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3. 家塾から尚絅女学会、尚絅女学校へ

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3. 家塾から尚絅女学会、尚絅女学校へ
3. 家塾から尚絅女学会、尚絅女学校へ
3.1 家塾の開始とバイブル・ウーマン
1890(明 23)年 9 月、米国北部バプテスト教会の女性外国
伝道協会(WBFMSW)から派遣され、仙台を拠点に活動して
いた女性宣教師ファイフ、フィリップス、ミードは五城館の隣
家に住んでいた。彼女たちはそこに少女たちを同居させ、教育
と生活訓練を行った。これが後に「尚絅女学会」に発展する家
塾(Christian Girls School Home)の始まりとされている。
しかし、手狭になったため翌 1891(明 23)年 2 月に、彼女
たちは五城館のあった場所から新坂通・北二番町突き当りの旧
山田邸(現知事公館敷地内)を借り受けて転居した。女性宣教
師たちは、少女たちと共同生活をしながら女子教育を施し、自
分たちの宣教活動を補助する日本人の女性伝道師、いわゆるバ
イブル・ウーマン(Bible Woman)の養成に取り組んだ。
バイブル・ウーマン
バイブル・ウーマンとは、女性宣教師の助手として伝道活動に協力
する日本人女性のことである。女性宣教師が訪問伝道をする際にバイ
ブル・ウーマンを伴うことは、まだ流暢とは言えない宣教師の日本語
力を補うという点においても、土地勘のない『外国の町』を歩く宣教
師のナビゲーターの役目を果たすという点においても、そして外国人
の戸別訪問を突然受ける日本人に、安心感を与えるという点でも、大
変有効であった。特に婦人や子どもたちへの伝道においては、バイブ
ル・ウーマンを活用することは有益であり、成果を上げることができ
たようである。
小林孝男
『主のみ旨のみが実現
する』尚絅総研出版会
2015 年
バイブル・ウーマン養成が軌道に乗りつつあったにもかかわ
らず 1889(明 22)年にブラウンが、1891(明 24)年にはフ
ァイフとフィリップスも仙台を離れ、残されたのはミードだけ
だった。誕生し、軌道に乗りかけた家塾は今や風前の灯となっ
た。残されたミードはどんな思いで先輩宣教師たちを見送った
のだろうか。
3.2 尚絅女学会の創設
L.ミード(左)と A.S.ブゼル(右)
一人で家塾の運営を任されたミードは、翌年再起に出る。今
や消えそうになった家塾を「尚絅女学会」と命名し、普通科
(Academy Course)と聖書科(Bible Traing Course)からなる私
塾(学校)を 1892 年(明治 25 年)8 月に開設する。
Mead, Lavinia
(1860 ‒ 1941)
「尚絅女学会」
1892 年創立
家塾から尚絅女学会、尚絅女学校へ
尚絅女学会の目ざすものは、二科の名称が示している通り、
バイブル・ウーマン養成のための教育(キリスト教教育)と不
遇な状況に置かれた日本人女児たちに対する教育(女子教育)
であった。それは遠い異国から船でやってきて言葉も文化も全
く違う東北の地で、平等とか権利といったことを全くと言って
いいほど知らない幼く若い女子たちに対するキリストの愛の実
践だった。尚絅女学会創立にあたっては日本人の相談者として
久保寺豊太郎、下甲子郎がいた。11 月には A.S.ブゼルがこれ
に加わった。ミードとブゼルの二人三脚による活躍がここから
始まる。尚絅学院はこの 1892(明 25)年を創立年としている。
翌 1893(明 26)年、尚絅女学会は中島丁(現在の尚絅学院
中学・高校の所在地、広瀬町)に移転して現在に至っている。
エラ・オー・パトリック(Ella O. Patrick)
1896(明 29)年にエラ・オー・パトリック・ホームが竣工した。
エラは 1846 年 2 月 28 日にニューヨーク州に生まれ、父は厳格にし
て信念深く、母は慈愛に満ちた人であった。それぞれの墓碑には「神
の恩寵に れた僕」「心の清き者は幸福なるかな、その人は神を見る
事を得る」と記されている。こうした両親の傍にあって育った彼女が
常に神を信じ、人を愛する美徳に富む一生を過ごしたのは単なる偶然
ではなかった。2 歳の時に重い熱病に罹り、腹部に腫れ物が生じ、一
生治らなかった。この腫れ物は脊髄の近くに生じ、苦痛をともない歩
行困難となった。22 歳の時イリノイ州に移住。幾多の困難を排し、
勉学に努め、優秀な成績であった。エラは教会の働き、日曜学校の教
授、世界伝道事業等に対して多大な関心を抱き、そのために出来る努
力を惜しまなかった。シカゴの WBFMSW の書記となり、日本の女
子教育に多大な同情を抱くに至った。1892(明 25)年 11 月 12 日に
46 才で生涯を閉じるが、直前まで青年のため、教会のため、伝道協
会のため、世に正義が望むこと、自らを神に委ねる祈りを捧げた。ブ
ゼルが日本に上陸したのは同年同月の 14 日であった。エラが普通の
健康に恵まれていたなら、恐らく外国伝道に身を投じ、日本に来たか
も知れない。ブゼルがその身代わりとなったのだという人もいた。エ
ラの父君は若くして死した愛娘の志を慰めようとして、新校舎建築の
為に多額の金額を寄付した。故にこの新校舎は、「エラ・オー・パト
リック・ホーム」と名付けられた。
校名について
久保寺氏は和漢数の教授を受け持つと同時に、公務に従事してい
た。彼が「論語」にある「克己復禮」を提案。しかしミードは肥満で
あったので「フクレ」は語呂が面白くないというので却下。再考の結
果「中庸」から「衣錦尚絅」の尚絅が提案され決定。質素な生活に内
容豊かな精神を盛る事を以って学校の主義とした。
当時、学校にキリスト教関係の名前を付けることは許されておら
ず、地名や建学の思想を表す漢文等から取るより他なかった。ブゼル
は校名の由来を聞き、なるほど表は質素だけれども、内に錦を飾って
こそ誠に奥ゆかしい日本婦人の品性が完成される所以であるといわ
れ、ペテロ(ペトロ)の手紙 I 第 3 章 3∼4 節の意味をもって学校の
精神とすると主張した。
Patrick, Ella O.
(1846.2.28 ‒ 1892.
11.12)
熊本市の学校法人
「尚絅学園尚絅大学」
は 1888(明 21)年、
「濟々黌附属女学校」
として開校。
1891(明 24)年 10 月、
「尚絅女学校」と改称
されたが、両者間に特
別の関係はなかった。
3.3 尚絅女学校の設立
1899(明 32)年、私塾であった尚絅女学会は、尚絅女学校
の設立認可願を提出、11 月 24 日、宮城県知事より私立学校令
に基づく設立認可を受けた。学校創設者としてミードとブゼル
の両名が署名し、初代校長にはブゼルが就任した。以来、尚絅
学院は 11 月 24 日を創立記念日としている。
尚絅女学校
1899(明 32)年
11 月 24 日設立認可
3.4 国家主義的教育とキリスト教教育の対立
1899(明 32)年に「私立尚絅女学校」が認可されるときに、
尚絅は厳しい選択を迫られた。明治初期には国の欧化主義を反
映してキリスト教については寛容であったが、天皇制の下での
教育勅語に基づく国家主義的教育とキリスト教教育の対立が顕
在化してきた。そのために国は教育と宗教の分離政策を取った。
そして、1899(明 32)年 8 月 3 日、「文部省訓令第十二号」
が発令された。
文部省訓令第十二号 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件 一般ノ教育ヲシテ宗教外に特立セシムルハ学政上最必
要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル
学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教
上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ 明治3322年88月33日 これにより尚絅女学校は、創立時から厳しい三つの選択肢に
直面した。
1)宗教教育や聖書の教科を捨て、キリスト教の理念を放棄し、文部
省の認可と上級学校への進学資格付与権を取得する。
2)廃校にする。
3)聖書の教科も礼拝も続け、キリスト教的伝統を維持するが、「各
種学校」としてとどまる。
尚絅女学校は第3の最も困難な道を選択した。
3.5 ミードの離仙
尚絅女学会を立ち上げブゼルと二人三脚で歩んできたミード
は、1902(明35)年に仙台を離れる。その間の詳しい事情に
ついては記録がない。
ミードはその後、山口県の長府と下関、大阪で宣教師として
働いた。1908(明41)年、ミードによって大阪市に「バプテ
スト女子神学校」が創設され、現在もその施設であった「基督
教ミード社会舘」が福祉活動を続けている。ミードは1926(大
15)年7月に帰国、1941(昭16)年10月9日に天に召された。
関東学院、明治学院、
青山学院などもこの道
を選択した。
他方、麻布中学校は、
第1の道を選択した。
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