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絲海 - 伊丹市文化財保存協会
絲海 第34号(H21) 第 34 号 伊丹市文化財保存協会 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 第34号(H21) 絲海 行基の遺産 「土塔」を ご存知ですか? 。 そして死後は、信仰の 活動に感銘を受けた人々は、行基の生前より 行基菩薩と呼びました 。 6 。 その土壇の全面 万枚の瓦が葺かれていたと考えられてい 塔であることがわかりました に約 ます 大野寺は室町時代に火災で焼失しましたが、 対象となります。 行基は、生前中、必院建立したとされていま 明日香 江戸時代に再興され、現在まで真言宗土塔山大 中畔 そのひとつ、堺市にある「大野寺一の仏塔 。 す 年生が使う社会の教科書にも 野寺として継続しています。 6 はとても不思議な形です。今年、国史跡「土 行基は、小学 載っている有名な僧侶です。伊丹市民の方には、 塔」(堺市中区土塔町 / 昭和お年指定)として 。 。 是非、 一度、この士 皆さんがご存知のお寺の塔とはあまりに 。 交通の要衝に建設された 。 。 。 ・:垣を巡らした建物との意味 民衆のため の寺( 道場)を指す - 本来、悟りを求めて修行をする人をいう : (伊丹市教育委員会事務局社会教育課主査) *菩薩 宿泊施設 *布施屋:都に税物を届けにいく民衆のための簡易 残したこの塔を前に、天平の世界を感じて下さい 塔を見に行かれてはいかがでしょうか?行基の も外観が異なりますので ます も、正確なイメージをしていただき難いと思い 土塔について言葉で表現して伝えようとして 行基町という地名の由来にもなっていますし、 その後、飛鳥(現奈良県明日香 つの /堺市文化財課提供】 a 整備が完了し、住宅地の中にお目見えしました。 います。 行基は、天智天皇 7( 六六八)年に河内国大 。 鳥郡(現大阪府堺市)で生まれ、日歳で出家・ 得度しました 村)や山林で修行を行い、訂歳の時、生家を 2 そ 「家原寺」と改め、布教活動や民衆のために 骨骨 布施屋・院の建設をはじめます。その後、院・ 。 道場につながる溜め池・用水路を、さらには道 路・橋などの建設を行います。 ここ伊丹(当時は摂津国川辺郡)にも「昆陽 施院 一や 「 昆陽布施屋 」 がつくられました 箇所の池と 5 のどちらかの後身が、現在の昆陽寺だと言われ ています。また、摂津田に 溝をつくったとされており、そのうち「昆陽上 一国史跡「土塔」 この士塔は、行基 ω歳の、神亀 4(727) 年 {写 真 その頃、民衆のための寺院建設は法律で禁止 に起工され、鎌倉時代の『行基菩薩行状絵伝」 池 」 が、現在の見陽池にあたります。 行基のこのような民衆への活 。 。 -行基の遺産「土塔」をご存知ですか?:::: 1・ ・反骨の絵師 「 岩佐又兵衛」::ji--:・214 「緒方洪庵に関係する人の 伊丹における活躍」・::::519 .江戸後期の郷土史家 ー古野将盈と梶曲阜 1 ・ ・叩11 塔が描かれています 8m 。 可しました。そして、聖武天皇の東大寺大仏造 土を盛った、高さ ・博物館からのお知らせ夏季企画展::・::日 通じて、民衆へ大仏造営への参加を呼びかけま す 行われ、ブロック状の粘土を積み上げた内側に •••••••••• 営の際、行基をはじめその弟子たちは、活動を 。 (重要文化財)には「十三重土塔」と記された 次 ・事業の計画、回顧・編集後記::::::l ロM されていました 動を、政府は抑圧しましたが、徐々に認め、許 * 以上、一辺日 m以上ある 堺市によって発掘調査が 目 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 日比陽池をつくった人として馴染み深い方だと思 。 院 第34号(H21) 絲海 反骨の絵師 「岩佐又兵衛」 ている。その年は摂津守荒木村重の絶頂期から ならむとは」 きゃあまのかけ橋ふみならし なにはの花も夢 信長軍は、本丸にたて龍もった数百名を人質 の転換期にあたり、子供たちにとっては翌年に かけて生き延びる者、殺される者とに分かれる 村重は天正六年の秋、出陣中の三木城包囲網 播州三木城が龍城中などの理由から救命条件を は石山本願 寺 の最前線基地としての位置付け、 に、尼崎城、花隈城の開城をせまったが、村重 の陣地から突然伊丹に帰り有岡城に龍城して織 苦難の時代を迎えることとなった。 (1577)十 一月に有 有岡城と岩佐又兵衛 戦国時代の天正五年 のまなかった。 攻撃したが、攻めきれずに持久戦になっていった。 十ヵ月後も勝着状態が続くなか、荒木村重は 。 しかし、頼みの 状況打開のために、九月二日に援軍を求めて嫡 男村次のいる尼崎城に移った 。 城、王の不在を察知し 毛利軍は、海上を信長軍に封鎖されるなど身動 きできない状況にあった 七松で処刑を断行した。残りの村重の親族 三十 二 月十六日に六条河原で 六名(村重の子供二人を含む)を京に連行し市 。 今楊貴妃といわれた荒木たしは二首 中引き回しのうえ、十 処刑した の辞世の歌を残している 。「 消ゆる身は惜し むべきにもなきものを母の思いぞ障りとは なる」「残し置くそのみどりの子の心こそ 思ひやられて悲しかりけり」母親の子供の将来 た信長軍は、有岡城惣構えの西側の要である上 璃塚砦の武将を調略。十月十五日の深夜に城門 くあらわれている。 を案じる心情がよ 信長 その子供が後に、 。 軍は、堀によって区切られた本丸を意図的に攻 ハダカジロ あった 。 う厳しい幼少期で 村重とは離散とい 母親とは死別、父 ている。又兵衛は 佐又兵衛といわれ を代表する絵師岩 いわれ、江戸時代 浮世絵の元祖とも 。 一カ月後の十 一月十 九日に、有岡城本 。 「思い 一人の心境をあらわしている。あ 一 「 霜かれに残りて我は八重むくら にはのうらのそこのみくつに」荒木村重 らきたし 本丸落城時の 有岡城跡公園の荒木村重、たしの文学碑には、 丸は降伏した それから き抱えながら有岡城本丸を脱出したといわれる みどり子の岩佐又兵衛は、その時に乳母にだ たり」と記されている め込まなかった 。信長 公記には 「 裸城になされ たれて城内は大混乱を極めたといわれる を開けさせて、他の砦も攻撃、侍町にも火を放 。 激怒した信長は、数百名の者を尼崎城近くの 田信長に謀反をおこした。信長は村重の説得に (1579) の (158 。 有岡城跡は丁度、国の指定を受けて節目の ゴ一十 周年を迎えようとしている。 失敗、早速、十 二月には数万の大軍が有岡城を 「我等 岡城を訪れた 宣 教師ルイス・フロイスは ・・彼は又新に築城せる壮麗な は宵の口に、伊丹と称し甚だ壮大なる見事なる 。 義 木たしの文学碑がひっそりと建っている 今秋、 現在、その有岡城跡公園には、荒木村重、荒 の指定を、つけている。 重な遺構」として昭和五十四年十二月に国史跡 見されて 「城郭の中世から近世への移行期の貴 て、本丸の土塁跡、石垣、堀跡などの遺構が発 発が計画・実施され、城跡の発掘調査が行われ 近年は、昭和五十年代に国鉄伊丹駅前の再開 ていった。 り、城跡も時代とともに開発の手が入り変貌し て、惣構えの大半が摂関家の近衛家の領地とな 3) に岐阜に移ってからは、幕府の直轄地を経 重以降は池田之助が入城、天正十一年 秋に、織田信長に攻められて落城している。村 の壮大な城も三年後の天正七年 る城を・・」の書簡を本国におくつている。そ 城に着きたる 正 (1578)に生まれたといわれ 2 田 岩佐又兵衛は、荒木村重と荒木たしの末子と して天正六年 な Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 豊 第34号(H21) 絲海 その後の岩佐又兵衛 。 本能 一時、武士(秀吉配下の織田信雄の小姓説) 。 そこでは当時絵の主流であった狩野派、土 を目指したがあきらめて天性の絵の道にすすん だ 。 又兵衛は人生の大半を京で絵師として 佐派と交流を深めながら独自の画風を残したと される 庁三の丸美術館)「上浄瑠璃物語絵巻」 (MO 。 。 寛永十四 A美術館)などは、その時代の作品といわれて いる 還歴の時、再び転機がおとずれた 年 (1637)二 月に 三代将軍家光に招かれて 。 。 しかし、三島宿 旅日記の廻国道之記によ 単身江戸に向かった 格調高い内容である 。 り、江戸城本丸の建築中の時期でもあり絵師の l トから将軍への 表使荒木は幕府が編纂した 。 江戸には幕府のお抱え絵師の狩野派が多数お 以降が欠落している 。 過ごしたが、京時代の代表作は「洛中洛外図扉 親交のあった本願寺務めの僧心願から北 同地の興 絶対数が不足していたこともあるが、江戸城大 。 又兵衛の姉?)と春日局のル 奥の表使荒木( 一般に荒木局と呼ばれている 福井藩は、 。 ている ると福井をたち京で十日程過ごして江戸に下っ 。 風」(舟木本・東京国立博物館)「豊田祭礼図 扉風」(徳川美術館)があげられる 。 四十歳の時、本願寺の縁でひとつの転機が訪 れた 。 之庄(福井市)に招かれて同行する 宗寺に寄寓し絵師として活躍する 三代松平忠昌 徳川家康次男の結城秀康が初代藩主の六十八万 石の大藩で、二代藩主松平忠直、 推挙も考えられる 寛政重修諸家譜によれば村重息女 二人が本願寺 (忠直の弟)の庇護を、つけて多くの絵巻物など 作品を残している 。「忠直卿行状記(菊池寛作)」 本願寺の人質とは別にもう 人質となっている 。 で有名な藩主とは気脈が通じるものがあったよ 赴任時の様子として 荒木と称す」と記されている 。 何処で育ったの 一人の息女として「崇源院殿(将軍秀忠夫人) 。 又 「 今日大橋の上 うである 。 及び大猷院殿(将軍家光)に仕へたてまつり、 それは浮世又平なるべし にて威風なる男に逢い申し候、緋縮緬の股引を 。 か不明、しかし大奥の中枢部で長年仕えている はき居ると申す 平当国へ来る筈也と仰せけるが、果たして又平 ので相当の教養を身につけていたとおもわれる に輿入れの調度品の製作に携わっている (1637)川越東照宮が焼失 。 寛永 そこの 。 江戸では、将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家 にてありれると也」(福井の文献 「 越翁夜話」) 北之庄時代の又兵衛は円熟期 。 十四年 。 三十六仙絵の話があり製作に取り組んだりして、 。 「おこり(熱病の 一種)」に苦 次々と大名などからの仕事が舞い込み大車輪の 活躍をする 晩年は持病の Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 - 3- 有岡城を乳母と脱出した岩佐又兵衛は、京都 の本願寺系の子院に身を隠したとされる 高野山が荒木の残党を匿ったとの理由で そんな状況下で又兵衛は荒木など名乗れ 寺の変までの織田信長存命中は、信長は自分に 。 楯突いた荒木の残党狩りをしきりにおこなって いた 。 各地で活動していた高野聖千数百名を処刑して いる 。 るわけがなく、母方か乳母の姓を名乗ったもの とおもわれる 又兵衛は幼少期から和漢を学び、絵も村重家 。 が残されている 。 臣の子であった狩野内膳に師事したといわれる に入り絵師として 一定の評価を、つけていた 長 その名声は 大な絵巻物は 一人の技では困難とされ絵師を束 。 その絵巻物の大作「山 ねる工房を設けていたといわれる 。 絵巻」(香雪美術館)「小栗判官絵巻 」 (宮内 中常盤物語絵巻」 (MOA美術館)「堀江物語 江戸にも伝わっていた 八歳の時には豊臣秀吉の京北野天満境内での北 野大茶会ものぞいたり、摂関家の 二条家にも出 入りの記録があり幅広い教養を身につけていた 荒木村重存命中(天正十四年没・又兵 。 。 八歳)に親子の対面があったのかは記録 1 ようだ 衛七 がなく想像の域をでない 荒木村重・たし文学碑 有岡城跡公園 第34号(H21) 絲海 しめられている 。 この時期に自画像を福井の妻 その絵はやせて少しヤツレタ感 自のものを確立したといわれる の絵に登場する人物像は 。 特に、又兵衛 男女ともにふっくらとした頬と下顎の長い顔 。 じで椅子に掛けて右手に長い杖を持っている全 と足先のそりかえった動的な描写などが特徴と に送っている 後方には薙万が置かれ武士の出と 。 身像である される。 。 代表作として 。 内容の大 「山中常 盤物語絵巻 」 があげられる。それは十二巻構成 半が劇的なものである を題材にした多数の絵巻物語にある 岩佐又兵衛の真骨頂は、御伽草子、古浄瑠璃 しての誇りをもっていた。福井を単身で離れて 十 三 年後の慶安 三 年 (1650) に江戸で七十 。 その 一つに墨書で荒木と書か 2 912 l ・ t -庁リ 間館 劃 aJ 向口 像 画 A O M 川い 一一 23 岩佐又兵衛 三 歳で没した 。 又兵衛の希望で、骨は 二 つの骨壷に入れられ 福井に送られた の極色彩で全長百五十メートルの壮大なもので 絵巻には古浄瑠璃の歌詞が添えられてい 。 出所は越前松平家を祖とする津山藩に伝わ ・ 理事) 4 。 。 ある る ったものである。 O荒木村重史料伊丹資料叢書四 参考文献 迎えられていた 。京 の常盤御前は息子の牛若丸 O 『村重』第七号荒木村重研究会会報 物語は、 年若い牛若丸が奥州平泉の藤原氏に 会いたさに侍従とともに平泉に向う途中、中山 102004 O岩佐又兵衛文春新書辻惟雄 O芸術新潮 デアゴスティ 。週刊アーティストジャパン 40 1997 O謎と伝説の絵師岩佐又兵衛 日経新聞 「伝説となった絵師岩佐又兵衛」 0NHK ハイビジョン特集天才画家の肖像 ・ O絵巻山中常盤解説・資料自由工房 岩佐又兵衛 新潮社 O奇想の系譜ちくま学芸文庫辻惟雄 O岩佐派のゆくえ福井県立美術館 。 道の山中宿で盗賊に命を奪われる 。牛若 丸が山 中宿に行き母の仇である盗賊を討つ物語である 。 常盤御前が殺される描写にスペースをさき、盗 賊を討つ修羅場の場面はすざましい 岩佐又兵衛は、母親たしが織田信長によって 処刑された怨念が、時は戦国時代から平和な江 。 戸時代に推移するなかで絵巻を通じて仇討ちの 思いを果たしたといえる 「 堀江物語絵巻 」 も堀江家の親の仇討ちとお 家再興の物語である。子供の太郎(月若)が幼 少の頃に国司に殺されそうとなったときに乳母 に救われて奥州に匿われる場面なども素晴らし (伊丹市文化財保存協会 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 れていたという 岩佐又兵衛の絵 画風は当時の主流である狩野派、 い内容の作品である。 岩佐又兵衛は、生存中から人気絵師で 「浮世 又兵衛」と呼ばれたり、後に近松門左衛門の浄 。 瑠璃「傾城反魂香」の吃又のモデルとしても有 名であった 土佐派に属さずそれぞれの画風を取り入れて独 岩佐又兵衛の墓 福井市興宗寺 第34号(H21) 絲海 "歴史上の人物と伊丹“について 宏之 「緒、万洪庵に関係する人の 伊丹における活躍」 はじめに 緒方洪庵は、文化七年(一八一 O) 備中国足 守(現岡山市足守)で足守藩士・佐伯惟因とキ ヨウの三男として生まれた。十五歳で父と共に 大坂に出て、十六歳の時に大坂の蘭学者・中天 瀞の塾に学び、緒方三平と名乗る。 十八歳で蘭学修業のため、江戸に向かう 。二 十 一歳で江戸に入り、蘭学者・坪井信道の塾で 参考文献等 1 六十 一頁 @適塾記念会編集・発行「緒方洪庵と適塾」 平成五年六月五十八 適塾・種痘と伊丹との関わり (二適塾 適塾に入門した門下生の「姓名録」には北海 道から九州まで全国の六 三 六名の名が残されて いる。その中には幕末から明治にかけて各方面 二十五歳の 時に中天誹が死去し、その塾で蘭学を学ぶため に目ざましい活躍をして日本の近代化に大きな 。 伊丹にゆかりのある人として「締海」三二号で 大坂に赴く。二十六歳のときに中天瀞の子・耕 学び、蘭医の宇田川榛斎にも学ぶ は「伊能忠敬と伊丹」を、二 三 一号では 「天訴組 貢献を果たした人が多い。例えば大村益次郎、 福沢諭吉が含まれている。 介を伴い長崎修行に出る。この時から緒方洪庵 一年後に長崎での勉学をおえ、足守 と名乗る 。 あげた。今回は直接、伊丹に来たことは確認さ 三 十六歳の時に適塾を過書町に移転する。 に帰省する。 緒方洪庵(一八一 01 一八六三)をとりあげた 緒方洪庵が最初に種痘に関わったのは適塾を (昭和 42年 1 月) 。 @ ありその内兵庫県県の出身者は三十 三 人であ 「姓名録」に基づく都道府県別の塾生名簿が (財)学校教育研究所 「適塾門下生に関する調査報告」で伊丹の関係 ただ、今も続けられている適塾記念会による 四人いるが、伊丹の人は見当たらない。 生姓名録 」 @で当たってみた。摂州の出身者は その具体的な氏名を「都道府県別適々斎塾 る 緒方富雄編著 伴林光平の伊丹における足跡」についてとり これまでの歴史の舞台に登場した人物の内、 者がみつかるかもしれない。@ 5 「緒方洪庵適々斎姓名録」 れていないが、その関係者が活躍した人として い。「総海」三 三 号では西宮で生まれて伊丹で 聞く少し前に兄の子に人痘種痘を行い、成功、 1 ニッケの元に牛痘がもたらされた。 嘉永一瓦年(一八四八)に長崎のオランダ商館付 一八五回)を「緒 活躍した原老柳(一七八三 方洪庵の門弟」と書いたが、門弟ではないので l 嘉永二年(一八四九)に牛痘苗を笠原白翁に 医師・モ の緒方に技の老柳」言われており、緒方洪庵と 「 医聾」復刊第 二 十年三月 痘種痘法の普及に努める。@ 分けてもらい、以後、古手町の大坂除痘館で午 一一i 九十七頁、平成 緒方洪庵について 八十七号、九十 について」日本医史学会関西支部 参考文献等@古西義麿「原老柳死亡前後の動向 ている。@ 原老柳は同格であり、その活躍年代は少しずれ 「緒方洪庵に関係する人」に訂正したい。「学 緒方洪庵が天保八年(一八三八)に大坂に出 て瓦町に蘭学塾・適塾を開くまでの主な経過は 次の通りである。 緒方洪庵 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 益 尾 第34号(H21) 絲海 参考文献等 年(一八五 二)一月に「摂州昆陽村小松来青 の分与)した医師名簿百八十六名の中に嘉永五 が含まれている。@ @適塾記念会 「緒方洪庵と適塾 」 五十六、五十七頁 適々斎塾姓名録」 cr川辺郡医師会史J 昭和 62年 289 頁) 専門委員が平成十四年に 。 」 室 緒方洪庵と大坂の除 「 そこでは嘉永二年から明治 三 年の聞に 癒館 」( 東方出版)で長年の研究成果をまとめ られた いる 。 医 ・村医 一八六名の身分は現在のところ藩士が十名、 藩医が十七名、身分不明が四名、町 。 @ 1 明治 が九七名、不明が五八名との結果となってい る 小松来青は伊丹市史第二巻には万延一 。 。 。 @ 小松元春は小松来青の嗣 その「習字師」に 「 小松元春(医) 」 五年に読み書き、算術の寺子屋が昆陽村で開業 されていた の名前が載っている かも知れないと言われている 小松来青は伊丹の昆陽村の分苗所だけでなく 種痘と徐痘所」(稿本)でわかる。 「 周辺の地域の分苗所との交流のあったことが山 崎利恒著 山崎健司は摂津国川辺郡米谷(まいたに) 「 摂州米谷の山崎健司 」 の孫であ 山崎利恒氏は分苗した嘉永 三 年 一月の医師名簿 。 に載っている る 。 彼は適 村で嘉永三年から十七年間に医業のかたわら分 苗所を聞いて種痘活動に尽力してきた 。 。 塾には入門していないが、洪庵とは様々の関係 で親しい間柄にあった 山崎健司は除措館から分苗を受けて種 痘 に携 わると共に、近郊の医師は分苗に努め、涙ぐま 分苗を受けた分苗所の現地調査が一部に留まっ ていたので、残されていた現地調査を平成十五 「貴翰這仕候時下薄暑之節御座候得共先以高堂皆様 のよ、つになっている。 名塩の億川信哉から山崎健司への書簡では次 @ しいような活動を続けていた NO 。 年より実施され、全調査をまとめためたものを (I)(2)として「適塾」 。 大坂の除癒館 」 分 「 ①小松来青 首所調査報告 コ一八・三九(適塾記念会)で発表された らば明遡日昆陽池孫太郎茶屋店に集合致度候間早 御揃益々御多祥被矯在御起居珍重不斜 奉 賀候、然 方洪庵の門人・知人が三十名、原老柳の門人・ 朝より御出掛可被下尤も それによると大坂の除措館百八十六名の内緒 知人十五名の四十五名で全体の二四%を占めて - 6- ←都 道 府県別 (長さ四尺五寸・幅二尺五寸) 平成十七年と平成十八年に 。 種痘専門の施設「大坂除痘館」を大坂在住の医 師十数人と開設したことが挙げられる 大坂除痘館が関東・中部地方から九州地方ま でで嘉永 一一年(一八四九)十一月、明治二年 (一八六九)二月までに分苗( 一種痘ワクチン Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 @適塾記念会 二月 〈宝塚医師会山崎利慣氏所蔵〉 大坂除痘館については古西義麿除痘館資料 後藤松陰が山崎遷司に贈った額 緒方洪庵の功積の 一つに嘉永 二年(一八四九) 十年十 一一 塾 適 除; (;ij 存乏 @芝哲夫「適塾門下牛に関する調査報告」(二十八) 適塾記念 会 「適塾」第 四十 一号平成 w 員正 (二)大坂除痘館と伊丹との係り 場毒物数 r 第34号(H21) 絲海 小松(見陽)、高橋(池田)、名川 ( 麻田 )、山中(小 分苗所の 一つがあり、昆陽村の「太郎茶 屋 」で 分苗に関する集会が聞かれていたことが分かる この「太郎茶屋」は「文化三年昆陽池付近絵図」 。 そこは西 で昆陽大池の西側で有馬道と行基道の交差する 付近にある「大池茶屋」と思われる 。 @ 宮・宝塚・尼崎から集まって伊丹で分苗につい ての会合には都合のょいところであった 伊丹の昆陽村以外で分苗所があったという記 又、同年 コ一月の種痘通知券が 録はないが明治九年の伊丹市野間文書「種痘人 。 。 三一巻では明治維新の文明化に衛生 ことがたびたびあったと指摘している。。 問題として明治初年以来、種痘を奨励している 伊丹市史第 分かるが、いずれも種痘医は不明である @ あり、伊丹町内と北村で種痘を接種したことが した記録がある 員調書」によれば幕末の安政や文久年間に種痘 。 @前載「緒方洪庵と適塾 」 三 十八頁 参考文献等 園田村には 一部現在の伊 豊中市に園田村を加えた地域を摂津県と呼称し 。 @古西義麿「大坂の除痘館 」 八刀苗所調査報告書(1) 。 平成十七年 「適塾」第三十九号 @伊丹市史第三巻二二九、 九六頁 一六一頁 j 一四 O 頁 @猪名の会「園田のあゆみ 」 六二 ⑪前載伊丹市史第 三一巻一四O 頁 | @川辺郡医師会編 「川辺郡 医 師会史」 二八八頁 六七頁 @古西義麿「大坂の除痘館 」分苗所調査報告 書 (2) 伊丹資料叢書六 @「文化 三年昆陽池付近絵図」 「伊丹古絵図集成」 @同三頁 @同 三頁 種痘と除癒所 」 。山崎利恒 「 伊丹歴史探訪」三八 O 頁 小西酒造(株)「 寺子屋から小学校へふるさとの教育史 夫「 榎の樹の下 @伊丹市史第二巻五 一七一良、内堀睦 一一一一頁 @ @@ 「適塾」第三十八号 。 相請可申 。若此上相 疑候モノ有 之ニオヰテハ芝 之瑚 申出之上速二一種痘 度可及沙汰者也。 明治 三年 の巡回種 痘医 四人には緒方洪庵の四 女八千代を妻とする緒方拙斎が含まれていた 四人の巡回種痘医師は村々に派遣された。村々 。 では寺院や惣代の私宅を診療所にあて、患者の 治療と種痘を行った (高原寺資料) 前載「大坂の除痘館」八刀面所調査報告書(1) 一O 一頁 ②原老柳 「学の緒方に技の老柳」と一言われた原老柳は 天明 三年(一七八 三 )二月十三日、西宮札場筋 。 。 伊丹では多国街道と有馬道の分岐点に近い伊 る。 (一八一七) で、その聞に江戸と長崎に遊学す で生まれる 伊丹で開業したのは文化十四年 テ夫死為致候者木少以之外事-一一候。向後別紙申達候通、御雇医師廻村 種痘之儀ハ天下之良法ニ一候処、患味之者共兎角狐疑抱キ、自然痘ヲ以 津県においても次の触書が村々に出された。 当時 一般に種痘は恐れられていたからので摂 丹市が含まれていた 浜)、吉田(西宮)、緒方(尼)、瀬田(高槻)、十七、 ていた時期があった 拝 八人種痘社中の集会に御座候間是非々々御出席被 下候、尚々小 生 明日御尋申上候、 如此御座候、謹 言 } I I 、 丹郷町で「医処老柳」の看板を掛ける 頁 先は右御案内迄 山崎老兄 億 この書簡から伊丹の昆陽村には大坂除痘館の 日 明治 二年一 月から八月まで、現在の摂津市、 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 7 @ 々 卯 編 本 痘人員取調簿 種痘通知書 勿 月 廿 九 玉 机 下 第34号(H21) 絲海 。 文政八年( 一八二五)大坂、道修町五丁目で 開業 。 緒方洪庵は東前 天保三年(一八三二)医師番 付に登場、天保 。 十一年(一八四 O) 西大関に 頭四枚目 天保十五年 二月「当時町請医師見立」では 大坂に再移住したこの年から学塾「樹人洞」を ように書いている 。 ・・・これ 凡そ口腹のことで人を煩 。 伊丹紙屋本家の菊という印の酒を送ってく 。 れるよう、原老柳に頼んで欲しい は常飲の酒ではない わすのは慨憾の至りであるが、呉々お返事待つ (新選山陽書簡集)@ 老柳が古稀記念の祝返しとして配り物をした (嘉 記録「原老柳古稀配物」が残されている 。 開く 。『 原老柳門譜』に記載されている時代は、 伊丹以外では西宮、池田等を含めて @出席者の内訳は 二百 二 「原老柳古 @ 。 ③原鼎 。 文化六年(一八 O九)に原老柳の長男として 西宮で生まれる 文政八年( 一八 二五)父の老柳が大坂の道修 。 @ 町で開業して、伊丹の診療所をその出張所とし た後を継ぐ 「四十三歳大坂ニ移住シ、伊丹ノ家ヲ出 張所トナシ」「介庵(原老柳長男、名は鼎) 伊丹ノ家ヲ続キ業ヲ開ク」@ (「原家系略譜 」) 原老柳が大坂除措館で活躍しているのを受け、 。 @ 大坂除癒館の「諸国分苗所」の一つとして伊丹 の診療所は位置づけられている 。 。 嘉永 二年( 一八 二九)十 一月にが分苗された のをはじめ併せて十五人になる 参考文献等 除措館記念資料室が平成十九年 (洪庵記念会、旧緒方 8~ 永五年(一八 三 二)@そこには老柳が開業して 。 手、本丁通、関連者を一括して百二十六人にな る 。 十三人に及んでおり、伊丹の関係者が半分近く を占めている 。 @前載 「 緒方洪庵と大坂の除癒館 」 一六八頁 稀配物」の付属資料に載っている 参考文献等 @同 一O 八頁 除嬉館記念資料室 。同 一 一九頁 @松本順司 「原老柳の生涯 l 幕末の名医」 酒の町に招かれた文人たち」 二 十四日 「酒都伊丹 二頁 三 月 二 十九日、 @同四四頁 @伊丹市 立博物館市制二一十五年記念第七回特別展 「 頼山陽と伊丹 昭和五十年十月 開館 二十五周年記念特別展 詩人・俳人・商人たち」十 。 大阪市中央区今橋 コ一丁目緒方ビルクリニックセ ンター四階に開室した 産婦人科病院、適塾の後ろで南側に当たる)こ 。 の記念資料室は先に述べた「大坂の徐宿館」の 顕彰施設として設置された Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 天保元年(一八 二一 O) からで、一三二人が名を 出身地は大坂周辺が圧倒的であり、 いた伊丹郷からは伊丹、 三 十六人をはじめ、西 。 この除痘館創設に十数名の同士 三本松、昆陽口、横 連ねている @ その中で最も知ら 、 裏、東裏、堺丁、米屋丁 。 伊丹出身は上杉順太郎、岡高一郎、山脇建隆が 含まれている 嘉永 二年( 一八四九)大坂除癒館の創設に緒 。 方洪庵、日野葛民・大和屋嘉兵衛が中心となっ て創設された 。 が賛同しているが、その中に原老柳が含まれて いる 。 老柳は医者だけでなく酒と文化を求めて来伊 した文人と幅広く交 流 し た れているのが儒学者・漢詩人・歴史家の頼山陽 頼山陽は文政十 二年( 一八 二九)十月 1 四 。 @柿衛文庫 につどう 平成 一一十一年四月十八日 O五頁 。前載 「原老柳の生涯幕末の名医」七七頁 @同七八頁 一て 五頁 @前載 「 緒方洪庵と大坂の除癒館」一 j @同 一O 五頁 @同 一二 三 である @@ 二十三日、母の梅田町・篠崎小竹・田能村竹田・ 。 。 高橋草坪らとともに来伊し、箕面に紅葉狩りを した 。 八月九日、山 酒した頼山陽と伊 丹 を つ な げ て い る とも親しくしていたので伊丹の酒「男山」を愛 老柳は黒津翁の和歌の弟子であり、篠崎小竹 陽の高弟で小竹の女婿である後藤松陰に、次の 頼山陽は文政四年( 一八 二二 第34号(H21) 絲海 スが配置されている 。 入口左側はジエ の牛痘種 痘 法 発 見 に 至 る 関 係 資 料 や ジ エ l 展 示室 の 面 積 は 五 十 平 方 メ ー ト ル で 、 周 囲 に l 電話 06-6231-3257 。 同じ展示ケ 1 スの下段には 続く展示は洪庵の肖像画や、洪庵の種痘を讃 える漢詩を掲げる 徐痘館に関する主要文書があり、痘 種勧奨の引 。 @ る 。 それによると江 戸 時代には南野村だけでな 。 その中に原 く伊丹郷町にも十数人の医者がいて地域のとも 交流していたことを指摘している 。 在村 医 は庄 屋 さんとか惣年 寄 とかだけでなく、 き札や種痘後の心得等があり、牛痘苗の分苗免 老柳、原鼎も含まれているものと思われる 状も数店ある たい 。 。 一体の活動をしているこ 。 そ 「川 幕末から明治にかけての 昆陽村、野間の 具体的な医者につい 。 拙文については私なりに昨年来関係 資 料を収 の詳細については今後の関係 資料の研究に待ち 辺郡医師会史 」、伊丹市史等を参考にした 伊丹を含めた川辺郡の 医 師の活動について ては分からなかった 概観した 今回は緒方洪庵に関係する人の伊丹の活躍を @ 村の寺 子屋 の師匠、村のお坊さんや禅主とか、 一一十九日から六 マ展 。 参考文献等 今年平成 二十一年の四月 1 そこで南野村 領主・村医者・ 。 とを指摘している 村の上 層 部の人たちと 平成 二十 年 一月 「 姓名録」に直接伊 十七頁 @古西義 麿「 除 痘館記念資料 室」 オープン 「 大阪春秋 」 一二九号 おわりに 緒方洪庵の開いた適塾の 。 丹の出身者及びその関係者は今のところ不明で ある 」 が開催された 1 月十四日までの伊丹市立博物館の春季テ j 「 南野旧村シリーズ第五弾 むぎわら 音 頭 特に 貴重 な その初期の段階から除 集することから始めた 。 「 種 痘 と徐癌所 」 (稿本) の 写 とに御礼申し上げます 。 。 又、前載 「大坂の除癌 不十分ながらも何とかまとめることができたこ 大坂の除措館 」 を常に参考にさせていただいた 館 」分苗所調査報 告 (I) (2 ) 「 緒方洪庵と 躍を知るのに役立った しは、伊丹の見陽村小松来青の地域を越えた活 資料山崎利恒著 に的確なアドバイスをいただいた 。 の在村 医 ・笹山寿仙の史料の中に緒方洪庵の研 痘館資料室専門委 員 ・文学博士の古西義麿さん 南野村の在村医が 幕末のコレラの流行に対して緒方洪庵が 。 。 。 月 。 - 9- 展示ケ ンナ l 。 像を掲げているが、全体の四分の 三 は緒 ンナ 方洪庵らが設立した除痘館関係資料である 入口右側の最初は、洪庵が万延元年に 書 き 残 「 徐痘館記録 」 や徐 痘 館に残されていた古 会宣下2食傷堂筋餓京販電 車、途』開駅下車 徒歩叶 した 「 大阪市種痘歴史 」 l krr !極 ぷ 畑石i ;[ :; 。臨時間 平日 午前 1 0 時~午後4 時 5一一 ~---; r)r.!盟~ Lー」丘一-.l l 究書 「 虎狼痢治準 」 の写しと思われるものがあ った 独自に研究したものである 。 緒方洪庵の研究内容に関心のあったことが分か る 「 笹山家文 書」 の 「 諸事控 」 では南野村の在 った事が分かる 村 医 は南野だけでなく野問、昆陽村、寺本、 富 松(現尼崎市 ) にも診察に行 三 参考文献等 この 「 笹山家文 書」 については平成十年 「 地域研究いたみ 」 第 二七号で いたみ 」 第 二 七 号六 九、七十 頁 (伊丹市文化財保存協会 会員 ) 「 地域研究 伊丹市立博物館 」 を研究発表されてい @前栽 1 「江 戸 時代の在村 医| 伊丹市 家 の資料から 横田冬彦さんが 南野・笹山 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 (今橋3丁目緒方ビル4階) 文 書 を明治末年に翻刻した 巳躍祝祭日年末年始は休館 二二堂 どゴ ー曲目ムル'$' "ペ 大阪市申央区今橋 3-2-17 緒方ピjレ(時捌) 4階 与三三2記長諒 日ζ訟 I 五 除痘館記念資料室 。 i<Q 参観料無料 配一一一一---C ..J つ示手 い @場所 ごゴご:軒?ヨ 店S 以S ;; γ … J と 詐子守し J 土曜 午前 1 0 時~午後 1 時 忌型半需弁 じ などを展示している (二IF 1: 腕館記意資料室 第34号(H21) 絲海 玄土期 及;の 盈オ郎 と土 君!塁 小長谷 本家 伊丹史談会は、昭和 正治 一一十五 はしき先賢の事蹟を調査し、之を研究して見た ため、将盈が五代目源兵衛を継ぐことになった。 。 このうち最も代表的な著作は前述し た『有岡庄年代秘記」(京都大学文学部蔵所蔵) れている 岡絵図、同付録等 」 と彼の著作が詳しく紹介さ 系図には「将盈博識多才・・・最精於郷土史、 と いと思ひ、乃ち同志と相謀りてここに本紙を刊 第 三号からは「郷 土 研究伊丹 』 而著有岡年代秘記、有岡 奮 考、酒造奮新録、有 。 行することにした」と、その強い決意のほどを 述べている 名称を改め、同十 一年は毎月(十 一 ・十一一月は 二一回発刊 で、伊丹郷町所在の寺院の開基年を記した「丹 1 。 丘寺院開基年考」、南北朝時代の貞治年聞から 二 『 郷土研究伊丹 』 の刊行を続けていた 不明)、翌十 二年から十五年は年 している さて、 同十 三年、杖吉は 『 伊丹古野家系譜略 』 (博物 。 年四月に小林杖吉 ( 丹 城 ) を 会 長 、 尾 上 日 経 を 館所蔵)という古野家の系図を作成している ら江戸後期の文政 一 一年までの伊丹郷町史を詳細 た「伊丹往古年記」、それに続いて寛文年聞か 江戸前期の万治年間までの伊丹の出来 事 を記し 理事として発足。以来郷土伊丹の歴史の顕彰を 古野家からは、江 戸後期の郷土史家古野将盈が 。 目的とし、講演会・史跡めぐり・伊丹史料展等 に記した「有岡年代秘記」の コ一篇が所収されて 将盈は、古い記録をもとに伊丹郷町 出ている このうち有岡年代秘記には、伊丹郷町で おこった様々な出来事が年表形式で簡潔に記さ 。 町の名所地図 れ、現在でも江戸時代の伊丹郷町研究には欠か 『 摂州伊丹独案内図』などを遺し ており、系図作成の動機としては、郷土史家と 。 せない一書となっている 。 系図の後書き しての「先 賢 の事蹟」 を顕彰しようとする杖吉 。 を開催してきた。 そ の 発 足 十 周 年 を 記 念 し て 刊 明 書 当初会を 主 宰 いる 。 した杖吉は、伊丹 町 の 宮 前 通 り に 私 立 伊 丹 図 館を設立したこと で も 有 名 で 、 明 治 四 十 五 年 六 。 の強い思いがあったからと思う 月、私蔵図書五千 冊 を も っ て 開 館 し て い る 治末年、阪神間で は 神 戸 市 立 図 書 館 と こ の 伊 丹 によると、作成にあたり正覚 録のほか親族の小結家・小林家の過去帳および 寺 過去帳、同回向 図書館のみであったというから、その存在は遠 大正三年には巡回文庫を 。 位牌まで参照したと記されており、杖吉の並々 くまで知られてい た 始め、蔵 書 も四万 冊 に お よ ん だ が 、 経 営 的 に 振 ならぬ熱意と執念を感じさせる 当 主は 将盈は三代源 、 この系図によ るわなくなり、昭 和 十 一 年 か ら 休 館 が 続 き 、 同 れば、安倉村の喜兵衛の 二男源 兵 衛が伊丹堺町 。 。 十八年には廃止さ れ た と い う 。 し か し 、 杖 吉 は 、 に分家したことに始まり、屋号は椛 屋 代々椛屋源兵衛を襲名している 休館を決めた昭和十一年から、タブロイド版 そ 兵衛の五男として明和九年(一七七二) 二 月 二 。 の第 一号 二 月二十日刊)冒頭の 十 三日に生まれたが、母常が同日死亡したため、 「郷土研究伊丹公論』 の刊行を始めている の一部を引用する と 、 「 郷 土 研 究 の 必 要 を 痛 感 鴻池村の吉兵衛のもとで養育されることになっ 創刊之辞」 「 して己まず。三十 有 余 年 来 史 料 の 蒐 集 に 務 め た た。ところが、椛犀の家督を継いだ長兄の四代 土 の懐かしき昔の姿、 る予は、更に進んで我が郷 「伊丹古野家系略譜」小林杖吉作成 行されたものが糸 海 史 談 で あ る の歴史を編纂した 『 有岡庄年代秘記 」 や伊丹郷 刊行されたものだ れは昭和三十五年 に 伊 丹 史 談 会 に よ っ て 編 集 ・ 手許に「糸海史談 』 の復刊第一号がある。こ ¥f麦 源兵衛が 二才の子(邦好)を遺して亡くなった 1 0- 戸 我が郷土の正しき 歴 史 乃 至 我 が 郷 土 に 於 け る 慕 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 pエ 第34号(H21) 絲海 年を含め、来歴も長らく不詳であったが、杖古 将盈は多くの重要な著作を遺しながら、生没 世の法灯を継ぎ、天保八年(一八 三 七)に六五 と家督を譲り、出家して多国院村の西方寺十二 貢 献している。 (伊丹市立博物館長) 博物館からのお知らせ 伊丹を知る上で大きく 土史家、彼らの遺してくれた著作は、今も郷土 盈と曲阜、ほほ同時代を生きた伊丹の二人の郷 というから、親交があったとは思えないが、将 去っており、「 三本松之記 」 も子孫から借りた (一八六五)の二十八年も前に将盈はこの世を 曲 阜 が「有岡古統語」を編纂した元治二年 。 歳で亡くなっている 。 による将盈顕彰の努力によって明らかになった 」 の中で 「 有岡庄年代秘 のである。岡田利 兵 衛 も 「 伊 丹 市 史 「彼は尚古のたしなみふかく、 記』以下、多数を編著し伊丹懐古に貢献した 」 と、郷土史家としての将盈を高く評価している 将盈と同時代を 生 き た 人 に 梶 曲 阜 が い た 。 曲 梶家系図録(文化 その内容は、地名の由来、野宮、 1 1- 一一十六年後の寛政十一年(一七 。 。 転載したほか、曲阜自らの見聞による著作を収 載している 伊丹城、俳譜、鬼 貫 のことから、当時流行して 夏季企画展 4 日(土)18月叩日(日) l 大阪国際空港開港七 O 周年記念 月 |空港と 歩んだ七 O 年 7 伊丹市立博物館 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 阜は、将盈より 九九)に、伊丹で 生 ま れ た 財保存協会所蔵博物館寄託)によると、梶家 はもと小畑六兵衛 と い っ て 東 桑 津 に 住 し て い た が、後に津田氏を名のり曲阜の曽祖父の代から 祖父金兵衛の代に姓 。 屋号は大和田屋で、曲阜 伊丹伊勢町に移り 住 ん だ 。 いた能狂 言 、角力、酒呑のことまで実に多岐に を梶と改めたという も大和田屋金兵衛と称した。曲阜は照顔斎と号 『 有岡古続語 』 のなか 伊丹酒家盛衰の事」は、 「 わたっている また しているが、これは彼が敬慕する俳人鬼貫を赤 幕末の伊丹の酒造業の状況を伝える史料として 曲阜は、将盈について 。 。 い顔と解して自ら を 「 て る 顔 」 と 称 し た と い う 。 価値が高く、正に江戸時代の伊丹郷町史といえ 曲車は伊丹の俳人としての大先輩 るものである 三一年には、 家業のかたわら俳句にも通じ、安政 。 二条殿から俳諸宗 匠 と し て 官 服 御 免 許 の 待 遇 を うけている で次のように述べている 「此将盈といへるハ である鬼貫を顕彰するため、鬼貫の遺墨をもと 往年大庄 屋 勤められし椛屋源兵衛といへる人な 。 に伊丹や近郊に七基の句碑を建てたが、俳諸に り、曽て在岡旧考といへる 一巻の著述あり、 とどまらず、伊丹の歴史にも強い関心を示して 間 よく此里のふるき事跡を探索して記し置けり、 苗字を古野といへり、堺町に椛屋何某といへる ハその 子 孫なり、この三本松の記借りくれる人、 所 『 有岡古続語」(博物館 有岡古続 将盈とハ何人なることをしらさりけれはいささ か記しぬなり 」。将盈は、兄の子邦好が長じる 期 いる。彼の編著による 。 所蔵)は、乾坤二冊の折本で、『伊丹荒木 軍 記」 とともに一つの箱に収められている 三 本松之記」を 語には、西谷午蔵の「有岡むかし語」・「有岡 むかし語余禄 」、古野将盈の「 場 公圭画香披賛「照顔斎曲車肖像」 第34号(H21) 絲海 平成二十一年度の 事業計画の紹介 (金)に予定をし そのために、伊丹郷町館の 監視・案内業務に携わり伊丹 郷町の歴史・文化の顕彰に参 画し、訪れる市内外の人々に 伊丹の歴史を実感してもらい、 月ロ日 てい ま し た 平 成 幻 年 度 総 会 は 、 伊丹市と「ともに」我がまち 5 皆様もご存じのとおり、新塑 「伊丹ブランド」 の全国発信 の一翼を少しでも担ってまい りたい。あわせて文化財愛護 少年団を中心とする後継者の 2 インフルエン、ザの発生により 。 急 逮、中止を余儀なくされま した その後、総会の取扱いにつ ともに、伊丹ロマン事業の取 育成に努力を傾けてまいると 検討しましたが、 組の中で各種関係団体との連 。 。「第 ずねて 3 現地講座 1 回文学碑をた 1 文化財講演会の実施 史跡めぐりパスツア の実施(日月中旬) 文化財整備に協力 伊丹郷町館の委託業務 」 l (旧岡田家・旧石橋家 住宅の監視・案内業務) 平成二十年度 事業の回顧 "万葉講座を開催“ 毎年、ご好評をいただいて 6 月 4 ル 日から 1 8 階大 月幻 回開催しました。 3 います「万葉を読む」講座を、 加年度も 6 日の期間に伊丹ホ 会議室で全 と歌人 」 をテ ジの内容充実 l 。 マに参加者 ω 「万 葉 秀歌 講師は古代民俗研究所代表の 城)」 ・「 清酒発祥の地 」 名で学びました 大森亮尚先 生 で、 等にまつわる冊子の編集 文化財案内ボランテイ アの充実・強化 文化財パトロールの実 各文化財保存団体との 役員の担当制 l 伊丹市文化財保存協会 ホームベ (6月下旬) 機関誌「締海(比号こ の発行 会員の増強 役員研修の実施 9月刊日には、 。 「万葉を読 講師の大森 む 」 現地講座「奈良県明日香 村方面」を実施 亮尚先生を案内人として参加 。 石舞台を通 者判名で、藤原宮跡、香具山 神社、万葉の森、 しての万葉の旅でした Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 ( 3 )( 2 ) ( 5 )( 4 ) ( 1 ) ( 2 ) いて、様々な観点から慎重に る総 会 の 開 催 は 諸 般 の 事 情 で 携を更に深め、過去から受け 一堂に会す 中止することとし、その代わ ついだ文化遺産を未来永遠に 継承し保護すべく努力する りとして、総会出席予定であ った会員の方々に限定し、総 具体的には、 次の事業に重点 を置き推進する。 会 議 案 書 を 送 付 し 、各会計決 算報 告 等 を ご 承 認 し て い た だ 月・現地 回 講座 方面 12 - • (・顕 有顕彰 岡彰 等 (案) 9 1 5 回実施) 7 」 回リレ 1 拡 充 いた 上 で 、 事 業 計 画 ご理解 3 ω 林海学 座 「産の 伊の保 丹保護 城護 強 化 をご承認し 。 (6月から 講座を含め全 ②「古代民俗講座」 (9月から叩月全 ー 。「第 (文化財強調月間) ③伊丹ロマン事業 実施) 講業 72 文化 立化遺 企遺産 の 連 携 織 各会 計 予 算 ( 案 ) ていただきました 。 ご協力をいただきありがとう ございました 。 その主な事業計画の内容は 次の と お り で す 本年度も、文化財の保護・ 顕彰に努め市民が文化財に対 する 知 識 と 理 解 を 深 め る た め 。 に啓 発 活 動 強 化 を 図 り 、 協 会 の充 実 発 展 に 努 め る を開閑 読講す むる 文 組 各文 種化 関財 係愛 団護 体少 と年 の団 連の 携育 成 ( 1 ) ( 3 ) ( 4 ) 3 ( 2 )( 1 ) ( 3 ) 万座財 葉のに ( 5 )( 4 ) 5 4 事 」 ①文 「 講化 第34号(H21) 絲海 原画展の開催“ "伊丹市文化財スケッチ集 --E "古代民俗講座を開催“ 5 回開催し l M 日から 旧岡田家住宅酒蔵において 古代民俗講座を9月 日月却日の間に全 協会創立判周年記 念 事 業 と して会員の渋出純子氏に作成 をテ マに講師古代民俗学研究所代 「日本の怨霊再び」 ました。 月 頂いたスケッチ集の原画を旧 8 日口日ま で の 問 展 「いたみテイ」を当協会 ジに追加いたし 報誌 1 1 ムペ のホ 1 h~ 。 キAFレ [アドレス] ZH万円\Z\ヨ -\ 一TUC コ-SNE吉 l 方 式で 実施、当該 り、リレ って ・文化の深さ のもと参加者を四グループに 市民に知 っ て頂いた (1日目) i マ ・ハ UU ・ 。 二 階ギャラリー 小西酒造「長寿蔵 」 川口宏海氏 士の人形 」 「伊丹郷町遺跡出 -) i 1・ 4 0 O 開催日時 / 日月幻日 O テ 土) ( を受講者総数日別名もの多くの 更に 伊丹の歴史 講座を受講することによ (日) 分けて巡った。 O 開 催日時/日月9日 ・ AU qd-nv ・ハ UV -)n0 --ム -qぺ U11i O 開催場所/見陽池公園内 O参加者数 / お名 講座 岡出家住宅 土 間において 8 l 」 第二回 」 ②「リレ j 主 たる 紙海学 j 伊丹の歴史、文化の -1 3- 「歴史・文化が醸し出す 伊丹ロマン事業」の実施 伊丹市・伊丹市教育委員会 が提唱し、文化財関係同団体 で構成する伊丹ロマン事業実 当 協会も 行委員会を中心として各種事 業が繰り広げられ、 次の 二 つの事業を展開し、多 。 j くの市民の皆様方の参加のも と好評を博した 現地講座 年の 当協会が昭和町 j ①「文学碑を訪ねて 市内には、 4 その中で見陽池公園 ω 基もの文学碑 年から昭和 ω 年までの 。 聞に設置した がある 一帯に設置した昆陽池等に因 マとした三つの講座を をテ i んだ文学碑日基を判り易い解 日間に一日一 師 日から ジの追加‘ 大手前大学教授の川口宏海先 3 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 講 表の大森亮尚先生の講義を受 l 講生刊名で楽しく学んだ。 ムペ 説書を配布し、事前研修に取 生方を講師とし、 所 2 。 l り組んだ。当協会理事の説明 場 一ボ、期間中の観覧者数は一一 千 コ一十八人を数えた ,ホ 」れまで検討を続けていま したわがまち伊丹のグラフ情 0 第34号(H21) 絲海 (2 日日 ) ょ・ハ ・ 0 -} U 。 開催日時/日月お 日 1 4 (日) j 大正・昭和ロマン1」 所 丹の酒造り」と 7 「一日だけの 3 月 8 日 ェ」等々の 日から し た 。 期間中、次の出 南京桃の展示即売会を実施い たしま 来事がありました。 立派な盆梅の展示 植木どころである東野の若 。 手グループより盆梅の展示が ありました 月 9 日に実施された田辺 写真パネルの展示 文学碑の拓本と 2 示 した 。 「伊丹の暦史 」 の上映、 題 した写 真 パ 小西酒造「長寿蔵」 ネル展そして酒蔵大画面ビデ 月 オ放映 二 階ギャラリー 、 「わ っしょい!冬の 「白雪蔵ま @伊丹郷町“ "第六回ひなかざり 、 平 成加年度も、 つり 」 元気まつり 」 バレンタインカフ 2 イベントと連携を図り、開催 期間を 聖子氏 本と 写 真パネルを展 「伊丹市名誉市民贈呈 までのお日間とし、 式典」会場に協会出展として 旧岡田家 住宅において明治から昭和ま ご本人揮 官宅 による文学碑の拓 遺跡が語る伊 「 "役員研修会を実施“ 。 月刊日に役員研修会を参 3 加者同名で実施しました 今回は岐 阜 県の関ヶ原と滋 賀県の安土城の視察研修を実 施しました。 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 伊丹茂氏 "史跡めぐり (金) 寺 ・高野山を は、 日月日日 パスツアー“ の実施 i 平成叩年度の史跡めぐりパ スツア に和歌山県根来 でのひな飾りやカルタ・すご ろくの展示、 14 小西酒造 「 長寿蔵 」 -h' (月) 二 階ギャラリー ・ハ υ 斗A ・ハ υ A 1i 「摂津のへそ」 マ①「伊丹郷町遺跡 ) マ 巡り、楽しい一日を過ごしま 。 なお、参加者羽名で実 した 。 その一 施しました l l 。テ 日目 所 O 開催日時 / 日月山日 (3 場 O テ 場 師 伊丹郷町ロマン 。 村上敏展氏 講 講 師 。 第34号(H21) 絲海 。 月白日旧岡田家住宅酒蔵 平成二十年度伊丹市γ 一 文化財愛護少年 団 入 図 式 一 5 で入図式を行いました において団員幻名参加のもと、 笹の葉に願い事を書き込んだ 短冊や色紙で作った色とりど 置 、 行き交う りの飾りを結びつけ、旧岡田 家の玄関に設 人々の目を楽しま せ て い た 。 階で(出 2 月刊日にはいた 階和室で(団員羽 ムロ 。 (稲野小 夏希(稲野小 年) 。愛護少年団(かるた大会) 年) 6 5 年) 年) 沖野帆乃花(南小 6 3 {優勝】 「ブラックホ 1ル」 楓子(南小 年) 年) 山本 5 4 年) 彩花(南小 健太 4 (花里小 大城(花里小 ズ」 1 6 ( 花里小 年) 穂高 4 【準優勝 教育長盾 麿瀬 FζnkHV 初仕立口 {第二位 } 「ガツツカポ 大西久美子(南小 6 年) 会長盾】 山田恵美釆(南小 6 年) 彩花(南小 6 年) 年) 【第三位 愛美(花里小 6 6 年) 年) 」 6 l 増井佐弥香(見陽里小 璃帆(昆陽里小 年) 年) 綾香(花里小 年) 村上 6 文化財保存協会 大前 6 年) 小田美都里(見陽里小 (鈴原小 2 年) {第三位} 「ミッキ 花里小 ( 2 年) 野口奈々美 鈴原小 2 中里かりん ザ利子(鈴原小 ゆ 団員町名、保護者、指導者 4 1 日には図書館 ル l 人であった 民d Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 渡 辺 和 人 み 名参加のも 8 新 春恒 例のかるた大会を1 大会を開催 ω 文化財愛護かるた 月 l 組問人 )、 みホ Q 名指導員他ロ名) 同チ 人)実施した 市内小 学生 、文化財愛護少 135 年団員を対象とし、参加者は 合わせて 年 田 疋 田 乾 乾 杉 山 江 ) 11 前 勝 部 115 。 1泊 結果は次のとおり。 【優勝 市長杯} (稲野小 6 。図書館大会(かるた大会) 等別名の計 と入国式が挙行された 月印日の l キャンプの実施 18 8 「兵庫県立歴 日で、団 員 日、指導員他 8 月刊ω 日 ω サマ 2 名の参加のもと 。 「赤穂海洋 史博物館」、 「姫路市自然観 察の森」、そして 科 学館」 等の見学をした 伊丹市文化財愛護 少年団の活動 日、国の重要文化財 りたなばたまつりの実施 5 「酒蔵」 直 之 7月 である旧岡田家住宅 松 本 第34号(H21) 絲海 文学碑をたずねて 麦わら音頭 一千円 六百円 伊丹の文化財 「スケッチ集 ー」四百円 1 ・ 2 分冊 有岡城跡・伊丹郷町 第 緑ケ丘遺跡 E 各四千円 五百円 一千五百円 三 次調査報告書 九百円 二 千円 -言回 「巳 紙海 M 号をお届けします。 今回は豊田正 義 さん、益尾 宏之さん、小長谷正治さん、 。 。 お忙しい中、執筆 中畔明日香さんから原稿を頂 きました 頂き有難うございました さて、事務局長として長年 育委員会事務局生涯学習部杜 いた古屋敷達夫氏が本年 。 3 全てが初めての体 。 月 力して頂 」 四百円 当協会の発展にご尽 ー 。 。 。 頂きますようよろしくお願い のより一層のご支援ご協力を えておりますので会員の皆様 ともに頑張っていきたいと考 」れから協 会のため皆様と 験となります りました 年三がその職に就くことにな 古屋敷氏の後任として、 本当にお疲れ様でした 「スケッチ集 。 末をもって退職されました ります l ジ“ "会員が開設している ホームペ さい、皆様の求める情報がギ どしどしアクセスしてくだ 四百円 1 ツシリありますよ 【アドレス】 五百円 E 。 号館一階) 2 ル 「蔵(くら)( 」JR アー 会教育課において販売してお l 以上のスケッチ集は、 」 四百円 (JR伊丹駅コン 報告書 埋蔵文化財保護の手引き 五百円 後 凶文化財愛護少 年 団 す叫「業旅行の実施 」四百円 北園遺跡 E 一千円 緑ケ任遺跡第 「スケッチ集 文学碑をたずねて 五百円 六百円 五百円 文化財を訪ねて 伊丹の年中行事 伊丹の酒造り道具 五百円 月幻日に愛護少年団の卒 業旅行を ω 字の参加のもと大 文化財を訪ねて 四百円 光物産協会 3 阪城・大阪歴史博物館を見学 有馬道 四百円 コース内) において販売して 以上の書籍類は、伊丹市観 しました。 巡礼と街道 六百円 います。 分布地図 集 E 以上の書籍類は、伊丹市教 編 [ 「スケッチ集 伊丹の文化財 口酒井遺跡詑・お次調査 伊丹の仕ごと唄 @ 六百円 新・伊丹史話 聞き書き 「一一寸 23 ω。 027 一 Eヨア」℃\申し上げます 万一\〉ミ 印 ωヨ ZH万一ミをささ・。。コ0巴 ・・ 宮コ 、 Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会 1 6 「伊丹のく ら し 」 千 二 百 円 千二百円 ト・ホ 伊丹駅前アリオ において販売しています 伊丹城跡発掘調査報告書 皿 W - V 各七百五十円 有岡城跡発掘調査報告書咽 =一千円 五百円 ωaω 。才一 Z一ヨ一 伊丹市埋蔵文化財調査報告書 (有岡城跡) 五百円 木 地域研究いたみ 第ロ号 千二百円 一千円 第お号 第日比号 」 四百円 ー」四百円 E 四百円 市 (御願塚古墳) 里 伊丹のわらべ唄⑦ 円 円 円 絵はがき「鬼貫 賛 春 ト 画 巻 」 伊丹の文化財 「スケッチ集 「スケッチ集 発掘された伊丹 の 町 酒の町・伊丹 二 千円 L 博物館において販売してい 収 既刊書あんない 伊丹の文化財 五百円 ます。 以 上の書籍類は、当協会事 分布地図 八百円 務所(旧岡田家住宅内) 伊丹の伝説 同 同 E I 千 百 百 絲海 第34号(H21) 終海第 34 号 発行日 平成 21 年 6 月 25 日 編集伊丹市文化財保存協会 〒 664-0895 伊丹市宮ノ前 2丁目 5香28号 市立伊丹郷町館(旧岡田家住宅内) 電話 . FAX0 7 2 7 7 2 8 8 3 0(直通) ホームページ h t t p: / /i t a m i b u n k a z a i . j p/ E メール o伍 ce @ itami-bunkazai.jp Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会