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手島 - 九州大学

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手島 - 九州大学
論
ボイッ行政科学史論
L行政学と行政法学、その離合の軌跡1
萌弗牙−官︸房学
発展−警察学
分化−行政学と行政法学へ
行政学の高揚
行政法学の覇権
行政学と行政法学の総合へ?
言
手島
孝
人間的営みの動と反動の激突渦流が距離を置いた観察と評価を許すまでにその画時代的帰趨を明らかにして初めて歴
説
者に専門的断案は下しうべくもないが、しかし少くとも、自然科学的意味での過去がすべて歴史なのではないこと、
学説史における歴史とは、一体、現在から遡るこ凄幾ばくの時点までをいうのであろうか。史学理論に門外漢の筆
緒
史が成立するのであろうことは、確かなように偲われる。
42 (2−3 ●113) 259
第第第第第第緒
六五四三ニー
節節節節節節言
説
訟
繭冊
この意味で、行政科学の場合にも、いつ如何なる段階までを学説史のカテゴリーに取り上ぐべきか、また取り上げ
エ ヶるかが問題である。すでに十数年前、 ﹃アメリカ行政学−学説史的・研究﹄と取り組んだとき、筆者の脳裡をつねに
離れなかった問題意識の一つは、 実にそれであった。 結局そこでは、 ﹁前史﹂︵義八八七年以前︶と﹁誕生と成長﹂
︵一八八七年から一九四〇年前後まで︶に引き続いては、流動的な﹁成熟へめ動き﹂をそのものとして晟終章にとらえ、誕
生成長期を特徴づけた﹁政治行政二分論←科学的研究←原理←能率﹂︵同書二七∼八頁︶なる理論構造図式の批判解体、
その結果としての行政学の﹁分裂ないし拡散の傾向﹂ ︵同書︸七八頁︶を、やがて成熟をもたらすやも知れぬいわば星
雲状態として記述するにとどまった。完結的な時代区分を云々するには時期尚早、換言すれば歴史未成立と見ざるを
えなかったからである。繭来、歳丹は経過し、当初に改訂増補を期した”十年後”も、はや、過ぎた。しかし、この
間たしかに見るべき事態の進展がなかったわけではないとはいえ、基本的には依然混沌の情況は変っていない。 ﹁成
熟し期を加えたアメリカ行政学史を書けるのは、まだまだ先のことのようである。
へ
これに比べて、事情はドイツ行政科学ではかなり違ってくる︵後に本論で明らかとなるように、ここでは行政学と
行政法学とが密接にかかわり合っているので、一括して“行政︹諸︺科学” ︹ぐ①暑讐§σqω叢ω。・磐ω9嬰2︺と呼ぶを適
ヘ へ
切としよう︶。その起源を遠く一七世紀の半ばに尋ねうるそれは、以後一九世紀末に至るまで二五〇年にもわたる有
為転変の諸相を、われわれ見者の前に明確に歴史化して提示してくれる。ここでは、学説史の展開は四つの楽章を具
えたソナタとして、一九〇〇年の時点ですでに一応完成しているといってもよい。この点からすれば、ドイツ行政科
学の史的把握は、アメリカ行政学史の研究より遥かに有利な対象的条件にあるといえよう。しかも、グローバルな視
野で観た場合、 行政科学の主流としてアメリカ行政学の興隆はドイツ行政科学退場の後を直ちに承けており︵﹃アメ
リカ行政学﹄はしがき参照︶、前者の世界史的先行者たるこの意味において、後者はその歴史的究明をむしろ1前者よ
プレデセツサ 42 (2「3 ・,114) 260
ドイツ行政科学史論(手島)
り一先決的に要請されてさえいるのであ惹。
、、、.、 、 ・ ︵3︶、
にもかかわらずへこれまでおが国でドイツ行政科学の学説史が本格的に探求されること余りに寡なかったのは、、他
でもない。,﹁に、僅々九十年にも充たぬアメリが行政学の過去に対し、,﹁その三倍になんなんとする歴史を誇るそれに
あっては、渉猟すべき原典・参考文献の肪大なご乏、且つは特に古い厘典類の入手困難なご止、到底前者の比ではな
いからである。しかし、幸い二の分野で多ぐの稀襯書を蔵す為わが九州大学法経両学部の文庫を日常利用できた筆者
は、年来関心を温め準備を進めきたって、、今回その一.端をこのような形にまとめる機会を得た。、執筆の直接の動機
は・日本行政学会の企画にかかる﹃行政学論証甘の第一巻巻頭論文に ﹁行政学と行政法学﹂ を依頼されたことにあ
る。かねての興味の赴くまま忙文献に目を通し悪遊練り筆を走らせてかて気がつ︽と嘱ドイツについての学説史的検
討のみで早くも規定枚数を遥かに超過しそ いたゆ結局、当の寄稿論文︵学説史的部分︶・には新たに圧縮簡約した第二
稿を充てることとしか最初の原文は今ここにこうして原形のまま別途発表の運びとなった。− .一. .. ’ 一
欠陥も偲らくけつ七で少民は歌いであろうが、筆者として億現状での全力を投ス七たこの作品を﹁過ぐる四半世紀
のあいだ師とtて先輩と七て同僚として身近に教導と高誼を置く七てきた竹原良文教授に?その専攻される政治学史
に最も近い行政学史の分野から献呈しうるのは、ひそかに大きな欣びとするところである。・先生の華甲を慶祝し、.一
層 の ご活躍を祈りたい。
︵−︶充六四年、呆評論社発行.奎.のもととな︻・為業董学位平文﹁ア溢力行肇史論癒、すでに型ハ犀夏
には完稿していた。ちなみに、この学位論文審査委員の一人が竹原教授であっ売。
︵2︶とく歩貌絞年半ワルド乏よ.履唱されて炉るデ錺勢、。ジ。ナ掌アプロdチ糞曝書る.催、行
政学の一 体 性の危機を克服するには、これを一つの〃学 科”としてではなく、一つの〃専門知識群〃として把握
42ゴ:〈2卯3・・二115) 261
.『二〆
略
論
し直すほかないとする。単一の理論によって統合されるディシプリンに対し、彼がプロクェッションの典型として念頭に
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
置くのは医 学であり、そこでは一定の社会的目的に指向する幾つもの理論体系とさまざまの技術が渾然一体を成してい
メディシン ゐ へ ぬ ヘ ヘ へ う へ
るという。 ︵以上参照、大森弥﹁行政学にたいするプロフェッショナル・アプローチーアメリカ行政学の一動向1﹂
︹﹃年報行政研究10・政策決定と公共性﹄一九七三年二四六頁以下︺および根岸毅﹁政治学における行政部研究の位置づ
け﹂ ︹同上二六五頁以下、とくに二八八頁以下︺。︶ なるほど、かかる意味でのプロクェッションとして行政学をとらえ
れば、一見分裂拡散の一途にある方法論的諸傾向を一つ屋根の下に包摂し、且つこれらに統一︵﹁正当化と方向づけ﹂︶
を与える目的要素として価値の視点をスムースに導入すること、一すなわち、アメリカ行政学現下の二重の基本課題
︵﹃アメリカ行政学﹄一七八頁参照︶に解決を与えることが一挙に可能となりそうに見える。しかし、そもそも肝心の響
学的〃目的”の確認がきわめて困難であることを始め、このアプローチの前途もまた必ずしも平坦ではない。かくて、一
九六八年ワルドーの呼びかけで開かれた〃ミノウブルック会議”を支配した空気、すなわち﹁規範的理論、哲学および活
動主義﹂を強く意識する﹁新しい行政学﹂への希求︵参照、上塗鼻竃錠ぎ消Φα二↓ずΦZ①≦℃呂一一。︾瓢慧三ω需9二〇昌”日冨
ラダイムー管 理 学としての行政学一一九五六∼一九七〇年﹂の同時併存へと、アメリカ行政学過去の主潮
アドミェストラチヴ。サイエンス
学−㎝九五〇∼一九七〇年﹂と逆にフォーカス︵行政における﹁熟練と専門化を要する技術﹂︶に再着目する﹁第四パ
一九四七∼一九五〇年﹂を経て、新たにローカス︵﹁政府官僚制﹂︶を重視する﹁第三パラダイム“政治学としての行政
ダイムH行政の原理一一九二七∼一九三七年しへ、そして﹁挑戦﹂一九三八∼一九四七年目および﹁挑戦の反動一
を強調した﹁第一パラダイム野政治行政二分論−一九〇〇∼一九二六年﹂から、フォーカスを関心事とした﹁第ニパラ
﹁場﹂︵行政学の占有範域︶と﹁焦 点﹂︵行政学の専門対象︶の推移を基準に時代区分する。これによれば、ローカス
ロロカス ホエア フオ カス ホワツト
﹀律巴議.↑⑩誤では、 著者ヘンリー︵ジョージア大学教授︶は、 ﹁行政学の知的展開﹂をゴレンビーフスキーに従って
なお、アメリカ行政学最新の体系的テキストブックとして出色の惣90一9。ω国Φ口受℃℃信窪。︾α§一三馨鑓江§碧伽℃=鑓一〇
か否かは定かでない。おそらくならないかも知れない﹂ ︵大森・上掲論文二六四頁︶というほかはない。
ミステリアス
唱︵〃プロフェッショナル・アプローチ”︶を支持するかにも思えるが、しかしその真の含意はなお﹁不可解﹂にとどま
っており︵一玄9︶、現状では大森と共に、﹁行政学をプロフェションとみなすアプローチがアメリカ行政学界の本流になる
寓ヨ50≦寓oo貯℃o擁づooユ<ρお刈一︶は、その﹁モーラル・トーン﹂ ︵出①冥ざぢ一撃.℃●N。。︶において上記ワルドーの提
42、(2−3 ・116) 262
ドイツ行政科学史論(手島)
流が整理された上で、 二九七〇∼?年﹂として、’ローカスとフォーカスの両問題意識の総合をめざす﹁第五パラダイム
アモルフコ
時行政学としての行政学﹂が挙げられている︵以上、一玄血こ℃b・㎝1卜。ω︶。しかし、この﹁第五パラダイム﹂なるものは、
﹁なおきわめて無定型なものでしかなく、著者の希望的観測に過ぎぬきらいを免れない。さらに注目すべきことに、彼は
﹁行政学の知的展開﹂とは別個に﹁若干の関連的諸展開﹂を論じ、そこで﹁事例研究﹂、 ﹁比較行政︵学︶﹂および﹁〃新
しい行政学”﹂の三動向を取り上げており︵量αご署●卜。ω一N。。︶、 したがって、彼のいう﹁第五パラダイム﹂は必ずしも
〃新しい行政学”と直結するものではなさそうであるし、またワルドーの〃プロフェッショナル・アプローチ”に至って
はこれに一ことの言及すらなされていない︵代りに、サイモンの評価が目立つ︶。
︵3︶わが国における従来の関連研究は、そのほとんどすべてが、マルヘットやゾンマーやツィーレンツィガーやスモール︵い
ずれも後出︶の二次文献に依拠したものであった。また、 ﹁シュタインの行政学が行政法学えの道を拓いた﹂とする斯学
泰斗の指摘︵蝋山政道﹃行政学講義序論﹄︹一九五〇年︺=二頁、二三∼五頁︶にひたすら盲従するものでもあった。これ
らに対し、ここに発表する本研究は、重要な参考文献類を精査することは無論であるが、基本的にはできる限り直接原典
に当るを旨とし、且つ行政学と行政法学の系譜的関係についても1権威にではなく!史実に即した実証的解明を志してい
る。なお、この分野でのすぐれたモノグラフィーが、寸地において第二次大戦後、デネヴィッツによって︵一九四八年︶、
さらにハンス・マイヤーによって︵一九六六年︶公けにされており︵いずれも後出︶、両書から本研究が受けた示唆と刺
激もまたけっして小さくはなかったことを、ここに附言しておきたい。
︵4︶全五巻、一九七六年中に東京大学出版会から逐次刊行の予定。
第一節 萌芽一官房学
ドイツにおける行政科学の系譜は、一七世紀領邦国家の“官房学”に遡る。もとより、現代行政科学の対象と同じ
︵1︶
内容・形態の“行政”が当時すでに存在していたわけではないし、またはずもない。しかし、“本来的および擬制的
公共事務の管理および実施”を一体、的に国家が担当するという意味での近代的行政は、まさしくそこに形成されつつ
42 (2}3 ●.117) 263
●
テリトリエン
あ是。菌家行政の成立に鳶て近代国嫁を零せエめだ強力な歴史的過程の婁・繕領導であ.鷹ジー・−︵神
聖ローマ帝国︶皇帝は、伝来の蟹族的拘束を脱却して帝国の運命を新たな進路へ退けるのに何処においても成功しな
かった。その新たな進路に、諸領事は一七世紀において歩を踏み出していたのである。 ﹁言葉の今日的意味における
行政の起源は、領主権力が土地支配と特殊裏罫への物化を跳び越えて一般的国家任務の執行に自らを客観化するとこ
うに、定点することができる。﹂この定点へと現代行政がその血統を辿りうる限りにおいて、 前者を対象とした“官
ヘ ヘ ヘ へ
房学”は現代行政科学の源流として臼己を主張することを許されよう。
42(2−73亀.118)264
官房学︵則︵9§Φ鴇二一≦一ω¢①コ乙oOずPh仲︶は、一、七、八世紀のドイツに生まれ花開いた国家︵一領邦国家︶経路の ”学”であ
る.この時代〒・・パに一般的重事墨壱ての絶対王政纂鶉業、ζで繕事ドづ的な形態を慮
ざるをえなかった。ドイツの地を縦横に軍馬の蹄にかけた三〇年戦争︵一、六一八∼四八年yの後に残った政治蘭不統一・
ヨ オ八九年においてすら、﹁︵神聖ローマ︶帝国には、︸七八九の津島が存在していた﹂!︶と経済的疲弊、︵﹁恐るべき人口の
︵4︶、
た。かくてそれは、あるいは、 ﹁君侯に最も利益となるよ51に天然資源と人的能力を管理する理論﹂として﹁行政的
ほかならず、ドイツ象亀国家のカメラリズム的経略に必要ないし有用と目されるさまざまな知識の集合体なのであっ
ならば︵﹁カメラリズムはマーカンテ.イリズムのドイツ的形態である﹂︶、官房学とはすなわちカメ・ラリズムの理論的表現に
進主義的な”福祉国家”観のイデオロギー.によつで粉飾された、このよう起ドイツ版重商主義をカメラリズムと睡ぶ
ら ニス ム ス
る究極の保障であったがーレ、 そのための彪大な経費調達の必要が、 これに拍車をかけだであろう。いわゆる彰智儂
君主内努の充実がめざされる。 三〇年戦争とともに現出した常備軍4それは領野分立の間にあって自国の主権を維持す
カンマ 民地獲得・貿易振興︶の政策や産業資本め育成に代わってもつばら内周的な経済的社会的復興沸そ滋てそれを逓じ旨ての
減少、都市の略奪、破壊﹂!︶とが、その原因にほか噸らない。すなわち、ここでは、仏英に縮け惹まうな対外発展︵植
(一
説
込
1澗
ドイツ行政科学史論(手島)
テグノ。ジ⊥と特徴づけられた筆あるいはまた・コ方では・事実的なものを単に記録して統計を行辱またば
国家経営的に、および会計ないし内緊の領域で機能することによって、現実学︵二二沼9魯≦奮曾巴ゴ、εであり、他方
では、君侯の意向の変化に先行したり追随したりできる限りでのみ提案と勧告を行いえ戸かくてその限りでのみ批判
︵7︶
的でありうることによって、時事学︵O暑。ユ§毒房三ωω窪ω。訂εであるL とも性格規定されるが、いずれにせよ、メ
ルクルが直裁に﹁それは主として科学的行政政策、あるいは少くとも、そのようなものの/1十分自覚的ではな一いに
ヘ ヘ ヘ ヘ
せよ1試みであった﹂ と断定するようには方法的・体系的な明確性・統一性を示すものではなく、 当時の科学一
ヘ へ 般、特には社会科学の未成熟な発展段階に照応して、対象に関連する広範.雑多な諸情報を集成した実用学といった
ほどの︹”学”的性格のものに過ぎなかったと・はいえよケ。事実、・ゲルロフもいうように、それは﹁今日のわれわれに
は奇異の感を起こさせる盛り沢山の知識素材﹂を﹁寄せ集め﹂ており、 ﹁実際技術的諸学、たとえば農学や林学、採
レ レ 相学や冶金学、部分的には優学すらも、その教説の領域内に引き込んでいた。﹂ ことに、その初期−一山七世紀1
にあうては、﹁後年の財政学︵当時の狭義官房学︶も経済学もなお、そこから未分化であった︵広義の官房学︶。 しかし、.
たしかに厳密にはツ擁!レンツィガi之ともに、 ﹁われわれが︵今日の︶われわれの科学の定義を基準にとゆ、・︵初
期官房学者たちの︶かの諸著をわれわれの時代の科学的労作と比較するならば、われわれは否定的結論に到達するで
鵬
あろ饅といわざるをえまいが・・そこにはすでに時代思潮として、イギリスのベーコン︵薪オルガ・ツ﹄一六二〇年︶、・
動
なかんずくフランスのデカルト,︵﹃方法叙説﹄エハ一二七年︶を先駆とする近代の経験科学的アプローチ、さらにオラシ q
つり ヒ
ダのグロチウス︵.﹃戦争と平和の法﹄一六ご五年﹀に始まる合理主義的な近世自然法論的発想の、、端緒以上のものが含ま 咋
れていたことも事実で臥魏。ここでわれわれが官房学に、その方法と体系の曖昧さ忙かかわらず、なお現代行政朴輪ω
42
の馬宿としての最小限の科学性を認めようとするのは、実にこの意味においてであり、 またこの限りにおいてであ
る。
42 (2−3 ・120) 266
ージ︶を除けば、 i第二部のタイトル︵﹁⋮⋮困①αq凶2§αq§α<⑦三二の§晦について﹂︶などにもかかわらず一1すべ
高官任用の詳細な草案﹂︶は、憲制プロパーとくに﹁邦国君侯の同権﹂に関して語る僅少の部分︵笙蔀一∼四章の三二ペ
第三部︵﹁邦国領主固有の財産と収入、特権と収益権について﹂︶および第四部に代わる付録︵﹁ドイツの侯国における若干の
ージにとどまり、質量ともに圧倒的な残る第二部︵﹁宗教的および世俗的立場における邦国・侯国の統治と憲制について﹂︶、
中、 ﹁邦国・侯国一般の、およびその可視的・外形的性状に従っての、記述について﹂論ずる第一部はわずか二二ペ
LI・もちろん、一七世紀半ばにおけるドイツ領邦国家の行政︵11“警察”︶1にあった。現に、本文七六八ページ
︵勺。一圃8団︶の委細﹂を等閑に付してきたことへのアンチテーゼとして、﹁先鞭をつけること︵9ω田器§耳89p︶を、
︵16︶・
ことに上述の勅命に応えて、敢行し﹂ようとした、と本書の序言は述べる。すなわち、ここでの関心事は、すぐれて行政
ポリツアイ
従来の﹁学識ある人びとのすぐれた著作﹂が﹁︵神聖︶ローマ帝国の全 憲 制 ﹂のたぐいを専らとし、 ﹁警察
フエアフアツスンク
る﹁鑑定書﹂の性格をもつ点、まさしく官房学、なかんずく初期官房学の典型たるにふさわしい作品といえよう。
ゲートアハテン ︵15︶
内妻長官の要職にあった︵七年後には宰 相に穿る︶。かの書は、この主君の命によって、ザクセン藤壷侯国をモデルと
するドイツ領邦国家の治政を論じたものである。君侯に感化力ある有力政治家︵前者の﹁補母人.助言者﹂︶の手に成
カンツラー ︵13︶
ータ擁アルテンブルク大公エルンスト一世敬慶公の宮廷に一六四六年以降仕官し、本書執筆の年には枢密顧問官・
デァ フロンメ
まれ、シュトラスブルクの大学に法学・哲学・歴史を学んだゼッケソドルフは、幼時から寵愛を受けたザクセンUゴ
○年戦争を終結せしめたウェストファリアの和議後、日なお浅い一六五六年に上梓されている。帝国騎士を父に生
ライヒスリッタ たのは、ゼッケンドルフ︵<①一叶 目し鎧創≦一σq ︿Oづ ω①O評¢冨創O﹃hh℃ 一①卜σ①一一①のN︶である。彼の主著﹃ドイツ君侯国家論﹄は、三
さて、初期官房学すなわち上述の広義官房学のフレームの中で、・初めて行政学の祖型として見るべきものを鋳出し
︵12︶
論説
ドイツ行政科学史論(手島)
てこれ︽行政L︵<窪ミ鑓ε昌αq︶について.の考察に尽きている。 ﹁宗教的および世俗的事項に関する共同の利益と福祉の
︵17︶ ︵18︶
霊示ど守護﹂を﹁邦国君侯の統治の目的﹂と手配の著者は・その主眼たる世俗的統治事務につき﹁四つの主要点﹂
として、鱗洋弓が﹁その地ぽユ︵タント国家︶と本質およびそれに付随するものを維持すること﹂、 ﹁法律および規則を制
定すること﹂、 ﹁司法を執行すること﹂ ならびに ﹁上述三点の現実的処理のための諸手段を保持し正しく使用する
こと﹂を慰女なかんずく第二の主要点﹁差・き法律と規則の制定﹂に関して、ω﹁正義﹂、②﹁平和﹂および③戻
育︵︾口hh昌①ずヨ①昌︶、すなわち、.邦国と人民の福祉﹂または﹁人民とその財産・商売往来の育成および増加﹂の三﹁主
目的﹂を墓葡・.これら三者は・一括して﹁響舞有益羅持﹂と言い換えられてい鉾うに、当代の蒙活動原理
レヒト
を理論的に整理し分類しょうとしたものにほかならない。すなわち、伝統的な治安警察︵H﹁正義﹂と﹁平和﹂の維持。
︵23︶ ︵烈︶
警
察
”
の内容として時代適合的方向で把握され認識されている。
摂
さ
れ
る
︶
に
加 察
が
、
”
司 法 も包
え て 、 広 範 な 経 済警
しかし、本書の叙述はさらに進んで、教会警察・教育警察︵11﹁宗教的統治事務﹂﹀から内緊警察にまで及ぶ。ここま
︵25︶ カメラル ︵26︶
で広がると、これらすべてを正義、平和および福祉の三原理で説明することは不可能であり、ゼッケンドルフ学説体
︵留︶
系の不完全さが批判されることとなる。憲制ではなく行政一警察を記述しようとした著者当初の意図は、.”.﹁およそ
憲制をもたず、行政のみをもって﹂おり、 ﹁その特有の憲制は行政﹂であり、 ﹁なかんずく帝国がもはや遂行しえぬ
諸行政責務の遂行から、その歴史的正統性を得て﹂いた当時の鐘楼国家” ︵ハンス.マイヤー﹀にあっては、このよう
に警察概念が結局は一般政治の観念にまで拡散せざるをえないことによって、体系化の点では挫折のはかなかったと
いえよ翰鳴しかし、不成功に終ったとはいえ理論的体系化への志向と努力、そしてその間﹁印象深く、かつ博識に﹂
展開されたカメラリズム的国家行政の即物的な認識と描写、これらはこの書をして行政学の濫膓たらしめるに十分と
︵29︶
いわねばならない。
42 (2−3 ●121) 267
〆
髪 釜
42(2−3・122).、268
ゼッゲソドルフの官房学に近代科学の萌芽が認められるのは、方法論的には、中世的な神学的目的論からの離脱に
ある。いかにも、かの書開巻壁頭の献辞第一句︵﹁諸王国、諸侯国、そして諸邦国が妾、れによって至福に統治せられるところ
︵30︶
の英知は、その起源からして神的なものであり、−⋮﹂︶にも明らかなとおり、彼の筆致は依然として深い宗教色を帯びて
おり、また、三〇年前すでに世に出ていたグロチウス﹃戦争と平和の法﹄ ︵﹁たとえ神が存在しなくとも、自然法を考荒る
、ことができる﹂!︶への言及をも全く欠いている。しかし、敬慶主義への傾斜を強め前代のルター的等族理論へ後退し
︵正3︶ ピエツイスムス
たとも評される彼晩年のいま一つの代表作﹃キリスト教国家論﹄︵一六八五年︶においてすら、聖俗の問題を峻別すべ
︵23︶ ︵33︶
︵34︶ オプリヒカイト テオクラシー
きことは自明とされており、世俗的権 力すなわち国家、したがってまた行政が、脱神政主義的にi神意にではな
ゲゼリヒカイト ナツーア
く一それ自体の根拠に向けて考察されようとしていることは疑いない。、もっとも、自然法と神法を究極において等
淋し人間の社会性の本性をも﹁神的秩序に由来﹂するものと説いているという彼の一論交を重視するマルペットは、
この故に彼を﹁神政主義的国家観﹂ の最後の主唱者と呼ぶが、しかし﹁そのマルヘットにしても、ゼッケンドルフが
︵5β辱冒︶
﹁単に信仰山であるのみでなく、また政治家﹂として、 ﹁あらゆる信心深さにもかかわちず、自由な精神の持ち主で
あり、この自由な精神は、彼の信仰心によって国家とその本質を理解することを妨げられなかった﹂こと、かくて彼
レ レ
が﹁中世に対して戦を挑み﹂、﹁ドイツにおいて行政とその理論を積極的に基礎づけた、かの人びとの頂点に立つ﹂に
︵36︶ ︵37︶
この〃行政”概念については、−参照、手島﹃現代行政国家論﹄ ︵一九六九年︶第一章。
至ったことを承認するには吝かでないのである。かくて、 ﹁ゼッケンドルフの合理的行政観念﹂について語ら、れるの
が正しい。
︵−︶
︵2︶ 国包。α什閃。議導。塗冨ぼげ償。びα①ω︿興≦巴8⇒σq。α86江ω’じd鳥・H︵≧一σqΦヨ㊦ぎ興↓①ε噸Φ●﹀ξドお①90Q・
べ3︶ ゴーロ・マン﹃近代ドイツ男工﹄ ︵上原和夫訳∴九七三年︶七頁。 ﹁このうち、いくつかは、確かに、
響
説
払
百開
除ぎ九八四ページ︶がナベて第ご管、﹁存留法﹂に充てられる。注目すべきは第二篇であり、、全篇、 ﹁国家行政に関する
ブ般的諸厘則﹂・ ﹁ヴュルテンベルク国家行政の組織﹂および﹁偶々既研ル砺部門の行政﹂の三章で構成されるが、
うち今日の”総論”的部分を含む第一章︵ほとんど国家学的な内容︶と第二章︵ここでは、とにかく、地方自治法、行政手続
法・官庁法・官吏法どいった行政油理謝が取り上げられている︶.はそれぞれ僅か二〇ページ余と二四〇ページの分量に過ぎ
レヒツロ
ず、大部分を占める 〃各論” ともいうべき第三章は、第一都﹁司法の行政﹂、,第二部﹁警察㊨行政﹂︵第一節﹁法
レ﹂・第二節礁ル畷。﹄割ッ劇﹂一1 ﹁国民の身体的人格に対する国家の配慮﹂・ 皿﹁国民の精神的人格に対する国家の配
慮﹂∼,,皿﹁困民の経済的諸関係に対する配慮﹂一策三節﹁軍務﹂、第四節﹁外務旨 第五節﹁財務行政﹂︶というその体系、し
かもなかんずく第二部第二節のみに半分近いページ数が割かれていることに明ちかなように、なお残る伝統的な警察
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
まざまざと見せている。かくて、 ﹁モールの行政法はなお近代的な体系ではなかった。.:⋮宅﹂ルの行政法ばなお、、
雑多な行政法的規定から行政法の↓艇思量観念を開発し、一般的な行政法的諸概念を定式化し、いわんや行政法の一、
般理論︹総論︺の体系を書くまでに、突き進みえなかった。L、﹁しかし﹂、 と行政法学説史家デネヴィッツはいう、、
へ
﹁モールは行政法を書いたし、しかも最初の人として書いた。このことは、彼が、ヴュルテンベルクの行政活動が立
脚していた基晦から出発しえたが故である。そして彼はまた、そのさいヴュルテソベルクの自由主義的悉法精練に完
全に鼓吹されて、宅の法的基礎を愛情と共感と想像力をもって評価することを忘れなかった。﹂ この研究家が、エ㌃
プアンタジ ゾッヒ・カウフマンの言を借りて、 ﹁故にモールの仕事はまことに正当に、 ﹃行政法の最初の重要な叙述﹄とみなざ
れることができる﹂と結論してい麺のは・アォルスよフが﹁モ1ルは本質的に・法的観白み下におけるヴュルテゾ
ベ﹁ルグ行政の記述を提示し、その点でもちろん、一八世紀の官房学者・警察学者たちにはるか後塵を拝せしめる﹂と
42 (2−3、●139) 285
四々
謙影舞塗1それはもちろん・卸量象たる叢露梅暮露近道乗念ども相関的である薦﹁を
ドイツ行政科学史論(手島)
42 (2−3 ・140) 286
︵41︶
見るのとともに、肯繁に中る観察といわねばならない。
ということに存する﹂とその国家理念を認う場合、それは。バイエルンのベールや後のオーストリアにおけるシュタイ
︵45︶
なく、後者に対して単に義務を負うのみではなくて、国民にもまた不可侵の権利が帰属し、彼もまた自己目的である、
たであろう。すなわち、彼が﹁法治国家の本質⋮⋮は、まさに、国民が単に国家元首の目的のための手段たるだけで
︵44︶
国に抜きん出て進歩的であった南独ヴュルテソベルク王国の憲法状況・行政事情に大きく負うも、のにほかならなかっ
えたのは、当時、その一八一九年憲法は﹁立憲的・等族的・自由主義的﹂と特質づけられるとはいえ、他のドイツ諸
ヘ ヘ へ
全体としては革命的・自由主義的時代精神退潮の秋に、モールがよく行政科学への法治国家的インパクトを先取りし
連づけられ、その中に行政は強固な地歩を得た。この、国家作用の法体系的編成は、最初にロベルト・フォン・モー
︵43︶
ルのヴュルテンベルク王国国法論において果たされているのが見出される。﹂ちなみに、一八三〇年前後というドイツ
提は、行政に対内的にも︵〃権力分立〃の原則︶対外的にも︵〃法律適合的行政〃の原則11個人権による限界づけ︶確固たる
︵繊︶
法的制限を設定する市民的法治国家をまって、初めて与えられるのである。そこにおいて﹁国家作用は法体系的に関
まる後者の意味での法の出現は、行政法学の胎動を大きく促すこととなった。しかし、行政法学の誕生に決定的な前
内部での”権限”画定のそれでもありうるのであり、一八○八年のプロイセンにおける行政と司法の明確な区画に始
権力の枠づけとしての法︵実定法︶は、必ずしも国家対国民の関係で対外的効力を発生するものに限らず、国家機構
察の対象となりえたのである。すなわち、そこには行政学のみがあった。i“はじめに行政学ありき!”ところで、
たからである。かくて行政現象は、それらを関連づける事実的状況、目的の共通、組織の同.一の視点からのみ学的考
ところでは、国家活動を一般的・抽象的に予め限界づける意味での法i少くとも実定法1は存在するに由なかっ
警察国家全盛の時代には、i実定法学としての1行政法学は成立しえなかった。無制約の君主意思の支配する
論説
ドイツ行政科学史論(手島)
ンのように単なる観念の所産ではなく、 ﹁実証主義者﹂として実に彼の祖国の一すでにそこではかなりの程度現実
のもσとなっていたi憲法的位相を見髪てのことだったのであ華
こうしてぞールは、国法学の系譜にも連らなりつつ、一八世紀的行政学としての警察学が行政法学へと展開する分
岐点に立ったが、同時に、伝統を誇る警察学のなお大きな残響は、その同じ彼に荘重な﹁フィナーレ﹂の奏者を見出
している。もとよりこれは、すでに触れたように、前者の単純な再生版ではありえず、 ﹃法治国家の諸原則に基づく
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
警察学﹄︵傍点手島︶ ではあった。この書をモールは、 はじめ一八三二年に﹁導入部﹂、 ﹁第一部−実体的諸原則﹂
および﹁第二部−形式的諸原則﹂を含む二巻もの︵本文約一二〇〇ページ︶として響けにしたが、 二年後に著した﹃予
︵74︶
防的司法あるいは法警察の体系﹄ ︵本文約五六〇ぺ.iジ︶を加えて、 一八四四/四五年には三巻構成で再版している。
︵49︶ ︵50︶
前著﹃国法論﹄の﹁政治︵学︶的コンメンタール﹂ともいわれ輪か書で、彼は ﹃国法論﹄ における実定法主義を離
れ、国家学的手法で﹁警察の本質﹂1それを彼は﹁警察法︵学︶﹂ではとらええぬとする一の究明に努めた。し
かし、第一版序文に、国民経済政策生みの親でもある﹁最後の官房学者﹂ラウ︵一︵9﹃一 一画①一昌﹃一〇ゴ 幻9⊆噛 H刈㊤N−H◎◎刈O︶を称
粒メラリスト , ︵51︶
えて、経済政策の分野でラウが﹁巨匠的に﹂達成したように警察学の全領域を処理することがもしラウのプランにあ
ったならば﹁本労作は余計なことどして取りやめられていたであろう﹂と書かれてい碗ごと、文献解題に伝統的警察
お 学の多くの書目が挙げられていること︵そこにはベルクの﹃警察法﹄も﹁全般的警察学﹂の文献として並んでいる!︶は、以
下この大冊の内容が﹁法的問題に、より強くアクセントを置き、個人権に対する警察の限界に注意を払っているにも
︵酔︶
かかわらず、全体としてはなお先達たちの方法的路線の上を歩む﹂ ものであることを予示して、 すでに十分であろ
︵55︶
う。事実、ここでの彼の警察概念は、 コ八世紀流に﹂ ﹁広い、ほとんど国内行政全体を包括する外延拡大﹂を受け
ている。ただし、それはまさに﹁法治国家﹂の1実質的﹂観念からの帰結として概念構成されてはいる︵すなわち、
︵5 6 ︶
’
42 (2−3 ・141) 287
﹁法治国家の目的﹂を﹁市民の諸力の全面的展開を繋げる諸障害を除去すること﹂と理解し、その﹁障害﹂に.﹁他の
42 (2−3 ・ 142) 288
︵11︶参照、蚕凝58.幽皇こω6恥。α9
O一什こω.・舘ω.による。
︵10︶野お”国ゆ巳夢魯臼ω↓蟹玉。ザ窪℃o一目8饗8簿ω噸霊・H博ω●お︷・f≦o一N⑦壼。門︷持。や●簿こρ①Φw竃巴①さ。ワ
︵9︶≦9蛍ぎ①貫8●9ρ℃ω●8●
︵8︶寓鉱①さ。℃●o⋮什:ω.卜。uOに引用された男く畠口6℃Φ一の言︵一九五七年頃。
︵7︶ベルクの履歴につき、参照、U①づ口。鼠紙oP9叶ごω・b。¶︾嵩ヨ・α9竃鉱興・o℃・o謬・・ω・b。窃O・
︵6︶ゴーロ・マン払削掲壼里工ハW貝から引照⋮。
家時代﹂で取り扱わざるをえなくなっている。i一げδ二Qα●b。刈h・
︵5︶ ﹁国民国家的・公民的時代﹂を一八〇六年︵または一八一五年︶からとするデネヴィッツは、必然的にベルクを﹁警察国
︵4︶U¢導①ヨ什N.8●怠け二〇。●8h.
o搾yω●き隔.
︵3︶たとえば、≦鮭審﹃二巴骨Φぎく興≦帥一叶§σq鵯8算鴇ω.﹀自誉おω一℃§︿興9−巳・宕①鼠言忌お①ρω・﹁。。心舞⋮閏。房90斥。℃.’
性の憲法規則の国家である。﹂
ための基本規則・競技規則を制定しようとするところの、国家政治的・政党政治的諸行為の展開の枠たるべき所与かつ硬
憲政国家とは、 17︼れに対して成文憲法の国家であり、そこでは憲法規範が国家権力の行使を限界づけ制限する目的でその
ヘ へ
く、むしろ執行府が憲法なしに、あるいは国家制度的な組織法・基本法の存在のもとで憲政権力を行使する国家である。
︵2︶参照、UΦ峯①琶貫○戸。搾’ωのω・。9﹁行政国家とは、﹂そこでは第一義的に憲法的規定が国家権力を限界づける規範でな
ヘ へ
︵1︶ゴーロ・マン泌削掲童景二七頁。
を﹁警察﹂・としている︶が一 。
人間からの敵対的働きかけ﹂と﹁外的事態の強大﹂を区別して、前者に対処するのを﹁司法﹂、 後者に立ち向かうの
論
説
ドイツ行政科学史論(手島)
︿12︶≦o一N臥8鳳h”8●o一二二ω’①㎝h・は、第四章﹁警察国家の終焉﹂の第一節を﹁理論は警察国家の理念を見捨てる﹂と題し、
﹁ド柔ツにおいて初めて﹂ ﹁幸福促進主義的警察国家の諸原則と一致しない諸原則﹂を立てた﹁ケーニヒスベルクの哲学
、者﹂の学説を﹁その墨壷もなく﹂・﹁法命題として告知﹂した﹁最も著名な警察著述家の一人﹂として、ベルクの名と所説
を特筆している。
︵13︶bd財oq鳩oO●o篤﹁Hりぐ。霞。αρーレ竃巴①き。唱●9け●.ω●卜。認から引用。,
︵14︶舅。屋島oh抄8・o凶什:の・心O・
︵15︶参照、竃臥①ざ。℃●o一叶二Qりe卜。蟄h.・ω●N自柚㌧
︵16︶い亀α9矯8.出物二H顯ψ一9i≦O冒①づαoほ抄8.〇一け二ω・①㎝∵]≦巴①さOも.2fω・卜。心ωによる。
︵17︶参照、Uo嘗⑦惹貫。㍗9什二ω・卜。G。・、
︵18︶≦o一N魯自。ほ抄。唱・ 〇 一 け 二 q の ・ ⑦ ① ・
︵91︶参照、U⑦鼠①惹酔N℃o喝●〇一什二ω●N。。●.
︵20︶参照、、蜜包①50唱・9け・.ω.N詔●
︵21︶言巴①5曾’9樽こω・・漣㊤●
︵22︶参照、竃銭。冨戸8・.,9辞こω・戯Qhh・
︵23︶ ﹁公共の静穏・安全・秩序の維持のため、および公衆みるいはその個々の成員に差し迫った危険の予防のため必要な措置
アムト
を講ずるのが、警察の職務である。﹂・この規定については、菊。ωぢ︵一八九五年置のようにそれを単に﹁警察執行﹂にの
み関わるどする主張もあるが︵参照、≦o一N①巳。ほ戸8。。搾℃ω●刈O剛︷・︶ギ ヴォルツェンドルァは﹁警察権力全体﹂にか
かると解釈し︵頃げ一団二ω・QoO︶、 ﹁警察は今では、もはや全範囲にわたっての国家目的の達成に仕えるものではなく、、その
領域は法律によって制限されている。これによって警察国家は終焉した﹂とまで論断している︵溜り一山二ωσ◎Q一︶。近年ハ・ン
ズ・マ千ヤーは、﹀ぴ障当該条項のこのよケ底﹁過大評価﹂を戒め、それによって警察の積極目的まで否定されたわけで
はな.いこどを論証するが︵竃蝕臼.oや●o一走・・ω.N禽h.︶、,その彼にしても、・﹁それでもやはり、﹀ピ閃にはすでに︵警察
概念内部における安全︵法︶と福祉といケ今やまずます支配的にきわ立ってぐる対立の最初の徴候が見出される﹂ことは
認める︵帥.ぴ一匙二〇◎転b◎心α・︶。 いずれにせよ、︾ド国公布後もプにイセンの法令9判例・学説は、..︸八八二年の〃クロイツベ
42〈2−3 ポ143).289
になる。1﹁︹警察目的を︺危険防止に局限した﹀ピ菊密O目ミの自由主義悪法命題は、永くは維持されなかった。﹂
家的慣行への逆戻り﹂ならざる当然のことであるが、ヴォ、ルツェンドルフ流H通説の理解からすれば後退を意味すること
︵24︶竃巴①さ。℃・o一什こω・至心・ ちなみに、子陣窪ごω・b。心。。捗は、この二九世紀前半における警察学の遅れ咲き﹂の理由を説
明して、﹁福祉目的を消去し、警察を単なる危険防止に限定すること﹂は﹁国家による積極的助成を頼りにせず、あるいは
この助成をともあれなしで済ましうると信じた社会においてのみ、意味と寿命をもちえた﹂のであり、 ﹁したがって、こ
の市民社会が社会問題の爆破効果によって脅威にさらされるのは、三月革命前時代の縮小警察にとっての最初の重大なテ
ストを意味した。すなわち、本質的にこの脅威の圧力の下で、警察学はこの時期にもう一度みのり多い学術的取扱いを受
けた﹂としている。i﹁しかし、福祉警察的思考のこの一時的ルネサンスが警察学の終焉を引きのばすのみで阻止する
ことはできなかったということは、 ﹃自由主義的社会モデル﹄ ︵ヴィーアッカー︶の背後にある歴史的運動エネルギーの
強力さを証明する。﹂
︵31︶嗣ず己二ω●瞳●
︵30︶嵜己二ω●卜。①●
︵29︶参照、O①暮。註貫8・9fω・b。腿.Qq.卜。㎝.
U2g≦詳N噂。娼・o卿fω・卜。駆Fω・塾。窃﹀昌ヨ●ホ・
︵28︶冨凶ω漕冨寓暮合び山$房葺ω9魯ω3讐ω富。算ρ一。。Oω・ Oα§Φさ↓三身。ずΦのω欝飴ヨ器。茸・一。。潔・彼らの伝記は、参照、
辞︶のは、ゼッケンドルフやユスティの著書における君主へのデディケーションに比べ、今や新時代との感を深くする。
の初版本︵]り薗び一5αqΦ5℃び①凶 ¢O凶5﹃一〇7 騨‘り℃︶によった。なお、本書が著者の父にささげられている︵第一巻序文前の献
へ
︵27︶竃〇三.∪。ρωω冨躰ω富。算◎Φω〆曾戯噌巴。滞ω≦晋菖Φヨげ興αq噛H.↓げ①ニド。。N∼笹↓げ。二一。。ωけ以下、九州大学法学部所蔵
︵26︶モールの履歴については、参照、UΦ謬旨①≦淳斜8●巳仲こω.蒔刈捗︾声門・。。。。●
<o﹃≦o簿Pb。・︾自一.ω・×h・、
︵25︶参照、 寓〇三・Uδ℃o鵠N⑦や≦一ωω⑦昌ωo冨津昌8ゴα象O﹁§鳥ω9、訂⑦旨旨①ω開8霞ωωS碧$.H●bロ亀ご一。。ω僧 P︾仁P一。。心蒔’
42 (2−3 ・144) 290
ルク判決”に至るまで国家の福祉警察的権能を承認し続けた︵この現象は、 冨凶。び。79仲二ω●・。濫によれば﹁警察国
説
︵寓きωト≦o霞.<興≦巴ε口笹興g窪日℃卜。●︾⊆P一⑩①8ω◎蒔︶︶。
払
商工
ドイヅ行政科学史論(手島)
︵‘
℃O
@げびω矯ωけ①ヨαO円四道oqO≦碧α件O昌 9一一αqΩβ①凶昌O昌ω梓9帥什ω一〇ず円ρ OαO鴨αO吋ω酔野司什ω評
5一
ω一
梓葺冒︶鴇 ω田峯Φニ ド◎◎同O● 目・
︵32︶ベールの生涯と業績につき、参照、筐鳥こω●・念・h。﹀昌B●隷. −
︵33︶
﹀玄・“ω訂9ω︿魯≦巴25αqω一。訂①・この書を、モールは﹁代議制君主国家の政治︵学︶﹂に関する重要文献として挙げてい
る。 寓O﹃50℃●9什ごH.ω・HOH.
照
⑦
乱
.
・
二
窃●
参
、 U
暮 。
け N
8 ●
9 酔
ω心●
同び一αこω●卜σ幽りω●軽卜oh二 ω●軒心.
一び一自二ω・膳α・
一ぴ一亀●.ω.腿卜◎●
蒔●
bo・
O犀二ω●α卜◎旧聞O﹃ωけずOh抄 O℃●O淳二ω
ン臼Oゴ一.〇七.O凶梓: H℃ω謹
・ ●なお参照、ま置二国’ω●ωh・
参照、U①暮⑦惹貫8・
以上、UΦ弓⑦毒詳N.8●.O凶けこ ω● αb◎・
︷●
団O﹃ωけずOhh.¢︾・ 9 け 二 ω
畠・h●
以上参照、量α二ω.お
一 げ一
ごω・自●
q 照
、
U
昌 ① ≦ 律
bO
●洋二 ωω. 心¶1心㊤●
①
昌
ダ
O
参
寓 。 巳
O
層 .
ω
・ 噛
● 6 陣 什・
師 刈 O h● ,
∪ δ ℃O一一N⑦7ぐ雪一ωω⑦臥ω6ゴ9hけ 目9ゆOゴ ユ⑦昌 O円⊆5血ω置け
山N
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42 (を一3 ・..145)
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︵↓口げぎσq①P<鶏冨oq畠臼出・冨ξO.gゲ。自切⊆o暮碧巳⊆口oq︶を
蜜〇三矯 ωく仲OヨαΦ脱勺噌邸くO冨ユ︿・一⊆ω江NOα①﹃国①◎びけω・℃O一一N①ド譜
◎oQQ蔭.N●L♪“h一・ド。◎ら㎝ ︵]閏・剴傷● 血・ 、儀勺O一冒⑦一・ぐ﹃δω①5ωOび曽津
POωα・幻ω、.︶●九州大学法学部研究室所蔵第二版
5潜Oげ
利用。
︵48︶U①昌昌O≦算N.O℃・O一け・︾ω●心刈﹀昌ヨ・o◎oo●
。●
>9眺一●ω●︿一一h●
︵49︶参照、竃。ずド8’o一仲二H℃・<o﹃≦o暮一α
’
((・((((((((((((
47 46 45 44 34 42 41 40 39 38 37 36 35 34
論説
︵50︶参照、一病山ごH喝、ω.背戸﹀めヨ・メモールによれば、.警察の﹁法的側面﹂ ︵“﹁権利義務﹂関係︶ーーそこには﹁警察
・の本質﹂は存しないのだが一を取り扱う﹁警察法﹂に対し、 ﹁警察学﹂は﹁強大な外的障害に対抗する国家の個々的弓
助施設の仕組と範囲に関する諸原則の、体系的に整序された叙述﹂である︵=り一山: H.ω。一α︶。
︵51︶参照、嵐巴①メ07σ搾.ωω●b。。。刈一・。。。P
︵52︶嵐〇三矯8・9∼H囎ω軟5・
︵53︶浮一飾こH・ωω・①一−① 。 。 噸 ω ● ① b 。 h .
︵54︶男。議爵。囲抽、8.9叶二Qっ●、お.
に、新興めドイツ市民社会に早くも出現しつつあった”社会問題” ︵﹁ネズミに二通りの種類がある/ひもじいネズミと満
主流を望んでいたが、後向きの顔もまた、 けっして単に二〇〇年の歴史に幕を引くだけのものではなかった。・同時
の頭に警察学と行政法学の撃つの面を具えていた。うち前向きの顔は、来るべき市民的法治属下における行政科学の
警察国家と法治国家のしきいに立つモールの行政理論は、双面神の頭であった。それは、すでに見たように、↓つ
、、、 ヤヌス ︵−︶
第四節 行政学の高揚
︵56︶筈9一矯8.6一叶:捨Qりω・⑩一同一.
ω●一×℃Gり●お暁●︾雷ヨ.9 。
.論じた別著を﹃警察学﹄に第三巻として編入することにより、その立場を曖昧にしている。 参照、ζ〇三.oPo一什ご日、
、務﹂ ﹁外務﹂ ﹁財務行政しと並んで警察行政の第一部門を構成している︶、 しかし後に﹃予防的司法あるいは法警察﹄を
あるいは法警察﹄として警察から取り除いたが︵﹃行政法﹄では、本文既述の如く、未だ﹁法警察﹂は﹁補助警察﹂ ﹁軍
論理必然的に、ゾンネンフェルス以来いわゆる保安警察︵ベルクこの方、むしろ今日いうところの警察︶を﹃予防的司法
︵55︶参照、冨巴罷り8.9一こω・N謡︷.’ωω・N罐;ミ一●なお、 ﹃警察学﹄においてモールは、その警察観念︵次註参照︶から
42.(2ら3 。146) 292
腹レだのピぐ⋮﹂ーハイ蕊を前に、その理論的把握へ向かって伝来の〃福祉”観念を止揚しようとする爾後の展
開べの再出発点でもあったのである。 新時代における行政の使命1すなわち、 対市民社会の関係での国家の役割
かかわったしv,−以後を流亡の数年﹂填都での静穏な後半生︵一八五五年より三〇年間ウィーン大学教授︶を一貫して情熱
ルの講壇を逐われた.一八五二年までは故郷ゾ嵩レ先ヴィピ●ホルシユダィン匹恕デソでーグ独立置動を題して爵蜘に
びやかな帝政が、他人のつぐりあげた繁栄の流れのうえに、たゆとうた。﹂祖国のこの運命に、シュタインは、キー
︸・︵6︶
で、ついでヴィルヘルム一,一世のもとでは、いっそう急ガーブになった。スープに浮かぶ脂肪の玉のように、一見ぎら
影だがそめ後、ずっと前から上昇していた曲線は、みるみるうちに急カーブを描きはじめた。まずビスマルクのもと
らにそれ以上だ.ヶた。だが、一八七〇年にたっても、ドイツの工業がフランスを凌駕していたとはいえなかった。⋮
に嵐のよヶな経済発展・社会変動が引き続く。ドー﹁ドイツの工業::レ・は、四〇年代に一躍進したが、五〇年代はさ
年︶に姶まη一八七一年のドイツ統一︵ドイツ帝国の成立︶に極まる市民的法治国家の第一幕を経験した。 政治的動乱
次いでまたも訪れだ反動ど復古の季節︵一八四九一一八六二年︶、そしでプロイセンの”窟法紛争” ︵一八六ニー一八六六
/家のなかは・また静かになった。/大きな子供のゲルマニアは/またクリスマス・トザーを喜んでいる・/⋮⋮⋮︶tハイ掩㍗
一八四八年の高揚︵三月革命、フランクフルト国民議会、プロイセン憲法の欽定!︶、その挫折と幻滅︵﹁力強い風は収まった。
シュ条ン︵い。§N§ω葺一.・〒憲いの著作活動は天四〇年から天喜○年にまたがる・この間ドイツは・
察学よ軌シュタイン行政学への発展の道が開ける。 凋
渇ピ総見を・.わ計れはその一〇年後すでに季ルのもとにも見出すことができるであろ総ここから・モール警
発見によつ℃初めて展開可能どなると考えられる. ヘーゲル︵﹃法哲学綱要﹄一八一=年、第三部第二章︶が先鞭をつけ
﹁の正確な認識をめざすこのような方向は、.尊家とは区別される自己法則的領域としての,社会” ︵市民社会︶の
ドイツ行政科学史論(手島)
42 (2門3 ●、147) 293
4
42 (2−3 ● 148) 294
︵7︶
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
的な排他的関心を持ち続けた。彼の行政学は、まさに、このような一九世紀半ばから後半にかけてのドイツにおける
かの諸現象は、諸民族の全実存、いや各個人の全実存すらも貫通する一つの力に基づいており、内的な必然的関連に
った一連の諸現象を観察することを始めた。⋮⋮近時、巨大なもろもろの出来事を通して明らかとなったことだが、
は要するに”社会”の発見にほかならない。 ﹁われわれの現代は、以前には日常生活ででも学問ででも場を持たなか
は壮大な基礎理論から出発する。 ﹁ただし、このヨリ深い基礎づけは、 わずかの簡単な命題に還元することができ
︵12︶
る。﹂ これら諸命題を、シュタインはすでに一八五〇年の名著.﹃フランス社会運動史﹄の中で定式化している。それ
多くのものを前提せねばならぬものはなかろう。﹂ ﹃綱要﹄﹂冒頭部で彼自らこう述べるように、シュタインの行政学
︵11︶ ハントブーフ
﹁恐らく科学的作業で行政の科学ほど、形式的にはその境界の外にある自らのヨリ深い基礎づけのために、かくも
生活に沈潜する経済的・時間的条件が与えられ充たされたこと、に尽きると見るべきであろう。
ば、それは、ドイツへの強烈な実践的関心を学問的に客観化するに必要な距離を置くことが可能となったこと、学究
んだ﹂︶、しかし上述したところがらも明らかなようにこの観察は正しくなく、もしウィrン滞在が彼に益したとすれ
︵10︶
る、との見方も出てくるが︵たしかに、当時﹁フランクフルト出身の作家ベルネは、 オーストリアを“ヨーロッパの中国”と呼
たのは﹁ドイツにおける状況には関知せず影響されずに、 全く別の状況の下でウィーンにあって書いた﹂ からであ
に、彼が﹁一八六二年と一八七一年の問の革命的時期﹂に﹁唯一人﹂時流に背を向け行政法ならぬ行政学に専心しえ
八六五/六八年︶と﹃行政学綱要﹄三巻︵一八七〇年・第三版一八八八瑠いは・彼のウィーン時代の所産であり・その故
諸領域︵社会学、経済学、財政学︶にも不滅の足跡を印したこの碩学の、行政学の分野での主著i﹃行政学﹄七巻︵一
識とヘーゲル哲学の方法とに導かれつつ、深められ体系化されたところに生まれた、といっていい。国家科学の他の
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
国家と社会の現実への体験的洞察が、若き日このかた彼独自の学問的原点を形作ってきたフランス社会思想の問題意
論説
立っている。⋮⋮人間生活の認識は、かの諸現象に新たな領域を見出し、それを古き名称をもって名づけた。これぞ
、 、 ︵13︶
社会︵o。ω。房。冨εであり、その概念、その諸要素およびその諸運動である。L 彼によれば、 人間の生存に必然的
な﹁数多の中でもろもろの個人が互いめために存在すること﹂すなわち人間﹁共同態﹂︵O①§。ぎ曾冨3は、あらゆる
⋮、・ , ・ ﹂ ︵14︶
レ ペン
﹁生﹂同様、その両つの﹁生の要素﹂として﹁人格的﹂11﹁自己規定的﹂要素と﹁非人格的﹂一﹁自然的﹂要素を具
︵15︶ . タート , ︵16︶
有する。前者は、 ﹁その人格性における意思および行為として現われる共同態﹂すなわち﹁国家トであり、後者が、
﹁財貨の分配によって条件づけられ、労働の有機組織によって規律され、 欲求の体系によって動かされ、そしで家
アルバイト .オルガニスムス
コ マロス マロス
展の程度が国家そのものの発展の程度である﹂というのが国家に関する﹁きわめて重要な命題﹂であり、したがって
、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵18︶
﹁最も完全な自由、最も完全な人格発展へと全個人を高めること﹂こそ﹁国家の原理﹂であるのに対して、 ﹁所有の
インテレセ
分配によって与えられる従属関係﹂を具体的形態とし﹁利益﹂︵﹁社会は、個人にその人格的完成の手段すなわち他人の従属
を獲得させるのに役立つ、という意識﹂︶を動因とする﹁社会の原理﹂は、﹁他の諸個人の下へ諸個人を服従させること、
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
︵19︶ ︵20︶
他人の従属によって個人を完成させること﹂にある。かくて、国家と社会は﹁真向から矛盾﹂する。国家がその原理
に基づいて﹁国家の完全な調和的理念﹂を展開することは、きわめて干れに.しかうまくゆかない。一﹁それが前進
すべきところで、何ものがそれを引き留めるのか?﹂まさにこの阻害要因こそ、すなわち、国家が﹁自らの中に自ら
に反して﹂持つ﹁他者﹂としての”社会”であるとシュタインは答える。社会の概念を媒介に、国家の﹁純粋概念﹂
︵21︶ ︵22︶
はその現実概念へと移行するのであるひ後の﹃行政学﹄の叙述を借りれば、 ﹁国家の純粋な有機的概念﹂そのものか
ぢは﹁国家の発展﹂は説明できず、 ﹁変転、対立、自由および不自由の点での国家生活⋮⋮の特殊性はすべて、国家
に対する社会秩序の影響の結果である。﹂ このように、 ﹁国家によってではなく人格性の本質によって与えられ﹂、
︵23︶ 、 、
42 (2−3 ●149) 295
並その法によっ嘉定の世代と結びつけら淑た、人間生活の有機的統一﹂すなわち﹁社会﹂であ葡﹁全個人の発
ドイツ行政科学史論(手島)
説
﹁画有の法則に従って⋮⋮⋮基礎づけられ発展する﹂が、 ﹁しかし、すべての個人がそれに所属することによって、現
42(2−3。、150)296
ヘ ヘ ヘ へ
実の国家を充た㎏“・しかも薗家と・惑種の緊蓉諸契機をも内包する交互的滲透の関係に立轟〃社会”の認識
によって、シスタインの国家科学︵社会科学︶の全体系、わけても行政学の展開に卓抜の視座が据えられえ。
えんにほかならない。この意味で、ここでの彼の卓見は、両範疇の黙然たる分離と、それらの相互連関への透徹した
述︶ど並んで、シ.ユタインの行政学全結構を支える柱であり、また彼を名実ともに”現代行政学の父”たらしめるゆ
家←社会︶の二 葎立でられているのをわれわれば見るのであり・これ疹こそ・一段高次の〃国家と社会”の二熾︶︵既
輪窃.ここに・いわば〃国家がその理念的使命を果たすための仕組ないし機能”として憲政︵社会ポ国家︶ど行政へ国
ように・統一態どして把握する・その秩序﹂とも定義瞼“ さらに﹁行政﹂を国家の﹁労働﹂ ︵諺吾Φ搾︶として説明す
するド:⋮すべての形態﹂、本来的には﹁組織された全体意思が国家の全体的生を、国家自身が統一態であるのと同じ
ヘ へし ヘド
9轟︶どい翰酬 ︵シュタイン嫉また・,﹁憲政﹂を一艇鹸には﹁国家権力が自らのためにその人格的意思を形成し決定
閃①δと臆、﹁行為﹂︵8鋤什︶が﹁反覆﹂、される場A口︶とである。前者を﹂憲政L ︵<。触︷鋤ωω=5σq︶、後者を﹁行政﹂︵<Φ鴇ぞ鋤一,
と、 ﹁国家の諸機関によって行われ、したがって国家の本来外面的な生を形作る﹂ ﹁国家の活動﹂ ︵﹁活動﹂︵↓鑑αq・
れる・薗家の全内面的離纏への・とくにん格的国家意思の形成および決定へσ・個々人の葦の麓懲﹂
諸要趨︶・.・このような有馨的国家の粛..聖については既に述べたが・その国家原理にコ一重の内容﹂が区別さ
で﹁元首﹂.全体意思として﹁立法権﹂、全体的力︵行為︶として﹁執行権﹂を具備することになる︵﹁国家の有機的
セ ク フフト
拠・藏および藩﹂が帰苫れ華語を自然的繋・邸尉を心理的要素とする国象は㎡我︵人簿紬醗どし
シュタイン行政学における ”行政r の概念は、上述社会理論を前提とする特異な国家論からの帰結に.ほかならな
イツ
い◎、そこでは先ず、 ﹁人格性へと高められた共同態﹂として把握される国家︵上述︶に、 人格たるにふさわしい﹁自
r網
㌘ム
ドイツ行政科学史論(手島)
洞察とにある。 すなわち、第一に、つとに意識に上りかけてはいながら︵すでにぜッケンドルブのもとに”憲政wと”警
察”の使い分けが見られたことを想起せよ!︶、警察国家のイデオロギーとしての万能的”警察”観念に妨げられて、,制
度的にも理論的にも未開発にとどまった、かの二元に、国家原理の変遷を明敏に把捉しつつ、明確な自己表現を与え
たごと。彼は説いていう。1﹁国家の憲政は行政を含まない。ちょうど、意思がそれ自体ですでに行為あるいは労
働なのではないのと同じこどである・憲政の大きな機能はむしろ・この行政にその量とその秩序を与えるア﹂とにの
み存する。憲政はけっして行政せず、行政の任務の理解から行政の法を創るのみである。 ﹁かくて今や、行政の有機
て ヘ ヘ へ へりヘ ヘ ヘ コ コ へ
的概念は、現実σ生とそσ諸国とを自らに取り入れるところの、国家の活動力の内面的労働の領域として、憲政とは
か離され惹◎独立の国家人格の自由な意思決定としての憲政においては、国家はただ自己自身のみをその意思の対象
として持つのである。この分離が成し遂げられることによって初めて、行政の真の概念について語ることができ、こ
れまで未完成の、国家の生σ概念は、この生がそれらの交互作用から成り立つところの一.一つの独立の領域を見出した
ので蔑・.﹂第二に・単に憲政の行政に対する上位に尽きぬ両者の有畜関連性・かくてとくに行政固有の価値を的
確に把握したこと。シュタインに従えば、 ﹁憲政における国家意思の統一﹂ば憲政プロパーの次元だけではなく、そ
の﹁より高次の統一﹂を﹁現実の多様性﹂の中に実現せねばなちない。・後半の任務は行政のそれであり、、この意味で
﹁行政鳳活動する憲政﹂である。かくて、憲政の価値は、 ﹁高次の統一﹂をもたらす行政にま、って定まる。このこど
︵糾︶
は、 ﹁憲政は、.そのきわめて独自な概念に従って、行政の活動なしには無内容であり、行政ば、その概念からして、
ヘ ヒ コ コ コ う ヘ ヘコ へ
憲政なくして無かであ華ζと・すなわち・両者が不可離の相互依存の風係に立ちな蓉・しかも森森警の
レゾソ・ゲートル.を固有することを意味している。弘ユタインが、 ﹁従属的で不自由な階級の実存﹂という現実国家
の矛盾を前に、 ﹁憲政においては、公権の平等を最高の法原理として定立すること﹂,、 ﹁行政においては、下層階級
ヘ ヘ ヘ ヘ ギ ロ ロヒロ び ヘビヘ ヘ へ
42 (2−3 。151) 297
の引上げをその活動の本質的対象とすることしを解決策として提示するのに注目すべきであるコすなわち、憲政の指
42 (2−3 ・152) 298
、 、 、 、 ︵%︶
る”行政学”が成立する。,それは、 ﹁絶えず相互に条件づけ合い産出し合う文化︵OΦω葺§σq︶と国家権力の間の永遠
︵39︶ ・ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
領域・活動の間の生きた因果関係、および国家において自覚に到達する万人の最高の決定を実証すること﹂を任とす
ヘ ヘ ヘ へ
かかる行政概念に立脚して、 ﹁このようにして行政の内容を形作るすべての国家権力諸機能につき、行政の個々の
ヘ へ
ならない。
.の図式によるそこでの理解は、深遠な思索に裏づけられたシュタインの決定版に及ばざること程遠いものといわねば
場していた。しかし、モールの場合、質量ともになおきわめてわずかな言及に過ぎず、しかも単純な”目的−手段”
る、という﹁行政形成の法則﹂である。なお、憲政と行政の二分野は、すでに見たようにモールの﹃国法論﹄にも登
︵ 認 ︶
ガは上記利益の支配を阻止して、 一人の利益をそれが他のすべての人びとの利益を阻げぬ限りで促進しようと努め
力を自己に服属させようと努める、という﹁憲政形成の法則﹂、 そして第三は、逆に、あらゆる国家において国家権
という﹁国民形成的国家および国家形成的国民の法則﹂、 第二は、すべて国家においては社会の支配的利益が国家権
定の社会秩序︵国民︶はそれ固有の国家を、またすべて国家はそれ固有の社会秩序︵国民︶を形成しようと努める、
た”社会一国家”の﹁交互的働きかけ﹂の三二般法則﹂によって図式的に明らかとなろう。すなわち、第一.は、一
なみに、このような”憲政−行政”の関係は、シュタインが自らその﹃国家学体系﹄第二巻︵一八五六年︶で定式化し
を志向する。換言すれば、社会との関係 ︵国家畜社会︶で行政の比類ない価値が明らかとなるのであり、さればこそ
︵朗︶
シュタイン自身、 ﹁行政学の目標﹂は﹁高次の意味における社会的行政の原理﹂であるとすら、、いうことになる。ち
ルでの対処にとどまるのに対し1社会における経済的・社会的不平等を直接止揚することによって国家原理の実現
導理念が”法治国家”的であるのに対して、行政のそれは“社会国家”的であり、i憲政の場合が政治・法のレベ
論説
ドイツ行政科学史論(手島)
の交互作用に関する教説しとも性格づけられるよヶに、シュタインにあっては、その行政観念の広角性ゆえに、哲学
レーレ ︵40︶
的思弁・社会学的傾向を少からず含むが、、しかし、行政現象に関する基本的に”因果”的な考察として、 ”行政学”.
ハントブ フ
の名を冠した初の体系的成果たるに恥じない。いま、最終的体系として﹃綱要﹄第三版の構成を見れば、・﹁現実の国
家労働のあらゆる特殊領域で共通・同一のもの︵α9ρω ︵甲⑦旨PΦ圃昌ω塁O口昌畠 ︵甲一〇一〇げO︶たらざるをえぬものを確認すること﹂
を目的とした﹁総論﹂−あるいは﹁行政の理念﹂論1が行政組織、行政命令、行政法の三部に、そして﹁︹総論︺
︵41︶
の基本的諸範疇が、国家と個人の間の特殊な生活関係の性質によウて、その特殊な形象をもはや行政の概念からでは
なく行政さるべきものの特殊性から受けるところの諸変容を被る場合﹂を問題とする﹁各論﹂1あるいは、それじた
い総論と各論を備えた﹁現実的行政﹂論一が外務、軍務、財務、法務、内務の伝統的五部に区分されている︵各論中、.
内務行政にとぐに重点が置かれ、対〃人格生活”行政︹人口行政・保健行政・監護行政・教育行政︺、経済行政、社会行政の三部構
︵㎎︶
成で詳論される︶。 これで明らかなように、それはもはや“警察学”ではない。 “警察”の用語と観念は、今では﹁行
へ
政の消極的.保護管活動﹂の側面として、 ﹁全行政に内在的な一要素﹂ではあるが﹁けっして全行政を包括したり尽
くしたりするものではなく﹂、 行政学全体の中で﹁現実的行政﹂総論ないし内務行政論の一隅にわずかに命脈を保つ
︵43︶
に過ぎない。−﹁全行政を包摂する科学を警察の基礎の上に立てることは⋮⋮不可能である。﹂’モールになお見ら
︵44︶ ︵45︶
れた広く行政一般に“警察”の術語を充てる一この語の歴史的意味内包ゆえに、憲政的要素と行政的要素を混濡し法治行政
︵46︶
の確立に敵対的な、その意味できわめてイデオロギー的なi用法が,ここに決定的に清算されたことに、・われわれは旧時
へ
代H警察国家の終焉と新時代11市民的法治国家の到来を端的に看て取ることができるであろう。
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
行政諸科学発展史の上にシュタインが残した功績は、明らかに、上述の意味で初めて真に現代的な、すなわち市民
社会的な行政の科学の端緒を開いたことにある。彼の本領は、あくまで行政学にあった。行政法学に対するその影響
42 (2−3 ●153) 299
論 説
グナイスト︵口¢ぎ旨げ=虫害き﹃宰帥巴ユ、9︿εOg陣ω人目。。δ⋮お⑩㎝︶への献辞として執筆し、・その中で﹁ヨーロッパの
は、、二義的であり間接にどどまったといっていい。たしかに、ベルクやモLルになお時を接していた当時、行政学と
へ
行政法学の別は未だ必ずしも分明でなぐ、現にシュタイン自身、一八六四年﹃行政学﹄第一巻初版の序言を公法学者
︵47︶
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
法生活を一、つの全体として把握すること﹂をドイツ法律学の使命と規定しだ上で、 ﹁さて︵尊敬する友よ、私は先ず
ヘ へ
最初に貴下へこの著作を呈する。法の小さな部分において、この使命の小さな部分を、依然英仏独に非常に狭く限定
︵48︶
しながら果たそうと試み.たこの著作を﹂,︵傍点手島︶と書いている。 しかし、彼の方法が、グナイストに学んだ自治
︵49︶
の本国イギリスをはじめ、自ら知見した革命の母国フラン.ス.と己が祖国ドイツ、これら三国の素材に立脚した比較法
︵50︶
のそれから、さらに進んで、.それらを抽象し一般化した﹁哲学的、社会学的観察法﹂に至っていることは明らかであ
る。徹頭徹尾ヴュルデ7ベルク王国の実定行政法に即し、て法実証的・法解釈学的理論構成を試み、かくて後の行政法学
−”法律学的飢行政法学1の正統の先年となった、モールの士爵と対照せよσこのことはシュタインその人もまた自覚
していたどころであ01、上述の献辞的序言は実に、 ﹁尊敬する友よ、貴下へこの書を呈するとぎ、私は貴下が本書を
それが贈呈されるがままにその浮心から受け取って下さるかどうか・わからない﹂との書出しで始まってい飽い
ずれにせよ・彼の行政学体系はその総論︵あるいは﹁行政㊨理念﹂論︶に行政法論︵﹁耀編誹ヌ館論ど﹁︵狭義︶行政法﹂
論︶を塾とはいえ・それはその国家論の枠内での雇的●抽象的な哲学的考察にとど沓・.またそこには・薗有の
行政法学︵彼のいう﹁純粋な実定行政法の叙述・あるいは行政躍鰐嬬ン評協︶がそれ無体として持つ↓実際生活に溢する高い価
値﹂0承認が見られ翻どはいえ・彼の展開した体系がそのような行政法学︵﹁︵園家︶の猪機関が・国家意思によって・な
すべく義務づけられているごと﹂を示す笑穐︶とば異なる行政学︵・菌家が内務行政において・そ言寿従って・なさねばなら
ぬこと﹂を示す毒断であるこども自賜であって・実定行政法に園する解釈学的理論化作業の意味での行政法学的業績
42 (2一・3 ●154』) 300
ドイヅ行政科学史論魯(手島)
はシ帯瓦イソと隷無縁であ臥鵬︶かくて方法σ行政法学的遺産は、、後魅するよグに、その後㊨行政法︵どくに熱論︶体
系構成匹おけるいわゆる”国家学的方法” ︵二念法律学的方法︶にモデルを提供した間接的。副次的立田心義においての
み認められるに過ぎないのであ る 。
︵57︶
ヘ ヘ ヘ ヘ
シュタインと行政法学のつながりについてば. ﹁かれの試みだ憲政と行政どめ区別が、,後年の実証的な行政法学に
とつで、だっの理論的訟濾過装置の意義を栗←えたこ乏忙つ嚇て鳳否定でき想い﹂濾する有方な見方が泌る。 [却%
かれらは、それ薫煙識す為と否とを澗わず、この貨重な分析的武器をその侭継受し隅それを窓らエ形武葡論理型方法忙
おいて発展せしめついにかれらの学説全体を支える所謂﹃行政の法的適合性の原理﹄︵9§畠帥欝α卑O①ω・言B器巴oq犀。凶什︶
を形成するに至ったからである。我々はこ0点に他ならぬシュタインが行政法学に対して遺した最大の功績を認めざ
るをきのであ鎚と﹁・しか七の轟は正鵠を得ているとはかい讐ガ・ト←イや鋸実憾正統の
法律学的行政法学は、たしかに行政における‘”怯治属家” 偲想︵”法律による行激〃の原理︶ρ土壌に成長したが、そ
へ
の場合の法治国家原理とは、一九世紀後半ボイツ公法学界を風びした法実証主義︵自己の経済的社会的利益を法に定式化
ヘ ヘ へ
しえた新支配階層一国王・ユンカー勢力と妥協した大市民層一のイデオロギー!︶ によって宿命的な変容を被った形式的法治
、国家原理にほかならなかったのであり、法治国家思想を唱道したとはいえ、きわめて哲学的かつ実質的な内容によっ
てそれを充たしていたシュタインの学説へ直接の血縁を遡求するのは無理と思われるし・寒その証跡もな嘩第一・
コ リヘ ヘ コヘ ヘ ヘ
シュタインは、 ﹁法治国家の真の理念﹂を“個人の生活領域への行政の侵害は合憲的法律に限界を持つべきこと”と
.〃その侵害はvできる限り諸個人自身の自由で整序された活動によって行わるべく、もばや官職の権力によっては行
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
わるべぎでないこと”の二点に求め、普通−法治国家概念の法律学.7ロパーへの初の導入者として一なお実質的
︵60︶
法治国家論者に算えられるモールをすら、 ﹁いと壮大で崇高ですらある﹂上述﹁真の理念﹂から法治国家の﹁法律学
︵61︶
30ユ
42・(:2・一一3ゆ 155).
ゲゼツツ フエァオルドヌツク
第二に︽他面、彼は従来ひとしなみに取り扱われてきた﹁行政法﹂に﹁法律﹂と﹁行政命令﹂を明確に区分し、 ﹁公
民の共同決定﹂によって成立し従って﹁より高い人倫的価値﹂を有する前者に、 ﹁本質的に実際上の要請﹂から生ず
る後者に対する優越︵﹁公民的自由の原則の支配﹂としての﹁法律の支配﹂︶を認めてはいるが、しかし同時に、両者の間に
、 、 、 、 、 、 、 、 ︵63︶
レーペンスプロツエス ︵64︶
存在する交互循環的な﹁行政法の形成における生命現象﹂に強く注目を促しており、この社会学的認識によって、
後のもっぱら形式的・法律学的な“法律による行政”原理とは明らかに一線を画するのである。
︵7︶ ﹁適切に評されてきたところだが、 シュタインは学問的・政治的にウィーンには溶け込まなかった。彼の故郷での事件
︵6︶同上二六九頁。
︵5︶ゴーロ・マン前掲書一五〇頁より。
国ぎ隷げ﹃離ロσqω.刈瞭・
卜。,︾⊆P一器。。矯Z鋤9≦o耳ω・濠hh.⋮国ヨω什喝。屋90鴇︵口屋αq●︶℃ド。二言く3コ口Φ凶昌”OΦ器一一ωo冨hけ・ω欝彗・幻8窪鳩一曾卜。り
国島芝。罵︵導ωσq●︶﹄。暮ωg⑦ω菊8馨巴。鼻2出⑦津一膳ーピ。§N︿8ω一直”<①﹃≦9一け§。qω露8⊆巳ぐ①暑9。ぎ品。・目89
ωoN芭2切睾⑦oq鐸品ぎ津§胃鉱9︿8ミ。。⑩び一ω①亀嵩口器冨↓鋤oqρぼωαq・︿§ωp。一〇ヨopおト。一・し0詠い。。ω・≦・×押
︵4︶その生涯については、参照、09焦﹃δ自ω巴。ヨoP<霞≦o簿α①ω出興碧ωσqo冨諺N●ピ。﹁魯N︿8伜似只O。9三〇ず叶。胤興
︵3︶参照、男。訪爵9抄。℃●o鉾・ω●腿卜。●
︵2︶ゴーロ・マン前掲書一〇四頁より︵生田春月訳詩︶。
半の社会運動﹂という二つの時代をにらむ﹁過渡期の作品﹂であることを指している。
的というのも、モール警察学が一方では﹁旧い警察国家﹂、 他方では﹁国家行政に新たな巨大な任務を課する一九世紀後
とするのは、あくまでモールの警察学であって︵行政法学をも含めた彼の全業績ではなく︶、 したがって〃ヤヌスの頭”
ヘ ヘ へ
︵1︶竃臥①づoP9叶二ω.卜。刈。。が、モ:ルの警察学を:す壼終9訣σq..と評している。ただし、そこでマイヤーが批評の対象
42 (2−3 ・156) 302
︵62︶
的なL ﹁みすぼらしい把握﹂へと外れた﹁最近時の﹂傾向の﹁周知﹂の﹁代表者﹂として、名指しで強く非難する。
論説
7
ドイツ行政科学史論(手島)
に、彼はその後も活発な関心を払った。学問的にシュタインは、ウィーンで就職したときには完成した男であった。彼
は、.彼・がその巨大なエネルギーを不動の一貫性をもって捧げた彼の諸問題を、そしてまた彼がそれらを克服した方法を、
ヘ ヘ へ
携えて来た。要約していえるのは、彼はそのライフ・ワークの本質的諸テーマを、パリ滞在と、まさに成立しつつあった
社会学およびはるかにユートピア的な初期社会主義者たちとの接触とに負っており、その方法を、彼がヘーゲルの哲学に
ヨリ近く親しんだベルリン時代に負っているということである。ハプスブルクの多民族国家の特殊問題は彼の受容の外に
あった。﹂噛i局。話芸9戸聾。貯田昌隷葺8αqω.⑩・ ちなみに、シュタインは一八四一年ベルリン、一八四二年パリに
遊学している。
︵8︶日。お昌Nω審ぎ.Uδ<巽≦⇔一εづαq三門﹃o矯ドー刈・目ず。一一鳩Hc。曾\O。。りN.︾鼠一●︵↓ず。一一ごωりO螂︶一。。$\。。膳●︵ここでは、九州
大学法学部研究室所蔵のセットード.↓冨二︵ド●一ω。 ﹀げけゲO一一口⇒αq︶”卜。●﹀亀一●ドG。①曾b。●一刈・↓サ。箒H.﹀自一・ド。。①①\O。。
によった。︶ Ho冨昌N︿8ω冨5鳩国9づαげロ。ずα巽く。ξ巴ε昌oq巴①げ﹃Φ二戸ααoω<o賊≦99昌oq巽8窪ω・h。。刈Oりω・︾鼠一・ぎω
↓ず巴魯 ︵出9巳ぴ8ず画興く①栂≦亀ε5σq巴。冨。︶ド。。。。刈\。。。。・ ︵ここでは、九州大学法学部研究室所蔵の第三版によった。︶
一 なお、,シュタインは前著の完成直後、オーストリア政府より世襲の騎士身分に陞せられている︵したがって、 ﹃行政学﹄
までは姓に貴族身分を表示するく8を有しないが、 ﹃綱要﹄からはこれを用いている︶。
︵9︶UΦヨ①註貫9●9け●、ω臥。。①h●
︵10︶ゴーロ・マン前掲書七二.頁。
︵11︶ω什①5℃出曽昌ユげづ。貫一・↓ケ巴一噂ω.δ.
︵12︶ω8ぎ●Ooωo窪。窪。ユΦ﹃ωo賦毘。二心。≦①σq¢昌σqぎ国↓β。5評﹃o凶。げく。昌H刈◎。㊤玄ωβ。gh⊆昌ωΦ﹃o目蝉σq⑦℃ω切α⑦:描窃O・ その第一
︵14︶一げ乙二ω●卜。ω︵ω●に ︶ ●
︵13︶ω叶①ぎ鴇U霧しd①σqユ訣畠霧○①。・Φ=ωoずβ。津噸ω.卜。H︵ω・Hド︶●
器●b。ドーH器 のテキストおよびノンブルによった。,︵なお、後に披見したザロモン版のノンブルをカッコ書きで追記。︶
引用は、O転ω鎗。ヨ8の手に成る復刊本︵註︵4︶参照︶から第一巻前半部を転載した 聞。邑ぎ自︵甲屋oq・yo℃・。搾・
前半部︵UΦ﹃切Oαq二ゑ鮎①噌O①ω⑦一一ロoOず①自営⇔自α一①.OOω2NO同ケ﹃φ﹃切①更①oq¢鄭oq︶がシュタイン社会理論の精華である、以下、
巻︵U頸切ΦOqユ凍α卑O$①=ωo冨津ロ昌α甑⑦ωo§巴⑦○Φωo窪。窪。畠目張きNαω凶ωoず。口無。︿O冨ユ8甑ωN⊆ヨ奪円oH。。ωO︶の
42 (2−3 ㊥157) 303
説
論
︿15︶冒一9ザ◎り一ω㎝胤.︵ω・.ぎ︶●
︵16︶害鐸臥の・漣︵oり●δ︶し. .、⋮.、. ,, 耀.
︵17︶寄ζ噂ω。ωα︵ω●N⑩︶転.・、 . ﹁ 、 ・、・.∴ 一∴ 、気㌃.・ .∵,、∴: ご ・ ゾ 一日
︵18︶ま5・ω・ω。。.ψ齢︵ω。ω㎝..ω●歯︶● 唱 .・ 、、.、、 .’..、∴.・ .げ .・一,漕ゴh
︵19︶ま5’のr.溝りω・ノ麟︵ω・瞳サω・畠︶. . .、..一.・ ・、 ヒ ∵ 、 .− ゼ 、ど
︵20︶三一斜.ω・ホ、︵ω●ホ︶●参照、、導一山:ω・、ω①︵ω.ωドh・︶・,,..い. .﹁ .﹂∴. ﹂∼㌦ .,㌧,.・、
︵21︶.崖こご。◎●ぬh●・︵ω・①⑩・h・、︶. ﹂ ﹂ ∴ ﹁− 、、’、、 ,、、
︵22︶嵜δごω●ミ︵oり●ミ︶ゼ、 、‘ ,
︵23︶ω8凶戸嘗Φ<2妻鉱ε昌σq巴①寓ρ一・日ゴΦ貫一.︾げ爵Φ帥一白pαq・ω・NOh二ω.b。メ
︵24︶3画9.ω・卜。。。’ 、 ︸
︵25︶閃。誘夢oh抄凶あ霞ピ9創①の、<巽≦巴εづαq段8簿9Hザω・お・,
︵26︶ω量P.国碧号零詳一◎日ず巴噸ω●,這.、︵<①彗巴件§αq。・冨訂①旗・<①量巴ε畠曾Φ曾fぽωoq●︿oづ≦o拝ω・窃y・∵
︵27︶固甑伽・ザωω.‘お一嵩︵ωoQ●H㎝﹂出︶の
︵28︶ω榊Φぎ℃U気切①αq葺噛飢霞Oo。・巴ωo訂鈍ωL﹁ω⑩囲.﹂︵ω●ω刈︶.一、 ・ .・
︵29︶Qo紺閣鈍=き位99・一.日滞同一.qっ●昏︵QQしΦ︶・、、 .\ ・ ヒ、、 ・.﹁ 、、
︵30︶剛甑αこ、φ・。心ひ︵ω●・。ω︷●︶・ちなみに、 ﹁行為する意思が、その語格性の力を向ける当のものの勢力と高次の規定性とを
自分の自己決定に取り入れ、それによって、すべての生はその諸要因の調和において初あて自己を充足しうるということ
タート アルバイト
を認識するとき﹂、,、行為は労 働となる、と.いう。i一ω●櫨︵ω●卜。ωP︶●
︵31︶シュタインにおける〃国家と社会”および“憲政と行政〃の両二元︵論︶は、いずれも二元を絶対的に止揚する第三の契
機を欠く意味において“τヘーゲルの動的一元論︵参照、、中黒肇﹃へ﹂ゲル﹄一陶九七〇年一五一頁︶としての弁証法とは大
きく趣を異にしている。後者の場合には、国家と社会の関係も、 ﹁家族﹂一︵正︶←﹁市民社会﹂ ︵反︶、←﹁国家﹂ ︵合﹀
という﹁﹁人倫﹂の弁証法的展開過程でのそれであって、前者におけるような相互影響の並立的関係で億ない。.
︵32︶ω什。⋮斜出β。旧び8章,一●弓富ξρ吋、0︵ω●b。①︶●
42(2−3.158)304
ドイヅ行政科学史論(手島)
︵33︶害帥α二ω●α︵ω●。。︶.
︵34︶量Oこω・①︵ω曹.。。、時シ .・ . .・ 、− ・,・. .、、 ・ ・ 、 私.・
︵35︶量山こω﹄。。︵ω・N。。Yド
︵36︶ω仲①陣Puδ⇔uΦαq隻h畠興OΦω巴ω。冨沖ω・心G。︵ω●心。。︶・
︵37︶ω什①三三Φ︿①三三窪三巴。ぎ噂一●膏ず①ξ一・﹀ぴ§一言瞬もや逸バ:’ 一− 、 ﹁・・.、2 ㍗.、・・∵、
︵38︶ω融ぎ℃・ω団ω窄ヨ血興ωけきヨミ尻ω①思差7幾戸し⇔9自 ︵冒oOΦωΦ=ωo冨津西①冨ρ一.﹀ぴ夢①凶冒昌oq︶噂おq①ザω・。。ω●.なお、この
箇所に注目しえたのは、.、もっぱら辻清明﹁ロレンツ、創シ斗タインの行政学説e﹂ ︵﹃国家学会雑誌﹄五七巻臼○号一九四
三年︶,三一頁の貴重な指摘に負うゆその他、シFダイン学説の理解については、この論文︵口は同五七巻・一二号︶に大き
な教示を受けたことを記して感謝する℃ ・∴︸∴∴ ポ!.・ ∴. ・・ ご.・.、 一 ﹁㌃.㌃ ﹂、、:憾
︵39︶ω件①凶p臣三夏。戸一●9三一矯ω・ω心︵ω●い①︶●・∼、、. ,. 、 、 一.嘱 . . ∵ ・ ・:・.、ワ
︵40︶量鮎・鴇。α●ω。。、︵o。b逡︶・
︵41︶凄一魁二ω●ω凱,八ω●。。泣︶●参照、∵子5二ω・刈︵ω●一〇︶。
︵42︶.一﹃行政学﹄は﹃綱要﹄に倍する分量ではあるが、後書のような整然たる体系構成を持たず酒全体が・﹁執行権﹂︵総論と各
∴・㌦論﹀と﹁内務行政論9一︵対〃人格生活”行政、、経済行政穿社会行政の三部︶に二大別されているっ・・ ∴、 ﹂
︵43︶ω8ぎ・︼︶貯く零ミ92つσqの一Φ竃ρ鱒・↓冨芦Oo・㊤ω噛ω●刈ド 、 讐
︵44︶ω邑亭∵∪δ<重臣巴ε凝巴。ぽρ卜。5↓ず巴・φ‘露賄●日晒・↓げ。芦ω.山hh・◎。陣①旦=⇔盈ぴ口為し・↓訂圃roo・b。9圃h・⋮§﹁
↓ず。芦ω・α◎。h戸.なお参照、竃9。δ尊070一博二.ω・・b。ΦOh●、 ・﹂・ 、ピ 一 ﹂ ,い・、. 、,、’、 .2、..、
︵45︶ωけΦ一PUδ<o﹁で亀εげσq巴σ腎ρ﹄●↓げ。芦ω●記・参照、UΦ昌づ。ミ島回070搾.OQ・。。9
︵46︶ ﹁全行政を警察と呼ぶのは、上述の警察の内的本質、あるいは力の制限に向けられた国家の活動と絶対に矛盾する。﹂1
︵49︶シユダ千ンば馬どうしたことか、彼の後半生に安住の地を提供してくれたすーストリアにば湘その思索の素材を直接には
︵48︶o。叶σ56固。.<再≦亀葺茜巴。訂εピ↓げ。芦Q喰.自・hこω●曳●‘ ﹂.・ ‘ 三三 .・ 臣\∵レ :冗・一, レ、∴
︵47︶参照、.ω$躰ωδ×涛oP曾,﹀珠一:口ご9自..お沼“.Oo覧O謹!O㊤9
ω沖①貯.葺。凶汁・㌦N﹄莚一レ.斗 ◎.,﹂∵ ヤ∵一 ・. ・ へ
へ
305
42.・、(2じ1」〒一レ3 ●卜159>
説
払
葎冊
求めない。彼は、グナイストへの語りかけの中で、この間の事情を説明して、 ﹁その理由を貴下は、もしこの帝国をご承
知なら、おわかりでしょう﹂といい、 ﹁それはそれ自体が一つの世界であり、他のヨーロッパの、いや世界の如何なる有
機体︹国家︺とも比較できない独特の有機体︹国家︺であり﹂、 ﹁それは故に、それだけで観察され、それだけで認識さ
れることを欲する﹂と述べてはいる︵一げ一勉こoo・×h.︶ が一。なお参照、註︵7︶。
︵50︶参照、UΦ嘗①琶貫。唱・。搾”ω・。。ごω・。。。。・
︵51︶GQ仲Φ凶Pε・o陣梓二一●↓冨二・ω唇く・
頁。
︵58︶辻清明﹁ロレンツ・シュタインの行政学説8﹂六i七頁。なお参照、同上三一四頁、 蝋山政道﹃行政学講義序論﹄=二
︵57︶参照、∪窪b①≦一貫。も・9叶二Q。.Φ蒔●
・つ。
成功した﹂ものとしている。 ﹁非法律学的﹂という形式的観点からのみすれば、そのような見方も強ち不可能ではなかろ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
︵56︶一︶Φ診。註欝”o℃’息叶二ω●。。刈は、シュタイン行政学を、 ﹁警察学的方法および観察法を現代行政学に生き続けさせるのに
①。・。・①貯、.なる表現形式が固有である﹂︶と説明している︵≦●匂Φ一一首①ぎ。℃●9梓二ω●Φ㊤︶のに比べ.、興味深い。
﹁、、ωo一一、、なる短い単語によって特徴づけられ﹂、行政法は﹁打梓命題に関係する﹂︵し、﹁行政政策︵学︶には、、ωoむ・o=8
を示し、行政法学は﹁何があるか﹂ ︵≦器凶斡︶を示すと表現されているのは、ワルター・イェリネックが、行政法学は
︵55︶一ぴ置二ω.誤● このような両学科の性格づけから、行政学は﹁内務行政の領域で何があるべきか﹂ ︵≦鋤。。⋮:あ¢ぎωo一一︶
︵54︶一ぴごこω●謂・
る﹂ものとして挙示されている。
中で﹁単なる蒐集形式﹂にとどまるものに対し、 ﹁憲政法と対立する行政法の名の下に一つの体系的全体へと自らを高め
︵53︶ω什①ぎ●U一⑦<霞≦巴一¢50q巴Φ訂㊦・卜。●↓ず①一一・ρ謡●.﹂そこでは、モールが、勺。、9一・幻α昌昌⑦とともに、 ﹁行政法律知識﹂の
包含する。﹂一ω8ぎ噛出磐画び⊆o戸一●↓ず色一鴇ω●旨。。︵ω●ω。。︶●
法は、活動する行政の組織とその働きを現行法へと高めるところの、法律制定権力および命令制定権力の諸規定の全体を
︵52︶ωけ。貯●Uδ<臼≦巴仲§σq巴Φ汀ρ一・目げΦ芦ω・零hh.嚇卜。・目冨芦ω・録h︷・ωけ⑦一叢=き住ぴ8貫一・↓冨一ごω・一〇〇協h・﹁行政
42 (2−3 ・160) 306
ドイツ行政科学史論(手島)
︵59︶オットー・マイヤーの﹁法治国家﹂論ないし﹁法律の支配﹂論において明示的に援用されているのは、むしろ形式的・法
律学的法治国家論の創唱者シュタールであり、法実証主義者ラバントである。IO.寄嘱。さob●9梓二H.ω●㎝。。噛ω●
罐h●
︵60︶0◎件①ぎ.Uδ<臼≦9ε昌αq巴。訂。鱒N●↓冨一一噂ω●N卜。.
︵61︶参照、ω3舞巴。×幹oP9︾珪一●讐bdα●首り這OHψω℃.O。。㎝h●
︵62︶ω8凶PU幽。<興≦9ε昌oq巴①訂ρN・↓げ。一一鳩ω●睡●
︵63︶董瓢・.μ●↓げO芦↑●﹀げ芽O二§αq噸器●。。μ1。。ごとくにω●c。Oh・
︵64︶ω8ぎ℃口碧ユげ⊆9噛H.↓冨帥一”ω●μω9
第五節 行政法学の覇権
シュタイン行政学は、早くも兆し始めた資本制社会の諸矛盾が、1なおさまざまの限界をもつとはいえ1偉大
な体系的思想家の透徹した洞察力を通して理論的自覚へもたらされたものであり、この意味で時流を遥かにぬきんで.
ていた。しかし、そのことは同時に、シュタインの先見の明が当時未だ直ちに世人の受け容れるところではなかった
ことでもあった。より凡庸な国家論イデオローグたちの関心は、さしあたってもっぱら、時代の当面する直接の課題
ヘ へ
すなわち“法治国家”原理の確立へのみ向けられていた。このような状況の中で、建設者個人の天才に負うところ多
マイスタた
大な、かの方法と体系が、当の巨匠の死後急速に忘れ去られていったのは、むしろ必然の成行きというべきかも知れ
ない。とまれ、シュタインの堂塔伽藍にその最後の華麗な輝きを見せて、・一七世紀このかた幾変遷したドイツ行政学
の伝統はここにi少くと為行政研究の表舞台からは1中絶する。
代わって、行政科学の主役たるべく登場するのが”行政法学”である。すでに一九世紀三〇年代におけるモールの
、
42 (2−3 。161) 307
42 (£噛一13 r’162う》308
業績に、行政学と行政法学どいうL同世紀後半に入って顕在化する一両方向への発展の二契機が内包されていた
ことを述べた。フォルストホフの剴切な指摘に従えば、、⋮﹁社会の概念﹂を手がかりにそれを深めていった一方向の極
限にシュタイン行政学が位置し、,﹁法の概念﹂を足場にそれの展開を図った今一つ・の方向が、ここ、に問題の、・.そして
今日われわれが理解する意味での行政法学の成立へど連らなってゆくのである。一、九世紀後半のドイツ市民社会⑳支
配的利益とイデオロギしば、上にも触れたとおり、.﹂これら両系老中、後者が優勢を占め、やがて独占権を主張するに
至るのに決定的に作用したので あ っ た 。
、法治国家の理念は、やがて論理必然的に国家と国民の関係をも、私人相互間と同じぐ“法主体”間の“法︵律︶関係肱.一
権利義務関係一として把握構成すべきことを法律学に迫惹であろう。実際、一八三七年アルブレビト︵≦導⑦巨,巴爵廷
供給するものであっ・志し、そして一八五二年ゲルバー︵閏噌一①瓢峠菖≦ぎΦぎく。づ。①同ぴ⑦脱・一。。・。ω一一。。⑩一︶の﹃公権論﹄は、公
≧寓8.昇一。。。。1一。。蕊︶、によって創唱された国家法人説は、 まさしぐご0時代的要請に応えてそのだめの理論的前提を
︵2︶
ヨ 権保護請求権概念の導入によって、国家−国民の関係を双面的法︵律︶関係としてとらえる視角を初めて打ち出した。
このはうな動向隠里行敏研究北対し図護行政の諸問題をすぐれて”行政する国家”と国民の間の法律関係︵”行政
ヘ ヘ ヘ へ
せずにはおかない。かくて、上述の意味での諦法律学的”行政研究、すなわち行政法学の一行政学に対するi抜
法関係勉︶の観点かち考察し解決する方怯差すなわち”法律学的〃方法1一重視の圧倒的傾向として、大きく影響
へ
駆け的発達に拍車がかかった。その先駆者として名を一まさに文字通り名と著作をのみ一とどめるのが、ヴュル
ヘ ヘ へ
らにまさるとも劣らずこの行政科学の成立史に木滅のベージを書ぎ加えたゲオ.ルグ・マイヤr八ただし綴りば竃妥①騰V
地とマイヤーの姓に因縁浅からぬものがあるといあねばならない。・かの南独の王国が生んだモールとザルヴァイ、彼
殊倉グゑ善い︵ ︵4︶閃.芋竃塁①メ 生年・残年ともに不詳︶である・まこと・ドイツ行政法学はヴュルテンベルクの
論・説
虜工て財.志でイや慮三段げだし慣半ば遍謎よ3.・、れら、淘果帆錘の手書に此
肩kエ書マ話姦その天五七釜よび天六犀の選書んず簸著﹃書法の諸原書一遇.て
府麟議述の葎学的方怯の剤薯L産温吃ほ翠藤善房であ発暴君言いて継、裏瞬す
蓬説億らし薪馨系北←て託し霧倭でヴ、ルテンベ咳の邦行政法から至れ奮た一そし斑
磐る∼、乏のできなか.た﹂﹁釜妻事涜の嚢摩る・、乏塁審三・藩濤場.ては、伽二の唐三洪
匝膿め裏た占櫻にオ﹂.ト.ユィガしの歩ん藍穿でにξに瓠り拓かれ塗るミに注目し魔ば書
底.艶ずれに萬険道の複怯制度が私蓄性質の第とさ廃殊涙行為や公物ないし公法上の法透種
類など今日夕明の幾多の概念ないし区別が未だ知られていなかったり、不十分さは当然なお少からず残るとしても、.
42・(37一一.3 ● 163)・309.
﹄復の霜風蒙ぞ退の蓄関連讐おい漁識さ塵も踏それら相互の羅的関係において認嘩隠の譲
ないし.﹁新しい葎学的方法﹂の唱道とその初早事貌わ毒ぞ.、寛出ぜ、乏噂鳶のである.みかし、か
かる万F一塁やあ蕊深い労駿、そ薄湿日ならぞて汰びとの愚の悪玉④諦㌦マヨさ﹂に
的”行政法学分通説化、一八六三年以降嵐のむうに進行した行政法の発展に因るしついに再版されることのなかっ
隊て再発見され再評価され壌で.垂黛の間全く廊萎せられ湘﹁犀ヴィリッ噴いての澗の審窺朋し
て浴の優に凝れたシ愛イン行政学体系の圧倒的撰しハ←ヤ下﹂働果ウ、燦ンに題号誕”国家学
ドイツ行政科学史論(手島)
論 説
たi本書の内容の陳腐化の三つを挙げているが、しかし根本的には、一iその“先取り”の対象と意味と時点とに
42 (2−3 ・164) 310
︵13︶
行政法学の著しい時代先行性を、モールについてと同じく、ヴュルテンベルクの先進的憲法状況に帰せしめているが一︶ことこそ、
大きな違いはあるとはいえーシュタイン同様、彼もまた”早過ぎた男”であった︵デネヴィッツは、F・F・マイヤー
︵14︶
直接の後続を見出しえなかったそもそもの原因と見るべきであろう。F・F・マイヤーの場合には、さらに、彼がl
I一代の碩学シュタインとは異なりi後世に伝記すら残らぬ無名の一行政実務家に過ぎなかったことも、彼の業績
の閑却に少からず与ったであろうことは想像に難くないが一。
ヘ ヘ ヘ へ
ドイツ帝国の建設に始まる﹂八七〇年代は、地方自治の拡充、各審級における行政裁判所の設置、司法と行政の分
︵15︶
離、裁判官の独立等、法治国家的諸要素の急速な整備によって大きく特徴づけられているが、基本的に実践の季節で
あって、行政法学の上では、未だためらいと摸索の支配するむしろ不毛の期間にとどまった。わずかに、ーー後年
ェ七八一九三年︶とくに明治憲法の制定をめぐってわが国と深いつながりを持つに至ったiーレースラー ︵9ユ
つた﹂し、後者もまた、ヴュルテソベルクのモール︵一八三一年︶、バイエルンのべツル︵一八五六年︶に続く第三の邦
︵18 ︶
釈学および体系にとっては、ほとんど実りあるものではありえなかったし、いわんや利用できるものではありえなか
り、 ﹁ロレンツ・フォン・シュタイン流の社会学的な研究法と視野に深く感化され﹂ていて、 ﹁行政法の概念界、解
とは全く別のものである﹂といわれるように、 ﹁全く非才質的な部分と項目についてのみ法的考量を含む﹂にとどま
きが、あるいは下ってゲオルク。マイヤ⋮一エドガー。レーニンクまたはオットー。マイヤーの如きが考えた行政法
取り扱おうとするものは、かつてF。F。マイヤーの如きが、 あるいはフォン・ゲルバー、フォン・グナイストの如
の﹃ザクセン王国行政法﹄ ︵一八七八年︶を見るに過ぎぬが、しかもそれらは、前者は、﹁レースラーが行政法として
津田巴樋帥9国巽ヨ拶謬幻8。・一①び一。。。。癖一同。。逡︶の﹃ドイツ行政法教本﹄︵一八七二一七三年︶と、ロイトホルト︵o﹄●常盤げ9α︶
︵ 1 6 ︶ ︵17︶
(一
ヘ ヘ ヘ へ
行政法体系ではあったが、 ﹁ロレンツ・フォン・シュタインの分類体系に依拠して﹂、全行政を近代的省別に叙述し
︵19︶
ようとする、後にいおゆる﹁国家学的方法﹂の始祖と目されるものであった。
シユトウデイエン レフオルム
ことが、何よりも先ず注目されよう。これは、当時建設途上の新帝国行政法構造の体系的理解には、行政組織︵した
七〇年代に蓄積された法治行政のエネルギ﹂は、一八八一年のプロイセンにおける大学教科課程改革︵行政法講義の
︵20︶
開設︶を機に、一挙に理論︵行政法学︶の次元へ噴出する。そのさい、なお当分は“国家学的方法”が支配的であった
ヘ へ
ヘ ヘ ヘ へ
がって、その対象となる事実的生活関係の種別︶の観点からするアプローチが、 その供給する通観性と行政実務的有用性
︵21︶
とにおいて、さしあたり﹁最も簡単で最も手っ取り早く、したがって最良の方法﹂であったからであろう。しかし、
このような形での行政法学が、行政学と区別される独自の学科としては、なお発育不全のものであることは確かであ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ロ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
る。それは、行政学︵とくにシュタイン行政学の体系構成法︶によって枠づけられ、その限りで独自の展開を抑えられて
ヘ へ
いた行政法学といっていい。 ︵かように、シュタイン行政学がこの期の行政法学に大きな影響を与えたことには疑い
の余地がないが、しかしそれは、 行政法学の行政法学としての発展にはむしろ阻害的に働いたのであり、 この意味
︵22︶
で、既述のように、それを真正の行政法学の成立へ直接連らなる学説史上の存在とはみなしえないのである。︶八○
年代に入り、かかる“国家学的μ行政法学の時代潮流に樟さして、一八八四年のレーニンク︵臣oq醇ピ8短甲鴇一。。膳ω1
困⑩お︶、一八八五年のキルヘンハイム︵﹀● ︿05 閑凶噌Oげ05ず⑦血目︶、一八八六年のシュテソゲル︵国主牢婁。疑︿8誓窪oqe、
42 (2−3 ● 165) 311
︵23︶
一八九〇/九二年のグローテフェント︵O●﹀●08§。巳︶と、陸続、体系書が世に出ることとなるが、その皮切りを
なし、しかも代表者として自他ともに許すのは、イェーナ︵後にハイデルベルク︶の教授ゲオルク・マイヤー︵08﹁oq
︵24︶
箒巻﹁し。。置一お8︶である。 この、すでに﹃ドイツ国法教本﹄ ︵一八七八年︶によって著名の国法学者が、行政法の領
︵25︶
域に進出して初めてものした二巻の大著﹃ドイツ行政法教本﹄ ︵一八八三i八五年︶は、 一〇数ぺ!ジの﹁導入部﹂に
ドイツ行政科学史論(手島)
論
始ま軌、わずか五〇ぺ・Lジの﹁総論﹂.︵︾=αq①幕冨冨窪g︶を第︼部に、以下﹁内務行政﹂ へ五 .δページ× ﹁外務行
政叫,バ=δ褐ージ︶“、,﹁軍事行政﹂︵,一四〇ページ︶および﹁財務行政﹂︵回,二〇ページ︶の五部から成っておゆ、.”国家
ヘ ヘ ヘ へ
学的躍体系構成の特徴を音量なぐ示している︵﹁司法行政﹂が含まれていないの喚それを含めたばあい私法学との境界が曖
く除々に行政学の一般学科から分離され始めているので、.行政法にとっては行政学についての諸著作ハそれらは.しか
昧となることを慮ってざ体系的完結性を犠牲にしたものと見られ繍いめ ﹁導入部﹂でも文献解題の節では・ ﹁行政法はようや
ヘ ヘ へ
し通例内務行政のみを取り扱うが、それらが依然として大きな意義を持つ﹂として、シュタそンの﹃行政学﹄と﹃綱
要﹄︵第二版︶が冒頭籍介ざれ飽しかし・事実とくに第三部以下で募欝にも行政学的な遺伝体質は見舞募
轟とはいえ・嘉日の主要都分がむしろ﹁全く厳格に長径学的な仕方で﹂論述されているこ廼は・ゲオルグ●マイや乏
曇る〃国家学艶要素を強調する余かともすれば看過さ薩拶ξころであそ・注意を要しよう・すなわち・﹁政
治︵学︶曲観察法﹂を排し﹁法律学的方法を厳格に守ること﹂を序言に噺家著者が・未だ十分一般概念化されていな
い憾みはあ麺が・﹁行政法的諸概念の厳密な定式化・﹂行政的諸行為ど行政的諸制度の法的性質の探求と確定Lを志向
険割当の成果を挙げていることぼv本書そのものの随所・たとえば﹁行政行為﹂愈μ.﹁収用﹂晦に明らかである︵文
献解題において、行政学的著作に馴遂続き、 ﹁より法徐学的な性格﹂を持つものとして筆頭にF・F、・マイヤーの上述書が挙げられ
でいること鰯関連し百にとまる︶・かくてゲオルク←イやあ行政法学は・なるほど多量凶夢学事では蓼
ながぢも,法律学的〃方向へ確実に数歩を進めていると見でよぐ、.この意味では、素朴な11園家学的”傾向のエピゴ
ーネンたちとは少がらず趣を異にずるといわねばならない。 , ・・一、−.
〃法律学的”行政法学冒すでに天八か年のザルヴァエ・ぎ§ω§。三.・卜・①よ⑩軍による﹃公法と行政裁聾
以降・さすがに体系書でその色彩の濃いものには未だ彼の﹃行政法﹄︵天八四年︶を言えるに過ぎなかつ︵飽とぼい柔
42 (2一・3 .こ166) 312
モノグラフィしとしては、・オット.1・マイヤーの﹃フランス行政法の理論﹄︵一八八六年Yやゲオルクあイェリネック
の﹃公権の体系﹄︵天九二年︶を套充実した目録を呈示し始め魑今や・﹁いつ行政法の国家学的叙述法の﹃露
こうじて・天九五/九六年.懸シゴトラ穿ルクの大学にあぞも、ド書6マ毛レ︵σぎ畢・じ.・富−轟
ガ﹃ド皆ツ行政法﹄一↑静出現する。フォ川スドホフによ沁ば・ザルヴァィの体系は﹁権力分立・行政作用の法律的
制限於幻び個人の自由の基本権的保障に基づいて÷いて、 ﹁法治国家的行政の一般帥枠組と特殊面罵標識を遺切に特
イヤーの仕事であり、彼が現代ドイツ行政法的方法のそもそもの創造者かつ古典的巨匠とみなされてよい。﹂ ここに
、︵44︶
徴づけることに成功した・しがしなお・法治国家的行政の行為形式の法的締.助.揃藩に欠けゑそれはオ・ド←マ
クラシカ置 芋麺・﹁公行啓法形式に関する教説﹂︵エど,カウフマ狂い・﹁法当駅.曇ら出発しての・行政法の編成と叙述﹂
ヘフォルズトポ輪㍗すなわち・、黒黒学科どしでの行政学に対する黒黒学科どしての行政法学が・方法論的に自己を貫徹
した形で姿をあぢわし、.以後たちまち行政学を覆って行政研究に覇を言える独自の学統秘樹立するに至ったのであ
る。七、八○年代の”若き帝国”における行政改革の波もすでに収まヶ、よケやく¶経済的にも政治的にも飽満厭に
達レ狂パ九σ隻農の時代長里会盟壌︶︵プアン・ド・シエークル“世紀末”!︶が・そのような羨律学的”〃体系化”を促進
じた最大の要因であることは疑いを容れない。第二帝国の安定状況は、一般に法律学に対してぱY実定法秩序および
専ぢそれに依拠す惹解釈学的論理黒作の体系的自己完結性への信仰を意味する”法実証主義”の普遍化となって反映
い、ダル・ハしからう、ハントを経て後に伝わる公法学的法実証主義の伝統が㍉方法論的には”法律学的”︵または”私法
﹁能芸討﹂にも﹁時間的﹂にも﹁場所的﹂にもi親密な掛鰍鞠型通して・この海世界観的思潮にガ牙を浸した。そのさ
したが、.オッドー・マそやーば、なかんずく隣接領域”国法学の大先達ラバント.︵]℃9二一 冨ぴ僧昌、α” 一〇◎ωQ◎Lド㊤一Qo︶とのレ
4乞 (2−3 ・167) 313
陰嚢に新た姦立膝体系信管し・隻のものを克服しも客で誓嘉は・も露華の腰での奮りを聡
ドイヅ行政科学史論(手島)
説
払
日戸
的論理作業の過程で﹁実定法を超え、建築材料を行政生活の現実そのものから入手﹂しもする意味では﹁首尾一貫し
︵49︶
︵学︶的”ないし“構成的”︶と指称されるものであることに留意せよ!︵もっとも、後の”法実証主義”は、その一般化
レユベン
︵50︶
て実証主義的﹂でないと批判されるが。︶ オットー・マイヤーの行政法学は、かくて、一方で形式的にはモール以来の
一なおすぐれては”国家学的”なードイツ行政法学の系譜に連らなりつつ、それら先躍の中に垣間見られる”法律学
ね 的”傾向︵とくにF・F・マイヤー、ザルヴァィ︶に着目し、他方当時の法実証主義的ドイツ国法学から引き継いだ”法
律学的“方法によって、かの諸萌芽を全面的開花へともたらしたのであった。なお、この場面で素材となったのは、
もちろんドイツ帝国および諸邦の実定行政法であるが、それらの“法律学的”整序にあたって、このシュトラスブル
ク大学教授は、任地︵一八七一年以降、仏領から独帝国領となったエルザスnロートリンデン地方︶にあって自ら日常接触し
、 へ52︶
ていたフランス行政法︵必ずしもフランス行政法学にはあらず!︶の”先進的”な法概念。法制度に範型を求めている。
﹁国家学的システムによる行政法の叙述﹂を、各種行政目的ごとにそれらの周囲に﹁古典的となった表現に従って
いえぽ、 ﹃さまざまの法規定のこったまぜ﹄﹂を形成するに過ぎぬときめつける彼は、私法。国法.刑法。訴訟法な
コングロメラーテ ︵53︶
ど﹁旧来の姉妹学科﹂と対等に肩を並べ﹁固有の法理念﹂に導かれた行政法学の建設をめざして、 ﹁一つのドイツ行
︵54︶ 、 、 、
、 、 、 ︵55︶ 、 、 、
政法﹂の﹁個々の法制度の体系﹂を構築する︵﹁法制度︵菊8げ琶温江旨︶とは、法律学によって観察される諸法主体の法関係
ペヘルシエン ︵56︶
が提示する数多の素材を統一認識するための、法律学の﹁補助手段である﹂︶。彼によれば、 ﹁法治国家とは、行政をできる限
︵75︶
り司法形式化すること︵冒の二鳳曾欝σq冨審︶を意味﹂し、 そのためには﹁われわれの素材の法律学的な貫徹と適合﹂が
不可欠なのであった。 ﹁行政学との連携は、そのために不可欠ではない。それどころか、いろいろな欠陥を見せる。
︵58︶
法律学的に関連したものが、そのさい必然的に引き離されるし、また幾つもの法的に重要なものに対し、この体系で
はおよそ場が見出されない。﹂ かくて、素材が﹁自らをおのずと秩序づけた通りに﹂分類されるというその体系は、
︵59︶ ︵60︶
42 (2一一3 ●168) 314
ドイツ行政科学史論(手島)
﹁総論﹂︵﹁ドイツ行政法の史的発展段階﹂ ﹁行政法秩序の諸特徴﹂ ﹁行政事件における権利﹂︶と、それに数倍︵初版で三倍、二
版で五倍︶する分量の﹁各論﹂ ︵﹁警察権力﹂﹁公物法﹂﹁特別債務関係の法﹂﹁法人の法﹂︹町版では﹁権利能力ある行政体﹂︺︶
とで構成されている。一見して、在来の”国家学的”体系との質的違いが、とくに各論において明瞭である。個々の
行政法現象から法的な基本エキスを抽出し、各種の行政部門から普遍・共通の法制度を認識し確定することをもって
行政法学の任としたオットー・マイヤーの方法論では、伝来的意味での各論に存在の余地がなくなるのはけだし当然
︵61︶
であり、かくて彼の﹁各論﹂は﹁総論の継続﹂︵ゲオルク・イェリネック︶以外の何ものでもなくなるのである。実際、
つい ・ ︵63︶
その第三節以下は標題からしてすでに総論に編入されて少しもおかしくないし、さらに第一節と第二節も、従来の警
︵62︶
察法や財政法とは異り、 ﹁行政活動の特殊な種類﹂としての警察に特異な公権力現象たるh警察権力﹂、 ﹁その諸法
制度の自己完結的一面性﹂によって﹁警察権力への対﹂を成す﹁財政権力﹂をそれぞれ取り扱っており、いずれも全
行政に共通の一相対的にやや特殊な1法問題を論ずるものである。こうして、行政を、行政する国家と国民とい
う二法主体間の法律関係の観点から考察する方向は、.美事に徹底を見た。この“法律学的”行政法学こそ、ワルター
・イェリネック︵≦98峠甘=ヨ①ぎH。。。。㎝ード㊤綬︶を経て現代に至る正統のドイツ行政法学にほかならない。 ただし、法
治国家の法治行政的要請に最も適合した行政研究のあり方として、ワイマール時代に至るまでほとんど行政学を駆逐
して隆盛をきわめたこのドイツ行政法学には、ドイツ法治国家の宿命的体質に由来するアキレスのかかとがあったこ
︵餌︶
とを忘れてはならない。 行政の場面での国家・国民間の関係を法律関係として把握する場合、 これを近代法の理念
︵11私法的法律関係︶に従って可能な限り対等法主体間の法律関係として構成することをせず、行政法︵学︶の独自性
の名の下に、国家に“法的剰余価値”を認める“公法原理”を大幅に導入していた︵そして今なお、している︶こと
メぼアヴエルト
が、それである。 “法律学的”行政法学の建設者オットー・マイヤーは、また同時に、この意味での“公法原理”の
42 (2−3 ・169) 315
論 税
.、, 、 ︵65>、
確立者でもあっ、たのである。
︵1︶閃。議90鉾。℃.o剛fω●心ω曾
︵2︶参照、彦αこω●ミ.
︵3︶参照、陣びこごω●心。。.
42 (2−3 .170)’316
㎜・、’
鎗蘇朗ジリ。レΦ町 ・、・、,・.∵ −⋮−、
︵13︶ぎδ:ω.お●h.
︵12︶参照、まこごω・鳶瞥
︵11︶参照㍉帥三山こ0。.①Φh●
︵10︶参照一﹂玄衛こω・お・ ・ ” 、㍗ ﹁ 層 \.一.
・︵9︶参照、ゴ、一玄鳥博ωψ$1記・﹁ .. 幽 一, ・脱、.
入8︶参照、謡玄α二6Q・①。。h・
、、︵牝︶参照、一ぽ山・コQ。・刈ざ. 、 ﹃ ・・、 ・、 ﹁﹁、 ﹁
︵6︶参照、U①昌器£貫◎や9ダ0。.①。。●
暑梓げ①。,。且Φ属皆鼻魯ぽ叶磐h。q。ヨΦ田畠・、ヨ⑦ω寡暮ω而冨ωカ8拝一。。①噛っ・
︵5︶閃●司・駕超。が。三酉慧瞭Φα$<段蓄言轟ω菊Φ9叶ω⊆a.幻8青豆巴魯お葺ド。。華甲9§自聾N且$<霧二一§槻ω§鐸ψ
すなわち、二四年間の実務の知識から、彼は﹃諸原理﹄を書いたのであった。﹂ ︵帥げ陣門二ω。.①刈.>5轍P●一一刈。︶
.FゆF㍉マイヤーであみが、彼については、遺憾ながら、ほとんど伝記葡覚え書きが残っ﹁てない。しな詣、コその画幅原
理㌧へ.の序言の中でFしF・マイヤーは自ら、彼は 八三八年以来ヴゴルテンベールクの行政勤務に就いていると述べるq
淀的なインパルスを与えた行政科学者は、またも一人のヴュルテンベルク人であった。すなわち、郡長︵○三富巨§磐づ︶
︵4︶参照、忌9①鼠け斜8●9二ω.①①h一﹁ロトベルト∴フォン・モヨルの後に行政科学研究と行政法の体系的整序に決
ノ
ドイツ行政科学史論(手島)
バ扮︶その生涯ど業績につぎ、レ参照馬一玄9噛ω・一〇一>5ヨ.H㊤ω●
べ17︶その学問的キャザアの判明している部分につき、参照、凶ぼ似こω・一日﹀昌ヨ・N8..
べ18︶同玄ρ沼﹂oN一暁。軒
P9︶疑α●ゼω.δ蒔・.
行政学に関する彼の諸著作を通じて行政法学の促進に貢献した﹂・として註に彼の主著二種の紹介は見える︵ω賢、け一﹀昌9﹁C◎︶
@が、行政文献目録そめもの・︵ω.↑一hh●﹀かちはもはや除かれているのが注目されるゆ.急 ㌘ .四ぞご
バ28︶参照、U8づ。毛凶誌り6”?良梓二 ω・呂Φh・・∴・.い ∴T.こ ・・− 、
ぺ29︾参照、一玄αごρド8・
バ3σ︶たとえば、鵜飼信成﹃行政法の歴史的展開﹄ ︵一九五二年︶一五七頁。なお、塩野後講書︵註︵42︶︶五七頁は、註の中
宍▽で、’﹁ただ、彼等の場合において、その主目的は国家行為の法的考察にあったわけであるので⋮⋮、いわゆる国家学野方
ハ、、、︶法はいわばヌエ的な存在を脱していない﹂としている。
︵31︶O.§審きε.9け..、H.恥ω●ぐ● .
42・’(2一二3 &171)ノ3f7
︵26︶参照、U。言。ヨ貫⇔㌘0ード℃H.ω●δh・なお、−一九一‘○年の第三版では、﹁⋮⋮⋮ロレンツ・フォン・シュタインが、
べ26 ︶参照、U。暮。≦搾N.8・、〇一£ω・μ8●−・・ ‘・.・ 、・ −・ ド∴.蕊.﹁・: ・
ほかは第三版本︵ω・ ﹀鶴h一ぴ ぴO位﹃げ⑦一叶①けくO昌 司腕笹口N 一︶◎0ずO≦. H㊤戸O︶を参看した。
治よび∼九ご二/一・五年に版を重ねている、︵著者死後の第三版と第四版は︵ドヒ月ウによる改訂︶。 ここでは、初版本の
日子亭目︵﹀畠≦9、三〇q①<9≦巴ε昌αq・寓農四書︿霧≦巴ε昌oq.胃ぎβ。口薯。﹁≦巴ε50q・︶’困。。。。α●なお、一八九三年、.一九一〇年
バ25︶O.≧Φ巻さ冨冨ゴ9鳥Φωα①耽聾ゴ9<寓雪ぎ轟。・器畠仲ω.↓琶一H︵≧茜①ヨ①ぎ①冨寓9﹂峯①﹃。<Φヨ偵。犀§αq・︶レ。。。。ω罰
︵︵24.︶その履歴については、参照、皆圃αこω・HO。。﹀謬ヨ●圏①●
べ%︶参照︵U8三三悼押。,息貯ご沼い﹂旨一匿。。・...﹁..・ .:・、 ﹁ ∵ 、、.ご⋮ 、膏
︵22︶参照、後掲註︵27︶。
︿21︶参照覚︸ぼαこω.ごP..、.’ .−∵ ︸. 、: 已 .、∴ ・ 旨 ご.. ・ 、.r..・...・一 、・.∵﹂
︵20︶参照、一葺α二ω.呂9 ・ .,.・,・幽;..﹂ .﹁. 、..,.:・身:
((
(.
・論
説
︵32︶参照、U①言①惹貫9・o一けご0り.一8●
︵33︶Oし≦Φ矯。さ。℃.o津二、Hψω●︿し
︵34︶守ここω●卜。ω蹄● ﹂ . . . ・ .. . −.
︵35>一ぴ乙二〇Q.卜。①心hh.
︵36︶図ぴΣ;ω●一H●
︵37.︶その経歴の概略につき、参照、U①馨①三貫8・o一一二ω・一に︾づヨ●卜。b。㊤.
︵47︶参照、、一︶o嘗①≦一梓N℃b騨。搾・ω.爲。。●
︵46︶閏。謎昏oh抽。笹。諄ごω . o 。 卜 。 ● . ・ .
︵45︶U①5昌①≦詳押O℃●9什こω.一NNによるQ
︵44︶司。屋夢。鵠..o唱.9け二ω●お・
本稿執筆にあたっては、第一巻は初版と三版を、第二巻は初版と描版を繕治した。
︵43︶ρ蜜契①さU2畠9⑦ω︿巽≦巴εづσq段8拝H・bd血﹂。。雷鳩目﹂Wα●H。。⑩9N.︾鼠炉Hお置暢目お鼻ω●﹀ξ炉お鱒野
︵一九六二年︶二頁註1。
︵42︶その伝記に関しては、さしあたって参照、一ぼ山・噸ω●這ω︾5ヨ・Nおおよび塩野宏﹃オットー・マイヤー行政法学の構造﹄
︵41︶困ぴδこω・一b。O●
︵40︶参照、UΦ暮Φ琶梓押。℃・9仲二ω.Hおh●. ・ 、 !、 ,日
る﹂︶。
の書︺では︵一一九ページ以下︶、 ﹃狭義の行政法﹄の名の下に、行政学から独立に、行政法の純粋な諸法制度が現わ.れ.
マイヤーに続く〃法律学的”方法の先駆とし.て高く評価される︵O.蜜昌。きぎぐFH嘘ω・NO︾昌日●置●一﹁そこ︹こ
︵39︶参照、一玄飢二Qり.H辰hDω舞毒①ざ︾一一αq⑦ヨ。ぎ。ω<興ミ巴ε昌αqω器9戸ド。。c。心 は、後にオットー・マイヤーにより、F・F・.
ノグラフィーである。なお参照、U①暮①目貫。℃.9二二ω.ドOP
bd山畠冨づ巳§σqは、著者が一八七一−七七年の間に専門誌に発表した学術論文の集成で、.七五〇ページに近い堂々たるモ
︵38︶ω母≦oメU⇔ω黛h⑦暮崔。ずΦ閑8窪二昌印象Φ<巽≦巴εづαq爾8窪ω噂自ΦσqρH◎。◎。9↓飴ぴ5αq①罠 く2冨ひq9﹃=・冨q℃℃.ω9
42 (2−3 ●172)・・318
ドイツ行政科学史論(手島)
の
︵48︶参照、一玄α二ω●ド器・オットー・マイヤーは、一八八一年から一九〇三年にかけ、シュトラスブルク大学において、この
ドイツ公法学派の巨星と同僚であった。
︵49︶参照、塩野前掲書五三頁、五四頁註2。なお、オットー・マイヤーの方法が.、二言一骨ω江ω07..とも特徴づけられることに
関し、参照、閃。誘導。拝8・o一件こω・αO囲・
︵50︶3斧℃ω●器・
︵51︶○●冨︽輿●ε●6一梓・.H●H●﹀⊆Pω●H㊤h・﹀昌ヨ●。。りω●﹀自一・ω・b。O>5B●は・
︵52>参照、閃。屋90hh・o℃●良傍こ9αO恥塩野前掲書六九−八二頁。
︵53︶O・竃餌︽①さ。℃●o搾”Hリジ﹀仁h一・ω﹂G。uω.>qPω.H㊤●ここに用いられている:潔8αqδ9霞9︿o屋。甑巴ゆ昌①﹃男8算。・
ω馨N①..なる表現は、オットー・マイヤーの行政法学的処女作﹃フランス行政法の理論﹄に対するラバントの好意的かつ
批判的な書評の中に現われるもの︵︾同Oゲ。 O鴎h・ 国・ 切匙。 N噛 HooGo刈嫡 ω● Hα①︶。
︵54︶ぎ芦糟Hりω・︾⊆Pω●b。O●
︵55︶ぎ5.Hゆω・﹀三一.ω・卜。H・
︵56︶一ぴこ二H”昌・﹀鼠一・ω・Hω企ω●︾鼠一●ωD二ω.
ちなみに、塩野前掲書五四頁が、 ﹁法制度︵勾Φ0ゲ什ω帥昌ω四一什=け︶とは、法学の補助手段として、それによって観察される
42 (2−3 。173) 319
法主体の法律関係を組成するいっさいの材料を分類編成するものである。。法制度は、それによってその全体を同性質を有
ヘ ヘ へ
’ するいくつかの統一体︵σq蚕9玄Φぎ。巳。田遊似日豊︶.とし、そしてその全体はこれら単一物が絶えず反覆することによっ
て成立するものである﹂と訳しているのは、美濃部達吉︵﹃オット、マイヤー独逸行政法﹄第一巻︹明治三六年︺二三八∼九
ペヘルシエン
頁︶に従ったのであろうが、正しくは、﹁法制度とは、法律学によって観察される諸法主体の法︵律︶関係が提示する数多
の素材を統一認識するための、法律学の一補助手段である。法律学は、そこ︹法制度︺において全体を不変の諸単位1
それらの絶えざる繰返しで全体が成り立つところの不変の諸単位1に還元するのである﹂と訳すべきものであろう。
なお、 ﹁行政法学を行政法に特異な法制度の体系として構築すること﹂は、 ﹁国民と人民の関係の法化︵<。罎8窪一7
・9§oq︶﹂を前提する故に、 ﹁法治国家とともに初めて発生した﹂のであることにつき、 参照、 団。諺夢9ひ。℃・9二
ω・心㊤・
●
百冊
説
芸ム.
︵57︶○●竃塁。び8.9けこH噂ω●︾焦一●ω・①卜。.参照、H.︾⊆Pω・09
︵58︶一ぴごこH轡﹁ω・︾二Pω●①ω●
︵59︶一ぽαこ圏.ゴ﹀薮一’ω.お.
︵60︶一σこ:Hりω●︾焦一●ω●曽.
︵61︶参照、Uo§Φ三什斜。℃’o搾鴇ω.一お●
︵62︶ρ]≦塁Φさ8●o搾℃H●一・︾¢h一●ω.漣頓・ω.﹀無一●﹂ω●卜。Oω.
︵63︶一9ユニ碧G。●﹀無一.ω●ω与∴参照、一●︾氏一.ρ。。刈。。・
︵64︶参照、男。屋90h劫。Ψ息什こω●㎝心h●
︵65︶参照、塩野前掲書二六〇一一・一八八頁、一七一一八頁。
第六節 行政学と行政法学の総合へ?
”行政学か行政法学か”通以上見てきたドイツの,行政研究発達史は、 両学科の間に、 系譜的同根・交錯ととも
に、一方が他方を併呑ないし圧倒する穿箸巴醇6α巽の関係がY少くともこれぎで、は存在してきたごとを示してくれ
た。
二〇世紀の前半は、この意味で行政法学のヘゲモニーの到ちに推移した。もっとも、第一次大戦を経てワイマール
期に入ると、この行政法学の一見揺るぎない支配権にも、その根底で腐蝕作用がひそかに一しかし着実に進行し始
める。“市民的法治国家”を支えた経済社会体制の、高度資本主義段階への決定的な移行が、その根本原因であった。
今や溢する経偽社会的藷矛盾藷璽求の処理に、国家一とくに行政一霧極歌出票飛躍的に要請されざ
るを、Xない。がかる現代的な”職能国家〃ないし”行政国家〃・へ向う抗い難い時代の趨勢の中で、二・昔前の・.市民的
42 (2−3 ●174) 320
ドイツ行政科学史論(手島)
法治国家レに合わせて銚宜ち血た行政法学が、もはや行政研究に独占的主導権をふをいえ癒くなるごどは、珪の当然
であったので騰る。一九二四年に、斯学の泰斗オット∼・マイヤーはなお、﹁憲法は変るが行政法は残る﹂と今日も
︸, ︵−︶
働口に要する名 、を洪て疲の行政法学の不動の穣⑤︶を誇りえた。しかし、期せずしてこの宣言瑛灌
紀にまたがヴて一世を風びしだとはいえ本質的に一九世紀自由主義の児であったこの老巨匠の眼が新時代の底流をつ
いに見透しえなかったことの自己告白であったことは、その後の行政法学が彼を継承しつつも大きく軌道修正を図ら
︵2︶
ざるを得なかったことに明らかである。ここでは、その代表例としてワルタ、1・イェリネヅク﹃行政法﹄を挙げておくに
とどめよう。ナチス政権下の一九三八年には、後に第二次大戦後の西ドイツ行政法学界を牛耳ることとなるフォルスト
水フ︵︼円﹃昌ωけ 聞◎﹁ω件ゴOhh・ ドΦO卜◎一一㊤甘心︶その人によって、行政任務の変質︵後述﹁生存配慮﹂のクローズアップ︶に社会学的に
着目し↓行政法の鰐穂掛を現代行政の現実とヨ善接に関係づけること﹂を力説引る衝撃の奪世尊われている・
一九四五年σ破局から立ち直った二〇世紀後半の西ドイツにおいて、.右の経済的社会的状況はいよいよ発展ないし
複雑化の一途を辿る。一九四九年のボン基本法には”社会的法治国家”が誰われ︵二〇条︶、識者の間では今や”行政
国家”について語られるのは普通のこととなった。.行政活動の非法上下面の増大・重要化を意味するこのような情勢
の中で・かぞ一九三年ワル画聖●イェ某・クによそ﹁ほとんど・終端.纏に突っ込んでしまった﹂と宣告毒
までした行政学が・.急速に失地を回復す範。早くも一九四九年に公刊されたべーターズ︵旧きω頴仲①画一。。㊤①﹁一Φoo︶の
﹃行政教養,庶・書名がいみじくも示すように・五四〇ぺ一・ジにびっしり詰まったその内容を・単に総論・各論編庇
の行政法理論をもってのみならず、﹁行政の諸推進力﹂ ﹁行政組織﹂など行政学的な独立の二章︵総論中︶や﹁文化と
行政﹂ ﹁福祉行政﹂、﹁農業﹂.﹁交通﹂ ﹁経済﹂、など行政学的所見を多分に含む”国家学的”な各論の諸章節をもって
も充たしたものであった︵もっとも、この総合行政科学的試みは未だけっしで成功とはいえなかったがーー︶。 かか
42 (2−3 ● 175) 32工
︵7︶
る行政学ルネサンスに際しては、今日の市民社会的状況を1当時の立憲君主政に制約されてではあったがIiいち
42 (2−3 9176) 322
︵2︶零.冷一一言。ぎく巽≦巴εづoq段8鐸胃おb。ごト。●φ無一●おト。Pω◎︾亀一・おω一. 彼を代表例に挙げることについては、参照、
︵、−︶O.ζ昌①さ。㍗。牌二ω・︾¢h一・おN蒔・︿o円≦o簿鉾。。・﹀鼠一・
しょう。︶
政治的に、さらには学史的にもドイツと似るところ少くないわが国についても一最小限の変更留保づきで一妥当
ムタ チス ムタンヂス
今日における両学科間の現実の、そしてまた、あるべき姿にほかならないβ︵ここに述べたことは、経済的・社会的・
併存ないし共存の時代を迎えたといえようか。すなわち、 “行政学も行政法学も”ム。ぎず一・≧ω.>g9の関係こそ、
要な社会的政治的意義を保持し続けることを意味している。かくて、行政科学の現状は、初めて行政学と行政法学の
行政法学もまた今日依然として行政研究の一分科としてレゾソ・ゲートルを喪わぬこと、否、むしろそのきわめて重
表現︶であると同時に、なお“法治国家”︵前者によって最小限変容を余儀なくされてはいるが一︶である。このことは、
ところで、”社会的法治国家”といわれるように、現代の西ドイツは”社会国家μ︵”職能国家〃の憲法イデオロギー的
し復活され、若い世代の行政学者も輩出して、行政学の研究は再び華やかな脚光を浴びようとしている。
〇一例というべきであへ犯。こうして・シュパイヤーの行政大学髄を中心に・各地の大学で行政学の講座が新設ない
い。、モルシュタイン回マルクス︵喝昏N羅。夙曾㊦ぎ・冨N×噌ドΦOO一お$︶など、 身をもって米独の行政学界を架橋した好箇
すでに機縁を与えたともいわれる︶が、しかし、ここに最大のインパクトを与えたのは、アメリカ行政学を措いて他にな
られてはきたのであり、一九二三年のスメントの論文は﹁ロレンツ・フォン・シュタイン再発見の形で一種の行政学ルネサンス﹂に
︵8>
.再生の拠り所を求めようとする動きも見られる︵実際、シュタインの学燈はまことに細々とではあるが世紀を越えて守り続け
早く先取り的に見抜いて”社会王制”の処方箋を提示したシュタインの行政学が想い起ざれ、そこにドイツ的行政学
論説
ドイツ行政科学史論(手島)
一︶O昌昌O≦津N噂OO●O搾こω・ド①ω. ω●H刈ωh・
︵3︶男。おぎ9抄U一〇<再≦①叩け§αq⇔隠妻一馨§ひqω霞9、Oq⑦さ這ω。。●本書は、戦後再版の要望に応え、 ﹁当時の現行法に照らして
の例示﹂を内容とした諸学を除き、 その第.一章﹁現代行政の任務としての生存配慮﹂と第四章﹁諸帰結﹂とが、新たに
@﹁導入部﹂と戦後の一講演とを加えて公刊されて.いる。 団。諺導。搾肉8窪ωh冨oq①口α頸蚕・。8巳窪ぎ﹃誰犀§σq℃お巳●
︵ω◎ず泣h①昌﹃O頃ゲO畠O﹃=◎0ゲの0ゴ⊆一〇ωb⑦嘱O﹃剛乱●αO︶り.一㊤刈N噛ωω・HHl㊤幽・
42(2−3●177)323
︵10︶参照、司冨昌N閑昌9自ρb。切田富器国8ゲ鴇ゴ三〇凄円く霧三巴εづαqω註ωω窪巴﹃鉱8昌ω需︽Φ﹃﹄︶①ヨ。す豊。§島く巽ミ9窪5σq
︵9︶参照、手島﹁書評・足立忠夫著﹃行政学﹄﹂ ︵前出﹃政策決定と公共性﹄所収︶三=二一四頁。
⇔巳く。屋一物8P男①ω尻。ゲ﹃一事隷﹃卑5ω山田。屡屡9h噛お謡・ω・b。心ω.なお参照馬U。暮。ヨ什N.o℃●9什二器●ミ刈ード。。膳●
︵8︶聞﹃侮日Nン貯噸δさ︼︶陣Φぐび吋ミ鎚一円⊆昌αq巴03触O鋤一qoω一二α一〇月日昌α勺﹃麟h二づoq◎摩h①Oゴh口﹃α一〇臼βユ馨Oづ鋤¢o陰玄一四二昌αq僧昌α①昌ユ①⊆岳0ずO昌
︵7.︶参照、局。議夢oh抄冨鐸げ⊆9鉱。ω5暑亀ε昌oq段8茸ω℃’Hりω・盆●
︵6︶℃⑦8﹃。・℃常冨喜魯畠興くΦ暑⇔冒§αqL㊤お●
ω●揺・
︵5︶参照、国ユ9切8ぎさω巨富ロロα﹀‘断oqpげ。昌血嘆く臼≦匙ε昌ひqω≦δωΦ5巴冨h計閃霧房。寓一hけh旨聞二巴ユ。ゲ9$ρお㎝ω・
︵4︶≦●一。霞b。ぎε.9;ω﹂8●
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