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京都市内における桜景観の形成過程とその実態に関する研究

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京都市内における桜景観の形成過程とその実態に関する研究
平成 26 年度修士論文梗概集
京都市内における桜景観の形成過程とその実態に関する研究
Study on the process of landscape with cherry tree and its actual situation in Kyoto city
工芸科学研究科造形工学専攻 13631007 岡本和己
Architecture and Design
OKAMOTO Wako
It is necessary to have a right understanding of the process an existing row of cherry tree has been formed when we maintenance
and reproduce them. So in this paper I investigate the process of landscape with cherry tree and its actual situation in Kyoto city.
Before the early modern times, while it would have the prize beauty SATOZAKURA cultivated at a temple and a house,
YAMAZAKURA which inhabited in the mountains like Arashiyama was liked by the public in Kyoto. However, after the
modernization, SOMEIYOSHINO spread from Tokyo and plant them in the whole country. In Kyoto city, SOMEIYOSHINO were
planted in Kyoto city zoo beginning, and the row of SOMEIYOSHINO and the scene of SATOZAKURA and YAMAZAKURA were
formed. For example, YAMAZAKURA was planted with excavation of the Lake Biwa Canal after 1888, and the row of
SOMEIYOSHINO was made in the residential area formed with land adjustment. SATOZAKURA were used as a symbol of the
urban tree planting plan in 1966 to 1976. The purpose of this study is analysis of the process of landscape with cherry tree from the
viewpoint of urban strategy, and making of the strategic document for preservation of the cherry tree scene in future.
―目次―
序章 本論の目的と論点
第 1 章 京都市内における桜の変遷
第 1 節 近代以前の京都の桜
第 2 節 近代以降の京都の桜
1-2-1 街路樹以外の桜の変遷
1-2-2 街路樹としての桜の変遷
第 3 節 小括
第 2 章 戦前の京都の桜
第 1 節 琵琶湖疏水周辺への桜の植樹
2-1-1 琵琶湖疏水沿岸への桜の献木
2-1-2 岡崎周辺への桜の植樹
(1)勧業博覧会への桜の植樹 (2)動物園の開園と桜の植樹
2-2-3 哲学の道への献木
(1)川越新四郎による献木 (2)橋本関雪による献木 (3)両者
による植樹の比較
第 2 節 京阪沿線への桜の植樹
第 3 節 宅地化に伴う疏水分線への桜の植樹
2-3-1 宅地化に伴う桜の植樹
2-3-2 土地区画整理に伴う疏水分線への桜の植樹
第 4 節 小括
第 3 章 戦後の復興事業と観光都市化に伴う桜の植樹
第1 節 京都市による戦後の京都国際文化観光都市建設法に基づく桜の
植樹
3-1-1 京都国際文化観光都市建設法に基づく緑化計画
3-1-2 建物疎開跡地の桜
(1)建物疎開跡地幅員50m 道路の整備 (2)建物疎開跡地の道
路断面・緑化の計画 (3)各路線の実態
3-1-3 白川・高瀬川への桜の植樹
(1)白川周辺への桜の植樹 (2)高瀬川周辺への桜の植樹 (3)
現在の白川・高瀬川の桜景観に対する評価
第 2 節 民間による観光を目的とした桜の植樹
第 3 節 小括
第 4 章 昭和 40 年代の都市緑化に伴う桜の植樹
第 1 節 環境緑化の背景
4-1-1 全国の都市緑化運動
4-1-2 京都における環境緑化
第 2 節 緑道・遊歩道の整備と桜の植樹
4-2-1 京都市による緑のネットワーク構想に基づく緑道の整備と桜
の植樹
4-2-2 京都府による半木の道の整備と桜の植樹
第 3 節 京都市による各保勝会を媒体とした景勝地への桜の補植
第 4 節 小括
第 5 章 河川整備事業に伴う水辺空間の創出と桜の植樹
第 1 節 京都市による河川環境整備と桜の植樹
第 2 節 京都府による河川環境整備と桜の植樹
5-2-1 「京の川づくり」事業の概要
5-2-2 鴨川改修協議会による花の回廊整備プラン
第 3 節 小括
終章
第 1 節 結論
6-1-1 桜の植樹と管理の主体に関する考察
6-1-2 桜の植樹の背景と意図に関する考察
6-1-3 桜の種類と植樹形態に関する考察
第 2 節 今後の課題と展望
□序章. 0-1.はじめに 京都市内の桜並木には、第 2 次世界大戦後すぐに植え
られたものが多く、その老朽化が著しいことが長年の課題
であった。京都市内の街路樹を管理している京都市建設
局緑政課では、平成 22 年から、次世代の京都市民や京
都市を訪れた観光客に美しい桜並木を継承するために
「桜景観創造プロジェクト」が進行している。このような桜並
木の保全・再生が求められる時代では、既存の桜並木が
どのような経緯をもって形成されてきたのかを正しく理解し、
適切な植樹計画を立てる必要があると考える。
桜に関する先行研究の多くは、『ねじ曲げられた桜』(大
貫恵美子、岩波書店、2003 年)のように、桜の精神論・桜
語りに関するものであり、桜の実態分析ではなく、解釈に
ついて論じているものである。実際の京都の桜の植樹に
着目した研究としては、高木博志氏の「近代京都と桜の名
所」(『近代京都研究』思文閣出版、2008 年)が挙げられる。
この研究では、京都を代表する桜の名所に着目し、近世
から近代への移行の中で、いかにその意味を変えていっ
たかが論点となっているが、ここでは、京都の象徴的な桜
めるのに適している。つまり、あまり高い所や木立に間な
を用いており、その他の街路樹の桜などを含めた京都市
どに植えるには適しておらず、公園の中や、土手のような
全体の桜を扱う分析方法はとられていない。そこで、本研
所へ植えるのが良いとされている。
究では、近代以降の京都市内全体の桜の実態を対象に、
□1.近世以前の京都の桜 桜植樹の主体や意図を明らかにするとともに、桜景観の
近世以前の京都の桜は、嵐山や東山、京都御所や千本
形成過程を都市戦略的に分析し、今後の京都市内の桜景
釈迦堂など、それぞれが古典文学・和歌や由緒を媒介と
観の保存のための戦略的資料とすることを目的とする。
する、さまざまな物語とともにあった。これらの桜は、一本
桜や、群桜であった。ここでいう群桜とは、さまざまな樹種
や品種が分散している植樹形態のことであり、ソメイヨシノ
並木のような単品種が列として植樹されているものとは区
別する。また、中世の貴族の邸宅にも桜は栽培されており、
ここではサトザクラの多品種植えが主流であり、さまざまな
桜の種類や花期に精通していることは教養の一部であっ
た。桜の種類としては、寺院や人家で栽培されているサト
ザクラが一般から賞美される一方で、嵐山などの山間部
0-2.桜の種類と特徴 桜を植樹する上で、桜の性質や相応しい植栽場所につ
で生息するヤマザクラも好まれていた。
□2.戦前の京都の桜 いては充分に考慮しなければならない事柄であるので、
明治維新以降、円山公園の枝垂桜に代表されるように、
桜が都市に植樹する樹木としてその性質上どのように捉
近世では寺院等の塀の中の閉じられた空間にあった寺桜
えられてきたのかをまとめる。
が解放され、市民も容易に接することができるようになっ
桜は、大気汚染に弱く、病虫害が極めて多い、維持費と
た。また、琵琶湖疏水などの開発事業に伴い桜が植樹さ
手間がかかる等の弱点から、街路樹としては不向きであり、
れるようになる。第一疏水沿いへの桜の植樹は、堤防の
濠端、河岸地や堤防に植樹すべき樹木であると考えられ
根固めと周辺の森林としての美観を添える目的があり、工
てきた。また、桜は緑や水を背景に用いることで価値が高
事従事者や疏水沿岸住民、関連役所などからの献木によ
まると考えられている。また、桜の植方は、種類によって違
るものであった。植樹された桜は、周辺の赤松植生林に
いがある。嵐山等に代表される山野に自生するヤマザクラ
適していると考えられていたヤマザクラが選ばれた。ソメイ
は、戦前まで、日本の桜の代表であると考えられていた。
ヨシノが初めて植栽された岡崎の地では、第四回内国博
ヤマザクラの背景としては、アカマツや楓等が適しており、
覧会とその跡地にできた動物園という同じ場所の桜景観
狭い場所に並木のように植えるには不適当である。ソメイ
でも、ソメイヨシノ普及前後では、桜の種類や植樹形態に
ヨシノは、維新前後次第に植えられた新しい桜で、繁殖が
違いがあり、形成される景観も異なっていたことがわかっ
早く大量生産が可能である。ソメイヨシノは、葉が出る前に
た。内国博覧会会場では、桜の種類としてヤマザクラが用
花が咲き、一斉に咲き誇るので、並木として植えるのが適
いられており、建物や他の樹種の緑の中に、桜が点在す
しており、木立の間などに植える桜ではない。サトザクラ
るような景観であったが、ソメイヨシノが用いられた動物園
は、栽培品種を総称した名称であり、広義では、ソメイヨシ
では、大量の桜が疏水沿いに一列に植栽され、一面白毛
ノも含まれる。サトザクラは、幹が低く、枝もあまり大きくな
氈を敷き詰めたような景観が形成された。哲学の道にお
いが、花は極めて立派であるので、一つ一つ近くから眺
いては、明治 24 年頃の川越と大正 10 年の関雪の植樹を
比較することによって、ソメイヨシノ普及前後の桜景観の変
と考えられる。実際に植樹された場所としては、五条通や、
化を分析した。その結果、ヤマザクラを用いた川越の桜景
白川沿い、高瀬川沿いが挙げられる。五条通では、同じ
観は群植による面的な性質が強いのに対して、関雪によ
建物疎開跡地 50m 幅員道路の中でも各路線で道路断面
るソメイヨシノの植樹では列植による線的な性質を持つも
や植栽に各路線の特色を出そうとしており、特に、同じ東
のであったことがわかった。また、大正 4 年に京阪電車沿
西方向の御池通と五条通では、こだわって違いを出して
線(三条〜五条間)の堤防上に植栽された桜は、京都府と
いたことが伺える。その結果、御堂筋をモデルにした御池
京都市による堤防上の電気軌道敷設をめぐる景観論争か
通と国道の五条通では道路断面にも違いがあり、中央植
ら生まれ、風致を保つために堤防上に樹木を植栽する案
樹帯の桜は、御池通のケヤキとの差異化を図るために採
がもとになって植樹されたものであった。さらに、疏水分
用された。
線の桜は、楓や柳とともに昭和 7 年 12 月に、洛北土地区
また、白川や高瀬川沿いでは、植樹された樹木の大半は
画整理組合と下鴨土地区画整理組合によって、高級住宅
柳であったが、京情緒ある樹木として少量ではあるが桜が
地としての風致を添える目的で植樹された。また、北白川
植樹された。その後も、ヤナギを主体としていた並木に、
でも、宅地化を目論み桜や楓、杉を植栽していた。このこ
サクラが植樹されていくことによって、サクラ主体の並木へ
とより、大正から昭和初期の京都における宅地開発、特に
の変化し、現在の景観を創り出し、周辺環境と相まって京
高級住宅地を志した地域においては、桜や楓によってそ
都を象徴する景観であると評価されるようになった。京都
の価値を高めようという意図があったのではないかと考え
市のみならず、民間でも観光を目的とした桜の植樹が行
られる。
われていた。民間における桜の植樹には、桜を新しく植
樹することで名所化を図ろうとするものや、京都市観光連
盟や観光課が関わっている桜の植樹があった。また、既
設名所でも、桜の補植が盛んに行われ、名所としてふさ
わしい桜景観を創り出そうという動きがあった。
□4.昭和 40 年代の都市緑化に伴う桜の植樹
高度経済成長が進む中で、昭和 40 年頃から公害問題
に対しての取り組みが始まり、昭和 40 年代後半には、ま
関雪によりソメイヨシノが植樹された哲学の道(銀閣寺付近)
ちづくりとしての公園、道路等の環境緑化もクローズアッ
プされるようになる。また、昭和47 年の都市公園等整備緊
□3.戦後の復興事業と観光都市化に伴う桜の植樹
急措置法、翌年の都市緑地保全法といった法律も整う。こ
戦後の京都では、観光客の増加や好景気を受けて、京
のような背景のもと、「緑」には「環境対策」という明確な役
都市や地元民、既設観光地などで観光を目的とした桜の
割が付与される。これを象徴するのが、全国植樹祭のテ
植樹が行われた。京都市における桜の植樹は、京都国際
ーマであり、概ね昭和 25 年から 30 年が荒廃地造林、昭
文化観光都市建設法に基づく観光都市としての環境、景
和 30 年から昭和 42 年が林種転換・拡大造林であったの
観を保持するためものもであった。特に桜は、既存並木が
が、昭和 42 年の岡山市開催の植樹祭においては「拡大
ある個所や京都独得の情緒をもつ路線に植樹された。こ
造林」に並んで環境緑化が登場し、その後、昭和 46 年以
の背景には、桜は一般的な街路樹としては適していない
降はほとんど「環境」「自然」「緑の文化」などが織り込まれ
が、京都を象徴する樹木としては、場所を選んで植樹し、
るようになる。京都では、緑化運動のシンボルとして、府で
京都らしさを演出したいという意図があったのではないか
は「シダレザクラ」、市では「サトザクラ」が指定される。京
都では従来サトザクラとともにヤマザクラが好まれてきた
うようになる。現在は再び街路樹としての桜が増加してい
が、シンボルとして選ばれたのはサトザクラのみであった。
る。このように京都市内の桜並木には、街路樹として植樹
このサトザクラの選定も、昭和 40 年代の緑化運動が平地
されたものと、そうでないものがあり、主体や管理形態も、
都市部の環境緑化を対象としていたことを象徴するもので
戦前は個人が行っていた場合も多く見られたのに対し、
ある。実際に桜が植樹された場所は、行政機関によって
戦後は街路樹として京都市が管理する場合が主流となっ
整備された緑道(哲学の道、六勝寺のこみち)や遊歩道
たことがわかった。
(半木の道)であった。これらは、水辺に位置し、倉庫群や
桜の植樹の目的に着目すると、明治期の琵琶湖疏水沿
駐車場が桜並木をもつ緑道へと変えられていく。
岸では、堤防の根固めと疏水沿岸のアカマツ林の風致が
□5.河川整備事業に伴う水辺空間の創出と桜の植樹
目的とされ、大正から昭和初期の宅地開発、特に高級住
昭和後期から平成初期にかけて、京都市内の河川が、
宅地では、桜や楓によって住宅地の価値を高めようといっ
流域の都市化に伴う水辺空間の縮小、平常流量の枯渇、
た意図で植樹が行われていく。戦後の京都国際文化観光
水質の悪化等の要因により著しく変化し、魅力を失ってい
都市建設では、桜を用いた「都市の装飾」が行われ、昭和
る一方で、市民の意識は、単なる量的な豊かさの追求か
40 年代にはそこに環境対策といった役割が付与される。
ら質的な豊かさを求める方向に変化した。鴨川や疏水沿
昭和末期からは、桜並木が良質な親水空間を創出するア
いの桜並木は「水辺の親しみやすさ」を判断する一つの
イテムとして用いられていく。このように、桜は、各時代の
要素であり、市民からも高く評価されており、河川環境整
背景によって異なる役割を持っていたことがわかった。
備を担当している京都市建設局部署も良質な親水空間を
また、一言に桜といっても、サトザクラやヤマザクラ、ソメ
創出するアイテムとして桜並木が重要であると判断してい
イヨシノとさまざまな種類があり、桜の種類によって形成さ
る。このように既存の桜並木が評価される中で、京都市は、
れる景観にも差異があることがわかった。さらに、京都で
景観や自然に配慮し、良質な水辺環境の形成を目指した
は、近世からサトザクラやヤマザクラが好まれており、ソメ
河川づくりに取り組み、新たに整備された箇所には、この
イヨシノ普及後も、市内がソメイヨシノ一色になることはなく、
当時高く評価されていた桜並木が形成されていったと考
場面に見合った桜の種類が選ばれてきたことがわかっ
えられる。また、京阪電車と鴨川運河の地下化に伴い整
た。
備された「花の回廊」でも、桜が水辺空間の価値を高める
為に用いられた。
□主要参考文献
□6.結論
『街路樹ニ関スル集計表』大正 9 年、京都市役所蔵。
『京都市街路樹調書』昭和 32 年、京都市役所蔵。
「京都市 公園 街路樹 配置図」縮尺二万五千分一、京都市、昭和 50 年・
平成 12・24 年。
『京都国際文化観光都市建設審議会議事録』昭和 26 年、京都市役所蔵。
『大正八年〜大正十年 用地重要書類』地理課。
『土地に係わる書類その 2(明治 26 年〜27 年)』。
『疏水不用地払下願指令達幵綴』(明治 24 年 1 月以降)。
『官吏指令』[明治 21−7]京都府立総合資料館所蔵。
『施行済賞与原書』[明 23−28]京都府立総合資料館所蔵。
『大正五年 軌道』[大 5-68-1]土木部、京都府立総合資料館所蔵。
『洛北土地区劃整理組合』[昭 11-132-4]]京都府立総合資料館所蔵。
『櫻』櫻の会、第一号(大正 7 年 4 月)、大正 15 年春季号(大正 15 年)。
『櫻』三好学、富山房、昭和 13 年 4 月 8 日。
『櫻』香山益彦、晃文社、昭和 18 年 4 月 15 日。
「京都の桜」『近畿京都』勧修寺経雄、刀江書院、昭和 3 年 11 月 6 日。
『京乃桜』京都市産業部観光課、昭和 15 年 3 月 25 日。
『京の桜』佐野藤右衛門、紫紅社、平成 5 年。
現在の京都市内の並木は、京都市が管理する街路樹と
してのものが多いが、大正 8 年の都市計画法制定以前に
は街路樹としての桜は存在したもののその数は少なく、市
内の桜の大半は住民や組織が発案から植樹、管理まで
個々に行っていた。大正8 年以降、街路樹として植樹され
るものが増加し、戦後(昭和 20 年代〜30 年代)に植樹さ
れた桜はほとんどが街路樹としての桜である。昭和 40 年
代には、街路樹としては捉えられていない桜が緑道や公
園へと植樹され、管理の主体も、京都市や京都府といった
行政機関と、桜の樹木を寄付した民間団体が協力して行
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