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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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スンダ人とスンダ世界(<特集>東南アジアの世界像)
村井, 吉敬
東南アジア研究 (1984), 22(1): 75-91
1984-06
http://hdl.handle.net/2433/56162
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東 南 ア ジ ア研 究
2
2巻 1号
1
9
84年 6月
ス ン ダ 人 と ス ン ダ 世 界
村
井
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The Sundaneseand Thei
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「ひ と りで 歌 で も うた うさ。」
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"ワル ン ・ コ ピ ・プ ラ ンボル ス" W arung
「ふ た りだ った ら ?」
「チ ェス を楽 しむ。」
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又opi Pram bors とい う漫 談 l
「
3
人 で は ?」
の グル ー プ の ,南 ス マ トラ州 パ レ ンバ ン Pal
「ダ イ ヤ モ ン ド ・ゲ ー ムだ ろ。」
l
em bang
で の ライ ブ シ ョー の一 場 面 を まず
紹 介 しよ う [Kasi
no; Dono; Nanu ; and
H endro
1
980(
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)
]
。
「バ タ ック人 orangBatak が ひ と りで い
た らど うす る と思 う ?」
*上智大学 ア ジア文化研究所 ; I
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Chi
yodaku,Tokyo102,Japan
「じゃあ 4人 な ら ?」
「トル トル遊 び だ な。」
「5人 , 6人 以 上 にな る とだ な 。‥….戸
や 窓 を よ く閉 め て おか ね ば な らな い。
」(
大
笑)
「じゃあ , ジ ャ ワ人 Orang Jawa が ひ と
りで い た らど うな る ?」
75
東 南 ア ジア研 究
「ハ トを鳴 か して遊 ぶ さ。
」1'
2
2
巻 1号
こ う した民族 (
種族) 問 を め ぐ る 笑 い 話
「ふ た りな ら ?」
e
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oke は,「多種族 国家」 イ ン ドネ シ
「しらみ と り。」
アに は きわ めて豊 富 にあ る。共 通言 語 た るイ
?」
ン ドネ シア語 の話 し方 の性 癖 ,発 音 の くせ ,
「3人
「ガ ム ラ ンを奏 で る。」
名前 のつ け方 ,食 習慣 ,一般 的性 癖等 々にお
「4人 にな る と ?」
いて, ど こか の種族 が 中心 にな って ,他 種族
「ワヤ ン ・オ ラ ン(
人 間 のや る ワヤ ン劇 )
を ひや か し,か らか い,あ るい は お と しめ る
だ ろ うな。」
わ けで あ る。 イ ン ドネ シアは公 的 には ,1
928
「5人 以上 とな る と, ジ ャワ島 の外 に移
住 t
r
ans
mi
gr
as
iだ .
/」 (大笑)
年 の 「青 年 の誓 い」Sumpa
hPe
mudaが称揚
した よ うに 「一 国家 ,一 民族 ,一言 語 」 の国
「も し女房 が まだ いな いん な ら, ス ンダ
で あ るか ら,堅 苦 しい公 の場 で種族 意識 を発
人 o
r
ang Sunda を探せ 。 西 ジ ャワの人 だ
露 す る こ とはタ ブ ーで さえ あ る。 しか し, そ
よ。」
れ ぞれ の生 活 の場 にお いて は,陰 に陽 に種族
「ど う して
?」
「ス ンダ人 は pr
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,m礼ni
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konomi
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意識 が顔 を 出す 。
ジ ャカル タ中央 に堂 々 と奪 え るあの独 立記
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実用 的 で,可 愛 ら し
念 塔 Mo
nas
,TuguNas
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ona
lと, そ の内部 の
く,経 済 的で , ‥‥‥ち ょっ と口ひ げ も生 え
荘 厳 た る 「統 一 国家」 を シ ンボ ライズ した種
て い る) だか らさ。
」(
笑)
種 の しか け, これ は統一 国家 形成 の強 固 な意
「ど う して実用 的 なん だ ?」
思 のあ らわれで あ る と ともに,統 一 を脅 か し
「ス ンダ人 は いつ も葉 っぱ を食 べ もの に
かね な い多種族 エ ネル ギ ー拡 散 - の監視 の役
利 用 す るか らさ。」
「ラ ラブ ・ラ ラバ ン l
al
ab1
al
aban とい
うや つ だ な ?」
割 を も担 わ され た もの と思 わ れ る。もちろん,
統 一 を脅 かす もの は種族 文 化 だ け で は な い
し,ご く最近 にその よ うな兆候 はな い。 だ が,
「そ う。 だ か ら米 が とれ な い ときで も,
イ ン ドネ シア国民 の多 くは, その 日常性 にお
大 して食 う に は 困 ら な いの さ。 サ ンバ ル
いて種族 ・地 方 文 化 を背負 い,公 の場 におい
s
amba
l(
番 辛料)で も あ げて畑 に放 り出 し
て イ ン ドネ シア文 化 を背負 うとい う,二 重 文
や, それで生 きて いけ る って い うわ けだ。」
化 ・二 重言 語 の状 況 のな か に生 きて い る。 こ
(
大 笑)
の二 重性 が うま く調和 し,強 固 な統 一 国家 の
「キ ャ ッサバ芋 の葉 っぱ も,パ パ イ ヤの
形成 にのみ向 か う とだ けは 言 い 切 れ な い。
葉 っぱ も, ジ ャ ンプ- j
ambu (
果 実 の一
195
0年 代 の多 くの地 方 薮 乱 はまだ それ ほ ど過
荏) の葉 も,バ ナ ナの葉 っぱだ って食 べ ち
去 の こ とで はな いので あ る。 くイ ン ドネ シア
ゃ うわ けだ。」
性 〉と く地 方性 〉, あ るい は よ り普 遍 的 タ ー ム
「た だ一 つ食 べ な い葉 っぱ が あ る。 それ
は窓 の葉 2'da
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e
nde
l
aだ。
」 (大笑)
に お き換 え る とす れ ば く中枢 )と く周辺)とい
う問題 は,解 決済 み の問題 とはいえ な い。 と
1) シラコバ ト S
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tを,鳥カゴに入れ,高い樺の先
に吊すと,- ト同士が呼び合い美声を競 う。ジ
ャワでは多 くの家でこの- トが飼われている。
2
)板でできた窓を da
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窓の某)という。
考 え た場 合 ,く地 方性〉く周辺性 ) の問題 が ク
7
6
ローズ ア ップ されて くる。 これ は単 な る並 列
的 な種族 文 化 の問題 で はな い。
さて ,本 小論 は首都 ジ ャカル タを と り囲 む
村井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界
形 で存在 す る くス ンダ世 界〉 とい うものを考
Hugo 1
978:27-2
8]
。1
930年 の統 計 に
ない [
えて み た い。 ジ ャワ人 の世 界 は ど強 い求 心性
よれ ば, 蘭領 イ ン ドの総 人 口は約 6,
073万 人
も中枢 意識 もな い,か とい って ミナ ンカバ ウ
4万 人 ,中国
で, このなか には ヨー ロ ッパ人 2
やバ タ ック人 の世 界 ほ どの 自己主 張 もな い。
2
3万 人 を は じめ と した 外 国 人 が 1
59万 人
人1
ど ち らか とい うと捉 え ど ころのな いのが ス ン
(
総人 口の2
.
62%)含 まれ て い る。 土着人 口
ダ人 の世 界 で あ る と考 え られて い るよ うに思
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ng は 5,
91
3万8,
067人 で
わ れ る。 こ こで は,他 種族 世 界 との比較 を論
あ った 。うち,ス ンダ人 Soe
ndane
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en と して
ず るので はな く, ス ンダ人 or
ang Sunda の
分類 され て い る者 の数 は85
9万 4,
834人 (
総人
am Sundaとい う
つ くって い るス ンダ世界 al
4.
2%) で , ジ ャワ人 の2,
781万 人 (
45
.
8
口の1
もの が,一 体 ど うい うものな のか ,そ の あ ら
% ) につ ぐ第 2の種族 集 団 とな って い る[
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-
ま しを述 べ , さ らにそ の ス ンダ世界 のな か の
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e 1
940:5-1
3]
。3' いま, 当
中枢 と周 辺 の問題 に触 れ る ことによ って ,他
時 の 行 政 区 分 で あ る西 ジ ャワ州
の種族 世 界 との比 較 の視座 を提 供 し, さ らに
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We
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トJava, こ こにはバ ク ビア理事 州 Re
イ ン ドネ シア とは何 か , とい うこ とを考 え る
dent
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】
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a も含 まれて い る) に住 む人 の
際 の ささや か な素材 を提供 で きれ ば と考 えて
うち, ス ンダ人 が どの くらいのパ ーセ ンテ ー
い る。 な お, ここで 考 察 さ れ るス ンダ世 界
ジを 占め るか をみて み よ う。西 ジ ャワ州 の総
は,主 と して ,バ ン ドンを 中心 と したプ リア
1
40万 人 (
総人 口の1
8.
8%),うち外
人 口は約 1,
ンガ ン Pr
i
angan 地 方 で あ るこ とを お断 り し
国人 は3
6万 人 弱 (
3.2
%), ジ ャワおよびマ ド
て お きた い。 ま た社会 経 済構 造 の分析 はいず
ゥ ラ島以 外 の いわ ゆ る外 島 出身者 は約 5万人
れ稿 を あ らた め言 及 す るつ も りな ので,本 稿
(
0.4
%) で あ り, ス ンダ人 は全 西 ジ ャワ人 口
は序 論 的 な性 格 の もので あ る ことを お断 り し
2.6%,828万 人 ほ どを 占めて いた 。した が
の7
た い。
9万 人 の うち, 96
%
って , ス ンダ人 総人 口85
(
Pr
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が西 ジ ャワ州 に居住 して い るこ とに もな る。
Ⅰ ス ンダ世 界 の あ らま し
1
980年 現在 ,西 ジ ャワ州 お よび ジ ャカル タ
特別 区 の総人 口は 3,
396万人 とな って お り,
ス ンダ人 は今 日の行 政 区分 で いえ ば,主 と
0年 前 の 3倍 近 い数 で あ る (
表 1を参
これ は5
して西 ジ ャワ州 Pr
opi
ns
り awaBar
atおよび
照)。 これ は明 らか に ジ ャカル タ の急 膨 張 の
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首都 ジ ャカル タ特別 区 Dae
結 果 で,ス ンダ人 人 口の急 増 で はな い。現在 ,
.
a,
DKIに居住 して い る。
種族 集 団
Kot
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uku Sunda,s
ukubangs
a
と して の ス ンダ族 s
ス ンダ人 が どの くらいのパ ーセ ンテ ー ジを 占
め るか ば,先 に述 べ た よ うに明 らか で はな い。
Sunda が ど れ く ら い の 数 で あ るのか は,
一 番 単純 に, イ ン ドネ シア人 総 人 口成 長率 と
今 日の人 口統 計 か らは判 明 しな い。 なぜ な ら
ス ンダ人 人 口成 長率 が比 例 関係 にあ る と考 え
ば, イ ン ドネ シア共 和 国 が独 立 して以 来 ,そ
090万人 ほ ど
た場 合 , ス ンダ人 の人 口は約 2,
1
961年 ,71年 お よび80年) にお
の国勢 調 査 (
いて は,外 国籍 の者 を除 いて種族 的背 景 が調
査 され た こ とがな か った か らで あ る。 した が
って ,私 た ちが利 用 しうる全 イ ン ドネ シア ・
レベルで の種族 別 人 口統 計 は, オ ラ ンダ によ
って な され た1
930年 の セ ンサ ス に遡 る以 外 に
3
)その他,マ ドゥラ人4
3
1
万人 (
7
.
1
%)
,ミナンカ
バウ人1
9
9
万人 (
3
.
3
%),ブギス人1
5
3
万人 (
2
.
5
%),バタ ック人 1
2
1
万人 (
2
.
0
%)
,バ リ人 1
1
1
万人 (
1
.
8
%)
,バクビア人9
8
万人 (
1
.
6
%)
,マ
レー人 9
5
万人 (
1
.
6
%)
, バ ンジャル人 9
0
万人
(
1
.
5
%)
,アチェ人 8
3
万人 (
1
.
4
%)など とな
っている。
77
2
2
巻 1号
東 南 ア ジア研究
表 1 西ジャワ州の人 口の推移
(
単位 :1,
000
人 ,% )
1
93
0年
西
ワ 州
ジ
ャ
カ ル タ
ジ ャ ワ ・マ ドゥラ
イ ン ド ネ シ ア
西ジャワ州の人 口比
西ジャワ州および
ジ ャカルタの人 口比
ジ
ャ
1
961
年
1
0,
8641
)
1
7,
61
5
53
3
2,
973
41,
71
8
63,
05
9
60,
72
7
97,
085
1
7.
9
1
8.1
1
8.
8
は ジ ャワ人 が 半 数 以 上 に
な り, 東 側 の イ ン ド ラ マ
1
971年
1
980年
ユ Indr
amayu, チ レボ ン
21,
62
4
4,5
7
9
7
6,
08
9
11
9,2
0
8
1
8.1
27,
454
6,
503
91,
270
1
4
7,
4
90
1
8.
6
Ci
rebon で は, ジ ャワ人 が
22
.0
2
3.
0
21
.2
圧 倒 的多 数 と な る。 と く
に,イ ン ドラマ ユ県 の場 合,
90% 近 く が ジ ャワ人 で あ
る。 これ に対 して ,バ ン ド
ンを 中心 と した プ リア ンガ
注 1)行政区分上ジャカルタが含まれているが,ここではジャカル
ン地 方 は,ス ンダ人 が9
0
%
タの人 口を除いた数値。
出所 :Ne
de
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昌[
1
940】
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な い しそれ以 上 を 占めて い
1
981
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Kabu
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amadya.
る。 と くに, ス カ ブ ミ Sukabumi県 , チ ア ンジュー
ル Ci
anJ
ur 県 , ガル ー ト
とい うこ とにな る。 もちろん ,他 種族 との婚
Gar
ut県 , ス メダ ン Sumedang 県 , チ ア ミ
姻 に よ り単一 種族 -規 定 して ゆ くこ と自体 が
ス Ci
ami
s県 は 95
% 以 上 が ス ンダ人 で あ る
困難 にな る とい う事 情 もあ る し,種 族別 の人
(
図 1参照)。
口成 長率 に相 違 が あ る こ と も 想 定 さ れ る の
現在 の ス ンダ人 の居 住 分布 も,1
930年 当時
で,安易 な断定 はで きな い。 た だ,ス ンダ人 が
と比較 して ,大 都 市 (ジ ャカル タ お よび そ の
1
980年現 在 およそ 2,
000万 人 内外 , 総 人 口に
周 辺,バ ン ドン,ボゴ ール Bogorな ど)を除 い
占め る比 率 1
3-15
% ほ どで あ る とい って も,
て は大 きな変化 はな い もの と思 わ れ る。 ジ ャ
それ ほ ど大 きな間違 いで はな いだ ろ う。
カル タ は首 都 で あ る とい う性 格 上 , そ して人
これ まで , ジ ャカル タ と西 ジ ャワ州 とい う
種構 成 の点 か らもス ンダ地 方 Tanah Pas
un-
ものを合 わせ て ス ンダ人 の数 を 考 え て き た
arSunda に入 れ な い方 が適 当だ と
dan,Tat
が , ス ンダ人 は地 理 的 な西 ジ ャワに一 律 な割
思 われ るが, ス ンダ人 の居 住 者 が相 当 に多 い
合 で存 在 して い るわ けで はな い。 た とえ ば,
とい うこ とだ けは銘 記 して お くべ き で あ ろ
ジ ャカル タの場合 ,1
930年 には, ス ンダ人 は
全 人 口の2
5.4
%(
1
3.5万人 )で ,バ ク ビア人 の
う。 キ ャスル ズ Cas
t
l
es
,Lanceの推 計 で は,
1
961年 の ジ ャカル タ には約 95.
3万人 の ス ンダ
36.1
% (
1
9.
3万人) よ り少 なか った 。4) ジ ャ
人 が居 住 して お り, これ は ジ ャカル タ総 人 口
カル タ以 外 の西 ジ ャワを見 回す と,北 海岸 寄
の3
2.
8% を 占めて い る こ と に な る [
Cas
t
l
es
りの地 方 は,明 らか にス ンダ人 の比 率 が低 い。
1
967:1
87]
。1
930年 には13.5万 人 , 25.
4%
(ただ し大 ジ ャカル タで は1
5万人 ,1
9.1
%)
す なわ ち,最 西端 のバ ンテ ン Bant
en 地 方 で
で あ った か ら,総数 で 7倍 近 くも増 え , ジ ャ
4) この数値はバクビア 中心部 (
Ba
t
a
v
i
a+Me
e
s
t
e
r
Cor
ne
l
i
s
)のもの。 バクビア人, ス ンダ人につ
いで,人種構成は中国人14.7%,ジャワ人11.0
%, ヨーロッパ人 7.q
%などとなっている。 周
t
aRa
yaの人
辺部を含めた大ジャカルタ Jakar
種構成になると,バクビア人の比率は5
3
.
2
%,
% ,中国人 11
.2
%,ジャワ人 7.6
スンダ人 19.1
% となる [
Ca
s
t
l
e
s 1
967:1
66]
。
78
カル タ の第 1の人 種集 団 にな っ た わ け で あ
る。 な お注 目す べ き こ とは, キ ャスル ズ の推
計 によれ ば ,61
年 ジ ャカル タの第 2の人 種集
団 は ジ ャワ人 で ,総数 7
3.
8万 人 ,比 率 25.4
%
とな って い る。 ジ ャカル タ の土着 の民 で あ る
バ ク ビア人 は,少 数者 にな りつつ あ るので あ
、
ヽ
る。 そ の後 2
0年 で ジ ャカル タの人 口は さ らに
と北 とで ス ンダ人 とジ ャワ人 が住 み分 けて い
2倍 以 上 にな った。 おそ ら くジ ャワ人 が第 1
る といわ れ る。
南 バ ンテ ンはス ンダ人 が多 く,
の人 種集 団 にな り, ジ ャワ人 とス ンダ人 を合
北 バ ンテ ン (
セ ラ ン Serang, アユ ェル Anyer
わせ れ ば7
0
% 以 上 にな って い るので はな いだ
な ど) は ジ ャワ人 地域 で あ る。 ここに住 む ジ
ろ うか。
ャワ人 は, もと も とは中 ジ ャワの デマ ク De
-
わ れわ れ はス ンダ人 が最 も密 に居 住 して い
makや ,西 ジ ャワ東 北 端 の チ レボ ンか ら移 り
る地 域 と して ,バ ン ドンを 中心 と した プ リア
住 ん で きた人 々で,純 然 た るジ ャワ人 で あ る
ンガ ン地方 を , ス ンダ世 界 の 中心 地 域 と考 え
とい うよ りも,ス ンダ人 ,マ レー人 ,ブギ ス人 ,
る ことがで きよ う (
た とえ ば Pal
mer[
1
967:
ラ ンボ ン人 な ど との混血 した ジ ャワ人 で あ る
299]
)。 これ に対 して チ レボ ン, イ ン ドラマ
とい う [
Kar
t
odi
rdj
o 1
966:30]
。 こ こで話 さ
ユ の北 海岸 Pas
i
s
i
r 地 方 は,む しろ ジ ャワ人
れ る こ とばはバ ンテ ン ・ジ ャワ語 と もいわ れ
が優 勢 の 地 域 で あ る。5) 西 ジ ャワ と中 ジ ャワ
るし [
Pal
mer 1
967:299]
, ス ンダ人 た ちは
の南 の境 を なす川 (
Ci
t
anduy川 ,Ci
see
l川)お
「粗 野 な ス ンダ語 」Sundakasar と もい う。
よび プ リア ンガ ン山地 とい う ものが , ス ンダ
以 上 の考察 か らも明 らか な よ うに, ス ンダ人
とジ ャワの融合 を妨 げて いた のだ ろ う [
Sch-
は西 ジ ャワ全 域 に居 住 して は い るが , 中心 は
95
6: 1
04]
。 ただ , 北 海岸 寄 りは川
ri
eke 1
あ くまで もプ リア ンガ ン山地 で , こ こを 中心
(
Ci
l
os
ar
i川)はあ る もの の,平原 で しか もジ
ャワ海 の航海 が容 易 で あ る こ と もあ って , ジ
にス ンダ人 の世 界 が展 開 されて きた とい うこ
とが で きよ う。
ャワ人 が多数 住 みつ くよ うにな った もの と思
ス ンダ人 とは 「日常生 活 の なかで代 々ス ン
わ れ る。一 方 ,最 西端 のバ ンテ ン地 方 は,南
ダ語 およびそ の方言 を母語 と して使 用 し, メ
5) チレボン地方ではスンダ語がより多 く使用され
9
8
0
]
。
ているともいう [
-ルソヨ 1
ナ ・パ ス ンダ ン (
TanahPas
undan)な い しタ
タ ール ・ス ンダ (
Tat
arSunda)と呼称 され る
79
東 南 ア ジア研 究
こ と もあ る西 ジ ャワ地方 を 出身 地 および居住
地 とす る者 」 と- ル ソ ヨ Har
s
o
j
o は定 義 し
980:369]
。 しか し, ス
ている [
-ル ソヨ 1
22巻 1号
の世界 が存在 して い る もの と患 われ る 。6'
以 下 , それ ぞれ の要素 を も う少 し具体 的 に
記 して み た い。
ンダ人 がつ くり出す ス ンダ世 界 al
am Sunda
とい う場合 ,言語 だ けの広 が りとは いえな い。
日常 的 にス ンダ人 が , 自分 た ちの生 活 空 間 を
ⅠⅠ ス ンダ世 界 の 中味
al
am Sunda とい うこ とばで表現 す る こ とは
は じめ にス ンダ人 , とりわ けプ リア ンガ ン
あま りな いよ うに思 われ るが, 自分 た ちの住
山地 の地方 に住 む人 び との居 住 ・自然 空間 に
ま う世 界 総体 を象徴 的 にせ よ表現 しよ うとい
つ いて の一定 の イメ ー ジにつ いて述 べ よ う。
う場 合,al
am Sunda とい うこ とば に行 きつ
ス ンダ の笛 s
ul
i
ng と琴 kac
apiに合 わせ て
くよ うに思 われ る。 その意 味 で,al
am Sunda
哀 調 を帯 びた トゥ ンバ ン ・ス ンダ Te
mbang
とい うの は話 しこ とばで はな く,書 き こ とば
Sunda(
発祥 地 に ちなん だ チ ア ンジュ ラ ン Ci
-
で あ る。 おな じ 「世 界」 を あ らわす duni
a
an
j
ur
an な ど, い くつ か の類 型 が あ る [
Soe
-
とい うこ とばは用 いな い。Al
am とい うこ と
97
6:
pandi
,At
i
k;andEnochAt
madi
br
at
a 1
ばは ア ラ ビア起 源 の こ とばだ が, それ は, こ
3637])7) の歌 声 が 聞 こえ て くる と き, ス ン
の世 ・身近 な世 界 (
duni
a)や王 国 (
ke
r
a
j
aan)
ダ の人 び との心 の琴 線 は, それ に共 鳴 す るに
だ けで な く, 自然 ・大 地 (
bumi
)を含 ん だ森
違 いな い。村 の カ ンポ ン kampung で も,町
羅 万 象 を意味 して い る。 ス ンダ語 に ば `
時代 '
'
の狭 い路 地 で も,結 婚 式 や割礼 な どの儀 式 が
(
z
aman)とい う意 味 も含 まれて い る 【
Sat
j
adi
-
あれ ば,あ るい は今 日で は ラジオ の ローカル
br
at
a 1
950:1
6;1
95
4:2
0;Zai
n 1
960:
放 送 か ら, カセ ッ ト テ ープ レコーダ ーか ら,
2
6】
。
この歌声 と楽 器 の音 が聞 こえて くる。 外 部 の
Al
am Sunda を あ えて分解 しよ うと した
者 の印象 にす ぎな いが , それ はま さ にス ンダ
ら, おそ ら くつ ぎの よ うな要素 に分 解 され る
の 自然 と溶 け合 った音 で あ る。 うた われ る詩
ので はな いだ ろ うか。
そ の もの も自然 の美 しきで あ り,女 と男 の恋
(
1) ス ンダ語 (
bas
a Sunda)を話 し, そ の
ことば に規 定 され て,た ちい,振 る舞 う (
t
i
ng-
の切 な さ,煩 悶 , ときめ きな どで あ る。
ル ムブル ・ク リン l
e
mburkur
i
ng (
わ がふ
kahpol
ah)世 界 。
(
2) イス ラムが大 き く表面 を覆 って い る と
は いえ , ス ンダ地方 特有 の神 話 ・伝 説 ・慣 習
(
adat
)を継 承 しつつ ,独 自の文 化 を育 ん で き
た世 界 。
(
3) 屠 住 空 間 とそれ を と り巻 く自然 景 観 へ
の, あ る程 度共通 した イメ ー ジが な りた って
い る世 界 。
この三 つ の要 素 の それ ぞれ を考 え る と, こ
とばを除 いて は, と りわ けス ンダ世 界 の固有
性 は主 張 で きな い こ とにな るか も しれ な い。
しか し, ス ンダ人 の心 のなかで は,分 か ちが
た くこれ らの要 素 が組 み合 わ さ って 自分 た ち
8
0
6
)この点については,ス ンダ人文学者 Sa
i
niK.
M・
氏,および東京学芸大学大学院に留学中のスン
ダ人 J
o
n
j
o
nJ
o
ha
na氏の示唆によるところが大
きい。
7) スンダ歌謡 Te
mba
ngSundaは,もともとは,
ワワチャンWa
wa
c
a
n とかベルック Be
l
uk と
呼ばれる歌を下敷きに発展 した もの とい わ れ
る。今 日,
最 もポピュラーなチアンジュランは,
チアンジュールの県知事がダレム ・パ ンチャこ
ティ Da
l
e
m Pa
nc
a
ni
t
iだった時代に,パ ント
ゥン師 j
ur
upa
nt
un のキ ・ジャヤラヒマ ンKi
J
a
ya
l
a
hi
ma
n という人物が歌の案内役 と して
琴をひ くスタイルをもちこんだという。これに
笛が加わり今 日の形をとったのは,1920年ごろ
のことといわれる [
So
e
pa
ndi
,At
i
k;a
ndEnoc
h
At
ma
di
br
a
t
a 1976:34-37]
。
村井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界
るさ と ・私 の村) とス ンダ の人 び とが い うと
は,昔 か らのス ンダ人 の イメー ジであ る とは
きのル ムブル は, 自然や歌声 や楽 器 の音や 田
断定 で きな い。
や畑 や家 をひ っ くるめた くふ るさ と)であ る。
つ ぎに, ス ンダ人 がス ンダ世界 に固有 と考
その I
e
mburは, もちろん人 によ って多少 の
え る神 話,伝説 の世界 につ いて考 えて みた い。
イメー ジの違 いはあろ う。 しか し, とりわ け
ス ンダ地方 は 「イス ラム- の 厳 格 な 帰 依」
プ リア ンガ ンの山地 に住 ま う多 くのス ンダ人
[
Hugo 1
9
7
8:2
8], 「正 統 派 イス ラ ム の 中
e
mburとは,青 い山並 みを見渡
に とって は,l
Be
nda 1
9
6
3:5
3]
,「バ ンテ ンや プ リア
心 」[
せ る,あ るいは小高 い丘 の麓 に広 が る田圃や
ンガ ンで は, プ リヤ イ は (アバ ンガ ンで な
畑 ,近 くを流 れ る川 , とい った 自然 の景観 に
く) サ ン トリ s
ant
r
iで あ った」[
Kar
t
odi
r
dj
o
包 まれ た人 び との営 みすべ てを指 して い るも
1
9
7
3:1
1
6]な どの指摘 にみ られ る よ う に,
の と思 わ れ る。 山 と川 とは景観 上 ,欠 かせ ぬ
(ジ ャワ社会 と比べ て)イス ラム信仰 に熱心 な
要 素 と してあ るだ ろ う。 ちなみ に,プ リア ン
地域 で あ るとされて きた。 と くに,歴史 的諸
ガ ン地方 の中心 バ ン ドンの東 の隣県 スメダ ン
事件,た とえ ば1
8
8
8年 のバ ンテ ンの農 民叛乱,
県 につ いて,県 の地 名,郡 の地 名,合 わせ て
1
9
2
0
年代 のプ リア ンガ ンにおけ るサ レカ ッ ト
1
4, その他 ,村 desa な い しカ ンポ ンの地 名
7
3 (これ は ラ ンダ ムに遼 ぶ),合 計 8
7カ所 の
・ヒジ ョウ Sar
ekatHi
j
au,Sar
ekatHe
dj
o
の共 産党襲撃 事件 , 日本 軍 政 期 の タ シクマ
地 名を調 べて み ると,実 にその 3分 の 1以上
ラヤの シ ンガパ ル ナにおけ る抗 日叛乱 , さ ら
にあた る3
0の地 名 は Ciとい う接頭語 を有 し
には独立戦 争期 か ら6
0年代 は じめまでプ リア
ai(
水) の略語 で あ
て いた。 Ciとい うの は c
ンガ ン山地 で 展 開 さ れ た ダルル ・イス ラム
る。 当然 の ことなが ら,人 び との生 活空 間 が
Dar
ull
s
l
am 運動 な どの諸 事件 が,"強固な
水 や川 に密着 して あ るとい うことの証左 で あ
イス ラム'
'と結 びつ け られて語 られ るため,
ろ う。 これ に地形 や動 植物 に由来 す る地 名を
ス ンダ世 界 は,あたか もイス ラム一 色で塗 り
加 え る と,仝 地 名の6
0
%近 くにな る。 これ に
つぶ されて い るか の印象 を与 えて い る。
対 して ,歴史 的 由来 のあ る地 名,人 の生 活 と
関わ りのあ る地 名は2
5カ所 で あ った。
プ リア ンガ ン地方 は もともと熱帯森 林 に覆
た しか にメ ッカ巡礼 に出か けた者 の数 は,
西 ジャワの場合 ,中東 部 ジ ャワに比 べ れ ば多
8
7
6-1
8
8
8年 まで のハ ジの数 は,
い。た とえ ば1
われた奥深 い山岳 地帯 で ,人 び と は 焼 畑 移
11
3人
ジ ャカル タを 含ん だ 西 ジ ャワは 1万 8,
動 農耕民 な い し遊牧 民 だ った と も い わ れ る
,
2
4
7人 ,王侯領9
0
2
人 ,東 ジ
と,中 ジャワの9
[
Adi
wi
l
aga
.1
9
7
5:5
5
]
。 多 くの ス ンダ人 は,
ャワの 1万 1
,
7
8
6人 を大 き くひ き 離 して い る
比較 的最近 まで ,あ るいは少数 の人 び とはい
[
Svens
s
on 1
9
8
3:1
1
6
]
。1
9
2
6-1
9
3
5
年 のあ い
ま もな お,圧倒 的 に迫 り くる自然 の重 みを感
だ, 西 ジ ャワは年 平均 6
,
0
5
0人 のハ ジを送 り
じなが ら生 きて きて い る。 だか らこそ,人 の
出 して い るが, 他 の ジ ャワ地方 は平均 3
,
7
1
9
生 活空間 と して適 した青 い山 並 み を 見 渡 せ
人 にす ぎず,人 口1
0万人 あた りで も西 ジ ャワ
る,耕作可能 な空間 と,そ こに家 々がひ っそ
が2
5
人 で あ るの に対 し,他 の ジャワ地方 は1
4
りとたたず む カ ンポ ンとに,限 りな い親 しみ
人 にす ぎなか った [
後藤
を感 じるのだ ろ う。 もっとも,プ リア ンガ ン
これ らの ことだ けか ら果 た して 「イス ラムが
9世
地 方 で大規模 な水 田耕作 が始 ま った のは1
強 い」 とい うことを一般 化 で きるだ ろ うか。
z
'
bz
'
d.:5
7
]ので,お
紀 以 降で あ る といわれ る l
いま1
9
5
5,71,7
7,8
2年 の,独 立後 4回の
だや かな 田圃,山並 み, カ ンポ ンとい う景観
国政選 挙 の政党支 持率 をみてみ よ う (
表 2を
1
9
7
2:2
1
]
。 だ が,
8
1
東 南 ア ジ ア研 究
2
2巻 1弓・
表2 総選 挙 の政 党別 得 票率
クカい
ヨヤク
ジジ ル
侵鍔'
東 ジャワ
3 9 `4 4 0
2 0 8 6 2
2 2 1 1 2
8 2 1 2 7
2 1 4 3 8
2 1 3 2
5 0 6 8 1
3 0 9 5 1
2 1 1 2 2
6 0 7 0 7
9
2 6
1 6
2 5
1 1
2
その他
ノ
1 4 6 8 1
0 1
2 6
2
2 9 1
3
マ シュ ミ
NU
PKI
ジ潔
ワ
ヤ
ジ
西
1955年
PNI
中ジャワ
シ ュ ミ党 自体 , 1960
(
単位 :% )
年 に解 散 させ られ て
い る)。 む しろ 東 ジ
ャ ワの NU の 「強
さ」 の方 が よ り顕 著
で あ る とい え よ う。
た だ し,若 干 注 目す
べ き こ とは , バ ンテ
GOLKAR
ン地 方 に お い て は,
イスラム諸政党2)
非 イス ラム諸政党3'
55年 総 選 挙 で マ シュ
3 i ;≡;.
:
≡….
:Z
5.
8% の得 票
ミ党 が3
を して お り,NU と
9
.
2
%に
合 わ せ る と4
達 し, か な り強 い イ
GOLKAR
E 63.2
ス ラム地 域 で あ る こ
とが想 像 で き る。 77
年 の総 選 挙 で もバ ン
注 1)1
955年の得票率は中ジャワに含まれる。
2) このなかには, イ ンドネシア ・イス ラム同盟党 (
PSI
I
)
, ナフダ トゥ
NU)
,ムス リミン党 (
Par
t
aiMus
l
i
mi
n)
, イス ラム
-ル ・ウラマ党 (
PERTI
)が含まれる。
・タル ビヤ連合 (
3) このなかには,カ トリック党,イ ンドネ シア ・キ リス ト者党 (
PARK,ムルバ党, インドネシア国民党 (
PNI
)
, イ ンドネ シア独立
INDO)
擁護連盟 (
I
PX・
Ⅰ
)が含まれる。
出所 :I
ndone
s
i
a,De
par
t
e
men Pe
ne
r
angan.1956.Da
ft
arHa∫
Z
'
ZPcmi
Z
i
han
Umum DPR;- ,Le
mbagaPe
mi
l
i
hanUmum・1
971
・Da
ft
arPemt
,Ha∫
Z
'
ZPemi
Z
t
hanUmum An
ggO
t
aDPR Tahun 1
971;
b
a
g3
'
anKur∫
KomPa∫
.June9,1977;May16,1982.
テ ン地 方 の 中心 で あ
る セ ラ ン県 で は , イ
ス ラム系 の 開 発 統 一
党 が ,実 に5
4.
6% の
得 票 率 を 得 て い る。
プ リア ンガ ンで はダ
ル ル ・イス ラム の本
拠 地 で あ った ガ ル ー
ト県 , タ シクマ ラヤ
参 照 )。 選 挙 制 度 そ の もの , 政 党 の あ り方 が
Tasi
kmal
aya 県 で 開 発 統 一 党 は 4
0% 以 上 の
55年 , 71年 ,77年 で大 き く変 化 させ られ て い
得 票 を得 て い る。 政 党 支 持 と イス ラム が 「強
るた め 単 純 な比 較 はで きな い が , イ ス ラム諸
い」 か ど うか とい う こ とは ,単純 に は割 り出
政 党 (55年 はマ シ ュ ミ党 , ナ フダ トゥ-ル ・
せ な い に して も, これ ま で の選 挙 結 果 か らす
ウ ラマ党 NU が イ ス ラム の二 大 政 党 ,71年
れ ば ,バ ンテ ン地 方 や プ リア ンガ ンの一 部 で
は注 2に あ るよ うに 4党 合 計 ,77年 か らは イ
は, た しか に イ ス ラム政 党 へ の支 持 が高 く,
ス ラム諸 党 は開 発 統 一 党 PPP に糾 合 さ れ
イス ラム に熱 心 だ とい え そ うだ が , そ れ を も
た) の 西 ジ ャ ワで の得 票 率 だ け を参 考 程 度 に
って ス ンダ世 界 は イ ス ラムが 強 固 な世 界 とは
み て み る こ とにす る。こ こで 判 明 す る こ とは,
言 い切 れ な い よ うに思 わ れ る。
5年
イス ラム改 革 派.
と呼 ばれ るマ シュ ミ党 が 5
プ リア ンガ ンの多 くの人 び とは, た しか に
時 に は他 地 域 よ りか な り強 力 で あ った とい う
イス ラム教 徒 で は あ るが , 同 時 に,古 くか ら
程 度 で ,71年 以 降 の選 挙 で は西 ジ ャワの 「イ
伝 わ る イ ス ラム とは無 縁 の神 話 ・伝 説 に も,
ス ラム の 強 さ」 は ほ とん ど証 明 で きな い (マ
い ま だ に慣 れ親 しん で い る人 び とで あ る。 あ
82
村 井 :ス ンダ人 と ス ンダ世 界
らた ま った定 義 によれ ば 「ス ンダ人 は イス ラ
buat
, サ ピ ・グマ ラ ン SapiGuI
nar
ang, ク
ム帰 依者 で はあ るが ,す で に ヒ ン ドゥーや仏
ンテ ィア ナ Kunt
i
anak,豚 の お化 け hant
u
教 の信仰 と混 清 して しま った土着 as
l
iの基層
babi
,魚 の お化 け hant
u be
l
ukang 等 々,忠
的 な信 心 ke
pe
r
c
ayaan が , まだ 強 く人 び と
霊 , お化 け もた くさん い る。 土着 の民 間信仰
を捉 えて い る」 [
Pr
awi
r
as
uganda 1
964:8]
と ヒン ドゥー ・仏教 的要 素 が交 じり合 い, そ
とい うこ とにな るだ ろ う。 ヒ ン ドゥーの ま だ
の上 に さ らに イス ラムが覆 い被 さ って ,ス ン
強か った時代 (
1
6世紀 以 前) の プ リア ンガ ン
ダ の人 び との心 の核 が形成 されて きた ので あ
地 方 の歴 史 は判 然 と しな い部分 が多 いが, ヒ
る。 風 土 的条 件 に民 間信 仰 , ヒ ン ドゥー ・仏
ン ドゥーの影 響 を 強 く受 けた神 話 ・伝 説 ・物
教 的要 素 ,そ して イス ラムが加 わ る とい うこ
請 (
car
i
t
a,donge
ng,l
e
genda)は, いま も人
び とに よ って語 り継 がれ て い る。 プ リア ンガ
ン地方 の創世 を伝 え る 「サ ンク リア ン物語 」
Car
i
t
aSangkur
i
ang,神 々の世 界 か らお りて
きた黒猿 が王女 を救 い国 を治 め る とい う 「迷
え る黒猿 の物語 」Car
i
t
aLut
ungKas
ar
ung,
虎 に化 身 す る シ リワ ンギ王 Pr
abu Si
l
i
wangi
の伝 税 , 超 能 力 (
s
akt
i
)を もつ偉 大 なパ ジャ
ジ ャラ ン Pa
j
a
j
ar
an王 の伝 説 , さ らには結 婚
式 や割礼 な どの儀 式 の夜 に上演 され る人形 ワ
ヤ ン劇 wayanggo
l
ek で展 開 され るス トー リ
ーの数 々, これ らはス ンダ の人 び との心 の ど
こか に根 を おろ した もので あ ろ う。稲 の女神
で あ る- ・ポ- チ NyiPohaci
, あ るい は- ・
サ ン ヒア ン ・ス リ NyiSanghi
al
l
gSr
i
,貴 公
とに おいて, ス ンダ世 界 はす で に独 自の世 界
で あ る ともいえ るが, そ の独 自性 を決定 的 な
もの に して い るの は,や は り言 語 で あ り言語
の繰 り広 げ る世 界 で あ ろ う。
ス ンダ語 は, ジ ャワ語 にお け る 「優雅 な ジ
ャワ語 」 (ク ロモ kr
ama) と 「粗 野 な ジ ャワ
1
983:
241
26]に類 似 す る,1
6m芭S(
hal
us
)
-kas
ar の
語」
(ン ゴ コ
ngoko)の二 重性 [
土屋
世 界 を有 して い るO あ るい は 1
芭m芭Sと kas
ar
のあ いだ に pan芭ngah (
優 雅 で も粗 野 で も
な い,ふつ うの ス ンダ語) を入 れ る こ と もあ
る。 ス ンダ語 辞典 の 編 纂 者 で あ る Sat
j
adi
・
6m芭S
-pan芭ngah-kas
arの違 いを,
br
at
aは 1
つ ぎの よ うに述 べ て い る。
敬 意 を あ らわす た め の こ とばを ス ンダ語
子 サ ンク リア ン, そ の母 ダ ヤ ン ・ス ン ビ Da
-
で は bas
al
Em芭S と呼 ぶ。敬 意 を表す るた
yangSumbi
,黒猿 Gur
uMi
nda に救 わ れ る
めの 1
6m芭Sと,あ らわ され る場合 の 1
さm芭S
王女 プルバ ・サ リ Pur
ba Sar
i
,意地 悪 な姉
は, しば しば異 な って い る。 た とえ ば abdi
プルバ ・ラ ラ ン Pur
baRar
礼ng, こ う した人
n芭da (
私 はいた だ きます) と, gampar
an
物 像 も人 び との心 のなか に影 を落 と して い る
貴 方 は召 しあが る) とい う場合 ,
t
uang (
こ とだ ろ う.
8
) 男 の神 々 de
wade
wa, 女 の
n芭da も t
uang も ともに く食 べ る) とい う
神 々 de
wi
de
wiの ほか に も, サ ン ・イダ ジル
意 味 だ が,両語 とも敬 意 を示 す 1
6m芭Sで あ
Sang I
da
j
i
l
, サ ン ・カ ラブ ア ト Sang Kal
al
る。
‖
‥‥
た とえ ば,わ れわ れ が ,敬 意 を あ らわす
8) ここでは論 じないが,ス ンダの伝説には外か ら
来た ヒンドゥー系支配層と,土着ス ンダ人の争
いを扱 ったと思われるものが数多 くある。たと
えば,サ ンク リアン伝説においてのガルガ王は
明 らかに ヒンドゥーの支配層で,おそらくジャ
ワの ヒンドゥー王朝を意識 した もの と思 わ れ
る。また,同伝説における豚とか犬 といった動
物は異種族をあ らわ していると思われる。
必 要 のな い人 に話 をす る場合 は,pan芭ngah
と呼 ばれ る こ とばは使 って もよ い。 それ に
は dahar (
食 べ る),s
礼r
e(
寝 る),I
nul
ang
(
帰 る),panon (
眼),s
i
r
ah (
玩),hi
l
ang
(
死) な どの こ とばが あ る。 これ らの こと
ばは,独 身 の若 者 や子供 に対 して も使 え る。
8
3
東 南 ア ジ ア研 究
2
2巻 1号
怒 りを あ らわすた め には特別 な ことばが
で あ ろ うことが想 像 され る。 す なわ ち, メナ
あ る。 …… これ らの こ とばは,た とえ動物
ック とい う場合 ,人 び との実感 で は 「オ ラン
に対 してで あ って も,め った には使 わ な い。
ダ語 学校 に入 れ る階層」, したが って官吏 に
この範 噂 の ことばを kas
arpi
s
an (
大変 に
な りえた人 び とで あ る。官吏 の範 囲 はおそ ら
粗 野 な) とい う。
く郡 長 camat ク ラスまでで, それ よ りロー
akas
ar と呼ぶ 。もち
多 くの こ とばは bas
カルな村長 は メナ ックには入 って いなか った
ろん,これ らの ことばは必 ず しも 「
粗 野 な」
よ うだ。 もちろん ,官吏以外 に,医師や学校
性 格 で あ る と は 限 らな い [
Sat
j
adi
br
at
a
の教 員 の一部 もメナ ックに入 って いた。 メナ
1
950:89。9)
ックの基盤 自体 ス ンダ社会 内部 に求 め られ る
ス ンダ世界 において ,1
さmさS な言語 を情況
だ ろ うが,それを強化 して ゆ くうえで ,植民
に応 じて正 し く使 い こなせ るか ど うか とい う
地 官僚 制 の果 た した役割 を見逃 す ことはで き
ことは,社会 階級 的 に,それな りの意 味 をい
な い.実際,l
im芭S な ス ンダ語 は,かな り学
まだ に もち続 けて い る と考 え られ る。 社会 階
習 しな い と習得 が難 しい とい う。学校 で あれ
級 および地域 と言語秩序 が歴 史 的 に どの よ う
家庭 で あれ, こう した学 習 の機会 を もち うる
に, どの程度 の強 さで形成 されたか は,今 後
こと自体 が富裕 な階級 の証 しであ る し,富裕
の研究課題 で あ ろ う。 ただ,推論 され うるこ
なれ ば こそ,1
6m芭S な ことばを習得 し, 自 ら
とが 2点 あ る。第 1は, ス ンダ語世界 におけ
を権威 づ け ることに もな るわ けで あ る。 こう
る序列性 は もともと (とい って も, いつ の時
して ,た とえ く外力) を借 りた もので あれ,
代 まで とは限定 で きな いが)あ った に して も,
ス ンダ語世 界 の序 列性 と社会 階級序 列 とが相
外側 か ら強化 された ので はな い か とい う点 で
補 的 に強 め合 う関係 がで きあが り,そ こに一
あ る。外側 か らとい うのは,一 つ は中 ジ ャワ
つ の階級 的中枢 がス ンダ世 界 に形成 された の
に本拠 を もったマ ク ラム王 国 の ク ラ トン (
育
で はな いか, とい うのが第 1の推論 で あ る。
廷) 文化 で あ る。1
7世紀 にマ ク ラムのスル タ
第 2は,ス ンダ語 の地域 的序 列 で あ る。 ハ
t
anAgung が,バ ン ドン一帯
ン ・アダ ン Sul
ル ソ ヨは くス ンダ語 の洗練 度〉 とい うことば
をその領地 に治 め ブパ テ ィ bupat
i を おいた
で, チ ア ミス, タ シクマ ラヤ,ガル ー ト,バ
とされて い る し [
Bas
oeni 1
9751
, また1
9世
ン ドン,ス メダ ン, スカブ ミ, チア ンジュー
紀 にはス メダ ンの貴族階級 (
一般 にメナ ック
ル とい ったプ リア ンガ ン地方 が 「
純 粋 かつ洗
menak と呼 ばれ る)とソロ, ジ ョクジャカル
練 された ス ンダ語 が使 われて い る」 と して い
タの貴族 階級 のあ いだ には親族 関係 があ った
る【
同上論 文 :36
9]
。 これ に対 して ,バ ンテ
980:370]
。 もう
ともいわ れ る [
-ル ソヨ 1
ン,ボ ゴール, カ ラワ ン Kar
awang,チ レボ
一 つ はオ ラ ンダ によ る植民地支配 であ る。 メ
ンで使 われ るス ンダ語 は 「あま り洗練 されて
ナ ックな るス ンダ の貴族 階級 が存在 した に し
いない」 とい う。 文化や地域 に優劣 はあ ろ う
て も,そ の地位 な り範 囲を確 固た る もの にす
はず はな いに して も,実際上 , プ リア ンガ ン
る うえで ,植民地支配 が相 当な影響 を与 えた
を 中心 と したス ンダ語 こそが く正統〉 で あ る
]
9)Sa
t
j
adi
br
a
t
a は正確には,スンダ語をつぎの五
つの段階に分 けて い る. (
1
)l
e
me
spi
s
a
n, (2)
1
6
m芭
S
,(
3)p
a
nさ
nga
h,(
4
)kas
a
r
,(
5)k
a
s
a
rpi
s
a
n.
Lと
mさ
spi
s
anは王などの階級の高い者に対 して
Sa
t
j
a
di
br
a
t
a
用いられることばである とい う [
1
950:89】
。
8
4
との意識 が,ス ンダ世界一帯 に形成 されて き
た。 これ も, おそ ら く, ジ ャワ文化 や オ ラ ン
ダ文化 の外側 か らの地域 的偏在 を伴 った移入
の され方 と関係 があ るだ ろ う。 西 ジャワの北
海岸 は, ジ ャワ人移民 が多 く, しか もその ジ
村 井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界
ヤ ワ人 は, ジ ャ ワ社 会 で は いわ ば辺境 の ,や
ウ ィ ラハ デ ィクス マ とて , そ れ ほ ど名 が知 れ
は り北 海 岸 住 民 で , イス ラム に い ち早 く帰 依
渡 った人 物 で はな く,副 大 統 領 候補 にス- ル
した人 び とで あ る。 プ リア ンガ ンは地 理 的 理
トが ノ ミネ ー トした と きで さえ ,「意外 」との
由 もあ って , イス ラム が入 って くるの は,北
受 け とめ方 が一般 的 だ った とい う [
Redaks
i
海岸 よ り も遅 れ た 。 オ ラ ンダ植 民 地 化 過 程 の
Te
mpo 1983a: 12-13]
。 こ こで は, ス ンダ
な か で は, オ ラ ンダ は イス ラム に手 こず って
人 の要 人 t
okoh と目 され る ウマ ル ・ウ ィ ラハ
い る。 プ リア ンガ ン一 帯 を植 民 地 の後 背 地 と
デ ィクス マ を と りあ げ ,ス ンダ人 社 会 の 中枢
して ゆ くうえ で , ともに イス ラムを異 化 す る
にあ る背 景 を考 察 して み る。
とい う点 で , あ るい は一 種 の共 鳴 関係 が な り
ウマ ル ・ウ ィラハ デ ィクス マ が副 大 統 領候
Te
mpo(
『テ ンポ』
)
た った か も しれ な い, とい うの が第 2の推論
補 と して登 場 した と きの
で あ る。 そ の 中枢 と して利 用 され た の がバ ン
誌 の人 物 紹介 は, ス ンダ社 会 を考 え る うえで
ドンで あ る (バ ン ドンの形成 につ いて は ,村
参 考 にな る。ス ンダ世 界 とそ こを足 かか りに,
井 [
1983]を参照 )0
いか に よ り中枢 の (この場 合 イ ン ドネ シア)
世 界 に到 達 した か とい うこ とが示 唆 され て い
ⅠⅠⅠ ス ンダ世 界 の中枢 と周辺
るか らで あ る。
この記 事 は 「ス メダ ン出身 の身 ぎれ いな人
1983年 3月11日の国民 協 議 会 M PR 総 会 は
物 」Or
ang Be
r
s
i
h dar
ュSumedang とい う見
ス- ル ト大 統 領 を 4選 す る と と もに,副 大統
出 しで始 ま る。 そ の下 に 3行 の リー ドが書 か
領 と して ,新 た に会 計検 査 院 BAPEKA 総
れ て い る。
裁 の地 位 に あ った退 役将 軍 ウマ ル ・ウ ィ ラハ
「ウマル は サ ンパ ル と ラ ラブを好 み ,ll'
デ ィクス マ UmarW i
r
ahadi
kus
umah を副 大
PKI (イ ン ドネ シア共 産 党) の残 忍 さ に涙
統 領 に任 命 した。 ス ンダ人 と して は初 の副 大
す る。青 年 の ころ は喧 嘩 の 名手 j
ago。質 素
統 領 で あ る 。10) もと も と中央 政 界 - の ス ンダ
な生 活 をす る この大 物 t
okol
l は "身 ぎれ
人 の進 出 は, ジ ャ ワ人 や ミナ ンカバ ウ人 ,バ
い" で 寡 黙 な 人 だ が 仕 事 好 き」 [
Redaks
i
タ ック人 な ど に比 べ て劣 勢 で あ った といわ れ
Tempo 1983b:15]
。
て い る (た とえ ば,後藤 [
1972:3033]
)。現
ウマ ル は1924年 , プ リア ンガ ンの懐 , ス メ
政界 に お いて も, ア リ ・サ デ ィキ ン元 ジ ャカ
ダ ン県 シ トゥラ ジ ャ Si
t
ur
a
j
a に生 ま れ た。
ル タ知 事 や ア ミル ・マ フム ド国民 協 議 会議 長
シ トゥ ラジ ャは小 高 い山 に囲 まれ , きれ い な
(
前 内務 相) な ど, ス ンダ人 で全 国 に知 れ渡
川 も流 れ る,典 型 的 な プ リア ンガ ンの 田園地
った政 治家 はか な り限 られ て い る。 ウマ ル ・
embur kt
l
r
i
ng
帯 で あ る 。 「わ がふ るさ と」 i
10) 共和国独立後の大統領 (
スカルノ,スハル ト)
はいずれ もジャワ人,副大統領は- ッタ Ha
t
t
a
,
Muh.
(
1
945
-1
95
6
年)が ミナ ンカバ ウ人,
-メ ン
ク ・ブオノ Ha
me
ngkuBuwonoⅨ,Sr
iSul
t
a
n
(
1
96
7
-1
97
3
年)がジャワ人,アダム ・マ リク
Ma
l
i
k,Ada
m (
1
97
3
-1
9
83
年)がバタ ック人で
あ った。
なお1
94
5
-1
9
65
年までに,名目的にせよ
実質的にせよ1
3
人の首相経験者がいるが,ス ン
ダ人首相はジュア ンダ Dj
ua
ndaI
くa
r
t
a
wi
d
j
a
j
a
だけであ った [
Fi
nc
h,Sus
a
n;a
ndLe
v
,Da
ni
e
l
1
96
51
。
とい う こ とばを ス ンダ人 な らば思 い浮 かべ る
こ とだ ろ う。 た だ , ウマ ル は メ ナ ックの家 系
に生 ま れ た。父 は チ ア ウ ィ Ci
awi(タ シクマ
ラヤ県 )の ウェダ ナ wedana12) を務 め た人 物 ,
ll) 生野菜にサ ンパルをつけて食べるのは,ス ンダ
人の好む食習慣。本論冒頭の漫談を想起された
い。
県) と Ke
c
a
ma
t
a
n
1
2)We
da
na は,Kabupa
t
e
n(
(
那)のあいだにあ った,かつ て の行 政 単 位
Ke
We
da
na
a
nの良にあたる役職。
85
東 南 ア ジア研 究
2
2
巻 1号
1番 目の母 も 2番 目の母 もメ ナ ックの 出で あ
で あ る ウマル は, シ リワ ンギ に属 す る こ とに
った。 だ か らこそ ,彼 は ELS (
Eur
opes
c
he
よ って ,国家 中枢 の価 値 (た とえ擬 制 的 な も
Lage
r
e Sc
hool
, ヨ ー ロ ッパ 下 級 学 校)お
ので あれ) に,比 較 的容 易 に移行 で きた ので
よび MULO (
Me
e
rUi
t
gebr
e
i
d Lage
rOn-
はな いか。 なぜ な らば, ス ンダ社会 の 中枢 そ
de
r
wi
j
s,上級 学 校)で教 育 を受 け られ た ので
の もの が, これ まで みて きた よ うに,擬 制 的
あ る。 日本軍 政下 に おいて郷 土 防 衛 義 勇 軍
中枢 だ った か らで あ り,真 の 中枢 を形成 しえ
PETA
なか った か らで はな いか。`
`
敬 虚 な イス ラム竹
に入 り, 軍 事訓練 を受 けた ことが ,
5年 9月
そ の後 の軍 人 の人生 を決 めて い る。4
とい う命 題 の下 に "反 共 産 党'
'の価 値 を生 ぜ
TKR に
しめ , メ ナ ックや墓 参 りとい う価 値 の 下 に
加 わ り,以 後 , シ リワ ンギ師 団 において独 立
"反 ダ ルル ・イス ラム'
'
た りうる とい うス ンダ
戦 争 を闘 い, の ち国軍 幹部 - の道 を登 りつ め
社会 の二 重 的性 格 こそが, ス ンダ社会 や ス ン
て い る。 も し,今 回副 大統 領 に選 出 され る こ
ダ人 を ,国 の レベルで きわ だ たせ ぬ要 因 にな
年 9月30日
とにな った要 因を探 るな らば ,65
って い るのか も しれ な い。 した が って , 自明
事 件 の際 に ジ ャカル タ軍 管 区司令 官 の立場 に
の こ とだ が,ス ンダ は ジ ャワで もスマ トラで
KOS
TRAD
もな い。 また今 日の時代 にあ って は ジ ャカル
に は,直 ちに独 立軍 た る人 民 治安軍
あ り,す ぐさま陸軍 戦 略予備軍
司 令官 だ った ス- ル ト少将 (当時)を補佐 し,
タで も東 テ ィモ ール で もな いので あ る。
共 産党 弾圧 で手 柄 をたて ,ス- ル トの覚 え が
ス ンダ語 につ ぎの よ うな諺 が あ る。
な イス ラム教 徒」 といわ れ る一 方 ,何 か難 し
Bas
amaht
e
ukududi
be
ul
i(こ とばは買 う
必要 がな い).
い問題 に直 面 す る と 「ふ るさ と シ トゥラジ ャ
これ は,人 に対 して失礼 にあた らな い丁 寧
の母 親 の墓 を お参 りす る」 ともい う。 かつ て
1
6m芭S
)こ とば とい うもの は, お金 を 出 し
な (
ウマル は "最 もよい イ ン ドネ シア語 を話 す 1
0
て買 え る もので はな い,だ か らよ く学 ん で習
人 " のひ と りに選 ばれ た こ ともあ る。
得 しな さい とい う意 味で あ る。 だ が, かつ て
めで たか った こ とにあ るだ ろ う。 彼 は 「敬 慶
ウマル ・ウ ィ ラ- デ ィクスマ は地 味 な人 物
の メナ ックや その近 くにいた人 び と (
教員,
の よ うだ。 オ ラ ンダ が秩序 づ けた もので はあ
宗教 指 導者 な ど) は別 に して ,多 くの カネ も
るにせ よ,半 ばス ンダ の伝 統 的世 界 で少 年 期
財 産 もな い人 び とに と って は,1
6m芭S な こ と
を過 ご して い る。 もちろん 学校 を通 じて ヨー
ばの世 界 に近 づ くの は, それ ほ ど容 易 な こ と
ロ ッパ 支 配者 の文化 が深 く少 年 に浸透 した こ
で はな い . Lさm芭Sな こ とばを 使 え な い人 び
とで あ ろ う。 そ の支 配 者文 化 はス ンダ の メ ナ
と,プ リア ンガ ンの く洗練 され た〉 ス ンダ語
ック社 会 の秩序 を利 用 し, メナ ック社会 自体
を使 え な い人 び とは kas
arだ と陰 口を きかれ
も支配 者 の秩序 に支 え られて い た と い え よ
て差別 され る。 テ レボ ンやバ ンテ ンな ど北 海
う。 ス ンダ社 会 の伝 統 的支配 層 とい って も,
岸 の人 び とは, そ もそ も中枢 部 ス ンダ社 会 の
植 民地 下 にお いて は決 して真 の支 配者 で もな
周 辺人 で あ る と位 置づ け られ る。 メナ ックか
く, 中枢 で もな い ことはい うまで もな い。
ら遠 い人 び と,町 か ら遠 くに 住 む 人 び と は
団 は,共 和 国 た る価 値 を宿命 づ け られ , さ ら
ur
angdus
un,ur
angkampung (田舎 者) と
陰 で いわ れ軽 蔑 され る。
には反共 産党 た る ことを も宿 命 づ け られ て い
だ が, こ う した 中枢 部 か ら軽 蔑 され た り,
た。 さ らには反 ダル ル ・イス ラムで もあ る。
ス ンダ社 会 に根 を もち, ス ンダ社 会 エ リー ト
馬 鹿 に され た りす る民 衆 の なか には,つ ね に
彼 が軍 簿 を お くことにな った シ リワ ンギ師
86
象徴 的 な人気者 が存在 す る。 ス ンダ社会 の人
村 井 :ス ンダ人 と ス ンダ 世 界
気 者 は いまで もカバ ヤ ン Kabaya1
1で あ る。
ィの そ ばだ よ .
/」
カバ ヤ ンが いつ ごろか ら登 場 した か は分 か ら
「カバ ヤ ン,- ジにな る」
な い。 す で に何 百 年 も昔 か らいた とい う人 も
い る。 つ い最近 も映 画 に登 場 した り, カセ ッ
ハ ジ (メ ッカ巡礼 者) の優雅 な生 活 を み
ト ・テ ープ に出演 した り して い る(
⊃カバ ヤ ン
な が ら, カバ ヤ ンもあ る 日,- ジにな らん
はユ ーモ ラスで あ る ことによ って ,民衆 の憂
と決意 した 。 - ジは ど この家 で も,大 そ う
さを晴 ら して くれ る。 「馬鹿 」を演 ず る こ とに
ご馳走 され る こ とを知 って いた ので , カバ
よ って ,人 び とを安心 させ て くれ る。 いつ も
ヤ ンは- ジに変装 し, ご馳走 にあ りつ こ う
貧 しい こ とによ って,や は り人 び とに安心 感
と思 いた った のだ。 メ ッカに行 くカネな ど
を与 え る。 だ が , と きに権威 や富 が な い居 直
あ ろ うはず が な い にわ
か- ジで あ る。 - ジ
●●●
りと,機 智 を働 かせ るこ とによ って権 力者 を
にな りす ま した カバ ヤ ンは,義父 の家 を訪
か らか い,愚弄 もす る。 この ことに人 び とは
れ,まん ま と鳥 肉 にあ りつ くこ とがで きた O
喝 采 を送 る。 彼 は不 品行 だ し,狼 雑 だ し,粗
義父 は怒 り, こん どは何 と自分 がハ ジに化
野 kas
arで あ る。 だ か らこそ人気 者 なの だ。
けて, カバ ヤ ンの家 に来 た 。 カバ ヤ ンの家
Kabayan は無 数 にあ る。 オ ラ ンダ人 , オ ラ
には家 具 もな けれ ば食 べ もの もな い。恥 じ
とう
た カバ ヤ ン,女 房 を呼 び 「義父 さん の家 に
ンダ支配 をか らか うこ と, ア ラブ人高 利貸 を
山羊 が い る。 あれ を殺 して- ジ様 に差 しあ
か らか うこ と, 日本 の軍人 を冷 笑 す る こと,
げ よ う」 と大 声 で い う。 義父 はそれ を聞 い
宗教 指導者 を ひやかす こ と, メ ナ ックにあ こ
て大 あわ て。 しゃ っばを 脱 い で 逃 げ 帰 っ
がれ るが決 して実現 しな い こ と, ジ ャワ人 を
た 。
カバ ヤ ン讃 Car
i
t
aKabayan,Dongeng Si
お と しめ る こ と,.
‥‥.
要 す るにス ンダ民 衆 の
不 満 や憂 さ晴 ら しは何 で もテ ーマ にな るので
あ る。三 つ の カバ ヤ ン帝 を紹 介 しよ う。
「カバ ヤ ン夢 をみ る」
「カバ ヤ ンとジ ャワの人 」
あ る時,カバ ヤ ンは ジ ャワ人 に呼 ばれ た 。
食 卓 には野菜 とサ ンパ ル が あ り, ジ ャワ人
カバ ヤ ンの義父 は夢 占いを信 じて い る。
の主 人 は 「これ はサ ンパ ル です。召 しあ が
カバ ヤ ンは河 口近 くで マ ンデ ィ (
沫 浴) を
って下 さい。 こち らは ジ
ンガ
●ャ
●●
●ン
● (ジ ャワ
した夢 をみ た と義父 にい った 。
語 で野菜
● ●, イ ン ドネ シア語 で 『い けな い』
「それ は, お前 が判事 にな れ る とい う夢
だ」 と義父 はい う。
「
いや ,河 口近 くじゃな くて , もうち ょ
っ と上 流 だ った」 とカバ ヤ ン。
「そん な らウェダ ナ になれ るよ。
」
「もう少 し川 上 だ った み た いだ。」
の意 疎) です」 と, カバ ヤ ンにい った。 ジ
ャワ語 を知 らな い彼 は ジ
●ャ
●ンガ
●●ンを
● インド
ネ シア語 の 「いけな い」とい う意 味 と思 い,
野菜 を食 べず , た だただ涙 を流 しな が ら,
辛 い香辛料 だ け食 べ た。
別 の あ る時 , カバ ヤ ンの家 に ジ ャワ人 が
「そ い じゃパ テ ィ Pat
i様 だ。」
来 た。 この客 は カバ ヤ ンに商売 の資金 を提
「も うち ょっと上 。
」
供 して くれ る とい うので ,彼 は下 - もおか
「ブパ テ ィ (
県 長) 様 だ ぞ。」
ぬ もて な しを した。 ジ ャワ人 は甘 い ものが
「もっ と上 だ と した ら ?」
好 きな ので, カバ ヤ ンは お茶 にた っぷ り砂
「虎 に食 わ れ ちま うさ。」
糖 を 入 れ , な お 「フ ン トゥ ・ア ミス ?」
「じゃあ俺 が マ ンデ ィ して た め は ブパ テ
(甘 くあ りませ ん か ?) とス ンダ語 で尋 ね
87
東南 ア ジア研 究
2
2
巻 1号
た。 ア ミス とい う の は ジ ャワ語 で 「魚 臭
ジ ャカル タ は, モ ノ とテ クノ ロジーを外側 の
い」 とい う意 味 な ので, ジ ャワ人 は, コ ッ
中枢 か ら移入 す る橋 頭壁 と して の役割 を , ま
プを と りあげ,匂 いを喚 ぎ 「い いえ」 と答
す ます高 めて い る。 ジ ャカル タを と り巻 くス
えた。 カバ ヤ ンは客 の機 嫌 を そ こね て は大
ンダ世 界 は,逆 に ジ ャカル タ によ って浸潤 さ
変 , と考 え ,な お も砂 糖 を足 し,また 「フ
れつ つ あ る。
ン トゥ ・ア ミス ?」と尋 ね る。 客 は ま た
「ス ンダ世 界 の個性 (ア イデ ンテ ィテ ィ)
「い いえ」 と答 え る。 こん な こ とを繰 り返
は, いまや な くな って しま った 。 ス ンダ の人
して い る と,つ い に コ ップ は砂糖 だ らけ。
びと (
KiSunda)と して の誇 りもな くな って
客 はか らか われ た と思 い,怒 って帰 って し
nt
o博
しま った。 た とえ ば, サ ネ ン ト Sane
ま った 。
士 が報告 した よ うに,バ ン ドン工 科大 学 I
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カバ ヤ ンた ちの住 む世 界 は 1
6mさS な ス ン
の ス ンダ入 学生 のな か には, ス ンダ族 た る こ
ダ語 の世 界 で はな い。 エ ライ さ ん に 精 一 杯
とを語 りた くもな く,認 めた くもな い者 す ら
1
6m芭Sな こ とばを使 お うと努 力 す る もの の,
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い る とい うで はな いか」 [
つ いつ い 間 違 え 冷 や 汗 を か くこ とにな る。
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私 は いただ く) とい うべ き とこ
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私 は召 しあが る)な ど とい っ
こ うい う嘆 きが ス ンダ人 長老 のな か か ら聞
芭m芭S- の努 力 が,結
て しま うo せ っか くの 1
かれ るの も無 理 はな い。 それ だ け急速 な 「開
果 と して kas
arにつ な が り,kampungan (田
発」 が進 展 して い るので あ る。 ただ問題 な の
舎臭 さ) - と押 しや られて しま う。 だ か らこ
は,強力 な ,外 力 に多分 に依 存 した ,上 か ら
そ, ス ンダ周辺世 界 で は カバ ヤ ンの よ うな人
の 「開発 」 が ,多様 な地 方 文 化 , さま ざま な
物 を準 備 しな けれ ばな らな いので あ る。 カバ
人 び との, さま ざまな営 み を , ロー ラーで押
ヤ ンが歯 向 か った り,
茶 化 した りす る相手 は,
しつぶ す よ うに圧 殺 して ゆ くこ とで あ る。有
オ ラ ンダ植 民地 主 義 で あ り,貴族 た ちで あ り,
機 的 な国民統合 とか け離 れ た, モ ノによ る支
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uh で あ り, 日本 軍 人 で
み や この あ る町 da
配原 理 こそが二
賢徹 して い るので あ る。
あ る。 最近 で は,「開発 」の象徴 た る ビマ ス計
ス ンダ の古 き社会 に青 い鳥 が いたわ けで は
画 に も, そ の刃 が向 け られ て い る (た とえ ば
な い。 こ とば に呪縛 され, こ とばを支 配 の道
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具 と して も利用 した植民地 封建 社会 が そ こに
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)。 カバ ヤ ンが 日々暮 ら して い るの は地 理
はあ った。 に もか か わ らず ,新 たな モ ノ によ
的 ス ンダ で あ る。彼 が不 満 に思 い,歯 ぎ しり
る支 配原 理 を呪 う場合 ,の っぺ り した顔 しか
し,歯 向 か って ゆ く相手 も主 要 には文化 総体
もたぬ 「ス ンダ世 界」 とい う もの が立脚 点 と
と して の ス ンダ か も しれな い。 だ が, そ の 日
され る皮 肉が あ る。 そ の 「ス ンダ世 界」 が擬
日の暮 らし,歯 ぎ しりの中味 は普遍性 を帯 び
制 的仮 面 を剥 ぎ,個別 ・周 辺 世 界 で あ る が
た もので あ る。 た だ の人 間 とい う意 味 にお い
く人 間〉 とい う一点 にお いて普 遍世 界 で も あ
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る とい うこ とを強力 に主 張 した とき, あ るい
独 立後 40年近 い 日々が過 ぎた。 強 い国家統
は真 の ス ンダ世 界 の ア イデ ンテ ィテ ィが確立
一 の意思 と施策 , さ らには, この十 数年 の モ
され るので はな いだ ろ うか。 ス ンダ の コー ラ
ノ(
商 品)とテ クノ ロジー によ る 「開発 」, こ
mbo は, こ
ス ・グル ープで あ る ビ ンボ ー Bi
れ らは, ジ ャワや オ ラ ンダ とい うかつ て の 中
の時代 の ス ンダ とイ ン ドネ シア,そ して く人
枢以 上 に,強力 な 中枢 を形成 して きて い る。
間〉 を琴 と笛 に乗せ て , ス ンダ語 で , ス ン
88
村井 :ス ンダ人 とス ンダ世界
ダ の メ ロデ ィーで, う た っ て い る [
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肥 えて い る
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パ ジ ャジ ャ ラ ンの残 影
食 べ もの も着 る もの も足 りて い る
肥 え栄 え るなん て幻想 さ
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エ ミル ・サ リムが い うことに ゃ, いまや森
が危機 に瀕 して る
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エ ミル ・サ リムが い うことに ゃ, ほん とに
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とって も恐 ろ しい
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静 かで安 らかな暮 ら しが した い
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苦 しいの に きれ いな もの ばか り着 るな
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ああ,かわ いそ うな西 ジ ャワよ
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年 と ともに苦 しみ が増 す
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わ が祖 国,土 と水 の イ ン ドネ シアよ
人 び とは平和 な国を花 咲 かせ
人 び とは豊 かな国を花 咲 かせ
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肥 え栄 え,豊 か で活 き活 き と
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豊 か な国 イ ン ドネ シアの実現 は
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私 た ちすべ て にかか って い る
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が強いといわれ,1
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年まで開発 ・環境
監察国務相,現在は人 口問題 ・環境担当の国務
相である。
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