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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL スンダ人とスンダ世界(<特集>東南アジアの世界像) 村井, 吉敬 東南アジア研究 (1984), 22(1): 75-91 1984-06 http://hdl.handle.net/2433/56162 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 東 南 ア ジ ア研 究 2 2巻 1号 1 9 84年 6月 ス ン ダ 人 と ス ン ダ 世 界 村 井 芦買 Eコ The Sundaneseand Thei rW orl d M URAIYoshinori* Thi ses s ay l San at t emptt O di s cus st heet hni c c har act erofSundanc s e( o ran g Sunda)whomai nl y l i vei n We s tJava. Al t houg h t he yar et hes econd l a,1 tS e emst hatt he i r ma J ore hni t cgr oupi nI ndone s et hni cc har ac t eri sl e s scons pi c uoust har ]t hatoft he Javanes e,Mi nangkabau or Bat aks ・ The Sundane s e have t hei r own t r adi t i onalwor l d ( a/ am Sunda)bywhi c ht he yar edi s t i ngui s he df r om ot her et hni cgr oups ・ Thee l e me nt sofa/ am Sundaar e: ( 1)Sundanes el anguage( bas aSunda) ,( 2)di s t i nct i ve l egends ,myt hs ,f ol kt al e sandadat( c us t omar yl aw) , ( 3)auni quei mageoft hedwe l l i ngar ea( Aampun g) and i t ss ur r oundi ng l ands c ape,whi ch c ons i s t sof dens ef or es t si nt he mount ai n ar e as , hi l l s and br ooks ar ound t he hamPun g,r i c e丘et ds( ∫ awah, s e ran g) ,pal m t r e e sand bamboo gr ovesneart he hamPun gands oon. The Sundane s e wor l di shi e r ar chi c. I thasa c e nt erand aper i pher y,de ine f di nt e r msofs oci al c l as sandr egl On・ Thec ent eri st hePr ianganar ea, par t i c ul ar l y Bandung, wher e hi s t or i cal l y t he ar i s t ocr at i c and bur eaucr at i ce l i t es( me 7 1 ah)have bee I ICr eat e dbys uc hout s i depower sast heJavanes e andt heDut c h. Thes ee l i t esar ec har act e r i ze dby t he i rabi l i t yt ous er e ined l f anguage( b a∫ al e me s ) ・ Ont heot herhand,t hewor l dofc ommonpeopl e i s t he wor l d of unr e 丘ne d ( ha∫ ar) l anguage. Kal J ayan,aher ooff bl kt al e s 〉l Sat ypi c alc har ac t er oft heha∫ arwor l d. Thi sc har act eral s o hast he pot ent i alt o over t hr ow t he hi er ar c hi c Sundanes e cl as ss oci e t y,l J eC auS et hema j Or l t yOft heSundanes e be l ongt ot heha∫ arwor l dandIl i keKabayan,t he y s omet i me sc r i t i c i zeandf ig h tagal nS tt her ul i ngc l as s ・ I nt hi sr es pec ts uc hac har ac t erasKabayanmi ght exi s tamongoppr es s e dpeopl eal lovert hewor l d・ 「ひ と りで 歌 で も うた うさ。」 は じ め に "ワル ン ・ コ ピ ・プ ラ ンボル ス" W arung 「ふ た りだ った ら ?」 「チ ェス を楽 しむ。」 el ucon,l awak 又opi Pram bors とい う漫 談 l 「 3 人 で は ?」 の グル ー プ の ,南 ス マ トラ州 パ レ ンバ ン Pal 「ダ イ ヤ モ ン ド ・ゲ ー ムだ ろ。」 l em bang で の ライ ブ シ ョー の一 場 面 を まず 紹 介 しよ う [Kasi no; Dono; Nanu ; and H endro 1 980( ? ) ] 。 「バ タ ック人 orangBatak が ひ と りで い た らど うす る と思 う ?」 *上智大学 ア ジア文化研究所 ; I ns t i t ut e ofAs i an Cul t ur es , Sophi a Uni ver s l t y, 7 -1 Ki oi cho, Chi yodaku,Tokyo102,Japan 「じゃあ 4人 な ら ?」 「トル トル遊 び だ な。」 「5人 , 6人 以 上 にな る とだ な 。‥….戸 や 窓 を よ く閉 め て おか ね ば な らな い。 」( 大 笑) 「じゃあ , ジ ャ ワ人 Orang Jawa が ひ と りで い た らど うな る ?」 75 東 南 ア ジア研 究 「ハ トを鳴 か して遊 ぶ さ。 」1' 2 2 巻 1号 こ う した民族 ( 種族) 問 を め ぐ る 笑 い 話 「ふ た りな ら ?」 e t hni c alj oke は,「多種族 国家」 イ ン ドネ シ 「しらみ と り。」 アに は きわ めて豊 富 にあ る。共 通言 語 た るイ ?」 ン ドネ シア語 の話 し方 の性 癖 ,発 音 の くせ , 「3人 「ガ ム ラ ンを奏 で る。」 名前 のつ け方 ,食 習慣 ,一般 的性 癖等 々にお 「4人 にな る と ?」 いて, ど こか の種族 が 中心 にな って ,他 種族 「ワヤ ン ・オ ラ ン( 人 間 のや る ワヤ ン劇 ) を ひや か し,か らか い,あ るい は お と しめ る だ ろ うな。」 わ けで あ る。 イ ン ドネ シアは公 的 には ,1 928 「5人 以上 とな る と, ジ ャワ島 の外 に移 住 t r ans mi gr as iだ . /」 (大笑) 年 の 「青 年 の誓 い」Sumpa hPe mudaが称揚 した よ うに 「一 国家 ,一 民族 ,一言 語 」 の国 「も し女房 が まだ いな いん な ら, ス ンダ で あ るか ら,堅 苦 しい公 の場 で種族 意識 を発 人 o r ang Sunda を探せ 。 西 ジ ャワの人 だ 露 す る こ とはタ ブ ーで さえ あ る。 しか し, そ よ。」 れ ぞれ の生 活 の場 にお いて は,陰 に陽 に種族 「ど う して ?」 「ス ンダ人 は pr akt i s ,m礼ni s ,e konomi s 意識 が顔 を 出す 。 ジ ャカル タ中央 に堂 々 と奪 え るあの独 立記 …s e di ki tbe r kumi s( 実用 的 で,可 愛 ら し 念 塔 Mo nas ,TuguNas i ona lと, そ の内部 の く,経 済 的で , ‥‥‥ち ょっ と口ひ げ も生 え 荘 厳 た る 「統 一 国家」 を シ ンボ ライズ した種 て い る) だか らさ。 」( 笑) 種 の しか け, これ は統一 国家 形成 の強 固 な意 「ど う して実用 的 なん だ ?」 思 のあ らわれで あ る と ともに,統 一 を脅 か し 「ス ンダ人 は いつ も葉 っぱ を食 べ もの に かね な い多種族 エ ネル ギ ー拡 散 - の監視 の役 利 用 す るか らさ。」 「ラ ラブ ・ラ ラバ ン l al ab1 al aban とい うや つ だ な ?」 割 を も担 わ され た もの と思 わ れ る。もちろん, 統 一 を脅 かす もの は種族 文 化 だ け で は な い し,ご く最近 にその よ うな兆候 はな い。 だ が, 「そ う。 だ か ら米 が とれ な い ときで も, イ ン ドネ シア国民 の多 くは, その 日常性 にお 大 して食 う に は 困 ら な いの さ。 サ ンバ ル いて種族 ・地 方 文 化 を背負 い,公 の場 におい s amba l( 番 辛料)で も あ げて畑 に放 り出 し て イ ン ドネ シア文 化 を背負 うとい う,二 重 文 や, それで生 きて いけ る って い うわ けだ。」 化 ・二 重言 語 の状 況 のな か に生 きて い る。 こ ( 大 笑) の二 重性 が うま く調和 し,強 固 な統 一 国家 の 「キ ャ ッサバ芋 の葉 っぱ も,パ パ イ ヤの 形成 にのみ向 か う とだ けは 言 い 切 れ な い。 葉 っぱ も, ジ ャ ンプ- j ambu ( 果 実 の一 195 0年 代 の多 くの地 方 薮 乱 はまだ それ ほ ど過 荏) の葉 も,バ ナ ナの葉 っぱだ って食 べ ち 去 の こ とで はな いので あ る。 くイ ン ドネ シア ゃ うわ けだ。」 性 〉と く地 方性 〉, あ るい は よ り普 遍 的 タ ー ム 「た だ一 つ食 べ な い葉 っぱ が あ る。 それ は窓 の葉 2'da unj e nde l aだ。 」 (大笑) に お き換 え る とす れ ば く中枢 )と く周辺)とい う問題 は,解 決済 み の問題 とはいえ な い。 と 1) シラコバ ト S t r e p t o pe l i abe c a o c t oない しベエ りわ ゅ,現 今 の く開発 政 治〉 の流 れ のなか で バ トS t r e pt o pe l i at r a nque b a r i c a に似た小型の ハ トp e r kut u tを,鳥カゴに入れ,高い樺の先 に吊すと,- ト同士が呼び合い美声を競 う。ジ ャワでは多 くの家でこの- トが飼われている。 2 )板でできた窓を da unj e nde l a( 窓の某)という。 考 え た場 合 ,く地 方性〉く周辺性 ) の問題 が ク 7 6 ローズ ア ップ されて くる。 これ は単 な る並 列 的 な種族 文 化 の問題 で はな い。 さて ,本 小論 は首都 ジ ャカル タを と り囲 む 村井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界 形 で存在 す る くス ンダ世 界〉 とい うものを考 Hugo 1 978:27-2 8] 。1 930年 の統 計 に ない [ えて み た い。 ジ ャワ人 の世 界 は ど強 い求 心性 よれ ば, 蘭領 イ ン ドの総 人 口は約 6, 073万 人 も中枢 意識 もな い,か とい って ミナ ンカバ ウ 4万 人 ,中国 で, このなか には ヨー ロ ッパ人 2 やバ タ ック人 の世 界 ほ どの 自己主 張 もな い。 2 3万 人 を は じめ と した 外 国 人 が 1 59万 人 人1 ど ち らか とい うと捉 え ど ころのな いのが ス ン ( 総人 口の2 . 62%)含 まれ て い る。 土着人 口 ダ人 の世 界 で あ る と考 え られて い るよ うに思 i nhee ms c hebe vol ki ng は 5, 91 3万8, 067人 で わ れ る。 こ こで は,他 種族 世 界 との比較 を論 あ った 。うち,ス ンダ人 Soe ndane e z en と して ず るので はな く, ス ンダ人 or ang Sunda の 分類 され て い る者 の数 は85 9万 4, 834人 ( 総人 am Sundaとい う つ くって い るス ンダ世界 al 4. 2%) で , ジ ャワ人 の2, 781万 人 ( 45 . 8 口の1 もの が,一 体 ど うい うものな のか ,そ の あ ら % ) につ ぐ第 2の種族 集 団 とな って い る[ Ne - ま しを述 べ , さ らにそ の ス ンダ世界 のな か の de r l ands ch l ndi e 1 940:5-1 3] 。3' いま, 当 中枢 と周 辺 の問題 に触 れ る ことによ って ,他 時 の 行 政 区 分 で あ る西 ジ ャワ州 の種族 世 界 との比 較 の視座 を提 供 し, さ らに s i We s トJava, こ こにはバ ク ビア理事 州 Re イ ン ドネ シア とは何 か , とい うこ とを考 え る dent i e】 】 at avi a も含 まれて い る) に住 む人 の 際 の ささや か な素材 を提供 で きれ ば と考 えて うち, ス ンダ人 が どの くらいのパ ーセ ンテ ー い る。 な お, ここで 考 察 さ れ るス ンダ世 界 ジを 占め るか をみて み よ う。西 ジ ャワ州 の総 は,主 と して ,バ ン ドンを 中心 と したプ リア 1 40万 人 ( 総人 口の1 8. 8%),うち外 人 口は約 1, ンガ ン Pr i angan 地 方 で あ るこ とを お断 り し 国人 は3 6万 人 弱 ( 3.2 %), ジ ャワおよびマ ド て お きた い。 ま た社会 経 済構 造 の分析 はいず ゥ ラ島以 外 の いわ ゆ る外 島 出身者 は約 5万人 れ稿 を あ らた め言 及 す るつ も りな ので,本 稿 ( 0.4 %) で あ り, ス ンダ人 は全 西 ジ ャワ人 口 は序 論 的 な性 格 の もので あ る ことを お断 り し 2.6%,828万 人 ほ どを 占めて いた 。した が の7 た い。 9万 人 の うち, 96 % って , ス ンダ人 総人 口85 ( Pr ovi nc i e が西 ジ ャワ州 に居住 して い るこ とに もな る。 Ⅰ ス ンダ世 界 の あ らま し 1 980年 現在 ,西 ジ ャワ州 お よび ジ ャカル タ 特別 区 の総人 口は 3, 396万人 とな って お り, ス ンダ人 は今 日の行 政 区分 で いえ ば,主 と 0年 前 の 3倍 近 い数 で あ る ( 表 1を参 これ は5 して西 ジ ャワ州 Pr opi ns り awaBar atおよび 照)。 これ は明 らか に ジ ャカル タ の急 膨 張 の r ah KhuS uSIbu 首都 ジ ャカル タ特別 区 Dae 結 果 で,ス ンダ人 人 口の急 増 で はな い。現在 , . a, DKIに居住 して い る。 種族 集 団 Kot aJakar t uku Sunda,s ukubangs a と して の ス ンダ族 s ス ンダ人 が どの くらいのパ ーセ ンテ ー ジを 占 め るか ば,先 に述 べ た よ うに明 らか で はな い。 Sunda が ど れ く ら い の 数 で あ るのか は, 一 番 単純 に, イ ン ドネ シア人 総 人 口成 長率 と 今 日の人 口統 計 か らは判 明 しな い。 なぜ な ら ス ンダ人 人 口成 長率 が比 例 関係 にあ る と考 え ば, イ ン ドネ シア共 和 国 が独 立 して以 来 ,そ 090万人 ほ ど た場 合 , ス ンダ人 の人 口は約 2, 1 961年 ,71年 お よび80年) にお の国勢 調 査 ( いて は,外 国籍 の者 を除 いて種族 的背 景 が調 査 され た こ とがな か った か らで あ る。 した が って ,私 た ちが利 用 しうる全 イ ン ドネ シア ・ レベルで の種族 別 人 口統 計 は, オ ラ ンダ によ って な され た1 930年 の セ ンサ ス に遡 る以 外 に 3 )その他,マ ドゥラ人4 3 1 万人 ( 7 . 1 %) ,ミナンカ バウ人1 9 9 万人 ( 3 . 3 %),ブギス人1 5 3 万人 ( 2 . 5 %),バタ ック人 1 2 1 万人 ( 2 . 0 %) ,バ リ人 1 1 1 万人 ( 1 . 8 %) ,バクビア人9 8 万人 ( 1 . 6 %) ,マ レー人 9 5 万人 ( 1 . 6 %) , バ ンジャル人 9 0 万人 ( 1 . 5 %) ,アチェ人 8 3 万人 ( 1 . 4 %)など とな っている。 77 2 2 巻 1号 東 南 ア ジア研究 表 1 西ジャワ州の人 口の推移 ( 単位 :1, 000 人 ,% ) 1 93 0年 西 ワ 州 ジ ャ カ ル タ ジ ャ ワ ・マ ドゥラ イ ン ド ネ シ ア 西ジャワ州の人 口比 西ジャワ州および ジ ャカルタの人 口比 ジ ャ 1 961 年 1 0, 8641 ) 1 7, 61 5 53 3 2, 973 41, 71 8 63, 05 9 60, 72 7 97, 085 1 7. 9 1 8.1 1 8. 8 は ジ ャワ人 が 半 数 以 上 に な り, 東 側 の イ ン ド ラ マ 1 971年 1 980年 ユ Indr amayu, チ レボ ン 21, 62 4 4,5 7 9 7 6, 08 9 11 9,2 0 8 1 8.1 27, 454 6, 503 91, 270 1 4 7, 4 90 1 8. 6 Ci rebon で は, ジ ャワ人 が 22 .0 2 3. 0 21 .2 圧 倒 的多 数 と な る。 と く に,イ ン ドラマ ユ県 の場 合, 90% 近 く が ジ ャワ人 で あ る。 これ に対 して ,バ ン ド ンを 中心 と した プ リア ンガ 注 1)行政区分上ジャカルタが含まれているが,ここではジャカル ン地 方 は,ス ンダ人 が9 0 % タの人 口を除いた数値。 出所 :Ne de r l a nds c hl ndi 昌[ 1 940】 ;I ndone s i a ,I 3 i r oPus a tSt a t i s t i k. な い しそれ以 上 を 占めて い 1 981 . Pcnduduk Zndone ∫ i a1 980 me nurutPro Pt n∫ idan Kabu pat en/Ko t amadya. る。 と くに, ス カ ブ ミ Sukabumi県 , チ ア ンジュー ル Ci anJ ur 県 , ガル ー ト とい うこ とにな る。 もちろん ,他 種族 との婚 Gar ut県 , ス メダ ン Sumedang 県 , チ ア ミ 姻 に よ り単一 種族 -規 定 して ゆ くこ と自体 が ス Ci ami s県 は 95 % 以 上 が ス ンダ人 で あ る 困難 にな る とい う事 情 もあ る し,種 族別 の人 ( 図 1参照)。 口成 長率 に相 違 が あ る こ と も 想 定 さ れ る の 現在 の ス ンダ人 の居 住 分布 も,1 930年 当時 で,安易 な断定 はで きな い。 た だ,ス ンダ人 が と比較 して ,大 都 市 (ジ ャカル タ お よび そ の 1 980年現 在 およそ 2, 000万 人 内外 , 総 人 口に 周 辺,バ ン ドン,ボゴ ール Bogorな ど)を除 い 占め る比 率 1 3-15 % ほ どで あ る とい って も, て は大 きな変化 はな い もの と思 わ れ る。 ジ ャ それ ほ ど大 きな間違 いで はな いだ ろ う。 カル タ は首 都 で あ る とい う性 格 上 , そ して人 これ まで , ジ ャカル タ と西 ジ ャワ州 とい う 種構 成 の点 か らもス ンダ地 方 Tanah Pas un- ものを合 わせ て ス ンダ人 の数 を 考 え て き た arSunda に入 れ な い方 が適 当だ と dan,Tat が , ス ンダ人 は地 理 的 な西 ジ ャワに一 律 な割 思 われ るが, ス ンダ人 の居 住 者 が相 当 に多 い 合 で存 在 して い るわ けで はな い。 た とえ ば, とい うこ とだ けは銘 記 して お くべ き で あ ろ ジ ャカル タの場合 ,1 930年 には, ス ンダ人 は 全 人 口の2 5.4 %( 1 3.5万人 )で ,バ ク ビア人 の う。 キ ャスル ズ Cas t l es ,Lanceの推 計 で は, 1 961年 の ジ ャカル タ には約 95. 3万人 の ス ンダ 36.1 % ( 1 9. 3万人) よ り少 なか った 。4) ジ ャ 人 が居 住 して お り, これ は ジ ャカル タ総 人 口 カル タ以 外 の西 ジ ャワを見 回す と,北 海岸 寄 の3 2. 8% を 占めて い る こ と に な る [ Cas t l es りの地 方 は,明 らか にス ンダ人 の比 率 が低 い。 1 967:1 87] 。1 930年 には13.5万 人 , 25. 4% (ただ し大 ジ ャカル タで は1 5万人 ,1 9.1 %) す なわ ち,最 西端 のバ ンテ ン Bant en 地 方 で で あ った か ら,総数 で 7倍 近 くも増 え , ジ ャ 4) この数値はバクビア 中心部 ( Ba t a v i a+Me e s t e r Cor ne l i s )のもの。 バクビア人, ス ンダ人につ いで,人種構成は中国人14.7%,ジャワ人11.0 %, ヨーロッパ人 7.q %などとなっている。 周 t aRa yaの人 辺部を含めた大ジャカルタ Jakar 種構成になると,バクビア人の比率は5 3 . 2 %, % ,中国人 11 .2 %,ジャワ人 7.6 スンダ人 19.1 % となる [ Ca s t l e s 1 967:1 66] 。 78 カル タ の第 1の人 種集 団 にな っ た わ け で あ る。 な お注 目す べ き こ とは, キ ャスル ズ の推 計 によれ ば ,61 年 ジ ャカル タの第 2の人 種集 団 は ジ ャワ人 で ,総数 7 3. 8万 人 ,比 率 25.4 % とな って い る。 ジ ャカル タ の土着 の民 で あ る バ ク ビア人 は,少 数者 にな りつつ あ るので あ 、 ヽ る。 そ の後 2 0年 で ジ ャカル タの人 口は さ らに と北 とで ス ンダ人 とジ ャワ人 が住 み分 けて い 2倍 以 上 にな った。 おそ ら くジ ャワ人 が第 1 る といわ れ る。 南 バ ンテ ンはス ンダ人 が多 く, の人 種集 団 にな り, ジ ャワ人 とス ンダ人 を合 北 バ ンテ ン ( セ ラ ン Serang, アユ ェル Anyer わせ れ ば7 0 % 以 上 にな って い るので はな いだ な ど) は ジ ャワ人 地域 で あ る。 ここに住 む ジ ろ うか。 ャワ人 は, もと も とは中 ジ ャワの デマ ク De - わ れわ れ はス ンダ人 が最 も密 に居 住 して い makや ,西 ジ ャワ東 北 端 の チ レボ ンか ら移 り る地 域 と して ,バ ン ドンを 中心 と した プ リア 住 ん で きた人 々で,純 然 た るジ ャワ人 で あ る ンガ ン地方 を , ス ンダ世 界 の 中心 地 域 と考 え とい うよ りも,ス ンダ人 ,マ レー人 ,ブギ ス人 , る ことがで きよ う ( た とえ ば Pal mer[ 1 967: ラ ンボ ン人 な ど との混血 した ジ ャワ人 で あ る 299] )。 これ に対 して チ レボ ン, イ ン ドラマ とい う [ Kar t odi rdj o 1 966:30] 。 こ こで話 さ ユ の北 海岸 Pas i s i r 地 方 は,む しろ ジ ャワ人 れ る こ とばはバ ンテ ン ・ジ ャワ語 と もいわ れ が優 勢 の 地 域 で あ る。5) 西 ジ ャワ と中 ジ ャワ るし [ Pal mer 1 967:299] , ス ンダ人 た ちは の南 の境 を なす川 ( Ci t anduy川 ,Ci see l川)お 「粗 野 な ス ンダ語 」Sundakasar と もい う。 よび プ リア ンガ ン山地 とい う ものが , ス ンダ 以 上 の考察 か らも明 らか な よ うに, ス ンダ人 とジ ャワの融合 を妨 げて いた のだ ろ う [ Sch- は西 ジ ャワ全 域 に居 住 して は い るが , 中心 は 95 6: 1 04] 。 ただ , 北 海岸 寄 りは川 ri eke 1 あ くまで もプ リア ンガ ン山地 で , こ こを 中心 ( Ci l os ar i川)はあ る もの の,平原 で しか もジ ャワ海 の航海 が容 易 で あ る こ と もあ って , ジ にス ンダ人 の世 界 が展 開 されて きた とい うこ とが で きよ う。 ャワ人 が多数 住 みつ くよ うにな った もの と思 ス ンダ人 とは 「日常生 活 の なかで代 々ス ン わ れ る。一 方 ,最 西端 のバ ンテ ン地 方 は,南 ダ語 およびそ の方言 を母語 と して使 用 し, メ 5) チレボン地方ではスンダ語がより多 く使用され 9 8 0 ] 。 ているともいう [ -ルソヨ 1 ナ ・パ ス ンダ ン ( TanahPas undan)な い しタ タ ール ・ス ンダ ( Tat arSunda)と呼称 され る 79 東 南 ア ジア研 究 こ と もあ る西 ジ ャワ地方 を 出身 地 および居住 地 とす る者 」 と- ル ソ ヨ Har s o j o は定 義 し 980:369] 。 しか し, ス ている [ -ル ソヨ 1 22巻 1号 の世界 が存在 して い る もの と患 われ る 。6' 以 下 , それ ぞれ の要素 を も う少 し具体 的 に 記 して み た い。 ンダ人 がつ くり出す ス ンダ世 界 al am Sunda とい う場合 ,言語 だ けの広 が りとは いえな い。 日常 的 にス ンダ人 が , 自分 た ちの生 活 空 間 を ⅠⅠ ス ンダ世 界 の 中味 al am Sunda とい うこ とばで表現 す る こ とは は じめ にス ンダ人 , とりわ けプ リア ンガ ン あま りな いよ うに思 われ るが, 自分 た ちの住 山地 の地方 に住 む人 び との居 住 ・自然 空間 に ま う世 界 総体 を象徴 的 にせ よ表現 しよ うとい つ いて の一定 の イメ ー ジにつ いて述 べ よ う。 う場 合,al am Sunda とい うこ とば に行 きつ ス ンダ の笛 s ul i ng と琴 kac apiに合 わせ て くよ うに思 われ る。 その意 味 で,al am Sunda 哀 調 を帯 びた トゥ ンバ ン ・ス ンダ Te mbang とい うの は話 しこ とばで はな く,書 き こ とば Sunda( 発祥 地 に ちなん だ チ ア ンジュ ラ ン Ci - で あ る。 おな じ 「世 界」 を あ らわす duni a an j ur an な ど, い くつ か の類 型 が あ る [ Soe - とい うこ とばは用 いな い。Al am とい うこ と 97 6: pandi ,At i k;andEnochAt madi br at a 1 ばは ア ラ ビア起 源 の こ とばだ が, それ は, こ 3637])7) の歌 声 が 聞 こえ て くる と き, ス ン の世 ・身近 な世 界 ( duni a)や王 国 ( ke r a j aan) ダ の人 び との心 の琴 線 は, それ に共 鳴 す るに だ けで な く, 自然 ・大 地 ( bumi )を含 ん だ森 違 いな い。村 の カ ンポ ン kampung で も,町 羅 万 象 を意味 して い る。 ス ンダ語 に ば ` 時代 ' ' の狭 い路 地 で も,結 婚 式 や割礼 な どの儀 式 が ( z aman)とい う意 味 も含 まれて い る 【 Sat j adi - あれ ば,あ るい は今 日で は ラジオ の ローカル br at a 1 950:1 6;1 95 4:2 0;Zai n 1 960: 放 送 か ら, カセ ッ ト テ ープ レコーダ ーか ら, 2 6】 。 この歌声 と楽 器 の音 が聞 こえて くる。 外 部 の Al am Sunda を あ えて分解 しよ うと した 者 の印象 にす ぎな いが , それ はま さ にス ンダ ら, おそ ら くつ ぎの よ うな要素 に分 解 され る の 自然 と溶 け合 った音 で あ る。 うた われ る詩 ので はな いだ ろ うか。 そ の もの も自然 の美 しきで あ り,女 と男 の恋 ( 1) ス ンダ語 ( bas a Sunda)を話 し, そ の ことば に規 定 され て,た ちい,振 る舞 う ( t i ng- の切 な さ,煩 悶 , ときめ きな どで あ る。 ル ムブル ・ク リン l e mburkur i ng ( わ がふ kahpol ah)世 界 。 ( 2) イス ラムが大 き く表面 を覆 って い る と は いえ , ス ンダ地方 特有 の神 話 ・伝 説 ・慣 習 ( adat )を継 承 しつつ ,独 自の文 化 を育 ん で き た世 界 。 ( 3) 屠 住 空 間 とそれ を と り巻 く自然 景 観 へ の, あ る程 度共通 した イメ ー ジが な りた って い る世 界 。 この三 つ の要 素 の それ ぞれ を考 え る と, こ とばを除 いて は, と りわ けス ンダ世 界 の固有 性 は主 張 で きな い こ とにな るか も しれ な い。 しか し, ス ンダ人 の心 のなかで は,分 か ちが た くこれ らの要 素 が組 み合 わ さ って 自分 た ち 8 0 6 )この点については,ス ンダ人文学者 Sa i niK. M・ 氏,および東京学芸大学大学院に留学中のスン ダ人 J o n j o nJ o ha na氏の示唆によるところが大 きい。 7) スンダ歌謡 Te mba ngSundaは,もともとは, ワワチャンWa wa c a n とかベルック Be l uk と 呼ばれる歌を下敷きに発展 した もの とい わ れ る。今 日, 最 もポピュラーなチアンジュランは, チアンジュールの県知事がダレム ・パ ンチャこ ティ Da l e m Pa nc a ni t iだった時代に,パ ント ゥン師 j ur upa nt un のキ ・ジャヤラヒマ ンKi J a ya l a hi ma n という人物が歌の案内役 と して 琴をひ くスタイルをもちこんだという。これに 笛が加わり今 日の形をとったのは,1920年ごろ のことといわれる [ So e pa ndi ,At i k;a ndEnoc h At ma di br a t a 1976:34-37] 。 村井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界 るさ と ・私 の村) とス ンダ の人 び とが い うと は,昔 か らのス ンダ人 の イメー ジであ る とは きのル ムブル は, 自然や歌声 や楽 器 の音や 田 断定 で きな い。 や畑 や家 をひ っ くるめた くふ るさ と)であ る。 つ ぎに, ス ンダ人 がス ンダ世界 に固有 と考 その I e mburは, もちろん人 によ って多少 の え る神 話,伝説 の世界 につ いて考 えて みた い。 イメー ジの違 いはあろ う。 しか し, とりわ け ス ンダ地方 は 「イス ラム- の 厳 格 な 帰 依」 プ リア ンガ ンの山地 に住 ま う多 くのス ンダ人 [ Hugo 1 9 7 8:2 8], 「正 統 派 イス ラ ム の 中 e mburとは,青 い山並 みを見渡 に とって は,l Be nda 1 9 6 3:5 3] ,「バ ンテ ンや プ リア 心 」[ せ る,あ るいは小高 い丘 の麓 に広 が る田圃や ンガ ンで は, プ リヤ イ は (アバ ンガ ンで な 畑 ,近 くを流 れ る川 , とい った 自然 の景観 に く) サ ン トリ s ant r iで あ った」[ Kar t odi r dj o 包 まれ た人 び との営 みすべ てを指 して い るも 1 9 7 3:1 1 6]な どの指摘 にみ られ る よ う に, の と思 わ れ る。 山 と川 とは景観 上 ,欠 かせ ぬ (ジ ャワ社会 と比べ て)イス ラム信仰 に熱心 な 要 素 と してあ るだ ろ う。 ちなみ に,プ リア ン 地域 で あ るとされて きた。 と くに,歴史 的諸 ガ ン地方 の中心 バ ン ドンの東 の隣県 スメダ ン 事件,た とえ ば1 8 8 8年 のバ ンテ ンの農 民叛乱, 県 につ いて,県 の地 名,郡 の地 名,合 わせ て 1 9 2 0 年代 のプ リア ンガ ンにおけ るサ レカ ッ ト 1 4, その他 ,村 desa な い しカ ンポ ンの地 名 7 3 (これ は ラ ンダ ムに遼 ぶ),合 計 8 7カ所 の ・ヒジ ョウ Sar ekatHi j au,Sar ekatHe dj o の共 産党襲撃 事件 , 日本 軍 政 期 の タ シクマ 地 名を調 べて み ると,実 にその 3分 の 1以上 ラヤの シ ンガパ ル ナにおけ る抗 日叛乱 , さ ら にあた る3 0の地 名 は Ciとい う接頭語 を有 し には独立戦 争期 か ら6 0年代 は じめまでプ リア ai( 水) の略語 で あ て いた。 Ciとい うの は c ンガ ン山地 で 展 開 さ れ た ダルル ・イス ラム る。 当然 の ことなが ら,人 び との生 活空 間 が Dar ull s l am 運動 な どの諸 事件 が,"強固な 水 や川 に密着 して あ るとい うことの証左 で あ イス ラム' 'と結 びつ け られて語 られ るため, ろ う。 これ に地形 や動 植物 に由来 す る地 名を ス ンダ世 界 は,あたか もイス ラム一 色で塗 り 加 え る と,仝 地 名の6 0 %近 くにな る。 これ に つぶ されて い るか の印象 を与 えて い る。 対 して ,歴史 的 由来 のあ る地 名,人 の生 活 と 関わ りのあ る地 名は2 5カ所 で あ った。 プ リア ンガ ン地方 は もともと熱帯森 林 に覆 た しか にメ ッカ巡礼 に出か けた者 の数 は, 西 ジャワの場合 ,中東 部 ジ ャワに比 べ れ ば多 8 7 6-1 8 8 8年 まで のハ ジの数 は, い。た とえ ば1 われた奥深 い山岳 地帯 で ,人 び と は 焼 畑 移 11 3人 ジ ャカル タを 含ん だ 西 ジ ャワは 1万 8, 動 農耕民 な い し遊牧 民 だ った と も い わ れ る , 2 4 7人 ,王侯領9 0 2 人 ,東 ジ と,中 ジャワの9 [ Adi wi l aga .1 9 7 5:5 5 ] 。 多 くの ス ンダ人 は, ャワの 1万 1 , 7 8 6人 を大 き くひ き 離 して い る 比較 的最近 まで ,あ るいは少数 の人 び とはい [ Svens s on 1 9 8 3:1 1 6 ] 。1 9 2 6-1 9 3 5 年 のあ い ま もな お,圧倒 的 に迫 り くる自然 の重 みを感 だ, 西 ジ ャワは年 平均 6 , 0 5 0人 のハ ジを送 り じなが ら生 きて きて い る。 だか らこそ,人 の 出 して い るが, 他 の ジ ャワ地方 は平均 3 , 7 1 9 生 活空間 と して適 した青 い山 並 み を 見 渡 せ 人 にす ぎず,人 口1 0万人 あた りで も西 ジ ャワ る,耕作可能 な空間 と,そ こに家 々がひ っそ が2 5 人 で あ るの に対 し,他 の ジャワ地方 は1 4 りとたたず む カ ンポ ンとに,限 りな い親 しみ 人 にす ぎなか った [ 後藤 を感 じるのだ ろ う。 もっとも,プ リア ンガ ン これ らの ことだ けか ら果 た して 「イス ラムが 9世 地 方 で大規模 な水 田耕作 が始 ま った のは1 強 い」 とい うことを一般 化 で きるだ ろ うか。 z ' bz ' d.:5 7 ]ので,お 紀 以 降で あ る といわれ る l いま1 9 5 5,71,7 7,8 2年 の,独 立後 4回の だや かな 田圃,山並 み, カ ンポ ンとい う景観 国政選 挙 の政党支 持率 をみてみ よ う ( 表 2を 1 9 7 2:2 1 ] 。 だ が, 8 1 東 南 ア ジ ア研 究 2 2巻 1弓・ 表2 総選 挙 の政 党別 得 票率 クカい ヨヤク ジジ ル 侵鍔' 東 ジャワ 3 9 `4 4 0 2 0 8 6 2 2 2 1 1 2 8 2 1 2 7 2 1 4 3 8 2 1 3 2 5 0 6 8 1 3 0 9 5 1 2 1 1 2 2 6 0 7 0 7 9 2 6 1 6 2 5 1 1 2 その他 ノ 1 4 6 8 1 0 1 2 6 2 2 9 1 3 マ シュ ミ NU PKI ジ潔 ワ ヤ ジ 西 1955年 PNI 中ジャワ シ ュ ミ党 自体 , 1960 ( 単位 :% ) 年 に解 散 させ られ て い る)。 む しろ 東 ジ ャ ワの NU の 「強 さ」 の方 が よ り顕 著 で あ る とい え よ う。 た だ し,若 干 注 目す べ き こ とは , バ ンテ GOLKAR ン地 方 に お い て は, イスラム諸政党2) 非 イス ラム諸政党3' 55年 総 選 挙 で マ シュ 3 i ;≡;. : ≡…. :Z 5. 8% の得 票 ミ党 が3 を して お り,NU と 9 . 2 %に 合 わ せ る と4 達 し, か な り強 い イ GOLKAR E 63.2 ス ラム地 域 で あ る こ とが想 像 で き る。 77 年 の総 選 挙 で もバ ン 注 1)1 955年の得票率は中ジャワに含まれる。 2) このなかには, イ ンドネシア ・イス ラム同盟党 ( PSI I ) , ナフダ トゥ NU) ,ムス リミン党 ( Par t aiMus l i mi n) , イス ラム -ル ・ウラマ党 ( PERTI )が含まれる。 ・タル ビヤ連合 ( 3) このなかには,カ トリック党,イ ンドネ シア ・キ リス ト者党 ( PARK,ムルバ党, インドネシア国民党 ( PNI ) , イ ンドネ シア独立 INDO) 擁護連盟 ( I PX・ Ⅰ )が含まれる。 出所 :I ndone s i a,De par t e men Pe ne r angan.1956.Da ft arHa∫ Z ' ZPcmi Z i han Umum DPR;- ,Le mbagaPe mi l i hanUmum・1 971 ・Da ft arPemt ,Ha∫ Z ' ZPemi Z t hanUmum An ggO t aDPR Tahun 1 971; b a g3 ' anKur∫ KomPa∫ .June9,1977;May16,1982. テ ン地 方 の 中心 で あ る セ ラ ン県 で は , イ ス ラム系 の 開 発 統 一 党 が ,実 に5 4. 6% の 得 票 率 を 得 て い る。 プ リア ンガ ンで はダ ル ル ・イス ラム の本 拠 地 で あ った ガ ル ー ト県 , タ シクマ ラヤ 参 照 )。 選 挙 制 度 そ の もの , 政 党 の あ り方 が Tasi kmal aya 県 で 開 発 統 一 党 は 4 0% 以 上 の 55年 , 71年 ,77年 で大 き く変 化 させ られ て い 得 票 を得 て い る。 政 党 支 持 と イス ラム が 「強 るた め 単 純 な比 較 はで きな い が , イ ス ラム諸 い」 か ど うか とい う こ とは ,単純 に は割 り出 政 党 (55年 はマ シ ュ ミ党 , ナ フダ トゥ-ル ・ せ な い に して も, これ ま で の選 挙 結 果 か らす ウ ラマ党 NU が イ ス ラム の二 大 政 党 ,71年 れ ば ,バ ンテ ン地 方 や プ リア ンガ ンの一 部 で は注 2に あ るよ うに 4党 合 計 ,77年 か らは イ は, た しか に イ ス ラム政 党 へ の支 持 が高 く, ス ラム諸 党 は開 発 統 一 党 PPP に糾 合 さ れ イス ラム に熱 心 だ とい え そ うだ が , そ れ を も た) の 西 ジ ャ ワで の得 票 率 だ け を参 考 程 度 に って ス ンダ世 界 は イ ス ラムが 強 固 な世 界 とは み て み る こ とにす る。こ こで 判 明 す る こ とは, 言 い切 れ な い よ うに思 わ れ る。 5年 イス ラム改 革 派. と呼 ばれ るマ シュ ミ党 が 5 プ リア ンガ ンの多 くの人 び とは, た しか に 時 に は他 地 域 よ りか な り強 力 で あ った とい う イス ラム教 徒 で は あ るが , 同 時 に,古 くか ら 程 度 で ,71年 以 降 の選 挙 で は西 ジ ャワの 「イ 伝 わ る イ ス ラム とは無 縁 の神 話 ・伝 説 に も, ス ラム の 強 さ」 は ほ とん ど証 明 で きな い (マ い ま だ に慣 れ親 しん で い る人 び とで あ る。 あ 82 村 井 :ス ンダ人 と ス ンダ世 界 らた ま った定 義 によれ ば 「ス ンダ人 は イス ラ buat , サ ピ ・グマ ラ ン SapiGuI nar ang, ク ム帰 依者 で はあ るが ,す で に ヒ ン ドゥーや仏 ンテ ィア ナ Kunt i anak,豚 の お化 け hant u 教 の信仰 と混 清 して しま った土着 as l iの基層 babi ,魚 の お化 け hant u be l ukang 等 々,忠 的 な信 心 ke pe r c ayaan が , まだ 強 く人 び と 霊 , お化 け もた くさん い る。 土着 の民 間信仰 を捉 えて い る」 [ Pr awi r as uganda 1 964:8] と ヒン ドゥー ・仏教 的要 素 が交 じり合 い, そ とい うこ とにな るだ ろ う。 ヒ ン ドゥーの ま だ の上 に さ らに イス ラムが覆 い被 さ って ,ス ン 強か った時代 ( 1 6世紀 以 前) の プ リア ンガ ン ダ の人 び との心 の核 が形成 されて きた ので あ 地 方 の歴 史 は判 然 と しな い部分 が多 いが, ヒ る。 風 土 的条 件 に民 間信 仰 , ヒ ン ドゥー ・仏 ン ドゥーの影 響 を 強 く受 けた神 話 ・伝 説 ・物 教 的要 素 ,そ して イス ラムが加 わ る とい うこ 請 ( car i t a,donge ng,l e genda)は, いま も人 び とに よ って語 り継 がれ て い る。 プ リア ンガ ン地方 の創世 を伝 え る 「サ ンク リア ン物語 」 Car i t aSangkur i ang,神 々の世 界 か らお りて きた黒猿 が王女 を救 い国 を治 め る とい う 「迷 え る黒猿 の物語 」Car i t aLut ungKas ar ung, 虎 に化 身 す る シ リワ ンギ王 Pr abu Si l i wangi の伝 税 , 超 能 力 ( s akt i )を もつ偉 大 なパ ジャ ジ ャラ ン Pa j a j ar an王 の伝 説 , さ らには結 婚 式 や割礼 な どの儀 式 の夜 に上演 され る人形 ワ ヤ ン劇 wayanggo l ek で展 開 され るス トー リ ーの数 々, これ らはス ンダ の人 び との心 の ど こか に根 を おろ した もので あ ろ う。稲 の女神 で あ る- ・ポ- チ NyiPohaci , あ るい は- ・ サ ン ヒア ン ・ス リ NyiSanghi al l gSr i ,貴 公 とに おいて, ス ンダ世 界 はす で に独 自の世 界 で あ る ともいえ るが, そ の独 自性 を決定 的 な もの に して い るの は,や は り言 語 で あ り言語 の繰 り広 げ る世 界 で あ ろ う。 ス ンダ語 は, ジ ャワ語 にお け る 「優雅 な ジ ャワ語 」 (ク ロモ kr ama) と 「粗 野 な ジ ャワ 1 983: 241 26]に類 似 す る,1 6m芭S( hal us ) -kas ar の 語」 (ン ゴ コ ngoko)の二 重性 [ 土屋 世 界 を有 して い るO あ るい は 1 芭m芭Sと kas ar のあ いだ に pan芭ngah ( 優 雅 で も粗 野 で も な い,ふつ うの ス ンダ語) を入 れ る こ と もあ る。 ス ンダ語 辞典 の 編 纂 者 で あ る Sat j adi ・ 6m芭S -pan芭ngah-kas arの違 いを, br at aは 1 つ ぎの よ うに述 べ て い る。 敬 意 を あ らわす た め の こ とばを ス ンダ語 子 サ ンク リア ン, そ の母 ダ ヤ ン ・ス ン ビ Da - で は bas al Em芭S と呼 ぶ。敬 意 を表す るた yangSumbi ,黒猿 Gur uMi nda に救 わ れ る めの 1 6m芭Sと,あ らわ され る場合 の 1 さm芭S 王女 プルバ ・サ リ Pur ba Sar i ,意地 悪 な姉 は, しば しば異 な って い る。 た とえ ば abdi プルバ ・ラ ラ ン Pur baRar 礼ng, こ う した人 n芭da ( 私 はいた だ きます) と, gampar an 物 像 も人 び との心 のなか に影 を落 と して い る 貴 方 は召 しあが る) とい う場合 , t uang ( こ とだ ろ う. 8 ) 男 の神 々 de wade wa, 女 の n芭da も t uang も ともに く食 べ る) とい う 神 々 de wi de wiの ほか に も, サ ン ・イダ ジル 意 味 だ が,両語 とも敬 意 を示 す 1 6m芭Sで あ Sang I da j i l , サ ン ・カ ラブ ア ト Sang Kal al る。 ‖ ‥‥ た とえ ば,わ れわ れ が ,敬 意 を あ らわす 8) ここでは論 じないが,ス ンダの伝説には外か ら 来た ヒンドゥー系支配層と,土着ス ンダ人の争 いを扱 ったと思われるものが数多 くある。たと えば,サ ンク リアン伝説においてのガルガ王は 明 らかに ヒンドゥーの支配層で,おそらくジャ ワの ヒンドゥー王朝を意識 した もの と思 わ れ る。また,同伝説における豚とか犬 といった動 物は異種族をあ らわ していると思われる。 必 要 のな い人 に話 をす る場合 は,pan芭ngah と呼 ばれ る こ とばは使 って もよ い。 それ に は dahar ( 食 べ る),s 礼r e( 寝 る),I nul ang ( 帰 る),panon ( 眼),s i r ah ( 玩),hi l ang ( 死) な どの こ とばが あ る。 これ らの こと ばは,独 身 の若 者 や子供 に対 して も使 え る。 8 3 東 南 ア ジ ア研 究 2 2巻 1号 怒 りを あ らわすた め には特別 な ことばが で あ ろ うことが想 像 され る。 す なわ ち, メナ あ る。 …… これ らの こ とばは,た とえ動物 ック とい う場合 ,人 び との実感 で は 「オ ラン に対 してで あ って も,め った には使 わ な い。 ダ語 学校 に入 れ る階層」, したが って官吏 に この範 噂 の ことばを kas arpi s an ( 大変 に な りえた人 び とで あ る。官吏 の範 囲 はおそ ら 粗 野 な) とい う。 く郡 長 camat ク ラスまでで, それ よ りロー akas ar と呼ぶ 。もち 多 くの こ とばは bas カルな村長 は メナ ックには入 って いなか った ろん,これ らの ことばは必 ず しも 「 粗 野 な」 よ うだ。 もちろん ,官吏以外 に,医師や学校 性 格 で あ る と は 限 らな い [ Sat j adi br at a の教 員 の一部 もメナ ックに入 って いた。 メナ 1 950:89。9) ックの基盤 自体 ス ンダ社会 内部 に求 め られ る ス ンダ世界 において ,1 さmさS な言語 を情況 だ ろ うが,それを強化 して ゆ くうえで ,植民 に応 じて正 し く使 い こなせ るか ど うか とい う 地 官僚 制 の果 た した役割 を見逃 す ことはで き ことは,社会 階級 的 に,それな りの意 味 をい な い.実際,l im芭S な ス ンダ語 は,かな り学 まだ に もち続 けて い る と考 え られ る。 社会 階 習 しな い と習得 が難 しい とい う。学校 で あれ 級 および地域 と言語秩序 が歴 史 的 に どの よ う 家庭 で あれ, こう した学 習 の機会 を もち うる に, どの程度 の強 さで形成 されたか は,今 後 こと自体 が富裕 な階級 の証 しであ る し,富裕 の研究課題 で あ ろ う。 ただ,推論 され うるこ なれ ば こそ,1 6m芭S な ことばを習得 し, 自 ら とが 2点 あ る。第 1は, ス ンダ語世界 におけ を権威 づ け ることに もな るわ けで あ る。 こう る序列性 は もともと (とい って も, いつ の時 して ,た とえ く外力) を借 りた もので あれ, 代 まで とは限定 で きな いが)あ った に して も, ス ンダ語世 界 の序 列性 と社会 階級序 列 とが相 外側 か ら強化 された ので はな い か とい う点 で 補 的 に強 め合 う関係 がで きあが り,そ こに一 あ る。外側 か らとい うのは,一 つ は中 ジ ャワ つ の階級 的中枢 がス ンダ世 界 に形成 された の に本拠 を もったマ ク ラム王 国 の ク ラ トン ( 育 で はな いか, とい うのが第 1の推論 で あ る。 廷) 文化 で あ る。1 7世紀 にマ ク ラムのスル タ 第 2は,ス ンダ語 の地域 的序 列 で あ る。 ハ t anAgung が,バ ン ドン一帯 ン ・アダ ン Sul ル ソ ヨは くス ンダ語 の洗練 度〉 とい うことば をその領地 に治 め ブパ テ ィ bupat i を おいた で, チ ア ミス, タ シクマ ラヤ,ガル ー ト,バ とされて い る し [ Bas oeni 1 9751 , また1 9世 ン ドン,ス メダ ン, スカブ ミ, チア ンジュー 紀 にはス メダ ンの貴族階級 ( 一般 にメナ ック ル とい ったプ リア ンガ ン地方 が 「 純 粋 かつ洗 menak と呼 ばれ る)とソロ, ジ ョクジャカル 練 された ス ンダ語 が使 われて い る」 と して い タの貴族 階級 のあ いだ には親族 関係 があ った る【 同上論 文 :36 9] 。 これ に対 して ,バ ンテ 980:370] 。 もう ともいわ れ る [ -ル ソヨ 1 ン,ボ ゴール, カ ラワ ン Kar awang,チ レボ 一 つ はオ ラ ンダ によ る植民地支配 であ る。 メ ンで使 われ るス ンダ語 は 「あま り洗練 されて ナ ックな るス ンダ の貴族 階級 が存在 した に し いない」 とい う。 文化や地域 に優劣 はあ ろ う て も,そ の地位 な り範 囲を確 固た る もの にす はず はな いに して も,実際上 , プ リア ンガ ン る うえで ,植民地支配 が相 当な影響 を与 えた を 中心 と したス ンダ語 こそが く正統〉 で あ る ] 9)Sa t j adi br a t a は正確には,スンダ語をつぎの五 つの段階に分 けて い る. ( 1 )l e me spi s a n, (2) 1 6 m芭 S ,( 3)p a nさ nga h,( 4 )kas a r ,( 5)k a s a rpi s a n. Lと mさ spi s anは王などの階級の高い者に対 して Sa t j a di br a t a 用いられることばである とい う [ 1 950:89】 。 8 4 との意識 が,ス ンダ世界一帯 に形成 されて き た。 これ も, おそ ら く, ジ ャワ文化 や オ ラ ン ダ文化 の外側 か らの地域 的偏在 を伴 った移入 の され方 と関係 があ るだ ろ う。 西 ジャワの北 海岸 は, ジ ャワ人移民 が多 く, しか もその ジ 村 井 :ス ンダ人 とス ンダ世 界 ヤ ワ人 は, ジ ャ ワ社 会 で は いわ ば辺境 の ,や ウ ィ ラハ デ ィクス マ とて , そ れ ほ ど名 が知 れ は り北 海 岸 住 民 で , イス ラム に い ち早 く帰 依 渡 った人 物 で はな く,副 大 統 領 候補 にス- ル した人 び とで あ る。 プ リア ンガ ンは地 理 的 理 トが ノ ミネ ー トした と きで さえ ,「意外 」との 由 もあ って , イス ラム が入 って くるの は,北 受 け とめ方 が一般 的 だ った とい う [ Redaks i 海岸 よ り も遅 れ た 。 オ ラ ンダ植 民 地 化 過 程 の Te mpo 1983a: 12-13] 。 こ こで は, ス ンダ な か で は, オ ラ ンダ は イス ラム に手 こず って 人 の要 人 t okoh と目 され る ウマ ル ・ウ ィ ラハ い る。 プ リア ンガ ン一 帯 を植 民 地 の後 背 地 と デ ィクス マ を と りあ げ ,ス ンダ人 社 会 の 中枢 して ゆ くうえ で , ともに イス ラムを異 化 す る にあ る背 景 を考 察 して み る。 とい う点 で , あ るい は一 種 の共 鳴 関係 が な り ウマ ル ・ウ ィラハ デ ィクス マ が副 大 統 領候 Te mpo( 『テ ンポ』 ) た った か も しれ な い, とい うの が第 2の推論 補 と して登 場 した と きの で あ る。 そ の 中枢 と して利 用 され た の がバ ン 誌 の人 物 紹介 は, ス ンダ社 会 を考 え る うえで ドンで あ る (バ ン ドンの形成 につ いて は ,村 参 考 にな る。ス ンダ世 界 とそ こを足 かか りに, 井 [ 1983]を参照 )0 いか に よ り中枢 の (この場 合 イ ン ドネ シア) 世 界 に到 達 した か とい うこ とが示 唆 され て い ⅠⅠⅠ ス ンダ世 界 の中枢 と周辺 るか らで あ る。 この記 事 は 「ス メダ ン出身 の身 ぎれ いな人 1983年 3月11日の国民 協 議 会 M PR 総 会 は 物 」Or ang Be r s i h dar ュSumedang とい う見 ス- ル ト大 統 領 を 4選 す る と と もに,副 大統 出 しで始 ま る。 そ の下 に 3行 の リー ドが書 か 領 と して ,新 た に会 計検 査 院 BAPEKA 総 れ て い る。 裁 の地 位 に あ った退 役将 軍 ウマ ル ・ウ ィ ラハ 「ウマル は サ ンパ ル と ラ ラブを好 み ,ll' デ ィクス マ UmarW i r ahadi kus umah を副 大 PKI (イ ン ドネ シア共 産 党) の残 忍 さ に涙 統 領 に任 命 した。 ス ンダ人 と して は初 の副 大 す る。青 年 の ころ は喧 嘩 の 名手 j ago。質 素 統 領 で あ る 。10) もと も と中央 政 界 - の ス ンダ な生 活 をす る この大 物 t okol l は "身 ぎれ 人 の進 出 は, ジ ャ ワ人 や ミナ ンカバ ウ人 ,バ い" で 寡 黙 な 人 だ が 仕 事 好 き」 [ Redaks i タ ック人 な ど に比 べ て劣 勢 で あ った といわ れ Tempo 1983b:15] 。 て い る (た とえ ば,後藤 [ 1972:3033] )。現 ウマ ル は1924年 , プ リア ンガ ンの懐 , ス メ 政界 に お いて も, ア リ ・サ デ ィキ ン元 ジ ャカ ダ ン県 シ トゥラ ジ ャ Si t ur a j a に生 ま れ た。 ル タ知 事 や ア ミル ・マ フム ド国民 協 議 会議 長 シ トゥ ラジ ャは小 高 い山 に囲 まれ , きれ い な ( 前 内務 相) な ど, ス ンダ人 で全 国 に知 れ渡 川 も流 れ る,典 型 的 な プ リア ンガ ンの 田園地 った政 治家 はか な り限 られ て い る。 ウマ ル ・ embur kt l r i ng 帯 で あ る 。 「わ がふ るさ と」 i 10) 共和国独立後の大統領 ( スカルノ,スハル ト) はいずれ もジャワ人,副大統領は- ッタ Ha t t a , Muh. ( 1 945 -1 95 6 年)が ミナ ンカバ ウ人, -メ ン ク ・ブオノ Ha me ngkuBuwonoⅨ,Sr iSul t a n ( 1 96 7 -1 97 3 年)がジャワ人,アダム ・マ リク Ma l i k,Ada m ( 1 97 3 -1 9 83 年)がバタ ック人で あ った。 なお1 94 5 -1 9 65 年までに,名目的にせよ 実質的にせよ1 3 人の首相経験者がいるが,ス ン ダ人首相はジュア ンダ Dj ua ndaI くa r t a wi d j a j a だけであ った [ Fi nc h,Sus a n;a ndLe v ,Da ni e l 1 96 51 。 とい う こ とばを ス ンダ人 な らば思 い浮 かべ る こ とだ ろ う。 た だ , ウマ ル は メ ナ ックの家 系 に生 ま れ た。父 は チ ア ウ ィ Ci awi(タ シクマ ラヤ県 )の ウェダ ナ wedana12) を務 め た人 物 , ll) 生野菜にサ ンパルをつけて食べるのは,ス ンダ 人の好む食習慣。本論冒頭の漫談を想起された い。 県) と Ke c a ma t a n 1 2)We da na は,Kabupa t e n( ( 那)のあいだにあ った,かつ て の行 政 単 位 Ke We da na a nの良にあたる役職。 85 東 南 ア ジア研 究 2 2 巻 1号 1番 目の母 も 2番 目の母 もメ ナ ックの 出で あ で あ る ウマル は, シ リワ ンギ に属 す る こ とに った。 だ か らこそ ,彼 は ELS ( Eur opes c he よ って ,国家 中枢 の価 値 (た とえ擬 制 的 な も Lage r e Sc hool , ヨ ー ロ ッパ 下 級 学 校)お ので あれ) に,比 較 的容 易 に移行 で きた ので よび MULO ( Me e rUi t gebr e i d Lage rOn- はな いか。 なぜ な らば, ス ンダ社会 の 中枢 そ de r wi j s,上級 学 校)で教 育 を受 け られ た ので の もの が, これ まで みて きた よ うに,擬 制 的 あ る。 日本軍 政下 に おいて郷 土 防 衛 義 勇 軍 中枢 だ った か らで あ り,真 の 中枢 を形成 しえ PETA なか った か らで はな いか。` ` 敬 虚 な イス ラム竹 に入 り, 軍 事訓練 を受 けた ことが , 5年 9月 そ の後 の軍 人 の人生 を決 めて い る。4 とい う命 題 の下 に "反 共 産 党' 'の価 値 を生 ぜ TKR に しめ , メ ナ ックや墓 参 りとい う価 値 の 下 に 加 わ り,以 後 , シ リワ ンギ師 団 において独 立 "反 ダ ルル ・イス ラム' ' た りうる とい うス ンダ 戦 争 を闘 い, の ち国軍 幹部 - の道 を登 りつ め 社会 の二 重 的性 格 こそが, ス ンダ社会 や ス ン て い る。 も し,今 回副 大統 領 に選 出 され る こ ダ人 を ,国 の レベルで きわ だ たせ ぬ要 因 にな 年 9月30日 とにな った要 因を探 るな らば ,65 って い るのか も しれ な い。 した が って , 自明 事 件 の際 に ジ ャカル タ軍 管 区司令 官 の立場 に の こ とだ が,ス ンダ は ジ ャワで もスマ トラで KOS TRAD もな い。 また今 日の時代 にあ って は ジ ャカル に は,直 ちに独 立軍 た る人 民 治安軍 あ り,す ぐさま陸軍 戦 略予備軍 司 令官 だ った ス- ル ト少将 (当時)を補佐 し, タで も東 テ ィモ ール で もな いので あ る。 共 産党 弾圧 で手 柄 をたて ,ス- ル トの覚 え が ス ンダ語 につ ぎの よ うな諺 が あ る。 な イス ラム教 徒」 といわ れ る一 方 ,何 か難 し Bas amaht e ukududi be ul i(こ とばは買 う 必要 がな い). い問題 に直 面 す る と 「ふ るさ と シ トゥラジ ャ これ は,人 に対 して失礼 にあた らな い丁 寧 の母 親 の墓 を お参 りす る」 ともい う。 かつ て 1 6m芭S )こ とば とい うもの は, お金 を 出 し な ( ウマル は "最 もよい イ ン ドネ シア語 を話 す 1 0 て買 え る もので はな い,だ か らよ く学 ん で習 人 " のひ と りに選 ばれ た こ ともあ る。 得 しな さい とい う意 味で あ る。 だ が, かつ て めで たか った こ とにあ るだ ろ う。 彼 は 「敬 慶 ウマル ・ウ ィ ラ- デ ィクスマ は地 味 な人 物 の メナ ックや その近 くにいた人 び と ( 教員, の よ うだ。 オ ラ ンダ が秩序 づ けた もので はあ 宗教 指 導者 な ど) は別 に して ,多 くの カネ も るにせ よ,半 ばス ンダ の伝 統 的世 界 で少 年 期 財 産 もな い人 び とに と って は,1 6m芭S な こ と を過 ご して い る。 もちろん 学校 を通 じて ヨー ばの世 界 に近 づ くの は, それ ほ ど容 易 な こ と ロ ッパ 支 配者 の文化 が深 く少 年 に浸透 した こ で はな い . Lさm芭Sな こ とばを 使 え な い人 び とで あ ろ う。 そ の支 配 者文 化 はス ンダ の メ ナ と,プ リア ンガ ンの く洗練 され た〉 ス ンダ語 ック社 会 の秩序 を利 用 し, メナ ック社会 自体 を使 え な い人 び とは kas arだ と陰 口を きかれ も支配 者 の秩序 に支 え られて い た と い え よ て差別 され る。 テ レボ ンやバ ンテ ンな ど北 海 う。 ス ンダ社 会 の伝 統 的支配 層 とい って も, 岸 の人 び とは, そ もそ も中枢 部 ス ンダ社 会 の 植 民地 下 にお いて は決 して真 の支 配者 で もな 周 辺人 で あ る と位 置づ け られ る。 メナ ックか く, 中枢 で もな い ことはい うまで もな い。 ら遠 い人 び と,町 か ら遠 くに 住 む 人 び と は 団 は,共 和 国 た る価 値 を宿命 づ け られ , さ ら ur angdus un,ur angkampung (田舎 者) と 陰 で いわ れ軽 蔑 され る。 には反共 産党 た る ことを も宿 命 づ け られ て い だ が, こ う した 中枢 部 か ら軽 蔑 され た り, た。 さ らには反 ダル ル ・イス ラムで もあ る。 ス ンダ社 会 に根 を もち, ス ンダ社 会 エ リー ト 馬 鹿 に され た りす る民 衆 の なか には,つ ね に 彼 が軍 簿 を お くことにな った シ リワ ンギ師 86 象徴 的 な人気者 が存在 す る。 ス ンダ社会 の人 村 井 :ス ンダ人 と ス ンダ 世 界 気 者 は いまで もカバ ヤ ン Kabaya1 1で あ る。 ィの そ ばだ よ . /」 カバ ヤ ンが いつ ごろか ら登 場 した か は分 か ら 「カバ ヤ ン,- ジにな る」 な い。 す で に何 百 年 も昔 か らいた とい う人 も い る。 つ い最近 も映 画 に登 場 した り, カセ ッ ハ ジ (メ ッカ巡礼 者) の優雅 な生 活 を み ト ・テ ープ に出演 した り して い る( ⊃カバ ヤ ン な が ら, カバ ヤ ンもあ る 日,- ジにな らん はユ ーモ ラスで あ る ことによ って ,民衆 の憂 と決意 した 。 - ジは ど この家 で も,大 そ う さを晴 ら して くれ る。 「馬鹿 」を演 ず る こ とに ご馳走 され る こ とを知 って いた ので , カバ よ って ,人 び とを安心 させ て くれ る。 いつ も ヤ ンは- ジに変装 し, ご馳走 にあ りつ こ う 貧 しい こ とによ って,や は り人 び とに安心 感 と思 いた った のだ。 メ ッカに行 くカネな ど を与 え る。 だ が , と きに権威 や富 が な い居 直 あ ろ うはず が な い にわ か- ジで あ る。 - ジ ●●● りと,機 智 を働 かせ るこ とによ って権 力者 を にな りす ま した カバ ヤ ンは,義父 の家 を訪 か らか い,愚弄 もす る。 この ことに人 び とは れ,まん ま と鳥 肉 にあ りつ くこ とがで きた O 喝 采 を送 る。 彼 は不 品行 だ し,狼 雑 だ し,粗 義父 は怒 り, こん どは何 と自分 がハ ジに化 野 kas arで あ る。 だ か らこそ人気 者 なの だ。 けて, カバ ヤ ンの家 に来 た 。 カバ ヤ ンの家 Kabayan は無 数 にあ る。 オ ラ ンダ人 , オ ラ には家 具 もな けれ ば食 べ もの もな い。恥 じ とう た カバ ヤ ン,女 房 を呼 び 「義父 さん の家 に ンダ支配 をか らか うこ と, ア ラブ人高 利貸 を 山羊 が い る。 あれ を殺 して- ジ様 に差 しあ か らか うこ と, 日本 の軍人 を冷 笑 す る こと, げ よ う」 と大 声 で い う。 義父 はそれ を聞 い 宗教 指導者 を ひやかす こ と, メ ナ ックにあ こ て大 あわ て。 しゃ っばを 脱 い で 逃 げ 帰 っ がれ るが決 して実現 しな い こ と, ジ ャワ人 を た 。 カバ ヤ ン讃 Car i t aKabayan,Dongeng Si お と しめ る こ と,. ‥‥. 要 す るにス ンダ民 衆 の 不 満 や憂 さ晴 ら しは何 で もテ ーマ にな るので あ る。三 つ の カバ ヤ ン帝 を紹 介 しよ う。 「カバ ヤ ン夢 をみ る」 「カバ ヤ ンとジ ャワの人 」 あ る時,カバ ヤ ンは ジ ャワ人 に呼 ばれ た 。 食 卓 には野菜 とサ ンパ ル が あ り, ジ ャワ人 カバ ヤ ンの義父 は夢 占いを信 じて い る。 の主 人 は 「これ はサ ンパ ル です。召 しあ が カバ ヤ ンは河 口近 くで マ ンデ ィ ( 沫 浴) を って下 さい。 こち らは ジ ンガ ●ャ ●● ●ン ● (ジ ャワ した夢 をみ た と義父 にい った 。 語 で野菜 ● ●, イ ン ドネ シア語 で 『い けな い』 「それ は, お前 が判事 にな れ る とい う夢 だ」 と義父 はい う。 「 いや ,河 口近 くじゃな くて , もうち ょ っ と上 流 だ った」 とカバ ヤ ン。 「そん な らウェダ ナ になれ るよ。 」 「もう少 し川 上 だ った み た いだ。」 の意 疎) です」 と, カバ ヤ ンにい った。 ジ ャワ語 を知 らな い彼 は ジ ●ャ ●ンガ ●●ンを ● インド ネ シア語 の 「いけな い」とい う意 味 と思 い, 野菜 を食 べず , た だただ涙 を流 しな が ら, 辛 い香辛料 だ け食 べ た。 別 の あ る時 , カバ ヤ ンの家 に ジ ャワ人 が 「そ い じゃパ テ ィ Pat i様 だ。」 来 た。 この客 は カバ ヤ ンに商売 の資金 を提 「も うち ょっと上 。 」 供 して くれ る とい うので ,彼 は下 - もおか 「ブパ テ ィ ( 県 長) 様 だ ぞ。」 ぬ もて な しを した。 ジ ャワ人 は甘 い ものが 「もっ と上 だ と した ら ?」 好 きな ので, カバ ヤ ンは お茶 にた っぷ り砂 「虎 に食 わ れ ちま うさ。」 糖 を 入 れ , な お 「フ ン トゥ ・ア ミス ?」 「じゃあ俺 が マ ンデ ィ して た め は ブパ テ (甘 くあ りませ ん か ?) とス ンダ語 で尋 ね 87 東南 ア ジア研 究 2 2 巻 1号 た。 ア ミス とい う の は ジ ャワ語 で 「魚 臭 ジ ャカル タ は, モ ノ とテ クノ ロジーを外側 の い」 とい う意 味 な ので, ジ ャワ人 は, コ ッ 中枢 か ら移入 す る橋 頭壁 と して の役割 を , ま プを と りあげ,匂 いを喚 ぎ 「い いえ」 と答 す ます高 めて い る。 ジ ャカル タを と り巻 くス えた。 カバ ヤ ンは客 の機 嫌 を そ こね て は大 ンダ世 界 は,逆 に ジ ャカル タ によ って浸潤 さ 変 , と考 え ,な お も砂 糖 を足 し,また 「フ れつ つ あ る。 ン トゥ ・ア ミス ?」と尋 ね る。 客 は ま た 「ス ンダ世 界 の個性 (ア イデ ンテ ィテ ィ) 「い いえ」 と答 え る。 こん な こ とを繰 り返 は, いまや な くな って しま った 。 ス ンダ の人 して い る と,つ い に コ ップ は砂糖 だ らけ。 びと ( KiSunda)と して の誇 りもな くな って 客 はか らか われ た と思 い,怒 って帰 って し nt o博 しま った。 た とえ ば, サ ネ ン ト Sane ま った 。 士 が報告 した よ うに,バ ン ドン工 科大 学 I TB カバ ヤ ンた ちの住 む世 界 は 1 6mさS な ス ン の ス ンダ入 学生 のな か には, ス ンダ族 た る こ ダ語 の世 界 で はな い。 エ ライ さ ん に 精 一 杯 とを語 りた くもな く,認 めた くもな い者 す ら 1 6m芭Sな こ とばを使 お うと努 力 す る もの の, Pani t i a Pe l aks ana い る とい うで はな いか」 [ つ いつ い 間 違 え 冷 や 汗 を か くこ とにな る。 Pas amoanKe budayaanDae r ah JawaBar at Abdin芭da ( 私 は いただ く) とい うべ き とこ 1 982:115】 。 ろ,abdit uang( 私 は召 しあが る)な ど とい っ こ うい う嘆 きが ス ンダ人 長老 のな か か ら聞 芭m芭S- の努 力 が,結 て しま うo せ っか くの 1 かれ るの も無 理 はな い。 それ だ け急速 な 「開 果 と して kas arにつ な が り,kampungan (田 発」 が進 展 して い るので あ る。 ただ問題 な の 舎臭 さ) - と押 しや られて しま う。 だ か らこ は,強力 な ,外 力 に多分 に依 存 した ,上 か ら そ, ス ンダ周辺世 界 で は カバ ヤ ンの よ うな人 の 「開発 」 が ,多様 な地 方 文 化 , さま ざま な 物 を準 備 しな けれ ばな らな いので あ る。 カバ 人 び との, さま ざまな営 み を , ロー ラーで押 ヤ ンが歯 向 か った り, 茶 化 した りす る相手 は, しつぶ す よ うに圧 殺 して ゆ くこ とで あ る。有 オ ラ ンダ植 民地 主 義 で あ り,貴族 た ちで あ り, 機 的 な国民統合 とか け離 れ た, モ ノによ る支 ye uh で あ り, 日本 軍 人 で み や この あ る町 da 配原 理 こそが二 賢徹 して い るので あ る。 あ る。 最近 で は,「開発 」の象徴 た る ビマ ス計 ス ンダ の古 き社会 に青 い鳥 が いたわ けで は 画 に も, そ の刃 が向 け られ て い る (た とえ ば な い。 こ とば に呪縛 され, こ とばを支 配 の道 Gr oup Sant ai" JenakaPar ahi angan" [ 1 980 具 と して も利用 した植民地 封建 社会 が そ こに ( . ? ) ] )。 カバ ヤ ンが 日々暮 ら して い るの は地 理 はあ った。 に もか か わ らず ,新 たな モ ノ によ 的 ス ンダ で あ る。彼 が不 満 に思 い,歯 ぎ しり る支 配原 理 を呪 う場合 ,の っぺ り した顔 しか し,歯 向 か って ゆ く相手 も主 要 には文化 総体 もたぬ 「ス ンダ世 界」 とい う もの が立脚 点 と と して の ス ンダ か も しれな い。 だ が, そ の 日 され る皮 肉が あ る。 そ の 「ス ンダ世 界」 が擬 日の暮 らし,歯 ぎ しりの中味 は普遍性 を帯 び 制 的仮 面 を剥 ぎ,個別 ・周 辺 世 界 で あ る が た もので あ る。 た だ の人 間 とい う意 味 にお い く人 間〉 とい う一点 にお いて普 遍世 界 で も あ てC る とい うこ とを強力 に主 張 した とき, あ るい 独 立後 40年近 い 日々が過 ぎた。 強 い国家統 は真 の ス ンダ世 界 の ア イデ ンテ ィテ ィが確立 一 の意思 と施策 , さ らには, この十 数年 の モ され るので はな いだ ろ うか。 ス ンダ の コー ラ ノ( 商 品)とテ クノ ロジー によ る 「開発 」, こ mbo は, こ ス ・グル ープで あ る ビ ンボ ー Bi れ らは, ジ ャワや オ ラ ンダ とい うかつ て の 中 の時代 の ス ンダ とイ ン ドネ シア,そ して く人 枢以 上 に,強力 な 中枢 を形成 して きて い る。 間〉 を琴 と笛 に乗せ て , ス ンダ語 で , ス ン 88 村井 :ス ンダ人 とス ンダ世界 ダ の メ ロデ ィーで, う た っ て い る [ Bi mbo ほ ら, は ら, あそ こ 1 97 7] 。 わ がふ るさ と,パ ジ ャジ ャラ ンよ Ceuk Emi lSal i m 吟遊詩人 の い うこ とに ゃ,わ がふ るさ とは Tuh,t uhdidi t u 肥 えて い る Le mburkur i ngPa j a j ar an 吟遊詩 人 の い うことに ゃ,わ がふ るさ とは Ceuk j ur u pant un, l e mbur Lur i ng t eh s ubur 栄 えて る Ceuk j ur u pant un,l embur kur i ng t eh mal mur パ ジ ャジ ャ ラ ンの残 影 食 べ もの も着 る もの も足 りて い る 肥 え栄 え るなん て幻想 さ Tar aku r angs andangpangan Hent e u s us ahka hirupan は ら, は ら, あそ こ Paja j aranka r ingaran Suburma' m u ru ku rl a munan わ がふ るさ と,西 ジ ャワよ エ ミル ・サ リムが い うことに ゃ, いまや森 が危機 に瀕 して る Tuh,t ubdidi t u エ ミル ・サ リムが い うことに ゃ, ほん とに Le mburkur i ngJawaBar at とって も恐 ろ しい una mi s ki n ku Ce uk Emi t Sal i m,Aye 静 かで安 らかな暮 ら しが した い l e uwe ung 苦 しいの に きれ いな もの ばか り着 るな Ceuk Emi lSal i m,e s t uni ng mat ak ke u- ああ,かわ いそ うな西 ジ ャワよ eung 年 と ともに苦 しみ が増 す Hayangr epehbar ir api h Ul ahr api hbar ir i puh は ら, ほ ら, あ そ こ ude uht e ui ngJawaBar at De Be akt aunbe ukiwal ur at わ が祖 国,土 と水 の イ ン ドネ シアよ 人 び とは平和 な国を花 咲 かせ 人 び とは豊 かな国を花 咲 かせ Tuh,t ubdidi t u Le mahc aii ndones i a 肥 え栄 え,豊 か で活 き活 き と Ur angwuj udke unnagar anus a ・ nt os a 豊 か な国 イ ン ドネ シアの実現 は Ur angwuj udkeunnagar anur ahar j a 私 た ちすべ て にかか って い る 国 じゅう喜 び に満 ちあふ れ St l burma' murgemahr i pah Eus inagr lS ukabungah 参 考 文 献 l ndones i anur ahar j a Gumant ungur angs adaya エ ミル ・サ リムが い うこ とに ゃ 13) 1 3 ) エ ミル ・サ リム Emi lSa l i m は, ス-ル ト政権 での有力な経済閣僚。とくに環境問題-の関心 が強いといわれ,1 9 7 8-1 9 83 年まで開発 ・環境 監察国務相,現在は人 口問題 ・環境担当の国務 相である。 Adi wi l aga,Anwa s .1 975. 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