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年史 - 東京大学 運動会

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年史 - 東京大学 運動会
体操部 130 年史原稿
S24 (1949)
(夜明け前)
学制改革が大幅に行われたことに伴い、東京帝国大学改め東京大学が誕生した。駒場には
1.2年生が在籍する教養学部が創設され、一高の雰囲気を残す駒場寮の中寮9番に、当
時の体操部の部室が存在した。一高時代から体操部は存在し、スウェーデン体操を練習し
ていたという。また、松本徳一さんという全日本級の先生も居られたという。その名残の
鉄棒、平行棒は埃にまみれて眠っていた。当時を振り返って曰く、「鉄棒は、赤く錆びてい
た。平行棒は、移動用車輪のない超重量級だった。跳び箱という小学生向きのものはあっ
たが、吊輪、鞍馬がなく、マットも使えるものはなかった。
」
S25 (1950)
(体操部の曙)
東京大学運動会に登録しないと、部活動が公認されないとのことで、急遽、部としての体
裁を整えることになり、部長として体育科の重田教授を仰ぎ、主将、主務を決定した。と
ころが、実績なしとのことで、向こう1年間は同好会扱いで予算は無し。仕方がないので、
教授にお願いして体育授業用のマットを買っていただき、やっとタンブリングを開始した。
体育館(今はない三体)の床は、既に相当いたんでおり、柔道、空手、卓球、バドミン
トン、ボクシング等と、交代で練習するのだが、床の穴を上手によけて走り、転がり、着
地するのであった。
秋になると、学連からインカレ2部を作ったので出場するように誘いがあり、急遽チー
ムを編成して奈良県天理大学体育館まで遠征することになった。団体では、明治大学に次
ぐ2位だった。
このとき既に0B 会設立の兆しがあったと思われる。
S26 (1951)
ようやく運動部として認められ、僅かながら予算もついた。インカレにおいて、牧野選手
が徒手(後の床運動)で優勝した。これが東大体操部史上初の入賞となる。
S27 (1952)
この年のインカレは、一昨年と同じ奈良県天理大学体育館であった。団体で七位を獲得し
た。
S28
この年の春、平行棒の新品と鞍馬の中古品を手に入れ、3年間の分割払いとした。これで
ようやく6種目の練習が可能となった。
この年もインカレに出るつもりではあった。しかし10月初めの練習中に(この時代に
はインカレの開催時期は晩秋であった。夏に開かれるようになったのは昭和30年頃から
である。
)主将の牧野選手が足首を手ひどく捻挫したため出場を取りやめた。
昭和29年には、インカレ出場の実力のある選手を数人揃えながら、結局は出場せず、
以後数年間、東大がインカレに出ない時代が続く。
横浜国大も昭和28年位は、インカレに出なかったと記憶している。当時、同校体操部
には、下津屋先生を頂点に、田崎顧問はじめ、昭和ヒトけた年代卒業の偉い先輩がそろっ
ており、後援組織が非常にしっかりしていた。それだけに、選手としては関東甲信越大会
だけが唯一の協議会という状況に肩身のせまい思いをしていた筈である。
東大の方も、28年に国公立大会が始まったものの、もう1つくらい実力伯仲の相手と
の協議会を持ちたいところであった。他のスポーツのように京大との定期戦を始めたいと
思い、手紙を出したところ、まだ体操部がないので部ができた暁にお相手していただきた
いという返信であった。
というような両校の事情であったので、横浜国大の小川良治氏との間で、どちらからと
もなく定期戦の話が出て、すぐまとまった。第1回は駒場で開催した。12月の寒い日曜
日だった。試合の結果は、比企、村岡、小川とオールラウンドプレーヤーを3人揃えた横
浜国大が、牧野選手の負傷が完治しない東大に、それでも思ったより少差で団体戦勝利。
個人総合も村岡氏1位、桑原選手(東大)2位というところで、並いる横浜国大の先輩連
の前で面目を立てさせてしまった。
第1回国公立大会も28年で、会場はやはり駒場であった。
運営を全部(東京)教育大(現在の筑波大)の学生に任せただけでなく、器具やマット
も全部教育大幅ヶ谷体育館からトラックで運び込んでもらった。
第1回の国公立大会には、教育大、東大、学芸大、都立大(現在の首都大学東京)が参
加し、正確な記録はないものの、順位もこの順であったという話である。
S29
練習場は第1体育館のみ。寒風が遠慮なく入ってくるし、床もささくれだっていた。器具
は一通り揃ってはいたが、古いものばかりであった。
第1体育館は、体操部の他に、バスケットボール部、柔道部、空手部(少林寺拳法部)
などが使用しており、しばしば同時練習となったため、館内は大変賑やかで、敗戦直後の
先頭のようにごったがえしていた。
S30
11月27日、対横浜国大定期戦が駒場で行われ、前年に引き続き東大が連勝し、対戦成
績を2勝1敗とした。
12月11日、都内国公立大戦が教育大、幅ヶ谷で行われ、東大は3位となった。
S31
この年は、体操部の中心であった小栗選手以下の29年組が本郷へ進学し、駒場に残る2
年生は、太田選手1人という淋しい状況となり、部の存否が危ぶまれ、それだけに4月の
親友部員の勧誘は熱心に行われた。幸い、5名の競技経験者を含む9人ほどの入部があり、
駒場在籍者だけでの練習もなんとか格好がつくこととなった。
なお、本郷進学組もこの時期、時間をやりくりして、熱心に練習に指導に参加してくれ
たが、矢張り十分ではない、ということで、外部からコーチとして早大の古口弘(日本体
操協会元専務理事古口氏の弟)を招いた。
この年メルボルンオリンピックが開催され、体操で日本男子は2位となった。鉄棒で優
勝した小野喬選手の「ひねり飛び越し」が大きな話題となった。
また、11月7日、本郷御殿下グラウンドで行われた東大運動会で体操部は、マット、
平行棒、鉄棒の3種目について模範演技を行い喝采を浴びた。
この年体操部長に塩見賢吾教授(化学)が就任された。
S32
小栗主将以下4年生は、勉学に就職活動に忙しく、試合直前以外はなかなか駒場に顔を見
せず、必然的に練習の中心は、2年生。新入部員もいきが良く、練習も活気があった。な
おコーチは、早大、古口氏から、教育大、山根氏に代わった。
11月10日、都内国公立大戦が学芸大、小金井で行われ、東大は4位となった。
11月24日、横浜国大戦が駒場で行われ、東大は4連覇を成し遂げた。得点は、38
6.05対379.45と6.65差と楽勝であった。
個人総合は、小栗主将が1位、種目別でも鉄棒、平行棒の2種目を制し、大川選手が鞍
馬をとった。
当日は、
「先輩の多数来演、2競技(規定と自由)を平行して行う空前の盛況」であった。
この年、上村前主将は、部長の塩見先生と相談されて部の組織面の整備のために後援会
としての OB 会づくりに着手された。名簿を作成し、第1回 OB・現役懇談会が10月26
日、駒場同窓会館で開催された。
S33〜S36にかけての、当時の部活動の特徴、状況
昭和33年頃から、経験者が数名ずつ入部、中興の兆し現れる。
駒場寮室が部室をかねていたこともあって、部員(特に寮生)の確保は重大なテーマで
あった。経験の有無にかかわらず入部を歓迎し、
「去る者は追わず」という、居心地の良い
部風はそのことと必ずしも無関係ではなかった。結果として、運動部として最も重要な活
動である練習への参加率が低いことは常に反省材料として取り上げられてはいた。
部費は入部費100円、部費100円/月だったらしい。部費徴収係が、滞納者名を張
り出したこともある。
駅前の商店街で素ラーメン15円、先頭(学割)11円。
渋谷でニュース映画10円(30分くらい)
①コーチ、②器械、③練習場
①昭和33年以前に「古口氏(早稲田)
」
昭和33年(1958)
、教育大の春山氏がコーチに来てくれる。
昭和34年(1959)意向、中央大の福田氏、半ばコーチ格で東大の殆どすべての活
動に参加。
昭和35(1960)頃も、春山氏にインカレ規定問題の解釈について非常に詳しく教
えてもらった。
大学院の山本徳郎師には何回も実地にコーチをうけた。
②鉄棒は、毎回量の部室から運んでいたが、体育館におきっぱなしにできるようになった。
工業用炭酸マグネシウムは、裏門を出た富ヶ谷あたりの薬局で特約で買った(ような気
がする)
。平行棒の倒立練習台、吊り輪の十字懸垂練習用の自転車チューブとインデアンク
ラブなどは「古口コーチ」によってもたらされた。
昭和34年の国公立を機会に、平行棒を手に入れ、合わせて2台になった。鞍馬は昭和
34年に購入した。旧規格の長い鞍馬は、本郷の七徳堂に運んだ。
昭和35年、6月21日、補助マット購入「(¥3500)、これでマットの質、量とも
相当良くなってきた。
プロテクター、シューズなどの進歩もはげしかった。
昭和34年、7月、1年生の島崎選手が、屋外に鉄棒の練習場を作ることを提案。早速、
第1体育館と弓道場の間に穴を掘り、数日で完成した(幅2m、長さ 8m、深さ 0.8m)
鉄棒の指示方法を考えながら穴を掘っていくうちに、長さ2メートルほどの鉄筋コンク
リート性の杭を数本発見。そのまま縦に埋めて中に土と石をつめ、高さが自在に調節でき
る基礎とした。
穴には、お風呂屋さんから分けてもらったおがくずを敷き詰めた。穴の先端部では、徒
手(床運動)の宙返りの練習ができた。
この屋外鉄棒には、陸上部の棒高跳びや、東京工業高校、富士中学その他外部からの練
習者もかなりいた。
③昭和36年、5月19日、体育館床洗いー体操部から駒場のみで24名出場、石鹸液で
壁から床からこすって洗った。なにしろ汚かったから良い補強になった。ペイはパン2個。
昭和35年ごろ、馬1匹(鞍、跳を兼)、平行棒2台(おんぼろは高くせずに用いた)、
吊環1セットにマットがなにがしか。ダブル宙などの練習用に補助マットと称するものが
あった。
屋外に常設の鉄棒が高低各1。頭からおりる人のためにオガクズを満たしてあったが固
まるのでフォークという農具が体操には必需品であることを新人は知らされた。
オガクズは風で移動し、バド、バスケ部からよくクレームがついた。隣接の弓道場から
飛んでくる射そこないの矢が、スレート壁を痛めるのが脅威だった。
試合
S33 5月18日 新人戦(日体大) 2名出場
6月22日 第6回国公立(教育大) 東大は4位
8月27日 第12回インカレ(大阪)大川選手が出場
11月16日 第6回横浜国大戦(鎌倉)0.05 の僅差で惜敗
国大 384.10 東大 384.05
S34 5月2日 新人戦(日体大)
5月 14 日 第1回関東インカレ(台東体育館)
東大は9位(出場10校中)。公式戦で久しぶり、あるいは初めての最下
位脱出。
6月28日 第7回国公立(教育大) 東大は3位
8月27日 第13回インカレ(秋田) 東大は二部で7位(出場7校中)。東大の
団体総合 358.10(各種目4名分)
11月15日 第7回横浜国大戦(駒場) 東大の勝利
東大 440.70 国大 408.65
S35 5月5日 新人戦
5月19日 第1回6大学戦 臥雲キャプテン跳馬で墜落、順大医院に入院
6月19日 関東インカレ(台東体育館)
6月18日の国会デモの翌日という異常な試合だった。
7月3日 第8回国公立
商船大「民主主義の無視された時点に於てわれわれ学生も一個の人間としての責任を感じ
強く抗議すべきであると考え」国公立戦の中止を要請。
東大運動会緊急常務委員会「各部の判断に任せる」
結局、東大は2位となる。
8月25日 第14回インカレ(東京) 東大は2部で7位
11月
横浜国大戦
S36 5月5日 新人戦
6月4日
6大学戦
6月18日 関東インカレ
7月2日
国公立(於教育大)
8月2日 第15回インカレ(於津山市)
2部で2位となる。選手は次の通り
高山、加藤、島崎、小谷、三島、安大、新井、小川、川島
37年度と甲乙つけ難い東大史上最強チームのひとつ。
11月12日 横浜国大戦 主力メンバー4人を外しての勝利。
〜第15回インカレについて、部報からの抜粋〜
1961年8月2日から6日まで岡山県津山市津山商高体育館で開催された第15回全日
本学生体操競技選手権大会の男子第2部で、東大チームは鹿児島大学についで2位に進出
した。しかし1部昇格は成らなかった(団体綜合 408.80 は、1部昇格の新基準には及ばな
かった)
。
塩見部長、松本元部長(本大会委員長)、小栗先輩、現役の高橋、他が、四俵がこの歴史
的出来事の現場に居合わせた。
(中略)
会場、宿舎(旅館「宇ら島」
)には東大の健闘をたたえて毎日のように激励電報が舞い込
んだ。
(以下略)
S37 7月菅平合宿 35名参加
8月インカレ(札幌) 402.55で2部団体優勝。
監督:牧野。チーム:島崎、尾谷、小川、川島、安大、三島。個
人;在田、長野
結果:島崎(個人総合2位、鞍馬3位、吊輪2位、鉄棒2位、平行棒4位)
三島(鞍馬1位)
10月秋合宿
11月横浜国大定期戦(鎌倉)
部室、中寮5Sより中寮13Bに引越し
この年のハイライトは何と云ってもインカレの第2部の団体優勝、島崎の個人総合2位入
賞であろう。
昨年の津山大会の団体2位に続いての優勝という、最初にして最後(今のところ)の快
挙。東大体操部の黄金期が頂点に達した年である。学生体操会においてもかなり話題とな
った出来事でもあった。
この原動力は何と云ってもキャプテン島崎の活躍であった。実力のみならず部を引っ張
って行くリーダーシップ、指導力等において東大体操部史上最高の選手という評価も肯け
るところ。
S38 5月 新人戦
6月 6大学戦 東大は4位
関東インカレ 団体10位
チーム:川島、小川、新井、安大、三島、大橋。
7月 国公立戦(小金井) 東大は3位(4校中)
菅平合宿 参加30名
8月 インカレ(広島)
381.50で団体6位。監督:小谷、チーム:川島、新井、小川、安大、
三島、大橋。個人:青木、山中。マネージャー:大石。
成績:団体総合6位。三島(鉄棒1位)
、安大(平行棒3位)
10月 秋合宿
前年のインカレ2部優勝の栄光は重く、必ずしも低調とはいえなかったこの年の印象をや
や影の薄いものとしている。しかしこの年も、やはりインカレがハイライトであった。
当時の体操部の状況
部員総数50名
器具 鞍馬2 吊輪1 平行棒2 鉄棒3 ロングマット・ショートマット4
予算 本郷80000円 駒場40000円
S39 4月 春合宿(検見川)この頃駒場にトレーニング体育館完成
5月 新人戦
6月 関東インカレ 団体12位
7月 国公立戦(小金井) 東大3位(5校中)
インカレ(前橋)402.50で団体5位
成績 団体総合5位。個人総合、安大6位、三島8位
8月 夏合宿(菅平)
10月 秋合宿(駒場) オリンピック期間中
11月 横浜国大戦(鎌倉)
OB戦がこの頃から正式に始まる。団体戦は現役優勝。個人1位・三島、2位・佐藤(勝
彦)
、3位・安大
この年は10月にオリンピックがあり、そのための施設として駒場の新体育館(トレーニ
ング体育館)が出来、体操部の練習場も古い第一体育館からトレ体に移る。また菅平でも
体操研究所が新しくなり、体育館も出来た。
「徒手」という呼称が「床運動」と変更されたのも、この年からだと思われる。
S40 3月 検見川合宿
史上最も厳しかった合宿との感想あり
4月 体操部規約完成
5月 新人戦
6月 6大戦(習志野・順大) 団体5位
関東インカレ(栃木県体育館)
7月 国公立(学芸大) 団体はAチームが5位
菅平合宿
第1回京大戦
東大勝つ(後に横浜国大戦と併合して3校戦になる)
26~8
月1日 インカレ(高松)団体6位
10月 秋合宿
11月 横浜国大戦
インカレではかろうじて6位入賞を果たしたが、上位とのレベル差は開く一方で、東大体
操部のあり方についても、様々な意見がありその方向付けに迷い始めた時期である。一方
でかなりの大世帯となり、練習に出ない部員も多く、ここ数年、どうやって練習に出させ
るかがリーダーの共通の悩みであった。
当時の練習規則
1 練習日は毎日。日曜日の練習は駒場生は自由。本郷、OBは駒場生と一緒に行う。
2
当番。土曜以外に駒場生は週1回の当番日を定める。当番の2年の中からリーダー2
名を定める。当番は練習の終わりまで残り、片付け、掃除、戸締りに当たる。リーダ
ーは当日の進行を図り、掃除の監督、鍵の管理を行う。
3 リーダーは体育館が開いていても体育課から鍵を借り翌日10時までに返却する。
4 練習時間。土曜日2時~5時30分、他の日は3時40分~7時とする。
5
練習期間。1年中継続して行う。ただし試験前10日間は練習を休みとする。休暇中
は普段と別に練習日を定めてよい。
6 合宿。四季に1回ずつ行う。やむをえない事情のあるものの他全員参加の義務を負う。
S41
この年まで東大体操部は強かった。明確な記録が手元には残っていないが、この
年の 7 月に東京で行われたインカレでは、2 部で上位の成績を残している。そのときのメン
バーは、
チームリーダー:三島、選手:石井、田附、岩佐、小宇佐、井上、林であった。
東大・京大対抗戦は京都で行われた。対戦成績は残っていないが、試合後、京都嵯峨野
あたりを皆で散策した。
S42
この年から、関東インカレが東日本インカレに拡大され、インカレに出場する3部校の
予選を兼ねることとなった。東大はまだ2部校だったので、軽い気持ちで開催地の福島ま
で出かけていったが、結果は惨憺たるものであった。インカレは 7 月に神戸で行われ、
チームリーダー:大橋、選手:岩佐、小宇佐、田中、北村、林、谷
でこれに望んだ。この試合で体操部は屈辱の3部落ちをすることとなる。強力な先輩が第
1線を退いたこともあるが、試合10日前に田附、2日前に井上が鉄棒で怪我をして欠場、
さらに規定演技と自由演技の間の練習日にメンバーの1人、林が鉄棒の着地で怪我をして、
自由演技の床と跳馬を棄権せざるを得なくなり、残念ながら2部の最下位となったのであ
る。その他の試合としては、東大・京大対抗線は5・05差で負けたが、横浜国大戦は1・
70差で勝ちという記録が残っている。
当時の様子を少し記すと、部室は学生会館の地下、階段を下りたすぐ左側にあり、1階
生協食堂のうどんが30円という時代である。東京オリンピックの1年前に建てられたト
レーニング体育館は、体操部と、ボディービル部、少林寺拳法、ボクシング部で練習に使
用していた。体操部の練習日は集4日、月、水、金、土であった。他に、春、夏、秋の年
間3回の合宿を行い、春と秋は駒場(前年まで合宿は検見川グラウンドを使用)
、夏は管平
の文部省の施設を使用していた。当時まで、鉄棒は屋外にあるものを使用しており、下に
は製材所から買ってきたオガクズを敷いていた。鉄棒の練習をするとオガクズまみれにな
り、トレーニング体育館に戻るときそれを落とすのが大変であった。本郷に進学した上級
生の多くが、試合直前以外はあまり練習に顔を出してもらえないという悩みがあった。
石井さんという強力なリーダーシップを持った人が抜けた反動もあってか、体操部の活動
には下り坂の兆候がでてきていた。楽しく体操をやるか、試合に勝つことを目標に厳しい
練習に耐えるのかというような議論が盛んになされていた。こうして、体操部は段々と弱
体化していき、インカレ2部復帰はとても無理という状況にあった。
S43
メキシコオリンピックの行われたこの年、医学部に端を発した紛争が全学に拡がり、5
月から東大は全学ストライキに発展した。結局この全学ストライキは約1年間続くことに
なる。全学ストのおかげで駒場に来る学生の数は少なかったが、体操部の活動にはむしろ
活気があった。前年度3部に陥落してしまったので、インカレに出場するためには東日本
インカレで7位以内に入らなければならなかった。この目標達成のために、4月末より強
化練習、試技会を繰り返し、6月に駒沢体育館で行われた東日本インカレに臨んだ。結果
は、8位との差2・30で7位に入賞してインカレ出場権を獲得した。このときの1部の
優勝者は、メキシコ、ミュンヘン両オリンピックのチャンピオンとなった教育大の加藤沢
男、2位はムーンサルトを生み出した日体大の塚原光男であった。
インカレは8月に長崎で行われた。我が体操部は、井上、岩佐、中村、北村、林、石原
の選手に村田チームリーダーと山本というメンバーで試合に臨み、3部で9位という成績
を残した。ちなみに3部の優勝は東海大であった。試合内容の詳細の記録は残っていない
が、試合の後、九州を中心に小旅行を楽しんだ記憶が印象深い。
この年はいつもより練習量が豊富だったせいか、11月から12月にかけて行われた横
浜国大戦、京大戦では圧倒的な強さを発揮した。しかし、東大紛争の中で育ってきた権威
を否定する気持ちが統制との拒否ともなり、インカレや試合のために全員が一丸となって
という行き方に反対する雰囲気が出てきた。主将の井上さんは持ち前の明るさでなんとか
部をまとめていこうと努力したが、ボロボロと退部者を出してしまった。
なお、この年に東大体操部の部長が、長年これを務められた塩見先生から新たに綿祓先
生に交代した。塩見先生への感謝をこめて、現役と若干の先輩が本郷の山上会議所に集ま
って先生の送別会が開かれた。
S44
1月の安田講堂の攻防戦を境に全額逃走は衰退していき、全学ストライキは収拾の方向
に向かったものの、大学の活力、学生の気力は徐々に低下していく。東大闘争の長期化で、
4月の進学はないし、さらにこの年の入試が中止されたため、当然のことながら新入部員
はゼロという状況で、体操部のアクティビティも他の運動部と同様に停滞していった。キ
ャンパスにみられる学生の数が極端に少ないという状況で、体操部でも練習に出てくる部
員が4〜5人いるかいないかという有様となり、体操部のどん底時代に入っていく。この
頃、鉄棒はトレーニング体育館の中で練習するようになっていたが、人数が少ないために
鉄棒を立てることさえも出来ないという状況であった。
このような状態に追い討ちをかけるように、6月に石原が鉄棒の大飛び越し練習中に頭
から突っ込み、背骨の軟骨をつぶして救急車で下北沢の病院に担ぎ込まれた。入院1ヶ月。
これではまだ良かったが、11月22日に取り返しのつかない出来事が起こってしまう。
入部して着々と力をつけていた湧島が鉄棒で潜り飛び越しを練習していたときに手が離れ、
東部から落下して頸骨骨折で翌日帰らぬ人となってしまったのである。練習の安全体制な
どが問題となり、体操部廃部の危機に瀕したときであった。このあと、体操部は実質的に
は休部状態となり、斉藤、大田2〜3人が自主練習と称して細々と活動を続けていた。当
然、例年11月から12月にかけて行われる京大戦、横浜国大戦、OB 戦は全て中止された。
1年以上続いた東大全学ストライキという異常事態は、東大体操部の歴史にも大きな暗い
爪痕を残したのである。
このような状況の中で、唯一明るい出来事と言えば、医学部付属看護学校の学生であっ
た岩倉さんが入部し、女子体操部員が誕生したことである。これを契機に、以後2〜3年
の内に、駒場女子学生の入部、津田塾大学、東京女子大学との合同練習体制へと発展して
いく。
体操部 40 年史参照
平成 22 年度入学 仁科 寛
どん底からの復興(1970 年~1973 年)
1969 年の大学紛争の影響で新入生が入らなかった空白の 1 年を生じてしまってから 1 年
たち、ようやく新たな部員を迎えることができたのが 1970 年の春である。新入部員は男子
2 人という少ない数ではあったが、ここから体操部は新たな体操部に向かって復興の第一歩
を歩み始めることになる。女子に関しては、3 年生に 1 人の女子部員がいただけでまだまだ
活発とは言えない状況であった。この年は 2 年生がいないながらも東日本インカレに出場
し、個人では当時の主将・山本啓一が全日本インカレへの出場を果たした。また、体操界
の話題として、この年はリュブリアナ世界選手権が開催されており、日本男子は個人総合
タイトルを独占し、体操ニッポンの強さを世界に見せつけた年であった。
1971 年には男子 6 名、女子 3 名もの新入部員が入部した。女子が入ったことはとても大
きく、徐々に部活としての活気も取り戻しつつあった。ここから女子部も盛り上がること
となる。主な戦績は国公立戦が 6 大学中 3 位、4 大学戦(東大、京大、阪大、横国大)優勝、
個人でも 1 位と 3 位を取っている。また、この年には国士舘大、明大、千葉大、順天堂大、
学芸大とともに 6 大学戦なるものが開催されている。残念ながらこの時の記録は残ってい
なかった。
1972 年にも 1971 年に続き多くの新入部員が入部した。この年の新入部員は、男子 9 人
に加え津田塾大から 3 人、東京女子大から 1 人の女子が練習に参加するようになり、ここ
から東大と津田塾大、東京女子大との長期にわたるつきあいが始まり、女子部員が増えて
いくことになる。東日本インカレおよび全日本インカレの戦績は残されていなかったが、
京大と横国大との三校戦では優勝したとの記録がある。しかしながら、個人での成績は奮
わず個人総合、種目別のいずれにおいても上位は京大と横国大にとられてしまっている。
1972 年はみミュンヘンオリンピックが開催された年でもあり、日本男子体操はメダル独占
を果たす快挙を成し遂げ体操ニッポンとして盛り上がったのであった。
1973 年、いわゆるオイルショックのあった年だが、5 人の新入部員を迎えそのうちの 1
人は体操がとても上手であったため、そのまま主力選手となった。この当時、部員には名
前に「田」という字がついている人がかなり多く、
「田多いそう部」と呼ばれていたそうで
ある。この年の国公立戦では 4 人が高得点をマークし、ようやく体操らしいチームが組め
る状態になってきた。秋には京大の新築体育館にて三校戦が開催され、結果東大が 2 点差
で横国を下し優勝した。個人総合でも東大の 1 人が 3 位という結果を出している。
賑やか体操部(1974 年~1977 年)
1974 年には 5 人の新入部員が入部し、全員がほぼ初心者という状況の中卒業するまで体
操部の中心となった。また、津田塾大からも新たに 2 人練習に参加してくれ、体操部は一
段と充実した部活へと変わっていったのである。この津田塾大の 2 人は体操がとても上手
で、この後しばらくの間は体操部女子部を牽引していく存在となったのである。この年に
は、東日本インカレを 2 部で 9 位(最下位)でなんとか通過し、念願の全日本インカレ団
体出場を果たしたのであった。トレ体が床の修復工事のため使えず、慶応などの他大で練
習しなければならなった環境の中で、東日本インカレが終わってから全日本インカレまで
の短い期間で何とか規定演技をこなせるようになろうとメンバー全員一生懸命練習したの
であった。結果は 2 部 18 校中、阪大と関東学院大をおさえ 16 位であった。また、東日本
インカレ直後の国公立戦においては教育大と学芸大に続き 3 位という結果であった。
1975 年には 8 人の男子部員および津田塾大から 4 人ほどの女子部員が入部し、近年まれ
にみる賑わいとなった年であった。弘前市にて行われた東日本インカレに出場はしたもの
の、けが人がいたことなどもあり結果は奮わなかった。試合後にはみんなで岩木山に上り、
雄大な日本海と青森の景色を堪能したそうである。続く国公立戦においては、人数が多か
ったためにとうとう東大も A・B の 2 チームを結成することとなった。残念ながら結果は
明記されていなかった。11 月に京大で行われた三校戦では、京大に 3 点差で敗れてしまっ
た。この年の夏部報には様々な記事が投稿されており、内容はともかくとしてページ数で
みれば今までにない超大作となったそうである。
1976 年の新入部員は男子 3 人女子 5 人と、とうとう女子のほうが多くなった。主力であ
った選手たちが卒業してしまったため戦力は低下せざるをえなかった。駒沢体育館にて行
われた東日本インカレでは 1 人は高得点を出すもほかのメンバーの点数は低く、団体通過
はならなかった。高得点を出した部員も個人総合 11 位という結果に終わり、1 位の差で全
日本インカレへの切符を逃してしまったのである。秋に駒場で開催された三校戦ではなん
と 30 点もの大差で京大に敗れてしまったのである。この年には女子も試合が行われたがこ
ちらも 13 点差をつけられ京大に敗れてしまった。この年はモントリオールオリンピックが
開催された年であり、日本男子団体は逆転優勝を果たしている。さらにかの有名なコマネ
チが大活躍したのもこの大会だった。
1977 年の新入部員は、男子 2 人女子 2 人と例年に比べてやや少なかった。仙台で行われ
た東日本インカレではかなり点数が低かった。続く国公立戦は学芸大で行われたそうであ
るが、結果に関する記録は残されていなかった。秋に京大にて開催された三校戦では 20 点
差をつけられ京大に敗れた。鞍馬に関して言えば種目別で 2 位と 3 位に入っているがその
ほかに関してはこれといって目立ったことはなかった。女子部は横国大、京大に続き 3 位
に終わってしまった。
新時代の幕開け(1978 年~1981 年)
1978 年には今まで体操部を支えてきた 4 年生 5 名が 6 月で引退し、入ってきた新入部員
も次々やめていき卒業まで残ったのはわずか 3 人であった。トレ体は一気に氷河期を迎え
ることになったのである。人数不足のためまともに練習もできず、技術の停滞は免れなか
った。4 年生最後の公式戦であった東日本インカレは大田区で行われ、全日本インカレ出場
を目指して練習をし、本番では全員角刈りにして臨んだが、惜しくも全日本出場はならな
かった。一方女子部の活躍は目覚ましく、津田塾大の女子が悲願の東日本インカレ出場を
果たし、さらには個人で全日本インカレへの切符を手に入れた人もいた。また、この年は
1968 年以来となる看護学校からの新入部員が入り、ここからコンスタントに新人を迎える
ことになる。秋の三校戦は人数不足のため引退した 4 年生も出場する事態となった。結果
は京大に敗れ 2 位。しかしこの時の京大は全日本インカレに団体出場するほどの実力であ
り、その実力差はいかんともしがたいものであった。また、筑波大の移転や出場校の減少
によりこの年から国公立戦は廃止となっている。
1979 年の体操部の幕開けは、部員が少ないうえにけが人も多く暗い幕開けとなった。体
操部存亡の危機といっても過言ではないだろう。しかし春になると事態は一変、量・質と
もに優れた新入部員を迎えることになるのである。3 人の経験者(うち 1 人は高校でインタ
ーハイの出場経験あり)をはじめ、未経験者も練習にとても意欲的で経験者につられてど
んどん新しい技に挑戦するといういい流れができていた。この年は共通 1 次試験が始まり、
新人類という言葉がはやった年である。体操部も例にもれず、今までの泥臭い感じから、
明るくスマートな雰囲気となり悲壮感がなくなった。この年の新人のうち 4 人がトレ体で
嫁さんを見つけたことも特筆すべきであろう。さて、この年から東日本インカレの予選(現
在のグループ予選)が始まった。エースがけがで不在、戦力も足りない中、学生 OB に頼
んでチームを組み何とか予選を通過、秋田で行われた東日本インカレへ出場した。この年
にはプレ 7 大戦なるものが開催されている。これは体操競技も 7 大戦の仲間入りをさせて
ほしいという意見が認められ、オープン競技として開催されたものである。出場校は男子
が東大、阪大、京大、東北大で、女子が東大、京大であった。結果は男子が京大に次いで 2
位、女子は 1 位であった。秋の三校戦ではこの年も京大の圧勝に終わり、なかなか京大に
勝つことができない。
1980 年は体操競技が 7 大戦の正式種目として認められ、7 大戦が始まった歴史的年であ
る。新入部員がとても多く、部員は計 40 名程にもなる大きな部活となった。ほんの 2 年前
には考えられなかった状態であった。狭いトレ体にこれだけの人数が練習しにくると当然
練習効率は低下し、練習日以外の日にも練習する部員まで出てきた。女子部員も増えたこ
とで独立して活動できるようになってきた。この年の東日本インカレの予選は団体 5 位と
いう好成績で通過、駒沢で開催された東日本インカレではそれぞれが執念の演技を見せ、
団体 9 位という結果であった。しかしながら全日本インカレ団体出場はならなかった。そ
してこの年から始まった 7 大戦体操競技が東北大にて行われた。出場校は昨年の 4 校に北
大が加わり 5 校。結果は京大、阪大に続き 3 位に終わった。しかし跳馬と床では個人 1 位
を獲得している。この年、公式戦の出場機会が少ない 2 年生たちの自発的行動により新人
戦に初めて参加することになった。三校戦ではまたしても京大に敗れ男子は 2 位、女子は 3
位という結果であった。そして卒業生の引退記念として体操部の部旗が贈られ、以後試合
会場ではためくものとなった。
1981 年にも多くの新入部員が入部し、部員の総数は 60 に迫る勢いであった。経験者の
割合も多く、戦力的にも強くなっていった。この年の東日本インカレ予選は主力が故障な
どで欠いており通過が危ぶまれたが、実際は危機感が功を奏してか楽々通過し、東日本イ
ンカレへと駒を進めた。この年は何といっても 7 大戦が東大主管であったため、みな 7 大
戦に主眼を置いていた。何の経験もないため運営の準備などにとても苦労したそうである。
名古屋大学が新たに出場校に加わり、7 大戦にふさわしい形が整った。結果は、多少のアク
シデントはありつつも阪大に次いで 2 位であり、床の個人種目別では優勝している。女子
部は東大と北大の 2 校のみで、結果は東大が 1 位であった。秋の三校戦も東大が主管であ
り、この年にようやく、なんと 8 年ぶりに京大から優勝を奪還したのである。女子は横国
大に次いで 2 位という結果であった。
しばしの安定(1982 年~1985 年)
3 年ほど続いた新人ラッシュも少し落ち着いてきたようである。この年には負傷者が続出
してしまったため、練習体制の見直しが行われた。具体的には、セーフティマットのロー
テーションの決定、補助の義務化、救急箱の用意、病院への連絡体制の確立などの策がと
られた。東日本インカレ予選は通過し、本戦に臨んだものの全日本インカレへの出場はな
らなかった。名古屋で行われた 7 大戦においては京大を破ったものの阪大に勝てず、男子
団体は 2 位という結果であったが、女子は手堅くメンバーをそろえ見事優勝を果たした。
秋の三校戦は京都で行われ、見事男女ともに団体優勝を飾ることができたのである。
1983 年、東大の新入部員の数は男子 4 人女子 3 人と多いほうであった。東日本インカレ
予選は見事 6 位通過、5 位の明大とは 1 点差であったため本戦では打倒明大を目標にした。
そして福島県で行われた本戦では全員が高得点をマークし、目標であった明大を破ったの
である。結果の順位が記録に残っていないのが惜しかった。そして久々に、個人で全日本
インカレ出場を果たした部員もいた。また、この年には 6 大戦なるものが行われている。
東日本インカレ以外にも試合がほしいという各校の希望が共通し、東大、慶応、上智、明
治、明治学院、立教の 6 大学間で行われたものである。様々な苦労があったため 2 回目以
降はスポンサーをつけて行うことになり、これが後の報知新聞社杯いわゆる霜月杯となっ
たのである。第 1 回の結果は 3 位であった。そして夏の 7 大戦、前年同様阪大に勝てず男
子は 2 位、女子は団体を組むことができなかった。横国大で行われたこの年の三校戦も男
女ともに団体優勝を果たしている。
1984 年、最初の試合となった東日本インカレ予選では団体 4 位と前年を上回る好成績で
本戦へ進んだ。夏に東京で行われた 7 大戦では阪大および東北大に敗れ 3 位という結果に
なってしまった。この年からは女子は正式メンバーで得点を競うことになり、今まで東大・
津田塾・東女で組んでいたチームは解散し、東大女子部は参加できなくなってしまった。
10 月には前年の 6 大学戦に報知新聞社がスポンサーとしてつき、早稲田と駒沢の 2 校も新
たに加わり、報知新聞社杯となって開催された。秋の三校戦の結果であるが男子の結果が
残されていなかった一方で女子は京大に勝って優勝を果たしている。
1985 年に入った新入部員は意欲的な人が多く、経験者・未経験者ともに切磋琢磨してい
た。練習体制も見直され、技術向上にむけて明治や立教、早稲田から練習を受け入れたり、
早稲田や日体大の練習に参加させてもらったりしていたそうだ。この年の東日本インカレ
予選では通過ライン 10 位に対し 9 位とぎりぎりの通過であった。東日本インカレでは東女
の部員が一人個人で全日本インカレへ進んだ。夏に行われた 7 大戦は、男子は阪大、京大
に次いで 3 位、東大女子部は欠場であった。報知杯の結果は残されていなかった。12 月に
トレ体で開催された三校戦は、京大、横国大に敗れ惜しくも 3 位という結果に終わってし
まった。
昭和の終焉(1986 年~1988 年)
1986 年は戦力的には苦しい年であり、公式戦でもこれといって目立った成績はなかった。
残念ながら 7 大戦の結果さえ残されていなかった。女子部に関しては、多くの新入部員が
入ったことで、初めて東大としてチームを組むことができ、7 大戦に東大女子団体として参
加することができたのである。女子団体は阪大と東大の 2 校のみであり結果は阪大に惨敗
ではあったが、何よりも東大女子として団体が組めたというのは大きな変化であった。
1987 年、幹部たちは全日本インカレ団体出場を大きな目標に掲げた。東日本インカレ予
選ではミスなく演技をこなし、個人入賞はならなかったものの団体は優勝で本戦へと駒を
進めたのである。しかしこれで少し気持ちが浮いてしまったのか、そこからの練習内容は
決してよくはなく、けが人まで出てしまった。結果、東日本インカレでは慶応に及ばず、
念願の団体出場は果たせなかった。次なる目標を 7 大戦優勝に切り替え練習したものの、
さらなるけが人続出という事態になり、結果は阪大にわずかの差で敗れ 2 位になってしま
った。この年も女子は団体出場しているのであるが、結果は残されていなかった。秋の報
知杯には新たに法政大が参加し、東京 6 大学が名を連ねた。結果は 4 位であった。この年
最後の試合である三校戦は京都で行われ、結果は東大が優勝し、有終の美を飾ることがで
きたのである。
1988 年、昭和最後の年は 7 大戦・三校戦ともに東大主管であり、主務にとっては厳しい
1 年であった。この年も前年の目標を引き継いで全日本インカレ団体出場であった。東日本
インカレ予選を 2 位で通過したものの本戦では少しミスが目立ち、2 部校中 7 位で惜しくも
全日本団体出場はならなかった。個人では 2 人が全日本へ進んでいる。夏に東大主管で行
われた 7 大戦であるが、男子は東日本インカレと同じメンバーで臨み、念願の初優勝を果
たした。女子も 2 位という好成績を残し、大会運営もうまくいき、成功に終わったといえ
るであろう。さらにこの年は東大が 7 大戦総合優勝を飾っている。体操部もその一端を担
っていたのである。秋の報知新聞杯は 4 人中 3 人が団体戦初出場という新たなメンバーで
臨み、結果は 4 位であった。最後の試合は東大主管で行われた三校戦であり、7 大戦で勝っ
たはずの京大に敗れまさかの 2 位という結果に終わってしまった。そして幹部は交代し、
再び全日本インカレ団体出場を目標に練習が始まった。年明けの 1 月 7 日、天皇崩御によ
り昭和は終焉を迎え、新たな平成時代が始まることになった。
体操部 40 年史参照
平成 22 年度入学 宇郷 将道
平成元年(1989 年)
昭和が終わり、平成に変わって新たな一歩を踏み出した体操部は男女ともに好成績を残し
ている。報知杯では女子は団体出場を果たし2位につけた。男子は団体で4位入賞、個人
で3位。しかし大会後に行われた秋合宿や新人戦などで主要選手が怪我を負ってしまうと
いうアクシデントに見舞われる。ただ、名古屋大学主幹で行われた七帝戦では、団体メン
バーを欠き不安があったのにも関わらず、去年に続き団体優勝、また個人総合1位など好
成績を納めた。さらに男子部は三校戦でも団体1位を獲得、個人総合では上位を独占した。
女子は個人で出場、3位入賞を果たした。
体操部部報第 70 号参照
平成 22 年度入学 青木 彩
平成 2 年(1990 年)
この年の新入生は全員文系であった。現在は部員のほとんどが理系という状況からした
ら珍しく思える。経験者も多く、新入部員のうちの 2 人はなんと体操部がトレーニング体
育館で合宿を行っていた時に突然顔を出してきたそうである。平成 2 年度は前半の記録し
かなかったため、主な戦績は東日本グループ選手権と東日本インカレのものしかない。
東日本グループ選手権に出場したのは 6 人。そのうち 3 人は 2 年生である上にみんな故
障を抱えていたので、この年の東日本インカレ団体出場はかなり厳しいものと考えられて
いた。しかし、団体校が少なかったこともあり、北大との接戦を制し最下位の 10 位で何と
か団体出場権を獲得したのである。残念ながら本戦での成績は不振に終わってしまった。
体操部部報第 71 号参照
平成 22 年度入学 宇郷 将道
平成 3 年~平成 4 年(1991 年~1992 年)
1991 年、新入部員は奥村、清家、宮崎洋介等。
大半の者が、あん馬・つり輪・平行棒で基礎運動ができず、チームとしては苦しい感じ。
グループ予選は通過したものの、団体で全日本を目指すには程遠い。
そんな中、この年の注目は、体操は大学からという西村和生さんが、現役最後の年に個人
で全日本インカレに行けるか。結果は・・・なんとわずか 0.1 差で涙を飲む。
七大戦は団体 5 位。
技的には、村田が跳馬でカサマツを封印して屈伸ツカハラの安定度が増す。豊島はゆかで
演技の最初と最後にダブルを入れるが、必ずどちらかは失敗。鉄棒では練習でトカチェフ
に成功(調子のいい日限定)
。
女子は人数的に団体が組めないが、高本さんが頑張っていた。
1992 年には西村さんが二度目の「現役最後の年」
(体操留年)に、余裕での予選通過、個
人での全日本インカレ出場を果たす。全日本では、伸身クエルボの着地でつぶれた五輪メ
ダリスト池谷選手の跳馬の得点を、西村さんのツカハラの得点が上回る快挙。
この年は小池、北村、林、宮崎昌也らが入部。(女子は年末時で現役がゼロに。)中高経験
者で全種目こなせる小池は、
「小池先生」として崇められる。
七大戦は団体 3 位。同じく団体 3 位の報知杯(現霜月杯)は、団体メンバー全員がゆかで
ダブルまたは 2 回ひねり、跳馬は全員ツカハラ系、となかなかのレベル。そう考えると、
筆者(豊島)のあん馬や平行棒は、今思い返しても申し訳ない。
平成 2 年入学 豊島 真
平成 5 年~平成 6 年(1993 年~1994 年)
皇太子さまと雅子さまのご成婚に沸いた 1993 年、体操競技の器具の進化や技術の進歩に
伴い、採点規則に E 難度が新設された。この頃から現在まで続く高難度化の流れが明確に
なってくる。トレーニング体育館でも、床のムーンサルト(D 難度)
、つり輪の中水平支持
(D 難度)
、平行棒のライヘルト(E 難度)、C 難度ではあるが華のある鉄棒の離れ技トカチ
ェフ、ギンガーにトライする部員が現れるようになった。
練習は週 5 回で、月~木曜が 16:30~20:00 頃、土曜が 14:00~19:30 頃。土曜日の練
習には、他大選手や OB・OG が多数参加し、トレーニング体育館は大変賑わった。練習後
にも渋谷の飲み屋「素材屋」
、さらにそのまま徹夜カラオケで、親交を深めた。OB の伝手
でピザ無料チケットを大量に確保し、「シェーキーズひんしゅくツアー」と称して、タダで
ピザを食べまくったことも数回。秋の OB 戦、当時の懇親会は渋谷のロシア料理店「ロゴ
スキー」であった。
1993 年の新入部員は男子 1 名・藤山、女子 1 名・田中(東女大)のみであった。グループ
選手権は、豊島、村田、奥村、小池、林、宮崎(昌)のメンバーで団体 9 位通過し、東日
本インカレ団体出場を果たした。
1994 年は多くの新入部員を迎えた。男子は伊集、後藤、田中、塙、山田、吉崎、女子は小
林、篠原、井上(日赤看護大)
、西村(東工大)
。グループ選手権は、奥村、宮崎(洋)、北
村、小池、林、宮崎(昌)のメンバーで臨んだが、団体 11 位(不通過)に終わった。小池
は東日本インカレに個人枠で出場し、全日本インカレへの出場権も獲得した。
1994 年から合宿を検見川総合運動場の体育館と宿泊施設で行うようになった。運動会に、
検見川体育館に体操器具一式の購入申請を出していたのが奇跡的に承認されたのである。
つり輪、鉄棒、跳馬、平行棒、段違い平行棒など当時の最新器具を購入し、不足の器具や
マット類は、2 トントラックをレンタルしてトレーニング体育館から運搬した。1993 年ま
での合宿はトレーニング体育館で行い、駒場キャンパスの片隅にあった同窓会館で宿泊し
ていた。朝食はコンビニ「サンクス」、昼食はトレーニング体育館裏の弁当屋「たけ」
、夕
食は駅向こうの食堂「苗場」が定番で、風呂は駒場寮の浴場を拝借してしのいでいた。
平成 4 年入学 北村 宏久
平成 7 年~平成 8 年(1995 年~1996 年)
平成 7 年
昨年度多くの新入部員を得たのと対照的に、今年の新入部員は男子0、女子が1人とい
う寂しい結果であった。それでもトレ体では熱心に練習が続けられ、男子は団体で東日本
インカレに出場。個人枠で2名が全日本インカレに駒をすすめ、1人が床でムーンサルト
を綺麗に決めたときには応援席は大いに盛り上がった。東大主管の7大戦は、主将の指揮
の下、部員が一丸となって大会を進行するとともに、競技では男子が優勝し(女子は個人
出場のみ)
、成功をおさめた。その際、我々が作成した大会案内地図でマクドナルドを「マ
ック」と書いたところ、西の大学のメンバーに「うわ~気持ち悪い。マクドやろ。」と言わ
れたりもしたが・・・。
平成8年
新入部員1人という昨年度とうってかわって、この年は男子9人が入部。みなそれぞれが
個性的で、トレ体は新しい雰囲気の中、熱気とともに練習が行われた。男子団体はこの年
も東日本インカレに出場し、全日本インカレには個人1名が進んだ。名古屋で行われた七
大戦では惜しくも優勝を逃したが、練習の熱は冷めず、上半身裸で練習をする「裸族(ら
ぞく)
」も多く出現。夏のトレ体のマットは皆の汗を吸い込んでかなり臭かった。この頃の
女子は部員が少なく、平日の練習は1人か2人という日が多かった。それでも男子は嫌な
顔一つせず器具のセッティングから補助、平均台での技のお手本まで進んで引き受けてく
れ、楽しく練習できてありがたかった(筆者は女)
。
錦戸(旧姓 篠原)千晶
平成 9 年~平成 10 年(1997 年~1998 年)
1997 年、前年度に引き続き新入部員数は好調で、新入生 5 名のほか年度途中からの加入
者もあり、日々の練習は一層活気あるものとなった。筋肉を愛する者も多く上半身裸で練
習することが流行りであった。東日本インカレ予選は館山で行われ男子団体 6 位通過、主
将が個人総合 1 位、本選は町田で行われ団体 10 位(不通過)、個人総合 2 位で全日本イン
カレ出場。7 大戦は主管北大のもと男子団体 4 位、主将が個人総合 1 位。十大戦は男子団体
2 位。この頃合宿は毎年東大検見川総合運動場で行われ、運動場の片隅にあるボロい体育館
にトレ体の器具を部員がトラックで運び合宿終了時にまた持ち帰っていた。年の瀬に多く
の部員が練習後のアフターナインに毎日集う定食屋「花駒」が惜しまれつつ閉店した。
1998 年、新入部員に男子 3 名、女子 2 名を迎えた。全体練習日や筋トレなどの日課も特
段なくかなり緩い空気と一方で運動会らしく最低限は引き締めたいとする空気が押し引き
しつつも概ね自主性に任せた練習が営まれた。普段は定時の 16 時 30 分に開始できること
は稀で 18 時頃に人数が揃いはじめ練習が動き出すといった状況であった。女子部は練習時
に人数が揃わず難しい環境にあった。東日本インカレ予選は船橋で行われ男子団体 6 位通
過、本選は越谷で行われ団体 21 位(不通過)
、個人総合で全日本インカレ出場 1 名。7 大戦
は主管九大のもと念願の男子団体総合優勝。十大戦は男子団体 3 位。秋合宿は検見川の呪
縛を断ち横浜国際総合競技場内のピットを備えた施設で行われた。
清水 嘉章
平成 11 年~平成 12 年(1999 年~2000 年)
1999 年、新入部員男子 5 名女子 3 名を迎え、団体戦男子は鈴木淳主将の下、七帝戦、し
もつき杯 (旧報知杯)、三校戦全てで優勝と輝かしい成績を残すことができた。七帝戦は団
体・個人総合 (加藤明)共に連覇を達成し、特に団体戦での 2 位との得点差は約 30 点と、皆
素晴らしい演技を行った。また、加藤は七帝戦、しもつき杯、三校戦全てで個人総合優勝
を飾った。東大主管で行われたしもつき杯 (実行委員長: 植山康裕)では女子も数年振りに団
体出場することができ、5 位という成績を残した。旧報知杯の呼称が「しもつき杯」と決定
されたのもこのときであり、参加校も増え、雰囲気も一新した。全日本インカレは男子個
人出場 2 名 (加藤明、久保木浩功)。上述の戦績が評価され、前年度に引き続き 2 年連続で
運動会より奨励賞を受賞した年でもある。
2000 年には 26 年振りの全日本インカレ団体出場を果たした (出場メンバー: 鈴木淳、野
中秀紀、植山康裕、木原晋作、矢野誠一郎、久保木浩功 (主将))。全日本出場常連校であっ
た関東学院大学の団体割れが主要因とはいえ狭き門であることに変わりはなく、出場メン
バー全員が引き締まった緊張感を持って試合に臨んだ。前日に七帝戦が京都で行われ、連
日の試合となったが、総じて全日本の方がミスも少なく良い演技であった。しかし七帝戦
では、加藤明が個人総合三連覇を達成したものの、団体は東日本インカレで勝利したはず
の北大に優勝を譲ることとなってしまった。とはいえ、しもつき杯では男子団体連覇を達
成することができ、東大主管の三校戦 (実行委員長: 岩竹隆裕)でも男子団体優勝連覇、個人
総合優勝を収める等、前年に続き輝かしい成績を残した。
久保木 浩功
平成 13 年~15 年(2001 年~2003 年)
2001 年は、シドニーオリンピックの後のルール改正が発表された年であった。
大きな改正点としては、技の繰り返しが認められない、全体的な難度の引き下げなどであ
る。
それまでは、前宙→前宙→前宙で、
「1C(B+B)1B」だったのが新ルールでは1A になる、
ロンダート→バク転→バク宙(抱込み)×2で「2B4A」だったのが2A になる。それま
では、基本的な演技構成を組んでいれば技数が足りなくなることはなく、難度もそれなり
に揃っていたのが、ルール改正により難度も技数も揃えるのも非常に厳しいものであった。
(今にして思えば旧ルールが甘かった、と思わざるを得ないが・・・)
2001 年は、経験者が多数入部してきた年でもあった。1998~2000 年入部者で残ったの
が各学年 2 名前後であったところ、経験者だけでも 4 名全体を通して 9 名が入部してきて
くれた。年度の最初の試合であるグループ予選では、昨年 26 年振りの全日本インカレ団体
出場を果たしたチームの主力メンバーが抜けた穴が大きく、全日本インカレの予選である
東日本インカレにも団体で出場することができなかった。また、七帝戦でも 5 位という結
果と粒はそろっているはずなのだが、中々結果を残すことができなかった。しかし、夏を
過ぎてからは 1 年生の成長が目覚ましく、11 月に開催される 15 近くの大学が参加する霜月
杯では、団体 3 位という結果を残すことができた。
2002 年は昨年入ってきた経験者たちの活躍する年、となるはずであったが、各人の事情
により、経験者が多く抜け、戦力的には、非常に厳しいものとなった。
今年こそは、と意気込んだグループ予選では、団体 11 位で後 1 位の差で東日本インカレへ
の団体出場を果たせず、という悔いの残る結果となってしまった。
この年は練習環境が非常に充実したものとなった 1 年であった。先のルール改正で変更さ
れた新型跳馬の購入、検見川体育館で眠っていた器具(ダブルワイヤーの鉄棒、高平均台、
各種マット)の導入などで、一気に器具が充実した。体操は器具の費用が高く、全種目揃
っているだけでも恵まれているのに、新しく良い器具が導入されてさらに練習環境が良く
なった。他のスポーツに比べて危険も多い体操では補助者や安全な器具の存在が非常に大
きい。
器具の購入にあたって援助していただき、普段も技術指導、補助をしてくださる OB の
方々や無理を言って跳馬固定用の体育館の工事をしていただいた総務部にはこの場を借り
て改めてお礼を言いたい。
2003 年、この年は一緒に練習していた神奈川大学の影響を受けて練習前に筋トレ、練習
後にも筋トレ、と筋トレに力を入れた 1 年であった。それまでも筋トレはメニューに入れ
て励んでいたものの、楽しみながら自主的に取り組んでいたのはその後の体操部を見ても
この年のメンバーだったように思う。また、徐々にデジカメが普及してきたことで、練習
でも自分の演技を記録して見直す、ということができるようになってきた。今となっては、
当たり前の光景ではあるが、その当時は普通のことではなかった。その甲斐あってかこれ
までに比べて演技の姿勢に対する意識は高まっていたように思われる。
試合結果としては、この年も経験者が 4 名入ってきたものの、全体的に得意種目が床、帳
場に偏っていたためか、七帝戦は 5 位、霜月杯は 4 位、三校戦は 2 位と全体的に昨年と成
績は変わらなかった。他の大学も同じようにレベルアップしているのだと考えておこう。
大きな変化としては、
「駒場キララ」という女子チームが結成されたことである。メンバー
はまだ少なかったが、駒場キララはその後も社会人の団体として、10 年近く出場を果たし
ている。この年以降、徐々に女子の部員が増え、OG になっても練習を続ける人も多くなっ
てきた。体操が好きだ、という気持ちも大きいのだろうが、駒場キララという居場所の存
在も大きいのだろう。
稲澤 紘一
平成 16 年~平成 17 年(2004 年~2005 年)
2004 年、試合成績は数年ぶりに東日本インカレに団体出場が叶うも、その後は振るわず
であった。この頃、ホームページの活動内容・練習場所・練習日を見やすく整備したとこ
ろ、他大学の体操部部員や、体操部を持たない大学の学生から練習に参加したいという申
し出が多く寄せられた。部員不足で器具の設置もままならないことがあった当時はこうし
た外部からの参加は大きな助けとなり刺激になった。幾年ぶりに女子部員が入部したこと
も新たな活気となった。また、この年アテネオリンピックで体操日本代表が男子団体金メ
ダルを獲得した。これにより器械体操という競技がより広く認知されるようになり、東大
体操部も今後の発展が期待された。
2005 年、オリンピック効果か新歓活動の成果か、女子 4 人を含む 15 人もの新入生が入
部し、部活の活気は格段に増した。最多では OB を含め、練習参加者は 50 人を超えた。対
して、三・四年生の部員数は少なく練習頻度も低いため、統率力に欠ける一年間であった。
前年に続き東日本インカレに団体出場は果たしたものの全日本インカレ出場は叶わなかっ
た。しかし、その後は特に新入生の小川、松本の活躍が目覚ましく、七大戦では男子団体
は京大・北大に敗れたものの 3 位・女子団体は 4 校中 1 位という結果になった。続くしも
つき杯は東大主幹で行われ男子団体 12 校中 4 位・女子団体 5 校中 1 位となり、三校戦では
京大を抑え男女ともに団体優勝した。男子は前年の成績をすべて上回り、女子は団体結成
も歴史的だが連戦連勝の破竹の勢いを見せた。
佐藤 丈太郎
平成 18 年~平成 20 年(2006 年~2008 年)
2006 年 低迷期の主将の頑張り
改革の三年
主将
西岡賢一郎
女子主将 柳田絢加
主務
西川泰弘
新入部員 大木健輔、山本一久、原加保里、山路茜
西岡に主将交代後、昨年に続き、トレタイには強制練習日がなかったが、
「駒場生は週2
回練習に来る」ことが規則になった。
春になると新入生が入部。大学始めの男子である大木と山本は、後々の実力の伸びが素
晴らしく、振り返ると“大粒”の新入部員の年だったと言える。特に大木は、早くも 1 年
後から団体に貢献し、体操部の団体が伸びていく時期に重なるように、自身の実力も大き
く向上させることになる。山本も4年時にはチームに不可欠な存在となった。女子の新入
部員も真面目で、1 年生はそれぞれ真剣に練習に取り組んだ。トレタイのセットカットは、
そのためにずいぶん楽になった。
練習後は駒場の「苗場」
、
「山手」
、駒下を入っていったところにある中華料理屋、渋谷の
「おはち」などでご飯を食べた。2 年佐藤(達)の家は池ノ上にあり、多くの部員が訪れ、
たむろした。代変り後のミーティングも、佐藤家=「てし家」で行われた。
春のグループ予選は善行で行われ、男子団体は残念ながら通過できず、個人で小川、佐
藤、女子の松本が通過した。
東日本インカレは埼玉県北本市で行われた。練習時から怒涛の追い込みを行っていた小
川が通過、全日本インカレへの個人初出場を決めた。その後、女子の団体通過チームの個
人枠返上により、松本も個人通過、全日本インカレ初出場を決めた。全日本インカレは町
田市で行われた。
七大戦は大阪大学が主幹、大阪で行われた。男子団体は 6 位と低迷した。女子団体は二
連覇、個人では小川が2位、女子松本が連覇を遂げた。
西岡主将は年中無休で練習に打ち込んだ。下からは“威厳ある恐い”先輩だった。補強
等の全体実施が生まれたのはこの頃である。西岡さんのこの 1 年の主将としての真摯な姿
勢が、後続世代が協力して東大体操部を支え、発展させていく礎となった。柳田女子主将
は主将を支え、部員たちにとっても面倒見の良い先輩だった。
しもつき杯の男子団体は、佐藤(丈)、西川、小川、森本、個人で西岡が出場。男子団体は
実力のあるメンバーで固まって試合に臨むことができ、団体3位入賞を果たした。女子団
体も 3 位であった。
東大主幹の三校戦がトレタイで行われた。その後、主将が西岡から小川に交代。主将と
しての 1 年の記録、注意点などの諸資料が小川に引き継がれた。女子主将は松本に引き継
がれた。
代替わり後、幹部学年がミーティングを繰り返し、徐々に部の体制が整えられていくこ
とになる。練習参加が部員としての義務であることを確認したため、女子中心に数名の退
部者が出た。
合宿は新横浜から滋賀県の栗東体育館に変更された。全種目でピットが利用できるよう
になり、スプリングのフロアも使用できたため、部員の実力向上に大きく寄与することと
なった(それまでは、東日本インカレ、全日本インカレで、選手は試合会場で初めてのス
プリングの床を蹴ることになった)
。
「男子は、まずグループ通過が目標」と小川が明言し、春のグループ予選に向かうことに
なる。
2007 年 改革の1年
主将
小川和久
女子主将 松本真歩
主務
森本明
新入部員 鈴木真志、甲斐亘、滝川寛之、茂木隼、西塚あすか
前年度でも述べている通り、年末年始から幹部学年はミーティングを重ねていた。部の
基本的な方針を明確にし、体制を整えた。練習時間、器具の設置、試合の応援、合宿参加、
幽霊部員になっている人の対処等、一つ一つ議論を詰めていった。
「絶対通過!」で臨んだグループ予選。男子団体は西岡、西川、小川、榊原、佐藤、大
木。5位で見事に通過。西川の復活と、大学始めの2年大木の活躍は、通過に大きく貢献
した。女子は松本が通過した。個人は小川が7位、女子松本が跳馬で7位に入賞した。
東日本インカレは青森で行われた。小川が順当に全日本インカレ出場を決めた。前日の
夜の男子ミーティングでは、目標を「来年の東日本インカレで慶應に勝つ、そして団体で
全日本インカレにいく」ことに決定。お互いの演技・練習の駄目出しを行った。
6月のミーティングでは、小川が「七大戦制覇のためのマニュアル」、それにいたるまで
の部のトーリーを描いた小説などを配布。部全体で七大優勝という目標を共有した。この
場で、
「男子は月、木は強制練習を実施する」ことが決定した。その後しばらくして強制練
習日は“みんくる練”と呼ばれることになる。
夏休みの練習、栗東での夏合宿は、七大優勝に向けてとても気合いの入ったものになっ
た。
全日本インカレは北九州で行われ、小川が出場。
優勝を目指した七大戦は、男子団体3位、個人では小川が優勝、西川が5位、女子団体
三連覇、女子松本が個人三連覇となった。男子団体については、床、あん馬を制し、個人
優勝した小川の総合力、鉄棒を制した西川、大木の類まれな成長ぶり、そして大学始めの
佐藤、榊原、西岡の成長など、おおいに期待できる要素があったのだが、それでも北大、
阪大の七大戦に懸ける情熱、特別要求と難度への貪欲さ、演技実施の強さには凄まじいも
のがあった。
新入部員・鈴木は練習にも極めて真面目に取り組む青年だったが、練習後にファブリー
ズを自分にかけ、デートに向かう青年という一面もあった。滝川は入部当初とても太って
いたが、ダイエットに成功した。茂木は大学始めのマイペースだが、後にレギュラーを勝
ち取るなかなか恐ろしい男。甲斐も体操部を代表する秀才かつ経験者として、有望な新入
部員だった。西塚も、
「目標は松本さん」という言葉のもと、真剣に練習に取り組んでいた。
秋になると部も安定してくるようになり、さらに、個々人が技練に集中して取り組んで
いた。
小川が「SASUKE」に出て、森本が深夜の教育テレビに出て、松本はフジテレビの
ニュースで特集された。賑やかな一年であった。
三校戦の後、主将が小川から大木に交代、女子主将は山路に引き継いだ。
小川と新幹部で、駒場で引継ぎのミーティングを行った。
東大体操部は、この一年を通じて体育会の部活らしくなっていき、チームとして強くな
っていった。再び春のグループ、東日本インカレに向かっていくことになる。
2008 年
体操部飛躍の年
主将
大木健輔
女子主将
山路茜
主務
山本一久
新入部員
那珂将人、権賢人、ビートル・バイジ・ハダット、
(孫登昊)、
(松本陸)
、
(中桐成美)
、
(ヴァクホヴァ・ミラ)
大木主将のもと、東日本グループ予選は余裕の団体通過。女子は松本が個人通過。
東日本インカレ男子団体は西川、小川、森本、大木、鈴木、甲斐で出場。ここ何年かで
は随一のベストメンバーといえる、隙のない布陣。公式戦団体330点台をマークした。
2年の鈴木、甲斐は安定感のある演技を実施。全日本インカレ出場を狙う西川、大木は気
迫の演技を実施した。西川は、4種目目まで順調だったが、5種目目の跳馬で手がすべっ
てしまうという痛恨のミス、乱れた塚原とびとなってしまった。練習時から気迫の追い込
みをかけていた大学始めの大木は、床で小川を上回り、あん馬を通し、最後まで全種目を
耐え抜き、しっかりとした演技を実施した。しかし、大木は残念ながら個人通過12位に
ぎりぎり入れず、13位でリザーブ1位という苦い結果となってしまった。小川は3年連
続で全日本インカレへの出場権を獲得した。トレタイで練習していた亜細亜大学の島田も
全日本インカレへの出場権を獲得した。
その後の打ち上げの二次会では、カラオケの途中、ゆず「栄光の架け橋」がかかると、
大木は、
「こんなことをしてる場合ではない!」と言い残し、一人部屋を飛び出して行った。
新入部員の1年生は、春から真面目に練習に取り組んでいた。特に高校始めの那珂の基
礎力の高さ、成長ぶりは目覚ましいものがあり、夏の七大戦を迎える頃には団体メンバー
の主力となっていた。権は信頼される人柄を持った部員として、後に主務として活躍、選
手としても引退時には大きく成長を遂げた。ビートルも、後に怪我に悩まされながらも、
練習に熱心に取り組み続けた。
この年には、女子も週二回月木で強制練習を行うようになり、みんくる練は男女全部員
で実施されることになった。
ジブリ映画『崖の上のポニョ』が流行っており、一部の部員は「ポニョポニョ」歌って
いた。夏合宿では「OBの飯田さんの娘さんがかわいい」とはしゃいでいた。小川が持ち
込んだ、フジテレビの古いドラマ「一つ屋根の下」の真似が流行り、みんなでプリンを食
っていた。
当時、赤羽のNTC(ナショナルトレーニングセンター)が開放されており、一部部員
はピット・スプリングの床などを求めて通い詰めることになった。春の東日本インカレ前
は大木、小川が通い、夏の全日本インカレまでは小川が平日の午前中から新技開発のため
にひたすら通い、秋のしもつき杯の前は佐藤、中村、榊原らが団体戦に備えて通った。合
宿もNTCで行われ、充実した設備のもとで技開発に取り組めることとなった。夏合宿は
ウィークリーマンションを借りて、合宿期間中は部員でマンションの部屋に住んだ。しか
し、
「これだったら家に帰ればいいじゃん」という意見が出たため、次回からは宿をとるこ
とになった。
練習後は、
「苗場」や、駒場のマックのそばのうどん屋(半地下のところ)などでご飯を
食べ、練習の話、プライベートの話を賑やかにしていた。
クリステル(滝川)のマッサージはとても素晴らしく、部員に重宝した。選手としても
成長していた。
北京五輪では内村航平が個人総合銀メダルを獲得、一躍体操に注目が集まった。大阪体
育大学OBの福田がトレタイに練習に来るようになったのはこの頃である。
夏に、土曜日の練習について現役とOBの練習時間を分けることを現役側が提案、現役
部員の数も増え、トレタイの混雑状況を考えてのことだったが、様々な議論・衝突を呼ぶ
こととなった。誤解を招かない意思疎通の方法を確認すべきであった。結局、一時的に練
習時間が分けられることになった。2012年現在、月1で合同練習日を設け、基本的に
は、土曜の現役とOBの練習時間は分かれている。
全日本インカレは小川が三度目の出場、ムーンサルト、伸身カサマツ等の新技を多く盛
り込んだ演技を実施。最後のインカレを無事に締めくくった。
夏の七大戦前のある日、一年生が練習のない金曜日にトレタイに行くと、4年佐藤(達)
が一人あん馬を通していた。熱意ある姿は後輩の記憶に残った。
七大戦は仙台で行われ、男子団体は小川、佐藤、大木、鈴木、甲斐、那珂で3位、個人
で小川が2位、大木が5位。女子団体は2位、松本は4年連続の個人総合1位。男子団体
は、最終種目のあん馬で全員が落下なしという快挙。しかし、この年も優勝には届かず、
全日本インカレ団体出場の夢とともに、後続世代に委ねることになった。
しもつき杯は小川、佐藤、榊原、中村の4年で男子団体戦出場、個人は大木。最後に同
学年で団体を組んだ4年の気迫は素晴らしく、良い試合だった。男子団体5位、小川が個
人4位、跳馬1位、大木が個人6位。女子団体は優勝、松本が個人3位、跳馬1位。夜の
二次会は4年を労うために、珍しく東大のみで行われた。
三校戦は真冬の横浜国立大学で行われた。選手は手をあげる直前までストーブの前にい
るというひどい状態だった。
主将は大木から鈴木にバトンが渡された。女子主将は西塚が引き継いだ。
全体的に部が盛り上がった1年であり、各々の部員が目標をもって熱心に練習に取り組
んでいた。部の体制も男女ともに整ってきて、ようやく体操部にも日が昇ってきたことを
感じられた。
団体全日本インカレ出場については、慶應大学のチーム得点が大きく向上したこと(当
時の状況では、慶應大学に勝たないと全日本インカレには行けなかった。2012 年現在は、
一つ下の北翔大学が基準になる)があり、通過は難しい、というのが正直なところだった。
本文章を書いている 2012 年現在、東大体操部にも強い選手がそろってきており、期待が
かかるところである。
平成 17 年度入学 小川 和久
平成 21 年(2010 年)
2009 年平成 21 年 七大戦男子団体 3 位、女子団体 2 位 新入生は 5 人ほど 主将鈴木のも
と「楽しく厳しく」練習することが目指されていた。4 年の大木は残念ながら全日本への出
場を逃したが、彼にとって最後の七大で優勝したい強い思いを部員を集めてミーティング
という形で、皆に共有した。これにより、チームとしての結束力が高まった。しかし、七
大前には、団体メンバー内の怪我や、学業との兼ね合いにより練習が思うように行かない
場面もあり、主将鈴木からもう一度団体を考えなおすよう促された。試合では、全力を出
し切ったものの、3 位に終わる。やはり団体で優勝するためには、個人が全体をまとめよう
とするだけでは足りず、個々のメンバーが自らチームのためにまとまっていく必要がある
ということを学んだ。
平成 20 年度入学 那珂 将人
平成 22 年~平成 24 年(2010 年~2012 年)
平成 22 年。前年に引き続き、男女とも多くの新入生に恵まれトレ体の活気はますます高
まる。この年特に注目に値する戦績は、主将那珂の全日本インカレ出場である。那珂の練
習は普段から誰よりもストイックであったが、全日本の予選である東日本インカレを見据
えての練習は凄まじかった。
「100 回練習すれば 1 回目より上手くなる」という彼の信念は
練習中の彼の背中が何よりも雄弁に物語っていた。しかも、ただがむしゃらに、というわ
けではない。インカレ出場に足る目標点数を定め、そのために必要な演技構成を練り、採
点規則を熟読し、上位選手の演技をビデオで分析し動きのイメージを作る。その上で練習
に臨むのだから、練習の質は格段に上がる。そして試合本番は、極限の集中力でほとんど
ノーミスの演技。見事全日本インカレ出場を成し遂げた。上位の選手と比べ那珂の演技は
技の難易度こそ高くはないものの、美しい。審判に減点させる隙を見せない、体操の一つ
の型の完成形であった。
平成 23 年。3 月 11 日、世界史上類を見ない巨大な地震が東日本一帯を襲う。東日本大震
災である。特に東北地方沿岸部の津波の被害は甚大であった。首都圏は建造物の倒壊こそ
稀だったものの、交通機関は麻痺し日常生活に戻るには数日を要した。震災の影響でキャ
ンパス内の体育施設は数週間使用禁止となり、練習できない日が続いた。とはいえ部員全
員が無事で、老朽化の著しいトレ体が倒壊しなかったことだけでも幸いだ(トレ体のボロ
さはお墨付きである)
。4月には節電のため時間が制限されるも練習を再開し、頼もしい新
入生も入部してくれた。震災を始めとしてこの年は多くの問題が噴出したが、那珂が二年
連続、秀島朋樹が初の全日本インカレ出場を決めた(震災によりグループ予選、東日本イ
ンカレは統合され「二部校予選」として開催された)。
平成 24 年。春、秀島が二年連続の全日本インカレ個人出場を決める。夏、悲願の七帝戦
男女団体優勝を果たす。この年から幹部就任が二年生の冬から、三年生の夏に変わる。新
しい東大体操部は、新しい目標に向け動き出しているようだ。
平成 21 年度入学 遠藤 徹
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