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(分割)そして少年は海を渡った①
そして少年は海を渡った -伊東マンショ渡欧八年の意味するもの- 日向学院高等学校教諭 竹 村 茂 紀 日 次 はじめに 1i 伊東マンショについて マンショの出自 「正使」 マンショ 二 遣欧使節について 使節派遣の目的 使節と貿易 おわりに はじめに 鏡・大村純忠・有馬晴信は宣教師ヴアリニヤーノのすすめによ り'伊東マンショら四名の少年を使節としてローマ教皇のもと に派遣した (天正遣欧使節)0 脚注-伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリ 十六世紀に'10代半ばの少年がローマへ渡り'ローマ教皇との 謁見を果たしたC この出来事は、いまだに多-の人に憧れやロマン アンを派遣した。彼らは一五九〇 (天正十八)年に帰国した 大名は'イエズス会宣教師ヴアリニヤーこのすすめにより'一 護し'なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン 大名とよぶが、そのうち、大友義鋲・有馬晴信・大村純忠の三 くって布教につとめた。ポルトガル船は、布教を認めた大名領 に入港したため'大名は貿易をのぞんで宣教師の布教活動を保 レジオ (宣教師の養成学校)・セミナリオ (神学校) などをつ その後、宣数師はあいついで来日し、南蛮寺(教会堂) やコ また、別の高校日本史教科書には'同様の小見出しに続いて、 が'このときには秀吉のバテレン追放令が出ていた。 ︻2) を抱かせるようである。「天正遣欧使節」や「伊東マンショ」とい う言葉を'社会科の授業で教わった事項として記憶にとどめている 人もいるだろう。また'四〇〇年以上も前に成し遂げられた大航海 は、それを美談として人々にとらえさせるに十分な出来事といえる かもしれない。 この出来事については、中学・高校の社会科教科書に記載されて いるため'多-の人が耳にしたことがある。では'教科書にはどの ように書かれているのであろうか。 まず、中学教科書から見てみると'「キリスト数の広まり」とい う小見出しに続いて、 蛮船が領内の港に来ることを許し'なかには'キリスト教の信 教に努めました。貿易の利益に着目した九州各地の大名は、南 チノの四少年が派遣され'ゴア・リスボンをへてローマに到着 脚注-伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マル た (天正遣欧使節)0 五八二 (天正一〇)年、少年使節をローマ教皇のもとに派遣し 者 (キリシタン) になる者もあらわれました。一五八二年に し'教皇グレゴリウス十三世にあい'1五九〇 (天正十八)午 ザビエルが去ったのちも'宣教師が貿易船に乗ってきて'布 は、大友宗麟ら九州の三人のキリシタン大名が、四人の少年 に帰国した。 科書においても、脚注で触れられていること。 ④四人の少年たちについては'中学教科書には記載はな-、高校教 ローマに派遣したこと。 ③キリシタン大名が'ヴアリニヤーノのすすめにより'少年たちを 教義に感銘を受け'キリスト教に改宗するものもあらわれたこと。 ②当初、貿易の利益に着日していた大名たちであったが、中には、 こと。 ①大名たちが'貿易の利益に着目し、宣教師の布教活動を容認した と'記されている。ここで共通していることは、次の通りである。 (3) を、使節としてスペイン国王とローマ教皇のもとへ派遣しまL lIU た。 と書かれている。 高校日本史教科書では、記述が詳細になり、「南蛮貿易とキリス ト教」という小見出しに続いて、 戦国大名のなかにも、キリスト教の信仰にひかれ'改宗する 者もあらわれた (キリシタン大名)。また'南蛮貿易の利益を 求めて、キリスト教の保護を行う者も多かった。このようにし てキリスト教は、西日本などのキリシタン大名の領国でさかん になった。一五八二 (天正一〇)年、キリシタン大名の大友義 出しにもなっているとおり考慮されている。しかし、遣欧使節を三 せることはできない。宮崎県東諸県郡国富町にある法華放薬師寺の 日本に残されている史料からは'ほとんど彼の姿を浮かび上がら しかし、彼の出自については'不明な点が多い。 名のキリシタン大名がヴアリニヤーノのすすめにより派遣したと述 教科書では、南蛮貿易とキリスト教布教の関係については、小見 べられており、使節は宗教的に感銘を受けたキリシタン大名により (一) 天井板に書かれている、伊東祐青が子どもたちの無病息災を願って 奉納した言葉の中に、虎千代麿という子供の名前が出て-るが、そ 立案され'実行されたと読み取れる。 マンショの没年は、イエズス会の記録に残っており、はっきりし れがマンショの幼名なのではないかといわれている程度である。 いがあるが、少年たちがどのような出自で'どのような過程で選抜 ているが'生年ははっきりしていない。薬師寺天井板に祐青が書き 遣欧使節について語る際に、少年たちの行動を高く評価するきら されたのかは'あまり注目されていない。むしろ、美化されたイ 記した天正三年に幼年であったことなどから推測し、t五六九 (永 一人目は、遣欧使節を企画し'マンショを使節の一月に選出した についてrアポロジア」という文章の中で'次のように述べてい 巡察師ヴアリニヤーノである。ヴアリニヤーノは'マンショの出自 ) ヽ 0 ここで三人の神父が述べた、マンショの出自について検討した に書かれているのであろうか。 それでは、ヨーロッパ側の史料では'マンショの出自はどのよう 禄二一)年頃生まれたとされている。 メージばかりが先行しているように思えるO 特に、少年たちの筆頭にあげられる伊東マンショについては'な ぜ彼が「正使」なのかということも含めて、十分に検証されていな いのではないだろうか。また'使節派遣は、日本をはじめ、ヨー ロッパの人々に対してどのような意味を持っていたのか、などにつ いて意外と知られていない。 本稿では'まず'遣欧使節の「正使」とされる伊東マンショの出 自と、使節の一月に選ばれた過程について考察する。 次に'巡察師ヴアリニヤーノに注目し'彼がどのような意図を ドン・マンショは豊後の大名の甥ではなく'彼の甥である日 る。 さらに、従来遣欧使節は、その宗教的側面ばかりが強調されてき 向の大名の従兄弟で'日向の老大名の孫'すなわちその大名の もって遣欧使節を立案したのかを考える。 たが、大航海時代におけるスペイン、ポルトガルの海外戦略の1つ 娘と同じ日向の大名の家族の一武士の息子であった。日向の大 (LrI) として、遣欧使節がもつ意義についても言及したい。 名は伊東家であり、従って伊東ドン・マンショと呼ばれる。 ここで'ヴアリニヤーノが'何のためにrアポロジア」第五章を マンシTTTは遣欧使節の正使'大友宗麟の名代としてローマに派逮 マンショの出自 伊東マンショの出自については'疑問視される点が多い。 しの米を食するにもお金がなかったでしょう。彼らの中で一人だけ エズス会の修道服を受け'修道会に入らなかったならば、今では少 ています。すなわち彼らは貧しい若者にして平民の息子で'もしイ 一 伊東マンショについて 書いたのか、にまず注目したい。マルティノという神父が遣欧使節 された.マンショが選出された理由は'宗蟻の名代として相応しい が豊後王の甥で'彼も他の者も王でも王子でもな-'日本の王たち について、「この栄えある王子たちが誰であったかは、よ-知られ 出自と人格を備えていると判断されたからだと想像できる。 リニヤーノが主張するマンショの出自には偽りがあり、よって遣欧 とは関係ありませんでした」と、述べているのだが'これは、ヴア ともにしたディエゴ・デ・メスキータは'マンショについて'次の である。豊後のフランシスコ王の代理人は伊東ドン・マンショ' 巡察師とローマへの旅に同行するため選ばれた人は次の通り ように述べている。 リニヤーノにとって'このような批判は'とても容認できるもので 使節にヨーロッパの人々は編されたのだという批判であった。ヴァ はな-、マルティノに反論するためにこの章を書いたのである。 日向の国出身'日向の大名の孫'すなわち大名の娘と身分の高 い武士の息子。豊後の大名とマンショの間には親戚関係はあま rアポロジア」第五章は'マンシnたちが使節として選 りなく、ただ'ドン・フランシスコの妹の一人がマンショの母 つまりt ばれたことの正当性を主張することに主眼がおかれているといえ の兄弟と結婚しているだけである。 しかしながら、一五八二二天正十二年十二月十五日に、インド ているマンショの出自は、ヴアリニヤーノが「マンショの正確な出 も失わせる危険性をもっているのである。よって、ここで述べられ せ'さらにはそのような人物を選んだヴアリニヤーノ自身の地位を いがあれば'それはマンショが使節に選ばれたことの正当性を失わ に記述してみたい。御地でドン・マンショ (伊東)と呼ばれて けになったものである。ラモンは次のように書き記し、遣欧使節に 疑義を抱いている。 現下はご存知のことと思うが、彼らがどのような人物か簡単 り'この書簡の発見によって、マンショの出自が議論されるきっか 出自について疑問を呈したラモンの幸衛は'あまりにも有名であ そして、三人日として、ラモンの書簡を見てみよう。マンショの (,・・) る。もしこの章で'ヴアリニヤーノが述べるマンショの出自に間違 のゴアからローマ教皇グレゴリオ十三世に送った書簡には'「それ いた者のことは'私は非常によ-知っているが'彼がフランシ 自」と信じていたものと考えることができる。 らの少年たちのうちの一人は ︻伊東マンショ] 日向の国王の甥であ スコ王という名の豊後の屋形の姉妹と結婚していた日向の屋形 (l) でもな-、何かそういった縁者でもなかったし、また現在もそ (伊東氏) の親戚であることは真実で'したがって豊後王の甥 り'また豊後の王の親族でもある。」と書かれており'豊後王の親 l▲I 族であるとヴアリニヤーノは教皇に伝えている。 「アポロジア」第五章によると'大友宗麟と伊東マンショの間に うか。ヴアリニヤーノとメスキータの共通点は'マンショは日向の 三人の神父が指しているマンショは'果たして同一人物なのだろ うではなく、いわば親戚の親戚だといえる。 息子」であると述べている。しかし'教皇への手紙では'宗麟とマ 大名の孫'つまり'大名の娘と武士の息子ということである。この は、血のつながりはまった-ない。「日向の大名の家族の一武士の ンショは親族であると書き送っている。マンショの父親は伊東祐 証言とt r宮崎県史」にある系図を比較すると、日向の大名は伊東 {9} 青'母親は伊東義祐の娘である町上であると言われている。もしそ れが正しいとすれば、教皇へ送った書簡は、明らかに間違いであ 義祐'その娘は町上'町上の夫でマンショの父は祐青ということに なる。この点に関しては'二人の神父の証言と、系図に矛盾はな 後の大名の甥ではなく、彼の甥である日向の大名の従兄弟」と善い 次に'大友との関係であるが'ヴアリニヤーノは「マンショは豊 い。 る。大友宗麟の名代として送り込んだマンショが、宗麟と血縁関係 もない少年であるということになれば'遣欧使節の価値が低下する と危供したヴアリニヤーノが、「マンショは'宗麟の親族である」 とわざわざ記したのではないだろうか。 次に'マンショたちとともに'使節の引率者として八年間行動を