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HIKONE RONSO_294_169

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HIKONE RONSO_294_169
169
フットボールからラグビーへ
三 総
噸
1 はじめに
1)
今日,世界のいろいろな国ではスポーツと名のつくものが数多く行われ,そ
の数は400種を越えるともいわれている。これらのスポーツは,実施される目
的,手段,方法などにより,プロスポーツ,競技スポーツ,大衆スポーツ,克
服スポーツなどと分類され,最近では健康問題との関連とあいまって健康スポ
ーツ,そして世界的規模の情報化に伴ってニュースポーツなどと呼ばれている。
このように様々な“スポーツ”と呼ばれているものを歴史・社会・思想的な視
点から眺めてみると,そこには2つの大きな流れを感じとることができる。そ
の1つの流れというのは,ラグビー,サッカー,ゴルフ,ホッケーなどの種目
に代表されるイギリス的スポーツと呼ばれるものである。一般的にこれらの種
目には,何となく似かよったあるいは共通するある種の精神,いわゆる勝敗の
結果よりもその(いかに内容のよいゲームを行ったかどうかという)過程を重
2)
視する社交の精神というか,あるいはジェントルマン・シップというか,いか
1)竹之下休蔵:「プレイ・スポーツ・体育論」,pp.123−124,大修館書店,1972年。
あえてスポーツと名のつくものとしたのは,スポーツとは何かという定義・概念が今
日でも明瞭でなく,とくに日本でいうスポーツの場合は,その紹介・導入時点で竹之
下も指摘しているように,スポーツ(主に欧米)の形式をとりいれ,国民的なスポー
ッが育つ社会的条件というものが欠如した社会の中で学生という特権階級のものとな
り,そして多くのスポーツ行事に主役を演じなければならなかったのである。換言す
れば,日本のスポーツというのは大衆的な基盤を欠いた状態で,一部の学生が担い手
となり,ひたすら高度化への路を辿ったといえる。
2)織田幹雄,斉藤正躬:「スポーツ」,p. 12,岩波新書,1952年。
イギリス的スポーツを貫く性格として斉藤は,経済的に恵まれた「上流階級の社交で/
170 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
にもイギリス生まれのスポーツという気風がある。それに対してアメリカン・
フットボール,野球,バスケットボール,バレーボールなどのアメリカ的スポ
ーツと呼ばれる種目には,また異なった意味での精神を見い出すことができる。
それはゴーウエスト・フロンティア精神などを背景に,メンバーチェンジ(選
3)
手交代制)の思想に代表される機能主義であり,また勝利至上主義であって,
そこにはいかにもアメリカ生まれのスポーツらしい合理1生や進歩性を見い出す
ことができるのである。
しかし,様々な“スポーツ”と呼ばれるものの多くの原型を辿れば,それは
誰もがスポーツの母国と認めるイギリスに存在する。近代以前の封建社会に行
われていた運動文化(きわめて地域性の強い民俗遊戯や戦技と呼ばれていたも
の)に内包されていたある部分を,今日われわれが体験しているルール,マナ
ー,技術体系や組織をもつスポーツ様式に仕上げたのは,たしかにイギリスで
あり,その直i接的な担い手はブルジョアジー(とくにフィリスタインの影響が
大きい)であった。
本稿では,近代以前のイギリスにおいて見られた民俗ゲームの運動形態とそ
の特徴,および,今日のラグビーの原型といわれるフットボールの歴史的な変
遷過程におけるルールの推移と現行ルールとの関連について考察する。
II 近代以前のフットボール
「フットボール」という言葉,あるいはプレー(ゲーム)というものが,14
\ ある」とし,社交としてのスポーツが勝敗にこだわらず,むしろ約束やマナーを守り,
フェアーに,正々堂々と全力を尽くしてプレーすることなどスポーツの純粋性を指摘
している。
3)中村敏雄:「スポーツの風土」,p。97,大二二書店,1982年。
メンバー・チェンジの制度を許容するというルールを創りあげた思想の背後にあるも
のとして,著者は「アメリカ生まれの合理主義に基づくスポーツは,人間と人間があ
らゆる技と知恵を投入して,勝利を目ざして争い,どんな技や知恵が勝利を得ること
に有効であるかを競い合う場や時として構成するということを徹底せしめるものであ
つた。」と論じている。今日の競技スポーツの方向は,賛否は別として,アメリカ的ス
ポーツの思考方向へと傾きつつあり,ますます人工化,人為化を高めていることも事
実である。
フットボールからラグビーへ
サ リ リ ロ コ ロ コ コ ロ ロ ロ サ の ロ の コ ロ ロ コ ロ コ コ コ コ コ コ リ の ロ ロ ロ ロ コ コ コ コ コ コ ロ
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2 3 4
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22
22
23
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37
[表一1]
主なフットボールの禁止令(1314∼1847)
Edward II
London.
Edward III
ll
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lt
Richard II
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Henry IV
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James 1 (Scot.)
Perth.
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Halifax.
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James ll (Scot.)
Perth.
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Leicester.
James ll (Scot.)
Perth.
Edward IV
London.
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Lord Mayor
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James lll (Scot.)
Perth.
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Leicester.
Perth.
James IV (Scot.
Henry VII
London.
Lord Mayor
Chester.
The Corporation
Perth.
Peebles (Scot.)
The Bailiffs
London.
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Senate
Cambs. Univ.
?
London.
Senate
Town Council
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Oxford Univ.
Shrewsbury.
Manchester.
tl
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London.
Kirk Sessions
Laudian Statutes
Court Leet
Elgin (Scot.)
Oxford Univ.
Manchester.
Justices of the Peace Bristol
Magdalene College
Town Council
Lord Mayor
Cambs. Univ.
Jedburgh (Scot.)
IJ
lt
lt
Philippe V
Charles V
Derby.
lt
} “La Soule” banned in France.)
(注)1.R. Moirの論文より。
171
172 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
世紀以前の英国で使用されたり,行われていたという確かな証拠はないが,ス
4) 5)
ポーツ社会学者であるマープルスやジレ等の研究から推測すると,おそらく12
世紀後半頃から使用されたり,行われていたものと思われる。しかし,あくま
でも「フットボール」という言葉が記録に残る用例としてみられるのは1314年,
当時のロンドン市長であったニコラス・ファーンドンがエドワード2世の名で
6)
公布した「フットボール禁止令」が最初であるといわれている。
この最初の禁止令の内容は,フットボールに熱中する民衆の大騒ぎと,それ
に関連する「悪徳」の防止を目的とするもので,その後[表一1]にみられる
ように1847年までに42回もの禁止令が繰り返し布告されている。回数的に見て
一番多く出されているのが15世紀で,約6年に1回の割合で布告され,16世紀,
17世紀がこれに続いている。
また,オックスフォード,ケンブリッジの両大学においても,それぞれ2回
つつ布告されている。数多く布告された禁止令の主要な理由としては,「王国防
衛的な意味かちも,非常に重視されていた高射の練習が疎かになることを恐れ,
7)
その障害ともなっているフットボールや不法なゲームを禁止した。」と記述され
ている。たしかに15世紀末頃までは,王国防衛に欠かすことのできない軍事的
4) M. Marples : “A History of Football,” p. 8, Secker & Warburg, 1954.
M.マープルスによれば,「ラ・スール(la Soule)」と呼ばれるボール・ゲームがフラ
ンス,とくにイギリスに近いノルマンディやブルターニュ地方で12世紀頃から盛んに
行われ,それが海を越えてイギリスに持ち込まれ,変化してフットボールと呼ばれる
ようになったと指摘している。
5)ベルナール・ジレ著,近藤等訳:「スポーツの歴史」,pp.57−58,白水社,1952年
スールと呼ばれたボール・ゲームの特徴についてジレは「地方の守護の聖人の祭日に
行われ,田園でも市中でも行われた。………スールの球の大きさはそれぞれの地方で
異なっていた。このボールを適の敵地のきまった地点に持っていくか,2本の柱の間
を通過させるかして勝負を争うのであった。スールはラグビーとフットボールの先祖
とみなすことができる。」と説明するが,これも後代的な視点からの推測だけにスール
→フットボール→ラグビーというのはどうかと思う。他に様々なボール・ゲームが行
われ,種々の要素が関連し合っていることを考慮すると,断定はできない。
6) F.P. Magoun: “History of Football, from the beginnings to 1871,” p.5, V. H.
Poppinghaus, 1938.
7)中村敏雄:「オフサイドはなぜ反則か」,pp.52−53,三省堂,1990年
フットボールからラグビーへ 173
転換(重騎兵の重視時代から弓兵重視へ)のために弓術の奨励が必要となり,
「無益で怠惰な行為」とされたフットボールに民衆が熱中し弓の練習を怠ると
考えられていたことが,その主たる理由であった。しかし16世紀以降,絶対王
朝期からの禁止令は,軍事的理由からだけでなく思想的,階級的な側面も多分
8)
に含まれた布告となった。
それでは何世紀もの長い年月をかけ,繰り返し布告された禁止令が対象とし
たフットボールとは一体どのようなものだったのだろうか。それについてE.ダ
ニングらは,「年に一度,あるいは数回行われていた儀式化された民族ゲーム」
と述べており,それはとくに俄悔火曜日(Shrove Tuesday)や聖灰水曜日(Ash
Wednesday)に実施されたマス・フットボールやストリート・フットボールと
呼ばれるものであった。これらは民衆の宗教的行事として,あるいは伝統的な
地域共同体の慣習行事として,日常の生活の中に深く根をおろしていたもので
あるがゆえに,19世紀末までは消滅させることができなかったのである。
地方独自の特徴をもつフットボールの中でも,ダービー市で行われていたフ
ットボールは特に盛大で,しかもその当時のフットボールの一般的特徴を示す
ものといわれている。レクリェーションスポーツの研究で著名なR.W.
9) 10)
Walcolmsonの著書を中村は次のように紹介している。
「形式上,このフットボールはセント・ピータースとオール・セイツという
2つの教区間の対抗競技とされていた。しかし実際にはこれら教区間の周辺
に住む人なら誰でも参加できたし,また町に住む人も田舎から見物にやって
きた人も,ともに大勢の中にまぎれこんでプレーすることができた。
8)川口智久,他:「現代スポーツ論序説」,p135,大修館書店,1978年。
この禁止令も18世紀に入ると階級的な性格の強いものとなっていく。「所有についての
個人主義的な考え方からすれば,年に100ポンド以上の収入をあげることさえ出来れ
ば,この禁止令に拘束されることなくスポーツを楽しめる」,のであった。やがて18世
紀末には,このような人々がスポーツクラブを組織していくのである。
9)ピータ・マッキントッシュ著,寺島善一,他訳:「現代社会とスポーツ」,p.194,大修
館書店,1991年。
10)中村敏雄,前掲書7)p.56
174 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
……… サれぞれのチームは19世紀の初めころで500人ないし1,000人くらいで
あった。セント・ピータースのゴールはロンドンの方向へ約1マイルほど行
ったところにある養苗畑(nursery ground)の入口の門で,オールセイツの
ゴールは西の方1マイルのところにある弓ひき小屋の水車小屋であった。試
合では………ボールを川の中に投げこんで歩いてボールを運んで行く戦法を
とった。ゴールへは少し回り道になるが,戦術的にはうまい方法であるとい
うことになっていた。………水中で優勢である限り,そのままゴール近くま
で運んでいき,それからボールを地上に移して最後の一戦を試みるのが上策
とされていた。もしオール・セイツの方が優勢であれば,ボールは暗くなる
までどこかに隠しておき,夕方になって黒い灰を顔に塗って目立たないよう
にしたり,誰かを女装させ,そのスモックかペチコートの中にボールを隠し
て運んだりする。新しい戦法を考えだした者は大歓迎された。最後にボール
をゴールへ運びこんだ人は椅子に座らされ,仲間にかつがれて街中を練り歩
き,翌年のゲーム開始時にボールを投げ上げる栄誉が与えられた。………」
上述の紹介文から,当時の競技形態に関する基本的な部分が容易に推測でき
よう。それは,1)ゲームの開始における平等性(ボールを投げあげることによ
って始まる),2)競技の場所(町や村の全域とも考えられるとてつもなく広い
空間を利用),3)目的のゴールの場所(水車小屋や畑の入り口の門などを利
用),4)参加人数(500∼ユ,000人)という大雑把な大集団,5)出場者(幼児や
女性以外の者のほとんどが参加でき,しかも出入り自由の方法でプレーヤーか
見物人か区別つかない状態),6)競技の方法と展開(おそらく道路に沿って建
ちならぶ民家や,学校,教会,ホールなどの中を,さらには森,林,丘,川な
どの中をボールを保持しながら相手ゴールヘボールを運ぶために,数十人,数
百人という単位で押したり,ぶつかり’合ったり,倒したり,または殴りあう等
々,想像を絶するような荒々しさの中で,それぞれのチームが伝統的な戦術・
戦法を駆使し合いながら,年に1度あるいは数回しか行われなかった「儀式=
祭り」ゆえに,この競技を楽しみ,できるだけ長く続けるために競い合った),
フットボールからラグビーへ 175
などの点である。
このようなフットボールはロンドンやその周辺の地域で徐々に普及していく
のであるが,その他の地方でもいろいろなボール・ゲームが行われていた。イ
ギリス南西部に位置するコーンウォール州で行われていた「ハーリング(hur−
ling)」というボール・ゲームは, Hurling of Country(郊外のハーリング)と
11)
Hurling to goa1(ゴールへのハーリング)の2種類があり,とくに後者は前者
のゲーム内容を改良・修正したものであり,後述するルールの整備という面で
は,当時数多く行われていたボール・ゲームの中でも,かなり進んだ状態のゲ
12)
一ムであったといわれている。しかも上流階級からの出場者を引きつけたのも
このボール・ゲームであった。
ウエールズの南部地方で行われていた「ナッパン(Knappan)」は,ときには
出場者が2,000人を越える大集団で行われることもあり,出場者の何人かは騎・馬
でのプレーが可能であった。
その他,イースト・アンダりア地方の「キャンプ・ボール(Carnpball)」,南
11)EDuning&K. Shead,大西鉄之祐,他訳:「ラグビーとイギ1,ス入」, p.46,ベース
ボール・マガジン社,1988年。
12)E. Duning&K. Shead,前掲書11)p.56。
なぜゴールへのハーリングが進んでいたフットボールといわれるのかは,次の件から
うかがうことができる。「それぞれの側から,15,20ないし30人ぐらいのプレーヤーが
選び出され,それぞれ横隊になり手を取り合って向かい合う。……チームずつすペア
をつくり,マン・ツー・マンとなって相手を見張るのに専念する。……200∼240フィ
ート離れたところに,同じ間隔をあけてもう2本の棒を打ち込み,これをゴールと名
づける。くじ引きでそれぞれのゴールを決める。公平な立場の者が1個のボールを投
げ上げて試合は始まり,ボールをかかえて適側のゴールを走り抜ければゲームは勝ち
である。……ボールを取った者は,これを近づけまいとし,こぶしを固めて胸を突く
が,これは「バッティング(突き放し)」と呼ばれ,男らしさのしるしとされる。……
ボールを取った者の相手であるハーラーはバットしてはならず,またベルトの下をつ
かんではならない。ボールを持っている者は「前方ヘボールを送ってはならない」
”’”le
このルールは今日でいうオフサイドに関するようなルールであろう。
E.ダウニングが云うように,このゲームは,内容的にも秩序や統制がとれ,ゲーム
のルールの根底を流れるフェアプレーの初歩的段階と考えられる、両チームのチャン
スの平等性が含まれている点が特筆すべき点であろう。
176 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
[表一2]民俗ゲームと現代スポーツの構造的特質
民俗ゲーム
現代スポーツ
1 地方社会構造に内在する,散慢で
インフォーマルな組織
2 伝統的に合法化された,簡単な不
文の慣例的ルール
地方,地域,全国,国際各レベルで制度的に
分化した,きわめてフォーマルな組織
実用的見地からつくり出され,合理的・官僚
的手段によって合法化された,フォーマルで
手の込んだ成文ルール
変更は合理的・官僚的手段によって制度化さ
3.変動するゲーム・パターン;長期
にわたって変化する傾向と,参加者
の見地から見れば感知できないほど
れる
の変動
4 ルール,ボールの大きさ,形など
に地域による変動が見られる
5 プレーする場所,時間,参加者の
数には一定の限度がない
6.自然環境の相異および社会的相異
が,ゲーム・パターンに強い影響を
持つ
ルール,ボールの大きさ,形などは全国的,
国際的に統一されている
明確に定められた境界線のある空間的に制限
されたグラウンドで,一定の時間だけ,対戦
チームそれぞれ平等の一定数のプレーヤーで
プレーされる
自然環境の相異や社会的相異のゲーム・パタ
ーンに対する影響が,主としてフォーマルな
ルールによって最小限に抑えられる;平等と
「フェア」の規1範
8.プレーヤーと「観客」の役割の区
プレーヤーの聞では,役割の分化(分業)の
度合いが高い
プレーヤーと「観客」の役割の区別が厳格で
別が曖昧である
ある
7.プレーヤー間では,役割の分化(分
業)の度合いが低い
9.構造的分化が低い,数個の「ゲー
ムの基本要素」が合体して一つにな
構造的分化が高い,キック,キャリイング,
スローイング,スティック使用などをめぐる
専門化
っている
いわばゲーム「外」の立場にあり,中央立法
IO.続行中のゲームの一般的情況の中
で,プレーヤー自身によって行なわ 機関によって指命・公認され,ルール違反が
れるインフォーマルな社会的統制
起った場合にはプレーを中断し,違反行為の
重大さに応じて程度の異なるペナルティを科
す権限を与えられた役員によって行なわれる,
フォーマルな社会的統制
11.社会的に認められる肉体的暴力の
社会的に認められる肉体的暴力のレベルが低
レベルが高い;感情にもとつく自発 い;感情抑制度が高い;自制力が高い
的行動;自制力が低い
愉快な「戦闘の興奮」が,もっと抑制され「昇
12.愉快な「戦闘の興奮」が,比較的
率直で自発的な形で生み出される
華」された形で生み出される
体力に対するものとしてのスキルの重視
13.スキルに対するものとしての体力
の重視
14.地域社会から参加への強い圧力が リクリエーションとして個人が選択する;集
かかる;個人の帰属意識は集団帰属
団帰属意識に比べて,個人の帰属意識がより
意識に従属する;帰属意識全般の試 重要である;特定のスキル(または一群のス
金石
キル)に関する帰属意識の試金石
15.地元で意義を認められる試合の 全国的,国際的な競技会が,地方の競技会に
み;各チーム間でのプレイのスキル 影を落とす;エリート・プレーヤーやチーム
は比較的対等;全国的名声あるいは
の出現;全国的,国際的名声を確立する可能
金銭の支払いを手にする可能性なし
性あり;スポーツの「金銭化」の傾向
スポーツ規範の社会学より
フットボールからラグビーへ 177
カーディガンシャーのフットボール,スコーン(Scone)ボール・ゲーム,バク
スィ(Haxey),等々のボール・ゲームが各地で行われ,紳士・貴族階級の人々
も出場したといわれている。
これらの民族ゲーム全体の特徴について,E.ダニングは現代スポーツとの構
造的特質に関する比較を[表一2]で表している。この内容を要約すると,イ)
1つのゲームの中に,サッカー,ラグビー,ボクシング,レスリング,ポロの
ような高度に特殊化されたゲームの諸要素が多分に含まれている,ロ)プレー
ヤーの間で,その役割分担らしき部分がほとんどみられない,ハ)プレーヤー
と見物人(あるいは観衆)との役割を厳密に区別することが殆どなかった,二)
きわめて粗野で乱暴なゲームが多かった,などの点が挙げられよう。
一方,スポーツのルールという視点からみると,近代以前の民族ゲームの多
くは,おそらくルール以前の伝統的な“しきたり”,“モラル”,“口伝え”,など
がそれらを律していたものと思われ,競技の実践の中で「ゲームを行う上での
[図一1]
℃entenary History of the Rugby Football Union”より
178 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
不都合]を何度も体験しながら,合意を見い出して具体的な行為規範を形成し
ていったと考えられる。行為規範とはいっても,地方独自のもので,仲間内の
事柄であるがゆえに,成文化(成文律)の必要性がきわめて低かったルールと
いうことカs’いえよう。
以上述べたような,マス(大集団で行った)とか,ストリート(市中の路上
なども競技場と化した[図一1])とか,あるいはモブ=暴民(住民の不平・不
満を結集したり,組織したりする手段としても行った),などと呼ばれた近代以
前のフットボールや,他のボール・ゲームは,それぞれ地方独自の運動形態か
ら徐々に競技的要素を内包した運動形態へと形を変えながら,漸進的にスポー
ツの近代化へと進んでいくのである。
なお,ここで触れておかねばならないのは,「中心都市と地方」との政治・経
済的な優位性の問題である。それはロンドンを中心とする地域で行われたフッ
トボールと,コーンウォール州でみられた「ゴールへのハーリング」というボ
ール・ゲームは,ルールの整備,人数の均等化,ゲーム開始時の平等性,(あく
までも初歩的段階のものではあるが)フェア・プレーの制度化,プレーヤーの
役割分担と自己規制,等々の面で共にかなり進んだ状態のものであったにもか
かわらず,なぜ後者は地方的な重要性を持つものとしての段階にのみ留まり,
自然に消滅する方向へと向かっていったのかという点である。その詳細な事情
は不明であるが,1つの理由として,当時ロンドンとコーンウォール州とは地
理的,社会経済的,文化的な面において遮断され,互いに影響を受けることも
13)
少なく,いわば孤立・閉鎖状態にあり,これらの条件があまりに悪かったとい
うことが考えらる。
やがてロンドンを中心とする地域で行われていたフットボールが中核的存在
となり,サッカーやラグビーを生む「共同母体」的な役割を果たしつつ,イギ
リス全土へと普及していったのである。
13)ヨハン・ホイジンが著,高橋英夫訳:
年。
「ホモ・ルーデンス」,p.58,中央公論社,ユ976
フットボールからラグビーへ 179
III フットボールからラグビーへ
パブリック・スクールで行われたフットボールから,ラグビーフットボール
ユニオン(RFU)までの推移を考察する前に,イギリスに起きた産業革命期
の状況と近代スポーツ形成過程との関連を,きわめて断片的ではあるが概観し
ておく。
18世紀後半,第二次といわれるエンクロージャーが急速に進むにつれ,一方
では農業資本家による大経営を成立させる。だが,このことが小作農やヨーマ
ンの田園からの退去という事態を招き,多数の農民を賃金労働者へと転化させ
ることになる。また機械制大工業に伴う労働者の失業問題や貧困層の大量化現
象も表面化してくる。このような状況下において,前章でみてきた民族ゲーム
の担い手達も,工場街に追いやられ,遊戯を日常化しえていた田園の全ての条
14)
件が失われることになり,民族ゲームの成立基盤が破壊されてしまった。
他方,このような産業社会の中で,旧特権階級に対しての平等(必ずしも所
e 15)
有の問題に限らず,社会生活の一切についての平等,または水準化の要求)を
テーマに,政治闘争の中で彼らとほぼ同等の地位を獲i得していくことになる新
興中産階級(ブルジョアジー,なかでもフィリスタインと呼ばれた人々)は,
産業化,都市集中化,交通・通信の発達,等々の状況下で,主にロンドンを中
心とする地域で行われていた民族ゲームの中のある部分を,ブルジョアジーの
意図する方向(「政治的真実」としての平等を,彼らだけの限られた空間におい
16)
て実現させようとする)へと再編していくのである。この民族ゲームのブルジ
ョア的再編というものは,主に中産階級に門戸を開放しつつあったパブリック
スクールや,すでに初歩的に組織化されていたスポーツクラブで進行し,この
二つの組織の連携によって進展していく。彼らの再編する組織化の対象になら
なかった多くの民族ゲームは消滅するか,あるいは地方文化としての重要性を
14)岸野雄三:「体育・スポーツ人物思想史」,p.242,不昧堂,1979年。
15)大内一男:「続社会思想史」,pp.54−55,有斐閣,1963年。
16)川口智久,前掲書8)p. 90。
180 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
残す段階のものとして孤立することになる。
パブリックスクールや様々なスポーツクラブで形成された組織ゲームは,時
代と共に徐々に綿密な記録を重視する方向へ,またルールや形に残る地方独自
の運動文化の特徴を摂取しながら改良や修正を加え,より組織的,計画的な性
格を備えていく。そして運動形態,あるいは様式においても近代的な性格をも
つ競争主義へと移行していくのである。
[1] 校庭(パブリック・スクール)のフットボールの特徴
近代以前にみられた村全体を競戯場とする民俗的フットボールが,空地のフ
ットボールを経由して,19世紀の初頭に多くのパブリック・スクールで整備さ
れだした校庭にその場を移すようになると,将戯空間(競戯場)の広さに関係
して大きな変化が見られるようになってきた。それは,ゲームの目的となるゴ
ール間の距離の大幅な縮小が,フットボールのもつ運動形式やゲーム内容や,
および観衆(見物人=見る側)に対しても,著しい変化を生ぜしめたのである。
近代以前の多くの民俗ゲームにみられた“密集や突進を主体とするプレー内容”
が,“いかにしてゴールを獲るか”という「ゴール・イン=得点=勝敗」を目的
17)
とするためのいくつかの重要な部分という性格を帯びるものへと変化していっ
た。換言すれば,徐々に勝敗を重視する方向へと変容していったということで
もある。さらに現代化へ向けて,計画的,組織的な技術の開発,それに伴う練
習の重視と技術の研究が要求される方向へと,移行していくのである。また観
衆(見物人)という“見る側”の変化は,競技場の大幅な縮小によりゲーム展
開の様子がひと目でわかるものとなると同時に,プレーヤーと観衆の漸進的な
分離という形が現われてくる。
しかし,この頃のスクール・フットボールにおいても,民俗ゲームや空地の
フットボールでみられた伝統的な粗暴で荒々しいプレー(密集の中でのトリッ
ピングやハッキングなど)は,依然として存続していたのである。これは,当
時パブリック・スクール独特の自治制度といわれたプリフェクト・ファギング
17)中村敏雄,前掲書3>p.135。
フットボールからラグビーへ 181
制度(上級生による下級生の慣習的支配の一つ)と時代を反映し,上級階級出
身者の思想的特徴でもあった「剛毅を是とする」規範に基づくマンリネスや独
立心を形成するための強い要求,および二元管理の慣習化の出現等が伝統的
な粗暴で荒らしいプレーを是認せしめていたからである。これに関してE.ダニ
ングは,「課外活動に関する支配権はプリフェクトに,学内教育は校長の支配を
18)
正当化するもの」と述べている。これらの影響もあり,フットボールの伝統的
プレーは,19世紀の後半まで容易に脱化されることはなかったのである。これ
らのプレーが姿を消し,合理的な組織プレーへと変化していくのは,1892年の
体系的なLawの中で「1チームを15名とする」という人数の制限改正が行われ
るまで待たねばならなかった。
[2] フットボールからラグビーフットボール・ユニオン設立へ
ラグビーが今日のような一種独特の運動形態を生み出す出発点となったのは,
1823年,ラグビー校の生徒であったW.W.エリス(William Webb Ellis)が,
その頃の慣習や約束ごとであった行為を無視し,ボールを持って相手ゴールへ
駆け込んだという,いわゆるランニング・イン(running in)という逸脱行為に
19)
端を発しているといわれている。このランニング・インというプレーは,1970
年に出版された“Centenary History of the Rugby Football Union”の中にお
いても「ボールのピッキング・アップと,それを持って走ることは固く禁じら
20)
れていた」と記述されており,1820年代当時,このフ。レーは禁止行為であった
18)E.Duning&K. Shead,前掲書11)p.65。
19)EDuning&K. Shead,前掲書11)pp.74−75。
ダニングはこの起源説に異論を唱えている。この話は1895年,ラグビー校OB会(Old
Rugbeian Society)による報告書の出版が行われ,その中でブmグサム氏が50年以上
を回想したものであり,1890年代,ラグビーのプロ・アマ紛争がなかったら,忘却の
彼方へと消え去ったと思われることから,さらにラグビー校の記念石板が出来たのも
この年であり,OBの扇動にほかならぬことであり,いわゆる還元的起源伝説的発想
のものであるというが,その真相は明らかでない。
20) U.A. Titley & R. McWhirter: “Centenary History of the Rugby Football Union,”
p. 32, Rugby Football Union, 1970.
弘教授退官記念論文集(第294号)
北川
182
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183
フットボールからラグビーへ
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184 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
ことが明らかである。しかし,このプレーを行った時の罰則については,他の
プレー同様見あたらない。ラグビー競技の罰則に対する規定は1892年の統一ル
ールまでない。このランニング・インをめぐる論争も1841∼1842年ごろになる
と,「……ボールはバウンド中にキ・ヤッチされなければならない。………そのキ
ャッチャーはオフサイドの位置にいないこと。……(略)……もし,オフサイ
ドの位置からのランニング・インの際は……すぐにノック・オンされなければ
21)
ならず……モールにされても仕方がない」とあるように,この走る行為に対し
ての許容範囲を設けることによって,次第に合法化されていくのである。
そして,ランニング・インのプレーだけでなく慣習的な条文の中に織り込ま
れている不明瞭な箇所を訂正してできたのが,1845・46年の“The Laws of
Football as played at Rugby School”という37ケ条からなる最初の成文化さ
れたフットボール・ルールである。このルールの特徴は,ラグビー校で行われ
ていたゲーム規則の全てを含むものというよりは,むしろいくつかの論争点に
22)
ついての解決法を示したもので,実験的な性格をもつものといわれている。主
たる論争点は,オフサイドとなる状況の明確化,ラ式フットボールの特徴でも
あるハッキング,ホールディングのプレーに対する規則,ナーヴィス(土方靴)
の禁止,ハンドリングとキッキングの諸規定の解決,そしてランニング・イン
の承認,などであり,この時点からランニング・プレーはラ式フットボールの
23)
主要な部分となっていくのである。[表一3]はこのようなラグビー・ルールの
構造的な変化を表わしたものである。
1845・46年の成文ルールの中で注目される点は,今日のスポーツ・ルールの
構造に欠かすことの出来ない要素の一つであると共に,日常生活から隔離され
たゲームの場を創り出す根本規定である空間・時間についての記述が含まれて
いることである。その記述とは「ゲームは……(略)……5日後に決着がつか
21)U.A. Titley&R, McWhirter,前掲書20)p.33。
22)菅原 禮:「スポーツ規範の社会学」,p.132,不昧堂,1980年。
23)E.Duning&K. Shead,前掲書11)p.111。
フットボールからラグビーへ 185
24)
なかったら(あるいは3日間ノーゴールの場合)引き分けとなる」である。こ
れは19世紀中葉頃のフットボールというものが,1日の何時間(ラグビー校の
場合は午後2時に始まり,日没をもって終了)かで勝敗が決まるものではなく,
1∼2日でも終わることは稀で,ゲームは5日間程続けて行われることがB常
茶飯事化していたことを示している。なぜならば,当時のルールでいうトライ
は現行ルールの認識と全く異なり,トライはあくまでもゴールを狙うための手
段であり,ゴールが不成功の場合トライも消滅するというルールだったからで
ある。さらにトマス・ヒューズの“トム・ブラウンの学校生活”の中にみられ
るように,ゴールキ・ックが極めて決まりにくい慣習的ルールがあり,「5年に一
25)
度も入らなかった」というくらい,ゴールを成功させることが困難だったので
ある。
このルールの背後には,近代以前の民俗ゲームにおいてみられた「いかに長
く祭りを楽しむか」という伝統的な考え方の根強い継承がうかがえる。
これに類するルールの継承部分は,他のパブリック・スクールにおいても採
用され,イートン校では1849年,シュルーズベリ一校では1855年,チャーター
ハウス校では1862年に,それぞれ成文化されたルールがある。
いずれの場合もこのようなルールの成文化を可能にしたのは,ラグビー校の
校長でもあり教育者としても著名であったトマス・アーノルドに負うところが
大きい。彼の教育方針の普及とプリフェクト・ファギング制度の民主化への動
きが大いに関与していたのである。
1840年代から1870年代にかけてのスクール・フットボールについて概観して
みよう。当時,各校は独自のルールでゲームを行っていたが,やがて主流とな
ったのは,イートン校のルールを中心とするドリブリング・ゲーム(Dribbling
game)と,ラグビー校のルールの流れを中核とするラグビー・モード・オブ・
プレー(The Rugby mode of play,=ランニング・ゲーム)の二つのゲーム様
式である。
24)菅原 禮,前掲書22)p,102。
25)トマス・ヒューズ著,前側俊一訳:「トム・ブラウンの学校生活」,岩波書店,1945年。
186 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
そして,各スクールの卒業生が大学に入学してくると,それぞれの自校意識
から,独自の出身校ルールでゲームを行い,各スクール共に自分達のルールの
正当性を主張しだすと,当然のこととして,ゲームを実施する上での問題点や
混乱が生じてきた。さらに,入口の都市集中化に伴い,フットボール愛好者が
急増し,スポーツクラブが設立されるようになってきた。一方大学間の対外試
合の要求などとも相侯って,大学内部においてこのような事態を解決するため
に,統一ルール作成の気運が高まっていった。1848年,トリニティ・カレッジ
において最初の統一ルール作成会議が開かれた。それに参加した各校の代表者
数は,イートン,ハロー,ラグビーがそれぞれ2名,マールバラ,ウェストミ
ンスター,シュルーズベリーはそれぞれ1名であった。この会議の内容につい
て,E.ダニングは「ランニング・ゲームの戦術上でもっとも重視している特徴
的なプレー(ハッキング,トリッピング,ランニング・イン)を禁止するかど
26)
うか」というものであったと述べている。ドリブリング・ゲームを支持する側
(イートン,ハロー,ウェストミンスター)は,ランニング・インのプレーを厳
27)
しく批判するだけでなく,他のプレーについても「荒らしいだけでなく下品」と
決めつけたといわれている。ランニング・ゲームを指示する側(ラグビー,マ
ールバラ)は,当然の如く反対し,結果的には意見の一致を見い出すこともな
く,この二つのゲームは二分化した形で,それぞれが発展していくことになる。
そして,先ずドリブリング・ゲームを支持するクラブが集まり,ルールの基
本原則として,ハッキング,トリッピング,ランニング・インの禁止とハンド
リングを規制する草案を創り,計6回の会合の末,ついに1863年,フットボー
ル・アソシエーション(F・A,=サッカー)の設立をみたのである。
一方,ランニング・ゲームも,オックスブリッジを中心とする大学やクラブ
のみならず,スコットランドにおいてはこのゲームの運動形態が先祖伝来のス
28)
コットランド魂との共通性に適合したことも手伝って,イングランドよりも早
26)E.Duning&KShead,前掲書11)p.128。
27)E.Duning&K. Shead,前掲書11)p. 127。
28)菅原禮,前掲書22)p.133。
フットボールからラグビーへ 187
い時期に対抗試合が行われたくらい,著しい普及・発展をみたのである。しか
し,F・Aの設立以来,サッカーの普及は,内心的にも幅広い支持を受け,ラ
ンニング・ゲームを凌いでいた。ランニング・ゲームにおいては,ルールを創
る中心的立法機関が不在であったため,大学やクラブチームにおいてそれぞれ
独自のルールでゲームを行わねばならない状況を作り出していた。この頃,社
会問題にもなっていた「ハッキング」に対する厳しい世論などの影響を受け,
1871年に21のクラブからの代表者32名のメンバーで規約が起草され,この年の
6月,F・Aに遅れること8年,ここにラグビーフットボール・ユニオン(R
FU)が設立されたのである。
このような統轄団体が組織化されたということは,たんにラグビー競技の普
及,運動文化の伝播に寄与するというだけでなく,競技それ自体の活動が公正
・公平にかつ円滑に展開できるような拘束力を持つ統一ルールの作成と実施,
および,個人や集団を会員とする会則の制定や,競技全体の環境整備などの推
進,というきわめて重要な意味を有する出来事であった。また一方,競技の秩
序の維持という意味においては,プレーヤーも観衆もルールを遵守することを
要求していくものでもあった。
RFUが設立された1870年代のゲームの様子は,当時描かれた“Centenary
History of the Rugby Football Union”の中にみられる絵([図一2]∼[図
一5])より伺い知ることができる。これら4つの図から,下記のようなゲーム
内容の変遷に関する特性を推測することができる。
イ)ボール:[図一2]は1870年当時のラグビー校におけるランニング・ゲ
ームの様子である。使用されているボールはかなり円形に近く,これが[図一
5]の国外でのゲームになると徐々に楕円形に近いものへと変化している。1892
年のルールからボールの規格が定められ,現在使用されているボールの形に近
くなる。
u)ライン=4つの図をみても,日本でいうライン(石灰で引く)らしきも
のは存在しない。[図一2]と[図一5]より,タッチ・ラインやゴール・ライ
ンらしきところに多くの見物人がグランド内まで入り込み,見る側である見物
188 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
[図一2]
[図一3]
1870年
1871年
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“Centenary History of the Rugby Football Union”1970より
189
フットボールからラグビへ
1872年
[図一4]
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1879年
[図一5]
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“Centenary History of the Rugby Football Union”1970より
190 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
人が移動しながらラインの代用を行っていたと考えられる。境界線(ライン)
がきわめて曖昧なものであったとも考えられるし,芝生のグランドは芝生を刈
り取ることによりラインとしていたとも考えられる。
ハ)ゲームの参加人数:[図一2]∼[図一5]より僅か10年たらずの間
に,ゲームに参加する人数が激減しているのがよく分かる。特に[面一5]か
らは,人数の減少によるプレーの初歩的な組織化をうかがうことができる。1
チーム15名となるのは,これも1892年のルールからである。
二)ゲームの内容:[三一2]は,単にランイング主体のゲーム展開であ
り,組織化とはほど遠いゲーム内容である。[二一3]においては,50人程のプ
レーヤーがスクラムというよりはラックに近い状態で密集をつくり,ボールの
奪い合いを行っている。その背後に両チーム共にこれに参加していないプレー
ヤーが見られる。これはチーム内で大雑把ではあるが(FWやBKといったよ
うな)ユニット的な役割分担が決められ,戦法の組織化への移行がみられる。
[図一4]の頃になると,[図一3]では見られなかったキック・アンド・ラッ
シュの戦法が見られるようになる。これは後代においてイングランドが得意と
した戦法の一つであり,今日まで継承されている。
上記のようなゲーム内容の急激な変化と,それに伴うゲーム自体の成熟は,
RFU設立に負うところが大きく,このようなゲームの変容が1874年の統一ル
ール制定に連なっていったと思われる。ここに1874年,長年にわたる問題点,
いわゆる「ハッキングとトリッピンッグ」が全面的に禁止されたのである。こ
の統一ルールが,従来の慣習的な暗黙裡の同意を禁止した事や,統一ルールに
対するプレーヤーの理解不足などにより,混乱は依然として続いていたのであ
る。しかし,ラグビーのゲーム形態や運動文化を国内外に向けて急速に普及・
伝播させたという点において,極めて価値ある統一ルールであったということ
ができよう。実際,イングランドでは1880年代の終り頃までに388のクラブがユ
ニオンに加盟し,イングランド以外の地域におけるユニオンの設立は,1873年
にスコットランドとアルゼンチン,1875年にはオーストラリア,1879年にはア
イルランド,1880年にはウエールズ,1889年の南アフリカとカナダ,1892年に
フットボールからラグビーへ 191
はニュージーランド,そして1926年の日本と続いている。
IV おわりに
以上,近代以前の民俗的フットボールからラグビーフットボール・ユニオン
設立までの歴史的過程を素描してみた。民俗ゲームの多くが,地方独自の儀式
(お祭り)化された年に一度の宗教行事であり,また,長い年月変わることの
なかった村人全体の慣習的,伝統的な行事でもあった。しかもそれは日常生活
と密接に関係していたがために,数多くの禁止令が布告されたにもかかわらず,
このゲームは19世紀後半まで消滅させることができなかったのである。
ゲームの内容については,粗暴で荒らしいものであったが,勝敗よりもこの
儀式を「いかに長く続けさせるか」ということが,垂々における暗黙の了解で
あり,それはまた生命共同体としての一体感を感じさせるものでもあった。ル
ール面においても成文化することのない,慣習的な不文律の段階であったとい
える。
時代の変化と共に,村全体を競戯場と化していた空間から校庭のグランドへ
の変化は,“先に1点取れば勝ち”というものから“ゴールの多さを争う”方向
へと性格を変えていった。参加人数と方法,プレーヤーと見物人の分離,ゲー
ムの形態が競戯から競技へと,いずれも変化していったのである。
校庭のフットボールからラグビーへの発展過程においても,ランニング・イ
ン=ラグビーとはならず,ドリブリング・ゲームとランニング・ゲームの二つ
に分化して発展する中で,ハッキング,トリッピング,ランニング・インをめ
ぐる解釈の相違や,パブリック・スクールの寄宿制度,社会の進歩,地方間の
ルールの相違,統一ルールの要望,さらにはスポーツクラブの諸問題などと密
接に関連し合いながら,幾多の障害をのり越えてラグビーフットボール・ユニ
オンの設立をみたのである。
今日のラグビー・ルールにも,その背後に成文化されたルールを側面から支
える黙示的なルールが存在する。これは,アマチュアリズム,フェアプレー,
ジェントルマンシップ,などと呼ばれている精神であり,これらはラグビーの
192 北川 弘教授退官記念論文集(第294号)
成立過程においてイギりス的ブルジョア思想を特に色濃く反映したものであり,
他にあまり類をみないものである。それゆえに,ラグビーはアマチュア的スポ
ーツの最後の砦とさえいわれている。
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