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中国共産党史における翻訳概念

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中国共産党史における翻訳概念
中国共産党史における翻訳概念
━「路線」と「コース」をめぐって
江 田 憲 治
は じ め に─問題の所在 ………………………… 343
Ⅰ 「李立コース」の源流
─ロシア/ソ連共産党の党内闘争と〈ライン〉… 348
Ⅱ 中国共産党史における「路線」の登場
─〈ライン〉から〈路線〉へ …………………… 354
Ⅲ 日本語文献への「コース」の登場
─〈路線〉から〈コース〉へ …………………… 359
お わ り に─〈路線〉から「路線」へ ………… 363
は じ め に─問題の所在 (1)
1920 年代、左翼知識人によって、マルクス主義が受容されて「知の革命」 が起こり、
またコミンテルンの働きかけの結果中国共産党が成立すると、中国にはロシア・マルクス
主義からさまざまな「概念」が翻訳され、共産主義者や中国共産党の文献に登場し、党内
の公式用語となり、それらは中共党史の中に位置を占めるようになる。
たとえば、1922 年、中国共産党がコミンテルンの指導下、労働者や農民を中心に、ブ
ルジョアジーも含む諸階級が同時に取り組む反帝国主義・反軍閥を目指したとき、民族革
命(National Revolution)の課題は「国民革命」と翻訳されて、中国共産党の最初の指導者・
(2)
陳独秀が提起した 。このとき「民族」と「国民」に中国語で等質な語感が存在したこと
は考えられるが、陳独秀がこの「国民革命」の語を選択したのは、やはり当時の「国共合
作」という政治的背景があったであろう。「国民革命」とは、かつて孫文が辛亥革命期に、
(3)
過去の歴史の中の「英雄革命」と対比して提起した革命概念であったからである 。
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江 田 憲 治
National Revolution を「国民革命」と翻訳し、中国共産党と中国国民党の共通の政治目標
として提起することは、孫文と中国国民党の側にとっても、受け入れやすいことであった
はずである。国共合作を正式決定した中国国民党第 1 回代表大会の「宣言」は、「わが国
(4)
民党はつとに国民革命と三民主義の実行を中国の唯一の活路としてきた」と述べた
し、
その軍隊は、「国民革命軍」と称された。
また、中国共産党はこの国民革命における労働者階級のヘゲモニー(Hegemony)獲得
を課題とした。1923 年、のちに中共の二人目の指導者となる瞿秋白がこの語を「指導権」
と訳して提起、一年後、瞿秋白と同じくロシア留学経験を有し、あらたに帰国して陳独秀
の右腕となった彭述之が、プロレタリアートこそが国民革命の「領導者」であるとの論文
を発表したのち、1925 年 1 月の中共第四回全国大会は、この課題を「中国の民族革命運動
は革命的プロレタリアートが強力に参加し、領導する立場〔領導的地位〕に立たねば、勝
利を獲得することができない」と定式化したのである。さらに、1927 年 2 月、「国共合作」
政策をめぐって陳独秀指導部、とりわけ彭述之と対立した瞿秋白は、彭糾弾のパンフレッ
ト『中国革命の争論問題』を作成、そこで、革命はブルジョアジーとプロレタリアートが
「領袖権(Hegemony)
」を争奪しあう段階にあることを指摘したのだが、同書は別の箇所
では「領導権」の語も用いており、同年 4 月の中共第 5 回大会の決議はこのうち「領導権」
(5)
を採用し、以後ヘゲモニーの訳語として「領導権」が定着している 。
さらに、ロシア革命の原動力となったソヴィエト(Soviet)は、早くから「蘇維埃」と
(6)
音訳され、1920 年の『新青年』に張慰慈が訳載した「俄羅斯蘇維埃政府」 は、郷村から
国家レヴェルまでの制度としてのソヴィエトを紹介している。ただし、中国共産党の文献
がソヴィエトを語り始めるのは、1927 年 2 月になってからのことであり、瞿秋白は『中国
革命の争論問題』で、
「ソヴィエト〔蘇維埃〕の方法」で「平民共和国」を樹立すること
(7)
を主張した
が、これは同年 4 月に開かれた中共第 5 回全国大会の議論・決議に反映され
ていない。その後の蔣介石による上海クーデタを契機に国共合作が崩壊し、同年の八七緊
急会議で武装暴動に方針転換した共産党は、このときソヴィエトを宣伝スローガンに位置
づけ、9 月になってから「革命の高潮」の中で中心都市に樹立される実行スローガンへと
(8)
引き上げた 。多くが短命に終わったが、それらは「広州ソヴィエト」や「海陸豊ソヴィ
エト」のように、中心都市ばかりか県レヴェルの政権に冠せられたのである。その後、
(9)
1928 年の中共第 6 回大会は「ソヴィエトの正式名称」を「工農兵代表会議」と規定し 、
意訳の試みがなされたが、実際にはその後も中共は、ソヴィエトの名称を用いることを
好んだ。中国南部の省境地域に形成された支配地域は「ソヴィエト区域」とよばれ、
1930 年 5 月には「全国ソヴィエト区域代表大会」が上海で開催され、1931 年 11 月には、
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中国共産党史における翻訳概念
「中華ソヴィエト第一次全国代表大会」が設立した「中華ソヴィエト共和国臨時政府」が
樹立されている。なお、その後、第 2 次国共合作の下での抗日戦争期、毛沢東は新たな
国家政体を構成するものとして「人民代表大会」の成立を主張したが、これは「新民主主
義」という枠組みの中での、あらためての「ソヴィエト」の意訳であったと見ることがで
(10)
きる
。
さかのぼって見れば、中共が理念と組織原理として採用したボリシェヴィズム、党派の
名称であるボリシェヴィキも、ソヴィエト・ロシア政府を左翼知識人・党員の知識の範囲
と、党の政治的要請にもとづいて中共党史に登場し、変容をとげた概念であった。李大釗
の「Bolshevism の勝利」
(1918 年 12 月)が英語表記のまま述べたボリシェヴィキ(Bolsheviki)
は、全産業を労働者が所有し、世界連邦の基礎としてのヨーロッパ連邦民主国樹立を主張
(11)
する党派であった。だが、李は「ロシア革命の過去、現在と未来」(1921 年 3 月)
では、
これをロシア社会民主党の組織原理で中央集権を主張した「多数派」、10 月革命で「労農
政府」を組織した「社会主義派」「布爾雪維克」として説明した。が、共産党成立後、そ
の指導者・理論家たちは、ボリシェヴィズムやボリシェヴィキそのものについて必ずしも
多くを語ってはいない。それは、コミンテルンの一支部である中共にとって、コミンテル
ンを指導するロシア/ソ連共産党が「ボリシェヴィキ」を称する存在であった以上、ボリ
シェヴィズムとは、論じるまでもない正しい前提として受容されていたからだと考えられ
る。ただし、そのことは、党内闘争にあって、政敵・反対派を「ボリシェヴィキ」や「ボ
リシェヴィズム」に反するものとして批判、糾弾することを可能にした。瞿秋白が、前述
の『中国革命の争論問題』で、ボルシェヴィズムの対概念として党内の「メンシェヴィズ
(12)
ム」(「彭述之主義」とよばれている)を非難し
、王明(陳紹禹)が、中共党の「更な
るボリシェヴィキ化〔布爾什維克化〕」を標榜して、党内反対派の糾弾と制圧を強調した
(13)
のは、その事例である
。
そして、中共党は、同じように、ロシア/ソ連党の党内闘争で用いられた糾弾用語であ
る「日和見主義(opportunism)」を学んだ。すなわち、コミンテルン第 5 回世界大会がロ
シア共産党内の反対派やポーランド・ドイツ・フランス党の反対派支持グループの「右翼
的(日和見主義)的偏向」を非難し(1924 年 7 月)、スターリンが「ロシア共産党内部の
(14)
日和見主義的反対派」について語った(同年 9 月)のち
、中共党はこの語の存在を知り、
使用をはじめる。中共第 4 回全国大会(1925 年 1 月)の「同志トロツキーの態度について
の決議案」は、
「中国共産党大会は、ロシア共産党指導者〔スターリン〕の、トロツキー
(15)
主義とは日和見主義〔投機主義〕の一派であるとの見解に、全く同意する」
と述べた
のである。ただし、opportunism の訳語としての「投機主義」は長続きせず、同年 4 月に
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刊行された中共理論機関誌『新青年』レーニン記念号に掲載された二つの論文では、
「機
(16)
会主義」の訳語が用いられ
、瞿秋白の『中国革命の争論問題』でも、彭述之=「中国ト
(17)
ロツキー主義式の日和見主義〔機会主義〕」との論難が行われた
。さらに「国共合作」
政策を精算した八七会議では、この政策を推進していた陳独秀指導部に対し、
「空前の妥
協的日和見主義路線〔空前的妥協的機会主義路線〕」のレッテルを貼り、厳しい糾弾が行
(18)
われた
。ここで、opportunism =「機会主義」の訳語が確定し、のちには「右翼日和見
(19)
主義〔右傾機会主義〕路線」といった派生形が登場することになる
。
では、こうした場合の、「路線」はどうであろうか。
中国語の「路線」については、人民共和国における中共党史研究の重鎮というべき存在
であった胡喬木が、1981 年、中共 11 期 6 中全会における「建国以来の若干の歴史問題」
の決議の際、同決議「説明」の講話の中で、次のように述べている。
路線という語は、マルクス・エンゲルス・レーニンはあまり用いたことがなく、彼ら
の主要な著作では用いられておらず、そのほかの著作で用いられる場合でも何らかの
重要な意味を与えられていない。スターリンは路線問題をきわめて重大なものとして
提起したが、それも 1929 年の「ソ連邦共産党内の右翼的偏向について」以後のこと
である。……中国党では
〔1930 年に〕コミンテルンが立三路線反対を提起する以前は、
路線という語を用いることはほとんどなかった。たとえば、第二回大会から第六回大
会の文献はすべてこれを用いてはいない。王明以後になってはじめて大いに用いられ
るようになり、かつその用法も、次第に神聖化、神秘化されていった。しかし、結局
のところ(濫用をのぞき。ただし大量に濫用されたのだが)、路線を重要な意味にとっ
ても、せいぜいのところ、全般的で根本的、全局性の方針であるにすぎない。
胡喬木が、ここで述べているのは、もちろん、糾弾用語としての「路線」の濫用への批
判である。そこには、第一に、中共第 7 回全国大会(1945 年 4 月)が採択した「若干の歴
史問題についての決議歴史問題」決議が、同年時点までの中国共産党の歴史を 4 回にわた
る「誤った路線」─
(1)「陳独秀が代表した右傾思想が発展した投降主義路線」
(1927 年 8 月以前の約半年)
(2)瞿秋白指導部の第 1 次左傾路線=「盲動主義・冒険主義路線」
(1927 年 11 月 –
28 年 4 月)
(3)「
(李)立三路線」の第 2 次左傾路線(1930 年 6 月 –9 月)
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(4)王明(陳紹禹)らの第 3 次左傾路線=「教条主義分子陳紹禹と秦邦憲同志を指導
者とした誤った“左”傾路線」
(1931 年 1 月 –35 年 1 月)
─と毛沢東を中心とする「正しい路線」との路線闘争の歴史として総括したこと、また
第二に、文化大革命期の 1971 年、毛沢東が「歴史決議」の 4 回に、人民共和国成立以前の
(5)羅章龍の「第二中央樹立」と「党分裂」活動(1930–31 年)、(6)張国燾の「第二中
央樹立」と「党分裂」活動(1935–36 年)、共和国成立後の(7)高崗・饒漱石の「反党連盟」
(1953–54 年)、
(8)彭徳懐(1959 年)、(9)劉少奇、
(10)林彪との「二つの司令部の間の
(20)
闘争」を加えて「10 回の路線闘争」を説いた
結果、中共第 10 回全国大会で周恩来が読
み上げた(起草は張春橋)「政治報告」
(1973 年 8 月)が、「この半世紀にあって、われわ
れの党は 10 回の重大な路線党争を経験した」と述べ、党内の正しい路線と誤った路線の
間の闘争は、
「長期にわたって存在するであろうし、10 回、20 回、30 回と出現しうる」と
(21)
強調することになった事態が背景にある
。そして、胡喬木は述べている。
党の歴史は路線闘争史として簡単化されてはならない。路線の誤り、路線闘争という
二つの語は、どれほどの同志を迫害してきたことか。〔鄧小平が実権をにぎった〕中
央は、華国鋒同志の誤りを批判したとき、路線の誤りを用いないことを決め、大いに
人心を得たのだ、
と。ここには、
「路線の誤り」といったレッテルの行使によって、党内の人々を不当に弾
圧し、また多くの党員を萎縮させてきた事態へのいわば「省察」の弁が述べられている。
そして、この胡喬木の主張は、党中央委員会で行われたものである以上、中国の共産党史
研究者にとっての共通理解となっていると考えられる。
しかし、
「路線」をめぐるこうした「省察」が、今日にいたるまで有効な視座であるこ
とを認めるとしても、前述のように、八七会議の決議文は「路線」の語を用いているので
あるから、中共の「第二回大会から第六回大会の文献はすべてこれを用いてはいない」と
する胡の主張には検証が必要であろう。また、胡が指摘するスターリンの「路線」の最初
の事例としての「ソ連邦共産党(ボ)内の右翼的偏向について」
(1929 年 4 月)は、ブハー
リン派に対する批判であるが、ロシア/ソ連党ではすでに 1924 年からスターリンとトロ
ツキーら反対派との論争が公然化しているのであるから、ロシア/ソ連党における「路線」
の用法開始時期も、検討に値する問題である。
しかも従来、「路線」の原語は何であったのかを、中国や日本の中共党史研究者は問題
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江 田 憲 治
とすることがなかった。それは、今日まで明らかにされてはいないのである。この点は、
同じくロシア・マルクス主義からの移入語である「国民革命」(National Revolution)、「領
導権」
(hegemony)、
「蘇維埃」
(Soviet)、
「機会主義」
(opportunism)とは全く異なっている。
また、この「路線」は、日本の中共関連の著作の中で、一時期(といっても、1930 年代
から 70 年代までのかなりの長期にわたって)しばしば「コース」と表記され、以下のよ
うな著作がこの語を用いているのだが、そこにはどのような事情が存在するのだろうか。
波多野乾一『支那共産党史』外務省情報部、1932 年。
大塚令三『支那共産党史』上・下、生活社、1940 年。
日森虎雄『中共二十年史』日森研究所、1942 年。
中西功『中国共産党史』白都社、1946 年。
波多野乾一『毛沢東と中国の紅星』帝国書院、1946 年 8 月。
朝日新聞東亜部『中国共産党』月曜書房、1946 年。
石川忠義『中国共産党史の研究』慶應通信、1959 年。
中西功『中国革命と毛沢東思想』青木書店、1969 年 2 月。
竹内実『毛沢東と中国共産党』中公新書、1972 年 4 月。
そして、これらの著作は主要には、胡喬木によれば中共党文献の「路線」の初出である
「李立三路線」について「李立三コース」と表記したものなのであるが、わずか 3 カ月間
しか実行されなかった李立三のプランが、日本語にあってなぜ「コース」と表記されたの
か。それは、どの言語の何という単語にもとづいているのだろうか。
こうした問題意識からすれば、われわれは、まず、中国語で「李立三路線」
、日本語文
献で「李立三コース」と翻訳された概念の検討からはじめなければならない。この課題は、
中国・日本・ロシアにわたる「東アジアの翻訳概念史」の一つの位置を占めるものである。
Ⅰ 「李立コース」の源流
─ロシア/ソ連共産党の党内闘争と〈ライン〉
「李立三コース」
(あるいは「李立路線」
)は、1930 年 6 月 11 日、李立三が主導する中央
政治局の、
「新たな革命の高潮と一省もしくは数省における先駆的勝利」決議採択にはじ
(22)
まる大都市奪取プランの実行に対する呼称であり
、それが失敗に終わったことはよく
知られている。都市における蜂起・ゼネストは実現されなかったし、紅軍の都市攻撃の成
348
中国共産党史における翻訳概念
果も、長沙が 10 日ほど占領されたにすぎない。李立三の失敗に対し、コミンテルン執行
(23)
委員会政治局は「中国問題の決議」を採択
、是正をもとめた。さらに 9 月、当時モスク
ワに滞在していた瞿秋白、周恩来を帰国させ、彼らが主導した中共中央委員会(六期三中
全会)が、李立三から党の主導権を剥奪するのである。
だが、コミンテルンは、瞿秋白らの党内措置(李立三の誤りは、
「正しい路線」の下で
(24)
の情勢評価の誤り、「戦術〔策略〕上の誤り」などとされたにとどまる
)を不満とし、
これを批判する書簡を送った。1930 年 11 月 16 日、上海の中共中央に到着したコミンテル
ン書簡は、
「李立三同志の政治路線」の「誤りと害悪」を指摘し、それはコミンテルンの「路
(25)
線」と対立する「非ボリシェヴィキ・非レーニン主義」のものであるとした
。ここに、
中共党史上はじめて指導者個人の「路線」の「誤り」が糾弾されたのである(陳独秀指導
部の「路線」への非難は、陳独秀を名指しで攻撃したものではなかった)。
まず、この中国語「路線」のロシア語での原語は何だったのであろうか。
J. デグラス(Jane Degras)の The Communist International, 1919–1943 は、1935 年刊行の
ロ シ ア 語 資 料 集『 中 国 の 民 族・ 植 民 地 革 命 に お け る コ ミ ン テ ル ン の 戦 略 と 戦 術 』
(Стратегия и тактика Коминтерна в националъно-колониалЬной революции на примере
Китая )にもとづき、「李立三同志の政治路線」を“the political line of Li Li-san”としてい
るが、デグラスが依拠した資料集がそもそも中国語テキストを典拠としているから、ここ
(26)
では中国語の「路線」の原語は確認できない
。ただし、1999 年刊行のロシア語資料集
『聯邦共産党(ボ)
・コミンテルンと中国におけるソヴィエト運動 1927–1931』(ВКП (б),
(27)
Коминтерн и советское движение в Китае 1927–1931)
が収録するコミンテルン執行委員
会東洋書記局の同政治書記局宛の通報(1930 年 10 月 9 日付)には、линия、すなわち英語
の line、ドイツ語の Linie(以下、これを〈ライン〉と表記する)に相当する単語を確認
(28)
できる
。ここではコミンテルン執行委員会の代表団(極東書記局)が一貫して линия
Ли Лисаня = line of Li Li-san に反対してきた、という文脈で「李立三路線」が登場している。
そして、こうしたコミンテルンの批判は、後述するように中共党内で増幅されて激しい
李立三糾弾キャンペーンが展開されることになるのだが、それはそもそも、コミンテルン・
ソ連共産党内におけるこの линия =〈ライン〉の用法が機能したからである。それは、胡
喬木が述べるように、スターリンの 1929 年論文が初出であった訳ではない。
すなわち、1924 年まで党内の反対派に対し、レーニン主義からの「偏向」として批判
(29)
を行なっていた
スターリン(およびブハーリン)は、ソ連党中央・コミンテルン(あ
るいはそれらが体現すると標榜するレーニン主義)の〈ライン〉と、対峙する反対派の〈ラ
イン〉を糾弾するようになる。1925 年 12 月のソ連共産党第 14 回党大会におけるスターリ
349
江 田 憲 治
ンの中央委員会政治報告が、党中央のライン(「われわれの〈ライン〉
」наша линия)に反
(30)
するラインの存在を指摘したことにはじまり
、1926 年 1 月の日付をもつ『レーニン主
義の諸問題によせて』では、
「反対派〔ジノヴィエフ・カーメネフ派〕のライン」が嘲笑
(31)
された
。そして、トロツキー派とジノヴィエフ・カーメネフ派が合流して「合同反対派」
が形成された 1926 年 10 月以降、本格化された論戦の中で、対峙する二つの〈ライン〉が
(32)
繰り返し、スターリンらによって語られることになる
。
ならば、この〈ライン〉= линия、Linie の語が、ロシア語やドイツ語のコミンテルン機
関誌に登場し、これを見出した日本の知識人たちが、〈ライン〉を「コース」と翻訳した、
と想定することは可能であろう。ところが、実際には、1920 年後半当時の日本の左翼知
識人のスターリンらの言説の翻訳活動では、
「コース」
(そして「路線」
)の語を見ること
はできないのである。
(33)
たとえば、佐野学・西雅雄編『スターリン ブハーリン著作集』第 12 巻(1928 年 10 月)
に収録されている、スターリン「サヴエート聯邦 ×× 党内の反対派に関するテーゼ」の語
句と、その典拠であるドイツ語版『インプレコール』(Internationale Presse-Korrespondenz)
1926 年 10 月 29 日を比較して見れば、次のようになる(参考のためロシア語版『スターリン
全集』
(1948–1952 年)、日本語版『スターリン全集』
(1952–1953 年)の用例もあげる)。
①-a)
〔メンシエヴィキかレーニン主義かの〕相互に矛盾するこの二つの方針(575 頁)
(34)
-b)ドイツ語版『インプレコール』diesen beiden einander widersprechen den Linien
(ラインのこの二つの相互の矛盾)
(35)
-c)ロシア語版『スターリン全集』двумя плотивоположннми линиями
(二つの相
対立するライン)
(36)
-d)日本語版『スターリン全集』二つの相反する方針
しかも、1920 年代にあって、左翼翻訳者たちはこの〈ライン〉を、かなり多様に日本
語訳している。『スターリン ブハーリン著作集』第 12 巻収録のスターリン「反対派ブロッ
クと党内の情勢」(高山洋吉訳)は、やはりドイツ語版『インプレコール』1926 年 11 月 15
日から訳したものであるが、同様に訳文とその下線部のドイツ語原典における表記(およ
びロシア語・日本語版『スターリン全集』のもの)を対照してみよう。
②-a)当初より、グループをつくることは多かれ少なかれ自由であり、そしてトロツ
キーを満足せしめなかった党の幹部に対して闘争するためには多かれ少なかれ
350
中国共産党史における翻訳概念
緊密な結合を作らねばならぬといふ主張を代表してゐたトロツキー派のあひだ
に於いて、……(151 頁)
(37)
-b)ドイツ語版『インプレコール』Hauptlinie der Partei
(党の主要なライン)
(38)
-c)ロシア語版『スターリン全集』основной линия партаии
(党の主要なライン)
(39)
-d)日本語版『スターリン全集』党の根本方針
③-a)それ故、かゝるブロックをつくることによつて反対派の同志諸君は、レーニンが
一般に遂行せんと努力していゐたところの基準から遠ざかったのである。
(164 頁)
(40)
-b)ドイツ語版『インプレコール』Grundlinie
(基本ライン)
(41)
-c)ロシア語版『スターリン全集』основной линия партаии
(党の主要ライン)
(42)
-d)日本語版『スターリン全集』根本方針
④-a)それ故吾々は、我が国に於ける××× × の建設の可能性…といふ二つの主要
問題に於て二つの見解を吾々の眼前に見るのである。─、即ち、それはレー
ニン及びレーニン主義の見解と、トロツキー及びトロツキー主義の見解との二
つである。
(193 頁)
-b)ドイツ語版『インプレコール』die Linie Lenins und des Leninismus und Linie
(43)
Trotzkis und des Trotzkismus (レーニンとレーニン主義のラインと、トロツ
キーとトロツキー主義のライン)
-c)ロシア語版『スターリン全集』линию Ленина и ленизма ... и линию Троцкого и
(44)
троцкизма (レーニンとレーニン主義のラインと、トロツキーとトロツキー
主義のライン)
-d)日本語版『スターリン全集』第一に、レーニンおよびレーニン主義の方針と、
(45)
第二にトロツキーおよびトロツキズムの方針
⑤-a)更にこの〔第 14 回党大会の〕決議は国際情勢に関聯して、党に危険を齎すかも
知れぬところの、党の主要なる主張からの二つの逸脱を明言してゐる。(202 頁)
(46)
-b)ドイツ語版『インプレコール』der Hauptlinie der Partei
(党の主要なライン)
(47)
-c)ロシア語版『スターリン全集』основной линии партаии
(党の主要なライン)
(48)
-d)日本語版『スターリン全集』党の基本的方針
⑥-a)第十四回全国会議の席上、同志カーメネフとジノヴィエフとはわが国の ×××
×建設の問題に於ける党の方針の傾向を形式的には承認した。(206 頁)
(49)
-b)ドイツ語版『インプレコール』Parteilinie (党のライン)
(50)
-c)ロシア語版『スターリン全集』партаийнои линии
(51)
-d)日本語版 『スターリン全集』党の方針
351
(党のライン)
江 田 憲 治
すなわち、この高山の訳文では、ドイツ語の Linie が、
「幹部」
「基準」
「見解」
「主張」
「方
針の傾向」など、さまざまな訳を与えられている(「幹部」は誤訳)。これらの事例では、
ドイツ語版『インプレコール』が Linie〈ライン〉をロシア語の линия〈ライン〉に対応
させて訳し(もちろん、そのことは линия が外来語である以上、当然のことではあるが)、
日本語版『スターリン全集』が「方針」に訳を固定させているのと比べれば、対照的であ
る。
さらに、ロシア語(『プラウダ』)から直接訳された、蔵原惟人訳・スターリン著「支那
(52)
革命について」(
『支那革命の現段階』1927 年 11 月)には、次のような一文がある
。
反対派の方向がレニニズムの戦術的原則からの離反の方向であると云ふことは、これ
によつて明かではないか?
コミンテルンの方向が、これに反して、この戦術的原則を必ず考慮する方向であると
云ふことは明かではないか?
(53)
これも、『プラウダ』1927 年 7 月 28 日にもとづけば
、линия оппозиции(line of Oppo-
sition)が「反対派の方向」、линия Коминтерна(line of Comintern)が「コミンテルンの
方向」と訳されている。
こののちの 1930 年代初め、ロシア語版『コミュニスト・インターナショナル』1931 年
(54)
1 月 20 日号に掲載された李立三批判の論文が、産業労働調査所
の月刊誌『インタナショ
ナ ル 』(1931 年 3 月 ) に 訳 載 さ れ た と き は、линия は「 方 針 」 と 訳 さ れ、 た と え ば、
полутроцкискую линию т.Ли Ли-сяна は、「同志李立三の半トロツキー的方針」と訳されて
(55)
いる
。
ならば、1920 年代後半以降、ソ連共産党でスターリン派とトロツキーら反対派が闘争
を展開していたとき、それらの文献を日本に紹介していた高山や蔵原ら左翼知識人は、ロ
シア語 линия やドイツ語 Linie の示す〈ライン〉という言葉を、必ずしも一つの単語に集
約させることはしなかった。そのことは、この時点の日本左翼知識人が、ソ連共産党内部
における〈ライン〉の語の政治的機能─党中央の正統性を強調し、反対派に対する糾弾
のレヴェルを上げるレッテルとしての機能を、充分には理解していなかったことを示して
いるのだが、同時に、〈ライン〉の訳語に「路線」や「コース」を選ばなかったことが確
認される。
なお、英語の course にあたるロシア語は курс であり、トロツキーは、Новый курс とい
う著作を発表しているし、スターリンも курс の語を用いている。だが、戦前の日本語版『ス
352
中国共産党史における翻訳概念
(56)
ターリン ブハーリン著作集』では、前者も後者も「方針」と訳されている
。このほか、
同じく「コース」によく似た用語として、
「道」を意味するロシア語の путь、ドイツ語の
Weg があるが、これらは将来に向けて発展する革命の道筋であって、確立された方針を
意味する линия、Linie とは用法が異なっている。
さらに、ドイツ語やロシア語に通じた日本の左翼知識人は、中共党の中国語文献で「路
線」という語を目にしたときも、これを「コース」と訳さなかったし、
「路線」の語をそ
のまま用いることもなかった。
たとえば、『インタナショナル』
(5 巻 1 号、1931 年 1 月)に掲載された「支那に於ける
政治情勢と党の一般的任務」は、中共三中全会「政治状況と党の一般的任務〔総任務〕に
関する決議案」
(1930 年 9 月)を中国語から訳したものと考えられるが、後者に見える、
「中
4
4
4
4
央委員会和共産国際一致的総的政治路線」や「反対動揺党的路線」は、前者では「中央委
4
4
4
4
員会と国際共産党との一致せる一般的政治方針」「党の方針よりの逸脱に対する闘争」と
訳されている。また、三中全会決議では「蘇維埃政府的大政方針」「下層統一戦線的方針」
(57)
ともあって「路線」以外に「方針」の語も用いられているが
、これらはともに、
『イン
(58)
タナショナル』では「方針」と訳されていない
(59)
研究所
。また、同決議は、プロレタリア科学
の『プロレタリア科学』1931 年 2 月号にも、「政治的状勢と党の全任務」として
訳載されており、ここにも「中央委員会とコミンテルンとの一致せる方針」
「党を動揺さ
す方針に反対せよ」とあって、『インタナショナル』と同じく、「方針」の訳語があてられ
ている。
さらに、コミンテルン執行委員会によって 1930 年 10 月に原稿が作成され、11 月 16 日に
上海の中共中央に到着した書簡(以下「10 月書簡」と略称)は、前述のように「李立三
同志の政治路線」の「誤り」を糾弾したものとして知られるが、この書簡を日本に最初に
紹介した『プロレタリア科学』1931 年 4 月号訳載の、
「コミンテルン執行委員会より中国
×××中央委員会への手紙─ 1930 年 11 月 16 日着」
(やはり中国語から訳されたものと
(60)
考えられる
)でも、「方針」が訳語とされている。これを中国語と日本語で対比して示
そう。
「這里在中国革命最重要的時期,有了両条原則上不同的政治路線互相对立」「立三同志
(61)
提出的政治路線」「這是立三同志的一条政治路線」
「ここには中国××の最も重要な時期に於いて、二個の原則的に相違せる政治的方針
の対立があるのだ」「同志李立三の提起した政治方針」「これは同志李立三の政治的方
(62)
針である」
353
江 田 憲 治
このほか、『インタナショナル』5 巻 6 号(1931 年 4 月号)の記事でも、李立三の「半ト
ロツキー主義的方針」が言及されている(53 頁)。
とすれば、前述の筆者の「想定」とは異なり、中国共産党史に関わる日本語文献に見え
る「路線」や「コース」は、ほんらいのロシア/ドイツ語に由来しなかったことになる
(そ
もそもそれは、ロシア/ドイツ語文献では〈ライン〉であった)し、これらの言語に通じ
た左翼知識人は、中国語の「路線」にあっても、「路線」とそのまま表記したり「コース」
と訳したりすることもなかったのである。ならば、
「コース」は、どの言語から日本語に
訳された概念なのか? ロシア語でもドイツ語でもないとすれば、残るのは中国語の「路
線」しかないのではないか。
Ⅱ 中国共産党史における「路線」の登場
─〈ライン〉から〈路線〉へ
次に、「路線」を日本の知識人(左翼知識人・中共研究者)が「コース」と翻訳するま
での経緯の前提として、中共党やコミンテルンの「政治的方針」としての意味での中国語
「路線」は、どのように中共の文献に登場するのか、を検討したい。
まず、革命の前途を問題とする場合、中共の言説でよく用いられたのは、前述のロシア
語文献の путь(道)に相当する中国語「道路」である。その用例は、彭述之の「われわ
(63)
れはなぜ国民党の軍事行動に反対するのか」(1924 年 10 月)
が、「真の革命の道〔道路〕
歩む」と述べているのが初出のようであり、陳独秀の「中央政治報告」
(1926 年 7 月、
「中
(64)
国革命運動の前途に我々は二つの道〔道路〕を見出すことができる」
)
や、瞿秋白の「中
国革命はどのような革命なのか?」(1927 年 11 月、「中国革命は……労働者階級が指導す
(65)
る農民武装暴動が政権を獲得し、社会主義の道〔道路〕を切り開く革命である」)
4
が述
4
べるように、選択されることによって、ある時点から将来にわたって革命が発展し辿るで
あろう進路、道筋(後述するように、当時の日本語で〈コース〉)を語る文脈で中共文献
(66)
に登場したものであった。中国共産党の「時局についての主張」(1926 年 7 月)
が、「国
民会議こそが中国の政治問題を解決する道〔道路〕である」と述べ、中共第五回全国大会
(67)
の「政治情勢と党の任務についての決議案」
が、「中国革命の発展はコミンテルン第 7
回拡大会議の決議案が示した道〔道路〕に符合している」と述べるのも同様の事例である。
では、
「路線」はどのように中共党で用いられるようになるのか。党の公式文献としては、
4
4
1927 年の第 5 回全国大会の「職工運動決議案」に、「国有産業を非資本主義の路線に向け
(68)
て発展させる」とあるのが初出であるが
「路線」に向けての発展とは意味がとりにくい。
、
354
中国共産党史における翻訳概念
これは、その前の段落に、
「中国革命は労農階級の連合政権の下で、非資本主義的前途に
向けて発展するであろう」にある「前途」と同義であり、実際にはロシア語の「道」
(путь)の意味であったと考えられる。
そして、「路線」の語が前述の〈ライン〉の意味ではじめて登場するのが(党の公式文
書ではないが)、蔡和森がモスクワ滞在中の 1926 年 2 月頃、モスクワの中共党支部に向け
(69)
て行った報告「中国共産党の発展史〔中国共産党史的発展〕」
である。蔡和森は、この
とき、中国共産主義者としてはじめて、党の方針=〈ライン〉を意味する語として、この「路
(70)
線」の語を使用したのである (傍点引用者、以下同じ)。
4
4
4
4
4
4
我々は活動の範囲を拡大し、党の政治路線〔党的政治路線〕を継続すべきだ。我々の
4
4
4
4
政治路線〔政治路線〕は帝国主義と軍閥に反対する連合政策であり、党の中心政策で
4
4
4
4
4
4
4
4
4
あり、党の主要な政治路線〔党的主要政治路線〕である。これはプロレタリア革命の
4
4
4
4
時に至るまでそうなのであり、我々はこの政治路線の活動〔這個政治路線工作〕を現
在開始したにすぎない。
前述のように、この報告を蔡和森が行ったときには、ソ連党では〈ライン〉= линия の
語が確立されていた。スターリンはソ共第 14 回大会での中央委員会政治報告(1925 年 12
月 18 日)で、наша линия われわれの〈ライン〉、генеральная линия 全般的〈ライン〉の
(71)
語を用いており
、これは『プラウダ』12 月 20 日、22 日、29 日で公表されている。そし
てまた、翌 26 年 1 月のスターリンの著作にあって、反対派の〈ライン〉が語られていたこ
とも前述したとおりである。初期中共指導者の中でフランス留学派として知られ、ロシア
語をそれほど解さなかったはずの蔡和森は、
おそらく中共モスクワ支部の党員を通して〈ラ
(72)
イン〉の用語を知り、
「路線」と訳して報告に反映させたと考えられる
。中共党史にあっ
て、党の方針=〈ライン〉の意味で最初に「路線」の語を用いたのは、蔡和森であったの
である。
さらに、コミンテルンの
〈ライン〉と旧指導部の
〈ライン〉を対比的に論じ、後者に「日
和見主義の路線」とのレッテルを貼る、すなわち党内闘争における旧指導部攻撃の手段と
して、「路線」の語が用いられたのが、1927 年の「八七緊急会議」においてである。同会
議が採択し、党内誌『中央通訊』第 1 期(1927 年 8 月)に掲載された「中国共産党の全党
同志に告げる書」は、陳独秀の旧指導部を次のように指弾する文言が見える。─「中国
共産党中央のあらゆる活動は、コミンテルン決議案で明々白々に指摘された路線〔国際議
決案上明明白白指出的路線〕とまるきり相反する」ものであった。1927 年 5 月における党
355
江 田 憲 治
中央の主張は、「革命の現段階では共産党の政綱、戦術〔策略〕と全般的政治路線〔一般
4
4
的政治路線〕を適用しない」というものであり、それは「空前の妥協的日和見主義の路線
(73)
〔機会主義的路線〕」であった、と
。
八七会議に出席した李維漢の回想によれば、この「全党同志に告げる書」は、コミンテ
ルン新代表ロミナーゼが起草し、瞿秋白が 8 月 6 日の夕刻から翻訳し、会議で読み上げら
(74)
れて基本採択されたものであった
。したがって、ロミナーゼ起草の原稿にロシア語の
линия =〈ライン〉が用いられていたことはまず確実であるが、瞿秋白がこれを「路線」
と翻訳したとは考えにくい。瞿は、八七会以前の彭述之糾弾の小冊子『中国革命中の争論
(75)
問題』
(1927 年 2 月執筆、4 月配布)や「中国革命中の三大問題」
(同年 5 月 20 日)
では「策
略」「戦術」「方針」「政策」を多用しながら、「路線」は用いていない。
残る八七会議参加者 21 名の中で、ロシア留学の経験を持つものには、
超麟、任弼時、
羅亦農、王一飛、陳喬年を数えることができるが、彼らはスターリンが「反対派のライン」
という言い方で政敵攻撃を始める 1926 年以前の、24 年から 25 年にかけて帰国しており、
糾弾用語としての〈ライン〉についての知識を持っていたとは想定しがたい。このうち
超麟は、1924 年のスターリンが、10 月革命期のトロツキー主義の〈ライン〉とレーニン
主義の〈ライン〉を対峙させた論文を翻訳した際にも、
〈ライン〉を「政策」と中国語訳
している。この事例からすれば、彼らが линия =〈ライン〉の語を知っていたとしても、
これを中国語の「路線」と翻訳した可能性は、決して高いものではない。
確実に、〈ライン〉を「路線」と訳すべきことを知っていたのは、すでに一年以上前に、
モスクワでこの語を用いていた蔡和森である。しかも、今日見ることができる八七会議で
の発言記録(李維漢・ロミナーゼ・毛沢東・鄧中夏・蔡和森・羅亦農・任弼時・瞿秋白)
(76)
の中で、「路線」の語を用いているのは、蔡和森だけなのである
。
とすれば、初期共産党史の中で、陳独秀のような日本留学、あるいは瞿秋白のようなロ
シア留学の経歴を持つものではない、フランス留学派の蔡和森によって、ロシア語〈ライ
ン〉が中国に移植され〈路線〉となったことになる(以下、中国語での「路線」を文献か
らの引用をのぞき、〈路線〉と表記する。
ただし、この「全党同志に告げる書」にあっても、「われわれは新たな道〔新的道路〕
を探さねばならない」「この譲歩と投降の道〔這条退譲投降的道路〕」「これらの日和見主
義の政策〔這些機会主義的政策〕」「党中央の客観的に革命を売った日和見主義政策〔出売
革命的機会主義政策〕
」といった表現もあり、「道路」や「政策」と〈路線〉との区別は、
(77)
判然としない
。さらに、瞿秋白指導部(臨時政治局)の「中央通告第一号」
(8 月 12 日)
4
4
4
4
では、「全党同志に告げる書」の「日和見主義の路線」が「日和見主義の偏向〔傾向〕」と
356
中国共産党史における翻訳概念
なっており、「中国共産党の政治任務と策略の議決案」(8 月 21 日)が語ったのは「本党の
全般的方針〔本党的総方針〕」、1927 年 11 月に開かれた瞿秋白指導部の中央臨時政治局拡
大会議で語られたのも、「労農武装暴動の政策」「現在の情勢における中国共産党の総戦術
(78)
〔総策略〕
」であった
。瞿秋白は、自らの用語を用いつづけていたのである。
こうした状況が一変し、翻訳語〈路線〉の用法が全面的なものとなるのは、モスクワで
開かれた中国共産党第 6 回全国大会を待たねばならない。すなわち、瞿秋白は、1927 年 4
月に大会の政治報告として執筆した「中国革命と中国共産党」では、八七会議の成果とし
て「新たなボリシェヴィキの路線」
「新たな路線」など翻訳された中国語〈路線〉の語を
(79)
多用するようになり
、また、大会の「政治決議案」(1928 年 7 月 9 日)は、
中国共産党第六回大会は以下のことを承認する:当時コミンテルンは中央委員会を飛
4
4
び越えて、直接中国の党員大衆に呼びかけ、党の路線を徹底的に変更し、党の領導機
関を改変することを要求したことは、たしかに正しかった、
(80)
と述べた
(81)
。同決議の第 4 節は、「
(四)革命運動の現実の情勢と中国共産党の総路線」
(82)
とされている。第 5 回全国大会で「党の全般的政策〔党的総的政策〕」 、臨時政治局拡
大会議で「総戦術〔総策略〕」と語られたものが、この大会で「総路線」とされたのである。
それは、具体的には、
「大衆を勝ち取」り、党の主要なスローガンの下に彼らを結集する
4
(83)
ことであった
4
。さらに、同大会の決議案には、「職工運動決議案」の「我々の根本路線
はやはり大企業における革命的組合の結成である」といったように〈路線〉の語がたびた
(84)
び現れ、「政治路線」、「組織路線」といった用語も登場する
。さらに、この第 6 回全国
大会後に党中央が発した文書を見ると、
〈路線〉とは、
「ソヴィエト革命の路線」の下に、
「大
衆を獲得する」という「総路線」があり、その下にさらに「政治路線」
「組織路線」ある
(85)
いは「工作路線」のような下位の概念があったことになる
。ただし、
「党の主要な路線」
を 9 項目にわたって詳述した「中央通告」第 7 号(1928 年 10 月 17 日)が挙げるのは、地
方党組織の日常活動に対する具体的な指針である(「活動の中心および党の力量の集中」
「新
たな基盤の創造と古い基盤の改造」「党のプロレタリア化の主要前提としての党員の職業
化、党の産業化」
「党の政治と大衆を結ぶ紐帯としての支部、プロレタリア党の基礎とし
(86)
ての支部生活」「党員の政治水準の向上」など) 。すなわち、中共第 6 回全国大会で本
格的に導入された〈路線〉は、党中央から地方組織、ソヴィエト革命から日常活動にまで
及ぶ、かなり拡散した党内用語であったことが伺える。
だが、第 6 回全国大会ののち、本来瞿秋白に代わって指導者の立場に就くはずであった
357
江 田 憲 治
蔡和森が党内抗争の結果失脚し、政治局常務委員・宣伝部長となった李立三が党の実権を
掌握した時期、この〈路線〉の用法には二つの変化が現れる。
第一に、1930 年 6 月、前述のように李立三が大都市奪取プランを提起したとき、第 6 回
全国大会で「大衆を勝ち取る」と規定された「総路線」が、大会どころか中央委員会です
らない少数の指導部である政治局決議のレヴェルで変更されたことである。そこで彼は、
「全国武装暴動を組織し政権を奪取する」ことを「党の任務」、武装暴動の組織的技術的準
備を行い、武漢地区での「先駆的勝利〔首先勝利〕」に向けた配備を行うことを「戦術〔策
略〕総路線」、「軍閥戦争を軍閥消滅の戦争と変えること」を「総路線」とし、それはゼネ
スト・地方暴動・兵士暴動の組織、紅軍の都市への積極的攻撃によって実現されるとした
(87)
のであった
。こうした「
(総)路線」の変更は、明らかに李立三の強烈なリーダー・シッ
プのもとに行われたのであるから、
「路線」と指導者個人名が近接し、のちに「李立三同
志の路線」、そして「李立三路線」「立三路線」の語が誕生する布石となる。
また第二に、この間の 1929 年 8 月、陳独秀が党中央に書簡を送ってトロツキズム傾斜を
表明し(除名は 11 月)、中共党内でトロツキストの結集がはじまると、中国共産党中央は、
スターリン・コミンテルンにならって、「コミンテルンの中国革命を指導する路線」と「ト
ロツキズムの路線」の二つを対峙させて後者を糾弾するようになっていた。たとえば、こ
うした糾弾のためのパンフレット『中国革命与反対派』
(上海民志書局、1929 年 9 月)の
(88)
序文
の中で、李立三は、両者の「根本路線の争論」として、「コミンテルンが指導す
る中国革命の路線は、まったくレーニン主義に依拠した植民地に対する民族革命である」
とした上で、国民革命期にまでさかのぼって、
「トロツキズムの路線」を糾弾したのであっ
た。1929 年 10 月の「党内の日和見主義とトロツキスト反対派に反対することについての
(89)
決議」
では、陳独秀グループの主張は、
「明確な公然たる反コミンテルン、反第 6 回大会、
反中央、反党の路線」であるとされた。八七会議での「日和見主義路線」に対する批判は、
「正しい」コミンテルン・党の「路線」を執行しなかったことに加えられたものであった
のに対し、このときはコミンテルン・党と全き対峙をなす「路線」の存在が指摘され、糾
弾されたのであった。さらに、1930 年 1 月、ソ連中国問題研究所で開かれた陳独秀問題に
ついてのシンポジウムでは、はじめて「陳独秀路線」
「陳独秀主義」の語が用いられ、糾
(90)
弾がなされている(後者をはじめて用いたのが、会議に参加していた瞿秋白である) 。
このように見てくるならば、
「八七緊急会議」での端緒を見たロシア・マルクス主義の〈ラ
イン〉=方針の中共党内文献での〈路線〉への翻訳は、第 6 回全国大会で本格的に用いられ、
それは当時「ソヴィエト革命」の実現から、
「総路線」としての「大衆の獲得」
、さらには、
地方組織の日常活動指針に至るまでの、幅広い概念として用いられるものであった。とこ
358
中国共産党史における翻訳概念
ろが、李立三主導の政治局決議が第 6 回党大会決議を覆して、党の大都市奪取こそを「総
路線」とし、また李立三は、陳独秀ら反対派の〈路線〉をコミンテルンの「路線」と対峙
させての糾弾方法を用い、「陳独秀路線」「陳独秀主義」の用語も生まれていたのであるか
ら、前述のコミンテルン「10 月書簡」が「立三同志が提起した政治路線」
〔立三同志提出
(91)
的政治路線〕「立三同志の政治路線」
〔立三同志的一条政治路線〕
を述べたのち、中共
党内で彼に対する糾弾用語「
(李)立三路線」
「(李)立三主義」が誕生することは、必然
的な帰結であったといえる。すなわち、コミンテルンの批判受け入れを決議した 11 月 25
(92)
日の中共政治局決議は、「立三同志の路線」を批判したが
、まもなく、中央機関紙にモ
スクワ留学派が執筆した『紅旗日報』や『実話』掲載の論文では「同志」が省かれ、12
月から翌 31 年初めにかけて「李立三の路線」
「立三路線」さらには「李立三主義」とより
(93)
糾弾のトーンが高い表現が用いられるようになるのである
。
1931 年 1 月 7 日に、コミンテルンのパヴェル・ミフとモスクワ留学派の王明らの主導下
に開かれた中共四中全会が採択した決議案(「中国共産党中央委員会拡大的第四次全体会
(94)
議決議案」
で多用されたのも、これら「立三路線」や「立三主義」であった。陳独秀が、
同じく名指しの糾弾用語(
「陳独秀主義」
「陳独秀路線」
)を浴びたのは、党を除名された
のちであったこと、李立三と同様「左傾路線」が「若干の歴史問題決議」(1945 年)で批
判された瞿秋白や王明にも、名指しの「××主義」や「×× 路線」の非難は浴びせられ
ていなかったことを考え合わせると、党内で「立三路線」
「立三主義」として二重の批判
を浴びた李立三は、中共党史上でもっとも強い指弾をあびた指導者である。そして、これ
以後、
〈路線〉とは、コミンテルン・党中央の正しい〈路線〉とは別に、これに対立する「誤っ
た」党指導者・グループを糾弾する、人名+〈路線〉の用法が確立されたのである。
Ⅲ 日本語文献への「コース」の登場
─〈路線〉から〈コース〉へ
第 1 章でわれわれは、日本語の「コース」や「路線」の語が、ほんらいのロシア/ドイ
ツ語の文献から翻訳されたものではないことを確認し、第 2 章では、中国語の「路線」が
1926 年初頭に初めてロシア語の〈ライン〉から翻訳されたことを見出し、またそれが中
共党史の中でどのように用いられて来たかを辿ってきた。ここで、もう一度繰り返せば、
ロシア/ドイツ語で〈ライン〉=方針を意味する語から、日本語の「コース」や「路線」
が生まれたのではないのであれば、その由来は中国語であったに違いない。とすれば、前
述のように中共党内で第 6 回大会以降の、「路線」の語が多用され、李立三の「路線」が
359
江 田 憲 治
糾弾の用語として党の新聞や雑誌にさかんに登場した時期にこそ、日本の中共党観察者や
左翼研究者たちが、この語に注目したことが想定されるのである。
事実、日本の中国に対する調査・研究機関として知られる満鉄の調査組織の中でも中共
(95)
研究の第一人者であった大塚令三
4
4
が、中共第 6 回大会決議が述べた「中国共産党的総
4
路線」を「党の進むべきコース」と翻訳したのは、1930 年 11 月 22 日の印刷日付を有する大
塚令三『中国共産党組織問題』
(満鉄調査課)においてのことであった(ただし、同書に
(96)
引用されている中共第 6 回大会の諸決議に見える「路線」は「方針」と翻訳されている) 。
ここで大塚が中共用語の「総路線」を「コース」と翻訳した同じ月に、コミンテルンの
「10 月書簡」が中国に到着し、中国共産党の刊行物や四中全会の中で「李立三路線」が糾
弾されていくのだが、大塚は、1931 年 1 月末か 2 月初め、中共中央宣伝部の冊子『国際路線』
(97)
(同年 1 月 25 日刊)
を入手し、そこに「李立三路線」など李立三に対する糾弾の文面を
目にしたようである。彼は、満鉄調査課の綜合資料第 39 号として「中国共産党最近ノ動
(98)
揺ニ就テ」
(1931 年 2 月 18 日)
を作成し、
「李立三路線」を「李立三コース」と翻訳した。
十一月十六日、中国共産党ハコミンテルンカラノ抗議的指令ニ接シタ。…
4
4
4
4
4
4
コミンテルンノ指令ハ、先ツ中国共産党内部ニ於ケル李立三コーストコミンテルン派
コーストノ対立ヲ述ベ、
4
4
「李立三ハ誤謬ニ満チタ而モ完全一系統ヲ造出シマルクス・レーニン主義ノ反対のコー
4
4
4
スヲ定メタ。コノ方略ハ具体的事実及ヒ大衆カラ脱離シ、勢ヒ自己的発展中ニ在ツテ
4
4
自ラ盲動主義、冒険主義策略ニ引導セサルヲ得ナカツタ。コノ方針ハ「左 傾」的空
談ヲ以テ消極主義テハナイヤウニ見セカケタカ、実質的ニハ機会主義テアツタ」ト喝
(99)
破シ、…」
大塚は、中国語の「総路線」を「コース」と訳していたことから(そのときは「進むべ
きコース」であったのだが)
、そしてそれが、「方針」や「方略」を意味することを理解し
ながら、「李立三コース」の語を打ち出したのである。
(100)
そして、ほぼ時を同じくして、1931 年 2 月の中国情報誌『上海週報』
に、大澤太郎「中
国共産党の新方略…李立三コースの失敗、新方略の決定…中国共産党四中全会決議案全文
…」が連載された。奇妙なことに記事のほとんどをしめる「四中全会決議案」の訳文には、
「李立三コース」の語はなく、すべて「
(同志)李立三の方針」
)の語が用いられている。
(101)
これは、大澤太郎(おそらく日森虎雄のペンネーム
)が、中共の文献を入手し、本文
の中で「路線」を「方針」として翻訳したが、大塚が「路線」を「コース」と訳している
360
中国共産党史における翻訳概念
のを知り、表題の副題だけでも「李立三コース」としたのではないか、と考えられる。
(102)
さらに『中央公論』1931 年 4 月号に、田中忠夫が「支那革命の現勢と支那共産党の内訌」
を、
『改造』1931 年 7 月号に大塚が「支那共産党の現勢」を発表したときにも、
「李立三コー
ス」が用いられたことにより、わずか 3 カ月に終わった李立三のプランが、中国で刊行さ
れた日本語文献(満鉄の資料や上海情報誌日本語文献)ばかりか、日本で大きな影響力を
持った一般総合誌にも日本語への翻訳後〈コース〉として登場するのである。波多野乾一
も、外務省情報部から『支那共産党史』(1932 年)を出版したときに、この翻訳動向にし
(103)
たがい、のちには、「『路線』はすなはちコースであ」る、としている
。
しかし、そこには問題はなかったであろうか。
中国語文献によって中共党史を研究していた大塚らにとって、中国語の「路線」がロシ
ア語の линия〈ライン〉に由来することなど知るよしもなかったであろうが、当時の日本
(104)
語での「路線」とは、交通機関のそれを意味するものだったから
、大塚はこれをその
まま用いることを避け、当初(1930 年 11 月)は中国語の〈路線〉を「方針」
、総〈路線〉
を「コース」と訳し分けた。大塚はこのとき「コース」を「進むべき」ものとしたが、こ
れは、
「進路」の意味で用いていたと考えられる。実際、当時の新聞報道で「コース」は、
到着・目的地がはっきりしている「進路」─飛行機・気球のコース、ボートレース、ス
(105)
キー、マラソン、ゴルフなどについてのものにしか登場しない
。1930 年前後の現代用
語辞典や英和辞典の事例を見ても、
「学科、科程」のほか、主要には「競走進路」
「前進、
(106)
行進」
「行程、道程、過程」などの訳語が与えられている
。一方で、大塚や田中、大澤、
波多野の論文・著作には、「コース」の同義語に「方針」「方略」の語が用いられてはいる
のだが、同時に彼らは、「歩むべきコース」(大塚)、「コースを走り」(田中)とも述べ、
当時の日本語「コース」の語感を反映している(波多野も、何の説明もなしに、「『路線』
はすなはちコースであ」ると述べているから同様である)
。したがって、日本語の「李立
三コース」に見られるの「コース」とは、
「方針」と「進路」の両義性を有するものであっ
たと言える(この日本語への翻訳語を以下、
〈コース〉と表記する)。このことは、後年の
中西功(中国共産党員・のち日本共産党員)があらわした『中国共産党史』が、同じ〈コー
ス〉の語を以て、「中国ブルの政治コースに妥協コースと革命コース」がありと述べる一
方で(「コース」=進路)、中共の用語である「総戦術路線」を「総戦術コース」
(「コース」
(107)
=方針)と訳していることについても指摘できる
。
したがって、この日本語の翻訳概念〈コース〉には、以下の三つの問題点を指摘できる。
第一に、繰り返すことになるが、共産主義者が用いる政治用語、将来に向けての革命の
「道程、進路」を表す用語としては、中国語の「道路」、ロシア語の путь が存在していた。
361
江 田 憲 治
〈コース〉への翻訳は、中西の場合に見られるように、中共の政治用語としての「道路」
と「路線」が翻訳上区別できなくなることを招くものであった。
第二に、一方で、中国語の〈路線〉、ロシア/ソ連党で用いられた〈ライン〉とは、過
去から現在にいたる党内の確立されたことを含意していた─確立されているからこそ、
これから逸脱しあるいは、これに反対する党内の他者を批判しうる─「方針」のことな
のである。ところが、日本語の「コース」には前述のように政治的規範性が希薄であり、
〈コー
ス〉と称されることで、ほんらい〈路線〉が糾弾用語としても機能するものであった事実
は、意識されることがなかった。
第三に、日本語の「コース」には、「進路」の意味を有するがゆえに、一定のタイム・
スパンを有する語感がともなっていた。戦前の著作である『中国国民党と汪兆銘コース』
でいうところの「汪兆銘コース」とは、1938 年の重慶脱出から 40 年の政権樹立までの汪
(108)
兆銘の政治的道程を指すものとして用いられており
、ドイツ語から翻訳されたコーリ
ン・ロスのいう「アメリカの運命論的コース」とは、
「世界征服」に向けてのアメリカ合
衆国の道のりであって、明記されてはいないが、数年から十数年のものと推測できる文脈
(109)
で語られている
。日本の傀儡国家「満洲国」にあって弾圧された佐藤大四郎(元日本
共産青年同盟員)の率いる「北満型合作社運動」は、浜江省を中心に展開されたがゆえに、
関東憲兵隊や「満洲国」検察庁の文書では、「浜江コース」とよばれたが、これも 1937 年
から 40 年までの数年間のものである。こうした日本語の〈コース〉の語感は、戦後の石
川忠雄の『中国共産党史の研究』(1959 年)が、「李立三コース」を 1930 年 6 月以前の期
間を含めてより長期な「都市工作重点主義」として考察し、
「毛沢東コース」と対比させ
(110)
るといった、過大評価につながっているように思われる
。
1930 年代にたちもどれば、〈コース〉の登場は、ほんらいのロシア語やドイツ語の〈ラ
イン〉=中国語の「路線」を、
「方針」と訳していた日本の左翼研究者にも一定の影響を
あたえたようである。
前述のように、1920 年代では左翼研究者の間でスターリンが用いた〈ライン〉は多様
に訳されていたが、1930 年頃から「方針」への集約が進み、産業労働調査所の『インタ
ナショナル』1931 年 1 月号や 4 月号、プロレタリア科学研究所の啓蒙誌『プロレタリア科学』
1931 年 4 月号では、中国語の〈路線〉も、「方針」と訳されていた。鍋山貞親・佐野学ら
の公判での発言に見られるように、日本共産党が用いたのも「方針」であり、
「コース」
が用いられる場合は、「全日本学生社会科学連合会研究コース」のように、マルクス主義
(111)
の学習「課程」を意味していた
。
ところが、1931 年 5 月、プロレタリア科学研究所が研究誌として新たに創刊した『プロ
362
中国共産党史における翻訳概念
レタリア科学研究』第一輯所収の中国問題研究会「中国における政治的危機の分析並びに
其の極左的評価に対する批判」は、
「最近における最も大規模な、また典型的な極左的偏向」
として中国において『李立三主義』或は『李立三的方針(コース)』と呼ばれてゐるもの」
を挙げ、「李立三的コース」の語が繰り返し登場する。
ただし、
「コース」概念の日本語文献への登場後も、左翼研究者たちが、この「コース」
に限定的な態度をとったことも確かである。たとえば、
『プロレタリア科学研究』第一輯
の論文の、
「四 李立三的方針と中国革命発展の不均衡(稼薔)」「五 李立三主義の実際
的運用」(前述の稼薔「李立三路線与中国革命発展的不平衡」、洪易「李立三主義在順直的
実際運用」の翻訳)では、なお「李立三的方針」が用いられている。また、
『インタナショ
ナル』5 巻 12 号(1931 年 11 月)が、中共機関誌『紅旗週報』1931 年 5 月 27 日掲載の「当
面の政治情勢と中共党の緊急任務についての決議」を訳載したとき、中国語の〈路線〉は
(112)
やはり「方針」に訳され、「立三路線」は「立三主義」に無理に訳されている
。このほ
か、『プロレタリア科学研究』第三輯(1931 年 12 月)の中国問題研究会「李立三コースに
関するコミンテルン執行委員会の討論」は、中共理論機関誌『布爾塞克』4 巻 3 期(1931
年 5 月 10 日)掲載のコミンテルン執行委員会主席団「立三路線に関する討議」に「解説」
を付け、会議での発言を「テーマ別に」整理抜粋したものであるが、李立三の発言に見ら
(113)
れる〈路線〉は、「方針」と「コース」の両様に訳されている
。1927 年頃から 30 年に
かけての翻訳活動の結果、ロシア/ドイツ語の〈ライン〉を「方針」と訳することに傾斜
していた日本の左翼研究者たちにとって、進路の語感をもつ「コース」を、
「方針」と入
れ替えてしまうことへの逡巡があったのである。しかし、左翼翻訳者たちの影響力は、日
本共産党の壊滅、左翼諸団体への弾圧の結果、中国共産党文献の翻訳史上では、影響力を
失うことになる。波多野や大塚らの、そして中西功によってさえも、〈コース〉が〈路線〉
の訳語として、1970 年代から 80 年代までの中共関連の著作に登場し、「李立三コース」な
どの語がさかんに使われ、さらに「王明コース」や「毛沢東コース」が語られることにも
(114)
なったのである
。
お わ り に─〈路線〉から「路線」へ 最後に、今日では、中共党史研究の中で〈コース〉の語が用いられることは、ほとんど
(115)
なく(その最後の事例は、おそらく、横山宏章『陳独秀』(1983 年)であろう
)、「李
立三コース」は、「李立三路線」と表記されていることの事情を考えてみたい。
〈路線〉を
「路線」と表記することは、日本国際問題研究所編日本語部会『中国共産党史資料集』や
363
江 田 憲 治
(116)
宇野重昭『中国共産党史序説』(1974 年)
(117)
の刊行の頃から、一般的になっている
。
このことの背景として重要なのは、日中戦争期、日本の新聞が中国語の「路線」をその
まま翻訳なしに記事や社説の中で表記したことである。たとえば、
『朝日新聞』の 1938 年
10 月の記事は、「蔣政権の外交路線」の語を香港の国民党系雑誌から引用しており、同紙
の 1938 年 11 月や 40 年 10 月の記事では、援蔣ルートのうち、西北ルートやビルマ・ルート
(118)
が「赤色路線」「緬甸路線」とよばれている
。同様の事例は、1939 年から 1945 年にか
(119)
けての『読売新聞』にも見ることができ
4
4
4
、さらに同紙 1945 年 7 月 3 日には「米の対中
4
2 路線 延安紙 ハーレー路線痛論」の記事があり、同年 7 月 14 日の社説「宋子文の役割」
4
4
には、「アメリカは今春対支政策をラテイモア・ステイルウェル路線、すなはち国共統一
4
4
路線から転換して重慶重点主義に改変した」とある。すなわち、抗日戦争期には、中国語
の「路線」は、「ルート」や外交「路線」の意味にまで拡張されて中国の雑誌や新聞に登
場し、それを日本の新聞がそのまま表記するに至っていたのである。
ただし、中国共産党が用いていた意味での、党の方針の意味での〈路線〉が政治的な意
味で用いられるようになるのは、戦後になってのことのようである。そこで注目されたの
は、毛沢東の「大衆路線」である。日本共産党の機関誌『前衛』には、1951 年から翌年
にかけて、「農民闘争の大衆路線」
「大衆路線による公然性(合法性)の拡大と発展」
「大
衆路線の確立のために」「組合活動の大衆路線の具体化のために」といった論文・記事が
(120)
掲載され
、日共東京都委員会は、1951 年、劉少奇『大衆路線を論ず』を出版している。
このほか岩波書店の雑誌『世界』1952 年 1 月号には、「中共の力と「大衆路線」
」の記事が
掲載され、1957 年、宮本顕治は『前衛』掲載の論文で、中共第 8 回大会を「真の大衆路線」
(121)
として、ソ共第 20 回大会に劣らない重要なものと礼賛している
。その後も、日本共産
党の中で「路線」の用例はつづき、1960 年代にかけてソ連共産党を批判する際の用語と
して、あるいは日共指導部を批判する際の用語としても「路線」が用いられたが、これら
(122)
は中国語の〈路線〉が日本語の政治用語として全く定着したことを示している
。1961
年の第 8 回党大会は、いわゆる日本共産党の「自主独立路線」を確立したものとされ、
1976 年の「自由と民主主義の宣言」の発表の際には、同宣言は、
「1961 年の第 8 回大会以
4
4
(123)
来発展させてきた路線と政策の当然の結実」と位置づけられたのである
。
こうした状況を背景に、日本における中共党史研究者は、1970 年代をほぼ境として、
中国語の〈路線〉を「路線」と表記するようになった。
本稿が述べてきたように、この〈路線〉とは、ロシア/ソ連共産党における党内闘争に
あって、党中央の方針に対し、トロツキーら反対派の方針が対立し背いていることを糾弾
する際に用いられた〈ライン〉が原点であった。この語の用法は、日本にあっては当初あ
364
中国共産党史における翻訳概念
まり理解されていなかったが、左翼研究者は、1930 年代初めにいたって、「方針」との訳
語をほぼ定着させる。一方、中国では、党の 1926 年に蔡和森がこれを「路線」として紹
介し、1927 年の八七緊急会議をへて、1928 年の第 6 回党大会以後、党内用語〈路線〉とし
て普及し、トロツキスト、そして李立三への糾弾にも用いられた。この李立三批判のさい
に生まれた「李立三路線」は、日本の左翼観察者の大塚令三らによって〈コース〉と翻訳
され、日本の中共党史に大きな影響を与えたが、日中戦争期から戦後初期にかけて、
〈路線〉
は日本語で「路線」と表記することが進み、外交、ついで党の政治方針についても、用い
られるようになる。そして、今日の中共党史は「路線」を用いているのである。
これが、1920 年代半ばに政治用語として生まれたロシア語の линия =〈ライン〉が、中
国語〈路線〉をへて、1970 年代に日本語「路線」として定着するまでに辿ったコースで
あった。
註 (1)中国におけるマルクス主義の受容を「知の革命」とよぶことについては、石川禎浩「マ
ルクス主義の伝播と中国共産党の結成」(『中国国民革命の研究』京都大学人文科学研究所、
1992 年)を参照。
(2)独秀「造国論」『嚮導』2 期、1922 年 9 月 20 日。
(3)「軍政府宣言」広東省社会科学院歴史研究所他編『孫中山全集』第 1 巻、1986 年、296 頁。
(4)「中国国民党第一次全国代表大会宣言」『孫中山全集』第 9 巻、118 頁。
(5)屈維它(瞿秋白)「自民治主義至社会主義」
『新青年(季刊)』2 期、1923 年 12 月;彭述
之「誰是国民革命之領導者」同 4 期、1924 年 12 月;瞿秋白『中国革命中之争論問題』1927
年 2 月(中共中央書記処編『六大以前─党的歴史材料』人民出版社、1980 年、所収);中
央檔案館編『中共中央文件選集』第 3 冊、中共中央党校出版社、1989 年、50 頁;同第 4 冊、
301 頁。
(6)張慰慈訳「俄羅斯蘇維埃政府」『新青年』8 巻 1 号、1920 年 9 月。
(7)『六大以前』717 頁。
(8)中共中央政治局「関於“左派国民党”及蘇維埃口号問題決議案」(1927 年 9 月 19 日)『中
共中央文件選集』第 3 冊、370–371 頁。
(9)「蘇維埃政権的組織問題決議案」『中共中央文件選集』第 4 冊、391–392 頁。
(10)毛沢東「新民主主義論」『毛沢東選集(一巻本)』人民出版社、1969 年、636 頁。
(11)「Bolshevism 的勝利」「俄羅斯革命之過去、現在及将来」(1921 年 3 月)『李大釗全集』第
3 巻、河北教育出版社、1999 年、106–107,605–611 頁。
(12)『瞿秋白文集』政治理論編 4、人民出版社、1993 年、434,510 頁。
(13)王明(陳紹禹)
『為中共更加布爾什維克化而闘争』
『中共中央文件選集』第 7 冊、585–744
頁。
(14)コミンテルン第 5 回世界大会「ロシア問題についての決議」村田陽一編『コミンテルン
365
江 田 憲 治
資料集』3、大月書店、1980 年、129 頁;スターリン「国際情勢について」
(1924 年 9 月)『ス
ターリン全集』第 6 巻、305 頁;Сталин, Сочинени , т6, стр. 293.
(15)『中共中央文件選集』第 1 冊、325 頁。
(16)瞿秋白「列寧主義与杜洛茨基主義」,鄭超麟「列寧与職工運動」『新青年』1 号、1925 年
4 月。
(17)『六大以前』718 頁。
(18)中国共産党中央執行委員会「告全党党員書」中共中央党史資料徴集委員会・中央檔案館
編『八七会議』中共党史資料出版社、1986 年、26 頁。
(19)姚康楽「対陳独秀右傾機会主義路線的形成問題」『党史研究』1980 年 5 期;戴鹿鳴「関
於陳独秀右傾機会主義路線的形成問題」『教学与研究』1980 年 5 期;向青「陳独秀右傾機会
主義路線和共産国際関於中国革命的政策」
『陳独秀評論選編』下冊、河南人民出版社、1982 年、
所収。
(20)
「在外地巡視期間同沿途各地負責人談話紀要」
『建国以来毛沢東文稿』第 13 冊、中央文献
出版社、1998 年。
(21)周恩来「在中国共産党第十次全国代表大会上的報告」『人民日報』1973 年 9 月 1 日;謝遠
学主編『中国共産党歴史紀実』第 8 部中巻、人民出版社、2003 年 7 月、999 頁。
(22)この「李立三コース」を 6 月 11 日決議に始まるとする点については、前掲石川忠雄『中
国共産党史研究』の主張に従っておく。
(23)村田陽一編『コミンテルン資料集』では 6 月、中央檔案館編『中共中央文件選集』第 6 册、
583 頁では 7 月 23 日。
(24)『中共中央文件選集』第 6 册、283–284 頁。
(25)『中共中央文件選集』第 6 册、645,650–651 頁。
(26)Jane Degras, The Communist International, 1919–1943, vol. 3, 1929–1943, Frank Cass and Co.
Ltd, 1971, pp. 135–141.
(27)中国語版は、中共中央党史研究室第一研究部訳『聯共(布)、共産国際与中国革命文献
選集』
(中央文献出版社、2002 年)。
(28)ВКП (б), Коминтерн и советское движение в Китае 1927–1931, с. 1044;『聯共(布)、共産
国際与中国革命文献選集』9、366 頁。
(29)スターリン「ロシア共産党(ボ)第 13 回協議会」『スターリン全集』第 6 巻、51 頁;
Сталин, Сочинени , т. 6, с. 38.
(30)Сталин, Сочинени , т. 7, с. 298–99;『スターリン全集』第 7 巻、304–305 頁。
(31)Сталин, Сочинени , т. 8, с. 8;『スターリン全集』第 8 巻、115 頁。
(32)なお、党中央の「方針」を単独にあげる用法(「中央委員会の方針」『スターリン全集』
第 6 巻、24 頁)は 1924 年から行われ、スターリンは、「トロツキー主義かレーニン主義か」
(『スターリン全集』第 6 巻、364–365 頁;Сочинени , т. 6, с. 349–350)で、トロツキー主義とレー
ニン主義を対比させ、10 月革命期にあって両者は「二つの対立する方針〔линия〕」であっ
たとしているが、これは 10 月革命期について述べたものであって、当該段階でのトロツキー
の主張を、中央やレーニン主義と対立するレヴェルのものまで引き上げて非難したもので
はない。ここでの линия を中国共産党の機関誌では「政策」と訳している(鄭超麟訳「托
洛茨基主義或列寧主義」
『新青年』2 号、1925 年 6 月、48 頁)。
(33)佐野学・西雅雄編『スターリン ブハーリン著作集』第 12 巻「レーニン主義の為の闘争」
366
中国共産党史における翻訳概念
白楊社、1928 年 10 月。
(34)Internationale Presse-Korrespondenz, Nr. 129, 29. Oktober, S. 2215.
(35)Сталин, Сочинени , т. 8, стр. 231.
(36)『スターリン全集』大月書店、1952 年 6 月、264 頁。
(37)Internationale Presse-Korrespondenz, Nr. 139, 15. Noveber, S. 2393.
(38)Сталин, Сочинени , т. 8, стр. 234.
(39)『スターリン全集』第 8 巻、269 頁。
(40)Internationale Presse Korrespondenz, Nr.139, 15. Noveber, S. 2395.
(41)Сталин, Сочинени , т8, стр. 242.
(42)『スターリン全集』第 8 巻、277 頁。
(43)Internationale Presse-Korrespondenz, Nr. 139, 29. Oktober, S. 2399.
(44)Сталин, Сочинени , т. 8, стр. 261.
(45)『スターリン全集』第 8 巻、299 頁。
(46)Internationale Presse-Korrespondenz, Nr. 139, 29. Oktober, S. 2401.
(47)Сталин, Сочинени , т. 8, стр. 268.
(48)『スターリン全集』第 8 巻、306 頁。
(49)Internationale Presse-Korrespondenz, Nr. 139, 29. Oktober, S. 2401.
(50)Сталин, Сочинени , т. 8, стр. 270.
(51)『スターリン全集』第 8 巻、311 頁。
(52)スターリン著・蔵原惟人訳『支那革命の現段階』希望閣、1927 年 11 月 13 日発行、27 頁。
(53)Правда , 28 илюя 1927 г. なお、Сталин, Сочинени , т. 9, стр. 348 を参照した。
(54)全鉱夫総連合会の調査部を受け継ぎ、日本労働総同盟の援助を得て 1924 年発足(主事野
坂参三、所員赤松克麿、加藤勘十ら)1926 年 11 月、月刊『インタナショナル通信』を創刊
(1927 年 2 月『インタナショナル』と改題)
。労農党分裂や福本イズムの台頭で左翼に急傾
斜し、日本共産党の附属機関化する。1928 年の三・一五事件での機能停止ののち、1929 年
春に再建され、以後も左翼的調査機関として活動したが、官憲の弾圧と財政難で 1933 年 5 月、
事実上機能を停止(『日本近現代史辞典』東洋経済新報社、1978 年、258 頁)
。
(55)B. クチュモフ「ボリシシエーキ化のための闘争に於ける中国共産党」
『インタナショナル』
5 巻 5 号、1931 年 3 月、48 頁;Коммунистицеский Интернационал , 20 Января 1931 г., с. 40.
(56)ブハーリン著・三好信訳「打倒分派主義」
(『スターリン ブハーリン著作集』第 13 巻、
1929 年 12 月、40 頁)は、トロツキーの著作 Новый курс を「新方針」と訳している(なお、
同書が 1989 年に藤井一行の訳で柘植書房から刊行されたときの書名は、
『新路線』である)
。
また、スターリンの курс の事例は、1927 年 8 月 1 日「国際情勢について」(『スターリン
ブハーリン著作集』第 16 巻、1929 年 12 月)に見られ、これも「労働者および農民を ××
せしむる方針、農民委員会を××せる自衛組織を持て確固たる ×× 機関に転化せしめる
方針等々が定められねばならぬ」とある(415 頁)。ロシア語は、Сталин, Сочинени , т. 10,
с. 20 を参照。
(57)なお、今日の中国語の用法では、2001 年 7 月 1 日、江沢民が「在慶祝中国共産党成立
八十周年大会」(『人民日報』2001 年 7 月 2 日)で「党的理論、路線、綱領、方針、政策和各
項工作」と述べているように、「理論」→「路線」→「綱領」→「方針」→「政策」の順位
である。
367
江 田 憲 治
(58)『中共中央文件選集』第 6 冊、282,284,292,295 頁;『インタナショナル』5 巻 1 号、
1931 年 1 月、95,93 頁。
(59)1929 年 9 月、マルクス主義にもとづく研究・啓蒙を行うため、ソヴィエト文化普及を目
(所長秋田雨雀)を解体し、あらためて秋田を所長、羽仁五郎、
的とした「国際文化研究所」
蔵原惟人、三木清、野呂栄太郎らを所員として、情勢のマルクス主義的分析、大衆的啓蒙
のために設立された研究機関。プロレタリア文化連盟(コップ)の中核団体として機能し
たが、1935 年末、実質的に壊滅状態となる(『日本近現代史辞典』594 頁)。
(60)この「10 月書簡」は『中共中央文件選集』第 6 册に収録され(644–655 頁)、出典は「中
宣部『国際路線』1931 年 1 月 25 日」と記されている。そして書簡の冒頭には、「伍豪同志報
“after
告之后」とあるのだが、これを、Jane Degras の前掲書 The Communist International は、
the report of Comrade M[if]”と訳している(p. 137)。しかし、実は、この「M」とはコミ
ンテルンの中国専門家パヴェル・ミフではなく、当時 Москвин を暗号名としていた周恩来
を指し、「伍豪」はその中共党内での別名である(
(ВКП(б), Коминтерн и советское движение
в Китае , 1927–1931, ч. 2,
2 с. 1041;中共中央党史研究室第一研究部訳『聯共(布)、共産国際
。
与中国蘇維埃運動(1927–1931)》9、中央文献出版社、361 頁)
したがってデグラスが典拠としたロシア語資料集(
(Стратегия и тактика Коминтерна в
националъно-колониалЬной революции на примере Китая )も、コミンテルン 10 月書簡の中
国語テキストからの翻訳を収録したものであることは前述したが、この中国語テキストに
は「M 同志」とあったものと思われる。『共産国際有関中国革命的文献資料』(第 2 輯、
1929–1936、中国社会文献出版社、1982 年)収録の「10 月書簡」も、「M 同志」とした上で、
「即伍豪」との編訳者による注記が付されている(103 頁)。しかし、中共中央宣伝部は、
『国
際路線』刊行の際、「M 同志」を「伍豪同志」と改めた。
「M 同志」とすれば、これが誰の
ことか党内でもわからないからである。そして『プロレタリア科学』の日本語訳にも、
「同
志伍豪の報告の後」とあるから、
この日本語訳は、
『国際路線』から翻訳されたと考えられる。
(61)『中共中央文件選集』第 6 册、644–645,650 頁。
(62)『プロレタリア科学』1931 年 4 月号、44–45,48 頁。
(63)『嚮導』85 期、1924 年 10 月 1 日。
(64)『中共中央文件選集』第 2 冊、170 頁。
(65)『布爾塞克』1 巻 5 号、1927 年 11 月 21 日。
(66)『嚮導』163 期。
(67)『中共中央文件選集』第 3 冊、48 頁。
(68)『中共中央文件選集』第 3 冊、74 頁。
(69)中央檔案館編『中共党史報告選編』中共中央党校出版社、1982 年、670–730 頁。蔡和森
はこの報告の中で、「一九二六年国民党第二次代表大会的成功」に言及しており、国民党第
2 回大会が閉幕したのが 1926 年 1 月 19 日であるから、蔡和森の「中国共産党史的発展」は、
1926 年 2 月以降の成立と考えられる。
(70)『蔡和森的十二篇文章』人民出版社、1980 年、67 頁。
(71)Сталин, Сочинени , т. 7, с. 299.
(72)なお、中共モスクワ支部と関係が深かった中山大学国際評論社がガリ版で出版していた
週刊誌『国際評論』
(中共中央党校出版社、1981 年)収録の 1926 年 9 月 23 日から 1926 年
6 月 5 日までに 35 期 + 特刊 3 期)の記事(論文)には、次のような「路線」の使用例を見る
368
中国共産党史における翻訳概念
ことができる(各論文は、それぞれ『プラウダ』4 月 10 日,4 月 21 日,5 月 8 日掲載)
。
・馬丁諾夫「中国革命問題」(第 34 期、1927 年 5 月 27 日、『国際評論』復刊本、471 頁)
第三国際第七次拡大会議的這条路線并不満足反対派中諸同志。在他們看来、這条路線太
不“左”了。……幸而中国共産党、……没有聴従反対派的這種勧告、決定依照第三国第二
次大会決議中所発展出来的第七次拡大会議的的路線走去了,這種策略的結果、我們看到了。
・斯大林「中国革命問題」
(特刊(三)1927 年 6 月 5 日、同前書、581 頁)
大家知道,当時聯共(布)中央認為“必須執行把共産国際保留在国民党的路線”,応当“時
時国民党右派退出国民党或把他們开除出去”(一九二六年四月)。
這条路線時革命進一歩展開,使左派与共産党人在国民党内和国民政府内親密合作,……
后来的事件完全証実了這条路線的正確性。……
・阿意韓范特「共産国際対中国革命的策略」
(同前,同前書、588–589 頁)
処在這様的状况下、共産国際的策略、在中国革命発展的過程中、在一步步前進的過程中、
採取了怎様的路線呢 ?
反対派説:
“無産階級運動要有独立性、但中国共産党都没有這種独立性、它依照共産国際
的路線不願意退出国民党,和他們破裂組織上的聯合,”反対派絶対不明了什么是無産階級運
動実際上的独立。
(73)『中共中央文件選集』第 3 冊、274–276 頁。
(74)李維漢『回憶与研究』(上)中央党史出版社、1986 年、164 頁。
(75)『六大以前』670–736 頁。
(76)『八七会議』48–74 頁。
(77)『中共中央文件選集』第 3 册、261,277,287–88 頁。
(78)
『中共中央文件選集』第 3 册、435,445,455 頁。八七会議後の「中央通告」第 1 号(8 月
12 日)では、
「策略」や「政策」が多用されているのに対し、
「路線」の語は一度しか登場
していない(
『中共中央文件選集』第 3 册、311-314 頁)。このほか、
「中央通告」第 2 号(8
月 19 日)には、
「這次緊急会議所指出的政治路線」とあり(『八七会議』122 頁)、同 15 号(同
11 月 1 日)には、
「我党的職任、便是指示工農群衆以正確的革命的路線」
(『中共中央文件選集』
第 3 册、435 頁)ともあるが、こうした例は多くはない。
(79)『瞿秋白文集』政治理論編 5、341–515 頁。
(80)『中共中央文件選集』第 4 册、306 頁。
(81)『中共中央文件選集』第 4 册、309 頁。
(82)『中共中央文件選集』第 3 册、74 頁。
(83)『中共中央文件選集』第 4 册、314 頁。
(84)『中共中央文件選集』第 4 册、381,430,451 頁。
(85)
「ソヴィエト革命の路線」は『中共中央文件選集』第 4 册、561 頁、
「工作路線」は同 661 頁。
(86)『中共中央文件選集』第 4 冊、643–652 頁。
(87)
「新的革命高潮与一省或幾省首先勝利」
(1930 年 6 月 11 日政治局採択)
『中共中央文件選集』
第 6 冊、128–129 頁。
(88)『共産国際、聯共(布)与中国革命文献資料選輯』第 6 巻、384–395 頁。
(89)『中共中央文件選集』第 5 冊、504 頁
(90)『共産国際、聯共(布)与中国革命文献資料選輯(1926–1927)』(下)402,423 頁。
(91)『中共中央文件選集』第 6 冊、645,650 頁。
369
江 田 憲 治
(92)『中共中央文件選集』第 6 冊、501 頁。
(93)稼薔「中国革命中的両条政治路線─共産国際的路線与李立三的路線」
『実話』第 2 期、
1930 年 12 月 9 日。
韶玉「立三路線与戦後資本主義第三時期」『実話』第 3 期、1930 年 12 月 14 日。
洪易「李立三主義在順直的実際運用」『実話』第 3–4 期、1930 年 12 月 14,21 日。
洪易「加緊在実際工作中反対立三路線」(社論)『紅旗日報』1931 年 1 月 4 日。
稼薔「立三路線与中国革命発展的不平衡」『実話』第 5 期、1931 年 1 月 5 日。
(『紅旗日報』
『中央档案館館藏革命歴史資料作者篇名索引』中央中央文献出版社、1990–
1991 年、第 1 册、284,235 頁;第 4 册、764–765 頁)。『実話』は、『紅旗日報』の公告によ
ると「随報附送」された「五日刊」附録紙)。
(94)『反対李立三主義』国家聯合出版部遠東分部、1931 年、20–30 頁。
(95)大塚令三(1901–1952)。1920 年、満鉄に入社、橘樸に師事、のち上海事務所調査室にう
つり、中国共産党を調査し、満鉄調査組織の中でも中共研究の第一人者と知られるように
なる。その文章は、『支那共産党史』上・下(生活社、1940 年)に収録されている。このほ
か、昭和 6 年大連で創刊された『満洲評論』の刊行に協力した。
(96)小沼書店、1971 年 7 月復刻、3,12,24 頁。
(97)同書が 1931 年 1 月 25 日に刊行されたことは、
『中共中央文件選集』第 6 冊、665 頁。その
全文は未見だが、ハバロフスクで 1931 年に刊行された『反対李立三主義』には、コミンテ
ルンの「10 月書簡」や四中全会決議のほか、羅邦特「四中拡大会議的意義」や王明、王稼祥、
洪易らの文章を、
『実話』から収録している(そのほか、瞿秋白、張国燾、向忠発のものも)。
『国際路線』の構成もそのようなものであったと考えられる。
(98)JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074564300(外務省外交史料館)。
(99)中宣部『国際路線』の大塚訳の該当部分は以下の通り(『中共中央文件選集』第 6 冊、
645 頁)
。
他造出了許多錯誤観点的整個系統、定下反対馬克思列寧主義的方針。這個方針、脱離了
具体的事実,脱離了群衆。自然,不能不在自己的発展中,引到盲動主義冒険主義的策略。
雖然用“左傾”的空談蓋這消極、実際上亦是機会主義,…
(100)『上海週報』863–864 号(1931 年 2 月 5–20 日)。
(101)当時、日本人中共観察者として活躍していたのは、前記満鉄の大塚令三、同じく満鉄の
田中忠夫、
『時事新報』北京特派員でのちに外務省嘱託となる波多野乾一、そして中共情報
収集の「研究所」を創設し、その「日森情報」で知られる日森虎雄(1899–1945)らであるが、
このうち大塚が「大澤太郎」であるとすれば、すでに「路線」を「コース」と訳している
彼が、ここで「方針」とするのは、不自然である(後述するように、田中忠夫も同様)。また、
1929 年には帰国して東京の『時事新報』社の論説委員になった波多野が、1931 年 1 月 24 日
乃至 25 日に公表された「四中全会決議案」(同決議案の『実話』掲載は 1931 年 1 月 24 日付
第 7 期〔『紅旗日報』1931 年 1 月 30 日広告参照〕、収録が確認できる『国際路線』が 1 月 25
日の刊行〔『中共中央文件選集』第 6 冊、655 頁〕である)をもとに、2 月 5 日付の『上海週報』
に掲載することは時間的に無理と思われる。
これに対し、日森虎雄は上海在住であり、
『上海週報』に寄稿していたこと、大塚令三と
も交流があったことが知られている人物である(大塚に中共資料を提供している)。ならば、
「大澤太郎」とは、日森虎雄のペンネームであったろう。彼は、
『実話』1931 年 1 月 24 日か『国
370
中国共産党史における翻訳概念
際路線』(1 月 25 日刊)を入手し、その翻訳にあたった。ところが、『上海週報』への入稿
時に、大塚令三が「路線」を「コース」と訳しているのを知り、表題の副題だけでも「李
立三コース」としたのではないか。そして、波多野乾一は、1932 年に外務省情報部から『支
那共産党史』を刊行する際、これをそのまま収録したのである(だから、同書のほとんど
では、「路線」は、「コオス」と翻訳されているにもかかわらず、この中共四中全会の決議
文(552–560 頁)では、「方針」とある)。
(102)なお、この田中論文は、
「一九三一、二、六」の脱稿日付が付されている。誤植でなけ
れば、「李立三コース」の最も早い用例である。
(103)波多野乾一『支那共産党史』外務省情報部、1932 年、489,513–514,537,548–552 頁;
同『中国共産党 1934 年史』外務省情報部、1935 年、399 頁。
(104)1926 年から 1945 年までの朝日新聞の記事見出しに登場する「路線」は約 190 回登場して
いるが、その殆どが交通機関、すなわち、鉄道(路線電車・地下鉄を含む)道路・バス・
船舶航路・航空路についてのものである。
(105)『朝日新聞』データ・ベース「聞蔵Ⅱ」による。
(106)英文大阪毎日学習号編輯局『英語から生れた現代語の辞典』(第百五版、1930 年 6 月、
大阪出版社)には、
「①学科、科程、②競走進路」とあり、市河三喜他編『大英和辞典』(冨
山房、1931 年)には、「①前進、行進、進行、進出、進走、②進み方、進程、進行、経過、
経歴、成行、③(a)進路、行程、
(b)水路、航路、
(c)走路、競走場、競馬場、
(d)針路、
(e)方針、方向、……」、藤岡勝二『大英和辞典(第二版)』
(1932 年 10 月、大倉書店)には、
「①前進・進行運動、競走、②行程、道程、過程、③運動・行為・事件ノ一ツヅキ、④進路、
走ル(動ク)線、方向、⑤変化ノ順、ダンドリ、ユキ方、経過、筋道、成行……」とある。
(107)中西功『中国共産党史』白都出版社、1949 年 5 月、87,208 頁
(108)『中国国民党と汪兆銘コース』朝日新聞社、1939 年。
(109)ハムブルグ世界経済研究所編、景山哲夫訳『アメリカの実力』刀江書院、1941 年。
(110)なお、ここで石川忠雄のいう「都市工作重点主義」とは、中国共産党史研究の中で、毛
沢東の「農村による都市の包囲」戦略の確立以前の、瞿秋白や李立三、王明指導部の戦略
と位置づけられ、しばしば「都市中心論」ともいわれる。しかしながら、この都市中心論
を過大に評価することは、
「毛沢東思想」の正統化につながる議論である(江田憲治「中国
共産党史における都市と農村」森時彦編『中国近代の都市と農村』京都大学人文科学研究所、
2001 年)。
(111)松永三郎「日本共産党公判闘争傍聴記」『プロレタリア科学』1931 年 8 月号;「全日本学
生社会科学連合会研究コース」『特別高等警察資料』第 2 輯第 2 号、1929 年 4 月。
(112)両者の間には次のような違いがあった。
・政治局「関於关于目前政治形势及中共党的緊急任務決議案」
(1931 年 5 月 9 日)
『紅旗週報』
1931 年 5 月 27 日
……所以不管放革命的動員是如何寛広、他進攻革命策略如何狠毒,只要紅軍蘇維埃区域
4
4
4
4
真能依照国際路線、発動广大群衆、執行正確的的土地労働経済蘇維埃建設等政策与紅軍進
4
4
攻的策略、敵人的“囲剿”的計画総是遇到失敗的。……并且白色恐怖極端厳重与党内立三
4
4
路線破産的現在、党員間的拚命情緒特別是消極与逃避観念、将更加濃厚。
・
「当面の政治情勢と支那共産党の緊急任務─ 1931 年 3〔5〕月 9 日支那共産党中央政治局
決議より抄訳─」『インタナショナル』5 巻 12 号(1931 年 11 月)
371
江 田 憲 治
……広汎な反革命勢力の動員、悪辣なその策略にも拘はらず、国際共産党の方針に従つ
た支那共産党は、広汎な大衆の動員、正しい土地法、労働法経済政策、サヴエート建設政策、
赤軍の行動、策戦を遂行し、敵の「絶滅計画」を打ち破り得た。……白色テロルが極度に
劇しく、立三主義が破産している現在では党員間の極左観念、日和見主義的態度が特に濃
厚になりつつある。
(113)「自分は現在、第三回プレナムが二つの方針─李立三的方針とコミンテルン方針─
を曖昧にしてしまひ、この二方針は一致するものであると認めたことを、十分に理解して
ゐる」とある箇所と、「私は、これまで私のコースとコミンテルンのコースとが完全に異つ
てゐることを知つてゐた」とある箇所。ただし、後者の原文は、
「起先我懂得了我的路線与
国際的路線完全不同」であるので、正しくは、
「私はまず、これまで私のコースとコミンテ
ルンのコースとが完全に異なっていることを理解した」の意である。
(114)「毛沢東コース」は、前掲石川忠雄『中国共産党史研究』97–101 頁、「王明コース」は、
中西功『中国革命の嵐の中で』青木書店、1974 年 7 月、19 頁、など。
(115)横山宏章『陳独秀』朝日選書、1983 年、206 頁。
(116)日本放送出版協会、1973 年 5 月 –1974 年 7 月。
(117)近年の中国共産党史関連の著作では、高橋伸夫『党と農民─中国農民革命の再検討』
(研
文出版、2006 年)、石川禎浩『革命とナショナリズム 1925–1945』
(岩波新書、2010 年)が
用いているのも、「路線」である。
(118)「援蔣の連鎖を断つ」
『朝日新聞』1938 年 10 月 24 日;「赤色路線確保強調」同 1938 年 11
月 2 日;「緬甸路線の再開」同 1940 年 10 月 17 日。
(119)「南寧を完全に占領す 敵最大の背後路線断つ」『読売新聞』1939 年 11 月 25 日;「重慶外
交路線の混乱」同 1940 年 7 月 4 日。このほか、
『読売新聞』1940 年 8 月 22 日の「参政会招集
を要請 重慶抗戦派 ソ連依存強化策す」には、「外交路線問題」の語が見られる。
(120)小林富貴夫「農民闘争の大衆路線」,塚田大願「大衆路線による公然性(合法性)の拡
大と発展」
『前衛』1951 年 4 月号;山本信之「大衆路線の確立のために」同 1951 年 7 月号;
無署名「組合活動の大衆路線の具体化のため」同 1952 年 3 月号。
(121)宮本顕治「ハンガリー問題をいかに評価するか」『前衛』1957 年 2 月号。
(122)武井武夫「ソ同盟反党グループと新路線」『前衛』1957 年 9 月;神山茂夫『日共指導部
に与う─国際共産主義の総路線を守って』刀江書院、1964 年 10 月; 同『続・日共指導部
に与う─国際共産主義の総路線を守って』刀江書院、1964 年 12 月;上田耕一郎「ソ連共
産党第 23 回大会の文献にあらわれている国際路線の特徴について」『前衛』1966 年 8 月号。
(123)『赤旗』1976 年 8 月 2 日。
372
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