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ドイツ語(木曜2限)発表資料 2014/5/22 発表者:市原優子、河原未来
2014/5/22 ドイツ語(木曜2限)発表資料 発表者:市原優子、河原未来、スミスアンジェリア 範囲:S.69,Z.1 - S.72,Z.29 1)テクスト全訳 凡例:[ ] 文番号および発表者の補足 ( ) 原文中の括弧 大統領政権 【S.69】[1]1930 年、まだ議会では大多数を占めていたヘルマン・ミュラー(SPD)の下 の大連立は崩壊した。[2]組閣の際に、人々は議会からの信頼に支えられていた新しい政府 を真剣に探し求めなかった。[3]大統領ヒンデンブルクはむしろ中央党の議員団長ハインリ ッヒ・ブリューニングに、議会の大多数に左右されずに振る舞うように求められた最初の 大統領内閣である新しい政府の形成を委託した。 [4]このことは憲法上では問題なかった、というのは、「公共の秩序の復興」に対する即時 の素早い指令を必要とする厳密な意味における「非常事態」は存在しなかったからだ。[5] ヒンデンブルク並びにブリューニングもその目標はむしろ君主制の回復の方法を準備する ことと議会を無力化することであった。[6]これに加えて、ヒンデンブルクは組閣がもはや 議会ではなくて大統領の信頼に依存するべき、というように見えるかもしれないように、 1929 年の終わりから彼の助言者と共に、計画を述べた。[7]ブリューニングはこれらの計 画に喜んで順応した。[8]彼の姿勢はただ大統領の好意、というよりはむしろその助言者た ちの好意に左右された。 [9]それと同時に、今度は緊急命令で―やむを得なければ議会に対しても―法律を無効にす ることが出来た議会から大統領への立法権の移動が始まった。[10]ブリューニングは、確 かに最初は議会と協力する方法を探すことや 48 条の手段をただ慎重に扱うことを期待さ せた。[11]しかし実際は、48 条は次の時代にますます頻繁に使用された。 【S.70】1930 年の 9 月選挙 [12]1930 年の夏の議会が失業保険料を 4.5%上げることと、税金引上げ並びに国の支出削 減を予定したブリューニングの再開発構想に対する許可を拒否した時、議会は解散され た。[13]それに続く議会選挙の選挙結果は国内外にショックのような影響を与えた。[14] ブリューニングの政治が支持していた市民保守的な政党はかなりの損害に耐えなくてはな らず、SPD も票を失い、その上 KPD はほんの少ししか獲得しなかったが、これまで 2.6%の票を持つ、取るに足らない小党派であった NSDAP は票の 18.3%と 107 人の議員 を持つ、議会で 2 番目に強い政党(社会民主主義者に次いで)となった。 【S.71】[15]1932 年の 7 月選挙の際に、もう一度得票数をおよそ二倍にすることが出来た NSDAP の地滑り的勝利について、それ以来無数の研究論文が書かれてきた。[16]ここ で、NSDAP の劇的な選挙結果へのいくつかの理由は、ただ要点だけを抜き出してリスト にすることが出来る。 (94 ページ以下の「激論」を参照せよ。) [17]NSDAP の投票者が、あらゆる社会階層出身、主にプロテスタント地域の出身であ ったことは、確かであるとみなされた。[18]党指導部がヒトラークーデター[ミュンヘン 一揆を指すと考えられる]後の「合法路線」以来果たした体系的組織活動は報われ、 NSDAP は厳格に統率された組織となった。[19]しかしながら特に、世界恐慌は多くの 人々を激しく動揺させ、人々は安全志向にあこがれ、そして「地位を確立した」政党には それ[=安全志向]が無いことに気付いた。[20]民主主義議会の制度はワイマール共和国 の初めからすでに、争うべき権利問題をはらんでいたし、多数の恐慌を通して大部分にお いて、住民の評判を失っており、ヒトラーは、彼が―「合法的なやり方」で―嫌われた民 主主義制度を除去しようと考えていることを隠し立てしなかった。[21]更に、多くの職業 と利益の同盟は、議会での「彼らの」政党を通じて、利益支持に失望させられ、次第に国 家主義路線に考えを変えた。[22]ヒトラーは、NSDAP の具体的な政治計画も複雑で漠然 としていたとき、政治の新たな始まりを体現するように見えた。[23]しかしながら NSDAP は、政治責任をすでに引き継いでいた政党とは反対に、まだ全く社会の危機に対 して負うべき責任が全くなく、それゆえ、NSDAP からひどくけなされた「ワイマール制 度」の政党ほどはまだ合法的ではなかった。 【S.72】[24]是が非でも、労働党と労働組合の 影響を抑え、もしくは除去し、そしてワイマール共和国の民主主義的及び社会政策上の業 績を取り除こうとした NSDAP は、そのほかの点ではますます、名声のある個人からの援 助や賛同、及び企業からかなりの財政上の援助も受け取った。[25]ともかくもヒトラーは 政党名にある「社会主義」から生じる懸念を晴らすために、彼の政権は原則的に私有財産 を尊重すると繰り返し説明した。[26](オットー・シュトラッサー周辺の)NSDAP 内部 の社会主義的な党派は、すでに 1930 年に党上層部からは除去されたが、そのことは、党 内では少しも、より大きな混乱にはならなかった。[27]党内の「社会主義」は、むしろ全 階級的な「民族共同体」の樹立を目標としていたが、その中[=民族共同体]では見たと ころ、利益は、社会階級によって得られたり勝ち取られたりするべきではなく、生物学的 な「人種」によって[得られたり勝ち取られたりするべきもの]であった。[28]実際はこ れが、労働者の利益に対して、上から、 「階級闘争」にわたって進行した。[29]企業家陣営 においては、このことは急速に理解され、喜ばしく迎えられた。[30]「第三帝国」におい て禁じられた労働組合に取って代わった、職務ののちの「受託者たち」は、第一に資本家 階級の利益を追求し、労働者の利益は決して追及されなかった。 2)文法・構文 ・完了形 完了時称の文では、助動詞 haben/ sein が定動詞となり、過去分詞が文末に置かれ、枠 構造を作る ―現在完了 現在完了は現在の視点から過去を振り返って語る事象であり、会話などで多用される。 英語と違い、過去の時を明示する語があっても現在完了が使える。 助動詞が本動詞と共に用いられた場合の過去分詞は不定詞と同じ形になる。 例 Gestern sind wir den ganzen Tag zu Hause gebliegen. 昨日、私たちは一日ずっと家にいました。 Meine Großeltern haben es nicht wissen können. 祖父母はそれを知り得なかった。 テクスト中の用例 [15] Über diesen erdrutschartigen Sieg der NSDAP, die ihren Stimmenanteil bei der Juli-Wahl 1932 noch einmal etwa verdppeln konnte, sind seither unzahlige Studien verfasst worden. 「1932 年の 7 月選挙の際に、もう一度得票数をおよそ二倍にすることが出来た NSDAP の地滑り的勝利について、それ以来無数の研究論文が書かれてきた。 」 ―過去完了 話題にされている過去のある時点より前に生じた事柄を表現する。 例 Damals hatte der Dichter schon sein Lebenswerk vollendet. その頃その詩人は既にライフワークを完成していた。 テクスト中の用例 [18] Die systematische Organisationsarbeit, die die Parteiführung seit ihrem »Legalitätskurs« nach dem Hitlerputsch geleistet hatte, hatte sich ausgezahlt, die NSDAP war zu einer straff geführten Organisation geworden. 「党指導部がヒトラークーデター後の『合法路線』以来果たした体系的組織活動は報 われ、NSDAP は厳格に統率された組織となった。 ―未来完了 未来における完了を表す場合 過去に属する事象の推測を表す場合 3)歴史的背景 ・アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889 年 4 月 20 日 - 1945 年 4 月 30 日) 1921 NSDAP 第一議長に就任 1923 ミュンヘン一揆を起こすが失敗 1926 『我が闘争』出版 1926 党内左派勢力を弾圧 1932 大統領選に出馬するものの僅差でヒン デンブルクが勝利 NSDAP は総選挙で第一党に 1933 ヒトラー内閣発足 全権委任法制定 1934 ヒンデンブルク死去 以後総統として大統領の職務を兼任 ・1920 年代~1930 年代前半のワイマール共和国の経済 第一次世界大戦中に発行された公債や軍人の失業手当という膨大な出費、産業の停滞によ って政府の財政は圧迫されており、これを国家は紙幣増発で対処したため経済は次第にイ ンフレーションになった。不況やインフレにより国民の不満が高まり、左右両方のストラ イキが頻繁に起きた。その上 1932 年には賠償金の遅延を口実にしたフランスとベルギー にルールを占領されてしまう。ドイツ政府は労働者にストライキやサボタージュを呼びか ける「消極的抵抗」で対抗したが、ドイツ産業の心臓部であるルールでの産業停止はワイ マール共和国の経済を破綻に追いやり、空前のインフレーションが起こった。28%が完全 失業者、42%が不完全就労状態となり、中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が進 んだため、社会不安はますます進んでいった。これに対し、1923 年に成立したシュトレー ゼマン内閣は、ルールでの抵抗を中止し、土地財産などを担保にレンテンマルクを発効し て奇跡的にインフレを収束させた。 経済面は好況が続き、労働条件も飛躍的に改善されたことから、1920 年代の経済は安定 しているように思われた( 「黄金の 20 年代 (ドイツ)」)。しかしながら、その要因の一つは アメリカ資本による短期的な資金投入であったため 10 月 24 日に発生した世界恐慌によ り、アメリカ資本の引き上げが開始され、ドイツは経済のみならず政治までも深刻な危機 を迎えた。少数派内閣が乱立し、議会が形骸化する間も恐慌は進み、失業者は 1930 年に は 30%を超えた。次第に国民は共和政や既成政党に失望し、NSDAP や共産党を支持する ようになった。