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ありのままに見る
ありのままに見る 知覚の理論 ジョン・R・サール Seeing Things As They Are: A Theory of Perception John R. Searle 第4章 どのように知覚的志向性は働くか、第一部 基本的特徴、因果関係、志向内容 この章とつぎの章はこの本の中心的な理論的な章である。ここで少なくとも一部は、どのよ うに知覚の現象学、特に視覚や経験が、充足条件を決定するかを説明する。これはどのよ うにあなたの経験の生の感覚が、あなたが知覚していることがあなたに見えることを決定す るかを説明することを語る素敵な方法である。その問題は、「あなたに関するどんな事実が あなたが赤い何かを見ていることを真とするか」という相対的に瑣末な問いではなく、「あな たに現前する視覚経験の現象学についてのどんな事実が、あなたがその現象学を持って いる場合、あなたが赤い何かを見ているようにあなたに見える必然的に真にするのか」とい う、より現象学的に困難な問いである。なぜその問いはより困難なだけではなく、より重要で あるのか?なぜなら、知覚経験の存在論が主観的であり、その存在論が充足条件を構成す る世界の存在論的に客観的な特徴に内的に関係しなければならないからである。生の現 象学はそれらの充足条件の特徴をもたなければならない。この完全な意味は今後明らかに するつもりである。 わたしは最初に関連する問題のすべて、あるいは大半でさえ論じることができる望みは ないと言いたい。現象学と志向性の関係は大変複雑である。並行する志向性の変化が現 象学の変化を産むと以前に言及した。わたしがそれは「わたしの」自動車であると信じるな ら、同じタイプの自動車とは違って見える。わたしが家が映画セットの一部としての外観だ と信じるなら、本物の家だと信じる場合と違って見える。信念はたとえ知覚刺激が同じまま でも、志向内容を変える仕方で現象学に影響を与えることができる。場合によっては、現象 学は私たちが真だと信じるものと矛盾する。ミュラー=リエール錯視の線は長さが違って見 えるが、そのため志向性は、線の長さが違うということであるが、わたしは独立に線の長さ が同じだと知っている。わたしはこのような複雑さに関心はない。生物学的進化論的視点 から知覚の現象学は知覚される世界に私たちを直接関係されなければならない。それはど のように働くか?わたしはわたしがその問いの最も基本的ポイントだと考えるものに関心を 持つつもりである。 第1節 分析哲学とその裏道 分析を続ける前に、わたしはこの議論を現代哲学や最近の哲学のより大きな伝統の中に位 置づけたい。分析哲学の大半は真理条件の決定についてだった。有名だがフレーゲは「宵 の明星は明の明星と同じである」というような同一性の陳述の真理条件を説明するため 「指示」と「意味」の違いの説明をした。ラッセルは文「現在のフランス王は禿である」のよう な明らかに存在しないモノへの指示を含む文の真理条件を明らかにする述語論理の確実 な適用について論じた。ある意味で彼らの業績は私たちのものより簡単だった。なぜなら彼 らは、たとえば慣習により、ある音がある意味や指示をもっているという言語の慣習に誰も が親しんでいるという事実をあてにできたからである。彼らは私たちがみな、何かが赤いと か何かが王であるとか、何かがフランスであると理解すると仮定できた。そしてより深い意 味で、彼らの業績は私たちのものよりもっと簡単だった。なぜなら彼らは私たちが説明しよう と試みているもの―すなわち、世界が私たちに前−言語的に、特に知覚に現前すること、そ して私たちがその場合言語的表象を構築するため前−言語的な現前を用いること―を仮定 できたからである。私たちは今、前−言語的知覚的現前を検証しようとしている。古典的経 験論者―ロック、バークリー、ヒュームなど―は言語的に表現される経験的知識はある意味 知覚に達しなければならないと正確に理解していた。だが彼らは決して言語についても知 覚についても十分説明することができなかった。彼らは、一部は悪い議論のため、一部は志 向性の理論をもっていなかったため、私たちが答えを必要とする問いに答えることができな かった。さて、私たちは悪い議論をしているのではなく、志向性の理論を持っている。その基 礎にもとづいて私たちは前進している。 『志向性』(1)で、わたしは文の分析を志向状態一般に拡張した。文「フランス王は禿で ある」の真理条件を分析できるのとちょうどおなじように、私たちはフランス王が禿であると いう信念の真理条件、フランス王は禿であるべきだという欲求やフランス王を禿にする意 図の充足条件を分析できる。私たちは志向状態一般に充足条件の概念を拡張できる。志 向性を分析するこの方法はまさに分析哲学の伝統の継承である。あなたは世界の事態を 表象する、表現、言語その他の特徴を発見する。この章で、私たちはこの伝統とは実際まっ たく異なる何かをしなければならないことを知るだろう。私たちは世界から志向内容の確定 に背後に回らなければならない。(2) 有名な話だが、ラッセルは私たちに世界から意味への、 指示から意味への裏道はないと教えた。「…すべてのモノは無限の数の異なる指示をする 句によって指示できるため、指示から意味への裏道はない」(3) だが私たちは、この章で経 験と、それが現前するモノのタイプの間に内的関係がなければならないため、そのような裏 道がなければならないことを知るだろう。わたしはこのような何か後ろめたい物言いが引き 続き明確になることを望む。 第2節 視覚の境界 私たちの説明が、満たさなければならないある属性や私たちがしなければならないある仮 定がある。わたしはまず最初にそれらを書き出す。 (a) 「説明は知覚する動物にも一般的に適用できなければならない」。それは言語を有する 成人の人間に限定されることはできず、動物や子どもにも働かなければならない。たとえば、 わたしの犬タルスキはものすごく洗練された視覚をもっておりどんな視覚の哲学も彼の経 験に適用できなければならない。 (b) 「その説明は現象学を尊重しなければならない」。私たちは非常に抱負な志向内容を 持つものとして自然に特徴付けることができる経験を私たちが持つことは、人間の現象学 についてのまさに事実である。だから私たちは「わたしは色と形を見た」というようなことそ れほど言わない。むしろ私たちは「わたしは混んだ駐車場で自分の自動車を見た」、「わた しは美術館でフェルメールを見た」、「わたしは雨雲が北西に集まるのを見た」などというよ うなこと言う。私たちはたとえば「わたしは教室に誰もいないのを直接見た」のように否定的 事実や、わたしは彼がも一歩進んだら崖から落ちるのを見た」のような条件的事実さえ見る ことができる。これらの陳述はすべて字義通り真でありえる。 (c) 豊富な志向内容をもつ現象学の豊富さを尊重するとともに、「私たちはまた知覚状況の 厳しい物理学や生理学も尊重しなくてはならない」。私たちが受け取るすべてのものは、網 膜への表面的刺激か、クワインが呼んだように他の末梢神経終端への刺激である。どのよ うにして、そのような限られた生理学的入力から豊富な現象学のようなものを私たちは得る のか。 (d) 現象学と生理学を尊重するが、「私たちはまた知覚的志向性の上限を見出さなければ ならない」。わたしは字義通り、目前の赤いボールがあるのを見たり、雨が降り始めたのを見 ることができる。だが他の主張はより問題をはらんでいる。私たちは「わたしは男が酔ってい るのを見た」とか、「彼女が知的なのを見た」のようなことを言うが、これらは視覚の字義的 報告なのか?一方の端には、まったくのメタファーがある。「わたしは西欧哲学におけるカン トの重要性を見た」はメタファーであり、視覚の報告ではない。「わたしは赤いボールを見 る」は視覚の報告ではない。何が視覚における「見えるもの」の上限なのか。わたしはつぎ の章でこの問いを解決する。 (e) 「私たちは意識と志向性を生物学的に与えられたものとして理解する」。私たちは意識 の複雑な形式を生み出す神経生物学的能力を仮定するとともに、さらに問題をはらむこと として、志向的な意識と非志向的な意識の間の区別もまた生物学的に与えられていると仮 定する。私たちの問いは「どのように子供や動物が視覚や触覚が世界にアクセスする能力 をあたえるか」ではなく、「どのように意識経験のある特徴に世界のある特徴が現前するか」 である。 第3節 客観的、主観的知覚フィールド この章とつぎの章の私たちの目的は、客観的知覚フィールドと主観的知覚フィールドの間 の本性と関係をを説明することである。わたしは通常行われるように、視覚に集中すること で、それをするつもりである。以前の章でしたいくつかの点を繰り返す犠牲を払って、わたし はすでに確立し、残りの探求を支配するとわたしが考えるいくつかの一般的原則を述べる ことから始めたい。 1.何かを意識的に見るときはいつも、私たちが見る事態は私たちの中で、意識的視覚経験 を引き起こす この経験は、唯物論的傾向のある哲学者には非常に厄介だが、当たり前の特性である。特 に視覚経験は存在論的に主観的である。それは人間や動物の主体が経験する限りにおい て存在する。第二に、それは主観的なため、つねに質的である。つねに何か質的な性格、視 覚経験を持つような何かがある。第三に視覚経験は孤立しては生じず、全意識的主観的 フィールドの一部として生じる。そのフィールドは意識一般の特徴を持つ。視覚フィールドそ れ自体がつねに、触覚や聴覚の経験、そして思考の流れ、気分、感情、痛みのような雑多な 身体的感覚を含む主観的意識フィールド全体の一部として生じるというのは事態をより複 雑にする。この章の私たちも主な対象は主観的意識フィールド全体の一部である主観的視 覚フィールドにおける主観的視覚経験である。 2. 主観的視覚経験は本来的な志向性を持つ 視覚経験は組み込まれた(必要条件の意味で)充足条件をもって生じる。わたしが遠くに サンフランシスコ湾を、手前に北バークレーのこずえや家々を見ているわたしに見えることな くこの現在の視覚経験を持ちえる仕方はない。意識的視覚経験はまさに内容の一部として 非常に豊富な意識的志向性をもっている。 3.主観的視覚フィールドは客観的視覚フィールドと厳しく区別されなければならない。前者 は後者の志向的現前である。 客観的視覚フィールドは、特定の受信者とその視点に相対的に同定される存在論的に公 共的かつ客観的な、三人称の一連のモノや事態である。だから直ちに、わたしにとっての客 観的視覚フィールドは、わたしの現在の生理学的心理学的状態において、この視点から、 この照明条件のもとで、わたしが見ることができるすべてのモノや事態からなる。その主観 的視覚フィールドは完全にわたしの頭の中で起こる存在論的に私的で、一人称の一連の 経験である。 4.客観的視覚フィールドでは、全てのものは見られるか、見られえないかのいずれかであ る;主観的視覚フィールドでは、何も見られないか、見られえないのいずれかである。 わたしの客観的フィールドはこれらの条件のもとでわたしの視点から見ることができる一連 のモノや事態と定義される。他方、わたしの主観的視覚フィールドは存在論的に主観的で あり、それは完全にわたしの脳の中に存在する。ふたたび強調すべき最も重要なことは、主 観的視覚フィールドでは、「何も見られない」ということである。これは主観的視覚フィール ドの実体が見ることができないためでなく、その存在は客観的視覚フィールドでモノを見る ことであるためである。あなたが何かを見るとき見ることができないモノのひとつはあなたが そのモノを見ていることである。そしてこれは、幻覚のケースでは、あなたは何も見ないので、 良いケースか、悪いケースか、本物か、幻覚かどうかを問わない。特にあなたは幻覚的に見 ることは見ない。見方を変えれば、主観的視覚フィールドの実体がそれ自体を見ることだと 考えるのは、悪い議論を犯すことである。これまで論じてきたとおりそれは過去4世紀西欧 哲学の非常に多くの厄災を産んだ厄災である。 わたしは、17世紀以来ずっと、単に視覚についてだけではなく知覚一般について、この点 が評価されてきたなら、西欧哲学の全歴史は異なったものになったと本当に思う。デカルト の知覚表象理論から、カントの超越論的観念論以降までずっと―多くの本当にあからさま な誤りは、あなたは主観的視覚フィールドで何も見ることができなか、あるいは知覚できな いことをすべての人が理解しするなら回避されただろう。 5.知覚は「透明」である。 客観的視覚フィールドと主観的視覚フィールドの記述は通常正確に同じである、同じ言葉 で、同じ順番でである。これは、主観的視覚フィールドが客観的視覚フィールドの志向的現 前である明白な理由であると今では望んでいる。だから「わたしは左に半島のあるサンフラ ンシスコ湾、右に海を見る」とわたしが字義通りに見るものを語る、とわたしは言う。わたしが 自分の視覚経験のことだけ語りたいなら、正確にあたかもわたしが左に半島のあるサンフ ランシスコ湾、右に海を見ていたかのようである視覚経験をもつ、とわたしは言うだろう。(普 通の英語では視覚経験を孤立化させるため、「seem」(見える)を通常使い、「わたしはサン フランシスコ湾を見るように見える」[I seem to see San Francisco Bay.]と言うが、この 文の「seem」は範囲が曖昧である。だから「わたしはサンフランシスコ湾を見るように見え る」は「わたしはサンフランシスコを見るように、わたしに見える[It seems to me that I see San Francisco]か「正確にあたかもわたしがサンフランシスコを見たかのようである 視覚経験をわたしがもつ」[I have a visual experience which is exactly as if I were seeing San Francisco.]のいずれかに解釈できる。この両義性を避けるた、わたしは視覚 経験をはっきり特定し、"seem"を使用しない。) 偶然にも、人間の行為の構造に同じ並行性が存在することは指摘する価値がある。わた しが自分の手を上げることは客観的出来事―わたしの手が上がる―か、主観的志向的現 象―「君は何したのかい?」「わたしは自分の手を上げようとしてた」―かのいずれかとして 記述されえる。私たちは、主観的出来事が自分の行為中の意図、自分の「行おうとする」 (trying)であるため、私たちは主観を客観から切り離すことができる。客観的出来事は、自 分の行おうとすることの因果的結果、自分の腕を上げる、である。行為は知覚と反対の適 合方向と反対の因果方向をもつが正確に平行である。行為中に、客観的要素は自分の身 体的腕が上がる、でありそれは主観的要素、自分が意識的に自分の腕を上げようとするこ とを原因として起きる。知覚では、客観的に要素は知覚される事態であり、それは主観的要 素、意識的知覚的経験を引き起こす。 6.あなたの知覚の志向対象は、その志向的原因である 知覚の志向対象を知覚経験を引き起こす物とするのは、私たち自身のような意識的動物 の基本的バックグラウンドの性質である。これが最も明白なのはおそらく、あなたの知覚の 対象以外何もわからず、少なくともそれが知覚経験を引き起こしたと知っているケースであ る。暗闇で何かにぶつかったり、突然大きな騒音を聞いたり、異臭を嗅いだり、窓に突然閃 光が現れるのをみたりするのを考えてほしい。これらすべてのケースで、あなたはそれを特 定できないが、自分の知覚の対象が何であれ知覚経験を引き起こしたと実際知っている すべてのケースで、知覚しているものが何かわからないとわたしは考える。これはこの章の 議論のにとって重大な点である。他が等しければ「何かをあなたが意識的に知覚するとき はいつでも、あなたはその知覚経験の原因をその対象であるとみなす」。この原理はたとえ ばあなたが自分の配偶者を見るときのような個々の対象の知覚にも、あなたがなにか赤い ものを見るときのような一般的特徴の知覚にも両方に適用できる。わたしは志向的因果性 の成り行き、すなわち、あなたがもつ特定の志向内容の原因が知覚の志向対象であること について語っている。だから現在のケースでは、わたしのサンフランシスコ湾の視覚経験の 原因はサンフランシスコ湾である。わたしがサンフランシスコ湾を見ることを起こすためには、 視覚の神経生物学についての非常に複雑な非志向的な因果的ストーリーと、それなしには 知覚することが起こりえないその因果的連鎖がある。たとえば因果的ストーリーは V1(視 覚エリア1)と LGN(外側膝状核)との間のフィードバック・メカニズムが関わる。だが V1 と LGN は志向内容の一部でも、志向対象でもない。志向性が働くことを可能にする非常に 複雑な非志向的因果的ストーリーがある。 私たちの意識経験を引き起こす物が私たちが知覚しているものであるという「理論」は 持っていない。私たちは単にそれを当然のこととみなしているのである。わたしは哲学者た ちが私たちは視覚において因果関係を経験していないと主張するのを聞いた来たが、その 真理以上のものは何もありえない。経験自体を引き起こす物の経験として視覚経験をもつ ことなくこれらの視覚経験をもつ方法はない。そしてわたしに起こることはわたしの犬にも 起こり、私たちのように関連する知覚器官をもつ他の意識的に知覚する動物にも起こる。 第4節 主観的視覚フィールドの構造 この節とつぎの節でわたしは知覚内容と充足条件の中心的な形式的特徴の一部を提示 するつもりである。それらはいかなる特的の内容にも特殊でないが、たとえば色や形が現前 するすべての内容に適用できるという意味で、形式的である。 客観的視覚フィールドは通常持続する物質的モノや出来事を含む。主観的視覚フィー ルドにおいては何も持続的ではなく、すべては一時的であり、一過的なプロセスであり、そし てすべての物はあなたが目を閉じればいつでも消える。主観的視覚フィールドは永続的モ ノではなく視覚プロセスからなる。 主観的視覚フィールドのプロセス、すなわち経験は第2章で言及したふたつの重要な帰 結をもつ。すべての見ることは「としてみること」(seeing as)であり、すべての見ることは「そ れを見ること」(seeing that)である。わたしは順にそれぞれ検討する。 「として見る(Seeing As)と側面的形(Aspectual Shape)」。現前的な視覚的志向性は 表象の亜種であるため、またすべての表象は側面(aspect)の下にあるため、視覚的現前は つねにある側面の下にあり、他ではないその充足条件を提示する。だから、たとえば、わたし がある視点から目前の机を見るのであり、わたしは机のある側面だけを見る。わたしはその 表面(surface)とこの角度からの側(side)を見る。この瑣末なケースで真であることは、一 般に真である。 「それをみる」(Seeing that)。すべての知覚的指向性は充足条件を決定するため、ある 条件はつねにしかじか(such and such)がもつ条件であるため、知覚的志向性の内容は 常にしかじかである。だからたとえばひとは決してひとつのモノをみるだけでは決してない。 ひとは目前の―直前か、左か、上か、下かの―モノを見る。すべての視覚経験で、いくつか の全事態が現前する。現象学は、これを視覚経験がひとつのモノへの単純な関係である印 象を与えることによって私たちから隠す。そうではない。それはつねにひとつの全事態であり、 これは視覚経験の志向性から帰結する。 以前の著作で、わたしは知覚は命題内容をつねにもつと言った。これは真だが、ふたつ の理由で哲学者をミスリードさせる。ひとつは多くの哲学者が命題的態度は命題への関係 から成るという馬鹿げた誤った考えをもつことである。悪い議論に関するひとつのバリエー ションで、彼らは命題は知覚の対象でなければならないと考えるのだ。第二に、彼らはこれ らの命題が時々「抽象的」だと考える。このふたつのミスリーディングを防ぐため、わたしは 知覚の分析における命題の概念を使用するのをやめて、単に知覚経験はしかじかが真で ある「条件」を内容としてもつと言うことにした。必要条件(requirement)の意味である「条 件」(condition)は「命題」(proposition)と同じことを意味する(なぜなら条件はつねにし かじかの条件であるからである)。だがわたしはミスリーディングを防ぐことを望む。 第5節 視覚的知覚の階層構造 人間の視覚経験の現象学に対しする関係で適切に理解するとこれらふたつの特徴は重要 な帰結をもつ。知覚経験は通常階層的に構造化されている。わたしは標準的な人間にとっ て視覚経験は、その志向内容において極端に豊富であると何度も繰り返してきた。わたし は色や形を見るだけではなく、自動車や家を見る。そしてわたしは実際には自動車や家を 見るだけではなく、たとえばわたしの自動車やわたしの家をみる。さてそんなことのすべてが いかに可能なのか?「豊富な志向内容はすべて「としてみる」の内容の部分である提示の 知覚的特徴の階層構造を必要とする」。「として見る」(seeing as)の概念はすでに潜在的 に階層を示唆している。なぜなら X を Y として見るためには、あなたは階層の低次で X を 見て、それを階層の高次で Y と見なければならない。 何年も前アーサー・ダントーは基礎的行為(basic action)の観念を導入した。(4) わたし は彼の本来の意図に関心はないが、わたしはその概念が有用で、わたしがそのとおりわた しが使っている方法であることがわかった。基礎的行為はあなたが、それによってするため、 何かほかのことをする意図することなく、できる何かである。だからわたしにとって、自分の 腕を上げることは基礎的行為である。わたし何か他のことをする必要なく、自分の腕を上げ る。それを志向的に行うためには、他のすべての多くのことをするよう意図しなくてはならな い。知覚と行為の構造の形式的な同形性ため、私たちは基礎的行為の概念を基礎的知覚 に拡張できる。基礎的知覚はあなたが知覚するため、何かほかのものを知覚することなく、 もちえるモノないし特徴のなんらかの知覚である。 単純な例でこれを見てみよう。わたしが以前言ったように、わたしは通常色や形だけを見 ず、黒い自動車を見る。わたしは単にいかなる黒い自動車を見るのではなく、黒のポルシェ 911カレラ4を見る。そしてわたしはあるタイプのトークンのようないかなるものも見るのでは ない。わたしは自分の自動車を見るのである。「それぞれの次元で、高次の知覚は低次の 知覚を必要とする。わたしにとって自分の自動車としてもモノを見ることは、それをある特定 の種類の自動車として見ることを必要とする。それは次に、ある種の形や大きさや色をもつ ものとして見ることを必要とする。それぞれの場合、高次の特徴をもつものとしてモノの知 覚は低次の特徴の知覚を必要とする。 最終的に、諸段階を踏むならあなたは底辺に至る。あなたは知覚するため、何か他のも のを知覚することなく、知覚し得る一連の特性に達する。わたしは特性(property)のような 名前にテクニカルタームを導入することを提案する。「すべての知覚は基礎的知覚特性 (property)あるいは基礎的知覚特徴(feature)を必要とする」そこで高次の構造の階層は 知覚するため、何か他のものの知覚を必要としない特徴において底辺に至る。基礎的特徴 は、知覚するため、何か他の特徴を知覚することなしに、知覚できるある特徴である」。自動 車の色や形はこの意味で基礎的知覚特徴であるが、自動車であることないし、わたしの自 動車であることは基礎的知覚特徴ではない。基礎的知覚特徴は存在論的に客観的である。 自動車の色や形のように、だれからも知覚されるような物である。存在論的に客観的な基 礎的知覚特徴に一致するのは、その特徴の主観的視覚経験である。この章で私たちが解 決するつもりの重大な問いはこうである。どのようにその経験の現象学はその充足条件と して基礎的知覚特徴を決定するか? わたしは直感的に、基礎的知覚特徴の考えと対応する視覚経験の階層的構造は明確 だと考える。だがそれを正確に述べるのは簡単ではなく、わたしはこれまで満足の行くよう、 成功してはこなかった。直感的に、意図や形は基礎的であるが、通常あなたは他のものなし に、あるものを知覚できない。基礎的知覚特徴はそれによって知覚する何かほかの特徴を 知覚することなく知覚できないものである。だが色や形はともに知覚するである。だがそれ らはひとしく基礎的に見える。わたしはこの問題に解決をもっていないが、引き続き、わたし は知覚は階層的に構造化されており、階層は最も基礎的特徴の底辺に至るという直感的 考えに頼るだろう。おそらく色や形の問題を扱う正しい道は、色のついた形としてこれらの ケースの基礎的特徴を考えることである。 主観的知覚フィールドが志向内容を決定するのに十分豊富でなければならないため、モ ノの基礎的特徴のそれぞれに対して、基礎的視覚特性の主観的な相関がなければならな い。これは主観的視覚フィールドには、色、線、角度、形、空間的関係や時間的関係にさえ 対応する意識過程がなければならない。だがどのようにそれはありえるのか?たとえば字義 的に赤い視覚フィールドは何もないし、字義的に丸い視覚フィールドは何もない。赤さや丸 さは字義的に見られえるモノの客観的特徴である。だが、その点を何度も繰り返せば、主観 的フィールドには字義通り見られる物は何もない。わたしはこの点は正しく強力だと考える。 だが、やはり、わたしは視覚知覚を理解するつもりなら、その場合たとえばわたしが赤い ボールを見るとき、私たちはボールの赤さはわたしの主観的視覚フィールドにおいて心理 学的に相関するものをもち、丸さについても同じであると主張したい。わたしはついでそれ がどのように働くかの問いを扱う。 第6節 主観的視覚フィールドの現象学的特徴視覚経験の充足条件 をどのように決定するか? これは瑣末な問いであり、わたしは生涯様々な折、今では偽だと考える諸命題を固く信じて いた。わたしの現在の立場に至った諸段階をたどることが、わたしがその答えに挑む最善 の道であるとわたしは考える。わたしはこれが自伝的に好き放題書く以上のものであること を期待する。わたしはこれらの問題について懸命に考える人は誰でも、わたしが歩んだよう な諸段階のような何かをたどるはずだと考える。 わたし自身の考えの発展の諸段階 第1段階、『志向性』1983. 脱引用(Disquatation)。わたしが『志向性』を書いた時、わ たしは「本来的」知覚的志向性が充足条件を決定するかについての実質的問いがあると は考えなかった。どのように「そこに赤いボールがある」という文が真理条件を決定するか について哲学的問いがある。その文は派生的志向性をもち、私たちはどのように何に由来 して正確にそれが派生するか説明する必要がある。だがわたしは字義通り赤いボールをそ こにあるのを見て、わたしの視覚経験は本来的であって、派生的でない、志向性をもつ。そ してそれがその条件を決定する経験にとってすでに本来的であると言うのではなく、どのよ うにそれが充足条件を決定するかの問いへの答えであるように思える。それはもしその条 件をもたないならそのタイプの経験ではありえないだろう。本来的志向性と事態の間の関 係の唯一の特徴の記述は瑣末な脱引用のひとつである。なぜこの経験が赤いボールがそ こにあるという充足条件を決定するかに与えることができる唯一の理由は、この経験が、 ボールの現前と赤さがまさにこの視覚経験を起こしている場合に限り充足されるという意 味で、そこに赤いボールがあるのを見ているように見えることの正確にひとつであるという ことである。(5) この脱引用的概念に関して、どのように生の現象学が充足条件を決定するかについて いかなる問いもありえない。なぜなら生の現象学は、「ちょうど」その充足条件の現前「であ る」からである。文と絵には、モノとその充足条件に間には断絶がある。文の意味による文の ケース、絵の表象的特徴による絵のケースにおいて断絶がある。だが、意識的知覚経験の ケースでは、生の経験は経験と充足条件の決定の間の大きな隔たりは認められない。なぜ なら(必要条件の意味での)充足条件はちょうど経験の一部だからである。 第2段階、本来的特徴。 第一段階は視覚経験が他の場合と同じように世界の出来事 なので十分ではないように見える。どのように視覚経験がその充足条件に関係するかとい う問いがあるべきであり、その問いは非志向的に答えられなければならない。アプリオリに、 充足条件を決定する視覚経験の基礎的非志向的特徴がなければならないように思える。 視覚経験を文と対照してほしい。「そこに赤いボールがある」という文はその意味を決定す る文にともなう慣習のため充足条件を決定し、その意味がその充足条件を決定する。その 意味は、本来的志向性を欠く何か、統辞論的現象としての文をともなう。視覚経験のケース では、慣習はないが、その充足条件を決定する視覚経験の何かほかの特徴がなければな らない。第1段階は充足条件が絵や文に内的ではない仕方で、知覚経験に内的であること が正しい。「内的」というのは、もし充足条件がなかったなら、経験がその経験でありえない ということを意味する。だがやはり、ひとつの問いががなければならない。どのように経験は 働くのか。それはどのように特定の経験がその内的な充足条件をもつことができることなの か?そしてだた働くと言うことが働くのではないだろう。もちろんそれはただ働く。その問い はどのようにかである。 第3段階、階層と基礎的特徴。 第2段階の探求は視覚経験は事実階層的であり、主観 的視覚フィールドは存在論的に客観的な世界における知覚的にアクセス可能な階層に対 応しているということを明らかにする。だかそれがわたしの自動車であることを見るために は、わたしはそれがある特定の種類の自動車をことを見なければならない。そしてそれがそ の種類の自動車であることを見るためには、わたしはある色と形を見なければならない。客 観的にわたしの自動車であるためには、それはある種の自動車でなければならず、その種 類の自動車であるためには、それはある色と形でなければならない。基礎的知覚特徴はあ なたが知覚するのに、何か他のものを知覚することなく、知覚するものである。そして基礎 的知覚経験は基礎的知覚特徴の経験である。 これはそれ自身の権利においてだけでなく第2段階に曖昧さがあることを示すため重要 な結果である。基礎的知覚経験がある必要条件はこれらの特徴が非志向的に特定される 必要条件と同じではない。基礎的知覚経験はその志向性との関連でのみ特徴を記述でき るものではまだありえない。知覚の階層構造があっても、脱引用はなお正しいアプローチで ありえる。 第4段階、非志向的なものの志向性。 基礎的知覚経験が本来的であるというために は、第2段階の点のため、すなわち視覚経験が他のように出来事であり、そのため条件を決 定するその出来事のなんらかの特徴がなければならず、それらの特徴が非志向的に特定 されなければならないため、私たちの問いへの答えとしては満足すべきものではない。なぜ か?さもなければ、説明は循環的で、何も説明しないからである。すなわち、基礎的特徴の 経験は本来的志向性を持つのは真だが、まさにその本来的志向的特徴は何か「せいで」 志向的であり、その何かは今こそ特定されなければならず、そしてそれは単に脱引用的に は特定できない。それが基礎的であり、それが本来的に志向的であるということは、これ以 上もはや言うべきことがないと含意するように私には見える。だがそれは誤りである。基礎 的視覚特徴が本来的志向性をもつという点はそれ自体その問への答えではない。それは 私が今答えようと意図している問いである。 以前言ったように伝統的に分析哲学は真理条件を説明するような仕方で文の意味を検 証する。意味は慣習的なので、文とその充足条件の間には内的つながりはない。まさにそ の文が何かを意味するのに用いることができる。だが経験の性格と充足条件の間の意識 的知覚経験のケースでは、内的つながりがあるので、私たちはその内的つながりを説明し なければならない。そして私たちがそれを説明できる唯一の方法は、世界から表象(あるい はこのケースでは現前)に戻ることである。さもなければ私たちは内的つながりを知ることは できない。これが神秘的に聞こえることはわたしはわかっているが、その神秘を手短に説明 するつもりである。 第7節 わたしの現在の見解 第5段階、どのように物はあり、何がどんな経験をそれを引き起こすか。 私たちは問いを 正確にする必要がある。その問いは、古い哲学者の問い、「どのように志向性は一体全体 可能なのか」ではない。わたしはそれが有意味な哲学的問いだとは思わない。それはわた しが放棄してきた他の哲学的問いのようである。どのように非生物的物質世界で生命は可 能なのか?どのように無意識の物質の世界で意識は可能なのか?どのように非表象的物 質の世界で志向性は可能なのか。これらは哲学的問いではない。第一の問いは進化論的 生物学によって答えられている。そしてわたしは意識と志向性についての第二と第三の問 いは神経生物学によって答えられていると考える。「どのように一体全体志向性は可能か」 というのはたとえばどのように動物が喉の乾きを感じることが可能かを示すことで答えられ る。ほとんど私たちはその答えを知っている。 私たちが解決しようとしている問いはもっと特殊な問いである。「どのように存在論的に 主観的視覚フィールドにその充足条件として客観的視覚フィールドの特徴が現前するか」。 私たちの問いには伝統的なふたつの答がある、その両方とも誤りである。第一の答えは類 似性である。ロックやデカルトからウィトゲンシュタインの『論攷』に至るまで共通の考えは、 表象は表象するものと、表象されるものの間の類似性の関係あるいは同形性によって説 明される。ウィトゲンシュタインの説明には、文(Satz)と事実(Tatsache)の間の同形性があ る。文は事実に似ていることによって表象する。事実はモノの配置からなる。文は名前の配 置からなる。そして文は事実を表象する。なぜなら文と事実の間の写像関係がある。知覚の 場合表象理論によれば、私たちは私たちの心の中の像を知覚し、像はモノに類似すること によって世界におけるモノを表象する。これが知覚の場合悪い議論を犯しているという事実 とは全く別に、その説明はどちらも無効であることを理解するのは重要である。私たちが悪 い議論を無視し、単に視覚経験はそれ自体赤く、赤さは赤いモノに似ているため、世界にお ける赤いモノを表象すると考えてみてほしい。わたしは一部の哲学者たちがモノが赤い感 覚からさまざまな赤の意味で視覚経験が赤いと言うのを聞いたことさえある。さて視覚経 験が赤いとか視覚経験が四角だとか、視覚経験がそれに似ていることによって、赤や四角 を表象するというなんらかの意味があると考えてほしい。これらの視覚経験とそのモノの間 の類似性がどのように視覚経験が充足条件としてのモノをもつか説明するのだろうか?そ れらは何であれ全く説明力がない。ふたつの似た実体があるという事実は知覚ないし言語 であるものが他のものの表象にするということはない。だれがその類似性をみるのか?世界 におけるどんなふたつのモノと同じように、わたしの左手は右手に互いに似ているが、一方 は他の絵でも彫像でも表象でもない。類似性はそれ自体何も説明しない、それは何の説 明力もない。哲学者たちは志向性を写像に同化するため、またわたしの運転免許の写真の ような写真が実際因果と類似性の結合によって表象するため、それを説明だとみなす。だ が、類似関係は描写の説明ではなく、私たちが他の表象だと解釈することを可能にする認 知能力の氷山の一角であるのを知るのは重要である。それ自体似ているふたつのモノはど んな方法でも、視覚的知覚の志向的現前よりわずかしか表象を説明しない。 だが因果関係はどうなのか?因果関係それ自体は、いずれにせよ説明力を持たない。あ る種類の経験が赤いモノによって引き起こされると考えてほしい。それは真であるが、なぜ 経験がそれ自体、充足条件としての赤いモノをもつかを説明しない。大雑把にいえば、何か は何かを引き起こすことができる。赤いモノをみることがつねにわたしに痛みの感覚を引き 起こすと考えてほしい。これはその痛みを充足条件としての赤さをもつ志向状態にするとい うことではない。どのように主観的視覚経験の生の現象学に充足条件が現前するかを示そ うとするなら、類似性も因果性もそれ自体その役目を果たさない。そしてそれが、志向性の 説明としてこれらの両方がお決まりように訴えてきた哲学における歴史的スキャンダルの 何かであるであるとわたしは考える。これらの誤りは、17世紀の知覚の表象理論からまさに 20世紀と21世紀の指示の因果理論に至るまで歴史をもつ。わたしは現代哲学や最近の哲 学の最も弱い特徴のひとつは、意味論を説明しようとするのに「因果の連鎖」に訴えること だと考える。この「因果の連鎖」は何であれ何の説明力もない。わたしは『志向性』(第8章 と第9章)で指示と意味の因果理論を批判した。わたしはその批判をここで繰り返すつもり はない。 なぜ類似性も因果性も志向性を説明する役に立たないかを説明するため、私たちは何 を説明が必要とするかについてさらに踏み込んで語る必要がある。私たちはたとえば、充足 された場合何かが赤く見えるのが真でなければならないということが、なぜ「まさにこの主 観的知覚経験に内的であるかを説明しようとしている。その説明はそれ自体志向的でない 用語から始めなければならず、十分条件を与えなければならない。それはなぜあなたがこの 経験をした場合、それは何かを赤く見ているように見えるのが真でなければならないかを示 さなければならない。まさにこの知覚経験にその充足条件として赤が現前するのか?その 経験が赤いものによって引き起こされなければならないということが、事実赤い何かを見る 必要条件である。だがそれは、私たちが答えようとする問いへの答えではない。それはどん な三人称の客観的事実が、わたしが赤いモノを見るのが真であるため必要であるかではな く、どんな一人称の主観的経験についての事実が必然的に赤いモノの現前であることを真 にするのかである。まさにこの経験についてのどんな非志向的事実が、本物であろうとなか ろうと、赤いものを見るように見えることをわたしにとって真にするのか?私たちは、もちろん さまざまな感覚的な様態が同じ特性へのアクセスを与えることができ、幻覚のケースの場 合、出来事の同じ現象学タイプがモノのその本物のタイプではない何かによって引き起こ されえるため、必要条件を与えるよう試みているのではない。わたしはモノが丸いのを見る こともそれが丸いと感じることもでき、わたしはなにか丸い物を見る視覚的幻覚をもつこと ができる。 「わたしの前に赤いものがある」という文は、慣習によるその充足条件をもつ。まさにその 文がなにか異なることを意味しえる。だがまさに視覚経験の充足条件は、わたしの目前に 赤い物があることが、必然性によってその充足条件を持たなければならない、その充足条 件をもつということが、まさにその経験であることの本質でなければならない。 引き続き、わたしは「どのように物があるか、主観的知覚知覚経験の質的性格」の間の 基礎的特徴に関する関係と、「それらの間の因果関係」の調べることによってこの問いに答 えたい。これは私たちがどのように物があり、どのようにそれが見えるかの間の関係を調べ ることを可能にするだろう。わたしが調べたい仮説はどのように基礎的特徴のケースで、視 覚経験の質的特徴にそれが行う充足条件が現前するかの説明が、F である特性と「ある 種の経験を引き起こしえること」の特性の間の体系的関係があるということである。普通の 言い方で、経験することは「F に見えること」(looking F)と記述されるだろう。だが「F にみ えること」は私たちの問題を解かないだろう。なぜなら「F にみえること」は通常「F であると 見えること」(looking to be F)を意味する。あなたは、「F であること」(being F)を理解する 場合に限り、「F に見える」を理解する。わたしたは色の例から初めてこの点を説明する。 色はスペクトルの反転や色の恒常性のような現象のため少しトリッキーであり、つぎの章 でその問題を扱う。ここでは赤いボールの視覚経験を検証する。視覚経験は赤いか?断固 として視覚経験に色はない。なぜないのか?色は誰にでも観察可能であり、視覚経験はそ うではない。赤の色は波長約6500オングストロームの光子を放射し、視覚経験は何も放射 しない。だから視覚経験それ自体が色をもっていると考えるのは間違いである。また視覚経 験が色をもっているということは、誰が色を見ているのかを問わなければならないため、悪 い議論を犯すのはほとんど避けがたい。 色は知覚経験の対象であるが、それ自体知覚経験の特徴ではない。これが含意するこ とを調べよう。目を閉じ、手で目を隠すなら、あなたはあなたの視覚フィールドに素朴に人が 黒の背景に対し黄色の斑点として記述するかもしれない一連の経験をもつだろう。なぜこ れは自然な記述なのだろうか?第一にあなたがもつ経験は黒い背景に対し黄色の斑点を 見ている「ような何か」である。そして第二にたとえばあなたの視覚システムを操作する医師 が電気的に変化を生み出すなら、黒の背景に緑の斑点とか黒の背景にオレンジの斑点と かがあるとあなたが記述する変化を生むと彼に意味すると私たちは知るだろう。やはり、くり かえせば、字義通り黒とか黄色とかとわたしが経験しているものは何もない。その理由はす でに述べた、だがこの思考実験が示唆するものは、わたしが赤い何かを見るとき、客観的な 視覚フィールドの赤いモノと一致するということが、その志向内容、赤を実現する主観的視 覚フィールドの何かである。なぜそれはその内容を実現するのか?正確どのようにそれはそ れを行うのか?つぎの二点はこのすべての議論において重大な点である。第一に、存在論 的に客観的な世界において何かが「赤である」ことは、それが「このようである存在論的に 主観的視覚経験を引き起こす」能力があることである。その赤さの事実は少なくとも一部 は(標準的な条件と標準的な観察者について普通の能力をもつ)因果的能力が、この種の 存在論的に主観的な視覚経験を(普通の観察者が)引き起こすことからなる。赤である事 実と、この種の経験を引き起こす事実の間に内的関係がある。その関係が「内的」とは何を 意味するのか?そのような仕方で、これのような経験に体系的に関係しないなら、それはそ の色ではありえないことを意味する。第二に、何かが知覚的経験の対象であることは、それ が経験の原因として経験されるということである。この二つの点をひとつにまとめるなら、あ なたは知覚経験はその充足条件として赤の存在を必然的に実現するという結論を得る。ど のように?生物学的に所与のあなたのバックグラウンドの性質が、あなたが知覚するモノが 何であれ知覚を引き起こし、赤の色のトークンである議論の的の「対象」が、(少なくとも一 部は)これのような経験を引き起こす能力において存在することを前提条件とする。モノの 現前はこの種類の経験を引き起こす十分条件だが必要条件ではない。なぜなら識別困難 な幻覚のケースで、経験は本物のモノではない何かによって引き起こされるからである。 私たちは動物が、志向性の生物学的形式として意識的な喉の乾きや空腹をもつのと正 確に同じように生物学的所与として意識的志向性をもっていると仮定している。問題はど のように知覚的志向性は、動物がもつ内容を得るのか?わたしが基礎的な知覚経験に関し て提案している答えは、この意識的知覚経験をもつ経験は必然的にそれを行う志向性を実 現するということである。なぜなら問題の特徴はそのモノによって引き起こされるものとして 経験され、そのモノは、(少なくとも一部は)(6)このタイプの経験を引き起こすその能力に よって正確に構成されるからである。 人間であろうと動物であろうと、知覚経験が、何であり、起きるとき何が起こっているかを 意識でき、話せるなら、「わたしは意識経験としてわたしに存在することを引き起こす物 F を 見ていることである。そして本物であろうとなかろうと、すべての意識的知覚経験は経験を 引き起こす物の知覚として経験される。そしてわたしは F としてそれを見ていることである。 なぜならその F であることは、私のような経験を引き起こすその能力において存在する」と 言うだろう。 知覚の伝統的哲学的説明の最悪の特徴のひとつは、意識的知覚経験が徹底的に因果 的なものとして経験されることを一般的に理解できないことである。あなたは知覚経験を引 き起こすものとしてあなたの知覚の対象を経験する。因果関係の形式は志向的因果関係 である。わたしはなぜこの誤りが普及しているのかよくわからないが、わたしはそれはヒュー ムの影響をともなう何かがなければならないと考える。ヒュームは私たちは決して因果関係 を経験しないと教育しようと試みた。私たちは毎日の生活のほとんど全てで因果関係を経 験すると論じたことがある。(7) 意識的に知覚したり行為をするときはいつでも、因果的つ ながりを経験する。そして繰り返しになるが、因果関係の形式は志向的因果関係である。行 為のケースでは、行為中の意図が身体的運動の因果的現前である。知覚のケースでは、 知覚される事態が充足条件としてその事態に現前するまさに知覚的経験を引き起こす。 赤についての論点は、他の色にも一般が可能である。視覚経験は字義通り赤、青、緑な のではないが、それにもかかわらずそれは必然的にその充足条件として赤、青、緑が現前 する。なぜならば、何かが赤、青、緑であることは、それがこの種類の経験を引き起こす能力 があることだからである。視覚経験はある質的性格をもち、そしてその経験が何かが赤く見 えるものであるという志向内容を決定するものとして質的性格が正確に記述される。正確 になぜなら赤であることは、この性格をもつ視覚経験を引き起こすことができることにおい て存在するからである。モノが赤いならそれについてのどんな事実がそれを赤にするのか? それを赤にする事実は、少なくとも一部は、それがある種の経験を引き起こす能力があると いうことである。だから、あなたは赤である何かとそれがある種の視覚経験を引き起こすこ との内的な一群の関係を手に入れる。視覚経験の非志向的特徴付けは単に、それがこの 種の質的性格をもつということである。「質的性格は、(一部では)赤さの本質がこの性格を もつ経験を引き起こす能力であり、いかなる知覚経験もそのモノのように、その原因をもつ ように経験されるため、充足条件として赤を規定する」。 世界におけるある存在論的に客観的に質的性格があり、それを「赤」と呼ぼう。わたしの 経験のある存在論的に主観的な質的性格があり、いかなる悪い議論を避けるため、それを 「グログ色」(Glog)と呼ぼう。さてなぜ、グログ色と赤の間にはまったくいかなるつながりもな いのだろうか。結局たとえ赤いモノがグログ色を引き起こしてたとしても、なにも、なにかを引 き起こすことができない。だからその結びつきは何だと考えるべきか?答えのはじめに、ある つながりがあると言うべきだ。なぜなら「赤」は(標準的の条件と標準的な観察者について 普通の質をもった)グログ色を引き起こすものとして定義されているからである。そしてグロ グ色の対象は、グログ色の原因として定義される。この点をすべての色に一般化する。ある モノがある色であることは、それが標準的な照明の条件のもと標準的な知覚である種の経 験を引き起こす能力がある。 いったん、その点を受け入れるなら、私たちは直ちに概念、見えるの概念を今導入できる。 わたしが特定した仕方でいったん赤が規定されるなら、その場合何かが赤であることは、そ れが標準的な条件のもと標準的な観察者に赤く見えることである。だが、これはそれ自体 まったく説明力がないことを強調するのは重要である。なぜなら赤く見えることはただ赤 「であるように」見えることは、「あたかも赤であるかのように」見えることしか意味しないから である。そしてそれは赤く見えることは赤であることに寄生的であり、結果的にそれを説明 するのに用いることはできない。説明力は、私たちがそれが標準的な条件のものと標準的 に観察者にとって赤く見えるということはそのモノがタイプグログ色の視覚経験を引き起こ すことである場合「生じる」。 タイプ、グログ色の視覚経験はただそれが赤によって引き起こされるためでは視覚経験 に赤は現前しない。それは本題ではない。本題はむしろ視覚経験に赤が現前しないという ことである。なぜならそれは「その種の経験」を引き起こす能力である何かが「赤であるこ と」の本質だからであり、その視覚経験の現前的な志向性が常にそのモノとしての経験を 引き起こす。因果関係それ自体は十分ではない。志向内容の特殊性は「志向内容がその 特殊性を規定しないとしても」、問題の視覚経験の本質的特徴によって決定されなければ ならない。(前に指摘した点を繰り返せば、赤いモノがつねにわたしに痛みの感覚を引き起 こすと仮定してほしい。この事実はその痛みの感覚をその充足条件としての赤さをもつ志 向状態にはしないだろう。) わたしが言っていることは人間に当てはまるのと同じように、わたしの犬、タルスキのよう な動物ににも当てはまらなければならない。骨のための穴を掘ったり、猫を追ったりと、なに か活発に行動している犬や他の高等動物を見るなら、あなたは経験全体が徹頭徹尾因果 的であり行為における知覚の複雑な一群の協調を見る。犬は負っている猫によって引き起 こされるものとしての視覚経験をもち、彼はその視覚と臭覚の経験から得られるものに適 合する―より因果関係をもつ―その身体的運動を調整する。 わたしはこの説明はいわゆる第二性質にも一般的に当てはまると考える。何かが甘い味 をもつことはそれがこれであるような味覚の感覚を引き起こすことができるということであ る。議論を詳しく展開するのは難しい。味や臭いにおいて質を記述するための私たちのボ キャブラリーが、味がしたり、臭ったりするモノののタイプに由来するからである。だからたと えば、「ガソリンみたいな臭いがする」とか「赤ワインのような味がする」などが通常、その典 型的な原因に関連する感覚や経験を記述する。それにもかかわらず、わたしはそれらにつ いてうまく働くと思う。何かがガソリンのような臭いがするということは、(1)それがこの種の 経験を引き起こし、また(2)この種の経験がガソリンの臭がすることによって通常引き起こさ れることである。だがカレラのケースと前のケースの間の違いは、赤ワインであることあるい はガソリンであることはこれらの種類の経験を引き起こすことができることにおいて、一部 でさえ存在しない。 第 8 節 現前的な志向的因果関係の役割 私たちは今や知覚経験の因果的性格の視点から同じ点を述べることができる。あなたが知 覚しているものが、あなたの主観的知覚経験を引き起こすものであるということをあなたが 当然のこととしていることが、すべての意識的視覚経験のバックグラウンドの性質だという ことである。わたしが前に言及した例を考えてほしい。たとえば、あなたが奇妙な、予期しな い音を聞くとき、あなたは主観的知覚フィールドにおけるにおける音響的出来事は客観的 知覚フィールドにおける音によって引き起こされることを当然のこととする。同じように、あな たが奇妙な臭いを嗅いだ時、あるいは机の上を手でなで、その表面の滑らかさを感じる時、 すべてのケースで、主観的経験が「なにかの」客観的事態にによって引き起こされるのでは なく、あなたが知覚している「まさにあるもの」によって引き起こされることを単に当然のこと としている。さてこの教訓を赤いモノの知覚に対してあてはめる。あなたは客観的視覚 フィールドにおいてあるモノをみる。そしてあなたは主観的視覚フィールドにおいてある主観 的経験をもつ。私たちはこの視覚経験をグログ色と呼んできた。だがあなたのバックグラウ ンドの前提条件はあなたが見ているものがグログ色を引き起こすものであるということであ る。さて、その主観的知覚経験を赤の現前にするものは、単にグログ色のような主観的知覚 経験を引き起こす能力に正確に、少なくとも一部は、赤が現前することである。 わたしは今、少なくとも色や他のいわゆる第二性質に関する必要条件を私たちの必要条 件を満たしたと考える。私たちはどのように非志向的用語でその知覚経験の特徴付けが、 本物の場合、それが赤の現前に関する十分条件(このケースでは必要条件)を与えること を示してきた。経験とその対象の間の内的つながりはモノが本質的に、いわゆる定義により、 少なくとも一部は、そのタイプの経験を引き起こす能力に存在するという事実によって保証 される。それはわたしたちは表象から実在に進む分析哲学の伝統に従うのではなく実在か ら表象に戻るとわたしが言った時言おうとしたことである。「わたしの目前に赤いモノがあ る」という文で、充足条件はその文の意味によって決定され、そしてその意味は本来的に志 向的でない音や記号によって課される。だが「わたしの目前に赤いモノがあるのをわたしは 見る」によって報告される視覚経験は視覚経験において、視覚経験は本来的に志向的で ある。それが視覚的志向性を持たないならそれはその視覚経験ではありえない。それがモ ノから現前への裏道によってもつことが、視覚的志向性を手に入れるのである。なぜなら何 かが赤いモノであることが正確に、このタイプの視覚経験を引き起こし得ることであるから である。(これについて詳しくは第 10 節を見よ。) 第 9 節 第一性質 これまでこれは第二性質の説明を私たちに与えた。いわゆる第一性質についてはどうなの か?わたしは奥行きの知覚については次章で論じるつもりであるが、今すぐ線や形のような 二次元の第一性質について検討しよう。わたしはそのつながりは第二性質のように緊密で はないと考えるが、形や線についてさえ、モノの特徴とある種の経験を引き起こすその能力 の間には概念的つながり、必然的つながり、がある。あるモノが直線であること、あるいは円 であることの一部は、この種の経験を引き起こすことができることである。通常の英語で、 私たちはあるモノが直線あるいは円であることは、少なくとも一部は、それが「このように見 える」ことであると言うだろう。それは正しいが、「このように見える」は視覚経験の性格に関 連して説明されなければならず、逆ではないことをふたたび強調することは重要である。 第一性質は線の直線性、円の丸さを確立することのため、独立した意味として考えるも のを私たちがもつという事実によって複雑になる。何かが円であることはたとえば、平面上 の同じ中心から等距離のすべての点をもつことである。それは正しい。だがその概念のす べてが次にどのようにモノが見え、どのようにそれがあるかの間の概念的必然性をもつとわ たしは考える。だから原則は、基礎的知覚経験の志向内容は因果関係と非志向的に解釈 される視覚経験の特の「むすびつき」によって決まる。世界の基礎的知覚特徴の存在論的 に客観的特徴は、その性格が一部世界の特徴の定義である視覚経験を引き起こす。直線 は、このように見えることのひとつであり、「このように見える」はこの種の視覚経験を引き起 こす能力があることを含意する。この点は第二性質同様第一性質も同じである。 デザイナーの視点から問題を考えてほしい。あなたが神とか進化であり、素晴らしく上手 にその環境に適応する能力のある有機体を設計していると仮定してほしい。第一に形、大 きさ、動きなどのあるモノをもつ環境を創造する。その後、素晴らしく豊富な視覚能力をもつ 有機体を創造する。ある限界内で、全世界はその知覚意識に開かれている。だがここであ なたはその特徴であることが、その種の経験を生み出す能力にともうよう、特定の視覚経 験が内的に世界の特定の特徴に結びつく特定の一群の知覚器官を創造する必要がある。 実在は経験に依存しないが逆は依存する。問題の実在の「概念」はすでにある種の経験を 生み出す因果的能力がともなう。だからこれらの経験に赤いモノが現前する理由は、赤い モノがあるまさにその事実がこの種の経験を生み出す能力をともなうということである。直 線であることはこの他の種の経験を生み出す能力をともなう。結論は有機体は赤いモノな いし直線を見ていることがそれにみえ、「それに見えている」が知覚経験の本来的志向性を 示すことなくそれらの経験をもつことはできない。 私たちがいたるところで、知覚と行為の間の鏡に写った同形性を発見するため、私たち は意図的行為の構造の類似の同形性を探さなければならない。腕を上げる時行為の経験 についての非志向的に記述されたどんな事実が、それがする充足条件をそれに与えるの か?そして私たちは知覚のケースでは、ある種の経験を引き起こすことが、なにか赤いもの であることの本質からくるのであり、そのためそれがある種の身体的動きを引き起こすこと がこの種の経験であることの本質からくるのである。この行為中の意図は内的に身体的動 きに関係する。なぜなら、もしそれがまさにその種の身体的動きを通常引き起こさなかたな らそれはまさにその種の経験ではありえないからである。もちろんあなたは標準的な条件の もとで、標準的行動に関する通常の能力をすべて付け加えなければならない。だが内的つ ながりは、反対の適合方向と、因果方向をもつ知覚と行為におけるのと同じままでなければ ならない。違いは、行為中の意図はたとえば自分の腕を上げようとする志向内容に関連し て特定することだけができることである、知覚経験は志向内容の非志向的性格付けをもつ。 正確になぜなら志向内容は、すぐつぎに書く「裏道」の結果だからである。 第 10 節 裏道 一般的に言語から心へのラッセルの議論を一般化すれば、彼が、同じモノやモノのタイプが 志向内容のさまざまなタイプの無限の範囲によって指示されうるため、モノやモノのタイプ から志向内容への裏道はないと彼が私たちに教えたと言うことができる。だが、基礎的知 覚的特徴に関する場合、裏道はある。基礎的特徴のタイプから知覚経験のタイプへの裏道 がなければならない。その理由は、基礎的知覚特徴は、ある種の知覚経験を引き起こす能 力によって正確に、一部限定されことである。知覚経験では、その経験がそれゆえ必然的 にその「指示対象」(referent)としてその特徴をもつのである。 そしてこれは瑣末な結論ではない。なぜならそれは後の哲学で、のちの経験主義哲学で さえ失われることになった伝統的経験論の重要な洞察を保持しているからである。伝統的 に、経験主義はどのように物が実在的にあるかとどのように私たちはそれがあるのを知覚 するするかの間に本質的つながりがあると考えた。彼らはこれをその知識の理論とは別の ものとして行った。実在の知識はそのようなつながりがある場合に限り感覚的経験に基づく ことができきる。もちろん瑣末に私たちはそのつながりを、「さて、本物の知覚は知覚される 物がしかじかであることを必要とする」と単に言うことにすることができる。だがもちろん「本 物の」という言葉を使うことでその主張の成功への道を閉ざした。私たちの主張は今やこう である。「世界における物の性格と私たちの経験の性格の間には本質的つながりがあるの か?」わたしは基礎的知覚的特徴にとって、そのようなつながりがなければならない、なぜな ら問題の基礎的知覚的特徴は、一部は、ある種の知覚経験を引き起こす能力に存在する からだと言うことによってその問いに答えた。 第 11 節 可能な反論 深刻かもしれない説明全体に対する反論がある。それはこうである。その説明は瑣末か偽 である。あなたはグログ色が実際赤いモノによって引き起こされると仮定している。だがそ れは説明を瑣末にする。問いはこうである。グログ色は赤いモノによって引き起こされてい るように思える特徴をどのように得るのか?そして赤いモノによって引き起こされるように見 えると言うのは瑣末である、なぜならそれは現実に赤いモノによって引き起こされるからで ある。この仮定は私たちが説明しようとしているものを仮定し、だから説明的価値は何もな い。 だがそのかていをしないなら、その場合偽である。なにかがなにも引き起こすことができ ず、グログ色は何によっても引き起こされないえないかもしれない。ある電気的刺激が何か 赤に見える印象を与えるようにするため装備した脳が水槽にあると仮定してほしい。あなた は一方でそれが実際刺激を見ているとは言えない。(ある因果理論家がこういうように強い られる。)そしてあなたは他方それは一貫して幻覚であるため本当に赤を見ていると言う事 言うことはできない。反対する別の仕方は、赤であることがグログ色を引き起こす能力に存 在するということはどのように生じるのか?だれの視点からこの同一視は生じるのか? この反論に答えられるかよくわからないが、わたしはそれに何も誤りはないと大いに確信 している。それは議論の的の因果関係を通常のビリヤードボールの因果関係として扱い、 私たちはずっと志向的因果関係について語っている。すべての志向性と同じく志向的因果 関係は規範的である。信念をもつなら、その信念の内容はどんな条件のもとでそれが真か 偽であることを決定しなければならない。同様に欲求をもつなら、その欲求の内容はどんな 条件のもとで満足されるか、不満を抱くか決定しなければならない。同様に知覚経験をもつ なら、その経験内容がどんな時良いか悪いか決定しなければならない。良いケースである 条件が経験の因果構造に組み込まれているため視覚経験はその内容をもつとわたしは示 唆している。赤はただその種の経験を引き起こす特徴である。もちろん私たちは瑣末に聞こ えるようそれを性格づけることができる。その経験は赤であるように見えているものである。 だがなぜその点は何かが赤いものを見ているように見えるが真なのかを説明す経験を性 格づける仕方である。だから私たちは、たとえ他のいかなるものであるように世界における 出来事であったとしてもなぜそれを行っている志向性をもつか説明する。私たちは意識的 知覚経験が、それに組み込まれている現前的志向性をもつという事実から始める。そして 私たちは経験自体の因果的構成要素とそ世界のものにおけるモノへの関係との関連で志 向性の実際の内容を説明することができる。 わたしは次章で水槽の中の脳の思考実験に関して、この問題の議論を再開する。 第 11 節 これまでの結果の要約 わたしは特定の充足条件をもつことを必然的にともなう視覚経験の生の現象学の瑣末で ない性格付けを得るよう試みている。第一の原理はすべての意識的知覚経験は引き起こ されるものとして経験され、知覚されるものによって引き起こされるということである。だが それはまだ私たちが望む特殊性を私たちに与えていない。なぜならどんなものもなにも引き 起こすことができないからである。その特殊性は私たちがある特徴のクラスについて、その 特徴であることがその知覚経験を引き起こすことができることによって一部構成されてい ると記すとき、生じる。赤であることは、経験のタイプと知覚されるもののタイプの間の内的 つながりを引き起こすその能力である。それはそのタイプの経験とそのタイプの知覚される モノの間の内的つながりをえる場所である。これはどのように主観的視覚フィールドの質的 性格に客観的視覚フィールドの特徴が現前するかである。その基礎的特徴について、それ が働く仕方がこのようにある。 わたしたちは第一に有機体は意識であると仮定する。第二に私たちはその意識のフィー ルドにおいて、本来的志向性であるいくつかの形式がある。特に視覚的及び触覚的志向性 の特定の形式があると仮定している。これらの仮定があるなら、私たちはつぎの 4 つの段 階を必要とする: 1. 知覚は階層的である。すべての複雑な知覚は基礎的特徴の基礎的知覚に達する。私た ちは基礎的特徴の知覚を説明を試みる。 2. その知覚経験は特定の本来的志向性をもつ。わたしがひとつの F を見ているとわたしに 見えることなくこの経験をもつことができる仕方はない。 3. その主観的視覚フィールドは志向的因果性を含む。わたしが見ている特徴によってこの 経験が引き起こされることがわたしに見えることなくそれをもつことができる仕方はない。こ れは根本的なバックグラウンドの前提である。 4. その経験がその充足条件として F を得る仕方は、F が(少なくとも一部は)これであるよ うな経験を引き起こす能力に存在する。これは内容 F と知覚される F の事態の内的つな がりである。因果性の形式は志向的因果性である:原因は知覚されるモノとしての原因が 現前する意識的志向的知覚内容を生む。 5. これはなぜ経験の性格と知覚される特徴の間の内的かつ必然的つながりがある理由 である。経験の対象はその原因であり、これらの特徴は、この種の経験を引き起こす、その 本質的性格である能力によって定義される。 さて、いま少なくとも基礎的知覚特徴に関する私たちのための仮の解決を手にしている。 だがこの解決はそれが答えるより多くの問いに開かれている。より高次の特徴については どうなのか?たとえばそれが自動車であるという事実は生の現象学によってどのように記 述されるのか?さらにこれまで、わたしは「赤であること」のような一般的特徴だけ議論して きたが、「わたしの自動車であること」のような特定の特徴についてはどうか?そしてスペク トルの反転や色や大きさの恒常性、知覚の推論的特徴などの伝統的な懸念についてはど うか?そして有名な「水槽の脳」問題についてはどうか?わたしが水槽の脳なら、知覚内容 はたとえ決して本物でなくても正確に同じでありえる。わたしは次章でこれらの問題や他の 問題を取り上げる。 1. Searle, John R. Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind. Cambridge: Cambridge University Press, 1983. 2. 外在論者はそれに応じて世界が思考内容を決定する意味の因果的説明をもつ。だが、詳しく見れば、 彼らの説明は徹頭徹尾内的であることがわかる。完全に内的に現れる、最初の洗礼には、ある話者から 他の話者への志向内容の伝達からなる因果的連鎖が続く。彼らは指標に依存するためその説明は外的 であると考え、指標の誤った外在論的説明をもつ。より詳細の議論については、『志向性』第9章を見よ。 3. Russell, Bertland. "on Denoting," in Logic and Knowledge, ed Robert C. March. London: George Allen & Unwin, 1956, 50. 4. Danto, Arthur C. "Basic Actions," American Philosophical Quarterly 2, no. 2 (1965):141-48. 5. 脱引用の伝統的概念は命題の真理条件を述べる際、右手側の引用符を単に外すことである。その他 は「雪は白い」は雪が白い場合、その場合に限り真である。左手側の文は引用符をもつ。右側で引用符 を外すことについて、このため「脱引用」である。わたしはその概念を共通性をもつが、引用符のない場合 拡張した。 6. なぜわたしは「少なくとも一部は」と言い続けなければならないのか?なぜなら物理学についてより多 く見出すとおり、私たちは知覚的特徴以外の特徴に関連して物を定義できるからである。色は(ある程度) 光子の放射に関連して、線は幾何学的特性に関連して定義できる。 7. Searle, John R. Intentionality. 第5章