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自己知をめぐるホッブスとデカルトの対話

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自己知をめぐるホッブスとデカルトの対話
自己知をめぐるホッブスとデカルトの対話
清 水 明
1.はじめに
デカルトの『省察』に対する反論のなかで、ホッブスはデカルトに次のような質問をした。しか
し、デカルトの答弁の中にこの問いに対する答えはない。
「あなたが知る、ということをあなたが知る、ということをあなたが知る、ということを
あなたはどこから知るのでしょうか。
」
(注1)
何重にも入れ子になった「あなたが知る」は、ホッブスの言う通り「無限に繰り返される」のだ
ろうか。そして、それゆえ、この問いに答えることはできず、
「自分が知るということを知ることは
不可能」なのであろうか。
2.議論のすれ違いか?
デカルトがホッブスの問いに答えなかったことは、ホッブスの問いが当面の議論からややはずれ
るものであったから、とも考えられる。ホッブスの主要な論点に対して答えれば、付随的な質問に
は答えなくてもよいとデカルトは考えたのかもしれない。
では、この問いが含まれる反論二は、いったい何をテーマとする反論なのだろうか、まずそれを
明らかにする必要がある。ホッブスによる第二省察への反論はこの反論二のほかに反論三と反論四
があるが、反論二がこの三つの反論の中で一番長く、デカルトの答弁も一番長い。また、反論三・
反論四とそれらに対する答弁は反論二とそれへの答弁の余韻のようなものであり、従って反論二と
それへの答弁を詳しく検討するだけで十分である。以下、反論二とそれへの答弁で行われた議論を
解きほぐしつつ、概観することにしよう。議論は錯綜し、複雑である。
①作用から作用の主体(注2)を導く議論
デカルトは第二省察において、欺く霊の仮定に抗し「私はある、私は存在する」と確言した。そ
85 してその後、ではその確かに存在する私とは何者かと問い、
「私とは思惟するものである」とした
が、ホッブスはまずこの箇所に反論する。
「私とは思惟するものである」これはよろしい。しかし、
それに続けて「思惟するもの」を「精神、心、知性、理性」と言い換えることには疑問がある。
「私
は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である、あるいは、私は知解しつつある、ゆえに私は知性であ
る」という論証は正しくない。なぜなら、同じ論法で「私は歩行しつつある、ゆえに私は歩行であ
る」とすることができるから、と。つまり、ホッブスによれば、デカルトは「知解するもの」と
「知解する働き、すなわち知性作用、あるいは知性」を同一視している、一般的に言えば、基体と
その作用ないし能力とを同一視しているというのである。
ホッブスのこの反論に対し、デカルトは「精神、心、知性、理性」と言ったとき、そこでは単に
能力を意味していたのではなく、そのような能力を持つものを意味していた、言葉遣いとしてその
ように理解するのが当然ではないか、と答え、ホッブスの反論を単なる言葉遣いの誤解から生じた
疑問として扱った。この取り扱いが妥当なものであるかどうか問題であるが、今は先に進もう。
②「思惟するものは非物体的なもの」という論点をめぐる議論
次に、ホッブスは、デカルトの論証を、働きから働きの基体を、作用から作用の主体を導き出す
議論と解した上で、
「私は知解する」からは「私は知性の主体である」ということしか導かれず、
その主体は「物体的なあるもの」でもありうるのに、「その反対が容認されていて、証明されてい
ない」と批判した。
この点についてのデカルトの答えは、その反対を容認してはいない、その点は未決定のままであ
り、第六省察で証明される、というものであった。
「その反対」とは「私は非物体的なものである」という主張になるはずである。第二省察でデカ
ルトは「私は思惟するものである」と確言しているので、「未決定」とは、思惟するものが物体的
なものであるか非物体的なものであるかは、第二省察の段階ではまだ未決定である、という意味に
なるはずである。では、第六省察で何が証明されるというのか?
この点については長くなるので、項を改め、後に取り上げることとする。
③「私は思惟する」という命題の知はどこから得るのかという論点をめぐる議論
次に、ホッブスは第二省察におけるデカルトの次の文章を引用する。重要箇所であるので、私た
ちも引用しておこう。
(ホッブスの反論中からの引用であり、第二省察での表現をやや省略してあ
るが、ほぼ同等の表現である。
)
(1)「私は、私が存在するということを識っており、私が識っている私、その私が何者である
か、と問うているのである。このように厳密な意味に解された私、についての知が、存在す
ることをまだ私が識らないものに依存していないということ、は確実この上ないことです。
」
86
ホッブスは引用した後、この文章の趣旨を要約するかのように、次のように言う。
(2)「「私が存在する」という命題の知が、
「私は思惟する」という命題に依存しているというこ
とは、正しくもデカルト氏自身がわれわれに示されたように、この上なく確実です。
」
そしてそれに続けて、ホッブスは次のように問う。
(3)「しかし、「私は思惟する」という命題の知を、われわれはどこから得るのでしょうか?」
これにはホッブスは自ら答えを与えている。
(4)「(それは)、働きをそれの基体なしに概念しえぬことから、思惟することを思惟するものな
しに概念しえぬことから。
」
以上のホッブスの反論の展開に対し、デカルトの答弁で対応する箇所は、ごくわずかである。
(5)「その後で、彼は正しくも言われます。
「われわれはいかなる働きをもそれの基体なしには
概念しえない」
、たとえば、思惟を思惟するものなしには概念しえない、それというのも、思
惟するものは無ではないから、と」
デカルトの答弁はホッブスの
(4)
に賛同し、
(4)
の論拠であるかのように、次の一言を付け加えたの
みであった。しかもそれは、デカルトが意図してかどうかは不明であるが、ホッブスの言わなかっ
たことをあたかもホッブスが言ったかのように、付け加えたのである。
(6)「それというのも、思惟するものは無ではないから。
」
こうした一連のホッブスの反論とデカルトの答弁は、はたしてかみ合った議論になっているのだ
ろうか。まず、(6)が
(4)の論拠であるのかどうか、考えてみよう。確かに、
(6)は
(4)の後半「思惟
することを思惟するものなしに概念しえない」に対する論拠として提出されているようである。し
かし、いかなる意味の論拠なのか。
ここで興味深いことに気づく。コギト推理説というのがある。デカルトのコギト命題を次の三段
論法の大前提が省略されたものだと解釈する説である。
(注3)
87 すべて思惟するものは存在する
私は思惟する
ゆえに私は存在する
(6)の「思惟するものは無ではない」という表現はこの三段論法における大前提「すべて思惟する
ものは存在する」とほとんど等価(
「すべて」は省略しうるから)であるので、
(6)
は、
一見すると、
コギト三段論法の大前提を意味していると考えたくなる。しかし、ここで話題にされているのは、
「思惟することを思惟するものなしに概念し得ない」ということの根拠、いや論証が問題になって
いると考えれば論拠、であることに注意する必要がある。作用を作用の主体なしに概念し得ない、
ということの論拠ではなくて、その一例としての「思惟を思惟するものなしに概念し得ない」の論
拠が問題になっている。
「すべて思惟するものは存在する」は一般的命題であるが、
「作用を作用の
主体なしに概念し得ない」がすでに一般的命題だったのであり、その特殊な一例に対する論拠とし
て、今さら一般命題が持ち出されるのはおかしい。それに対して、
(6)の「思惟するものは無では
ない」というデカルトの言葉は、この文脈では思惟するものとは私であるのだから、実質的には、
「私は存在する」という特殊な命題をこそ意味しているのではないだろうか。特殊例に対する論拠
として、ここに思惟するものが存在する、という事実を提出しているのではないだろうか。三段論
法の大前提「すべて思惟するものは存在する」と、一見一般的命題に見える「思惟するものは無で
はない」とは、全く位相の異なる命題なのではないだろうか。デカルトはここで、
「私は存在する」
、
このように確言できるからこそ、
「作用から作用の主体を導く議論」も成り立つのだ、と言ってい
るように思われる。
とするならば、一般的命題である、かの三段論法の大前提のほうは、逆に、
「作用から作用の主
体を導く議論」から導かれるであろう。作用は作用の主体なしには概念しえない。思惟することは
思惟するものなしには概念できない。ここから、すべて思惟するものは存在する、が導かれるであ
ろう。
次に、(3)の「私は思惟する」という命題の知をわれわれはどこから得るのか、という問いかけ
に対してデカルトの答えは何か、という点を考えよう。デカルトの答弁中には何もない。しかし、
(4)に対して前述のように答えたということが、無言の回答になっているかもしれない。この点で
は、(2)に対してもデカルトは全く答えていない、ということを合わせて考える必要がある。
(2)
に
よってホッブスは、
「私は存在する」という命題の知は「私は思惟する」という命題の知に依存す
る、ということを主張し、かつ、そのことは「正しくも、デカルト氏自身が」示したことだ、と主
張している。「命題の知が命題の知に依存する」という表現は「論理的に正しい推論」ということ
を意味しているように思われる。つまり、ホッブスはデカルトの「私は存在する」という命題が推
論によって導かれたものと、暗黙の内に思いこんでいるのである。そして、
「作用から作用の主体
を導く議論」についてはこの反論二の最初で話題にされており、その議論は先の三段論法の大前提
88
を導くとすれば、ホッブスは、全くコギト推理説の立場でデカルトに対している、ということがで
きる。そして、
「私は思惟する」という命題はコギトの三段論法における小前提であるということに
注意しなければならない。ホッブスは三段論法の小前提はどこから得られるのか、と問うているの
である。とすれば、デカルトの無回答は、コギトを推理として理解することへの無言の抵抗と言う
ことができはしないだろうか。そもそも、ホッブスの
(2)は引用
(1)
の要約と言うよりむしろ、方法
序説での「私は思惟する、ゆえに私は存在する」を念頭に置いており、そのような推論が成り立つ
かどうかを問題にしているように思われる。
④「思惟するものは物体的なもの」という命題をめぐる議論
先に②の議論で、
「思惟するものは物体的なものでもありうる」
ことを示唆していたホッブスは、
こ
こでさらに一歩を進めて、
「思惟するものは物体的なものである」という主張をする。ホッブスにと
ってこの主張の論拠は、
「すべての働きの基体は、ただ物体的な視点、いうなら物質の視点のもとで
のみ、理解される」ということだけであり、必ずしも説得的ではないが、次に、ホッブスは思惟を
思惟で捉えることはできない、という議論を展開しており、思惟という働きの基体が思惟であるこ
とはできず、そうであれば、基体となりうるものは物体的なもののほかにはない、と言おうとして
いる、とも考えられる。
ホッブスのこの主張に対して、デカルトの答弁は、すべて働きの基体は、実体という視点のもと
で、さらには形而上学的物質つまり質料という視点のもとで知解されるが、しかしだからといって、
それが直ちに、物質の視点のもとで知解されるわけではなく、ホッブスの議論にはいかなる道理も
ない、と反論している。
先に述べたようにホッブスの主張自体は一見すると何の論拠も示されておらず、説得力に欠ける
ように見えるが、後続する議論を、思惟する働きの基体は思惟ではない、ということを示すための
議論と捉えることができれば、説得力は増すであろうし、デカルトの答弁はその後続する議論には
答えていないことになる。
⑤「思惟することを思惟することはできない」という議論
ここでようやく、冒頭にあげたホッブスの問いが出てくる議論になる。④で触れたように、この
議論は思惟の働きの基体が思惟であることはできない、ということを主張するための議論であるよ
うに思われる。
と思われる、という歯切れの悪い言い方をさしあたってしたわけは、ホッブスは、
(7)私は思惟するということは別の思惟によって論決される(colligitur)のではない。
という言い方をしているのであるが、それに対応するデカルトの受け取り方は、
89 (8)一つの思惟は他の思惟の基体たりえない
となっているからである。デカルトの受け取り方を採用すれば、
「思惟するものは物体的なもので
あ る」と い う こ と に対する一つの論拠として扱 わ れ て い る こ と に な る の だ が、
「論 決 さ れ る
(colligitur)」という表現を
「基体となる」
という表現と等値してよいのか、疑問が残るからである。
colligo は確かに「結論する」という意味もあるが、もともとは、「集める」
「取り上げる」
「拾い
上げる」という意味であるから、ここは、「私は思惟するということが、他の思惟によって、取り
集められることはできない」と言っているものと理解し、「取り集める」ということを「ある基体
のもとに取り集める」ことと解釈する。ホッブスにとって思惟は単なる働きの名称であり、基体た
りえないのだから、基体という言葉を使うのは不適切であったのであろう。それに対しデカルトに
とっては思惟は実体であり、思惟する働きの基体たりうるのであるから、両者の基体という用語の
使用上の差異が、先に挙げた表現上のずれを生んでいると考えられる。そうした表現上のずれを無
視すれば、ホッブスの表現はデカルトの受け取ったように、
「一つの思惟は他の思惟の基体である
ことはできない」ことを言おうとしたものと考えられる。
さてそこで、ホッブスは「一つの思惟は他の思惟の基体であることはできない」ことへのさらな
る論拠として、「思惟することを思惟することはできない」と主張したのである。すなわち、
「一つ
の思惟を他の思惟で取り集める」ことに関して、「思惟したと思惟する」ことはまさしく「想起す
る」ことであるから可能であるが、
「思惟することを思惟することはできない」と主張するのであ
る。そして、それゆえ、「私は思惟する」ということの知を一体どこから得るのか、という質問も
でることになる。
そしてさらに、
「思惟することを思惟することはできない」ことの論拠として、冒頭にあげた質
問をし、自己知の不可能であることをデカルトに認めさせようとしたのである。
デカルトの答弁は、直接的な答えとしては実にそっけない。「一つの思惟は他の思惟の基体たり
えない、と言われていることは、事物に係わりがありません。一体誰がかつて、彼のほかに、その
ようなことを仮想したでしょうか。
」デカルトの答弁は、ホッブスの論点「一つの思惟は他の思惟
の基体たりえない」に向けられ、その論点への論拠やさらにその論拠への論拠へとは向けられるこ
とがなかった、ということになる。デカルトは、ホッブスの「思惟することを思惟することはでき
ない」という主張に対しては、まともに答えなかったのである。
しかし、それに代えて、デカルトは「事柄そのものを簡単に説明しましょう」と言い、次のよう
な議論を展開する。
a.われわれは実体を直接認識するのではなく、なんらかの働きの基体として認識する。
b.さしあたり、別の働きの基体を別の名称で呼んでおき、その後、別々の名称が別々のものを指
すのか、同じものを指すのかを吟味することは事理にかなっている。
90
c.物体的と呼ぶ若干の働きがあり、それらの働きの内在する実体をわれわれは物体と呼ぶ。これ
らの働きはいずれも延長という共通の視点のもとに、合致している。
d.他方、思惟的と呼ぶ若干の働きがあり、それらの働きが内在する実体をわれわれは思惟するも
のないしは精神と呼ぶ。これらの働きはいずれも思惟ないしは知得、ないしは意識という共通
の視点のもとに合致している。
(注4)
e.思惟的働きと物体的働きとはいかなる類縁もない。思惟と延長とは全面的に異なる。
f.以上二つの実体についての判明な概念を形成した後は、それらの実体が同一のものか別のもの
か、第六省察において認識することは容易である。
デカルトのこの議論は、議論としては完結していないが、
「精神と身体の実在的区別」を導く議論
である。未完結の部分は第六省察が与えてくれるであろう。しかし、ホッブスの問い、思惟するこ
とを思惟することはできるのか、に対する答えは含んでおらず、ホッブスの主張、思惟するものは
物体である、に対する反論にもなっていない。デカルトはホッブスの反論に噛み合わせる形ではな
く、デカルト自身の立場からの議論を対置するのみであったのである。
以上が、デカルトが冒頭にあげたホッブスの質問に答えなかった経緯である。デカルトは当面の
ホッブスの主要論点についてだけ答え、ホッブスの主要論点に対する補強の議論には答えなかった
のである。しかし、ホッブスの補強の議論は自己知の可能性に関する問いであり、冒頭にあげたホ
ッブスの問いは当面の議論にとっては付随的質問であるとは言え、事柄そのものとしては、きわめ
て重要な問題ではないだろうか。
3.第六省察における「精神と身体の実在的区別」の論証
前節の②で残した問題、デカルトがホッブスへの答弁で示唆している第六省察で行われた証明と
いうのが、どの論証を指しているのか、それを考えよう。
第六省察に含まれている論証はいくつかあるが、最後に証明されたことは、人間は(非物体的な
ものである)思惟と(物体的なものである)身体という、二つの実体の結合体である、ということ
であった。そして、この証明を行う場面では、思惟が非物体的な実体であることはすでに前提され
てしまっている。従って、ホッブスへの答弁で述べられた論証があるとしたら、それ以前であるが、
それはとりもなおさず、第六省察の表題の一部にもなっている「精神と身体との実在的区別」の論
証ということになるだろう。
だが、第六省察における「精神と身体との実在的区別」の論証には二つある。その一つは、可分
性に関し精神と身体とでは全く逆の性質、つまり、精神は不可分であり、物体は可分的である、と
いう論拠を用いる議論である。しかし、その議論は本稿のテーマには関わらない。問題とすべきは
もう一つの論証である。その論証に絞って問題にしたい。
その論証の骨子は、次のものである。
(VI, 78)
91 (9)
私が明晰判明に知解するものは、私が知解するとおりのものとして、神によってつくられ
うる。
(10)私は精神と身体を全く別なものとして知解する。
(11)従って、精神と身体は全く別なものである。
ここで、証明を完全にするには、それぞれの論点に対して補強の議論が必要であろう。特に、
(10)
に関してはそうである。しかし、まず、この証明の骨子において、すでに困難を指摘できる。一つ
は
(9)では「つくられうる」としか言ってないのに、(11)
では、「つくった」(神は精神と身体とを
全く別なものとしてつくった)ということに変わっている点である。神はなし得ることすべてのこ
とをなすとは限らない。この点は「神の誠実」を持ち出す必要があろう。私は精神と身体とを全く
別なものとして知解している、そしてもしそれが間違いだとするなら、神は私を欺いていることに
なる。従って神は私の知解するとおりに、実際にも、精神と身体を全く別のものとしてつくった。
だが、これでは、
「神の誠実」は全くのデウス・エクス・マキーナである。先の答弁中では、別個
に認識されたものが別のものであるか同一のものであるか吟味することは事理にかなったこと(前
節のb)と言っていたはずである。(1
0)に同意し(11)
を期待する人にとっては有り難い「神の誠
実」であるが、そうでない人にとっては吟味が省略されただけである。
(10)を補強する議論を、デカルトは第六省察中で二つしている。それを多少要約して示せば、次
の通りである。(VI, 78)
(12)思惟するものであるということのみが、私(精神)の本質に属すると、私は気づく。ゆえ
に、私(精神)の本質は思惟するものであるということのみに存する。
(13)私自身(精神)の明晰判明な観念を、思惟するものでしかなく延長するものではないとい
う限りにおいて、また、身体の判明な観念を、延長するものでしかなく思惟するものではな
いという限りにおいて、私は持っている。ゆえに、私(精神)は私の身体から実際に区別さ
れたものであり、私(精神)は身体に俟つことなしに存在しうる。
さて、(12)と(13)
が補強の議論として有効であるためには、いずれも、「神の誠実」を必要とする
であろう。
(12)については、
「私は気づく」としても、私が気づく通りに、実際もそうなっている
ことの保証は「神の誠実」を待つしかない。
(1
3)については言うまでもないだろう。なお、デカル
トの議論を要約して示した
(1
2)
と
(13)
において、
「私」の後にカッコを挿入して(精神)としたの
は筆者の補足であるが、
「私」を精神と等値することに反対したのがホッブスであったことを思い
出す必要がある。
92
「神の誠実」を持ち出さざるを得ないのは、いずれの議論も私の「認識」から「存在」を結論づけ
ようとしているからである。そこで、一見すると
(13)
は「そのような観念を持っている」という形
で論証しようとするからよくないのだ、と思われるかもしれない。
「精神は思惟するものでしかなく
延長するものではない。身体は延長するものでしかなく思惟するものではない。ゆえに両者は同じ
ものではない」と言えばどうであろうか。この論証は、しかし、論点先取である。
「精神は思惟する
ものでしかなく延長するものではない。
」
「身体は延長するものでしかなく思惟するものではない。
」
この二つの命題こそ証明さるべき命題である。
だが、この二つの命題の要点を煎じ詰めれば
(12)である。そして
(1
2)を導く議論があるとすれば
それは、次の二つである。
(14)私の存在は物体(身体)の存在が懐疑されている時に確言された
(15)私は私が存在することを知っており、…その「私」についての知が、存在することをまだ
知らないものに依存していないことは、確実である。
(II, 27-28)
※(15)は先にホッブスが引用した
(1)
とほぼ等値である。
(14)
に対しては、物体の存在が懐疑中であるということは存在に関して真偽未定であるにすぎず、
存在していることもありうるわけで、実際、物体(身体)の存在は後に証明されることになるとい
う点を考えれば、私(精神)の存在にとって物体(身体)の存在は不要であるということの論拠に
はならない、と言わねばならない。また、
(1
5)に対しては、まず、そのような議論は一般的には成
り立たない、と言うことができる。私が何かを知っていて、その知が私がまだ知らないものに依存
している、ということは大いにありうることである。言い換えれば、知を可能にしているものが何
であるか知らなくても知は成り立つであろう。たとえば知覚による知が成立するためには、身体の
知覚器官や精神の認識作用が必要であろうが、生理学者や哲学者以外に、そのようなことについて
知っている人はいない。多くの人はそのようなことに無知であるにもかかわらず、知覚による知識
を持っている。
しかし、(15)は「私は私が存在していることを知っている、その私についての知」に限って述べ
ているのであり、決して一般的な議論をしているのではない、とも考えられる。しかし、そうだと
した場合、そのような私とは
(14)
での、未だ懐疑中の私、物体的なものについては何も確実なこと
は知らないという私、ということになり、
(1
5)の含蓄のほとんどは
(14)
に還元されるであろう。
いや、
(15)
は「そのような私についての知」がまだ私の知らないものに依存していないということ
を言っているのであり、
「そのような私の存在」が、ではないと指摘する人がいるかもしれない。し
かし、そうだとした場合、ホッブスの、「私は思惟する」という知を一体どこからあなたは得たの
か、という問いに直面することになる。
ここで私たちは、私は思惟するということは、ほかの何かによって知られるようなものではない、
93 私は思惟するということは自ずから知られることである、言い換えれば、私は思惟するということ
は、私は思惟するということを思惟する、ということである。このように答えたくなる。だがこの
答えは、自己知が可能であるということを前提している。このように答えるためには、ホッブスの
もう一つの問い、本稿の冒頭にあげた問いに、答える必要がある。
こうして、私たちは、ホッブスの反論に答えるためには、また、精神と身体の実在的区別の論証
にとっても、自己知の可能性に関する問いを避けては通れないことを知ったのであるが、ここでさ
らに、自己知の可能性は、コギト推理説を否定してコギトはそれ自身直観される真理であるとする
コギト直覚説にとって必須のものであることを指摘しておきたい。
「私は思惟する、ゆえに、私は存在する」これが推理ではないとすれば、私が思惟するとき、ま
さにそのとき、私自身が思惟していることに私は気づいていなければならず、またそのように気づ
いていること、言い換えれば、私は思惟するということを思惟すること、が可能でなければならな
い。さらに、そのように思惟しているものとして私は私を捉えていなければならない。そうであっ
て初めて、そのような私が存在するということに私は気づき、私は存在するという知が導き出せる
のである。このような考え方がコギト直覚説と呼ばれるものであろう。単に直覚によってコギトの
真理性が捉えられるとだけ言っていてもそこで原理的に何が起こっているのかは不明瞭であるが、
直覚と言われている事態を詳しく述べれば以上のようなことになるはずで、直覚説の立場では、直
覚の中で自己知が、思惟することを思惟することが、現に実行されていなければならない、と考え
られていることは明かであろう。
4.意識と時間
本稿の冒頭にあげたホッブスの問いは、もし自分が知るということを知ることが可能ならば、自
分が知るということを知るということを知る、ということも可能なはずであり、それが可能なら、
自分が知るということを知るということを知るということを知る、
ということも可能なはずであり、
以下同様、無限に「ということを知る」が繰り返される事態も可能であるはずであるが、実際には
そのような無限に繰り返される事態は起きていないし、起こるとも考えられないという考えに基づ
いている。そのことから、逆に、ホッブスは、もしそういうことが起こったとしたら(「というこ
とを知る」が三回繰り返した場合を例に挙げて)そのことをあなたはどこから知ったのか、と問い
かけたのである。これに答えようとすれば、四つ目の「ということを知る」を付け加えて、そのこ
と(三回繰り返す事態)を私は自らの内に知ったのだ、と言わなければならなくなる。そう言うと、
すぐに、「ということを知る」を四回繰り返す事態を、あなたはどこから知ったのか、と問うこと
ができ、またそれに答えなければならなくなる。ホッブスの問いはそういう仕掛けをもった問いで
あったのである。デカルトならずとも、うっかり答えることのできない問いである。
では、事柄自体として、ホッブスの指摘した事態をどのように受け止めたらよいのだろうか、私
に特に名案があるわけではない。問題状況の若干の整理ができるのみである。
94
「ということを知る」が無限に繰り返す、という点では、ゼノンのパラドックスが思い出される。
ある目標地点に至るにはその半分の地点に到達していなければならず、半分の地点に到達するため
にはそのまた半分の地点(最初の目標までの四分の一の地点)に到達していなければならず、以下
無限に繰り返す。無限の地点に到達しなければならないとすればいつまでたっても目標地点に到達
できない、というあのパラドックスである。
このパラドックスが現実の運動において乗り越えられているのは、無限に多くの地点に到達する
のに無限の時間がかかるわけではないということ、しかし論理の言説上は繰り返す各回が同等に扱
われ、あたかも同じ時間同じ労力がかかるかのように錯覚させている、という点にある。しかし、
自己知における「ということを知る」の無限の繰り返しでは、
「ということを知ることができるかど
うか」という可能性だけが問われており、それは可能か可能でないかのどちらかでしかない。そこ
に時間の経過は関係ない。したがって、先のゼノンのパラドックスにおけるような(論理的解決は
ともかく)現実的な解決をとることができないように思われる。
では、実際には、乗り越えられていないのか? 私たちは自己知を持たないのか? といえば、
私は私が存在することを知っており、そして確かに、その知っていることを知っている。現実には
乗り越えられているように思われる。
ホッブスの問題提起をもう一度注意してみよう。知っていることを知ることができるなら、知っ
ていることを知っていることを知ることもできるはずだ。そして、無限の繰り返し。ここではただ、
論理的可能性だけが問題になっている。実際に無限回の繰り返しが実現されていなければならない、
ということは言ってないのである。ホッブスの問題提起に対しては、単に次のように答えればよい
のではないだろうか。然り、論理的には可能である。しかし、実際には、人間は気が散りやすい動
物なので、数回の繰り返ししかできない。もっと意識の点で強力な知性体ならばもっと繰り返す事
態も可能であろう、と。
だが、問題はこれだけではない。冒頭のホッブスの質問に答えなければならない。あなたが知っ
ているということを知っているということを知っているということをあなたはどこから知ったの
か。この問いに対して答えるには、もう一つの繰り返しの「ということを知る」を付け加えなけれ
ばならず、そのことは、論理的可能性ではなく何重にも入れ子になった「ということを知る」を繰
り返す反省を実際に行っていなければならないように思われる。少なくとも、実際に行っていなけ
れば答えることのできないように仕組まれている問いである。
そこで問題は、本当に、実際に行っていなければならないのか? ということである。
ここで問題を解く鍵は、ホッブス自身が、思惟していたと思惟する、これは想起であるから可能で
ある、と言っている点にあるように思われる。もう一つ考慮しなければいけないことは、ホッブス
は同じことと考えているが、思惟することを思惟するということと、知っているということを知っ
ていることとは同じことではない、という点である。言い換えれば、自己意識と自己知とは異なる、
という点である。
95 思惟することを思惟する、これは、意識していることを実際に意識することである。それは可能
性としてはいくらでも入れ子にできるが、実際には数回が限度であろう。次に、知っていると知っ
ている、これは知っていると実際に意識することではない。知っていることは意識していることで
はない。たとえば、私は日本で一番高い山は富士山であることを知っているが、常にそのことを意
識しているわけではない。知っているためには常に意識していることは必要ではない。必要なとき
に意識すればいいだけのことである。さてそこで、知っているということを知っているためには、
知っていることを実際現に意識していることは必要なく、次の瞬間に知っていたと意識すればよい
のではないだろうか。知っていたと意識する、という想起ができさえすれば、知っているというこ
とを知っていると言いうるのではないか。
以上がホッブスの問いに対する完全な答えになっているかどうか、まだ筆者もよくわからない。
しかし、知っていると知っている、この無限の繰り返しを同一の瞬間において考えていたのではと
うてい解決はできないこと、いずれはこの事態を時間の中で展開するもとのして捉えなければなら
ないこと、意識を時間の流れの中で捉えなければならないことは、確かだと思われる。そして、時
間の各瞬間は独立だとするデカルトの時間論を思うとき、冒頭にあげたホッブスの問いに対して、
デカルトは答えることができなかったであろうとも思われるのである。
注
(1)ホッブスの反論およびデカルトの答弁からの引用は、白水社版『デカルト著作集2』の福居氏の訳を、ほぼ
忠実に採用した。引用であることは「 」にて示したが、引用箇所については、AT版全集第7巻の次の箇
所からであり、その箇所はほんの数ページにすぎないので、いちいちページ数を付すことは省略した。
Oeuvres de Descartes :AT VII:Meditationes de Prima Philosophia p.172-p.176
なお、引用ではないが、地の文から目立たせる目的で「」を使用した語句もある。また、第六省察など他
の箇所からの引用および参照すべき箇所の指示は、省察番号とAT版第 VII 巻のページ数をカッコの中に記
して示した。たとえば、第六省察、AT版全集第 VII 巻の7
8ページの場合は、
(VI, 78)の如くである。
(2)福居氏訳(デカルトの答弁に関しては、編修者である所氏による、訳語と語調統一のための修正が加えられ
ている由である)では、ホッブスの反論での subjectum は主体[基体]と訳されているが、デカルトの答
弁での subjectum は基体と訳されている。本稿でも、文章のつながりから基体・主体の両方を使い、あえ
て統一はしなかった。
(3)コギト推理説の代表としては、ガッサンディが有名であるが(cf. AT IX-1 P.205)
、本稿が示すように、ホ
ッブスもまたコギト推理説の立場に立っている。
(4)デカルトの省察本文中には「意識」という言葉はない。反論への答弁中で使われ始める。意識という概念は
デカルトにおいてまだ未成熟であり、形成途中であることを示す点で、大変興味深い。
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