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法哲学
法と笑い ● 法哲学 of Modern American Legal Humor』(Rothman, 1988)とい 法にユーモアはそぐわない? う本は、もっぱらアメリカの法学・法律雑誌に掲載されたユーモ ラスな論文のアンソロジーである。日本で同様の書物を編集しよ 日本では法制度や裁判や法学が笑いと相性がよいとはとても言 うとする者は材料の欠乏に苦しまなければならないだろう。たと えない。日本の法律家や法学者の中には、ふだんの会話中に冗談 えば『Juris-Jocular』に収録された論文の中には、法学論文に を交えるのが好きな人もいるが、彼らも判決その他の法律文書や よく見られる夥しい脚注(さらには脚注への脚注)をパロディ化 法学論文の中で人を笑わせようとはめったにしない。しかしそれ したものが複数あるが、それ以上に大量の注を大真面目に論文の は万国共通の事情ではない。たとえば『権利のための闘争』で有 中に投入する法学者は日本ではいくらでもいる。私が以前読んだ 名な19世紀後半ドイツの法学者ルドルフ・フォン・イェーリン ことのある高名な民法学者の論文など、注の方が本文の10倍も グは「法律家の概念天国にて――白昼夢」 (1884年。 『東海法学』 あったが、そこにはユーモアのかけらもなかった。 15−17号に邦訳あり)という戯曲仕立ての論文によって、彼が 「概念法学」と呼ぶ、当時有力だった法解釈の方法を散々に嘲笑 判事が描く法と笑い した。概念天国に入国を許された法学者は、誰一人として法的概 念や法的制度の目的や現実的機能などの考慮によって汚染される ことなく、抽象的に概念の本質だけを考察する。彼らにとって、 このようにして連帯債務や占有の性質といった問題を考えるほど のは、法の世界を描いたいくつかのミステリである。 ミステリが裁判や法的問題を取り扱うのはごく自然なことで、 楽しいことはない。この論文で概念法学の代表者とされたG.F. 周知の作家だけをあげても、1930年代からE. S. ガードナーの弁 プフタは、おかげで現実生活から遊離した空理空論家というあり 護士ペリー・メイスン・シリーズが広範な読者を獲得し、最近で がたくない評判をいつまでも負わされている。 は『推定無罪』 (邦訳・文春文庫)のスコット・トゥローや『法律 もっとも管見の限りヨーロッパ大陸でもこのようなユーモラス 事務所』 (邦訳・小学館文庫)のジョン・グリシャムがリーガル・ な法学文献はやはり例外で、法における笑いの要素は日本と同様 スリラーと呼ばれる分野でベストセラーを連発している。しかし に乏しいようだ。しかし英米に目を移すと事情は異なる。そこで これらのアメリカの小説には笑いの要素が決して多くない。それ は裁判や法学文献の中で笑いが避けられてはいない。Michael に対してイギリスにはファースに近い小説を書く法律家がいた。 Gilbert 編『 The Oxford Book of Legal Anecdotes』 (OUP,1984)という本は英米の法律家たちの逸話や名文句を収 54 だが上記の2冊の本以上に純粋な笑いを法の世界にもたらした その中でも最初にあげるべきはヘンリ・セシルである。彼は裁 判官としての本業の傍ら、多年にわたって十数編にわたる小説を 集しているが、その中には笑いを誘うものが多い。このことは、 発表した。そのうち私が読んだことのある5冊をあげると、第1 英米の裁判が日本やヨーロッパ大陸の裁判よりもはるかに口頭弁 作『メルトン先生の犯罪学演習』 (1948年。邦訳・創元推理文庫) 論を重視するという事情によるところが大きい。英米の法律家 は、法理学(法哲学とほぼ同義)とローマ法の世界的権威である は、当事者や証人をリラックスさせたり逆に動揺させたり貶しめ ケンブリッジ大学のメルトン教授が法制度の欠陥や抜け穴を例証 たりするために、法廷でジョークを飛ばすことがよくあるよう する物語を語り続ける連作短編であり、 『判事とペテン師』 (1951 だ。また Ronald L. Brown 編『Juris-Jocular:An Anthology 年。邦訳・論創海外ミステリ)は謹直な判事とその不肖の息子 世 界 を 解 【法哲学】 く 笑う 法学研究科教授 森村 進 Susumu Morimura の詐欺師の一代記であり、 『判事に保釈なし』 (1952年。邦訳・ トに満ちた悠揚迫らぬテイマー教授のユーモラスな語り口はセシ ハヤカワミステリ)は殺人罪で起訴された判事の無罪を、判事の ル以上に洗練されている一方、所々にさしはさまれるスラップス 娘に雇われた泥棒紳士が立証しようとする物語であり、劇化もさ ティックの場面は、簡潔な描写ながら映画を見るように鮮やかだ。 れた『サーズビー君奮闘す』 (1955年。邦訳・論創海外ミステリ) コードウェルが難病のためにわずか4編の長編しか残さなかった は、駆け出しの法廷弁護士が次々と面倒な裁判を担当していく成 ことは惜しまれる。それらはすべてハヤカワミステリから邦訳が 長物語であり、 『法廷外裁判』 (1959年。邦訳・ハヤカワミステ 出ており、どれも楽しく読めるが、中でも英仏海峡に浮かぶタッ リ文庫)は、偽証によって殺人罪の有罪判決を受けた実業家が脱 クス・ヘイヴンの島を舞台にした『セイレーンは死の歌をうたう』 獄して、証人たちと法律家を誘拐して集めて「再審」をさせると いう異色の「法廷」小説である。 (1989年)が一番の傑作だろう。 セシルとコードウェルよりもさかのぼるが、イギリスには他に この簡単な紹介からもわかるように、セシルのどの小説も裁判 も、戦間期に法と裁判を取り扱った『Misleading Cases』とい と法の世界を舞台にしているが、少し読むだけで強い印象を受け う一連のエッセイ(その代表作は、牛の背中に要件を記載してそ るのは、法制度と法律家に対する遠慮のない取り扱いである。セ れを小切手として振り出し税金の支払いにあてようとした男の事 シルはこれらの小説でイギリス法の不合理性(たとえば両方とも 件)によって人気を博したA. P. ハーバート(開業はしなかった 離婚したがっている夫婦の離婚をなかなか認めない)と非効率性、 が弁護士資格を持っていたし、下院議員でもあった)や、セシル そして弁護士や判事や法律事務所事務員の怠惰や無能や専横を生 同様判事の仕事の副業として、 『法の悲劇』 (1942年。邦訳・ハ き生きと描いている。その描写がどの程度現実を反映していたの ヤカワミステリ)など法律家の世界を舞台にしたり法制度を犯罪 か、私はよく知らない。だが自分が知らない事件の法廷に事務所 の意外な動機にしたりする、渋いユーモアをたたえたミステリを のボスの弁護士から呼ばれて行ったところ、多忙を極めるボスが 書いたシリル・ヘアなど、法と笑いとを結びつけた法律家が少な 途中で別の法廷に行ってしまったため判事から意見を求められて くない。そう言えばギルバート・アンド・サリヴァンの喜歌劇の も言うことがなくて冷汗を流す「サーズビー君」の窮地は作者の うち最初期に属する『陪審裁判』 (1875年。日本未上演)は裁判 体験に基づくそうだから、全体的にかなりの現実性があるのだろ と恋愛と婚姻制度の神聖さを笑い飛ばしていたが、作詞のW. S. う。よくも判事がこんな小説を書き続けながら問題にならなかっ ギルバートにも弁護士経験があったのだった。 たものだと驚かざるをえないが、ここにイギリス社会の懐の深さ があるのだろうか。 ただしセシルの小説の登場人物は、少数の例外はあるが、どん 彼らに比べるとアメリカの法律家や法学者さえ、いくらユー モアのセンスがあっても、法そのものを笑い物にすることには 強いためらいがあるようだ。まして日本では、法廷小説は少な な欠点のある者も憎めない好人物として描かれている。法制度や からず書かれているが、そのほとんどが生真面目一辺倒である。 法実務の欠陥も決して告発調で指弾するのではなく、時代錯誤の 法に対する上記のイギリスの法律家作家たちのような不謹慎な 変わった風習として面白がっているようなところがある。セシル 態度が社会にとって望ましいことかどうかは意見が分かれるか の筆は常に上機嫌さを失わない。そして彼のストーリーの滑稽さ もしれないが、それは少なくとも滑稽文学の隆盛にとって有利 は折り紙つきで、ユーモア文学の第一人者P. G. ウッドハウスも な条件に違いない。笑いの文学の愛読者はもちろん、イギリス 称賛を惜しまなかった。 の国民性に関心を持つ人一般にも、本稿で紹介したミステリを 一読されることを推奨する。 法律家自らが法と笑いを結びつける イギリス発ミステリ 20世紀末になると、サラ・コードウェルの名を逸することは できない。弁護士の経歴を持つ彼女は、オックスフォード大学の 法制史家テイマー教授とリンカーンズ・イン所属の数人の若手弁 護士たちが活躍する4編のミステリを残した。セシルの小説に比 べるとこちらは一層謎解きの興味の強い本格的なミステリだが、 法廷場面がないかわり、相続法や税法や信託法などの法制度が重 要な役割をはたしている。古典への言及やアンダーステイトメン 55