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とましん地域経済研究所 とましん地域経済研究所
【 景況表紙 53 】 P■ A■ G■ E0 0■ 0■ 1( 0■ 0■ /■ 0■ 9■ /■ 2■ 6■ 1■ 6■ :■ 1■ 8■ ) ■■ ■■■ ■ ■■■ ■■ ■■ ■ 2000/9 【ワンポイント統計】 平成11年(1∼12月)の苫小牧港取扱貨物の対全道比較 [平成11年苫小牧港統計年報(苫小牧港管理組合 平成12年8月発行)より] TOMASHIN BUSINESS PERFORMANCE REPORT No.53 ●【特別寄稿】 「道内本店銀行・無尽会社興亡史」 ……………………… 1 苫小牧信用金庫 理事長 笠原 晃 ●経済概況 …………………………………………………………………… 13 全国の概況−わが国の景気は、企業収益が改善する中で、設備 投資の増加が続くなど、緩やかに回復している。 道内の概況−道内の景気は、 全体として足踏み状態が続いている。 ●マンスリー景況レポート ………………………………………………… 14 管内の概況−依然厳しい状態にあるが、改善への動きが徐々に 強まりつつある。 景況レポート 第53号 平成12年9月発行 発行 苫小牧信用金庫 編集 とましん地域経済研究所 〒053-8654 苫小牧市表町3-1-6 TEL(0144)31-2145 (とましん地域経済研究所) 苫小牧信用金庫ホームページアドレス http://www.tomashin.co.jp/ (とましん景況レポート掲載) ●管内の主要経済指数 ……………………………………………………… 31 とましん地域経済研究所 Tomashin Research Institute 【 景況表紙 53 】 P■ A■ G■ E0 0■ 0■ 2( 0■ 0■ /■ 0■ 9■ /■ 2■ 6■ 1■ 6■ :■ 1■ 8■ ) ■■ ■■■ ■ ■■■ ■■ ■■ ■ 3.7月を中心とした管内の主要経済指標 項 【特別寄稿】 目 紙 製 品 出 荷 実 績 前月比(%) 前年同月比 (%) ▲1.6 ▲0.2 6 月 7 月 120,493 118,505 211 338 60.2 ▲33.3 35,962 33,301 ▲7.4 46.6 248,087 246,214 ▲0.8 0.6 (百万円) 31,511 12,761 18,750 33,996 13,450 20,546 7.9 5.4 9.6 14.2 46.9 ▲0.4 (千トン) 7,032 31 1,265 2,504 3,233 (未公表) ▲4.3 ▲31.1 ▲20.6 ▲6.1 6.3 14.5 ▲41.5 9.0 16.6 16.3 (苫小牧市) (トン) 資料−苫小牧商工会議所調査月報より 道内本店銀行・無尽会社興亡史 原 油 処 理 実 績 (苫小牧市) (千kl) 資料−苫小牧商工会議所調査月報より エ ン ジ ン 出 荷 実 績 資料−苫小牧商工会議所調査月報より 苫 小 牧 信 用 金 庫 理事長 笠 原 (苫小牧市) (台) 晃 産 業 用 電 力 需 要 (苫小牧市) (千kWH) 資料−北海道電力 株 苫小牧支店より 貿 易 輸 出 輸 入 実 績 計 資料−苫小牧税関支署より 1.はじめに 【北海道拓殖銀行】が消滅して道内本店銀行は【北海道銀行】 【北洋銀行】 【札幌銀行】の3行 (ともに本店所在地は札幌市)となってしまった。本年2月、【北洋銀行】と【札幌銀行】は金融持 株会社方式による経営統合を発表した。金融監督庁発足以来、政府は1県2行政策に転じたようで あるから、遠からず道内に本店をおく銀行は2行となってしまうのであろう。 戦後、道内本店銀行の4行体制が整ったのは昭和26年である。【北海道拓殖銀行】が特殊銀行か ら普通銀行に転換し、【北海道銀行】が設立され、相互銀行法の公布施行で【北洋無尽】が【北洋 相互銀行】となり、その前年に設立された【北海道無尽】も【北海道相互銀行】に転換し、ここに 苫小牧港海上出入貨物計 輸 出 輸 入 移 出 移 入 資料−苫小牧港管理組合より (5月比較) 苫 小 牧 港 フ ェ リ ー 運 行 状 況 トラック数(台) 乗 用 車 数 (台) 旅 客 数 (人) 便 数 (便) (前年6月比較) 38,172 15,333 61,982 591 38,874 24,984 87,948 580 1.8 62.9 41.9 ▲1.9 7.3 3.1 ▲2.7 2.3 2,735 3,069 12.2 ▲2.1 591 488 1,806 530 497 1,556 ▲10.3 1.8 ▲13.8 4.3 8.3 ▲7.4 397 79 368 105 ▲7.3 32.9 ▲5.6 ▲17.3 12 3.091 9 570 ▲3 ▲2,521 3 ▲424 (増減値) (増減値) P0.02 P▲0.06 P0.08 P0.00 資料−苫小牧海運支局より 4行体制が整った。 苫小牧市大型店売上状況 ついでに言えば、その頃、道内に35の信用組合があって、そのうち34が、昭和26年の信用金庫法 の公布施行とともに順次信用金庫に転換し、残りの一つは、その後、労働金庫法の制定をまって労 資料−苫小牧商工会議所調査月報より 新 働金庫に転換した。現在、12の信用組合があるが、これらはすべて、その後、北海道庁の事業認可 によって設立されたものである。 登 記 事 務 売 買 筆 個 数 建 物 表 示 登 記 企業倒産件数 負債総額 亜戦争下の統制経済による銀行合同の前まで、どのような銀行や無尽会社などが北海道に存在した のであろうか。 道内本店銀行等の興亡史は、金融機関の経営に携わる者として興味ある事柄であったが、ついぞ − 1 − (件) (胆振東、石狩南、日高管内) (百万円) 資料− 株 帝国データバンク苫小牧支店より 海道拓殖銀行】が北海道開拓のための資金供給を目的とする特殊銀行として営業を開始したのは、 19世紀末の明治33年であった。この間、北海道の銀行はどうなっていたのであろうか。また、大東 (筆) 資料−苫小牧商工会議所調査月報より 公布施行されたのが明治26年であったので、この間に日本の銀行制度が発足したのである。 開拓という特殊な環境にあった北海道であれればこそ相応の資金需要もあった筈であるが、【北 車 登 録 台 数 (台) 苫小牧市(除く軽) 苫小牧市軽自動車 胆振・日高(室蘭陸運局管内)(除く軽) 資料−ネッツトヨタ苫小牧 株 (速報値)より (軽)−苫小牧商工会議所調査月報より 北海道開拓の歴史は明治維新後に始まり、僅か 120数年を数えるに過ぎないが、これは日本が近 代国家に脱皮した時期と重なっている。国立銀行条例が公布施行されたのが明治5年、銀行条例が (百万円) 有 新 効 規 求 求 人 人 倍 倍 率 率 (倍) (倍) 0.36 0.81 資料−苫小牧公共職業安定所より *前月比・対前年同月比(増減)は最新月の数値との対比。 *比率は小数点以下第2位を四捨五入しており、増減比率。 *企業倒産件数・負債増額の対前月、対前年比較は率ではなく、増減値。 *有効・新規求人倍率の対前年、対前月比較は、%ポイント値の差。 − 32 − 0.38 0.75 それを纏めた資料を目にすることがなかった。このたび、《北海道拓殖銀行史》と《北洋相互銀行 50年史》によって、その流れを整理することができたので参考に供したい。 2.明治期の北海道の銀行 北海道では、行政の中心地は開拓史が置かれたときから札幌であったが、経済の中心地は、明 治初期においては函館、それがやがて小樽に移り、現在のように札幌に集中しはじめたのは、昭 和も中期に入ってからであった。これは《日本銀行》の道内出先機関の変遷からも伺い知ること ができる。《日本銀行》は明治28年に函館出張所を北海道支店としているが、明治39年には出張所 に変更し、小樽出張所を小樽支店とした。函館出張所は明治44年に再び支店に帰り咲いたが、札 幌支店を開設したのは昭和17年であった。 さて、本道に本店をおく初めての銀行は明治11年に函館に設立された【第百十三国立銀行】で、 翌明治12年には同じく函館に【第百四十九国立銀行】が設立された。その頃、道外本店銀行の本 道進出も相次ぎ、先ず明治12年に東京の【第四十四国立銀行】が札幌・函館・小樽に、鶴岡の【第 六十七国立銀行】が小樽に、明治16年には東京の【第三十三国立銀行】が函館に、明治18年には 東京の【第二十国立銀行】が函館に出店した。 明治16年に国立銀行条例が改正され、本道初の私立銀行として、函館に【山田銀行】が設立さ れたが、明治23年頃に廃業した。また【第百十三国立銀行】は明治30年に普通銀行の【百十三銀 行】として存続し、【第百四十九国立銀行】は明治18年に東京の【第二十国立銀行】に併合された。 明治26年に銀行条例と貯蓄銀行条例が公布施行され北海道も銀行乱立期に入るが、その前に札 幌で明治22年に【北海銀行】、明治24年に【屯田銀行】が設立されている。明治26年以降に設立さ れた普通銀行は、明治26年の【松前銀行】 、明治27年の【余市銀行】 (その後【小樽銀行】となり、 やがて【北海道銀行】になる) 、明治28年の【江差銀行】 、明治29年の【函館銀行】、明治31年の【根 室銀行】【寿都銀行】、明治34年の【中立銀行】の7行。貯蓄銀行としては明治28年の【小樽貯蓄 銀行】 、明治29年の【札幌貯蓄銀行】【函館貯蓄銀行】、明治31年の【江差貯蓄銀行】の4行であっ た。明治20年代以降の道外本店銀行の進出は函館から小樽に中心が移っている。北陸銀行の前身 である【十二銀行】も明治32年に小樽に進出した。 明治32年に北海道拓殖銀行法が制定され、北海道開拓を資金面でバックアップすることを目的 とした特殊銀行【北海道拓殖銀行】が設立された。この銀行がその後の本道金融の核となっていく。 明治30年代に入って銀行の設立ブームが起き、ピーク時の明治34年には全国で 1,867行を数え たが、やがて整理期に入り、本道でも明治38年には【札幌貯蓄銀行】が【江差貯蓄銀行】と【松 前銀行】の2行を吸収し【北海道貯蓄銀行】と商号を変更、明治39年には【小樽銀行】と【北海 ― 2 ― 道商業銀行】 【 ( 屯田銀行】が商号を変更)が合併して【北海道銀行】が生まれた。 明治末期には、道外の弱小銀行が道内に本拠を移して商号を変えるという事例が続いた。東京 の《日本商工銀行》が岩内に転出して【岩内銀行】に、茨城県の《稲敷商業銀行》が【泰北銀行】 として札幌に、千葉県の《福岡農工銀行》が【札幌銀行】に、千葉県の《津田沼銀行》が釧路に 転出して【釧路銀行】に、宮城県の《国民貯蓄銀行》が苫前に転出して【手塩貯蓄銀行】に、な どがこの例であるが、最後まで本道に定着したものは僅かであった。明治40年代に入って銀行の 設立抑制策がとられたために、既存銀行の営業権売買が行われたものといわれるが定かではない。 明治43年、函館に【柿本銀行】が設立された。これが明治期設立の最後の銀行であった。 明治41年に札幌の【北海道貯蓄銀行】が経営不振に陥って、9か月間にわたり臨時休業した。 これを救済し【拓殖貯蓄銀行】として再発足させのは【北海道拓殖銀行】であった。この例を除 いて明治末期には道内銀行の経営はおおむね安定に向かいつつあった。 3.大正期の北海道の銀行 大正期に入って本道で設立された銀行は、大正8年、旭川の【糸屋銀行】 (兵庫県の《糸屋銀 行》が旭川に本店を移した) 、夕張郡角田の【北海道殖産銀行】の2行にとどまった。 大正8年の道内本店銀行は札幌に【北海道拓殖銀行】【拓殖貯蓄銀行】【札幌銀行】の3行、小 樽に【北海道銀行】【中立銀行】【泰北銀行】の3行、函館に【百十三銀行】【函館銀行】【函館貯 蓄銀行】【柿本銀行】の4行、旭川には【糸屋銀行】 、根室に【根室銀行】、士別に【手塩銀行】寿 都に【寿都銀行】 、角田に【北海道殖産銀行】と合計15行を数えている。 大正4年に第1次世界大戦が勃発して日本は空前の景気に酔ったが、大正8年に大戦が終り深 刻な反動恐慌に見舞われた。その余波は道内にも及んで、大正9年、函館の【柿本銀行】が休業、 大正15年には角田の【北海道殖産銀行】に取付け騒ぎが起き、旭川の【糸屋銀行】が休業した。 【柿本銀行】は和歌山と長野に主力店舗を持ち道内は2か店だけであったのでさほどの影響がな く、【北海道殖産銀行】は【北海道銀行】の支援で急場を凌いだが、【糸屋銀行】の破綻は旭川周 辺の取引者に多大な影響を及ぼした。結局は【北海道拓殖銀行】が整理・吸収したのであるが、 債権者集会における預金のカット率は52パーセントに及んだという。 大正時代にはこのほかにも色々な変遷があった。大正11年に貯蓄銀行法が改正されて【拓殖貯 蓄銀行】が普通銀行に転換し【北門銀行】と商号を変更、貯蓄部門は【北門貯蓄銀行】として分 離独立した。大正12年には【安田銀行】が道内他行店舗の買収統合を行ったが、その際に【根室 銀行】がその傘下に入った。また、 【函館銀行】が【百十三銀行】に吸収された。 一方、道外本店銀行の本道進出も続き、昭和元年末現在では、東京の【安田銀行】が函館・小 ― 3 ― 樽・根室・釧路・網走・帯広・野付牛(現在の北見)、同じく【第一銀行】が札幌・函館・小樽・ 室蘭、【三井銀行】が小樽、【三菱銀行】が小樽、富山の【十二銀行】が小樽・札幌・函館・旭川・ 帯広・江別・野付牛・深川・倶知安、【中越銀行】が小樽・旭川、【第四十七銀行】が小樽、【砺波 銀行】が森、青森の【青森銀行】が函館に進出していたほか、貯蓄銀行では東京の【共栄貯蓄銀 行】が札幌・函館・小樽・旭川、【不動貯蓄銀行】が札幌・函館・旭川、【安田貯蓄銀行】が函館 に店補を設けていた。 4.昭和初期の北海道の銀行 昭和に入って起きた金融恐慌は本道にも波及して、道外本店銀行の【共栄貯蓄銀行】が破綻し て道内4支店を閉鎖、恐慌とは直接関係がなかったが、大正末期から休業状態にあった【札幌銀 行】が昭和2年に解散した。その後も道内本店銀行の整理が続き、昭和3年に函館の【百十三銀 行】が小樽の【北海道銀行】と合併、昭和6年に【寿都銀行】が小樽の【北海道商工銀行】( 【中 立銀行】が大正9年に【小樽銀行】と商号変更、更に昭和4年には【北海道商工銀行】と商号を 変更していた)に吸収され、昭和7年には【手塩銀行】が経営不振で清算した。 その結果、昭和10年末の道内本店銀行は、特殊銀行として札幌の【北海道拓殖銀行】、普通銀行 として札幌の【北門銀行】、小樽の【北海道商工銀行】【北海道銀行】【泰北銀行】、角田の【北海 道殖産銀行】の5行、貯蓄銀行として札幌の【北門貯蓄銀行】 、函館の【函館貯蓄銀行】の2行、 合計8行に減少していた。 5.戦時下の銀行統合 昭和12年に支那事変が勃発、やがて大東亜戦争に拡大した。国内経済は厳しい政府の統制下に おかれ経済活動は萎縮した。銀行も1県1行政策のもとで統合整理が進められた。 道内では、【北海道拓殖銀行】と【北海道銀行】を軸に第一段階の統合が進められた。即ち、昭 和14年に【北門銀行】が【北海道拓殖銀行】と合併し、次いで、昭和16年に【泰北銀行】【北海道 殖産銀行】【北海道商工銀行】が【北海道銀行】と合併した。樺太 (現サハリン) には大正5年に 設立された【樺太銀行】があったが、昭和16年に【北海道拓殖銀行】に吸収されている。これで 道内の銀行は【北海道拓殖銀行】【北海道銀行】【北海貯蓄銀行】 (昭和14年に【北門貯蓄銀行】 が商号を変更) 【函館貯蓄銀行】の4行となった。 昭和18年に【函館貯蓄銀行】が【北海道銀行】と合併し、戦局険しさを増した昭和19年に最終 段階の【北海道拓殖銀行】と【北海道銀行】の合併が行われ、一つだけ残った【北海貯蓄銀行】 も昭和20年5月に【北海道拓殖銀行】と合併し、道内本店銀行は【北海道拓殖銀行】の一行に集 ― 4 ― 約された。その3か月後に戦争が終わった。 この時期に道外本店銀行の整理統合も行われ、本道進出銀行では、【第一銀行】と【三井銀行】 が合併して【帝国銀行】に、【十二銀行】【第四十七銀行】【中越銀行】が合併して【北陸銀行】に、 【不動貯蓄銀行】と【安田貯蓄銀行】が合併して【日本貯蓄銀行】に変わっていた。 6.道内本店無尽会社の興亡 道内本店無尽会社の沿革は《北洋相互銀行50年史》に詳しい。道内本店無尽会社は最終的に【北 洋無尽】に一本化されたのであるから、同行の歴史そのものと言える。 無尽講は、昔から庶民の生活に密着した金融手段として広く行われていたが、明治に入って、 それを業とする組織が現れはじめた。いわゆる営業無尽である。明治末期の北海道は日露戦争が 終わって開拓が本格的に進捗しはじめた時期であり、庶民金融も活発化し、営業無尽を営む会社 が次々に設立された。その第1号は明治44年、旭川に設立された【旭川信託】である。同じく旭 川には大正元年に【上川信託】 、翌大正2年に【旭川相融】、同じ年に函館に【大正貯金】、滝川に 【滝川金融】が設立された。 大正期に入り、第1次欧州大戦が勃発して全国的に経済活動が活発化し、 無尽会社も続々と設立さ れて、無尽会社は庶民や中小零細企業の事業資金の調達手段として無視できない金融機能を持つ ようになった。反面、不健全経営を行って社会的混乱を引き起こす業者も出てきたので、政府は その監督制度を確立するために、大正4年、無尽業法を制定した。これによって不健全な業者を 整理、健全な業者には無尽業法による大蔵大臣の営業免許を与えて正式な無尽会社に改組させた。 道内本店銀行の発祥の地は函館であったが、道内本店無尽会社発祥の地は旭川であった。道内 では無尽業法の施行と同時に【旭川信託】が【旭川無尽】に、【上川信託】が【上川無尽】に改組 した。無尽業法施行前に設立されていた道内本店営業無尽の各社はその後、順次無尽業法の営業 免許をえて【大正貯金】は【函館無尽】に、【滝川金融】は【滝川金融無尽】に、【旭川相融】は【旭川 無尽(合資) 】に改組した。 無尽業法の施行後、道内では続々と新しい無尽会社が設立された。先ず大正5年には函館に【北 海無尽】、室蘭に【室蘭無尽】の2社、翌大正6年には釧路に【釧路興業無尽】、札幌に【札幌無 尽】 、小樽に【北海道無尽】の3社、大正7年には増毛に【増毛信託】 、野付牛に【北海道興業無 尽】の2社が設立された。その後の大正年間では、大正8年には網走に【殖産無尽】、大正11年に は帯広に【十勝無尽】、大正13年には札幌に【北海道無尽】、大正14年には根室に【根室無尽】が 設立され、これをもって、北海道内の無尽会社設立ブームも終止符を打った。 昭和期に道内で設立された無尽会社は、昭和15年に網走の【報徳無尽】、昭和17年に北見の【東 ― 5 ― 和無尽】があるが、ともに大正期に設立された無尽会社の整理会社として設立されたものである。 道内本店無尽会社は設立後、頻繁に改称や統合を繰り返した。小樽に設立された【北海道無尽】 は、翌大正7年、函館の【北海無尽】と紛らわしい故をもって【小樽無尽】と改称した。野付牛 の【北海道興業無尽】は大正7年【一力無尽】に、旭川の【上川無尽】は昭和5年【拓殖無尽】 に改称、同じく旭川の【旭川無尽(合資) 】は昭和4年【日之出無尽】に改組、帯広の【十勝無尽】 は昭和6年【北日本無尽】と改称した。 整理統合が進んで昭和15年1月末現在の道内本店無尽会社は、函館に【函館無尽】、室蘭に【室 蘭無尽】 、小樽に【小樽無尽】 、札幌に【北海道無尽】 、旭川に【日之出無尽】【拓殖無尽】、帯広に 【北日本無尽】 、野付牛に【一力無尽】 、網走に【報徳無尽】 、釧路に【釧路興業無尽】 、根室に【根 室無尽】の11社であった。 戦時下の統合が始まり、昭和15年12月に室蘭の【室蘭無尽】が札幌の【北海道無尽】を併合し て【北海道無尽】と改称、同じく函館の【函館無尽】は旭川の【拓殖無尽】を併合して【拓殖無 尽】と改称した。昭和17年12月には北見の【一力無尽】 、根室の【根室無尽】釧路の【釧路興業無 尽】が統合して、北見に【東和無尽】が設立された。昭和17年12月には室蘭の【北海道無尽】が、 また昭和18年4月には網走の【報徳無尽】が【北日本無尽】に吸収された。かくして昭和19年1 月に道内で現存したのは函館の【拓殖無尽】、小樽の【小樽無尽】、札幌の【北日本無尽】(昭和15 年に本店を帯広から札幌に移転) 、旭川の【日之出無尽】 、北見の【東和無尽】の5社であった。 昭和19年2月【小樽無尽】は【北洋無尽】と改称して道内本店無尽会社大合同がスタート、翌 3月【東和無尽】【拓殖無尽】【北日本無尽】【日之出無尽】の4社が【北洋無尽】と合併し、道内 本店無尽会社は【北洋無尽】に一本化された。は昭和20年5月、本店を小樽から札幌に移転した。 7.戦後の道内銀行の動き 戦時下の1県1行政策のもとで、銀行と無尽会社の整理集約が行われたが、昭和20年8月、長 い戦争が終わった。 国土は荒廃し生産施設は壊滅的な打撃を受け、わが国の経済は崩壊、インフレ抑制、秩序回復、 早期復興などが、直面する戦後経済の大きな課題となった。復興には膨大な資金が必要であるが、 用意できる資金は乏しい。貯蓄の奨励は勿論のこと、資金の適正配分は重要な経済政策となった。 昭和21年2月に施行された金融緊急措置令に準拠して、昭和22年3月に金融機関資金融資準則 が制定され、産業資金貸出優先順位表が別表として定められた。これは業種別・資金使途別に『甲 の1』『甲の2』『乙』『丙』に分けて融資の優先順位を定めたものであるが、その結果、経済再建 に緊急を要する鉄鋼、石炭、肥料などの基幹産業、大手企業に資金が重点配分され、商業や料飲 ― 6 ― 業をはじめ多くの零細中小企業は丙種産業として最下位にランクされた。必然的に中小零細企業 金融は逼迫した。この当時、丙種産業へ融資を細々と行っていたのは銀行以外の金融機関、即ち、 無尽会社や信用組合であった。 そうした状況の中で開催された昭和24年11月の国会で池田隼人蔵相は、1県1行政策の見直し を表明した。これを契機に、全国的に新銀行設立の気運が広がり、その結果、昭和29年までに12 の地方銀行が誕生した。 現在の【北海道銀行】は、このような動きの中で誕生した。即ち、昭和25年8月、旭川におい て開催された全道中小企業者大会並びに全道商工会議所大会で、新銀行の設立提案が採択され、 翌昭和26年3月、本店を札幌におく地方銀行としてゼロから出発したのである。 その前年の昭和25年11月にも、ゼロから出発した無尽会社があった。札幌の【北海道無尽】で ある。これも【北海道銀行】と同様に道内中小零細企業金融の円滑化が背景にあった。戦後、国 内に新設された無尽会社の多くは【北海道無尽】と同様の必要性に基づいている。昭和26年6月 に相互銀行法が公布施行され、同年10月【北洋無尽】は【北洋相互銀行】に【北海道無尽】は【北 海道相互銀行】に改組した。 昭和63年に金融制度調査会は相互銀行の普通銀行転換を提言した。翌平成元年2月、両行は普 銀転換を行い【北洋相互銀行】は【北洋銀行】に【北海道相互銀行】は【札幌銀行】に改組した。 バブル崩壊により金融機関は多くの負の遺産を抱えて呻吟したが、道内も例外でなかった。平 成9年4月、突如として【北海道拓殖銀行】と【北海道銀行】の合併が発表された。両行の行風 の違いから、道民はこの発表に驚くと同時に合併の成功を危ぶんだ。案の定、同年9月、両行は 合併延期を表明した。その二か月後【北海道拓殖銀行】が破綻、道内の営業を【北洋銀行】に譲 渡すると発表し、道民に大きなショックを与えた。平成10年11月【北海道拓殖銀行】は、99年間 にわたる歴史の幕を閉じた。 8.銀行・無尽会社個々の沿革 以上は、明治初期から現在までを時系列的に記述したものであるが、道内本店銀行並びに道内 本店無尽会社個々の沿革を整理してみると、およそ次のようになる。 1 銀 行 【第 百 十 三 国 立 銀 行】 明治12年1月函館に設立。明治30年7月【百十三銀行】と改称。昭和 3年3月【北海道銀行】に合併。 【第百四十九国立銀行】 明治13年2月函館に設立。明治18年5月東京の《第百十九国立銀行》 に併合。 ― 7 ― 【山 田 銀 行】 明治16年2月函館に設立。明治24年7月廃業。 【北 海 銀 行】 明治22年7月札幌に設立。大正2年4月東京の《二十銀行》に併合。 【屯 田 銀 行】 明治24年1月札幌に設立。明治31年本店を小樽に移転。明治33年1月【北 海道商業銀行】と改称。明治39年5月【小樽銀行】と合併。 【松 前 銀 行】 明治26年6月松前に設立。明治38年3月【札幌貯蓄銀行】と合併。 【余 市 銀 行】 明治27年1月余市に設立。明治30年12月本店を小樽に移し【小樽銀行】と 改称。明治39年5月【北道商業銀行】と合併【北海道銀行】と改称。昭和19年9月【北海 道拓殖銀行】と合併。 【江 差 銀 行】 明治28年5月江差に設立。明治39年6月【北海道貯蓄銀行】と合併。 【小 樽 貯 蓄 銀 行】 明治28年9月小樽に設立。明治38年6月廃業。 【札 幌 貯 蓄 銀 行】 明治29年3月札幌に設立。明治38年3月【北海道貯蓄銀行】と改称。明治 42年8月【拓殖貯蓄銀行】と改称。大正11年1月【北門銀行】と改称、貯蓄部門を分離。 昭和14年12月【北海道拓殖銀行】と合併。 【函 館 貯 蓄 銀 行】 明治29年8月函館に設立。昭和18年12月【北海道銀行】と合併。 【函 館 銀 行】 明治29年7月函館に設立。大正11年4月【百十三銀行】と合併。 【根 室 銀 行】 明治31年3月根室に設立。大正12年11月《安田銀行》と合併。 【江 差 貯 蓄 銀 行】 【寿 都 銀 明治31年11月江差に設立。明治38年3月【札幌貯蓄銀行】と合併。 行】 明治31年11月寿都に設立。昭和6年12月【北海道商工銀行】と合併。 【北海道拓殖銀行】 明治32年12月特殊銀行として札幌に設立。昭和25年4月普通銀行に転換。 平成10年11月道内取引を【北洋銀行】に譲渡。 【中 立 銀 行】 明治34年1月小樽に設立。大正8年12月【小樽銀行】と改称。昭和4年12 月【北海道商工銀行】と改称。昭和16年10月【北海道銀行】に併合。 【共 立 商 業 銀 行】 明治36年12月宮城県《武州銀行》が夕張の登川に本店を移転【共立商業銀 行】と改称。明治37年2月本店を東京に移転。 【釧 路 銀 行】 明治40年8月千葉県《津田沼銀行》が釧路に本店を移し【釧路銀行】と改 称。大正3年6月本店を東京へ移転。 【泰 北 銀 行】 明治40年9月茨城県《稲敷商業銀行》が札幌に本店を移し【泰北銀行】と 改称。大正3年12月本店を小樽に移転。昭和16年10月【北海道銀行】に併合。 【手 塩 貯 蓄 銀 行】 明治36年宮城県《国民貯蓄銀行》が札幌支店を苫前に移し【手塩貯蓄銀行】 と改称。明治43年廃業。 ― 8 ― 【物 産 銀 行】 明治41年群馬県《境銀行》が本店を釧路に移し【物産銀行】と改称。明治 42年東京に移転。 【岩 内 銀 行】 明治41年8月東京《日本商工銀行》が本店を岩内に移し,明治43年【岩内 銀行】と改称。明治44年再び本店を東京へ移転。 【札 幌 銀 行】 明治32年千葉県《福岡農商銀行》が札幌支店を設置、明治43年【札幌銀行】 と改称。大正15年解散。 【柿 本 銀 行】 【手 銀 行】 大正4年4月士別に設立。昭和7年6月廃業。 塩 明治43年3月函館に設立。大正10年5月清算。 【北海道殖産銀行】 大正8年11月角田に設立。昭和16年10月【北海道銀行】に併合。 【糸 明治34年9月兵庫県《糸屋銀行》が旭川進出。大正8年1月【糸屋銀行】 屋 銀 行】 に改組、本店旭川。大正15年12月【北海道拓殖銀行】に併合。 【北 門 貯 蓄 銀 行】 大正11年1月【拓殖貯蓄銀行】から分離、本店札幌。昭和14年2月【北海 貯蓄銀行】と改称。昭和20年5月【北海道拓殖銀行】と合併。 【北 海 道 銀 行】 昭和26年3月設立。本店札幌。 【北 本店札幌。平成元年2月【北洋相互銀行】が普通銀行に転換【北洋銀行】 洋 銀 行】 と改称。平成10年11月【北海道拓殖銀行】の道内取引を譲受。 【札 幌 銀 行】 本店札幌。平成元年2月【北海道相互銀行】が普通銀行に転換【札幌銀行】 と改称。 2 無尽会社 【旭 川 信 託】 明治44年8月旭川に設立。大正4年10月【旭川無尽】と改称。昭和3年月 【博益無尽】と改称、昭和6年7月【十勝無尽】と合併。 【上 川 信 託】 大正元年10月旭川に設立。大正4年10月【上川無尽】と改称。昭和5年1 月【拓殖無尽】と改称。昭和15年3月【函館無尽】に吸収。 【大 正 貯 金】 大正2年1月函館に設立。大正5年6月【函館無尽】と改称。昭和15年12 月旭川の【拓殖無尽】を吸収【拓殖無尽】改称。昭和19年3月【北洋無尽】と合併。 【滝 川 金 融】 大正2年8月滝川に設立。大正11年9月【滝川金融無尽】と改称。昭和3 年1月【滝川無尽】と改称。昭和6年7月【小樽無尽】と合併。 【旭 川 相 融】 大正2年10月旭川に設立。大正4年11月【旭川無尽合資会社】と改称。大 正5年6月【日の出無尽合資会社】と改称。昭和4年5月【日之出無尽】に改組。昭和12 年2月本社を札幌に移転。昭和19年3月【北洋無尽】と合併。 【北 海 無 尽】 大正5年6月函館に設立。昭和10年6月和議決定。昭和11年4月【北日本 無尽】に吸収。 ― 9 ― 【室 蘭 信 託】 大正5年7月室蘭に設立。大正6年1月【室蘭無尽】と改称。昭和15年12 月札幌の【北海道無尽】を吸収【北海道無尽】と改称。昭和17年12月【北日本無尽】と合併。 【釧 路 興 業 無 尽】 【札 幌 無 大正6年1月釧路に設立。昭和17年12月【東和無尽】に統合。 尽】 大正6年6月札幌に設立。昭和12年3月【日之出無尽】に吸収。 【北 海 道 無 尽】 大正6年8月小樽に設立。大正7年1月【小樽無尽】に、昭和19年2月【北 洋無尽】に改称。昭和19年3月道内の無尽会社をすべて併合。昭和20年4月本社を札幌に 移転。昭和26年10月相互銀行に転換【北洋相互銀行】と改称。平成元年2月普通銀行に転 換【北洋銀行】と改称。 【増 毛 信 託】 大正7年1月増毛に設立。大正7年1月【天北無尽】と改称。昭和4年11 月本社を稚内に移し【北海産業無尽】と改称。昭和15年10月【小樽無尽】と合併。 【北海道興業無尽】 大正7年5月野付牛に設立。大正7年8月【一力無尽】と改称。昭和17年 12月【東和無尽】に統合。 【野 付 牛 商 事】 大正8年10月野付牛に設立。大正9年6月本社を網走に移し【殖産無尽】 と改称。昭和11年10月営業免許取消により解散。 【十 勝 無 尽】 大正11年11月帯広に設立。昭和6年11月【北日本無尽】と改称。昭和15年 10月本社を札幌へ移転。昭和19年3月【北洋無尽】と合併。 【北 海 道 無 尽】 大正13年12月札幌に設立。昭和15年12月【室蘭無尽】に吸収。 【根 室 無 尽】 大正14年2月根室に設立。昭和17年12月【東和無尽】に統合。 【報 無 尽】 昭和15年5月網走に設立。【殖産無尽】の旧契約を救済。昭和18年2月【北 徳 日本無尽】と合併。 【東 和 無 尽】 昭和17年12月北見の【一力無尽】釧路の【釧路興業無尽】根室の【根室無 尽】が合併し北見に設立。昭和19年3月【北洋無尽】と合併。 【北 海 道 無 尽】 昭和25年11月設立。本店札幌。昭和26年10月相互銀行に転換【北海道相互 銀行】と改称。平成元年2月普通銀行に転換【札幌銀行】と改称。 9.おわりに 本稿は《北海道拓殖銀行史》と《北洋相互銀行50年史》から、道内に本店をおいた銀行と無尽 会社の名称を拾い集め、一応その帰結について記録したもので、興亡の経緯、規模や活動の程度、 地域社会・地域経済への貢献度合いなどにまで踏み込んだものではないが、それにしても、道内 には随分多くの地元銀行や地元無尽会社があったのである。 ― 10 ― 今にしてみれば、よくぞこんなところにと思われるような村落にも明治時代の銀行は生まれた。 松前、江差、寿都、岩内、余市、増毛などは、その昔、ニシンで栄えた所であるが、これらの村 落の起業家はビジネスチャンス到来とばかりに銀行業に踏み出したものであろう。往時は、その ような行動を容易に起こせるような自由な時代でもあったのであろう。そして、その多くが廃業 に追い込まれたように、激しい経済環境の変化と厳しい競争の時代でもあったのであろう。とは いえ、銀行は庶民とは程遠い存在であったのであろう。それが明治末期の諸産業勃興期から無尽 会社の乱立をもたらした原因なのであろう。 昭和恐慌から戦時中の国家統制をはさんで、金融機関の自由競争は失われたが、今、金融ビッ グバンは百年前の自由競争を蘇らせようとしている。 あとがき 昨年の夏のある暑い日の午後、私は終戦直後の《産業資金貸出優先順位表》による『丙種産業』 の範囲を確認したくて、本店2階会議室で当庫所蔵の《日本金融史資料》(これは日本銀行金融研 究所が編纂刊行したもので既刊数十巻に及び、未だ完結していない) を閲覧していたのであるが、 私の欲しい資料は見当たらなく、かわりにおもしろい資料が目に入った。《地方金融史資料》の中 に、明治時代の日本銀行小樽支店がまとめた北海道の経済リポートが収録されていたのである。 そこでふと、道内本店銀行の興亡史を調べてみようかとの思いが頭をもたげたのであるが、《地 方金融史資料》は、その目的に適合するような内容ではなかった。思いついたのは、戦時中に道 内の銀行が【北海道拓殖銀行】に一本化された経緯があったので、【北海道拓殖銀行】が取りまと めた資料があるのではないかということであった。 早速、調べてみると、昭和46年に【北海道拓殖銀行】が《北海道拓殖銀行史》を発行しており、 その中で同行の沿革 (裏返せば本道本店銀行史であるが) に触れている。しかし、《北海道拓殖銀 行史》は必ずしも本道本店銀行史を網羅したものではない。個々の銀行の興亡については明確を 欠くところが多々ある。昭和29年に【北海道拓殖銀行】調査部が《北海道金融機関沿革史》を発 行していることを知り、そのコピーを入手したが、これも同じく個別銀行の興亡については明晰 を欠いている。 それでも《北海道拓殖銀行史》により、道内本店銀行史についての取りまとめを一通り終って、 道内本店無尽会社の興亡史にまで範囲を広げようとしたのであるが、《北海道拓殖銀行史》ではど うにも進まない。無尽会社に関する詳細な記述がないのである。 その時、【北洋相互銀行】が昭和45年に《北洋相互銀行50年史》を発行していることを知った。 道内本店の無尽会社は、戦時中に【北洋相互銀行】の前身である【北洋無尽】に集約されている ― 11 ― ので、必ずや道内本店無尽会社の興亡が記載されているに違いないと期待したのであるが、期待 以上に、この《北洋相互銀行50年史》は貴重な資料であった。《北海道拓殖銀行史》では不明とさ れた道内本店銀行の興亡まで、本文や年表で知ることができた。 その中に、次のようなものがある。 《北海道拓殖銀行史》に函館の【柿本銀行】の記述があるが、その興亡がはっきりしなかった。 《北洋相互銀行50年史》によると、【柿本銀行】の創始者である柿本作之助は、和歌山県有田の出 身で明治43年に函館に渡り海産商を始めた。生来の事業家で忽ち函館に20数カ所の質屋をつくり、 やがて【柿本銀行】を創設し、小樽にも出張所を設けた。無尽会社乱立時代を迎え、柿本作之助 も無尽会社の設立を画策したが、函館には既に無尽会社が設立されていた。北海道経済の中心地 は函館から小樽に移りつつあると見た柿本作之助は、小樽に無尽会社を設立すべく奔走し、大正 6年に【北海道無尽】を創設した。 開業当時の【北海道無尽】の店補は【柿本銀行小樽出張所】に隣接していたとして【柿本銀行 小樽出張所】の写真が掲載されている。それを見て、私は思わず声を上げた。それは、私が昭和 37年秋に当庫に入庫する直前まで勤務していた北海道財務局小樽財務部の建物であった。昭和37 年4月当初から9月末までの半年間、私は札幌から小樽へ通勤した。南小樽駅から小樽駅方向に 花園町に入って、だらだら坂がある。坂の下部が量徳寺で、その隣の石垣の上に、石造で複雑な 構造のこの建物があった。地番でいえば小樽市花園町東4丁目である。 私が小樽財務部に転勤して間もない頃、財務部勤務の先輩に『この建物は何か昔の銀行みたい な感じがする』と言ったら、『そうだったらしい』という答えを聞いた記憶があるが、それが【柿 本銀行小樽出張所】であり【小樽無尽】発祥の地であったとまでは知らなかった。この建物が建っ ていた場所には、現在、小樽公共職業安定所の庁舎がある。 【北洋無尽】は寿原家が率いた【小樽無尽】が核となっていた。【小樽無尽】は始めから寿原家 によって設立されたものと私は思っていたのであるが、実は函館の柿本作之助が創始者で初代社 長であった。柿本作之助は意欲的な事業家であったが、大正10年、雑穀相場に失敗して巨額の借 財を負い関連事業を整理した。その折に彼の所有する【小樽無尽】の株式を、同じく【小樽無尽】 の株主であった寿原家に譲ったのである。《北洋相互銀行50年史》によって、このような【小樽無 尽】創設の経緯を知ることができ、併せて《北海道拓殖銀行史》では明確を欠いた【柿本銀行】 の終末も知ることが出来たのであった。 (本稿は社内報『とましんライフ』(平成11年9月号)掲載分を加筆修正したものであるが、誤認 や脱漏が多いと思うので、お気づきの点があればご指摘をたまわりたい。 ― 12 ― 平成12年8月24日記)