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寶 書 士二~~ーグ中ラバル化時代における地域の自立を考える

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寶 書 士二~~ーグ中ラバル化時代における地域の自立を考える
本稿は、1998年度広島大学経済学部夜間主コース「グローバル化と地域経済j第10講の講義ノートをまとめたものです。戦前
の広島における産業発展の歴史については、主に『広島県史』近代1、2(1980年)に依拠していますが、煩雑さを避けるため、
長文の引用でない限り、個別の出所を省略しています。また、一部の引用文については現代用語にするなど少し変更しているこ
とをあらかじめお断りいたします。
はじめに
私は、社会学の出身であり、地域経済に関す
る基本的な知識を欠いております。しかし、経
って「グローバル化時代における地域の自立と
は何か」について、たんに産業経済の流れを追
うだけでなく、国土計画の話や地方分権の話も
織り交えながら考えてみたいと思います。
済学にはない視点が活かせるのではないか、あ
るいは現場を歩いていることが強みではないか
と思っております。また、昨年後期には「地方
分権と広域行政」というテーマである大学に非
広島の産業立地
原材料立地か市場立地か
常勤講師で出かけました。何が専門か分からな
産業立地については、A.ウェーバーのモデ
くなるときもありますが、そのような学際的な
ルがよく知られています。産業は、原材科の供
アプローチの仕方も"売り物''のひとつである
給地と市場に対する輸送コストを勘案しながら
と思っています。
最適の場所に立地するというものです。
そこで、今日は大きく3つの分野に分けて、
たとえば藩政時代に遡る歴史を持っている釜
お話をしようと思います。最初は、特に広島を
石製鉄所は、鉄鉱石と石炭という原材料の近く
事例に産業立地がどのような流れをたどってき
に立地しました。一方、戦後にできたNKK福
たか。次に、戦後の中国地方における産業の発
山製鉄所や川崎製鉄水島製鉄所は、別に原材料
展過程について、産業立地政策の系譜と絡めな
の供給地ではありません。むしろ海外から原材
がら追ってみることにしたいと思います。
料を運ぶと同時に、海運を使って大都市に比較
これらの過程で、広島をはじめとする中国地
方の産業経済は、いわば外発的に発展し、自立
的便利に輸送できるという点で、原材料と市場
の両方を考慮した立地とみることもできます。
の契機が非常に弱いことが分かってくると思い
明治期以降における広島の産業形成について
ます。ただし、そうはいいながらも中国地方の
みると、「たたら製鉄」や製針のように原材料
産業もどんどん変化してきています。中国地方
立地型のものもありますし、日清戦争以降、軍
を特徴づける重厚長大型産業も変化しており、
都として発展した関係で、缶詰などの市場志向
新たな役割を果たそうとしております。
型の産業も生まれてきました。
そこで、最後に今回の一連の講義の趣旨に沿
リサーチ中野 相性12
P.クルーグマンは、『脱"国境"の経済学』
グロー/(ル鑑辟作にお〝る必修の身立を者λる
1
のなかで、A.マーシャルの説を検証しながら
いうことです。たとえばLSI基盤の超精密加
産業集積が進む理由を論じていますが、歴史上
工をしているディスコという会社は、もともと
のささいな出来事が大きな産業集積につながる
は呉でやすりや砥石をつくっていました。明光
ということを述べています。
堂という針をつくっている会社は、針の技術を
広島の場合も、製針は別に「たたら製鉄」と
活かして細かいプラスチック成形用金型をっく
いう原材料とは必ずしも関係ないかもしれませ
ったり、アルカリ乾電池の集電子をつくってい
ん。また、やはり広島の特産であるやすりや筆
ます。また、磁性材料のトップメーカーである
は、大阪などで技術を修得した職人が広島に持
戸田工業は、もともとはベンガラをつくってい
ち帰って始めたといわれているように、たまた
た会社です。
ま根付いて育ってきたといってよいようです。
このような産業技術の厚みと広がりがある都
とはいえ、たいていの産業は、大まかにいえ
市は、ほかにあまりありません。広島の産業技
ばやはり原材料か市場のいずれかに関係してい
術の集積は、東京の大田区や墨田区、東大阪市、
るとみられます。一方、これらとはあまり関係
名古屋周辺などに次ぐ規模を誇っているといっ
なく、いわば国策立地というか、外発的な立地
てよいと思い`ます。
もみられます。たとえば軍艦や航空機の建造が
東京の大田区には、機械加工・金属加工の一
そうです。最近でも、テクノポリス計画などは
大集積があり、人工衛星の精密な部品を社員数
内容こそちがえ外発型といってもよいと思いま
人の町工場でつくっていたりする。最近は、い
す。
わゆる産業空洞化が問題になっていますが、そ
の一方ではマレーシアのマハティール首相か有
幅が広く奥行きのある広島の産業技術
ところで、明治時代には「安芸の十り」とい-
望な企業の買収に訪れたりしています。大田区
では「設計図面を書いてビルの屋上から紙飛行
う言葉があり、はり、やすり、きり、のこぎり、
機にして飛ばすと、次の日には製品になって帰
かみそり、いかり、もり、はかりなどが有名で
ってくる」とよくいわれます。
あったといわれます(長銀総合研究所『総研調
広島にも同じような話があります。マツダの
査』NO.49、1996年)。主要な地場型産業の全国
1次協力メーカーのヒロテックは、60年代にス
シェアをみると、今日でも製針はほぼ100%、
テンレス浴槽などをつくっていた時期がありま
やすり、毛筆、画筆、福山の琴などは70∼80%
すが、鵜野俊雄社長は、その当時のことについ
超などとなっています。
て、
もちろん広島には、LSI、液晶、半導体加
「[広島市内の観音に工場を設置し、少し離
工装置、新素材などのハイテクも立地していま
れた]十日市町によく通ったもんです。専門
す。広島の産業技術の特徴は、地場産業からハ
化した小企業や個人商店が連なり、ものづく
イテクまで、鋳造・鍛造などの素形材産業から
りには欠かせない街だったのです。当時は、
機械加工まで、小物加工から大型加工まで、金
自転車をこいで鋼材問屋に行き、必要な量だ
型・治具類やCAD/CAMなどのエンジニア
け鋼材を切り売りしてもらう。工具店で買っ
リング機能まで、実に多様な広がりがあること
た刃物で削ったのち、熱処理業者に持ち込
です。
む。焼き入れをして浴槽などの金型ができあ
もうひとつの特徴は、地場産業のなかからハ
がる。鋼材などの原料だけでなく、工具やボ
イテクが生まれるなど、技術の奥行きが深いと
ルト・ナットなどの部品まで1本から売って
グロー/くル此辟作における地膚の貞慶を者λる
2
リサーチ幼厨 /勇は1g
もらえる便利さがありました」(中国新聞社
ます。しかし製造業は、原材料の供給、部品の
編・刊『広島ものづくり物語』1994年)
製造、加工・組立、輸送、販売、さらに廃棄・
と述懐しています。
回収といった流れを伴います。特に自動車産業
関満博教授は、わが国におけるこのような産
は1台あたりの部品点数が2∼3万点にのぼる
業技術の集積をrフルセット型産業構造」と呼
といわれ、すそ野が広く、したがって地域への
んでいます(『フルセット型産業構造を超えて』
波及効果も非常に広い。
1993年)。これは、わが国の多様な産業技術が
参考として広島県と福岡県を比べてみると、
「基盤技術」「中間技術」「先端技術」という
人口では1.7倍、卸売販売額では1.8倍以上、そ
3つの層からビラミダルに形成されていること
れぞれ福岡県が上回っています。ところが、人
を表現したものです。最近になって変質してい
口あたりの所得をみると、福岡県は広島県の
るとはいえ、わが国にはそういった産業技術の
95%程度の水準です。つまり、広島県のほうが
積み重ねがあります。
相対的に裕福といえます。これは、やはり製造
けれども東南アジアではそうではありませ
業の影響が大きいと思います。
ん。東南アジアに機械を持っていけば先進工業
広島県の製造品出荷額は、1968年に福岡県を
国でつくるのと同じものをつくることができま
抜いて中四国・九州で第1位になりました。そ
す。90年代前半におけるアジアの経済成長の重
の後ずっと1兆円以上の差を維持してきまし
要な鍵のひとつはここにあったといえます。し
た。ただし最近、福岡県が8兆円あまり、広島
かし、これは「中間技術」が移っただけであり、
県は7.8兆円と逆転しました。人口あたりの出
「基盤技術」を伴わない。このため高度な生産
荷額でみると、依然として広島県のほうがはる
財の供給は、海外、特にわが国に依存せざるを
かに上回っているとはいえ、実額で30年ぶりに
えない形になっています。
抜かれたことは、少し気になるところです。
これでは自立的な発展ができないということ
で、タイやマレーシアでは「基盤技術」あるい
はサポーティング・インダストリーの育成に取
り組もうとしました。しかし、取りかかってい
明治期から昭和初期の産業形成
たたら製鉄
たところに97年後半からの経済危機に見舞われ
昨年、宮崎駿監督のアニメーション「ものの
ました。東南アジアの破綻についてはいろんな
け姫」が評判になりました。物語の舞台は、ど
要因が絡んでいると思います。政治学的には「開
うやら中国地方の山間部のようにみえます。「も
発独裁体制の終焉」という見方もあります。「生
ののけ姫」は、森林を壊すrたたら」の人々と
産性向上努力を欠いた資本投入型の経済発展は
これを守ろうとする「もののけ一族」の争いが
長続きしない」と指摘したP.クルーグマンの
モチーフになっています。この物語で「たたら」
限界説(1994年)もあてはまりそうです。これ
は、自然破壊の象徴のように扱われています。
を産業技術の面からいうと、「基盤技術」の形
確かに「たたら」に携わる人々は、原料の砂鉄
成が十分でなかったことも大いに関係している
とこれを溶かす薪炭を探して山から山へ渡り歩
とみられます。
いたため、各地にもめごとの言い伝えが数多く
ところで、サービス業の場合、たとえば対価
残されています。
をもらって飲み物を出したり、話をしたりする
しかし、計画的な伐採・植林などにより、荒
と、その時点で経済活動はほぼ完結してしまい
れ果てたまま放置されている山はまずみられま
リサーチ中ノ野1タダ&12
グロー/(ル此摩作にお〝石鯛の卓立を考える
J
かんな
せん。砂鉄を選別するために「鉄穴流し」をし
郊外の坂地区という3つの地区が候補にあげら
ます。比重の重い砂鉄はすぐ近くに落ち、水と
れました。広島の坂地区が候補になったのは、
土砂は流れ出ます。江戸時代の浅野家では、「鉄
あとでお話する呉海軍工廠があったこと、地形
穴流し」の土砂が広島城の壕を埋めてしまうほ
的に防衛上の都合がよかったこと、さらに広島
ど大量に流れ出てくるため、太田川上流での「鉄
に製鉄産業の歴史があったからとみられていま
穴流し」を禁じたほどです。
す。
「鉄穴流し」は、ときには地形を変えるほど
官営製鉄所は結局、炭鉱が近くにあり、鉄鉱
の事業であったのですが、その跡が農業用のた
石の輸入にも便利な八幡に決まり、1897年に開
め池に使われたり、棚田になったり、あるいは
設されました。これと符合するかのように、広
もともと平野の少なかった中国地方の河口部に
島の官営鉱山は1904年にすべて民間に払い下げ
平野をつくったことも指摘されています(杉原
られました。ただし、改良技術は、中国地方各
弘恭「NPOによるISO14000S型地域振興∼たたら
地に設立された民間の鉱山に受け継がれていき
の森・まがね博物館構想」『日経研月報』1998
ました。そのなかのひとつ帝国製鉄という会社
年10月)。
は、戦後1958年まで続いたということです。
それはともかく、「たたら製鉄」は原材料立
また、海軍は、軍用の特殊鋼を開発するため、
地型の代表事例といえます。明治初期まで広島
官営八幡製鋏所の鉄を使いたがらなかったとい
の重要な産業のひとつでした。広島県北部には
います。このため呉海軍工廠に製鋼部門を設置
「三次千軒、可部千軒、東城・西城くろがねど
しています。これもやはり広島における製鉄の
ころ、安芸の吉田は色どころ」といった俗謡が
今日に伝えられており、製鉄がいかに活発であ
ったかをうかがうことができます。
流れにかかわりのあることと思います。
なお、「たたら」については日立金属のホー
ムページで興味深い解説をみることができま
たまはがね
にもかかわらず、欧米から鉄の輸入が増大
す。日立金属安来工場は、和銅(玉鋼)の製造
し、洋式技術が導入されてくると、「たたら」
を源流としています。「たたら」からは、通常
の衰退は避けようがありませんでした。「鉄松
は「ずく」と呼ばれる鉄がつくられますが、良
方」と呼ばれ、大蔵卿として官営八幡製鉄所の
質の砂鉄から取られる鉄は「けら」と呼ばれ、
設立などを推進した松方正義は、明治15年(1882
これが和銅(玉鋼)になります。日立金属安来
年)の時点で、広島の鉱山は「有損無益の工業」
工場は、自動車エンジンの材料やゴルフクラブ
といっています。
のヘッドから宇宙関連材料や電子関連材料に至
このため、東北の釜石鉱山などは明治後すぐ
るまで、多様な高級特殊鋼の拠点工場となって
に官営化されたのに対し、広島の鉱山は官営で
います。普通鋼の価格は1トンあたり10∼15万
あっても民間に請負に出され、残りは民間に払
円程度であるのに対し、同工場の高級特殊鋼は
い下げられました。ただ、洋式技術を導入した
1トンあたり80万円程度といわれます。
釜石などの鉱山がなかなか軌道に乗らなかった
ことに加え、日活戦争を控えて国産の軍備に対
する要請から、広島の鉄が見直され、技術改良
などが積極的に進められた時期もあります。
製針
原材料立地型産業の事例として、先にお話し
たベンガラがあります。戸田工業の歴史は、文
この間、本格的な官営製鉄所計画が持ち上が
政年間(1818∼30年)に遡り、もともとは現在
り、福岡県の八幡地区と苅田地区、そして広島
の岡山県井原市が発祥の地ということです。原
グローノ(ル此辟作における雌の卓立を考える
4
リサーチ中国/タガ/ク
料の硫化鉄の鉱山と太田川の水が近くにあると
表面処理(鍍金)といった流れがあり、金属加
いうことで、明治期に広島に移ってきていま
工の基本的な工程をすべて含んでいます。この
す。
うち「金揚げ」といわれる焼き入れ・焼き戻し
余談になりますが、中国山地には鉱物資源が
の作業は、熟練技能を必要するということです
多く、近世まで津山の硫化鉄や石見の大森銀山
が、その他の工程は、海外や国内他地域との競
が栄え、近代には石炭の産地でもありました。
合を通じてかなり機械化されていきました。
今日でも、クローム鉱、タングステン、砂鉄、
A.スミスは、『国富論』(1776年)のなか
珪石、ロウ石、石灰岩などが産出されています。
で分業によって社会全体の生産が高められるこ
これらのことから、小松左京さんは、中国山地
と、国際分業によって市場が拡大することを論
一帯を r西日本採鉱冶金ベルト」とも呼んでい
じていますが、その前提としてビンの製造を事
ます。
例に使っています。つまり、1人でピンを製造
原材料立地型産業のもうひとつの事例は製針
すると1日に20本が限度であるのに対し、工程
です。針は、必ずしも「たたら」とは関係ない
ごとに10人に振り分ければ1日に48,000本、1
かも知れません。けれども広島大学名誉教授の
人あたり4,800本のピンの製造が可能となると
高橋衛先生は、「古来よりの製鉄業の発展とま
いうものです。
ったく無関係ともいいがたいもののひとつであ
針は細かいものだけにあまり注目されません
ろう」とおっしゃっています(広島市・広島商
が、広島における製針技術の発達は、このよう
工会議所「広島近代産業一〇〇年展」の解説、
な分業ネットワークの形成につながり、ひいて
1991年9月)。
は先ほど申しあげた基盤的な機械加工・金属加
広島の針の歴史については、17世紀か18世紀
工技術の集積にとって重要な源流のひとつをな
はじめごろ長崎から広島に伝わってきたようで
していると評価すべきかもしれません(これは
す。明治に入って、ヨーロッパ製の針-「メ
竹内常善・名古屋大学教授の示唆による)。
リケン針」といったらしいのですが-の輸
入が増大し、広島の針は打撃を受けました。明
市場立地型産業
治20年代には、原料が国産の鉄からイタリアの
広島における市場立地型産業の事例として
鉄に代わりました。しかし、大正に入り第1次
は、造船があげられると思います。広島におけ
世界大戦を契機に、ドイツやベルギーなどの針
る造船の歴史は古く、「続日本紀」に遣唐使船
の産出国の輸出が途絶えたことから、広島の針
を安芸の国で建造したという記録をみることが
はにわかに活況を呈してきました。
当時の針の産地としては、広島のほかに東
できます。また、倉橋町の桂浜には和船の造船
所跡が残されています。瀬戸内海は、古来から
京、'京都、大阪があったようです。広島の製針
海上交通の要衝であり、かつては村上水軍など
業界は、機械化を進めたり、同業組合をつくっ
が活躍したことでも知られています。今日でも
て生産調整を図ったり、検査体制を強めるなど
内航海運が活発であり、来春全通する「瀬戸内
の努力をした結果、第1次世界大戦による特需
しまなみ海道」沿線の島々には、多数の「一杯
もあって、生産額は対戦前の20倍に達したとい
船主」--一家に一隻の個人船主のこと-
われています。
が活躍しています。
針の製造工程は約30工程あるといわれます。
このような市場に対応する形で、今日でも尾
大まかにいっても伸線、鍛造、研磨、熱処理、
道、因島、大崎町木江地区から今治方面にかけ
リサーチ中ノ野1β館12
グロー/功′此辟稚仁方/ナ石地邸のβ丘を者λる
J
て、国内有数の中′ト造船業の集積があり、これ
外発型立地
を支える舶用工業の集積がみられます。今日で
原材料立地でも市場立地でもない産業立地の
もわが国の中小造船事業者(造船能力500トン
形態をここでは「外発型立地」と呼ぶことにし
以上1万トン未満)の半数強が中国地方と四国
ます。戦前におけるその典型は、呉と広の海軍
に集積しています(山口県西部を除く)。
工廠に求められると思います。また、太平洋戦
これらを和船造船の系譜とすれば、一方には
争時の1942年から43年にかけて三菱重工が広島
近代造船の系譜があります。.広島における近代1
に進出し・、・江波地区に造船所、観音地区に機械
造船は、すぐあとでお話する呉海軍工廠に始ま
製作所が立地しました。これも「国策立地」あ
ります。海軍工廠は民間への外注を進めたた
るいは「外発型立地」の代表事例と考えてよい
め、広島湾岸に多数の民間造船所が生まれまし
でしょう。
た。広島の大手造船所としては、前身が明治期
明治19年(1886年)、呉に海軍鎮守府が置か
の木造船建造に遡る因島の日立造船と終戦直前
れました。これは、海軍の管轄範欝である海軍
に始められた三菱重工の江波造船所が有名です
区の拠点であり、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の
が、後者は80年代に撤退し、前者にもかつての
4カ所に設置されました。呉が選ばれた理由に
面影はありません。こういった呉海軍工廠を中
ついては、伊藤博文が「容易に敵襲を受くるの
心とする造船の立地は、特に日活戦争以降の軍
虞れなく、実に安全無比の地」といったからと
需の増大という市場要因も考えられるでしょう
いわれています。司馬遼太郎さんの『坂の上の
が、ここではむしろ「外発型立地」に分類した
雲』だったと思うのですが、伊藤博文が呉に目
いと思います。
をつけたのは、おそらく幕末に瀬戸内海を行き
市場立地型産業の事例としては、ほかに缶詰
があります。これもやはり軍需の影響が大き
く、特に牛肉缶詰が有名で、大正末期には全国
来していたときではないかという話が出てきま
す。
日清戦争直前には、大阪方面から延伸されつ
の80%以上のシェアを誇ったといわれていま
つあった山陽線の整備が一気呵成に進められ、
す。缶詰は今日でもいくつかの企業がみられま
大陸への陸の拠点として広島駅が開業しまし
す。
た。その前の1889年には、当時の県令・千田貞
また、やすりは、もともと村鍛冶が盛んであ
暁が取り組んだ宇晶築港事業が竣工していま
った呉市仁方地区に、江戸末期に大阪で技術を
す。宇晶港は、できるまえから、あるいは完成
修得した職人が持ち帰って広められたといわれ
したあとも「無用の長物」といわれながらも、
ています。近隣の村鍛冶にやすりを供給するほ
日清戦争のときから大陸への海の拠点として位
か、隣の川尻地区でつくられていた筆墨の行商
置づけられてきました。
に委託して、広島以外にも売られていきまし
そして開戦翌月の9月には広島城跡内の第5
た。このように小規模とはいえある程度まとま
師団司令部に大本営が置かれ、10月には臨時帝
った市場が地元にあったとみることができま
国議会が開かれました。こうして広島は、一時
す。さらに昭和に入ると、呉海軍工廠の指定工
的にせよ「臨時首都」になったわけです。その
場に指定され、鉄工やすりなどの生産が増加
後「軍都」としての性格をさらに強めていきま
し、1930年代半ばに全国シェアは50%を超えた
した。「臨時首都」としての性格を物語るエピ
といわれます。
ソードとして、広島と海外との電報取扱件数が
あります。日清戦争前は年間50通程度であった
グロー/功・此時代/こおける増.好のβ立を孝λる
β
リサーチ中厨1タガ12
のが、開戦時の1894年に16万通、1895年には23
すべてがそろったのは1920年になってからのこ
万通に飛躍的に増大したということです(後藤
とです。
陽一『広島県の歴史』1972年)。
呉海軍工廠では、日露戦争前には通報艦や水
もちろん広島は「軍都」だけであったわけで
雷艇をつくっていましたが、戦後は巡洋艦筑波
はありません。1902年に広島高等師範学校、20
(排水量13,750トン、竣工1907年)とその姉妹
年に広島高等工業学校、23年に広島高等学校が
艦生駒(13,750トン、1908年)、戦艦安芸(19,800
設立され、西日本有数の文教都市としても発展
トン、1911年)、戦艦摂津(20,800トン、1912
しました。
年)、戦艦扶桑(30,600トン、1915年)といっ
ところで、呉鎮守府と同時に設置された佐世
たように「大鑑巨砲主義」の先駆けを担うこと
保鎮守府については、「専ら出師の準備を大と
となりました。明治期までわが国では、軍艦の
す」という位置づけがなされたのに対し、呉鎮
建造をイギリスなどに外注していましたが、呉
守府については、「専ら製造をこととし、出師
海軍工廠の建造能力が整備されたことで、大正
は小とす」といった位置づけがされています。
に入ると、巡洋艦金剛(1913年竣工)を最後に
当時、横須賀の造船所が手一杯であったことか
すべて自前の製造に切り替えました。
ら、呉鎮守府は、設立当初から「帝国海軍第-
大正後半に、戦艦長門(33,800トン、1920年)、
の製造所」となることが期待されていたわけで
航空母艦赤城(26,900トン、1927年)、そして
す。
1941年の太平洋戦争開始直後に戦艦大和(全長
呉海軍鎮守府には造船部と兵器製造所が置か
263m、最大幅39m、排水量69,100トン)が竣工
れました。その後、造船部は造船廠となり、兵
しています。呉海軍工廠は、こういった軍艦だ
器製造所は造兵廠を経て兵器廠となりました。
けでなく、国内で唯一、潜水艦・潜水艇を建造
そして日露戦争前の明治36年(1903年)、これ
していました。戦争末期には、いわゆる人間魚
ら2つの部門は呉海軍工廠に統合されました。
雷もつくっていました。
先ほどご紹介しましたように、呉海軍工廠に
この間、1921年に主に航空機の製造・修理を
は、海軍の要請に応えるため、その前身時代か
目的として呉市広地区に呉海軍工廠広支廠が開
ら製鋼部門がありましたが、工廠に統合された
設され、23年には広海軍工廠として独立しまし
ときの条例には製鋼を業務のひとつとすること
た。
が明記されています。特に日露戦争に向けて、
呉海軍工廠というのは、結局のところ軍艦、
特殊鋼の製造に力を入れる必要があったことが
武器、工作機械などを製造する大規模工場のこ
みてとれます。
と です。従業者数は、日露戦争後に3万人、「八
日露戦争後、陸軍は特にロシアの報復を恐れ
八艦隊構想」が進められた大正半ばには3.5万
て軍備拡張に力を入れます。これはその後、日
人に達し、「世界屈指の大工場」といわれまし
韓併合や満州事変につながっていったといえる
た。大正末期には敷地35万坪、外部の施設用地
でしょう。一方、海軍は特にアメリカを意識し
を含めるなら56万坪、工場の建物は70棟、付属
て、1906年の「帝国国防方針」のなかで「八八
施設を含めるなら約700棟に及んだということ
艦隊構想」を打ち出しました。大型の戦艦と巡
です。
洋艦をそれぞれ8隻保有し、海上支配権を確立
呉海軍工廠では、設立以来、基幹的な工程は
しようとするもので、いわゆる「大鑑巨砲主義」
工廠で担いながらも、副次的な工程については
の始まりです。「八八」は段階的に整備され、
積極的に民間に委託してきました。「帝国国防
リサーチ中野 柑且 2
グロー/く〟.鑑辟作仁方!ナ石地邸の虔丘を考える
7
方針」以後は、基幹的な部分についても外部へ
れる半面、大規模な軍事工業の立地によって民
の委託が図られました。たとえば外注予算をみ
間企業の発達が阻害されたいう説もあります。
ると、昭和9年度(1934年度)には61万円であ
全国では昭和初期から重化学工業化が始まって
ったのが、翌年度には300万円に大幅に増額さ
いたにもかかわらず、広島はこれに乗り遅れた
れています。
ことが指摘されています(後藤陽一前掲書、広
この年、当時の工廠長は、民間企業の関係者
島県『広島県史』近代2)。
を前に「大工場が活況を呈しても中小企業が圧
ところでマシダのことですが、創業者の松田
迫・疲弊していては真の工業国といえない」と
重次郎(1875∼1952年)は、大正初期に「松田
いう主旨の演説をしたことが記録されていま
式ポンプ」を発明し、その製品は、大阪新世界
す。ここには、「外発型立地」でありながら、
の人工滝などに使われたということです。その
地域とともに歩もうとする姿勢をみてとること
後、事業が不振の時期もあったようですが、大
ができると思います。
正9年(1920年)に東洋コルク工業という会社
なお、同じ35年には呉市で「国防と産業博」
が開催され、大勢のひとを集めたということで
す。
に迎えられ、翌年には社長になります。
東洋コルク工業は、中国山地で取れたアベマ
キという木を使って、瓶詰めなどのコルク栓を
つくっていた会社です。立地形態からいえば、
産業のインキュベータ
このように呉および広の海軍工廠が積極的に
外部委託を進めた結果、金属・機械関連を中心
市場にも近く、原材料にも近いという両方の性
格を持っているといえます。コルク材は、潜水
艦などの防熱材にも使われていたようです。
に多くの関連企業が周辺に育ってきました。た
東洋コルク工業は、昭和2年(1927年)に東
とえばマツダの前身がそうです。また、呉海軍
洋工業に名称をあらためました。松田重次郎
工廠の出身者が独立し、呉や広島で下請けの事
は、当初から自動車工業に関心を持っており、
業を始めることも少なくありませんでした。戦
1929年には50ccのモーターサイクル、さらに31
後には、こういった創業者があちこちに散らば
年には三輪トラックを開発しました。その後、
っていきます。広島近辺で経営者の話を聞いた
戦局とともにガソリン事情が悪化し、トラック
り、創業の物語を読んでみると、海軍工廠にか
の生産が抑制されたこともあって、しだいに軍
かわりのあるひとたちの話が頻繁に出てきま
需部門のウエイトを高めていきます。
す。
東洋工業は最初は海軍工廠の2次下請から出
広島における基盤的な産業技術の集積にとっ
発し、工作機械や削岩機などで実績を重ねなが
て、海軍工廠の果たした役割はきわめて大きか
ら、小倉陸軍工廠から小銃など武器の受注を獲
ったといえます。いわば「産業のインキュベー
得したことが発展のきっかけになったようで
タ」の役割を持っていたということもできるか
す。1938年には軍需工業動員法に基づく陸海軍
と思います。海軍工廠の立地は外発的であった
共同管理工場に指定されました。管理工掛こ指
にせよ、特に戦後、海軍工廠の出身者たちが広
定されるまえの従業者は1,000人強であったの
島近辺で新しく起業していったことは、地域固
が、終戦直前には約9,700人にほぼ10倍にふく
有の産業発展につながったとみることもできる
らんでいます。この間、コルク部門は41年に売
でしょう。
却しています。
なお、海軍工廠の影響は多大であったとみら
グローバル危辟稚仁方〝各館塚の虔立を者λる
β
東洋工業は、戦後はふたたび三輪トラックの
リサーチ中厨 規は12
製造を開始し、その分野ではトップメーカーと
ので、1952年度から62年度まで継続されまし
なるとともに、60年にはR360クーペを売り出
た。50年代半ばには「神武景気」が始まり、全
し、乗用車部門に進出しました。今日では軍需
国的に輸出や投資が活発化しました。広島県の
工場としての面影は感じられません。
経済はこれを上回って伸びた結果、57年度には
しかし、広島県全体としてみればかつての「軍
1人あたり所得において全国水準に並ぶことが
都」としての名残でしょうか、武器の製造に携
できました。その前年の1956年には『経済白書』
わっている事業所が11-、全国29事業所の4割近
で「もはや戦後ではない」という表現が使われ
くを占めます(ただし、広島県における武器の
ています。
この間、呉海軍工廠の造船部門を継承した石
出荷額は全国の2%にすぎません)。
川島播磨重工(立地1946年)、日新製鋼(1951
戦後の産業立地政策と産業立地
戦後復興期
終戦後、広島の産業はしばらくの間、立ち上
がりの糸口をなかなか兄い出せなかったようで
年)、王子製紙(1952年)などが呉市に立地し、
大竹紙業(1948年)や三井化学(1958年)が大
竹市に立地しています(なお、ここでは原則と
して操業開始の年次と現在の名称を表示してい
ます)。
す。ひとつには原子爆弾による打撃が大きかっ
たこと、またひとつには戦前に軍需部門への依
高度経済成長の60年代
存があまりにも強かったた桝こ民需への転換が
1960年に池田内閣のもとで「所得倍増計画」
円滑にいかなかったことが考えられます。さら
が打ち出され、62年には地域間の均衡ある発展
に三菱重工、東洋工業、日本製鋼所、日本化薬、
をめざして拠点開発方式をうたった「全国総合
北川鉄工といった戦前からの主力企業は、賠償
開発計画」が決定されました。60年代にはほと
指定を受けて資本の持ち出しや縮′J、を余儀なく
んどの年次を通じて実質経済成長率が2桁とい
されました。造船所では仕事がなくて、鍋・釜
う高い伸びで推移しました。64年にはOECD
やお寺の鐘までつくっていたといわれます。
に加盟して先進国の仲間入りを果たし、東京オ
しかし、米ソ対立の顕在化に伴い、極東地域
リンピックを開催しました。
におけるわが国の役割への期待が高まるなか
産業立地の面では、「太平洋ベルト地帯構想」
で、企業活力の増進に対する要請が強まってい
が提唱されるとともに、工業集積による拠点開
きました。この結果、賠償指定による足かせは
発が進められました。61年に工業開発の促進を
しだいに緩和され、1949年には事実上撤廃され
目的としたJ低開発地域工業開発促進法」が制
ていたといわれます(正式には1951年のサンフ
定され、広島県内では賀茂地区と三次・庄原・
ランシスコ講和条約で撤廃)。そして、1950年
高田地区が指定されました。そして62年に「新
の朝鮮動乱の勃発による特需景気とともに、わ
産業都市建設促進法」、64年には「工業整備特
が国そして広島の産業はふたたび息を吹き返し
別地域整備促進法」が制定され、重点的な工業
ます。
開発が進められることとなりました。中国地方
広島では大原知事のもとで「生産県構想」が
では、中海地域と岡山県南地域が新産都市、備
進められました。朝鮮動乱勃発当時、広島県の
後地域と周南地域が工特地域に指定されていま
1人あたり所得が全国水準の76%程度であった
す。
ことから、これを全国水準に高めようとするも
リサーチ中J野1タβ且12
60年代に立地した主要企業としては、水島地
グロー/(〟′此辟作における地膚の員古を考える
タ
域に三菱石油(1961年)、ジャパンエナジー(1961
るいは工業過密地域から農山村地域へ工業の再
年)、東京製鉄(1962年)、三菱化学(1964年)、
配置が図られました。また、73年の工場立地法
旭化成(1965年)、川崎製鉄(1965年)など、
により、工場に適切な緑地などを確保すること
備後地域にNKK(1965年)など、周南地域に
が求められるようになりました。
出光石油化学(1964年)、日本ゼオン(1965年)
などがあります。
経済成長の急激な減速に加え、地方圏への産
業立地の進展とも相まって、地方圏から大都市
このような重厚長大型産業の集中立地に伴
圏への人口流入は70年代半ばに底を打ち、地方
い、中国地方の新産・工特地域は、全国のなか
圏の人口が転入超に転じました。少なくとも出
でもきわめて高い伸びを示し、「優等生」とも
入がほぼ均衡する状態となりました。
てはやされました。先にお話しましたように、
矢田俊文教授は、60年代の高度経済成長期と
1968年には広島県の工業出荷額が福岡県を抜い
東京一極集中が再加速された80年代にはさまれ
て、中四国・九州のなかで第1位になりました。
た70年代半ばを「つかの間の"地方の時代""地
広島県では現在、自動車、造船、一般機械、化
域格差縮小の時代"」と呼んでいます(矢田・
学、鉄鋼などが基幹産業となっています。その
今村編『西南経済圏分析』1991年)。地方行政
ような産業構造は、すでに60年代半ばに形成さ
の面でも地方分権への関心が高まり、78年に「地
れたといえます。
方の時代」という言葉が一時的にブームになり
その一方、電気機械関連の立地は少なく、主
要企業としては鳥取市の鳥取三洋(1966年)、
ました。
このようななか、77年に「第三次全国総合開
松江市の松江松下電器(1966年)、東広島市の
発計画」が決定されました。「三全総」は、`開
シャープ音響システム事業本部(1967年)など
発志向型の「新全総」に対する反動もあって、
があげられる程度です。
「人間居住の総合的環境の整備」を基本的目標
69年には「新全国総合開発計画」が決定され
とし、大都市への人口と産業の集中を抑制しな
ました。そのなかでは豊かな環境創造をうたっ
がら地方の均衡ある発展を図るため定住圏構想
た大規模プロジェクト構想が提示され、その後
を提唱しています。
のわが国の骨格をなすことになる新幹線や高速
道路網などの整備方向が示されました。
70年代には日本海側地域への立地が増大して
います。主要企業としてホシザキ電機(木次町、
1970年)、松江松下電器(江津市、1970年)、
調整期の70年代
日立フェライト(鳥取市、1970年)、ナショナ
70年代に入ると、各地で公害問題や環境問題
ルマイクロモータ(米子市、1972年)、島根三
が顔在化するなか、田中内閣の「日本列島改造
洋(木次町、1977年)、JMS(出雲市、1978
論」の見直しが求められてきました。そこへも
年)などがあります。
ってきて71年にニクソン・ショック、73年に第
また、上記の松江松下電器や島根三洋のほ
1次石油ショックが重なり、実質経済成長率は
か、松下電子(備前市、1970年)、松下電器ビ
それまでの2桁台から71年には1桁に急落しま
デオ事業部(岡山市、1973年)といった電気機
した。74年には戦後初めてマイナスを記録して
械の立地が増えてくるとともに、中国縦貫自動
います。
車道の建設工事の進展に伴い、マツダ(三次市、
71年に「農村地域工業等導入促進法」、72年
1974年)、東洋キヤリア工業(津山市、1974年)、
には「工業再配置促進法」が制定され、都市あ
松下電器磁気記録事業部(津山市、1979年)な
グロー/(〟′此辞だ仁おける増ガの身立を考λる
1β
リサーチ中厚 相は12
ど内陸部への立地もみられるようになってきま
た。80年には広島市が10番目の政令指定都市に
した。80年代になってからのことですが、中国
なっています。82年には広島大学工学部が東広
縦貫自動車道に沿った産業立地をさして「中国
島市に移転し、移転事業が本格的に始められま
地域内陸インダストリアルベルト」という表現
した。
も生まれています。
70年代の調整期を教訓に、付加価値が高く国
なお、山陽新幹線は72年に岡山まで開通しま
際競争力のある産業を育成することが求められ
した。広島を含め博多まで開通したのは75年で
るようになりました。「重厚長大型産業から軽
す。また、中国縦貫自動車道は75年に落合まで、
薄短小型産業へ」「経済のソフト化・サービス
78年に三次まで、79年に千代田まで開通し、全
化」といったキーワードが叫ばれるようになっ
通したのは83年になってからのことです。
たのはこのころからです。また、通商産業省の
広島県の工業出荷額の全国シェアは戦後一貫
「ニューメディア・コミュニティ構想」(1983
して増大し、70年代半ばには3%強を記録しま
年)、郵政省のrテレトピア構想」(1983年)、
した。しかし、2度の石油ショックや変動為替
建設省の「インテリジェント・シティ構想」(1985
制への移行とともに、重厚長大型で、しかも造
年)など、情報化にかかわる政策も相次いで打
船や自動車を中心に輸出依存が高いという性格
ち出されました。東京ディズニーランドがオー
もあって、その後全国シェアは低下しました。
プンしたのも同時期の83年です。
現在は2.5%前後となっています。また、全国
83年には r高度技術工業集積地域開発促進
を上回って推移してきた経済成長率も73年度に
法」が制定され、テクノポリスの建設が進めら
抜かれ、それ以降、全国水準を下回ることが多
れることになりました。これは、「技術革新の
くなりました。
進展に即応した高度な工業技術の開発を行う企
78年には「特定不況地域中′ト企業臨時措置
業」または「高度技術を製品開発または生産に
法」ができました。これは、景気が特に悪化し
利用する企業」の育成をめざしたもので、つま
ている地域について重点的な中小企業対策や雇
りは地方圏にハイテク産業の立地を図ろうとす
用対策を図るもので、全国では32地域、中国地
るものでした。テクノポリスは、南フランスの
方では造船や鉄鋼に関係のある6地域19市町村
リゾート地の近くにつくられた新都市をモデル
が指定されました。こういった特定地域のため
とし、もともとは全国に数カ所つくるという構
の時限立法は、その後も第2次石油ショックの
想だったようです。しかし結局、全国では26地
後遺症が残っていた83年や円高不況時の86年に
域が指定され、中国地域では吉備高原、広島中
も打ち出されましたが、呉市、尾道市、因島市
央、宇部の3地域が指定されています。
などのいわゆる企業城下町-これら一連の
産業立地の面では、高速道路や空港に近接し
臨時措置法は「企業城下町法」と呼ばれること
た内陸部へ加工組立型産業などの立地が増えて
もありました-は、いわば定番的に指定を
きました。たとえば山口県楠町の山口日本電気
受けてきました。
(1985年)、福山市のシャープ(同)、岡山県
勝央町の大正製薬(同)、賀陽町の林原生物化
安定成長期への移行
学(1987年)などがそうです。日本海側でも島
わが国の実質経済成長率は70年代後半にはな
根県斐川町の出雲村田製作所(1984年)、鳥取
んとか4∼5%台に戻していましたが、80年代
市のリコーマイクロエレクトロニクス(1988
に入ると2∼3%台で推移するようになりまし
年)などは、内陸型といってもよさそうです。
リサーチ中野 柑鼠 2
グロー/くル此辟作における彪塚のβ立を着λる
71
九州ではもっと早くから半導体関連の企業の
福岡県の直方地域や大牟田地域を歩いたことが
立地が進み、「シリコン・アイランド」という
あるのですが、仕事が急に途絶えてしまい、ふ
言葉が生まれていました。中国地方は出遅れま
だんは騒がしい金属加工団地のなかが驚くほど
したが、この時期にようやく山口日本電気やシ
静かになったことを憶えています。しだいに景
ャープが進出しています。
気が悪化するのではなく、またたく間に落ち込
88年に「地域産業の高度化に寄与する特定事
んだという印象でした。
業集積促進法」、いわゆる「頭脳立地法」がつ
そうはいうものの、九州通商産業局と福岡県
くられました。これは、ソフトウエア、情報処
から委託されて、これらの特定地域の振興計画
理、デザイン、エンジニアリング、研究所とい
に関する調査に乗り出した87年後半には、「A
った産業を支援する高度なサービス業を育成し
杜に注文が入ったらしい」といった話題が少し
ようとするものです。全国で26カ所指定されて
ずつ聞かれるようになりました。円高不況が終
おり、テクノポリス地域とおおむね重なってい
わると、バブルの時代に入っていきます。
る地域も少なくありません。中国地方では、テ
この間、広島では80年に三菱重工広島造船所
クノポリス地域とほぼ重なって岡山、広島中
が新造船部門から撤退し、85年には三菱重工広
央、山口の3地域のほか、鳥取地域が指定され
島製作所として産業機械やプラントの製造に切
ています。
り替えました(やはり造船の名残でしょうか、
70年代後半からふたたび進行していた東京一
同製作所では来年1月からボーイングの大型旅
極集中を是正して多極分散型国土の形成を図る
客機の機体の一部を製造することがつい先ごろ
ため、交流ネットワーク構想をうたった「第四
決まりました)。因島の日立造船でも86年た最
次全国総合開発計画」が87年に策定されまし
後の新造船が進水し、75年にわたる造船建造の
た。このなかで中国地方は、「これまで瀬戸内
歴史に幕が降ろされました。マツダは、70年代
海J 日本海の水運および陸上交通の要衝として
末にフォードの資本提携に入ったのに続き、80
西日本を結節するとともに、高度成長期以降は
年代初期に防府市に最新鋭工場を建設しまし
主要工業地域としてわが国経済の発展を支えて
た。87年からはアメリカでの生産を開始し、い
きた」という評価がされています。
くつかの関連企業も一緒に進出しています。
「四全総」をうけて1988年に「多極分散型国
80年代後半から東南アジアなどの海外に生産
土形成促進法」が制定され、少し遅れて92年に
拠点を設置する企業が増えてきました。最初は
「地方拠点都市地域の整備および産業業務施設
韓国や台湾などのNIES地域が多かったので
の再配置促進法」ができました。産業立地の面
すが、タイやインドネシアなどのASEAN諸
からいうと、テクノポリスはハイテク、頭脳立
国に拡大していきました。
地は高度サービス業の地方立地を図ろうとした
中国通商産業局の当時の調査(1990年)によ
のに対し、地方拠点都市地域は業務機能そのも
ると、中国地方から海外への進出件数は80年代
のの地方立地を促そうとしたということができ
前半には数件程度であったのが、プラザ合意後
ます。
の86年に20件、87年に30件、88年に35件、89年
に38件と増大していきました。これは金融機関
円高期
なども含む全業種の件数ですが、中国地方の特
80年代の動きとして重要なのは、85年のプラ
徴は、製造業が多いこと、また中小企業の海外
ザ合意に始まる大幅な円高です。私は、86年に
進出が多いことです。これは、金属加工・機械
グローノ功′鑑摩化における彪膚の身立を考える
12
リサーチ中国
1タダ且12
加工のすそ野が広いことと関係していると思い
ます。
す(『中国地方ハンドブック』1996∼97年版)。
80年代末から90年代初頭にかけて特筆すべき
は、89年11月の「ベルリンの壁」の崩壊や91年
メガ・コンペティション時代
12月の旧ソ連邦の解体とともに本格化してきた
90年代に入ると、東広島市に広島日本電気
世界経済のグローバル化の進展です。「メガ・
(1990年)、島根県斐川町に島根富士通(同)、
コンペティション」という言葉があります。毎
岡山県邑久町に岡山村田製作所(1992年)、米
年ジュネーブで世界の主要企業の経営者が参加
子市に米子富士通(1994年)などが立地してい
して「世界経済フォーラム」の総会が開かれま
ます。中国地方は全般にハイテク分野の立地が
す。その94年の総会で初めて使われたといわれ
遅れ気味であったのですが、80年代後半から半
ます。
導体、電子デバイス、液晶、ノート型パソコン
これまでは、日本、アメリカ、ヨーロッパに
などの立地が進みました。九州や東北に比べて
おける4∼5億人の人口が市場経済の主たる参
出遅れた半面、ハイテクのなかでもより先端的
加者でした。しかし、これに中国を含むアジア
な分野のウエイトが高いという後発メリットが
地域の20億人が加わり、さらに旧ソ連邦や東欧
みられます。
諸国などの「市場経済移行国」が参加してきた
化学や鉄鋼などの素材はもちろんのこと、半
導体や電子デバイスや自動車部品なども生産財
結果、一挙に30∼40億人規模の世界的大競争が
始まることになりました。
です。わが国全体の貿易をみると、かつてウエ
世界経済のグローバル化・ボーダレス化は、
イトの高かった家電製品や自動車の輸出は現地
情報通信ネットワークの発達とともに一段と加
生産化などにより低下し、かわりに生産財・資
速されているようです。現在、世界中における
本財の輸出が急激に拡大しています。先に申し
実物経済の取引は1日数十兆円程度とみられる
あげたように、東南アジアの国・地域は、高度
のに対し、金融取引は数百兆円から数千兆円に
な部品や工作機械などの供給たっいては、わが
のぼるといわれます。このようにしてロシアの
国に依存せざるをえない状況となっているとも
金融不安がまたたく間に欧米や南米の市場に影
いえます。
響を及ぼすなど、世界経済における共時的なリ
アジア地域との関係は、これまでは産業間貿
ンケージがますます強まっているといえます。
易が主であったと思いますが、同一産業内での
また、たとえば多国籍企業による合併の発表
貿易、同一企業内での貿易、あるいは工程間で
があれば、広島の企業も即座に対応方策を講じ
の分業といったように、どんどん多様化してい
る必要があります。あるいはアジア地域におけ
ます。
る経済危機が広島の企業の輸出の減退にすぐに
こういった状況から、日本開発銀行は昨年「日
現れるようになっています。つまり、それぞれ
本企業によるアジア地域への直接投資は、必ず
の地域と海外との直接の結びつきもますます強
しも国内産業の空洞化につながるわけではな
まっているといえるでしょう。
い」という主旨の調査を発表しました(『調査』
NO.229、1997年8月)。日本開発銀行広島支店
企業が地域を選ぶ時代
の調査によると、中国地方の鉱工業生産には波
このようななか、「企業が地域を選ぶ時代」
がみられるにもかかわらず、生産財の生産は傾
といわれるようになりました。世界経済が国境
向的に上昇していることも明らかになっていま
を越えて流動化するなか、企業はその事業活動
リサーチ申厚 相β且12
グローノ(〟・此辟作における遡超の身立を考える
1J
に最適の場所を求めて動こうとしています。日
コストは、国際社会のなかで非常に高い。たと
本では最近、外資系企業の進出が話題になって
えば東京とニューヨークの内外価格差を比較し
いますが、一方ではバブルの崩壊を機に東京市
てみると(1996年)、全費目総合で1.3倍、エ
場から外国企業がずいぶん撤退しました。
ネルギー・上下水道と家賃については1.7倍と
広島においても、よほど魅力を強化しない
なっています。地方都市ではもっと格差が大き
と、企業が逃げてしまうおそれもあります。た
く、金沢市とセントルイス市では全費目総合で
とえばシンガポールでは、従来型の製造業をイ
1.6倍、エネルギー・上下水道で2.5倍、家賃で
ンドネシアや中国に誘導する一方、高度情報通
2.4倍となっています。
信手段や業務支援機能を整備することによっ
スイスの「世界経済フォーラム」は、経済指
て、企業の研究開発部門や地域統括(OHQ)
標だけでなく、世界中の2万人近い主要企業の
部門を導入しようとしています。
経営者に対するアンケート調査を組み合わせ
そうはいうものの、地域の努力には当然なが
て、主要国・地域の国際競争力一一「1人あ
ら限りがあります。地域が独自に魅力をつけて
たり実質所得で高い成長率を維持できる能力」
いくためには、特に地方分権と規制緩和の2点
のことだそうです-のランキングを毎年発
が重要と思います- この問題は、あとでも
表しています。
う一度考えてみる予定ですが、規制緩和の重要
これによると、日本の総合力は1986年以来8
性について少しだけ言及しておきたいと思いま
年間連続して世界1位でした。ところが、94年
す。
に3位に転落しました。96年に13位、97年に14
93年10月、細川内閣のとき、第3次行革審が
位としだいに後退したあと、98年にはやや持ち
それまでの臨調・行革審のいわば集大成として
直したとはいえ12位です。98年の上位はシンガ
地方分権と規制緩和の2つを柱とする最終答申
ポール、香港、アメリカの順です。
を提出しました。その後95年に「規制緩和推進
総合評価は、8つの部門にわたる約400項目
計画」が策定され、「地方分権推進計画」につ
から評価されています。日本の場合、企業の品
いてはできるだけ早期の成立をめざして準備が
質管理や生産技術、民間の研究開発投資などに
進められているところです。
ついての評価はトップランクであるものの、経
「金融ビッグバン」に代表されるように、規
営者の国際経験、情報技術の利用、輸入障壁、
制緩和は全般的にかなり進められつつありま
政府の介入などについての評価は非常に厳しい
す。このため、現在は状況が異なるかと思いま
ものとなっています。
すが、94年度の『経済白書』で規制による経済
活動への影響が推計されています。
これによると、早くから国際競争への対応を
面白いのは93年です。それまで8部門中4∼
5部門で日本は1位を獲得していましたが、93
年には国内経済力、経営、科学技術の3部門に
迫られていた製造業については、規制の影響は
減りました。このため、93年のリポートは「日
14.1%と少ない。しかし建設業、金融・保険・
本の奇跡は終わった」という表現を使っていま
証券、電気・ガス・水道については100%、運
す。
輸・通信業については97.3%、農林水産業
ハーバード大学のE.F.ヴォーグルが『ジ
87.1%、サービス業55.6%などとなっており、
ャパンアズナンバーワン』という本を書いた
全産業で41.8%の影響があるとされています。
のは70年代末のことでした。90年代初頭まで日
この結果、わが国の生活コストや企業の事業
グロー/くル此辟作における鮒の貞慶を者λる
/イ
本はまさに「NO.1」といってもよかった。し
リサーチ中野 移牧12
かし、この間に世界は大きく変化していたわけ
です。
この法律の背景には産業空洞化の問題があげ
られます。企業が生産拠点を海外に移すと、周
中谷巌教授は、メガ・コンペティション時代
辺の関連企業も出ていってしまうことがある。
の競争を「町内運動会とオリンピック」にたと
あるいは国内に残っている企業は仕事がなくな
えておられます。つまり、これまでは1人がい
る。これにより失業が増大し、輸出が減って輸
くつもの競技に参加でき、競争相手の顔も分か
入が増える。貿易黒字が減少する。企業の技術
っていたし、成績がわるくても参加賞ももらえ
やノウハウが廃れてしまう。国内生産も低下し
た。しかし、大競争時代にはそれぞれの専門の
てしまう - といった問題です。
分野において世界で通用するプレーヤーのみ戦
産業空洞化については、比較優位の変化の問
うことができるということです(『日本経済"混
題であり、産業構造変化の問題にすぎないとい
沌"からの出発』1998年)。
う指摘もあります。また、先ほどお話したよう
これまでわが国は「政治は二流・三流でも経
に海外との生産財・資本財の取引は拡大してい
済は一流」と自負していましたが、いま述べた
るわけですから、分業関係が国境を越えて拡大
ような大きな変化に追いっいていけなかった結
しているとみることもできます(『voice』1995
果、経済すら危うくなっているといえそうで
年3月号の特集を参照)。だから産業空洞化が
す。
起きているかどうか、その原因は何かを議論し
ても、あまり生産性は高くないのではないか。
地域の自立を考える
産業集積の活性化
むしろ産業空洞化の問題で憂慮すべきは、あ
る地域で分業ネットワークを構成してきた企業
の一部でも欠けると、技術の連鎖が断ち切ら
ところで、70年代につくられた「工業再配置
れ、集積効果が急速に失われてしまうというこ
促進法」以来、大都市圏の工業を地方圏に誘導
とです(伊藤元重・璋商産業研究所編『貿易黒
しようとする再配置計画が進められてきまし
字の誤解』1994年における中村吉明氏と渋谷稔
た。89年に新しい再配置計画ができています
氏の論文、中谷巌『日本経済の歴史的転換』1996
が、基本的には当初と同じ方針が貫かれていま
年など)。通商産業省による少し難解な表現.で
す。テクノポリス計画と頭脳立地構想のねらい
は、
も、その一環として各地にハイテクや高度サー
「このような地域の産業集積の現状を放置す
ビス産業の拠点を形成することにあったといえ
れば、こうした集積の中で重要な基盤的技術
ます。
を有する中小・中堅企業の転廃業や、特定の
しかし、最近になって少し違う動きが出てき
産業を中心とした地域の中小企業の低迷・衰
ています。特に重要な点として、関連する2つ
退が進むおそれがある。すなわち、関連産業
の動きがあります。
の充実、技術波及効果等の集積の機能を背景
まず第1点は、97年の「特定産業集積の活性
として事業者が集積への立地を進め、また集
化に関する臨時措置法」に代表される動きで
積内の事業活動が促進されることにより、集
す。この法律は、ひとつには伝統的産地や企業
積そのものが活性化し、その結果さらに事業
城下町の中小企業対策を図るという従来の特定
者の投資意欲が高まるという集積そのものに
地域対策の系譜を持っていますが、もうひとつ
内在していたメカニズムが失われ、加速的に
はまったく新しい流れです。
リサーチ南国/タ館12
ポ空洞化"の悪影響が蔓延する懸念がある」
グロー/切′此辟稚/こおける.也塚の虔立を考える
7J
(同省編『地域産業集積活性化法の解説』1998
企業創造活動促進法」により、公的ベンチャー.
年)としています。
キャピタルを通じて直接的な投資が可能となり
同法の目的は、そういったものづくりの基盤
ました。
となる産業技術が集積している地域について、
「特定産業集積の有する機能を活用しつつ、そ
大学においても、これに関連した動きがあり
ます。95年に「科学技術基本法」がつくられ、
の活性化を促進する措置を講ずることにより、
これをもとに96年に「科学技術基本計画」が策
地域産業の自律的発展の基盤の強化を図り、も
定されました。これまで大学と外部との交流、
って国民経済の健全な発展に資する」(第1条)
つまり産学(官)交流は行われていましたが、国
ということにあります(なお、ここでは煩雑さ
立大学の教官は民間傘業の職務を兼務できない
を避けるため、引用を除き「自立」という表現
といった制約があり、なかなか踏み込めないの
で統一することにします)。
が実情でした。しかし「科学技術基本計画」な
全国では20カ所程度を特定産業集積活性化地
域に指定することが予定されており、すでに18
どで、そういった規制がずいぶん緩和されてい
ます。
地域が指定されています。広島市、呉市、東広
最近では、産学(官)交流の窓口として、私立
島市などの広島地域は、第1次指定の7カ所の
大学は当然のこと、ほとんどの国立大学に地域
1つに選ばれました。また、第4次指定で岡山
共同研究センターが設置されています。また、
市、倉敷市、玉野市などの岡山県南部地域が選
大学院生の起業化を支援するため、国立大学の
ばれています。さらに近々、鳥取地域が選ばれ
工学部にVBL(ベンチャー・ビジネス・ラボ
る予定です。
ラトリー)もできています。
さらに、大学の研究者が持っている知的所有
新産業・ベンチャービジネスの振興
権を民間に提供し、その利用料を研究資金に還
最近の動きで重要と思われる第2点は、新産
元するためJ98年8月には「TLO」(技術移
業やベンチャービジネスの育成・振興に対する
転機関)の促進に関する法律が施行されていま
関心が高まり、そのような政策のウェイトが高
す。
まってきたことです。
アメリカのシリコンバレーなどに次から次に
たとえば、95年に「中小企業の創造的事業活
新しい企業が生まれ、それがアメリカの活力の
動の促進に関する法律」ができ、新規事業の創
原動力となっていることから、わが国において
業や研究開発の事業化を資金的に支援する仕組
も同様に新しい分野を開拓したり、ベンチャー
みがつくられました。96年に始まった「ベンチ
企業を育てることへの関心が急速に高まってい
ャー・プラザ構想」は、起業家がせっかく優れ
るとみられます。わが国の大企業においても本
たアイデアを持っていても経営やマーケテイン
業のドメインを強化する一方で、「社内ベンチ
グに関する知識やノウハウを欠いていることも
ャー」を奨励している事例も少なくありませ
少なくないため、そういった専門家との交流機
ん。経団連は、「社内ベンチャー」を日本型ベ
会をつくるためのものです。
ンチャーとして奨励することを提唱したことも
これまでにも中小企業による新分野進出など
あります。
を支援するための制度はたくさんありました
また、国は経済構造改革の一環として、96年
が、資金面での支援といえば、従来は債務保証
に今後新規に成長が期待される分野として15分
や低利融資が主たる方法でした。しかし「中小
野を提示し、97年には、これら15分野の育成を
グローノ(〟′此辟作における地.好のβ丘を者λる
7β
リサーチ中屠
1タダ且72
組み込んだ「経済構造の変革と創造のための行
これは・「政策パラダイムの変化」といってよ
動計画」を閣議決定しました。中国地方の各県
いと思われます。松島茂氏は、そのような集積
でも、既存の産業をふまえ、重点的に育成すべ
のメカニズムを適切に引き出していく方策とし
き分野を設定するようになっています。
て-私なりの理解で、少し表現を変えてい
その15分野とは、具体的には医療・福祉、生
ますが-、①相手を見つけ出すための分業
活文化、情報通信、環境、流通・物流、バイオ
ネットワークの形成、②マーケテイングやマー
などです。
チャンダイジングによる市場ニーズとのマッチ
総務庁「事業所・企業統計」をもとに、これ
ング機能の整備、そして③産業集積のメカニズ
ら15分野に該当するとみられる業種を選んで従
ムの源泉となる新たな技術を生み出すための刺
業者数を足し込んでみると、91∼96年の5年間
激、という3点が重要としています。
で全国では2,282万人から2,614万人へ14.6%、
広島県では51.8万人から59.7万人へ15.2%、そ
地域の内発型発展
れぞれ2桁の伸びを示しています。この間、全
通商産業省では、いまの臨時国会に「新事業
産業の伸びは全国で4.6%、広島県では3.9%に
創出促進法案」を提出し、現行のテクノポリス
とどまります。また、製造業の従業者数は全国
計画と頭脳立地構想をこれに吸収させたい意向
では8.3%(116.6万人)、広島県では9.4%(3.2
のようです。また、98年12月7日に発表された
万人)、それぞれ減少しています。このため、
中小企業政策研究会(中小企業庁長官の私的懇
いわゆる15分野の伸びがいかに高かったが分か
談会)の中間報告によると、中小企業政策その
ります。その結果、全産業に占める15分野のウ
ものについても、r格差是正」から「多様で活
エイトは全国では38.0%から41.6%へ、広島県
力ある独立した中小企業の育成・振興」へ方向
では35.8%から42.9%へそれぞれ拡大していま
転換が図られる見込みです。
す(『中国地域経済自書』1998年版)。
第1点で申しあげた「特定産業集積活性化
「特定産業集積活性化法」は、もともとは東
京都大田区のような産業集積が弱体化すると、
法」の成立と、ここでご紹介した新規成長産業・
経済発展を支えてきたわが国の産業技術が危う
ベンチャー企業の振興とは、実は基底のところ
くなるという危機意識に端を発するとみなして
で結びういています。
よいでしょう。「新事業創出促進法案」はこれ
わが国の産業構造は大企業と中小企業との二
をさらに推し進めて、地方圏への分散立地政策
重構造によって特徴づけられるといわれます
をある程度犠牲にしてでも- もちろん地方
が、1963年に r中小企業基本法」ができて以来、
圏においても産業集積と研究開発基盤を活用し
中小企業政策は、そのような二重性を前提と
て自立的発展を促すことがうたわれてはおりま
し、「中小企業の生産性向上」と「取引条件の
すが-、既存の産業集積、特に大都市圏の
向上」という2つの方向を大きな柱としてきま
産業集積を守る必要があるという姿勢を感じる
した。通商産業省の松島茂氏によれば、これは、
ことができます。
病人の患部をみつけて治療するという「病理解
最近、景気低迷が長期化し、国・地方ともに
析モデル」ということです。他方、中小企業の
財政事情が悪化するなかで、しかも生産年齢人
集積のメカニズムに着目するアプローチの仕方
口がすでに減少局面に移行しているとみられる
を「生理解析モデル」と呼んでいます(伊丹・
なか、効率的な行財政運営に対する要請が強ま
松島・梯川編『産業集積の本質』1998年)。
っています。だから、投資の重点化という方向
リサーチ中野 柑玖 2
グロー/功.此辟控における彪塚の身重を考える
17
は避けがたいと思います。集積効果という点で
いままでみてきたように、広島の産業もある
は、製造業だけでなく、かつて郊外に移転を余
ときには極度の不振に陥るかと思うと、第1次
儀なくされた大学を都市に呼び戻そうとする動
世界大戦や軍需や朝鮮動乱特需などによって息
きもあります。
を吹き返すなど、自らの思いとは関係なく幾多
これはこれで理解できない動きではありませ
の浮沈を繰り返してきました。円高不況時の87
ん。特に大都市圏に次ぐ産業集積を誇っている
年2月に因島市で有効求人倍率が0.04倍に低下
広島では、より創造的で高付加価値の分野に積
し、たいへんな騒ぎとなりました。昨年にはキ
極的に取り組んでいく必要があると思います。
リンビールが広島から撤退を発表し、やはり物
ただ、その一方で気になることがあります。
議をかもしだしました。同社広島工場の従業者
実はこれまで意図的に使用を避けてきたので
数は100人に満たなかったはずですが、地域イ
すが、「外発的発展」に対して「内発的発展」
メージの低下につながることがもっと心配され
という言葉があります。いくつかの文献から敷
たようです。
術すると、「内発的発展」とは次のような含意
参考までに、キリンビール広島工場は、戦時
を持っているとみられます(鶴見和子・川田侃
中の1942年、中四国の拠点都市として市場規模
編『内発的発展論』1989年、宮本憲一・横田茂・
が大きく、水の確保にも便利な広島市郊外の府
中村剛治郎編『地域経済学』1990年、兼子仁・
中町を立地場所に決めています。一方、広島工
村上順『地方分権』1995年)。
場の多くの部分が移転されることになっている
① 地域の産業技術や文化に根ざしているこ
と
② 持続的発展が可能となるよう環境に配慮
していること
岡山工場は、岡山市近郊の瀬戸町に1972年に立
地しています。
そのようなわけで、地域の自立にとって「内
発的発展」が重要であることは疑うべくもあり
(諺 特定の産業に依存せず、多様な産業構造
ません。特に近年、経済のグローバル化ととも
のもとで付加価値が地域に循環する仕組み
に、地域と海外との直接の競合や結びつきが強
ができていること
まっているなかで、産業だけでなく、生活や文
④ 地域が自立的に意思決定できること、構
化・教育や娯楽・レジャーなどの面で地域が総
成員がその過程に主体的に参加できること
合的な魅力を高めていくためには、自立的な産
⑤ 国家よりも小さい範域であること
業と自立的な意思決定の能力を高めていかなく
本稿の前車部分で、産業立地の流れを概観し
てはなりません。
てきました。広島や中国地方のみならず地方圏
ただ、ここで問題なのは、もともと集積が少
における現在の産業立地は概してr外発型」の
ないところではいかにして「内発的発展」の契
ウエイトが高く、ほぼ同じような傾向を持って
機を兄い出していくか-ということです。
います。進出してきた企業の動向に一喜一憂せ
ざるをえないところが少なくありません。
もちろんどの地域においても「内発型発展」
に向けての努力をしているのは当然です。たと
たとえば東北地方のある県知事は、「知事の
えば広島県以上に特定業種の大企業のウエイト
重要な仕事のひとつは、主要企業の動きに注意
が高い山口県では、公的ベンチャー・キャピタ
しておくこと」という主旨の発言をされたこと
ルの運営が非常に活発であり、また地元の銀行
があります。大企業が立地している市町村で
が山口大学にベンチャービジネスに関する寄附
は、景況は税収にはねかえってきます。
講座を設置するなど、産学官をあげて新産業・
グロー/〔〟′此辟作における雌の虔立を者λる
1β
リサーチ中厚 相タ且1g
ベンチャー企業の振興に力を入れています(詳
ム、経済構造、社会保障、教育-を打ち出
しくは『季刊 中国総研』NO.5、1998年11月を
したころから、影が薄くなりました。
参照)。
その理由として、本来は地方分権と規制緩和
を進めたあとに取り組むべきであった省庁再編
内発的発展と外発的発展
の数合わせにとらわれたこと、さらに金融問題
とはいえこやはり限界があることは否めませ
処理と当面の経済対策が緊急の課題となってき
ん。そこで、「内発的発展」だけをめざすので
たことが特に大きいと思います。また、地方の
はなく、r外発的発展J との組み合わせで取り
側でも地方分権を主張しながら、一方では「公
組むべきであるとする意見があります(日本開
共投資を進めてほしい」「経済対策を実施して
発銀行国土政策チーム『変わる日本の国土構
ほしい」といった当面の要望活動をせざるをえ
造』1996年)。弱い部分、不足する部分、ある
なかったことも関係していると思います。
いは既存の産業との組み合わせによって複合効
地方分権推進委員会による「中間報告」(1996
果が期待できる部分などについては、積極的に
年3月)は、非常に格調が高く評価すべきなの
外部から導入を図っていく必要があります。
ですが、次のような表現が出てきます。
中国地方では、今回の全国総合開発計画への
「ナショナル・ミニマムを超える行政サービ
反映をめざして、中国地方発展推進協議会(中
スは、地域住民のニーズを反映した地域住民
国地方5県・広島市・中国経済連合会)が1996
の自主的な選択に委ねられるべきものであ
年2月に「中国地方発展ビジョン」をつくりま
る。その結果として地域差が生ずるとして
した。これを具体化していくための部門別構想
も、それは解消されるべき地域格差ではな
のひとつとして、同連合会と日本開発銀行広島
く、尊厳なる個性差と認識すべきである」
支店が協力して1998年1月に「中国地方産業振
このこと自体は、当然といえば当然のことと
興ビジョン」を発表しました。そのなかでは、
思います。ただし、中山間地域や島しょ部など
ベンチャー企業の育成、大学などからの技術移
の条件不利地域を多く抱える中国地方などの地
転の促進、中小企業に対する総合支援体制の整
方圏においては、ナショナル・ミニマムが整備
備といった方策が提唱されていますが、やはり
されているとはいいがたい。そこへもってきて
「内発的発展」をめざすとともに「外発的発展」
「市場原理」や「自己決定・自己責任原則」が
を適切に導入していくべきであることが基調と
あまりに強調されすぎると地方の側は少し不安
なっています。
になります。これは規制緩和-「官から民
これに関連しているのですが、気になること
がもうひとつあります。
先ほど地域の発展のためには、特に地方分権
への権限移譲」が規制緩和、r中央から地方へ
の権限移譲」が地方分権-についても同様
です。
と規制緩和の2つが重要であると申しあげまし
1998年3月に閣議決定された「21世紀の国土
た。これは確かにそうなのですが、地域にとっ
のグランドデザイン∼全国総合開発計画」にお
てはどこか背反的な意味合いを持っています。
いても、同じような点に注意が必要です。今度
地方分権の問題については、細川内閣から村
の全総計画は、多軸型国土構造形成の基礎づく
山内閣時代にかけて非常な盛り上がりをみせて
りを基本目標に、開発方式として「参加と連携」
いたにもかかわらず、橋本内閣が96年秋に「6
をうたっています。中国地方は、「多様な主体
つの改革」-行政、財政構造、金融システ
の参加と連携の下でグローバルな交流を進める
リサーチ幼野/タ5位12
グロー/拗′此醇化√=おける地膚の身立を者える
1β
多軸・分散型発展の先導的地域」というモデル
業市民"として-が他者に配慮しながら自
地域的な位置づけがされています。
らの地域づくりに主体的に取り組んでいくこ
私はここ数年、中国地方発展推進協議会など
と、成功を賞賛する素直さと失敗を受け容れる
にかかわってきた関係で、用意した材料が全総
寛大さをあわせ持つこと、失敗しても再挑戦で
計画にほとんど反映されたことはたいへんうれ
きる環境をつくること、もちろん生活者を守る
しく思います。
た桝こ情報開示などのセイフティネットを整備
その一方、参加と連携の基調にあるのは、「多
すること -などが重要です。このようにし
様な主体の参加は、従来の行政では十分に対応
て事業に乗り出す若者や起業家を積極的に支援
しきれなかった分野を補完するのみならず、多
する仕組みを地域一体となって整備していけ
様な要請に対するきめ細かいサービスの提供と
ば、若者にも企業にも選ばれる魅力ある地域に
その質の向上を可能とする」(同計画)という
なると思います。
考え方です。これも一方的に押しつけられると
すれば、少し警戒が必要と思われます。
中国地方の条件不利地域においては早くから
第2に、かつての海軍工廠は、「外発型立地」
でありながら「地域産業のインキュベータ」と
して重要な役割を果たしたと考えられます。現
自発的な地域づくり活動が非常に活発ですが、
在、これに類似した役割を期待するとすれば、
そこには、基本的な条件整備を欠いたまま現状
おそらく大企業ではないでしょうか。
を放置すれば、地域社会がいずれ消滅してしま
中国地方においては、全国に先駆けてマツダ
うという危機意識のもとで、地域づくりへの直
や宇部興産などの大企業が中小企業に未利用特
接的な参加をいわば余儀なくされているという
許を開放しており、すでにその成果も生まれつ
追いつめられた状況をうかがうこともできるの
つあります。NKK福山製鉄所や三井造船玉野
ではないでしょうか。
事業所などでは、関連・協力企業に呼びかけて
新規事業などに関する研究会を設置していま
地域企業の新たな動向
それはともかく、以上のまとめとしていくつ
か指摘しておきたいと思います。
す。こういった取組みを今後ともさらに拡大
し、充実していくことが重要と思います。
また、大学を「外発型立地」といったら語弊
第1に、地域の自立的発展のためには、規模
がありそうですが、大学の研究者は国内外から
とは関係なく独自の技術やノウハウを持った元
集まってくるという点ではそういえなくもなさ
気のある企業が次々に出てくる"風土''をつく
そうです。大学においては最近、規制緩和やT
りあげることが大事です。中国地方各地に``元
LOの制度化とも相まって、研究開発シーズの
気印企業"がみられることから、その素地は十
事業化に対する関心が非常に高まっています。
分あると思います。特に広島県備後地域には特
地域の企業は、これを``追い風''として積極的
徴的な中堅企業がたくさん出ていますが、ケー
に活用していくことが必要です。
ススタディとしてその``秘密"を探ってみるの
も面白そうです。
そのような前提として、一人ひとりが自己を
第3に、地方に立地している大企業の側も少
しずつ変わってきているような気がします。日
産自動車では座間工場の廃止を決めながらも、
磨きながら強い「個」を確立すること、小さく
地元への影響などを考慮して完全には踏み切れ
ても国際社会で通用するたくましい企業をっく
ていません。これは同社の収益性の圧迫要因の
ること、これらの個人や企業-企業も``企
ひとつになっているとみられる半面、長期的に
グロー/tル此辟経における遡膚の卓立を考える
2β
リサーチ中厨1タガ1g
みれば果たしてどうか。即断するのは難しいの
に入る前から「グローバル時代における遠隔地
ではないでしょうか。あるいは鉄鋼産業の例で
管理型企業の好例」(J.ネイスビッツ『大逆
すが、当面の景況に対応して大幅なリストラを
転潮流』1994年)と呼ばれていました。マツダ
実施した企業よりも、リストラを最小限に押さ
は、日本流の意思決定や生産・開発技術と、ア
えた企業のほうが結局は成果があがっていると
メリカ流の意思決定や経営手法とがどのように
いう最近の調査結果もあります(1998年11月29
折り合っていくかという事例としても興味深い
日の日本経済新聞)。
と思います。
かつてバブル期のころでしょうか、「瀬戸内
また、広島の中堅・中小企業は早くから海外
海沿岸の重厚長大型産業はもういらない」とい
に展開しており、残っている中小企業のなかに
う乱暴な意見もありました。しかし、これはあ
も海外の最終組立メーカーやシステムサプライ
まりに短絡的すぎるように思います。
ヤーと直接の取引に乗り出している事例もみら
実際、中国地方の鉄鋼や化学は、アジア地域
との分業ネットワークを構築したり、国際標準
れるなど、地域企業の国際化度は全般に高いと
思われます。
への対応などを図る一方で、特に廃棄物の処
グローバル化との関連でいえば、地球環境問
理・リサイクルの分野で地域との結びつきを強
題があります。21世紀の産業は、地球環境問題
めつつあるといえます(『中国地域経済白書』
に対応していくために質的な変化が求められて
1998年版)。また、地球環境問題に対する要請
います。その場合、環境評価・環境管理に関す
がさらに強くなれば、エネルギー削減のために
る国際標準であるISO14000シリーズにおいて、
輸配送の短絡化や生産拠点のコンパクト化が求
原材料・素材段階から環境管理体制への配慮が
められ、市場に近接した立地が見直されるので
求められているように、地球環境間是引こおいて
はないかという見方もあります(『季刊 中国
素材産業の役割はきわめて重要といえます。
総研』NO.3、1998年4月における杉原弘恭氏の
論文)。
素材産業は、原材料・素材の供給→部品製造
→製品の加工・組立→輸送・販売→消費→廃棄・
その一方、機械系の最終組立メーカーでは、
回収といった一連の流れのすべてに関係してい
本当に技術力のある中小企業を求めて、従来の
る唯一の産業です。このため、中国地方を特徴
取引関係や国境をも超えて関連・協力企業の選
づける素材産業は、同じく中国地方に集積する
別を行う事例も増えています。これは中小企業
高度加工技術と連携しながら、世界の産業構造
にとっては新たなビジネスチャンスの拡大につ
を素材という"川上分野''から主体的に再構築
ながることが期待されると同時に、淘汰される
していくこと、あるいはみずから国際標準をつ
おそれもあります。このため、他社や大学・研
くり出していくことが期待されます。
究機関との交流を活発化しながら、保有技術の
第5は、産業構造にかかわる問題です。産業
一層の高度化・精緻化を図っていく必要があり
連関表をもとに、横軸に自地域生産誘発率(中
ます。
国地方の需要が誘発した全国の生産誘発額のう
第4に、地域の自立的発展にとっては、地域
ち中国地方内部に帰結した割合)、縦軸に自地
に根ざしつつグローバル化に対応できることが
域需要依存率(中国地方の生産額のうち中国地
重要な条件のひとつです。これは、「内発的発
方内部の需要によって誘発された割合)をプロ
展」の6番目の含意に加えてよいでしょう。
ットしてみると、関東地方の場合は自地域生産
マツダはその代表事例であり、フォード傘下
リサーチ中野 柑aJ2
誘発率・自地域需要依存率の両方が高く、域内
グロー/肋′此辟稚′=お〝石鯛の卓立を着λる
21
循環が高い。しかも80年、85年、90年と年次を
追って右上方にシフトしている。これに対し、
中国地方はともに低く、年次を追って左下方に
移動している(『中国地域経済白書』1998年版)。
つまり、中国地方の生産活動は、他地域の需
要によって誘発されるウエイトが高く、中国地
方の需要は、地域内より地域外の産業活動の誘
発につながっているといえます。
今回の全総計画で中国地方は「参加と連携」
のモデル的な位置づけがされていますが、産業
連関の面でも他地域と交流しないとやっていけ
ない地域ということができます。このような体
質を基本的に変えて域内循環を高めていくの
は、なかなか容易ではないのではないか。
だとするなら、新素材、電子部品・電子デバ
イス、高度な部品などの研究開発と生産・加工
技術を一段と強化することにより、「世界への
生産財供給基地」に特化していくことも考えら
れると思います。
なお、最後に人口770万人の中国地方で、こ
ういった産業の自立が可能かどうかということ
ですが、中国地方のGDPはスイスやベルギー
を上回る規模です。今年、サッカーのワールド
カップで戦った国々の人口をみてみると、アル
ゼンチンの3,200万人はともかく、クロアチア
は480万人、ジャマイカは230万人です。わが国
の国民体育大会程度の規模です。それでも勝て
なかった。結局、人口だけの問題ではないはず
です。
地方圏が軌道に乗るまでは、たとえば大都市
圏の税収をトランスファーするなどの配慮は必
要でしょうが、自立した産業のもとで自立的な
意思決定を進めていくことは決して困難ではな
い。いまはむしろそのように努めていくという
意気込みが求められているのだと思います。
(いとう としやす/中国総研地域経済研究部
長・主任研究員)
グロー/くル此時だ仁方/ナ石地膚の虔立産着λる
22
リサーチ鎖国
/タj姐12
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