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第3章第4~7節

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第3章第4~7節
第3章 岐阜城跡の調査
第4節
歴史的調査
(1)岐阜城の歴史
1)永禄10年までの稲葉山城
金華山(稲葉山)における城郭造営の伝承として、建仁年間に二階堂山城守行政が初めて築い
たとするものがある。続いて行政の子佐藤伊賀守朝光、伊賀二郎左衛門光宗が城に居し、また氏
を稲葉と改めた光宗の弟稲葉三郎左衛門光資が在城したという。さらに斎藤利永が古城を修築し
たとする。後述する『美濃明細記』など、江戸時代の地誌類に広く現れる伝承であるが、根拠と
なる具体的な史料は明らかでない。
明応5年(1495)土岐政房・斎藤利国と土岐元頼・石丸利光の争乱に際して、金華山の北西尾
根にある丸山が政房方の陣となったという。また大永5年(1525)長井藤左衛門尉長弘と長井新
左衛門尉(斎藤道三父)が主家の土岐頼武・斎藤利隆を追放した事件で、南麓の瑞龍寺が戦地と
なっている。この時、『朝倉家伝記』によれば、朝倉勢が守護方について、「稲場山ノ城」を攻
撃している。少なくとも尾根筋に関しては、城郭としての土地利用が進んできたものと思われる。
一方で土岐氏の守護所は、山の南方の革手から北西に長良川を越えた福光、さらに天文元年(1532)、
北の枝広館へと移転を重ねたが、金華山及びその山麓部に近づくことはなかった。
天文8年(1539)、斎藤道三によって伊奈波神社が丸山から現在地へ移されたと伝えられ、こ
の時までには稲葉山に築城されたと考えられるが、天文4年(1535)に長良川の洪水により流失
した川北の守護所・枝広館との関係を考えれば、道三がこの地域の整備に着手したのは、これよ
り年代が遡る可能性がある。尾張の織田信秀らは盛んに美濃に侵攻し、天文13 年(1544)、道三
は城から出て、朝倉・織田連合軍を迎撃した。その後も美濃国内で攻防が続いたが、天文17 年
(1548)に信秀と和睦し、南からの脅威がなくなった道三は、同21 年ころ、守護・土岐頼芸を追
放した。
弘治2年(1556)斎藤義龍が父道三を破り、かわって美濃の支配者となった。永禄2年(1559)
には足利将軍の相伴衆に列したから、名実ともに美濃を掌握したことになる。義龍は国内の安定・
整備に努めたが、織田信長との緊張が高まる中、同4年(1561)に病を得て急逝してしまう。跡
を義龍の子龍興が継いだが、同7年(1564)、稲葉山城が竹中半兵衛重虎(重治)と安藤伊賀守
守就に奪取されるなど、龍興の代には混乱があった。
2)織田信長の岐阜入城
永禄10年(1567)、信長は稲葉山城を落し、義龍の子龍興を追放して、小牧山から岐阜へ移っ
た。山頂部や尾根筋の施設の規模や配置については、まだ詳細不明なところが少なくないが、こ
の直後に多くが修築されたものと思われる。西麓の岐阜公園内の居館推定地については、昭和59
年からの第1次発掘調査が、斎藤氏時代に造成された土地をベースとして利用しつつ、再造成と
施設の建設を行ったことを強く推定させる結果となった。またその後の2・3次調査によって、
現在残る階段状地形が、信長入城後にその基本形が出来上がったものである可能性が示された。
同年の9月から12 月にかけて、信長は多くの禁制・安堵状を出して、戦乱で逃亡した百姓・町
人の還住と新領地の治安回復に努めた。またこの頃から「天下布武」印を使用するようになる。
信長が「天下」を視野に収めたことと関連するように、翌年の伊勢出兵に始まる対外戦や、足利
義昭を西庄の立政寺に迎えて幕府再興の計画に着手するなど、その軍事・政治的戦略はここから
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第3章 岐阜城跡の調査
大きく展開していった。義昭の征夷大将軍への補任と二条の御所造営、伊勢長島攻め、延暦寺焼
き討ち、義昭追放、朝倉・浅井氏の滅亡、本願寺攻撃、長篠合戦などは、岐阜在城時代の重要事
件である。
3)関ヶ原合戦まで
天正3年(1575)信長は家督を子信忠に譲って岐阜城主とし、翌4年(1576)に近江安土へ移
った。天正10 年(1582)父子が本能寺の変に斃れた後、秀吉は信孝に岐阜城を預けた。以後岐阜
城主は、秀吉による人事のもとに置かれることになるが、信孝は三法師(織田秀信)の扱いに端
を発して秀吉と争い、敗れて自害した。本能寺の変以後の岐阜城主は以下の通りである。
天正10 年(1582)6月~ 織田信孝(野間大御堂寺へ送られ自害)
天正11 年(1583)5月~ 池田元助(小牧長久手戦で戦死)
天正13 年(1585)正月~ 池田輝政(三河吉田城へ移る)
天正19 年(1591)3月~ 豊臣秀勝(朝鮮の役で陣没)
文禄元 年(1592)9月~ 慶長5年(1600)8月 織田秀信
信長・信忠の時代から関ヶ原合戦までの間、岐阜城に関連する施設の改廃がどのように行われ
たかは、余り明らかではない。ただ後述する江戸期の地誌等には、池田輝政が天守閣と矢倉を増
築し、山下に屋敷を構え、堀を掘り土居を高くしたという記事が見え、廃城後に見えていた遺構
の一部は、この時期以降に再整備されたものである可能性がある。輝政の時代、加納楽市場の再
確認など城下の整備にも努力するところがあった。
最後の城主秀信の時代には、岐阜の外港である鏡島湊の振興が図られるなど、経済政策にも進
展が見られた。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に臨んでは西軍に属したため、合戦の開
始以前に家康方の攻撃の標的となり、城郭としての歴史の終焉を早める結果となった。8月23日、
浅野幸長が瑞龍寺山砦を攻撃、福島正則・池田輝政が七曲口・百曲口・北面水之手口から尾根筋
を攻め上り、岐阜城は陥落した。秀信は尾張知多、次いで高野へ送られ、慶長10 年(1605)に没
した。
4)関ヶ原合戦以後
合戦に勝利した家康は、岐阜城を廃し、南方約4km の平地に加納城を築いた。岐阜城の櫓・館
の礎石・石垣などはこの時とり壊され、新城建設のために使用されたといわれる。
城を失った岐阜の町は、加納藩領ではなく、徳川蔵入地(直轄領)となった。慶長6年(1601)
大久保石見守長安が美濃国奉行となり、旧城の地を離れた南西、靱屋町・米屋町辺りに陣屋を置
いた。元和元年(1615)木曽山及び木曽川・飛騨川流域の要地が尾張藩へ引き渡され、同5年(1619)
に岐阜町は美濃国内142 箇村とともに同藩へ加増された。金華山は尾張藩主の「御山」として一
般の立ち入りが禁止され、奉行所に山廻り同心が置かれて普段の見回りに当った。歴代藩主の岐
阜御成の際には、登山・鹿狩り、鵜飼見物などが催された。江戸後期と思われる『岐阜御山附近
図』には、山と平地の間に柵がめぐらされ、所々に冠木門が描かれる。
柵があった山裾から西へ、木挽町までの間は畑地であったらしい。木挽町は、地方として岐阜
町には属していなかったが、実際にはここまで町屋が連続していた。しかし、山までの間は後ま
で市街化しなかったと思われる。江戸時代を通じて、山と山麓の城主居館があった部分、及びそ
の前面の平地には、大規模な施設は建設されなかったと考えられる。
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第3章 岐阜城跡の調査
(2)発掘調査の概要
金華山西麓に位置する岐阜公園は、その大部分が周知の埋蔵文化財包蔵地である岐阜城千畳敷
遺跡の範囲となっている。岐阜城千畳敷遺跡部分の調査は、昭和59年(1984)の1次調査を皮切
りに、これまでに発掘調査3回、試掘調査3回、立会調査10回が行われているが、全体に比して
部分的な調査にとどまっており、遺跡の全体像の解明には至っていない。平成19年度からは、遺
跡の内容確認のための調査(4次調査)を開始し、現在も継続中である。
山頂部の発掘調査は、通路設置に伴う試掘調査にとどまっている。
表 3-13 既往調査の概要
山麓部(岐阜城千畳敷遺跡)
調査次数
調査年月日
調査主体
調査目的
1次調査
昭和 59 年 11 月 12 日
~62 年 7 月 9 日
岐阜市
教育委員会
史跡整備
に伴う
調査
2次調査
昭和 63 年 6 月 23 日
~平成元年 8 月 31 日
〃
美術館
建設に
伴う調査
3次調査
平成 9 年 9 月 1 日
~11 年 6 月 30 日
(財)岐阜市教育
文化振興事業団
山麓の庭
園整備に
伴う調査
4次調査
平成 19 年 7 月 18 日
~継続中
岐阜市教育委員会
(公財)岐阜市教育
文化振興事業団
遺跡の
内容確認
試掘調査
①地点
平成 17 年7月 19 日
~8 月 1 日
〃
遺跡の
内容確認
試掘調査
②地点
平成 18 年 7 月 4 日
~8 月 4 日
〃
遺跡の
内容確認
試掘調査
③地点
平成 19 年 12 月 5 日
~12 月 7 日
〃
遺跡の
内容確認
立会調査
①~⑤地点
平成元年
岐阜市教育委員会
立会調査
⑥~⑨地点
平成 9~11 年
岐阜市教育委員会
(財)岐阜市教育
文化振興事業団
内容
戦国時代の遺構面が3面確認された。2層上面を
上層面、3層上面を中層面、4層上面を下層面と
している。上層面では、巨石列に区画された大規
模な通路や石垣等、水路、礎石建物などが検出さ
れている。下層調査はトレンチもしくは撹乱部分
で行われており、中層面では水路や石垣等など
が、下層面でも石垣が検出されている。調査後遺
構の復元整備が行われ、現在公開されている。
戦国時代の竈や竈作業場、帯状石列遺構のほか、
中世の地鎮遺構や石垣等、古代の土坑、最下部で
は6~7世紀の横穴式石室(千畳敷古墳)が検出
された。竈は現在、美術館内に移築復元されて展
示公開されている。
戦国時代では少なくとも3時期の遺構が重複し
ており、その下に中世、古代の遺構面が多数見つ
かるなど、多くの遺構面の重複が確認された。こ
のうち戦国時代の石組み井戸は調査後、現地に復
元されている。
岐阜城千畳敷遺跡のA~D地区にトレンチを設
定、庭園の州浜と考えられる遺構や焼土塊の堆
積、礎石等を検出した。平成 19・20 年度の調査
成果の報告書を刊行している。
戦国時代の平坦面が2つ、約3mの高低差で確認
されている。平坦地間の斜面下で巨石の抜き取り
痕と考えられる土坑が検出された。堆積状況から
この抜き取りは 1600 年の廃城直後である可能性
が考えられている。
絵図に描かれている「昔御殿跡」の確認のため、
千畳敷遺跡の最下段平坦地の南側で行われた。中
世~戦国時代の整地層上に溝、土坑2基、石積み
が検出している。
近世絵図に描かれている南北の道である「大道」
の確認のため実施された。検出した土坑からは被
熱した瓦が出土しており、門などの施設が近隣に
存在した可能性が指摘されている。
2次調査期間中及び終了後に行われた工事に伴
い、立会調査を行った。
3次調査期間中公園再整備に伴う工事に伴い、立
会調査を行った。
山上部(岐阜城跡)
試掘調査
平成 13 年
岐阜市教育委員会
(財)岐阜市教育文
化振興事業団
遺跡の内
容確認
81
「軍用井戸」に至る通路の試掘調査
第3章 岐阜城跡の調査
100m
0
図 3-16 山麓部 既往の調査位置図
82
第3章 岐阜城跡の調査
試掘調査
図 3-17 山上部 縄張り図及び既往の調査位置図(中井 2003 に加筆)
83
第3章 岐阜城跡の調査
1)山麓部の発掘調査
山麓部の発掘調査では永禄10 年(1567)から慶長5年(1600)の段階と考えられる第1遺構面の下
層から、信長の稲葉山城攻めの際の火災跡と考えられる炭・焼土層が確認された。その直下の第2遺
構面では石積み、階段等が検出されており、これが斎藤段階の遺構と考えられている。このような状
況から信長は火災後に整地して新たに建物を建てたとみられるが、基本的に平坦地については斎藤段
階のものをベースにしつつも大改修をおこなっているようである。また、第1遺構面も炭・焼土が確
認されている場所もあることから、廃城段階で建物が焼失したとみられる。
2次、3次調査ではさらに下層の調査を行っており、中世以前の遺構を確認している。2次調査で
は戦国時代の遺構のほか、中世の地鎮遺構SX 1 や石垣SV 01・02 等、古代の土坑SK 07、最下
部では6~7世紀の横穴式石室(千畳敷古墳)が検出された。その変遷は大きくⅥ期に区分されてい
る。
3次調査では、戦国時代で少なくとも3時期の遺構が重複しており、その下に中世、古代の遺構面
が多数見つかるなど、多くの遺構面の重複が確認された。2次調査で検出された千畳敷古墳の時期を
1期として、近代までを9期に区分している。鎌倉・室町時代の遺構としては、6期では鋳造関連の
遺構SX6・7とその埋土から出土した梵鐘の鋳型、石積みSV6等が確認されている。また5期で
も石積みSV1等や石列SV 28 とともに、整地層(Ⅷ層)から五輪塔が、自然堆積層(ⅩⅠ層)か
らは「大寺」と書かれた墨書土器などが出土しており、中世には寺院に関係する施設があった可能性
が高いことが判明した。4期の石列SV 30 等や石敷きSX 12 等、石積みSX 23 等、階段SX11 な
ども寺院の一部である可能性が指摘されている。
2)各平坦面の概要
第1遺構面では各地区で石垣等を検出しており、各平坦面の境界を推定する材料が得られつつある。
曲輪配置については、少なくとも6段の平坦地があることが明らかになっている。本項ではこれまで
に検討された遺構配置をベースに地籍図、絵図等の分析と最新の発掘調査成果を加え、各平坦面を今
一度概観することで、現状で考えられる居館の構造や今後の課題を提示する。
平坦面①(第1段)
標高18.2~19.0m 推定面積約6,000㎡ (史跡範囲外)
「濃州厚見郡岐阜図」(蓬左文庫)には山麓部分に長方形と三角形の区画が描かれており、長方形
部分には「昔御殿跡」と記されている。平坦面①はこの長方形部分の範囲を指すもので、明治21 年の
地籍図の分析からその範囲を推定している。
3次調査の南端部は長方形部分の推定範囲内に入っており、その部分では井戸SE2など遺構が密
に検出される傾向がある。範囲内で確認された遺構は平坦面①の建物に関連する可能性が考えられる。
地籍図では槻谷から流れる水路が長方形部分の北端を通っており、これが当時の水路ラインを踏襲し
ている可能性がある。その場合土塁と堀があったとみられるが、発掘調査では確認されていない。試
掘調査②では南端部の堀と土橋の可能性のある痕跡が確認されている。なお、大正10年の公園を写し
た写真の中に、造成作業の中に見つかったと思われる巨石列が写されているものがある。おそらく東
側の平坦面②との境界は巨石により区画されていたと考えられる。
この平坦面①は、大正期以降の公園整備により最も改変を受けている場所であり、これまでに存在
した建物の基礎や上下水道等で遺構の破壊も著しい。今後、試掘調査等で内容や残存状況の確認を進
める必要がある。
84
第3章 岐阜城跡の調査
平坦面②(第2段北) 標高24.0 ~ 25.0 m 推定面積約2,400㎡ (史跡範囲外)
谷川推定流路北側の最も大きい平坦面である。北端部では、現在の登山道(瞑想の小径)の延長上
で石垣と通路遺構を確認しており、ここから丸山や山上部へアクセスしていた可能性が高い。北東側
は岩盤際まで遺構が検出されているが、南東側は石垣を確認しており(立会調査①)、一段高い平坦
面④が存在するようである。西側斜面北側では転倒した巨石を確認しており(立会調査⑥)、第1・
2段間には巨石列が存在したとみられる。
2次調査では永禄10 年以降にも整地層が7層確認されており、その都度改修が行われたとみられる。
これほどの改修は他の平坦地では確認されておらず、その意図に留意する必要があるだろう。検出さ
れた石敷きは、4次調査で確認された州浜状の遺構SX6に類似しており、ここに庭園が存在した可
能性もある。その場合隣接して築かれた竈は台所でなく湯屋の施設であった可能性も考えられるが、
用途を特定するには至っていない。みつかった竈は剥ぎ取りが行われ、現在加藤栄三・東一記念美術
館内で展示されている。
この平坦面②は、美術館とロープウェイ山麓駅で大きく改変を受けている場所である。範囲や性格
等不明な点が多く、複数の平坦面である可能性もある。これまでに検出された遺構の評価や平坦面の
性格については、今後、周辺調査の進展とともに再検討する必要があろう。
平坦面③(第2段南) 標高22.5 ~ 23.5 m 推定面積約850㎡ (一部史跡範囲外)
1次調査の下段平坦面、通路SS1南に相当する場所である。入口は南西部分で、東側と北側に分
岐する通路の役割を果たしている。東側は平坦面⑤に至るが、北側の平坦面②とのつながりは確認で
きていない。北側通路の途中の部分ではピットが3基確認されているが、撹乱が著しく掘立柱建物で
あるかは不明である。
周囲の斜面はすべて巨石列で覆われており、居館の中で最も特徴的な部分である。中央部の土塁は
1段の巨石で覆われているが、南側では裏込めが上方までみられることから、2段以上もしくは階段
状の石積みがあった可能性があり、構築方法に違いがあることが確認されている。
平坦面④(第3段北) 標高26.0 ~ 27.0 m 推定面積約700㎡ (一部史跡範囲外)
A地区の下段に位置する平坦面である。北側は立会調査①、東側は4次調査の結果、石垣で区画さ
れていたことが確認されている。西側はロープウェイ山麓駅との間に段差があり、これが境界とみら
れる。南側は1次調査で確認された水路SD 01 まで広がるとみられ、水路周辺では礎石が検出され
ている(1次調査中段平坦面中Ⅳに対応)。
平成23年度の試掘調査により、現在の水路より北側は全体的に削平を受けていることが明らかにな
っている。
平坦面⑤(第3段南) 標高25.5 ~ 27.5 m 推定面積約1,000㎡ (一部史跡範囲外)
1次調査の中段平坦面に相当する場所である。1次調査の結果、3つの地区に細分されており、⑤
aが中Ⅰ(標高27 m、推定面積200㎡)、⑤bが中Ⅱ(標高27.5 m、推定面積200㎡)、⑤cが中Ⅲ
(標高25.5 m、推定面積600㎡)に対応する。
⑤aは平坦面⑧へ至る階段の入り口部分に当たる場所で、礎石を複数検出していることから礎石建
物や門があったと考えられている。中央部は石敷きや白色粘土により整備されていた。
⑤bは北・西側の境界が撹乱されており不明瞭である。また南側の斜面は未調査であるため、平面
85
第3章 岐阜城跡の調査
形は確定できていない。
⑤cの調査は現在の水路の南側にとどまっている。水路北側は建物で壊されているが、本来は谷川
推定流路まで平坦面が広がっていたと考えられる。
平坦面⑥(第3.5 段) 標高29.1 ~ 29.5 m 推定面積約1,200㎡
4次調査でD地区とした平坦面である。第3、4段の中間の高さであるため、3.5 段と位置付けた。
東・南西部で石垣跡を検出しているが、中央部では明確な遺構は検出しておらず、その性格は不明で
ある。西側では石垣SV 19 上に通路の可能性がある平坦面を確認している。最下段から平坦面③に
至る途中に南側から平坦面⑥につながる通路があった可能性がある。
平坦面⑦(第4段北) 標高31.0 ~ 31.5 m 推定面積約750㎡
4次調査でA地区とした平坦面で、調査の結果、四方の境界がおおむね確認できた。南側では通路
と石組みの痕跡を、西側では石垣を確認している。北側は巨石の根石とみられる遺構を確認しており、
それより北側は自然地形の高まりであったと考えられる。東側は岩盤まで平坦面が広がっているよう
であった。
平坦面では庭園の州浜と考えられる石敷きを検出しており、平成23年度までの調査で池の輪郭がほ
ぼ明らかになった。中央部には岩盤を背景とした庭園があったとみられ、建物跡は南東部に存在した
と想定される。
平坦面⑧(第4段南) 標高33.5 ~ 34.0 m 推定面積約1,150㎡
4次調査でC地区とした平坦面で、南北に伸びる階段を境に東西に細分される。西側の⑧a(推定
面積300㎡)は平坦面⑤と⑥からの動線の合流点であり、ここを経由して東側の⑧b(推定面積850㎡)
へ至る。階段跡は途中が通路状になっており、この上部に建物や廊下が渡っていた可能性がある。
⑧aでは西側、南側の境界を確認した。南側は石垣を構築して土留めしている。西側では東西通路
の北では巨石、南では石垣の痕跡を確認しており、様相が異なる。南西部では被熱した礎石と瓦を確
認しており、下段からの通路部分に門があった可能性が考えられる。
⑧bは平坦面⑨・⑩へ至る手前部分にあたる比較的広い平坦面である。北側は平坦面⑤から石垣が
立ち上がっていたとみられるが、崩落しているため石材の大半を失っている。南側は岩盤が露出して
おり石垣はみられなかった。東側は巨石列で区画されている。この巨石列は周囲の岩盤と合わせて視
覚的な効果を狙っていると考えられる。南東部の岩盤前面には石敷き遺構がみられ、この場所に庭園
があった可能性がある。調査の範囲では高層建物の痕跡を伺うことはできなかったが、近現代の盛土
の中には0.5 × 0.35 m前後の礎石が5個含まれており、建物があった可能性は十分に考えられる。
平坦面⑨(第5段) 標高39.2 ~ 39.5 m 推定面積約200㎡
4次調査でBⅠ区とした平坦面で、北・南・東側の境界を確認している。東側の平坦地⑩(BⅡ区)
との境界部分では石垣を確認している。南側でも石垣を検出しているが、上部に円礫敷きがあり、犬
走り状の平坦面があったとみられる。この平坦面が上段のBⅡ区に近い標高であることから、一体で
施設が造られていた可能性がある。北側は石積みが崩落した痕跡を確認しておりこれを北端と推定し
ている。
平坦地⑨では敷地の周辺部は0.3 mほど高く、低い中央部において長さ0.2 ~ 0.3 m程度の礎石を
86
第3章 岐阜城跡の調査
3基確認している。また上部に堆積した壁土層は他の平坦地ではほとんどみられないことから、この
場にあった建物が火災にあって倒壊したようである。
平坦面⑩(第6段) 標高44.5 ~ 45.0 m 推定面積約230㎡
4次調査でBⅡ区とした平坦面で、西側のBⅠ区とは石垣で区画される。東、南側では石垣を、西
側では石組み溝を確認しており、この区画の中に建物があったと推定される。遺構面は東側が西側に
比べて0.5 m程高いため、平坦地内で段差があったとみられる。また南側石垣の裏込めには川原石が
多用されており、山から流れる水の排水を意識した構造であったと考えられる。石組み溝の西側では
礎石を1基検出している。東側石垣前面には東側から流入したとみられる焼土が確認されている。
※B地区東側斜面 標高約47 m
4次調査でBⅢ区とした箇所で、平坦地⑩の東斜面に位置する。円形状石組みと池が一体となった
園池遺構が見つかっている。円形状石組みは手水か泉のような施設であったと考えられる。隣(北側)
には石組みと円礫を敷いた州浜で護岸した池があり、池底には白い砂が敷かれている。砂は長良川の
もので、その中でも白色の砂を選別しているようである。B地区南側の岩盤を伝った水が円形状石組
みに集められ、そこから溢れ出た水が池へと流れ出し、さらに池から谷川へと排水されるような仕掛
けであったと考えられる。
谷川に面した北斜面には、推定で 70mにわたり巨石(1~2.5m)の護岸石組みが四段以上築かれ、
谷川には崩れた石材が散乱している。巨石石組みはB地区の造成と同時に構築され、園池遺構とも一
体として造られたことがわかった。このことから園池遺構は信長期のものである可能性が高いと考え
る。
87
第3章 岐阜城跡の調査
惣構
図 3-18 山麓部城主居館跡地形復元図
88
4次調査
時代区分
基本土
層
近代~現代
Ⅰ層
江戸時代
1600年
上面の遺構
基本土
層
撹乱13,14,16,17,24
登山道
9期
Ⅰ層
(Ⅱ層)
Ⅲ層 SX14
Ⅳ層
戦国時代
(16世紀)
3次調査
時期
区分
SX2・6・7・13・15~
19・
21・22
SV6・7・9~19
巨石1・2
SVX1~5
SK16~20
礎石1~6
礎石抜き取り痕
SD6
8期
2次調査
上面の遺構
時期
区分
Ⅳ層
7‐3期
1層
SK3
SV10,18
SS1
SK33
(SE2)
Ⅵ期
SV2・4・5・8・9
SE1
SX4
Ⅴ期
89
1567年
Ⅴ層
SX8,SV8,SK15
中世後半
(15世紀)
7‐2期
5‐2期
古墳時代
後期
上面の遺構
Ⅳ期
1層
SX01・03,SD01・02
2-1層 SX02,SD05
竈01・02,竈作業場
SA01,SX05,SK01
2-2層
SD03,SX04,Pit60・
SF01,SD04,SX06
2-3層 SK02・03,竈3
竈作業場02,SB01
3-1層 SD10~11
SD06~09、SK04~
3-2層
05
4-1層
4-2層 SB02,SK06、柱穴群
4-3層 SV03,階段01
2層
SS01~03
SB01~04
掘立柱建物跡
SA01
SD01上層
SV01~06,08~
13,17
SVK01~06
SVX01~04
SK01~07
SX01~03,05~09
中層
面
3層
SV14~16,18~20
・22・23SF01・03
SD01下層,SX04
下層
面
4層
SV21
上層
面
(Ⅶ層) SX6・7,SV6,SK9
Ⅷ層
SV1・11・12・13・19・
26
Ⅸ層
Ⅹ層 SV3,17,25,28
(ⅩⅠ層) SD6
(ⅩⅡ層)
SV15・
4‐4期 ⅩⅢ層 SV20~22
16・24
SV27・29
4‐3期 ⅩⅣ層
SA1
SX10
SV23・31・32 SD1
4‐2期 ⅩⅤ層
SK10
SX12・14
4‐1期 ⅩⅥ層 SX11,SV30
3期 (ⅩⅦ層) SK25
2期
5‐1期
被熱面
( )内は自然堆積等による
古代
基本土
層
1期
Ⅲ期
SV01・02・04・05
SX10~12
Ⅱ期
SK07
Ⅰ期
千畳敷古墳
表 3-14 千畳敷遺跡遺構対応表
89
第3章 岐阜城跡の調査
中世前半
(13世紀)
SD3,SD4
7-1期 (Ⅵ層)
6期
中世前半
(14世紀)
Ⅴ層
上面の遺構
1次調査
時期
区分
SK12・13・34
(Ⅱ層) SV7,SK5・7・8
(Ⅲ層)
7-4期
基本土
層
第3章 岐阜城跡の調査
(3)分布調査の概要
1)目的
遺構の分布状況を明らかにするため、踏査による予備的な分布調査を行った。ただし、時間的、体
制的制約から全山を踏査できておらず、遺構の認定にも恣意的な部分があると思われる。今後組織的
かつ計画的な詳細分布調査を実施することが必要である。
2)対象
金華山及びその周辺に連続する山全域。踏査できたのは登山道沿いのみで、廃道になった箇所や金
華山の大半を構成する登山道からはずれた斜面、谷等は踏査できなかった。
3)方法
登山道や尾根線上を中心に遺構の有無を確認し、地図上に位置等を記載する。遺構認定に際しては
以下の基準を設定した。
基準1:石垣等の顕著な遺構が認められる。
基準2:石材等が斜面に散布している。
基準3:円礫・角礫等が見られる。集中している場合と散在している場合がある。
基準4:人工的な地形改変の痕跡が認められる。明瞭なものから不明瞭なものまでいくつ
かあるが、ある程度経験的に判断した。
基準5:瓦・土器・陶磁器等の遺物の散布が見られる。
4)分布調査のまとめ
分布調査の結果、金華山及びその周辺の山の尾根には多数の遺構が存在することがわかった。地区
別の遺構一覧を表3-15、3-16、3-17に示す。これらは大別すると2つに分かれる。
ア
平坦地と石垣や石材の散布等顕著な遺構が組み合わさったもの。
イ
明瞭あるいは不明瞭な平坦地のみで形成されるもの(基準4のみの遺構)。
イの遺構は広範囲に認められるが、アは山上主要部(A区)、「水ノ手」道(E区)、
馬ノ背道(F区)、「百曲」道(I区)、鼻高ハイキングコース(D・J区)、松田尾
(C区)などに限られる。この範囲は、ほぼ長良川や岐阜町に面した部分である。
90
図 3-19 遺構分布図(山上主要部)
第3章 岐阜城跡の調査
91
図 3-20 遺構分布図(金華山全域)
第3章 岐阜城跡の調査
92
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-15 遺構一覧表(1)
絵図に遺構記載がある地点
地
区
遺構
番号
①
②
規模(m)
東西4.5
1 東西11.5
2 東西5
3 東西17
備考
南北2.8
南北3
南北5
南北7
東斜面に石垣一部残存
尾根を切断して平坦面造成
東下斜面に石垣残欠
②ー2と連続する平坦面か
③
④
⑤
⑥
山
上
主
要
部
⑦
⑧
⑨
A
⑩
1
2
3
4 南北32~33
東西(幅)3
1 東西6.5
2 東西7
3 東西14.5以上
南北11
南北4.5
南北6.5
東西27.5
1 南北5
南北2
下斜面に石垣一部残存
上と下の斜面に石垣
天守と太鼓櫓の通路
井戸
「上台所」「太鼓櫓」
岩盤くり抜きの井戸
岩盤くり抜きの井戸。四隅に岩盤くり抜
きの柱穴(0.25×0.25(南東)、0.15×0.2
(南西)、柱穴間距離東辺3.3、北・西・
南辺2.4)
岩盤くり抜きの井戸
「ニノ丸」「下台所」
「二ノ丸門」「ニノ門」
「切通」
南北11.5
東西2.5
東西2.5
2
3
⑪
⑫
上幅6以上、下幅3、
高さ3.6
⑬
深さ3.6
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
(
⑲
1
①
②
2 東西8
東西24
東西16.5
上面東西13.5
③
B
)
七
曲
七
峠
曲
よ
り道
上
④
⑤
⑥
⑦
①
松
田
尾
石材・瓦片散布
畝状空堀群
「馬場」
「上格子門」「一ノ門」
「太鼓櫓」「七間櫓」
「リス村」
北西斜面に石垣。南西斜面石材散布
②
C ③
東西16
南北15
東西9.5
東西15.5
東西9
南北6
南北8
南北31
東西8
東西17
東西41
南北10.5
南北10
南北11(西端)
南北7.5(中央)
④
(
~
鼻
1 高
コ
裏
門ス
ー
、
)
檜
峠
D
①
②
③
④
①
水
の
手
道
②
③
E ④
⑤
⑥
⑦
⑧
①
②
馬
の
背
③
F
④
⑤
⑥
⑦
⑧
南北6.5
南北16
南北5
上面南北8.5
東西7
南北33
上段東西3.5、
下段東西3
東西8
東西5
上段南北7、
下段南北8
南北23
南北10.4
上段東西6、
下段東西5.5
東西4.5
上段東西3、
中段東西8.5、
下段東西5
上段東西6.5、
下段東西7.5
東西33以上
未
未
未
遺構認定
基準
1・2・4
1
1・4
4
1・4・5
4
4
4
1・2・4
1・4
4
4
1・2・4
1・4・5
1・4
4・5
1・4
下段の西斜面に石垣及び石垣の崩壊
イ
ウ
エ
オ
カ
キ
ク
1・4
ケ
1・4
1・4
1・4
コ
サ
4
シ
2・5
4
4
1・2・4・5
4
ス
セ
ソ
1・2・4
タ
4
4
4
ア
イ
上面はあまり平坦でないマウンド状(円
4
墳?)。
北に隣接して2基マウンド(方or円
4
「七曲峠」
4
4
4
平坦面に石材少数散布。北東斜面に
1・2・4
石垣残存。東~南東斜面に石材散布。
4
4
東端から19.5mのところから平坦面の
北側に土塁有(東西16.5、南北3.5)。東 1・4
端斜面の北東部に石垣有。
1・4
4
4
1?・4
上段南北3、
下段南北6.5
南北10
上段南北9.5、
中段南北3、
下段南北11
上段南北5.3、
下段南北6
南北4~5
南北8以上
未
未
稲葉城
趾之図
との対
ア
エ
オ
カ
ア
イ
ウ
ア・イ
ウ?
エ?
4
ア
4
2・4
4・5
1・2・4
1・4
4
1・4
イ
ウ
1・2・4
エ・オ
カ
イ
平坦面及び西斜面に大形石材散布
2・4
中段と下段の間の通路に石材散布。下
段の西斜面に石垣残存
1・2・4
上段北斜面に石材散布。上段西斜面
に石列(石垣残欠?)
尾根を幅広く削平
北西斜面に石垣
丸山までの尾根を幅広く削平
93
1?・2・4
4
1・2・4
4
4
ウ
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-16 遺構一覧表(2)
地
区
遺構
番号
規模(m)
①
②
③
④
⑤
⑥
権
現
山
~
⑦
⑧
G
⑨
⑩
⑪
⑫
岩
戸
山
⑬
⑭
①
②
③
稲
荷
山
H
④
⑤
⑥
遺構認定
基準
備考
未
東西7
東西22
未
南北8
南北8.5
不明瞭な平坦面。マウンド?
南東部は岩盤露頭
東西10
東西48.5(基底部)、
東西8(最上面)
東西49.5
東西14.5
東西25以上
南北5.5
南北5(最上面)
北側はドライブウェーで破壊
最低2段
南北14
南北12.5
南北14.5
南北は南に傾斜する
南北は半壊。西に張り出しが延びる
東西38(基底部)、東西
━
上段東西22、
下段東西27
上段東西13.5、下段
東西21
南北9(最上面)
━
上段南北14、
下段南北12.5
上段南北20、
下段南北16
2~3段
施設が建っており旧状不明
上段は新しい石垣で区画された宮跡
東西6以上
東西15.5
東西13
上段東西12、
下段東西24.5
東西16以上
東西15.5
南北40
南北6.5
南北7
上段南北10、
下段南北10
南北10.7
南北7.5
上段には弘法大師堂、下段には時鐘
楼が建っており、周囲は新しい石垣で
区画、平坦地は舗装されている
東側は道路で壊されている可能性大
やや凹凸のある平坦地
東側は緩やかなスロープ
上段には稲荷社が建っている
4
4
4
4
4
稲葉城
趾之図と
の対比
ア
イ
4
ウ・エ
4
4
4
4
4
4?
カ
キ
4
ク
4
ケ
4
4
4
ア?
4
ウ
オ
イ
4
4
先端は岩盤露頭
表 3-17 遺構一覧表(3)
絵図に遺構記載が無い地点
地
区
遺構
番号
①
百
曲
道
I
②
③
④
(
①
、
~
ー
2鼻
高
西
馬コ
山
酔
木ス
峠
)
~
鷹岩
巣戸
山
西洞
の山
尾か
根ら
J ②
③
④
①
②
K
③
④
①
規模(m)
東西10.5(全長)、
東西9(上段)
東西42以上
東西9
東西12.5
東西39
備考
東西49
南北24.5(全長)、
南北17.5(上段)
南北5
南北6
南北10.3
南北(東端16.5、
中央13、西端12.5)
南北16
東西32
東西13.7
南北5
南北10
上下2段の平坦面
尾根先端(西端)斜面に石材散布
北斜面の一部に崩れた石垣列
遺構認定
基準
4
2・4
4
4
1・2・4
東にマウンド(円墳?基底部東西20、
4
上面東西8.5、南北10)
4
4
4
4
4
4
4
L ②
4
③
4
①
4
②
1・2
①
4
②
4
M
岩
戸
山
N
瑞
龍
寺
山
①
②
O ?
③
④
~
東
達
坂
目
峠
洞
東西15
━
南北9
━
4
「本邦築城史研究」に平坦地記載有。
4?
現在、展望施設と駐車場のため遺構不
4
4
94
第3章 岐阜城跡の調査
(4)絵図調査の概要-近世絵図における金華山の景観認知-
1)目的
近世絵図を用いて、金華山の景観が近世においてどのように認知されていたかを検討する。金
華山の範囲は「金華山之図」や『岐阜市史』(1928)に従い近世尾張藩領の山すなわち、現在の
国有林に岐阜公園(山の部分)及び伊奈波神社周辺の山を加えた範囲とする。
2)絵図類の分類
金華山を描いた近世絵図は、描かれた範囲や表現方法などから5類に分けることができる。絵
図のいくつかには描かれた年代が記載されているものがあり、寺社の消長などを加味するとおお
よそA類が古く、D類が新しい傾向がある。C類はA類、D類の中間的な時期であろうか。D類
に含まれる絵図は、描写内容(寺社の消長など)から相対的な前後関係をある程度推定できる。
表 3-18 絵図類の分類
A類
岐阜町と岐阜町及び長良川から見た金華山を描くもの。この内、承応3年(1654)
の年記を持つ2枚については、岐阜町部分に街区の距離等が記載される。
B類
岐阜城山上主要部の城郭遺構とデフォルメされた金華山、長良川、岐阜町を描くも
の。1枚のみ。
C類
金華山のみを描くもの。山の上に点在する城郭遺構の平面形と寸法を記載する。
「稲
葉城趾之図」の題名が示すとおり岐阜城跡と絵図制作者が認知した範囲を描いてい
ると思われる。1枚のみ。
D類
金華山と周辺の山々及び様式化された岐阜町、長良川などを描くもの。種類が多い。
E類
加納藩領を描く絵図に隣接地として岐阜町、長良川とともに描くもの。
3)金華山領域について
A・C・D類の絵図に描かれる金華山の範囲を都市計画図に合成したのが図3-22である。これ
を見ると、C類は現在の国有林が大半で、それに岐阜公園(山の部分)と伊奈波神社及びその周
辺の山が加わった範囲が描かれる。A類はほぼ惣構で囲まれた城下町と町及び長良川から眺めた
金華山の稜線部分までが描かれる。D類は町と金華山及びその周辺の山々が描かれるが、C類と
同じ範囲だけは別の色で描かれ、ここが金華山(岐阜城跡)の領域であることが示されている。
なお、D類の内新しいと思われる「岐阜町絵図」(1794)では伊奈波神社周辺が別の色で描かれ
ており、近世後期に至り、金華山の領域から伊奈波神社の領域がある程度分離して認識されるよ
うになったらしい。
E類は金華山東側の領域が曖昧に表現されているものの、ほぼC類の領域を描いていると認め
られ、更に稜線で分離して西~北側の領域を「城山」、東~南側を「岐阜山」と呼称している。
まとめ
①
C~E類に描かれる金華山の範囲からみて、近世を通じて金華山は城域として認知されて
いた。
②
金華山全体が城域として認知されていることからみて、当時は遺構だけでなく、遺構と自
然地形を一体のものとして城域ととらえていたと推定できる。
③
A・B・D・E類絵図などからみて、広い意味での城域は、金華山だけではなく、惣構で
96
第3章 岐阜城跡の調査
囲まれた城下町も包括するものであったとみられる。
④
金華山の領域の中にもA類やE類のように長良川側及び岐阜町側を分けて描くものがあり、
この範囲が狭い意味での城域と認知されていた可能性がある。
4)「稲葉城趾之図」記載「遺構」と分布調査確認遺構の対比
伊奈波神社が所蔵する「稲葉城趾之図」(C類)には多数の「城郭遺構」が寸法等を伴って記
載されている。この図に記載された「遺構」は今回の分布調査で確認した遺構とどのような関係
にあるのか検討する。
まず、図に「遺構」の記載があるのは、山上主要部(A区)、「七曲」道(「七曲峠」より上)
(B区)、松田尾(C区)、「裏門」~「檜峠」(鼻高ハイキングコース(1)、D区)、「水
ノ手」道(E区)、馬ノ背登山道(F区)、権現山~岩戸山の尾根(G区)、稲荷山の尾根(H
区)である(図3-21)。A~H区は分布調査の地区番号と対応する。対比作業の結果を表3-15、
3-15、3-16右欄に示す。この表から、現況遺構の多くが「稲葉城趾之図」の「遺構」に対応する
ことがわかるとともに、「稲葉城趾之図」は現地調査に基づいて「遺構」を記載したと推定でき
る。また、絵図に描かれる「遺構」の範囲は長良川側及び岐阜町側から見た金華山に上加納村と
の境界尾根線を加えた範囲にほぼ重なる。この範囲は先述の絵図分類のA類に近いもので、狭義
の城域を示す可能性があることから、顕著な城郭遺構が残存した部分を中心として城郭「遺構」
を把握しようとしたことが推定されるとともに、上加納村との境界部分については、「遺構」を
強調する傾向が看取される。
97
第3章 岐阜城跡の調査
図 3-22 A・C・D類絵図の描写範囲
98
第3章 岐阜城跡の調査
(5)文献調査の概要
金華山とその周囲に広がる瑞龍寺山・岩戸山・鷹巣山・日野山などは、地形的には一つの独立
した山塊を形成している。絵図の検討から、城域と認知されていたのは近世を通じて金華山(近
代の国有林の部分のみ)であることが判明しているが、尾根筋で金華山と結ばれたこれらの山々
が岐阜城とまったく無関係であったとは考えにくい。文献調査では、16・17世紀の史料に見られ
る「外山」について検討し、当時の土地権利関係等を概観した。
その結果、16世紀後葉の「外山」が、瑞龍寺の寺領、上加納村の村山、岐阜城の外郭線(惣構
の延長)など、いくつもの顔を持つ山であることが明らかになった。これらは、織田政権期には、
中世的な色合いの濃い重層的な権利関係として存在しており、おそらくは次第に解体の方向に向
かっていたのだろう。本能寺の変を契機とする豊臣政権の登場により、その動きは一気に顕在化
する。
天正19年(1591)の山改めによって近世の上加納村山が成立した。山年貢の賦課及び免除は、
領主と村との直接的な関係として設定されたもので、瑞龍寺の得分を否定するものであった。こ
れに対して瑞龍寺は得分に見合う山林の所有を目指した。これが天正11年(1583)の禁制におけ
る「外山寺家進退」との主張であり、16 世紀末の瑞龍寺山の成立につながる。一連の動きは、「外
山」の重層的な権利関係を土地所有に置き換え、上加納村と瑞龍寺以外の権利者を排除するとと
もに、両者によって上加納村山と瑞龍寺山に分割するものであった。しかし、境界の確定にはな
お1世紀を費やしたのである。
「外山」は元来「岐阜城から見た外周の山」と見るのが妥当で、「瑞龍寺から見た外の山」と
いう見方は、山論の過程で瑞龍寺が生み出したものと考えられる。裁許絵図や文献から推定され
る境界線は惣構の延長上であり、絵図から推定できる岐阜城の外郭線と重なると考えられる。
図 3-23 絵図・文献による境界付近
99
第3章 岐阜城跡の調査
(6)岐阜城の城域
遺跡分布調査の結果、金華山及び周辺の山の尾根線上には多数の遺構が存在することが判明し
た。その多くが絵図に描かれた砦と対応する。ただし、調査を行ったのは登山道に沿った稜線、
尾根線上の地域が大半であり自然の斜面と推定している大部分の地域は未調査である。
近世絵図の分析では、尾張藩が管轄した金華山は江戸時代を通じて城域(城山)として認識さ
れていたことが明らかになった。金華山全体が城域として認知されていることからみて、当時は
遺構だけでなく、遺構と自然地形を一体のものとして城域と捉えていたと推定できる。また他の
絵図からみて広い意味での城域は金華山だけでなく、惣構で囲まれた城下町も包括するものであ
ったとみられる。城域の範囲は現在の金華山国有林に受け継がれている。
文献史料の分析では、織田信長の段階では瑞龍寺境内地を除く全体が「外山」と呼ばれ、瑞龍
寺と上加納村が共に権益を有する山であったことが判明した。岐阜城の全体空間は狭義の城域(直
接支配地)(金華山国有林と岐阜公園)+村・寺院を通じた間接支配地(瑞龍寺山、上加納山)
の二重構造であった可能性が高く、その直接支配地と間接支配地の境界は、山論関係の文書から
現在の国有林の南端ラインが推定できる。
上記の検討結果から岐阜城域を最大限に捉えるならば、金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ
周辺の山塊全体、そして西側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲と
なり、これが本来の岐阜城の全体像といえよう。なお、各資料による岐阜城の城域のイメージは
同一でなく、図3-24のように重層的な関係となると思われる。
【参考文献】
岐阜市1928「金華山」『岐阜市史』
岐阜市教育委員会・(財)岐阜市教育文化振興事業団 2009『岐阜城跡』
中井均 2003「岐阜城跡(稲葉山城跡)」『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』岐阜県教育委員会
図 3-24 分布調査、絵図、文献による岐阜城の城域
100
第3章 岐阜城跡の調査
第5節
岐阜公園の調査
(1)第Ⅰ期(明治 15 年~明治時代末まで)
明治 10 年(1877)ごろになると全国で公園を求める機運が高まり、各地で公園が開設された。
岐阜公園は明治 15 年(1882)6月に請願、同年 8 月 18 日に認可されたが、しばらくそのまま
に打ち捨ててあったようで、本格的な整備は明治 19 年(1886)からの小川汲三郎と消防組による
ものであった。開園式は明治 21 年(1888)11 月1日に行われた。
当初の公園面積は5万坪余りとされる。市役所に残る公園台帳や図面等を照合すると、その範
囲は現在の財務省所管国有地に相当すると考えられる。明治 22 年(1889)の「岐阜市街新全図」
には槻谷に位置する千畳敷の平坦地を中心に滝や橋が強調して描かれているほか、開園当初には
円山公園、金華山公園と呼ばれていたこともこれを裏付けている。なお、この図には現在の板垣
退助像のそばから登る階段も描かれており、これが当初の整備であったことが分かる。このよう
に開園当初の岐阜公園はかつて歴代城主の館があったと伝えられている千畳敷を中心とした山麓
部一帯であり、名所旧跡とともに槻谷の滝や奇岩、樹木等、金華山の自然景観を楽しむための場
所であったといえるだろう。
なお明治 23 年(1890)の『岐阜美や計(みやげ)』には、以下のように記されている。
「公園は大仏閣と境域を接し、稲葉山の麓に沿ひ長良川に臨みて開造せり。園内には、物品陳列場
を建てて、本州の産物を蒐集し以って、博く人民の観覧に供へ、又、倶楽部を設け之を萬松館と
名けて、官民の宴会に供ふ。庭前には假山、噴水を作り、数万の松樹を栽ゑて、之を環らせり。
山に沿ひては、天然の奇岩角列し、樹老ひ泉清く、亭をその上に構へ、桟橋をその下に懸く。風
致最も幽邃なり。園内甚清麗にして、東照公の祠あり。神道中教院は其の下にありて、皇太神宮
を奉祀す。神前より南方一帯には老梅稚櫻、数千株を交植して、一段の美を添へたれば、他に双
びなき絶景の公園となれり。云々」
やや誇張が入っていると思われるが、開園間もないころの公園の様子が伺える。明治 10 年
(1877)に建設された中教院の敷地には梅や桜が植えられ、その西側には明治 21 年(1888)に迎
賓館兼倶楽部(萬松館)及び物品陳列場が建設される。その景観は公園と一体のものとして写真
や絵図に描かれているが、中教院の敷地は柵で明確に区画されているなど、平地部分は公園範囲
外であった。
金華山全体をみると、明治時代に至り官林を経て御料林に編入され、鵜飼の篝松に供する森林
として利用される。これは、長良川鮎御猟場設置に伴い、鵜匠篝火用松枯損木を払い下げたもの
で、戦後の林政統一によって国有林となるまで続いたと考えられる。その一方、明治 20 年(1887)
の岐阜日日新聞には「金華山に茸狩りに行く者多くして、松茸の数よりも採手の数が多き程なり・
・洋杖を振りシガレットを薫らせ野外に秋芳を尋ぬる紳士・・・」と紹介されるなど、文明開化の
中で散歩遊歩が盛んになってくる中、金華山は一般に解放され、人々が訪れるようになった。明
治 26 年(1893)の記事では昔を偲ぶ標札や道の改修を望む声が紹介されるなど、金華山活用の機
運の高まりがみられる。
101
第3章 岐阜城跡の調査
(2)第Ⅱ期(明治時代末~昭和 10 年代)
金華山活用の動きは明治 43 年(1910)の岐阜保勝会による模擬天守建設により具現化される。
岐阜日日新聞明治 45 年(1912)5 月 22 日付の記事に以下のように記されている。
「岐阜市の発展策として一昨年名古屋市に関西府県連合共進会の開催を機として金華山頂に模
擬天守閣を築造し、次で昨年金華山全部を御料局より借り下げ金華山より権現山、瑞龍寺山一帯
を市の公園となすべく計画し、本多林学博士を招じて之が設計を為すべく実地調査を請いたるが
・・・
本年度の公園整備費は約2万円に上り居れるを以て愈々公園改良に着手する事となり之が設計
方を在東京の長岡保平(漢字誤り)に依頼したれば同氏は本月 20 日後に来県設計に着手するはず
なり・・・」
このように山頂整備に連動して荒廃した岐阜公園も再度整備が実施されることとなる。明治 44
年(1911)には本多静六に現地調査を依頼し、その翌年には実質的な設計を長岡安平に委託する
こととなり大正 2 年には設計案が示されるが、広大な計画であったため、実現したのはその一部
であったと考えられる。計画と同時に明治 44 年には公園拡張の申請が行われ、この段階で平地に
あった萬松館、名和昆虫館(明治 37 年)、武徳殿(明治 41 年)等も公園範囲に正式に組み込ま
れたとみられる。また大正 6 年(1917)に至って中教院敷地が岐阜市に提供され、現在の内苑全
域が公園となる。
敷地の拡大に伴って、大規模な公園整備が行われた。三重塔(大正 6 年)、板垣退助像(大正
7 年)、遭難記念碑(昭和 2 年)の建立のほか、大正 7 年(1918)には南谷勇助をはじめとする
公園整理員が任命され、中教院跡地等において池やグラウンド等の整備が実施された。平地部分
の整備は大正 9 年(1920)に多額の予算が付いており、このときが整備のピークとみられる。大
正 13 年(1924)の『岐阜県の概要と史蹟名勝』によれば、
「無数の梅、松、楓を植栽し、池泉あり、渓谷あり、雅橋あり、いわゆる都市衛生の最大要件た
る緑樹に豊かで・・園内には三重塔、東照宮、武徳殿、名和昆虫館・・・水禽舎、禽類室、花卉
の栽培、運動具に至るまで完備している」
とある。このように大正期の公園整備では、千畳敷のほかに新たな名所を造り出し観光拠点と
するとともに、市民のニーズに応じて運動施設や動物舎を備えるなど家族で楽しめる総合公園と
して大きく生まれ変わった。
また山頂の模擬天守や三重塔に伴って登山道の整備も行われた。この一連の整備は金華山一帯
を公園化する構想に沿って行われたものであり、今日における金華山利用の構造が完成した時期
と捉えることができるだろう。その様子は大正 14 年(1925)の『岐阜名所絵図』に見ることがで
きる。
大正時代から昭和初期の金華山・岐阜公園は、観光冊子も多く作られ博覧会の会場にもなるな
ど、最も華やいだ時代であった。岐阜市で開かれた博覧会には、御大典記念共進会(大正 4 年)、
市制 30 周年記念内国勧業博覧会(大正8年)、大正天皇銀婚式奉祝国産共進会(大正 14 年)、躍
進日本大博覧会(昭和 11 年)がある。他の都市公園の例をみても、博覧会開催が公園整備を促進
した側面は大きいと思われる。なお、女神の噴水も昭和 11 年(1936)の躍進日本大博覧会の際に
102
第3章 岐阜城跡の調査
造られており、博覧会が終わった後の昭和 11 年度から 15 年度にかけて公園整備が行われ、外苑
部の敷地拡大も行われていったとみられる。
(3)第Ⅲ期(戦後~昭和時代末)
昭和 30 年(1955)、最初の索道計画から 45 年を経てようやくロープウェーが開業した。模擬天
守は戦争中の昭和 18 年(1943)、失火により焼失したままであったが、昭和 31 年(1956)に再建
された。昭和 30 年代には、岐阜公園に多数の動物舎が作られ、山頂にもリス村が誕生するなど自
然と動物に親しむ要素が濃くなった。また公園内には水族館、科学館、図書館、美術館、博物館、
音楽堂などの文化施設が造られた。それに反比例するように、かつての故地である千畳敷の名は
徐々に見られなくなっていく。
山頂には昭和 18 年(1943)建設の岐阜気象観測所を改修して昭和 26 年(1951)に天文台が開
設される。この天文台は昭和 34 年(1959)に再び気象台観測所となる。また南側の山地もドライ
ブウェーやプラネタリウム等が作られるなど観光開発が行われた。
昭和 48 年(1973)に放映された NHK 大河ドラマ「国盗り物語」のブームにより、岐阜城の観光客
が一時的に増加し、その後資料館や土塀等観光施設の拡充が行われている。
(4)第Ⅳ期(平成時代)
昭和 59 年(1984)、ロープウェー乗り場南側において初めて本格的な発掘調査(1次調査)が
実施された。その結果戦国時代の遺構が確認され、一部整備されている。この発掘調査を機に岐
阜公園を歴史公園として整備する機運が広がってきた結果、平成 8 年度の岐阜市第 4 次総合計画
において、「信長をテーマに整備拡充を推進する」として歴史公園の位置付けが初めてなされた。
その方針は平成 18 年度のまちなか歩き構想の中の公園整備方針―「信長の時代を語る岐阜公園」
に引き継がれている。
上記の方針のもと、昭和中頃に造られた平地部分の多くの施設は、老朽化に伴い昭和末ごろか
ら平成 9 年までに順次解体・移転されることとなる。図書館、動物園、水族館、遊具等人気のあ
った施設のほとんどが公園から撤去された。また残念ながら昭和~平成期における各種施設の設
置撤去工事、上下水道工事の結果、平地部分に存在したとみられる地下遺構の大部分が攪乱され
る結果となった。新たな施設としては昭和 60 年(1985)に岐阜市歴史博物館、平成3年(1991)
に加藤栄三・東一記念美術館、平成 13 年(2001)に「信長の池」が造られ、平成 21 年(2009)
には新たに公園開設区域となった大宮町 1 丁目に武家屋敷の意匠を取り入れた岐阜公園総合案内
所が完成している。
このような中、平成4年(1992)には岐阜公園周辺が「都市景観 100 選」に、平成 18 年(2006)
には「日本の歴史公園 100 選」に選ばれるなど、歴史公園としての価値を評価されるようになっ
てきた。
【参考文献】
岐阜市 1996『岐阜市第 4 次総合計画前期基本計画』
岐阜市 2006『岐阜町発祥の地・まちなか歩き構想』
大塚清史 2009「ぎふ金華山ロープウェイ」前史-三つの金華山登山者輸送計画-」『研究紀要 19』岐阜市歴史博物館
103
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-19 関係資料一覧表
種別
和暦
西暦
題名
編著者
絵図 明治7年
1874 岐阜市全景図
岐阜県図書館蔵
地図 明治22年
1889 岐阜市街新全図
個人蔵
書籍 明治23年
1890 岐阜美や計
長瀬寛二
地図 明治24年
1891 岐阜市近傍図
岐阜県図書館蔵
地図 明治26年
1893 濃飛新精地図
書籍 明治28年
1895 岐阜県地誌 全
岐阜県教育会
書籍 明治34年
1901 増補 岐阜県案内 全
岐阜県農会
地図 明治40年
1907 実測岐阜市全図
個人蔵
書籍 明治40年
1907 岐阜県名所旧蹟案内 上編
美濃新聞第976号付録
書籍 明治41年
1908 岐阜市案内 附長良川鵜飼記
岐阜市教育会
絵図 大正元年
1912 岐阜名所絵図
地図 大正2年
1913 郡別明細地図
濃飛日報第7359号付録
書籍 大正4年
1915 美濃名所案内 附鵜飼の記
宮部銀次郎(校閲土岐琴川)
書籍 大正4年
1915 岐阜名勝案内 金華山と長良川の鵜飼
岐阜市役所内 御大典記念勧業共進会協賛会
書籍 大正9年
1920 岐阜金華山史
河田貞次郎
書籍 大正10年
1921 岐阜市案内
岐阜市役所内 岐阜保勝会
書籍 大正11年
1922 岐阜県名所旧跡
岐阜県郷土資料研究協議会
地図 大正13年
1924 最近岐阜市街図
岐阜商工会議所
絵図 大正14年
1925 岐阜名所絵図
書籍 大正14年
1925 岐阜市案内
岐阜市役所内 銀婚式奉祝国産共進会 協賛会
書籍 昭和2年
1927 名勝の岐阜
岐阜商業会議所
書籍 昭和3年
1928 岐阜市史
岐阜市役所
地図 昭和4年
1929 岐阜市全図
絵図 昭和4年
1929 岐阜名所絵図
書籍 昭和5年
1930 岐阜市案内
岐阜市役所
書籍 昭和11年
1936 岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書
渡邉佐太郎著
書籍 昭和11年
1936 躍進大岐阜の観光と産業
藤井順太朗
書籍 昭和13年
1938 岐阜県の概要と史蹟名勝
岐阜県庁内 岐阜県山林会
書籍 昭和16年
1941 岐阜県観光誌
岐阜県観光協会
地図 昭和16年
1941 大岐阜市全図
昭和10年
絵図
代
岐阜俯瞰図
書籍 昭和30年
1955 観光岐阜の新名所 金華山ロープウェー
岐阜観光索道株式会社
書籍 昭和31年
1956 金華山物語
岐阜タイムス社
書籍 昭和31年
1956 岐阜の観光
日野誠
書籍 昭和42年
1967 岐阜市の観光ガイドブック
岐阜市・岐阜市観光協会
書籍 昭和48年
1973 ガイドブック”国盗り物語”特集編
岐阜市・岐阜市観光協会
書籍 昭和55年
1980 岐阜県史 通史編 近代上
岐阜県
書籍 昭和56年
1981 岐阜市史 通史編 近代
岐阜市
書籍 昭和56年
1981 岐阜市史 通史編 現代
岐阜市
書籍 昭和61年
1986 岐阜県史 通史編 近代下
岐阜県
書籍 平成12年
2000 大宮町一丁目史誌
岐阜市大宮町一丁目自治会
104
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-20 明治・大正時代の岐阜公園整備関係者
小川汲三郎
天保7年(1836) - 明治23年(1890)
岐阜の3紳士の一人。
小熊村副戸長、今泉村戸長等を勤め、教育や水災救助等に多額
の寄付をなし、公共の事業に尽力、常に官民の周旋役を以て任
じ、鹿鳴館時代には度々官民懇親会を開いたが、これには小崎
知以下県官や地域名望家が出席している。
本多静六
慶応2年(1866) - 昭和27年(1952)
東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)教授
明治36年(1903)の日比谷公園の設計を最初に、全国各地の
公園の設計を手がけた。県内では養老公園が知られる。
(岐阜県・養老公園、愛知県・鶴舞公園、中村公園、和歌山
県・和歌山公園、大阪府・住吉公園 等)
長岡安平
南谷勇助
天保13年(1842) - 大正14年(1925)
東京市嘱託
明治初期から大正にかけて都内の公園設計や維持管理を実施す
るとともに、全国の公園設計にも関わる。
(秋田市・千秋公園、広島市・厳島公園、東京都・浅草公園
他、岐阜県・小倉公園、高知市・高知公園 等)
安政3年(1856) - 昭和5年(1930)
明治22年から43年の間に岐阜市議会議員を計4期つとめた後、
大正7年より公園整理員として岐阜公園整備に尽力する。
大正7年(1918) 市制功労者表彰
大正12年(1923) 岐阜市自治功労者表彰
105
第3章 岐阜城跡の調査
休
食 登
憩
事 山
施
・ 道
プ
設
ウロ
模
擬
天
守
名
所
旧
跡
樹
木
文
化
施
設
新
名
所
遊
具
動
物
万迎
運
松賓
動
館館
施
設
公園の範囲
)
動
物
ー
ェー
無
線
施
設
山麓部の構成要素
(
山頂部の構成要素
時
期
区
分
(
~
板
垣
退
助
像
)
)
(
計
画
~
明
治
末
(
三
重
塔
、
明
治
1
5第
年Ⅰ
期
明
治
末
)
第
昭
Ⅱ
和
期
1
0
年
代
計
画
計
画
(
~
戦
後
)
第
昭
Ⅲ
和
期
時
代
末
(
~
昭
和
時
代
第
末
Ⅳ
期
平
成
時
代
)
図 3-25 明治時代以降の金華山・岐阜公園における構成要素の変遷
106
第3章 岐阜城跡の調査
第6節
名称・地名調査
―金華山(岐阜城)に関係する名称(地名)について―
(1)目的
ここでは、戦国期以来、近代に至る金華山(岐阜城)に関する名称の変遷を跡づけ、その意味
を検討する。
(2)戦国期の名称
戦国期の名称は関ヶ原合戦前哨戦の岐阜城の戦いに関連する2つの史料に断片的に見られる。
史料A…木造長忠(具康)感状写(『岐阜県史史料編古代・中世四』)
〃
記載名称…「武藤つふら」「本丸」「うつミ門」
史料B…津田忠信感状写(『岐阜県史史料編古代・中世四』
)
〃
記載名称…「河手口」「七曲番所」「大手ノ口」
このうち、
「本丸」は軍記系名称(後述)に一般的に見られる。
「武藤つふら」は地誌系名称(後
述)において「武藤峠」として多数見られる。
(3)近世の名称(表 3-21、3-22、3-23、3-24・図 3-26、3-27)
近世の名称は大きく2つの系統に分れる。ひとつは、ここで「地誌系名称」と仮称するもので、
現地で実際の場所を比定することができる。絵図の中の一群は、地誌系名称を記載する。
『岐阜城
跡』報告書で扱った近世絵図がこれに該当する。現存する史料の年代からみて、現地における地
誌系名称(地名)の成立→地誌系絵図の成立→地誌類の成立の順であった可能性がある。
もうひとつは、現地に名称を示すことができない、書物上・観念上の名称で、ここでは「軍記
系名称」と仮称する。軍記系名称は軍記物がまず成立し、その後軍記系名称を記載した軍記系絵
図が成立した可能性がある。
近世において、この2系統の名称はほとんど重複せずに並存する(注)。たとえば、松平君山は当
然軍記系名称を知っていたはずであるが、金華山(岐阜城跡)の具体的な地名を記載する際は必
ず地誌系名称を用いている。
(4)近代以降の名称
明治維新以後の近代の大きな特徴は、軍記系名称がはじめて現実の場所に比定される、すなわ
ち軍記系名称の地名化が起こることである。そのさきがけは、明治前半と推定される神谷簡斎に
よる岐阜城跡の略測図である(神谷簡斎「関ヶ原戦争地理考附・岐阜城故阯実測記」)。神谷はこ
れまで軍記物にのみ用いられていた軍記系名称を岐阜城跡の各遺構に比定したと推定される。一
方、同時期の「金華山之図」や明治末以降相次いで出版された「岐阜市案内」パンフレットでは、
近世以来の地誌系名称が用いられており、一般には地誌系名称が強い影響力を持っていたことが
わかる。
明治末年から大正年間の新聞記事や絵葉書には軍記系名称が散見され、昭和 3 年(1928)の旧
版『岐阜市史』及び昭和 11 年(1936)の渡辺佐太郎による岐阜城跡の学術調査報告(「岐阜城阯」
『岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』)では地誌系名称に加えて、軍記系名称を併記させてい
る。このことから、おそらく明治 43 年(1910)の模擬天守建設等を契機として、地誌系名称は
現地に取り入れられていったものと推定される。また、この時期以降、これまで知られていない
107
第3章 岐阜城跡の調査
「新地名」が現地に比定されるようになる。この「新地名」創作はその後も度々行われている。
(5)現代
昭和 30 年(1955)のロープウェイ開通、昭和 31 年(1956)の 2 代目模擬天守建設などに始
まる戦後の金華山(岐阜城跡)においては、軍記系名称がしだいに地誌系名称を駆逐していった。
現在、ロープウェイ山上駅から模擬天守に続く至る所に見られる観光用の説明看板はそのほとん
どが軍記系名称で占められている。
(6)「天守」地名について
管見の限り岐阜城が機能していた 16 世紀の記録の中に岐阜城の天守を直接示す記述は見られ
ない。一方、近世の地誌系絵図では山頂部を「天守」
「天守台」と記載するものが大半である(表
3-21)。また、近世軍記物の一部にも「天守」と記されている(表 3-23)。岐阜城における天守
の存在を自明のこととするには慎重な姿勢が求められるが、同時代の岐阜城内の建物、施設の記
録がほとんど無い現状や近世以降の記録類の状況から見て、天守の存在を即座に否定することも
躊躇される。
そこで、近世絵図や近代初期の山頂部付近略測図を見ると、石垣で構築された方形壇が描かれ
ているものが散見される。この方形壇は明治 43 年(1910)の初代模擬天守建設で破壊されて現
在は見ることができないが、慶長 5 年(1600)まで山頂部に方形壇を基礎とした建物が存在した
ことは確実と見られる。この方形壇が近世以降「天守台」と呼称されるものであるが、その評価
は今後の重要な課題である。
【注】
2系統の名称が矛盾なく並存する理由については、地名を勝手に改変することができない当時の時代背景など
色々推定できるが、詳細は今後の検討にゆだねたい。
108
第3章 岐阜城跡の調査
〔地誌系名称〕
戦
国
?
(岐阜城の戦い〔1600〕時の史料に一部地名記載有)
〔軍記系名称〕
地誌系名称(地名)の成立
・承応3(1654)
「濃州厚見郡岐阜図」
・元禄年間(1688~1704)
「稲葉城趾之図」
近
世
・寛永15(1638)?
「濃陽諸士伝記」
地誌系絵図の成立
軍記類の成立
軍記系名称の成立
地誌類の成立
軍記系絵図の成立
・正宝3(1713) 「関原軍記大成」
・享保2(1717) 「鸚鵡籠中記」
・寛延3(1749) 「関ヶ原合戦之図」
・延享4(1747) 「岐阜志略」
・寛政6(1794) 「岐阜町絵図」
・ 時期不詳「岐阜城攻防図」
・天保14(1843) 「岐阜御紀行」
・文化・文政期(1804~1830)頃?
「美濃雑事記」
・天保末~万延1(1840年代~1860)
「新撰岐阜志」
(
)
明
治
・ 明治前半「関ヶ原戦争地理考
附・岐阜城故阯実測記」
・明治初年 「金華山之図」
・ M25「関ヶ原合戦図志」
(
・M43 模擬天守
(
大
正
)
近
・M41~S5 「岐阜市案内」
・S3 「旧岐阜市史」
新地名の成立
代
昭
・S11 「岐阜県史蹟名勝
天然紀念物調査報告書」
軍記系名称の現地比定
和
)
・S30 ロープウェイ
・S31 2代目模擬天守
・S31 「岐阜の観光」
平
成
)
代
(
現
図 3-26 金華山(岐阜城)に関係する名称の変遷
109
第3章 岐阜城跡の調査
110
図 3-27 金華山記載地名図(近世・近代)
110
表 3-21 金華山絵図・地誌・紀行文記載地名一覧(山上城郭部と山西麓千畳敷)
分類 通番
記載地名
製作年
1654
天守
2 濃州厚見郡岐阜絵 岩瀬文庫
1654
図
3 岐阜御山并惣山
徳 川 林 政 史 1736
今泉沖早田絵図
研究所
天守
屋形所
濃州厚見郡岐阜図
蓬左文庫
模擬天守
蓬左文庫
17世紀中葉~
18世紀後半
5 稲葉城趾之図
伊奈波神社
17世紀後半~ 裏門
18世紀前半
6 岐阜総絵図
徳川林政史
研究所
蓬左文庫
岩瀬文庫
徳川美術館 1794
岐阜市博
9写し
朝 日 文 左 衛 1717
門
111
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
鸚鵡籠中記
岐阜志略
新撰美濃志
岐阜御紀行
松平君山
岡田啓著
松平君山
1747
江戸後期
1843
二の丸 ニの丸門
馬場
上ヶ格子門
千畳敷
昔御殿跡
昔御殿跡
天守臺
4 濃州厚見郡岐阜
古城之図
7
8
9
10
地
誌
・
紀
行
文
所蔵機関
気象台
屋形所
1
絵
図
題名
天守臺
裏門
天守臺
裏門
(未)
裏門
天守臺
天守臺
天守臺
天守臺
天守台
裏門
千畳敷
城臺
天守臺
天守台
廊下
上臺所
下臺所
臺所
下臺所
上台所
切通
馬場
門
切通
馬場
二ノ門
切通
馬場
馬冷場 一ノ門
太鼓門
煙硝蔵
千畳敷
二ノ門
切通
馬場
太鼓櫓
煙硝蔵
千畳敷
ニノ門
二の門
切通
馬場
馬場
太鼓櫓
下台所
馬冷場 一ノ門
(未)
馬冷場 一ノ門
一の門
太鼓門
大下馬
煙硝蔵
塩硝蔵
千畳敷
千丈敷
下台所
二ノ門
二の門
切通シ
切通し 厩
馬冷場 一ノ門
馬冷場 一の門
太鼓櫓
太鼓櫓
エンセウクラ
追分
塩硝蔵
※1
千畳敷
千畳敷
千畳敷
※1…付近に「松田横」地名有。
第3章 岐阜城跡の調査
分類通番
描写箇所と記載地名
題名
北~西面
絵
図
1
2
3
4
5
6
7
8
9
濃州厚見郡岐阜図
濃州厚見郡岐阜絵図
岐阜御山并惣山 今泉沖早田絵図
濃州厚見郡岐阜古城之図
稲葉城趾之図
岐阜総絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
クラカケ
丸山
御手洗
赤川洞
クラカケ
鞍掛
岩舟
鞍掛
岩船
丸山
丸山
丸山
丸山
御手洗
御手洗
御手洗
御手洗
赤川洞
御林
赤川洞
松御平林 赤川洞
御林
赤川洞
瓢洞
瓢洞
米蔵
米蔵
水手口
水手口
水ノ手
水ノ手
鞍掛
丸山
松御平林 赤川洞
瓢谷
米蔵
水■
鸚鵡籠中記
岐阜志略
くらかけ
丸山
丸山
新撰美濃志
鞍掛
10 岐阜町絵図
地
誌
・
紀
行
北面
文
岐阜御紀行
1
2
3
4
絵 5
図 6
7
8
9
10
濃州厚見郡岐阜図
濃州厚見郡岐阜絵図
岐阜御山并惣山 今泉沖早田絵図
濃州厚見郡岐阜古城之図
稲葉城趾之図
岐阜総絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岩舟
112
檜峠
檜峠
檜峠
アセヒ峠
アセヒ峠 千畳敷
檜峠
アセヒ峠 千畳敷
千畳敷
檜峠
米蔵
水之手
馬酔木
千畳臺
峠
百曲り
槻谷
槻谷
槻谷
槻谷
小椎峠
小椎峠
槻谷
小椎峠
けやき谷
ひの木谷
槻谷
けやき谷
百曲口
百曲口
百曲口
百曲口
滝
落シ
落シ
百曲口
地
誌
・
紀
行
文
濃州厚見郡岐阜古城之図
稲葉城趾之図
岐阜総絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
岐阜町絵図
鸚鵡籠中記
岐阜志略
新撰美濃志
岐阜御紀行
鼻高岩
西條
山桝谷 西条
山桝谷 西条谷
西条
鏡岩
東條
屏風岩 鏡岩
東条
屏風岩 鏡岩
屏風岩 カカミ岩 東条
落シ
落シ
岩穴
尼谷
山桝谷 西条谷
屏風岩 鏡岩
落シ
落シ
浄玄洞
七曲り
浄玄洞
浄玄洞
浄玄洞
浄玄洞
七曲口
七曲口
七曲口
七曲口
鼻高
鼻高
(未)
落シ
鼻高岩
日埜垣
百曲り上
り口
取手
取手
取手
取手
中取手
中取手
取手
取手
階子谷 尼谷
山桝谷 西條
浄堅洞
屏風岩 鏡岩
小椎峠
百曲坂
浄玄洞
七曲口
七曲り
藤右エ門洞
七曲口
藤右衛門洞
七曲坂
一之捕手
峯権現
樫原取手
樫原取手
樫原取手
樫原取手
峯本宮
峯本宮
峯本宮
峯本宮
中取手 樫原取手 峯本宮
柏原彦右
エ門砦
樫原取手
樫原砦(瑞 稲葉権現
龍寺山の 社
砦)
楷原の砦
鷹巣山
七曲峠 砂利谷
七曲峠
中尾
中尾
七曲峠 砂利谷 中尾
松田尾
井戸谷 松田尾
井戸谷 松田尾
井戸谷 中尾
松田尾
中尾
松田尾
藤衛洞
七曲峠 砂利谷 中尾
藤左エ門洞※3 七曲峠
井戸谷
松田尾 馬屋
長尾
厩
長尾
長尾
武藤峠
武藤峠
武藤峠
長尾
武藤峠
窟
鷹巣
鷹巣
窟
岩穴
(未)
鷹の巣山
鷹の巣
鷹巣山
鷹の巣山
達目
達目洞
観音洞
観音洞
笹洞
笹洞
臼井■■宅 観音洞
笹洞
小山
小山
だちほく
岩穴
達目洞
達目洞(達
智洞)
達目洞
※12…一丈、二丈、尼ケ坂、坊ケ坂地名記載有。いずれかに対応か?※13…付近に大曲り地名有。
112
観音洞
笹洞
厩
武藤つぶら
(武藤峠)
小山
井戸谷
田尾、松田
矢倉)
長尾
鼻高岩
池
池
十六峠
十六峠
十六峠
十六峠
カロト洞
からうと洞
かろと洞
からうと洞
十六峠
かろうと洞
武藤峠(武
十六峠 からうと洞
藤つぶら)
武藤峠
達目洞周辺
(未)
愛宕
愛宕
東條
無藤峠
鷹之巣山
愛宕
鼻高岩
東面
松田砦(松
槻谷
東条谷
※2
東條ケ谷
かり戸洞
藤右衛門洞
藤右衛門洞
藤右洞
藤右洞
(未)
藤右衛門洞
七曲坂
二之捕
手
※2
西条ケ谷
南尾根
百曲り
七曲峠南の山
4
5
6
7
8
9
10
東条谷
檜谷
階子谷 尼谷
階子谷 尼谷
階子谷
岩穴
西面
アセヒ峠
(未)
千畳敷
新撰美濃志
瓢谷
岐阜御紀行
絵
図
鏡岩
岩穴
岩穴
岩穴
岩穴
赤川洞
赤川洞
昔御殿跡
昔御殿跡
千畳敷
岐阜志略
濃州厚見郡岐阜図
濃州厚見郡岐阜絵図
岐阜御山并惣山 今泉沖早田絵図
落シ
落シ
古井滝
落シ
※2
御手洗池
鸚鵡籠中記
1
2
3
西条谷
(未)
東部尾根
地
誌
・
紀
行
文
水ノ手
日野垣
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-22 金華山絵図・地誌・紀行文記載地名一覧(表 3-21 以外の金華山一帯)
表 3-23 金華山(岐阜城)に関係する軍記系名称
○
煙硝蔵
×
上格子門
1
上隔子門
2
×
その他門
小門に冠木、
城の大門、
木戸口
一の簀戸、
一の木戸、
追手の門、
大手の門、
三の丸門、
埋門(引用)
×
七間櫓
×
その他櫓
七間楼
本丸
4
5
113
7
8
煙硝蔵
上格子
上格子門
本丸
本丸
二の丸の門、
鉄門
上格子
上隔子門
(矢形門)
上格子の門
高櫓
二の丸の門
七間櫓
〔城内〕
×
その他
門脇の矢倉、
取出の新櫓
丸の内
本丸御殿、
二の丸御殿
殿守
天守
殿主
本丸
本丸
本丸
本丸
「池田家履歴略記」
「関原軍記大成」
「岐阜落城軍記」
「関原始末記」
「美濃国諸旧記」
「濃陽諸士伝記」
7「美濃明細記」
8「美濃雑事記」
9「南北山城軍記」
10「福島太夫殿御事」
11「一柳家記」
12「福島太夫殿御事」
113
○…地誌系名称に有
×…地誌系名称に無
※1…「本丸」は同時代史料に
有
※2…地誌系名称は「天守台」
第3章 岐阜城跡の調査
9
10
11
12
1
2
3
4
5
6
×※2
天守
三の丸、
二の丸、
本丸
3
6
×※1
丸
〔山麓~山腹〕
○
七曲り
×
町口
×
京口
×
浄土寺口
×
荒神洞達目口
○
水の手
×※1
武藤つぶら
○
百曲り
━
瑞龍寺口
━
瑞龍寺砦
×
その他
1
追手七曲口、
2 七曲、
七曲の坂下
七曲表、
七曲り口、
3 七曲り
荒神洞の柴田勝
家が古屋敷
水の手
大手の町口
4
七曲
浄土寺口
岐阜の町口
5
114
七曲りの道、
6 大手七曲、
七曲
7 七曲口
大手七曲、
七曲の路
水の手口 武藤つぶら
(引用)
岐阜の町口
岐阜の町口
京口
荒神洞
新出城、
新城
水の手
瑞龍寺の出
丸
柴田修理亮が古 水の表
屋敷を破りて、連
目口より
瑞龍・守山
二ヶ所の砦
荒神ケ洞、
柴田修理古屋敷
達目口、
荒神洞柴田古屋
敷
8
百曲り口、
百曲
水の手の
道
百曲道
水の手
水の手
百曲口
瑞龍寺口
9 七曲
10
稲葉二ヶ所の 詰の城、
出丸
矢倉
百曲
稲葉山瑞龍
寺取出丸
11
12
七曲り
13
14
1
2
3
4
5
6
7
城南櫓門、
城西の出丸、
城西北の出丸、
城戌亥の出丸
町口
町口、
岐阜之町之大
手口、
西大手口
瑞龍寺出丸
ムトウツフラ
「池田家履歴略記」
「関原軍記大成」
「岐阜落城軍記」
「関原始末記」
「美濃国諸旧記」
「濃陽諸士伝記」
「美濃明細記」
8
9
10
11
12
13
14
橋矢倉
「美濃雑事記」
○…地誌系名称に有
「南北山城軍記」
「福島太夫殿御事」
「一柳家記」
「福島太夫殿御事」
「細川忠興軍功記」
「武功雑記」
×…地誌系名称に無
※1…同時代史料に有
114
第3章 岐阜城跡の調査
表 3-24 金華山(岐阜城)に関係する軍記系名称
第3章 岐阜城跡の調査
第7節
模擬天守の調査
(1)目的
岐阜城は慶長 5 年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で落城する。その後山上の城郭施設は失わ
れ、江戸時代から明治時代末までは天守台石垣等の遺構のみが残されていたが、明治 43 年(1910)
に至って模擬天守が建設された。模擬天守は昭和 18 年(1943)に一度消失するも昭和 31 年(1956)
に再建され、現在に至るまで山上部に存在し岐阜市のシンボルとなっている。ここでは近代以降
の模擬天守建設の目的や経緯、意義を検討する。
(2)模擬天守建設
岐阜城の模擬天守は日本でも最も古いものといわれているが、その建設は岐阜保勝會が中心と
なって建設された。明治 43 年(1910)1 月 12~14 日付け岐阜日日新聞の「寒中の金華山登り」
と題した連載記事では、岐阜保勝會の幹事及び委員 12 名が金華山上に記念碑及び模造天守閣の建
設場所の実地踏査を行った様子が記されている。記事からは、当時市議会議員であった南谷勇助
や記者の石上生も委員であったこと、模擬天守だけでなく見学ルートとなる登山道の改修も検討
していることが分かる。また 1 月 19 日付の記事には建設の趣旨として「山道を修理して遺跡を保
存し、山頂に一小天守閣を築いてとこしなへに地下の古英雄を慰むるの擧あり」とある。
実際の工事は3月に始まったとみられ、落成式は明治 43 年(1910)5月 15 日に行われた。当
日は 10 万人以上の登山者でにぎわい、市内では芸妓連の花車や呉服組合の仮装行列、花火、凧大
会、自転車競走会等が催されている。また、明治 45 年(1912)には「金華山古城趾建設満三年記
念祭」が行われており、定期的にイベントが開催されていたことが分かる。
建物は木造トタン葺きの3層3階のもので、その外観は大正時代から昭和初期にかけて作られ
た絵葉書等にみることができる。設計にあたってどのような検討がされたかは現在のところ分か
っていない。内部の写真は知られていないが、吹き抜けになっており、ハリボテ状の構造であっ
たといわれている。昭和 11 年(1936)の『岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』によれば、模
擬天守の工事にあたって「石垣を改築し規模を小にして原形に改むる」とあり、天守台石垣の改
変が行われたようである。
(3)城戸久の天守復原論
(注
昭和 12 年(1937)、当時名古屋高等工業学校助教授であった城戸久は、
「美濃岐阜城建築論」
1)
の中で天守復原の検討を行っている。検討に当たっては文献資料(「日本耶蘇會年報」、「日本
西教史」)、絵図資料(「稲葉城趾之図」、「岐阜城図」、「御三階之図」)をもとに、他の城郭(犬山
城天守、名古屋城西北三重櫓、丸岡城天守、広島城天守、岡山城天守)との比較が行われた。そ
の中でも城戸氏は加納城二の丸御三階櫓の図について、以下のように評価している。
・御三階之図の構造が丸岡城に酷似しており、天正以前のものと考えられること。
・平面の大きさが稲葉城趾之図と一致し蓋然性があること。
・岐阜城を加納城に移した伝承があること。
論考では、
「移築の際に外観は変化している可能性があるが、構造や規模の点から「御三階之図」
が岐阜城天守を復元する上で重要な参考資料である」として、平面、断面、外観の復原考察を行
い、図面を作成している。
115
第3章 岐阜城跡の調査
(4)模擬天守の焼失と再建の道のり
昭和 18 年(1943)2月 17 日、模擬天守は浮浪者のたき火で焼失した。模擬天守を失った衝撃
は市民にとっても大きかったようで、その直後から再建の動きがみられる。
焼失から 3 日後の2月 20 日付岐阜合同新聞では、早くも金華警防団員から金一千円の再建資金
が寄付されたほか、再建を促す嘆願や寄付、または労働奉仕の申し出が多く出ていると報じてい
る。また、市議会議長の呼びかけにより、市議会、商工会議所、連隊司令部、新聞等の代表者に
より岐阜城再建期成同盟会が組織される。同盟会は軍部と折衝し、その指導を得ながら築城する
方針であったが、社会情勢もありこの時の再建はならなかった。
現実的に動き出すのは昭和 30 年(1955)のことで、桑原善吉氏の呼びかけのもと、2月3日に
準備会会合が開かれ、6月8日には第1回岐阜城再建期成同盟会が開催された。この際に名古屋
工業大学教授となった城戸氏を招いて、講演会が行われている。岐阜県図書館に残る『岐阜城天
(注2)
守再建設計図』
は昭和 30 年6月の日付が記されており、この同盟会での講演時、もしくは前
後には基本的な図面が出来上がっていたようである。設計図は昭和 12 年の天守復原図がベースに
作られたとみられる。
同年8月には「岐阜城再建目論見書」が出され、経費総額2千万円として募金を開始している。
その趣意書には「灰塵と化した岐阜も足掛け十年にして漸く殷賑を取り戻しつつありますこの頃、
中世の英雄織田信長が居城とした岐阜城天守閣を当時さながらに再建し・・・懐古に華を咲かせ
ます事は・・・」と記されており、戦後復興のシンボルとしての意義が強調されている。
工事着工は 10 月7日、落成式は昭和 31 年(1956)7月 25 日で、式典の中で岐阜城再建期成同
盟会から岐阜市に寄付された。建物は鉄筋コンクリート造りの3層4階のもので、大日本土木が
施工を行った。施工時に石垣内部の補強が行われて遺構に影響を与えてしまったことは、当時は
他の城郭でも行われていた工法とはいえ残念である。内部は3階までは史料展示室、4階は展望
台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る。
(5)平成の大改修
再建の翌年には模擬天守を照らす照明が設置され、夜間にも模擬天守を見ることができるよう
になった。また平成 9 年(1997)には、平成の大改修として瓦の葺き替えや外壁の修理等が行わ
れており、瓦を山上に運ぶ市民参加型のイベントも行われた。現在模擬天守の入場者数は年間約
20 万人で、再建以来平成 23 年までに 1,300 万人を超える入場者が訪れている。
(6)おわりに
岐阜城模擬天守はいずれも郷土の英雄を偲ぶ目的で作られ、再建の際には戦後復興のシンボル
としての側面も強いことがうかがえる。そして建設以来、模擬天守は金華山と一体で街のシンボ
ルになっており、現在に至るまで多くの人々に親しまれてきた経緯がある。
現在の研究水準からみると建物の外観には問題点もあるが、いずれの模擬天守も現地調査や分
析を行い、当時の研究水準で検討がなされたうえで建設されている点は無視できない。
【注】
1
城戸久 1937「美濃岐阜城建築論」『学術報告第3号』名古屋高等工業学校
2
城戸武男建築事務所 1955『岐阜城天守再建設計図』
116
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