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-L.
第二次世界大戦とファシストの
侵略に反対する民族統一戦線
敵の進攻およびソ連がドイツと不可侵条約を締結したという情勢
によってもたらされた損失は少なくはなかった。
に直面して、党内と党外の一部でこれにとまどい 、動揺し、ソ連に
疑いを抱くものがでた。このような状態を克服するため、党は一九
ンスは参戦国の一つであった。したがってインドシナも戦火に投げ
と党の当面の任務について、党内の思想と認識の統一をはかった。
冊子を発行してソ連の終始一貫した平和政策を解説し、当面の情勢
ックキ l地方委員会も﹃ソ連は永遠に平和に忠実である﹄という小
三九年九月二九日、﹁当面の政治の道﹂についての通知を発し、パ
込まれた。インドシナでは、フランス植民地主義者が総動員令を発
対的に弱いところであり、それによって党は農民大衆のなかにとけ
の決定は非常に重要であった。なぜなら、農村は敵の支配機構が相
込み、農民に宣伝し、農民を組織して農村を革命の広大な根拠地に
同時に、党は活動の中心を都市から農村に移すことを決定した。こ
が切り下げられた。数多くの青年および壮年が軍に応召された。し
た。車両、船舶が徴発された。各企業で労働時聞が延長され、賃金
かしながらフランス帝国主義者がとくに注意した問題は不正義の戦
ったから こそ、革命勢力は敵の狂暴 な迫害を受けたにもかかわらず
変える条件をそなえるからである。まさにこの活動方向の転換があ
一九三Oi 一九三二年当時のように破壊されなかったし、逆に勤労
争に安心して没頭するために、後方を固めインドシナ人民の革命勢
三九年)にわが国の人民大衆がかちとった若干の、最低の民主的権
ていったのである。
しかし世界大戦の勃発は、新しい情勢に合致した主張と政策をも
農民大衆のあいだに根をおろし革命運動をますます堅固なものにし
法的な新聞 ・雑誌出版機関は捜査され、その要員は逮捕され 、資産
一一月、グエン・パン・ク l同志がファン・ダン・ルウ、レ ・ズア
たなければならないことを党に要求していた。こうして一九三九年
利はすべて抹殺された。民主組織や友愛会はみな解散させられ、書
った。 一九三九年九月だけをと ってみ ても、パッ クボで一 O玉
一 件
独仏戦争が勃発しフランス共産党が非合法化されるやいなや、党
一の任務であるとした。なぜなら﹁インドシナ民族の生存の道は、
放の問題を強調してこれを戦争の時期におけるインドシナ革命の第
級の状況とインドシナ革命の発展の可能性を分析したのち、民族解
ン同志とともに主宰した第六回中央委員会が聞かれた 。会議は各階
はただちに合法活動および半合法活動を行なっていた各機関と幹部
フランス帝国主義者を打倒し、それが白人であれ黄色人であれ外部
にたいし、迅速に地下活動に移 るよう指示した 。 このために概して
にのぼる捜査、逮捕事件が起きた。
は没収された 。迫害のあらしがイン、ドシナのすみずみまで吹きわた
籍 ・新聞の出版権や集会の自由も取り消された。党と民主戦線の合
九
力を消滅してしまうことであ った。 民 主 戦 線 の 時 期 (一九三六 t 一
布した。さまざまの税賦、公債、募金、宝くじが日ましに数を増し
一九三九年九月、ヨーロ ッパで第二次 世界大戦が勃発した 。フラ
ノ¥
わが党は自己の勢力を保全することができた 。 しかし敵のテロ政策
1
.
9
.
9
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
1)
︿
からの侵略の災をすべて打倒していく闘争の道以外にはない﹂から
である。
会議はインドシナ反帝民族統一戦線を結成すること 、 一時的に土
地革命のスロ ーガンを取り下げ 、 この時期には ﹁
民族の利益を裏切
のスローガンを﹁インドシナ民主共和国政府﹂のスロ ーガンに代え
る地主の土地を没収する﹂ことだけを主張すること、﹁労農政権﹂
ることを提起した。これは人民諸階層、各階級、インドシナ各民族
を幅広く団結させ 、革命のほこ先を民族の敵││帝国主義ファシズ
ムにつきつけるためであった。
会議はまた 、帝国主義戦争とファシストの支配は人民の憤激を引
き起こすことになり 、革命が爆発するであろうと評価 した。
会議はさらに 、あらゆる面から党を強化し、全党の意志と行動を
ったとき 、世界と国内の情勢はつぎつぎと多くの変化 を起こしてい
った。一九四O年六月 、 フランスはドイツ ・ファシストに占領され
た。裏切り者ベタン政府が登場して実権を握り 、 ファシスト ・ヒト
ラー の手先となった。一 九 四O年九月 、 インドシ ナは日本ファシス
トに占領された。フランス植民地主義者は日本ファシストに降伏
し、 日本軍のインドシナ占領をなすがままにさせた。しかし不屈の
フ
フランス1 日本ファシスト帝国主義者に反対してつぎつぎと立ち上
闘争の伝統をもち 、わが党の教育と指導を受けたベトナム人民は 、
0
ランス軍は敗走し、パックソンを経て撤退していった。一九四O年
がった。一九四O年九月二二日、日本軍はランソンに進駐した
、 パックソンの人民は現地党委員会の指導のもとに蜂起
九月 二七 日
づきすすんでいたとき 、 日本1 フランスは互いに妥協し 、 フランス
し、﹁フランス1日本帝国主義に抵抗せよ﹂とのスロ ーガ ン を か か
げ、 フランス敗残兵の武器を奪って自らを武装した。蜂起が引きつ
植民地主義者にベトナム革命を弾圧させる余裕を与えた。パックキ
統一させることを決定した。
一九 三九年一一月の党中央会議は重要な意義をもっていた。わが
l地方委員会はチャン ・ダン ・ニン同志をパックソンに派遣し 、直
接蜂起の指揮をとらせた。パックソンの人民は革命政権を樹立すべ
くやアーランで集会を開いていた。ところが警戒 心が十分でなく 、組
ける主要矛盾はインドシナ各民族と帝国主義ファシズムとの聞の矛
盾であることを明確に認識し、民族解放運動を世界革命運動の切り
はなすことのできない 一環としてとらえ 、帝国主義者の民族抑 圧、
された。蜂起軍は森林に撤退し、わが党が指導するベトナム最初の
織防衛に多くの弱点があったため秘密がもれフランス軍に奇襲攻撃
党はこのときはじめて民族問題を全面的に評価し 、 インドシナにお
分裂の陰謀をあばき出 し、同時に党の民族自決の主張を高くかかげ
弾圧を受けた。
受けたあと、これと共同する闘争を行なった。とくにゴックチャオ
(タインホア省タックグイン県)の運動は比較的強かったが 、激 し い
パックソンの運動に呼応すベく 、若干の 地方では党中央の指示を
遊撃隊を組織した。
たのであった。会議は帝国主義ファシズムの災から民族を解放する
ために 、イ ンドシナ反帝民族統一戦線の結成問題にかんする全党の
思想を統一した。会議は戦略指導の正しい転換を画し、民族の旗じ
の八月革命の勝利にいたる道を切り開いた。
るしを高くかかげ 、民族統一戦線のもとに全人民を結集し 、 その後
ベトナム人民が党の新 し い主張を実現するためにたたかいつつあ
200
パックソンの蜂起は失敗したが、それは日本1 フランス・ファシ
が人民にとって最初の武装勢力を生み出したのである。この武装勢
とをはっきり指摘し、反帝民族統一の名称は反日・仏ファシスト民
各民族が一つの首に二本のナワをかけられる危険に遭遇しているこ
第七回党中央委員会は世界情勢と国内情勢を分析し、インドシナ
なかった)。
力は森林山岳地帯に根拠を置いて活動し、しだいに発展してのちに
て耕作者に分配せよ﹂というスローガンを一時取り下げた第六回中
快紡ご勝紛であることを規定するとともに、﹁地主の土地を没収し
ストの野望を暴露し、党がベトナム革命の指導権を握 っていらいわ
ベトナム救国軍となった。パックソン蜂起はベトナム人民の武装闘
会議は、インドシナ人民の革命の高まりが必ず爆発するであろう
央委員会の主張が正しいものであることを確認した 。
争の歴史に新たな一ページを開いた 。パックソン蜂起は国内各地の
人民がまだ準備をととのえないうちに爆発したため、蜂起軍は単独
こと、党はインドシナ各民族を指導して武装蜂起を準備し、自由と
でたたかわなければならなかった 。 しかしパックソン蜂起の教訓は
うえで非常に有益であった。
非常に大きく、のちの八月いっせい蜂起(一九四五年)を準備する
する報告を受け、パックソンの武装勢力を維持するために分散活動
会議はさらに、チャン・ダン・ニン同志のパックソン蜂起にかん
民族独立をとり戻さなければならないことを確認した。
進撃した。フランス植民地主義者はベトナム人民、とくにナムボの
をする遊撃隊をつくり、さらにパックソン1ブl ニャイ地区を中心
日本軍のベトナム北部侵入と同時に、タイの軍隊もカンボジアに
人民およびクメ l ル人民を彼らの肉弾として強制的に最前線へかり
とする遊撃根拠地を建設していくことを決めた。
た。すなわち、パックソン蜂起は失敗し、ナムキーでも全国でも蜂
ナムキ l地方党委員会の提案について、会議は次のように確認し
たてた。ナムボのわが人民はフランス植民地主義者への憎しみを燃
し、パックソン蜂起の精神に励まされて闘争にふるい立った。
えたぎらせ、日本1 フ ラ ン ス 帝 国 主 義 者 の 奴 隷 と な る こ と を 拒 否
い。ナムキ l地方党委員会の当面の任務は、政治闘争と経済闘争の
形態をとってフランス植民地主義者と日本ファシストに抵抗し、フ
起の条件はまだ熟していない。したがって急いで蜂起すべきではな
員会に残留していた党中央の同志たちは、ナムキ i の人民を指導し
ランス
当時、グエン・パン・クl、レ・ズアン同志はじめ党中央のその
て峰起し、フランス1タイ戦争を革命の内戦に転化しようと考え、
フランスリ日本を追い出すべく全国で武装蜂起を起こすまで好機を
者、農民、兵士への宣伝、教育、組織に力を入れて条件を準備し、
他若干の同志がサイゴンで逮捕された。ナムボとナムキ l の地区委
ファン・ダン・ルウ同志を第七回党中央委員会に派遣してこの間題
・チン、ホアン・クオツク・ピェット、チャン・ダン・ニンの諸同
た。これにはファン・ダン・ルウ、ホアン・パン・トゥ、チュオン
なるであろう、と。
の勢力はフランス軍と日本軍の連合により共同で消滅されることに
待つこと。もしただちに蜂起を起こしたら、蜂起は孤立しわれわれ
タイ戦争に反対すること、同時に人民大衆、とくに労働
HH
を討議させた。一九四O年一一月、パックニンでこの会議が聞かれ
志が出席した(中央委員の若干の同志はナムボでの活動に忙しく出席でき
2
0
1
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
、
ぽ ナ ム ボ に 帰 っ た フ ァ ン ・ダン ・ルウ同志は すでに蜂起の指令が
b 各地に出され各地ですっかり準備がととのっていて、指令はもはや
ゆ 撤 回 で き な い こ と を 知 っ た 。 一 九 四O年一一月二三日夜 、 ナムキ l
弘、
蜂起が爆発 した。蜂起はまだ直接的に革命を起こせる情勢でないと
叫きに爆発したため、また蜂起の主要勢力である敵軍のなかの兵士が
ω
中間層が支配集団を憎み、したがって革命の側につくか革命
に同調し、いつでも前衛部隊に従っていく準備がある場合。
消滅し、自民族を解放するために最後までたたかう決意をした
w 前衛部隊が犠牲となる決意をし、人民大衆を指導して敵軍を
川
、 パックソン蜂
四 向 を 都 市 の 占 拠 に 置 い た た め ナ ム キ l蜂起は失敗 し
蜂起を前に武装解除され(計画が漏れたため)、 加 えて蜂起の主要方
とも手うすなところを攻略・占領し、蜂起は単位ごとにすすめ、農
権力を奪取する武装闘争の路線は 、蜂起軍が農村において敵のもっ
第二に、わが国のように植民地で立ちおくれた農業国において 、
場合である。
献起のときのように武装勢力を維持することもできなかった。ナムキ
村に根拠地をつ くってしだいにこれを拡大すること 、条件が熟すの
を待って都市で蜂起し 、敵の中枢機関を破壊し 、全国をとりもどす
m
l蜂起はその出だしからたちまち弾圧されたにもかかわらず、非常
部
とした不屈の意志をくじくことはできなかった。ナムキ l蜂起の炎
者は何万ものナムキi の愛国者を虐殺したが、ベトナム人民の確固
族統一戦線内の組織された大衆、労働者大衆および農民に依拠しな
力だけに頼ってはならず、主として広範な人民大衆の力 、第一に民
ことである。
第三に 、蜂起を成功させるには、われわれが感化した敵の兵士の
拡 に 勇 敢 に 行 な わ れ た 。 多 く の 地方で一 O日をこえるたたかいがつづ
がまだ消えないうちに、ザン拠点の兵士が決起してザンとドールオン
ければならない。同時に敵の兵士にたいする宣伝に力を入れ、彼ら
き、広範な大衆を引きつけてこれに参加させた。フランス帝国主義
拠点(ゲアン省)を占拠 した
。
の隊列に投じ敵の銃で敵の頭を撃つようにさせなければならない。
をめざめさせ、革命軍に向かって発砲しないよう 、あるいは革命軍
軍隊の反乱は 、広範な大衆が積極的に擁護しこれに 呼応し た場合に
パックソン 、 ナムキ l蜂起とザン 、ドールオンの兵士の決起はみ
を高揚さ せた。数知れぬ首が飛び鮮 血が流れたが 、 それはわが党と
だけ革命にとって現実的な効果を持ちうる。
世界と国内の日ましに緊迫する情勢は 、党のいっそう徹密な指導
な失敗に終わった。しかしそれは、ベトナム人民の勇敢な闘争精神
わが人民に武装蜂起について限りなく貴重な教訓を残した。この教
を要請していた。一九四一年二月、ホ 1 ・チ ・ミ ン同志が帰国し 、第
訓は次の点に概括できる。
第一に 、権力の奪取をめざす蜂起が勝利をおさめるには 、 その爆
オパン省)において、一九四一年五月一 O 日から一九日まで開かれ
八回党中央委員会を召集した。会議は中国国境に近いバックボ(カ
オン ・チン、ホアン ・クオック ・ピエ ット、ファン ・パン ・ドン、ホ
た。ホ l-チ・ミン、ホアン ・パン ・トゥ、フン ・チ ・キエン、チュ
発が時宜にかなっていなければならない。すなわちそれは、直接的
同敵がすでに混乱と分裂の極点に達し、まさに困難にぶつかっ
な革命情勢が進行中で次のような現われを呈しているときである。
て狼狽 し困 難を克服できなくなっている場合。
202
ム人民大衆の民族精神にはたらきかけるうえで非常に意義のある名
ため、会議はベぃ小必砂岳同盟会の結成を提唱した。これがベトナ
対する闘争に、各階級の広範な人民と各民族の革命勢力を結集する
第二次世界大戦の展望について、会議は次のように英明な判断を
アン・パン・ホアン、ブl ・アインの諸同志らが会議に出席した。
下した。ソ連を支柱とする反ファシズム陣営は必ず勝利し、ファシ
称、ベトミン戦線である。
会議は民族解放のスローガンを高くかかげた。したがって、各大
ズム陣営は必ず敗北するであろう。ドイツ・ファシストはソ連を攻
衆組織の主要な目的も国を救うことにあり、大衆組織の名称はみな
撃したが、消滅させられるととは避けられない。第一次世界大戦の
あいだに、ソ連という世界最初の社会主義国が出現した。第二次世
救国会に統一された。
土地問題について、会議は地主階級の隊列をいっそう分化させる
界大戦中に、必ずやその他一群の社会主義国が出現するであろう。
スローガンを一時的に取り下げ、帝国主義者と裏切り者の土地を没
ためにはなお、﹁地主の土地を没収して耕作者に分配せよ﹂という
反ファシズム陣営に立つインドシナ人民の革命は必ず成功する。
インドシナ革命の任務について、会議は民族解放をインドシナ革
収して貧しい耕作者に分配せよ、地代と利子を軽減せよ、共有地を
命のもっとも差し迫った任務とみなし、再三にわたってこのことを
強調した。インドシナがフランス1日本ファシストの二重の抑圧と
会議はさらに、あらゆる分野の仕事を促進して武装蜂起の準備を
再分割せよといったスローガンを打ち出し、そこから進んで耕作者
ととのえ、武装組織あるいは半武装組織(遊撃隊、武装自衛団)への
搾取を受けたときから、インドシナ各民族と侵略的ファシスト帝国
くなっている。フランス1 日本帝国主義者は労働者、農民階級を圧
指導を強め、遊撃根拠地を建設することを決定した。会議は﹁われ
に土地を、というスローガンを実現していかなければならないこと
迫しているだけでなく、各民族のどの階層をも残すことなく全部を
かなければならない。それはもっとも有利な機会をねらって敵軍を
を確認した 。
圧迫し搾取している。:::全階級の権利が奪われ、民族の運命がこ
れほど危険にさらされているときは弘ぱ﹂からである 。 したがって
攻撃するため、つまり近い将来太平洋戦争と中国人民の抗戦がイン
の抑圧のくびきはあまりに重く、イン、ドシナ各民族はもはや忍び難
会議は﹁このようなとき、局部の利益、階級の利益は国家と民族の
主義者との聞の矛盾がも っとも主要な矛盾となった 。なぜなら﹁そ
生死、存亡に従属されなければならない。このようなときにもし民
われわれはそれぞれの地方のなかで単位ごとに蜂起を指導し、勝利
ドシナ革命に非常に有利に転換したとき、準備された勢力をもって
第八回中央委員会(一九四一年五月)における上述の主張は、とり
にするためである﹂。
(4)
をかちとって大規模ないっせい蜂起へと道を切り開いていけるよう
われは常に、いついかなるときにも準備された勢力をととのえてお
ければ、国家全体、民族全体が永遠に牛馬の生活を耐え忍ばなけれ
族解放の問題を解決できず、民族独立と全民族の自由をかちとらな
民族の主要な敵であるフランス1日本ファシスト帝国主義者に反
ばならないばかりか、局部の利ぷ仁階級の利益すらも未来永劫にわ
たってかちとることができなくなる﹂と強調した。
?08
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植畏地支配下のベトナムと独立への道
したものであった。決議は日本1 フランス・ファシストの駆逐に全
ァシズムの侵略に反対して集中するという問題で強力な転換点を画
わけ重要な意義をもっていた。会議の決議は、党がそのほこ先をフ
民迫害がきわめて野蛮だったことと 、当時まだ武装闘争に呼応させ
て政治闘争を推し進めていなかったため 、救国軍はやむなく﹁集中
れの勢力は保持され、敵の勢力を消耗させることができた。敵の人
きわまりない条件のなかでたたかいをすすめたが、それでもわれわ
って組織を整理しなおし、武器を確保して装備を増した。他の一部
党全人民を動員し、ベトナムの革命運動を一九四五年八月革命の勝
は人民のなかに分散して武装宣伝工作に従い、大衆のなかに基礎を
から分散﹂し 、敵の包囲網から撤退した。一部の救国軍は中国に行
会議は新しい中央執行委員会を選出し、チュオン・チン同志を書
築いた。まさにこの部分がタイグエン、トゥエンクアン、ランソン
利へと導びいた。
記長に選んだ。中央委員会ののち、ベトミン戦線が正式に結成され
八カ月にわたるパックソン1ブl ニヤイの遊撃活動は 、武装闘争
利な条件をつくり出すのに貢献した。
各省においてかなりの広さをもっ基礎組織を築き、のちの蜂起に有
た(一九四一年五月一九日)。
党とベトミン戦線の当時の中心任務││救国、民族解放を達成す
るために 、 ベトミン戦線に結集した大衆組織はすべてそれぞれの救
国会に再編成された。すなわち、ベトナム労働者救国会、ベトナム
ファシストによる二重のくびきのもとでも、わが国の人民は党の指
について次のような教訓を提起した。すなわち 、日本1 フランス・
る遊撃戦をすすめて数量、装備ともに絶対的に優勢な帝国主義者の
導により農村、森林 、山岳地帯に革命根拠地を建設し、長期にわた
農民救国会、ベトナム婦人救国会 、 ベトナム青年救国会、ベトナム
である。このほか、ブルジョア階級あるいは地主階級出身者で抗
救国自衛団(隊)、ベトナム児童救国会、ベトナム父老救国会がそれ
仏、日本駆逐に賛成する人々を結集するために、ベトナム救国会を
ルオン ・パン ・チおよびチュ l ・パン ・タンの諸同志を任命してパ
党中央は武装勢力への指導を強化するため、フン・チ・キエン、
的かつ柔軟であること、変転自在であること、集中したかと思うと
撃戦争の法則は、大衆に依拠すること、絶えず成長すること 、機動
隊の活動と発展のための広範な大衆的基盤がなければならない。遊
軍隊を消耗させ、消滅することができる。そうするためには、遊撃
ックソン1プl ニヤイに遊撃隊指揮委員会を成立させた。一九四一
宣伝を巧みに結びつけ、大衆を組織して裏切り者を一掃し、敵軍兵
分散し常に能動的であることにある。遊撃軍は軍事と政治、作戦と
新たに組織した。
年末、指揮委員会内の多数の誤った主張で、パックソンに駐屯して
遊撃戦争は 、党の指導のもとに日本1 フランス ・ファシストに反
士にたい して寝返り工作をすすめなければならない。
いた遊撃隊はナリ(パックカン省)経由でカオパンの方へ移動し、そ
ストの捜査と包囲討伐に対処するため、ディンカ1 1チャンサ(タ
る
。
対する運動のなかで現われた、ベトナム革命の新しい闘争形態であ
の途中伏撃にあい重大な損害をこうむった。フランス1 日本ファシ
一年七月から一九四二年二月まさにわたって遊撃戦争を起こし、困難
イグエン省プ lニヤイ県)に駐屯する救国軍の中隊が八カ月間(一九四
204
と世界の革命運動に強烈な影響を与えた。ベトナム人民はソビエト
ドイツ・ファシストに反対するソ連の祖国防衛戦争は、ベトナム
から、彼はただちに雲南にあったベトミン戦線の一組織である解放
蒋介石政府に逮捕監禁された。一九四三年九月一六日に釈放されて
一九四二年八月二九日、ホ l ・チ・ミン同志は中国での活動中、
会と連絡をとり、同時にグエン・ハイ・タン、グエン・トゥオン・
軍の一つ一つの勝利を自分たちの勝利とみなした。一九四三年はじ
め、ソビエト軍はスターリングラードで三三万の、ドイツ・ファシス
る抗日・仏組織││ベトナム革命同盟会と関係をつけた。このとき
から、ベトミン戦線とベトナム革命同盟会との連合がはじまった。
タム、ブ l ・ホン・カインらに牛耳られていた広西のベトナム人によ
しかし革命投機分子による破壊のため、この連合は実際にはわずか
ト軍を消滅し、全戦線にわたって猛烈な反攻戦略に転じた。この歴
1 フランス・ファシスト帝国主義者にとっては大打撃となった。日
な成果しかもたらさなかった。
史的勝利はベトナム人民にとって非常に大きな励ましとなり、日本
っていたにもかかわらず、党に指導され、すでに確信をもっていた
圏内では、わが党は一九四三年二月の中央常任委員会決議を実行
本1 フランス・ファシストの二重のくびきのもとで苦難の生活を送
ベトナム人民は、このとき自己の解放事業にますます強い確信をも
に移すなかでベトミン戦線を拡大し、学生、知識人、民族ブルジョ
のなかでは分化が起こっていた。一部は親日、一部は親仏、一部は
アジーを獲得するための活動を強化していた。当時、これらの階層
つにいたった。
そのころ、日本軍国主義者はインドシナのフランス植民地主義者
ベトミン支持である。親仏派は日ましに少数となり、親日派あるい
にたいして一歩一歩侵蝕する政策をとっていた。日本とフランスと
の問の矛盾、フランスのドゴ l ル派とフランス・ファシストとの聞
ョ的本性をますますはっきりと見せつけられて失望するにいたっ
た。ベトミンの影響はますます広がっていった。わが党はベトナム
は日本を利用していたもののうち、一部は日本帝国主義のファッシ
の民族ブルジョアジーとブルジョア知識人を援助して、民族ゃブルジ
の矛盾、インドシナにおける親日派と親仏派との問の矛盾などが日
情勢の変化に直面して、党中央常任委員会は一九四三年二月二五
ョアジーをベトミン戦線の側に引きつけるための一つの革命政党を
ましに先鋭化していた。
日から二七日にかけて会議を聞き、ベトミン戦線を強化・拡大する
ベ ト ナ ム に お け る 日 本 帝 国 主 義 の 欺 晴 的 な ﹁大東亜﹂政策を粉砕
結成させるべき時機が到来したと判断した。こうすれば、一方では
し、他方では日本1 フランス・ファシストに反対する民族統一戦線
ァシスト外国人居留民、主として抗戦に参加しているフランス人と
抗日に参加している華僑を結集すること、同時に蜂起の準備に力を
こと、インドシナ民主戦線の結成を準備してインドシナにいる反フ
注ぐことを決定した。会議は第八回中央委員会議(一九四一年五月)
︿
トナム民主党を結成させ、これをベトミン戦線に加入させた。
J
ツク・ヒエン大学生グループと﹃タインギ﹄ グループを援助してベ
をいっそう拡大することができる。このためわが党はズオン・ドゥ
7)
の決議精神をはっきりとかかげ、﹁蜂起を準備することがわが党と
(6 ﹀
わが民族の現段階における中心任務である﹂と指摘した。
会議ののち、全党がこれらの主張を実現するために奮闘した。
205
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第 二 部 植 民地支配下 のベ トナムと 独立への道
しとめることができないと悟った。そこで彼らは頚廃的な風俗を復
的な奮闘方向を明らかにした。ベトナム文化綱領の提起とあいまっ
面の任務を提起しただけでなく 、さらに社会主義リアリズムの方法
にもと守ついてベトナムの新しい文化を建設するための 、全党の長期
奴隷文化および愚民文化 に反対す ること 、 イ ン ド シ ナ の 新 民 主 主
活さ せ
、 改良主義思想をまきちらし、青年を﹁奉仕のための健康 ﹂
て、党は知識人と文化界をベトミン戦線に結集すベくベトナム文化
義文化を発揚すること ﹂ でなければならないと提起 した。綱領は当
運動へとまるめ込み 、革命の道から青年を引きはなすと同時に 、そ
。
人救国会の結成を準備 した
同時に 、党はベトナム人兵士にはたらきかける活動を強め 、ベト
ベト ミンの威信は 日ましに増大し 、ベトミンの影響力は日一日と
れによ って 彼 らの 肉弾に供する兵隊を徴募するために有利 な条件を
つくり出そうとたくらんだ。日本帝国主義者の方はダイピ エット派
ファシズム ・インドシナ民主戦線の結成をめざしてインドシ ナにい
隊兵とフランス人兵士にはたらきかけた。このほか 、党はさらに反
強まり 、 ベトナムの革命運動はさらに発展した。日本1 フランス ・
ファシス ト集 団 は、ただ弾圧と迫害だけではベ トナム革命の炎を消
を代弁者に したて アジア連邦﹂論を宣伝させてベトナムの人民大
﹁
、
衆を抱き込もうと図った。
義思想を ﹁理論的に打破﹂しようとたくらみ 、同時にベトナム民族
論や階級闘争の学説を悪用してベトミンの民族 ・民主思想と愛国主
書籍 ・新聞はきわめて豊富である。党中央機関紙﹃コ ・ザ イ フ ォ
国人居留民にはたらきかけた。
第二次世界大戦の期間に 、党とベトミン戦線が非合法に発行 した
るフランスのド ゴl ル派を含め 、 ファシズムに反対する民主 的な外
ナム軍人救国会を結成 して愛国的ベトナム人兵士を吸収し 、外人部
合法紙誌は ロマンティシズム 、堕落 、悲観、厭世的な詩歌 ・小 説
の数々で満たされた。ト ロツキスト分子のハン ト ゥエン出版社はい
の解放戦争の全歴史を中傷した。
ランのベ トミン戦線の宣伝 ・扇動機関紙 ﹃ベ ト ナ ム ・ドックラッ
ン﹄(解放の旗)、党理論機関誌﹃タップチ ・
コ ンサン ﹄ (雑誌共産)、ベ
トミン戦線の中央機関紙﹃クウクオック﹄(救国)、 カオ1パックー
わゆる ﹁研究 ﹂的性質の本を発行してマルクス主義を査曲し 、唯物
以上 のようなさまざまの文化 に反対し 、文化活 動 に 従 事 す る 人
プ﹄(ベトナム独立)、チュンキ l地方委員会の宣伝 ・扇動機関紙 ﹃ベ
i ・シ エン ・サット﹄(鉄鎖を断つ)、ナムキ l のベ トミン戦線宣伝・
人、知識人 、文学者たちを積極的にわが陣営に引きつけるため 、 一
文化戦線は
九四 三年に党の小 いムドレ長必紗僚が誕生した。綱領は ﹁
共産主義者がそこで活動すべき三つの戦線(経済、政治、文化)のう
組織の任務を果たす上記の新聞 ・雑誌のほかに 、党とベ トミン戦線
敵との政治 ・思想闘争と同時に 、党内とベトミン戦線内部における
、
は大衆的な宣伝書物や時事、
政
策
遊
撃
戦
争の学習 訓練用書物ある
いは活動経験についての書物をも発行 した
。 これらの書籍 ・新聞 は
扇動機関紙﹃、ザイフォン ﹄ (解放)などがそれである。宣伝、扇動、
ちの 一つである ﹂
、
﹁ ベト ナムの文化革 命 は 民 族 解 放 革 命 に 識 しな
ベ
ければならず、そう してこそはじめて発展の条件が与えられる
、
﹂
民族、科学 、大衆的﹂ と いう三つの性格を
トナム の新 し い文化 は ﹁
。
もち、党 によ って 指導さ れなければならない 、と明確に指摘 した
、 封建文化、退歩 ・
綱領はまた 、当 面 の 任 務 は ﹁ フ ァ ッ シ ョ 文 化
20
6
勝利を保証した。
思想面での闘争にも重要な役割を果たし、党と戦線の路線、政策の
B 一派は革命と共産党を隠れみのに同胞をあざむき、愛国者を偵察
め
、 A ・B 一派とたたかうよう呼びかける一方、﹁チュンキ lのA-
し、革命組織を破壊している。彼らはさらにあらゆス詳段を使って
懐疑を植えつけ、革命の隊列を分裂させようとしている﹂と指摘し
た
。 A - B一派を一掃することは、党の病根を切除することであ
党活動の点についていえば、当時の問題は思想・組織面で党を強
化すること、分裂、分派的傾向止ト掃し、党組織の純潔と健全を守
り、慎重に党を拡大し、 A ・B 一派が党内にもぐり込んで内部から
A ・B 一派に反対する工作のほかに、この時期にわが党は分裂、
り、それは党の体質を健全にした。
一九四一年五月の第八回中央委員会は、﹁幹部の養成は当面の差
党を破壊するのを防止することであった。
ックボでは、第八回中央委員会ののち、パックキ l地方委員会内に
分派活動に反対する党内闘争をもすすめなければならなかった。パ
めばえた個人主義と分派主義の傾向を一掃するためにたたかわなけ
し迫った活動となった。一分一秒たりともゆるがせにすることはで
ばならない﹂と強調している。このためいくつかの短期訓練班が常
ればならなか った(一九四一年)。 ナムボでは、党は﹃テイエンフォ
きない。党の各級指導委員会はこの活動に特別の注意を払わなけれ
に聞かれ、幹部を養成し鍛練した。幹部の欠乏状態にかんがみて、
四五年)。チュンボの諸同志もパンメトゥオット監獄で観点の違いに
以上のような内部闘争を経て、わが党はさらにいちだんと鍛えら
ン﹄と﹃、ザイフォン﹄の二つの派を統一するためにたたかった(一九
(日﹀
わが党は帝国主義者の監獄内実成された若干の幹部を救い出し、
運動にまわすよう適時に主張した。地下活動、機関組織活動、交通
根ざす分派思想を克服するためにたたかった。
れ、堅固となった。
給一動静 bhrについて、党は一方においてベトミン戦線を拡大し
一九四四年、ホアン・パン・トゥ同志がフランス・ファシストに
通信組織活動などの経験も総括され、幹部と党員に普及された。
を党に吸収することを決め、これを﹁ホアン・パン・トゥ記念﹂班
逮捕され処刑されたあと、中央常任委員会は新しいメンバーの一団
アジー、民族ブルジョアジーを団結させ、同時に若干の地主さえを
も引きつけその他若干の地主は中立化させるよう提唱した。しかし
すべてのジ l、階層の人民l l労働者階級、農民階級、小ブルジョ
パックボにおける A ・B 一派に反対する工作についていえば、党
他方において、党は労働者・農民の勢力を拡大し、労農同盟をベト
と名づけて数多くの優秀なメンバーを党に吸収し、ベトナム革命の
はキ l委員会内の若干の不満を抱く同志をだき込んで党中央に反対
の敵に反対する行動の統一を実現していくなかで、党はベトミン戦
ミン戦線の強固な基礎とすることを非常に重要視した。民族の共同
指導勢力を増強した︹訳注五︺。
し、党内に分派をつくろうとたくらんだコンを主謀者とする破壊事
どを要求する労働者の闘争は、職長や職員さえも参加させるにいた
線を着実に拡大してい った。賃上げ、労働時間短縮、罰金制廃止な
件を摘発した。
チユンボはディン・パン・ズィ l A ・B 一派の活動がもっともは
げしかったところである 。党 中 央 は チ ユ ン ボ の 同 志 に 警 戒 心 を 高
207
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〕の創設とその歴史
第 二章
第二部組民地支配下のベトナムと独立への道
得した。たとえば、穀物の徴発反対闘争、稲を引き抜いてジュート
こす べきであった。ところが 、現地 の党委員会は局部的な蜂起を勝
くわえ、好機の到来を待ち、全体の命令を待って全国的に蜂起を起
ど日本 U フランスが日ましに分裂し、日本ファシストが太平洋の多
くの戦線で連続的に敗北を喫していたこのとき 、本来ならば力をた
った。農民の闘争も、富農や一部の小地主の参加あるいは支持を獲
る闘争、日本 の市場略奪、壮 丁・扶役徴発反対闘争などがそうであ
し、自らを孤立に落とし入れるに等しい。蜂起が爆発した知らせを
手に起こしてしまったのである。これでは自分の力を先走って暴露
を
、 トウモロコ シを引き抜いてヒマを植えつける強制栽培に反対す
る。大衆運動が強い地方では、騒乱を起こす日本兵に打撃を与え、
受けると、党中央常任委員会は時を移さずこれを批判し、蜂起を地
裏切り者を一掃するなど 、なかば武装した闘争形態をとる闘争が現
方の遊撃戦に転じ伏撃、襲撃などの形で敵の森林捜索と掃討計画を
粉砕するよう決定を下した。しかしそれでも 、ディンカ蜂起とこれ
われた。またあるところでは、大衆闘争あるいは宣伝活動に衝突が
﹂酌卦勢かれい皆掛について、党は救国自衛部隊の発展に力を入れる
に続く遊撃戦は国じゅうに響きわたり、﹁武器を確保して共同の敵
起こると、武装自衛部隊が援護するということも見られた。
と同時に、ベトナム救国軍中隊の維持につとめ、武装宣伝隊を創立
一九四四年の冬、ブ l ニャイの人民と同じようにカオパン、パッ
乱させた。
を追い出そう﹂という各省の運動を力づけ、敵の兵士をいっそう混
クカン、ランソンの人民は帝国主義者にたいする憎しみをたぎらせ
そのころ 、ソビエト 軍はすでに多くの戦線で反攻し、勝利をおさ
し、武器を確保して蜂起の物質面での準備に注意を払った。
蜂
四年五月七日、 ベトミン中央本部は党中央の提案にもと寺ついて ﹁
っつ 、 いついかなる時にも武装蜂起を起こせる準備をととのえてい
、ホl ・チ・ミ ン同
めていた。ファシストの消滅は時間の問題にすぎなくなった。一九四
起準備への指示﹂を発し、運動のいっそうの高まりを推進した。
一九四四年八月一 O目、党中央は﹁武器を確保し 、共同の敵を追
であって、全国の情勢にもと守ついたものではない。すなわち部
て 蜂起の決議はカオーバックーランの情勢だけにも とづくもの
た。蜂起の銃声ぷ糟きわたろうとしていたとき
、 蜂起の延期を指示した。
志が中国 から帰国 し
れに熱烈に呼応し、武器購入基金に献金した。ベトミン中央本部は
い出せ﹂という呼びかけを行なった。統一戦線内の各大衆組織はこ
債券﹂を発行した。革命の空気が熱気
蜂起準備の資金を得るため ﹁
分だけを見て全体を見ていない。
じめたら必然的に失敗する。なぜなら、帝国主義者は全力を集
二
、 当時の条件では、 省連合委員会が決定した規模で遊撃戦をは
に満ちてわき起こり、各省のすみずみにまで広がった。
とりわけパックソン1ブl ニヤイとカオパンの両根拠地では、蜂
中して弾圧するだろうからである。もっと柔軟な武装闘争の形
起の準備がことのほか熱烈にすすんでいた。人民の各階層がみな勇
躍してこれに参加した。一九四四年一一月一三日夜、地方の党委員
態をとり、軍事より政治に重点を置き、まず運動をとことんま
で推し進めて政治的基礎をしっかり固めるべきである。
会がディンカ(タイグエン省ブ lニヤイ県)の人民を指導して蜂起に
立ち.
上がった。この蜂起は党中央の計画外のものであった。ちょう
208
ホl ・チ・ミン同志の提案にもとづき、カオパンの武装勢力を中
心にして一九四四年二一月二二日、 心ぃトレ解放軍骨骨除が成立し
た。その目 的 はカオパン根拠 地 から平原 地方およびデル タへと伸び
ザッ
グエン ・
る地 区で武装闘争の運動を起こすことにあった。ボ l ・
一
月
二 四日と二
イカットとナガンの二つの拠点を攻略し(一九四四年一 一
プ同志が指揮するベ トナム 解放軍宣伝隊は 、出発 したばかりでフア
ホl ・チ・ミン同志の英明な主張によって、カオパン省は重大な
昭
一
。
F H ) }︼
(
日)のo 色白
州一九四五年 七月一七日第 一玉号所載のチュ オン・チ
02
ン論文 ﹁ナム キl党委員会統一のため、ただちに路線に立ち戻ろう ﹂参
(凶)中国に滞在後一九四三年末に帰国し 、 一九四四 年に入ってホ l ・
チ ・ミン 同志 は再び雲南(
中国)に赴いて活動した。 同年末、 彼はカオ
パンに戻った。
(
日) ボ l ・グエン ・ザップ著﹃解放区﹄参照。
抗 日 救 国 の高揚 、い っせい蜂起への
準備および八月革命
エンクアン省)な どを 勇 敢 か つ 敏速 に 攻 略 し た 。 若 干 の 青 年 救 国 組 織
ら、遊撃部隊と人民は党の指導のもとにチョチュ l、ダ イ ト ゥ 拠 点
ハタイグエン省)、チョ ド ン拠点(パックカン省)、ソンズオン拠点(トゥ
本に抵抗した 。 日 本 と フ ラ ン ス の 仲 間 わ れ の あ と 、 三 月 一 二 日 か
それに反して、ベトナム人民はわが党の指導のもとに、勇敢に日
はま ったく臆病かつ卑劣であ った 。
りちらし残忍であったフランス植民地主義者は、日本侵略者の前で
国やタイに逃亡した。かつてベトナム人民にたいしてあれほど威張
ランス軍はインドシナ全域で日本侵略者に降伏するか、あるいは中
民地 主義者を一蹴 し、イ ンド シナを独占 した。三日間のうちに 、フ
五年三月 九日、日 本ファシストはク ーデ タ ー を 起 こ し て フ ラ ン ス 植
地主義者とのあいだに食うか食われるかの衝突が勃発した 。 一九四
まさにわが党が予測 したように、日本ファシストと JJUンス植民
七
五日)、ベトナム人民の武装闘争に新たな発展の時期を切り開いた。
自
]
。
損害を避けるこ とができ、カオリパ ックリランの運動は非常に高ま
りゆるぎないものとなっていった。
cm
(
1) 一九三九年一一月、第六回中央委員会の決議から。
(2) 一九四一年玉月、第八回中央委員会の決議から。
(3) 同右。
(4) 同右。
(5) フン・チ ・キエン同志はこの戦闘で犠牲となった。ルオン・パン ・
チ同志は捕えられ 、カオパン監獄で犠牲となった。
(
6
) 一九四三年二月、党中央常任委員会の決議から。
(
7) 第二次世界大戦の時期にハノイで出版されていた民族ブルジョアジ
ーの傾向をもっ進歩的な雑誌の名前。
(8) 党の ﹁ベトナ ム文 化綱領﹂から。
(9) 同右。
(
叩) A Bとは﹁反ボルシェビキ﹂組織の略称で共産党に反対し 、わが
σ
党の破壊を企図してフランス帝国主義者の手でつくられた。自己目
y
p の略。
のz
、 ソンラ、
(
日) 獄中の幹部は脱獄を組織して外に出た(パンメトゥアッ ト
チョチュ 、パlパン 、ギアロなどで)。
白山匂}︼O
(ロ)の
ロ∞一九四三年八月二六日、第八号参照。
209
インドシナ共産党 (ペトナム労働党〉の創設とその歴史
第二主主
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
各地方に分散して引きつづき革命活動をおしすすめた。ソンラその
ヤン拠点(フンイエン省)を攻略した。ギアロ監獄の政治犯が蜂起し、
と農民救国組織のメンバーは、一発の弾丸も使わずにパンイエンニ
を指導して人民の手に政権を奪取するいっせい蜂起にまですすむこ
とである、と確認した 。
議は、当時の情勢は蜂起の前ぶれであり、党の直接的任務は全人民
シストの運命を決定づける段階に入ったことである。したがって会
憎しみが極点に達していること。例 、戦争が激烈となり 、日本ファ
会議はまた次のように評価した 。敵の隊列と革命の同盟軍にはす
で解放をかちとった。クアンガイのパ lトl の政治犯は兵士と呼応
他各地の政治犯は日本・フランス聞の矛盾を利用し、自分たちの手
して蜂起し、敵の武器を全部歯獲してパ lトl遊撃隊を組織した。
主要な敵であり、当面の具体的な敵である ﹂。 日 本 に 打 倒 さ れ
の﹁
でに変化が起こった。日本ファシスト帝国主義者はインドシナ人民
たフランス帝国主義者はすでにインドシナにおける統治権を失い、
これはのちに第五連区人民軍の中核となった。このほか、その他若
ツト)、脱獄を組織して地方に戻り、運動の指導に復帰した(ハノイ
干の監獄にいた政治犯も釈放を要求してたたかったり(パンメトゥア
もはやインドシナ人民の当面の具体的な敵ではない。インドシナ人
日本がクーデタ ーを起こす数日前、当時ハノイ市郊外にあった党
ンを﹁日本ファシストを追い出せ﹂というスローガンに代え、日本
日フランス人は、今やインドシナ人民の﹁客観的な同盟軍﹂である。
このため会議は、 ﹁日本 、 フランスを追い出せ﹂というスローガ
民は ﹁
なおインドシナにおけるフランスの統治地内回復しようと図
るドゴ l ル一派の策動をくいとめなければならない﹂ けれども、抗
のホアロ l監獄)。
中央常任委員会は、日本軍がすでに緊急戦闘準備の命令を受け、フ
ランスのイン、ドシナ総督、ドクlが日本軍に招喚されてサイゴンへ赴
同じく一九四五年三月九日の夜、党中央常任委員会はパックニン
と親日裏切り者グル ープのカイライ政権に反対して、﹁インドシナ
き、降伏を強要されているという情報をつかんだ。
省トゥソン県のディンパン村で拡大会議を聞き、情勢を分析して当
人民の革命政権を樹立しよう﹂というスローガンをかかげることに
会議はさらに、宣伝、扇動、組織、闘争形態を蜂起前夜の情勢に
決定した。
面の緊急任務を提起した。
会議はクーデターの原因を明確に分析し、フランス軍の敗北と日
本軍の一時的勝利を予測し、日本ファシストとその親日カイライは
者の穀物倉庫をたたきこわし、飢僅を解決すること、広範な人民大
適したものに変えること 、とくに武装した人民を指導して帝国主義
衆を動員して街頭デモをすすめ 、 いっせい蜂起へ持っていくこと、
インドシナにおける政権を固めることはできない。それとは逆に、
武装蜂起の条件をいまや急速に成熟させていると指摘した。インド
条件のあるところでは遊撃戦を発展させ 、地方での権力を奪取する
クーデタ ー は政治危機の情勢をいっそう深め、まだ成熟していない
シナにおける蜂起の条件を急速に成熟させる好機とはーーー刷、政治
いっせい蜂起への前提とする﹂ことと、﹁条件がそなわったときい
ことを決定した。会議は﹁強力な抗日救国の高まりをまき起こし 、
ω、厳しい飢僅が広がりつつあり、略奪軍にたいする大衆の
こと。
危機の情勢が先鋭化し、敵軍が革命に対処する余裕をなくしている
2
1
0
つでもいっせい蜂起に移れるよう準備をととのえておく﹂ことを決
定した。
トナム救国軍、ベトナム解放軍宣伝隊はじめその他の各武装組織を
統一してベト小レ解勝手乞編成すること、各種の武装自衛部隊と戦
設していっせい蜂起のための幹部を養成することを決定した。会議
闘自衛部隊を発展させて遊撃戦を強化すること、抗日軍政学校を開
はボ l ・グエン・ザッブ、チュ l ・パン・タン、パン・ティエン・
これらのすぐれた分析と重要な決議は、党中央常任委員会が提起
摘されている。この指示は党とベトミン戦線の、一九四五年三月か
の会議の決議﹁いっせい蜂起へ前進しよう﹂は、﹁日・仏の衝突と
ズンらの諸同志からなるパックキ l革命軍事委員会を選出した。と
した重要指示﹁日・仏の衝突とわれわれの行動﹂のなかで明確に指
ら八月までの時期における全行動を導く指針であった。党中央常任
われわれの行動﹂を部分的に具体化したもので、党中央常任委員会
委員会の拡大会議(一九四五年三月九日t 一二日)と党中央常任委員
会の一九四五年三月二一日付指示は、八月革命の勝利に決定的な役
の承認を得た。
区は全国の主要な革命根拠地となり、同時にそれはその後の新しい
ザンの六省を含む解放区が正式に成立した。ここでは各級人民革命
安長会がつくられ、ベトミンの諸政策を実行に移しはじめた。解放
パン、パックカン、ランソン、タイグェン、トゥエンクアン、ハー
から省にいたる革命政権を打ち立てた。一九四五年六月四日、カオ
いった。すなわち武装宣伝、裏切り者を一掃し、若干の地方では郷
パックキ l革命軍事会議の開催後、軍事活動は日ましに拡大して
割を果たした、ということができる。
一九四五年四月一六日、ベトミン中央本部も党中央の三月指示に
e
もと つ
いて、解放委員会の組織化にかんする指示を発した。これは
各級、すなわち企業、郷、県、省、市、特別区、ス l ︹訳注六︺を
含む各級の﹁政府の前身﹂的形態をもつもので、全国的には小いムド
ム解放民族委員会つまりベトナム臨時政府を樹立することであっ
ベトナム解放軍と戦闘自衛部隊は日ましに活動を強めていった。
た。ベトミン中央本部の指示によると、解放委員会は蜂起前の一時
期における任務だけを遂行し、いっせい蜂起がはじまれば、解放委
員会は解散して企業のなかに少働者辛か安長会、各地方にはん骨辛
チョチュ l、デオケの伏撃戦とタムダオ拠点の攻撃は全国に大きな
組織の指導のもとに決起してドンチエウ、チリン、マオケ、チャン
影響を及ぼした。一九四五年六月八日、ドンチエウの人民は地方党
ベトナム国家のひながたでもあった。
五年四月一六日付指示は、革命政権の樹立といっせい蜂起が勝利し
命委員会を設立することになっていた。ベトミン中央本部の一九四
たときに人民が政権を握るよう準備するうえでその役割を果たし
パックの敵軍を武装解除し、カイライ政権を打倒して人民革命委員
た。この指示が各地方に伝わると、解放委員会がすぐさまつくられ、
大衆から熱烈に擁護された 。当時、多くの地方で解放委員会と地方
会を打ち立て、ドンチエウ戦区を確立し地方の抗日遊撃隊をつくっ
チユンボでは、パ lトl遊撃隊がいぜんとして活動をすすめ、急
た
。
カイライ政権機構というこつの政権形態が同時に存在していた。
一九四五年四月一五日から二O日にかけて、党中央常任委員会は
A mトトぃ廿平和岳辛会訟を聞き、そこで各鳥図を分割すること、ベ
211
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部様民地支配下のベトナムと独立への道
た。同時に、党中央は日本がクーデターに成功し、事実上フランス
て﹁政権をかちとれ﹂と 主張する 、右 翼 日 和 見 主 義 思 想 を 批 判 し
ザン地区の運動が発展していた。
ナムボでは、ミ lトとハウ 、
﹁日本1 フラン スを追い出せ ﹂というスロ ーガ ンを持ちつ事つけた
がもはやインドシナで何らの権力を持たなくなったのちにもなお
速に発展していた。
このころ、党は日本の影響に反撃するため新聞やその他の形式の
﹃、ザイフォン﹄紙内の同志の﹁左﹂翼偏向思想をも批判した。以上
宣伝工作にと くに注意を払い、親日思想や日本を恐れたり、日本を
両紙の観点はいずれも間違 っていたが、両紙ともはげしい言葉で互
いに攻撃しあ っていた 。党中央は双方の間違 っているところを指摘
利用しようなどという思想を打ち破った 。
、 ダ イピエット、国
党は日本とフ ックピエ ット、フ ッククオ ック
するとともに、ナムボの諸同志に中央の正しいスロ ーガンに従い分
行するよう呼びかけた。
民党など親日派の欺楠的な手くだと、トロツキストの挑発・破壊の
いう日本侵略者の大東亜計画で人民をベテンにかけた。党は人民に
結させ、あらゆる力を当面の一つの目標ーーいっせい蜂起による権
力奪取に集中するためであ った。
い っせい蜂起を準備していたとき、パ ックボおよびチュンボ北部
派、分裂状態に終止符を打ち、団結して党の路線、政策を厳粛に執
は っきり指摘した。﹁:::日本を信ずることは自殺することである。
親日裏切り者分子に従うことは、扶桑の猛獣︹日本帝国主義を指す︺
の毒液を飲むにひとしい 。日本侵略者にたいしては一つの方法千ゅ
ない 。全人民が心を一つにし、武器を取 って抵抗することである﹂。
で恐ろしい飢僅に見舞われ、何百万もの人民の生活がおびやかされ
げ、﹁共同外交、軍事同盟、経済協力、文化交流、政治的独立﹂と
チャン ・チョン・キム政府の改組を主張し、日本との平和交渉に
た。 とれは日本1 フランス・ファシストの搾取と戦争政策の結果で
論調を徹底的に暴露した 。親日派はニセの独立のスローガンをかか
よ って﹁独立を かちとり﹂、親日カイラ 〆政府を通じて﹁立憲君主
ガンを打ち出すとともに、これを大衆動員 の中心スローガンとして
させ、﹁大衆的な政治隊列﹂を急速に発展させ 、同時に各武装勢力、
何百万もの大衆をデモに導き、彼らがい っせい蜂起へと前進する訓
練を行な った。すなわち、ベト ミン戦線の各救国組織を大胆に発展
あった。党は﹁穀物倉庫を破り、飢僅を救え!﹂という闘争スロー
以上のす べての宣伝工作と思想闘争は、主として全党全人民を団
制憲法﹂を発布しようと望む一部小ブルジョア知識人出身幹部の誤
った思想を、党は批判した 。党はこうした傾向を非常に危険である
が人民に方向を見失 わせ、日本侵略者にたいする幻想を生み、日本
と考えた 。なぜならそれは、日本ファシストに粉飾をほどこし、わ
侵略者と親日カイライ分子にたいするわが人民の認識をあいまいに
ー い っせい蜂起
武装自衛部隊、遊撃隊を発展させて決定的な衝撃ーー
当面の生存権と完全に一致したため、大衆から熱烈に支持され積極
﹁穀物倉庫を破り、飢僅を救え!﹂というスローガンは、大衆の
による権力奪取を準備した。
し、蜂起による権力奪取 の目標をゆがめるからである 。
党中央はさ らに、ナムボ の ﹃ティエンフォン﹄紙内の同志が、早
くも一九四五年三月九日のクーデター前からフランス・ファシスト
反対のスロ ーガ ンを勝手に取り下げ、クーデター以降日本を利用し
212
ボとチュンボの多くの郷村に広がっていった。日常闘争のなかで、
的に遂行された。穀物倉庫を破る闘争があいついで爆発し、パック
けるソ連政府声明を実施した。
本攻撃に参加することを決定し、ヤルタ会議(一九四五年二月)にお
とめられようとしていた 。 一九四五年七月、ソ連は東方戦線での日
るタンチヤオ(トクエンクアン省ソンズオン県)に帰ってきた。ホ l ・
一九四五 年夏、ホ l ・チ・ ミン同志は解放区内の革命司令部があ
党は経済スローガンと﹁日本ファシストを打倒し、権力を人民の手
に奪取しよう!﹂というスローガンをも含めた政治 ス ローガンを結
チ ・ミン同志を中心とする党中央は、党の全国会議と国民大会の招
集を決定した。
以上の闘争と並行して、裏切り者やカイライを一掃し、ゴロツキ
びつけることを忘れなか った。
を退治し 、日本へのモミ供出と納税をしないよう官吏や区長、村長
には各党委員会の代表と国外で活動していた一部の代表が参加し 、
全国会議は一九 四五年八月二ニ目、 タンチャオで開幕 した 。 これ
に警告したり 、市場、船着場、企業、学校、劇場などで突撃宣伝隊
の演説や武装宣伝をすすめるなどの闘争にはさみ込んでい った。ピ
い っせい蜂起を決定するとともに蜂起指導の三原則│ │集 中 ・統
一・好機を提起した 。
ラ、ポスター 、金星紅旗があらゆるところに現われ、日本の兵営や
カイライ政権機構の事務所にまで現われた。ベトミンの声望は都
会議は ﹁
勢力を重要地区に集中し﹂、﹁軍事と政治を結合し﹂、﹁敵
軍の神経を撹乱し 、進攻す る前に投降を勧める﹂べきであることを
市、農村、デル夕、山岳地帯のすみずみにまで響きわた った。労働
全国会議は主要な問題であるいっせい蜂起を 打ち出したほ かに 、
強調した 。
権力を奪取したのちの対内 ・対外面にかかわる多くの重要な問題を
者、農民 、小商人、小業主、学生 、公務員が勇躍して革命に参加し
たが 、 そればかりでな く この頃には民族ブルジョアジ ーと 一部の地
主(大部分は小地主)も革命に傾 くか革命を支持した。各救国組織、
対内面について 、会議は大衆への宣伝 ・教育活動と大衆の組織工
作、まず第一にベトミン戦線内の各団体にたいする宣伝と教育を重
決定した 。
革命的秩序を 打ち立て、人民 の生命と財産を守った。多くの地方の
ンの 一
O大政策を採択す るとともに、これを全党と全人民の当面の
視すべきこと、 ベトナム民主共和国の国旗と国歌を規定し 、 ベトミ
とくに救国自衛部隊と戦闘自衛部隊はそれまでには見られなかった
人民はカイライ政権にとりあわず、日常生活上の衝突やもめごとは
早さで発展した。多くの地方で敵の政権機構がマヒしていた。末端
の解放委員会は社会の秩序 、治安維持工作の組織化に立ち上がり 、
カイライ政権の頭をとびこえ 、直接解放委員会に行ってその解決を
基本的な政策とすること 、さらに農業生産、なによりも食糧生産に
注意を払わなければならないことを強調した。
対外面について 、会議はイギリス 、 フランス 、 アメリカ、蒋介石
頼むようにな った。
世界大戦は終結段階に入 った。 ドイツ・ファシストとイタリア・
の間の矛盾を徹底的に利用すること 、単独で同時に多くの敵に対処
蜂起の空気が全国にみなぎっていた。
ファシストはすでに降伏した。日本ファシストもまもなく息の根を
2
1
3
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
けフランス人民と中国人民の同情と支持を極力かちとるべきこと、
しなければならない状況を極力避けること、ソ連と世界人民とりわ
って日本と日本の手先の手から権力を奪取し、そして連合軍が日本
の敗北を徹底的に利用し、連合軍がインドシナへ入る前に立ち上が
、、、、、、、、、、、、
して次 の点をはっきりと指摘した。ベト ナム人民は日本ファシスト
軍の武装解除にきたら、国家の主人としての地位に立って彼らを迎
わが国を再び侵略しようとするフランス植民地主義者の陰謀と、わ
が国を﹁属国﹂に変えようとする蒋介石の陰謀を粉砕すること、な
大会はベトミンの一 O大政策を採択し、ベトナム解放民族委員会
えるようにしなければならない。
すなわちホ l ・チ・ミ ン同志を中心とするベトナム民主共和国臨時
会議の決議は、ベトナム人民を指導して権力の奪取に立ち上がら
どの主張を明確に提起した。
せるベ パ全 党を導き、同時に全党と全人民に蜂起が勝利したのちに
政府を選出した。
た
。
:::現在、日本軍はすでに互解し救国運動は全国に広がってい
親愛なる同胞諸君!
全国同胞への手紙のなかで 、ホl ・チ ・ミン同志はこう呼びかけ
いたるところに下り、人民大衆の心をふるい立たせた。
日本軍降伏のニュースは全国に伝わった。いっせい蜂起の命令は
執行すべき方針・政策を指し示した。
一九四五年八月二ニ日夜、ベトミン中央本部に蜂起委員会が成立
貯ずかを発した。
し
、 EFAr
:::蜂起のときがきた!ベトナムの軍民にとって、国家の独
全国の人民よ!
・
・
・
・
・
。
立権獲得に立ちあがる機会である ・
:::われわれは高度の果敢さと慎重さをもって敏速に行動しな
完全な勝利は必ずやわれわれのものである !
被抑圧民族は、いま権力と独立を かち とるべく競って前進してい
よ立ち上 がれ 、 われわれの力で自らを解放しよう。世界の多くの
われわれの民族の運命を決するときがやってきた。全国の同胞
る
・
・
・
・
・・
全国会議の閉会につやついて一九四 E年八月一六日、国民大会がタ
のだ!
ければならない!祖国はいま諸君の偉大な犠牲を要求している
ンチヤオで聞かれた。大会には中、南、北部の各政治党派、人民団
る。われわれはおくれをとってはなみ比ぃ 1 前進 1 前進 l
ベトミンの旗のもとに勇敢に前進しよう!
ホl主席の呼びかけにしたが って 、全人民は心を一つにして立ち
体、各民族 、各宗教および国外から帰った若干のベトナム人海外居
かつてなかった。
、、小い小ん併か EFはタンチヤオを出発し、当時まだ日本侵略者の手
上がった。民族の不屈の意志が 、 これほど強くふるい立ったことは
中にあったタイグエン市に進撃した。全国的に各武装組織、自衛部
住者の代表六O名が出席した 。全国各 地のベトミン代表とベトナム
の各民族代表は 、 このときはじめて自分たちの敬愛する指導者ホ l
国民大会はインドシナ共産党とベトミン中央本部のいっせい蜂起
主席にまみえた。
の主張に熱烈に賛成した。大会ではチュオン・チン同志が党を代表
214
隊、救国組織と全人民が蜂起に立ち上がり、権力を奪取した。
連絡が困難なため、多くの地方が中央のいっせい蜂起命令をまだ
受け取っていなかった。しかし中央の指示﹁日・仏の衝突とわれわ
)0
八月二五日、チャン・フイ・リエウ同志を団長と
ハノイ蜂起の勝利につ寺ついて、フエでの蜂起が勝利した(一九四
五年八月二三日
する中央政府代表団がフエに赴き、パオ・ダイの退位を受理した。
ナムボでは、一九四五年八月二五日、一 O万以上の大衆がわが党
コンーダオに監禁されていた政治犯が立ち上がって島の権力を奪取
の指導のもとにデモを行ない、サイゴンの権力を奪取した。同日、
れの行動﹂にもと守ついて人民を立ち上がらせ権力奪取を指導した。
一九四五年八月一四、一五日、解放区近くにある多くの日本の拠点
1 タイン戦区、クアンガイ省
ニン
HH
省都からはじまって県、郷で終束している。この形態はナムボニ一
しかし八月革命は別の形態でも行なわれた。一部の省では蜂起が
ボ北部の二九省でもこの形態がとられた。
などでとられたばかりでなく、蜂起のさいにパックボ平原とチユン
クボ平原地区、第四戦区、ホア
こうした蜂起の形態は、蜂起前の時期にベトパック解放区、パッ
から市内へと発展していった。
蜂起の波は山岳地帯からデルタへ、村から県、県から省へ、郊外
し、自らを解放した。
がわが軍によって攻略された。クアンガイ省の人民は八月一四日か
ら農村で蜂起を開始した。八月一七日、ハティン省の人民が省都で
蜂起し権力を奪取した。同一八日、パック、ザン、クアンナム省の人
民も省の権力を奪取した。
首都ハノイおよび二大都市フエとサイゴンにおける八月いっせい
蜂起の勝利は、まことに決定的な意義をもつものであった。
ハノイでは、わが党が積極的に蜂起を準備していたとき、親日お
反対しようとたくらんだ。一九四五年八月一七日、全公務員組合は
省のうち一五省とチュンボ南部の七省でとられた。
よび親仏反動分子は﹁救国委員会﹂をつくり、大衆を迷わせ革命に
チャン・チョン・キムリカイライ政府支持の集会を聞いた。この集
八月いっせい蜂起は二一日間(一九四五年八月一四日から二五日)で
た
。
チユンボとナムボの残り八省では、市と県で同時に蜂起が爆発し
(9)
会はベトミン戦線の呼びかけに応えたハノイの人民大衆によって猛
烈な反対を受け、ベトミン戦線支持集会に変わった。革命の雰囲気
が沸騰した。多くの企業、機関、商庄が閉鎖した。政治的ゼネスト
全国的に勝利をおさめた。中央から村落段階にいたるまで、人民革
が爆発した。
一九四五年八月一九日、党の指導のもとに一 O万をこえるハノイ
び党外の人々の参加をえてベトナム臨時政府が改組された。
一九四五年九月二日、ハノイのパ lディン広場に玉O万のハノイ
命政府が樹立された。一九四五年八月二七日、ベトミン戦線外およ
人民と若干の省からきた人民が集まり、ベトナム民主共和国最初の
の人民がデモを行なった。このデモはすぐに首都における権力奪取
ハノイ蜂起の勝利は全国の都市と多くの農村地帯における運動を
臨時政府を歓迎する集会が聞かれた。
の蜂起に変わった。
た
。
刺激した。この勝利は、八月革命全体の勝利に大きな影響を及ぼし
216
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二主主
第 二 部 植 民 地 支 配 下 の ベ トナムと独立への道
衆の役割を肯定した。事実、八月革命は党の指導下における人民の
﹁
独立宣言﹂は歴史の創造者、革命事業の完成者としての人民大
たな輝かしい時期を聞いた。
げ、 ベトナム民主共和国の誕生を宣言し 、ベトナム民族の歴史に新
臨時政府を代表してホ l ・チ ・ミン主席が﹁独立宣言﹂を読み上
員の犠牲的精神によるものであり 、とりわけ重要なことはわが党が
団結してたたかう力 、党幹部、党員 、ベトミン戦線内の各救国会会
圧されている労働者階級と人民も誇りに してよい﹂。
このような偉大な勝利をかちと ったのは 、第一にわが国全人民の
ことを 、 わがベ トナムの労働者階級と人民ばかりでなく 、他国の 抑
じめて 、 わずか一五歳の党が革命を成功に導き全国の権力を握った
わが党は誕生したときから 、わが国社会の科学的な分析を基礎と
広範な民族統一戦線内に結集すること
決し 、 す べ て の 勢力 を 労 農 同 盟 に 基 礎 を お く
反 帝 ・反 封 建 の 二 つ の 任 務 の 関 係 を 正 し く 解
れに次のような経験・教訓を与えてくれた。
八月革命はわれわれに何を教えたであろうか。八月革命はわれわ
つくり出していたからである。
よ って、わが国人民の蜂起による権力奪取にきわめて有利な条件を
が世界で日本ファシストを含むファシス ト侵略者に戦勝したことに
他方 、八月革命が勝利したのは、部分的には英雄的なソビエト軍
たためである。
マルクス ・レl ニン主義を創造的にわが国の具体的な条件に適用し
(M)
功績であ った。独立宣言は次のように述べている。
八O年 以上にわたって、フランスの奴隷の首カセに恐れること
なく反対してきた民族 、最後の数年間を連合国の側に立って 恐れ
ることなくファシストに反対した民族、 この民族こそ自由になる
べきである!この民族こそ独立すべきである!
ベトナム国は自由と独立を享受する権利がある 。 そし て事
:
実上・
すでに自由 、独立の国家とな った。全ベ トナム民族はすべて
の精神と力 、生命と財産をもってその自由と独立の権利を守るべ
く決意しているが
一九四五年九月二日は 、永遠にわが民族のも っとも輝かしい日で
ある。
ベトナム革命に呼応して 、ラオス人民もスファヌボン殿下を中 心
とするラオスの民主愛国者の指導のもとに立ち上が って権力を奪取
した。同時に 、 カンボジア人民も闘争に立ち上がり 、民族の諸権利
をかちと った。
して二つの基本矛盾を明らかにし 、解決すべき二つの基本任務││
におよぶ封建皇帝の抑圧を終わらせ 、ベトナム人民を奴隷の状態か
各国と世界に強い反響を呼び起こした。
八月革命の勝利は 、八O年以上にわたる帝国主義の支配と数千年
びついている 。 この二つの戦略任務は人民民主主義革命の全過程
人民民主主義の反帝 ・反封建というこつの任務は、互いに密接に結
封建地主階級を打倒して土地改革を実現すること││﹄を提起した。
侵略者フランス帝国主義を追い出して民族の独立をかちとる 三と、
ら国家の主人にした。﹁植民 地・ 半植民地民族の革命史上で今回は
ベトナム革命は二つの隣国の革命に直接影響を与え 、東南アジア
1
2
1
6
ず第一に党がそれら各階級、各階層の切実な利益と合致した正しい
路線、政策をもたなければならない。同時にまた全人民の民族的精
条件が生まれた。各階級、各階層の人民を幅広く結集するには、ま
戦術をもっていたわけではない。実践闘争を経て、党中央の第六回
神を動員できる適切な、豊かな組織形態をもたなければならない。
を通じて決して変わることはない。しかしながら、わが党は決して
会議ご九三九年二月)からそれに続く第七回会議(一九四O年 二
して堅固 な労農同盟を築かなければ ならない。堅固な労農同盟を基
広範な民族統一戦線が結成されるためには、まず第一に、また主と
最初からこの二つの任務を適切に結びつける方針について認識し、
はようやく反帝の任務と反封建の任務を正しく結びつけることに習
月)にいたり、そしてとくに第八回会議こ九四一年九月)でわが党
熟し、帝国主義者とその手先に反対する任務がもっとも主要な任務
とができる。民族統一戦線が拡大されればされるほど、労働者階級
と党の単一の指導権はますます打ち固められ強化される。党はまた
礎としてはじめて、中間階層を広範な民族統一戦線に参加させるこ
任務を第一位に置き、革命のほこ先を当面の主要な敵である日本1
戦線内での党の指導権を堅持するために、﹁左﹂翼偏向と右翼偏向
であると見なすようになった 。 そのことから、わが党は民族解放の
フランス ・ファシストとその手先につきつけるため、すべての愛国勢
に反対する闘争をすすめなければならない。
く解決すること 、民族解放 の問題を強調すること 、広範 な民族統一
八月革命の成功は、反帝と反封建というこつの任務の関係を正し
力を結集した。これはこの時期におけるわが党の偉大な創造であっ
主主義革命の過程にと って非常に大きな影響力をもっている。民族
戦線のなかにすべての革命勢力を結集して敵を孤立させ打倒するこ
た。わが国のような植民地国においては、民族の要素が民族人民民
的要素は労働者と農民の革命運動を推進するばかりでなく、他の人
いる。
と、これが党にとっての主要な教訓の一つであ った ことを証明して
(凶)
な性格を大部分決定づけている要素である﹂。わが党は民族解放の
ほこ先を当面の具体的な敵に集中すること
敵の隊列内部の矛盾を徹底的に利用し、革命の
民諸階層の愛国心を刺激する。﹁::・ ・
民族的要素は植民地革命に特有
看板を使って大衆をだまし、大衆を抱き込んで主人のすげ変えをし
旗を高くかかげ、この旗を堅持して奮闘した。このため﹁民族﹂の
ム国民党などのごとき)に打ち勝つことができた。
ダイピエット 、フ ックピ エット、ベ トナ
ようと画策する反動グループ(
とを証明している。したが っても し当面の主要な敵をは っきり 見き
八月革命は、一国の革命は一時期に多くの敵をもつものであるこ
シストとその手先につきつけるため広範な民族統一戦線を結成し、
ることができない。
わめず、革命闘争のほこ先をそこに集中しなければ、革命は勝利す
八月革命の時期に、わが党は地主階級の分化戦術をとり、若干の
敵を徹底的に孤立させ打倒するために団結しうるすべての人々と団
わが党は革命のほこ先を当面の主要な敵、日本 H フランス・ファ
2
結し、獲得しうるすべての人々を獲得した 。敵を徹底的に孤立させ
ればさせるほど、ますます各階級、各階層の人民を幅広く結集する
217
インドシナ 共産党(ベ トナム 労働党〉の創設 とその歴 史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
の地主を中立化し、一部の地主(とくに何らの 権力ももたない小地主)
の局部的な、一時的な諸矛盾をうまく利用して彼らを分化させ、革
も、革命の同盟者足りうる人々と条件づきでの連合を実現すること
を心得なければならない、と 。 八月革命の時期に、わが党は敵内部
地主とファシスト帝国主義者との聞の矛盾を利用した。これは若干
を獲得してファシスト帝国主義者と売国裏切り分子に反対する民族
命にと って当面の具体的な敵に闘争のほこ先をつきつけた。
れていなければならず、また敵を分化させるための正しい戦術をも
敵内部の矛盾を利用できるには、党の戦略方針がしっかりつかま
統一戦線に参加させるためであ った。わが党は日本ファシストとフ
たなければならず、絶えず人民の巨大な革命勢力を発揮しつ寺つけて
ランス・ファシストとの間の矛盾、親仏派と親日派との聞の矛盾を
ド
ゴ l ルを区別し、フランス植民地主義
しては、わが党はベタンと 、
革命の﹁間接的予備軍﹂とみなしていた 。 フランス帝国主義にたい
敵と闘争していなければならない。これは八月革命におけるもう一
つの重要な教訓であ った。
し、それをわが国の具体的な条件に創造的に適用したことを証明し
功は、わが党がマルクス・レ l ニ ン 主 義 の 暴 力 革 命 の 思 想 を 貫 徹
支配階級が革命を起こして支配階級を打倒するためには、暴力革命
をも って権力を自らの手に奪取し なければならない 。八月革命の成
級はいかなるときも自ら国家権力を放棄するようなことはない。被
権力の問題はすべての革命において基本的な問題である。支配階
奪取すること
農村での蜂起と都市での蜂起を結合して権力を
暴力革命の思想を貫徹し、武装闘争と政治闘争、
者の隊列を分化し、闘争のほこ先を日本日フランス・ファシストに
集中するためにドゴ l ルとの条件っき連合を主張した。日本がクー
デターを起こしてフランスを打倒(一九四五年三月九日)したあと、
わが党は﹁日本、フランスを追い出せ﹂というスローガンを﹁日本
ファシストを追い出せ﹂というスローガンに変えた 。 これは草命の
ほこ先を日本ファシストとその手先に集中するためであ った。 それ
と同時に、わが党は抱き込むことのできる人々を抱き込み、中立化
できる人々を中立化してすばやく親日派の隊列を分化するととも
に、親日派の頭目である頑固分子を極力孤立させてこれを打倒し
た。日本ファシストがソ連および連合国に降伏したさい、わが党は
インドシナにいる日本軍内部の 主戦派と降伏派との聞の矛盾を利用
た。帝国主義者によって残酷無 比 の抑圧を受け、わが人民が民主的
し、武装蜂起で権力を奪取するほかに道はなく、単純な政治闘争で
の解放を実現するためには革命の武力をもって反革命の武力に反対
地・半封建国家の下で誕生し成長したわが党は、民族の解放と階級
自由の権利はもとよりブルジョア民主主義的自由すらもたない植民
て、わが党は心から国を愛している人々を味方につけ、愛国を装い
たとえそれが一時的で不安定であろうと、弱く条件づきであろうと
は、指導する党が敵内部の一時的な矛盾をとらえてこれを利用し、
レi ニンはこう教えている 。階級闘争において勝利を得るために
た
。
つつ帝国主義者の手先となり、革命を破壊する挑発分子を孤立化し
した。国内外のベトナム国民党、ベトナム革命同盟会などにたいし
3
ヌ1
8
力を動員し、政治闘争と武装闘争を結合し、個々の蜂起をいっせい
したため、時機が到来したとき党は時を移さず全武装勢力と政治勢
わが国のようなもともと植民地・半封建国家での民族解放革命に
武装蜂起にまで高め、全国で権力を奪取することができたのである。
はだめであり、まして合法的な平和闘争に幻想を抱いてはなおさら
ベトナムの八月革命における暴力的性格のも っともきわだ った特
だめだということを早くから見抜いていた。
徴は、党の指導のもとに全人民が立ち上がったこと、党が武装暴力
であってはならず、また全国で蜂起の条件が熟すのを待つだけであ
おいては 、はじめ からおわりまで持久的な武装闘争をすすめるだけ
ってもならない。そうではなく、革命勢力を守り発展させるために
と政治暴力を結びつけて権力を奪取したこと、そのなかで﹁大衆的
れの地方、それぞれの時期に適応させて武装勢力と政治勢力、武装
の生命・財産を守り 、個 々の蜂起を成し遂げそこからいっせい蜂起
政治闘争と武装闘争を結びつけ、武装勢力を建設・発展させ、大衆
政治部隊﹂が決定的な役割を果たしたことである。わが党はそれぞ
じめにかけて、なかんずくこの時期のはじめごろ、人民の政治闘争
闘争と政治闘争を巧みに結合した。一九三九年末から一九四五年は
がまだ弱く、敵の力がまだ相対的に安定していたころ、わが党は蜂
と武装勢力を組織し、敵の権力機構が相対的に弱 く、革命幹部が容
広範な農民の勢力が根をはっている農村に依拠して強大な政治勢力
民主戦線の時期以降、わが党は工作の重点を農村に移した。党は
へと前進していかなければならないのである。
た。党は全国での宣伝工作を大いにくり広げたが、決定的な役割を
起の準備工作において﹁軍事より政治に重点を置く﹂方針をとっ
もっ交通の要衝地点にはとくに注意を向けた 。大衆の政治的基礎組
が悪く、革命にとっては遊撃闘争をすすめ根拠地を築く条件がそな
易に潜伏できる農村に依拠して大衆にはたらきかけ、交通連絡の便
わった農村に依拠して力をたくわえ、弱を転じて強とし、進んで敵
織のうえに、党は武装組織や半武装組織を建設し、山林地帯に武装
抗日救国運動の力強い高揚とあいまって、蜂起的性格をもっ多くの
て組織化されると、農村は革命の比類なき堅固なトリデとなるであ
軍に打ち勝 ってい ったのである。農民階級が党の指導のもとに改め
根拠地を築いた。一九四五年三月九日の日本によるクーデター後、
遊撃戦がつぎつぎにわき起こり、地方に多くの革命根拠地と革命権
わが党は主要な革命の陣地を農村に建設することに注意を払 った
ろう。
力機構が成立した。全国的に見ると﹁軍事より政治に重点を置く﹂
方針がやはり主流であったが、武装勢力が主として決定的な役割を
果たしたところもある 。武装勢力を確立し蜂起を準備するなかで、
は一国の政治・文化の中心であり、帝国主義者の政治・行政機構が
が、都市の役割を軽視したわけではない。各大都市、とりわけ首都
そこにある 。都市から離れ、都市に基盤をもたなければ党は一般情
ころとなり、また全国の人民大衆に呼びかける旗じるしとなった。
日本のクーデター(一九四五年三月九日)後、わが党は武装勢力を
っせい蜂起を起こしたとき、ただちに敵をその巣窟でマヒさせてし
勢をつかみにくく、敏速な方向転換の決定も下しにくい。しかもい
革命根拠地は革命の中枢機関を守り、革命勢力の力をたくわえると
に、大衆的政治部隊を発展させることにも力を入れた。このように
積極的に準備し 、条件のあるところでは武装闘争をすすめるととも
21.
9
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
まうこともできないだろう。したがって、都市とくに首都における
蜂起の勝利は、全国での革命の最終的勝利に決定的な意義をもつも
八月革命の主要な運動形態は、農村から都市への発展にあった。
のである。
た創造的経験の一つである 。
進する 。まず農村で個別的に蜂起が起き 、そのあと都市へと発展し
起こす、この三つは互いに緊密な関係をも っている。周到に準備す
ることとは 、とりもなおさず蜂起への主体的条件をつくり出すとい
積極的に準備し、瞬時に機会をつかみ、勇敢に権力奪取の蜂起を
人民を動員して権力奪取の蜂起をすすめること
積極的に準備し、瞬時に機会をつかみ、勇敢に全
いたが、都市では、いっせい蜂起が爆発しそれがまさに発展しつつ
ていくのである 。農村ではすでに遊撃根拠地と解放区が建設されて
う。そして主体的条件が根本であり、決定性をもっ。なぜなら、主
観的条件とは互いに密接な関係にあり 、互いに影響しあい促進しあ
農村における革命運動は都市での革命運動に影響を与え、これを促
あり 、われわれと敵との力関係が革命に有利に転化したときにな っ
て残された農村地帯とともに権力奪取への蜂起に決起したのであ っ
た。
シナにおける彼らの占領軍が頭を失った蛇のごとく兵営にうずくま
もっていたからであり、巨大な革命勢力を後楯にもっていたからで
る。しかし客観的条件も非常に重要である。それは主体的条件を刺
的条件は主体的条件を通じてはじ めてその 作用を発揮するからであ
体的条件があってはじめて客観的条件を利用できるのであり、客観
これは世界最初の社会主義国家ソ連が侵略者に打ち勝った条件の
で行なわれ たが、わが党はそれを一九四一年から準備していた。党
準備し 、 かちとらなければならない﹂。八月革命はわずか二一日間
なければ 、かりにその条件が非常に有利なものであってもその客観
激して急速に成熟させる。したがって第一に、また主として国内に
おいて革命の実力を準備することである 。もし国内に革命の実力が
なかで、また社会主義が勝利し資本主義が衰退している条件のなか
で、さらには第二次世界大戦がまさにファシズムの失敗と瓦解をも
って終結するという条件のなかで 、わが党が立ちおくれた農業国に
の誕生から一九四五年までの 、わが国人民大衆による闘争はすべて
八月革命の勝利をめざす大小の演習であ った。
第二次世界大戦という条件のもとで 、わが国のような植民地国に
(m)
﹁革命の勝利はひとりでにや ってくるものでは な い。 必ずそれを
的条件を利用することはできない 。
おいて強大な帝国主義陣営に抗して指導した民族解放革命の一つの
蜂起を結びつけること 、 これが八月革命においてわが党が生みだし
政治闘争と武装闘争を結びつけること、農村での蜂起と都市での
特徴である。
である 。
って守勢にまわ り、彼 らの 手先どもが混乱の極点に達していたから
ある。さらには敵日本ファシストがソ連と連合国に降伏し、インド
許してこそはじめて勝利をかちとることができる。主体的条件と客
うことである。どのような蜂起であれ、主体的条件と客観的条件が
蜂起がこのような形態をとったのは、わが党が正しい政治路線を
4
220
おいては革命運動が不均等に発展する。全国的な蜂起の時機が訪れ
の看板をかかげて復帰し旧権力を復活させてしまえば、もっとも有
持介石軍と接触するか、あるいはフランス植民地主義者がドゴ l ル
利な時機はもはや残されていなかったであろう。時機が到来したら
るまで、多くの地方で部分的蜂起が爆発した。これら部分的な蜂起
は、いっせい蜂起へと一歩一歩前進していくためのもっとも積極的
のことばに体現されている。﹁たとえどんなに犠牲を払おうと、た
とらなければならない。わが全民族の勇敢な精神は、ホ l主席の次
勇敢に行動を起こし、全力をあげて蜂起し、断固として勝利をかち
のっていたため、わが党と人民はまたとない時機をとらえ、全国的
としても、断固として独立をかちとろう﹂。
とえチュオンソン山脈を焼きつくすまでたたかわなければならない
政治、思想、組織上および物質的、精神的に緊張した準備がとと
な準備である。
にかなり迅速に権力を奪取することができた。蜂起にあたって、も
わが党が緊張した準備をもち、時機をすばやくとらえ、権力奪取
(叩﹀
しわれわれが時機を正しくとらえれば﹁そのときこそわれわれの勝
利は保証されるのである﹂。革命の時機が到来したときとは﹁恐慌
た
。
をめざして勇敢に蜂起したため、八月革命は輝かしい勝利をおさめ
(げ﹀
が極点にまで発展したとき、前衛部隊が最後までたたかう用意をと
(叩日﹀
党の正しい指導、これが八月革命勝利の決定的要因である。第二
八月革命の勝利をめざして前進すること
党内の統一と団結を基礎に全人民を団結させ、
とのえたとき、予備軍がいつでも前衛部隊を支持するようになった
とき、そして敵の隊列が混乱の極点に達したとき﹂である。時機を
いなければならない。マルクス・レ l ニン主義を正しく適用し、情
しっかりとらえるためには、指導する党が情勢をしっかり把握して
せらず、未熟な蜂起を起こさないこと、のろのろせず、受動的にな
勢を科学的に分析し 、情勢の発展を予測できること。あわてず、あ
次世界大戦の時期(一九三九t 一九四五年)に 、党 は次のような政治
法・半合法活動から非公然活動に入ったこと、政治闘争から転じて
らず、好機を逃がさないことである。八月革命の時機はきわめて有
政治闘争と武装闘争との結合にまで高め、権力奪取の武装蜂起へと
おしすすめたこと、活動の中心を都市から農村に移したこと、合
本軍がソ連および連合国に降伏する前に、われわれがあわてていっ
前進したことである。わが党は新しい情勢と任務から出発して各分
的転換を行なった。すなわち、民主運動から転じて民族解放革命を
せい蜂起したら重大な損失をこうむ ったであろう し、全国的に権力
野での党建設に注意を払ったが、そのなかでも党がとくに関心をよ
た。もし日本のクーデター(一九四五年三月九日)直後、もしくは日
を奪取することはできなかったであろう。反対に、もし日本軍がソ
党内の統一と団結は、党の巨大な力の源泉である。それは党の戦
連および連合国に降伏したのちになってもなおいっせい蜂起せず、
い、チャン・チョン・キム1カイライ政府がイギリス、アメリカ、
せた問題の一つが党内の統一と団結を強化することであった。
利であったが、それはまたきわめて短い時間内にしか存在しなかっ
5
イギリス、アメリカ軍(あるいは蒋介石軍)がわが国に入ってしま
221
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
わが党は党内の統一と団結を保証する基本的な条件をそなえてい
ギである。
闘力を増強する。党内の統一と団結は全人民を団結させるためのカ
らした。党内の党一と団結をはかるには、第一にそして主として政
た。分裂主義、セクト主義の性質とその程度はそれぞれの場所によ
って異なるが、それらは一時的かつ部分的な誤りであった 。ナムキ
会内に発生したセクト主義的思想と行動に反対して闘争をすすめ
治と思想上の統一をはかるべきであり、そして政治と思想上の統一
l地方党委員会での政治、思想上の分裂は、組織上の分裂までもた
は組織の統一にたいする基礎だということである。もし政治・思想
た。わが党は正しい路線をもち、党の指導幹部はみな草命の炎のな
ても、帝国主義者の監獄に監禁されたときでもマルクス・レ l ニン
面で真に統一されていなければ、仮に組織がグ統一
かで成長し、彼らは党の重要決議を会得し、革命活動の過程におい
主義の理論を学習した。ホ l ・チ・ミン同志を中心とする党中央委
部、党員は一般にかな り高い自覚水準をもち、長期にわたる困難な
わが党はまた、大衆と密接に結びつく伝統をもっている 。党の幹
想面での党の統一を保証し、強化する 。
律を厳粛に守ることもきわめて重要なことである 。それは政治と思
してもそれはただの形式にすぎない 。他方、組織上の統一と党の規
H
されていたと
員会は、全党の統一した意志を体現していた。
たたかいのなかで鍛えられ、試練を受け、革命に絶対の忠誠をつく
し、常に党の利益を第一位に置いた 。 ファシスト帝国主義者の残忍
しもしこれを上手に、しかも適時に解決しなければ二足の時期、一
党内矛盾を敵にたいするような方法で解決することは重大な誤り
党内の矛盾は内部矛盾であり、本来敵対性をも っていない。しか
な支配のもとで、党の幹部と党員は常に自己の戦闘隊列の統一と団
定の条件下では敵対矛盾に転化しうる 。
階級の敵、民族の敵に反対す る大衆の組織化とその指導に集中させ
結を強固にしなければなら なか ったし、自己の感情と力のすべてを
であり、許せないことである(ナムボのタンピン、チュンボのフ i イエ
の隊列の破壊にまで行きつくであろうし、革命の利益を損い敵を利
ンの場合)。党内矛盾を敵対矛盾とみなした場合、その解決方法は党
なければならなかった。
わが党は以上のような有利な諸条件をそなえていたが、全党内の
われた右翼偏向と﹁左﹂翼偏向に反対すベく批判と自己批判を提唱
志にたいしては主として教育の方法を用いるべきである。
た敵の分裂策に引っかか ったり、個人主義によ って誤りを犯した同
たいしては、断固としてこれを処罰し党から除名すべきであり、ま
党を破壊するために潜入した敵にたいして、あるいは変質分子に
ならない。
とを区別し、異なった性質の矛盾は異なった方法で解決しなければ
することになるだろう。したが って、敵味方の矛盾と党内部の矛盾
政治、思想、組織面での統一をはかるには、長期にわたる困難な闘
争を経なければならなかった。
全党をマルクス・レ l ニン主義を基礎として統一するために、す
なわち党の路線、政策の正しい認識と正しい執行のためにわが党は
した。わが党はさらに、一九四一年から一九四五年にかけてパック
民族統一戦線の強化・拡大や権力奪取をめざす準備などの過程に現
キl地方党委員会、チュンキl地方党委員会、ナムキi地方党委員
222
党内部の諸矛盾を解決するためには、マルクス・レ l ニン主義の
観点から出発し、党の正しい立場から出発し、党の決議と指示に体
現 さ れ た 路 線、政策を根拠にして批判と自己批判をすすめなければ
ならない。団結の願いから出発して批判と自己批判を行ない、団結
に党内の統一と団結を堅持することができた。もしそうした統一と
義 が あ っ た に も か か わ ら ず、全党的にいうならば 、わが党は基本的
この時期には、いくつかの地方の党委員会で分裂主義やセクト主
めにたたかうことでなければならない。
べての党員の恒常的任務は 、党内 の統一と団結を固め 、強化す るた
るように党 の統一を大切に しなければならない 、と のべている。 す
もっとも重要な特徴である 。 レl ニンは、自分のひとみを大切にす
ニン主義の諸原則にもとづいて建設された労働者階級の新しい党の
党の一致団結は党の生命にかかわる問題であり、マルクス・レ l
の陣営に勝利 のうちに進攻したからである。
族統一戦線の指導中核であるわが党が、人民武装勢力を指導して敵
以上が武装蜂起の準備期と八月革命におけるわが党の重要な経
験・教訓である。
v
r
oロぬ第七号参照。
(
l) ﹁
オ デキのうみは出かかっている !﹂のo E包 H
(2) 中央の若干の同志はカオパン省あるいは中国で活動していて帰れな
かったため、当時中央委員会総会は聞けなかった。
(3) 以上は一九四五年三月一一一日付中央常任委員会の指示﹁日・仏の衝
突とわれわれの行動﹂から抜すい。
(4)これらの戦区は次の通り。
レl ・ロイ戦区(パックボ)
ホアン ・ホア ・タム戦区(パックボ)
チ ュン戦区 (
クアン ・
パックボ )
チャン・フン ・ダオ戦区(パックボ)
ファン ・ディン・フン 戦区(チュンボ )
チュン・チャック戦区(チュンボ)
グエン・チl・フォン戦区(ナムボ)
を強めるという目的を達していくようにしなければならない。
団結がな かったら 、党 は蜂起を起 こし、権力を 奪取し 、ベトナム民
(5) ﹁わが人民にたいする日本侵略者の政策﹂ 、叶毛のE のOロ
mgロ第
σg ∞ロ岳山円十回守口or52・
(8) タイピン(うち玉県が省轄市のあ とで蜂起)、ハ lド ン、ソンタイ 、
ハlナム、フンイエン、ハイズオン、キエンアン、ナムディン、ニンピ
ン(うち二県が省轄市のあとで蜂起)、 ホアピン、タインホア 、ト ゥア
ティエン、クアンガイ(八月一三日以降農村で蜂起が勝利したが、八月
二三日になってようやく省轄市が解放された)、グアン(うち半数の県
が省轄市のあとで蜂起)、ハティン、ミ lト(うち一県が省轄市より先
に蜂起)・
む-N OH-NON
・
(6) 六の(日)に同じ。
ホ l ・チ・ ミン選集﹄ 、Z日出自民同
(
7) ﹃
⋮
。
一二口方車部昭
J
主共和国の樹立に決起した大衆を結集するととも 、指導 す る こ と も
できなかったろう。ホ l主席は次のようにのべている。﹁わずかの
人数で建設をはじめ、激烈 な闘 争 の な かで鍛えられ、一九 四五年に
党はわずか五000の党員しかいなかった(他の若干のものは帝国主
義者の監獄に監禁されていた)。そうではあったが 、 党 は 全 国 の人民を
このように党員数が比較的少ない党ではあったが、八月革命を成功
結 集 し 指 導 し て 蜂 起 を 勝 利 に 導 い た ﹂。一 五歳になったばかりで、
に導き、全国で権力を奪取することができたのは、主として党がマ
ルクス・レ l ニン主義をベトナムの具体的な条件のなかに適用して
正しい路線、政策を打ち出す一方、他方では統一と団結の集団、民
2
2
3
イン ドシナ 共産党(ベ トナム 労働党〉の創設 とその 歴史
第二章
第 二 部 植 民 地 支 配 下 の ベ トナムと 独立への道
(9) タンアン 、 タイニン 、ゴl コン、ショロン、ザlディン 、 パックリ
ヱウ、ソックチャン、ロンスエン、ハティエン、サlデック、チヤウド
、 ピエンホア、ザック、ザl。
ック 、ト ゥザウモット 、 カン ト
アンナム共産党六一名
インドシナ共産主義連盟一一名
こ れ は ﹃ ベ ト ナ ム 労 働 党 闘 争 三O年史﹄に原注 (中国語版一五ペー
香港および海外にいるベトナムの共産主義者グル ープ 五 回 名
ジ)としてみえるもので 、 三五年史ではけずられている。
︹訳注三︺植民地主義者のなかのファシストを指す。
︹訳注四︺﹁一ニ同 ﹂と は、大衆と同じものを食べ 、同 じ所に住み 、と もに
(叩)ザlライ、ニントゥアン 、 ラムピエン、ダックラック、ピン トゥア
ン、ピンディ ン、ドンナイトウォン。
(孔)クアンピン、クアンチ、クアンナム、フ lイエン(以上チュンボ)
およびパ lズィア 、ビンロン、チヤビン、ベンチエ(以上ナムボ)。
労働することをいう。
︹訳注玉︺ホアン ・パン ・トウ(一九O六t 一九四四 年)はランソン省デ
け、それぞれをス!といった。したがってキ !と同義と考えてさしっか
えない。インドシナ共産党は各ス l段階に地方委員会をもっていた。
︹
訳 注 六 ︺ ス lは地方、地 区の意味でベトナムを北 ・中 ・南の三地方に分
外の彼の名がつけられている郷にある。
同党委員会書記。 一九四一年中央委員に選ばれ、党中央 常 任 委 員 会 委
員。一九四三年八月ハノイでフランス植民地主義者に捕われ 、翌年五月
二四日犠性となった。﹁鋼鉄の人﹂との異名があり、その墓はハノイ郊
シナ共産党に入党。パックキ l党委員会に選出され 、 一九三八年末から
イエムで生まれ。一九二六年から革命運動をはじめ、一九三三年インド
(ロ)遅れて蜂起したハ lティエン市(一九四五年八月二八日)および一
時期蒋介石軍の手先に侵略・占領されたモンカイ、ハ Iザン、ラオカイ
各市を除く。ライチヤウ市はフランスの敗残兵に占領されていた。
。
(日)﹃ホ l ・チ ・ミン選集﹄前出、 二O 七ペ ージ
g ロ∞戸FF
。
(日)同右、 三五六ペ ージ
zr 白 凶 己 主
(日)﹃コミンテルンと民族 ・植民地問題﹄、
毘
・
国
内
戸
・
ロEWES-HV・
a
g
-
(凶)スターリン﹃レ l ニン主義の基礎について﹄。
HREロ印口同町内四件"出回
M-rzEE
・1
(口)レ l ニン選集 ρ 己
ωωhvwHYωmW0
・
同
r
m
H
M
g
!同
(国)スターリン﹃レ l ニン主義の基礎について﹄第四版。 z
HωGQUU-
∞。・
σgmロFEw国守口。rEEW 8・
・
︺
同
の﹃人民の中から﹄より引用。 ﹁英 雄 的
(凶)ボ l ・グエン ・、ザップ同志
gEZロ︿gr2w 国守口or
なわが人民﹂(革命回想録)所載。 ZEu
。
(却)﹃ホ l ・チ ・ミン選集﹄前出。七七0ページ
︹訳注一︺フランス植民地主義者は広大な荒地の独占使用権をにぎってい
た。開墾を名に 、そ の実農民が荒地のなかですでに開墾した土地を略奪
八五名
し、かっ農民を強制的にその地に住ませ、農民の労働力を搾取して荒地
の開墾をつづけさせた。
︹訳注二︺統一会議開催当時 、 ベトナム共産党にはすでに一一一一名の党員
インドシナ共産党
がいたという。
2
2
4
第三節
解放闘争の前進
イ ン ド シ ナ 共 産 党 政 治 テ lゼ (抜草)
一 O月
一九三O年
このインドシナ共産党の歴史的重要文献は、チャン・フーによ っ
一 O月) によ って承認
て起草され、第一回党中央委員会(一九三O年
経済は不景気と恐慌におちいり 、ヨーロ ッパの多くの国でプロレタ
リア ートが決起し 、権力をめざしてたたかった。一方ロシアのプロ
レタリアートは、外部か ら国を攻撃 した帝国主義者、国内でサボ タ
ージュを行なった反革命分子をうち破り 、プロレタリア ート の強固
な独裁を 確立した 。しかし 他方 では 、西ヨーロ ッパのプロレタリア
ートは 失敗にでくわ し た (たとえば一九二三年のドイツのプロレタリア
ート
ω。) 第二期(一 九二三t 一九二八年)lllヨーロッパのプロレタリ
アートがこうむった最近の敗北を利用し、それぞれの帝国主義が攻
撃 にでて、労働者や植民地人民を最大限に搾取し、帝国主義経済に
一時的安定をもた らした 。先にこうむ った敗北のために、帝国主義
諸国のプロレタリアートは、防衛のみに終始した。革命は植民地諸
国でまきおこった。ソ連経済の強化は、世界中に共産主義の影響が
広がるのを助けた。
本主義は一時的安定を維持することができず、ふたたび恐慌に入り、
防 第 三 期l iすなわち現在は次のような特徴を示している。資
テーゼは、マルクス・レ l ニン 主義の 一般的 な原 則をわが国 の具
び鋭い市場競争を行なわねばならなかった。
帝国主義諸国は 、不可避的な新帝国主義戦争を行ないつつ 、 ふたた
された。
体的状況に適用している。テーゼは革命の性格を分析し、その任務
それは大衆にたいするますます苛酷 な資本主義的搾取に起因してい
キ)。植民地(ことに中国およびインド)も革命的高揚のなかにある。
あがった(、ドイツ 、フランス、ポーランドその他における大規模なストライ
帝国主義諸国では 、プ ロ レ タ リ ア ー ト は 激 烈 な た た か い に た ち
国をいらだたせた。
は、世界革命のとりでであるソ連の打倒をめざしている帝国主義諸
ソ連経済は帝国主義戦争前の水準をこえ、輝かしい社会主義建設
を規定し 、 その主要な主体的な勢力を明らかにしている。テ ーゼは
民族民主革命における党の全般的路線を図式化している。
以下に最初の六点を発表する。
国際情勢とインドシナ革命
九
一 四t 一九一八年)の終結以来、国際情勢
川 帝 国 主 義 戦 争 (一
は次の三つの時期をへていると考察することができよう。
例 第 一 期 ( 一 九 一 八 年t 一九二三年)11戦争の結果、資本主義
2
2
5
インドシナ共産党〈ベ トナム労働党〉の創設とその歴史
第 二章
第 二 部 植 畏 地 支 配 下 の ベ トナムと独立への道.
命はひじように高い水準にた っし、いくつかの国では、革命家たち
行させている。この第三期において、プロレタリヤ革命、植民地革
を表現しがたいほどの悲惨な状態におとしいれ、世界中で危機を進
る。その資本主義は何千万もの失業者をつくりだし、労働者・農民
ドシナにおける米の生産性は他の諸国よりさらに低くなっている
小さ な区画にして貧 しい小作人に貸しつけている 。そのうえ 、イン
的方法で土地を利用している。すなわち、ひじように高い借地料で
大部分の土地は現地の地主によって所有されており、彼らは封建
ム、綿花、コーヒーその他)がフランスの資本家のものとなっている。
現在、世界中に燃え広がっている闘争に、インドシナは革命的勢
ロ)。毎年多くの米が輸出されているのは、米の産出額の増加による
(ヘクタールあたり米の生産は、マラヤで一二五0 キロ、タイで一八七
0キロ 、ヨーロッパで四五七0キロ、インドシ ナではわずか=二 0キ
が権力の奪取を準備している。
力として貢献し、帝国主義に反対する労働者・農民の戦線拡大に寄与
った。
フランス帝国主義者の抑圧制度は、インドシナにおける生産
増加すればするほど 、圏内資源は帝国主義者によって使いつくさ れ
と生産もフランス帝国主義者の輸出の必要に依存している。輸出が
ω
対外貿易がフランスの資本家の手中にあると同様、国内交易
味せず、ただフランス産業の他帝国主義国への依存を防ぐためであ
原料の開発は、独立したインドシナ経済の発展を助けることを意
発した方がより利益をあげられる産業だけを推進した。
属物にすることであり、そのためフランス本国よりインドシナで開
フランス帝国主義者の目的は、インドシナをフランスの経済的従
ば鉄道、小造船所だけを開発した。
しな かった。彼ら は、フランスの支配と貿易に役立つ産業、たとえ
やかすおそれのあるいかなる重工業(鉄鋼業、機械製造業等)も建設
力の発展を妨げている 。帝国主義者は、フランス産業の独占をおび
ω
る
。
のではなく、ただひたすら資本家による人民の米の略奪によってい
している 。また一方、世界における激烈 な革命運動 (ことに中国およ
びインド)は 、 イ ンドシナにおける闘争に大きな影響を与えて いる
だけでなく、さらに積極的 な励ましとなっている。このように、世
界の革命とインドシナの革命は緊密に結びつけられている。
インドシナ情勢の特徴
凶インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)はフランスの植民
地である。そのためインドシナ経済はフランス帝国主義の経済に従
属している。次に述べるのは、インドシナの発展の二つのきわだっ
ゆ イ ン ド シ ナ は 独 立 し て 発 展 し な け れ ば な ら な い 。 しかし、そ
た特徴である。
れはインドシナの植民地状態のために妨げられている。
制階級的矛盾は、一方に労働者、農民その他の勤労人民と、他
方に封建的地主、資本家、帝国主義者との聞にかつてなく激化して
いる。
例 農 産 物 の 大 部 分 が 帝 国 主 義 者 の 手 で 輸 出 さ れ て い るにもかか
ている 。他の特徴は、フランスの諸銀行(インドシナ銀行、不動産銀行
同経済的矛盾。
わらず、経済はなお本質的には封建的である。大部分の大農園(ゴ
2
2
6
その他)がフランスの輸出を促進するため、現地民から資本を集め
ることはできないでいる。状況がまったく悲劇的になっている地方
工場、農園、鉱山では、資本家たちが労働者を残酷に搾取し、圧
部では、多くの者が飢えている。
迫している 。飢餓水準にある彼らの賃金が、あらゆる種類の罰金に
要するに、インドシナ経済は、いまなお支配的な封建的特徴をも
ていることである。
った農業経済にとどまっている。これらのことが、イン、ドシナ経済
よって削りとられている。彼らは一日平均一一時間か二一時間働い
にはどんな社会保障もない。農場や鉱山では、経営者たちが労働者
になると、治療をしてもらえるどころか追いだされてしまう。そこ
ている。彼らに虐待と殴打がたえず加えられている。労働者は病気
の独立した発展を妨げている。
現地の地主、商人、高利貸と結託したフランス植民地主義者は、
を飯場に閉じこめ、外にでることを禁止している。経営者たちは雇
凶階級矛盾。
農民を容赦なく搾取している。輸出用に圏内の農産物をかきあつ
用した労働者にたいし、請負制を課し、経営者のつくった法律を労
働者に適用することができ、処罰を加えうる場所に労働者を移動さ
め、国内販売用のためにフランス商品を輸入し 、高 い税金をとりた
土地はますます帝国主義者と地主の手に集中されており、そのた
せている 。 このように苛酷な労働条件にあるため、イン、ドシナで
て、農民を窮状においこみ、職人を失業におとし入れている。
め多くの仲介入が聞にたち、貧しい小作人が支払わなければならな
い小作料は 、 いたるところで高騰している。貧農は、高利貸にひじ
かかり 、そ のうちの多くがひじように若い年齢で死 亡している 。
らに力強くたたかっている。農民もついにめざめ、帝国主義者と封
数、特に農場労働者の数は増加しつつある。彼らはいままでよりさ
インドシナのプロレタリアートはまだ多くはないが、労働者の
は、多数の労働者が重い病気(結核、トラホーム、マラリヤその他)に
ように高い利子を支払わねばならないために 、彼らに土地を引き渡
さざるをえなかったり、借金の支払いのためには、しばしば自分の
子どもまで引き渡さざるをえなくなっている。
帝国主義者は、洪水を防ぐため、よく手入れして堤防を維持する
キ、さらに今年(一九三O年)の労働者、農民による闘争の激しい
たかまりは、インドシナにおける階級闘争が力をたくわえつつある
建主義者に激しく反対している。一九二八 、一九二九年のストライ
水もない。そのため洪水や干害のためしばしば凶作となっている。
ことをはっきりと証明している 。 インドシナにおける革命運動のも
っともきわだった重要な特徴は、労働者、農民大衆のたたかいがひ
ことに何の注意も払っていない。濯瓶施設は資本家の手中にあり、
農民はその経済の発展を妨げられているだけではなく、資本家にま
じように明確に独立した性格をもってきたことであり、もはやかつ
彼らはそれを利用するのに高い料金をとりたてている。金もなく、
すます従属していき、食べる物も悪化し続けている。失業と飢餓が
てのように民族主義によって影響されていないことである。
ますます人民を苦しめている。
古い経済は急速に破滅して行きながら、新しい産業はひじように
ゆっくとしか発展せず、工場や作業場が全貧困者や失業者を雇用す
227
インドシナ共産党(ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
インドシナの完全な独立をなしとげることである。闘争の二つの面
回すでに述べた矛盾によって、インドシナにおける革命運動が
成功のうちに農業革命を実現することができる。逆に、封建制度を
級をなくすことができるし、インドシナの完全な独立をなしとげ、
は密接に関連している。帝国主義を倒すことによってのみ、地主階
日ごとに発展している理由が明らかにされた。初期におけるインド
廃止することによってのみ 、われわれは帝国主義をうちたおすこと
インドシナ革命の性格と任務
シナ革命は、ブルジョア民主主義革命となるであろう。なぜならベ
ができる。
これらの基本目標に到達するため、われわれは、労農ソビエト政権
トナムはなお経済的に弱く、多くの封建遺制がまだ残っており、階
に帝国主義はなお圧制を維持しており、直接社会主義の組織的課題
級聞の力関係はプロレタリアートにまだ有利になっておらず、さら
封建主義、地主制を打倒することができ、耕作者に土地を与え、プロ
を樹立しなければならない。労農ソビエト権力だけが、帝国主義、
ブルジョア民主主義革命の基本的任務は次のとおりである。
レタリアートの利益を正当に保護できる唯一の強力な手段である。
にとりくむことはできないからである。そのような理由により、現
段階における革命は農業革命と反帝革命の性格をもつことになるで
あろう。
三、外国および国内の地主と、宗教組織が所有するすべての土地
二、労農政権を樹立すること。
一、フランス帝国主義、封建主義、地主制度を打倒すること。
る。ひとたび革命が勝利するや、労農政権が樹立され、国内産業は
を接収し、中小農民にわたすこと。土地の所有権は労農政権に
ブルジョア民主主義革命は 、社 会 主 義 革 命 を 導 く 準 備 段 階 で あ
発展し、労働者階級の組織は強化され、プロレタリア ートの指導性
帰属すること。
四、外国資本家のすべての大企業を固有化すること。
は確立され、階級聞の力関係はプロレタリアートに有利に転化され
連においては社会主義建設の時である。各国におけるプロレタリア
玉、現在の全課税と賦役を廃止し、累進課税を行なうこと。
るであろう。現代は世界におけるプロレタリア革命の時であり、ソ
ート の独裁権力の援助によって、インドシナは資本主義の段階を通
六、八時間労働制を実施し 、労働者、勤労人民の生活水準を改善
すること。
り抜け、直接社会主義へと進むであろう。
七、インドシナは完全に独立し、民族自決が承認されること。
ブルジョア民主主義革命において、プロレタリアートと農民は二
つの主要な勢力である。しか し、プロレタリアートの手に指導権が
民地における革命運動と連帯すること。
O、ソ連を支持し、全世界のプロレタリアート、植民地、半植
一
九、男女の平等。
八、労農軍を組織すること。
附 ブ ル ジ ョ ア 民 主 主 義 革 命 の 主 要 な目的は 、第一に封建的遺制
あるときのみ革命は勝利する。
を一掃し、前資本主義的搾取様式をなくすこと、それを農業革命を
通じてなしとげることであり、さらにフランス帝国主義を打倒し、
228
ベトミン ( ベ ト ナ ム 独 立 同 盟 ) 綱 領
リス、アメリカ、ソビエト、中国、および自由と進歩を愛する諸民族)との
ファシスト陣営の戦争は正義にそむき、進歩に逆行する戦争であ
聞の││戦争に変化した。
る。したがって、ファシストの侵略はかならずや敗北するであろ
う。ファシストの侵略に反対する陣営はかならず勝利するであろ
世界革命は日一日と成長している。極東において、日本を打倒す
肺門ノ。
世界情勢は、われわれの民族解放の革命運動に有利にはたらいて
る中国人民の革命戦争は年々発展し、勝利の日に近づいている。
いる。ソビエト・ロシア社会主義国はドイツと相互不可侵条約を締
た。彼らは土地を略奪しては、プランテ l ションをつくり、鉱山を
てきた。わが人民の多くは彼らによってすべてのものを奪われてき
この七、八O年わが国はフランス帝国主義に抑圧され、搾取され
いる。
結したにもかかわらず、一九四一年六月二二日ヒトラーは条約を破
占拠しては、原料を掘りあてた。彼らは重税雑税を課し、わが人民
ベトナム情勢
の戦争に忙殺されているすきに乗じて、日本帝国主義は太平洋戦争
をひきおこし、イギリス、アメリカの植民地をかすめとった。こうし
彼らは、わが人民に民主的自由のひとかけらさえ許さなかったば
かりか、さらにわが民族精神を消滅させるためにさまざまな手段に
戦争勃発後、彼らはわが人民をますますひどく抑圧し、ますます
うったえた。
カ、ソビエト、および中国を先頭とするファシストに反対する諸国
し、現金をすいあげ、こうして人民の生活を日に日に騰貴する戦争
債を発行し、募金をつのった。彼らは一 000万 も の 紙 幣 を 乱 発
よけの兵士に徴発した。他方では、新税を課し、旧税を増額し、国
搾取した。一方では、彼らはわが人民を人夫にかりたて、彼らの弾
現在、世界戦争は、侵略と侵略反対の二陣営聞のーーーすなわち、
る
。
は、連合し、侵略に反対する世界的規模の統一戦線を成立させてい
略・占領し、人類を殺している。しかしながら、イギリス、アメリ
ドイツ、イタリア、日本のファシスト三国はともに植民地を侵
て戦争の火の手がもえあがり世界中にさらにもえひろがっている。
の血をすいとり、わが国をしだいに貧困においやった。
棄してソビエトへの攻撃にでた。イギリス、アメリカ軍がドイツと
この一年、ヨーロッパの一四カ国がナチス・ドイツに占領されて
た
。
れてまだ一年もたつていないというのに、フランスは破れてしまっ
一九三九年秋、帝国主義諸国聞の大戦が爆発した。戦争が開始さ
世界情勢
2
ファシスト陣営(ドイツ、イタリア、日本)と反ファシスト陣営(イギ
229
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二主主
第二部植畏地支配下のベトナムと独立への道
インフレ ー ションのなかにおとしいれたのであった。
彼らは進歩的な印刷物を禁止し 、わが人民をオシやメクラのよう
しておかなければならない。
にある。したがってわれわれはここに救国の主張をはっきりと宣言
ベトミンの救国の主張
﹁ベトナム独立同盟 ﹂ の任務は、民族解放革命を勝利させること
にさせ、監獄をたてては、人民や祖国のためにはたらいた人びとを
拘禁した。
すぎないことをはっきりと知っている。ところが一握りの親目的な
ナを侵略 ・占領した。日本がわが国にふみこんでまだわずかしかた
っていないが 、わが人民の大多数は 、彼らが殺人者であり強奪者に
ス独立同盟﹂を成立させるのを援助し、こうしてわれわれの力で
人民、およびラオス人民がそれぞれ﹁カンボジア独立同盟﹂ 、 ﹁ラオ
ンドシナを完全に独立させる。ベトミンは全力をあげてカンボジア
被圧迫諸民族を連合させ 、もって帝国主義を打倒し 、 ベトナムとイ
ベトミンは主張する。人民の各階層、革命諸団体 、 インドシナの
民族の裏切者どもは﹁革命﹂などという言葉をもてあそび 、同胞を
フランスが敗北すると、日本帝国主義はその機に乗じてインドシ
あざむいて日本の手先にしようとしている。
﹁インドシナ独立同盟﹂(全インドシナ反日 ・仏統一戦線)を成立させ
る
。
さらにフランス侵略者は七万平方キロメートルのインドシナの土
地をタイに割譲した。彼らはわが人民をまるで売り買いする商品で
日本 Hフランス・ファシスト帝国主義どもを打倒したあかつきに
は、新しい民主主義の精神にそって、ベトナム民主共和国の革命政
策を実施するであろう。
国民大会によって選出されるベトナム民主共和国政府は以下の政
府を樹立し 、金星紅旗を国旗とするであろう。
もあるかのように考えている。こうして、わが人民はフランスの牛
馬となり 、 日本の下僕となり、タイの奴隷となってしまった。
こうした情勢に直面して、わが人民は手をこまねいて座視してい
ることはできない。わが人民の救国の精神は決して消滅したことは
なかったし 、消滅させることはできない。
1 普通選挙の実施。ベトナム人、およびベトナム国籍をもっ
者(ムオン、マン、トl族など)すべては 、 男女の別なく、一
同政治面ではーー
八歳以上になれば(民族の裏切者でないかぎりてみな選挙権な
フランス帝国主義がわが国を強奪して以来、数知れぬ英雄たちは
敵軍に抗して決起した。わが同胞はだれしも、ファン ・ディン ・フ
ン、ホアン・ホア ・タム 、、
ド
イ ・カン 、グエン ・タイ・ホックなど
らびに被選挙権をもっ。
ど
。
結社の自由 、集 会 の 自 由 、 園 内 往 来 の 自 由 、 出 国 の 自 由 な
2民主的自由の諸権利の公布││思想の自由 、信仰の自由、
といった烈士の鏡を忘れることはない。これらの模範にならい 、今
ン、ナムキ l で敵軍と一戦をまじえた。
やわが民族は蜂起の好機をのがすことなく 、パックソン、ド l ルオ
現在ベトナムの南から北まで、わが同胞はいっせい蜂起を積極的
に準備し、自由と独立をとりかえそうとしている。
230
ω
陸、海、空軍の組織l lベトナム革命軍隊を成立させ、民衆
自主関税。
人民は、政府の指導のもとに荒地を自由に開墾する。
農業濯蹴工事の拡充。堤防を築き、農業をさかんにする。
小作料の引下げ。
公有地の再分配。
発展させ、さらに手工業を促進、奨励する。
4 工業各部門、とくに重工業を開発し、自主的に国家経済を
3 帝国主義の各銀行の国有化、ならびに国立銀行の設立。
化するか、あるいはそれぞれの性質にしたが って分配する。
と華僑の民族的裏切者の全財産の没収。これらの財産は固有
2 日本 Hフランス・ファシスト帝国主義、およびベトナム人
1 帝国主義が課した人頭税と各種の税の撤廃。
経済面では││
ても断固反対すること。
9 ベトナム国の独立自由権を侵犯するいかなる勢力にたいし
8 フランスが他国と締結したところのすべての協定の廃棄。
友好的連合。
7 独立権獲得のためにたたかっているすべての弱小民族との
認
。
6 インドシナにおける少数民族にたいする民族自決権の承
5男女平等。
4 政治犯ならびに一般犯罪者の釈放。
を武装させ、容赦なく売国者を懲罰し、革命権力を堅持する。
3
1
09 8 7 6 5
各輸送道路と各海港の充実。
ω
ω
社会面では1lt
日 度 量衡の統一。
施
。
-八時間労働制およびその他社会生活にかんする法律の実
2 失業と売春の弊害をなくす。
3 子どもの多い家庭への援助。
4 疾病者への補助ならびに彼らへの技能教育。
5 病院と産院の増設。
文化面では││
6 保母と幼児教員の増員。
-反動文化の駆逐。ベトナム新文化の発展。
ぞれの学校において民族語を使用する権利を有する。
2 奴隷的植民地教育の撤廃。国民教育の建設。各民族はそれ
3 小学校義務教育の実施。
学校の建設。
4 各種の人材を育成するための政治、軍事、技術の訓練専門
が最高度に発揮できるようにする。
5 各面にわたって激励援助し、各種の知識人や技術者の才能
かめる。
6 映画館、劇場およびクラブを建設して人民の知識水準をた
げる。
7 国民体育を奨励援助し、さらに壮健な次の世代をそだてあ
付 人 民 各 階 層 に か ん し て lli
工業部門を発展させるさいには援助をうけることができる。
ーブルジョアジーーー自由に経営することができる 。必要な
2
3
1
インドシナ共産党くベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第 二 音s 植民地支配下のベトナムと独立への道
地主││土地にたいする所有権は尊重される。荒地の開発
児童l l政府により、体育、知育、徳育にわたって特別な
賃金を得る。
前記の綱領の主要な点は、同胞全体が心から望んでいる次の二つ
同胞のみなさん。
日 老 人 お よ び疾病者││政府より配慮と補助をうける。
配慮がはらわれる。
ω
な権利をもっ。男子と同一 の仕事をする婦人は、男子と同じ
9 婦人││政治、経済、文化などのあらゆる面で男子と平等
ひろげる。
し、学校を増設する。貧しい学生にたいする奨学金のわくを
8 学生││学費を免除し、出身ならびに年齢の制限を撤廃
る
。
7 公務員││それぞれの才能を発揮する公務員は厚遇され
家庭には 十分 な補助がなされる。
6 兵士ーーー祖国の防衛に功績のあった兵士は厚遇され、その
る。小作農民は小作料を減額される。
5 農民l l耕作するに十分な田畑をもっ。凶作時は救済され
老人労働者には退職金が支払われる。実習制度を改善する。
破棄し 、企業主と労働者間の公共的労働契約をとりかわす。
4 労 働 者l l労働法によって保護される。奴隷的労働契約を
な)はおさめる必要はない。
される。各種の意味のない税金(たとえば海洋税、歩道税のよう
3 商人││商業の自由を得る。貿易産業は法律によって保護
もできる。
2
ー ベトナムを完全に独立した国にすること。
を実現することである││
2 ベトナム人民に自由と幸福を享受させること。
民族的裏切者の諸党派が 、あいまいな綱領をかかげ、革命の名を
かたり、同胞をあざむき 、こうし て同胞を暗黒の世界にとじこめよ
うとしている時、前記のわれわれの綱領は、同胞の進むべき輝く未
新しいベトミンの救国綱領のもとに同胞諸階層のすべてが団結で
来をさししめす一つの星である。
きさえするならば、日本とフランスのくびきから祖国をすみやかに
ただこの新しいベトミンの救国綱領だけが 、これ からのベトナム
解放することができる。このことはたしかなことである。
を強大で、文化的な、そして進歩的な新しい民主主義国家にするこ
ただこの新しいベトミンの救国綱領だけが 、人民 に独立 、自由、
とができる。
同胞の各界のすべてのみなさん、ベトミンの旗のもとに隊列をか
そして十分な衣食をもたらすことができる。
ベトナム革命はかならず勝利する。
ため 、国の 敵どもを駆逐しよう。
ベトナム民 主共和国は誕生するであろう。民族解放革命が成功し
であろう。
たあかつきには、われわれは共同して前記の偉大な綱領を実現する
︹訳注︺ベトミン綱領が決定された正確な日付については、この邦訳の
テキストには明記されていない。ベトミン戦線の正式な結成が一九四
ペ ージ参照)、との時であろう。
一
年五月一九日であるから(本書二 O四
次に訳載するベトミン規約にかんしても同様なことが考えられる。
232
ベトミン規約
ドッタラップドンミン
ベトミンを急速に発展させること。
会費を納入すること(ベトミン本部に)。
附 ベ ト ミ ン の 組 織 原 則llベトミンは、民主集中の原則にした
の級のベトミン内各団体の代表者によって構成される。また、
がって組織される。すなわち、各級のベトミンの指導機関もそ
ベトミンの各委員会において表決のさい、少数は多数にしたが
わなければならない。さらに、実践のさい、下級のベトミン委
員会は上級のベトミン委員会にしたがわなければならない。
。
間ベトミンの組織系統││
て、それぞれの級のベトミン執行委員会をもっ。全国ベトミ
区、県(あるいは府、州、郡)、省、都市、キ l の各級におい
よって選出されたベトミンの執行委員会をもっ。
同郷あるいは村は、郷あるいは村にあるベトミン内各団体に
ω
ンは本部をもっ。
w
川
各級のベトミン執行委員会はみな、その級 のベ トミン内各
ベトミン各執行委員会が四名以上の場合には、日常工作を
団体の代表者より選出される。
遂行するための常任委員会を選出しなければならない。
ω
人とし、それを補佐するための副主任を選ばなければならな
例どの執行委員会も、日常の工作を指導するための主任を一
しV
をもっ。省執行委員会(あるいは省委員会)は毎月一回の会議
的郷段階から県段階までの各級執行委員会は毎月二回の会議
回会議をもっ。もし緊急事態がおこった場合には、各級の主
をもっ。キl執行委員会(あるいはキ i委員会)は二カ月に一
団体はすべて次の権限をもっ。
任は特別会議を召集する権限をもっ。
制郷段階から府段階までの執行委員会は、六カ月ごとに改選
制提案、質問、討論、表決の権限。
同ベトミン内の各団体の権限││ベトミン内の構成員である各
ω
ω
同ベトミンの目的、主旨に忠実であること。
次のことをしなければならない。
凶ベい、いン内の令岳俗れい任務││ベトミン内のいかなる団体も
の加入を得る。
して、それらの団体はベトミン本部の承認をへて、ベトミンへ
級、宗教、政治的傾向の別なく、すべての団体を結集する。そ
あるいはベトナム国内に居住する各少数民族であろうと、階
綱領を承認するものなら、ベトナム人のいかなる党派、団体、
同ベトミン加入条件ーーーベトミンは、ベトミンの目的、主旨、
を完全に独立させ、ベトナム民主共和国を樹立する。
合させ、共同して日本、フランスの侵略者を駆逐し、ベトナム
問 主 旨 ーl 人民各階層、革命的各党派、愛国的各大衆団体を連
川名称││ベトナム独立同盟(略称ベト ミ
ン
)
。
3
制ベトミンの責任ある委員会に代表を選出参加させる権限。
233
インドシナ 共産党(ベ トナム労働党〉の創設とその歴史
第 二章
第二部植民地支配下のベトナムと独立への道
する。省、キ l段階では一年ごとに改選する。本部は一年半
ごとに改選する。
りをおか した場合、一回目は批判され、二回目は警告され、三
同規律││ベトミンの各指導機関内の各団体の代表者がもし誤
回目は指導的地位を解任される。解任にさきだち、その誤りを
おかした代表の属する団体に通知し、その団体はかわりの代表
長老のみなさん!
海外からの手紙
志士のみなさん!
を選出させなければならない。
倒財政││﹄ベトミンの経費はベトミン内の各団体のおさめる会
グエン・アイ・クオック
一九四一年六月六日
知識人、農民、労働者、商人、兵士のみなさん!
い)では、問は例の項から倒の項にとんでいて、的の項がない。これ
︹訳注︺この邦訳のベトナム文テキスト(巻末の資料出典を参照された
外的には卑屈な態度で甘んじてわれわれの土地をタイに割譲し、一
暴虐な対策をもってわが人民を容赦なく迫害し虐殺しています。対
な略奪の手段を弄し、われわれの血を残らず吸いつくし、さらには
解した。しかし、わが人民にたいしては、彼らはあいかわらず残酷
フランスがドイツに敗北していらい、フランスの勢力は完全に互
親愛なる全同胞のみなさん!
ωはそれぞれ的、闘の誤りなのか、あ
は、単純なミスプリントで樹、
ったのか、どちらかであろう。現在のところ、照合すべき他の資料が
るいは、もともと存在する的項が原本編者の手違いから欠落してしま
ω
ないので、本邦訳では単純なミスプリントとして処理し、原文側、
倒を 、制とした。
二千余万のラックホンの子孫は、これ以上奴隷生活
を長びかせたくはありません。この七、八O年来、われわれはフラ
いけません l
手をこまねいて死を待っていていいものでしょうか。否!断じて
このような苦しい、残忍過酷な境遇のもとに生きて、わが人民は
な運命にあわねばならないのでしょうか。
あ!わが人民はなんの罪があってこともあろうにこのような苦難
本侵略者の奴隷ともなり、二重の抑圧のもとに坤吟しています。あ
の結果、わが人民はフランス侵略者の牛馬であるばかりでなく、日
言もいわずに観念してわれわれの権利を日本に献上しています。そ
大会のみが有する。
同規約改正ーーーこの規約の改正の権限は、ベトミンの全国代表
v円ノ。
費(月納)によってまかなわれ、必要な場合には募金もおこな
4
234
ンス侵略者の鉄のかかとの下で、民族の独立と自由をかちとるため
人、青年、婦人のみなさん!現在は、民族解放の問題がすべてに
祖国を熱愛する富豪、軍人、労働者、農民、知識人、職員、商
のようなわが祖先の国を救った光栄ある事業を受け継ぐべきです。
・ホア・タム、ルオン・ゴック・クエンら先駆者の忠誠にして激し
い出すため、心と力を一つにして日本、フランスおよびその手先ど
優先しています。団結しよう!わが国の人民を水火の苦境から救
絶えず犠牲的に奮闘してきました。ファン・ディン・フン、ホアン
い精神はなおそびえ立ち、タイグエン、イエンパイ、ゲ Hティンな
した。しかし大功がいまだ成功していないのは、決してフランス侵
のあとをふみ越えて勇敢に敵を絶滅する決意であることを証明しま
も救国に一端の責任を負わねばなりません。金をもっているものは
救国は全国人民の共同の事業です。われわれベトナム人は、誰し
親愛なる同胞のみなさん!
もを打倒しよう。
ど各省における義士の勇敢な事績は永遠に不滅です 。最近のナムキ
略者が強いからではなく、時機がまだ熟していないことと全国の同
金を、力をも っているものは力を、才能をも っているものは才能を
i、ドi ルオン、パックソン蜂起は、わが同胞が先人の光栄ある血
胞がまだ心を一つに合わせていないからにすぎません。
出すということです 。わたくしは自分の非才薄力を傾けてみなさん
のあとに従おうと願 っております 。たとえ身を粉にし骨を砕こうと
今日、解放の時機がや ってきました。フランス自体はわが国を支
配することができ なくなっ ており、日本人にいた っては一方で中国
もこれを惜しむものではありません 。
時機が到来した!蜂起の旗を高くかかげ、全国の人民を指揮し
革命戦士諸君!
の泥沼に落ち込み、他方ではイギリス、アメリカの勢力によ って牽
わが国全体が一致団結すれば、必ずフランス、日本のような精鋭の
制され全力をあげてわれわれと争うことは絶対にできません。もし
軍隊でも粉砕することができます。
こだましている!烈士の勇敢な熱血が諸君の心にたぎ って い る !
て日本、フランスを打倒しよう!祖国の聖なる叫びが諸君の耳に
人民の 奮闘 の 精 神 が 諸 君 の 前 に 満 ち て 来 つ つ あ る ! 早 く 立 ち 上 が
全国の同胞のみなさん!ただちに立ち上がろう。中国人民の勇
敢 な 精 神 に み な ら お う で は な い か ! た だ ち に 立 ち 上 が ってフラン
ろう!団結しあい、行動を統一して日本、フランスを打倒しょ
世界革命に勝利を!
ベトナム革命に勝利を!
Aj--
ス、日本とたたかう救国会を組織しよか。
長老のみなさん!
戦士のみなさん!
数百年前、わが国が元朝軍の侵略という災難に直面したさい、チ
シナ共産党第八回中央委員会が 聞かれ、そこで新しい政治路線が決ま
︹訳注︺一九四一年五月一 O日から 一九日にかけて、パッ クボでインド
国の子弟に呼びかけ、ついに人民を危機から救い、その名声を子々
り、民族解放のスロー ガンを高く かかげ、ベト ミン戦線を結成するこ
ャン年代の家長は続々と立ち上がり、心を合わせて敵を殺すよう全
孫々にいたるまで留めました。わが国の長老と戦士のみなさんは、こ
235
インドシナ共産党〈ベトナム労働党〉の創設とその歴史
第二章
第二部槌民地支配下のベトナムと独立への道
と、大衆組織を救国会に名称を変えること、武装蜂起の準備工作を促進
ク同志はこの手紙を書いて、国内の革命戦士が全国の同胞と団結して日
することが決まったあと、一九四一年六月六日、グエン・アイ・クオツ
本、フランス打倒に立ち上がるよう呼びかけた。
ベトナム解放軍宣伝隊結成への指示
一九四四年二一月
グエン・アイ・クオック
させ、共同作戦を行なう。
三、戦術について。遊撃戦法を運用し、秘密、迅速、積極的で今
ベトナム解放軍宣伝隊は兄貴分の軍隊である。はやく弟分の軍隊
日は東、明日は西というように神出鬼没する。
最初その規模はやはり小さいものではあるが、その前途は非常に
がほかにできるよう希望する。
輝かしい。それは解放軍の出発点であり、北から南へ、わがベトナ
ム国土をあまねく移動することができる。
らカオパン、ランソンで活動していた小規模の遊撃隊を基礎に誕生し
︹訳注︺ベトナム解放軍宣伝隊は一九四四年一一一月一一一一日、それ以前か
ていた。しかしそれにもかかわらず、ベトナム解放軍宣伝隊は祖国の
た。成立当初は粗末な若干の武器をもっ三四名の戦士と幹部からなっ
起へと前進していった。とれは今日のベトナム人民軍の前身である。
全国の多くの地方で武装闘争を起こし、一九四五年の八月いっせい蜂
独立、民主のために勇敢に犠牲となる戦闘精神を発揚するとともに、
一、ベトナム解放軍宣伝隊の名称。これはとりもなおさず軍事よ
でに訓練した幹部は各地方に分散させて経験を交流し、連絡を徹底
二、各地方の武装部隊にたいして。地方幹部を集めて訓練し、す
をもっ。
できれば武器を援助してこれら部隊を絶えず成長させるという任務
い。主力軍はさらに各地方の武装幹部を導いてその訓練を援助し、
ともに呼応して活動し、あらゆる面で彼らを援助しなければならな
の部隊を結成するにあたっては、必ず各地方の武装勢力を維持し、
し、全人民を武装しなければならず、したがって勢力を集中し最初
われわれの抗戦は全人民の抗戦であるから、必ず全人民を動員
分の武器を集中して主力部隊を結成することになろう。
列からもっとも断固とした積極的な幹部と隊員を選抜し、かつ大部
て、団体の新しい指示にもと守ついてカオ Hパック Hラン遊撃隊の 隊
には、軍事面では主要な原則を勢力集中の原則とする。したがっ
り政治に重点を置く。それは宣伝隊である。行動が成果を生むため
5
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