。 555 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 言いかえると,身体は,シンボルに包まれて,外的世界(自然と社会)と内的世界(意識,無意 識の世界)の中に立つ。これを人間の3極構造と呼ぶ。 このようなひとを完成した人間,又は,自立した人間と呼ぷ。人格を形成した人とも言う。 一般にこの人間の3極構造には,知能が完成した時にも,感覚運動期,前操作期,具体的操作期, 形式的操作期にそれぞれつくられたものが重1El9.ee 1−b−g このような人間による諸活動を主体的活動と呼び,このような人間を主体性のある個人と言うの である。 注 こsで言う行為のシエマとはJ.ピアジェによるそれである。これによると,行為のシエマはひ とが生まれながらに持つ単純反復行為により構成された,ある種の連結体を指す。 その形態,機能,構造についてはJ.ピアジェによる著述を参考にされたい。概括して知りたけ れば,M.A.ボーデン,波多野 完治訳,ピアジェ 岩波現代選書がよいであろう。 さて,J.ピアジェによるとひとは先ず与えられた単純反復行為による初発の段階,“感覚運動 期”を経て,行為のシエマが発達する前操作期に入る。その後,行為のシエマに主として頼る (身体活動による)未完の知能に達する。この段階を具体的操作期という。その後,形式的操作 期に至って,知能が完成する。 付 記 ここで知能の完成過程をよりダイナミックに理解したい方は,一般論ではあるが,哲学ノー トNo.2の「共時」と「通時」の全面展開を参考にして下さい。 July.4.1993 哲学ノートNo.4 水は方円の器に従い,人は褒疑に従う。兵の形は水に象る。 智はなお水のごとし,流れざる時は則ち腐る。 老子 物象について 物象とは,物(的)(事)象,なる用語である。Kマルクス, M.マックスウェーバーによる,社会 科学の用語である。彼等によれば,社会は,人間がつくり出した,ものであるにもかかわらず,ま た,自由(哲学ノートNo.8)であるはずの,人間の集団(哲学ノートNo.5の注1)であるにもかか わらず,人間に対して,物的事象のように,立ちはだかる。彼等はこの現象を,物象と言う。 しかし,彼等が言うように,物象を,単に人間の疎外としてのみ,とらえるのは,あまりにも,受 動的にすぎる。 事実は,人間の集団としての社会システムを,制御し統御し,安定的に保持しているものがある。 この第2の自然とも言うべき社会なしに,劣性の種である“ひと”は,生きてはゆけぬ。ここでは, この物象を,物象Aと呼ぶ。 物象Aの他に物象Bがある。 556 茨城大学教養部紀要(第26号) これは,ある種のシンボルでもある(シンボルについては哲学ノートNo.3を参照)。フェティシ ズでもよい。 例で語ろう。 “彼の彼女への手づくりの料理” この“もの”=料理は,手づくりのセーターでも,手ぶくろでもよい。いずれにしても,“物”で ある。 しかし,この料理は,彼女にとっては,“物”のみではない。彼の“おもい”が,こめられている のを“感ずる”。 この“物”を介して,ひとと,ひとが連結する。ものに人間の社会関係が凝縮しているとも言える。 この物的事象としての物を物象Bと呼ぷ。 物象Aと物象Bの関係について 人間に対自する物,あるいは社会システムは,一般に,物象Aと物象Bが重層(注)している。単 に人間の疎外と,言い切るほどに,単純ではない。 K.マルクスの資本論での物神崇拝では,物象Aと物象Bが,混在しており,不鮮明である。 物象Aと物象Bに支えられ,囲まれているとき,人間の社会システムは,安定している。 物象Bが展開し物象Aが人間にとって,疎外となるとき,社会システムは,袖らぐ。ときには,不 安定になる。 場合によっては,社会システムの形聾,盤,燈造(哲学ノートNo.1参照)が,2ik.!!IEと墨の全 面展開(哲学ノートNo.2参照)にまで発展する。この時,従前の社会システムは,移行(哲学ノー トNo.2)し,新たな社会システムが,従前のそれと重 ・に生 する(哲学ノートNo.5注6)。時 代の変化である。 注 重層の概念については,L.アルチュセールの作品(科学者のための哲学講義,,西川 長夫等 訳,福村出版。特に訳者達による注と解説が参考になった。)を参照。 July.29.1993 哲学ノートNo.5 衆これを悪むも必ず察し,衆これを好むも必ず察す。 [盲従はしない。] 孔子 政治と政治学の関係について 政治とは人間の集団(注1)がなす一つの社会現象である。 現象であるからいろいろな形態(注2)がある。多様な視点で眺めることができる, 557 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 様々な政治的なものがある。 劣性の種である人間が生きていくには,物象A(注3)により,ハードに制御しなければならない。 この社会システム(人間の現象を対自化したもの)を対象としたとき,この物象Aによるハードな 保持,つまり社会システムの機能を制御するメカニズム(注4)が働く。つまり構造がある。 政治は人間相互の連結を,強化する権力に,限りなく近く,暴力が働くことがある。 (軍事,警察etc.などを使って) この物象Aが人間の疎外として見えてくるとき,その外にやsソフトに経済(注5)が重層的に生 成(注6)していることが理解される。 政治学とは,注1に述べてある各集団の政治現象を形態,機能,構造(注2)を射程に入れて研究 する学である。イデオロギーも関係するが,これについては哲学ノートNo.9を参照されたい。 注1 一つの国家内での地域,国家,及び国家相互の関係,いずれでもよい。それぞれ固有の或 いは相互に重層する現象,それらに応じた,人間集団を指す。 注2 形態,機能,構造の定義については哲学ノートNo.1を参照 注3 物象については哲学ノートNo.4を参照 注4 システムを制御するメカニズムであるから,これは構造を指す。構造については哲学ノー トNo.1で定義される概念である。機能についても同じく哲学ノートNo.1で定義されている。 注5 このノートに続く哲学ノートNo.6を参照 注6 これらの哲学ノートでの重層についてはL.アルチュセールの作品によるところが大きい。彼 は重層的決定と哲学しているが,私は重層的生成と哲学したい。 謝 辞 L.アルチュセールの哲学について,議論して頂いたA豊田先生にお礼申し上げます。 Aug.5.1993 哲学ノートNo.6 ここ てんきん いこ 是を以て聖人これを和にするに是非を以てして天鈎に休う。 是を両行と謂う。 荘子 経済と経済学 人間の集団(注1)にあって,その部分,部分に相互に必要とする“もの”が交換,循環する。こ の社会の機能(注2)を主たる仕事として担うのが経済である 経済は物象A(注3)に限りなく近くはある。が,個人,集団などによるものの消費によって物象 B(注3)にかかわる。よって政治(注4)よりやsソフトである。 経済学は上記の人間の集団が行う社会現象を,一つのシステムとして対象化する。 ノ 茨城大学教養部紀要(第26号) 558 更にこの対象を形態,機能,構造(注5)を射程に入れて解明する。併せて共時と通時の展開(注6) をも研究解明する“学”である。 注注注注注注 人間の集団については哲学ノートNo.5 哲学ノートNo.1 哲学ノートNo.4 哲学ノートNo.5 哲学ノートNo.1 共時と通時の全面展開については哲学ノートNo.2 附 記 現代社会は,経済の市場メカニズムの一方的拡大をつS“けるかに見える。政治は経済に隷従 するかに見える。もしそうなら人間の集団はガン(キャンサー)にかかったのも同然の病理的 状況にある。この附記はK.ポランニーより学んだ。 法学とは何かをまとめてみることは容易であろう。 Aug.6.1993 哲学ノートNo.7 天下に常然あり。常然なる者は,曲れる者を鉤を以てせず, 直き者も縄を以てせず,円き者も規を以てせず,方なる者 も矩を以てせず。 荘子 文化とは何か 文化とは人間の思考の社会的制御である(哲学ノートNo.3で引用した文献V.Fトウルチンによる ものを参照)。 この地球上に多様にある文化は,その形態,機能(哲学ノートNo.1)が異なっていても,相互に 対等である。 文明は,文化にある種の価値基準を導入し,序列化したとらえ方で見たものである。 人間をその形態で見たとき身体をもった個として見える。人間の社会システムはこの個の集団よ り成っている。この第二の自然とも言うべき社会なしに,劣性の種である人間はいきてはゆけぬ。 人間個人は,三極構造(哲学ノートNo.3)を持って集団としての社会をつくる。 この集団は社会システムを作るが,物象Aと物象B(哲学ノートNo.4)によって構成されている。 この社会システムにあって個人の思考は物象Aと物象Bにより制御され社会を安定させる。 つまりV.Fトウルチンの言うとおり文化とは思考の社会的制御である。 559 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 社会を制御する機構の機能としてハード部分の政治,経済を,価値,美,宗教等が物象Bを伴い つつ,取り囲むのである。 このようにして,美しい惑星,地球を多様な文化が彩る。 Aug.6.1993 哲学ノートNo.8 天地の梯米たるを知り,豪末の丘山たるを知れば,則ち差数う観えん 荘子 人間の自由と科学の関係について ここで,科学とは,自然科学のみを指しているのではない。 人文,社会の諸学でもよい。但し,いつれであっても,科学である要件として,人間に対し,体 系あるいはシステム又はテキストとして対自化されていなければならない。 科学であるからには,未完であるにせよ,その形態,機能,構造(哲学ノートNo。1)が物的なも の(哲学ノートNo.4)として,なければならない。 科学をこのようにとらえたとき(定義でもよい),人間の自由性はどこにも入る余地がないかに見 える。しかし,注意せよ。この科学も人間の手による産物である。(注1) 人間の三極構造(哲学ノートNo.3)にもどる。個人の思考は表象連合の制御であった。一つの思 考課題に多様な表象連合が去来する。制御の過程でひとつの表象連合に固定し始める。表象連合は シンボルを使って対自化できる。表象連合にかかわるこの過程にム固QELE9が存在する。 人間がその身体(哲学ノートNo.3)の条件を超えて,人間の決して入ることのできないミクロの 世界(原子,原子核,クオークなど)又は,マクロの世界(宇宙の始まり,星,銀河など)を知る ことができるのはなぜか。 それは自由な表象連合の創出,制御(思考),シンボルによる外化。また,外化したものに対する 自由な形式的な操作(これさえシンボルによる。哲学ノートNo.3)が行えるからである。「人間」(注2) は,これにより限りなく神に近づく。 A.アイシュタインによる二つの言葉を引用してこのノートNo.8を終わる。 “発見は人間の自由なインベンションである” “人間が観測できるのは,理論があるからである♂ 注1 ここでの科学の殆どは近代化の過程,特に19Cにあっての産業化に伴って生まれたもので ある。科学はこれ以上でもこれ以下でもない。これは事実である。 注2 ここで「人間」とは,思うがままに表象連合を制御し,シンボルを自由に使いこなす人を 指す。 文 献 天野 清著 量子力学史 中央公論社 560 茨城大学教養部紀要(第26号) Aug.6.1993 哲学ノートNo.9 つる かv)す くろ 夫れ鶴は日ごとに浴せざるも白く,烏は日ごとに黒今めざるも黒し。 3く な 黒白の朴は,以て弁を為すに足らず。 荘子 イデオロギーについて イデオロギーとは人間の部分集団(注1)が将来に対して目指す方向を示すものである。 又,他の集団に対しては自らの集団のアイデンティティを示すものである。但し,他者が目指す 方向との対比において。思想レベルの人類のマーキング(注2)とも言える。 哲学ノートNo.8で人間の自由を語った。人間の集団にあっても自由がある。イデオロギーは部分 集団の方向性にかかわってくるものであるから,この集団に属する個人は同一のイデオロギーを持 たねばならぬ。よって同一集団に属する人々は物象Aによってハードに制御される。 異なったイデオロギーは始めから対立的関係になるのは自明である。ここでも注意が必要である。 価値を共有する集団にあっては物象B(哲学ノートNo.4)が物象Aをソフトに取り囲みその集団を 安定させる。 他のイデオロギーを持つ集団に対しては自由である。 イデオロギーとは,言いかえると,同一の価値判断を共有する人間の集団の将来に向かっての方 向性を示すものである。 注1 この集団は地域的集団である必要はない。 注2 マーキングとは,動物行動学の用語である。縄張り,地域を保持する動物固有の行動で ある。 Aug.8.1993 哲学ノートNo.10 r)く おそ たたり 楽なる者は催るるに始まる。催るるが故に崇りあり。 eJが 我またこれに次ぐに怠たるを以てす。怠るが故に遁れる。 お これを卒うるに惑うに於いてす。惑うが故に愚かなり。 愚かなるが故に道あり。 荘子 宗教について 宗教は,人間の社会的現象である。これより,自然(対自化された自然でもよいし,DaSeinとし ての自然でもよい)の中に神の存在を証明することはできない。 宗教をその形態(哲学ノートNo.1)でみるとき,これらの儀式,習慣など多様なものがある。宗 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 561 教をその機能(哲学ノートNo.1)で考えるとき,これらの儀式,形式,習慣などによる経済とのか かわりなど多様なものがある。 これらは全て物象B(哲学ノートNo.4)による人間の集団化である。今,ここでいう宗教は現代 社会のそれについて語っている。(注1) 民族宗教(注2)にあっては宗教と政治(哲学ノートNo.5)は未分化であった。宗教と政治が分 化する過程について,キリスト教(現代ではこれは世界宗教である。信者が国を超えて世界に広が っている。世界宗教はいろいろあるが回教もその一つである。)を例にしてのべる。 イエスの死後ローマ帝国時代,パウロによってこの分化は始まる。パウロによる“内なる人”と は,神を信ずる者は“外なる人”にあって国の政治に従って言動しようとも神は許したもう,と説 いた。内なる人として信ずる神と,ともに生きよ,こSに信ずるもの,の世界があるとしたのであ る。これより,民族宗教としてのユダヤ教はイエス,パウロとひきつがれ,国まで超えて,今の世 界宗教としてのキリスト教になるのである。 内なる人とは内化(哲学ノートNo.3)の世界で生きる人である。外なる人とは外化(哲学ノート No.3)の世界で生きる人である。パウロにより,信者は,一個人で二重人格として,生きたのである。 キリスト教は,その後,新約聖書(A.D.200頃)による宗教としてローマ帝国を越えた(A.D.200 ∼400)。又,ギリシャのプラトン哲学をプロチノス(A.D.204∼270)による新プラトン主義でと りこみ,アリストテレスの自然哲学も含めて聖アウグスチヌス(A.D.354∼430)によってキリスト 教神学がその土台をつくる。かくして,次の時代中世が,世界宗教としてのキリスト教政治・宗 教の再結合の社会として訪れる。 中世において近代,現代にむけて再度,政治と宗教の分化がおこる。物象A(哲学ノートNo.4)に よる政治(哲学ノートNo.6)は経済(哲学ノートNo.5)を機軸に,信者たちは内なる人として良心 を持ち神に仕える。この分化が起こっていない社会,国家がある。アラブである。回教は,世界宗 教であるがこの国々では政治と宗教は合体し,機能(哲学ノートNo.1)している。 宗教の構造(哲学ノートNo.1及びNo.8を参照)についてこれ以上書くことはできない。人類学 が科学的になり得ないのと同じ程度に,宗教についてそれを構造のレベルまで語ることはできない。 注1 現代社会の宗教であるから,この宗教は世界宗教である。世界宗教についてはマリノフス キー・レビーストロース 世界の名著 中央公論社,泉 靖一による序言に簡明な解説があ る。人類学の用語である。 注2 部族と部族が合体してできあがった人間の集団の宗教で,これを民族宗教という。部族は 農耕(時には採集)を彼等が,所有する土地を相手に始めたのであろう。時には狩猟も行った。 民族宗教とは,言語を同じくする人間の集団の一つの宗教である。民族が,その集団をま とめるための機能(哲学ノートNo.1)として発生したものである。政治と宗教が一体化して おり未分化である。 民族宗教は多分以下のようにして生まれたのであろう。 ひとは二本足でサバンナに立ち,食を求めて一定の領域をマーキングしながら回遊してい たのであろう。群れ(むれ)の数は10∼20人位か。夜は星空を眺めたであろう,アニミズム で星座を表象連合(哲学ノートNα3)にイメージしたのであろう。他のむれの人と出会えば 562 茨城大学教養部紀要(第26号) 激しく縄張りを争ったのであろう。彼等はことば(哲学ノートNo.3シンポル)を話し始めて いたにちがいない。文学(哲学ノートNo.3シンボル)も少しはいろいろな方法で発明しつつ あったにちがいない。なにしろ100万年以上も昔のことだから単なる想像であるかも(ひと はなぜ安全な森から危険なサバンナに,木から下り,二本足で歩くことができたのか?多分 生き残ったひとが,現代の人類の祖先なのであろうか?)一一一一。このむれは幾万年かけ て野生の植物からも,食を求めつS“けていたのであろう。野生の植物は少しつつ作物に,自 然に変化していったのであろう。やがてマーキングしながら縄張りの土地に作物を育てるよ うになったのであろう。(作物のなかの歴史 塩谷 格著 法政大学出版)このようにして土 地はだんだん重要な生産手段になっていったのであろう。土地を拡げることは,豊かなみの りをもたらすことに,つながったのであろう。激しい,むれとむれとの争いも起こったので あろう。 このようにして一定の土地に共通の言語を使う部族が誕生したのであろう。先に彼等ば星 空を眺めたのだろうとのべた。そのうち回遊している場所がどこなのか,いつどこに行けば 食物が採集できるのか,星空の星が教えてくれることを学習したかもしれない。 部族と部族の出会いもあったろう。彼等は自ら自分たちは,どんな部族なのかを,問うた のだろう。このようにして他者(他の部族)との対決にあってアイデンティテーを求めたの であろう。これが多分神話を生んだのだろう。争う(土地の更なる拡大)ことを避ける方法 を求めることもあったろう。女性は子を生む。女性を部族相互に交換して平和に両立,合体 することもありえただろう。あるいは相手を支配し,争いに負けた人達は“奴隷”にされる ことも,あったろう。いつれにしても,部族同志の合体が起こってくる。二つの神話の合体 となる。それぞれの神話が自己主張し,始めは混乱したのだろう(哲学ノートNo.2,共時と 通時の全面展開を参照)。しかし,やがて拡大した部族,つまり民族の神が,他の民族との相 互主張として,それぞれのアイデンティティとなる神をつくりだしたのだろう。 これが民族宗教と思われる。 いくつもの民族が一一一一つの国に物象A(哲学ノートNo.4)としてハードに制御される時,内な る人と外なる人の分化が起こる。同時に各々の民族宗教の神々の争いと混乱は,やがて世界 宗教の神へと超越する。 附 記 現代物理学での宇宙論が神なしで,その学の対象を語りつくすことができるのか最大の難問に, 挑戦している。B.C.624ギリシャの哲人タレスは“自然は自然で語れ”学の対象以外で語るな,と 説いた。宇宙は全てである。この対象を対象以外で語れば,全て二宇宙の外に,神がいることに なる。 文献1 西洋哲学史1,llB.ラッセル著 みすず書房 文献2 ひと犬にあう m一レンツ著 至誠堂 文献3 キリストの誕生 遠藤 周作著 新潮社 563 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 Aug.4.1993 哲学ノートNo.11 昔者,荘周,夢に胡蝶と為る。栩栩然として周なり。 知らず,周の夢に胡蝶と為るか,胡蝶の夢に周と為るか。 周と胡蝶とは,則ち必ず分あらん。此れを物化と謂う。 荘子 再び諸学の関係について 哲学ノートNo.1で,諸学の関係を求める概念の定義を行った。 こSで再び諸学の関係について語る。 “学”が始まるにはその対象を限定しなければならない。“学”にはおのつからそれを,それを学 ぶ(まなぶ)人,研究をする人に規律(discipline)が求められるから。 始めに諸学を関係づける,いくつかの可能性を考える。 1.同じ対象でもその対象(オブジェクト)を切断することで様々な切断面が出てくる。ダルマ(注) を対象の例としよう(何も物である必要はないのであるが,わかりやすくするためにダルマさん を例にして議論する。) この切断面で,ある“学”の研究,学習が可能となる。他の切断面には他の“学”が成立する。 ダルマは一つである。この一つのダルマに様々な“学”が,ダルマなるオブジェクトを介して 連結する。よって諸学の関係がつく。 2.諸学の中に王座を占める“学”がある。いわゆる哲学(哲学者が哲学会で行う哲学である。あ るいはここに集まる人達がテキストにして私たちが読む哲学である。)である。 この哲学のもとに他の諸学が下位の座を占める。 諸学はこの王を介して関係する。よって諸学が関係づけられる。 この場合は諸学の“民主主義”は存在しない。 3.諸学はたとえハードな自然科学,あるいは数学であってさえ,人間が創った物である。(哲学ノー トNo.8参照)つまり,全ての諸学は2の可能性,の哲学も含め,人間が創造したものである。よ って創造者である人間を介して,諸学が関係する。 4.哲学ノートNo,1に定義した概念つまり形態,機能,構造によって,諸学を関係づける。 これにより,それぞれの“学”は相対化され,客観化(諸学の中で)される。 ここでは諸学が相互に対等となる。 ただし,以下に述べる条件が前提となる。 大学を例にして語る。 大学で男性教官はホストである。女性教官はホステスである。客は学生たちである。ここで大 学教官はある特定の“学”に対してプロであることは当然のことながら仮定している。つまり,教 育のみではなく,研究もしている。ホスト,ホステスが売る商品(講義)が客つまり学生によっ 564 茨城大学教養部紀要(第26号) て買われるかどうか。 大学に 日メカニズムが働くことによって始めて諸学が対等となる。 注ダルマはひっくりかえしてもダルマだ。逆立ちしてみればわかる。このことについては L.アルチュセール著「甦るマルクス 訳 河野健二・田村 淑 人文書院」を参考にした。 関係性あるいは関係は人間が身体(哲学ノートNo.3参照)に直接よる,感覚では見えないもの である。ただし人間はシンボルを使ってこれを見えるようにすることができる。 附 記 ここで言う切断はL.アルチュセールのそれによる。L.アルチュセールは切断をG.バシュラー ルに学んだという。 彼による量的認識論の障害については以下の理論物理学者 豊田 彰氏の著者たちへのコメ ントを参考にされたし。 コメントを頂いた豊田彰氏に感謝申し上げます。 〈コメント〉 バシュラールが,認識論的断絶(切断)rupture epistemologiqueという言葉を使っている 箇所は二箇所あります。その一つはr否定の哲学』(中村,遠山訳,白水社,93頁)で次のよう にいっています。 「或る元素の化学的性質を電気的粒子の組成から説明することによって,現代科学は新たな認 識論的切断をつくりだした。」 もう一つはr応用合理論』(金森 修訳,国文社)第6章「日常的認識と科学的認識」のなか で,ここでは質量の測定を例にとって,天秤によるそれと質量分析器によるそれとの間に断絶 があるといっています。私はこの訳本は見ていないのですが,このことばが出てくる直前の文 章の引用がr科学認識論』(竹内 良知訳,白水社)18−19頁に出ています。 そのほかに,認識論的という形容詞を被せないで,断絶ということばを使っている箇所がい くつかあるわけです。先日申しましたミシの例(『近似的認識試論』,199頁)では,あからさ まに断絶ということばは使われていないので適切でなかったかもしれません。それにミシンの 話は引用文で出てくるのでした。むしろ同書71頁の「原子内での結合は,通常の化合とは全く レベルが断絶しているのだ。そこには方法の断絶が,いや原理の断絶すら存在しうるのである。」 という文章とか,同書15章でゲーテの色彩論とフレネルの理論と対比して論じたあとの「この ように,個別問題の歴史的発展においてさえ,認識論的連続性という主題を破綻させる真の断 絶,突然の変動を隠蔽することができないのである。」(330頁)という文章のほうが適切でした。 ’ 565 大学改革のために一諸学の関係を求めて一 Sept.8.1993 哲学ノートNo.12 た くち lt ’t やしな しと 沢雑は十歩に一啄し,百歩に一員するも,奨中に畜わるるを期めず。 しノレ さhh,t たvノし 神は王なりと難も善まざればなり。 荘子 一諸学に求められる社会的責任一 ひとがその人類史にあって文化をつくり始めるころ,群れをなす動物,社会的動物であったこと は間違いないであろう。 この群れをなす動物は一定の領域を占有し,そこから野生の植物(のちに作物となる)を採集し, のちに家畜などになる動物を狩猟したであろう。 この一定の領域を確保することは彼等の生存をかけた重要なことである。この領域を他者から奪 われることは彼等の死を意味するからである。 しかし,いつれにしても他者との争いは長い時間と経験の中から,占有する領域の共存にすSん だのであろう。このことはそれぞれが占有する領域を認めあうことである。 この動物行動はひと以外の動物にあってもマーキングとして認められているものである。 共存して占有されている各領域内での食料に,一定の余剰が生じる段階で,内部に向かっても,外 部に対しても,ものを略奪から防御する機能が独立し始める。これが軍事を伴う内政と外政である。 同時に経済が社会の一つの機能として独立する。つまり略奪を押えた,ものの交換である。この交 換は領域内部にあっても,領域相互の間にあっても行われている。注意すべきことは軍事と経済は ほぽ同時に社会的機能として発生していることである。 軍事は外部に対しては戦争にならなくとも占有している領域を相手の動きから見張ることで常時 体制を整えていることが必要である。又,狩猟をかねて軍事が機能したであろう。狩猟は見張りを かねていた。他の領域とものを交換する(貿易)にあっても軍事が伴っていたであろう。これより 狩猟と貿易は男性が荷う仕事となっていたであろう。女性は領域内にあって,育児,食事,作物の 手入れなどの仕事に向かったのであろう。 先に,軍事と経済は領域内での食糧生産に一定の余剰が生じた時にほぽ同時に発生したとのべた。 更に,男性と女性の役割分担は貿易と狩猟にあって軍事の展開とともに発生したとのべた。 経済が軍事より自立して機能するのは市場メカニズムが展開する段階である。 市場メカニズムが働く段階にあっては内部にあっても国(領域)相互にあっても軍事を伴わずに, ものの交換が自立的に行われる。 こ\で,経済は軍事より完全に独立する。勿論政治は,経済にも軍事にも介入するが。 市場メカニズムの過剰な展開は,一方において女性を影の労働(社会的労働ではない)に押しこ め,男性の役割の過剰性を導く。他方,国相互のマーキングを強め,軍事の過剰性を結果する。 国内にあって市場メカニズムが重要なものではない国にあっては,国外に向かっての軍事による マーキングは,市場メカニズムの,過剰性による軍事によるマーキングより,相対的に弱い。した 566 茨城大学教養部紀要(第26号) がってゴルバチョフの主導による軍縮の開始は必然であった。 次に諸学がものの生産を介して,経済にかかわることを述べる。 例で語ろう。 衣服の生産過程である。羊毛の衣服としよう。 羊毛は羊から刈り取られる。家畜の羊には過去の永い人類による,野生の羊が家畜となる歴史 がある。羊を飼う,牧場の経営,羊の飼料,牧草の育成,刈り取り等々がある。これらに必要な 機械の購入がある。これ一つを考えても,歴史学,農学,獣医学,機械学なとが関係している。次 に刈り取られた羊毛は糸に紡がれ布に織られる。こSには紡績工場が動いており,これにかSわ る諸学がある。そればかりではない。紡績工場に羊毛が運ばれるにあたって運送業がかかわる。又, 購買,貿易にあたって資金の調達も行われている。こSには第三次産業としての運送業,金融業 がかかわる。諸学として経済経営等々の諸学が,工業にかかわる理学,工学の諸学の他にかかわ ってくる。法学,政治学も関係してこよう。 布地は染色され型紙に応じて裁断されミシンで裁縫されてようやく衣服となる。 こSには,これまでのべてきた諸学ばかりではなく,デザイン,モードにわたる美学,芸術な ど人文諸学までがかかわってくることが見てとれる。 衣服の生産例一つからも解るように商品となる生産物の生産過程には,このようにして人文,社 会,自然のあらゆる諸学が関係してくる。 市場メカニズムの一方的進行,経済の突出は先述したように,男性の過剰性,軍事の過剰性を 導くのであった。そればかりではない,本来政治が軍事,経済の上位にあって両者を制御すべき ものであった。しかし,現代は政治も経済に隷従している。 諸学が,いかなる学問も例外なく,経済にかかわるのであれば,学問の良心にかけて市場メカ ニズムの一方的進行に対し,経済の突出に関して警笛を鳴らすべきであろう。大学が社会に対し て,政治に対して無言をつS“けて久しい。諸学も今では経済に隷従しているかに見える。 現代ほど学問に倫理が求められている時はない。諸学の良心が問われているのである。 文 献Kポランニー人間の経済岩波現代選書 ㊧ これらの哲学ノートの著作,論文 等への引用は,無断であるかぎり引用 者の責任である。