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セシル・シャープの民謡観について
桜井, 雅人
一橋論叢, 88(6): 795-810
1982-12-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/12993
Right
Hitotsubashi University Repository
(87) セシル・シャープの民謡観について
セシ
桜 井
雅 人
史では一定の評価を受けてきたが、シャープの貢献は民
^4︶
リス民俗学からはほとんど無視され、それに対して音楽
^3︺
.シャープの民謡観について
本樒的なイングランド民謡研究は今世紀に入ってから
始められたもので、それは、フィールドワークによって
謡の音楽的側面のみにあるのではない。また、彼の業繊
はフォークダンスにおいて喜kが・活碧民謡に限
実際に伝承されている昆謡を採録し音楽的な側面にも考
慮を払うことによって、進展してきた。もちろん過去の
っ
・
著
作
・
教
て み て も ﹁ 収 集
育 ・ 組^
織6
活︶動﹂のすべてに
とにして一九〇七年には﹃イングランド民謡 若干の
ヅト州において採集にたずさわり、その経験と成果をも
謡調査を開始する。それから約三年間主としてサマーセ
ス.ダンスに興味を引かれ、一九〇三年より本樒的な民
ディングトンに滞在していた時にたまたま出合ったモリ
一八九九年のクリスマス休暇にオツクスフォード州ヘ
をはるかに越えるものであった。
わたっており、しかもそのいずれにおいても当時の水準
文献を利用したり歌詞のみを考察するという方法が否定
されたわけではないが、中心的な流れを見ると、直接に
生きている伝承を正確に観察することおよぴ歌として民
謡を扱うことの二点は多くの民謡研究の前提となってい
^1︶
るようである。
^2︺
このような動きは前世紀から見られるにせよ、方向を
確立したのはセシル・シャープ︵08自−、穿胃勺しo.SI
s塞︶であり、貢献度からするとイングランド民謡研究
史における最大の学者であった圭言える。英文学やイギ
795
ル
第六号 (88)
第八十八巻
一橋論叢
^7︶
結論﹄をまとめる。この本は今でも主な夢考文献の一つ
として推賞されており、しかも他の類書には見られない
熱気と魅カに満ちている。それは、単にはじめての本格
的なイングランド民謡論であるぱかりでなく、音楽家と
知識を補足するぱかりでなく、シャープが依って立つ思
潮そのもの、つまり民謡観が間題とされているのである。
もちろん、現在の研究水準からシャープを批判すること
ているのを見聞きしていると、シャープの現代的価値を
いてもシャープどころかシャープ以前の民謡観が通用し
は、シャープに対して公正ではない。しかし、現在にお
しての素質と能カを武器にして民謡の真の姿を体験した
高く評価し、古い体質を批判しておく必要がある。
^8︺
ことに基づいているからである。それまでの︵そして、
おり︵二四頁︶、曲は口頭伝承により保存され︵一五六
る﹂︵四四頁︶圭言う。歌い手は歌詞に注意を向けて
それがいかなるものであれ、常に本物であ.り真実であ
美しいとして、﹁人間の心が無意識に表出されたものは、
偉を中心とする内的な特徴に時代を越えた美を感じた。
^㎜︺
彼のテーゼでは﹁純粋に自然な本能の発露﹂︵一頁︶を
シャープは民謡の中に永遠の価値を見出した。特に旋
その後でも︶多くの民謡研究家に欠けていた能カと経験
そして使命感が一つにまとめられていたことが、シャー
プの民謡論が今日に至るまで読まれてきた理由であろう。
だが、熱意と才能があるすぐれた研究者といえどもす
ぺての知識を得ていたわけではないし、ましてすべての
問題を解明したとはとうてい言い難い。ことに今日のよ
頁︶、その変化も自発的である。歌詞と曲の古さは別物
うに膨大な量の資料と知識とが蓄積されてかなり広く伝
えられ、様々な研究分野も発達して民謡に関心が向けら
う一方では、当時の民俗学者たち︵および現在でも少な
^11︶
しかし、民謡は決して古くならないと言いながら、も
が民謡の基調である︵一五七−ニハ○頁︶、と考える。
民謡は特定の時代に属するのではなく、常に新しいこと
であり、民謡の価値は特に曲の中に見出される。また、
れるようになるにつれて、シャープの民謡論の欠陥も目
立つようになり、再検討がなされるようになってきた。
^9︶
ったく否定するまで至らなくても再検討ないしは批判を
最近刊行されている研究書の多くはシャープの見解をま
するようになっている。すでにシャープの民謡論は﹁古
典﹂ではあっても﹁聖典﹂ではない。単に誤解を訂正し
796
(89) セシル・シャープの民謡観について
からぬ熱心な民俗研究家たち︶と同様に、民謡はいずれ
^帖︶
に努めたのである。
民謡の持つ永遠の価値を退化現象から守るために、シ
. 竈︶
消滅してしまうものと考えていた︵一五〇頁︶。若い世
^螂︶
代は民謡を好まないし︵二二三頁︶、六十歳以下の人々
れぱかりでなく若い世代に民謡を伝えることを考え、学
ヤーフはまず膨大な採譜記録を残したわけであるが、そ
は民謡をほとんど知らない︵一五〇頁︶、と言う。しか
なくなった民謡も数多いが、民謡が全体として消滅しつ
ープが考えていたような情況ではない。たしかに歌われ
も報告書の中で﹁民謡は国民の真の古典である﹂として
^∬︶
〇五年にイギリスの教育庁︵まo団o胃ρo︷向旨o筆昌︶
ることを強く主張したのである。ちょうどそのころ一九
校教育の中にシャープの考える民謡を教材として導入す
つあるかどうかの判断は、笑は民謡の定義の如何にょる
その教育的価値を論じている。︵ただし、そこではシャ
しその後の調査収集を見れぱわかるように、実際はシャ
のであり、歌謡を民謡と非民謡とに唆別し消滅しつつあ
ープとは違うものを﹁昆謡﹂と呼んでおり、教育庁の方
^珊︶
針に従って編集された﹃国民歌謡集﹄は、シャープがベ
るもののみを民謡と名付けるのであれば民謡は消滅する
という﹁結論﹂が得られることになる。シャープような
アリング.グールドと編集した﹃学校のためのイングラ
^19︶
民謡観は、民俗学が誕生してから二十世紀印葉に至るま
ンド民謡集﹄と収録された曲目および質が異なってい
^聰︶
での民俗観と一致するのであり、このような立場からす
しは民謡普及という目的があったことは、生前刊行され
として取り入れることを提言する︵一七七員︶。だが、
一頁︶本物の民謡を受け継ぐために特に初等教育に教材
た﹂︵序文二三頁︶と言い、﹁質が高く魅カある﹂︵一七
し、民謡論そのものも﹁主に音楽と教育の観点から論じ
たイングランド民謡集の編集方法を見ても明らかである
^刎︶
る。︶シャープの民謡研究には、はじめから教育上ない
^20︶
ると氏謡研究それ自体もはじめから歴史的な宿命を持っ
^と
て生まれてきたものとなろう。ともかくも、シャープは
時代的に見るとその流れの真中にいたのである。それだ
からこそ、一九一〇年代になってアメリカのアパラチア
山中に出かけた時に、そこに昔のイングランドが再現さ
れたような印象を受け、当時すでに五十代の後半で持病
のぜんそくもおもわしくなかったにもかかわらず、調査
797
第六号 (9■〕)
第八十八巻
一橋論叢
このような試みは一応の成功を収めているし、現在で
は音楽だけではなく文芸・歴史・演劇などの分野とも関
シャープの見解によれば、﹁教育は何も生み出さず、未
連づけられて民謡が学校教育の中にとりこまれるように
伴奏で歌うことが、民謡の歌唱圭言えるのであろうか。
シャープが編集した民謡集を見ながら教室の中でビアノ
なった。しかし民謡ははたして復興したのであろうカ
一娑 、。
発達の形であれすでに存在している自然で本能に基づく
ある。民謡の蓑退の原因はそれ自体の退廃とされてはい
能カに磨きをかけることができるだけ﹂︵一頁︶なので
るが︵一五一頁︶、民謡の伝承者観を見るならぱ、教育
の普及は民謡の衰退に一役買っていると考えているよう
るものとみなすことは、かなり一般的である。キトリヅ
ているように感じられることから、民謡を教育に対立す
的な変避を見ても教育が普及するにつれて民俗が衰退し
人々︵典型的には文盲の人々︶の間で顕著であり、時代
とすることは、一見すると二律背反的である。もしシャ
かけること﹂しかできない教育によって民謡を伝えよう
る種の偏向を与えることになったようである。﹁磨きを
育との関連を強調しすぎたことは、シャープの見解にあ
える原動カとなったが、音楽を楽譜に還元して、挙校教
シャープの民謡研究に見られる目的意識はその運動を支
ジもバラヅド集の序文で﹁この口承文芸にとって教育は
ープがそのような主張に道理があると考えていたならば、
だ。民謡に限らず民俗全般が、いわゆる教育とは縁遠い
決して味方などではありえない。文化は時には驚くほど
する運動を行なったのである。少なくとも歌として民謡
シャープは、逆にこの教育によって民謡を全国民のもと
急速にバラヅドを滅ぼすのである。﹂と主張している。
︵ないしは文献学的︶杵究と共通している。この立場か
謡をテキストとしてとらえる態度はそれ以前の文芸学的
上に記録できる﹁もの﹂とみなしていることになる。氏
民謡は基本的には歌詞と旋律から成り立っており、紙の
彼の民謡観はかなり制約されていたことになる。つまり、
^22︶
をよみがえらせるには、後になってレコード・放送.コ
^鴉︺
て永遠の生命が約東され、そのテキストをとおして後世
らすると、テキストとしての民謡は記録することによっ
ンサートなどが大きな役割を果たすことになるが、その
時代においては学校教育にたよることが現実的な方法で
あった。
甲’
98
(91) セシル.シャーフ’の民謡観にっいて
がらにも注目して、民謡諭でも﹁民謡歌手と民謡﹂と題
方や表情あるいはレパートリーなど歌い手に関すること
することは重要だ︵序文二〇頁︶と述べているし、歌い
ているので歌唱に関連しているものをすべて正確に記録
ていたわけではない。民謡は社会生活と密接に縞びつい
ただし、シャープは歌詞と旋律を民謡のすべてと考え
に伝達される。
う。これまでは、テキストの形態的特徴、伝承の方法
もちろんそれぞれの研究や関心によってかなりくいちが
民謡をどのように定義したらよいのか、という問題は
である。
会生活と縞ぴついていると言いながらどのように結ぴつ
^〃︶
いているのかをシャープはほとんど何も述べていないの
法についてはあまり明らかにされていない。ことに、社
のような結論を引き出そうとするのか、という目的や方
︵または様式︶、起源︵ないしは出所︶、社会的機能、あ
− ^%︶
する一章を設けている。また収集された民謡には、歌い
手の氏名・年齢・演唱の場所・日付という基本的なデー
にあったのだろうか。.シャープの時代に﹁フォークソン
るいは時代性・歴史性などが規準とされてきた。そもそ
︵28︺
駆をなすものとして評個しなくてはならないし、それ以
豪︶
降の調査と比べてもすぐれた点がたくさん見られる。し
グ﹂は一般的な語ではなかった。力ール・エンゲルはド
タが記されているということは、学術的な民謡調査の先
かし、氏謡を﹁もの﹂とする見方は、民謡が実際に歌わ
イツ語の﹁フォルクスリート﹂を﹁ナシ冒ナル・ソン
も﹁民謡﹂︵︷O寿m昌Oq︶なる概念を持ち出す必要はどこ
れる現場に居合わせていても、根本的な変革はなされて
とのできない大量の民謡が︵特に旋律に関しては︶記録
なったのは、まず第一にそれまでの文献資料では知るこ
シャープの文章から判断すると、彼は民謡をその担い
らの引用文を添えて記載された。
本巻に収録されておらず、補遭にようやく、シャープか
グ﹂と訳している。﹃オヅクスフォード英語辞典﹄では
^29︶
されないままであったし、それらの資料が質的にも信頼
手︵伝承者︶によって定義しようとしているようだ。民
いないように思える。シャープがフィールドワークを行
のおけるものではなかったからである。しかし、民謡の
謡とは﹁コモン・ピープルによって作られた歌﹂︵四頁︶
. ^30︺
現場から歌詞と旋律以外に何を記録し、その知識からど
799
第六号 (92〕
第八十八巻
一橘諭叢
のみを指し、流行歌謡などの教育ある人々が作った歌は
て農民のみが﹁環境や生活の浮き沈みとの直接の結ぴつ
とされる理由をほとんど説明していない。農民が、そし
きによって精神上の発達をとげた人々﹂と解釈される根
■
拠は示していない。しかも、農民以外の歌はほとんど注
轟︺
目しないのである。また、農民もいろいろな歌を知って
﹁正式な訓練や教育によるのではなく、環境や生活の浮
含まれない、と言う。この﹁コモン・ビープル﹂とは、
き沈みとの直接の結びつきによって精神上の発達をとげ
いるが都会生れの歌は﹁民謡﹂ではないとされている。
化の一都として扱われていないようだ。シャープはもと
シャープの民謡観はきわめて農民中心的でありながら、
た人々﹂であり、無教養︵§−&目O算&︶ではなくて教
^31︺
育を受けていない︵§s−&g黒&︶人々とされている
8目目昌喝o旦①︶もすべて民謡と同じものとみなされ
もと農民文化に関心があったわけではなく、農民文化の
農民自身にはほとんど関心が向けられておらず、他の農
る︵二−五貫︶。このような見解は一部の民俗学に見ら
中から民謡を発掘したのではない。﹁外部からの教育の
︵四頁︶。具体的には農民︵小農︶︵喝易竃ヰ︶が想定され
れる常民︵︷o戻︶観と共通している。つまり、人間をコ
影響をほとんど受けていない人々﹂の﹁純粋に自然な本
ており、それゆえ農民の歌︵喝轟竃ヰ血go員︶も田舎の歌
モン・ビープルとそうでない者の二種に大別し、その上
能の発露﹂︵一頁︶を求めて農民の歌の中にそれを見出
民文化への言及がほとんどないことから、民謡も農民文
で保持している文化の相違を説明しようとするものであ
したのであり、それにしてもシャープの﹁コモン・ビー
︵8冒↓︷ω昌o貝︶もコモン一ビープルの歌︵蜆旨o員o︷書o
る。この考えをさらし推し進めると、小農のいない社会
プル﹂という概念は観念的であり景観主義的であった。
^坐︶
︵33︶
壼︶
には民謡は存在していないことになる。また、シャープ
この原因は、民謡を担い手によって定義しているようで
ン・ビープル﹂には国民性・民族性が強調されるのに対
扱うという民謡観から由来している。それゆえ、﹁]モ
ありながら、実はその担い手から切り離した存在として
は、人工的で教育によって作り出される芸術歌謡︵胃“
民謡から区別する。
ω昌o冒︶と一時的で都会的な流行歌謡︵唱勺己胃ω昌oq︶を、
^砧︺
しかし、シャープはコモン・ピープルと農民とが同義
800
(93) セシル・シャープの民謡観について
民謡の大きな特徴として、同一の題名で呼ぱれている
ン・ビープル﹂を定義する必要がなかったのであろう。
このような民謡観は、そもそも民俗の研究が強いロマ
ものでも時代や地域さらには個人などによって相違が生
して、個性は認められず、実際の伝承者は常に名前のあ
ン主義と結びついて誕生し発展してきたことに由来して
じていることがあげられる。同一の伝承者でも時や場所
そして、伝承者を一括して﹁コモン・ビープル﹂と呼ぷ
いるのであり、シャープだけに特有なものではない。し
がちがうと変異を生じることはめずらしくない。シャ
ことにより、民謡における個人的特質を考慮から除くこ
かし、農民の歌のみを民謡とすることは、十九世紀から
ープはこの問題について﹁進化﹂︵婁o旨戌昌︶と題する
る個人であるにもかかわらず、よほどの必要性がない限
茅︺
りその名前は問魑にされない。だれがいつどこで歌った
二十世紀にかけてのイングランドでは大きな誤りとは言
章を設けて、継続︵o昌戌昌︷ξ︶・変異︵毒ユ隻昌︶・選
とになる。つまり、﹁コモン・ビープル﹂も、それに基
えないにせよ、民謡の普遍的な定義とはならないのであ
択︵邑8戊昌︶という三要素によって説明を試みた。そ
かという記録はあっても、それらの記録は民謡論ではあ
り、しかも農民という社会的な概念がいかにして民謡と
して、その後で﹁衰え﹂︵まO巨O︶に関する章で民謡の
づいて定義された﹁民謡﹂も、やはり定義されていない
いう文化的概念を規定することになるのかを述べない限
退化を扱った。
まり利用されなかったし、歌詞の中に出てくる方言など
り、定義としてはきわめて大きな欠陥がある。シャープ
シャープによれば、この退化論的前提は特に歌詞にあ
ことになっている。
は民謡の形態的特質に関心があったのであり、﹁コモン・
は書き換えてしまった。
ビープル﹂には興味がなかったようである。結局のとこ
︷昌︶はほとんどおこらない。・歌詞とは違って旋律には
文献による影響がほとんど見られないことから、旋偉こ
てはまり、曲についてはこのような﹁くずれ﹂︵8冒唱→
シャープが民謡とみなした歌謡を伝えてきた人々が﹁コ
そ﹁純粋に自然な本能の発露﹂とみなされるのである。
ろ、﹁コモン・ピープルが作った歌﹂が民謡ではなくて、
モン・ビープル﹂であり、それゆえそれ以上に﹁コモ
801
第六号 (94)
第八十八巻
一橘論叢
は変異の原因を個人的な理由に求めているが︵三九頁︶、
は、民謡の特質であり、決定版が出来上がった時点でそ
の許容範囲の中で様々な要因に従って変化し続けること
異およぴそれを生み出すカが必要なのである。ある一定
民謡が民謡として存在し続けるためには、むしろこの変
まり、正確に記録された歌詞は完全なものではないとし
中心とした民謡研究にも共通した都分を含んでいる。つ
れは民謡であることを停止する。
ったのである。しかし、このような見解は従前の歌詞を
この緒果、歌詞に対してはそれほどの価値を認めなくな
のような編集しなおされた民謡は、トマス・パーシーの
て、編集の際に﹁補整﹂を試みたりするわけである。こ
は大きな相違があるが、その方法には共通点がある。こ
を軽視するシャープの立場と重視する詩人たちの立場に
ームズ・リーブズでさえもいくつかの異版︵き邑冒︶か
^包
ら一つの決定版を作るという作業を行なっている。歌詞
れるし、シャープのマニュスクリプトを資料としたジェ
ンバーン、グレーブズなどのバラヅド集にたくさん見ら
方吟唱詩歌集﹄を始めとして、クウィラクーチ、スウィ
﹃古英詩拾遺集﹄やスコットの﹃スコットランド辺境地
記録することは収集者の努めであるとして、その記録を
^珊︶
将来の研究のために保管しておいた。
という側面は区別して考えており、民謡をあるがままに
は明らかである。ただし、調査・記録およぴ教育・普及
場合には書き換えたり削除したりしている。このような
個人的な産物として︵二一七−八頁︶、実際に印刷する
ぱ含まれているが、シャープはこれについても主として
民謡には品位に欠ける︵つまり狼雑な︶歌詞がしばし
^珊︶
れらのテキストはそれぞれの編集者のものであって研究
シ々ープは自分の研究を民俗学とは考えていなかった。
^40︺
^39︶ ・
上の資料とする場含には注意を要することは言うまでも
当時のイギリス氏俗学は民謡に対してあまり関心を示し
テキストが伝承者の文芸活動を正しく示していないこと
ない。民謡を資料としてそこから何かを探ろうとするの
を研究した。しかし、民俗学者たちからの批判も支持も
ていないこともあって、シャープは民俗学の外側で民謡
^榊︶
まま受け入れなくてはならない。その相違や変化を手が
受けることもなく、イングランド民謡のみの調査によっ
なら、断片化とかくずれにかかわらず相違や変化をその
かりとして意味が明らかにされることもある。シャープ
^42︺
802
(95) セシル・シャープの民謡観について
^妬︺
て独自の見解をまとめることができたかわりに、他の民
についての考え方はそれまでの理論をあまり批判せずに
とに現在のように民俗学などが新しい展開を示してくる
ひいてはその結論に妥当性を欠くところが出てきた。こ
る方法は、民謡の社会的・文化的位置づけを困難にし、
言っている。むしろ、農民が自分たちの労働をあまり歌
−十六世紀のものから成っている︵二一頁︶、などと
を詩にしたもの︵一一〇頁︶、バヲヅドはたいてい十五
はソングよりも古い︵一〇九頁︶、バラヅドはメルヘン
綴り合わせたものLとなっている。たとえば、バラッド
^46︺
と、ますますシャープは色あせてくる。
にはしない︵一一九頁︶、超自然なテーマを扱ったバラ
俗には目を向けずに旋律を中心として内的な美を追求す
ところが、シャープはまったくの白紙状態から出発し
ヅドは少なくなってきた︵二二一頁︶、などという観察
以上のように、シャープの民謡論は新しい事実をたく
ったのであるo
偏見がわざわいして、結論をまとめるまでにも至らなか
ふりまわされることはなかったであろう。歌詞に対する
をもっと系統的に収集して整理すればそれまでの諸説に
て現地調査のみによって民謡論をまとめたのではなかっ
た。シャープの民謡観の基礎となってそれを補強してい
るのは、実は彼が方法論的にも批判しているはずの文芸
学的民謡研究︵と言っても、バラヅド研究︶であった。
ここにシャープの民謡論の大きな欠陥がある。編者の力
ーピリーズは、この中で最も不満足なところはモード
さん紹介し間題点を整理して提示しているのだが、その
てきた民謡観の延長線の上にあり、それを音楽的側面か
︵旋法︶に関する章であるとして、実際に書きなおして
るのは﹁民俗詩﹂︵︷O寿ガ09々∀の章である。英米民謡
ら修正しもう一度補強したのである。この前捉は、現実
前提となるべき恩考の枠は依然として十八世紀から続い
研究史を書いたウィルガスによると、﹁いろいろな理論
に生きた民謡に接していても根本的に変更されることは
いる。しかし、筆者の考えるところでは、最も不満があ
家たちの主張をあまりにもたくさん受け入れすぎている
なかった。むしろ、フォークロア研究にはつきものであ
ったナシヨナリズムをバーンズやスコヅトに対抗すべく
^〃︶
ので、民俗詩に対するシャープの証言はほとんどまとも
に受け取ることができない﹂・のであり﹁バラヅドの歴史
803
第六号 (96)
第八十八巻
一橋論叢
﹁もの﹂あるいは記録された﹁テキスト﹂としてではな
く、﹁こと﹂ないしは﹁行為﹂とみなす方面に進みつつ
イングランド民謡の咋に見出したのである︵ニニ○頁︶。
この支えになったものが、自然の本能を重視して伝承者
ある。つまり、民謡は文芸作品というばかりでなく文芸
活動であり、言語を媒体としたコミュニケーシ目ン活動
^兜︺
とその社会を観念的に理想化するロマン主義と、共同体
^ 侶 ︺
の好みという尺度によって自然淘汰されその中に国民性
大の欠陥は、しばしば旋偉を考慮しなかったことである
の一部をなすと考える。歌詞のみの民謡研究における最
^鴉︶
継続性・変異・選択という三要素による民謡の規定が約
と考えられているが、そうではなくて、むしろ民謡をバ
が維持されてきたとする進化主義であった。シャープの
一49︺
五十年後の国際民俗音楽会議︵一九五四︶において採択
ーフォーマンスとして扱わなかったことであり、その脈
に先行していたとも考えられるが、もう一方では民謡観
民謡は文芸学的というよりは文献学的な研究対象となっ
^脾︺
絡をほとんど無視してきたことである。このことにより、
^砧︶
されたということは、一方ではシャープの民謡観が時代
^5 0 ︺
が五十年もの間あまり新しい展開をとげてこなかった証
^肌︶
ものである。イングランド民謡に限らず多くの民謡研究
特に民俗学や人類学のように急速に進展している分野の
れることになれぱ、かなり結論は異なることが予慈され
外の諸要因・諸特質およびそれらの棉互関係から検討さ
の創作などという純粋に文芸学的な問題も、テキスト内
クにとらえなくてはならない。テキストの解釈とか民謡
拠と も 言 え る 。
の歴史を見ると、まず歌詞から始められ、それから旋律
る。このような方向に進んではじめて過去と現在を結び
べての口承文芸︵o墨−葦o墨ま冨︶はもっとダイナ、・、ツ
へと移り、そして歌唱スタイルや文化的・社会的脈絡を
つける伝承の価値が認識できるであろうし、日常的な文
ていたし、民謡それ自体も文芸というよりは﹁文芸以
轟︺
前﹂という扱いを受けてきたのである。民謡に限らずす
考慮する方面へと進んできた。シャープの研究はこの最
芸活動が現在の我々においてもどのような形で継承され
これを打ち破ることになるのは、むしろシャープを直
初の転回点に位置するのであり、決して民謡のすべてを
接に継承してこなかった分野の概念と研究方法であり、
収集して研究したのではない。現在では、民謡を単なる
8ω
(97) セシル・シャープの民謡観について
壼︺
ているのかを理解することが可能となる。シャープの民
謡論はそこへ至るための第一歩として大きな価値を有し
ている。ただし、シャープをそのまま受け入れることも
まったく無視することも、いずれも我々には出来ないの
である。
︵本稿は、一九八二年五月十六日福岡大挙で開催された[口本
たものである。︶
英文挙会第五十四回大会における口頭発表の原稿を書き改め
︵1︶ 特に、イングランド民族舞踊民謡協会︵序o向目oq一一旨
司o寿U雪昌o彗ρω昌oqωogg︸︶を中心とする活動や、
>.■.5o︸p㍉o§吻o亮ぎ肉s曳§軋︵Hまゴ勺昌邑旨一
宕富︶一司H彗吋︸O考員、O§ミ§亭呉bミ辻ミー§軋b軸−
k§軋︵峯o葦自雪Los︶一冒彗o内嘗H鳴−鶉一﹄ミ§ミミ§ぎミ
ざ向ミ茅専、o暴3祭︵O嵩−o&戸勺J宕ご︶などの概
論書、句黒宵内昌冨身一&1一、ミ申8秦餉呉肉ミ昌§§、
Hミ“§軋︵o豊器ξ岩ご︶などの民謡集を見よ。
︵2︶ −昌目b昌邑峯ooPい§︸§吻§零︵−o。ま︶を始めとし
て十冊ほどのイングランド民謡集が出ている。また、 一八
九八年にはイングランド民謡協会︵旨O[向品豪菖句O寿−
ω昌σ膏ωoo宥身︶が創立され、翌年より会報が刊行されて各
︵3︶ 英文学においてはこれまでバラヅドのみがどうにか
地の民謡が報告される。
研究対象とされ、−寧旨鶉勾8く$一qミき葛ざs§泰、o恩ミ
︵声乱鶉昌彗p岩a︶のように民謡も論じたものはほとん
︸ミ註帖昏、ミ芝oミ包吻、﹄ 串汀ざミ ︵d■−く一〇︷ Oけ−o里σ草o 吊■一
どなかった。民俗学においては、室o臣己旨−∪o鶉opHざ
岩竃︶のような詳細な民俗学史でさえも、セシル・シャー
︵4︶たとえぱ、厚ざ里o貝ミ姜㌻ぎ向ミ曳sミ︵雰目碧貝
プに関してはたった一行にすぎない。
岩志︶一向o老彗ρ■8一ミ§甘o呉§雨、雨魯詩︵︸胃ユ耐津
言H豪易一H署o︶では、シャープを中心とした活躍に一章
︵5︶ 邦語文猷では、池間博之﹃英国の民族舞踊﹄︵不昧堂
があてられている。
︵6︶峯昌o内彗鶉一夢O蔓“婁昌尋・雲・卜害§“ミミ討
出版、一九七五︶に若千の紹介がある。
︵肉穴︸崔S︶一勺.H呂一以下シャープの経歴に関しては主
にこの評伝を参照した。
︵7︶O置こ.ω冨皇向祭茅ぎぎ“討望秦㍉讐ミO§込芋
包§︸︵旨o﹀旨ρ巴−岩ω3ω己&﹂温土︷ま&二黒0H−
昌︷︸oo雰・岩a︶・第二版以降は力ービリーズ編。本稿
執筆にあたっては第四版を参照した。
︵8︶ たとえば、正確な採譜は録音技術が発達した今日でも
容易なことではない。
︵9︶9罵蕃U⋮P§雨、ミ§§意呉ω§讐、Sミミ
9泰ぎ恥H§§ぎ妻ぎ向宮㎞“⑦§§︵o昌o昌串色員−畠o︶一
屍o晒g冒σ昌昌pミ姜㌻§軋H§軋§§甘ミ向ミミミ匙§・
805
第六号 (98)
第八十八巻
一橋諭叢
の対象が消え去れぱ、民俗学自体も消え去る運命にある。﹂
対象が特定の姿になって出てきたんだ。だから、その特定
︵野口武徳ほか編﹃現代日本民俗学n﹄三一書房、一九七
︸、“s“卜sミos︸ぎ札、雨−轟o1﹄⑰“o︵−︺‘ω1籟﹃o幸o﹃㌔射o’く里目嘗目o
︸ミ、“ 吻軋味sso富so雨 富ミ軋 いo&宮“ oo暑膏、︸ ︵op胃Fσユo伽〇 一q.
岩ooo︶など。
、§ミ§竃︵O良o己⊂、勺JHεPHまo︶にまとめられている。
なおした向秦ミ§、o§⑦o棄㎞、o§§雨吻oミ§§s﹄㌔、s・
隻ミ愉︶に詳しく記している。その成果は、女史が編集し
︵15︶ この間の事情は同行した力−ビリーズが伝記︵OS亀
. 五、三三一頁︶と言う。
■津︷−o饒o−o,H00oo︶一射自“旨句’一自oo目嘗目−o,s︸、o曳ミー.ミ㎞﹄くs−
勺.i−鵯∼吋︶⋮肉o帥0Hμoく‘勾o■’io汗一■ミ味ミ吻“、o“︸ 、o廻ミ一.
︵10︶ 本文中のカヅコ内のぺージ数は、■素ぎぎ、o轟暮秦.、
また計画されていた二^ーファウンドランドの調査は、シ
吻ミミ&ミ、雨 SミS ミ哺Sミ︸ミ崎 ︵一q−;く一 〇H 吊O■昌㎝㌣−く螢目−里 勺H二
す。
、o§いos砦、o§≧雨喜ミミミ畠ミ︵司巴uo■H導−︶として
ャープの死後カービリーズに引き継がれて旨・宍胃潟−揮
吻§ミ9ミぎ之o妻︵余︸&.︶からの引用およぴ参照を示
︵n︶ 射−o−嘗H︷ −自. ]︶oH岨o自一 〇〇.一 、莇s︸sミ、 oミ帖、o§吻 畠ミ軋
︵16︶.ただし、その多くは峯■内里︷色男&。9ミい“s意.︸
公刊された。
⑦s皇棄軸ξ“守㎞一.い良雨oざoミ︸、oミ︸ h¥価 b、札訟︸¥ 、o“証︸o、札吻“夕
NくO尻1︵炭穴吊L09︶を見よ。
ooミ軸oざoミ呉■“売ミ㎞昏、o“申 ωos喝夕Nくo−ω−︵o共︷oH〇一q一勺.■
︵12︶ ﹁民俗が消滅しつつあるという考え方そのものが民俗
の一種である﹂︵冒O︸胃﹂旨。UO易OH’﹂§ミS昌ミ、ミミミ♪
︸里﹃ユ蜆︸﹃o目ωo冒−H﹃害雨 ミs軋軋ミoミ畠“ H﹃ミミ軸︸ 呉 “き︸ oき辻軋
−、︸o§ 呉 “討雨 、雨o“や︵国o−目o目匡目■i Ho㎞oo︶⋮ 巾0H“H與自ρ
bS§き一企き−蜆1︵串巨OOざ■弓勺二岩SIS︶などを除
Hミ革︶まで公刊されなかったので、−芭旨窃肉霊きヅHぎ
︵u︶ >一串■]︶自目ooμ、H巨o]︺oくo−自庄o目pH︸勺H0目己岨o−■句o−斤1
である。
︵〃︶ 現在の教育科学者の前身。
き、ほとんど利用されなかった。
○邑<■OHO巨8o菅o勺H■一畠S一やo0N0。︶という文句はよく
−oHoH︸ooH︸一二−目﹄s畠ミ辻o向帖吻ミ崎︸s ,o、““o、雨︵リーo目ヰo目.
知られているが、その意味は十分に考えられていないよう
崔ご︶一勺旧.ζ1・。Nを見よ。民俗学史についてはΩ畠唱−
−津&σ︸﹄o︸自乞峯ob彗邑︵︻oo︸ピー湯H︶を見よ。
︵■Oo蜆o︸陣Oo二 −岨oひ︶.
向oミミ軋夕 吻ミ祭帝包耐、ミ H守雨 向os宍、 呉−︸“ミos註oミ ︵−o0b︶
﹄ ooミ$ざξ ooミ軸良軋os 県 “註軸 、o“和−吻o素p o亀、o涼、 ss&
︵㎎︶ Oブ顯HHo㎜く−旨0H血 ω計艀目片OHρ. H、“耐﹄く邑So§s“吻oS恥民oo申一、
︵14︶ たとえぱ、福田アジオは﹁実は、民俗学は十九世紀末
oooooo︸甘芭H嘗−ド専雨串一包oミ呉、o−討、o、軸軋ミ﹂呵ミ﹃o㌔♪一H里■眈1
段階以降に成立してきた歴史的な一つの段階の学問である。
806
(99) セシル・シ.ヤーフーの民謡観について
︵”︶ 向秦ミ向ぎ 、O、か 吻O富味︸ さ、吻O討OO汀iOO自OO︷O︷ 芭自O 串﹃1
︵%︶ たとえぱ、バーシ目ンやバリアントをきちんと記録し
§讐ぎo“︵9目σユ緒Φq︸一H暑o。︶の諸論文を参照。
︵24︶勾oぎ斗■轟ま彗ρ射o︸霊一目o・一&眈.一き轟ミ§計
1I “
尋o旨− [Hooα]︶.
﹃印目oqoρ一︺︸ω.ω嘗ユ目o目−Ωo目−︷顯目︷ Ooo自 −1ω﹃嘗H℃ ︵O自7
︵26︶ 口承文芸の背景要素については、西江雅之﹁口承伝承
ていること。
の記述﹂、千野栄一編﹃昌冒語の芸術﹄︵大修館書店、 一九八
︵20︶ ちなみに、日本で一般に﹁イギリス民謡﹂と呼ぱれて
ある。たとえば、門馬直衛編﹃世界畏謡全築、第三−四巻
、H︸o ]円“−目ooq﹃葭o︸︸ oh ω勺①串弄−目o目.. −目 局籟s、︷素︸ 軌s ︸守雨
O︶所収。また、デル・ハイムズのモデル︵∪昌曽︸目鶉・
いるものは、シャープが忌避した教育庁版の俗謡のぼうで
︵21︶ OΦo二 − ωゴρH勺一 〇S雨 串ミま軋ミ“ 向ミ軸ミ︸き 、o§㎞o秦肋
︵イギリス篇In︶﹄︵音楽之友社、 一九五八︶など。
︷o目i H旧ひo〇一、o1 oo−]1ωo〇一 、旨ooo−岨 o︷ “︸o −■︷oHpo弍o目
oH■顯目αq自串囎血 寧目ρ ωoo−竺 ■岸9.、 ︸目 bミsミいs︸ ︸ミ §雨
㎞oo軋o,o簑呉卜ss的ミ藁“ ⑭o犀oρ一︺︸ −.>.弓尉︸自一串目一曽o自−
向、“ミO的、喜ミ ρ、 OOミーミ⋮ミS軋O昌註OミーOO岸Oρ 一︺︸ −.−1︹︸冒日ロー
︵HO−ひ⋮]︶Oく耐‘ −ON血︶⋮向素註︸“OOミSミ、O、討吻OS軸㎞ ︵オ01
︵⋮〃⋮︶ Ωoo﹃帥o■︸目嘗■ 穴岸↑﹃o旦oqp ,H目“Ho〇一﹄o庄o■、 ↓o■詩恥・
ooHN 瞠目ρ ]Ul ︸︸目o9 ︸o−け− 戻−旨o︸芭H“ 葭目ρ ミ山目岨片o目、
くo=9岩oooIH旨ドHま−︶など。
岬o目“ 葭自o Ω− ]﹁− H︵津↓﹃①αo口o ︵籟o自嘗片o箏 ]≦−雪−旨一 −oo卓い
−葛きSS軋いooミ葛専、o㌔ミ、宮、bSミs軋夕o︷津oρ一︺︸串‘Olω串﹃−
︵η︶ イギリスの社会人類学における口承文芸の軽視も関係
εs一〇勺■ま1冒︶なども参考になる。
があるかもしれない︵o−1勾ーヨ自目血oq纈戸、.>茸岸目︷鶉8
−oωN︶−o.x−.
県、o§ぎδ馬o喜︵旨o穿oo目勺鵯勺宵げ顯o〆岩ご︶などを
↓−o oo沖自匹︸o︷OH竺■津oH嘗ゴ旨o−目 ωH岸︸岨︸ ωo9巴 >昌−
︵鴉︶ −︺顯くo]﹁顯−目o司o↓印−二 H﹃“雨 ■““軋、軋oミミ餉帖−. H昏岨 吻、oミ
参照されたい。なお、シャープの時代の録音器はまだ使い
︵28︶ 最近は口頭伝承を規準とすることが一般的であるが、
片︸﹃o勺o−oo口き、ミsぎオーωJくo−.ナ Ho臥ド勺や㎞o−①o︶。
それとても十分ではない︵o−≧彗∪自目まμ、Ho4≡p
にくかったので、シャープはその効用を認めてはいてもほ
ーシー・グレインジャー︵黒HξΩ墨まo官雪︶であり、彼
H血共戸 印目O Oo目↑o■け、 −冒 H§ざ﹃、、雨ミS恥 、o“討“o、軸一 H目O⋮顯目凹
とんど利用しなかった。録音器を積極的に使用したのはパ
のすすめによってはじめて民謡のレコードが市販されたの
︵29︶ O嘗H−向目o貝〇一Hき雨卜恵雨、ミミ、雨呉﹂くsぎos亀︸ミミ包b︵Hoo、〇一
一].弔一−一〇〇〇〇−唱勺1M01ωN︶。
>岩μH旧NO︶ボーン・ウィリアムズも﹁ナシ目ナル﹂を
は一九〇八年のことである︵勺印ぎ鼻○.旨竃o口;o器さ、旨−
片oHρ q一勺.i −oαoo、弓o1−くーく−︶。
オoρ自o庄o目、一〇ド§雨ミミーOミ雨卜“§Sぎ防ミミ、ミ申吻os吹夕O属−
807
第六号 (100)
第八十八巻
一橋論叢
︵34︶ ボーン・ウィリアム.スはアメリカでの講演で、アメリ
のその項目︵国o幸胃o名、O旨冒執筆︶参照。
ることはない、ということを述べている︵<彗ooゴ彗孝昌−
カには小農がいないので民謡はないかもしれないが悲観す
老曽旨昌軍﹄く§ざミミミミ之o ss軋O§ミ ■8ミ3 0■︷oH口
用いるが、これは﹁民謡﹂と同じではない︵夷・くP自胴︸凹目
ものを﹁ナシ目ナル﹂とする︵句昌昌げOo≡冨o自一H守雨
Ω8晶O司Omm一㌧秦宇﹄§雨、ざ§、O§きミいミざ︵串O目弍8−
ますます矛層が生じてくる。夷ooq宰p≧︺冨す饅冒蜆昌o
︵∬︶ この三分法を厳密に解釈し排他的なものと考えると
旨胆冒蜆一≧sま§ミミ§ぎ勺o竃虫−︶。
弓吊−一岩g一やs︶。コリンソンは口頭伝承によらない
岩ま一勺勺.一1︸︶。
Hミ軋きosミ昌註“ミミぎミ亀﹄ミ蓄ざ呉吻sミ富きト 夷穴乍
︵30︶ ≧§吻ミ寸度雨§§“では一八四三年に、︷o寿.餉㎝o晶、が、
富S軋甘守雨 串札包oミsミ︵﹂q目山く一〇︷ O︸︷o嘗的O.∼﹃= HoN−︶i 旧O.
︸嘗戸岩ひoo︶一勺勺1㎞13印旨.Uo易o目﹄§ミ軋§ミ、ミミミ軸
一八七〇年に、︷O岸−mO温、が初出となっている。なお日
二﹃日本歌謡の研究﹄東京堂、一九六一、三四八−三六六
︵31︶ ある種の﹁気高い未開人﹂︵昌営o餉彗晶o︶である。
向秦茅註、o§豊秦臼では=−o寿㎜昌鵯喀o勺宰、に限るとし
ロル、わらべうたなども収録されているが、oミ串星sミ&
︵36︶ O§ミ吻尋亀ミ、oOoミ§まosにはシーシャンティー、キャ
8−8などではこのように考えていない。
本語の﹁民謡﹂も明治中期以降の新しい語である︵浅野建
頁およぴ町田・浅野繍﹃日本民謡集﹄岩波書店、 一九六〇、
︵32︶ コダーイらの﹁民謡﹂も墓本的には﹁農民の歌﹂のみ
者も対象にしたのは回イド︵>■■、仁o︸♀、o祭いo祭ぎ
て、含まれていない。農民以外の労働者、特に都会の労働
四〇一−四〇三頁︶。
晒宰一H署−︶。
のとしては、向美雲−峯竃oo−−里旨ρ勺oo盲弩ωoooq胃一Hミミ㌣
■奏ぎミ︶である。また、非定住者の歌を収集研究したも
が合まれる︵N1内o農一さ、o§ミ姜§県曽§寒ミ一申碧−
︵33︶ 柳田国男は﹁常民﹂を﹁ごく普通の百姓﹂︵﹃郷土生活
、ミ、臼吻§零、O§向棄ざS“Sミ“㎞OO“ぎミ“︵射宍’宕ミ︶
の研究﹄筑摩智房、一九六七、一五〇員︶と言うが、文字通
りに受け取るわけにはいかない。文化概念としての﹁常民﹂
を参照。
あまり関心が向かなくなるし、国民性に注目すると地域
︵η︶ 起源を重視すると誰が歌っているのかということには
については、竹田聴洲﹁常民という概念について﹂︵野口ほ
、︷O寿、に対する様々な意味は声勺。司巴昌巨員&、b︸O−
>富序o句o−ζ、ざぎ討意、§素、gミミ雨を参照。また、
謡を﹁自然発生的﹂といういかにも回マン主義的な表現で
性・個人性は民謡の特質ではないとされる。日本では、民
か編﹃現代日本民俗学n﹄︶およぴ≧彗U自目宗p、彗o
ぎ§ミ呉吻§ざ“§︵呈主一■岸亀監血員>o凹冒9岩き︶
808
(101) セシル・シャープの民謡観について
︵塊︶ H−o目1里蜆句0H0︸−由恥ミ岨ミ雨㎞呉﹄sh膏ミ、 、泰︸シ専、o曳ミ
説明することが多い。
︵旨a︶.︸昌︷昂.書墨芭︷編︵富o.9Uoく員;ま︶
では−O︸■幸一︸邑鶉串目q句篶OOユO庁−句自﹃邑く巴ポO宗j
尉︸︸¥o“ ∼雨、ミ、㎞ 、oso ミsミミ︸o、︸、“−. b富ミs軋餉 昌§軋 寓o−
§§§防︵老、H昌げ■o■一〇。簑−o。︶と対照されている。
︵45︶ フィールドワークによる観察記録は当時の多くの民俗
︵46︶ U・肉・峯二〇q自9﹄s恥ざ−﹂§ミ札osミ、o§︸o泰吻o守oざ毒討膏
挙者より進んでいたとも曽目える。
︵4ア︶ ドイツやフィンランドとはちがってイングランドの近
包S§、∼O喝︵肉自ヰOOO冨G.勺こHO㎞岨︶一勺.α〇一
代化は早−かったので、民俗学におけるナシ目ナリズムはそ
れほど強くなかったが、音楽に関しては後進国となってい
︵48︶ ロマン主義が民謡を発見したとも言えるので、民謡研
た。
︵犯︶ ωオ.一く顯岸0Hoooo“サミ︸ミ㎞ミ軸“︷呉“申冊吻oo““汀討民o、軋雨、
︵−o.SlHo.8一Ω8﹃oooΩ■︸鵯目顯p岩3︶.編集方法につ
究からロマン主義を切り離すには﹁民謡﹂という名称を廃
いては>−邑冨考■里箏σq一い亨ミミ詩、吻s篭亀s、§雨旬oミミ
︵40︶ >. C自−−o﹃−Oo自o︸、 H守雨 Oさ、馳 ■oo詩 呉 bsミs“餉
ミ§包ミ、︷︵−旨p>峯μHog︶を見よ。
︵49︶ そもそも﹁本響の主な諭麺は民謡の進化上の起源であ
棄するのが都含がよいが、その利点も捨てがたい。
る﹂︵序文二三頁︶とも言う。﹁進化﹂という用語や動植物
︵−旨o︶一>膏昌。■旨胃一90。皇ま自;P寒§募曳§
向s昧ぎ帖守 ■o、軋雨、 ︵オー旨顯H自 葭9目o目1陣目目一 H0N㎞︶− 肉〇一︺o﹃計
への類推なども多い。
︵50︶ 旨・肉里Hogop﹄sHs膏o軋ミミ札osざ尚s味、葛守、o§いos恥
○斗顯くoμ H寺雨 向s恥ミ︸討 向亀“、s& ︵−ooo“− H−雪m斥o■ 籟o自蜆p
−0N−︶⋮Ω﹃葭くo9 向秦“葛昏sミ、ωoo“ミ︸旨 bsミs、︸ ︵︸色目o−
o・ω一〇雨oミいぎs意i勺.−o“ 目. −い >−■− ■−o︸q− 、o“杏
︵仙︶ 射霊く鶉一Hざトミo§呉§雨、雨o度ドただし、そこで
日口輿目自i].o㎞、︶−
︵∬︶ ただし、﹁民謡の進化についてのシャープの説明は一
般に受け入れられている﹂︵ヒ彗︸OεHざ吋§ミ一峯?
吻os恥札s向ミ恥、sミ∼.ol−餉.
︵42︶ 些紬に見える相違に大きな意味が含まれていることに
は目的と方法を明らかにしている。
︵兜︶ このことは筆承文芸にもあてはまる。なお、音楽的側
ま篶p;葛一〇。昌o︶と一一﹂口うのは、現在では正しくない。
面の研究や録音資料の利周は、この﹁行為﹂と直接に繕ぴ
H︸o肉om血簑﹃oげ−目−勺=o凹戌o目ωo︷︸巴︼顯o昌o目岬o昌自σ目一.、﹄§雨下
㌻ss﹄ミ、¥、o、、o恥軋包iくo−.ひσ︵Hoひ革︶−勺勺’阜oN−︷H①1
︵鴉︶ 特に最近のアメリカを中心とした民俗学︵たとえぱ、
つくので重要である。
ついては、﹄oチ昌岸o鵠o自σqo﹃一、>昌“プHo妃o−oo目尉↑串一勺5︸一
︵44︶ 注︵3︶、︵11︶を見よ。
︵棚︶注︵16︶を見よ。
809
第ブ、号 (ユO1∼)
第八十八巻
一橋論叢
U彗ω彗1>冒畠昌o肉昌目g︸ω.Ωo巨㎜蒜ぎ一巴蜆二向o“討−
ミミ、雨さ、§§s§軋oo§§ミぎ§ぎs一峯o津冒一−ミ㎞︶
では顕著である。
︵56︶ たとえぱ、ロマン派への影響の源泉とか詩の起源とし
︵帥︶ なお、テキストと伝承者とを緒ぴつけて考察したもの
て扱うことなど。
として、拙稿﹁バラッドの中のジ目ン・ヘンリー﹂二橘
論叢﹄第八十八巻︵一九八二︶第一号参照。また、民謡の
︵弘︶ それが文挙的研究の﹁正統﹂であるとの主張もあるよ
うだが、その緒果としていかに誤った知識が生み出された
民俗学的研究方法については、拙稿﹁民謡と民俗性﹂﹃一
︵一橋大学助教授︶
橋論叢﹄第八十三巻︵一九八○︶第四号参照。
かは、次第に明らかにされている。
︵55︶ フランシス・チャイルドをはじめとして、多くの学者
は﹁フィロロジスト﹂であった。
810
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