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「人生の訓練」;V.レイモンド・エドマン著
「人生の訓練」;V.レイモンド・エドマン著 「私の子よ、主の与えられる訓練を軽んじてはならない。主に責められるとき、あきらめてはならない。 なぜなら、主は全て愛する者を訓練し、ご自身が心から受け入れる全ての子に純化の鞭を加えられるか らである。」 (ヘブル書12章3~6節) あなたがたは訓練を受けるために服従しなければならない。神はあなた方を、子として取り扱ってお られるのです。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 1、弟子としての訓練 弟子になるという事は、訓練を受ける者になるという意味である。弟子とは、師なる方に教えられ、 訓育されてきた者のことである。無知のまま、迷信や罪を持ったままで師なる方の下に来て、真理を学 び、救い主から赦しを受けた者のことである。たとい主の御名を口にし、謙遜なナザレ人の従者という ことで通っていても、師なる方の訓練を受けなければ、弟子ではない。規律や忠誠心が重んじられる代 わりに、自由や放任が強調される現代においては、これまでにまして、主の弟子としての厳しい訓練を 受けなければならない。 弟子となるには、回心が必要である。すなわち、自分は神に反抗したために神から離れた状態にある ことを認め、悔改めの心で救い主なる主イエス・キリストのみもとに来ることである。そのとき私たち は、 「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」こと(イザヤ43・8) 、 「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いること(ローマ3・23) 「聖書は全 ての人が罪の下にあると断定した」こと(ガラテヤ3・22)、そして、私たちが「ほかの人々と同じく、 生まれながらの怒りの子」であり「約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神 もない者であった」こと(エペソ2・3、12)を、心から認めなければならない。 この訓練は、生まれながらの人には困難である。謙そんに自分の罪と恥を認めなければならないから である。しかし、カルバリで罪のためにどれほど大きな犠牲が払われたかを知る、誠実で賢明な人には 容易である。十字架以前の時代に生きたダビデは自分を見つめて、 「わたしは主に罪を犯しました」と叫 んだ。すると神はご自身のしもべナタンを通して、主もまたあなたの罪を除かれました」と答えられた。 (サムエル下12・13)。ペテロは主の御力を目の当たりに拝した時、自分の汚れた状態を悟り、ひれ伏 して、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深いものです」と言った(ルカ5・8)。ある女性は泣きなが らイエスのみもとに近づいて、悔改めの涙で御足をぬらし、 「あなたの罪は許された。 ・・あなたの信仰 があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われる救い主の御声を聞いた(ルカ7・48,50)。 また悔い改めの心に満ちた取税人は、自分の罪を真に悲しみながら、 「神様罪人のわたしをあわれんで 下さい」(ルカ18・13)と祈り、義とされて家路に就いた。いつの時代にも、自分自身に失望落胆した 人々が、このような方法で救い主のみもとに来て、あわれみを請い、救われてきた。しかしそれは、 「私 たちの行った儀のわざによってでなくて、ただ神のあわれみによって、 ・・・私たちは救われたのである」 (テトス3・5,6)。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子と なる力を与えたのである」 (ヨハネ1・12) 。救われないままで、神の子となることはできない。そし て、神の子でなければ、弟子となることはできないのである。 神がご自身の御名の栄光を表わすために訓練なさるのは、ご自分の子らだけである。神はご自分の子 らを教え、鍛練し、かたくなな心を柔らかくし、円満な人物として、堅固な者に仕上げたいと望んでお られる。それは、 「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負って、わたしに 学びなさい。そうすれば、あなた方の魂に安らぎが与えられるであろう」(マタイ11・29)と語られる 方の素晴らしさを、人々にはっきりと示すためである。父の訓練、すなわち厳しい躾を受けない者は、 子ではない。しかし、それと同時に、子に対する励ましの御言葉も受ける必要がある。「わたしの子よ、 主の訓練を軽んじてはならない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子を、むち打たれるのである(ヘブル12・5,6)。このような躾は、「当座は、喜 ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思はれる。しかし後に成れば、それによって訓練された ものに、平安な義の実を結ばせるようになる」(11節)。 弟子は、犠牲を払うことについて訓練されなくてはならない。 「私より父または母を愛する者は、わた しにふさわしくない」(マタイ10・37)と語られた主の御言葉は、私たちの魂の奥底まだ探るものであ る。のちに、主はこの御言葉を取り上げて、神聖な原則を明らかにされた。 「だれでも、父、母、妻、子、 兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となること はできない」(ルカ14・26)。 弟子となるにはすべてを憎み、自分の命まで憎まなければならないとは、どういう意味なのか。私た ちは両親や兄弟や子どもたちを愛し、尊び、キリストを信じるゆえにいっそう隣人を愛すべきでないの か。主は何を言おうとされているのだろう。それは私たちがタルソのサウロのように、心からこう言え るようになることではないだろうか。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、 いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしは全てを失ったが、それらのものを、ふ ん土のように思っている。それは、私がキリストを得るためである」(ピリピ3・8)。私たちは主イエス・ キリストを、自分の心の至高の王座に迎え、なにものにも勝る方として仰ぐべきであり、他のいかなる 人や物にもこの立場を譲ってはならない。両親や愛する者たち、財産、あるいは自分の命まで捨てるよ うなことがあっても、キリストの大いなる恵みには及びもつかないのである。 すべてを捨て、自分の命まで惜しまないということは、弟子としての訓練の中で最も深いものである。 世には自分自身より愛しく思われる人を持つ人もいる。しかし、救い主よりもいとしいようであっては ならない。私たちは、救い主のために、またその御業のために、愛する者や世的な快楽をすて、それら に対して死んだのだ――ただイエスのみ! 主は、弟子としてのこの訓練を軽く見たり、いい加減に取 り扱ったりすることを戒めておられる。主は二つの例話を通じて強調し(ルカ14・28~33)、こう結 ばれた。 「それと同じように、あなた方のうちで、自分の持ち物をことごとく捨て切りものでなくては、 私の弟子となることはできない」。 あるとき、外国に住む一人の信者が、聖職について神に仕えるべきであると召命を感じた。しかし、 妻はがんとして受け入れない。収入の良い今の職を捨てて主イエスのしもべにでもなろうものなら、き っと仕返しをすると言って、夫を脅迫するのである。ある晩、彼はつつみを抱えて私を尋ねて来た。目 に涙が光っていた。私はマルコによる福音書(10 章 29~30 章)を開き、読んだ。 「よく聞いておくが良い。 だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必 ずその百倍をうける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子及び畑を迫害と共に受け、ま た、来るべき世では永遠の生命を受ける」 。 祈りと涙ののち、私は彼に尋ねた。 「その包みは何ですか」 、 「私の仕事着です。私は今日、会社を辞め て来ました」 。 彼は事前に、犠牲を覚悟していた。そして、ただイエスの弟子となることを求め、全てを捨て、どの ような迫害にも甘んじて受ける決意をして出て来たのである。その結果、ついに妻も心から主に従うも のとなり、こうしてふたりは神の家の柱となった。 さて、十字架を負うということも、弟子にとって欠くことのできない訓練である。私たちにとって毎 日欠くことのできないことが三つある。すなわち、食事をすること(私たちはこのため祈るべきである、 マタイ6・11)、働くこと(忠実に働くべきである、第一テサロニケ4・11~12)、そして、日々自 分の十字架を負うことである。主は言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 日々自分の十字架を負うて、私に従いなさい(ルカ9・23、マタイ16・24)。「自分の十字架を負う てわたしについてくるものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14・27)。 この十字架とは、救い主が私たちのために負われた十字架ではない。なぜなら、私たちがどのような 代価、すなわち犠牲を払おうとも、主がすでに成就された贖罪のみわざに加算することはできないから である。またそれは、首に十字架の飾り下げて歩くことでもなく、肩に十字架を背負って歩くことでも ない。自分の十字架を背負うとは、自我を否定することであり、神の御心に全く服し、かつカルバリの 十字架の心をもって、人生のあらゆる物を否定することである。 私たちは、主の十字架に加算するためではなく、かえって、主が十字架につかれたゆえに、日々世に 対して十字架に死に、また、世の中の良きにも悪しきにも死んでいるのである。主が十字架に負われた 故に、私たちも、自分の十字架を負う。すなわち、師の弟子となるために、柔和で心のへりくだった方 に学ぶのである。 私たちがへりくだって、何をすべきかを知らぬまま、涙に溢れ御前にひざまずくとき、主は私たちの 魂に対する心の愛情と優しさにあふれて、この尊い訓練を授けて下さる。 世は私たちを引き付けようとしてまばゆく光るが、主イエスに比べればおぼろげな光にすぎない。愛 する者たちは私達の心を魅了してやまないが、しかし、このかたこそ真に愛すべき方である。主の愛は 全ての障害を打ち砕いた。そして、私たちはそっとささやく。 「主イエスよ、どんなに犠牲を払うことがあっても、どのような十字架があっても、私をあなたの弟子 として下さい」と。・・・・・・・