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ノーベル賞と粒子加速器 井上 信 津山高等学校同窓会 京阪神支部 講演会
ノーベル賞と粒子加速器 井上 信 津山高等学校同窓会 京阪神支部 講演会(2009.8.1) 2008 年度のノーベル物理学賞は南部陽一郎米シカゴ大名誉教授、小林誠高エネルギー加速器 研究機構名誉教授、益川敏英京都大学名誉教授の3氏に授与されました。南部先生は私より一世 代上の方ですが、小林さんと益川さんは私と同世代でよく存じ上げています。特に益川さんは、私 と同じ年に京都大学を定年になった方です。彼は素粒子の理論屋、私は原子核の実験屋ですか ら研究は一緒にしたことはありませんが、同じ物理学専攻ですし、定年の数年前からは、彼が基礎 物理学研究所、私が原子炉実験所という、どちらも京大にある研究所の所長で、大学の評議員もし ていましたから、大学院の入試問題を作るときや大学の運営に関する議論など、よく一緒に話す機 会がありました。 今回のノーベル賞は、いずれも「対称性の破れ」という言葉がキーワードといえる理論的な研究に 対する業績が評価されました。対称性というのは、例えば右手を鏡に写して見れば左手に見えま す。鏡の外の右手と鏡の中に左手として見える手は全く対称的で、一方が右に回転すると他方は 左に回転します。自然界の素粒子にも例えば電子はマイナスの電気を持っていますが、これと質 量が同じでプラスの電気を帯びた陽電子という粒子があります。陽電子は電子の反物質で、鏡の 中の電子のような意味で対称な関係があるわけです。しかし、原子核や素粒子の世界では対称で あるべき物の振る舞いをよく見ると完全に対称とは言い切れない現象、「対称性の破れ」、が見つ かることがあります。対称性の破れというのは、例えば、茶碗の中に小さな丸いガラス玉を投げ入れ るとやがて真ん中の底の所に止まります。これを上から見ると真ん中にガラス玉があって360度対 称に見えます。次にこの茶碗の底の真ん中の部分をワインボトルの底のように少し押し上げた形に したとします。そして真ん中の盛り上がった頂上にガラス玉を置きます。これを上から見るとやはり 真ん中にガラス玉があって360度対称です。しかし今度は非常に不安定な山の頂上にガラス玉が あるので、何かの加減で動くとガラス玉は滑り落ちて周りの低い所へ落ち着きます。これを上から見 るとガラス玉は真ん中になくて360度の対称性が破れています。ミクロの世界でこのように対称性が 自発的に破れることについて優れた研究をしたのが南部先生だったのです。 実際に原子核や素粒子の世界で対称性が破れる現象は 1950 年代に実験でみつかり、その現 象を説明する理論も出ましたが、1961 年に対称性の破れの基本的な理論を出したのが南部先生 です。そしてさらに 1973 年に発表された小林・益川理論はこの対称性の破れを完全に説明するに はクォークと呼ばれる基本粒子が少なくとも6種類存在する必要があることを予言しました。クォーク とは何か。皆さんは高校の物理で、例えば水の分子は水素原子2個と酸素原子1個からできており、 1 原子は中央に原子核があって周囲に電子があり、水素の原子核は1個の陽子から出来ていて、酸 素の原子核は8個の陽子と8個の中性子から出来ていると教わったと思います。その陽子が実は2 個のアップというクォークと1個のダウンというクォークから構成されているのです。この考えを提唱し たゲルマンという物理学者が、ジェイムス・ジョイスの小説の中の鳥の鳴き声「quark」から付けた名 前です。当時はアップ、ダウン、ストレンジという3種類のクォークしか見つかっていなかったのです が、その後チャーム、ボトム、トップという残りの3種類も実験で見つかりました。最後のトップを見つ けるには時間がかかり、日本では筑波の高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速 器研究機構:KEK という)でトリスタンという名の大きな粒子加速器を作って実験しましたが見つか らず、それより大きいアメリカの加速器で 1995 年に発見されました。これで小林・益川がノーベル賞 と日本人は思ったのですが6種類のクォークの存在だけでは駄目で、その後、より詳しく対称性の 破れに関する実験を行って小林・益川理論の正しさが証明されて受賞に結びつきました。この時 はアメリカと日本の粒子加速器(KEK にある KEK-B)が競争でデータを出しました。KEK-B の方が より精度の高いデータを出しました。小林・益川理論発表からノーベル賞まで 30 年以上経っていま した。 この宇宙になぜ物質があるのか、物質の基本的な性質・法則はどうなっているのかの研究はまだ まだ続きます。真空というのは何もない状態ではなくミクロの世界を説明する量子論という考え方で は粒子と反粒子の対が常に出来たり消えたりしている状態です。この真空から何かのきっかけでビ ッグバンといわれる爆発が始まり、どんどん膨張していまの宇宙になったというのが今の宇宙論の 考え方です。そこで宇宙の始まりのところが、ミクロ世界の素粒子論と結びついてきました。素粒子 論のためにも宇宙の観測は大切ですが、宇宙の始まりを理解するためにも地上での粒子加速器に よる実験で確かめることが重要だという時代になってきています。そこで次に粒子加速器の歴史を 見てみましょう。 粒子加速器、簡単に加速器といいますが、これは粒子を高速に加速する装置です。1911 年にイ ギリスのケンブリッジ大学でラザフォードが弟子のガイガーとマースデンが行った実験を説明するた めには原子の中心に原子核というものがある筈だということを提唱しました。これをラザフォードによ る原子核の発見といいますが、実はその 7 年ほど前 1904 年に長岡半太郎という日本の物理学者 が原子は土星のようになっているというモデルを提唱していました。長岡は後にお話しする箕作一 族から妻を迎えており、初代阪大総長でもありました。 ラザフォードの弟子達の実験はキューリー夫人が見つけたラジウムから出てくるα線という放射線 を銀などの薄いフォイルに当てて調べる実験でした。実はラザフォードはこの実験以前に、このα 線の正体がヘリウムのイオンと同じ物であることを見つけていた人で 1908 年にノーベル化学賞を受 賞しています。そこで放射性物質であるラジウムを使わなくても陽子やヘリウムイオンなどの粒子を 2 高速に加速できれば原子核の研究ができるというわけで、加速器の開発競争が始まります。1932 年にラザフォードの弟子であったコッククロフトとウォルトンの二人が、コッククロフト・ウォルトン型と いわれることになる加速器を作って、水素のイオンつまり陽子を加速してリチウムという原子にぶつ け、リチウムの原子核を壊すという、世界で始めて人工的に原子核を壊して別の種類の原子核に する事に成功しました。彼等は 1951 年にノーベル賞を貰います。同じ 1932 年にやはりラザフォー ドの弟子のチャドウィックが中性子を発見します。チャドウィックはこの功績で 1935 年にノーベル賞 を受賞しています。この他にもケンブリッジ大学からは多くのノーベル賞受賞者が出ています。 余談になりますが、イギリスにはオックスフォードとケンブリッジという有名な古い大学があります。 しかし、政府の要職につくのはオックスフォード、ノーベル賞は断然ケンブリッジということのようで す。それぞれ独特の雰囲気と伝統があって違う物差しを持っているのでしょう。日本の現代物理学 の伝統について述べるなら、その中心は日本の現代物理学の父といわれる理化学研究所(理研) の仁科芳雄の研究室でしょう。 仁科芳雄は岡山県浅口郡里庄町に生まれた人です。もともとは物理学を志したのではなく、東大 で電気工学の勉強をしていたのですが、進路に悩んでいたともいわれます。東大で長岡半太郎の 指導も受けています。卒業後、理研に入所してすぐ、2年間の予定でヨーロッパに留学しますが、 そこで最新の物理学に出会いヨーロッパで7年あまりを過ごします。最初はラザフォードがいるケン ブリッジ大学へ、さらにドイツを経て、量子力学を提唱したボーアのいるデンマークへ移り、量子力 学で必ず出てくるクライン−仁科の式という有名な理論式を導きだします。そして帰国後は理研を 拠点にして量子力学や原子核物理学の日本での研究の中心になります。当時の東大にはこの新 しい物理学を研究する人はいませんでした。仁科は京都に来て新しい物理学に関心を持っていた 若い湯川秀樹や朝永振一郎に量子力学を講義します。湯川と朝永は同級生で、後に湯川は阪大、 京大で、朝永は理研、東京文理大(筑波大の前身)で素粒子論の研究をします。湯川の下にいた 坂田昌一は後に名古屋大学に素粒子論の研究室を開きます。そこで学んだのが小林誠と益川敏 英です。二人とも名古屋の大学院を出た後、湯川のいる京大の素粒子論の研究室の助手になっ ていた時にノーベル賞になる論文を書いたというわけです。研究室の雰囲気やそれを伝える伝統 の重要さががわかると思います。 最近日本の国立大学は同じように法人化して同じ物差しで競争させられていますが、これではス ケールメリットによる差がつくだけではないかと危惧しています。それぞれの大学にそれぞれよき伝 統があります。私は国民が東京大学と京都大学に期待しているものは違うはずだよと京大の学長さ んには言っております。皆さんの母校津山高校も郷土の人達が誇る固有の伝統があります。それ を現場で育てているのは先生と生徒達、それを語り継いで行くのは同窓会、というわけです。今後 とも同窓会活動をよろしくお願いします。 3 話を戻しましょう。コッククロフト達の実験を知って、直ちにその研究に取り組んだ日本の科学者が いました。一人は台北帝大にいた荒勝文策で、もう一人は大阪帝大にいた菊池正士です。この二 つの研究室でコッククロフト達の実験からわずか2年後に同じ原理の装置を作って実験に成功しま す。日本の原子核物理学の実験的研究の始まりです。 荒勝文策は京大を出た人ですが、仁科と同じようにラザフォードの研究室などヨーロッパで新しい 物理を身につけ、新天地の台北帝大に研究室を開きます。この荒勝研究室で京大を出て助手とな り、この原子核の人工変換の実験を荒勝とともに行った木村毅一は私の恩師の一人です。荒勝は コッククロフト達の実験を知ると直ぐにこれが新しい時代の到来であることを感じて興奮し、直ちに 同様な実験装置を作ったといわれます。荒勝と木村はこの実験のあと、京都帝大に移りますが、台 北に残った人達はその伝統を今に伝え、アジアで最初の実験をした荒勝達を誇りにして台湾大学 に記念の展示室を作っています。木村毅一は湯川秀樹と同級生で、私が学生の頃は二人が京大 の原子核・素粒子の実験研究と理論研究を代表する存在でした。 一方の阪大の菊池正士は津山と縁が深い人です。よくご存じの津山市西新町生まれの蘭学者 箕作阮甫の孫に菊池大麓という東大、京大の総長を務め、文部大臣、男爵にもなった数学者がい ますが、正士はその四男です。こちらは東大を出て理研で研究を始めます。理研にいた頃、電子 線の研究をして、電子は粒子であるが波の性質も持つという、いわゆる量子力学の概念を実験的 に示したことで有名で、同様な研究をしたアメリカとイギリスの研究者はノーベル賞を貰いましたが、 残念ながら菊池正士は受賞しませんでした。その菊池正士ができたばかりの阪大に移って原子核 の研究を始めたのです。この頃若い湯川秀樹も阪大に勤務していて、この雰囲気のなかで理論研 究を行っており、日本人最初のノーベル賞になる中間子論を発表します。湯川は当時の阪大は何 かをせずにはいられない活気に満ちた雰囲気だったと後に述べています。菊池正士は戦後東大 に出来た原子核研究所の初代所長となり、東海村の原子力研究所の理事長や、東京理科大の学 長などを務めます。 また、余談ですが、箕作阮甫は江戸に出て、津山にいた頃の箕作家の墓が草むらの中に埋もれ てわからなくなっていたのを、50 年ほど前に私の父が偶然見つけました。今はお参りできるように整 備されています。その近くだと思いますが、最近西新町に新しい津山洋学資料館が完成したそうで す。来年の開館が楽しみです。 加速器の話に戻しましょう。コッククロフト達が作ったのはトランスと整流器とコンデンサーを組み 合わせた特殊な回路で直流の高い電圧を発生し、この電圧で電気を帯びた粒子を加速するもの でした。同じく高い電圧を作るのに、冬、扉にさわるとビリッとくる静電気と同じ原理で高い電圧を作 ることを考えたヴァン・デ・グラーフという人がいました。このヴァン・デ・グラーフ型加速器はコックク ロフト達の装置より高い電圧が出せたので、原子核の研究に長く使われました。 4 一方、直流の高い電圧を出すと放電するので、使える電圧に限界があります。そこで交流を利用 して何回も繰り返し加速することで粒子を高速にしようと考えた人達が居ました。磁石で粒子を円形 の軌道に閉じこめつつ交流の電圧で粒子を高速にまで加速するサイクロトロンという装置を発明し たのがアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校のローレンスという人です。サイクロトロンはコック クロフト・ウォルトン型加速器より少し早く 1931 年に発明されていたのですが原子核の実験に利用 することではコッククロフト達に先を越されました。しかし、より高いエネルギーまで加速できるので、 やがて加速器の主流になり世界各地でサイクロトロンが建設されます。ノーベル賞を貰うのはロー レンスがコッククロフト達よりも早く 1939 年でした。 このサイクロトロンを日本で最初に建設したのが理研の仁科芳雄です。最初の小型のものはロー レンスの真似をして 1937 年には完成し実験を開始します。次にローレンスが大型のものを作るとい う計画を聞くと、それと同じ大きさのものを作ろうとします。この時ローレンスは親切にアメリカの海軍 の工場で一緒に電磁石を作ると日本で作るより安いからといってくれ、仁科達は同じ鉄材を彼等と 同時に入手できました。このため磁石はアメリカとほぼ同時に完成します。一方、加速のための交 流の電圧を作る部分などはアメリカとは別に設計して作りますが、アメリカのものはうまく行って 1939 年に完成したのに、日本のものは高周波電気回路の知識不足と真空技術の未熟さのため、うまく 行きませんでした。そこで仁科はローレンスに教えを請うために若い研究者達を派遣します。1940 年の始め、時は日米開戦の前夜です。アメリカでは国中の科学者を動員して原爆製造のためのマ ンハッタン計画が始まろうとしており、ローレンスはその重要人物の一人だったので、彼等に会うこ とができないと電報しますが、既に出発したあと。しかしローレンスの配慮でしょう、彼等はローレン スの弟子達に会うことができ、設計図や文献を入手し、最新の真空ポンプなども購入して帰国しま した。そうしてやっと終戦間際 1944 年にこの大型サイクロトロンは完成します。 同じ頃、阪大の菊池正士もコッククロフト型加速器での実験後、サイクロトロンの建設を目指し、民 間の支援を得て小型のサイクロトロンを 1938 年に完成させます。また、台北から京都に戻った荒勝 文策も中型のサイクロトロンの建設に着手します。京大のものは建設のスタートが遅かったので、戦 争に入り物資不足でなかなか進まず、戦争が終わったときには主要部分である電磁石は完成して いましたが、全体としては未完成の状態でした。 悲劇は敗戦直後に起こります。戦争中米国の科学者は原爆開発に総動員されましたので、米国 は日本でも科学者がどの様に原爆研究をしていたかを気にして調査に来ます。米国の著名な科学 者達が調査に来て、日本の研究はほとんど進んでいなかったことを知ります。 実際、陸軍は理研の仁科研究室に、海軍は京大の荒勝研究室に資金を出して原爆の研究をさ せますが、仁科は米国といえども原爆はこの戦争中に開発は無理と判断していたので、熱拡散法 5 というウランの濃縮技術の研究をしてはいましたがほとんど進まず、おまけに製作した装置は東京 空襲で爆破されてしまいます。実は仁科は資金のほとんどを基礎物理学研究用のサイクロトロンの 建設のために使います。京大では遠心分離法でのウラン濃縮の研究をしていましたがほとんど理 論的な段階で何も出来ていませんでした。阪大の菊池正士も原爆開発は無理と考えて海軍の研 究所でレーダーなどにかんする研究をしていましたが、自分が留守の研究室で陸軍の将校が学生 に手伝わせて理研でやりかけていたのと同じ熱拡散の装置を作ることは認めていました。この装置 は敗戦直後に学生達の判断で当時の阪大理学部の横の土佐堀川へ捨てたとのことです。 実情はそんなところでしたから、仁科は爆撃されずに残ったサイクロトロンの運転再開を認めて欲 しいと占領軍に要望しました。いったんは許可が出ていたのですが、占領軍が念のため米本国に 問い合わせたところ、本国から日本のすべてのサイクロトロンを破壊撤去するように秘密指令が来 ます。ドイツのサイクロトロンは破壊されていません。占領軍が本国に問い合わせなかったのでしょ う。日本のサイクロトロンの破壊は仁科のヤブヘビだったという人もいます。 敗戦から3ヵ月たった 1945 年 11 月突如として理研、阪大、京大に占領軍がやって来て、サイクロ トロンをすべて解体撤去します。破壊にやってきたとき理研では仁科がその前に調査に来た米国 の科学者の態度から考えて不審に思い科学者達も破壊に賛成しているのかと質したのに対し、そ うだという答えだったのですが、実は調査に来た米国の科学者達は破壊命令のことを知りませんで した。阪大や京大では理研と占領軍とのやり取りなど全く知りませんでしたから寝耳に水でした。学 問的な関心があって米国から調査に来たのかと思って対応し、物理の研究内容を説明したのです が、それは意味のないことで、始めから破壊が命令されていたのです。その後数年間、日本では原 子核の研究が禁止されます。 破壊の直後、理研のサイクロトロンが東京湾に投げ込まれる写真がアメリカの写真雑誌ライフに 掲載されて、世界中の人が知ることになります。米国では科学者達が軍の暴挙を激しく批判し、遂 に陸軍長官が誤りを認めますが後の祭りです。当時占領軍が3カ所のサイクロトロンを破壊してい る写真やフィルムが米国に残っています。最近も米国立公文書館で見つかり、見つけた時事通信 の記者が私にどの写真がどこのサイクロトロンであるかなど質問してきました。その写真の裏書きな どを見るとサイクロトロンが原爆製造装置であったかのような誤解をしている記述があります。加速 器は、ノーベル賞になる物理は作りますが、原爆は作りません。ただしその研究で得られた物理の 知識は良いことにも悪いことにも利用できます。ここが悩ましいところです。 日本がこんな目にあっている間に、欧米ではシンクロトロンというサイクロトロンより高速に粒子を 加速できる加速器が発明されます。バークレイに建設されたシンクロトロンによって陽子の反物質 である反陽子が発見され、その実験をしたセグレ達がノーベル賞を貰います。その後もより高性能 の加速器によって多くの新粒子の発見などがなされノーベル賞が授与されます。西部のバークレイ 6 だけではなくアメリカの東部にはブルックヘブン国立研究所に新型のシンクロトロンができ、また西 部にはスタンフォード大学に2マイルマシンといわれた電子を加速する直線型の加速器(線形加速 器:LINAC)もでき、さらに中部に国をあげてフェルミ国立研究所の大型シンクロトロンができます。 これらの加速器で素粒子に関する多くのノーベル賞に輝く研究がなされます。加速器での実験 でノーベル賞を受賞したのはローレンス以来 10 件以上あります。あまり多いのでもう新粒子発見で はノーベル賞を出さないようにしようという冗談が言われた時期もありました。実際 1995 年にトップク ォークを見つけたフェルミ国立研究所の実験はノーベル賞になっていません。加速器実験による 受賞の多くは物理学賞ですが、ウランより重い元素の製造をした研究は化学賞を貰いました。 一方、日本では敗戦から数年経ってサイクロトロンの発明者であるローレンスがやってきて日本で も基礎的な原子核の物理学は再開すべきであると占領軍に勧告してくれます。それで加速器の建 設も出来るようになり、理研にまず小型のサイクロトロンが復活します。残念なことに既に仁科芳雄 は戦後の疲れからか亡くなっていました。阪大では菊池正士が健在で中型のサイクロトロンを作り ます。京大では荒勝は停年で退職しており、木村毅一がサイクロトロンを蹴上発電所の所に再建し ます。私が学生時代使ったものです。私はその後、1965 年に大阪大学の菊池研究室の伝統を継 いだ教授の研究室に就職するのですが、20 年後にこのサイクロトロンが古くなって、更新計画推進 のために帰ってこいと言われて、蹴上の研究室に戻るという巡り合わせになります。 こうして戦後 10 年経ってやっと戦前のレベルに戻ったのでした。その間湯川秀樹が戦前発表し た中間子論に対するノーベル賞受賞もあり、物理学者達はより先端的な加速器を作りたいと計画を 立てます。こうして菊池正士を所長として新しく東大に全国の科学者が集まって共同でサイクロトロ ンを作りますが、残念ながら米国の加速器のレベルには及びませんでした。 1960 年代には原子核と、素粒子が別々の加速器で実験するようになりました。1971 年に出来た 筑波の高エネルギー物理学研究所(KEK)のシンクロトロンは素粒子の研究を目ざしましたが、同 時に出来た阪大の核物理研究センターのサイクロトロンは原子核の研究を目ざしました。私は阪大 の理学部に就職してその準備をしていましたが、創設された阪大の核物理研究センターに移り、ま だ日本にはなかった AVF サイクロトロンという新しいサイクロトロンの建設グループに加わりました。 KEK のシンクロトロンも、核物理研究センターのサイクロトロンも完成したときに世界最高性能では なく、またしても世界は 10 年先を行っていました。私の 10 年上の世代は戦後復興のため、私の世 代は世界に追いつくために青春を捧げた世代です。これではノーベル賞にはなりません。とはいえ この段階を踏まなければ技術は先へ進まないのでやむを得ません。それが我々の世代の役割だ ったのだと思います。しかし理論研究者は装置がなくても研究できましたから、私と同い年である益 川さんはその頃ノーベル賞を貰うことになる研究成果を挙げていたわけです。 さらに 10 年経って 1986 年 KEK に電子の加速器としては短期間世界最高エネルギーをマークし たトリスタンという名の加速器ができ、やっと素粒子の実験で世界に肩を並べることが出来ました。 7 この装置は小林・益川が予言したトップクォークを見つけるというふれこみでしたが、残念なことにエ ネルギーが少し足らず発見できませんでした。また更に 10 年以上経ってトリスタンを大改造して作 った KEK-B という加速器で最初に述べたように小林・益川の対称性の破れを詳しく測定でき、はじ めて日本の加速器がノーベル賞の受賞に貢献することが出来ました。 現在の最高の加速器での実験は加速器を作る人を別にしても一つの実験に何十人もの人が共 同で取り組む必要があり、その成果を論文に書いたときには著者の名前を書くだけで論文の1ペー ジ以上必要になるほどです。一方、理論の小林・益川論文の著者は二人です。とはいえ、よく紙と 鉛筆だけでと言われますが、理論の論文だけでノーベル賞に到達したのではなく、これらの実験家 のお陰であるということも知って頂きたいと思います。実際、益川さんはノーベル賞講演でそのこと に触れ感謝していました。100 人規模のチームワークなので、実験を行った人まではノーベル賞が 貰えませんが、加速器関係の代表者が受賞式に招待されました。日本の実験家にとっては、ここま でくるのに戦後の復興から 50 年かかりました。関係者は皆さんとても喜んでいます。 原子核研究用のサイクロトロンも発展しました。いまでは理研と阪大核物理研究センターにリング サイクロトロンという世界トップクラスの加速器があります。さらに最近理研では超伝導の世界最大 のリングサイクロトロンが完成し、実験が始まっています。理研では最近ウランより重い新しい元素 が発見されました。新しい加速器でますます原子核研究で世界をリードする研究所になることでし ょう。 ヨーロッパも戦場になり、戦前は量子力学の研究などでヨーロッパが科学をリードしていましたが、 戦後はアメリカ中心になりました。特に大型化して建設に費用がかかるようになった加速器は金持 ちアメリカの独壇場で、加速器実験によるノーベル賞もほとんどアメリカでの成果が対象になりまし た。しかし、ヨーロッパは戦後の復興期はアメリカにお株を奪われていたとはいえ、流石に科学の伝 統があり、戦後すぐにイギリス・フランス・ドイツなどが連合してスイスのジュネーブに CERN という欧 州原子核研究所をつくります。やがて 1960 年代にはアメリカに並び、1980 年代半ばには遂にアメ リカを抜いて世界最高性能の加速器で新粒子を発見しノーベル賞を受賞するまでになりました。こ の時はその加速器を作ることに貢献した人と、それを使って実験したチームの代表の二人が受賞 しました。なお、この CERN という組織は EU という政治面での欧州連合が出来る先駆けの役割をし たと言われています。 ヨーロッパに抜かれたアメリカは国の威信をかけて父親のブッシュが大統領の時テキサスに SSC という世界一の加速器を作る計画を進めますが、資金不足で日本に金を出せといってきます。しか しそれでも金がかかりすぎるということで、クリントンの時代に計画は中止されます。このように、素粒 子研究用の加速器は大型化し、今後はアメリカといえども一国だけでは建設が財政的に無理にな ってきています。ヨーロッパでは CERN があるといいましたが、現在 CERN では宇宙の物質の起源 に迫る LHC という大型加速器が運転を始めようとしています。日本もアメリカもその建設に資金を 8 出して協力し、共同研究をしています。その先のものとしては国際リニアコライダー計画(ILC)とい う将来計画を世界の物理学者が共同で検討しています。晩年の湯川秀樹は平和運動家として世 界連邦を目ざす運動をしますが、ILC は世界連邦とまでは言わなくても世界の平和がなければ実 現しないでしょう。逆に科学者達のこういう営みが世界平和にも貢献すればいいと思います。 さて次にノーベル賞のような基礎物理研究以外の加速器の応用についてお話します。最近では、 加速器は原子核や素粒子の物理学のためだけではなく、広い分野で使われています。 播磨学園都市にある Spring-8 はその代表例です。これは世界最大の放射光施設で、電子を高 速に加速して円形のリングに蓄積し、そこから高性能のX線を放射するものです。これを使って材 料や生命の研究をします。和歌山のヒ素事件でヒ素の中の混じりものを調べて犯人の家にあったヒ 素とカレーに入れてあったヒ素が同じものだと断定して有名になりました。さらに現在播磨ではX線 自由電子レーザー(FEL)というより高性能の加速器を建設中です。 もう一つの例は最近東海村に出来た J-PARC という加速器です。これは強力なニュートリノを作る ことができるので、小柴先生のノーベル賞で有名になったニュートリノの物理の分野でもノーベル 賞になるような研究が期待されていますが、それよりも応用面で多くの研究者が期待しているのは、 この加速器で製造される中性子を使って物質や生命、薬品などの研究をすることです。今のところ 世界にこれに匹敵するものは米国に1台あるだけです。 数が多く、皆さんの身近にあるのが医療用の加速器です。病院の放射線科で治療に使う放射線 発生装置はほとんど電子を加速する小型の LINAC です。全国に 1000 台ほどあります。また最近 はやりの PET という診断装置のためには診断用の薬のもとになる元素を製造するために小型のサ イクロトロンが使われます。全国に 100 台程度あります。最近、がん治療用には電子加速器より治 療効果が大きく、がん以外の正常な部分を傷つけない高性能の陽子や重いイオンの加速器も普 及してきました。近くでは兵庫県、福井県、名古屋市などで使用あるいは建設中です。 湯川秀樹が前立腺がんで入院しているときアメリカの加速器で中間子によるがん治療を始めたと いうニュースがあり、これを聞いて湯川は物理学者は悪いことばかりしてきたが、こんなことに役立 つのであれば大変嬉しい、自分のがんがそれで治ればなお嬉しいといったと言われます。残念な がら湯川のがんには間に合いませんでした。ちなみに兵庫県の陽子線治療加速器はほとんど前 立腺がんの治療に使われているそうです。30 年前、私も湯川のお弟子さんの中村誠太郎という先 生に頼まれて、欧米の中間子治療用の加速器を調べるために、1年間ほど欧米の研究所に滞在し ていたことがありますが、陽子に比べ中間子を作る加速器が高額なことなどの理由で中間子治療 は発展しませんでした。 一方、私が所長をしていた京大の原子炉実験所では中性子によるがん治療の研究がなされてい て、他の方法では治らなかった再発したがんも治るなど、最近画期的な成果が出ています。これは 9 細胞レベルでがん細胞と正常細胞を区別し、がん細胞だけをやっつけるところに他の方法にはな い特長があります。私の所長時代に一部の新聞が無許可の人体実験ではないかなどと間違った 報道をしてくれたこともありますが、全くの誤解です。外部の愉快犯のような人が、新聞各社にそう いうデマを投書し、一部の新聞が飛びついて記事にしたというのが真相です。いまでは症例も多く なり世界的に注目されています。とはいっても普及のためには原子炉を病院に置くわけにはいかな いから、小型の加速器で必要な中性子を発生させようということで、いま中性子治療用の加速器開 発が熊取で行われているので期待しています。 この他、ノーベル賞には関係ありませんが、加速器は医療器具の殺菌や、半導体や自動車のゴ ムタイヤの製造など皆様があまり知らない多くの分野で使われています。 最後にもう一つ、私が熊取の原子炉実験所を改革して新しい役目を担うようにしようと考えて立案 し、現在熊取で進んでいる研究を紹介しましょう。実は私の恩師の木村毅一は京大のサイクロトロ ンを建設後、熊取町に設置された京大原子炉実験所の創設に関わり初代所長になって停年を迎 えます。私は 20 年間勤めた阪大から京大に呼び戻されて、古くなった木村先生が作ったサイクロト ロンを停止し、研究室を蹴上から宇治キャンパスに移して新しい原理の直線型の小型加速器を建 設し、若い教授も迎え体制を一新したのですが、その後 10 年ほどして、創設後 35 年以上経って、 文部省から研究所の見直しを迫られていた原子炉実験所の建て直しを期待されて、定年前の 4 年 間その所長を勤めることになったのです。木村先生とのたび重なる因縁を感じます。 さて、現在の原子炉は主にウランを燃料としています。そしてこのウランが核分裂してエネルギー を出し続けるが暴走はしないというギリギリのところを臨界状態といいますが、2キログラムか3キログ ラム程度のウランの塊を作ると臨界になります。それ以上集めると暴走し危険です。しかし、散らば って置いておけば大量にあっても臨界にはなりません。また近くに置いてあってもウランとウランの 間に障害物を置いておけば臨界になりません。原子炉ではウランを丁度この臨界状態に保つため に常に障害物である制御棒を出し入れして制御しています。制御棒を動かす装置が故障すると大 変なので、故障の時に電気が切れても自動的に制御棒が入るように設計してあります。 ウランを燃やすというのは、酸素と結合する化学反応ではなく、核分裂反応を起こしてエネルギー を出すということです。この反応はウランに中性子が当たることによって起こります。そして核分裂反 応が起こると、ウランが大きく二つに分裂するだけでなく、いくつかの中性子も付随的に発生します。 その中性子が隣のウランに当たって核分裂するということが次々と起こるのが連鎖反応です。制御 棒はこの中性子を吸収して隣のウランに当たらないようにする役目をしているのです。 臨界に達してない状態だと中性子が隣のウランに当たる確率が少なくなるので連鎖反応が続きま せん。しかしこの場合でも、外から中性子を作ってウランに当ててやるとウランは核分裂反応を起こ します。そこで私たちは加速器で陽子を加速し、これを適当な標的に当てて中性子を生成し、その 10 中性子を臨界でない状態のウラン燃料集合体に注入するというシステムを検討することにしました。 この場合、ウラン燃料は臨界以下の状態(未臨界)ですから外からの中性子注入を止めてやれば 核分裂の連鎖反応は止まります。加速器は電気で運転するもので、故障すれば加速器が止まって しまい、システムは暴走しませんから、今までの臨界で運転する原子炉システムより安全です。こう いうシステムの基礎研究をしようということで、既にあった非常にパワーが小さい燃料集合体実験装 置に新しい小規模の加速器を付設する計画を立てました。現在この加速器が完成して世界初の実 験が始まったところです。 京大の熊取の研究所は発電を目的としているのではなく、中性子を利用して物質や生命、医療 の研究をするのですが、この新しいシステム(加速器駆動システム:ADS)は、燃料として未使用の ウラン燃料を使えるだけでなく、使用済の燃料であってもその中に残っている核燃料を未臨界状態 でも燃やせるので、原子力発電のゴミ処理問題の研究にも役立つと期待されており、東海村の原 子力研究開発機構の人達は使用済燃料の処理処分の為に最近出来た J-PARC の加速器を用い て ADS の研究をしたいと検討しています。 私は純粋な原子核物理とその為の加速器の研究者であって、原子力に関しては推進派でも反 対派でもありません。原子力を止めるかどうかは国民が決めることで、科学者は国民が正しくその 判断を下せるようにデータを示すのがその役割だと思います。ただ現実にまだ暫くは使わざるを得 ないのであれば、少しでも安全なシステムの開発や、原子力ゴミ処理問題の解決は原子力関係者 の義務であると考えます。 湯川先生や木村先生の世代は学術的な基礎物理学研究も応用的な原子力問題も一身に受け 止めて苦悩もしていましたが、我々弟子の世代は理学部では純粋物理を工学部では原子力を追 求し、反核兵器ということは共通ですが、一方はどちらかと言えば反原発へと向かい、他方は原発 推進というわけで、別々になり、互いに不信感さえありました。しかしノーベル賞にはならない仕事 かも知れませんが、これからはまた基礎と応用の研究者が協力してより安全な原子力のために、と もに努力すべきだと思います。これまでの原子力関係者は国民の不信感を買うような面もあり反省 して欲しいと思います。しかし、バッシングのあまり、原子力に優秀な人が集まらなくなり研究開発 能力がある人がいなくなれば大変です。これまでの反省の上に立って優れた人材の育成と原子力 安全システムの研究が求められていると思います。こういうつもりで熊取の原子炉実験所を新しい 方向に向けました。おかげさまでアトムサイエンスパークと名づけた、医学や材料物質研究も含む、 この新しい方向は、かつては原子炉の2号炉建設計画を阻止した地元の自治体にも理解していた だけています。 多くのノーベル賞を生みだした加速器とその応用についてお話しました。この分野に対する皆様 のご理解とご支援をお願いして私の話を終わります。ご静聴有難うございました。 11 ノーベル賞を受賞した粒子加速器による実験的研究 (年は受賞の年、研究発表の年ではない) (物理学賞) 1939年 アーネスト・ローレンス サイクロトロンの開発および人工放射性元素の研究 ジョン・コッククロフト、アーネスト・ウォルトン 1951年 加速荷電粒子による原子核変換の研究 エミリオ・セグレ、オーウェン・チェンバレン 1959年 反陽子の発見 ロバート・ホフスタッター 1961年 線形加速器による高エネルギー電子散乱の研究と核子の構造に関する発見 ルイ・アルバレ 1968年 水素泡箱による素粒子の共鳴状態に関する研究 バートン・リヒター、サミュエル・ティン 1976年 ジェイプサイ中間子の発見 ジェイムズ・クローニン、ヴァル・フィッチ 1980年 中性 K 中間子崩壊における CP 対称性の破れの発見 ウィリアム・ファウラー 1983年 宇宙における化学元素の生成にとって重要な原子核反応に関する理論的および実験的研究 カルロ・ルビア、シモン・ファンデルメール 1984年 弱い相互作用を媒介する場の素粒子(ウィークボゾン)の発見を導いた巨大プロジェクトへの貢献 1988 年 レオン・レーダーマン、メルヴィン・シュワーツ、ジャック・シュタインバーガー ニュートリノビーム法、およびミューニュートリノの発見によるレプトンの二重構造の実証 1990 年 ジェローム・アイザック・フリードマン、ヘンリー・ケンドール、リチャード・E・テイラー 素粒子物理学におけるクォーク模型の展開に決定的な重要性を持った、陽子および束縛中性子標的 による電子の深非弾性散乱に関する先駆的研究 マーチン・パール、フレデリック・ライネス 1995年 レプトン物理学の先駆的実験(それぞれタウ粒子の発見およびニュートリノの検出) (化学賞) 1951年 エドウィン・マクミラン、グレン・シーボーグ 超ウラン元素の発見 このほか、放射光施設を利用したタンパク質の研究による受賞(2003年)などもあるが省略した。 12