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第7章 環境政策の計量経済分析: 自動車市場における減税・補助金の

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第7章 環境政策の計量経済分析: 自動車市場における減税・補助金の
第7章
環境政策の計量経済分析:
自動車市場における減税・補助金の定量評価
北野
泰樹1
【要旨】
地球温暖化問題への対処として、日本では二酸化炭素の主要な排出源となる自動車市
場において、より高燃費の自動車を普及させるための補助金政策を導入した。
このような政策は自動車利用によって生じる外部性の問題を解決する上で正当化され
うる政策ではあるが、補助金支出基準や金額などを含めて、環境政策上の目的を達成す
る上で効率的な政策設計であったかは十分に考察する必要がある。
そこで本章では、2009年に導入された環境優良車に対する補助金措置について、環境
政策としての効率性に注目した費用効果分析に基づく評価を紹介する。分析では、構造
推定モデルと呼ばれる計量経済分析手法に基づいて予測された、異なる補助金支出ルー
ルの下で実現する政策効果を示した上で、環境政策として効率的な政策を検討する。
補助金支出のための燃費基準、1台当たりの補助金額に注目してルールを検討した結
果、一定の予算、あるいは一定の効果を実現する上で、環境政策として効率的なルール
は、補助金支出燃費基準を実際よりも高い値に設定し、補助金対象車種を絞るものであ
ったことを示した。
1. はじめに
日本の二酸化炭素(温室効果ガス)排出の20%は輸送部門から生じており、そのうち50%
が自家用車部門からの排出である2。近年の地球温暖化問題への関心の高まりとともに、こ
のように主要な二酸化炭素(温室効果ガス)排出の源泉となっている自動車部門において、
二酸化炭素削減の取り組みの必要性が高まっている。実際、自動車市場においては、日本
を含む各国で、燃費性能の高い環境優良車、いわゆるエコカーの普及促進のための政策が
導入されてきた。
このような環境政策は二酸化炭素の排出は外部不経済の一例であるという点から正当
化が可能だろう。つまり、二酸化炭素の排出に伴う地球温暖化は社会全体ではコストとな
るが、個々の経済主体が直接自らが排出した二酸化炭素に伴う費用を直接負担しないので、
各経済主体は二酸化炭素の排出に伴うコストをあまり考慮せずに消費・生産活動を行う。
その結果、社会全体で排出される二酸化炭素は社会的に望ましい水準を超えてしまう。環
1
2
一橋大学イノベーション研究センター特任准教授
国土交通省、http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/environment/sosei_environment_tk_000007.html
― 141 ―
境政策は過大となる二酸化炭素の排出を抑えるために、必要となるのである。
日本においては、自動車市場における環境政策として、エコカーに対する減税や補助金
措置を政策ツールとして用いてきた。このような環境政策は、先に述べたような外部性へ
の対処として機能しうる政策ツールであるといえるだろう。しかしながら、環境政策ツー
ルはガソリン税など他の政策や、また減税や補助金の対象車種の選定などの政策の細部の
設計を含め、数ある政策候補の中で、実際に採用された政策が望ましいものであったかに
ついては適切に評価されなければならない。特に、このような政策は、企業間の競争に影
響を及ぼすこともある。もし政策が国内外の企業に異なる影響を与える場合、特に、国内
の企業を実質的に優遇するような結果をもたらしているのならば、国内政策であるにもか
かわらず、国際間の摩擦の原因となってしまう。環境改善の観点から導入された政策がそ
の目的の達成のために効率的であるかどうかの検証は、国際的な競争環境を整備する上で
も重要な課題であるといえる。
本章では、2009年に導入された環境優良車に対する補助金政策を対象に、効率的な政策
を探索する方法の一つである費用効果分析を用いた分析を紹介する。費用効果分析とは、
特定の効果に注目し、その効果と政策の実施に要する費用の関係からより効率的な政策の
候補を見つけ出す方法である。分析を実施するには、いくつかの政策の候補を選定し、そ
れらがもたらす効果を定量的に予測する必要がある。本分析では、構造推定と呼ばれる計
量分析手法を用いた分析結果から予測された、異なる政策設計の下で実現する効果を示す。
その上で、費用効果の観点から望ましい政策を考察する。
以下、次のような構成となっている。次節では、政策評価の代表的な手法である費用便
益分析を説明した上で、本分析の基礎となる費用効果分析を紹介する。第3節では、政策の
効果の予測のための自動車市場のような、寡占競争市場を分析するための構造推定モデル
を紹介し、費用効果分析に基づく政策分析結果を示す。第4節では、まとめと今後の課題に
ついて述べる。
2. 費用便益分析と費用効果分析
ある目的を達成するために実行可能な政策は通常一つとは限らない。本章と関連する二
酸化炭素排出量の削減のような環境政策上の目的を達成するには、主要な排出主体(個人
もしくは企業)に排出量に応じた税金を課してもよいし、より低排出を実現する設備の設
置に補助金を出してもよい。また、税金の水準や補助金の水準も選択可能であるし、税金
の対象や補助金の対象をどう設定するかについても選択可能だろう。
このように、複数の政策候補が存在し、それらの中から最も効率的なものを選択する際
には、政策がもたらす帰結を評価する必要がある。本節では、政策のもたらすすべての効
果と実施に要する費用をすべて金銭換算して評価する費用便益分析と、特定の効果に注目
し、費用対効果に注目する費用効果分析について、分析の手続とともに紹介する。
― 142 ―
(1) 費用便益分析
政策策定、政策評価の代表的な方法の一つに費用便益分析が挙げられる。費用便益分析
では、あるプロジェクト(政策)がもたらす便益と費用を計算し、その差が最も大きくな
るプロジェクトを推薦する。Boardman et al. (2010) による費用便益分析の基本ステップは
図表1のようにまとめられる。
図表1
ステップ
I
II
III
IV
V
VI
VII
VIII
IX
費用便益分析の基本ステップ
内容
選択可能なプロジェクトの確定
便益を受ける主体,費用を負担する主体を決定
効果を特定し,その効果を測定する指標を選択
プロジェクトの期間を通じた効果を定量的に予測
すべての効果を金銭的価値で評価
便益と費用の割引現在価値を計算
各選択肢の純現在価値( = 便益 - 費用,割引現在価値)を計算
感度分析の実施
プロジェクトの推薦
(出所)Boardman et al. (2010)
以下、表に示されている各ステップについて簡単に説明しよう。費用便益分析において
は、(I) 政策の候補は無数に存在するものと考えられるが、各候補を評価する際の手続き
上のコストは通常大きいので、少数の政策候補に絞りこむことから始まる。絞り込みの際
には、当然ながら理論的な知見が役立つ。例えば、物品税を考える場合には、異なる税率
をさまざまな政策候補とする必要はなく、弾力性ルールの下での政策を考えればよいケー
スもある。政策の候補を絞りこんだ後は、(II) 便益と費用を負担する(経済)主体を設定
する。主体とは、国や都道府県、あるいは世界などの単位である。もちろん、背後には国
に存在する消費者や企業といったより小さい単位の主体の便益や費用を考えることになる
が、ここではそれらを評価する範囲を指定するという意味で主体と呼んでいる。通常、一
国の政策であれば国が便益と費用を負担する主体となる。この場合、他国にもたらす便益
や費用は勘案されない3。
(III) 政策の評価を行うには、政策がもたらす効果を特定し、効果を測定する指標を明ら
かにする必要がある。この段階では、効果を測定する指標はどのようなものでもよい。例
3
国が費用便益分析の主体となることが多いのは、人々が国内、あるいは国際的に移動が自由であるかど
うかが大きな理由の一つである。仮に政策が地域間で異なる影響をもたらすとしても、原則として、国内
での人々の移動は基本的には自由であるので、便益の多少は地価に帰着し、結果として地域間で人々が得
る効用は等しくなる(資本化仮説)。よって、地域を主体とした分析である必要はない。一方、国際間で
の移動(移民)には制限があるため、国内外での効用の差は生じる。ただし、国を主体とする場合、国際
間で協調して対処しなければならない問題、例えば地球温暖化問題を解決するような政策は導入されづら
くなってしまう。問題は国レベルでなく、世界レベルで波及する問題であるが、各国は自らの便益しか考
えないため、囚人のジレンマに陥ってしまう可能性があるからである。こうした場合、国ではなく、世界
を主体とした費用便益分析を考えるのが望ましい。
― 143 ―
えば、交通政策であれば、事故の死亡者数の減少効果、あるいは移動時間の節約効果など、
異なる効果を列挙すればよい。効果を特定化した後は、(IV) 政策がもたらす効果の予測を
行う。政策の効果が長期にわたる場合には、各時点での効果を予測する必要がある。効果
の予測は費用便益分析、費用効果分析において要をなす手続きである。この点については
次節でより詳しく説明することとする。
効果が予測されたならば、(V) 金銭という一つの単位ですべての効果を評価する手続に
入る。金銭的価値での評価は当然ながら簡単な作業とはならない。効果が市場で取引され
ている財市場を通じて現れるのであれば、
(一定の条件の下で)その市場における社会厚生
の変化として金銭的価値の評価を行う方法が用いられる。他方、外部性など、市場で取引
されない財に与える効果も存在する。そうした場合には、その効果が持つ金銭的価値、シ
ャドープライスをなんらかの方法で明らかにする必要がある。この点については次節以降
で詳しく説明することとしたい。
金銭的価値で各効果の費用便益を評価したとしてもそれらが比較可能なものとは限ら
ない。金銭価値を効果間で比較する際には、便益や費用が実現するタイミングを考慮する
必要があるからである。例えば、ある政策においては費用は政策の実施時点で生じるが、
効果は10年後に現れるということであれば、金銭換算された効果(便益)は現時点で生じ
る費用と直接比較はできない。現在の費用と将来の便益が同じ100万円だとしたら、現在の
100万円の価値の方が大きいと人々は考えるだろう。つまり、費用便益分析の次のステップ
は、(VI) 将来に発生する便益は適切な割引率を用いて割引現在価値として各種の費用・便
益を評価する手続となる4。
政策の効果と費用の割引現在価値が計算されれば、(VII) それらの差、つまり純現在価
値を計算する手続に入る。このようにして計算された純便益は、政策選定の基礎となる指
標となる。しかしながら、純便益の計算においてはさまざまな仮定に依拠するものである。
例えば、交通政策において、時間の節約効果についてはシャドープライスである時間価値
を用いられるが、計量分析等で計算された時間価値は誤差を持つ。また、時間価値につい
ては多数の研究があるが、それぞれ数値は異なっており、どの数値を使うべきかについて
は合意があるわけではない。費用便益分析では、(VIII) 計量分析上の誤差や先行研究にお
ける結果のばらつきを踏まえて、異なるシャドープライスの下で純便益の計算を行い、得
られた結果の頑健性を確認する感度分析を行う必要がある。なお、感度分析においてはシ
ャドープライスのみならず、例えば割引率の設定など、分析に用いたパラメタについて可
能な限りいろいろなパターンで試すのが望ましい。
最後に、(IX) 得られた分析結果に基づいて、プロジェクトの推薦を行う。基本的には、
純便益が最も高いプロジェクトを推薦するが、感度分析の結果、その政策が純便益を最大
とする政策とならないケースが一定の確率で起こるならば、それを踏まえた政策の推薦が
4
具体的な割引率の設定については、井堀・福島(1999)を参照されたい。
― 144 ―
必要である。
以上が、費用便益分析の手続きをごく簡単に説明したものとなる。以下では、本章に関
連する構造推定に関係する(IV)、(V)の項目について、より詳細な説明を追加することとし
たい。
① プロジェクトの効果の予測
プロジェクトの効果は、そのプロジェクトが導入された状況とされていない状況での効
果の差によって測定される。効果の予測の一つの方法は、政策の影響を受けるグループ(処
置群)と受けないグループ(対照群)に分けて、効果の差を測定するものである。例えば、
雇用訓練が5年後の賃金に与える効果については、雇用訓練を受けたグループと受けていな
いグループ間で、その効果を比較する方法が考えられるだろう。こうした方法は、政策の
対象となるか否かがランダムに割り振られるような状況では機能する。しかしながら、訓
練を受けるか否かはランダムではなく、労働者の自発的な意思決定によると考えられる。
したがって、これら2つのグループの差は政策の効果ではなく、単なる労働者のセレクショ
ンの効果を捉えてしまう可能性がある。よって、これらグループ間の比較は誤った効果の
予測をする危険性がある。
社会科学において、政策評価を行う場合には、法律や制度、自然条件などの外生的な要
因により、処置群と対照群が分かれるような状況を見つけ出すことが重要となる。通常、
法律や制度はある種の非連続性を持っており、セレクションの影響をあまり受けずに処置
群と対照群が分けられることもある。例えば、一定の成績に満たない(テストの点数があ
る閾値より低い)学生に対しての補習の効果を測定したい状況を考えよう。この場合、補
習を受けた人と受けていない人の単純な比較には問題がある。なぜなら、補習を受けた人
はもともと成績が悪い学生であるので、良い学生とはそもそもの能力の違いが存在すると
考えられるからである。こうした場合、補習の効果を見る一つの方法として、閾値を少し
下回ったため補習を受けたグループと、閾値を少し上回ったため補習を受けなかったグル
ープのみを取り出して、それらの比較を行う方法が考えられる。この方法は適切な補習の
効果を示すとなりうる。なぜなら、閾値近辺の学生は、潜在的な能力が近いグループであ
り、なおかつ、補習の影響を受けたグループと受けていないグループに分けることができ
るからである。このような制度上の非連続性を用いる方法を含め、実験的アプローチを用
いた方法は、Angrist and Piske (2008) に詳しく説明がなされているので、そちらを参照さ
れたい。
しかしながら、このような実験アプローチは常に適用ができるわけではない。今回の分
析の対象である自動車市場における環境政策では、適当な対照群を見つけることは難しい。
一つの考え方は、補助金政策は一部車種に対してのみであるので、補助金対象車と非対象
車としてグループ分けを行う方法であるが、補助金の対象車種と非対象車種は密接した代
替関係にある財であるので、対象か非対象かによらず、政策の影響は受けているものと考
― 145 ―
えられる。加えて、本分析では、代替的な補助金支給ルールを導入した場合の効果の測定
を目的としている。実際に導入されていない政策の評価は、処置群となるデータが存在し
ないため、グループ間の比較はできない。
このような状況にも対応できるもう一つの方法は、政策が影響を与える背後のメカニズ
ムを特定化して、シミュレーションにより効果の予測を行う方法である。例えば、本章で
対象とする自動車市場における補助金政策の場合、自動車市場における消費者行動モデル
と企業行動モデルを定式化し、それらモデルを規定するパラメタを計量経済分析に基づい
て推定することから分析がはじまる。このような分析は構造推定と呼ばれる。推定結果を
得た後は、政策がそれらに与えるメカニズムを示し、シミュレーション分析により、どの
ような均衡が実現するかを示す。つまり、構造推定モデルを用いた分析では、観察された
データから、処置群の帰結、あるいは対照群の帰結をシミュレーションにより導出するこ
とで、政策の評価ができるのである。もっとも簡単な構造推定の例は需要曲線と供給曲線
の例であろう。需要関数と供給関数を推定すれば、例えば、購入補助金による需要関数の
シフトや生産補助金による供給関数のシフトが生産量や価格に与える影響を分析できる。
② 効果の金銭化
費用便益分析においては効果を測定した後、それら効果を一つの比較可能な指標でとら
えるために、金銭化を行う。金銭化は通常、注目する効果に対する支払意思額によってな
される。市場需要関数は各消費者の支払意思額によって表される個別需要関数を集計した
ものとして表現されるので、需要関数を推定することでプロジェクトの実施の便益、つま
り支払意思額を推定する方法が採用される。
もちろん、対象となる効果に直接関連する市場が存在するとは限らないので、支払意思
額の測定に常に需要関数の推定法を用いることができるわけではない。例えば、交通政策
の効果の一つとして騒音低減効果があるとしても、騒音そのものが市場で取引される財で
はないため、騒音に対する需要関数を推定することはできない。このような場合でも、そ
れら効果に対する金銭価値を測定する方法は存在する。一つの方法は間接市場法と呼ばれ
る方法で、注目する効果そのものの市場ではないが、その効果が他の市場で取引される財
に対して間接的に与える影響を見ることで、金銭化を行う方法である。このような間接的
に測定された効果の金銭価値をシャドープライスと呼ぶ。間接市場法は、類似市場法、ト
レードオフ法、中間財法、資産評価法、ヘドニック法、旅行費用法、防御支出法など、さ
まざまな方法が存在する。騒音の場合だと、騒音の効果は周辺の地価に反映されるという
仮説(資本化仮説)に基づく、ヘドニック法による支払意思額の計算がなされることが多
い。
費用便益分析は上記の方法が適用可能で、費用と便益が適切に評価できるという状況に
おいては、効率的な政策を策定する上で有効な方法といえる。しかしながら、もちろんプ
ロジェクトのタイプによっては金銭換算が困難、あるいは金銭換算したくないという状況
― 146 ―
も生じうる。典型的な効果としては、人命の価値に対する金銭評価が挙げられる。もちろ
ん、交通政策等を考える上では、政策が人命に与える影響は無視しえない要因である。こ
のような場合、効果を金銭評価せずに政策の有効性の比較を行う、費用効果分析が用いら
れることもある5。
なお、人命に対する金銭評価を行うことができないわけではない。人命に対するシャド
ープライスは、市場で取引される安全装置(エアバッグなど)に対する需要から測定され
る。安全装置は交通政策同様、事故による死亡リスクに影響を与える財であるので、それ
ら財に対する需要は、死亡リスクに対する支払意思額を表すと考えられるからである6。
(2) 費用効果分析
効果を金銭換算せずに、政策の効果と政策の実施費用の関係に評価を行う方法を費用効
果分析とよぶ。この方法は、ある効果を金銭換算できない、あるいはしたくない場合に有
効な方法として位置づけられる。費用効果分析では、望ましい政策を一つ選抜するという
ことができないこともあるが、数ある政策の候補の中からいくつかの政策を絞りこむ上で
は有効な方法である。
費用効果分析の一つの方法は、費用効果比率(費用/効果)に注目し、それが最小となる
プロジェクトを望ましい政策とするものである。この方法は、ある予算(費用)に対して
予算の規模に依存せずに効果が実現するような状況下では政策決定の手続きとして機能す
る。しかしながら、プロジェクトは実施規模(予算、あるいは費用)によって異なること
が通常である。例えば、100億円の予算で10の効果を実現する政策と、10億円の予算で5の
効果を実現する政策のどちらが望ましいかは、費用効果比率に注目すれば後者であるが、
必ずしも費用効果比率に基づく選択が正しいとは限らない。もしある程度予算に余裕があ
り、高い効果を望むならば前者を選んでもよいだろう。このようなプロジェクトの規模を
勘案する場合、費用効果分析では、(a) 一定の費用の下で、効果のより高い効果を実現す
る政策、あるいは、(b) 一定の効果を実現する下で、より費用が安い政策、に注目する。
これらの方法は費用(予算)や求める効果に一定の合意があるならば、政策の選択におい
て有効な方法である。しかし、通常は一定の費用、効果について合意があるわけではない
ので、それらの選択については恣意的な側面が残ってしまう。ただし、異なる予算や効果
に注目して分析を繰り返すことで、予算や効果で支配される選択肢を排除することは可能
であるので、政策の絞りこみは可能である。なお、ある政策Aが他の政策Bを支配するとは、
政策Aは政策Bと同じかそれ以上の効果を実現するが、より低い費用で実施できる、あるい
は政策Aは政策Bより同じかそれ以下の費用であるが、より高い効果を実現するような状況
5
なお複数の効果に注目したい場合には、各政策がもたらすすべての効果を列挙する多目的分析という方
法もある。
6
このような統計的生命価値を含む死傷事故に係るシャドープライスは内閣府 (2007) で報告されている。
そこでの試算結果によると、日本における死傷事故のシャドープライスは約 2.6 億円である。
― 147 ―
を指している7。
3. 自動車市場における補助金政策の費用効果分析
本節では、2009年に導入された環境優良車に対する補助金政策(エコカー補助金)につ
いて、費用効果分析の観点から評価を行う。費用効果分析を行うに当たっては、効果の予
測を行う必要がある。ここでは、近年発展を遂げている構造推定モデルに基づく自動車市
場の分析の考え方と推定結果に用いたシミュレーション分析による政策がもたらす効果の
予測について紹介する。
本節ではまず、今回分析する補助金政策の詳細について以下で説明し、その後、政策の
予測のための計量経済モデルを規定する差別化された需要関数の推定と多数財の寡占競争
モデルに基づく限界費用の導出について説明する。次に、モデルを用いて予測された異な
る補助金支出ルールの下での政策効果を示し、費用効果分析により、環境政策上、効率的
な政策を示す。最後に効果の設定に係る問題とその他、この補助金政策に関連する論点に
ついて、議論する。
(1) 2009年度エコカー補助金
2009年に導入されたエコカー補助金政策は車齢13年以上の自動車を廃棄する場合には、
より有利な条件で新車の購入ができる、スクラップインセンティブを伴う施策であった。
具体的な制度は以下のとおりである8。
(a) 車齢13年以上の自動車を廃棄しない場合には、2010年度燃費基準(図表2参照)+15%
を満たす自動車を購入する場合、10万円の補助金、
(b) 車齢13年以上の自動車を廃棄する場合には、2010年度燃費基準を満たす自動車を購入
する場合、25万円の補助金。
図表 2
車両重量(kg)
-- 703
703 -- 828
828 -- 1016
1016--1266
1266--1516
1516--1766
1766--2016
2016--2266
2266--
2010 年度燃費基準
2010年度燃費基準値(km/l)
21.2
18.8
17.9
16.0
13.0
10.5
8.9
7.8
6.4
(出所)国土交通省
7
例えば、政策 A、B ともに費用は 1 億円で、効果(事故死亡者の減少数)がそれぞれ 10 人、100 人であ
れば、政策 B は政策 A を支配する。
8
補助金対象車は燃費基準に加えて、平成 17 年度排出ガス基準 75%低減レベルである必要がある。
― 148 ―
費用効果分析においては、いくつかの政策候補の中から効率的な政策を見つけ出すこと
が目的となる。以下で行う分析では、図表2の補助金支出に係る燃費基準と1台当たりの補
助金額に注目し、政策の評価を行う。細かい政策候補の設定についてはシミュレーション
分析の結果を報告する際に説明する。
(2) 差別化された財の需要関数の推定
自動車市場は、各企業が複数の財(モデル)を供給し、そのそれぞれが異なる品質を持
つ、典型的な差別化された財の市場である。したがって、自動車市場の分析には、差別化
された財の需要関数の推定が必要となる。差別化された財であれば、各財の価格変化はそ
の財の需要のみならず、それ以外の財の需要にも影響を及ぼす。したがって、差別化され
た財の需要関数の推定では、各財間の代替関係、つまり、財間の交差価格弾力性を明らか
にすることが目的となる。しかしながら、財間の弾力性を明らかにすることは、単純な計
量分析では困難であることが多い。例えば、弾力性をパラメタとして計量分析を行うとす
ると、財が100種類存在する場合、注目すべき弾力性は10,000個存在するので、推定する必
要のあるパラメタは10,000個となる。このような分析は、自由度の問題から通常は機能し
ない。このような差別化された財の需要関数の推定における自由度の問題は、J 2 問題と呼
ばれる。ここでJ は市場に存在する財の数を表している9。
J 2 問題は、財間の代替関係に制約を置き、推定するパラメタの数を減らすことで対処さ
れる。通常、需要関数の背後にある効用関数から導出できる性質に基づく制約を課したり、
あるいは効用関数を特定化することで、推定の必要のあるパラメタの数を減らす方法がと
られる。代表的な差別化された財の需要のモデルは、補償需要関数上の財間の交差偏微分
の対称性等の性質を用いるDeaton and Muelbauer (1980) によるAIDS (Almost Ideal Demand
System) モデル、効用関数の特定化により制約を課す離散選択モデルが代表的なものであ
る10。本分析では、自動車市場の分析で良く用いられる、離散選択モデルに基づく需要関
数の推定を行う。ただし、ここでは、モデルや推定の詳細については省略する。興味のあ
る読者は、北野 (2013) を参照されたい。
9
例えば、需要関数の推定でよく用いられる対数線形モデルに基づく推定式は、以下の通りである。
ln q j    j  l 1  jl ln  p l    j , j  1,2,, J .
J
上式において qj,pj は各インデックスの財の数量と価格を表し、αj,βjl は推定するパラメタである。ここ
で、βjl は各財の弾力性を表しており、j = l であれば自己価格弾力性、j≠l であれば交差価格弾力性となる。
よって、J 本の推定式に対してそれぞれ J 個の自己価格弾力性があるので、定数項 αj を除いても、推定し
なければならないパラメタは J 2 個となる。最後に εj は推定上の誤差項である。
10
差別化された財の需要関数としては、Dixit and Stiglitz (1977) にあるような、CES (Constant Elasticity of
Substitution) モデルも経済分析では良く用いられる。しかし、CES モデルは広く理論分析で用いられる一
方、需要関数の推定で用いられることは少ない。ただし、カリブレーションに基づく政策評価研究では、
金本・蓮池・藤原にあるように、CES モデルを用いているものも存在する。また、応用一般均衡分析に
おいても消費者行動は CES モデルで定式化されることが多い。
― 149 ―
(3) 寡占競争モデルの定式化と限界費用の導出
政策評価のためのシミュレーションを行うには、需要関数に加えて、各企業が生産する
財の限界費用を導出する必要がある。限界費用自体を直接データから観察するのは困難で
あるので、政策分析では市場均衡における諸条件から限界費用を導出する方法が用いられ
ることが多い。完全競争市場であれば、均衡において各財の価格は限界費用に一致するが、
自動車市場のように、少数の企業が競争する寡占市場では、価格は通常限界費用には一致
しない。そこで、寡占競争市場の分析では、各企業の競争形態(価格競争、数量競争など)
を仮定し、そこから利潤最大化の一階条件として得られる、
「価格=限界費用+マークアッ
プ」の関係から限界費用を導出する。各企業の設定するマークアップの水準は需要関数の
推定結果から導出することができるので、この関係を用いると、限界費用は観察される価
格からマークアップを差し引くことで求めることができるのである11。
ただし、限界費用の推定値は分析者が仮定する競争形態に依存することには注意が必要
である。例えば、企業間の競争を価格競争とする場合と数量競争とする場合、また、企業
が共謀(共同利潤最大化)をしている場合で、導出される限界費用は異なってくる。政策
分析において、もし企業間の競争形態について複数の候補が考えられる場合には、すべて
の可能な仮定の下で分析することが感度分析の観点から望ましい。しかしながら、以下の
分析においては、価格競争を仮定し、他の競争形態の下での分析は行われていないことに
は留意されたい12。
なお、競争政策の分析では、こうした企業間の競争形態の違いに特に注目した分析がな
される。例えば、企業の合併の評価を行う場合には、合併企業が共同利潤最大化を行う場
合にどのような均衡価格が実現し、そして社会厚生が実現するのかに注目する。なお、も
し限界費用に関するデータが利用可能であれば、企業がどのような競争を行っているか、
を識別することができる。つまり、カルテル等の発見の方法としてもここでの分析は応用
可能なのである。
(4) カウンターファクチュアルシミュレーションと費用効果分析
需要関数の推定結果と各企業の生産する財の限界費用を明らかとすれば、政策が導入さ
れなかったケース13、あるいは異なるルールで政策が導入されたケース(カウンターファ
11
この点について理解するために、不完全競争市場の典型例である独占のモデルを考えよう。独占下で
は、企業は価格支配力を持つので、価格の変更に伴う需要量の変化を考慮して、価格設定を行う。利潤最
大化に基づく価格戦略においては、限界収入が限界費用に一致する点で生産量が定まり、需要関数上でそ
の生産量に対応する価格が決まる。限界収入は生産量を追加的に 1 単位増加させたときに得られる収入で、
収入は需要関数上の価格と需要量の組合せから計算できるので、需要関数が推定されていれば収入が計算
でき、そして限界収入を導出できる。企業が設定するマークアップは、観察可能な価格から観察された生
産量の下での限界収入を差し引くことで求めることができる。
12 ただし、価格競争の仮定は自動車市場の分析において標準的に用いられるものである。自動車市場に
おいては、通常カルテル等の問題は考えられないため、共同利潤最大化等の仮定に基づく分析は不要と言
ってよいだろう。
13
政策の導入前であれば、仮に政策が導入された場合にどのような均衡が実現するかの予測が可能である。
― 150 ―
クチュアル)においてどのような均衡が実現するか、シミュレーション分析により明らか
にすることができる。ここではまず、補助金政策がなかった場合にどのような均衡が実現
するかをシミュレーションにより導出し、以下の費用効果分析で注目する新車の平均燃費
に与える影響を見てみる。また、費用効果分析では、補助金支払に係る政府の予算に注目
した分析を行うが、政府が支払った補助金総額はデータとして直接利用可能ではない。そ
こで、本研究では、モデルの予測する総補助金総額を計算し、分析を行う。これらの結果
は図表3に示されている。
図表3
平均燃費(km/l)
補助金総額(億円)
補助金政策の効果
(i) 補助金無
18.897
0
(ii) 補助金有
19.234
2533
(出所)筆者作成
なお、本分析は2009年に導入された補助金政策について、2009年4月から2010年3月まで
の期間についてのみの分析である。実際の補助金政策は2010年9月まで続いたので、本分析
の結果は補助金政策が導入されていた期間全体ではないことには注意されたい。
それでは次に費用効果分析を行う。費用効果分析においては、まず代替的な政策を提示
する必要があるが、ここでは、先に述べたように、図表2に示されている補助金支出のため
の燃費基準と、1台当たりの補助金額に注目して新たな政策ルールを考える。具体的には、
補助金支出のための燃費基準を実際の基準から0.5から2.5まで0.1ずつ等倍で変化させた場
合と補助金額を0.1から5倍まで0.1ずつ等倍で変化させた場合のすべての組合せ(合計21×
50=1050の組合せ)を代替的な政策の候補として分析を行う。例えば、燃費基準の倍率を
0.5とした場合、実際の基準の半分の燃費しか持たないモデルについても燃費の対象となる
ことを意味している。また、補助金額の倍率が2であれば、スクラップをする場合の補助金
額は50万円で、しない場合の補助金額が20万円となることを示している。
以上を踏まえて、次の2つの分析を行う。
(a) 費用(予算)を一定として、効果が最大となるルール
(b) 効果を一定として、費用を最小となるルール
(a)については予算額、(b)については効果の基準値を決める必要があるが、ここでは、図表
3の(ii)に示される、2009年度の補助金ルールの下で支払われた金額、2,533億円を予算、実
現した平均燃費、19.234km/lを効果とした。なお、新車の平均燃費を効果、つまり環境政
策上の効果としているが、この効果の設定にはもちろん問題がある。効果の設定に関する
問題は次節でまとめて議論する。
― 151 ―
図表4は、補助金額(予算)を一定として最大の効果を実現する補助金政策の分析結果
である。表では、燃費基準を0.5から2.2の範囲で倍率を変化させたケースにおいて、予算
の範囲でそれぞれ最適な補助金の(現在の補助金額を基準とした)倍率を示している。例
えば、燃費基準を0.5倍とした下で補助金の対象車種を決定した場合、予算の範囲で最も高
い平均燃費を実現する補助金額の倍率は0.7となる。なお、燃費基準を2.3から2.5の範囲で
設定する場合、補助金の対象となる車種がほぼゼロとなるので、分析結果は報告していな
い。
図表から明らかなように、予算制約の下で最も高燃費を実現する組合せは燃費基準、補
助金それぞれ、1.6、2.8の倍率となる。この結果は、環境政策の観点からは、補助金対象
車種を絞りこみ、それらにより高額の補助金を拠出することが望ましいことを示している。
つまり、実際の補助金の支出基準は環境政策の観点からは緩すぎることを意味している。
図表4
燃費基準
0.5
0.6
0.7
0.8
0.9
1.0
1.1
1.2
1.3
1.4
1.5
1.6
1.7
1.8
1.9
2.0
2.1
2.2
予算制約の下で平均燃費を最大化する補助金政策
補助金
0.7
0.7
0.7
0.7
0.8
1.0
1.3
1.7
2.0
2.4
2.4
2.8
3.0
3.0
3.2
4.3
4.3
4.4
平均燃費(km/l)
18.985
18.985
18.985
18.988
19.042
19.234
19.462
19.900
20.143
20.433
20.432
20.680
20.647
20.647
20.648
20.254
20.254
20.338
(注)補助金はカウンターファクチュアルにおける各燃費基準の倍率に対して、最
大の平均燃費を実現する補助金の倍率を表している。ここで倍率とは、補助
金支出に関する代替案と実際の燃費基準(補助金額)との比率である。
(出所)筆者作成。
図表5では、効果を一定とした最小の補助金額(予算)を実現する補助金政策を分析し
ている。補助金の列は各燃費基準の倍率が与えられ、一定の平均燃費を実現する下で、最
小の総補助金支払総額を示す補助金の倍率が示されている。表から明らかなように、最適
な燃費、補助金の基準の下で、最小の補助金額を実現する組合せは燃費基準は1.7もしくは
1.8、補助金は0.8の倍率となる。この結果は、図表4における予算制約の下での最適政策の
― 152 ―
分析同様、実際の補助金拠出ルールの下での補助金対象車種は広すぎることを意味してい
る。一方、補助金については、予算を最小とすることが目的となっているため、前者の分
析と異なり、小さい値となっている。なお、燃費基準について2つの値が最適値として示さ
れているのは、いずれの倍率においても補助金の対象となる車種が変わらないためである。
図表5
一定の効果の下で補助金支払総額を最小化する補助金政策
燃費基準
0.5
0.6
0.7
0.8
0.9
1
1.1
1.2
1.3
1.4
1.5
1.6
1.7
1.8
1.9
2
2.1
2.2
補助金
2.3
2.3
2.3
2.3
1.9
1
0.8
0.7
0.7
0.7
0.7
0.7
0.8
0.8
0.9
2.1
2.1
2.1
総補助金支払金額(10億円)
1078.9
1078.9
1078.6
1076.3
765.2
253.3
126.7
72.9
57.1
40.8
40.7
35.3
34.8
34.8
36.8
45.0
45.0
39.6
(注)補助金はカウンターファクチュアルにおける各燃費基準の倍率に対し
て、最小の補助金支払額を実現する補助金の倍率を表している。ここで倍
率とは、補助金支出に関する代替案と実際の燃費基準(補助金額)との比
率である。
(出所)筆者作成。
(5) 効果の設定に係る問題点とその他の論点
これまでの分析では、販売された新車の平均燃費を効果として、政策評価を行った。し
かしながら、新車の平均燃費は必ずしも二酸化炭素排出量の削減につながるわけではない。
例えば、補助金政策が既存の自動車の買い替えではなく、自動車の利用台数を増加させて
いるならば、新車の平均燃費が高くても、二酸化炭素の排出量は増加することになる。効
果の設定として理想的なものは、新車だけでなく、すべての自動車を対象とした二酸化炭
素の排出量であろう。しかしながら、すべての自動車を考慮する分析は、日本で利用され
ている車種の分布がどのように変化するかなどの分析が必要となるため、今回の分析では
利用したデータの制約上、困難であった。ただし、新車の平均燃費という基準は、米国の
CAFÉ (Corporate Average Fuel Economy) 規制でも用いられており、一定の正当性のある尺
度ではある。
― 153 ―
また、2009年の補助金政策の目的は環境上の目的に加えて、景気対策としての側面もあ
った。そのため、環境政策上の目的だけに注目して費用効果分析を行うことには問題があ
るかもしれない。景気対策の考え方にはさまざまあるが、単純なマクロ経済政策の観点か
ら考えると、政府支出の増加として捉えることができるだろう。本分析の場合、予算を一
定、つまり政府の支出を一定とした下で、より高い効果を実現する政策を選択することを
試みている。したがって、本分析は、景気対策の効果をコントロールした下で政策の評価
したものといえる。もちろん、景気対策としての有効性は予算だけではなく、どのように
予算が使われたかにも依存するが、本分析のように、自動車市場に限定した分析であれば、
景気対策としての有効性の差異は小さいだろう。
ただし、こうした景気対策を政策評価に加えるかは注意が必要である。よく言われるよ
うに、穴を掘って埋める、という政策でも景気対策としての効果は存在するが、プロジェ
クトとして便益が生み出されるものではない。景気対策として不必要なプロジェクトが導
入されることを避けるためには、やはり費用便益分析に基づく政策評価が不可欠である。
したがって、本来であれば、実施の困難さはあるものの、今回の分析も費用便益分析に基
づく評価がやはり望ましいといえるかもしれない。しかしながら、仮に費用便益分析が実
行可能であったとしても、環境政策を含む国内政策に関連する政策設計でしばしば問題と
なる偽装された保護貿易政策という点に注目すると、費用便益分析はここでは必ずしも適
当ではないことは指摘しておきたい。
偽装された保護貿易政策とは、交易条件の改善や外国企業と競争する国内企業の優遇な
ど、貿易政策上の目的を達成するために、国内政策が歪められる状況を指している14。も
ちろん、このような偽装された保護貿易政策は、WTOの基本原則である内国民待遇原則に
反する行為で、もし各国が偽装された保護貿易政策を採用すれば、いわゆる囚人のジレン
マに陥ってしまう可能性がある。よって、貿易政策上の目的のために国内政策を歪めない
よう、各国が協調、相互監視する必要がある。なお、環境政策であれば、内国民待遇原則
については、GATT20条の適用除外となりうるが、当然ながら、環境政策と銘打って偽装
された保護を達成するような政策は認められないことも20条には示されている。こうした
点を勘案すると、環境政策の問題を考える場合には、純便益を最大化するような政策は必
ずしも望ましい政策とは限らない。なぜなら、費用便益分析では、その国の純便益が最大
となるような政策を選択するが、それはまさに国内政策を歪め、偽装された保護貿易政策
14
複数の政策目的、例えば交易条件改善という貿易政策上の目的と外部性の解消という貿易政策上の目
的がある場合、両政策が利用可能であれば、それぞれの目的にはそれぞれの政策で対応するのが最善(フ
ァーストベスト)の政策となることが知られている。
(Markusen, 1975)言い換えると、政府が社会厚生を
目的に政策の立案をする場合には、一方の政策が他方の政策のために歪められることはないのである。た
だし、貿易政策は各国が自由にその目的のための政策を決定してしまうと、いわゆる囚人のジレンマの状
況に陥る可能性があることが知られている。WTO 体制は囚人のジレンマを避け、各国が協調して自由貿
易を目指すスキームであり、加盟国は原則として貿易政策の利用を制限される。したがって、WTO 体制
が存在する下では、偽装された保護の懸念は常に存在しうるのである。
(Copeland, 1990; Ederington, 2001a;
Ederington, 2001b)
― 154 ―
を支持するものとなってしまう可能性があるからである15。
なお、Kitano (2013) で詳しく議論されているように、ここでの分析は、補助金政策に対
する先に述べた偽装された保護であるという米国の批判に関連している。米国の主張は、
補助金認定のための燃費基準を緩和し、対象車種を広くしてほしいというものであった16。
本章の結果は、環境政策の観点からは、燃費基準は緩すぎるというものであり、むしろ米
国の要求とは反対の結果であった。もし本分析で示されたように、補助金対象車種を絞り
込んだ場合には、米国車の補助金対象はさらに減少することになる。しかしながら、本分
析の結果が偽装された保護貿易政策であることを否定するものではないことには注意され
たい。望ましい環境政策を導入し、補助金対象車種を縮小すれば、代替財である米国車が
有利となる可能性は否定できないからである。
4. まとめと課題
環境問題に対しては、さまざまな政策が用いられているが、それらの効率性を検証する
ことは、政策設計において欠かせないプロセスである。数ある政策の候補からその優劣を
判断するには、それぞれの政策がもたらす帰結を予測し、一定の基準の下で評価しなけれ
ばならない。本章では、このような政策分析の基本的な方法である費用便益分析と費用効
果分析を概観し、2009年に導入された環境優良車に対する補助金政策を対象に、構造推定
に基づく環境政策の分析を行った。補助金支出ルールに注目した費用効果分析の結果、一
定の予算、あるいは一定の効果を実現する下で、環境政策として効率的な政策は実際より
も補助金支出のための燃費基準を60-80%程度高く設定し、対象車種を抑える政策であるこ
とを示した。つまり、2009年に導入された補助金政策は、他の環境政策の候補と比較する
と効率的な政策ではなく、多少の修正が必要であったといえる。
もちろん、ここで示した結果には多くの課題が存在する。まず、前節で述べたように、
本分析の環境政策上の効果の設定には問題がある。データを追加し、環境問題と直接関連
する二酸化炭素排出などを効果として採用した分析が望ましい。また、本分析では、2009
年の補助金政策の効果のみを分析しているが、自動車が耐久消費財であることを考えると、
15
ここでの議論は費用便益分析の主体を国としていることから生じる問題でもある。脚注 3 にて関連す
る議論をしているので、そちらも参照されたい。
16
米国車の多くは型式指定制度に基づく自動車性能の報告が免除される輸入自動車特別取扱制度に基づ
く輸入であったため、米国車については当時の日本の 10・15 モードと呼ばれる測定方法による燃費では
なく、米国での測定方法で計算された燃費に基づいて補助金認定がなされていた。米国では EPA
(Environmental Protection Agency) が規定する都市走行を前提とする City Mileage と都市走行と高速走行を
前提とする Combined Mileage の 2 つの燃費を各車種が持っている。日本政府は米国車については City
Mileage を用いて補助金認定を行ったが、米国は City Mileage ではなく、より高燃費を実現する Combined
Mileage を用いた補助金認定を行うことを主張した。したがって、米国の主張は必ずしも燃費基準を直接
緩和せよというものではない。しかしながら、川瀬(2011)でも議論されているように、より都市走行の
比重が大きい日本の実態にあう燃費は City Mileage であるので、米国の主張の妥当性は低い。よって Kitano
(2013) では、米国車だけの燃費測定ではなく、燃費基準そのものが環境政策として妥当であったかに注
目し、米国車の対象車種が不当に抑えられていないかの検証を試みている。
― 155 ―
政策は将来の需要を現在の需要で代替したものとなっている可能性がある。本分析は、あ
くまで2009年時点のみの短期的な政策の分析であるので、長期的な政策の影響を考察すべ
きであろう。これらは今後の課題としたい。
参考文献
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― 156 ―
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