Comments
Description
Transcript
ボーイスカウト北海道連盟 東日本大震災 支援救援活動 中間報告
ボーイスカウト北海道連盟 東日本大震災 支援救援活動 中間報告 平成23年7月 ボーイスカウト北海道連盟 東日本大震災支援救援活動 ベンチャープロジェクト 樋口 大樹/川端 司/廣川 真子 1 2 〔はじめに〕 =支援・救援活動の始まり= 平成23年6月11日午後2時46分。私達は宮城県石巻市の被災地で遠くから聞こえるサ イレンの音と共に、黙祷を捧げていました。 ベンチャースカウトの提案により、4ヵ月にわたり北海道のボーイスカウトが取り組んだ 「支援・救援活動」の結果を全道のスカウトや指導者、そしてご協力いただいた多くの方々に報 告するためと、これから私達はこの震災に対して何をすべきなのかを考えるため、北海道連盟 のご配慮で北海道のスカウトを代表して6月11日、12日に日本連盟支援センターの現地ベ ースがある石巻市を訪ねました。 この報告書は北海道のボーイスカウトが取り組んだ「東日本大震災被災者支援・救援活動」 と、この活動を提案し中心となって活動したベンチャースカウトの報告です。 今から4ヵ月前の3月11日、丁度春休みで家にいる時に地震が発生しテレビを付けると東 北地方に凄い津波が押し寄せて来ているのを“すごいなぁ”とただ漠然と感じていました。 夕方、ベンチャー仲間とメールや電話でこの震災についていろいろ話している内に、ベンチ ャースカウトとして何か出来ることはないかとの話になり、14日の月曜日に北海道連盟事務 局で緊急の札幌地区のベンチャー会議を開き、お互いの意見を持ち寄り皆で話し合いをしよう という事になりました。 会議を行う3月14日の夕刻、釘付けになって見ていたテレビからは恐ろしいくらいの被害 が広がり多くの方たちが大変な思いされているのが映し出され、自分達に何ができるのか想像 もつかず、その時は正直言って、義援金募集の街頭募金活動程度しか思い浮かびませんでした。 =ベンチャー会議からの決意と提案= ベンチャー会議では、いろいろな意見が出てきましたが先ず、自分たちで出来ることとして ○ 全道のスカウトに呼びかけをして街頭募金をしよう。 ○ 生活物資の提供しよう。そのためビーバースカウトからリーダーまで一人ひとりがで きる事として、家にあるタオルを持ち寄り被災地の人たちに贈ろう。 ○ 被災したスカウトへの励まし活動をしよう。 の意見が出された。しかし、自分達で具体的な行動を起こすには、難しい問題が多いこと が分かり北海道連盟の協力と指導を頂くため、これらを「決意および提案」とした文面にま とめ、私達の行動を察し事務局に来ていただいていた北海道連盟の理事長とコミッショナー にお渡して、連盟の協力をお願いすることになりました。 決意および提案 平成23年3月14日 札幌地区ベンチャー会議有志一同 私たち札幌地区ベンチャー会議有志一同は緊急会議を開き、3月11日に発生した「東北地方 太平洋沖地震」で被災された方々が、一刻も早く元通りの生活を取り戻せるように、 『いつも他 の人々を助ける』ボーイスカウトの精神に基づき、以下の支援を行うことを決意し北海道連盟と して活動することを提案します。 私たちの決意・提案を道内の各団に連絡して「北海道のボーイスカウト」が活動に取り組まれ るように協力してください。 【目的】 2011年3月11日に発生した大地震に伴う津波などの災害によって広範囲に渡って大 きな被害を受けた方々への支援を行います。 また、この活動はボーイスカウトのネットワークのもと、全道一斉に行うことにより社会的 な拡がりを求めます。 3 【活動内容】 ◎ 街頭での救援募金活動 ◎ 生活支援物資の提供 ◎ 被災したスカウトへの励まし活動 《救援募金活動》 〔方法〕 ◇ 広く地域社会の人たちと“助け合いの輪を拡げるために”地区・団でまとまって行いま す。 ◇ 募金に応じて下さる方々への責任に応えるため、隊集会などで手作りで「のぼり」 「募 金箱」などを作り、ボーイスカウトが行っていることを明らかにして行います。 ◇ 一時的な活動にならないように、継続的に行います。 ◇ 募金の成果を社会的に説明するため、集まった義援金は北海道連盟事務局に送金して、 北海道連盟のスカウト代表が、共同募金会、日本赤十字社、マスコミなどの公的機関に預 けてください。 〔活動期間〕 ◇ 道内の各地区・団では、3月19日(土) ・20日(日) ・21日(月・祝)または 3月26日(土) ・27日(日)など3月中に集中的に活動を行います。 ◇ 継続的に4月にも活動を行うと良いと思います。 《生活支援物質の提供》 〔目 的〕 被災地では、住宅、燃料、衣類、食糧など様々な日常生活に必要な物質が不足している と報道されています。 一方、奥尻沖地震や阪神大震災では沢山の不要な衣類が集まり、その整理に大変な手間 がかかったと聞いております。 そこで、ビーバースカウトからローバースカウトまで、指導者、団委員など皆が参加で きて、ボーイスカウトの家庭にあり、被災されている方々が直ぐ役に立つ生活支援物質を 贈ることを考えました。 〔方 法〕 ◇ 被災された方々に『タオルを贈る運動』 『タオル』は、被災された方々の日常生活で様々な用途で利用できて、何枚あっても役 に立つものと思います。 また、使っていない『タオル』がスカウト達の家庭にあり、簡単に集めることができ ます。 ◇ スカウトや指導者、団委員などの家庭にある『タオル』を隊・団で集めて、団または地 区毎に北海道連盟事務局に送ります。 北海道連盟は救援活動を行っている公的機関か東北県連盟と相談して、被災者に贈って ください。 ◇ 贈る『タオル』は、未使用な物か、洗濯してきれいな物とします。 《被災したスカウトへの励まし》 被災したスカウトの仲間に『スカウト用品の寄付』 『励ましやお見舞いの手紙や絵を贈る』 『現 地スカウトとの復興支援交流・支援(落ち着いてから) 』などが考えられますが、具体的な内 容や方法について、被災地の状況などを考えて指導、支援をしてください。 北海道連盟では3月16日に私達の提案を受けていただき理事長とコミッショナーから道内 の各団に「東北地方太平洋沖地震被災者救援・支援活動について」の緊急要請文書を出してくだ さり、北海道のボーイスカウトがこの活動に取り組みを始めました。 4 〔街頭募金活動〕 取り組みの早いところでは、既に募金を震災が起きた13日に始めた団もありましたが、全 道各地で行われた義援金募集の街頭募金では、スカウトたちが手作りの募金箱、呼びかけのポ スター、のぼり、パネルを使って街頭募金を行い、6月末現在で1,403名のスカウト、指 導者、保護者、関係者が参加して6,852,406円の義援金が集まりました。 札幌地区では、地区合同で3月27日、4月29日、5月15日、6月26日の4回の街頭募金 活動を行いました。 この街頭募金活動では、ベンチャー会議のメンバーが中心になり運営しました。 ☆ 3月27日に行った1回目の募金では541、712円が集まり、募金終了後ベンチャー スカウトが集計を行いました。 ☆ 街頭募金では、毎年行っている赤い羽根募金や緑の羽根募金と異なり、1万円札や千円札 が多く集まりました。また、街頭募金をしている時、ミスタードーナツを差し入れてくれた ご婦人がいたり、募金をしているとき「ご苦労様」と声をかけてくれる人が多かったなど、 人々の東日本大震災に対する関心が高いことが分かり、私達が行った街頭募金活動が大きな 役割を果たしていることを感じました。 ☆ 北海道連盟に集約されている街頭募金で集まった義援金を、5月3日(火・祝)に日本赤 十字社北海道支部にお届けし、その後北海道共同募金会に送金しました。 最終的に、集まった義援金は5月末と6月末にそれぞれ日本赤十字社北海道支部に送金し ました。 5 〔タオルを贈る運動〕 =タオル類が集まる= ☆ 家庭にあるタオルを集めて贈ることを発案しましたが当初、数百枚、多くても1,000 枚程度と思っていましたが、最終的に8,000枚以上も集まり北海道のボーイスカウトの パワーに感動しました。 ☆ 集めるタオルは、家庭で使っている「普通のタオル」をイメージしていましたが、ハンド タオル、バスタオル、スポーツタオル、ベビータオル、タオルケット、など様々な種類のタオル が集まり、他に下着、垢落とし、石鹸なども寄せられていました。 ☆ 名寄の団からは、送られてきた箱にスカウトたちのメッセージが描かれていました。 ☆ 奥尻の津波災害や阪神大震災の時には、汚れた下着や使い物にならないものまで送られて きて、処分に困ったとの話を聞いていましたが、送られてきたタオル類は整理されており、 ボーイスカウトの心のこもった誠意ある取り組みに感動しました。 =タオル類の整理= ☆ 全道各地のボーイスカウト各団から次から次にタオル類が入ったダンボール箱が到着し て、これらを整理しましたが、きれいに洗っていますが被災された方が直ぐ使えるものなの か、スカウトだけでは仕分けの判断がつかないものもありましたので、女性リーダーにお願 いして被災者のご家庭で使えるものだけを選び仕分けして送りました。実際に石巻の被災地 に行き少し汚れたタオル類もウエスや、掃除用に使えることがわかりました。 ☆ 被災地でタオルを直ぐ配付できるように、種類別に分け20枚ずつにまとめてダンボール 箱に内容・数量を書いた紙を貼りました。 ☆ 沢山集まったタオル類を整理していて、被災地の方々が必要としているのか、役に立つの か不安になって来ましたが、旭川出身の横浜115団松平信彦さんから北海道連盟事務局に 届いたメールを見せてもらい、松平さん達は1万枚のタオルを集め被災地に届けたが、まだ まだ足りないとのことを知り、私達の活動は役に立つのだと確信しタオル整理を続けました。 ☆ 集まったタオル類を少しでも早く被災地の皆さんに お届けしようと言うことになり、北 海道連盟では「タオルを贈る運動は4月末で締め切り、5月9日までに北海道連盟に送るよ うに」各団に連絡を行いました。 ☆ 送られてきた枚数や整理した枚数を8,159枚までカウントしましたが、あまりにも多 く集まったため最終的な数量は把握できませんでした。 ☆ タオル類を整理した日数と整理に参加した人数 整理をした日数(回数) 参加したスカウト数 参加した指導者数 7回 延べ 50余人 延べ 30余人 6 =タオル類の発送= ☆ ボーイスカウト北海道連盟の会議室にビッシリと高く積まれたダンボール箱を見て、どう やって被災地に送るのか心配になってきました。 北海道連盟の事務局では、業者に送料を見積もってもらったところ20万円以上すると言 われ、トラックをレンタルしてフェリーで運ぶなどの送り方を検討していました。 ☆ 北海道連盟事務局長のお知り合あいの会社(㈱インターナショナルクリエィティブ)に依 頼し、東京に戻る映像機器搬送のトラックで運んでもらうことになりました。 5月28日、北海道連盟会館2階の会議室からタオル類が入ったダンボール箱137箱 を車庫前に降ろして積み上げが終わった頃、協力して下さる会社のトラックと係の方数人が 来ていただきトラックに一緒に積み込みました。 その後、藤岡札幌地区委員長がお越しになり、ご協力いただいた会社に北海道連盟長の感 謝状を贈呈されました。出発したトラックを見送った時は感無量になりジーンとしました。 =タオルが現地に到着・被災地の方に配付= ☆ タオル類が現地に到着したとの連絡を受けて間もなく、日本連盟と横浜115団の松平さんか らタオル類を配分した報告のメールが北海道連盟に寄せられました。 お預かりしたタオルについて、昨日、「本日ですべて配布完了」とのことで現 地より連絡ありました。 配布先は、石巻市中心部の眼科医などの医療関係と牡鹿半島先端の鮎川町です。 配布は、北海道出身の松平さんがちょうど現地入りしていたので、当方の指示 で配布をしてもらいました。 タオルケットについては、これより埼玉県内の避難所に転送させていただきま す。 =吉村敏日本連盟総務部副部長= 泥かきで石巻ベースにいました。 石巻ベースに届いたタオル8000枚、配布完了しました。 日本連盟からの依頼により、私が配布しました。ニッサンキャラバン3台分です。 配布先等は日本連盟から報告があると思います。 とても喜んで受け取ってもらえました。まだまだニーズはあります。 =横浜115団 松平信彦(旭川出身)= 7 ☆ 被災地の方からお礼状をいただきました。 8 ☆ 9 ☆ 石巻6団ローバークルーがホームページで紹介されました。 10 〔被災地の視察とボランティア体験〕 《出発まで》 =被災地視察とボランティア体験への応募= 義援金募集の街頭募金活動やタオルを贈る運動で集まったタオルの整理を行いながら、毎 日のようにテレビや新聞で報道される被災地の状況、インターネットで伝えられるボランテ ィアの動き、そして日本連盟のホームページを見ていて、当初企画した「被災したスカウト への励まし」など、私達は継続的に何をすべきか、何ができるかを考えていた時、北海道連 盟事務局からタオル整理を行っているメンバーに対し、次のような提案があり今まで街頭募 金やタオルの整理に参加したベンチャースカウトにメールで案内を行いました。 「被災地の現地の様子についての詳細はここでは分からない。日本連盟が開設している石 巻ベースでの被災地ボランティアは危険が伴うので成人指導者が対象になっているが、現地 の様子を視察してボランティア体験を行い、その感想を報告して次の活動を考えるヒントを 提供する者を募る。応募できるのは次の条件を満たしている者」 〔応募する条件〕 1 街頭募金活動、タオルを贈る運動での整理活動に参加した者。 2 保護者、隊長の許可を得た者。 3 6月10日(金)~13日(月)に実施する予定なので、学校を休むことが出来る者。 4 札幌⇔(苫小牧)⇔仙台のフェリー代と仙台⇔石巻の移動手段は北海道連盟で用意す るが、6月11日・12日の仙台港⇔石巻での生活行動は必要経費も含めて自己責 任・自己完結で行うこと。 但し、日本連盟石巻ベースでは宿泊用のテントのみが用意されている。 5 次の課題に応えること。 ① 「 心 を 寄 せ る 」 被災者に“心を寄せ”自分なりに“何かを”感じ取ってくる こと。 ② 「スカウトの務め」 被災者に“心を寄せ” 、被災地で体験、見聞することにより、 スカウトとして何をなすべきかを考え提案すること。 そして、次の3名が応募しました。 札幌第12団 樋口 大樹/札幌第 9団 川端 司/札幌第14団 廣川 真子 =出発までの準備= 被災地でのボランティア体験の様子、宿泊先の状況など詳しい事が不明のため、日本連盟 の災害支援ホームページを参考に準備をしました。 特に、現地に手間をかけさせないように装備品や食料品も含めて全て自己手配で行いまし た。 ☆ ボランティア体験のため準備した装備品 汚れてもいい服 泥が洗い落せる合羽 防塵用ゴーグル 安全靴(または靴底) ゴム手袋 防塵用マスク ウエストポーチ 長靴(予備) 11 つば付帽子 ゴム付き軍手 ゴミ袋 ヘルメット 作業用軍手 タオル(汗拭き用) ☆ 宿泊、行動装備品 制服・制帽 水筒(プラ) 十徳ツール コップ 学生証 普段着 着替用下着類 雨具 懐中電灯 寝袋 ロールマット ガス(小2) バーナー 食器 洗面具 登録証 保険証 ☆ 持参した食品類 レトルト食品(カレー、カップ麺、非常食用米飯) カロリーメイト ソイジョイ チョコレート、飴類 ☆ 「日本連盟へのボランティア登録」 「天災型ボランティア保険加入」も行いました。 ☆ 被災地での行動、生活は現地で安全に自活できるような装備が必要。 実際に手袋が不十分のため手をガラスで切り、破風傷になってしまったボランティアの方も いたとのことです。 また、宿泊所は昼間無人になるので貴重品入れのウエストポーチや、家屋の泥出し作業では、 ゴミ袋、汚れてもいい服、軍手(ゴム付き) 、マスクは必需品。 =参加者= 応募者3名。北海道連盟 前田 和道 副理事長、同 中本 亨 事務局長の5名 移動は前田 副理事長の自家用車(ワゴン車) 《前日~個人装備確認》6月9日(木) 当日は、学校から直接道連に行かないと時間的に間に合わないことと、また個人装備の確認 を行うため、前日に道連に集合しました。 長岡道連理事長と扇間コミッショナーがいらしており「現地の様子を肌で感じ目で見て、耳 で聞き、貴重な体験をしてくるように」と励ましの言葉をいただきました。 《出発~道連会館⇒苫小牧港、フェリー乗船》6月10日(金) ☆ 14時に北海道連盟会館前で藤岡札幌地区委員長に出発の報告をして、川越札幌地区協議 会長、後藤札幌地区事務長、樋口札幌地区副コミッショナーなどの見送りをいただいて出発 しました。 仕事中の澤口札幌地区コミッショナーからは次のメッセージをいただきました。 「スカウトの皆さん、気を付けて行ってきてください。良い経験になるでしょう。3人の目で 見た、肌で感じた現地の報告を待っています。 ぼおっとしている隙などない。1分1秒幅広い目線で考え、誓いとおきての実践をされる よう。怪我なく事故なく頑張って行ってきてください。 日中は暑いと思われますので熱中症にも気を付けてください。 」 ☆ 苫小牧に向かう高速道で「災害支援」の幕を付けた何台もの自衛隊の車両を目にして道内 の自衛隊もまだ災害支援活動をしているのだなあ、と感じました。 ☆ 苫小牧港フェリーターミナルに着くと、車両ヤードに「災害支援」の幕を付けたトラック や工作車両などの数多くの自衛隊車両が停まっており、乗船手続きをしてロビーに行くと、 多数の自衛隊員が乗船を待っていました。震災の発生から3ヵ月過ぎた今も、このように多 くの自衛隊の人達が災害支援に向かっていることに驚きました。 そして、自分達が今持ってきている装備は支援活動するにあたって本当に大丈夫なものか という不安な気持ちになりました。 12 ☆ 正直言って、初めて乗るフェリーでの船旅に若干浮かれていた気持ちがありましたが、い ま、被災地から帰ってこの報告書を書きながら、このような気持ちがあったことを深く反省 しています。 また、 今思えば仙台に着くまで被災地の状況は酷いものであると予想して覚悟していたはず でしたが、 「覚悟していたつもりでしかなかった」と言わざるを得ません。 《仙台港で》6月11日(土) ☆ 10時頃仙台港に到着、フェリーの窓から見た外の景色は瓦礫の山、山、山。 仙台港の近辺はかなりひどい被害を受けたようで、4ヵ月たってもなお倒れたままの信号 機や歩道の上に放置された車、ひしゃげた柵、何十台も並んだ壊れたトラックの荷台部分、 何箇所かに集めたごみの塊が高々と積み上げられ・・・どれも想像を超えるもので、普段目 にすることのできないものばかりで言葉を失いました。これからさらに住宅地も同じような 被害だと想像すると、とてもショックでした・・・。 ☆ 下船後宮城県連の千葉コミッショナーが塩釜市からわざわざ出迎えに来てくださいまし た。現在の宮城の状況を教えて下さり、忙しい中ありがたいなと思いました。 千葉コミッショナーから「君たちが到着した仙台港フェリーターミナルの付近は海水をかぶり 1日、2日で腐ってしまい、かなりの異臭を放っていた。到着したフェリー乗り場付近にも遺体 がいくつもあり、しばらくはいろいろなものが腐った臭いがしていてその中には遺体の腐敗した 臭いもあったようで、吐き気をもよおすほどの臭いだった」などのお話をうかがいました。 今の光景からは、その時の状況を想像することはできませんでした。 《石巻市へ》6月11日(土)午前 ☆ 仙台港の周辺は、被災した後が生々しく残っており、交差点の信号も壊れ、警察官が手信 号で誘導していました。 仙台の市街地に入ると先ほど仙台港で見た光景がうそのような正常な状況に見えました。 石巻市に向かう高速道も多くの車が動いておりましたが、車列の中に「災害支援」のステ ッカーや幕を付けた宮城県以外のナンバープレートを付けたトラック、ワゴン車、救急車、 給水車や自衛隊の車が走っていました。 ☆ 石巻市街地に入り日本連盟のベースがある水押球場に行くと、グラウンドには仮設住宅が 建設されており、被災した人たちがここに住むことになると思い少し安心しました。 ☆ 日本連盟のベースでは、支援の皆さんがボランティア活動に行かれており留守でしたので 昼食をとりに石巻駅周辺に行くとアーケードのある商店街ではほとんどシャッターが閉ま っており、いわゆるシャッター街かと思いましたが、町のある所を境目にしてシャッターが 曲がったり、壊されて外れてしまった入口があったりと常軌を逸しているものばかりで、酷 いものでこれらは津波が押し寄せた跡であることが分かりました。 13 ☆ そこを過ぎて川に差し掛かると橋の手すりが無かったり、曲げられて地盤沈下のせいで川 の水は陸地を浸食し、堤防は応急処置をされているものの無残な状況になっていました。し かも川だか海だか分からないところから船が流れてきて丘の上に2艘あって驚きました。 ☆ 川の近くにあった大きな建物が無残な姿で建っており、近づいてみると「石森美術館」の 看板が残っていて、美術館の入り口のところには、たくさんの大切なものがおいてありました。 家族の写真、子供たちが背負うランドセル、教科書、ノート、そして子供たちが楽しくやりそ うな交換日記など現地の皆さんにとって大切なものが山ほどおいてありました。 それぞれを手にとってみると、教科書・ノートの中には小学生らしい絵や授業で書いたと思わ れる字がたくさんかいてありました。 ランドセルには卒業式だったのか、友達や先生からの一言が書いてあったりしていました。 どれほど大切なものか。 少しでも早くみんなの手元へ戻ればいいなと思いました。 ☆ 住宅街では外見は被災を受けた様子は見えなくて も、どの家もよく見ると1階の窓の下近くに黒ずんだ 跡があり、そこまで津波が押し寄せ浸水したことがわ かりました。 ☆ 街中の食堂で昼食をしていると、隣の席にいた家族 連れの方から声をかけられ,「北海道のボーイスカウ トの方ですね。自分は留萌1団に所属して活動してい ました。女川に住んでいたが母、祖母が流されて亡くなり、家も流されてなにもなくなった ため、江別に引き上げるのです。 」と伺い、慰めの言葉も掛けることが出来ませんでした。 《言葉にならない被災地の状況》6月11日(土)午後 ☆ 昼食後、再び水押球場にある日本連盟のベースに行きました。 日本連盟のベースは球場の駐車場にあり幅5m奥行き10m位の大型テントが張られており、 中は整頓されていて、壁には実際に活動したボランティアからの多くのメッセージが貼られてい ました。 入口近くの棚には、レトルト食品やカップ麺など簡易食糧が積まれ、大きな炊飯器や調理器 具が並んだコーナーがありました。 真ん中には食事や会議などで使う会議用のテーブルが並んでいました。 片面の壁際には、予定表や注意事項が張られ多くのヘルメットが吊り下げられていました。 奥には簡易ベッドが並べられており、映画で見るような 野戦病院のようでした。 ベッドが並べられている所との中仕切りには日本地図に は全国からやってきたボランティアの人たちが所属してい る隊の場所にシールが張られており、北海道には未だシー ルが貼られていませんでした。 掲示板にあった予定表に、 「5月29日、北海道から13 7箱到着」と書いてあったのを見て、自分たちの活動は、 さまざまな人たちにしっかりと伝わっているのだと、改め て感じました。 大型テントの手前には用具用のマーキーテントが2張と、竹で作った水場があり大型テント の裏にはボランティア宿泊用のドームテント8張が並んでいました。 もう少し広い場所にあり、たくさんの人がいるかと思っていましたが、かなりこじんまりし た所にあったのには驚きました。 14 ☆ 日本連盟の方と連絡がつきボランティアの方は夕方に戻るとのことで、それまで被災地の様子 を見に行くことにしました。 被災地の状況は仙台港と比べることのできないくらい悲惨でした。仙台港は何とか復旧を してきていましたが、港や北上川の傍はほとんど手付かずかと思ってしまうくらい津波の影 響が残っていました。 津波の水位は奥の方でもおよそ3m50㎝ほどのところに痕跡が残っており、どれだけ大 きな津波が押し寄せたのかを物語っています。 ☆ とても衝撃的な光景に出くわしました。 「ふれあい広場」‘だった’野球場くらいの広さ があるその場所には、多くの番号の振られた立札 が立っており、花が添えられていました。 そこは臨時で作られた墓地でした。 奇しくも震災からちょうど3ヵ月目の6月 11日の2時46分頃で、街中から聞こえるサイ レンの音と共に、私たちは黙祷をささげていまし たが、その後この光景に驚きと思うところがあ ったのか、私たちは終始無言でした。 自分自身もこの光景の異常さに驚き、亡くなっ た人の無念さを思い、自然の前では人間は無力で あることを痛感しました。 ☆ 川から結構離れていたお墓の上に車を見つけた時は声を上げて「あぁ」と思わず言ってし まいました。 何よりショックを受けたのは写真を撮るために降りた街の一角で、腐った磯の臭い、近く の魚介類の加工場からの腐敗した臭い、焦げた臭い、ヘドロの臭い、錆びた臭い etc いろいろ な臭いが混じり合って口では説明できないような、吐き気を催すような臭い、異常な説明のしよ うが無いほどの異臭に遭遇したのです。 そこの土地は津波によってコンクリートが剥がされ地面が直に出てきており、地面が凸凹 に隆起し、ごみは散乱、建物も滅茶苦茶で酷い光景を見ることになりました。あんな光景や 臭いは見なくて済むならそれに越したものは無いとその時全員で話しました。 米の備蓄倉庫があった地区では備蓄米、およそ5トンが津波に流され、近隣の住宅を押しつぶ し、その米が腐敗してかなりの異臭を放っている地域もあるとのことを後から伺いました。 ☆ 自分は滅入るような感じでした。立っている家が完全に崩壊していたり、相当頑丈なはず の倉庫もシャッターがへし曲がり津波の勢いとその高さによる水圧の凄さをまじまじと見 せつけられました。そしてそれ相応の集められた瓦礫やごみ、ぐしゃぐしゃな車やトラック。 さらには信号すら着いていない場所も多々見られました。港以上に悲惨な状態を見てまさに 「戦いに行く前から気持ちの問題で負けている」状態でした。 ☆ 同じ石巻でも沿岸部は壊滅していましたが、少 し奥に行くと大丈夫そうな建物が残っていまし た。しかし、地上から1m~1m50位のところ に黒ずんだ線が残っており、そこまで津波が浸水 してきたことを物語っていました。 15 《ボランティアの方の出迎えと道具整理》6月11日(土)午後4時過ぎ ☆ 被災地の状況を見て、ショックを受けたまま水押球場の日本連盟ベースに戻り待っていると午 後4時過ぎ、ボランティアの方々が帰って来ました。 帰ってきたボランティアの方々の作業着は泥だけになっており、相当疲れているのでしょ うが、皆さんがすがすがしい明るい表情だったことがとても印象的でした。 ボランティアには女性の方もおり、大阪、東京、埼玉、長野などの各団の指導者の方々で県連 盟副理事長の方もおられました。 ほとんどの方が金曜日に来て金、土、日と活動し日曜日の午後に帰路につき、月曜日から仕事 をするとのことでしたが、長い人は2週間以上にも及び、自分たちが帰るときに聞くと、あと1 週間滞在する人もいました。 ☆ 日本連盟のハイエースには大量の汚れた道具が積んであり、作業の大変さが垣間見えていまし た。 道具類は一輪車、スコップ、箒にバール、ハンマーなどがあり、いろいろな状況に対応できる ような装備でした。私たちは、この道具類の水洗いや整理のお手伝いをしました。 ☆ 道具の整理をしながらボランティアの方々のお話を伺うと、今日の作業は家の中まで入り 込んだ泥を家具を寄せながらはき出したそうです。 塩水を含んだタタミは重く、1枚のタタミを4人でようやく外に出すことができたなど を伺いました。 ☆ ボランティアを行う場所(家)や作業は、被災された方が支援や救援のニーズを石巻市ボラ ンティアセンターに伝え、ボランティアセンターと日本連盟が相談して活動場所を決めるそ うです。 ☆ 道具の整理を済ませた後、北海道のボーイスカウトが取 り組んだ「タオルを贈る運動」の目録と札幌12団から預っ たボランティア活動を支援する品々を贈呈しました。 ☆ ボランティアの方々はお風呂に行ったり、夕食の準備を していたので、私達は自分達で準備をしてきたカレーライス のレトルトで夕食を済ませ早めの睡眠をとりました。 ☆ ボランティアの方々は、役割分担を決めたり誰かの指示 で食事の準備をするのではなく、自発的にご飯を炊き、お湯 を沸かし、それぞれが食料棚にあるレトルト食材やカップ麺を食べていました。 朝食も同じように準備し、昼食はそれぞれが自分で食べるおにぎりを作ってもっていくそ うです。 《ボランティア体験に出発》6月12日(日)午前 ☆ 6時半ころに起床、朝方は少し冷えていました。非常用米飯の朝食後出発する準備を行い ました。 ☆ 出発前に、スコップなどの用具の確認や上着、ゴーグル、マスク、ヘルメット、靴に鉄板 を引いた靴底を入れるなどの作業する準備を行い、今回参加しているボランティアの方々は このまま帰路に就くため野営場に弥栄を送りました。 参加していた女性ボランティアの方はボーイスカウトでないためか、目がキョトンとし ていました。 道路にはまだ瓦礫やガラスの破片なども落ちておりパンクする恐れがあるため日本連盟 の車で移動しました。 16 ☆ 8時頃ベースを出発し、この日お手伝いする方の家に向かいました。 途中から歩いて行きましたが、かすかに残る磯の臭いや、建物に残る津波の爪痕、粉々に なっている家々や倒れている電柱などの光景は終わりなく続き、実際に被災地を歩くことに よって、そうしたものが手に触れられる距離にあることで、ここに住んでいた人のことや、 これからもここに住むであろう人々のことを考えると、どんな苦労がこの先あるのかなど想 像もできませんでした。 《ボランティア体験》6月12日(日)午前 ☆ 9:00 位から作業を開始しました。作業を行う住宅は細い道の奥にあり、その道に溜まっ ているヘドロなどをかき出すのがその日のボランティアの内容でした。 最初は道路清掃など周辺の仕事に振り分けられましたが、徐々に皆さんと同じ作業を行い ました。 ☆ 作業内容は、道のヘドロを手分けして土嚢に詰め込み、それを近くの土嚢置き場まで運ぶ というものです。ヘドロはかなり重く、そして有害であるため作業をする人は皆、マスクを 着用していました。 ☆ 作業をしていた場所の隣の水たまりから腐敗などが原因でメタンガスが出ていた事を自 分は見つけ「…マジですか?」と思い、作業していた家の路地の隙間には斜め向かいの方の 車が流されてきており本当に「どうやって流されて来たんですかこの車は!?」と口に出し てしまいました。 ☆ 同じ敷地周辺でも完全に崩壊して跡形もなくなって更地になっている所、外見は一見なん でもないようだが、2階の壁に穴が空いている家。2階建で1階の半分だけもぎ取られたよ うな家など被災の状況は様々で津波被害の恐ろしさを感じました。 ☆ 神戸環境局の土嚢回収、愛知水道局の給水車、石巻市内交差点での群馬県警察、警視庁な ど全国各地から救援、支援に来ていることが分かり感動しました。 ☆ 近くの家では外国人ボランティアの方々が多数作業をしていました。自衛隊がキャタピラ の車で崩壊した家の残骸を何回も運んでいました。 ☆ 肝心の排泥作業の方はおよそ3時間の間に も関わらず死に物狂いの時間でした。 現地の様子がわからないため重装備で行き ましたが、 「ヘルメット、長袖の上下、防塵マス ク、タオル、ゴーグル」これらの安全対策の装備 はとてもではないが着けたままではいられなか ったです。 最終的にはマスクもヘルメットもタオルも 外し、上は半袖になって働きました。そうでも しなければ熱中症になって倒れるような環境 でした。 ☆ 土砂や土嚢の中にはガラス破片、釘、鉄片などがありケガに注意するように、作業中何回 も皆で声を掛け合って作業をしていました。 数日前、作業中よろめいて土嚢に手を着いたらガラス片で手のひらを7針縫ったケガが起 きたそうです。 17 ☆ 防塵マスクは空気の遮蔽率が高いので酸欠の状態にずっと陥りましたし、汗も尋常でない くらい流れて本当に苦難の一言に尽きます。 ただこの時に強く思った事はかいた汗は悪いものではなく、とても良かったと思っていま す。 ☆ 2回ほど休息をとって排泥作業を行いました。作業は4時間ほどで終わり、被災者の方は 何度もお礼を述べてくれました。 ☆ 今回、現地ボランティアとして実際に行き、私たちは作業をほんの少しだけお手伝いさせ ていただきました。現地での作業終盤に日本連盟の方が急にふと現れて来て、知り合いのボ ランティアの方に「世界のスカウトに伝えるための報告書を作ります」と話しているのを聞 きましたが、写真を撮って帰っていきました。 スコップ一杯の泥の重みを知っている人、そこからさらに作業の苦労を知っている人にし か分からない事もあるのではないかと思います。 写真を撮るだけでなく、一緒に活動することで伝えられることに重みが増すのではないか と思いました。 《後始末》6月12日(日)お昼頃 ☆ 作業が終わり、バスが待っている所に戻りました。 ボランティアの方たちが、着替えてバスに乗る準備をしている場所の道路向かいに小学校 があり、そこは避難所になっていました。 避難所の様子を見に行こうと思いましたが、被災者の生活を覗き見するようになるような 気がして、引率指導者に避難所を見に行きたいとは言い出せませんでした。 教室の窓に洗濯物が干してあり、グラウンドには多くの作業車が停まっていました。 グラウンドのテントの中では給食の用意が行われており、また一方ではヘドロを取り除き土嚢 にしているのが見受けられました。 校舎の時計は津波が来た1時間後の3時50分で止まっていました。地震が来て津波が押し寄 せ来る1時間以上も恐ろしい思いをして津波と闘っていたのだと思います。 校舎前の道路では「災害支援」の幕や標識を付けた全国各地のナンバープレートの車が行き来 していました。 ☆ ボランティアの方々は日本連盟の災害支援のステッカー 貼ったバスで東京方面に戻り、皆さんを見送った後、水押 球場のベースに戻り使用したスコップなどの機材を洗い ました。 これらの機材には多くのボランティアの方々汗がし み込んでおり、これらの機材やボランティアの方々のお かげで何人の人が救われたのだろうか、と思いました。 ☆ ボランティアの方々を見送り、ベースに戻る途中に中学 校があり、そこの倉庫に書かれていた「生きていてくれてありがとう」という言葉が最も印象深 く残っています。誰に向けた言葉かはわかりませんが、とても胸を打つ言葉です。 ☆ 最後に大型テントの中にあった全国地図の札幌の所にボランティアに参加したマークを 貼り、まだ1週間ボランティア活動を続けられる長野県からきていた上原さんお別れの挨拶 をしてベースを後にしました。 18 《仙台港まで~仙台港出航》6月12日(日)午後 ☆ 石巻ベースを発ち、仙台港へ向かいました。 どうやら最後まで衝撃は終わらせてくれないらしく、カーナビで「この先踏切があります」 の声が掛かった時に前を見ても踏切がありません。 それどころか線路も無かったのです。少し遠くを見ると線路が少しだけポツンとあり、更に 先をみると列車がこれまたポツンとあるのです。 踏切も線路も列車も津波に流されてしまったんだと思います。ため息が出ました…。 港の傍には瓦礫の山がさらに増えて積まさっていて、倉庫もボロボロのバラバラになって いました。 シャッターは破壊され金属音が風に揺れて寂しげに鳴っていました。 立ち寄った、展示場は正面玄関前の旗掲揚ポールが折れ曲がり、シャッターがめくりあが っていました。 ☆ フェリー出発まで時間があったので、仙台市内に行きました。 石巻市の壊滅した状況から一変し、仙台市内は津波の被害は沿岸部だけだったようで市の中心 部とその周辺では奇妙なぐらいの日常があり、日常と非日常が混在している風景だと思いました。 時間にしてわずか1~2時間の距離で表面的には通常の都市機能、日常生活が営まれてい ることの不思議を感じました。 ☆ 18時頃、フェリーに乗り全ての現地の体験・見学を終えました。 帰りのフェリーにも災害支援を終えた自衛隊の人達が多く乗っていました。 仙台港を出発するとき「あっ」という間だったと振り返りました。 たくさんの衝撃的な風景があり、たくさんの人の想いがそこにあり、そしてたくさんの人が、再 びその地で生きていくことを考えると、途方もない時間と労力、お金が必要だと思います。その ために、これから何ができるか・・・何をすべきかは自分で考えるだけでなく、議論し実行する ことで皆に伝わります。これからも 行動し続けるベンチャーでありたいと思います。 19 〔所 感〕 =樋口 大樹= ☆ 今回、現地ボランティアとして現地に行きましたが、本当に凄まじいものであり現地に行 ったものとして今回の経験を実際には行けなかった人たちに鮮明に伝えられたらと思いま す。 文章で伝えるには難しい光景が広がっており、映像では伝わってこない風や臭い、感触などは たくさんあります。口頭で伝えるのにも限界がありますが、それをできるだけたくさん、より多 くの人々に現地の様子を知ってもらい、そして、一人ひとりが行動して何かが変わっていけば良 いと思います。そして今回のボランティアに参加した3人はそれをより強く願っています。 《予想される危険、及びその対策と対応についての考察》 ☆ 梅雨 雨はむしろこれからで、実施期間中の現地は非常に暑く、意外と乾燥していた。 ☆ 切り傷などの外傷 自分たちに怪我はなかったが、怪我をした人で破傷風になった人もいたとのことで、特 に注意が必要な事項である。 ☆ 活動中の大きな地震 幸い、活動中に大きな地震はなかったが、行動中・移動中も常時周辺の状況を観察して 避難先・方法を考えておくべきと思う。 ☆ 活動中の健康管理の大切さ 今回の派遣団の中で怪我をする者はおらず、体調面も問題なく過ごすことができた。 しかし、ボランティア活動は相当体力を使うため、自己管理と周囲への気配りがかなり 大切だと思われる。また、非常に暑かったため上着は脱いで半袖で活動したが、ズボンは 泥に触れたり、土嚢を運んだりするときに怪我をしたという事例があるため、どんなに暑 くても長ズボンを穿いていなければならない。 《今回の活動すべてを通して》 今回、自分が復興支援プロジェクトの活動を主導して行ってきましたが、振り返ってみると たくさんの方々に助けられてここまでこれたのだと思います。 発案後にすぐさま実施された募金活動は急に実施したにもかかわらず、たくさんの団が参加 してくれました。 支援物資としての「タオル」の収集運動、最初は8,000本も集まるとは思わず、その整 理に参加してくれたリーダー方、さらには、箱詰めされたタオルをご好意で現地まで運んでく れた「株式会社インターナショナルクリエイティブ」様などたくさんの方のお世話になりまし た。 そして、6月10日~13日まで宮城県石巻市に実際に赴き、ボランティア活動に従事して きました。4ヶ月経った今も震災の爪痕は深く残っており、実際に行ってみて被災された方か ら直接お話しを伺うことができませんでしたが、初めて知ったこと、報道されることのほとん どない街の姿など、たくさんのことを見聞きし、肌で感じてきました。 今回の派遣でも、地区のリーダー方からの支援や協力なしでは決して行えるものではありま せんでした。深くお礼申し上げます。 一連の街頭募金に参加する人や集まる金額が少なくなってきました。タオル類を整理するスカウ 20 トの数も後半は少なくなり限られた人で行いました。 皆さんの中に震災に対する思いはまだ残っているでしょうか?原発もかなりの問題を抱え ていますが、政権闘争によって本来必要な被災地の方たちへの支援に目が向けられていないよ うに思えます。 しかし、長期的な支援がなければ被災地は立ち直ることは不可能だと思います。 これから具体的に何をすべきか、その方法や内容について現時点では正直申して分かりませ ん。でも現実に困っている人たちが大勢まだいるのです。私たちは継続して具体的な次の支援 行動を考え取り組まなければなりません。 自然の脅威に恐ろしさを感じました。でも私たちは自然と共に自然の中で生きて行かなけれ ばなりません。被害にあった時はもちろん、日常の生活においても命を守り生き抜く力や技、 そして協力しあい助け合う心はボーイスカウトで学んできた~そなえよつねに、いつも他の 人々を助けます~を活かすことが出来ると強く思いました。 =川端 司= 途中で自分は今持ってきている装備は支援活動にするに当たってほんとに大丈夫な物かとい う不安が続きました。結果的には装備は大丈夫だったのですが、 「心の準備」の方がなっていな かったなと言う反省があります。 同じように予想しきれていなかった部分が多くあったのは、現地をテレビや新聞報道だけで 舐めてかかっていた事の表れだったのだと思います。 「現地の状態を見て確かめて来た」からには今後も支援活動に積極的に参加していきたいと思 います。受験生という立場でも現地を訪れて状態を知ってしまったら尚更これはやらなければな らないと思います。 被災している現地と支援している地域での気持ちの違いを知りたいという自分の目標で分か った事をはっきりと説明をするのは難しいのですが「被災地でボランティアをしている人達はつ らい気持ちがあるにしても失望していなかった」と言う事です。 自分たちと一緒にボランティアをしていた人たちは活動中にも笑顔が何度も出てきて楽しい 雰囲気でやっていました。 自分も暑い中でマスクをして酸欠になりながら汗を滝のように流して辛い作業をしていた筈 なのに全くもって嫌な感じはしませんでした。 清々しい気持ちになりましたし、こういうことは理屈抜きのものなのかなと思いました。 東北は気持ちの面で完全には死んでいない。終わってはいないんだと見てきてから思えるよう になりました。 そしてより支援活動に力を入れていきたいと思います。 この 4 日間、長いとも短いともとれる時間でした。 「百聞は一見に如かず」のことわざをまじまじと体験した貴重な時間だったと思います。この 経験を今後のベンチャー活動にどう生かしていくのか、自分と先輩方でこれからどうこの状態を 伝えていくのかをこれから先よく考えていきたいと思います。 21 ボランティアの大切さ =廣川 真子= 宮城県石巻へ初めてのボランティア活動。初めて生で見た現地の現状。何もかも初めてで現地 へ着いてから戸惑いも感じた。 仙台に着いた初日、とても恐ろしく感じた。 着いた時点で多数の積み重なっている車・信号のない道路・電柱が横たわっていたりしていた。 海岸が近いと他の所と全く違う事が改めてわかった。 石巻に入り私は静まりかえった。 被害のあった所と被害の合わなかった所の違いがとても驚いた。 夕方、泥かきから本部に戻ってきた他の地域からきたリーダー達・ボランティアというのを経 験したことのない女性の方もいらっしゃいました。 その人たちの泥かきから帰ってきた時の顔はいまでも忘れられません。 次の日、朝早くから昼まで私たちは、現地で知り合ったリーダー達、そして被害のあったご家 族と一緒に作業を行いました。 高校生ができることというのは限られていて、重い土を運んだり、道路の土を掃いたり数時間 でしたがたくさんの事を学ばせてもらいました。ボランティアに来ている人は毎日、少しずつ、 このような作業を行っているそうです。 苫小牧へ戻ってきた日、私はどれだけ北海道や津波が来なかった地域が安全で平和に暮らして いるのか。 「津波」というのがどれほど恐ろしいのか。 ボランティアの人達がどれほど大切だった事がわかる。 ボランティア1人1人の力がどれほど大きいか、私たちが実際に行ったからこそ分かること。 本当に心の底から「石巻」現地へ行ってよかったなって思っています。 初めて行った作業・被災者の生の声・4ヵ月たった今の状況と沢山の事を自分の目や耳で感じ てきました。 今すぐに「回復」は難しいが、たくさんのボランティアの人達・外国人・自衛隊・私たちボー イスカウトとで力を合わせながら回復に近づいたらなと思います。 22 《石巻被災地視察とボランティア体験行動記録》 6月10日(金) 14 時 09 分 道連出発式 6月11日(土) 6月12日(日) 06 時 30 分 起床 06 時 42 分 起床 07 時 頃 朝食準備、朝食 07 時 50 分 朝食 07 時 30 分 ボランティア作業を 行う民家に向け出発 08 時 20 分 08 時 20 分 民家着 朝食終了下船準備 08 時 50 分 09 時 48 分 作業開始 仙台港着 (民家へ続く道の 10 時 13 分 下船 泥かき作業) 10 時 34 分 高速道路 11 時 13 分 高速を下り 被災地を視察 11 時 50 分 12 時 25 分 作業終了 昼食の後 水押球場にて後片付 再び被災地視察 け 07 時 頃 07 時 50 分 起床 朝食 08 時40分 朝食終了 自由時間 10 時 30 分 下船準備 10 時 55 分 下船 12 時 20 分 藤岡地区委員長さん、 川越地区協議会長さ んのもとへ報告 12 時 50 分 13 時 12 分 道連に到着 水押球場を 仙台港に向け出発 13 時 33 分 昼食 14 時 08 分 出発、 13 時 30 分 道連にて解散 時間に余裕があるた 基地着 各自帰途についた 16 時 頃 め仙台市内を見学 後片づけの手伝い 16 時 54 分 仙台駅を出発 14 時 53 分 苫小牧に到着 15 時 19 分 苫小牧西港に到着 17 時 44 分 フェリー「きたかみ」 乗船 18 時 45 分 夕食 17 時 40 分 支援物資の贈呈式 18 時 30 分 夕食の後、鞄の片付け 19 時 49 分 夕食終了後、入浴など 22 時 頃 23 時 頃 6月13日(月) 消灯 17 時 46 分 フェリー「いしか り」乗船 その後ミーティング 19 時 13 分 夕食 その後自由時間 22 時 頃 就寝 就寝 23 24