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笹津橋 - 関西電力HPへ
No.93 秋 歴史を訪ねる─ 橋物語 笹津橋 一番手前が五代目笹津橋、真ん中が四代目笹津橋、その向こうが JR 高山本線鉄橋 interview ︵ひらいかずお︶氏 交通の要所で、 一世紀余りにわたり 飛騨と富山を結ぶ笹津橋 郷土史家 平井一雄 プロフィール 平井■三代目は今より mほど下流 いたという親柱が公園入口に残され ます。当時、二代目の両脇に立って 功績を讃え、顕彰碑が建てられてい 図りました。佐藤記念公園には氏の 財を投じて二代目を架設し、公益を なかったのですが、佐藤助九郎が私 後、しばらく新たな橋の架設が進ま が、1年余りで破損しました。その も共存していますね。 ⋮四代目笹津橋と五代目笹津橋は今 考えられます。 のは、川を舟で渡った頃の名残だと み﹂ ﹁ふなさか﹂という屋号が多い いるだけです。その近辺に﹁ふなか 跡︵ 鉄 製 ︶ ﹂と書かれた碑が立って が、現在は土台の跡地に﹁笹津吊橋 の残骸があったと記憶しています 号線から直角に近い角 度で橋を渡ることになり、橋詰の辺 津橋は国道 橋の近くに打ち上げ台があり、橋の 中世以来の要 衝 石碑が歴史を物語る ⋮橋ができる以前、笹津はどんな場 所だったのでしょう? 平井■かなり古い時代から、交通の 門 に し て い る﹁ 石 仏 ﹂ の 分 野 で は、 要所だったと考えられます。私が専 した。その日は五代目の竣工を祝っ 人たちを弔うためにつくられた﹁板 碑﹂が、この近くから発見されてい ます。これは中世に、越中と飛騨の 軍勢が笹津付近で戦った証しで、こ の時代から多くの兵士が、飛騨街道 かやま﹂と彫られた題目塔が今も 残っています。 ⋮橋ができてから、笹津はどのよう 年︵1886︶にでき に変わりましたか? 平井■明治 年︵1892︶に二代目 た初代は1 年ほどで流されました が、明治 の笹津橋ができてからは、飛騨方面 との交通が活発になり、笹津は神岡 鉱山へ物資を運ぶ荷馬車の拠点とな りました。明治末期から大正にかけ て、笹津の野口宇太郎が経営する飛 口邸内には、186名の荷馬車経営 越運送合資会社が繁昌し、当時の野 これより右四里 ふかたにの湯 立山権現まで一二里、大岩寺まで二 ものです。 として保存し、大切にしていきたい けですから、その歴史を物語る遺構 き、その先の太平洋側と結ばれたわ この橋によって富山と飛騨が結びつ に、 非 常 に 大 き な 意 味 が あ り ま す。 化財として四代目が残されたこと わたり受け継がれた歴史があり、文 い感動があります。笹津橋は五代に いことです。文献だけでは得られな たちと結びつくことは、非常に面白 平井■これらの遺構を介して、先人 くさん残っていますね。 ⋮笹津には、往時を物語る遺構がた 津の町は大いににぎわいました。 いった旅館が営業を始めるなど、笹 います。当時、大正館、ささづ館と 者の名が刻まれた記念碑が残されて た る 場 所 に は、﹁ 右 や つ お 道 左 た たと推測されます。その分岐点にあ 騨街道から笹津を経て、八尾へ行っ 養蚕業で栄えており、多くの人が飛 ります。八尾は江戸時代中期頃から を渡らずに西へ向かうと、八尾があ 流して富山城下へ向かいますが、川 の渡し船で神通川を渡ると東道と合 ります。飛騨街道西道を下り、笹津 平井■笹津は八尾との分岐点でもあ ⋮ほかにも道しるべが? ものではないかといわれています。 間以降︵1804∼︶につくられた が盛んになった、江戸時代の文化年 考えられます。おそらく、立山信仰 やって来た人々のための道しるべと 立山を参拝するために飛騨街道から 里、 富 山 ま で 三 里 ﹂ と 彫 っ て あ り、 区にあります。その石には﹁立山下 が、旧飛騨街道東道沿いの牛ケ増地 道だったことを証明する道しるべ 者も多かったようです。かつて立山 平井■笹津から、立山を目指す参拝 る地点ですね。 ⋮笹津は東と西の飛騨街道が合流す ある笹津神社に並べてあります。 街道の東道と西道の合流地点付近に す。現在それらの﹁板碑﹂は、飛騨 を繰り広げたことを物語っていま の要衝だった笹津を通り、数々の戦 いぶん少なくなりました。四代目笹 きたことによって、自動車事故はず て竣工を祝いましたね。五代目がで セット等を発行するなど、町をあげ 地 元 の 郵 趣 会 が、 竣 工 記 念 に 切 手 世紀の室町時代、戦で亡くなった 国登録有形文化財の四代目笹津橋 て、橋の上で獅子舞が踊られました。 日に、五代目の渡り初めが行われま したから。 りでしょっちゅう事故が起きていま 平井■昭和 年︵1981︶8月6 かせてください。 ⋮五代目が完成した当時の様子を聞 それはもうにぎやかでしたね。 のです。道中も見物客がいっぱいで、 分ほど歩いて花火を見に出掛けたも 私は上大久保に住んでおり、片道 上で花火を見上げていました。当時、 は、花火大会の思い出がありますね。 昭和 年富山市千石町生まれ。昭和 年から笹津に自宅を構え、 旧飛騨街道などの歴史街道を中心に、各地を歩きながら歴史を 探訪する。日本石仏協会理事、富山民俗の会常任理事等を務め 会報誌に執筆するほか、地元住民らとともに歴史街道を巡りな がら、郷土の歴史を後世に伝える。 た先人に敬意を払ったものだと思わ れます。 ⋮三代目笹津橋についてはどうですか? ⋮初代笹津橋から二代目笹津橋完成 にあり、吊り橋を渡した両岸にワイ 町のあちこちに残る 歴代笹津橋の足跡 までの話を聞かせてください。 ます。昭和 年頃には、まだ吊り橋 ヤーを支えた土台の痕跡が残ってい 明 治 年︵ 1 8 8 6︶、 県 の 事 業 として初代笹津橋が架設されました ており、初代の架設年や知事らの名 ●歴代笹津橋の架設年表 初 代 明治19年(1886)竣工 二代目 明治25年(1892)竣工 三代目 大正元年(1912)竣工 四代目 昭和16年(1941)竣工 五代目 昭和56年(1981)竣工 40 2 No.93 [YAMABIKO] 秋の号 No.93 [YAMABIKO] 秋の号 41 19 25 12 2 二代目の親柱。階段を上がっ たところに、佐藤助九郎の顕 彰碑がある 2 室町時代の ものと推測される「板碑」 3 飛騨街道東道を通り、立山 方面に向かう人々の道しるべ となった石碑(右) 。 「ふかたに 6 の湯」 とは、今の吉峰温泉の 辺りと推測される 4 三代目 笹津吊り橋が架けられた跡地 5 八尾と高山の方向を記す 飛騨街道西道沿いの題目塔 6 野口宇太郎らの功績を讃え る記 念 碑 7 笹 津の町で、 7 かつて営業していた大正館 15 40 平井■平成 年︵2000︶に国登 笹津の町歩きマップ 録有形文化財に指定された四代目に 1 佐藤記念公園に残された 43 3 17 40 が彫られています。初代の架設年が 4 交通の要所で、一世紀余りにわたり飛騨と富山を結ぶ笹津橋 交通の要所で、一世紀余りにわたり飛騨と富山を結ぶ笹津橋 3 1 彫られているのは、初めて橋を架け 5 56 19 明治4年︵1871︶の廃藩置県以 後、ますます飛騨街道の交通の需要 ると期待されましたが、完成からわ 中と飛騨との交易が飛躍的に発展す 東道と西道が最短距離で結ばれ、越 は、 総延長五五間 ︵約 m ︶ 、 道幅三間 さ せ ま し た。二 代 目 と な っ た 笹 津 橋 全国一の長さを誇るトラス橋を完成 交通の要衝に架けられた待望の橋 5度の架橋で町の発展に尽くす が 増 え て き ま し た。明 治 6 年 藩、天領 ︵ 飛騨国︶ と国が分かれてい ました。 神通川を境に、加賀藩、富山 西街道︶の2つの道が利用されてい 需要があり、鉱山との輸送路である して、軍需物資である銅や鉛の大量 飛 躍 的 に 拡 大 し ま し た。時 を 同 じ く 次々に導入され、鉱山の採鉱規模が 藩政時代、越中・飛騨間の交通は、 ︵1873︶頃から神岡鉱山が三井資 本 の 経 営 下 に 入 る と、 西 洋 技 術 が 飛騨街道東道と西道︵ 越中東街道と を余儀なくされました。 い橋の架設まで3年余りの空白期間 が、架設のための財源が伴わず、新し し た。直 ち に 再 建 が 計 画 さ れ ま し た り橋脚が傾き、通行できなくなりま ずか1年余り後、雪解けの出水によ 技術が注ぎ込まれました。 し、強度を確保するなど、当時の先端 は全国で初めてケーソン工法を採用 その橋脚の基礎工事に道路橋として の 激 流 に 備 え て1 本 の 橋 脚 で 支 え、 三尺余り ︵ 約6・3m ︶ の橋を、 神通川 輸送量の増大によって 橋の架設が求められる たため、川に橋が架けられることは 飛 騨 街 道 は 輸 送 量 が 急 増 し ま し た。 一銭二厘、 荷車二銭、 馬車五銭とされ、 かった道幅を、三間 ︵5・4m ︶ に広げ り、それまで一間︵1・8m︶しかな た。 ところが、明治 年 ︵1891︶ 7 て、新たな橋の架設が計画されまし 初代の橋が崩壊し、再び舟の渡し に戻った笹津では、県の面目をかけ る物資の往来が活発になり、笹津は 二代目の架橋により、飛騨との交 流 は 劇 的 に 進 み ま し た。荷 馬 車 に よ 橋 詰 に 住 む 笹 津 住 民 は 無 料 で し た。 私費で造られた二代目笹津橋で 飛騨との交流が躍進 橋では、通行人や荷車から通行料 が徴収されました。 人は六厘、荷担ぎ なく、国境の往来は笹津の渡し舟と 年︵1884︶ 、国重正文初代富山 こうした事情に対応するため、明治 五代目笹津橋(手前) 蟹寺の籠の渡しによってのみ行われ 99 ま し た。こ の 時 に 神 通 川 に 橋 を 架 け 県知事は飛騨街道の改修に取り掛か 17 設計と資材調達に予想以上の年月を あり、水勢の激しい難所だったため、 れました。 川幅が約五〇間︵ 約 m ︶ していた笹津が架橋の地として選ば ることが計画され、それまで舟を渡 画 は 白 紙 に 戻 る か に 思 わ れ ま し た。 い果たしたため、新しい橋の架設計 害復旧のために財源のほとんどを使 が、その計画を狂わせました。 県は災 月に県内を襲った未曾有の大洪水 的に拡大し、最盛期の飛騨街道は一 気によって神岡鉱山の生産量が飛躍 日清・日露戦争を契機とした軍需景 し て 大 い に に ぎ わ い ま し た。さ ら に 始めるなど、富山と飛騨の中継地と 馬車宿、旅館などが相次いで営業を うほどにぎわいました。 その窮地を救ったのが、佐藤工業の 年 要し、ようやく明治 年︵1886︶ 氏 は 私 費 を 投 じ、 明 治 日1000台以上の荷馬車が行き交 月、初代の笹津橋︵木造︶が完成し ました。 年にわ の中で、陸軍部隊が進軍する際に戦 このように、二代目は約 車業者はさらに活気づき、笹津の野 車が通過できるよう強固に造られた たり、越中飛騨間の交易を支えまし 口宇太郎が経営する飛越運送合資会 のが最大の特長です。 戦時下で、笹津 ︵1892︶ 月 日、当時としては たが、物資の運送が激増するあまり、 社 は 最 盛 期 を 迎 え ま し た。昭 和 に 橋がいかに重要視されていたかが分 笹津橋の架橋により、旧飛騨街道 明 治 末 期 に 老 朽 化。大 正 元 年 なって、三井軌道にエンジン機関車 かります。 ︵1912︶ 、県費によって新たな橋 が走るようになるまで、その繁栄は を 結 ぶ 富 山 軽 便 鉄 道 が 開 業。翌 年 に 大正3年︵1914︶ 、富山︱笹津間 三代目が活躍した大正時代に、笹 津 の 町 は さ ら な る 飛 躍 を 遂 げ ま す。 戦時中に四代目笹津橋が完成 歴史を語り継ぐ象徴に 場等が進出し、重要な軍事産業地帯 造黒鉛笹津工場、天満織物㈱笹津工 本マグネシウム㈱富山工場、日本人 山工場、国産軽銀工業㈱富山工場、日 の笹津駅周辺は、日本カーボン㈱富 えられなくなりました。 一方、その頃 拡幅、急カーブの解消と見通しの良 省 に よ っ て 架 橋 さ れ ま し た。大 幅 な 昭和 年 ︵1981︶ 、全長125m 、 幅 員9・5m の 五 代 目 笹 津 橋 が 建 設 く、 威風堂々たる雄姿を誇りました。 優美な曲線を描き、強固で、かつ美し 立った峡谷を背景に、 m に渡って 局長で技師を務めた高野務が富山県 は笹津と神岡鉱山を直接つなぐ三井 となっていました。 三代目は、昭和 年︵1935︶に 通行車両の重量制限がかけられ、架 軌 道 が 完 成。笹 津 駅 は 神 岡 鉱 山 輸 送 四代目 20 架 け 替 え ら れ ま し た。軍 事 優 先 の 世 平成 年︵2000︶2月、四代目 は土木構造物としての技術価値に加 車用の橋として使用されています。 れることなく、現在も歩行者や自転 な利用が可能であったため取り壊さ さなど、安全性を高めたものでした。 65 設から の 拠 点 と し て 活 況 を 呈 し ま し た。当 る馬車鉄道だったため、笹津の荷馬 16 56 ※﹁ケーソン工法﹂ とは⋮木の箱枠を川底の岩盤まで 沈めて据え付け、そこから基礎を立ち上げる工法 として愛され続けています。 る役割を終えた今も、町のシンボル 需を陰で支えた四代目は、その主た れるほど強固に設計され、日本の軍 指 定 さ れ ま し た。戦 時 下 で 戦 車 が 通 値が評価され、国登録有形文化財に えて、飛騨交流に果たした歴史的価 12 時の三井軌道は、馬に貨車を引かせ 四代目笹津橋は点検の結果、継続的 土 木 課 在 職 中 に 設 計 し ま し た。切 り 85 年以上を経て大量輸送に耐 10 日本が太平洋戦争へ突入した昭和 年︵1941︶ 、笹津橋は四代目に 製吊り橋でした。 四代目は、 全長 m 、 幅6m の鉄筋コ ンクリートアーチ橋で、建設省道路 に 架 け 替 え ら れ ま し た。三 代 目 笹 津 高野務の四代目笹津橋設計図 90 続きました。 20 25 創 始 者 で あ る 佐 藤 助 九 郎 で す。佐 藤 24 18 19 橋は、総延長 ・6m 、幅員6m の鉄 12 12 4 No.93 [YAMABIKO] 秋の号 No.93 [YAMABIKO] 秋の号 85 初代 二代目 三代目 交通の要衝に架けられた待望の橋 5度の架橋で町の発展に尽くす 交通の要衝に架けられた待望の橋 5度の架橋で町の発展に尽くす 5 ました。 初 代 初代笹津橋。神通川の急 流への架橋は難工事で長い時間 を要した 二代目 二代目笹津橋。橋の完成 により飛騨との産業や文化の交流 が急速に進展した 三代目 三代目笹津橋。当時、完 成を祝って多くの人が集まった 四代目 四代目笹津橋。 現存する 戦前二番目の大スパンアーチ橋 7 おすすめエリア情報 秋の号 No.93 [YAMABIKO] やまびこ学習室 秋の号 No.93 [YAMABIKO] 6 7 おすすめエリア情報 秋の号 No.93 [YAMABIKO] やまびこ学習室 秋の号 No.93 [YAMABIKO] 6 やまびこ No.93 autumn 関西電力北陸支社では、インターネットのホームページを開設し、川にまつわる情報や外観がユニークな発電所など 地域に開かれた情報をお知らせしています。http://www.kepco.co.jp /info/hokuriku/ 関西電力北陸支社からのメッセージ 関西電力の安全に関する取り組み 事故を防ぎ、災害からの迅速な復旧を支える 関西電力では、電力を安全かつ安定的にお届けするため、非常災害等を想定し たさまざまな訓練や研修を実施しています。 8月17日には、神通川電力システムセンターにおいて危険体験研修を行いま した。 この研修は、作業中の危険な作業環境、危険な行動を模擬的に体験するこ とにより、 「危険」 に対する感受性を高め、より安全な作業環境において、より安全 な手段で作業を行うための 「 気付き」 を呼び起こすことを目的とし、平成19年度 から実施しています。 今年は、当社社員および協力会社23社の社員合わせて85名が参加しました。 同システムセンター構内の4エリアに分かれ、 感電体験、 酸欠体験、 高所墜落体験 など7種類の模擬体験研修を行い、これからの現場作業において安全確保最優 先の認識を再確認しました。 また、 北陸支社では冬期間の降雪における歩行訓練や防災訓練、 一斉連絡シス テムを活用した情報連絡訓練等、さまざまな訓練を実施しています。事故の未然 防止や、万が一の災害時にも事故拡大を防止し早期復旧となるよう、訓練を通じ 技術・技能のレベルアップに向けて進めてまいります。 玉掛け吊り荷の荷崩れ体験研修 事故想定シミュレーター訓練 北陸支社 電気グループ リーダー 斉藤辰夫さんからのメッセージ 水力変電・制御部門では、協力会 社 の皆さまと共に安 全衛生に関する種々 取り組みを実践しています。 工事に関する注 意事 項を携帯カード タイプにまとめた『安全パスポート』を、 工 事 関 係 者 全 員で 読 み上 げることや、 工事 前にリスクを洗い出し、現 場で 安 EDITOR'S NOTE 18 編集後記 ■無くなってしまったら、以前そこに何があ ったかをすっかり忘れてしまうものです。 毎 日通った学 校さえも、 建て替えられてしま うと、自分がどんな校舎に通っていたかを思 い出せない始末です。 ■三井金属鉱業神岡 鉄 道、 富 山 地 鉄 笹 津 線が接 続し、 交 通の 要 衝としてにぎわった笹 津 駅 舎が新しくな ったのは、平成 年のこと。かつて駅舎があ った空き地を前に記憶をたどっても、はて、 どんな駅 舎だったかを思い出せない自 分が、 薄情にさえ感じられます。 新設されてから も、先代を保存することの意義の大きさを、 笹津駅舎を前にして改めて感じます。 取材・写真協力︵敬称略︶ 平井一雄/浅野実/竹中秀吉/吉江博幸/ 浅生幸子︵笹津アルバム編集委員︶/富山 県観光課/国土交通省富山河川国道事務所 /富山市南商工会大沢野支部センター/笹 津町内会/笹津自治公民館 参考文献 ﹁大沢野町史﹂ 大沢野町 ﹁笹津アルバム﹂ 笹津自治公民館 ﹁わが町ささづの歩み﹂ 笹津町内会/笹津自治公民館 ﹁飛騨街道紀行﹂ まつお出版 ﹁とやま土木物語﹂ 富山出版社 ︵あおやぎ・しろう︶ 2 13 題字 青柳志郎 24 1 No. 93 ’ 10 昭和8年富山生まれ。日展入選8回。 書家。 毎日賞、毎日グランプリ受賞。アメリカフィラ デルフィア個展、中国上海個展、パリ・マド リード巡回展など国内外で個展を開く。富山 県文化功労賞受賞、北日本美術大賞展特別賞 受賞。現在、上海復旦大学芸術顧問、上海中 国画院名誉会員、毎日書道展審査会員、北陸 書道院理事長、東京北辰書道会主宰。 9 やまびこ 秋の号︵季刊︶ 発行日/平成 年 月 日 発行所/〒930︲8513 富山市東田地方町 ︲ ︲ 関西電力株式会社北陸支社 総務・広報グループ ︵076︶432︲6111︵代︶ 本誌は再生紙を利用しています。 22 全対策に結びつける『リスクアセスメン ト』も実施しています。 安全衛生の確保は私たちだけでは成 り立ちません。現 場で工事を行ってい ただく協力会社の皆さま方との協業で こそ、よりよい取り組みになると考えて います。