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旧約聖書における「パニーム(顔)」
旧約聖書における 「パニーム (顔) 」 Panim (Face) in the Old Testament 宮 田 玲 Akira Miyata KEY WORDS ヘブライ語聖書/旧約聖書 (Hebrew Bible/Old Testament) ヘブライ語文法(Hebrew Grammar) 複数形(plural form) パニーム(Myn1 p < = ; panim) エゼキエル書 42 章 (Ez42) 申命記 1 章 17 節 (Dtn 1 : 17) 箴言 28 章 21 節 (Prov28 : 21) 要旨 「顔」 、 「表面」 と訳されるヘブライ語の名詞である。ヘブラ パニーム(Myn1 p<=)は通常、 イ語聖書/旧約聖書では、おもに連語態で用いられ、特に固有名詞との結合が多く認 「内部に」 ) お められる。また、神殿を内部へと向かう記述の中で (エゼ 42 章) 、hm= yn 1 p< R ( 「内部の」 ) という派生語とともに、繰り返し登場する。Myn1 p< } がこのように よび ym1yn!p<4( 個別性と内部を示唆する点から、原典テクストにおいてつねに禁止され、よくないと評 rk-n ( = 「顔を認識する」)という行為(申1 : 17、箴 28 : 21 ほか)を再考する。 Myn1 p<= は一個の対象を指す場合も必ず、語尾 My を伴う男性複数形で用いられる。こ 価される Myn1 p< } の複数形は従来、ヘブライ語文法学者によって、 「空間的延長の複数」 に分類されてき た。だが、延長を表現するために複数形が必須であるかどうかは疑問であり、Myn1 p= < についてはむしろ、奥行きや重層性を示す機能を担っている可能性を考えたい。 SUMMARY The biblical Hebrew word panim ( Myn1 p< } ) has been interpreted as "face," "surface" or "front." In the Hebrew Bible / the Old Testament, panim is especially connected with proper nouns in the construct form. When the inside of the temple is described (Ez42), panim appears repeatedly with penîmāh "inside" and penîmî "inner, inward," each of which is supposed to derive from panim. From the fact that panim connotes particularity and internality, we should reconsider nākar panim "recognize the face," which has always carried a negative meaning in 64 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 the Hebrew Bible (Dtn 1 : 17, Prov28 : 21). In the morphology of the Hebrew grammar, panim is always in masculine-plural form with the suffix-im, even when it refers to a single subject. Scholars so far have explained this plural form panim as "plural of extension." But it can be questioned whether the plural form panim means extension. This essay shows that the plural panim may represent the internal depth of the infinite phases. 1. 問題設定 1 パニーム(Myn! p< } )はヘブライ語聖書(=旧約聖書)では 2125 回 と多用される語で あり、オバデヤ書以外の 38 書に分布する。通常、「顔」または「表面」と訳される。 この語は単数形 *hn# p<= でテクストに現われることはない。明らかに一個の対象に関わ る場合であっても、必ず語尾 My を伴う男性複数形の外観を呈し、統辞上の単数を拒 む。当然乍ら、この複数という形式は、LXX には反映されない。また、ヘブライ語聖 書の翻訳に用いられる諸言語でも、Myn! p< } に相当する語が複数形のみというものは、わ れわれの知る限り見当たらない。 ヘブライ語におけるこの複数形は何を表わしているのか。そのようなごく素朴な疑 問に対しては、無論、これまでに文法的な説明が為されている。本稿は、従来の文法 的説明の妥当性を再検討することと重ねて、ヘブライ語本文の精査により、この書物 では基本的語彙の一つといえるこの単語の意味領域の探究を試みる。 2. 複数という文法範疇 セム語は名詞に性・数の文法範疇をもち、基本的に、それに一致(concord)する構 2 文をも有する 。従って、Myn! p< } が主語に立つときは、vyn= p< } Vlp< R y 1< v - (「カインは顔を伏せ た」 (創 4 : 5);直訳「彼(カイン)の顔が落ちた」 )のように、動詞も男性複数の活 用形をとる。明らかな例外は、用例を走査した結果、 Mq= l< cR 1 hv = h y 4 yn 2 p< R ( (「主は御顔 3 を背け」;直訳「主の顔は彼らを裂く」 (哀 4 : 16) )のみであった 。 セム語族に属する言語において、ヘブライ語 Myn! p<( } pānîm)に相当する単語は、ア ッカド語 pānu(m)、ウガリット語 pnm、アラム語 pnj、シリア語 pnîtā、アラビア語finā、 4 南アラビア語 fnwt/pnwt である 。すべてに原セム語の根 *pan-があると推測される。そ 5 のうち、例えば、アッカド語 p ānu(m)は、複数形 p ān ū で「顔」の意味となる 。また、 6 ウガリット語 pnm は複数形である 。即ち、複数形は、他のセム語系諸言語にも認め 65 7 られる現象であり、ヘブライ語にのみ特殊なものではない 。 ヘブライ語には、数的な複数を示す以外に複数形を用いる場合があり、GeseniusKautzsch はこの特徴的な複数形を三つに分類した。栄誉・権威の複数(pluralis majestatis/excellentiae)、抽象的観念の複数(Abstrakt-Plurale)、空間的延長の複数 8 (Plurale der räumlichen Ausdehnung)である 。Myn! p= < は、この第三の空間的延長の複数 9 に分類されている 。空間的延長の複数とは、一つを指す場合にも複数形を用いること で、個々独立した多くの諸要素が結合して全体を構成していることを示す表現である。 、Mym< Q y とりわけ「面」を指すとされ(Flächen-plurale)、Myn! p< } のほかに、MFm { D } (天) (海) 、MFm { (水) 、Myq<1 m-i 7 m- (深み) 、Myr Q a V = x- (首)といった名詞が含まれる。また、 空間的延長の複数が時間的表象に拡張された例として、Gesenius-Kautzsch は唯一、 Mym Q l } o i (永遠)を挙げている 10 。空間的延長の複数に含まれる語は、現在知られて いるセム語族のうち最も古いアッカド語でも複数形をとり、W. von Soden は、それら 11 を全体的なひとまとまりを示す複数形(plural tantum)として分類している 。J. Tropper はウガリット語における複数形の機能として空間的延長および時間的延長の 12 指示を挙げ、やはり同様の語を分類する 。 しかし、同じ空間的延長の複数であっても、実際の用例には相違がある。Mym<1 y - には M y- という同義の単数形があり、前者には複数形、後者には単数形の動詞が伴う。 Myr Q a V = x- は raV = x- という単数形をもっており、一個の対象に関わるときは大抵後者を 用いる 。MymQ l } o i は単数形 Ml} o i でもテクストに現われ、同じ意味で使われる。 語の形態からみるなら、MFm { D } 、MFm { は双数(dual)である。複数(plural)に分類 { } が主語に立つ場合、動 されるのは、動詞が複数形になるためである 。確かに、MFm D 詞の活用は必ず複数形である。対して、MF1 m { には、はっきりと単数形動詞をとる箇所 13 14 15 がある 。 つまり、これらの語の意味を表現するにあたって、複数形は必須でない。さらに、 複数として分類する基準も一定ではない。形態であったり、動詞や形容詞との一致 } (concord)であったりする。しかし、Myn! p <は、形態上も動詞や形容詞との一致からも、 つねに複数として扱われる。 3. ヘブライ語聖書での用法 3 − 1. 概観 ヘブライ語聖書で最初に Myn! p< } が現われる箇所は、創世記 1 章 2 節、Moht R yn2 p< R ~ li- ( 「深淵の面に」 )である。また、新共同訳で最初に「顔」という訳を与えられるのは、 66 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 創世記 3 章 8 節、Myh1 Ol a6 hv = h y4 yn2 p< R m 1 (「主なる神の顔を避けて」)である。この 2 箇所 } 用いられ方の全体的な傾向として、大きく二つを挙 にも当てはまることだが、Myn! p<の げることができる。第一に、80 %以上が何らかの前置詞に後続する点、第二に、95 % 以上が何らかの語句を後ろにとる連語態(construct)であるという点である。本稿で 16 は、この第二の特徴に特に焦点を当てる 。 Myn! p< } は、独立態(absolute)では 96 回しか現われないのに対し、連語態(construct) 「顔/表面/前その は 2000 回以上を数える。即ち、ヘブライ語聖書における Myn! p< } は、 もの」より、 「∼の顔/表面/前」という属格の性格が極端に色濃い。 Myn! p<の } 連語態、yn 2 p<4 を限定する語句のうち、最も多いものは、イスラエルの神であ る。hvhy 、Myh1 O l a6 、yn = O d a 7 、K9 l E m E 、la2 、NoylR i 3 など、計 580 回現われる。さらに、 h v h y 一語のみで M yn! p< の } すべての限定語の 10 %以上を占める。また、神の使い (K9 a } l R m { 、bVrk< R 、Pr} S } 、Nt} y = v $ l1 など)や他の神々(Nogd< } 、ryi1 S W yn 2 b< R yh2 Ol a6 、lVl> g<! など) もとることができる。一方、神ばかりでなく、獣(hy 2 r $ A 、roD 、Na Ox ;総称として は hm= h2 b4 、h y<= h_ )や人によっても規定される。人を指す表現には、人間一般(Md} a= 、 Dya!)、イスラエル民族(la2 r } SR F 、la2 r } S R F yn2 b R 、Mi} h= など )、イスラエル以外の諸国 民( Mr= a 7 、 Ny = d 4 m 1 、 Myd< 1 S R k < { 、Myt> DR lp< > ! ; 総称としては Mym<1 i { h } など)、職業や役割 (Nh2 Ok< 、ep- D } 、K9 l E m3 、db3 i3 、ba= 、Ma2 、ca= 、Nb< W )といったものを含めることができる。 「顔」でなく「表面/前」と訳されるのは、大地( hm } d } a 7 、Xr3 a 3 )、水( MFm { )、土 、山(hi} b4 g<! )、川(lb} V a )、荒野(rb< } d 4 m 1 、Nv m O yDQ y 4 )といった自然物、その (hm} d } a 7 ) ほかに建築物などを伴う場合である。また、悪行( i_ O r )、破壊( r b3 D E )、威嚇 、戦争(hm} c= l R m1 )などの行為および、地震(Di{ r { ) 、洪水(lVb< m< { h- ym2) 、飢 (hr} i } g<$ ) 饉(bi} r } )のように人の力では制御できない類の事態も、連語態につく。 「供えのパ 独立態 Myn! p< } はいくつかの定型表現にまとめられる。先ず目を引くのは、 )という成句である。JHWH への供え物を形容する ン」Myn! p < } Mc3 l3 (直訳「顔のパン」 ために Myn! p< } が用いられる比較可能な例は、ほかにみられない。この成句については、 17 18 神と民とが永続的に同じ食卓を囲むことを描写する、との解釈が提出されている 。 a< Ol v 4 Pr3 Oi (「顔でなく背中を」)、 roca= v 4 Myn! p< } (「前方と 後方」 、 「表と裏」 )が何度か登場する。また、前置詞 l4 と結合する Myn1 p } l R は、21 箇所 対句的表現としては、Myn! p< } 19 すべてが「かつて」 、 「以前」 、 「昔」と、過去時を示す副詞として訳される 。空間的 延長に分類される Myn! p< } だが、時間的表象としても用いられることが確認できる。 そして、独立態 Myn! p< } を重ねる特徴的な言い回しに、Myn! p< } ~ la3 Myn! p< } 、Myn! p= b<4 Myn! p< }、 「顔と顔を合わせて」がある。顔と顔を合わせるのは、神(もしくは神の使い)と人 間(たち)であるため、神学的にも重要とされる表現である。通常、JHWH と選ばれ 20 た者との直接かつ人格的な交わりの描写と解釈されている 。受ける動詞は、ha= r } 67 ( 「見る」;創 32 : 31、士 6 : 22)、rb< W d< 1 ( 「語る」;出 33 : 11、申 5 : 4)、id- y = ( 「知る」; 申34 : 10)、ep{ D } (「裁く」;エゼ 20 : 35)となっている。 文中での位置に目を移せば、前置詞との結合形が 80 %を超える上、その残りも、大 、Dq- b< } (求める) 、 半は目的格に位置する。Myn! p< } を目的格にとる動詞は、ha= r } (見る) hs } k=< (覆う)、rt { s } (隠す)、MySQ / Nt { n = (向ける)、aS} n = / as } n = (持ち上げる)、rk- n = (認識する)など、何種類かに限られる。主格はわずか 30 程度であり、しかも、述語 動詞に対して Myn! p< } が動作主となる qal はさらにその半数でしかない。 ところで、このように多様な用法がみられる Myn! p< } が元来、何を意味していたのか、 との疑問が生じる。P. P. Dhorme は、 「顔」という人間の身体部分を表現する語がやが て動植物から無機物、抽象物の表現にまで用いられるようになる、というメタフォリ 21 ックな推移を想定した 。逆に、原義は「表面」であるとの意見もある。何故なら、 アッカド語では単数形 p ānu(m)で「表面/正面」 、複数形 p ān ū で「顔」を意味するた 22 めである 。これは翻訳上の用語選択にあたっても、避けて通れない疑問であろう。 Q a6 だが、ヘブライ語本文では、MohtR (深淵)も MyhOl hv = h y$ (主なる神)も Ny1 q - (カイ ン)も、等しく Myn! p< } が受ける語である。従って、Myn! p< } に関して、有機物−無機物あ るいは神−人間といった区別をあらかじめ設定してかかることには、慎重であらねば ならないと思われる。以下では、翻訳からは読み取りにくい、ヘブライ語聖書本文に おける Myn! p< } の特色を明らかにしてみたい。 3 −2. 固有名詞との繋がり 人名や地名といった固有名詞によって限定される 特定某の Myn! p< } が全体の三分の一にのぼる。 Myn! p< } という表現は 400 以上を数え、現われる人物は 100 人近い。一部を挙げ れば、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、サムエル、サウル、ダビデ、 ソロモン、エレミヤ、ネヘミヤ、ヨブらである。族長時代、出エジプト期、王国時代、 王国分裂から捕囚以後までにわたっている。そこには非イスラエル人も含まれる。ゴ リアテ(ペリシテ人) 、シシャク(エジプト王) 、ゼラ(クシュ人) 、ネブカドネツァ ル(バビロン王)、キュロス(ペルシア王)らがその例である。また、ルツ、サラ、 ミリアム、バト・シェバ、エステルといった女性も登場する。つまり、Myn! p< } を限定す る人物は、時代、民族、身分、性別に関わらない。 Myn! p< } が人物と関わる仕方が名前によるばかりではないことは、確かである。例えば、 dv! d }< yn2 p 4< (ダビデの顔)、K9 l E m < E yn2 p 4< (王の顔)、K( y b! a= yn2 p> ( 4 あなたの父の顔)、yn- p> ( = 私 、vyn= p < } (彼の顔)はすべて、ダビデという一人の人物の の顔) 、K( yn3 p< } (あなたの顔) Myn! p <を } 示すヘブライ語聖書における表現である。ある人物が同時に王であり、父であ り、さらにそのほかのものでもあることは、ごく普通に認められる現象だろう。しか 68 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 し、Myn! p <の } 限定語の中で固有名詞の占める比重は、役割や身分、所属などよりも大き いことに注意したい。 「神の顔」に関しては 「神の顔(Myn! p< } )」についても、事情は同じである。これまで、 おもに、擬人的比喩なのかどうかという点が論じられてきた。基本的には、人格的な 神の現在を描写する言い回しとされ、擬人的比喩と考える立場は肯定的に扱われない 。 しかしこのような対比的な論議から得るところは少ないだろう。W. Eichrodt によれば、 24 「神の顔」は神の自己開示、および神と人との関係性を描写するメタファーである 。 だが一方、Myn! p< } を限定する語という点に目を転じれば、hvhy が でも最多であることに気付く。そして、hvhy Myn! p <の } 限定語全体 yn2 p< R が 200 回以上現われるのに比して、 25 Myh OlQ a6 yn2 p< R (あるいは、suffix-yh2 Ol a6 yn2 p< R )は 20 回強である 。即ち、一般性をもつ普 通名詞 Myh O Ql a6 ではなく、神名 JHWH への明らかな偏りが認められる。ここからも、 Myn! p< は名前との親和性がより高い語である、と考えることができるだろう。 } } 美醜に関わる表現ではない。ヘブライ語世界において hp Ey = (美)と関 なお、Myn! p< は わるのは、NFi- (目;サム上 16 : 12 など)であり、ha3 r $ m - (姿;創 12 : 11 など)である。 3 − 3. 内部 S. Mandelkern のコンコルダンスは、hm } yn 1 p < R 、ym Q yn! p < R の二語を Myn! p< }の項に補足して (he locale)が付け加わった副詞、ym1 ynp< R 扱う 。hm} yn1 p< R は Myn! p < } に「方向を表わす h 」 は Myn! p< } の nisben 派生(y を語末に付加することで名詞から形容詞を形成)による形容 詞として位置づけられる 。hm= y n! p < R はヘブライ語聖書に 13 回 登場し、「内側に」、 、 「内部の」という意 「奥に」などと訳される。32 箇所に現われる ym! yn1 p < R は「内側の」 26 27 28 味をもつ。二語ともに、神殿や聖所、壁、庭といった建造物の内部を指すために使わ れ、ソロモンの神殿(王上 6 − 7、代上 28、代下 3 − 4)およびエゼキエルの神殿の幻 (エゼ 8 − 10、40 − 46)での使用が大半を占める。従って、これらの派生語は聖書ヘ 29 ブライ語の後期に属している 。 Myn1 p <と } 同語根の動詞 hn= p < } 「 ∼と向き合う/面する」も、Myn1 p <か } らの派生とみなさ れる語である 。この場合、Myn! p< } との意味の連続性は、比較的理解し易い。それに比 < } 前/正面」からの派生とみることは、一見、困難であ べて、hm} yn1 p < R 、ymQ yn1 p < R を Myn1 p 「 } ら生じたのであれば、その意味は「内部」 る。W. von Soden は、これら二語が Myn1 p <か 30 31 でなく「前方」であるべきと考えた 。同時に、男性複数形からの派生はヘブライ語 } 同語根という を含む全セム語に一般的でない、とも指摘する。そこから彼は、Myn1 p <と 従来の見解を否定し、hm} yn1 p< R 、ym1 yn1 p < R の語根を *pnm とみる仮説を提出するが、その 一方で、nm を末尾にもつ語根をセム語に想定することは不可能に近いことをも認め ている。上の二語が神殿建築の記述で使われることに着目した W. von Soden は、これ 69 らが土木建築に長い伝統をもつフェニキア、ティルスから輸入された語ではないかと 推察している。第一子音 p については、古代エジプト語の pr「家」(ヘブライ語では 32 tFb< { )、フリ語の pa「建てる」(同じく hn= b< } に相当)を連想し得ると言う 。実際、ヘ ブライ語 hn< = p < Q (角、隅)も建築用語とみなせば、第一子音 p と建築用語との関連性を かど 33 推察することはできよう 。 ところで、改めてテキストを確認すると、エゼキエル書 40 章から 42 章に神殿内部 の詳細な記述を見出すことができる。そこでは、壁の内側に踏み込んでなお、何度も Myn! p< } に出会う。 「その (石段の) 先に (Mh# yn@ p$l1 ) 」 (エゼ 40 : 22) 、 「聖所の前(Dd3 O q < h { yn2 p 4 V )」 (エゼ 41 : 21)、「部屋の前には(tokwO} l< R h - yn2 p 4 l 1 v $ )」(エゼ 42 : 4)、「隔離壁に面して (エゼ 42 : 12)、等々である。この部分に出てくる 36 回の Myn! p のうち、 <} (trE d E g< 4 h - yn2 p 4 b< Q )」 } ある。そして、Myn! p < に } 混じって、hm } yn 1 p < R 、ym } yn 1 p< R 31 回が建造物の内部要素の Myn! p < で も頻出し、やはり建物内部を説明するために用いられている。 < } どのように捉えるかにある。ここで、 問題の焦点は、 「表面/前面」としての Myn! p を 幕屋(Nk< { D R m 1 ;民 7 : 3、ヨシ 22 : 29 など、lh3 Oa ;出 26 : 9、民 3 : 7 など)や神殿(tFb< { ; 王上 6 : 3)が Myn! p< } をとることを思い出したい。無論、さまざまな無機物や人工物が Myn! p< を } とり、その表現を空間的な座標指示(「∼の前に」)と理解することもできるだ ろう。しかし、幕屋や神殿といった建造物は内部を有し、中に入ることができる、と いう点に注目したい。しかも、建物とその要素(柱や壁、ポーチ、部屋、門など)と Myn! p< と } の結合は、ソロモンの神殿とエゼキエルの神殿の幻の記述に集中しており、こ れは hm } yn! p<4 、ym1 yn 1 p<4 の出現箇所と重なる 。エゼキエル書の例では、神殿内部の記述 } もつものの奥にいくつもの Myn! p< が } において Myn! p< } が繰り返し用いられており、Myn! p< を あることになる。そのように考えれば、Myn! p< }は重層的な内部を指すものとなる。換言 すれば、表面としての Myn! p< } すら、曝された内部と捉えることができる。方向を表わ 「内部に」と理解せざるを得ないことも、決 す h を伴う hm=yn! p< R という語を、文脈上、 して突飛ではあるまい。また、直訳すれば hm= yn 1 p< R と同じく「顔に向かって/顔の方へ 「以前」と訳されるが、これも世代にまたがる過去と (to face(s))」となる Myn! p= l4 は、 34 いう時間の内部への遡行を指すものと理解できる。 勿論、幕屋や神殿における内部は、外部とは厳密に区別されねばならない。神殿は 周囲を壁で囲まれ(エゼ 40 : 5) 、入るには四方の門をくぐる必要があり、中では門の 傍らに立つ案内(エゼ 40 : 3)につねに先導され、恣意に任せて踏み込むことはできな い。そして、神殿に門(ri{ D { )があるように、幕屋には入り口(ct- p < E )がある。こ の ct- p< E もまた、連語態 Myn! p< }の限定語に含まれている(出 40 : 6)。ヘブライ語聖書に よれば、神殿や臨在の幕屋は、神の住まう場である(エゼ 43 : 12、出 25 : 8) 。例えば、 hvhy yn2 p lR Q (直訳「JHWH の顔に対して/向かって」)は大半が神顕現や聖域の描写に 70 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 35 用いられるため、聖所を意味する祭儀的なイディオムと解釈する傾向が強い 。神殿や 幕屋のいずれにおいても、重要なのは内部の聖なる空間である。そのような幕屋の中で 「供えのパン」 供えられる祭儀的パンが Myn! p < } Mc3 l E と呼ばれることは、非常に興味深い。 について、R. Gane は、Mc3 l 3 のみで描写される箇所(出 29 : 23、40 : 23 など)と Myn! p < } という表現が用いられる箇所とを比較した上で、Myn! p < } Mc3 l E Mc3 l3 は幕屋の中でのみ使われ る表現であることを指摘し、創造主である JHWH の幕屋への内在を特に強調するもので 36 ある、と述べている 。 これは、本稿の見解を裏付けてくれるものとなり得るだろう。 3 − 4. Myn! p< } を認識すること 通常、Myn! p< }は多種多様なものによって限定を受ける。それでは、何物にも限定され ない独立態でもって表現される Myn! p< } そのものは、どのように理解すればよいか。こ の項では特に、r k { n = (認識する)の目的格に置かれた独立態 M yn! p< } に注目したい。 Myn! p< } rk- n = (直訳「顔を認識する」)は、裁き(ep< } D R m Q )に言及する文脈で用いられ、 禁止( aOl )あるいはよくないこと( boe~aO l )として必ず否定的に評価される(申 1 : 17、16 : 19、箴 24 : 23、28 : 21)。これほど直接的に「よくない」 、 「する勿れ」と明 言される箇所は、Myn! p< }には、ほかに見当たらないため、ヘブライ語聖書によって示さ れる価値判断とも関係していると推測できる。 rk-n= はヘブライ語聖書に 50 回程度登場する。おもに hifil で用いられ、「認識す る」、 「判別する」 、 「それと認める」 、 「知る」との意味をもつ 。Myn! p < } と組み合わせら 、 「えこひいきす れる箇所も、同じく hifil である。Myn! p < } rk{ n = は熟語的に「偏り見る」 る」と訳されるが、本来、Myn! p< } も rk{ n = も「偏る」ことを表現するために用いられる 語ではない。なお、 「偏り見る」という訳は、独立態 Myn! p< } と aS} n = (持ち上げる)との 動詞 37 組み合わせでも生じ得る。この表現も裁きの公平への戒めの中で使用されるため(申 38 aS} n = と Myn! p< } rk- n = の意味は等価である、とこれまで考えられてきた 。 「尊敬する」 (イザ 3 : 3、9 : 14) 、 「顧みる」 (申 28 : 50)といっ しかし、Myn! p< } aS} n = は、 た肯定的意味をも備える。必ず否定的に言及される Myn! p< } rk- n = とは異なる意味合いを 10 : 17) 、Myn! p< } もつと考えるべきだろう。 Myn! p< } rk- n = が用いられる申命記 1 章 17 節、16 章 19 節 a の解釈については、従来、裁 判(ep< } D R m 1 )という前後の文脈が重要と考えられてきた。rk- n = hifil 形には「ほかのも のと識別する」、 「多くの中から同定する」 (創 27 : 23、エズ 3 : 13 など)という意味が あるため、そこから「目をかける」 (ルツ 2 : 10、19)と解される場合がある。これは 裁きの場に相応しくない行為であり、禁止(aOl )と結びつくことは推測できる 39。申 命記のこれらの箇所は、G. Braulik によれば、 「乏しい人の判決を曲げてはならない」 という出エジプト記 23 章 6 − 8 節の戒めを裁判にたずさわるに際して簡潔に表現した 71 40 ものとされる 。Midrash Rabbah は、Myn! p < } rk- n = j aOl について、裁判では有利な側に友 41 好的であってはならないとの解釈と、不利な側にも友好的であれとの解釈を併記する 。 Myn! p < } rk- n = の前後の文脈には、「間に立って言い分を (申 1 : 16) 、 「等しく事情を聞くべき(im- D } )」 (申 1 : 17 )といった よく聞き(im{ D } )」 しかし一方で、申命記における 表現がみられる。つまり、裁きにあたっては、当事者と事例に関する知識が不可欠で あると認められている。にもかかわらず、Myn! p < } に関しては、認識することはよくない とされる。Midrash Rabbah には、双方の聴取を求めつつ rk- n = (認識)を禁止するとい 42 う矛盾した文脈をいかに調和に導けばよいか、との R. H.anina の疑問が記されている 。 rk- n = は元々日常言語であり、法の領域の言 い回しではなかったという 。では、Myn! p < } rk- n = はどのような行為を指し、何故よくな いと評価されるのか。そこで、法の領域という限定を外して、rk- n = という動詞によっ また、A. S. van der Woude によれば、Myn! p < } 43 て描出される行為を見直してみたい。 rk- n = hifil 形は「調べる」 (創 38 : 26) 、 「見分ける」 (ルツ 3 : 14) 、 「識別する」 (エズ 3 : 13)などと訳される。つまり、検分し、判別する行為を表わす。創世記 37 章 33 節、 、彼を野獣に食われたと結論する。即ち、 ヤコブはヨセフの着物を調べ(rk- n = hifil 形) rk- n = は見極めを試みるのであるが、結果として欺かれる可能性を含んでいる。だから こそ、hithpael で「変装する」 (王上 14 : 5、6) 、nifal で「よそおう」 (箴 26 : 24)といっ た意味を生じるのであろう。この hithpael および nifal は、基本的に、再帰(oneself)、 相補(one another)を表わす。認識する(rk- n = )行為が自らと関わるとき、欺きとい 44 「見なす」 (サム上 23 : 7) 、 「誤解する」 (申 う性格が前面に出る。そして、piel では、 rk- n = は不確実な要素を前提としての認識で ある、と理解すべきだろう。rk- n = (認識する)と同じ三子音から成る形容詞 rk= n 2 (奇 32 : 27)へと行き着く。即ち、ヘブライ語 妙な、見慣れない、異邦の)との関係について、H. Ringgren は意味上の矛盾があると 45 46 して否定するが 、共通語根 rkn からの派生とみる説もある 。 Myn! p< } ~ rk< W h- (「人を偏り見るの はよくない」;直訳「顔を認識することはよくない」 )には、rb E g< = ~ iD{ p R F Mc3l~3 tp< ~{ li-v $ 法の文脈ではないとされる箴言 28 章 21 節、boe~aOl ( 「だれでも一片のパンのために罪を犯しうる」;直訳「人は一片のパンのために裏切 る」 )が続く。Myn! p < } が内部の重層性へと通じ、また、固有性に強く規定される語であ るならば、本来的に不確実である認識(rk- n = )はなおのこと不安定さを増すだろう。 さらに、それは「よくない(boe~aOl )」と、テクストにおいては必ず、先ずもって直 接に禁止される。検分や判別を目指す rk- n = による接近は、Myn! p < } に対する際には適切 でない、とはっきり価値づけられているのである。 独立態 Myn! p < } と動詞の結合による興味深い熟語的表現は、ほかにもある。Myn! p < } 「戦いを交える」がそれだ。連語態の 72 ha= r = 、 Myn! p < } を見る(ha= r = )場合は、必ずしも戦闘と結 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 びつくものではない。例えば、創世記 42 章以下では、ヨセフとヤコブら家族との再会 という待望さるべき事態を指して何度も用いられる。その一方、王などの側近が主人 と会う場面でも使用され(王下 25 : 19、エス 1 : 14、エレ 52 : 25 など) 、自分より高位の 者との出会いを描写する。W. Eichrodt は、hvhy yn@ p<$ ha= r = (「主の顔を見る」)は聖域へ 47 入ることのメタファー的表現であると述べている 。従って、差し止められる可能性 48 を孕む事態である、との解釈にも連なり得る 。独立態 Myn! p < }については、 ha= r = (見 る)と結びつく 4 箇所いずれもが、文脈から「戦いを交える」と訳される(王下 14 : 8、 11、代下 25 : 17、21) 。Myn! p < } も ha= r = も、本来は交戦を意味する語ではない。この部分 は直訳するなら「顔を見る」 、厳密には ha= r = が hithpael なので「お互いが顔を見合う」 である。しかし、イスラエル王ヨアシュとユダ王アマツヤの戦いという文脈を考慮す 49 れば、翻訳が不適切とはいえまい 。そして、Myn! p < } ~ la3 Myn! p < } ha= r = 「顔と顔を合わせ 50 て主/主の使いを見る」 (創 32 : 31、士 6 : 22) は、「戦う」とは訳されないまでも、そ こから帰結する死への恐怖が、引き続いて表現されている。 ヘブライ語聖書において、Myn! p < } を対面で見合うことは、穏やかならぬ事態といえる。そ れと併せて、Myn! p < } を認識することに対する禁止を、裁判という領域から独立に、一般的 行為のなかで受け取る可能性を考慮したい。なお、同じ「知る」であっても、rk- n = は id- y = とは異なることを弁えておかねばならない。id- y = が 独立態 Myn! p < } をとる箇所は、 「主が 」 (申 34 : 10)のみ 顔と顔を合わせて(Myn! p < } ~ la3 Myn! p < } )彼(モーセ)を選び出された(id- y = ) である。 4. 結び ヘブライズムとヘレニズムの差異は指摘されて久しく、それは言語の差異と深く関 係する。実際、現実世界の見方と言語との間の関係性は、看過すべきでないだろう。 本稿では、 「顔」 、 「表面」に相当する Myn! p < } の意味領域の探究を試みた。その結果、 固有名詞と強く結びついた個別性、内部の奥行きへの暗示といった特徴が明らかとな った。そして、そのような Myn! p < } を扱うに際して、はっきりと禁止を言い渡される 「認識」という行為がある。果たしてどのような扱いが正当なのかは、ヘブライ語聖 書には述べられておらず、それはいわば読み手に残された課題となる。 Myn! p < } は一個を指す場合にも複数形である。列王記上 12 章 30 節には、一(dc} a 3 )と Myn! p < } との結びつきが認められる(「民はその一体の子牛を礼拝するため(dc } a 3 h } yn2 p 4 l1 ) 、その場合、無 ダンまで行った」 ) 。dc} a 3 は JHWH を指すためも使われ(申 6 : 4 など) 類であるような唯一を示すとされている 。しかし、Myn! p < } との繋がりにおいて JHWH 51 73 が dc} a 3 で表現される箇所はなく、dc} a 3 と Myn! p < } との結合は、上掲の一箇所のみである。 dc} a 3 は、否定的に評価される子牛を指し、二体のうちの一という加算性を もつ。だが、いずれにせよ、dc} a 3 と Myn! p < } との結合は肯定的文脈に乗らず、そして同時 に、dc} a 3 (一)すらあくまで複数形 Myn! p < } をとる。ここから、単数への固化を防ぎ、一の ここでの 中にも複数次元への気配を残す、という意味の方向性が導出されるのではないだろうか。 Myn! p < } は、文法的には、空間的延長の複数として分類される。だが、空間的にしろ 時間的にしろ、 「延長」を示すだけであれば必ずしも複数である必要はない。複数を 強く保持するこの語の意味領域を確定しようとすれば、face(s)(顔/表面)ではなく phase(s)(相/局面)とでも訳すほうが適切な場面があるのではないか。内部へ向か って限りなく遡行し得る、ダイナミズムを伴った「内奥」に対する示唆が、複数とい う形式の一機能として認められて然るべきであろう。ヘブライ語聖書では、いくつか の基本語彙が、数的な多数性に関わらない複数形をとる。冒頭に挙げた MFm- (水)や MFm- D } (天)、Myq< Q m- i 7 m- (深み)、Mym Q l } o i (永遠)などもそうである。そして、この書 物にとって基本である Myh Q Ol a6 (神)すら、形態上は語尾 My を伴う複数形であり、イ スラエルの神 JHWH と同格で用いられる。このような複数形をどのように理解すべき なのかについては、稿を改めた検討が必要である。 原文テクストには Biblia Hebraica Stuttgartensia を、日本語訳には新共同訳を使用した。 略号は、基本的に、Theologische Realenzyklopädie : Abkürzungsverzeichnis, Berlin 1994 2 に 従った。上に含まれていないものは、以下の通りである。 DictTalm. Jastrow, M., Dictionary of Targmim, Talmud Babli and Yerushalmi, and the Midrashic Literature, Vol.1, New York 1996 (1906 1) GAG Soden, W. von, Grundriß der Akkadischen Grammatik, Roma 1995 3 (1952 1) GK Gesenius, W./Kautzsch, E. (ed.), Hebräische Grammatik, Hildesheim 1995 28 (Leibzig 1909 1 ) Ges. Tregelles, S. P.(transl.),Gesenius’ Hebrew and Chaldee Lexicon to the Old Testament Scriptures, New York 1894 脚注 1 THAT によれば 2127 回(S. 434) 、ThWAT によれば 2126 回(S. 632)であった。両者の差は箴言 15 章 14 節の Ketib-Qere の採用に関わると考えられる。いずれにせよ、ヘブライ語聖書において 2000 回以上使 用される単語は30程度であるため、使用頻度が高いことは確かである。 74 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 2 例外もあるが、ここでは取り上げない。 3 BHS には記述がないが、BHK の下注では、複数 MVql< R c1 が提案されている。 4 HALAT 3, S. 886 ; ThWAT, Bd. VI, S. 630 ; THAT, Bd. Ⅱ, S. 432f. 5 AHw, S. 818ff. 6 Ibid., S. 818 7 THAT, Bd. Ⅱ, S. 433 8 GK, §124b. 9 これは、基本的に、現在まで受け継がれており、例えば Joüon-Muraoka によれば、延長の複数(Plural of extension)へと分類されている(Joüon, P. S. J., Muraoka, T. (transl.), A Grammer of Biblical Hebrew, Roma <} 、MFm- (水) 、MFi- m2 1993 (1991 1 ), §136c)。また、Myn! p は、つねに複数形でのみ用いられる MFm- w} O(天) (内臓、胎内、内部)といった他の単語とともに、plurale tantum としてまとめられる(ibid., §90f)。 10 GK, §124b 11 GAG, §61h.だが同時に、アッカド語には二種類の複数形の範例(集合全体―単位数)が存在することに 留意。plural tantum の活用のかたちは前者である。 12 Tropper, J., Ugaritische Grammatik: AOAT 273, Münster 2000, 53. 36 - 13 意味上の齟齬を来たすのは、vyr= a V+ x という複数形でもって「彼の首」を表現する、創世記 27 章 16 節、 - 45 章 14 節、46 章 29 節(× 2) 。単数形 oraVx ( 「彼の首」 )が用いられる箇所もある。 (創 41 : 42、ヨブ 39 : 19、41 : 14、エレ27 : 8、27 : 11) 。 14 Gesenius-Kautzsch は、これらの双数形は見かけ上のもので、古くは複数形であったであろう、との立場 をとる(GK, §88d)。 15 レビ 11 : 34、民19 : 13、19 : 20、サム下21 : 10。清めの水および汚れた水に関する祭儀的記述である。 16 全体の 8 割以上が何らかの前置詞に後続するため、前置詞ごとに意味を分類する傾向が一般的である (ThWAT, Bd. VI, S. 633; THAT, Bd. II, S. 434f.; HALAT 3, S. 888ff.; KBL, S. 766f.)。融合形としては yn@ p4 l1 、 yn@p<4m 1 、 yn@ p4 l< Q m1 、 yn@ p4 b<1 。融合せず、la3 、 li- 、 ta2 、 li- m2 などにも続く。従来、前置詞に連なる Myn! p < } は本来の名詞としての意味を喪失しているとの見解がとられており、 「∼の前に」 、 「∼の上に」 、 「∼のた 1 めに」といった前置語句な訳を与えられる。例えば、yn@ p4 l 「∼の前」はヘブライ語聖書に 1000 回以上現 われ、これ自体が前置詞として解される代表的な成句である(GK, §101b et al.)。だが、l4 は PA (鼻)と も融合して yp2< A l4 という同義の前置語句をつくることができる。また、 「∼の前に」を意味する前置詞に は lVm, dg3 n# , ck- nO があり、それぞれがさらに Myn!p<= を後ろにとることができる。Myn! p < } に着目するならば、 yn@ p4 l1 を前置詞として片付けるには慎重さが必要であり、それは他の前置詞と関係する Myn! p < } についても 同様である。なお、yn@ p4 l1 「∼の前」は空間的・時間的な意味合いをともに有する前置詞句である。同様 の現象は、無論、われわれの知る諸言語にも見出せる。E.Jenni は、yn@ p4 l1 が空間的および時間的「前」を 意味することについて、ヘブライ語においては静的―動的の限定が困難だと記している(Jenni, E., Die hebräischen Präposition, Bd. 3: Die Präposition Lamed, Stuttgart 2000, S. 262)。 75 17 hd= i2 [ ~l Ok < ] (共同体)、lh= q = [ ~l Ok < ] (会衆)といった語は、民数記、ヨシュア記を中心に現われるが、 hd} V hy$(ユダの人々)のように、王国後の記述に至って用いられる語もある。 18 ThWAT, Bd. VI, S. 638. hvhy yn@ p4 l1 での食事が祭儀的意味をもつことについては(申 12 : 7、18 : 14など)、 別の箇所で言及されている(ibid.,S.654)。神性のイメージが刻印されたパンという解釈は、写像を拒否す るイスラエル宗教の立場から支持されないという(THAT, Bd. II, S. 460)。 19 Myn! p= l<4m1 (イザ41 : 26)にも、過去時という意味を汲んで、「前もって」との訳がつけられている。 20 ThWAT, Bd. VI, S. 630f. 出エジプト記33章11節については、民数記12章 8 節 hp<3~ la3 hp<、 3 「口から口へ (語る) 」をも参照のこと。NRSV はこの箇所の訳に“face to face”を採用する。辞書上掲箇所は、ほかの 預言者と一線を画すモーセの、神との比類なき親密さの表現であると説明する。 21 Dhorme, P. P., L’emploi Métaphorique des Noms de Parties du Corps en Hébreu et en Akkadien, Paris 1923, p.2 22 THAT, Bd. II, S. 443 23 ThWAT, Bd. VI, S. 649f.; THAT, Bd. II, S. 447f. 24 Eichrodt, W., Theologie des Alten Testaments, Teil II/III, Leipzig 1935, S. 12ff. 25 テクストにおける用法の分析という方法を採るため、資料仮説的方向からの考察は本稿では考慮外であ る。但し、ヘブライ語聖書全体で、hvhy が 6000 弱、Myh Ol Q a6 が 3000 弱と、出現頻度自体に差があるこ <= とは考慮せねばならない。だが、この元々の差を計算に入れても、やはり Myn!p の限定語としての差には 注目されるべきだろう。 26 Mandelkern, S., Veteris Testamenti Concordantiae Hebraicae Atque Chaldaicae, Graz 1975 (1937 1), S. 953ff. 27 Ges., p. 682; HALAT 3, S. 891 = 28 列王記上 6 章 29 節の Myn! p R l<1m1 は hm=yn! p R l1 の異読をもつ。この異読を加えれば、14 箇所。Myn!p< と hm= yn! p4 < の意味の未分化あるいは重複を読み取る手掛かりにできる箇所だろう。新共同訳では「内側の」と訳さ れている。 <R <R 29 HALAT 3 , S. 891.ちなみに、現代ヘブライ語では、Nomyn! p (タイヤ)、hy< = m1 y n! p (寄宿舎付学校)、 tVy< m 1 yn! p < R (内面性)等のさらなる派生語を生じている。Myn! p < R (内部;テキスト)、Myn! p< Rh- dr- S m1 (内 務省)といった意味も興味深い。cf. Alcalay, R., The Complete Hebrew- Engilish Dictionary, Tel-Aviv 1996, p. 2061f. 30 ThWAT, Bd. VI, S. 630 ; THAT, Bd. II, S. 433 31 Soden, W. von, "Zur Herkunft von hebr. penîmāh " hinein, (dr) innen" und penîmî" innerer" ", UF 24 (1992), S. 311f. 32 b< 、p< はともに両唇閉鎖音(explosive Lippenlaut)であるが、C. Brockelmann には、セム語におけるこの二音 の交替の記述は認められない(Brockelmann, C., Grundriß der vergleichenden Grammatik der semitischen Sprachen, Bd. I, Hildesheim 1966 (1913 1), §47, §84)。 33 HALAT 3, S. 890f; ThWAT, Bd. VI, S. 626-9. 語根は*pnn と推測されているが、動詞 ち、もしくは Myn! p< } の名詞派生形という説もある。ちなみに、LXX では γωνι′α, 「隅の親石」という神学的なイメージと関わる。cf. Idem. 76 hn= p< } の副次的なかた λι′θος などと訳され、 旧約聖書における 「パニーム(顔) 」 34 連語態 Myn! p< } に繋がる ty! b< { (神殿)、lk= y h2 (拝殿)、ryb1 d<$ (内陣)、Dd# Oq (聖所)、hr= z$ g> ! (神域)、 vy = n 4 b< Q < (別殿)、hk<= DlR 1 (部屋)、at< } (控えの間)、qyt<1 A (階廊)、hl= i 7 m- (石段)、rx2 c= (庭)、dVm< i (柱) 、hr} d 2 g>$ (壁) 、Ml= V a (ポーチ) 、ri- D_ (門)は、全部で 65 箇所。その 8 割強が、上の記述の中で 4 現われる。hm= yn! p<4 、ym1 yn! p< の二語併せて、やはり8 割強(38/45箇所) 。 35 Fowler, M.D., "The Meaning of lipnê YHWH in the Old Testament", ZAW99 (1987), S. 384f.; ThWAT, Bd. VI, S. 653f.; THAT, Bd. Ⅱ, S. 458. hvhy yn@ p4 l1 に出るのは祭司である。P以外の資料には稀な用法とされる。 36 Gane, R., "‘ Bread of the Presence’ and Creator-in-Residence", VT42 (1992), pp.179-203. 特に p.181f. 参照。 37 Ges., p. 551; HALAT 3, S. 660f. 38 THAT, Bd. Ⅱ, S. 439, 441; Dhorme, P. P., ibid., p. 49 39 Myn! p< } の連語態と関わる rk- n = の唯一の箇所に、ld= ~ yn@ p4 l1 i- o D~rk<- n ! a Ol 、 「貴族を貧民より尊重するこ とのない」 (ヨブ 34 : 19)がある。やはり偏ることへの戒めが表現されている。この箇所の rk- n = は piel だ が、hifil として理解するよう、辞書に指示がある(Ges., p. 551)。本来、piel での意味は「誤解する」 (申 32 : 27) 、 「疎遠にする」 (エレ19 : 4) 。 40 Braulik, G., "Zur Abfolge der Gesetze in Deuteronomium 16, 18-21, 23. Weitere Beobachten", Bib.69 (1988), S. 63-92. 特にS. 69f. 参照。 41 Freedman, R. DR. H. (transl.) , Midrash Rabbah: Deuteronomy, London 1893, p.107f. 前者は R. Eleazar の言、 後者が R. Samuel b. Nah.man の言である。cf. Epstein, R. DR. I.(ed.),The Babylonian Talmud Nezikin V; Sanhedrin I, London 1935, p. 31; Tigay, J. H., The JPS Torah Commentary: Deuteronomy, Jerusalem 1996, p. 160; レビ 19 : 15 を見よ。 42 Freedman, R. DR. H. (transl.) , ibid., p.108f. 43 THAT, Bd. Ⅱ, S. 441 44 piel も hifil も同じく qal の使役形である。だが、E. Jenni 以来、現在のヘブライ語文法では、被る側に重心 のある piel に対して行為主に重心のある hifil、という相違があることが認められている(Waltke, B. K. / O’Connor, M., An Introduction to Biblical Hebrew Syntax, Indiana 1990, 21. 1)。 45 ThWAT, Bd. V, S. 455 46 KBL, S. 617; DictTalm., p. 911f. 47 Eichrodt, W., ibid., S.12 48 ThWAT, Bd. VI, S. 648f. 49 THAT, Bd. Ⅱ, S. 442; Ges., p. 750. いずれも「戦う」の意を特記する。 50 ThWAT, Bd. VI, S. 694. Myn! p<= ~ la# Myn! p<= ha= r= は、従来、苦難に引き続いての転回を示す神学的な表現と 解釈されている。 51 THAT, Bd. I, S. 105ff. 77