...

テリトリー形成能力からみた子どもの居場所

by user

on
Category: Documents
4

views

Report

Comments

Transcript

テリトリー形成能力からみた子どもの居場所
生活科学研究誌・Vol. 5(2006) 《人間福祉分野》
テリトリー形成能力からみた子どもの居場所
―質的空間学研究の試み―
中井 孝章
大阪市立大学大学院生活科学研究科
Children’
s whereabouts from a standpoint of an ability of territory formation
:A Trial of research of qualitative space theory
Takaaki NAKAI
Osaka City University Graduate School of Human Life Science & Faculty of Human Life Science
Summary
This paper aims at analyzing and interpreting the image and its changes of children’s whereabouts by
means of the qualitative space theory. This involves a consciousness investigation concerning“student s
whereabouts”and the investigation of narration with remembrance of the questionnaire to a college student, while describing children spatial development and their whereabouts at each developmental stage
from a viewpoint of territory formation capability.
It described in detail that how children(students) develop their whereabouts, concretely from an infant
through a child and youth to an adult, from a viewpoint of territory formation capability. Independence
of children becomes a turning point of human development, it prescribes spatially that children can
operate and manage their personal space. In order to establish privacy and then to secure it for children,
a single room (a child room) is needed for them.
The questionnaire to students concerning their whereabouts is carried out from the developmental
process of such children’s territory formation capability. That main result is as follows, namely, most
of the children (about 70%) responded that their whereabouts is a home . However, the present children
considered that a home as their whereabouts is equal to a room or their favorite goods , and so they
reduce their whereabouts and its image to parts, such as a room and goods. They did not express a
home as their whereabouts not with a picture, but by means of language. It turns out children whose
should have developed territory formation capability richly can not understand their whereabouts as a
spatial image through their body (bodydivision).
Next, the investigation of narration with remembrance of the questionnaire concerning whereabouts
to a college student was investigated. In this investigation, as the college student was made to express
her developmental process spatially, the narration and description were expressed by concrete space
representation as corresponding to the developmental process of territory formation capability.
Thus, thinking that a gathering place which the college student expressed through remembrance and
narration of childhood actualizes an unconscious common area required for us spatially, it is necessary
for children to demonstrate it. A gathering place is equal to the free space, that is, children’s open
field which once existed. It can also be said that it is indispensable for the present children who do not
develop their whereabouts image to develop their territory formation capability and make their whereabouts
1
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
and its image from now on.
Keywords:子どもの居場所 Children’s whereabouts
テリトリー形成能力 An ability of territory formation
パーソナルスペース Personal Space
想起 Recì
たまり場 A gathering place
Ⅰ.居場所とテリトリー
ない。いいかえると,「居場所」はあくまで,自分自身
が他者から承認され受け入れられる場所,すなわち空間
1.「居場所」概念の氾濫
的概念として適切に使用されるべきである。ただその一
方で,「居場所」という言葉を性急に自分自身の部屋や
近年,「居場所」という言葉は,心理学をはじめさま
家とか,近くの公園とか,秘密基地や隠れ家というよう
ざまな分野や領域で語られることが多い。「子どもの居
に,まったく客体的なものとして「実体化=固定化」す
場所」,「中高生の居場所」,「高齢者の居場所」,「男の居
ることも避けるべきであろう。というのも,
「居場所」は,
場所」,
「主婦の居場所」等々である。ただその一方で,
「私
後述するように,空間的イメージを基礎としながらも,
の居場所がない」というように,子どもや大人が否定的
自分と空間との動的関係において捉えることが不可欠だ
な自己語りとして「居場所」という言葉を使うことが少
からである。
なくない。
さらに注意すべきことは,「居場所」という概念には,
「私の居場所がない」の場合の「居場所」とは,本来, 「動物としてのヒト」の側面が内包されているというこ
「こころの居場所」というべきものである。つまりそれは,
とである。もっといえば,それは,人間と動物との境界
ありのままの私自身を受け入れてくれるような,自らの
線(分水嶺)を見直す契機となる。近代の人間中心主義
願望や理想を表現した言葉のことである。その場合,
「居
は,両者の境界線を言語(記号)操作のレベルに求めた
場所」という言葉に内包された空間的イメージは最大限
が,そうした線引きはあまりにも恣意的で大雑把な基準
消去されている。
に依拠している。後述するように,居場所を動物行動学
ところで,少年事件や不登校をはじめ,さまざまなで
(エソロジー)の立場から「ナワバリ」や「テリトリー」
きごとの原因を個人のこころに求めてしまうサイコバブ
として再措定することにより,むしろそれは,人間と動
ル社会,すなわち心理主義化された社会や学校において
物の共通性,特に「動物としてのヒト」の側面が析出さ
子どもたちは,自らの不安や悩みを「私の居場所がない」
れてくる(逆説的な言い方であるが,両者の共通点を緻
といった,「内面の真実」を表す「こころの言葉(セラ
密に捉えるとき初めて,その相違点もより明確化してく
ピー語)」によって説明・表現することにより自らの内
る)。
面を整序することが少なくない 。子どもたちが「居場
こうして,「居場所」という概念を心理主義的,人間
所」という「こころの言葉」に呪縛されるとき,自分自
中心主義的に捉えることをエポケー(判断停止)する
身を受容してくれるような居場所がどこにも―家庭に
とともに,それに内包された「動物としてのヒト」の側
も学校にも―見つからないという不満や不安を作り出
面を保持することが必要である。以上のことを明らかに
し,さらには増幅してしまう可能性がある。この場合,
するために,ここで補助線を引くことにしたい。その補
子ども自身の不満や不安,すなわちその子なりの「ここ
助線とは,「身分け構造」と「言分け構造」という対概
ろの問題」は,「こころの言葉」によって初めて作り出
念である(以下,対概念として用いる場合は,「身分け
されたと考えられる。「こころの問題」は,言葉への呪
構造/言分け構造」と表示する)。あらかじめ述べると,
縛によって生じるがゆえに,かえって自らのこころを隠
心理主義的,人間中心主義的な「居場所」は,言分け
蔽してしまうことにつながる。
構造に基づく―裏返せば,その基礎にある身分け構造
以上のことからすると,子どもをはじめ,私たちは
を軽視した―,“こころでっかちの”概念に過ぎない。
「こころの居場所」というように,実体の不明瞭な―
それでは次に,身分け構造に基づいて「居場所」を具体
1)
しかしそうであるがゆえに,無際限の幻想や欲望を投入
的に捉えることにする。
しやすい―言葉を使用することに慎重でなければなら
2
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
2.身分け構造と言分け構造
高等な動物,たとえばサルやイヌといった哺乳類におい
ても基本的に変わりはない。異なるのは,哺乳類ではユ
一般的に,「子どもの居場所の発達(=空間的発達)」
クスキュルのいう,知覚標識と作用標識の数が多くなり,
を含め,子どもの精神発達について記述する場合,それ
両者の関係がより複雑になるだけである。下等動物と高
は,
「子ども」から「大人」への発達と捉えることができる。
等動物の違いはともかく,動物において世界は,環境世
そしてこの精神発達には,「子ども」と「大人」との差
界(種ごとに固有の意味世界)として身体によってすで
異もしくは境界が暗黙の前提とされている。それゆえ,
に分節化されている。このように,ヒトも含めて動物一
「子どもの居場所の発達」について記述する場合もまた,
般に共通に備わった世界の分節化の仕方は,身分け構造,
「子ども」と「大人」の差異を基準にすることは有益で
その分節化能力は,身分け能力と各々規定される。
あるといえる。それでは,「身分け構造/言分け構造」
しかも重要なことは,身分けには,環境世界の分節化
という対概念に基づくと,「子ども」と「大人」の差異
だけではなく,自らの身体をも分節化するという側面が
およびそれに基づいて「子どもの居場所の発達」は一体,
あるということである。市川浩が述べるように,「〈身分
どのように規定することができるのであろうか。そのこ
け〉は,身が主題的に,または非主題的に世界を身で分
とを解明する前に,「身分け構造/言分け構造」につい
節化することを意味するとともに,身が世界を介して潜
て説明したい。
在的に分節化されることを意味する。3 )」つまり,身分
ところで,「身分け構造/言分け構造」とは何かとい
けとは,身体の二重分節化にほかならない。ヒトも含め
うと,それは次のように規定できる。まず,身分け構造
て動物は,生存という目的のために,自らの身体によっ
とは,人間が動物と共有する,シンボル操作以前の「感
て環境世界を分節化するその一方で,逆に自らの身体が
覚=運動」的分節によって生まれる第 1 のゲシュタルト
環境世界によって分節化されてしまっている。このよう
のことである。動物一般は,自然の環境世界のなかに埋
に,身分け構造は,世界の構成というポジティブな側面
め込まれて(埋没して)生活をしていて,自然のなかの
と,世界による被構成というネガティブな側面といった
摂理にただ服従しているようにみえる。しかしながら,
両面を持つ。
動物一般は,自然のなかに即自的に存在する物理的構造
ところで,世界による被構成というネガティブな側面
に専ら従っているのではなくて,種特有の身体(感覚や
での身分けは,用具使用の経験を通じて鮮明になってく
知覚)を通して自然を「図−地」といった意味世界へと
る。たとえば,私たちはハサミを使うことによって,そ
分節化している。つまり,動物一般は,人間も含めて,
の用具の働きを身体の働きのうちに組み込み,身体の働
自然の環境世界を自らの生の機能(種の機能)に即して
きを拡大・強化していく。これは用具の身体化というポ
意味を付与している。そして,自らの生にとって必要な
ジティブな側面である。しかしその一方で,私たちはハ
環境の諸要素だけを「図」として浮かび上がらせ,それ
サミを使うことによって,逆にハサミ(用具)の構造に
以外の「地」の部分は配慮の外部に置いていく。身分け
無意識の内に身体を合わせ,それに組み込まれていると
構造に基づく,こうした環境世界の分節化は,動物一般
いえる。これは身体の用具化というネガティブな側面で
にとって生存という目的のために有益なものと有害なも
ある(その極端な例は,中国の纏足である)。良かれ悪
のとを弁別し,安全な生活を営む上で不可欠なものであ
しかれ,私たち人間は,身を通して世界を分節化し構成
る。動物の生の機能に基づく身分け構造の本質は,生存
するその一方で,世界によって被構成されているのであ
の安全性にこそある。
る。
以上述べたことは,こうした身分け構造と J.v. ユクス
次に,言分け構造とは何かというと,それは,常に身
キュルの環境世界とを重ね合わせることでより明確に
分け構造との対照・比較を通じて規定される。身分け構
なる。ユクスキュルは,嗅覚,触覚,温度感覚といった
造とは,動物が種に固有の身体(身)を介して環境世界
3 つの感覚しか持たない下等動物(ダニ)が,それらの
を構造化―「図−地」へと分節化―していく機序の
感覚を駆使することで,ダニに固有の環境世界を構成す
ことであった。それに対して,言分け構造とは,そうし
るとともに,環境世界とダニの内的世界とのあいだに円
た自然の身体ではなく,人工のシンボル(主に,言語記
環的な適合関係を保持することによって,その生の機能
号)の分節化―すなわち「差異化=関係化」―機能
を維持するような構造を有することを明らかにしている
を介して世界を新たに切り分けていく,すなわち非連続
2)
。
化していく機序のことである。人間は動物と異なり,言
ダニにみられる,こうした動物の身分け構造は,より
葉の働きによって「いま=ここ」という時・空の限界(拘
3
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
束)から逃れ,過去(記憶)の世界,未来(想像力)の
世界,さらには非在の世界(可能的世界)を作り出す。
3.パーソナルスペースの確立と「自立」の
再定義
ここで言分け構造を生み出す構造化能力は,F . ソシュ
ールのいう「ランガージュ
」というシンボル化能力(言
4)
次に,以上述べた「身分け構造 / 言分け構造」という
語活動)である。そしてその言語活動によって作られ,
対概念を通して,子どもの空間的発達について規定する
すでに構成された構造,すなわちランガージュの惰性態
と―ただし「子ども」と「大人」の区別もしくは定義
が「ラング」(母国語)である。たとえば,虹の色の見
をした上で―,次のようになる。すなわち,学童期以
え方や置き時計の聞こえ方がさまざまな言語圏で異なる
降の子どもを基準とする場合,「子ども」とは,身分け
のは,その言語圏に固有の言語構造の相違に求められる。
構造化についてはある程度確立し安定していながらも,
私たちがあるものを知覚または認識する場合,それを「∼
今でも絶えず変容し続けている,いわゆる進行中の人間
として」把握するが,この「∼として」にはラング(母
であるその一方で,言分け構造化についてはほとんど確
国語)の規定性が介入してくる。つまり,私たちの知覚
立できていない人間である,と。それに対して,「大人」
内容や認識内容は,ラングの構造に規定されている。そ
とは,身分け構造化と言分け構造化の双方において安
れは,
「として構造」と呼ばれる(ただし,厳密にいうと,
定期にある者の謂いである,と。とりわけ,「大人」は,
知覚内容や認識内容がラングの規定性を被るとはいって
身分け構造化についてはほぼ完了している者なのであ
も,個々人にとっての色や音の立ち現れ方 [ 見え方や聞
る。
こえ方 ],すなわちコトの相貌まで規定されてしまうわ
けではない)。
もっといえば,「子ども」とは,身分け構造に基づく,
(前述した動物の有機的世界に通底する)自然的世界と
ここで重要なことは,このランガージュという言語活
のかかわりや他者との身体的コミュニケーションを行う
動(言分け)が,その分節化機能,すなわち命名作用を
ことを通して自ら成長しながら,これから言分け構造を
介して世界を切り分け,まったく新たな実在を産出して
構造化する者であるのに対して,「大人」とは,すでに
いくということである。普通,私たちは言葉以前に何か
安定した身分け構造を持ち合わせた上で,より一層言分
を認識し,その後で認識した当の対象に名前を付けると
け構造に基づきながら,文化的世界とのかかわりや他者
いうように考えてしまいがちであるが,事態はまったく
との言語的コミュニケーションを行う者であると規定す
逆なのである。つまり,事物や観念の命名は認識の後か
ることができる。ここでいう文化的世界とは,科学的世
らなされるのではなくて,すなわち対象や観念の実在が
界,文学的世界,芸術的世界など,主にシンボル(言語
命名に先行しているのではなく,むしろ命名による世界
記号)を介して出会うことのできる高次の象徴的世界の
の切り分けこそ,初めて対象や観念の実在を生み出すの
ことである。
である。正確には,命名作用には,それまで実在しなか
以上のように,子どもの空間的発達(居場所の発達)
った対象や観念を生成する根源的な作用(ランガージュ
における最大の転回点(分水嶺)は―いいかえると,
的な作用)と,すでに実在している事物や観念にラベル
子どもと大人とを分かつ境界は―,「身分け構造/言
を貼り付ける副次的な作用(ラング的な作用)との, 2
分け構造」という捉え方からみて,言分け構造化の「完
つがあるといえる。とりわけ,前者の,命名の根源的な
了−未完了」にある。つまり,子どもとは,身分け構造
作用は,ありきたりの後者の作用と比べて,忘れられて
の構造化能力の未完了かつ言分け構造の構造化能力の発
しまい,命名されたもの(ラベル)に私たちが規定され
展途上の者なのである。子どもからみると,身分け構造
てしまうことが少なくない(あるいは,その作用自体に
の安定化もさることながら,それ以上に学校や社会に適
気づかないことも少なくない)。
合した言語規範への服従能力を充分に習得すること,す
こうして,私たち人間は,動物と共通する身分け構造
なわち言分け構造化の完了が,子どもから大人へと向か
および身分け能力と,動物には持ち得ない―というよ
う,発達上の分水嶺となるのである。
りも,不必要な―言分け構造および言分け能力といっ
つまるところ,「子ども」とは,「大人」とは異なり,
た, 2 つの基本的な構造を重層構造として持っているの
身分け構造の構造化能力の未完了の者のことであった。
である。
ところで,ここでいう身分け構造とは,前にユクスキュ
ルを持ち出して言及したように,エソロジー(動物行動
学)の立場からすると,「テリトリー」という概念とし
て捉え直すことができる。普通,テリトリーは,「ナワ
4
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
バリ」,「領域」と訳されるが,いずれもある個体が生活
る。なお,精神の病を原因とする空間の病は,私たちの
する空間のことを指す。ヒトは動物のようなナワバリ行
パーソナルスペースの特質を知る上で重要な知見となる
動はとらないとされてきた。しかし,ナワバリ行動はよ
ので,次節で詳しく取り上げることにしたい。
り洗練された形で私たちの生活のなかに息づいている。
第 2 に―第 1 の特質との関係で―ヒトのナワバリ
学校の机や図書館での席取りなど,私たちの空間行動(慣
は「所有」と深く結びついており,モノやシンボルもナ
習行動)の大半は,ナワバリ行動なのである。このよう
ワバリを表現する媒体となる。つまり,動物のナワバリ
に,ナワバリの獲得は,その種にとって生存を維持する
が単に防衛的意味をもつだけであるのに対して,ヒトの
ための基本的行動様式である。ただ,ヒトのナワバリ行
テリトリーは「所有」との関係で支配・管理するという
動は,他の動物と構造的には相似していても幾つかの点
特質を派生させる。つまりそれは,掃除や手入れなどそ
で異なっている。
の場所を自分の意のままに操作したり,ときには他者の
第 1 に―これが最も重要な特徴であるが―,動物
侵入を適切に管理(監視)したりすることができる。
のナワバリ行動は,完全に有機的環境に埋め込まれてい
以上のことから,ヒトのナワバリ行動は,パーソナル
るのに対して,ヒトのナワバリ行動の大半は,有機的環
スペースの拡大と縮小といった自由自在の操作によって
境から離床している。いいかえると,動物のナワバリ行
成り立つことがわかる。ただそのことと同時に,絶えず
動は,ある意味でナワバリに封じ込められ,常に排他的
拡大したり縮小したりするパーソナルスペースを常に管
であるのに対して,ヒトはナワバリを離れた場所にも自
理し続ける能力も不可欠となるのである。
由に作ることができる。しかも状況によっては,利他的
ところで,子どもの発達の最終的な目的といえば,一
行動をとり,ナワバリの共有が社会システムとしても機
般的には自立した一個人になるということである。それ
能している。ヒトは,他の動物よりも自由にナワバリを
では「自立する」ということは,空間論的に―空間的
もつことができるのである。
イメージを通して―,どのように定義することができ
抽象的な言い回しをすると,ヒトのナワバリ行動とは,
るのであろうか。すでに明らかなように,子どもが自立
個体が自己の身体の周囲にある「パーソナルスペース」
することとは,パーソナルスペースを自由自在に操作で
を時間−空間によって拡大・縮小できることを意味する。
きるとともに,拡大したり縮小したりするパーソナルス
この「パーソナルスペース」とは,市橋秀夫がK . ソマ
ペースを自分自身でその都度その都度,きちんと管理す
ーを参照しながら定義するように ,他人が侵入できな
ることができるということである,と。後述するように,
いように,その人の身体をとりまく目に見えない境界を
より重要なことは,空間的自立の定義を具体的な居住空
もった領域のことである。つまりそれは,「個人距離の
間(住まい)という場に適用していくことなのである。
作る身体空間 」のことであり,人間がどこに移動しよ
つまり,そうして定義された空間的自立という基準が,
うともその周囲に設定され,占有されるナワバリのこと
個々の子どもの生活行動がそれに適合したものであるの
である。しかもそれは,あたかも個人をとり囲む,目に
か,それともそれに適合せず,逸脱したものであるのか
見えない「気泡」のようなものとしてイメージされてい
を評定できるということが肝要なのである。
5)
6)
る 。ヒトのパーソナルスペースは,対人的な距離に強
7)
く結びついており,動物の個体距離(個体間の距離)と
は比べものにならないほど複雑である。
4.テリトリアリティの機能と統合失調症患者
のエソロジー
こうして,私たちは普段,無意識の内にパーソナルス
ペースを操作することができるがゆえに,円滑に社会生
この節では,前述したように,精神の病が原因で空間
活を営むことができる。ただその一方で,開放された空
の病をきたしている統合失調症患者の生活行動空間,す
間に耐えられず,閉鎖的な空間でしか精神の正常を保つ
なわちそのエソロジーを精神病理学や精神医学の立場か
ことできないという例外をも同時に生み出してしまうこ
ら取り上げ,私たちのパーソナルスペースやテリトリー
とになる。それは,統合失調症患者のケースである。統
行動をより一層認識していくための手がかりにしたい。
合失調症患者(妄想型)の場合,「自分の居場所があり
1 )テリトリアリティの機能
ません。なわばりを引くものが私になくなってしまった
のです。 」というように,自らのパーソナルスペース
一般的に,統合失調症患者は自己固有の空間を持ちに
を管理する能力が弱まったために,目に見えない泡(見
くいといわれている。自己固有の空間に侵入されれば,
えない壁)の代わりにはっきりとした囲いが必要とな
自己内部が侵入されたと同じような反応をする。彼らは
8)
5
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
自己固有の空間を守る「枠」を喪失し,物理的な障壁に
怯え,さらに近づくと大声をあげて攻撃の構えをみせる
依存するようになる。
といわれるが,こうした状況はこの距離のもつ特性を示
比較動物行動学では,他の個体から自己の領域を守る
している。
行動を「ナワバリ行動(territoriality)」と規定し,ナ
また,テリトリアリティは,「テレオノミー(種族維
ワバリは守るべき場所であると同時に,安全を与えられ
持的合目的性)」に則った行動の 1 つとみなされている
る場所でもあるとしている。すべての非接触性の行動を
が,テリトリアリティを持つことは幾つかの利点が個体
とる動物は,身体が泡のようなもので取り囲まれ,その
にはあると考えられている。列挙するとそれは,次の通
内部は個体の小さな防御領域になっている。その泡が個
りである。
体の距離を保ち,ナワバリ行動維持に重要な役割を果た
第 1 に,種の過剰な混みあいを避け,群れとしての距
しているが,統合失調症患者の独特な空間依存は,ナワ
離を保つことに役立ち,捕食者から身を守る上でも有用
バリ行動障害として捉えることができる。ナワバリ行動
である。
はもともと,刷り込まれ(インプリンティング),発生
第 2 に,攻撃は個の生活圏維持と種の保存に必要であ
学的にも古い基盤から由来しているが,出生後から思春
り,その抑制機能は種の滅亡から救うために必要である。
期に至るまで徐々に準備され形成されていることも特徴
第 3 に,順位制は無用な種内攻撃を減少させ,群れを
である。
まとめあげ,社会を形成するのに極めて重要な役割を果
K . ローレンツは,ナワバリ行動(テリトリアリティ)
たしている。
維持機構としてスペーシング(spacing:個体密度の調
第 4 に,ナワバリを持つことは,個体にとってその安
整機構),種内攻撃とその抑制機能,順位制の 3 つを挙
全を守り,維持する上で重要な機能がある。それは自己
げている 。動物の求愛行動,造巣行動,育児行動,社
のナワバリ圏内の絶対的な優位制である。ナワバリは個
会形成,餌場の確保,他種の捕食者からの身の安全など
体にとって守らなければならない空間であると同時に,
の重要な行動は,これら 3 つのテリトリアリティ維持機
それによって個体が守られるという面があるのであり,
構に大きく依拠している。動物のスペーシングについて
それが個体間の空間利用に大きな働きを演じている。
は,E . ホールによると ,非接触性の種(ヒトもその
このように,ナワバリ行動は,個体単独の現象ではな
種の 1 つである)のメンバーは互いに恒常的に分かつ距
く,個体間の相互現象と捉えられるものであり,いわば
離があるとして,これを「個体距離」とし,その距離は
場における個体相互の力動であると集約することができ
個体の小さな防御領域であり,生物が自分と他者とを分
る。
かつ「泡(bubble)」であるとした。この泡は不規則な
以上,テリトリアリティに関する比較動物行動学の知
形で個体を風船のように包んでおり,その泡の内部への
見について述べてきた。それでは次に,こうした知見を
侵入は即,自己身体への侵入として反応するとしている。
活用してより詳しく分裂病患者の症例を分析し,私たち
また,集団行動をとる動物は,互いに接触を保っている
にとってテリトリアリティおよび(それが形成する)空
必要があり,仲間とのコミュニケーションが可能である
間がいかに重要な機能(生きるための根本的な機能)を
距離を指しているが,この距離の限界を越えると明らか
果たしているかについて述べていくことにしたい。
9)
10)
に動物は不安を感じはじめる。なお,社会距離は個体距
2 )統合失調症患者の院内寛解と空間的機能
離よりも可変的で状況依存的であるとされている。
以上の 2 つの距離は,同種間で観察されるが,異種
ところで,分裂病の治療,特に社会復帰活動では,治
間,とりわけ捕食者と被捕食者との間で観察される距離
療者は患者のナワバリ保証人になり,新しい緊張に満ち
に「逃走距離 」,すなわち野生動物は敵が近づいても
た,開いた空間に出すときには充分その空間に馴化する
一定の距離まで逃げずにいるが,ある距離を越えると逃
まで待たなければならない。ナワバリ行動は,同種の個
げ出す場合のこの距離と,「臨界距離 」,すなわち同じ
体間で形成されるがゆえに,人間の場合には人間関係の
く,さらに侵入すると攻撃を加えるようになる,この場
場のなかに立ち現れてくる。それゆえ,対人関係の力動
合の距離とがある。この 2 つの距離は,わずかな例外を
は空間の枠組みを無視することはできない。統合失調症
除いて人間の反応から取り除かれているとしているが,
患者は個体を分かつ泡―「スペーシング機構13)」とい
分裂病はそのわずかな例外の 1 つにほかならない。たと
われる―が壊され,そのため自己固有の空間を維持す
えば,ある急性期の統合失調症患者は,治療初期に一定
ることが困難になり,囲われるという特有な空間依存が
の距離に他者が入ると強い不安を示し,身体を固くして
生じるものと考えられる。
11)
12)
6
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
精神科医,市橋秀夫によると14),精神病院で社会復帰
これ以外の症例でも16),たとえば47歳の破瓜一妄想型
活動や急性期の治療を通じて統合失調症患者とかかわり
の分裂病患者が再度入院するや否や,直ちに落ちつきを
ながら,病例の検討をするうちに患者が空間に対して特
取り戻し,睡眠も充分に取れるようになったと報告され
有の依存性を示すことを見出し,これが分裂病の本質的
ている。特に,この症例で注目すべきなのは,病棟に戻
な開題に関係があるのではないかと考えるに至ったとい
るとすぐに自分のコーナーを作り,持ち物を元のように
う。統合失調症患者の「病院内寛解(院内寛解)」の現象,
収納して落ちついた顔つきでかつての定位置に腰をおろ
すなわち病院の内と外とで症状が消長し,病院外で悪化,
したという点である。さらに,この症例では,この患者
病院内で寛解といったパターンは,よく観察される現象
が父親の絶えざる侵入・干渉のために自らのテリトリー
である。
を形成できず,自己のわずかな空間も病院外で手に入れ
それでは次に,テリトリアリティの機能を知るために,
ることが困難であったことが明らかにされている。つま
市橋が挙げる症例を取り上げ,分析していくことにした
り,普段私たちが自己自身のテリトリーへの侵入につい
い。次の症例は,安全を求めて入院を希望するケース
てせいぜい“不快である”としか感じていないことが,
であり,それは前述した「院内寛解」の効力を実証する
統合失調症患者にとってはいかに脅威に感じられるかと
ものである。
いうことが理解されてくる。テリトリーへの侵入が彼に
36歳の女性,すでに他の医院に数回の入院歴がある。
とっては「臨界距離」となるのである。裏返せば,狭く
全体像と経過よりみて,破瓜−妄想型に属する症例であ
閉ざされた「枠(枠組み)=空間」が患者の自由を保障
る。30歳の時,本医院外来に母親同伴で来院した。家族
していると考えられる(勿論,患者によっては比較的広
否認妄想,誇大的血統妄想,幻聴,不眠を呈し,人格面
いテリトリアリティを維持できる者も存在している)。
のくずれも著しく,外来治療に抗して症状のはかばかし
付け加えると,病院寛解の一般的な軌跡は,次のよう
い改善はみられなかった。そのうち,「入院させて欲し
になるといわれている。すなわちそれは,悪化→閉鎖病
い」と本人から申し出があり,入院したが, 3 ケ月の入
棟→寛解→開放病棟→悪化,あるいは開放病棟→退院→
院加療後,市橋(医師)の外来に再び通うことになった。
悪化→閉鎖病棟→直に寛解→退院→悪化,である。
その時,「入院して病棟に入るなり,すぐにあれほど活
以上述べてきたように,院内寛解として知られる統合
発だった幻聴が聴こえなくなりました。」と述べている。
失調症患者の現象は,病院の内と外とで症状の消長が認
なぜかと尋ねてもよくわからないと答えるだけであっ
められ,病院内で寛解し病院外で悪化するというパター
た。それきりその話題は出ずに終わったが,母が死亡し
ンがみられる。それは対人状況,治療関係,病院社会へ
て突然,「入院しなかったのは,母から逃げだしたかっ
の適応という面だけでは把握しきれず,むしろそれは,
たからです。だから退院後も母からあまり遠くないとこ
統合失調症患者の特有な空間依存性に関係して生ずるも
ろにアパートを借りてひとりで暮らしていたんです。そ
のと認められる。統合失調症患者が閉鎖系の空間のなか
のため干渉されないで自分が保たれていたような気がし
で安定し,開放系の空間のなかで悪化がみられることは,
ます。」と述べて彼を驚かせた。
院内寛解の例だけではなく,急性期の統合失調症患者に
この症例からわかるように,この類の患者にとって閉
も認められるという。統合失調症患者がかくも閉鎖系空
鎖空間が一種の避難場所,慣れた空間となっていること
間を要求するのは,自己身体を囲う枠として空間的障壁
を意味しているのであり,慣れない空間に入ることが身
に依存するものだからである。統合失調症患者は自己固
体性を脅かすことを示している。自分にとっての防御領
有の空間を持ちにくく,小さな防御領域を守っている。
域(テリトリー)を張れない者が物理的な障壁で守られ
その領域への他者の侵入には即,自己内部への侵入とし
ることは,自己の身体空間―スペーシング機構によっ
て反応する。自己固有の空間の喪失は,一方の極として
てもたらされる泡―への他者からの侵入が防げ(テリ
は自閉的行動へ,他方の極では生活臨床で言う能動型分
トリーを守り抜き),安全感を保障される。また,この
裂病として分極化する。
症例では幼時より母親のテリトリーから充分に離脱でき
個体の一定の領域を他の領域から守り抜こうとする行
ず,自分のテリトリーを築きあげることが用意されず,
動は,前述したように,エソロジーの概念ではナワバリ
病院という母親の乗り越えられない境界線を乗り越える
行動(テリトリアリティ)であるが,それは自己固有の
ことによって自らの仮初めのテリトリーを確保し,つい
空間,すなわちナワバリ圏はその個体にとって守らなけ
でアパートで単身生活をすることによってようやく自ら
ればならない空間であると同時に,安全圏であるという
のテリトリーを形成できた事例ということができる。
ことを意味する。自己固有の空間を守れない行動は,ナ
15)
7
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
ワバリ行動の障害とみなすことができる。繰り返すと,
を交わしたビア・バーの常連もお互いの名前や職業を知
すべての非接触性の行動をとる動物は,身体を囲む泡
ることもないままである。そして,こうした行動は次第
のようなもので包まれており,それが他の個体との距離
に「橋頭堡=前進基地」を幾つか生み出すようになる。
を保つ働きがあるが同時に,それは個体の小さな防御領
行きつけの喫茶店から囲碁会所,パチンコ,コンサート
域でもある。その泡が動物のスペーシングを維持してお
といった具合に,オリヅルランが根を張っていくのにも
り,攻撃とその抑制機構および順位制とともに,ナワバ
似ており,また仔ウサギが巣から徐々に行動圏を拡大す
リ行動を構成する重要な役割を演じているが,統合失調
るのにも似ている。中井は,通常の組織に生きる人々が,
症患者ではスペーシング機構が阻害され,自己身体を防
職業中心の同心円(ヤマノイモ型)構造に生きているの
御するために閉鎖空間に依拠するものと考えられる。ナ
に対して,オリヅルラン型の行動様式のなかに少数者が
ワバリ行動は同種の個体間の相互関係で形成されるがゆ
少数者として独白に生きていく道を見出している。以上
えに,人間においてはこれが対人関係の場において如実
述べたことは , 図 1 18)のように表される。
な形で現れるのである。
そのことに関連して,さらに彼は,自分の団地生活の
それでは次に,病院寛解とは異なり,分裂病から復帰
経験について語っている。第 1 期の団地生活のリーダー
した元患者たちのナワバリ行動の修復がどのようにして
たちは有能な弁護士,会計士などで,彼らは 4 ,5 年で
行われるのであろうか,次に,中井久夫の論攷に沿って
団地を去って一戸建てに移る。第 2 期は,組織(政治,
みていくことにしたい。
宗教)に属する人々が活躍した。そして静かになった第
3 期は,労働に対する価値観の違う人々が現れてきたの
3 )統合失調症患者における社会復帰の契機としての
テリトリー的空間行動
である。仕事に関して有能であっても,仕事は“仮の姿”,
“払わなければならない税金”として受け定め,自分の
さて,他人とのコミュニケーションを次第に失い,激
独特の世界(鉄道趣味,UFO研究,書籍収集)をもつ
烈な競争原理のなかに置かれた私たちは,ともすれば,
人々がこの時点で姿を現してきたという。
集団的な陶酔のなかに誘惑されやすくなっている。この
つまり,競争に駆り立てられ,「しっと」や「ねたみ」
ような危険をはらむ社会のなかで,社会の強制する論理
に駆り立てられるこの群衆社会のなかで,群れに同調せ
と戦いつつ,逃げながらも「狂気」に至らないためには,
ずに生きていく「棲み方」を私たちは自分で見つけてい
どのような道が可能なのであろうか。その手がかりとし
かなければならない。それは職場集団から離れた「橋頭
て,中井久夫の論攷「世に棲む患者17)」を敷衍しつつ,
堡」を次々に作っていくことなのであり,この発想は
社会の強制する論理からの脱出(エクソダス)の道を考
G . ドゥルーズ=F . ガタリのいう「リゾーム(地下茎)」
えていくことにしたい。勿論,本論攷は,分裂病患者の
とも通じている。ここで「リゾーム」とは,常に数多く
退院後の社会復帰について書かれたものである。にもか
の入り口をもつということを指す。切断されても止まる
かわらず,ここでは少数者が少数者として,決して多数
ことなく,接合を繰り返し,一点にとどまることなく広
者に同化せずに生きていく道を示唆する視点を私たちに
がり続けるリゾーム(地下茎)というのは,いかにも自
提供している。その道はまた,私たちにとって不可欠な
由奔放なライフスタイルであり,あらゆる組織や制度を
テリトリーの行動にもかかわらず,普段は労働や教育を
拒否するヨーロッパ的なラディカリズムである。最近の
中心とする社会のなかで見失われてしまっている空間行
言葉でいうと,それは,「マルチチュード」(A . ネグリ
動にほかならない。皮肉なことにも,私たちにとって生
&M . ハート)である。
きられるテリトリー的な空間行動は,分裂病患者のよう
再び,本論攷の内容に戻るならば,中井は「橋頭堡」
に非日常的な現実を介して透視されてくるのである。
は決して「基地」にならないと指摘している。ヴァー
ところで,中井は,退院後の患者たちが思いも寄らな
ジニア・ウルフのいう「女が一人でもいられる部屋」に
い行動をとり,独特の人間関係を作り出していることに
も似た,人々の視線を避けられる,侵されない一隅が必
気づいた。つまり彼らのうち,ある者は,ビア・バーの
要だという。確かに,「リゾーム」と比べると,中井の
常連になったり,またある者は,ある決まった映画館に
いうことは,ある意味できわめて保守的で常識的である
行ったり,さらに決まったときに海を見るために列車に
かも知れない。にもかかわらず,保守的で常識的である
乗って出かけたりする者もいるという具合に,人に知ら
ことの方が,必要な場合もある。速く走るよりも,自分
れぬ場をもっている。そうした場では,彼らは名前も知
のペースをくずさないことの方が重要な場合もある。す
られないまま,その存在が許容されている。何年も言葉
べての人々に一様に走り続けることを強制する必要もな
8
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
図1 「世に棲む患者」の探索行動とオリヅルラン
9
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
い。私たちにとって必要なことは,基地からのびやかに
3 . 帰属性の確立を保証するものの存在
各橋頭堡をめぐりながら,次第に他の地下茎との連携の
4 . 帰属性の確立を保証するものを介した解釈
なかに入っていくことなのである。
5 . コミュニケーションの成立
Ⅱ.子どもの居場所の諸相
外山自身,述べるように,これら 5 つの手段のうちあ
― テ リ ト リ ー 形 成 能 力 の 生 涯 発 達 モ デ ル
るものは,新生児がすでに身につけており, 3 歳頃,少
の展開―
なくとも学齢期までには一応ではあるが,ほぼ身につけ
てしまう。生まれたばかりの赤ん坊は,自己のテリトリ
1.テリトリー形成能力とは何か
ーを自力で形成する能力を持っているとは思われない。
初めのうちは目が焦点を結ばないようであるし,漠然と
ところで,動物やヒトを対象とするテリトリー研究は,
した広がりという空間認識しかないものと考えられる。
近年,精神医学や精神病理学によってテリトリーが個や
しかしそれでも,新生児にさえテリトリー形成を培って
集団に自然に備わるものではなく,しかるべき能力(ヒ
いく手立てのような,基礎能力は備わっているのである。
トの場合は,特にパーソナルスペース)に基づいて形成
それでは次に,外山を敷衍しながら20),子どもから大
されるものであることが解明されてきた。しかし,テリ
人(成人)へと進展するテリトリー形成能力のプロセス
トリーを形成する能力に関する発達段階についてはほと
と各発達画期の特徴について記述することにしたい。
んど解明されていない。そうした研究状況のなかでいち
2.子どもの発達と居場所の変容
早く,精神医学,精神病理学,動物行動学(エソロジー),
記号学,さらには家族療法などを通して人間のテリトリ
ーの学際研究を行った第一人者として外山知徳を挙げる
すでに,パーソナルスペースという主体サイドの空間
ことができる。しかも外山は,子どもの空間的発達に関
的発達の理路が明確化されたので,次に,主体(子ども)
しては発達心理学の知見を時間軸として活用しながら,
が成長発達していく舞台,すなわち家庭,地域,学校,
テリトリー形成能力の発達プロセスとでも呼ぶべき空間
社会といった客体サイドを視野に入れながら,子どもの
の発達モデルを体系的にまとめ上げた。そのモデルには,
行動空間の変移(拡がり)をみていくとともに,主体と
成人以後の空間的発達も含まれるということで,ここで
客体が交叉するドラマを活写したい。
はそれを特に,「テリトリー形成能力の生涯発達モデル」
1 )乳幼児期の子どもの居場所
と呼ぶことにしたい。そして,そのモデルを視覚化した
外山の表をあらかじめ掲示しておくことにする。それは
ところで,誕生直後の世界は,新生児にとってどのよ
表 1 となる 。
うな様相として立ち現れているのであろうか。それは恐
あらためて,「テリトリー」とは何かについて述べる
らく,自他は勿論,身体とモノの差異や区別すらない未
と,それは,個や集団が帰属することにより,心身の安
分化的な統一体として現出するというのが近い。表 1 に
定した生活を保証する精神的・社会的領域となる。従っ
記述されているように,新生児は「漠然とした空間の認
て,人間の発達の空間的表現としての「テリトリー形成
知」しかできない。生後まもない新生児は,個体空間さ
能力」とは,基本的に自己を特定の領域に帰属させるこ
え持っておらず,養育者(母親)の個体空間のなかにす
とで自己の安定を計ることができる能力であり,そのよ
っぽりと包み込まれている。ただこの時期,新生児にと
うな領域を形成できる能力だと定義できる。また,二次
って自らの身体の存在は,母親に依存していた胎生期の
的にはテリトリーの喪失や侵害に対する抵抗力,テリト
延長に過ぎず,いまだ自己の存在として認識されてはい
リーをどこにでも見出し,形成できる適応力もテリトリ
ない。授乳の期間中は,子どもが家族の文化的な精神世
ー形成能力に含めて考える必要がある。
界と交流し摂取していくにあたって,口唇が重要な媒体
それでは私たちは生まれてこの方,テリトリーをどの
となるが,それは養育者の胸に抱かれて乳を与えられる
ような手段や契機を介して形成していくのであろうか。
エロス的交歓の世界である。
それについては表 1 の 1 ∼ 5 に記述されている。
ただ,養育者とのかかわりは授乳を媒体とするもの
19)
には限定されない。たとえば,乳児が眠いというサイン
1 . 習慣づけられた信号や物
を出したら養育者はそれに応え,また,乳児がおしっこ
2 . 光・音・動き・触覚への興味に基づく運動
をしたというサインを出したら養育者がそれに応えると
10
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
表1 テリトリー形成能力の生涯発達モデル
11
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
いう具合に,母親が乳児の生得的な欲求を受けとめ,適
という,「 3 . 帰属性の確立を保証するものの存在」への
度の養育を行う。興味深いところでは,たとえば,生後
依存が根底にあり,それだけに親の感情や情緒的な状態
2 ヶ月の乳児は,12秒間,母親の乳を吸った後, 7 秒間
を読み取り(テリトリーを保証してくれる存在の感情の
休むというリズムを繰り返すという。この場合,乳児が
読み取り),それを忠実に自己の精神状態に反映する傾
なぜ休むのかというと,それは,乳児が吸った乳をうま
向がある。自力によるテリトリー形成が十分でない以上,
く消化できるように,母親が自分を揺さぶってくれるの
これは自己の安全を図る当然の手段である。その後,乳
21)
を待っているためだという 。この場合,「休みをとる」
児は,ハイハイなど自分で動き回れるようになると,そ
という乳児の行動は,母親に対するサインであり,原初
れまで養育者の力で移動していた空間を自分の力で動け
的な期待を対他的に表示したものである。
るようになる。歩行が可能になればさらに行動空間が広
こうした「乳児の欲求・期待−養育者の呼応(レスポ
がるが,それでもなお,養育者の存在なしでは自己を安
ンス)」は,あくまで確率的な次元で遂行される蓋然的
定させることができない。つまり,自分の行動空間の拡
な事柄である。授乳,おむつ交換,睡眠,抱っこなど日々,
張に養育者による安全確認が必要なのである。そして次
気が遠くなるほど何回も繰り返される「欲求−応答」の
第に,養育者の個体空間は自分が戻ってくる場所,拠点
相互作用が乳児と養育者のあいだでうまくいくかいかな
としての意味を持つようになる。行動空間が家庭から公
いかは,確率的次元の問題であり,その度重なる失敗は,
園など屋外に広がっていくと,住まいは子どもにとって
恐らく親子関係の破綻,最悪の場合,養育放棄などの幼
母親が必ずいる場所,養育者の個体空間が拡大されたも
児虐待につながる。裏返せば,ほとんどの家庭乳児の場
のとしての意味を持つようになる。つまり,住まいが一
合,そうした相互作用の反復がうまくいくことにより,
次的集団領域として認識され始めるのである。
養育者は存在の世話をする者として認識するに至り,そ
そして普段,遊びなれた場所で友だちができて,ゆる
の結果,乳児は養育者によって寝かされた場所,与えら
やかに二次的集団領域が形成される。友だち関係による
れた食物などが自己にとって安全であることを確証する
社会性の発達は,子ども自身の個体空間の形成を促す。
に至ると思われる。
幼児は,何度も友だちと一緒に遊ぶことを通して親密さ
こうして,乳児期は,子どもにとってテリトリー形成
を形成し,お互いの安全確認がなされるようになる。ま
能力の基礎を養う時期となる。乳児は,自分の存在の世
た,幼児期にはおもちゃの管理やテレビなどの節度のあ
話を純粋贈与として行う母親との信頼関係のもとに,こ
る見方,箸の使い方など日常的な行動様式や物の管理,
うした能力が充分育つ上で不可欠な,豊かな成育環境が
時間の管理のしつけが必要でもある。そして,それらは
付与されなければならない。つまり,それを外山を敷衍
人間関係の管理やコミュニケーションの発達とともに,
しつつ,表 1 のなかのテリトリー形成能力の契機に沿っ
いずれテリトリー形成のための重要な手段となる。
て述べると,新生児が抱かれたときに親の心音に安心す
幼児はこうした行動の機会を通して,自己の空間的存
る,あるいは話しかけてくれる親の声に安心するという
在を確認できるようになる。つまり,表 1 にも記述され
現象は,
「 1 . 習慣づけられた信号や物への依存」となる。
ているように,漠然とした空間に核のようなものが生じ
それは,体内での習慣によって親の心音や音声が表象と
る。その核の部分には一日のうちに何回も繰り返される
して形成され,その記号過程に依拠したテリトリー形成
摂食・睡眠・排泄という生命維持のための基本的な生活
として説明される。また同時に,親の声を聞き分けるこ
行為の習慣が担われる。こうした行動の反復が蓄積され
とは,「 5 . コミュニケーションの成立」によるテリトリ
る家庭空間は,子どもにとって安心できる第 2 の胎内な
ー形成への可能性を示している。実際,新生児から乳児
のである。ハイハイ,さらには自分で歩行ができるよう
期にかけての親とのコミュニケーション(応答)は,あ
になると,そこを拠点にしてテリトリーの拡張が開始さ
らゆる発達を支配する重要な契機なのである。
れる。特に, 1 歳を過ぎ,自分で歩行ができるようにな
新生児は,目が見えるようになると,
「 2 .(周囲の)光・
ってから後は, 2 階や庭,さらには近くの公園へとテリ
色・動き・触覚への興味」を示し,いずれ自分で動き回
トリーが目覚ましく拡張していくことになる。
れるようになったときのテリトリーの開拓のために重要
以上,外山のテリトリー形成能力の生涯発達モデルに
な役割を果たす感覚器官・運動器官の発達をはかるよう
全面的に依拠しながら,新生児や乳児から幼児へのテリ
になる。と同時に,それは握ることに慣れ,しゃぶるこ
トリー形成能力の発達過程についてみてきたが,次に,
とに慣れ,見慣れた玩具が情緒の安定をもたらすという
養育者(母親)との関係で捉えた乳児の精神発達を空間
新たな習慣形成に至る。乳幼児には親がいれば安心する
的イメージとして記述した,M . S . マーラーの「分離−
12
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
個体化」理論によって補足したい。
自分で帰ってくることもできるようになる。
ところで,マーラーは,生まれたばかりの乳児から 3
こうして,子どもからみて家庭空間は,核の拠点とし
歳頃までの幼児に至るあいだに,子どもがお母さんから
ての性格が強くなる。外山が強調するように,たとえば,
どのようなプロセスを経て自立していくのか空間的イメ
家を引っ越しする場合,その影響は如実に現れる。とい
ージを用いて記述した 。しかもマーラーは,乳幼児が
うのも,引っ越しはせっかく形成したテリトリーを根こ
母親像と自己像の区別をどのような理路を通して確立し
そぎ失い,核の形成からのやり直しを強いるからである。
ていくのかということ―分離の過程―と,乳幼児が
引越しによる,子どものテリトリーの消失は,以前の家
どのように母親像を内的に形成し,それを保持できるよ
庭空間の構造との違いが顕著であればあるほど,子ども
うになるのか,さらにこうした保持能力を持ち,この対
の負担はさらに大きくなると思われる。それは,幼児だ
象像と一貫したかかわりを持つことのできる恒常的な自
けでなく,小中学生にも当てはまる。しかし見方を換え
己を形成することができるのかということ―「個体化」
れば,それはテリトリー形成のやり直しに対する抵抗力・
の過程―を解明した。こうした「分離−個体化」の進
免疫力をつける良い機会でもあるがゆえに,一概に避け
展は,決して直線的な発達過程とはならず,対象との心
なければならないとはいえない。要は,テリトリーの著
理的な別れと再会の繰り返しのプロセスとなる。
しい変化に対処し得る,親の配慮(気遣い)こそ,肝要
そのプロセスを要約すると,次のようになる。①生後
なのである。
まもなくの,母子が未分化,二人で一人という世界の状
そして,これまで家庭を中心に行ってきたテリトリー
態,空間的イメージでいうと,共生球の段階,②生後数
形成は,学校という他人から成る,新たな社会のなかで
週間から数ヶ月までの,乳児が不快感をもった場合にの
テリトリーを形成することに応用される。
22)
みに生じる「内−外」の空間の区別および不快感解消後
2 )学童期の子どもの居場所
の共生状態への還帰,③生後, 4 ,5 ヶ月後の,緊密で
濃密な母子関係と共生球の持続,④生後 5 ヶ月から 9 ヶ
学童期に入ると,子どもは家庭や近隣・地域から離
月の,子どもの身体的能力の発達とそれに伴う母親との
れた学校社会という二次的集団領域に帰属するようにな
身体的密着状態からの脱出,子どもの母親へ能動的なか
る。ただ,学校社会は,実社会と比べてはるかに庇護さ
かわりおよび共生球の, 2 つの個体への細胞分裂,⑤同
れた社会でのテリトリー形成となる。子どもは小学校の
発達画期における母親への微笑み返しと他者への人見知
6 年間を通して学校での自らの居場所を形成していく。
り(R . A . スピッツのいう「 8 ヶ月不安」),⑥生後 8 ヶ
それは幼児期に体験した一次的集団領域と比べてはるか
月頃からの,ハイハイやつかまり立ちなどの一人歩きの
に拡張・拡大されたものとなる。しかも小学校での六年
開始や移動能力の習得に伴う,母親との物理的−心理的
間は,子どもにとって上の学校,さらには実社会でのテ
分離の練習,⑦生後 8 ヶ月から 1 年前後の,自立歩行に
リトリー形成の予行演習となる。また,テレビやラジオ
伴う行動範囲の飛躍的拡張と新しく獲得した世界への没
以外にも近年,成長の著しいIT,たとえばパソコンや
頭(世界との浮気),⑧生後 1 年( 1 歳)から 3 歳頃ま
インターネットなどにより,早い内から実社会という三
で続く,相手(母親)の独立性を承認した上での分離と
次的集団領域に対する認識が芽生え始める。とはいえ,
接近(再接近),となる。
学童期の子どもにとって空間的なレベルでの発達課題と
ところで,テリトリーの形成が本格的になるのは, 3
は,学校という二次的集団領域のなかで自分自身の居場
歳頃からである。この時期,子どもにとって自分の玩具
所を形成していくことにある。特に,学年ごと(または,
や絵本などの持ち物やモノを介した人間関係がテリトリ
隔年ごと)のクラス替えや席替え,ときには転校は,テ
ー形成に重要な位置を占めるようになる。養育者(母親)
リトリー形成するための試練となる。クラス替えは,い
によるしつけを通してモノの管理,人間関係の管理,時
ままで築いてきた学級関係や友だち関係がリセットさ
間の管理が始まるのもこの頃からである(「⑦モノ・人
れ,新しいクラスのなかで人間関係を最初から構築して
間関係・空間・時間・テリトリーの管理」)。それらは将
いかなければならないことを意味する。クラスでの人間
来に向けての,空間の管理,テリトリーの管理などの能
関係の失敗は,いじめにつながることさえある。そうし
力を育む第一歩となる。またこの頃,母親を介して近隣
たことと並行して,住まい(家庭)は,子どもにとって
に友だちができ,人間関係を介したテリトリー形成が促
自らの居場所として認識されるようになる。というのも,
進され,広域化してくる。幼稚園や保育所へ通うように
学校という二次的集団領域での人間関係が不確かなもの
なると,それは一層進み,近所へ一人で遊びに出かけ,
となるがゆえに,かえって子どもにとっては自らの存在
13
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
を無条件で承認してくれる家庭(住まい)が重要な意味
トリー形成のための練習の場となる(ただその反対に,
を帯びてくるからである。この点は,子どもの居場所を
ひきこもりになる場合もある)。前述したように,子ど
考える上で重要である。一見,矛盾しているようである
もの空間的自立を定義する場合,自分が成長発達してき
が,子どもが外へ向けてテリトリーを拡大すればするほ
た,家庭(住まい)というテリトリーから独立し,自力
ど,いつでも安心して帰ることのできる拠点(拠りどこ
で自己のテリトリーを築き,それを管理できている状態
ろ)として家庭(住まい)が濃密な意味を持つようにな
こそ真の意味で自立した状態だといえる。
るのである。この時期には,子どもの自己の個体空間は
4 )成人∼高齢者の居場所
ほぼ形成され,空間的自立まであと一歩であるといえる。
こうして,子どもは,小学校という異質な社会のなか
こうした思春期の試練を何とか乗り超えれば,子ども
でその子なりのテリトリー形成を行い,家庭以外にも自
は家庭を離れて自力で自己のテリトリー形成ができるよ
らの居場所を築いていくことになる。そのことがスムー
うになる。パーソナルスペースの拡大と縮小といった自
スにいくためにも,子どもは家庭のなかに安定した自分
由自在の操作およびその管理能力の習得こそ,一人前の
の居場所を確保することが先決となる。裏返せば,子ど
大人(自立した成人)になることを意味する。ところが,
もが二次的集団領域で居場所を形成できない場合は,学
このあとさらに,実社会(社縁組織)でのテリトリー形
校への適応や人間関係の改善に向かうのではなく,かえ
成に加えて,配偶者と 2 人で共通のテリトリーを形成す
って家庭がテリトリー形成の拠点であるという原点に立
る結婚,そして子どもを育てるのに充分なテリトリーを
ち返り,家庭に安定した居場所を築くことが必要なので
形成する家庭づくりといった課題がある。他人と一緒に
ある。
暮らすこと,すなわち家庭という集団としてのテリトリ
ー形成ができなければならない。成人してからも数々の
3 )思春期の子どもの居場所
試練は,まだまだ続くのである。
学童期から前思春期を経て思春期に入ると,子どもに
こうしたテリトリー形成能力の発達のなかには,さら
とって自らの個体空間は,家庭のなかでも強度にかつ過
に,拡散・重層化したテリトリーをどこまで自己管理で
剰に意識され始める。一例を挙げて説明すると,前思春
きるかという社会人としての試練もある。ここでいう拡
期から思春期にかけて著しい性的発達(生殖能力の発達)
散・重層化したテリトリーにおける自己管理とは,さま
が起こるにもかかわらず,自分で食べていくこと,ひと
ざまな状況(テリトリー)に応じてその都度役割を使い
を食べさせていくことがまだ困難であるがゆえに,依然
分け,こなすことのできる複数の自分を自ら管理するこ
として家族への依存度が続くという矛盾を引き起こして
とを意味する。たとえば家庭では父親,会社では上司,
しまう。平たくいうと,子どもは,自立心を強く願望す
自治会では班長等々というように,である。
るその一方で,これまでと同じように,親にみてもらい
そして,高齢期になると,自分のテリトリーはかなり
たいという依存心もまだ残っているのである。親の目を
縮小してしまう。その際,テリトリーの縮小がもたらす
期待しながら,親の目を拒絶するというアンビバレント
不安と恐怖にどのように向き合うのかということが,そ
な心境が思春期のテリトリー形成の試練となる。
の後の人生の課題となる。テリトリーの衰退と消滅は,
そのため,自分という存在が強く(過剰に)意識され
社会からの「隠退=死」のみならず,人生の老い,さら
るようになるその一方で,今まで一体であったはずの家
には本当の死をも意味するのである。
族との精神的距離をとり始める。このとき,自己にとっ
それでは次に,以上述べてきた「テリトリー形成能力
て家族は急に他人のように感じられる。その結果,家族
の成長発達モデル」に準拠しながら,調査研究を通して
との物理的,精神的距離をとるために,子どもは個体空
得たデータによって肉づけしていきたい。ここで調査研
間の必要性を感じるようになる。つまり,親の管理下を
究というのは, 2 種類ある。 1 つは,大都市圏に暮らす
離れて独自のテリトリー形成をしたいという願望が出て
いまの子どもたち(小学校 4 ∼ 6 年生)がどこを「居場
くる。ところが,個体空間のコントロールがうまくでき
所」と考えているのか,そしてその「居場所」を絵で表
ないために,大半の子どもは精神的に不安定になる。そ
現したのか,それとも言葉で表現したのかなどについて
の不安定な個体空間を強化したいという無意識の欲求か
調査したものである。本調査研究は,学童期の子どもた
ら,思春期には住まいのなかに自室を強く求めるように
ちにとって「居場所」とはどのようなものかを彼ら自身
なるといえる。ただ,この時期に与えられた部屋は,将来,
が絵または言葉によってイメージ表現(絵の場合は形象,
親の住まいというテリトリーから離脱し,独立したテリ
言葉の場合は表象)したものを手がかりに分析していく
14
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
ことを目的としている。
表2 子どもの「居場所」(基礎集計)
もう 1 つは,いまの大学生が過去の自分自身(幼児期,
学童期,思春期)の歩みをその人なりに想起して,「私」
という一人称で語ってもらう調査である。いわゆる,想
起と語りによる質的調査研究である。その調査を実施す
るにあたって,「回想法23)」を手がかりとした。そして,
被験者にはあらかじめ,表 1 のテリトリー形成能力の成
長発達モデルを説明した上で,それに準拠しながら自己
グラフ1 子どもの「居場所」(基礎集計)
経験を想起・回想し,自己語りをしてもらった。また,
そうした自己語りを行ってもらうにあたって,キーパー
ソンあるいは重要なモノやコトを挙げるよう指示した。
被験者は,大阪市内の大学の学生 1 ∼ 4 回生,211名(有
効回答数)である。ここでは紙数の関係上,そのデータ
群の内,最も卓越した,想起に基づく自己語りを 1 つだ
け例示することにした(なお,ここで提示するデータに
ついては当該の学生に協力してもらい,さらに詳細なデ
ータを追加した)。
Ⅲ.調査を通してみた子どもたちの「居場所」
の19.2% である。本調査は,大都市圏に暮らす子どもた
―表現形式に着目して―
ちだけを対象に実施したため,当初,「自然」を「居場
所」と答える子どもを想定しなかった。それだけにこれ
本調査は,2004年,大阪市および東京都の小学校 4 ∼
ほどの人数の子どもたちが「自然」を「居場所」だと答
6 年生,総計1436名を対象に実施し,その内,386名か
えたのは,予想外のことであった。それに比べて,近く
ら有効回答を得た(有効回答率,26.9%)。なお,本調
の公園や身近な学校を「居場所」と答えた子どもたちは,
査の有効回答率が低かったのは,小学校などで実施した
386名中19名で,全体の4.9%ときわめて少なかった。た
場合,調査時間の制約や諸事情のため,子どもたちが回
だ,「家」を「居場所」と答えた子どもたちのなかの15
答するのに充分な時間が与えられなかったことや,「居
名は,(「家」以外に)「学校・教室」も「居場所」とし
場所」について子どもたちの多くが明確なイメージを持
て挙げている。また,「動作・時間」と答えた子どもた
てず,回答できなかった可能性などが挙げられる。
ちは,386名中15名,全体の3.9%いた。ただ,「寝てい
さて,本調査結果を単純集計した結果,386名の子ど
る時」「友だちと遊んでいる時」等々というように,「∼
もたちの「居場所」は,次のようになった。
している時」という回答の仕方は,「居場所」が空間的
表 2 および(それを視覚化した)グラフ 1 に示される
な概念であることから適切なものとはいえない。「∼し
ように,子どもたちは自分自身の「居場所」として主に,
ている時」という答え方は,恐らく子どもたちにとって
「家」,「自然」,「公園」,「学校」,「施設・建物」,「動作・
自分自身のそのときの心情を示すものであろうが―た
時間」と答えている(なお,表 2 では,類似したカテゴ
とえば,「寝ている時」は「リラックスできて気持ちが
リーをまとめて表記した)。
落ちつく」,「友だちと遊んでいるとき」は「ウキウキし
表 2 およびグラフ 1 からわかるように,なかでも「家」
て楽しい」など―,それは明らかに「居場所」とは異
を「居場所」と答えた子どもたちは,386名中272名で,
なる。むしろそれは,前述した「こころの居場所」とい
全体の70.4%と圧倒的に多い。小学校高学年という発達
うパーソナルな意味合いが強いのではなかろうか。いま
画期(学童期)にある子どもたちにとって「居場所」が「家」
の子どもたちは,自らの心情を表すセラピー語として「居
であることは,前述したテリトリー形成能力の成長発達
場所」という言葉を使用していると考えられる。
モデルと照合してもしごく妥当なものである。この場合
以上,「居場所」に関する子どもたちの回答をカテゴ
の「家」は,主に自宅であるが,なかにはおばあちゃん
リー別に分類したが,次に,彼らがその回答を「絵」で
の家や友だちの家と答えた子どももいる。
表したか,「言葉」で表したかを表 3 , 表 4 およびグラフ
次に多いのは,「自然」であり,386名中74名で,全体
2 で示した。なお,その際,
「家」のカテゴリーを「家の
15
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
張されている。そのことは,いまの子どもたちが自己表
表3 表現形式(「絵」/「言葉」)の違いに基づく
カテゴリー別集計(実数) 現を愛着のあるモノ(グッズ)を通して行うことを端的
に示している。持ちもの(モノ)は,子どもたちにとっ
て自分らしさ(自分の個性)を表す媒体なのである。彼
らが絵で表現するのは,言葉で表すことができなかった
り,言葉(による表現)では物足りなさを感じたりする
ときであろう。表 4 をみる限り,「絵」の割合が「言葉」
の割合を上回るのは,
「モノ」だけということを考えても,
いかにいまの子どもたちは「モノ語り」を好むかがわか
る。反面,小学生くらいならば生き生きと絵で描くこと
グラフ2 表現形式(「絵」/「言葉」)の違いに基づく
カテゴリー別集計(実数) が予想された「家」の場合,90.2%の子どもたちが言葉
のみで表現したことは,恐らく,彼らにとって「家」が
単なる「器」になっているからであろう。その点,
「家族」
の場合は,
「絵」と「言葉」の割合が39.1%対60.9%であ
ることから―少数であるとはいえ―,(それを描い
た)子どもたちにとって愛着の対象であることが推測で
きる。
表 4 で興味深いのは,
「自然」に関しての,
「絵」と「言葉」
の割合である。それは,45.9%と54.1%でほぼ同率であ
る(人数では表 3 のように,34名対40名である)。その
表4 表現形式(「絵」/「言葉」)の違いに基づく
カテゴリー別集計(%) ことは,前述したことを引き合いに出すと,大都市圏に
住む一部の子どもたちにとって「自然」は愛着または憧
憬の対象である。後で記載するように,「自然」を「居
場所」とし,「絵」で表現した子どもたちは,他の「絵」
による回答と比べて丁寧かつ生き生きとしたものが多か
った。その「絵」から,子どもたちの「自然」への愛着
やあこがれが伝わってくる。本調査は,子どもたちに「居
場所」を「絵」または「言葉」で描く/書くという曖昧
な課題を与えたのであるが,その理由は,表現媒体の違
み」(主に,家の外形)と,
(家のなかの)「部屋」,
「モノ」,
「家族」の 4 つに分けた。
いによって彼らの対象へのかかわり方やそのときの心理
的距離が異なると考えたからである。そのことを象徴し
実数を示した,表 3 およびグラフ 2 をみると,どのカ
ているのが,この「自然」への反応なのである。それ以
テゴリーにおいても「絵」よりも「言葉」で表現した数
外のカテゴリーでは特に,注目すべき結果はみられなか
が多くなっている。各々のカテゴリーについて「絵」と
った。
「言葉」の割合を示した表 4 からわかるように,その比
そして,本調査で明らかになった,各々のカテゴリー
が「家」では28.7%対71.3%,「自然」では45.9%対54.1
毎(別)の基礎集計は,紙数の都合上,割愛したい。そ
%,「公園・学校・施設」では21.0%対79.0%,「動作・
のデータの一部を紹介すると,たとえば,「家のみ」あ
時間」では13.3%対86.7%となっている。「家」について
るいは「家とそれ以外」と回答した子どもたちのなかに
は,予想外に言葉だけで表現した子どもの割合が高い。
は「プール」や「塾」など複数回答した者が多くいた。「家」
ただ,「(家のなかにある)モノ」を通して「家」を表現
を「絵」で表現した上で,その横に「言葉」で「学校」
「教室」
した子どもたちの場合に限って,「絵」と「言葉」の割
と書く場合など,子どもたちにとって「居場所」を 1 つ
合が66.7%対33.3%となっていて,それ以外の「家のみ」
に特定するのは困難なようである。しかも,複数回答さ
「部屋」「家族」とは反対の傾向となっている。この場合
れたものをみると,個々人によってバラバラであるため,
の「モノ」とはたとえば「テレビ」や「ポスター」とい
本調査結果は,
「家」(「家のみ」,
「部屋」,
「モノ」,
「家族」
うように,子どもたちにとって愛着のあるモノにまで拡
というサブカテゴリー),「自然」,「公園」,「学校」,「施
16
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
設・建物」,「動作・時間」,「その他」というカテゴリー
―これらは,過去について語るときよくいわれる言葉
を基準に分類したのである。
である。
しかし,後者のアプローチに立って考えるならば,過
Ⅳ.「私の」テリトリー形成能力の発達過程と
自己形成空間の原型
去は決して取り返しのつかない不可逆的な時間ではなく
なる。過去を言語化し,自分がいま,体験している「生
きられる時間」のなかにそれを位置づけてみること―
1.想起という方法
そうすることによって過去は現在の私たちのなかに生
き,そして私たちの未来にも意味をもたらし得るものと
一般的に,過去を想起する(思い起こす)という場合,
なるであろう。まさにそのことに過去の自己経験を想起
想起されたものをどう捉えるかについておおよそ 2 つの
する意義があるものと考えられる。
考え方がある。 1 つ目は,「心理主義」的アプローチと
2.「私」のテリトリー形成能力の発達過程
いうべきものである。それは想起され,記述されたもの
は当事者(=自己自身)が過去を 1 つひとつ忠実に再現
した結果だと考えるものである。たとえば,
「A→B→C」
ここでは,前述した「レシ」,すなわち想起的記憶の
という記述があれば,「ああ,この人はAがあってBと
立場に立ちながら,(被験者としての)「私」のテリトリ
いうことを経験してCと感じたのだな」とその通り受け
ー形成能力の発達の軌跡について記述していくことにし
取ることができる。この場合,記述されたものは過去の
たい。なお,テリトリー形成能力とは,前述したように,
具体的事実(そこに感情面が織り込まれていることも含
自己を特定の領域に帰属させ,自己の安定を図れる能力,
めて)の累積と見なすことができるがゆえに,当事者だ
そしてそうした領域を形成できる能力を意味する。以下
けでなく第三者もそれを客観的に読み取り,正確に理解
の記録は,被験者である大阪市内の女子学生(21歳)が
することができる。つまり,他人もその当事者の過去そ
過去の自分の生育史を述懐したものである。その語りは,
のものをそのまま追体験できるというわけである。
テリトリー形成能力の発達過程に即しているが,調査者
もう 1 つは,「歴史=心理」的アプローチである。こ
自身による加工(修正や加筆など)は施されていない。
れは前の「心理主義」的アプローチとは異なり,自己経
1)0 ∼ 3歳
験を通じて記述されたものは,「現在の」当事者(=自
己自身)が「語り(レシ)24)」によって記憶していた「過
この頃の「私」の家は,大阪市内の高層団地の一室に
去の」自分の空間行動をまったく別の新しい「物語」と
あった。そこがどんな感じであったか,いまはもうほと
して作り出したものであると考えるものである。レシと
んど記憶にないが,空に向かって高層団地群がそびえて
は,テープレコーダーのように,過去に記憶(記録)し
いる様子や団地の薄暗い廊下,玄関の重い扉などはなん
たことを機械的に再生する行為ではなく,記憶した事
となく覚えている。ここでの「私」の行動範囲といえば,
柄(過去のできごと)を素材としながらも,それを現在
専ら自分の家と,同じ団地内の友だちの○○ちゃん,△
においてまったく新しく作り変える(加工する)想起的
△ちゃんち,そして団地の廊下くらいであった。特に,
記憶である。従って,過去の記憶として「私」が想起し
団地の廊下はわりと広く,「私」たちの重要な遊び場で,
たものは「今の自分から見た」過去であって,「私」は
友だち 2 ,3 人と三輪車を乗り回したりテレビに出てく
まさにそのときを生きていた過去そのものではないとい
るヒーローごっこをして走り回ったりしたものである。
うことになるがゆえに,第三者が記述されたものをどれ
ときどき親に連れられて外の公園に遊びに行ったりもし
ほど読み込もうとも「私」の「過去」を理解し,共有す
たが,自分の家が 9 階にあったせいか,まだ小さかった
ることはできない。さらにいえば,過去の 1 つひとつの
「私」には 1 階に降りるまでの距離がものすごく遠く思
断片は,レシによって「物語」として語られるとき初め
われ,「団地の外に出る」ということに新鮮さと軽い不
て,
「記憶」たり得るともいえる。過去(についての記憶)
安を感じていたように思う。自分の自由に動ける安全な
とは,言葉によって意識化され,制作されたものなので
世界は,団地のなかの自分の家や廊下であり,団地の外
ある。その意味では過去の事実をすべて元通りの形につ
は自分とかかわりのない別世界のように考えていたのか
なげることしかできない者は記憶を持たないのと同じで
も知れない。
ある。「振り返ったとしても過ぎ去った時間はかえらな
い」「今さら自分の過去をほじくり返しても始まらない」
17
( )
2 )幼稚園の頃
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
幼稚園に上がる直前の春に大阪の郊外にある現在のマ
えば,せっかくの机で落ち着いて何かをするよりも外で
ンションに引っ越してきた。そして,一応ベッドの置い
遊びほうけていた記憶しかない。マンションの公園,駐
てある部屋が「私」たち兄弟の子ども部屋ということに
車場,そして消防車進入路―ここはアスファルト敷き
なったようだが,「私」はとりたてて「自分たちの部屋」
でありながら普段は人通りも少なく車も通らない格好の
というように意識したことはなかったように思う。それ
遊び場だった―での中当て,ドッジボール,サッカー,
よりも大事だったのは宝物入れの引き出しであった。本
ゴムとび,ケンケンパ,ブランコ遊び。マンションのご
棚の小さな引き出しの 1 つが「私」の専用になっており,
み置き場でもよく遊んだ。私たちの背丈よりいくぶん高
そこに自分の大事なもの―たとえば,ビー玉,おは
いコンクリートの塀に囲まれた割と広い空間で,そこに
じき,鳥の羽,チョーク石,練り消しなど―をしまい
引かれている水道で水遊びをしたり,塀の上によじ昇っ
こんでいた。親に「そんながらくた,もう捨ててしまい
てじゃんけんゲームをしたりおしゃべりしたりしていた
なさい」などといわれてむっとしたこともあった。「私」
ものである。塀の上で足をぶらぶらさせながら腰掛けて
の宝物が否定されるということは,その当時の「私」の
いると風が心地よく感じられ,椅子に座っているのとは
価値観が否定されるということであるし,また「私のモ
全然違う解放感があり気持ち良かった。その他にも鬼ご
ノ」にいちいち,口出ししないでほしいというプライバ
っこ,高おに,氷おに,たんどう,隠れんぼなどをして
シーの意識も芽生えつつあったためかも知れない。それ
マンションの敷地内のあらゆる所を逃げ,隠れ,走り回
からもう 1 つ「私」にとって大切な空間があった。それ
り,ときには今から思うと迷惑なことだったろうが,よ
はただでさえ薄暗い北の部屋の隅の,本棚と壁の間の空
そのマンションまで遊び場にしたこともある。また,マ
間で,「私」一人がちょうどすっぽりおさまるくらいの
ンションからちょっと離れたところ―近所の公園,田
狭いスペースだった。よく本などを読んだりして「そん
んぼ,工事現場の跡地など―で遊ぶことも多くなった。
な暗い所で読むな」と叱られたが,なぜか居心地がよく,
そうして遊び惚けて,やがて遊びに飽きたり疲れたりす
小学生になっても何度かここに座り込んでいた記憶があ
ると,
「私」たちはよく近所の自転車屋さんにお邪魔した。
る。なぜそこがそんなに気に入っていたのかよくわから
そこで売っているアイスキャンディーを買って涼みなが
ないが,他の家人の目につきにくいこと,自分一人しか
ら食べたり,店の奥の椅子に座らせてもらっておじさん
入れない狭さ,つまり他人が入って来れないということ
としゃべったり,段ボールをもらってそれで遊んだりし
が「自分の空間だ」という安心感につながっていたのだ
た。穴の空いたボールの修繕などもよくやってもらった
ろう。
ものである。そこは当時の「私」たちにとって居心地の
さて,家の引っ越しに加えて生活環境に大きな影響を
良い一種のたまり場といえるものだったのではないか。
及ぼしたのは幼稚園への入学であった。もともと引っ込
さて,この頃の「私」は自分の行動範囲を自分の家を
み思案で人見知りの激しかった「私」は,幼稚園での集
拠点とする 1 つの大きな「場」として捉えていたように
団生活に最初なじみにくかった。友だちがちょっかいを
思う。そこにはいつもの自分の遊び場や小学校などが入
出してくるのを「いじめられた」と勘違いし,園長室に
っていたが,はっきりした境界はなくともなんとなく,
逃げこんだこともあった。いまから思えば,そこは「私」 「このあたりは私のテリトリー」,「ここより向こうは私
にとって幼稚園という公のなかにあって甘えの許される
のテリトリーではない」と区別する感覚があった,テ
「私」の部分を含んだあいまいな空間ではなかったかと
リトリーのなかでは安心していられるけれども,その外
思う。そういう場を持ちながら,だんだんと「私」は初
に行くと漠然とした違和感や不安を感じていたように思
めての集団生活に慣れていった。そして,同じ幼稚園に
う。
通う近所の友だちとマンション内の公園等で遊ぶことが
4 )小学校高学年の頃
次第に多くなっていった。
小学校低学年の頃は,主に同じマンション群の―い
3 )小学校低学年の頃
わゆる近所の―友だち(同じ学校に通っている)やそ
小学校に上がると親が学習机を買ってくれた。それま
の兄弟と一緒に遊んでいたが,高学年になるとクラスの
での「本棚の引き出し」に比べ,「自分だけのスペース」
友だちとも遊ぶことが増えてきた。勿論,今までの遊び
がさらに広がったことはやはり嬉しいものだった。これ
場でもあいかわらず遊んでいたが,家の離れたクラスの
によって家のなか,特に子ども部屋における自分の核と
友だちと遊ぶために学校が第 2 の拠点として重要な場所
なる居場所ができた気がする。しかし,この頃の私とい
になってきた。そこで待ち合わせをしてどこかへ行った
18
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
り,校庭で遊んだりした。また,いろんなことを友だち
うにそこらへんで体を動かして遊ぶということがほとん
同士でしゃべるということが楽しくなり始めたのもこの
どなくなった。それに代わってボーリング,カラオケ,
頃からである。公園でひとしきり体を動かして遊んだら,
ゲームセンター,遊園地などに行ったり,ウィンドーシ
近くの店でお菓子を買ってきて公園の遊具の上に腰掛け
ョッピングをしたり,ファーストフード店でおしゃべり
て食べながらしゃべる。家に友だちを呼んできても,以
をしたりと自転車や電車でどこかに出かけていってお金
前のように家のなかで隠れんぼやお絵かきをしたりシー
を出して遊ぶことが主流になった。こうした傾向は小学
ル交換やゲームに終始したりするのではなく,その合間
校高学年のころから少しずつ現れてきていたのだが,中
合間に話に花を咲かせる。話のなかには,あまり親に聞
学・高校時代から特に顕著になった。そのように遊び場
かれたくない内容や言葉が出てくることもある。そうな
が変わってくると自分の行動範囲の捉え方も変わってき
ると極力自分の部屋に閉じこもって遊ぶとか,親のいな
た。以前は自分の家を含む大きな「場」として捉えてい
いときに友だちを連れてくるなど,自室の存在やプライ
たが,それが自分の家とあちこちに散在する遊び場―
バシーをかなり意識するようになってきた。そうなって
行きつけのお店や商店街など―を個々の「点」として
くると友だちの選び方にも変化がでてくる。みんなで何
捉えるようになった。目的地までの道筋は,家という「点」
か同じことをやっている時にはその共通の行為が一人ひ
と目的地の「点」を結ぶ「線」である。行動範囲を「場」
とりを結びつけてくれるので誰と一緒であろうがあまり
と感じていたときは,そのなかのあらゆる場所について
気にならないが,しゃべるとか話すとかいう行為は一人
はっきりした認識があり,位置関係も把握していて,ど
ひとりの個性や考え方,性格がもろに出てくるので誰と
こにいてもどうしてでも目指す場所に行き着くことがで
でもいいというわけにはいかない。従って,ただなんと
きた。しかし,
「点」として見るようになると,個々の「点」
なく近くにいていつでも一緒に遊べる友だちから,しゃ
と「点」のあいだにはつながりがあることもないことも
べっていて楽しい,自分と気の合う友だちへと友だちに
ある。「点」についての認識はあるが,そこから少し離
なる上でその子の性格や人柄を重視するようになってい
れた空間,あるいは「点」と家との間の空間については
った。
ほとんど知らないというようになった。そうなると,い
ろいろな目的地に出かけて行って,そして帰ってくる帰
5 )中学・高校の頃
港地としての「家」の存在が自分のなかで重要性を増し
高校受験の頃かそれとも高校に入ってからかちょっ
てくるようになった。
とよく覚えていないが,いずれにせよ,この頃から兄弟
6 )大学の頃
共用の部屋から自分だけの個室になったように思う。親
がゆっくり勉強できるよう計らってくれたわけである
基本的には中学・高校の頃と大した変わりはない。行
が,一人部屋になったとはいえ,確かに兄弟がいない分
動範囲がさらに広がった―つまり,「点」の数やそこ
静かにはなったものの,完全にプライバシーが保てるよ
までの距離が増えた―くらいのものだろう。しかし,
うになったとはいいがたい。というのも私の部屋のたん
大学に通うようになって思ったことは「自分の居場所が
すや本棚には自分のものと一緒に親の本や書類も入って
みつかりにくい」ということである。高校までのように,
いたし,電気の配線の都合でテレビもひとつ置いてあり,
自分の教室や自分の机があるわけでなく,クラブやサー
ベランダへ出る通り道にもなっていたからである。その
クルにでも入っていないと空き時間をつぶすのに腰を落
上,部屋の入り口はドアでなくふすまであったから,家
ち着ける所もない。図書館や食堂,空き教室でくつろぐ
族は別にノックすることもなく必要に応じて私の部屋に
といっても時間的,雰囲気的に限界がある。いつでも気
自由に出入りしていた。このように,中途半端な自室で
楽に誰でも立ち寄れてめいめい好きなことのできる空間
あっても別段困ることがなかったからか,あるいはマン
をもっと作ってもいいのではないだろうかと思う。
ションだから仕方がないと諦めていたのかあまり気にな
らなかった。そういう状況に慣れてしまったので,いま
ではもしかするとかえって完璧に自分のプライバシーを
3.「たまり場」の原型としての子ども時代の 遊び空間と「ハーメルンの笛吹き男」
守れるような「100%自分だけの部屋」の方が落ち着か
ないかも知れない。
(被験者としての)「私」のテリトリー形成史をデータ
さて,この頃になると,今まで遊んでいたようなとこ
とし,それをまとめると,次の表 5 のようになる。
ろはガキっぽいという意識が出てきて,小学校時代のよ
表 5 からわかるように,「私」にとっての空間的成長・
19
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
発達のピークは, 6 ∼ 9 歳頃に訪れたのではないかと考
き,その段階でしばらく同じことを繰り返す安定期とが
えられる。というのも,この時期の記述が他の時期に比
交互に訪れてくるのである。
べて非常に多くなっているからである。そのことはそれ
しかし,安定期は決して無駄な時間ではない。安定・
だけ,空間の広がりが著しかったことを示している。「空
反復期は,そこで自分を確認し,次のステップに向かう
間の発達は普通 9 ∼ 10歳くらいに終わる」という一般
力を蓄えるために必要な充電期間なのである。また,プ
的な見解と比較しても,「私」の空間発達は平均的な成
ライベートな空間の発達についていえば,「私」にとっ
長を遂げているといえる。逆に,記述が少ない所―た
て学習机の存在は非常に重要である。これによって幼稚
とえば10 ∼ 11歳,18歳∼現在など―では空間的成長・
園時代,分離していた自分の居場所(子ども部屋)と自
発達が安定していることがわかる。
分の物の管理場所(本棚の引き出し)が 1 つになり,親
裏返せば,そのことは,空間的成長発達のマンネリ化
の目を気にしながら,自分の物を出し入れする必要がな
を表している。この頃,もう自分のなかで空間について
くなった。家のなかの他の空間や家具とは異なり,この
のある程度の認識や位置づけができあがっており,これ
机だけは「100%自分の物だ」といい切ることができる
以上空間を広げたり,新たな空間を発見したりすること
唯一のものであった。そして,現在に至ってもそれは変
に興味がなくなってしまっている。それは,空間という
わらない。自分の個室が与えられたとはいえ,前述のよ
ものに飽きたためと思われる。空間発達に限らず,あら
うに,ほとんどプライバシーを保つことができない空間
ゆる成長は常にゆるやかな右肩上がりでなされていくも
でしかないわけで,家の人が勝手に私の部屋に入ってき
のではない。急激な伸びを示す成長期と,伸びが落ち着
てタンスや本棚に触れていてもあまり気にならない。し
かし,「自分の机」だけは別格である。どうやら,私の
表5 「私の」テリトリー空間の変遷
プライベートな空間の発達はここで止まっているようで
ある。
さて,こうした「私」のテリトリー形成史のなかで少
し変わっているのが「園長室」と「近所の自転車屋さん」
である。ここでは他の遊び場や居場所と違って,隣人な
がらもあくまで“よその人”という両義的な大人が介在
してきている。しかも「園長室」は,必要にせまられて
行かざるを得なかったという経緯があるが,「近所の自
転車屋さん」については自発的に出入りしているのであ
る。一体何がその自転車屋さんに足を向けさせたのだろ
うか。そのことを考える上で次のことが手がかりになる。
ところで,絵本や挿絵の世界に独自の新たな領域を開
拓した画家,安野光雅が長年の田舎や都会の小学校での
美術教育の経験をもとに「粘土やさんのこと」と題する
興味深い回想記を執筆している25)。以下,それを敷衍し
たい。
安野は昔,武蔵野市の小学校で美術の先生をし,美術
教育に熱心に取り組んでいた。そのときのことを次のよ
うに述懐している。「図工室では子どもたちに,絵を描
かせたり,粘土でゾウやキリンを作ったりさせた。ぐに
ゃぐにゃの粘土で,足や首の細いキリンを作るときは,
芯を入れるなどしたが,面倒なぶんだけたのしさも大き
いだろうと思われた。その頃は,絵でも工作でもかなり
研究的にまじめな仕事をやっていたつもりである。」,と。
そうしたある日,学校のひける頃を見計らうように校
門の前で粘土やさんが店開きをしていた。そこで売られ
ている素焼きの型と粘土,金銀の粉を買い,粘土を型に
20
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
押し込んで形を作り,そこに金銀の粉をふりかけてでき
ちこちで駄菓子を売りながら,「黄金バット」を「上演」
あがり,という至極他愛のない遊びを商売にしているの
していた紙芝居屋のおじさん,透明な水飴を割り箸でぐ
である。型は同じであるから「ちょうどあの鯛やきのよ
るぐるこねまわしていかに白く伸びのあるものにできる
うに,自動車でもスーパーマンでも,ライオンでも,型
かを採点してくれた水あめ売りのおじさん,飴や食紅な
のありようにしたがって,即座に,しかも誰がやっても
どを使ってかわいらしい人形や動物を見事に作り上げる
同じものができる」わけである。
しんこ細工売りのおじさん……。一昔前,いろいろな大
しかし,学校の帰りにそれを見つけた子どもたちは,
人たちが子どもたちの周りにいた。そして,昭和40年代
家でお小遣いをもらい飛んで戻ってくる。そして,道ば
になると,今度は学校の裏門―正門ではない―近く
たに座りこんで「もし授業中だったら,先生がそばに来
の空き地などに「針金鉄砲」のおじさんが現れたという。
たことが,後ろに目があるほどにもわかるのに,黄金仮
おじさんは巧みに針金を曲げ,伸ばし,よじって子ども
面を作っている彼らには,傍らに立っている私の存在な
たちの目の前で次々と「鉄砲」を完成させていった。そ
ど目にも入らぬほど夢中になって」作業に取り組むので
の手の動きもさることながら,その際繰り出されるユー
ある。「あれほどたのしく粘土でキリンを作ったはずの
モアあふれる口上は買う気のない子どもさえ足止めをさ
子どもたちは一体どこへ行ったのだろう。それほど彼ら
せた。そして,器用な子どもが作った作品よりもはるか
を夢中にさせる,大道の粘土やさんをうらやみ,悲しい
に見栄えが良く,性能の良い―弾(輪ゴム)のよく飛
とさえ思った。」そうして「作品」ができあがると,子
ぶ―「鉄砲」は,子どもたちの尊敬を集めるのに充分
どもたちはそれを粘土やのおじさんに見せて点をつけて
であった。その「鉄砲」の売買をめぐっておじさんと子
もらうのである。同じ型で作ったので,みんな同点にな
どもたちのあいだでなされるやりとりや,子ども同士の
るはずにもかかわらず,個々人によってその点数が異な
「鉄砲相場」に関する情報交換の様子などは,まったく
るのである。子どもたちはきっと金や銀の粉の使い方が
大人の取引市場さながらのものであった。
まずいのだな,と考え,さらに粉をふりかけるなどして
しかし,こうした子どもの関心や興味を引きつけ,そ
一生懸命点を稼ぐ。それが何十点か貯まると,賞品とし
こかしこに子どものたまり場を作り出した遊行・遊芸の
て自分の顔ほどもある般若の面がもらえるのである。
「こ
放浪者たちは,いつしか時代の波に追われるように姿を
のありさまを見て,私は深く反省はしましたがどうする
消してしまった。彼らはグリム童話に出てくる「ハーメ
こともできなかった。それが教育的であるかどうかは別
ルンの笛吹き男」の現代版ではなかったか。まるで自分
として,同じ粘土あそびで,魂をうばわれるほど夢中に
を排斥した現代に報復するべく,背後に無数に遊ぶかつ
なったのは,明らかに粘土やさんの型押しの方だったの
ての子どもたちの影を従えて,何処ともなく消えていっ
である。」「先生といっしょにやることは,教えられるこ
たのである。
と命ぜられることばかりで,たとえ遊びでも,遊びを教
このようにみると,(前述した被験者としての)「私」
わっているにすぎない。それらは自ら進んで遊んでいる
にとって「自転車屋さん」は,かつての「粘土屋さん」
のではなく,遊ばされているのであることを鋭敏に感じ
や「針金鉄砲」のおじさんと少し趣は違うが似たような
ているのである。」
雰囲気を持つ存在だったのではなかろうか。無論,「自
安野は,この回想記のなかで,同じ遊びであっても「先
転車屋のおじさん」の場合は何か子どもの興味を引くよ
生」という大人が「指導」する「教育くさい遊び」と,
うなことを商売にしていたわけではない。けれどもそこ
子どもたちが自発的に楽しんでする「遊び」との間には
には,子どもを引きつける何かがあったといえよう。い
越え難い深い溝が横たわっていることを述べている。
「粘
まから冷静に考えると,その魅力的な何かとは,夏の暑
土屋のおじさん」は公教育に携わる学校の先生ほどフォ
い日に汗をかいて遊んだ後の店の冷房やアイスキャンデ
ーマルではなく,かといって自分や友だちの親たちほど
ーだったかも知れないし,店に並んでいるカラフルで格
プライベートでもない中間的な存在である。そんな大人
好いい自転車だったかも知れない。段ボールが欲しくて
のいるあいまいな,どっちつかずの空間が,子どもたち
行ったこともあれば,遊びが一段落して手持ち無沙汰な
にとってはかえって気楽に自分を出して遊ぶことのでき
とき何となしにぶらりと立ち寄ることも多かった。また,
る居心地のいい場所となり得たのではないだろうか。
おじさんが自転車を修理するのを飽かず眺めていたこと
ところで,昭和30年代には安野の場合だけでなく,小
もあろう。タイヤからチューブをくるりと引っ張りだす
学校の校門周辺,裏門近くの広場などいたるところに
とそれをさっと水につけて穴のあいたところを見つけ出
こうした「粘土やさん」がいたらしい。それ以外にもあ
す。そこにゴムを張り,油状のものを塗り付けて元通り
21
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
チューブをタイヤにつめるのである。その手際のよさは,
く。「学習する場」という明確な目的を持つために,内
まさに職人芸の域にあった。
向きで閉鎖的な空間になっており,そこでは「先生」と
しかし,子どもたちのたまり場となり得たのは,それ
「生徒」というはっきりした「教える者−教えられる者」
もこれも,店の開放的な雰囲気と,子どもに対するおじ
の区別がなされている。
さんの寛容な態度にあったと思われる。子どもがいるの
しかし,こうした「教育」的な刺激が自己形成に影響
を許してくれる,先生でも親でもない,「よその顔見知
を及ぼしうる範囲というのは,所詮,人の意識的な部分
りのおじさん」がいる空間―そうした場であったから,
に限られてくるといえる。というのも,人に意識的に何
子どもたちはそこに居心地のよさを見出すことができた
かを教えようとする場合,どうしても言語に頼ることが
のではないかと考えられる。
多くなり,教えられる側も意識的にならざるを得ないか
いまや,こうした不特定の子どもたちを引きつけ,彼
らである。そのため,人の無意識的な領域に対しては無
らの居場所を提供できるような「大人」がいるどころか
頓着になりがちである。「教育」とは,「個」の自立と,
―いまならそうした「大人」は不審者扱いを受けよう
独立した人格同士の言語コミュニケーションを前提にし
―,彼らが満足に遊ぶことのできる空間すらなくなっ
た,近代的視点に立つものなのである。
てきている。都市化やモータリゼーションが進行するの
一方,「形成」は「教育」と異なり,たとえば「子は
に合わせて,子どもたちは原っぱから空き地,道路,そ
親の背を見て育つ」「朱に交われば赤くなる」といわれ
して駐車場やフェンスで小さく囲われた児童公園へと遊
るように,子どもが親の言ったことよりも,その行動に
び場を追われていった。未来の子どもたちは一体どこで,
強く影響を受けたり,明るく活発な友人に囲まれていた
何をして遊ぶのであろうか。誰のこころのなかにも,至
りすると知らず知らずのうちに自分もそうなってくる。
上至福の時空間として存在し続けてきた子ども時代の原
「形成」とは,そうした無意識的,無意図的に人に働き
風景(「魂の故郷」)が遊び空間として存在するはずであ
かける作用をも含む概念である。従って,それが行われ
る。そしていまや,消失もしくは変貌しつつあるこの子
る場は特定されておらず,そこでの人間関係は流動的で
ども時代の原風景をすべての人たちのこころの深層に通
ある。「形成」はいつでもどこでも,あらゆる機会に行
底する共有空間,すなわち「たまり場」としてあらため
われているといえる。
て再生させる必要があるのではなかろうか。そしてそれ
そして,この無意図的な作用は,人の無意識的な部分
は社会教育に要請される緊急の課題といえるのではない
にまで浸透していくほどの影響力を持つ。相手もこちら
だろうか。
も互いに「働きかけよう」「受けとめよう」という意識
のないままに作用し,感化されていることがある。この
Ⅴ.空間論的改善策の方途
ように考えると,自己が形成される場合,「教育」以上
―たまり場の再生に向けて―
に「形成」の与える影響が大きいことは明らかであろう。
現在の社会において「教育」の場は至るところにある
1.「形成」と「教育」
が,「形成」の場はどれほどあるのだろうか。人は,人
間のあいだで育っていくものでもある。一昔前は,親や
さて,人間は,人生のさまざまな場面を通して良かれ
先生以外にも「粘土やさん」や「針金鉄砲のおじさん」
悪しかれさまざまなことを学びとり,成長していく。そ
といった「ハーメルンの笛吹き男」たちのように,「教
うした人間の自己形成に大きな影響を与える刺激につい
える−教えられる」という枠組みを超えて子どもたちに
て平林正夫は,「青少年と『生きられる空間』」で次のよ
何らかの影響を与える人間が身近に存在した。また,子
うに述べている。「『形成』とは意図的,無意図的に関わ
どもたちの遊び空間も「形成」の行われる重要な場であ
らず,良し悪しによらず,人間が成長していくうえでの
った。放課後から日の落ちるまで仲間と外で遊び惚ける
さまざまな作用,はたらきかけをいう。それにたいして,
なかで,子どもはルールを守ること,人とのつきあい方,
『教育』は人間が形成されていく中で成長に望ましい意
自然と人との距離感などを自然に身につけていったので
図的なはたらきかけをいい,多くの場合,教えるもの−
ある。
教えられるものという関係性を前提にしている。26)」,と。
しかし,遊び場や人間関係が貧弱になったいまの子ど
「教育」の典型的な例はやはり学校教育である。「教室」
もたちは,無意識的部分はおろか,意識的自我すら未発
という容れ物を意図的に設定し,そこで子どもたちが知
達なままである。こうした状況に対し,平林はこれまで
っておかねばならない国語,算数などの教科を教えてい
の(広義の)社会教育または地域教育が学問的要素を重
22
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
視した「教育」に偏り過ぎてきたことを指摘しつつ,こ
れからの社会教育が人と人が触れ合い,成長し合える「た
まり場」作りの担い手になれる可能性について次のよう
に述べている。
「現代はあまりにも自己形成する空間が縮小しすぎて
いる。いまこそ,自己形成−自己教育を軸としながらそ
れを可能にする教育環境を作り出す必要がある。自己形
成−自己教育は本来は青少年自身でつくりだしたり,見
いだしたりすべきものであるが,現状においてはなかな
か難しい面が多すぎる。現実には,矛盾ではあるが,青
少年が自分の存在を確認できる空間,それは他者を認め,
図2 意識構造の三角モデル
共感できる空間を大人の側がある程度意図的に作りださ
なければならない状態である。27)」,と。
の関係が成立している。AとBは互いに独立した自己で
子どもの自己形成のための空間は,本来自然に提供
あると見なされ,そして異なる人格を持つ両者のコミュ
され,子どもたちが自らそれを見つけ出すものであった
ニケーションは専ら言語によって行われることになる。
が,いまやそれを大人が設定しなければならないほどの
一方,直線②よりも下(A Ⅱ,B Ⅱ)は,どちらかと
状況になっている。ここでは,
「形成」のための無意図的,
いうと,無意図的,無意識的な領域で「個」の分離があ
無目的な空間を意識的,意図的に作り出さなければなら
まり明確でなく,コミュニケーションをとる際もいちい
ないという矛盾(パラドクス)がある。この「意図性」
ち言葉に出さなくてもわかる(=以心伝心)という前近
について平林は次のように述べている。「“たまり場”の
代的関係に基づいている。たとえば学校で「どの子も平
意図性を考えるときに重要なもう 1 つのことは意図の二
等である」と教えておきながら,実際には子どもたちの
重性があるということである。 1 つは企画・意図といっ
家柄や環境をどこかで気にしてしまうとか,あるいは就
てもよいもので,無意図的な場をつくる意図であり,も
職などでも基本的に「男女平等」「家庭環境不問」とは
う 1 つは参加者に,無意図,無目的だと感じさせる演出
いいながら,いざ採用する段になると女性や母子家庭
意図と呼んでもいいものである。 」,と。
に育った人を採ることに抵抗を覚えるなどという場合に
この 2 つの意図をうまく使い分けながら,あくまでそ
は,頭(意識的,近代的な自己)ではわかっているにも
れ自体は無意図,無目的な空間を作っていくことが社会
かかわらず,もっと根本的な,こころの奥深い所(無意
教育の果たすべき重要な役割であるとともに,社会教育
識的,前近代的な自己)ではそのように思っていないわ
が必然的に抱え込まざるをえない矛盾なのである。それ
けである。もっといえば,意識の部分は理性的,建前的
では一体どうすればこのパラドクスを超えて現代の「た
であり,無意識的な部分は感情,本能,ホンネにより近
まり場」を生み出していくことができるのだろうか。
いともいえるかも知れない。
28)
しかし,ここで重要なことは,この無意識的な領域に
2.無意識的共有部分の顕在化
おいて,自分と他人の意識が重なり合っている部分(△
b 2・b 3・c 2 )があるということである。近代以前の,A Ⅱ,
ところで,別役実によると ,人間の意識構造は図 2
B Ⅱの領域が意識のほとんどを占めていた頃の人々は,
のような三角形モデルとして示すことができる。
この共有部分の存在を非常に大きく,強く感じていたと
図 2 の 1 つひとつの三角形は,個々人の意識(ある
思われる。あるいは,その共有感覚から逃れられなかっ
いは自我)を表しているが,ここでは簡略化のためにA
たといった方がいいかも知れない。こうした人々は,何
とBの二者関係を取り出し,考えていくことにする(勿
か身近な問題が生じた場合,それを単に「ひとごと」と
論,現実にはこうした三角形がいくつも複雑に重なり合
して突き放してみることができなかったであろう。
って人間関係を形成している)。Aの意識を示す△Aは,
しかしながら,近代化が進むにつれて,人間は「個」
直線①②のあいだの A Ⅰと,直線②③のあいだの A Ⅱの
と「個」の A Ⅰ,B Ⅰの部分だけで対人関係を持つよう
2 つの部分から成り立つ。同様にBの意識,△Bは B Ⅰ
になるために,もっと正確にいえば,どこかで共有部分
と B Ⅱから成っている。直線②より上(A Ⅰ,B Ⅰ)は,
の存在を認めながら,近代的な人間関係を維持しようと
より意識的,意図的な領域であり,ここでは近代的な「個」
強いて線②以下の部分については目をつぶろうと努めて
29)
23
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
いるために,自分のことは自分だけの問題」「本人がい
この類型では,高度経済成長期の以前と以後での子ども
いと思ってするのなら他人が口だしすべきでない」とい
の遊びの根本的な変容が「原っぱ」と「道路」から「家
うようにお互いに問題を共有することなく,私事化して
の中」への移行と符合する。なお,「原っぱ」と「道路」
いくことになる(近代化は,線②以下をご破算にしたと
は,いずれも高度経済成長期以前の子どもたちの遊ぶ空
ころから始まっている)。とはいえ,いかに近代化が進
間を示すが,前者が農村部を,後者が都市部をそれぞれ
もうとも,実際には線②の下には前近代的な対人関係が
代表するという意味で異なる。ここでは,高度経済成長
常に潜在していて共有部分を残しているのである。ただ,
以前の子どもの遊び空間の類型である,
「原っぱ」と「道
この共有部分は,現代人には見えにくくなっているだけ
路」についてみていきたい。
である。人間関係の希薄ないまの子どもたちや青年は,
まず,「原っぱ」とは,大部分の人々がまだ農業に従
意識されるべき自我(A Ⅰ,B Ⅰ)さえ未熟であり,ほ
事していた頃の子どもたちの遊び場であり,それは地域
とんど線①に接する三角形の頂点の部分,すなわち「孤」
共同体と同じ拡がりを持っていた。空間はいまだ機能的
の意識でしか生きていないと思われる。また,それ以
に分化されておらず,人々の生活の場であり生産の場で
外の年配の人たちにとっては,共有部分が見えていたと
ある空間が同時に子どもの遊び場でもあった。そこでは,
してもそれを線②上に意識化する術を持たないか,ある
時間的にも空間的にも,遊びと遊びでないこととの区別
いはそうする必要すら感じていないと思われる。こうし
は明確ではなく,この〈あいまいな〉時空を表象したも
た世代ごとに特有な理由によって,共有部分はすべての
のが「原っぱ」である。
人々にとって共有財産になりうるにもかかわらず,具体
ところで,子ども時代に「原っぱ」での遊びを体験し
的な形を与えられないままでいる。
た人々の記憶は強烈でしかも印象的なものが多い。たと
この共有部分―すべての人に共通な経験,感覚,関
えば,作家,奥野健男は,東京のような大都会にも戦前
心,時間,原風景―を広義の社会教育や地域教育の文
には,地方に負けない自然との連帯と地縁が存在し,自
脈において空間的に位置づけるならば,それはたとえば
己形成空間としての“原風景”を育成する「原っぱ」と
「たまり場」
として表象・表現されると考えられる。
そして,
いう環境があったことを次のように述懐している。すな
個々人のテリトリー行動の共有部分でもある「たまり場」
わち,「こういう山の手の不安定な界隈でも子供は学校
を現代の人々のなかに意識的に再生させていく試みがい
とは違う世界,“原っぱ”を持っていた。……そこは学
ま,広義の社会教育や地域教育に求められていると考え
校の成績や家の貧富の差などにかかわりのない子供たち
られる。
の別世界,自己形成空間であり,そこの支配者は腕力の
強い,べいごまもめんこもうまい餓鬼大将であった。ぼ
3.「自由空間」の観点に基づく人間形成空間の
再生
くたち中流階級の子はおずおずその世界に入り,みそっ
かすとして辛うじて生存を許されていたようだった。し
かしこの“原っぱ”こそ山の手の子供たちの故郷であり,
ところが,従来,広義の社会教育や地域教育といえば, “原風景”であった。」31),と。
その大半が主催者(たとえば,行政側)が一方的に何か
子どもたちからみると,「原っぱ」とは,三次元から
を企画し,教え,やらせる,いわゆる「教育」的行為を
成る単なる均質空間ではない。それは,茫漠と拡がる何
行ってきたといえる。確かに,このやり方は地域のイベ
もない空間―意味の不在な(空白の)空間―を,子
ントを成功させる上ではきわめて合理的,効率的である。
どもたちが全身で遊ぶことによって意味のある場所へと
しかしそれでは,人と人とがかかわりあうなかで自然に
作り変え,自分たちのものにしていくところなのである。
成長していくことのできる「形成」としての「たまり場」
しかも,奥野の述懐からわかるように,そこには必ず空
を作ることはできないのである。
間への意味づけを協同して行う大勢の仲間たち―家族
そうした「形成としてのたまり場」を再生する上で手
集団や学校集団とは独立した異年齢の仲間集団―と,
がかりとなるものとして,
「自由空間」が挙げられる。「自
それをとりまとめるガキ大将が存在した。ガキ大将に率
由空間」について説明するために,その概念が登場して
いられた,近隣社会から成る異年齢仲間集団こそ,「原
きた(わが国の)社会的背景に言及しておきたい。
っぱ」という遊び空間の主役たちにふさわしい。それは,
藤田英典は , 高度経済成長期を境に,時代とともに変
まさしく地域共同体の雛型であった。
容していく子どもの遊びの様態を, 3 つの遊び空間,す
これに対して,「道路」とは,多くの人々が都市部に
なわち,「原っぱ」,「道路」,「家の中」に類型化した 。
住むようになった頃の子どもたちの代表的な遊び場であ
30)
24
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
り,それは地域共同体の空間とは連続していなかった。
つけから逃げ出していくところの「アジール(避難所)
空間は次第に機能的に分化されてきており,人々の生活
34)
の場からも生産の場からも部分的に隔絶されていた。ま
35)
た,道路は,家と家とを隔て, 1 つの仲間集団と別の仲
しつけを行ってきたが,それが可能であった理由は,子
」―権力や管理の及ばない自由な空間または「無縁
」の場所―でもあった。従来,親は子どもに厳しい
間集団とを隔てる象徴的空間でもあった。そこでは,時
どもたちにとって自由空間がしつけの心理的クッション
間的にも空間的にも社会的に,遊びと遊びでないことと
(息抜き),まさに「アジール」の機能を果たしてきた
の境界として存在しており,この境界としての時空を表
ことに求められる。すなわち,「親に叱られた子どもは,
象したものが「道路」である。
説諭や叱責や制裁が終わったら,あるいはその途中で家
「原っぱ」が農村部における仲間集団の「たまり場」
の外に脱出する。一歩,家の外へ出れば,道路には自由
であったとすれば,「道路」もまた,小規模ながら都市
空間がある。友達がいて遊んでいる。いつでも仲間に入
部における仲間集団の「たまり場」であった。なかでも,
れてもらえる。叱られた子どもは,そこで抑圧された自
裏通りの路地は住居に隣接した屋外空間として多様な役
由を奪い返すことができる。子どもは親との不愉快な衝
割を担っていた。そこは,あるときは子どもたちにとっ
突でできた心のしこりを遊んでいるうちに完全に解きほ
て住まいの延長であるかのように,平気で座り込んだり,
ぐしてしまう。ひとしきり遊んで戻ってくるときは,空
寝転んだり,ままごと遊びを行ったりする場所であるか
腹を満たすものが欲しい気持ちが先に立って,『なにか
と思えば,隠れん坊,鬼ごっこ,かんけり,石蹴り,な
ちょうだい』ということで親に接していく。親の方も先
わとび,ボール遊びなど活発な外遊びの場所でもあった。
に叱ったことを忘れているから,そこで平和的な親子の
さらに,都市部の子どもたちの生活空間である路地裏
関係が回復するのである。36)」
には,駄菓子屋と貸本屋が数多くあり,放課後,そこは
ところで,子どもの自立に対する援助以外に,仲間集
いつも子どもたちで溢れていた。駄菓子屋の店先は,群
団が果たしてきた役割について述べると,それは,「一
れ遊ぶ子どもたちのコミュニケーションの場(サロン)
人前」の大人になるのに不可欠な「社会的能力」を子
であるとともに,メンコやビー玉などの遊び道具を調達
どもたちに習得させることにある。地域社会の生活規範
するルートであり,貸本屋は漫画の供給源であった。
(コミュニティ規範)や慣習に従いつつ行動していく能
このように,「原っぱ」と「道路」は,子どもたちに
力(「社会的能力」)は,子どもたちが大人とともに労働
とって「たまり場」であり,そこにはいつも,ガキ大将
体験をしたり協同生活をしたりすること以上に,子ども
を中心に異年齢から成る仲間集団が群れて伝承遊び(隠
同士で自発的に集団活動を営むなかでスムースに形成さ
れん坊遊びなど)や近代的な遊び(ボール遊びなど)か
れていくことが少なくない。つまり,ごく単純な遊び(鬼
ら,大人によって禁じられた賭けごと(メンコなど)に
ごっこや隠れん坊)からパターンのある遊びやスポーツ
至るまで多種多様な遊びが行われていたのである。そし
に至るまで仲間集団は,皆で決めたルール(掟)や割り
て,仲間集団によって形成されるこうした「たまり場」
当てられた役割を守らなければならないことを,からだ
は,個々の子どもたちが新しい試みに挑み,勇気ある行
を通して生活感覚として学びとらせるという大きな機能
動をしていくときに仲間との協同や仲間からの援助が得
を持っていた37)。万一,ルール破りをしたものは,しば
られる拠点であり,従ってそこは,個々の子どもが自立
らくの間,子どもたちから(大人の“村八分”に相当す
していく上での精神的な支えとなり得た。そして,「た
る)“仲間はずし”の罰を受けたのである。
まり場」が持つこうした側面をより積極的に表現した言
そして,その「社会的能力」を子どもたちに自然に習
葉が「自由空間」ではないかと考えられる。松田道雄が
得させることができる理由は,仲間集団という組織その
述べるように,「自由空間」とは,「そこで子どもが,管
ものが持つ特徴に関係する。仲間集団は,一方で家庭や
理されないで,自由に友人と遊べる,子どもの人間的成
学校にみられる,大人対子どもという垂直的構造を持つ
長のために必要な空間である。 」そして,「自由空間」
集団(タテ型集団)に対しては,子ども対子どもという
は,「子どもが自分自身の主人であることのできる場で
水平的構造を持つ集団(ヨコ型集団)である。この場合,
ある。 」,と。つまり,「自由空間」とは,大人の世界
子どもからみて,前者が知識や権威を介して大人から子
の外で子どもたちによって自発的にかつ無意図的に形成
どもへの一方的な関係に固定化(制度化)されやすいの
される,子どもが自立するために不可欠な空間なのであ
に対して,子ども対子どもというヨコ型集団では制度的
る。
に決められたものはなく,対等な関係となる。ただ,さ
しかもそれは,親の管理下にある,家の手伝いやし
まざまな年齢の子どもたちから成る異年齢集団の内部で
32)
33)
25
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
は,「年長者(優位の者)に対しては服従や尊敬を,年
変わりなかったのである。
少者(劣位の者)に対しては保護やコントロールの役割
以上述べてきたように,別役の図を海図としながら,
をとり,知識や技術の伝授者としての機能を果たす 」
人のなかにある共有部分の存在と,それを育む「形成」
という側面がある。つまり,ヨコ型集団である異年齢仲
の重要性,そしてその「形成」が行われる「たまり場」
間集団は,その内部にタテ型の人間関係を含むのであり,
を再生させていくことの必要性について述べてきた。前
そのことが,年長者から年少者へとさまざまな遊びや子
述したように,いまの社会は人間の数が増えれば増える
ども固有の文化を伝承していくことを可能ならしめたの
ほど,それに逆行するように人と人とが出会い,ふれあ
である。
う機会は失われていくかにみえる。網の目のように交錯
しかも,注目すべきなのは,仲間集団内部での小さな
する現代の複雑な人間関係のなかで,プライバシーを守
子どもたちに対する配慮である。兄や姉に引き連れられ
り,自分の平穏を保っていくためには,他人との深いつ
て集団に加わった彼らは「みそっかす」と呼ばれて,た
きあいはできるだけ避けるのが賢明だというのが都市を
とえば鬼ごっこでは鬼を免除されるとか,メンコで 1 回
生きる人々の知恵なのかも知れない。しかし同時に,人
負けても札を取られないとかいう具合に特別な配慮と待
は,人と人とのかかわりあいのなかで育ち,成長するも
遇を受けた。子どもたちがそうしたのは,弱者はいたわ
のである。とりわけ,感情は対人関係のなかでのみ成長
られるべきであるという博愛精神を大人たちから教えら
発達するといわれている。つまるところ,人は,人間の
れたからではなく,むしろそうでもしなければ遊びが続
あいだでしか生きていけないし,育たないのである。そ
けられなかったし,面白くなかったからである。この頃,
していまや,消滅しつつある人の「たまり場」―人々
遊ぶこととは,大きな子も小さな子も一緒に遊ぶことで
のこころの共有部分であり,原風景でもある―を何よ
あった。
りも最初にもう一度意識的に現代に蘇らせること―そ
さらに,この組織のなかで,ガキ大将の果たす役割は
れこそがこれからの(広義の)社会教育や地域社会に課
重要であった。ガキ大将になるためには,ただからだが
せられた課題および使命ではなかろうか。
38)
大きく,腕力が強いだけでは不十分であり,それに加え
結語
て,集団をまとめていく能力,ケンカを処理する能力,
小さな子どもをいたわる能力などが必要であった。だか
らこそ,近隣の親たちは,普段はガキ大将の活発な行動
以上,本論文は,まず,子どもの空間的発達と各発達
ぶりに眉を顰めながらも,黙契のうちにその存在を認め,
画期ごとの居場所をテリトリー形成能力の生涯発達モデ
自分の子どもの世話を安心してガキ大将に任せていたの
ルの観点から理論的に記述するとともに,その知見を踏
である。この仲間集団には,ガキ大将をはじめ,年長の
まえた上で, 2 種類の質的空間学に基づく調査研究,す
子どもが含まれていることで,遊びに伴う事故から年少
なわち「居場所」に関する,小学生への意識調査と大学
の子どもを守ることができたのである。
生の想起と語りの調査を通して,「居場所」のイメージ
こうして,高度経済成長以前,子どもたちが近隣社会
およびその変遷を分析・解釈することを目的とした。
で仲間集団を自発的に結成し,ガキ大将を先頭に群れな
理論研究としては,住居学,精神病理学,動物行動学
がら,時の経つのも忘れて「原っぱ」や「道路」を遊び
などを総合的にまとめた,外山知徳のテリトリー形成能
回り,大人の管理が届かないところで自分たちの自由空
力の生涯発達モデルの観点から,人間が乳幼児期から学
間を形成していったのである。子どもたちが大人の管理
童期,思春期を経て成人期,さらに高齢期へと,どのよ
の及ばない自由空間において集団活動を行うことができ
うに空間的発達するのか,そして各発達画期ごとにどの
たからこそ,彼らは自発性や主体性を学び,自律や自治
ように居場所を形成するのかについて詳細に記述した。
の能力を獲得できたのである。
テリトリー形成能力の観点からみても,子どもの「自立」
繰り返すと,仲間集団の活動による自由空間の確立は,
は,人間発達のターニングポイントとなるが,それは空
個々の子どもの自立にとって必要だけではなく,集団そ
間的には子どもが自らのパーソナルスペースを操作・管
のものの自律にとっても不可欠だったのである。ただ,
理できることであると記述できる。そのとき,子どもに
農村部と比べて都市部では,次第に仲間集団の規模が縮
とって真の意味でプライバシーが確立され,それを確保
小化し,かつその組織形態も同年齢化(同質化)する傾
するために,子どもにとって個室(子ども部屋)が必要
向がみられたが,それでも仲間たちによって形成される
になる。
遊び空間が子どもたちからみて自由空間であることには
こうした子どものテリトリー形成能力の発達過程を踏
26
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
まえて, 1 つ目の質的空間学研究,すなわち「居場所」
もの自由空間に通底するものであり,今後,子どもたち
に関する小学生への意識調査を実施した。その結果,こ
のテリトリー形成能力および居場所作りに不可欠な空間
の発達画期の大半(全体比の約70%)の子どもにとって
であるといえる。
居場所は,「家」であり,それ以外には「自然」「公園・
以上,テリトリー形成能力の生涯発達を中心に展開し
学校・施設」等であった。ただ,いまの子どもたちは,
「居
てきた子どもの居場所研究は, 2 つ目の調査結果から導
場所=家」と見なすその一方で,その「居場所」を「部
き出された「たまり場」を, 1 つ目で明らかになった,
屋(主に自室)」「(自分が所有する)モノ」といった部
居場所イメージの稀薄ないまの子どもたちに意図的に提
分に還元する傾向がみられた。つまり,彼らは「居場所」
供していくという形で連動していったのである。従って,
を自らの拠点としてわが家を捉えてはいない。その証左
こうした研究をより進展させるために,子どもの視点に
として彼らは,
「家=居場所」を絵で表現するのではなく,
立つ質的空間学の構築ならびに質的空間学の研究方法の
言葉のみで表現することが挙げられる。また,家族の人
構築を今後の研究課題としていきたい(著者が以前から
を描くことはほとんどなかった。以上のことは,テリト
取り組んでいる「写真投影法調査39)」もまた,質的空間
リー形成能力が豊かに発達しているはずのこの発達画期
学の構築に寄与し得るものと考えている)。
の子どもたちが,居場所を自らの身体(身分け)を介し
注釈
て空間的な表象(イメージ)として理解していないこと
を示している。また,家族の人たちを描画表現した子ど
もたちが少ないことは,彼らの家族関係の稀薄性を示唆
1 )吉田武男・中井孝章『カウンセラーは学校を救える
している(別に実施した子どもが描く「食卓の絵」の調
か―「心理主義化する学校」の病理と変革―』
査でも,家族の人が描かれることが少ないこと,たとえ
2003年,pp.199-200
描かれていても,家族の人が三角や線などの記号のみで
2 )F.v. ユクスキュル『生物から見た世界』日高敏隆訳,
示され,表情豊かに描かれることはなかった)。
新思索社,1973年,pp.12-25参照
次に, 2 つ目の質的空間学研究,すなわち「居場所」
3 ) 市 川 浩『〈 中 間 者 〉 の 哲 学 』 岩 波 書 店,1990年,
に関する,大学生の想起と語りの調査を実施した。本調
査では,大学生に自らの成長発達過程を空間的に表現さ
p.93
4 )丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店,1981年,
せたが,その大半は貧弱なものであった。そのため,本
調査では想起と語りについてとりわけ優れたものを 1 つ
pp.79-80
5 )市橋秀夫『空間の病い―分裂病のエソロジー―』
だけ抽出し,それを詳細に分析・解釈した。その語りと
海鳴社,1984年,p.30参照
記述は,テリトリー形成能力の発達過程を具体的な空間
6 )同上書参照
表象によって表現したものであった。特に,学校と地域
7 )同上書参照
社会の境界に出没する「ハーメルンの笛吹男」と称され
8 )同上書,p.58
る「おじさん」,たとえば粘土細工のおじさんや針金細
9 )K . ローレンツ『攻撃―「悪の自然誌」―』日
工(針金鉄砲)のおじさん―ただし,当該の学生の場
合は若い世代に属するため,職人はすでにいなかった(そ
高敏隆,他訳,みすず書房,1970年
10)E . T . ホール『かくれた次元』日高敏隆,他訳,み
の代わりが近所の自転車屋さん)―が商売をする場所
すず書房,1970年
は,駄菓子屋と同様,子どもたち(小学生)にとって「た
11)ローレンツ,前掲書(1970年)
まり場」となった。また,おじさんたちが作る作品は,
12)同上
学校の工作とは異なり,子どもたちにとって楽しいもの
13)同上
ばかりであり,彼らは子どもたちから尊敬されていた。
14)市橋秀夫「分裂病のスペーシング機能障害―身体
このように,学生が子ども時代の想起と語りを通し
空間の精神病理―」,吉松和也編『分裂病の精神
て表現した「たまり場」は,人間にとって必要な無意識
病理 11』東京大学出版会,1982年
的共有部分を空間的に顕在化したものであると考えられ
15)同上書
る。とりわけ,発達画期からみて充分な「居場所」イメ
16)同上
ージが育っていない子どもたちに対して「たまり場」を
17)中井久夫「世に棲む患者」,『分裂病の精神病理 9 』
意図的に提供することが必要ではないかと考えられる。
「たまり場」は,かつて存在した「原っぱ」という子ど
東京大学出版会,1980年 ,pp.253-277
18)同上 ,pp.260-261および桜井哲夫『「近代」の意味
27
( )
生活科学研究誌・Vol. 5(2006)
―制度としての学校・工場―』日本放送出版協
間論的視点―」,長浜功編『現代社会教育の課題
会 ,1984年 ,p.210
と展望』明石書店,1986年,p.146
19)外山知徳「住まいと子供」,渡辺光雄・高阪謙次編
29)別役実『ベケットといじめ―ドラマツルギーの現
著『新・住宅学 [ 改訂版 ]』ミネルヴァ書房,2004年,
p.98
在―』岩波書店,1987年,p.85
30)藤田英典『子ども・学校・社会』東京大学出版会,
20)外山知徳『住まいの家族学』丸善,1985年および『記
号学研究』に掲載された論文をはじめ,多数の文献
1991年,pp.31-33
31) 奥 野 健 男『 増 補 文 学 に お け る 原 風 景 』 集 英 社,
を参照
1989,p.29
21)正高信男『 0 歳児がことばを獲得するとき』中央公
32)松田道雄『わが生活わが思想』,岩波書店,1988年,
論社,1993年,p.17参照
p. 7
22)M . S . マーラー『乳幼児の心理的誕生』高橋雅士・
33)松田道雄『自由を子どもに』岩波書店,1973年,
織田尚美訳,黎明書房,2000年参照
p.100
23)野村豊子『回想法への招待』筒井書房,2001年およ
34) 阿 部 謹 也『 中 世 の 星 の 下 で 』 影 書 : 房,1983年,
び黒川由紀子『回想法』誠信書房,2005年
pp.52-59
24)J - P . K . ドレー『配慮の解体』岡田幸夫・牧原寛
之訳,海鳴社,1978年参照
35)網野善彦『無縁・公界・楽』平凡社,1978年
36)松田道雄,前掲書(1988),p.16
25)安野光雅「粘土やさんのこと」,『美徳手帖』1983年
37)藤本浩之輔『子どもの遊び空間』NHK出版会,
6 月号,美術出版社,pp.98-99
1974年,p.191
26)平林正夫「青少年と『生きられる空間』」,高橋勇悦
編『青年そして都市・空間・情報』恒星社厚生閣,
38)同上,p.192
39)中井孝章「子どもの眼に家庭・地域・都市はどのよ
1987年,p.105
うに映るか―写真投影法調査からみえてくるもの
27)同上書,p.107
―」,中井孝章『大都市圏の子どもたち』日本教
28)平林正夫「『たまり場考』―社会教育における空
育研究センター,2006年,pp. 5 -36
テリトリー形成能力からみた子どもの居場所
―質的空間学研究の試み―
中井 孝章
要旨:本論文は、子どもの空間的発達と各発達画期ごとの居場所をテリトリー形成能力の観点から記述するとともに、
「居場所」に関する、小学生へのアンケート調査と大学生の想起と語りの調査を通して、「居場所」のイメージおよ
びその変遷を分析・解釈することを目的とする。
2 つの調査に先立って、テリトリー形成能力の観点から、人間が乳幼児期から学童期、思春期を経て成人期、さ
らに高齢期へと、どのように空間的発達するのか、そして各発達画期ごとにどのように居場所を形成するのかにつ
いて詳細に記述した。テリトリー形成能力の観点からも子どもの「自立」は、発達のターニングポイントとなるが、
それは空間的には子どもが自らのパーソナルスペースを操作・管理できることであると捉えた。そのとき、子ども
にとって真の意味でプライバシーが確立され、それを確保するために、子どもにとって個室(子ども部屋)が必要
になる。
こうした子どものテリトリー形成能力の発達過程を踏まえて、「居場所」に関する小学生へのアンケート調査を実
施した。その主な結果とは、この発達画期の大半(全体比の約70%)の子どもにとって居場所は、「家」であり、そ
れ以外には「自然」「公園・学校・施設」等であった。ただ、いまの子どもたちは、
「居場所=家」と見なすその一方で、
その「居場所」を「部屋(主に自室)」「(自分が所有する)モノ」といった部分に還元する者が多かった。つまり、
28
( )
中井:テリトリー形成能力からみた子どもの居場所―質的空間学研究の試み―
彼らは「居場所」を自らの拠点としてわが家を捉えてはいない。その証左として彼らは、「家=居場所」を絵で表現
するのではなく、言葉のみで表現することが挙げられる。また、家族の人を描くことはほとんどなかった。以上の
ことは、テリトリー形成能力が豊かに発達しているはずのこの発達画期の子どもたちは、居場所を自らの身体(身
分け)を介して空間的なイメージとして理解していないことがわかる。
次に、「居場所」に関する、大学生の想起と語りの調査を実施した。本調査では、大学生に自らの成長発達過程を
空間的に表現させたが、その語りと記述は、テリトリー形成能力の発達過程を具体的な空間表象によって表現され
たものであった。特に、学校と地域社会の境界に出没する粘土やさん(おじさん)が商売をする場所は、子どもた
ちにとって「たまり場」となったことが印象的である。このように、大学生が子ども時代の想起と語りを通して表
現した「たまり場」は、人間にとって必要な無意識的共有部分を空間的に顕在化したものであると考える場合、そ
れを、発達画期からみて充分な「居場所」イメージが育っていない子どもたちに意図的に提供することが必要では
ないかと考えられる。「たまり場」は、かつて存在した「原っぱ」という子どもの自由空間に通底するものであり、
今後、子どもたちのテリトリー形成能力および居場所作りに不可欠な空間であるといえる。
29
( )
Fly UP