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ヨハネ福音書9章13~25節

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ヨハネ福音書9章13~25節
主日集 会 2014.10.12
私は盲目であったのに、今は見える
り
ふくい んしよ
かれ
まえ
もうもく
ヨハネ福音書9:13-25
ひと
びと
と
奇跡を行えるはずがない、と理を説く者もいた。イエスをめぐって、たびたび彼らの間に分裂が起こった。
つ
い
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
どろ
つく
かれ
め
あんそくにち
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
いち ど
びと
かれ
み
たず
かれ
9:15い こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼
かた
わたし
め
どろ
ぬ
わたし
あら
わたし
み
は言った。「あの方が 私
の目に泥を塗ってくださって、
私
が洗いました。
私
はいま見えるのです。
」
びと
なか
ひとびと
ひと
かみ
で
あんそくにち
まも
9:16い すると、パリサイ人の中のある人々が、
「その人は神から出たのではない。
安息日を守らないからだ」
もの
い
つみびと
もの
おこな
と言った。しかし、ほかの者は言った。
「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを
行 うことがで
かれ
あいだ
ぶんれつ
お
きよう。」そして、彼らの
間 に、分裂が起こった。
かれ
いち ど
もうじん
い
ひと
め
ひと
なん
おも
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。
「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思って
かれ
い
かた
よ げんしや
いるのか。」彼は言った。
「あの方は預言者です。
」
じん
め
み
ひと
かれ
もうもく
み
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるよう
しん
りようしん
よ
だ
になったということを信ぜず、ついにその
両
親を呼び出して、
たず
い
ひと
むす こ
う
もうもく
い
ひと
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人
み
ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。
」
りようしん
こた
わたし
わたし
むす こ
う
もうもく
し
9:20 そこで 両 親は答えた。「 私 たちは、これが 私 たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知って
います。
み
し
め
し
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りま
き
じ ぶん
じ ぶん
はな
せん。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
」
かれ
りようしん
い
じん
おそ
じん
9:22 彼の 両 親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエス
こくはく
もの
もの
かいどう
ついほう
き
をキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
かれ
りようしん
き
い
9:23 そのために彼の
両
親は、
「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。
かれ
もうもく
ひと
いち ど よ
だ
い
かみ
えいこう
き
わたし
9:24 ひと
そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。
私 たちは
つみびと
し
あの人が罪人であることを知っているのだ。
」 し
かれ
こた
かた
つみびと
わたし
ひと
し
わたし
もうもく
9:25 彼は答えた。
「
あの方が罪人かどうか、
私
は知りません。
ただ一つのことだけ知っています。
私
は盲目
いま
み
であったのに、今は見えるということです。」
【祈りながら考えよう】
(1)神が安息日を制定された目的は何ですか。盲人の目をあけることは安息日違反ですか。
(2)ユダヤ人たちが生まれつき盲目だった人の両親を召喚したのは何のためですか。
(3)生まれつき盲目だった人はどのように証ししていますか。
【解
こうして、イエスが何者であるのか、ということをめぐって再び分裂が起きた。パリサイ人の中には、安息日を
破ったイエスが敬虔な人物であるはずはない、と大胆な発言をする者もいた。また、罪人にこのようにすばらしい
説】
(3)そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思ってい
るのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」(17節)
パリサイ人たちは、以前盲人であった男に、イエスのことをどう思うか、と尋ねた。それまで彼はイエスが神で
あるとは気がついていなかった。しかし、彼の信仰は、イエスが預言者であると自発的に認めるところまで成長を
ししん
遂げていた。彼は、自分の目が見えるようにしてくれたお方は神から遣わされた、神からの使信をお持ちの方であ
る、と信じていた。
(4) しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになった
ということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき
盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」(18-19節)
ユダヤ人の中には、奇跡が起こったということをまだ信じようとしない者が多くいた。そこで、彼らは男の両親
しようかん
を 召 喚し、どんなことを言うか聞いてみようということになった。
視力がなくて生まれた子どもであるのかどうなのかを、両親以上に知っている者がほかにいるはずはない。両親
の証言は決定的なものになるはずであった。そこでパリサイ人たちは、これがあなたがたの息子か、またどのよう
に彼の目が見えるようになったのか、と両親に尋ねた。
(5)そこで両親は答えた。
「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あ
れに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」(20-21節)
しんつう
両親の証言は非常にはっきりしていた。間違いなくこれは彼らの息子であり、ずっと盲目であったことを、心痛
の長い年月、忘れるはずはなかった。
しかし、それ以上には両親は話したがらなかった。「私たちにも、息子がどのようにして目が見えるようになった
のかわからないし、だれが見えるようにしてくれたのかもわからない」と答えた。息子本人に聞くように、とパリ
サイ人に頼んだ。「自分のことは自分で話すでしょう」というわけである。
(6)彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキ
リストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の
両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである(22-23節)
おくびよう
22節は両親がいかに臆 病 になっていたかの説明である。イエスがメシヤであると告白する者は「会堂から追放」
される、と聞かされていた。この除名ほど、ユダヤ人である者にとってゆゆしい問題はなかった。両親はこのよう
な代価を払う気はなかった。そんなことをすれば、ユダヤ教にかかわるあらゆる特典がなくなることはもちろん、
生活の手段が奪われてしまうからである。このようなわけで、両親が息子のほうに証言を差し戻したのは、ユダヤ
の指導者たちを恐れていたためであった。
(1)彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ところで、イエスが泥
あんそくにち
を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。(13-14節)
この奇跡に熱狂したためだろうか、何人かのユダヤ人がこの盲人をパリサイ人たちのところ(ユダヤ人議会?)
に連れて行った。この人々は、まさか宗教指導者が、この男がいやされた事実を苦々しく思うなどとは思ってもみ
なかったことだろう。
イエスがこの奇跡を行われたのは「安息日」であった。神が決してあわれみや思いやりの行為を禁じるために安
息日を定めたわけではない、ということが、批判的なパリサイ人にはわかっていなかった。
(7)そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの
人が罪人であることを知っているのだ。」(24節)
あが
「神に栄光を帰しなさい」ということばの意味は「あなたがいやされたことのゆえに、神を崇め、神に栄光を帰
しなさい。神がいやしを働かれたのであって、あなたの目に泥を塗った人ではない。その人はいやしを行うことは
できなかったはずだ。なぜなら彼は安息日を破る者であり、したがって罪人だ。彼のような罪人に、あなたをいや
すことはできなかったはずだ。」 パリサイ人たちはこの奇跡に対して、「栄光が帰されるべきお方は神であって、
イエスではない」と主張していた。
(2)こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言
った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリ
サイ人の中のある人々が、
「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、
ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの
間に、分裂が起こった。(15-16節)
イエスのためにあかしをする機会がこの男に再びめぐってきた。パリサイ人が改めて、どのようにして目が見え
るようになったのか、と尋ねると、再び例の単純な話が彼らに語られた。男はイエスという名前をここでは出して
いない。そうすることを恐れたから、というより、このすばらしい奇跡を行ったのがどなたか、皆が知っているの
だ、ということに気がついたからである。この頃、主イエスはエルサレムでよく知られるようになっていた。
(8)彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目
であったのに、今は見えるということです。」(25節)
しつつい
パリサイ人は主イエスの信用を失墜させようと図るたびに、イエスに大きな栄光が余計に帰される結果となった。
この個所における男の証言は見事なものであった。イエスご自身についてはあまり知らなかったが、自分が以前は
盲目であったのに、今は見える、ということは確かに知っていたのである。これはだれにも否定できない証言であ
った。
御霊によって新しく生まれた人の場合も同様である。この世の人は疑い、あざけり、鼻であしらうかもしれない。
しかし、かつては失われていたのに、今は神の恵みによって救われたと私たちが言う時、その証言を否定できる人
はひとりもいないのである。
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