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「予科練」第428号 - 公益財団法人 海原会

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「予科練」第428号 - 公益財団法人 海原会
88
8
団
難・誹・蕃①難・難e難e難e難
、重陣痛J争立ちブ、松宇も、吋
強華夜で書を似仁て∼乞㌻
困圏圏
の碑N。,86
l
海軍及び予科練各種記念碑・慰霊碑
nYJbの?●
牧羊1t1−
3才ら省一招く
遠藤中佐・西尾少尉の碑
太平洋に突出した渥美半島中程の田原町の農家の敷地内に、故遠藤中佐・西尾 治少尉
の慰霊碑が建立され、﹁愛機月光最後の地﹂と刻まれている。
この碑は海軍戦闘機乗りとして勇名を馳せた遠藤大尉と偵察員西尾上飛皆が夜間戦闘機
﹁月光﹂に搭乗昭和二十年一月十四日、中京地区空襲の﹁B29﹂六十余機の大編隊に勇敢
に空戦を挑み、一機撃墜一機撃破の成果をあげだが自らもエンジンに被弾、民家を避けよ
うとするうち、地上に激突して壮烈を戦死を遂げた場所に建立されたものであった。
自宅敷地内に戦死を遂げた両勇士の
●碑 文
●建立年月日
●所 在 地
河合 正氏
川田 順氏、相良 輔氏の歌
昭和五十四年一月十四日
愛知県渥美都田原町神戸高畑
︵〇五三−一二−一九〇〇︶
●問い合せ
してこの﹁碑﹂を建立した。
し、三十三回忌に遺族、同期生と協力
武勲を讃え、河合 正氏は懇ろに供養
詳説較∴∵:■∵ふ
点∼・saや
遠藤大尉は予科練習生第一期︵後の乙種飛行予科練習生︶として横須賀海軍航空隊に
手 套、 膏
入隊海軍航空隊のエースとして勇名を馳せた。この壮烈を戦死で二階級特進した。
葛Mで ̄車 ̄で∴∴篤 も
よこ
lわれら
高松宮妃殿下御歌
予科練習生を偲びてよめる
霞ケ浦に立ちて海軍飛行
散華せし
はたおはそらに
海はらに
きみら声なく
いく春やへし
この御歌は、高松宮喜久子妃殿下
の御直筆で、有桶川流と申しあげ、
妃殿下はその御宗家にあたられると
承ります。
誤審嘩嘩肇畢嘩嘩嘩嘩嘩嘩
燕庸e燕溝藻溝e鶉e隷藻巌寓藻藻㊤藤燕。鶉巌漢藻e鴇癌溝巌藻情操漠藻虜藻e隷e菰諒。燕
幣濫牒溝e馨を幣薯溝も馨①常葉浄尊命紫馨e馨薯も葉紫蘇馨登薯e紫馨登e薄紫濫摩噂常食馨e幣
2
紛
︿
科
予
蚤軍港蒋接辞続落生
遺書 遺詠道議 幸せ
謹啓
海軍上等飛行兵曹
船 戸
第十期甲種飛行予科練習生
巌 神奈川・十九歳
無生死闘の巷にいまだ生を享け意気まさに軒昂、倒れて後止まざる攻撃精神を
以て、敢闘来たるべき一大進撃に満をじして居りますれば、先々御休心ください。
事此処に至りて今更申し述べる事これなく、、ただ現時局に及将来ふさわしき
又、恥ずかしからぬ女性として、八重子を御願い致したくあるは之のみです。
猶、別送として身辺品の一部、及人形を御送致しますすれば御納め下さい。
敬具
では、皆々様にも益々御壮健にて御暮らし下されたく、先ずは乱筆ながら一文まで
皆々様
周淡く 水ス清く 潜む心
朝日を浴びて 飯でたつ我は
昭和二十年四月二十四日
第二〇一海軍航空隊・クラーク地区ピナツボ山西北方バアンガー部落付近に於いて
敵上陸軍と交戦戦死
第四十八回線科練戦没者慰霊祭のご案内
本年もまた、左記の要領により慰霊祭を開催致します。戦没
同窓の慰霊と、その意思を継ぎ戦後を遣しく日本の再生に努力し
た、生存同窓の絆を確認し合いませんか。
記
︵茨城県稲敷郡阿見町青宿一二一の一︶
きませんのでご注意ください。
入門証のない方︵同伴者は除きます。︶につきましては、入門で
あるいは入門時に係りにご呈示ください。
目土浦駐屯地への入門証を郵送いたしますので、送迎バス乗車時
ご連絡・本年から、返信用葉書でご出席をいただいた方には、後
に四月三十日までにご投函ください。
直会などの準備の都合上、ご参加を希望される方のみ、本機関紙
に同封した返信用ハガキに所要事項をご記入の上、切手を貼らず
いたします。
※ 参加を希望される方は同封のハガキにより参加申し込みをお願い
電話 03−3768−3351
戦没者のご遺族は一柱につき一名様のみご招待
︵付き添いは一名様につき四千円︶
連絡先・ご質問等は公益財団法人 海原会
第四十八回濠科練戦没者慰霊祭実行委員会まで
参加者︵同窓・一般・同伴者︶五千円
IR常磐線土浦駅東口から送迎バスを運行します。
費迎
陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内
所 雄翔園
日 時 平成一一十七年五月二十四日︵日︶雨天決行
午前十時三十から︵受付九時から︶
場
会送
〈予科練〉 (4)
予科藤生訪問記第五凪
∵∴翼なき特攻子
・ ∫ 、。 → 十㌦,、。 ﹁、∴i、∴i
公益財団法人 海原会
アドバイザー 行方 滋子
私は、平成二十六年十月三日、
秋晴れの穏やかな日に山梨県笛
吹市を訪ねました。
訪問の目的は、三枝 直︵ま
こと︶少尉のご遺族にお話を伺
うことと、お墓参りをさせてい
ただくことです。
以前からずっと﹁三枝 直少
尉について知りたい、お墓参り
がしたい﹂と密かに熱望してい
たので、前日は胸の鼓動が高鳴
り、遠足前の子供のようになか
なか寝付けませんでした。
到着して最初に出迎えてくだ
さったのは、ご高齢でありなが
ら背筋がピンツと伸び、凛とし
たオーラを放つ白髪の素敵な紳
士でした。私は、お会いした瞬
間に緊張してしまい、恥ずかし
ながら、うまくご挨拶すること
ができませんでした。
凛としたオーラを放つこの神
士こそ、少尉の令兄であり、戦
後、山梨県立農林高校校長を務
められた三枝正徳さんでした。
いちの次男として生まれまし
桜神社前駐在所で父一止・母
一
また、正徳さん自身も元海軍少
十三期甲種飛行予科練習生とな
り、夢への第一歩を踏み出しま
した。入隊から三カ月後、飛行
だったから、旧制高校や陸軍士
官学校・海軍兵学校を勧められ
ました。でも、それでは教育期
間が長くなり戦局に間に合わな
い、今、自分のような若者が決
起しなければいけないと、両親
を説得して予科練を受験しまし
た。﹂と言い、少し間を空けて
から﹁直は、痩せていたのでパ
ンツに鉛玉を縫い込んでもらい
体重を増やして検査を受けたん
です。﹂と静かな口調で話して
下さいました。頑張り屋の三枝
は、いつもトップクラスの成績
様子を﹁直は、偵察員では航空
偵察第五十八分隊で教程を履修
することになります。そして、
卒業を間近に控えた八月のある
日、突然総員集合が命じられ密
閉された格納庫の中で﹁戦局を
一挙に挽回するための○○兵器
とよぶ新型兵器ができた。飛行
機搭乗員ではないが、優秀を搭
乗員が必要で一人で操縦するも
のである。よく考えて志願して
欲しい。﹂と土浦海軍航空隊司令
から説明され、志願票が配られ
ました。正徳さんは、その時の
十一日、予科練揺藍の地として
名高い土浦海軍航空隊に転属、
機搭乗員としての適性検査を受
検することになりますが、夢に
まで見た操縦要員ではなく偵察
要員に決まり、昭和十九年三月
少年は、駆け足・鉄棒等で懸命
三校直少年は、大正十五年八
月二十七日、山梨県富本村の金
尉で、呉に近い倉橋島の大浦突
た。そして、山梨県立甲府中学
校五年在学中に予科練に志願し
ますが、兄正徳さんは、弟の予
科練への志願理由について﹁直
に体力づくりに励み、足りない
機に乗せてもらうだけで、自分
が敵と戦うことができない。そ
れなら、自分の手で操縦梓を握
撃隊付として訓練をしていた時
に終戦を迎えたそうです。
体重を鉛玉で補い入隊検査に臨
み、念じれば通ず︰・の努力
して下さいました。私は、正徳
うです。﹂と、寂しい目をして話
願か﹂それとも﹁強制志願か﹂
妻子のために﹁必ず生きて帰る﹂
と約束をしながら、なぜ特攻隊
貝となったのか・・・・。その
真実にせまる物語です。テレビ
ドラマの中で、特攻は﹁自ら志
内容は、主人公の宮部久蔵が、
の0﹂が映画化され、さらにテ
レビドラマでも放映されました。
近年、百田尚樹著書の﹁永遠
と言う問いがありましたが、特
攻隊員の遺書を見ても本心が書
かれているとはかぎらず、心の
内を知ることはできません。し
が実り、見事に合格。
こうして、昭和十八年十二月
前置きが長くなりましたが、
本題に入りましょう。
かし、私は﹁三枝少尉は、強制
一日付けで三重海軍航空隊・第
り戦果をあげたいと志願したよ
にしましょう。
ではなく自らの強い意志で特攻
を志願したのではないだろうか﹂
と考えました。その答えを出す
ため、彼の生い立ちを辿ること
(5) 〈予科練〉
する彼の強い信念と、負けん気
撃前の十二月八日、特別休暇が
出撃することになりました。出
海軍飛行予科練生として初陣を
かざり、神潮特別攻撃隊・菊水
隊に続く第二陣・金剛隊として
さんのお話から、誰にも頼らず
自分の道は自分で切り開こうと
の強さを感じました。
許されたため帰省し、三日間を
家族とともに過ごします。そし
ここからは、正徳さんがした
ためた手記を参考にしなから書
いてみようと思います。彼は、
航空機への夢を諦め、特攻隊へ
いか﹂と尋ねると、﹁私には何も
心残りはありません。今までお
世話になった方々によろしく伝
て、最後の日に甲府駅まで同行
した父親が﹁何か云うことはな
の志願を熱望し、さらに強く希
望するとの血書をしたため分隊
士に提出しました。分隊士は、
優秀な偵察員として思いとどま
るよう説得しますが、止めるこ
発車間際に父親に紙片を渡しま
した。その、紙片には、﹁すめぐ
二飛菅が突然﹁艦長−・南十字星
はどれですか?﹂と聞いたそう
です。しかし、常日頃から空を
見上げる暇がなかったため、南
十字星を見つけることができず、
両名はそのまま﹁乗艦します!﹂
と決然挙手の敬礼をして、その
場を立ち去りました。そして、
一月十二日午前三時、一号艇の
石川中尉が発進。続いて、二号
艇森二飛菅、四号艇工藤少尉が
相次いで発進し、三号艇の三枝
二飛宮は、溜まった水を排水し
た後、最後に発進しました。
十三期生九三五名、乙飛二十期
生百名で、内、土浦海軍航空隊
出身戦没者は三十三名です。三
枝少尉を含め三十三名の写真は、
現在、雄翔館に展示してござい
ますので、ご見学に来られた際
はぜひご覧ください。
そして、私が正徳さんにお話
しを伺っていた建物は、終戦後
に父親の一止さんが慰霊と末永
く追悼したいという気持ちを込
め、昭和二十二年十二月に書院
風の仏間を建築し﹁直心堂﹂と
名付け、位牌を納めた仏壇のほ
章・関連資料等を保存するため
か遺影・遺品・遺書・勲記・勲
くにいらっしゃるような気がし
グアム島アプラ泊地に突入・
戦死︵享年十八歳四カ月︶
戦果は、﹁敵機発見!﹂ の叫
び声とともにイー五十人潜水艦
が急速潜航したため、確認する
て、とても離れ難い気持ちにな
をさせていただこうと、外に出
た時、庭に歌碑があることに気
付き正徳さんに尋ねましたとこ
ろ、﹁この歌碑は、昭和四十四
年三月に土浦の甲十一二期同期生
有志によって建立されました。
上の句は、直が戦友に残した
しばらくしてから、お墓参り
りました。
に座っていると、三枝少尉が近
に建設したお堂でした。﹁直心堂﹂
ことができなかったそうです。
しました。
私は、正徳さんのお話を伺い、
手記を拝読しながら、三枝少尉
は自らの意志で特攻を志願し、
回天の名の通り天を回らし戦局
を逆転させたかったのだと確信
明けて、昭和二十年一月十一
日の午後九時過ぎのこと、船橋
に立ちグアムの灯りを見つめて
終戦までに回天搭乗員として
着任した予科練出身者は、甲飛
一
いた艦長のもとへ三枝・森二等
飛菅の両名が近寄った時、三枝
を目指しました。
にの 仇砕かずば 何をなし
なにを学ばむ 大和男の子は﹂
と辞世の歌が書かれていました。
大津島に戻った三枝二等兵曹は、
昭和十九年十二月二十九日に両
親宛ての遺書を記すと、三隻の
潜水艦に分乗し相次いで湾外に
向け出港し、サイパン・グアム
えてください︰ ︰。﹂と言い
とができず、土空十三期生百名
の一員として大津島の訓練基地
に赴くことになります。回天の
訓練は、特眼鏡のみの視界で、
発進・潜航・操舵を一人で行う
ため操作が極めて難しく、また
開発したばかりで故障も多く訓
練中の殉職者も多く出ていまし
た。そんな中で、三枝飛行兵長
は搭乗訓練にとても熱心で、操
作技量をどんどん高めていった
そうです。その後、昭和十九年
十一月に二ケ月の訓練行程が終
わり二等飛行兵曹に進級すると
同時に、北海道出身で土空同期
の森稔二等飛行兵曹とともに、
一
(6)
〈予科練〉
ました。
歌﹃散るときぞ、美しかりし櫻
花﹄で、下の句は父親が口ずさ
んだ ﹃また咲き出む ふる里の
庭﹄ です。﹂と教えてください
一歩・二歩進んでは﹁直心堂﹂
三枝少尉が戦死され、ご家族
や同期生の深い悲しみがうかが
い知れます。私は、お墓参りに
向かうため歩き出しましたが、
を振り返り、それを幾度となく
繰り返し言葉にできない寂しさ
を感じながら車に乗りました。
三枝家のお墓は、ご実家から
比較的近いところにあり数分で
到着しました。墓前にお花を供
え、お線香をあげ、両手を合わ
せながらご冥福を祈りました。
﹁今の日本は、皆様のおかげで、
とても平和です。ありがとうご
ざいます
墓石の隣には、昭和五十四
年三十三回忌を迎えるに当た
り、日本の平和と安泰を願い散
華した霊を弔うために建立され
た﹁平和観音像﹂が、優しい微
笑みを浮かべながら見守ってく
れています。お墓参りを終える
と、正徳さんにお礼を述べ、そ
の場で別れて帰路につきました。
今回の訪問は、翼なき特攻隊
員の想いに触れることができ、
とても有意義なものとなりまし
た。私達は、大空に憧れ、夢と
希望を胸に予科練に入隊した多
くの若者達が、飛ぶことを諦め、
飛行服に身を包み、尊い志を内
に秘め、海の果てに散華してい
った事実を決して忘れてはなら
ないのです。
あれから数ヶ月が経ちますが
この日の出来事は今でも脳裏に
焼き付き、心の奥深くに残って
います。目を閉じると、別れ際
に道端で見送ってくれた正徳さ
に場所を得たる人は飾り聞き及
び申さず候
て候
君の為国の為命を数十は人の
子の遺なりとは父上母上の常々
諭され給いしところ 只今此御
教訓の萬一にもお応え奉るの期
を得たるは唯一の孝の道にやと
喜びに堪え申さず候
惟ふに古来人多けれど寅の死
父上 母上様
て候
男と生まれ国に報ゆるの務め
を轟十を得るは男子の本懐にて
候へげ∴母上 弟をも私の後に
績かせ下され度存じ候
三枝家一族国に殉ぜんこと私
の本意にして又兄弟の誓約にて
候 兄上に直は立派に約相果た
し申し候旨御借言あられ度
終わりに只管今迄の不忠不孝
をお詫び申し候
十二月二十九日
の緒にもつきなんと満足至極に
下されし方々に対し寓一の報恩
を得げ私を只今の私たらしめて
存じ候
私此の度立派に相果て申す事
これぞの得難さの為ならんと
んの清々として真っ白いシャツ
を着た姿が険に浮かぶと同時
に﹁最近は、同期生も高齢にな
り、訪ねてくれる人も減りまし
た。今日は、有難うございまし
た︰・。﹂という言葉が私の
心に強く響いています。
終わりに、私は、見たことも
ない南十字星に彼らへの思いを
馳せ:小から願いたい。﹁南十字
星よ、南海に眠る彼らが孤独に
ならないように、どうか、その
輝きをもって照らし続けてほし
い
﹂
と
・
・
・
・
。
︻出撃にあたり残した遺書︼
父上 母上
軍人の生涯は之死の修養に
て候へげ期に臨み殊更に遺すべ
き言も候はず堆々日頃の不孝御
無沙汰をお詫び致し申すのみに
〈予科練〉
(7)
彗星夜戦隊に於ける
同期︵乙十六期︶の活躍⑤
然し、日本軍は搭載レーダー
た中川上飛菅は、﹁飛行機らし
いです﹂と後席に伝えた。
川添中尉が月齢二十九の真暗
な空に日をこらすと、星のよう
なものが動いている。
直ちに増通し接近したが、い
ったん見失い、二度目に見つけ
たときは、敵は二機で、互いに
機首を向け合った反抗戦︵PI
釦が高位︶ で射ち合って離脱し
。
た
反転して再び見失ったのち、
もう一度同じ形で敵機が射弾を
送ってきた。
覆いかぶさるPI釦を、宙返
りして追った中川上飛菅は、同
航戦に持ち込んだ。
斜め銃を連射、川添中尉は敵
機が急に機首を下げ、錐揉みに
入りつつ下方の雲中に落ちてい
くのを見た。
背面姿勢からもどった彗星夜
戦は、空戦中に機位がわからな
くなったが、黎明の中に九州の
海岸線を見つけて、燃料がなく
なる寸前に岩川上空に到着し無
事着陸した。
中川と川添ペアの戦果は撃墜
不確実と判定されたが、その後
〈予科練〉 (8)
まじい夜空の戦いを展開してい
。
た
は試作中で、実用品はなく、鍛
えた目と感のみを頼りに、レー
ー七二〇レーダーを用いての、
強力かつ正確な火力を誇った。
速度は彗星と大差なく、機動
性もややにぷいのと、味方識別
用のオレンジ色の灯火をつけて
飛ぶため、灯火を発見したら、
機をすべらせて降下し、一目散
に逃げるのが最良の対抗手段で
あった。
六月十日未明の出撃編成は、
夜戦狩りの制空隊が、第一次の
彗星三機と、第二次の零戦四機、
この間を縫って伊江島攻撃へ彗
星四機、南西海面への索敵攻撃
に零戦と彗星各二機であった。
伊江島攻撃隊の寺井上飛菅と
津村上飛曹機が、奄美付近を夜
戦を避けるため、左右へ蛇行飛
行しているとき、直上に灯火と
黒い機影を認め、欺瞞紙をまい
て、低空飛行で沖縄へまっしぐ
らに飛び追尾をのがれた。
この夜、強敵PI釦を向こう
にまわして空戦に入り、見事に
ノースロップPI飢︵ブラッ
クウイドゥ︶は二、000馬力
撃墜した殊勲機が制空隊の中川
義正上飛曹︵乙十六期︶と川添
一
双発、全幅二十メートルの大型
機で、同体上部に十二・七ミリ
: ̄ヽ繕露国
中尉機である。
吐疇蜘列島・諏訪之瀬島の南
で、オレンジ色の灯火を発見し
∴∴∴∴∴∴∴.:∴∵:「∴
機銃四挺の回転銃搭載、胴体下
部に二〇ミリ固定機関砲四門を
装備、マイクロ波使用のSCR
:∴∴∴∵:∴∴∵∴∴∴: 一∴∴∴∴∴∴雪中∴∴∴∴
ダー装置の米夜戦と戦わねばな
らない。
∴∴
:∴ ∴∴
∴ ∴∴ ∴∴
元雄飛会会長 住友 勝一
続いて六月十日未明にも彗星
十機が、伊江島をめざし、故障
機四機を除き六機が進撃し、内
三機が未帰還だった。
一番機の馬場飛曹長と山崎大
尉機は、滑走路の北西部に三十
一号光電管爆弾を投下し、大火
災と誘爆を確認した。
零戦隊は両夜とも脇役にまわ
り、南南東方向へ一五〇カイリ
の索敵攻撃に出撃したが、敵に
逢わなかった。
ノースロップPI61︵ブラック
ウイドゥ︶ と空戦撃墜
一カ月前に終わったヨーロッ
パ戦線では、イギリスとドイツ
の夜間戦闘機が、レーダーはも
ちろん、敵のレーダー波を感知
するホーミング装置、電波撹乱
のジャミング装置を駆使し、現
在の電子戦の原型をなす、すさ
/嬢薄ま\臨終業態
奄美の陸軍部隊から、燃えて落
ちる機を見たとの報告が入った。
何れにせよ、日本軍夜戦部隊
の戦歴の内、敵夜戦と交戦撃墜
を報じた例は中川以外になく、
BI24体当たりの中川上飛菅
は、また一つ異色のエピソード
を加えた。
六月十五日に予定されていた
﹁菊水十号作戦﹂は連日の雨で
遅れ、六月二十一日に発動され
なった。
。
た
もはや﹁天﹂航空部隊は昼間
特攻を行う機数がなく、僅かに
ロケット滑空機﹁桜花﹂と、夜
間特攻の﹁白菊﹂及び零観を出
せるだけだった。
これを成功させるため、伊江
島を叩いて、敵戦闘機の出撃を
阻止するのが芙蓉部隊の任務と
伊江島に進出した第七航空群
・第三一人戦闘航空群のPI47
は、五月下旬から行動し始め、
うるさい存在となっていた。
久しぶりの出撃は、伊江島攻
撃隊が彗星一〇機、南西海域へ
の索敵攻撃隊が零戦六機の予定
だったが、出撃間近に曇りだし、
彗星の発進は六機、零戦は三機
引き返し機の内、エンジン不
に減少した。
調を伝えた米倉稔上飛曹︵乙十
六期︶と恩田善雄一飛曹機は、
志布志沖に不時着水し、米倉上
飛菅は行方不明となった。
沖縄守備の第三十二軍は、六
月十八日に決別電を打電、大本
営海軍部は、昼間強襲の航空作
戦を、六月二十二日の﹁菊水十
号作戦﹂終了をもって打ち切っ
。
た
翌六月二十三日未明、軍司令
官手島満中将と、参謀長、長勇
中将が自決し、沖縄の地上戦も
終止符を打った。
海軍・陸軍合計一九〇〇機も
の特攻機を呑み込み、三カ月に
及んだ﹁天号作戦﹂は終わった。
沖縄戦に最後の勝負をかける
筈だった海軍は、方針を変更し
て本土決戦の﹁決号作戦﹂の準
備を始めた。
七月初めから大本営海軍部は、
小型機に対する遊撃を制限し、
﹁決号作戦﹂用の戦力温存をは
南九州に進出していた第三航
かった。
空艦隊の各航空隊は、相次いで
引き揚げ、これに戦力温存策が
加わって、鹿屋に飛行機がいな
くなった。
但し、米軍が本土上陸作戦を
実施する場合、沖縄を根拠地に
して、まず九州に上陸すること
が予想されるから、最小限の夜
間攻撃は続けたい。
また九州来攻の上陸軍を迎え
うつのに、第五航空艦隊と第三
航空艦隊の連繋が必要なので、
﹁天﹂航空部隊の組織はそのま
ま残された。
芙蓉部隊はこれまで通り、沖
縄夜襲と素敵攻撃を続行しなけ
ればならなかった。
雨が止んだ六月二十五日、﹁菊
水﹂作戦の﹁白菊﹂と﹁水偵﹂
の夜間特攻を成功させるべく、
全力の制圧に出た。
増椙を付けた零戦四機の第一
次制空隊が、佐多岬から諏訪之
瀬島まで対夜戦哨戒を実施。
ついで偵察機型彗星二機の陽
動隊が沖縄を爆撃し、彗星二機
の第二次制空隊が、奄美∼徳之
島間を哨戒。
更に彗星六機が伊江島飛行場
を、零戦二機が二カ月ぶりに慶
良問列島を襲撃。
敵の注意を引き付けると共に
敵夜戦の発進をはばんで、低速
度の特攻機を突入させる戦法で
あ
る
。
皮肉にも敵夜戦は制空隊の前
に現れず、爆裳の彗星が追尾を
受けた。
陽動隊の中野増男上飛曹︵乙
十六期︶と清水少尉機は、伊江
島飛行場へ六番二発を投弾後、
奄美西方で蛇行中を単発夜戦、
124・三機と、BI29・一機
︵恐らく五月中旬から北飛行場
及び伊江島に進出した、第五三
三海兵夜戦飛行隊のF6F︶と
遭遇、辛うじて振り切った。
芙蓉部隊の二十年八月の半月
間の戦いで、最も劇的なのは、
鹿児島から霧島方面へ向かうB
に、二十五番の三号爆弾を投下
した、中川義正上飛曹︵乙十六
期︶ の彗星の戦闘である。
この内三機が撃墜するのを、
陸軍高射砲部隊が確認した。
芙蓉部隊の重爆撃墜は、勿論
人月九日未明の出撃目標は、
この一例のみである。
(9) 〈予科練〉
伊江島と北・中飛行場、清水少
尉とペアを組んで出る、中野増
男上飛曹︵乙十六期︶ の顔に死
相が浮んでいた。
兼ねてこれを感じていた美濃
部少佐は、藤枝での休養や、郷
里︵鹿児島︶ へ墓参りに出して、
死想の消えるのを待ったが、変
わらなかった。
不吉な感じを拭い切れない少
佐が、七月の或る日、既に決ま
った搭乗割りから中野上飛曹の
名を外すと、指揮官室へやって
来
て
、
﹁何故私の出撃を取り消され
たのですか﹂と詰め寄ったこと
もあった。
果たして、中野と清水のペア
は帰らなかった。
﹁伊江島飛行場火災﹂を報じ
た後、九州近くまできて連絡が
なくなった。
功した中野上飛菅と、やはりマ
リアナ戦から夜戦による戦歴を
重ねた清水少尉の戦死に対し、
美濃部飛行隊長は、功績調査部
へ格別の処置を依頼し、二階級
特進が認められた。
︵
後
記
︶
芙蓉部隊の隊長であった美濃
部正中佐は非常に部下思いで、
前記には名が出てないが、同期
の清原喜義︵呉志飛二三七一・
紙面の都合で前号休載しました。
向かってスーツと降下してまた
上昇する。着陸誘導と見た。
機内は急にざわついてきた。
窓という窓から、顔を出すよう
にして無言で下を見ている。顔
は血の気が無い。いくら上級士官
でも近代戦から遠ざかっていたり、
頭とペンだけの内地勤務の士官
や、官庁勤務の役人に、私達のよ
緑十字の白い二番機
十九年六月、サイパンで玉砕し
ていれば、靖国神社でも同期の
うな経験者と同じように、落ち着
けと云っても、それは無理と云っ
種山 平一︵乙飛十六期︶
先任者で威張って貴様たちを迎え
られたものを。身代わりに死んだ
ものだろう。
メラをさかんに向けている。哨兵
が三メートル位の間隔で警戒に
当たっている。風防を開けて見る
と、熱気がワーツと機内に入って
暑い。使節団の左側に私たちは整
の山である。白人兵も里大兵もな
い。みんな日に焼けて真っ黒でカ
午後一時半ごろ着陸。滑走路
の両端は裸の兵隊で真っ黒な人
伊江島到着
茂原市の鈴木 隆がきっと待っ
の同期の仲間を心の中で呼んで
ていてくれただろう。ポロポロ涙
を流し、泣きながら思い出す限り
い
た
。
伊平屋島、伊是名島を右手に
見て、いよいよ伊江島が近づく。
北緯二十五度のこの島は、一見空
母みたいに見える。艦橋みたいに
尖がった山が一つ、伊江城山と書
いてある。後は平たいようだが何
と全島赤茶けて革も木もないよ
マリアナ戦・フィリピン戦を
土空の七十一分隊・矢田部飛
練が同じだった中川・中野・飯
田・清原・赤池・山辺・山崎・
古谷・米倉の顔が思い浮かぶ。
うである。P38が一機、滑走路に
二十年四月十二日沖縄方面で戦
死︶ の父から、戦死前後の状況
問い合わせに対し、丁寧を長文
の詳細説明の手紙を出され、そ
の手紙が遺族より海原会に贈ら
れ、土浦の予科練記念館に掲示
されています。
芙蓉部隊には操縦・偵察とも
多くの十六期生がいて、皆それ
ぞれに活躍し、同期の一人とし
て非常に誇りに思います。
共に戦い、五月末までペアを組
んだ同期の横堀上飛菅は、中野
上飛菅の未帰還を聞いて男泣き
に泣いた。
﹁桜花の短刀﹂を授与され、
只一言心より有難う。︵終︶
一
七月末まで六度も沖縄爆撃に成
−
〈予科練〉 (10)
列した。米軍士官らしい一団の中
から、一人が前に出てタドタドし
い日本語で何か云っている。周囲
は又もや真っ黒を人の山で、カメ
ラのシャッターの音が、風の笹音
に似て喧しく、よく聞き取れない。
暫くすると使節団は、米軍のダグ
ラス四発輸送機で、離陸して行っ
た。残されたのは私たち搭乗員だ
けである。
さあこれからどうなるか。
里㌫林がぞろぞろと寄ってきて、
カメらラを向ける。ガヤガヤ騒
いでいる中から、﹁カミカセバカ﹂
﹁オーカミカゼ﹂と云ったと思う
と、ヒョコンと敬礼する奴もいる。
ってほしいという。やれやれと安
哨兵が、彼らを遠くに押しやって
くれたのでまずはポッとする。
日本語のうまい二世の軍曹が
来て、使節団はマニラへ行って帰
りは何時になるか判らないが、そ
れまで諸君はここで泊ることに
なる。身の安全と機体の管理は責
任を持つから、安心して指示に従
心して、ジープに便乗し宿舎に向
かった。
二台のジープの前後はオート
バイが三台ずつ護衛してけたた
ましいサイレンの音が響く。
この島には草も木も、緑という
ものは全く何もない。まったく赤
茶けた岩石の塊である。革も木も
畑もあったが、砲爆撃でみんなフ
ッ飛んだに違いない。一坪に何発
もの砲弾が落ちなければ、こうも
ている。予科練の艦務実習で戦艦
長門に行った時以来の、九六トイ
レは懐かしかった。
夜は、何もすることが無い。話
が出てもロクなことは云わない。
ネットみたいなのに、白いシート
野外劇場があって、野球のバック
明日は殺されるぞ。いや米本土
に連行されて行かれて、サラシ者
にされるぞ。そんな話をしている
と一重が来て、映画を見に行かな
凄惨を様相には、ならなかったで
あろう。そんな中で戦った人達は
果たして正気でいただろうか。
﹁山川草木転た荒涼﹂という詩
いかと云う。出て見ると、大きな
があるけれど、乃木将軍ならずと
もこの現実に直面したら、をんと
書き表すだろうか。無性に腹がた
って来た頃道路の岐かれ道に、ゼ
ロ戦の胴体が半分、丁度日ノ丸の
あたりから折れたのを尾翼の上
に立ててある。尾翼の両側に矢印
が付いていて、何か書いてある。
何と、道路標識だ。ゼロ戦の道路
標識! 敗戦のみじめさをつく
、づくと味わったのである。
宿舎は、大形テント。中にはベ
ットが整然と並んでいる。絹の蚊
張がついていて、なかなかのもの
である。食事時間は私たちの方が
早く、例の二世が付き切りで面倒
を見てくれている。トイレは丸穴
式、洗面器は鉄兜を逆さまに使っ
をつりさけ、既に大勢来ている。
とそこへ善行章を逆さに、四本
位つけたのが来て、ベラベラとや
っていたが、私たちはすぐテント
し
い
。
に帰された。やっぱり夜は危険ら
消灯は十時。ベットに入る。
眠ることも出来ない。眠れない
のた。大体ベットなんて、高級を
ものに寝たことが無いのた。
予科練入隊以来、今日までの土
浦じゃ血の出る様な釣り床訓練、
(11) 〈予科練〉
飛練に行ったら、土浦なんてもん
じゃなかった。
鬼の木更津では先輩の分まで
面倒を見て、サイパンでは、バラ
ックのアンベラにごろ寝して、ダ
パオでデング熱の時は、トラック
島︵春島︶の土人小屋よりひどい
病舎に、放り込まれた人間が、こ
ともあろうに敵地の夜が、絹の蚊
帳付きのベットとはー・﹁国破れ
て山河あり、城春にして草木探し﹂
と云っ。
ところがこの島は、山河どころ
か、草木どころか、章一本木一本
無いではないか。伊江城山でさえ
も、変形したという。私たちの仲
間が、空に、海に、陸に、尊い鮮
血を流したこの地で、何で眠れる
ものか。動く物は虫一匹、鳥一羽
でも見逃さず、呵責なく飛んでく
る銃砲弾に、全島が変形してしま
った伊江島で、脹れという方が無
理と云うものだ。
いろいろな事が、頭に浮かんで
くる。
昭和十六年五月一日、土浦に入
隊した時に、﹁海軍四等航空兵ヲ
命ズ﹂と云われた司令、青木泰次
郎大佐の見事をヒゲ。指導官大森
白い一式の一番機が、列戦にゆ
っくり引っ張られて出て来た。
私たちの二番機も、牽引車にひ
かれてゆっくりと動き出した。米
目ばかりギョロギョロと光り、
頬骨が飛び出し、顔色は蒼白で、
まるで死地を脱してきた攻撃隊
員の様である。
俺が北硫黄島上空で、B24と交
く帰るのだ。
さあ大変だ。二番機の五人だけ
となったテントの中は大騒ぎだ。
ここでひと騒動が起きた。小柳
兵曹が居なくなったのである。
て雑談する。彼らも、これで本当
に帰れると大喜びだった。
例の二世と数人米兵が遊びに来
いてきて、退屈の連続である。夜、
障が、ハッキリすると心も落ち着
童だが、どうも二番機は手間取る
らしい。一番機だけ先に、主な人
たちだけ乗せて帰ることになり、
夕闇迫る伊江島を後に離陸した。
私たちは、もう一晩泊ることに
なったのである。生きて帰れる保
両機長とも接線出身の、たたき上
げの士官だ。夜間飛行など屁の河
している横に来て、うるさく聞く。
たに違いない。とにかく一刻も早
戦した時も、きっとこんな顔だっ
士官の指揮で動いている。一式の
左翼下面の辺に、太い棒杭のある
のに気づいた私たちは、大声で掻
いだが、牽引車の米兵は何を勘違
変わった二番機の尾部が、側溝に
ドスンと落ちて後部胴体の側面
いしたのか、グイと速度を上げた
ので棒杭は、左翼下面をバリバリ
と掻き被り、そのはずみで方向の
してしまった。
を、破ってしまった。さあ大変で
あ
る
。
何時頃修理できるのか、夜間飛
行は出来るか、米軍士官を先頭に
私たちも一緒に、汗みどろに修理
バスケットの名手塚本良正、一
学年から煙草を吸った竹内富男、
少佐、B25東京空襲の一機が土浦
上空に飛来した時、号令台で訓示
していた、上岡少佐のドラム缶
に手足を付けたような、カラグ。
艦隊勤務の作詞者・高橋俊策中佐
が、教員がたるんでいるといって、
練習生の前で教員整列をかけ、そ
のハネッ返りに、その夜は予科練
始まって以来と云う、大嵐が各分
隊に吹き荒れたことや、机を並べ
て勉強していた、鹿児島出身の吉
本武盛は、第二神風神武隊で突撃
飛練でやさしくしてくれた、乙飛
九期の高坂浪治教員ドラム缶三
一
のだが、こんなとき頼れるのは
安念兵曹と、小柳兵曹だけである。
間もをく、米軍の整備班らしい一
団が来て、大勢で修理にかかった。
私たちも一緒に手伝った。さすが
物量の国である。機械力をフルに
使っている。時のたつのも忘れて
いたら、いつ帰ったのか、使節団
が帰ってきている。
その顔の何と凄い事か。
私たちも何とかせねば、と思う
示している。
帰れなくなってしまった。米士
官が来て、何やら大声で兵隊に指
十本を、空気抜きにしたラバウル
の防空壕、台南でバナナを二十円
買ったら、一式の胴体が一杯にな
ったことなど、考えているうち
に、いつの間にか眠ったらしい。
八月二十日。朝食後ジープに分
乗して飛行場に行く。
聞くところによると使節団は、
今旦戻って来るそうだ。相も変わ
らず島全体に真っ里雰日焼けし
た、兵隊が滑走路の拡張工事をや
っている。
一
(12)
〈予科練〉
よそに、ニヤニヤしながら帰って
報もあるだろうと、勝手なことを
機を修理する気にもなれず、先に
帰った一番機から、なんらかの通
そのうち、小柳め、人の心配を
パイロットの宿舎に、ヒョコヒヨ
きた。聞けば、近くにある女性軍
コと遊びに行って大歓迎を受け、
月二日の、ミズリー号艦上の降伏
調印によって、日本と連合軍と戦
闘行為は正式に終息した。︵終︶
の進駐は円滑に行われ、更に、九
気のせいか、いずれにせよ快調で
ある。日本の命運を乗せた、緑十
字の白い一式陸攻は、ひたすらわ
が母なる木更津へ!最後の大任
を果たして、木更津へと向かった。
この使節団の一行の、帰郷によ
って、人月二十六日以降、連合軍
スピードに、なったのかそれとも
生きて帰れるぞ!機は、ホーム
ンクを二二二回、そして外に向か
って手を振った。さあ帰れるぞ!
振り向き、大きくうをずくと、バ
笑って少尉に見せると、ヒョイと
見るうちに泣けて来た。泣いて
みると﹁サヨウナラ、また遭いま
しょう﹂と書いてくれた。
始まった。例の頭脳少尉に聞いて
う。﹁⋮○×□×××⋮⊥また
考えて受信機だけ、作動させて待
機した。P38が途中まで、送って
くれている。単機飛行は馴れてい
るから、河西少尉も気が楽だろ
ウイスキー、ケーキ、タバコ、コ
ーヒー、派手な模様のスカーフま
で貰ってきた。初めてテントの中
に笑い声が起こった。
笑い声!
そうだ、久しぶりの笑い声だっ
た。人月十五日以来私たちは、笑
うことすら忘れていたのだ。
笑っているうちに泣けて来た。
泣いて笑って、笑って泣いた。
二世の軍曹も、遊びに来ていた
米兵も一緒になって笑い、そして
泣いた。
再び母なる
木更津海軍航空隊へ
人月二十一日、見事に修復され
た二番機は、爆音も快調に伊江島
を後にした。首脳部が先に帰国し
たので、使節団のメンバーは、若
干変わっているようだが、なんと
なく厳しい空気が流れている。
昨日の事故騒ぎのせいか、送信
海軍と私⑤
乙二十期 岩澤 純遺
構立て
一年目かな・・。イヤー多分
二年目の夏だろう・・・。
それは或日の午後のお話しで
。
す
短艇訓練は海軍軍人と名がつ
く兵士には必須教科である。だ
が遊園地の貸しボートしか見た
ことの無い私には、先ずカッタ
ー︵短艇︶ の大きさと権の長さ
に驚いた。
この重い権を漕げるのか不安
だったが、尻の皮を剥き掌にマ
メを作る積み重ねで、クルーの
十二本の権が見事に揃う日が来
。
た
だが﹁権立て﹂は何としても
重く長いので身体がふらついた。
大腿部を利用してのテコの応用
だが上手く反動が使えない。
長い竿で何回も頭を叩かれて
漸く全員が揃う。班対抗競争を
繰り返しながら痛い夏が、過ぎ
て行ったのでした・・。
その日は少し腕慣しを漕ぎ、
﹁権立て﹂ の練習を数回繰り返
して訓練は早々と終了した。
班長は艇を香良洲神社裏手側
近くに止め、数人の練習生を連
れ何処かえ消えたが、やがて漁
師から、底引き網︵枠のついた
カゴのようなもの︶を借りてき
た。再び海に出てカゴを海中に
投げ下ろし海岸沿いにカッター
を漕ぐ。荷重が掛かって非常に
艇が重い。
叱咤と激励の怒号が飛び交い
必死で漕ぐ︰。
六∼七十メートルほどで浜に
戻り先ず艇を上げ引き上げる。
(13) 〈予科練〉
隣の七班の連中も艇を上げ応援
に駆けつける。
十米ほどの網を引き上げると
カゴには魚や貝が沢山入ってい
て大歓声があがった。
貝と言えばシジミやアサリし
か知らない私は興味津々である。
静岡や和歌山の浜育ちの仲間が
魚や貝の名前を呼びながら仕分
けしていた。
不思議に思えたのは同じ魚な
のに土地により名前が違う事で
ある。更に課業中に魚取りをし
たのに誰からも答められないの
も不思議だった。
果たしてあの魚や貝は一体何
処へ消えたのか︰。
今度はボラだ︰。
魚と言えばもう一つ想い出が
あ
る
。
飛行場の北端、実弾射撃場の
外側香良洲町境に小川が流れて
いたのを覚えていますか。
多分雲津川の水を引き込み、
田畑の港漑用水として使用され
たものが最終的に海に流されて
いたのだろう。
多忙な軍務の間に誰がそんな
情報を伝えるのか之も又不思議
千万だが、この小川にボラが産
卵の為遡上すると言う・・。
某日分隊士の先導で分隊全員
がウォスタップを持ち遊歩道を
川に向った。
川幅は二米くらいの小さな処
に、二百余人の練習生が上下に
別れて一斉に飛び込み手掴みで
ボラを捕まえる。
魚の数より絶対に人間の方が
多く四十糎∼五十糎のボラが跳
ね上がり面白い様に捕まった。
事業服も泥にまみれたがウォス
タップと南京袋が満杯になった。
獲物を烹炊処に運んだが、あの
魚を食べたのかどうかは全く覚
えて無い。
試し切り
予科練の武道は自己選択であ
ったが、私は迷わず剣道を選ん
。
だ
新年の道場開きには恒例の居
合道熟練者に模範演技が披露さ
れた。巻藁や太い青竹が見事に
切断されて驚いた。
残心の姿が美しく見学者全員
の拍手喝采を浴びたのである。
又々昔話しで恐縮だが︰。
小学校六年を卒えて国民学校
高等科に進級した時、十一科目
の授業が三種目増えて十四科目
になっていた。
増えたのは農業、英語、武道
の三つである。
農業はクラス児童の九十パー
セントの家が農家だから止むを
得まい。
英語はこの時期には何とも言
えない微妙な学科だが、横文字
が初めての私には何か大人に近
づいた様な気分で嬉しく興味深
いものであった。
最期の武道は、本来ならば、
柔・剣道どちらかの選択が公平
だが、残念な事にこの学校には
道場が無く、全員が校庭で木刀
を振り回す剣道となってしまっ
た。︵女子の場合は薙刀︶
三重空には東洋屈指の大きさ
を誇る千四百畳の柔・剣道の大
道場が存在していて、武道以外
にも映画・舞踊・集会等にも大
活躍の建物である。素振り、打
ち込み、対抗戦と進んだ私は一
向に上達はしなかった。
話しは少し飛んで・・航空隊
在籍一カ年を過ぎた頃から私物
の刀剣を持つ練習生が増えた。
入隊後間もない頃、卒業退隊す
る先輩達が﹁帽振れ﹂の人波の
中を笑顔で征くのを何回も見送
った。多くの先輩が左手に軍刀、
右手で挙手をして瓢爽と行進す
る姿は勇ましく、又カツコイイ
ものであり憧れたものだ。
実際には飛行兵に刀は必要な
いと私は思うのだが、若武者を
気取る練習生達には自己満足の
姿であったのかも知れない。
航空隊の指導者も少年兵の我
儀を黙認していた様だ。私物の
刀剣類は分隊毎に教班長が一括
管理して、休日のみ必要な者︵手
入れ等︶には、手元に戻す許可
が出ていた。
私も父が横浜野沢屋デパート
で購入したと言う安物の一振り
〈予科練〉 (14)
を持っていたが、鞘の塗りも他
の人に比べて貧弱だったので、
外出の折り松阪の古道具屋で袋
を買って所持し、人目に触れな
い様に気を配っていた。
お正月の或る日曜日、半舷上
陸で外出が無く昼食後の一刻を
雑談で賑わっていたが、誰が言
い出したのか﹁試し切り﹂をし
て見ようと意見が一致した。
遊歩道を少し南に下がった処
に青竹が四∼五本転がってい
る。︵思いは同じで皆やってい
るのだ︶三十糎ほど砂地に穴を
掘り、埋めて用意は出来た。
切れそうな刀を選んで数本持
参したので順に構えて試し斬り
に入った。
しかし竹が固定されていない
上に腕前は最悪、殆どが跳ね返
されたり竹が倒れたりで誰一人
として切断した者はいなかった。
最期に石切山君が竹を切らず
に自身の左脚腿に刃を当て出血
して大騒ぎになってしまった。
兵舎に帰り医務室に搬送したが
参加していた全員は大目玉を食
った。それ以後日曜日の刀の手
入れは中止となってしまった。
飛行機雲
これも春まだ浅い休日の朝だ
ったと思うが・・。
珍しく班長が朝帰りで、一種
軍装のまま新聞を持ってデッキ
に現れた。
いつもの席にドッカリ座る
と﹁オイ皆ちょっと集まれ﹂航
空隊では練習生が新聞を読む機
会全く無い。戦争や世相につい
ては月曜日毎行われる分隊長の
﹁精神訓話﹂ の時間か、班長か
ら聞く以外に耳には届かない。
もとより練習生の目的は飛行機
に乗るべく勉強、訓練に励む事
が最優先であるから、戦況に左
右するものではなく異議は無い
の
だ
が
・
・
。
昭和二十年に入ってからは警
戒警報や空襲警報の発令が多く
防空壕の使用も増えた。日常生
活の変化が戦況の優劣を端的に
表していたのであったが︰。
居合わせた者達が班長を囲む
と新聞の小欄を、声を出して読
み始めた。
﹁児童の三一口を教師が厳しく
注意﹂と言う見出しで、内容は
高空を飛ぶ米軍機が排気ガスで
描く飛行機雲が美しい︰と少
年が言い注意を受けたと記載さ
れていた。教師は﹁米国は敵国
であり多くの日本人を殺傷して
いる。もっと相手を憎み大人も
子供も心を一ツにして戦意高揚
をなさねば戦いの勝利は望めな
い﹂と言う意味らしかった。
班長は﹁お前らはどう思う︰﹂
と尋ねられたが、誰も即答でき
る問題では無く答える人はいな
かった。
は複数本あり誰が見ても美しく
実際三重空においても何回か
同じ状況を見ている。
南から北西に向けて鮮やかに
浮かび上がる飛行機雲は、時に
感じてしまう。
時代背景を熟知出来ない子ど
もには自然現象を戦争とは関係
なく素直に﹁綺麗だなtLと言
ったのだろう。直感が大自然の
創造を褒めたもので戦争とは関
係ないのだが︰。
後になって見聞きしたものを
正しく表現しても答められるの
が戦争と言うものなのだ︰と
の認識を持った。 続く
蒼空の航跡⑳
久山 忍 著
昭和十六年志 丙飛十六期
今 泉 利 光
特攻の態様も人間模様もさま
ざまであった。
私は特攻で死んでいった者た
ちのことをいつまでも忘れない
で欲しいとおもう。
しかしいたずらに美化するこ
とは許されない。
私は﹁美談﹂や﹁悲話﹂とし
てひとまとめにくくつてしまう
のでなく、特攻隊員たちの人生
を、一人ひとり丹念にみていっ
てほしいと思う。
これが私からのお願いである。
戦争で死んでいったパイロッ
トたちの人生の航路が、後世の
人たちのなかにありのままに記
憶されるのであれば、これほど
嬉しいことはない。故人たちも
きっと喜ぶことだろう。
第十大義隊員
(15) 〈予科練〉
四月十四日。南西諸島方面に
英空母群が航行している、との
情報が入った。私は﹁神風特別
攻撃隊第十大義隊隊員﹂として
二五〇キロ爆弾を抱いて出撃する
ことになった。ついに爆装隊に
なったのである。
この地に二度と帰ることはな
いだろう。
﹁空母に大穴をあけてやる﹂
と心に念じた。
午前六時〇〇分。志垣島の地
を飛び立った。
直掩隊二機。
爆装隊第一小隊長
K中尉
高塚一飛曹︵甲飛十一期︶
三浦二飛曹︵丙飛十四期︶
爆装隊第二小隊長
今泉上飛曹
以下二機︵列機二機︶
合計八機であった。石垣島上
空高度三〇〇〇㍍で集合との指
示があった。
そのとき、司令から﹁立派に
死んでこい﹂と言われた。
空母がみつかったら突っ込み、
戦闘機にみつかったら爆弾を落
して空中戦をやるつもりでいた。
グラマンがいれば爆弾を落し
私は自分の意志で、普通は特
攻機に積まない機銃と弾を積ん
。
だ
我々は第一小隊長の航路にし
たがって飛んだ。高度四〇〇〇
かった。
のときの私に感傷や悲壮感はな
も空もうつくしい。
この高度で飛んできたのだか
ら、すでに敵の電探にキャッチ
されていることだろう。
とつぜん、K中尉が﹁エンジ
ン不調で引き返す﹂と言ってき
たが、﹁わからない﹂というジ
ェスチャーがかえってきた。
K中尉にどうしたのかと合図し
我々は爆弾を抱いている。敵
機に発見されれば一発で撃ち堕
され、それこそ犬死にとなる。
困ったことになった。
ふと気がつくと直掩機が見当
たらない。さては敵さん到来か
と上空を探したがそれも見当た
らない。
かったことだ。とはいってもそ
㍍だった。レーダーにもっとも
まちがいをするととんでもない
っ
た
。
海上航法はむづかしい。計算
かかりやすい高度である。不安
はあったが第一小隊長にしたが
て一戦交えるつもりだった。
空中戦になれば体当たりして
でも堕としてやろうと考えてい
方向に飛ぶことになる。
指揮官のK中尉は予備学生あ
がりで私の後輩である。操縦技
術は十分とはいえないが海上航
いま思い出しても不思議なの
だが、淡々と飛んでいた。目の
前に空母がいれば、無心で突っ
込めそうな気がした。
マラリヤの後遺症だろうか。
あるいは兵隊としての覚悟がで
きたのか。そうでなければ死ん
だ戦友たちに導かれているのか。
この時間どういうわけか死に対
して鈍感だった。
。
た
そして運良く︵あるいは運悪
く︶敵空母をみつけた場合に
は、一気に突っ込む覚悟でいた。
いずれにしても死ぬことにな
私は、昭和十六年に海軍に入
法はできるだろう。もし進路を
まちがったら私がかわるつもり
でいた。
るだろう。
り、苦しくもまた楽しい人生を
ふと母親のことを思い出した。
母は心臓が悪く三十八歳の若さ
で死んだ。子供が四人もいた為、
﹁まだ死んではならない﹂
と言いながら息をひきとった。
次男坊で餓鬼大将だった私が
喧嘩をするたびに母はいつも謝
りにあるいてくれた。そんなこ
とをおもい出しながら予定のコ
ースを飛んだ。
ゼロ戦で飛びながら母のこと
を思い出すなど、これまでにな
ゼロ戦の爆音が心地よい。海
体験してきた。そしてパイロッ
トとして過ごした私は人生に自
信と誇りを持っていた。
そして
離陸した。
最後になるだろうゼロ戦の操
縦をかみしめるように操縦梓を
握った。
洋上にでた。
快晴である。海上の波も静か
で索敵には申し分ない。
直掩隊が二機しかいなかった
ので、第一小隊と第二小隊が一
緒に飛ばなければならなかった。
(16)
〈予科練〉
た。操縦席から手で×を作って
合図する。
ぶるって逃げるつもりなのだ。
だれも死にたくない。それに耐
えて目的地に飛んでいるのた。
小隊長が逃げればみんな逃げる。
それは絶対にやってはいけない
ことだ。
りという意味での︶意地をみせ
たいと思った。
三浦機
り出たりして身を隠しながら飛
出発のときは快晴であったが、
いつのまにか高度四〇〇〇㍍付
近に乱雲ができていた。
太陽を背にうけて高度四〇〇
〇㍍まであげ、雲の中に入った
ていると、K中尉は急に進路を
かえ、単機で消えていった。
自分の列機を置いて一人で帰
投するなど、とんでもない話で
ある。しかし引き止める手段が
な
い
。
K中尉が逃げたことで爆装隊
の列機が動揺した。そして、私
の小隊の二番機、三番機もエン
ジンの不調を訴えて基地に引き
返した。
しかたなく第一小隊の二番機
た、くり返す。
ろうか。あるいは戦友たちが⋮
と、ついさきほどした自問をま
﹁なにをいってやがる﹂私はそ
っぽをむいていた。私が無視し
︵高塚一飛曹︶と三番機︵三浦
列機はなにを考えているのだ
ろう。高塚と三浦を近くに呼ん
ん
だ
。
どこに敵戦闘機がいるかわか
一飛曹︶を私が、ひっぼること
にした。
らない。雲を利用して慎重に目
的地に向った。
まもなく予定地点である。こ
れから突入するというのにいや
に気持ちが落ちついている。や
はりマラリヤで脳が鈍くなって
いるのだろうか。それともゼロ
戦乗りとしてハラができたのだ
大磯いた僚機も三機となって
しても敵空母に特攻をかけて兵
しまった。こうなってはなんと
で俺のそばをはなれるなと合図
した。死ぬときは三機一緒に突
入するぞと合図し、空母を求め
て飛びつづけた。
隊あがりの︵丙種=操練あが
それにしても直掩機はどこに
行ったのだろう。裸同然のわれ
われ爆装隊は敵機に発見されれ
ば赤子の手をひねるように撃墜
されてしまう。
また乱雲のなかに入った。翼
が雲に当たってサーサーと音を
たてている。
宮古島をすぎた。そろそろ空
母を護衛している駆逐艦がみえ
るころだ。列機に合図して上空
をよく見張るように指示した。
私は下をのぞきこんで敵艦の
発見につとめた。
とつぜん、三浦機が高度をあ
げてくれと合図してきた。私は
おどろいた。
敵機は雲上で警戒をしている
はずだ。そこをノコノコ雲の上
にでれば白い布にハエがとまる
ようなものである。一発で発見
されてしまう。私はあわてて首
を横にふった。
そしてもう一度﹁駄目だ﹂と
首をぶって釘をさした。彼から
目を離して敵艦をさがした。
また雲のなかに入った。そし
て雲から出たとき、三浦機が急
に爆弾を落とし、バンクをして
上昇していった。
K中尉が帰ったため三浦も帰
投しょうとしたのた。
ヽ﹁ ○
第一小隊の自分が第二小隊長
にくっついて特攻する必要はな
﹁やはり帰ろう﹂
第一小隊長が戻ったなら自分
も戻っていいはずだ。
迷った末にそう思ったのだろう。
私は雲の上にいる敵機にみつ
からないように、わざわざ雲の
下をとんでいた。そこを三浦機
は雲をつき抜いて雲上にでた。
雲に映った影を上空のグラマン
が見逃すはずがない。
﹁ばか、やめろ﹂
と声をだしたが無論とどかない︵
もう一機はどうしたかとあわて
て後をみる。高塚はついてきて
いる。雲に入った。雲のなかで
は一瞬列機を見失う。雲から出
た。後をみた。高塚はついてき
ていた。
そのとき、前方の雲のきれ問
からゼロ戦一機が急降下してい
った。三浦機だ。グラマンに追
われている。三浦機はものすご
い速度で急降下し、視界から消
(17) 〈予科練〉
え
た
。
助けに行きたいと思ったが到
底追いつかない。
私はグラマンにみつからない
ようにまた雲に入った。
駆逐艦
しばらく飛ぶと、飛行機が右
に左に大きくあおられはじめた。
爆風だと直感した。私は急い
で雲の下にでた。
みると敵駆逐艦が主砲を撃ち
こんでいる。
らつく。
駆逐艦でも対空砲火はすごい︹
空中で爆発する砲弾の爆風にあ
おられて機体が大きく左右にぐ
私は懸命に立て直してバラン
スをとろうとするがうまくいか
な
い
。
﹁
く
そ
﹂
駆逐艦がいるということは近
飛行機は前からの風に強いが
下からの風に弱い。機首を下げ
高度をさけようとするがそれが
できない。私は機体をすべらせ
て対空砲火圏内から抜けた。
﹁よし、近くに敵空母がいる
﹂
ぞ
くに空母がいる。それをさがそ
うとおもい速度をあげて高度を
五〇〇〇㍍から四〇〇〇㍍にさ
げ
だ
。
それにしても電探射撃で雲中
にいるわれわれを攻撃するとは
たいしたものだ。
﹁米英は進歩しているなあ﹂
と感心しながら敵空母をさが
す、しかし、発見できない。
フィリピン方面から英国機動
部隊が沖縄に向っているとの情
報で特攻をかけにきたのだが、
早すぎたのかもしれない。すこ
しさかのぼってさがそうと、機
首をフィリピン方向にむけた。
洋上の転進はコンパスを頼りに
時間と機速、風向、風力を計算
して二⊥二分ごとに変針する。
戦闘機の速力は速いし、目標物
がないので海上飛行はむづかし
い。よほど正確にしかもこまめ
に計算していかないとたちまち
方向がわからなくなる。
左足の腿に航空地図と記録板
をゴムバンドで止めてある。そ
の上で人差し指と中指をあるか
せながら航路をチェックする。
広範囲を探すために約一時間一二
角航法で飛んだ。航法は操縦と
は別の技術である。
これができなければ空襲も哨
戒も人員、物資の輸送もできを
ヽ ○
艦上攻撃機︵二人乗り︶ や艦
上爆撃機︵三人乗り︶ では航法
専門のパイロットが乗っている。
しかしゼロ戦は操縦も航法も一
人でやらなければならない。
航法計算をして海上を飛び、
空中戦や空襲をし、ふたたび航
法計算をして海上を飛んで基地
に帰ってくる。これを一人でや
。
る
だってきた。
ゼロ戦の任務をまっとうする
ためには、技術と知識そして経
験が必要であった。
私は海南島、台湾、フィリピ
ンで海上飛行を何度も経験した。
だから航法には自信があった。
たしかにフィリピン方向に飛ん
でいるはずなのに空母が発見で
きない。だんだん気持ちがいら
こういうときには南さんや江
馬さんがやっていたように、列
機に余裕のあるところをみせな
くてはならない。列機︵とはい
っても、高塚一飛曹だけ︶ のそ
ばにより、自分の頭をたたいて
笑ってみせた。しかし緊張とあ
せりで顔がひきつった。
母の顔
このまま飛んでも空母に当た
る保障はない。
﹁ちくしょう。やめた﹂
私は空母さがしをあきらめ、
先ほどの駆逐艦に体当たりする
ことにきめた。
私は指で高塚に、﹁貴様が戦果
確認をして玉井司令に報告して
くれ﹂と合図した。高塚はうな
ずいた。
私は機体をかたむけ、大きく
変針して駆逐艦を追った。ふた
たび雲のなかに入ったり出たり
しながら高度四〇〇〇㍍で飛び
つづけた。ようやく先ほどの駆
逐艦がみえてきた。
近くにグラマンがいるはずだ。
いったん雲のなかに入った。そ
して、駆逐艦の上空にきたとこ
ろで急降下に入った。
なにも考えなかった。恐怖も
なかった。ただ目の前の駆逐艦
だけをみて急降下を開始した。
18
〈予科練〉
感傷もなく、後悔もなく、陶酔
もなかった。これが私のいつわ
らざる特攻の瞬間の心理であっ
。
た
敵艦が全砲火を撃ち込んできた。
﹁このやろう﹂
と機銃が裂けんばかりに引き
金を引き、二〇㍉弾を発射しな
がら全速で突入した。
高度四〇〇〇㍍から降下をは
じめ、三〇〇〇㍍に達したとこ
ろで敵駆逐艦が右に大きく進路
をかえた。
そのときの私の速度は四〇〇
㌔を超えている。
駆逐艦のウエーキ ︵航跡︶が
曲線をえがく。私もとっさに機
を右にひねった。
﹁これで俺も最期だ﹂
と思った瞬間、母の顔が前面
風防にスーと現れた。
私は駆逐艦から目を離し母の
顔をみた。一秒くらいだろうか。
ハッと我にかえった。
そのときには駆逐艦から機軸
がはずれてしまった。
高度二〇〇〇㍍近くまで下が
っている。
操縦梓を一杯右にひねったが
一
このままいけばまちがいなく
間にあわない。
二五〇キロ爆弾を抱いているた
めカジが重くて修正できないの
。
た
幸い敵機の襲来もなかった。
れ
た
。
直掩機の一機と三浦二飛皆は、
出発してから三時間後、二機は
石垣島の飛行場に着陸した。
一週間も飛び続けたような気
分だった。
直掩機の一機はエンジン不調
で帰っていた。
もう一機は我々がみていない
ところで空中戦をやって撃墜さ
﹁
あ
た
れ
﹂
と念じた。
海面に突っ込む。とっさに爆弾
を投下した。高度二〇〇〇㍍を
切った地点からの至近弾であっ
。
た
駆逐艦の左前部舷側に水柱が
。
た
基地に帰ってから知ったが、
K中尉は済州島に行ったという。
エンジンの故障なら近い宮古島
の基地に下りるはずだ。それを
なぜ遠い済川島に行ったのか。
これだけみても逃げたことは明
かだった。
後で聞くと羅針盤がこわれた
という。羅針盤などこわれるも
のか。かりにそれがこわれたか
らといってなぜ引きかえすのか。
しかも列機をおいて、海上航法
を私が代れば済むことではない
。
か
小隊長がブルックために三浦
にも迷いが生じた。そして爆弾
を落して雲上に出た。そして死
はらわたが煮えくりかえってい
た。しかし玉井司令にはそのこ
とはいわなかった。
﹁駆逐艦に爆弾攻撃をして帰
ってきました﹂とだけ報告した。
んだ。三浦は私の後輩でかわい
がっていた奴だ。K中尉が逃げ
たために三浦が死んだ。私は、
しかし自分は精いっぱいの事
をした。気持ちはさっぱりして
いた。死ねというならつぎの特
攻で死ねばいい。どうせすぐに
爆装隊に指名されるだろう。
そう何度も母もでてこないは
ずだ。つぎは死んでやる。
言った。 続く
そして、﹁グラマンと空中戦を
して三浦が撃墜されました﹂と
しかし腹がたつ。
﹁怒鳴りたきや怒鳴れ﹂
と開きなおった。
だろう。
私は生きてもどった。
当然玉井司令から罵倒される
特攻による戦死とされた。
ゼロ戦を降りると、その足で
玉井司令のところへ報告にいっ
なくなった。
三〇㍍くらい上がり、一瞬みえ
そのまま降下を続け、海面す
れすれから機首を上げて、かろ
うじて上昇に移った。
対空砲火のなかを全速で退避
駆逐艦からはなれた。
撃沈できなかった。
突っ込むこともできなかっ
た。悔しかった。
残りの燃料が少ない。
私はふたたび慎重に航法を計
算して基地に向った。
私が駆逐艦攻撃をしている問、
高塚一飛曹は高度四〇〇〇㍍で
警戒に当たってくれた。
K中尉のことだ。
(19) 〈予科練〉
★足の長い零戦の初陣
六期
岩井 勉
﹁電線に、止まっている雀が、
焼き鳥になって落ちて来た。それ
を蛭えた犬が、口を火傷した﹂こ
んな冗談がまかり通るほど、漢口
は暑いところだ。
その暑い暑い漠口に、第二連合
航空隊が駐屯していた。第二連合
航空隊は、第十二航空隊︵艦戦、
艦爆、艦攻︶と第十三航空隊︵中
攻、陸偵=陸上偵察機︶で編成さ
れ、大西滝治郎少将︵当時︶が司
令官だった。
昭和十五年の事で、私は二十一
歳の二飛営、第十二航空隊の九六
艦戦搭乗員となっていた。
薙政権のある重慶は、陸軍部隊
が進攻するには遠く、かつ、道が
険しかった。
勢い、同地の攻撃は、中攻隊が
一手に引き受けることになり、連
続出撃を続けて、十三空の指揮所
には、何時も強烈な戦意があふれ
ていた。
それに反して、我々の足の短い
艦戦隊は、宜昌基地を中継しても
しょせん、重慶まではついて行け
ず、いつも基地上空の直衛に任じ
ているばかりで、﹁情けない﹂の
一語に尽きる状態だった。
もっとも、猛暑の下界を離れて
六千メートルの、上空を飛ぶこと
は絶好の納涼方法でもあった。
の来襲しない上空を、来る日も来
気温は、一〇〇〇メートル上昇
するごとに、五度ずつ下がるから
だが、それにしてもまったく敵機
る日も無為に飛んでいるのは、実
にやりきれなかった。
何時からか、隊員の中に、こん
な替え歌が、流行りたした。
★昨日直営、今日直営
明日も直営で暮れるだろ
直営だから、それだから
敵に遭わずに飛んできた、
飛んできた。
戦闘機に、援護されない中攻隊
は重慶上空で敵戦闘機に叩かれ、
足の長い戦闘機で、護衛する事
出撃するたびに二二二機ずつの犠
牲を出した。
十三空司令奥田大佐も、戦死し
。
た
でたまらなかった。
が出来さえしたらと、我々は無念
その頃内地では、九六戦とは比
同時に、世界一の長距離の行動
一新するものだった。
力と、快速を誇るものであること
が我々を喜ばせた。
直ちに、この新鋭機による猛訓
練が開始され、人月十九日には、
早くも第一回の、重慶出撃が実施
搭乗員は、A部隊、B部隊と二
組に分けられていたが、私はB部
隊に所属した。
それぞれ十五名ずつだが、飛行
機は訓練中に二機が損傷し、十三
されることになった。
テストされていた。
それが制式機に採屈され、現地
に進出することに対する、我々の
機となっていた。
べ物にならない高性能の、十二試
艦載︵昭和十二年式試作艦戦︶が
要望は日増しに高まり、航空本部
我々が訓練を行っている問に、
実施された陸偵隊︵指揮官千早大
所が、翌三十日出撃した我々
まらないのである。
待望の、獲物を先取りされてはた
動して見ると、空中にも地上にも
ただの一機も見当たらなかった。
空しく引き上げて来た、A部隊
の連中を見てB部隊のものは、内
心ホツとした。
明日はいよいよ我々の出番だ。
配備されている、とのことだった
が十九日先陣を承り、A部隊が出
尉︶の偵察によると重慶飛行場に
は、常時、三∼四十機の戦闘機が
への矢のような、催促となって表
れ
た
。
その結果、海軍は異例の英断を
以って十二試艦戦十五機を、試作
機の身分のまま漠口基地へ、空輸
したのである。
現実に見る﹃零戦﹄は、九六戦
十五年七月二十一日のことで、
同月末、紀元二千六百年にちなみ
零式艦上戦闘機として、制式機に
採用された。
よりもかなり大型で、外観だけで
も、引き込み脚、可変ピッチプロ
ペラ、フラップ翼、二十㍉機銃、
長い風防等々、九六式とは面目を
〈予科練〉 (20)
B部隊も、やはり一機も発見出来
ずに帰投したのだった。
参謀たちも、情報が敵に漏れて
ヽ ○
いるのではないか、と考えたらし
約一か月後の九月十一一日、A部
﹁零戦﹂の重慶進出は一時中断
され、訓練だけが続けられた。
隊が二回目の重慶出撃を実施し、
又も、敵機影を見ずに帰還したの
ち、偵察機が残って様子を伺って
いると、同隊が引き上げて数分過
ぎると、敵戦闘機が約三十機が出
現して、さかんにデモ飛行をやっ
たという。敵らしいやり方だ。
この手で、われわれに一杯食わ
せていたのだ。
がもうその手は食わない。
翌十三日はB隊の出番で、進藤
大尉を指揮官とし、白根中尉、山
下空曹長、高塚、北畑、藤原、末
田、大木、光増、山谷、三上、平本、
私の十三機が出撃した。
途中の宜昌で燃料を補給、上空
で陸攻隊三七機と合流し、その上
空一〇〇〇メートル付近で、戦闘
隊形をとって進んだ。
絶壁の下を、川幅を狭めて、揚
子江が流れている。
いようなところである。
真上を飛ばないと、すぐ見えを
くなるような、深い谷底を流れて
いるのだ。
こんな険しい山岳地帯は、内地
で見たことが無い。
いかに、精鋭を誇る日本陸軍で
も、この難所は突破し得まい。
ここで不時着でもすれば、永久
に発見されることはないだろう。
恐ろしい、と云っ以外に言葉の無
って行くのである。
ふと気が付くと、前方の山の頂
上に、スーと煙が上がった。
そして、われわれの速度より早
く連山の頂上に、次々に煙が上が
視界二十五カイリ。高度五〇〇
〇メートル。
陸攻隊は、爆撃針路に入った。
爆撃開始。我々は、高射砲の炸
裂に包まれ、重慶は投下爆弾の爆
煙に覆われた。
がやはり敵戦闘機は現れない。
全機無傷で帰途についた。しか
しわれわれの戦闘機は、重慶の視
界外に到達したところで、陸攻隊
と別れ重慶上空に向かって、反転
し
た
。
帰ったように見せかけるのか、
予定された戦法たったのだ。
案のじょう、再び重慶上空へ指
しかかったとき、前方、高度五千
メートル付近を、E15約二十機
が、編隊を組んで飛来するのを発
見した。
ああ、これは狼煙だ。と気が付
支那軍は、よくこれを使うとは
やがったな﹂増椙を捨てて、全機
飛びかかった。
曳痕弾道は、色テープを投げか
けた様に交錯し、地上に落ちて爆
い
た
。
聞いていたが、自分の目で見るの
は初めてだ。今までの空襲でもこ
の狼煙で、我々が到着するより二
〇分くらい前に、重慶では空襲警
報が発令され、敵機はどこかへ姿
発炎上するものもあり、山腹に衝
るものあり、燃える横からパラシ
ュート脱出するものあり、天然色
突自爆するものあり、空中分解す
も無駄である。
重慶上空は快晴なれど、やや煙
映画を見るような壮観である。
然し今日は、そんなことをして
﹁畜生!。よくも今までだまし
を隠していたのだろう。
霧あり。
比の三十分間の空中戦で、二十
四機を葬ったほか、山下兵曹長は、
白市駅飛行場に逃げ込んだ、三機
を銃撃して地上で炎上させ、計二
十七の敵全機を撃滅した。
山下兵曹長は、我々十一二名車の
最古参で、この日も五機を居ると
いうベテランぶりを発揮したが、
戦い終わり敵なしと見るや、北畑
一空曹と共に白市駅飛行場上空
一〇〇メートルの超低空で、宙返
りをやってのけた。嬉しくてたま
らなかったのだろう。私も三機を
撃墜した。
宜昌へ帰投すると、進藤大尉は
一機、二機、と数え全機生還を確
認すると雀躍りした。
これまた.嬉しくてたまらなか
ったのだろう。我が方は四機が被
弾しただけだった。この戦闘後重
慶周辺には、敵機が認められをく
なった。敵飛行部隊は成都に後退
集結し出したのである。
それにつれて、わが方の航空作
戦も、成都周辺太平寺飛行場方面
へ進展することになった。
私は、この漠口基地以後終戦ま
で、﹃零戦﹄乗りで一貫した。
︶
終
︵
(21) 〈予科練〉
○平成26年12月12日
堀 元千江︵七十三才︶
牛久市南
当時の若者が、自国を思い、
大国との戦いに挑んで、それが
現代に繋がったものだと思いま
す。現代の日本情勢をみると誠
に情けないと思われます。
だれが責任を、いまなお難か
しい状況にあります。
。
た
若鷲の歌を聞き涙が出ました。
ここに来るのは三度目です。
外が大部変わりましたね。二
回目には父母を車でつれてきま
した。大変喜んでおりました。
父は、六年前人十七才で亡く
なったのですが、戦時中飛行機
乗りであり、私が幼い頃には、
マフラーや眼を守るサングラス、
千人針の布や軍刀等がありまし
隊﹂ の歌をうたっておりました。
むづかしい時代だと思います。
何年に一回かここを訪れさせて
もらい、身が引き締まる思いで
世界を見ても﹁平和﹂が大変
気がします。
今の私たちがあるのは皆この
方たちのお陰であり一人一人の
文章を読んでいると涙がでてき
ま
す
。
しまったので、ちょっと淋しい
以前雄翔館の上部にあった写
真や無線の電鍵等はなくなって
酒を飲むとよく﹁加藤隼戦斗
ことでさびしいことでしょう。
サイパン・グアムに赴き日本
のとった裁量がいかにとほしい
バンザイクリーフでの身投げ、
戦没者への思い、数かぎりなく
残念です。
これからの日本の進む道を、
二度とあやまちを繰り返えすこ
となく平和でよりよい国であり
ありがとう御座居ました。
ますよう。
さいたま市大宮区大成町
○平成26年12月19日
永村 泰正︵六十六才︶.
。
す
。
た
本当にありがとうございまし
○平成27年1月13日
伊丹市瑞穂町
冨田 健三 ︵五十一才︶
定年をあと3年にひかえて、
31年前大津前期教育で同期と
いっしょに歌っていた ︵若鷲の
歌・空の神兵︶ ことを思い起こ
させてくれました。今は亡き父
︵S2生まれ︶と同世代の人が
親に対してどう思っていたのか
ということがわかり感激しまし
た。私の父は大変親孝行でした。
最後に貴重な銃等私のわがま
まで見学させていただいた武器
学校の広報班の方ありがとうご
ざいました。
大変感動いたしました。
陸上自衛隊中部方面通信隊
○平成27年1月18日
則俊 月花︵十二才︶
立川市上砂町
戦争というのは、とてもおそ
ろしい事だとあらためて思いま
。
す
はじめて特攻隊になったのに
もかかわらず、敵についとつし
て死んでしまうなんてとてもじ
ゃないけど、私はやっていけま
せ
ん
。
みんなこんなにも若くして死
んでしまうと言う事はもうない
時代になったけれど、その戦争
で亡くなった人たちの苦しみは
決して忘れません。
このことを忘れずに今後の日
本がもっと良い国になるように
と私は願っています。
○年月不明
住所・氏名・年齢 不明
若い予科練の遺書に感激し、
はじめて、この記念館をおと
ずれました。六十七才のこの年
まで記念館のあることを知りま
せんでした。
なみだしました。またいつかき
たいと思います。
住所・氏名・年齢 不明
○平成27年1月10日
当館に初めて来ましたが、立
派を記念館で、説明して下さる
方もわかり易く、平和ボケして
〈予科練〉 (22)
いる現代人に、もっと来館して
もらう様にアピールをしていっ
て下さい。
現代がいかに幸せかを改めて
感じました。
○平成27年1月17日
中山︵五十五才︶
坂東市 以下不明
以前知覧へ行きましたが、こ
んな身近でこの様な貴重な資料
館があったとは思いもよりませ
んでした。
﹁反戦﹂と口では言いますが、
過去の歴史を直視し、尊い犠牲
の上に今日がある事を忘れては
いけないと思いました。
︵公財︶海原会需付蓄芳名簿
︵敬称略︶ ︵単位千円︶
加賀谷有里︵一般︶茨城
平成27年1月
鎌田 正則︵乙19︶鹿児島
富永 幸子︵醍7︶熊本
野崎 彦司︵特3︶神奈川
小田野 厚︵醍6︶秋田
小田野 厚︵甲15︶秋田
行方 滋子︵一般︶茨城
保坂一郎︵乙19︶東京
森山 房夫︵乙21︶山口
谷川 諭︵丙2︶長崎
谷口 五郎︵一般︶神奈川
斉藤 良久︵乙埜神奈川
鈴木 林司︵甲8︶長野
西田 辰夫︵乙21︶岡山
小原 清︵甲14︶大阪
福本 貞之︵乙21︶静岡
後藤田哲郎︵甲Ⅱ︶神奈川
川野 喜一︵乙18︶大分
都築 倍彬︵甲13︶大阪
堀越辰五郎︵甲14︶東京
秋山 孔孝︵一般︶千葉
石井栄太郎︵特5︶新潟
鈴木 義男︵乙19︶静岡
松本 義弘︵特2︶福岡
誠会
にへ大宮本外鈴小 有の林田間川木川 難ご う芳治幸謙晴満勝 ご志衛一伸男枝巳
)))))) し 滋神群東宮神 た 賀奈馬京城奈
三 ∴二二∴
○ 川 jI
19日︵木︶二月定例理事会、
小林海原会会計担当幹事、
各出席
9日︵月︶壊科続編集会議、於海
原会会議室、保坂編集担当理
事、安藤編集委員、岩館編集
委員、津島編集委員、各出席
事長、平野理事︵執行担当者︶
◇二月
3日︵火︶土浦特定費用準備金特
別会計執行状況監査、於陸上
自衛隊武器学校広報班事務室、
助村専務理事、小野OB会幹
回国回国圏
海 原五二五五五五
於、海原会会議室、
酒井副理事長、助村事務局長、
平野事務局次長、徳永霞ケ浦
支部長、福田理事、早川理事、
保坂理事、佐藤監事、穴山監
事、安井参与、篠田参与、各
出席
◇三月
19日︵木︶三月定例理事会、
於、海原会会議室、
堺理事長、酒井副理事長、
助村事務局長、平野事務局次
長、徳永霞ケ浦支部長、福田
理事、早川理事、保坂理事、
菅野理事、佐藤監事、穴山監事、
安井参与、篠田参与、各出席
28日︵土︶第三十六回特攻隊合同
慰霊祭、於、靖国神社
助村専務理事、福田理事、
各出席
報
伶氏︵甲5︶
平成26年12月23日没
◎故 小原
ご遺族 甥 小原一夫
仙台市青葉区
平成26年12月25日没
◎故 岩瀬 藤作氏︵乙21︶
千葉県匝瑳市大寺
ご遺族 妻 好江
謹んでご冥福をお祈り致します。
23) 〈予科練〉
⑥ 再度 ご 連 絡
本年から、返信用葉書でご出
席の連絡をいただいた方には、
後日土浦駐屯地への入門証を郵
送いたしますので、送迎バス乗
車時あるいは入門時に係りにご
提示ください。
入門証のない方︵同伴者は除
きます。︶ につきましては、入
門できませんのでご注意くださ
ヽ O
LY
五五五五〇五五五五五五五五五五五五五五〇五五五三
﹁予科練﹂第鵜苫5・6月号 平成27年5月1日発行 発行人 堺 周一
昭和53年7月26日第3種郵便物認可 ︵隔月奇数月1回1日発行︶ 編集人 保坂俊雄
七六八⊥一
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鰹麟願醗蹴鞠 東京都より公益霊園の認証を 受けた、舎人公園近くの都心 でも希少な好環境の霊園。
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は「風」と「癒」の2 種類から選べま
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宅街の霊園。環境・価格と もに大好評の立地です。 \観潮陸生適正案内できま
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__霧韻躍躍顕闘蹴 緑豊かな武蔵野・横浜みなと みらいを一望し、四季折々の 花が彩る好環境の霊園。 ’−懇醸麗閣議\縫
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綱艦 四季のうつろいに永遠の時 を刻む、行き届いた景観と 設備の公園墓地。 .∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ .∴t“ _∴
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