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満州経営と植民地帝国への歩み - 満鉄の経営理念 -

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満州経営と植民地帝国への歩み - 満鉄の経営理念 -
編纂:’10.9.12 渡邊
満州経営と植民地帝国への歩み
- 満鉄の経営理念
-
◆ 満洲経営と「満鉄」:
日露戦争で勝ち取った満州の地を、日本は大切に育て
ていこうとした。 当初の満洲経営は「三頭体制」だった。
【陸軍】:最も力があったのが陸軍、関東都督府。満洲を関東
州と言うことから、のちに関東庁となる。関東地域を守備す
る軍隊として、1919年(大正8)に関東軍が生まれた。
【外務省】:二番目が外務省。この地域は外国領事館がたく
さんあり、いろいろな人が住んでいた。日本が占領しても、
好き勝手に住めなく、外務省の許可が必要だった。
【満 鉄】:満鉄は三番目の存在だったが、後藤新平が満鉄
総裁となってから、満州経営にも乗り出すことになる。
後藤は『満鉄こそが満洲統治の基軸でなければならない』
と確信した。南満州鉄道は株式会社だったが、外国人に株
を買われると困るので、各種制限が加えられた。日露戦争で
犠牲になった人の遺族に株を買ってもらう、皇室が購入するなど、
日本人で独占できるようにした。政府監督の組織だった。
◆ 満鉄調査掛(部):
1905~10 年の間で、ロシアと懸命な交渉で、満州の南半分を日本
の勢力、北半分をロシアの勢力にする形の妥協をした。満鉄の勢力圏
の周りは、ロシア・中国の勢力圏で、状況は日本が撤退するまで続いた。
国際的な動きに敏感、動揺する地域に創設された会社で、会社存続に
「調査活動(部門)」が必要不可欠だった。第二代総裁:中村是公も、調
査部を最大限に活用したが、三代目以降、長州閥から二大政党の政友
会や民政党に主導権が変ると、部、課、調査掛と重要性が下がった。
この調査掛が再び脚光を浴びるのは、第一次世界大戦を契機に起きた二大事件の調査で復活している。
◆ 社会主義国 ロシアの調査:
一つ目の事件は、1917年(大正6)のロシア革命で、満州のとなりに
社会主義国が建国された。世界史上初の社会主義国を調査する目的で、
調査掛が急遽拡充された。ハルビンは亡命ロシア人が大勢あつまり、この
ハルビンに支局ができ、予算が急増していた。
二つ目の事件は、1919年に中国で起こった「五・四運動」。これと前
後して、反日的なデモ・ストライキが多発した。満鉄は、この調査に「北京」に新たな駐在事務所を置いた。
この2つの理由で、1920年代に調査部が再び拡充され、30年代後半には、満鉄に大調査部が設置された。
満鉄調査部については、謎が多く今でも分からないことが多い。もっとも分からないのは、「満州公所」 の
活動です。「公所」 というのは、地方事務所です。これが要所にありまして、裏活動をしていました。領事館
ができないようなことを、ここがやるのです。たとえば、ある人を買収するとか、ある人の土地を買ったり売った
りとかですね。あるいは、スパイ活動もそうです。そういったことを一手に引き受けていたのでした。ところが
残念なことに、肝心要の、これら裏での活動に関する資料は極めて少ないんです。
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◆「満鉄」の創業理念:
満鉄創業にあたり、後藤新平が掲げた経営理念:「文装的武備」は、文を装いて武に備える である。
文化的な政策を展開し、たとえ侵略を受けても「自分たちの味方になる中国人を作っておく。つまり徳政をし
ていれば、いざというときに異民族でも日本人に味方してくれる。満鉄存続の重要な要素である。
医者の後藤は、満洲の地に病院をたくさん作り、医者を呼び、育てた。医者は民族に関係なく尊敬される。
立派な満鉄の大連病院は、今でも大型病院として通用している。満鉄付属地でロシアから受け継いだ鉄道
沿線の領地に、次々と病院を作り、学校を作った。雇用を創出する工場も作り満州の開発を進めていった。
台湾以来の後藤と、補佐役の中村是工コンビは、1906年から3年間で、満鉄を儲かる会社に変えた。
鉄道の複線工事や、撫順炭鉱開発で石炭の売り込みに奔走したり、満州大豆の輸送ルートを作ったりした。
1920年代になり満鉄が儲かる会社になると、政党政治の政争の具にされて、選挙で政権を取った政党が
満鉄の総裁を任命することになる。今の政治の状況と同じです。
◆米国の鉄道王 ハリマンの提唱:
アメリカの横断鉄道を作った世界鉄道王:ハリマンが、日露戦争直後の満州を視察にやって来た。その時
ハリマンが「満鉄の共同経営」を提唱してきた。いったんは、伊藤博文らは共同経営を承諾した。しかし、ポー
ツマス条約で日本大使を務めた小村寿太郎が「絶対に日本独自経営でやるべし」と強硬に反対し、ハリマン
との約束を反故にした。この頃から日米の対立が始まった。つまり、米のオープンドア・ポリシー「これはみんなのも
の」と、日本のクローズドア・ポリシー「これは日本だけのもの」の対立である。
◆曖昧なワシントン体制の構築:
1922年(大正11)アメリカ主導で東アジア・太平洋地域の国際秩序:ワシントン体制ができた時、最後ま
で満州地域の扱がもめ、あいまいなまま終わった。日本の特殊権益も認めないで双方が都合良く解釈できる、
玉虫色のままだった。そしてそのまま満州事変、日中戦争が起きて、なし崩し的展開で歴史が進んだ。
ハリマンとの満鉄共同経営を反故にしたのは、後世から見ると、満州・中国・東アジア・太平洋地域におい
て、日米が逆方向へ歩み出す第一歩だったといえる。その延長が、日米開戦に至る道でもあった。
◆アジアの植民地帝国への道:
日露戦争の終結により、帝国主義国家へ歩みを進めた。日本は次なる勢力拡大と統治安定化を、まずは
朝鮮半島ではじめた。日清戦争も日露戦争も、朝鮮半島の覇権をめぐる戦いだった。過去に、伊藤博文はロ
シアと戦争する前に、「韓国での日本の覇権を認めるなら、満州ではロシアの覇権を認める」と交換条件を提
案したが、ロシアは蹴って戦争に突入している。
◆朝鮮半島の領有とアジア領有権の行使:
日本はとにかく朝鮮半島にこだわり、日露戦争のあと矢継ぎ早に植民地化を進めた。1905年、第二次日
韓協約を結び、韓国の外交権を日本が掌握して、新たに統監府(官庁)を設置した。1907年、第三次日韓協
約で内政権を奪った。1910年、日本は韓国を併合し、朝鮮半島を全面的に日本領土にした。統監府は朝
鮮総督府に改組された。
これと歩調を合わせ、対ロシアの関係で、満洲の勢力圏を、「満州の南側は日本、満洲の北側はロシア」する
ことを、交渉で画定させた。さらに対アメリカの関係でも、当時の総理大臣である桂太郎が特使のウイリアム・
タフト(後のアメリカ大統領)との間で、桂・タフト協定を結んだ。「朝鮮半島は日本領土と認め、代わりにアメリ
カのフィリピン領有を認める」協定である。こうして日本は、国境線を画定させ、国際的秩序の中で東アジア
の覇権国家として君臨することとなるのでした。
日清戦争・日露戦争を戦い抜いた日本の歩みは、ここでひとまず帰結を迎えた。 しかし、事件は続き、
世界史上に大きな影響を与えた、第一次世界大戦が勃発することになる。
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