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第88号(中)

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第88号(中)
けるという特殊な店だった。
たまたま、娘の友人の方がそこで展
ターネットでいいホームドクターを探
た が、 な か な か 効 果 な く、 娘 が イ ン
年の夏ごろから貧血で病院に通ってい
先日久々に娘二人と外食をした。昨
いてきたという思いでいっぱいだった。
に、再生の力は廻りの人のおかげで湧
一時はもう駄目かと思う程だったの
たちや孫も、喜んでくれたのだった。
そして勿論ひたすら介護してくれた娘
ベッドより放たれた喜びは大きい。
ゼリーあえ、コーンスープが出た。娘
ずきの梅干し焼きや、卵やき、野菜の
私は魚のコースをとり、その日はす
聞にも出て、開店前に並ぶほどになっ
を背景にしているという記事が最近新
小さな展覧会
覧会をするというので、私も食事方々
出かけたのである。豊島区のこの辺り
は、 昭 和 の 初 め 頃 か ら ア ト リ エ 村 が
してくれたお陰で、体調が少しずつよ
外食に行ったお店は、家から近くて
内 野 潤 子
処々にあって、文化的な雰囲気が漂っ
く な り、 先 生 が 血 液 検 査 の 結 果、
「ど
和食のランチがおいしい南天カフェと
たちは肉コースで、豚の味噌焼き、サ
(歌人・エッセイスト)
ていた。詩人小熊秀雄がそれを池袋モ
ンパルナスと名づけたのも今に語りつ
がれている。後に名をなす画家もその
熊谷守一さんも私宅から五分位の近
アトリエに何人も住んでいた。
くに住んでいた。今は区立の美術館と
こも悪くない、貧血も平常になってい
ラダなどだった。お互いに分け合って
娘 の 友 人 の 絵 は、「 大 女 」 の 主 題 で
いろいろ味わった。
たらしい。
さてその南天カフェはそれらのこと
るから、歩きなさい。歩くのがリハビ
いう所で、それは一軒の小さな仕舞屋
なっている。
リです」と言って下さったので、私も
の家である。
室があり、絵などの小さな展覧会も開
カウンター七席と、奥に八畳位の和
全 部 歩 い て ゆ け な く く て も、 近 く の
スーパーに娘の車で行き店内をカート
を押して歩けるようになった。
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ふわの裸女の下に、小さな家がいっぱ
大きな乳房の絵から、雲のようにふわ
ちも、穏やかなしっかりした腕のいい
工さんで、その下に集まる職人さんた
十一時半に開く店にあわせて、少し
午後は又突風雷大雨ということだった。
が、すぐ入れてくれて、ランチの前に
店の前に水を打っている処だった
早めに三人で出かけた。
先ずゆっくりとTさんの版画を眺める
の地震の直後、近くに住むT
人ばかりだった。
さんがすぐに飛んできて下さってどん
3・
い見えるという珍しい絵で、ふわふわ
なにか心丈夫だったことも忘れられな
の女体の柔らかさに、母性愛を感じる
それは買いたい人が出てきたという。
ような気がした。
が又今どき珍しい古風な女らしい人
ドド、ドードー」の歌のようだった。
風 に な び く 森 の 木 々 の 版 画 で、「 ド ッ
宮沢賢治の「風の又三郎」の作品は
ことができた。
い。
で、このお二人を見ると、いつもいい
娘の友人であるTさんの妻F子さん
久しく展覧会など行かなかった私に
は、只珍しい生の絵のもつ迫力に心が
揺れた。
この小さな展覧会でぜひ見たい版画
目の前に走りさる馬を、びっくりし
るようだった。
林檎も吹きとばせ」という風がきこえ
「 甘 い リ ン ゴ も 吹 き 飛 ば せ、 す っ ぱ い
私がベッドぐらしの時も、季節の花
ご夫婦と思っていた。
やおいしいものを持ってきて下さり、
この方も娘の友人の夫で、武蔵美大
を書く知人を思い出した。
出身の大工さん、つまり私方の出入り
ながらもうれしそうな女の子と男の子
いつも励まして下さった。
南天カフェのことは新聞でご覧に
の大工さんである。今迄にも銀座など
の一枚もかわいらしかった。不意の出
で個展を開いていらしたが、私は遠く
来ごとに驚く私方の三歳の凛がこんな
う。昔の作品とのこと。絵葉書も求め
なっていたので、私が小さな展覧会の
てきた。西瓜を冷やす井戸端の子供た
ことをお話しすると、すぐに会場を予
六月二十一日から七日間開かれると
ち、それからハーモニカの版画は、懐
てゆけない。大工のTさんの版画の絵
いう。私は下の娘の車で連れていって
かしい清らかな音色が漂うような作品
葉書や、宮沢賢治の作品を絵本のよう
つつましくも静かな優しいたたずまい
くれることになり六月二十四日に又二
であった。
目 を す る の で、 思 わ ず 微 笑 し て し ま
がいいといつも眺めていたのだった。
人の娘とランチ方々見にゆくことがき
約してくださった。
Tさんが南天カフェで小さな展覧会
まった。
にしたものは知っていたが、その絵の
をして下されば、私も見にゆけるのに
その日の天気予報は、午前は曇りで
と切に願ったのだった。
Tさんは責任感の強い本当にいい大
17
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平 凡 社 の 百 科 事 典 に よ る と、 正 し く
奏 は、 プ ロ の バ イ オ リ ニ ス ト や パ ー
庭内を各国別に入場行進してくる。演
ミシガンの「赤杉小学校」
アメリカのミシガン州の州都であ
は、エンピツビャクシンといって、ヒ
(詩 人)
宮 地 智 子
る、ランシング市に近いイーストラン
カッショニストが受け持っている。
は、冬から短い春を一気に飛び越え、
ティバルのあった五月末日のその日
の 民 謡 が 紹 介 さ れ る ら し く、 こ の 年
に分けて着て登場。毎年、どこかの国
五・三 の 三 歳 の 祝 着 を、 着 物 と 長 襦 袢
わ が 孫 達 は、 一 揃 え し か な い 七・
ノキ科であるそうだ。
徴は、アメリカ以外の国から来ている
白い夏雲の湧き上がるカッと日の照り
ある年のインターナショナルフェス
シ ン グ 市 内 に あ る「 赤 杉 小 学 校 」
(英
子供たちを多く受け入れていることで
語では、
「レッドシダー小学校」
)の特
あ り、 年 に 一 度 イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル
洋人のボランティアの女性がインドの
は、韓国の「アリラン」が歌われ、西
日本から来ている数名の子供たち
民族衣装を着てインドの踊りを踊り、
つける放課後のことであった。
アフリカのどこかの国の打楽器はプロ
フェスティバルを開いて世界中の文化
は、親がミシガン州立大学で研究生活
を紹介している。ここ数年、私は、娘
一家の住んでいる彼の地に三月から五
演奏された。
の演奏家によって力強くリズミカルに
コ・アメリカのいくつかの国々、デン
は、ひとつの独立国として台湾が紹介
を 送 っ て い る。 イ ン ド・ イ ン ド ネ シ
マーク……など、民族衣装を身に纏っ
ア・韓国・台湾・ジャマイカ・メキシ
名前の示す通り、丈高く荒々しいばか
た、色彩豊かな可愛らしい一団が、オ
二人の孫たちの通うその小学校は、
りに生い繁り、聳え立った赤杉(レッ
さ れ た こ と で あ る。( 中 国 政 府 も こ こ
月にかけて滞在することになっている。
ド シ ダ ー) が、 そ の 回 り を 囲 ん で い
リンピックの入場式よろしく、広い校
国の紹介の仕方で印象に残ったの
る。この“赤杉”とは通称であって、
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したチーズを絡めたものが孫たちの好
キンチーズといって、マカロニに溶か
くつかのメニューのうち、ピザやマッ
さて、小学校には給食があって、い
えることのできない感情であるのは致
るのは好ましくない、という心情は抑
しい。この地域に外国人が集まってく
にせよ、という運動を起こしているら
い現地の人たちが、この小学校を廃校
が広がり、外国人が増えるのを喜ばな
しく私のことを筋金入りの右翼だと
国歌の話に及んだ際、相手が非難がま
きっかけだったか、ある友人と国旗、
にショックなできごとがあった。何の
た、違った匂いに変換されている。
使っているオーデコロンの匂いもま
お嬢さんの運転する車に私も乗って、
ベビーシッターを兼ねて来ている若い
日本から住み込みで英語の勉強と、
痺したまま現在に至るまで治らない。
と引き摺って日本に帰っても嗅覚が麻
も年中行事となった。昨年はぐずぐず
に、酷い風邪を引き寝込んでしまうの
にとって、厳しい冬が突然ぶり返す度
ンに滞在するのが年中行事となった私
春がやってくるとアメリカのミシガ
している。日の丸のあの赤い色は戦争
ととして「君が代」を国歌として認識
年生まれの私は子供の頃から当然のこ
旗が掲揚されているのに。昭和二十二
識されていたしオリンピックでも同じ
あって、日の丸は日本の国旗として認
学校の廊下の壁には各国の旗が並べて
言ったことである。ミシガンの赤杉小
までは文句を言って来ないらしい。
)
物である。けれど、せめて私が居る間
し方のないことなのかも知れない。
孫たちを学校まで送り届けると、担任
念のため検査したところ脳にも異常は
ところで、日本に帰って、これ以上
だ け で も、 小 さ な 俵 型 の お に ぎ り の
の、ミズ・ダンがやって来て「あなた
で流した血の色であると言って国旗と
入ったおばあちゃん特製のお弁当を持
はいつまでこちらにいらっしゃいます
ない。
また、英語の習熟度によって、クラ
いて嗅覚にダメージを与えたのだろ
いので辟易していたところに風邪をひ
ゴーの香りなど甘ったるいものが多
プーなどすべての香りが強烈で、マン
ア メ リ カ で は 石 鹸、 洗 剤、 シ ャ ン
よって考え方を変換されたのじゃない
と同様、その人もまた、何かの刺激に
が、本来の匂いを感じられなくなった
の人は、公立高校の教師である。
にも誤りがあり認めないと主張するそ
し て 認 め な い し、「 君 が 代 」 は 文 法 的
参させることにした。
か?」 と 訊 ね ら れ た。 私 が こ ち ら を
スを分けるため、新しく日本から入っ
うか。今では、あのコーヒーの香りが
去った後は給食を再開させる都合があ
てきた生徒には、校長先生と学年主任
以前に嗅いだ魅惑的な匂いとは違った
るからだ。
とが両親と面接して丁寧に対応して下
だろうか。
強烈な刺激によって麻痺した嗅覚
さる。
匂いに変換されて感じられる。いつも
ところが、この、赤杉小学校の評判
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ひろ
作家兼画家がおりますが、司書房さん
も司修さんと同じく群馬県のご出身で
すか」と訊いてみた。するとその女性
は「 主 人 は 北 海 道 で す 」 と 応 え る。
沿いに司書房(練馬区北町)という古
後、祖父が北海道の札幌に渡った。私
徳 川 政 権 の 崩 壊 と 共 に 没 落 し、 そ の
人縁、仏縁
くに
本屋が頑張っている。以前は池袋に店
の生地の深川を起点として、留萌線の
むら
「 北 海 道 の ど こ で す か 」 と 尋 ね る と、
古本屋が次々と姿を消している。私
を構えていたというが、今の場所にい
し
志 村 有 弘
「沼田です」と言う。
が利用する駅近くにあった古本屋は店
つから店を開いたものかはわからな
(文芸評論家)
驚 い た。
「 私 は、 北 海 道 の 深 川 の 生
まれです」と話すと、今度はご婦人の
方 が 驚 き、 店 の 中 に 声 を 掛 け る。「 お
主人が奥から出てきた。主人は沼田
客さん、深川の生まれですって!」
高校の出身で、上京し、大学を出たあ
を閉じてファーストフード店に貸して
私の祖先は白石藩に仕えていたが、
と古本業界に入ったのだという。
いる。もう二軒あった古本屋はとうの
年、近くに住み、司書房に時々は立ち
駅は順に北一己・秩父別・北秩父別・
寄っていたのに、親しく言葉を交わす
石狩沼田(沼田)であったと思う。長
昨年、司書房の近くに用事があり、
こともなかった。私は古本屋さんとは
い。私は古書即売店の「和洋会」の目
久 し ぶ り に 立 ち 寄 っ て み た。
『日本史
親しくならないようにしてきた。親し
昔に店仕舞いをしてしまった。隣の駅
年表』
・
『評傳眞山青果』などの本を購
録で店の名前を知っていた。
なったのだろうが、古本屋の消滅は文
入した。代金を払うとき、店番の女性
近くにあった三軒の古本屋もずっと以
化 の 破 綻 の 一 つ を 示 す も の、 と 私 は
くなると店頭の廉価本をなんとなく買
前 に な く な っ た。 人 が 本 を 読 ま な く
思っている。
に「司修(つかさおさむ)さんという
それでも私が住む地域で、川越街道
20
会でたまたま隣に座った須知徳平(吉
そういえば、昔、福田清人家の新年
また『金子みすゞと清水澄子』と題す
い と 思 い、『 さ ゝ や き 』 を 再 編 集 し、
うちにもう一度澄子を世に送り出した
同題の文庫判を購入した。作品を読む
評論家・故人)は木本書店(板橋駅近
川英治賞受賞作家)が、私が卒業した
た。
く)へ行くと、店頭の百円均一の中の
る本を上梓した。
いにくくなるからだ。保昌正夫(文芸
本を買い、コーヒーをご馳走になって
高等学校の教員をしていたことを知っ
司書房主(中野照司)と話をしなが
た。 こ れ も 奇 遇 と い う べ き 出 会 い で
を第二の金子みすゞとして世に送り出
本を編集しているころ、上田市が澄子
不思議なことがあった。私が澄子の
くる、と自慢(?)していた。
あった。そうして最近、同人誌「Pe
子の弟の子が澄子の生家跡に文学碑を
ら、高校生のとき骨折して、沼田の接
建てようとしていた。上田市・澄子の
そうとして話し合いを重ねており、澄
人も深川に生後まもない時から四歳ま
甥・私の三者が、互いの行動を知るこ
gada」を出している春田道博(古
で住んでいた。たまたま同人誌のこと
書店アニマ経営)と知り合った。この
したね」
で問い合わせをしたとき、深川ゆかり
「沼田にお年寄りの接骨医がおりま
「山下さん」
となく、時を同じくして清水澄子顕彰
骨医に通ったことを思い出した。
「 そ う そ う 山 下 さ ん。 あ の お 爺 さ ん
の人であることを知った。
とでもいうべき行動をしていたのであ
先生は大変な名医で北海道全土から治
る。その後まもななく、キングレコー
上田市の行動と澄子の甥の文学碑設
これらは故郷がとりもつ縁であろう
置。また、私はどうして清水澄子の墓
が、人と人との出会い、縁というもの
ところで、大正時代、長野県上田市
捜しをし、墓参をし、熱っぽく澄子ゆ
「私も診てもらったことがありま
に清水澄子(一九○九~一九二五)と
かりの地を歩き、関係者を訪ねて情報
療に来ていたみたいですね」
以前、本誌に書いたことがあるよう
いう文学少女がいた。澄子は十五歳の
を蒐集しようとしたものか。私はあの
ドから澄子の作品を朗読したCDも発
に思うが、深川出身の詩人右近稜とは
と き に、 生 来 の 孤 独 癖 か ら 自 ら 命 を
不思議な〈清水澄子現象〉を偶然では
売された。
電車の中で知り合った。長谷川伸展を
絶った。遺稿集『さゝやき』は、ベス
は、 案 外、 宿 命 的 な も の で は な い の
見るために花村奨や小野孝二らと共に
トセラーとなった。私は、古本屋で袖
か、と思う。
横浜まで出かけたとき、右近も一緒に
ない、仏縁であると思っている。
す。あの人は折れた腕に木を添えるだ
来ていて、電車の中で話しているうち
珍本の『さゝやき』と戦後に出された
けで治してしまう人でした」
に互いに深川出身であることが分かっ
21
六十九年目の夏
今年は終戦から六十九年目にな
私の父の義弟から一週間前に聞い
ある。
以後も続いてさらに多くの
日本が降伏した八月十五日
しかし、日本兵の抵抗は
が、 途 中 あ ま り に も 爆 撃 が は げ し
に置いて、両親を連れに引き返した
方へ避難して、子供たちを安全な所
して、四人の子供をつれて、南部の
ないと、祖父の両親を近くの壕に残
た話だが、私の祖父は家にいては危
県民が犠牲になっていっ
佐 川 毅 彦
た。太平洋戦争での沖縄戦
く、やむなく子供たちの所へもどる
最近では沖縄戦で生き残った人々
しかなかった。そしてその後両親と
の体験談が毎日のように新聞記事に
は二十万人を越す戦死者を
六月十六日の沖縄タイムス
なる。そして県内各地で自らの悲惨
会う事はなかったそうである。
紙に私の母の友人の老婦人
な体験を語り始めるようになった。
だし、約十万人は兵隊以外
が高校生ぐらいの二人の女
体験者はかなり高齢で、今のうちに
の一般県民や子供だった。
の子とうつっている。新聞
の体験をできる限り聞いて、悲惨な
によると、孫をつれて戦跡
戦争が忘れ去られてしまわないよう
聞いておかなければ二度と聞けなく
六十九年前、高等女学校から学徒動
に後の人に語りつづけてゆかなけれ
なってしまうだろう。私たちは彼ら
員されて、壕内で負傷兵の看護をした
ばならないと思います。
をめぐりながら戦争体験を語ったと書
り、 も が れ た 兵 士 の 腕 や 足 を 運 ん だ
かれていた。
それは沖縄守備軍の司令官が自決し
り、爆弾の破片で親友を失ったそうで
る。沖縄では六月二十三日が終戦の
て、日本軍の米軍に対する組織的抵
日である。慰霊の日と呼んでいる。
抗が終わったからである。
22
もり
に も、“ 積 善 の 家 に 必 ず 余 慶( = 喜 び
ところが、以下のような引用も必要
ごと)有り”とある通りであろう。
と な る 日 が 訪 れ る の も、 人 生 と い う
疑念は大きかったらしく、それまでの
間的に解釈せざるを得ない。」
な理法を、知らず知らずのうちに、人
主 題
よし
尊い生き方には、きわめてふさわしく
に、目の前にしたのは、まったく不本
むら
今、スポーツで大活躍する選手の明
ない最期を遂げてしまった。実は、こ
し
も の ら し い。 小 林 は、『 私 の 人 生 観 』
で、若き日の太田道灌の逸話を紹介し
るい話題の陰で、自らの人生を粗末に
の人のそんな人生の経緯が、かなりの
(評論家)
志 村 栄 守
扱 い、 規 範 を 簡 単 に 逸 脱 す る 人 が、
意な状況であった、という皮肉な経験
「 私 達 の 心 の 弱 さ は、 こ の 非 人 間 的
たその先で、こう書いている。
ニュースに連日のように登場する。一
期間、心にひっかかっていた。
を駆け抜けた人がいた。若い頃、自ら
話は転じるが、際立った個性で人生
とか発想もあることを弁えない時に嵌
心の持ち主が、この人生には別の視点
しんで振り返ると、そこには、純粋な
月日は経過し、小林秀雄の世界に親
ら稀れと言える。
が社会にあるゆえか、話題になる事す
い、
「神」という言葉を使い難い状況
間的な理法」と妙な言葉を使うくら
はあるものだ。ただ、小林すら「非人
私達には、善行や誠意を尽くしたの
見、華やかな世相だが、何かを欠くの
に不徳を感じたのか、他人のために身
る、一種の陥穽がある、そんな見解へ
しかし、中高年という年齢に差し掛
等かの褒美を期待したとしても、少し
る。 善 行 に 対 し て も、
「神」からの何
為 に は、 報 酬 と か 見 返 り が 想 定 さ れ
ごく当たり前のこととして、人間行
は、そのように解して、他に顧慮すべ
する。しかし、目の前にしたその状況
い。つまり、その状況を嫌悪の対象と
に「人間的に解釈」して、はばからな
か、とつい思いたくなる。
を粉にして尽した。信じるものがあっ
と変化した自分がいた。
かった頃、その純粋な行為にはそぐわ
き何もないのだろうか。
従 っ て 私 達 は、 そ の 状 況 を 一 方 的
たから、それができたのかも知れない
ない状況を招来し(本人は、そのよう
もやましいことではない。異国の先人
が、その努力は相当なものだった。
に判断されたと思う)
、受けた衝撃と
23
筆生活を送ってきたが、書き残したこ
ここで、小林が最晩年期、長年の執
身が隠し持つ時間(私的な歴史)を霊
る。視点、発想を変えれば、それは自
まる。あるいは固執のすることでもあ
言ってみれば「人間的な解釈」にとど
イを読んで、私は、文学に関して開眼
溝演を文章化)には、
「ドストエフスキ
ま た、 小 林『 ソ ヴ ェ ッ ト の 旅 』
(=
ソッドが隠れているのだ、と。
とがある、と言わんばかりに見える正
想 起 さ せ る。 つ ま り、「 主 観 」 は あ の
宗白鳥『入り江のほとり』を取り上げ
き、善行を積んだことに対して、
「神」
「 僕 は、 ド ス ト エ フ ス キ イ の 作 品 を
逆説と強い類縁関係にあるのでは、と。
し た の で す。」 と あ る そ う だ が、 こ れ
「 作 者 と 覚 し い 人 物 が、 東 京 か ら 別
が応えた一種の結実とも受け取ること
は瞬時にあの逆説(=前号で既述)を
段、用事もないのに、ふらりと故郷の
ができる。この切り換えは劇的だが、
精 読 し た 時( 中 略 )、 遂 に 否 応 な く 納
妙に相関することかも知れず、すなわ
海岸の村を訪れ、又ふらりと還って了
得させられた一事は、彼の信念の驚く
ち、
「深い自己」との対面とも別言で
ふ。 そ の 間 に 彼 が 見 た、 肉 身( = 親 )
それだけの何かをもたらすと言える。
た、『感想』から以下を引く。
達の退屈な無味な生活が、まことに無
さ ら に、『 川 端 康 成 』 に こ う あ る と
べき単純さであった。」
ころが後押しして、類縁どころか、両
況を何とかしたいという衝動が強い。
さて、善意に加え才気ある人は、現
と内容を紹介した先に、それは出て
造作に語られてゐる。
」
ところがこの美徳は見方を変えると、
者 は 同 じ も の で あ り、 従 っ て「 耐 へ
来る。
実に厄介千万な代物でもあるのだ。小
これらを概観すると、小林の著作を
林 は、
『 ヴ ァ レ リ ィ』 で、 デ カ ル ト に
読 む 喜 び と は、 目 の 前 の 文 章 が、「 主
「 作 者 が、 憎 し み も 愛 も な く 顧 み た
題」
(=あの逆説)とシーニム(同義)
のは、作者自身の姿だ。詩人でなくて
のない単調に耐へた様に、黙々と自分
の関係にある、また、大半の作品でこ
る」という動詞が能動性を帯び、重い
「 内 奥 の 主 題 に 耐 へ る 」 が、 い か に
の内奥の単純な主題に耐へて来た。」
の関係性が遠方の灯の如く明滅するこ
意味を持つことになる。
ここの「深い」に、晩年期の小林の
も非生産的、消極的と映る。しかし、
と、それを逐一、確認する、このこと
「 殆 ど 二 十 年 間、 恰 も 時 間 の 飾 り 気
万感が込められていると、いよいよ思
そんなに単純ではないと、直覚が目覚
触れ、以下のように書いている。
えて来る。文字通り深い奥行きを感じ
める日は訪れる。実はここには、この
は、決して捕へる事の出来ない深い自
冒頭の話とここで係わるが、善行と
にあると言える。
己なのである。
」
か誠意が招いた状況が、肉眼にはいか
人の思想の秘める秘儀、いわば私的メ
させるからだ。
に 不 条 理 を 映 っ た と し て も、 そ れ は
24
は、 自 分 に 当 て は め た く な い。 た だ
し、 お 前 は 何 者 な の か と 問 わ れ た な
な短編を平気な顔して書くことので
評論家が、いまにいたってもこのよう
二、 三
年前、当時の僕が書いたいく
つかの短編小説を新聞で批評した文芸
べからず」という注意書きで子供の頃
無 用 の 者。 こ れ は、
「 無 用 の 者、 入 る
い 者。 使 い の 者。 親 切 者。 奢 る 者。
者 の 例 は た く さ ん あ る。 働 き 者。 若
者。 者 と い う 字 を「 も の 」 と 読 む、
者。 お 調 子 者。 跳 ね っ 返 り 者。 浮 気
には「じょうじゃ」だったそうだ。生
は、
「 し ょ う じ ゃ」 と 読 む。 ず っ と 昔
いう四文字熟語のなかに登場する盛者
も確かに者のひとりだ。盛者必衰、と
医者がスクリーンにあらわれた。これ
しゃ」とキーを打って変換したら、歯
て 敗 者。 ワ ー ド プ ロ セ サ ー で「 は い
は「 せ い じ ゃ」 と 読 む。 勝 者、 そ し
僕はいったい何者なのか
ら、その者です、という返答はあり得
る。日本語の使いかたとして正しいか
き る お 前 は、
「いったい何者なのか」
によく見かけた。その者、という者も
片 岡 義 男
者というひと文字を「しゃ」と読む
どうかは、別の問題として。
と、なかば自問自答していた。作家と
ある。変わり者くらいなら多少は当て
(作 家)
者の例には、どんなものがあるのか。
目撃者、という者をまず僕は思いつい
た。愛国者や学者あたりまでは、誰も
が知っているだろう。そうだ、長者と
いう者がある。日本昔話のなかでは、
何人もの長者がまだ現役だ。僕に当て
はめる言葉としては、筆者がある。筆
を持つ者、あるいは、筆で書く者、と
しての正体のようなものを、その評論
者は「せいしゃ」と読む。これになら
いう意味だろうか。聖者がいる。これ
家はつかみそこねていたのだろう。
はまるかもしれないが、それ以外の者
僕 は 何 者 な の か。 変 わ り 者。 偏 屈
25
どちらかと言えば変わり者の、しかし
いまはまだ明らかに生者のなかの、
と対をなす。
僕も文句なしに該当する。生者は死者
作曲家。画家。彫刻家。作家とならん
のところその答えは以上のとおりだ。
者。僕は何者なのかと問うなら、いま
家であるところの、とあるひとりの筆
ても過言ではないような、たまたま作
れている。野郎や奴は、その人の主と
判断するにあたって、いまでも多用さ
言葉も、人が何者であるかを第三者が
野郎。奴。男。あいつ。こういった
言えば、被保健者と呼ばれる者がいた。
氏名保健証だろう。そうだ、保健証と
いる。奴もこれでおしまいだね、など
で建っている何軒もの家、と言ってお
と い う 言 い か た は、 い ま こ の 瞬 間 に
働き者と評しても過言ではないよう
者 と 家 の 次 は 人 だ ろ う。
「じん」な
も、日本のいたるところで、じつに多
な、あるひとりの筆者。僕は何者なの
い し は「 に ん 」 と し て の、 人 だ。 偉
くの人が使っているのではないか。男
して性格の一面を、かなり強く否定す
人。賢人。常識人。どれも僕からは遠
は肯定と否定のどちらにも使われる。
る と き に 用 い ら れ る。 馬 鹿 な 野 郎 だ
いようだが、変人となると距離がやや
い い 男。 立 派 な 男。 見 上 げ た 男。 と
こうか。専門家、という家は、これら
努力家。節約家。ワードプロセサー
近くなる、という気がする。奇人はど
いった男たちとおなじ地平に、自分で
か、という問いに対する答えとして、
の変換でちゃんとスクリーンに出て
うか。超人。哲人。鉄人という言いか
は手を汚さない男、口先だけの男、正
よ、あいつは、という言いかたのなか
来 る。 そ う だ、 作 家 が あ っ た。 こ れ
たは最近のものだ。凡人。これは字面
論しか言わない男など、接点を持ちた
の家をすべて取り込むような、大きな
は当てはまる。ある社会的な状況のな
が良く、まずその意味で捨てがたい。
くない男たちが、無数にいる。
家なのだろうか。大家、という家もあ
か で、 当 人 が 引 き 受 け て い る 役 割、
達人。名人。いずれも遠い。こういう
お前はいったい何者なのか、と言い
や っ と こ れ だ け の こ と が 判 明 し た。
あるいは、当人を評価するためのひと
人 た ち は、 い つ も ど こ に い る の か。
かたは、とらえどころがなにひとつな
もっと明らかにならないか、という気
つの側面としての、者や家なのだ。作
「 じ ん 」 で は な く「 に ん 」 だ と、 差 出
いという意味において、最大限の褒め
では、野郎とあいつが同時に使われて
家という側面が加わったところで、こ
人、受取人、保証人、立会人など、誰
る。僕には当てはまらない。
れまではっきりした部分を整理しなお
もが果たすべき社会的な義務、として
持 ち が あ る。
「 も の 」 そ し て「 し ゃ」
すと、次のようになる。いまはまだ明
言葉なのではないか。
である者に続いて、家という漢字ひと
らかに生者のなかの、どちらかと言う
の意味合いを強く帯びるようだ。住所
つを、僕は連想として引き出した。
なら変わり者の、しかし働き者と評し
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のに隣国の人口が減らず、私の国の
人口が増えないのは、なぜですか。
」
が如き者無し。隣国の民少なきを加え
国の政を察するに、寡人の心を用うる
走します。ある者は百歩逃げてから
兵士が兜を捨て武器を引きずって敗
武器が火花を散らしている。そこで
さい。ドンドンと攻め太鼓が鳴り、
「五十歩百歩」考
と)
孟子対へて曰く「王戦いを好む、請
ふ戦いを以って喩へん。塡然として之
「五十歩百歩」とは、
「多少の違いは
ず、寡人の民多きを加えざるは、何ぞ
山 西 靖 彦
に鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵を
曳きて走る。或いは百歩にして後止ま
り、 或 い は 五 十 歩 に し て 後 止 ま る。
五十歩を以って百歩を笑わば如何」と
あるにしても、似たりよったりで、結
や」と
まれるので、戦いで喩えさせてくだ
( 孟 子 が 答 え て 言 う「 王 は 戦 い を 好
局大した違いがないこと」あるいは
と き は、 そ こ の 民 を 河 東 地 方 に 移
ようにしている。河内地方が凶作の
めるにあたっては、民に心を尽くす
( 梁 の( 恵 王 が 言 う「 私 め が 国 を 治
曰く「不可なり。直だ百歩ならざる
したら、これはどうですか。」と)
げた者が百歩逃げた者を嘲笑したと
てから踏み止まりました。五十歩逃
踏み止まり、あるものは五十歩逃げ
「 わ ず か な 違 い は あ っ て も、 本 質 的 に
この出展は「孟子」の「梁恵王章句
し、河東地方の穀物を河内地方に移
は同じであること」という意味で現在
上」で、梁を訪れた孟子に恵王が尋ね
梁 の 恵 王 曰 く「 寡 人 の 国 に 於 け る
治を観察してみても、私のように心
た同様にします。ところが隣国の政
します。河東地方が凶作のときもま
の隣国より多きを望むこと無かれ」と
も使われています。
るところから始まります。
や、心を尽くすのみ。河内凶なれば、
( 恵 王 が 言 う「 よ ろ し く な い。 た だ
曰く「王如し此れを知らば、則ち民
即ち其の民を河東に移し、其の粟を河
を用いている者はいません。それな
のみ。是も亦走るなり。」と
内に移す。河東凶なれば、亦然り。隣
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為も立場によって評価が分かれるので
の 距 離 で あ ろ う か。
「一歩」とは現代
さて、この「五十歩」とはどの程度
と)
な る こ と を 望 ん で は な り ま せ ん。
」
解されるなら、人口が隣国より多く
孟子が言う「王がもしこのことを理
たことには変わりがない。
」
り騎馬の兵に攻撃される可能性もあ
だと思えるが、まだ弓矢の射程内であ
戦場から六十メートル程逃げれば安全
り大規模に行われていたと思われる。
る。当時は戦国時代で戦闘行為はかな
離は約六十メートルと相当開いてい
笑 っ た と い う こ と に な る。
」両者の距
メートル程逃げた兵士を臆病者だと
「六十メートル程逃げた兵士が百二十
領土の拡大を願う戦好きの困った王の
れば、恵王も他国の王たちと同様で、
たと思われる。しかし、梁の民から見
る。孟子もそのことは十分に認めてい
分はいい王だと自負しているのであ
治をしていることを具体的に述べ、自
よりも民衆のために心をを尽くして政
て称しており、まわりの諸国の王たち
を「 寡 人( 徳 の 少 な い 者 )」 と 謙 遜 し
いずれにせよ「五十歩百歩」の話は
の感覚で言えば、六十センチ程であろ
る。また攻撃されれば反撃する意思も
百歩でないだけです。この者も逃げ
う。とすれば、約三十メートル逃げた
あると思われる。しかし百二十メート
一足すなわち半歩のことは「跬(き)
」
メートル程逃げた全く安全な状態にい
置 か れ て い る の で あ る か ら、 百 二 十
兵士にとってはまだ命の危険な状態に
したがって、六十メートル程逃げた
と」ということになるのでないか。
変えてみればそれほど違いがないこ
差異があると認識しているが、立場を
いうより「当事者にとっては、相当の
の意味は単純に「似たりよったり」と
このように考えると、
「五十歩百歩」
さて恵王であるが、孟子の前で自ら
兵士が約六十メートルを逃げた兵士を
ひとりにすぎないのである。
ある。
臆病者と嘲笑したのであろうか。
ルも逃げれば危険はなくこれはもう完
ところがこの「歩」という漢字であ
ま た は「 頃( き )
」 と い い、 五 十 歩 と
る兵士を臆病者と笑うことは当然で、
全な敵前逃亡といえよう。
は百個分の足幅ということになる。
それなりの理屈があると思われるので
るが、
「左右の足が前後に並んでいる」
ま た、
「歩」は長さの単位でもあり
である。なお、
「跬歩」
「咫尺」
「尋常」
ら見れば逃げたことの一事でもってけ
しかし、戦闘を指揮する王の立場か
である。
説得力をもって説明していると思うの
によるものの見方の違いを適切にかつ
喩 え た こ と は、
「 王 」 と「 民 」 の 立 場
の語はいずれも度(長さ)の単位から
しからんと判断するのである。同じ行
形の象形文字で、二足のことである。
時代によって異なるが、孟子の時代の
ある。
孟子が戦争好きの恵王に戦争の話で
「一歩」とは約一、
三五メートルのこと
できた熟字である。
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