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「中国残留日本人」への理解を深める集い
「中国残留日本人」への 理解を深める集い と き 2015年 6月 20日 午後 神戸方面 至 立花 l■ ) 15分 -4日 寺 場午後1時 1日 寺 (開 馨 ) ところ 尼崎市中央公民館 3階 大ホール 会場L06… 6482-1750 (ヌ ψ易無:米 斗 )事 前問い合わせ先 ■L06‐ 6483… 6108 公共交通機関での 阪急塚口駅市バス0水 道局 アクセス 悟11融 属ζ卿 公民館 至阪神尼崎 阪神尼崎駅 市バス0水 道局 プログラム ○朗読劇「わたしたち、なに人ですか ?」 出演 コスモスの会 尼崎 日本語教室 学習者 ○映画「望郷の鐘」上映 Oz夏 流 ′ 姿導「日本語教室学習者を囲んで」 同時開催 (3階 ロビー) 写真展 『開拓民』撮影 宗景 正 主な出演者 内藤 剛志 渡辺 梓 山口馬木也 市川 笑也 奥寺 康彦 李 麗仙 星奈 優里 斎藤 洋介 月ヽ 倉 一郎 堀内 正美 常盤 貴子 監督 山田 火砂子 主催 :尼 崎市 (委 託事業団体 共催 :尼 崎市教育委員会 : コスモスの会 尼崎日本語教室) 問い合わせ先 :コ スモスの会 06-6483-6108(田 中 ) 裏 面 に詳 細 を 記 載 「中国残留日本人への理解を深める集い」開催にあたって 今年 は戦争 が終結 して 70年 にな ります。 1931年 、 日本 は満州事変 を起 こ し中国東北部 に満州 国を建 国 しま した。敗戦 当時満州 国には 155万 人 の 日本人が住 んでいま した。 45年 8月 ソ連軍 の参戦、つづ く日本 の敗戦 の混乱 の 中で多 くの 日本人が亡 くな り、また生 き延び るために多 くの女性や子供 が 中国人 の家庭 に入 り、引き取 られ ま した。 これ らの 人たちは 46年 5月 か ら始 まった集 団引き揚 げに加 わることができませんで した。彼 らは望郷 の思 い を 抱 きなが らも帰国す るす べ な く、長期 にわた り中国に残留 を余儀 な くされた ので した。帰国へ の道 の り は長 く厳 しく、様 々 な制限 と障害 が待 ち受 けてい ま した。彼 らが帰国を果 た したのは 80年 半ばか ら 90 年 半ばにかけてで した。敗戦時 に子供 だ つた人 も 50歳 に達 していま した。帰国後 も 日本語 を学ぶため の十分 な支援 はな く、就労 の保障 もなかった彼 らの多 くは 日本語 を身 につ ける間 もな く、がむ しゃ らに 働 き、高齢 に達 した今 なお 日本語 が不 自由です。 コスモスの会 では このよ うな状況 におかれた尼 崎市や 近郊 の街 で暮 らして い る中国残留 日本人 とそ の家族 の支援 を しています。 映画「望郷の鐘」満蒙開拓団の落曰 あらす じ .b木 落昭 は長野県下伊刀研 会地村 にある長各寺 の住蔵 で あ り、国民学校 (現 在 の′学校 )の 先生で も │ヽ あった。 昭和 20年 5月 1日 、敗戦間近 に村長 に説得 され、 1年 だ │)と 言 う約束 で満州へ 渡 る。8月 9日 に、 日ソ不可侵 条約 を 成 ってソ連軍が一 方的 に攻 め て くる。8月 15日 の敗戦 もわ か らず に逃 げ廻 るが、女子供 を抱 えてシベ リア国沈近 くの光 洛鳴 の町 よ り逃 げて も、 なか なか先 に進 まない。Jll車 もな く、 橋 は関東軍 が逃 出 時 に壊 して行 き、平原 を歩 くとロ シア共 に締 まるので■ Lの 十 を歩 き、公料 もな く死 の衆 であっ た。或 る日、慈昭逹 ― 行 はロ シア共 に締 まり勃rllの 街 の収容所 に入 れ られ、 16歳 以上 の男ll■ はシベ リア に連 れて行 かれ る。極 寒 の十、労働 をさせ られ た落昭 は、奇琳的 に一 年半後 に日本 に帰国す る事 が出来 た。長各寺 にユ リ着 く と、妻 と子供達 はせ くなっ たと知 らされ る。 数年後 、長野 県曰十友好協会会長 になっ た慈昭 の もとに一 二 の手紙 が届 く。手紙 は日本人孤児 か らの 物 で、戦争 で離れ離れになっ て しまっ た子供逹 が、 両親 を恋 しく思 い、再会 したい とい う気持 ちが詳 し く言 い てあっ た。落昭は、満刀│で 沢ム の 日本人が優 しい十日人 によって育て られてい る事 を知 り、孤児 達 の 日本帰国救済運動 に大 きく塔 み込 んでい く。 慈昭は遂 には国 を動 か し、次々 と孤 児 が発 見 され、訪十 の末 その帰国や里帰 りが実現 してい っ た。 そ して奴 の冬子 とよ うや く再会 したの は、慈昭が八十二歳 の秋 で あっ た。冬子 は落昭 と二 人 きりになっ た 時、 あの満州 の こと を語 るので あっ た。 朗読劇「わたしたち、なに人ですか?」 紹介 「わたしたち、なにじんですか?」 。 これは、 孤児たちのたの奥広からわ き起 こる叫びだ。 十日では「後略者の子」 とさげす まれ、やっ との思いで和国に帰国す ると、今度は「十日 入」 とバ カにされ社会から疎タ トされた。 この 朗読劇は、孤児が自らの人生 を自らの言葉で 語 る。孤児たちにとって、つ らい休験 を語 る ことには大 きな薔痛 を伴 う。 しか し、自分 た 「日本人 と して、日本 の地で、人間 ら しく生 き ちが劇 を演 じることが、 い 権利」 を求 め る闘 だ と認識 してい るのである。 「何 じん」ですか?』 高丈研 写真 :ネ 景工、文 :樋 口書大より 、 (『 私たち )