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世界史(古代~近代)第5章
116 エーゲ文明の盛衰と暗黒時代 まず、エーゲ海沿岸に誕 図①エーゲ文明 生したエーゲ文明について 説明しましょう。クレタ文 明、ミケーネ文明、トロヤ 文明、それぞれの場所は図 ①で確認できるね。これら の文明の違いについて出題 されることが多いので、特 徴を比較しながら覚えてお こう! クレタ文明(前2000∼前1500年) クレタ文明は、クレタ島を中心に海上貿易で栄えた文明。前2000年頃 からとされているから、中国でいうと殷王朝ができる頃だね。エジプト は、すでにピラミッド時代が終わり、中王国時代に入っている頃だから、 いかにエジプトの文明が進んでいたかがわかるね。 クレタ島は海に囲まれているので、エジプトと同じように外敵の侵入 を防ぎやすい環境にありました。そのため、クレタ文明には、平和的で のびのびとした海洋的な文化という特色があるんだ。それをよく表して * いるのが、イギリス人建築家エヴァンズが発掘したクノッソス宮殿 。 後に出てくるミケーネやトロヤ文明の遺跡には城壁の跡があるのに、こ の宮殿にはない。対外戦争がなかったため、城壁も必要なかったと考え られる。この宮殿の大きさは、エジプトなどのオリエント風の専制国家 *クノッソス宮殿…伝説では、ミノス王の妻の連れ子である牛頭人間(ミノタウロス)をとじこめるため、 宮殿内部は迷路のような作りになっていたといわれる。宮殿の呼び名“labyrinthos(ラビリントス)” は「labyrinth(迷宮) 」の語源といわれる。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 117 的性格を、また、その巨大な王権を物語っているんだよ。その大きさ・ 複雑さから“迷宮”と呼ばれていたんだ。 しかし、クレタ文明ものちに滅びます。原因は諸説あるけど、近隣の サントリニ島の大噴火による津波や地震で壊滅状態になり、その後、異 民族の侵入で破壊されたという説が有力。その異民族というのがアカイ ア人。北から南下してきたのが前1500年頃です。 前1500年頃に何があったか覚えているかい? インド=ヨーロッパ語族が南下する時期よね? その通り! アカイア人は、インド=ヨーロッパ語族なんです。アカ イア人は、第1波ギリシア人とされていて、前12世紀には第2波ギリシ ☞P120参照)。 ア人も南下するんだ。これは後で話すとしよう( ミケーネ文明(前1600∼前1100年) 第1波ギリシア人のアカイア人は、クレタ島まで南下する途中に一つ の文明を作ります。それがミケーネ文明の始まり(図①参照)。そのた め、ミケーネ文明は、クレタ文明滅 亡以前の「前1600年頃に生まれた」 といわれる場合が多いね。 ミケーネ文明は地形的に山が多い ので、メソポタミアのように外敵に 攻められやすい環境にあった。だか ら、この文明は戦闘的な文明になる んだ。城にはもちろん城壁が必要。 前1500年頃といえば、アーリヤ人の西北インドへの南下やヒッタイト・ミタンニ・カッシートのメソポ タミア侵入が有名。いずれもインド=ヨーロッパ語族であることを覚えておきたい。 118 ミケーネ遺跡に現存する当時の城門「獅子門」は有名だよ。あと、この 遺跡からは、当時の(戦争の)最高司令官だったアガメムノンの「黄金 のマスク」なども発掘されています。 さてこれで、クレタ文明とミケーネ文明の違いがわかってきたかな。 あとは、両文明の文字についても確認しておこう! クレタ文明の文字は、絵文字・線文字Aと呼ばれるもので、これらは まだ未解読。ミケーネ文明の文字は、線文字Bと呼ばれるもので、こち らは解読済み。解読したのは、イギリス人の考古学者ヴェントリスです。 クノッソス宮殿跡を発掘したイギリス人考古学者エヴァンズと間違いや すいので注意しよう。 トロヤ文明(?∼前1200年頃) 最後に説明するのが、小アジアの西北部に栄えたトロヤ文明 ( ☞P116・図①参照)。トロヤ文明は、滅亡→再建→滅亡→再建…を繰 り返し、計9回の都市文明が興ったんだよ。だから、この文明の発掘は かなり複雑で、まだまだ解明されていないことも多いんだ。トロヤ文明 の実在が証明されたのも、19世紀後半の発掘調査によってでした。本格 的な発掘はこれからかな。 さて、19世紀後半にこの文明の遺 跡を発掘したのは、ドイツ人のシュ リーマン。子供の頃にギリシアの詩 * 人ホメロス の書いた『イリアス』 に魅せられ、そこに出てくるトロヤ の存在を伝説ではなく、事実である と確信し、財産も人生も投げ打って トロヤの発掘にはまった人なんだ。 *ホメロス…ギリシア最古の大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』の作者または編者とされる盲目の 詩人。この2つの著書は、ともにトロヤ戦争が題材となっている。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 119 ちなみに、『イリアス』に描かれるトロヤ戦争は、前に解説したミケー ネがトロヤを攻めて滅亡させる話。 ミケーネ兵を中に忍ばせた巨大な木馬をトロヤ城外の浜辺に置いてお くと、トロヤの王が無用心にも木馬を城内に運び入れてしまう。すると、 木馬の中に隠れていた300人ものミケーネ兵が、あっという間にトロヤ の城を攻め落とすって話。伝説なので実際はどうだったのかわからない けど、現在のトロヤ遺跡の入口には、インチキ臭い木馬がド∼ンと立っ ています。でも、どう見ても定員30名ってとこなんだよね。 ●●● エーゲ文明 ●●● クレタ文明 ミケーネ文明 トロヤ文明 民族 クレタ人 アカイア人 トロヤ人 特徴 平和的・海洋的 戦闘的 戦闘的 文字 絵文字・線文字A 線文字B 不明 考古学者 エヴァンズ(英) (発掘) ヴェントリス(英) (線文字Bを解読) シュリーマン(独) (発掘) ドーリア人の南下と暗黒時代(前12∼前8世紀) さて、勝ち残ったミケーネ文明も、前12世紀に先ほど説明した第2波 ギリシア人の南下によって滅亡します( ☞ P116・図①参照)。その第 2波ギリシア人の中で、ミケーネ文明を滅ぼした中心的存在が、ドーリ どう もう ア人。ドーリア人は、鉄を持っている上に非常に獰猛な人たちで、町を バンバン破壊したんだね∼。 でも、実際は、ドーリア人がミケーネを通過したとき、ミケーネはす でに半壊滅状態だったといわれているんだ。その原因は、この頃、東地 中海をうろついていた民族で、海の民と呼ばれた人たち。ミケーネ文明 は、ドーリア人が来る前に、海の民の攻略により衰退していたんだ。ち この3つの文明の比較は、その繁栄・衰退の流れと時代も表と一緒に覚えておこう。センター試験では特 に、クレタ・ミケーネの二大エーゲ文明の正誤問題が多い。 120 なみに、第1章に出てきたヒッタイトも、この海の民に滅ぼされました。 そして、第2波ギリシア人はドーリア人も含めて、3つに分派します。 これにより、彼らの言葉には方言が生まれ、その方言によって民族の呼 び名も違ってきます。彼らがどのように移動したのかは、図②で確認し ておこう。 図②ギリシア人の南下 テーベ ● ● コリント ● アテネ ティリンス ● ● スパルタ ピロス ● ● ミレトス イ オ ニ ア 北を移動したのが………アイオリス人 第1波ギリシア人と同じ 真ん中を移動したのが…イオニア人 アカイア人系 南を移動したのが………ドーリア人 アイオリス人、イオニア人、ドーリア人の3民族は、それぞれの移動 先に定住するんだけど、前12∼前8世紀までの約400年間の彼らの詳細 はわかっていないんだ。この歴史的空白時代のことを暗黒時代と言いま す。べつに明かりがなくて暗い時代だったわけではないよ。それまでに 使われていた文字の記録が残っておらず、彼らの歴史を知ることができ ないからこう呼んだんだ。彼らの歴史が記録に再び現れるのは、ギリシ ア人がオリエントから伝わった文字を原形に、アルファベット(ギリシ ア文字)を作成した、前8世紀以降のことになります。 アイオリス・イオニア・ドーリア人によって形成されたこの時代に、南下してきたギリシア人は、いずれ も鉄器を使用していたことも重要。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 121 さて復習です。ギリシア文字のもとになった文字は、 どこから伝わったか覚えているかい? フェ…、フェ…、フェニキアですか? その通り。航海民族のフェニキア人の文字が伝わって、ギリシア文字 になるんだったね!( ☞P18参照)。フェニキアは前12世紀に出てきま す。そして、前10世紀頃から徐々にフェニキア文字がギリシアに伝わっ ていきます。 ギリシア政治史 ポリスの形成(前8世紀∼) 前8世紀頃になると、人々は貴族などの有力者を中心に、集落を作っ て生活するようになっています(集住=シノイキスモス)。これが大き * くなって、ポリス という小国家になる。当時のギリシアには、1000以 上のポリスが存在していたといわれています。 中でも有名なのが、イオニア人とドーリア人のポリス。イオニア人の ポリスは、みんなで寄り集まって作った感じ(集住型)で、その典型が アテネ。一方、ドーリア人のポリスは、少数のドーリア人が先住民を奴 隷にして作った征服型国家。だから、これは集住でできたものではない んだね。そのドーリア人のポリスで有名なのがスパルタ。 では、アテネとスパルタを比較しながら、その特色を確認しておこう。 まず、この時代のポリスは、奴隷制度を敷いているので、奴隷制度に ついて。アテネは人口の3分の1が奴隷。アテネの奴隷のほとんどは、 *ポリス…古代ギリシアの都市国家。集会所のアゴラ(広場)と城山(アクロポリス)を中心にして建て られた独立の小都市国家。成立時は、有力貴族による貴族共和政を確立。 122 借金のために働く債務奴隷で、残りの多くが異民族を買ってきた購買奴 隷。 一方、スパルタの場合は、5千人の市民1人当たりに10人の奴隷。し かも、戦争捕虜が奴隷になっているのでちょっと怖いね。スパルタでは、 彼らの反乱を防ぐためにも、かなり徹底した厳しい軍国主義をとったん だよ。これは、伝説上の立法者リュクルゴスが制定した法に基づいてい ました。厳しく指導することを“スパルタ教育”というのは、このリュ * クルゴスの制度 からきているんだよ。 また、スパルタは数あるポリスの中で、唯一鎖国主義をとっていたん だ。これは、アテネなんかじゃ絶対無理な話。アテネは山が多い環境で 穀物には恵まれず、(奴隷もそうだけど)穀物の多くは輸入に頼ってい たからね。このように、アテネが商工業・貿易中心の経済であるのに対 して、スパルタは農業中心の経済だったため、自給自足できたんだ。こ れが、スパルタが鎖国できた要因なんだよ。 そのスパルタが、3段階の特殊な身分構成で成り立っていることは、 図③スパルタの身分構成 リュクルゴスの制度 軍国的・鎖国的な独特の制度。男性は7∼30 歳まで厳しい集団生活が義務づけられ、女 性にも格闘技などの訓練が行われた。 アテネは海軍、スパルタは陸軍が中心で、ペルシア戦争でそれぞれ活躍。スパルタはアテネと違い、王政 だったことも注目! 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 123 試験のポイント! 一番偉いのが、戦士・政治をともにこなすスパルチ アタイ(完全市民)。その次が、全体の三分の一を占め、商工業に従事 する劣格市民(半自由民)のペリオイコイで、彼らは兵役義務を持つ。 そして、一番下が、奴隷農民のヘイロータイ。 普通、奴隷が戦争に行きそうなものだけど、ギリシアでは一般市民・ 農民が徴兵により兵隊になる場合がほとんどで、彼らは儲けたお金で武 具を買って戦争に参加するんだ。 アテネの民主化の過程 じゃあアテネはどうかな。アテネは、スパルタと違って民主政の道を 歩むことになるんだ。最初は金持ちだけで政治を行っていたのが、その うち貧しい人も政治に参加できるようになります。その流れを確認して いこう。 アテネの最初は、金持ちによる貴族政。当初、平民は政治に参加できな かったけど、小アジアのリディアから貨幣が伝わったことで貨幣経済が浸 ☞P120・ 透します。それを背景にさらに地中海各地に植民市を建設し( 図②参照) 、活発な貿易を行い、多くの平民は富を蓄積していきます。 さて、彼らはこの富をどうすると思う? この頃、工業が発展したこ ともあり、安価に武具が手に入りやすくなっていました。彼らはその富 を武器に代え、重装歩兵部隊を結成、戦争で活躍することで、貴族に対 する政治への発言権を強めていくんだ。これで、平民も少しずつ政治に 参加できるようになるんだよ。 もう一つ! ギリシア人(全ポリスの人々)は、かなり強い同胞意識 を持っていて、異民族と敵対する時は強い力を発揮する、ということを 知っておこう。これが後のペルシア戦争の勝因でもあるんだけどね。 具体的に、次の3つは知っておいてネ。 フェニキア人とギリシア人のそれぞれの植民都市は頻出問題。 地中海周辺地図を使って必ず確認しよう。 特にギリシア人植民都市は名前も暗記必至! 124 ① ギリシア人を“ヘレネス”と呼ぶのに対し、 異民族を“バルバロイ”と呼んで差別した。 ② ギリシアのポリスの人々がデルフィというところに集まって一緒 に神託を行った。 ③ オリンピアの祭典で、スポーツを競い合うことによって同胞意識 を高めた。 アテネの平民の一人一人が武器を携え、外敵の侵入があった時は、み んなで団結してポリスを守った、という構図が想像できるかな。では、 平民が政治に発言権を持つようになるまでの、変革の過程を確認してい こう。 (1)ドラコンの立法(前621年) それまで貴族が独占していた慣習法を文章化して、平民にも平等に法 律を適用するようにした。立法者ドラコンが立案しました。 (2)ソロンの改革(前594年) 政治家ソロンが行った改革は2点あります。 一つは、債務奴隷の禁止。当時は、お金がなくて奴隷になる人が非常 に多かったんですが、平民にも政治に参加してもらえるように、彼らの 借金を帳消しにしたんだ(債務放棄)。 二つめは、財産政治の実施。財産に応じて平民を4等級に分け、それ に見合う参政権を与えたんだよ。超お金持ちは貴族と同じくらいの参政 権がある。普通の金持ちは、貴族の半分くらい。小金持ちは貴族の十分 の一くらい。でも、貧しい人には参政権がない。一見すると差別のよう に思えるけど、 平民でも政治に参加できるチャンスが生まれたんだから、 少しは平民の政治参加が進歩したことになるよね。 アテネの民主政への流れを人物でまとめると、「ドラコン→ソロン→ペイシストラトス→クレイステネス →(ペルシア戦争)→ペリクレス」となる。この流れを理解しておこう。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 125 (3)ペイシストラトスの改革(前561年) ソロンの改革が進むと、もちろん、お金を持った平民の中に力をつけ てくる人が出てくる。民衆の支持を得たペイシストラトスという人は、 せん しゅ 民衆の不満をうまく利用して、非合法的に政権を握ったんだ(僭主政治) 。 そして、悪徳貴族を追放し、彼らが持っていた土地を、貧しい中小農民 たちに分け与えたんだ。なんだかいいことのように思えるけど、ペイシ ストラトスの改革は、議会での話し合いで行われるのではないので、や や武力的で独裁的。だから、僭主政はちょっと間違えると危ないんだよ ね。その悪い見本になったのが、ペイシストラトスの息子ヒッピアスだ。 彼はまさに暴君。この非合法的独裁者をどうやって合法的に追放しよう かと人々は考えるようになるのです。 (4)クレイステネスの改革(前508年) そんな時に、平民の中からクレイステネスという素晴らしい政治家が 登場。彼の改革は2つある。 * 一つは、オストラシズム(陶片追放)。オストラシズムは、家庭にあ る茶碗のかけらのようなもの(オストラコン)に、ポリスから追放して 欲しい人の名前を書かせて、それが6000票集まったら、その人はポリス から10年間追放されるというシステム。今なら、ワイロを渡せばいくら *オストラシズム…元々僭主を追放するために置かれた制度だったが、いつしか政敵を追放するために悪 用されることもあった。今も昔も、制度には濫用がつきものである。 126 でも票を操作することはできるだろうけど、当時にしてみたら画期的だ ったんだ。合法的な政権移譲だからね。 もう一つは、10部族制の実施。当時、平民は自分の好きなところに 住めなかったんです。血縁関係にある貴族が4部族あり、平民はそれぞ れの貴族に仕えていたので、貴族の家の周辺に暮らすしかなかったんだ (4部族制) 。そこで、クレイステネスは、従来の4部族制を廃止し、人 口に応じて、地域的な10区の共同体を作りました(10部族制)。民主主 義にとって、貴族政の地盤を弱めたこの10部族制の意義は大きいね。 ただし、クレイステネスは民主主義の基礎を築いただけ。民主政が完 成するまでには、この後にもう一山あるんだ。民主政は、前508年に クレイステネスの改革で基礎が確立し、前443∼前429年のペリクレ ス時代に完成する。 この「基礎確立」と「完成」は何が違うのか。この二人の改革の 間に起きた戦争(前500∼前449年)がカギなんだ。 オリエントで少しだけ勉強したのを覚えているかい? アケメネス朝ペルシアとギリシアが戦った P26参照)。 ペルシア戦争ですね。( ☞ その通り。ペルシア領内の小アジアにあったギリシア人のイオニア植 民市の反乱が発端となって、ギリシア対アケメネス朝ペルシアの戦いに 発展するんだったね。このペルシア戦争が、ギリシアの民主政に発展を もたらすんだ。これがキーワード! クレイステネスの改革のときは、ソロンの改革のように財産に応じて 参政権が与えられていたんだ。つまり、まだ、財産政に近かったといえ ます。だから、超貧しい人は政治に参加できなかった。その人たちが、 突然戦後に参政権を持っていることからも、貧しい人も含めてみんなが 区のことをギリシア語で“デーモス(demos)”ということから、デモクラシー(民主主義)という言葉 が生まれた。つまり、本当の民主化とは、貴族中心の社会でなくなること。だから、オストラシズムだけ では本当の民主主義とはいえなかった。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 127 戦争で活躍した、と考えるべきでしょうね。 では、ペルシア戦争のポイントをしっかり押さえて、ペリクレスの民 主政完成を追っていこう! ●マラトンの戦い(前490年) アテネ北東岸のマラトンに上陸したペルシア軍を、アテネの重装歩兵 が撃破した戦い。重装歩兵部隊として大活躍したのが、アテネの中小農 民たちで、彼らはこれをきっかけに発言権を高めます。ちなみに、この 勝利をアテネまで伝えに走った兵士が息絶えて死んだことが、マラソン 競技の由来とされる。 ●サラミスの海戦(前480年) 前480年、アテネ軍は、テミストク レスという政治家の巧みな指揮によ って、ペルシア軍を破ります(サラ ミスの海戦)。勝利の最大の理由は、 こ 軍船の漕 ぐところを3段にしたこと かい せん (三段櫂 船 )。この軍船の漕ぎ手とし て活躍したのが、武器を買えなかっ た無産平民、先ほど説明した超貧し い人だよ。サラミスの海戦では、無産平民も戦争に参加することになり、 彼らにも参政権が与えられるようになったわけだ。 ●デロス同盟(前478年) ペルシア軍の報復に備えて、アテネを中心とするギリシアのポリスが * 戦争資金を出し合う。デロス同盟 は、いってみれば貯金同盟。デロス 島に戦争資金を保管したんだよ。結局、ペルシアは2度とギリシア本土 を攻めることなく、前449年にペルシア戦争はカリアス和約をもって終 わるんだ。 *デロス同盟…最盛期には、エーゲ海周辺の約200のポリスが加盟したといわれる。前454年以降は同 盟の金庫がアテネに移され、アテネが他のポリスを支配するようになっていった。 128 民主政の完成 この時代の指導者は、ペリクレスという政治家。ギリシアはここで全盛 期を迎えます。つまり、ペルシア戦争が一段落してから、ペリクレス時 代(前443∼前429年)で民主政が完成されることになるんだ。 ここで重要なのは、ペリクレス時代の民主政と現代の民主政との違い を把握しておくことだね。現代の民主政にはない、ペリクレス時代の4 つの特徴を確認しておこう。 ①直接民主政…立法・行政・司法上の最高機関は、参政権のある市民 .. 全員で構成された民会。そのため、この時代は、有権者全員を一カ所に 集めて多数決をとっていました(現代の民主政は、代表者を選出する間 接民主政) 。 ②奴隷制に立脚…民主政といっても、(債務奴隷以外の)奴隷(制) が存在しました。ギリシアの哲学者アリストテレスは、「奴隷は生ある 所有物」と言った。当時、奴隷制は当然のことだったんだ。 ③公職の公開…ほとんどの公職に誰でも就くことができました。しか も抽選で。その代わり任期は1年。重任もダメ! 当時9人いた統領 (アルコン)ですら抽選で決めるんだから、今考えると恐ろしいですね。 ただし、戦争を重視していた国家だけに、軍隊の将軍だけはみんなで選 出しました。 ④女性、メトイコイ(在留外国人)には参政権がない…民会の一員に なれるのは、18歳以上の男子自由民のみ。女性やメトイコイには参政権 が与えられなかった。 ポリス社会の崩壊 ことわり 民主政が完成し、絶頂期を迎えたアテネも、ここから盛者必衰の理の ごとく衰退していくんだ。衰退の最大の原因は、意外にもペリクレスが *パルテノン神殿…アテネのアクロポリスのアテナ女神神殿。ドーリア式建築の代表。ペルシア戦争で破 壊されたが、建築家フィディアスの提案を受けたペリクレスが、前432年頃再建した。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 129 悪い…とも言えるんだ。 * 彼は、デロス同盟で貯めた資金をパルテノン神殿 の再建に流用して しまうんです。そしたら案の定、周りのポリスから大ブーイング。 最も反発したコリントスは、デロス同盟から脱退し、 アテネをライバル視していたあるポリスの同盟に加盟します。 どこと組んだと思う? ヒントは、鎖国していた国! スパルタ! 正解! コリントスは、スパルタに「アテネのわがままをなんとかし てください」とお願いして、スパルタ側に付き、これがペロポネソス戦 争(前431年)に発展するんだ。ペロポネソス戦争は、アテネを中心と したデロス同盟VSスパルタ中心のペロポネソス同盟との戦いです。 この戦争の初期、アテネでペストが流行し、ペリクレスはペストで死 んじゃう。アテネの町がメチャクチャになったそんな時、インチキ政治 家たちが登場します。節操がなく、人々の意見や賄賂に左右され、しっ かりとした政治方針を持たない好戦的で民衆を戦いへと扇動する政治家 …。歴史では、こういう人を扇動政治家(デマゴーゴス)と呼び、そん しゅう ぐ せい な狂った政治形態のことを衆愚政と言います。 だから、アテネの政治の流れをまとめると、貴族政→財産政→僭主政 →民主政→衆愚政となります。 ペロポネソス戦争では、結局ペロポネソス同盟側が勝ち、これで、ギ リシアの覇権はスパルタに移ったかのように見えました。でも、前371 年、新たにテーベというポリスが台頭します(エジプトのテーベとは違 うよ)。そして、テーベVSスパルタのレウクトラの戦いが起きる。この 戦いでは、テーベが勝ち、覇権はスパルタからテーベに移った。結局、 ギリシアのポリス同士は、繰り返し抗争し続けたんだね。 ギリシア世界の覇権をとった順番に並べると、アテネ→スパルタ→テーベの順。ちなみに、アテネの全盛 を築いたペリクレスは、デロス同盟を作った人ではなく、悪用した人と覚えておきたい。 130 ギリシアが、ペルシア戦争で大国であるアケメネス朝ペルシアを撃退 することができたのは、ポリスが団結していたから。団結するとギリシ アは強いことは、前にも同胞意識ということから話したね。しかし、こ ひ へい うも覇権争いが長期化すると、各ポリスは疲弊し弱体化するのは火を見 るより明らか。ポリス市民団で構成された軍隊も傭兵で支えられるよう になり、ポリスの団結力はより薄れてきました。そして、この内乱状態 のギリシア世界を横目に強大化していたのが、ギリシア北方のバルバロ イであったマケドニアです。 弱体化したギリシアを支配下におさめ、軍事力を拡大させようともく ろんだマケドニアと、ギリシアの間で起きたのが、カイロネイアの戦い (前338年) 。そしてこの戦いで、アテネを中心としたギリシア連合軍は、 マケドニアに大敗します。 マケドニアは、この機に乗じて、ギリシアを含めた連合同盟(ヘラス 同盟)を作ります。この同盟は、コリントス同盟とも言います。この同 盟を作ったのが、マケドニアの王であるフィリッポス2世。でも、この あとアケメネス朝ペルシアを攻めるつもりでいたフィリッポス2世は、 海外遠征反対派の貴族に暗殺されてしまう。 そして、フィリッポス2世の息子が立ち上がるんだ。当時弱冠20歳。 その息子というのが非常に優秀で、10代前半の頃からアテネの有名な哲 * 学者アリストテレス を家庭教師をつけて、大きな国をどのように統治 すればよいのか、という帝王学を学んだ男だった。 アレクサンドロス大王のことですね。 超有名人だからわかるね。そして彼は、親父の意志を受け継ぎ、アケ メネス朝ペルシアを討つために、前334年、東方遠征に出発します。 *アリストテレス…ギリシアの大哲学者。プラトンに学び、現実主義・経験論的立場から、プラトンのイ デア論を克服した。“万学の祖”と呼ばれ、のちのイスラーム哲学や西洋観念論哲学に大きな影響を与 えた。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 131 ヘレニズム時代(前334∼前30年) 図④アレクサンドロス大王の東方遠征(前334-324年) アレクサンドロスの東方遠征 アレクサンドロス大王の東方遠征は、前334年から前324年までの10 年間。23歳でこんな大事業を成し遂げるなんて、すごいの一言。では、 彼の東方遠征の流れを年代を追って順に解説することにしましょう! (1)イッソスの戦い(前333年) アケメネス朝ペルシアに大勝した最初の戦い。ペルシアの王はダレイ オス3世だったね。 (2)エジプトにアレクサンドリアを建設(前331年) イッソスの戦いの後、アレクサンドロスはダレイオス3世の軍を追わ ず、エジプトに向かうんだ。そして、自分の名前を冠にした“アレクサ * ンドリア ”という都市を作ります。さてさて、どうしてエジプトなん かに立ち寄ったのかな? *アレクサンドリア…ムセイオンと呼ばれる研究所が建設され、自然科学の研究などが行われた。ここの 館長を務めたのが、地球の円周を測定したエラトステネスである。 ア レ ク サ ン ド ロ ス 滅 ぶ ま で の 3 0 0 年 間 を ヘ レ ニ ズ ム 時 代 と い う 。 彼 の 東 方 遠 征 か ら 、 プ ト レ マ イ オ ス 朝 エ ジ プ ト が 132 エジプトが弱そうだったから、 まずそちらを征服しようとしたとか。 不正解! 大帝国の統治者として、彼は国民から神のように 崇められるエジプトのファラオを理想としていたから。 つまり「オリエント風の専制政治こそ安定国家を築ける」と、家庭教 師アリストテレスに学んだからなんだ。 アレクサンドロスは、エジプトの首都テーベにあるアモン大神殿で、 アモン神官からファラオの継承者たる証を受けます。つまり、ペルシア を初めとするオリエント支配を行う前に、自らに大帝国の支配者として の威厳を持たせたかったんだよね。 (3)アルベラの戦い(前331年) アケメネス朝ペルシアが2度目の大敗を喫する戦い。ダレイオス3世 は再びアレクサンドロス大王軍に破れ敗走、ついには逃げる途中に部下 に殺されます。 (4)アケメネス朝ペルシア滅亡(前330年) 政治上の首都スサが大王軍に占領されたあと、ついに、アケメネス朝 ペルシアの主都ペルセポリスは陥落・炎上! アレクサンドロス大王は このあとインド遠征を試みますが、遠征を途中で断念。スサに凱旋した あと、都バビロンにて33歳で急死してしまったんだ。 (5)イプソスの戦い(前301年) さて、大王の急死は突然のことでした。だから、後継者(ディアドコ イ)が争いを開始し、領土は3つに分裂してしまいます。それが決定的 になったのがイプソスの戦いだ。イッソスとイプソスを間違える人が多 いので、気をつけよう。 イプソスの戦いをきっかけに分裂した領土とは、アンティゴノス朝マ 3 3 10 アケメネス朝ペルシアの都ペルセポリス陥落の年号は、 “さんさんと燃えるペルセポリス(前330年) ”と 覚えておくといい。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 133 ケドニア・セレウコス朝シリア・プトレマイ オス朝エジプトの3つ。さらに、この中で最 も大きかったセレウコス朝シリアの東側から、 イラン高原を中心にパルティアが、中央アジ アを中心にバクトリアが自立します。ここは 地図で確認しておこう( ☞P28・図⑩参照)。 この頃のオリエントは、パルティアを除け ば、どこもギリシア人が王になっています。 絶世の美女といわれたエジプト最後の女王ク レオパトラも、ギリシア系の人物なんです。 国民の大半はエジプト人、支配者層はギリシ ア人。支配者層と被支配者層の分離については、中国の章でも説明した ☞P80参照)。 ね( オリエントに誕生した各王朝は、先住民のオリエント文化を継承しな がらも、ギリシア文化も植え付けていくことになります。 こうしたアレクサンドロス大王帝国以降の時代は、ドイツの歴史学者 * ドロイゼンによってヘレニズム時代 (前334∼前30年)と名付けられた。 “ヘレニズム”と言う名称は、オリエント文化にギリシア文化を融合さ せたもので、“ギリシア風”という意味。まさにアレクサンドロス大王 が目指した、東西融合政策によって生まれた文化なんだよ。 ちなみに、ヘレニズムにインド文化が混ざると ガンダーラ美術が生まれたのを覚えている? このとき、インドは何朝だった? 古代インド王朝の2番目に勉強した、クシャーナ朝! カニシカ王の布教でガンダーラに仏教が P43参照)。 伝わったんですよね。 ( ☞ *ヘレニズム…“Hellenic(ギリシア風)”と“ism(様式)”が短縮されて、“Hellenism”と呼ぶよう になった。 134 その通り。だから、ガンダーラ美術の特徴は仏像に現れています。当 時のガンダーラ仏像は、髪型だけはインド人っぽいけど、顔や衣服の表 ソ ク ラ テ ス し 、 対 話 を 通 じ て 真 理 を 見 い だ そ う と し た 。 ソ フ ィ ス ト を 批 判 し て 、 ﹁ 自 己 の 無 知 ﹂ を 自 覚 現はギリシア的。1世紀後半にバクトリアに進出したギリシア人の影響 で、ギリシア的な彫刻の技法が伝わったからなんだよ。 アレクサンドロス大王の東西融合政策 では最後に、この時代の主役だったアレクサンドロス大王の政策に目 を向けてみよう! 彼は被征服民族には寛容的な政策を取りながら、部 分的にはギリシア・マケドニア化を行う“東西融合政策”をとるんだ。 しいた ①先住の被征服民族のペルシア人を虐げず、官僚などにも起用する などの民族の同権化を行った。 ②言語の統一。ペルシア人にも理解できるように、ギリシア語を少 し変えた、コイネーという共通ギリシア語を作ります。 ③貨幣をアッティカ貨幣に統一。 ④人種の融合。両方の民族の血を受け継いだ子孫が増えれば、民族 は一つになりますから、アレクサンドロス大王はダレイオス3世 の娘と結婚した後、マケドニア人とペルシア人女性の集団結婚式 を行います。 世界市民主義(コスモポリタニズム)と呼ばれるこのヘレニズム時代 の精神は、個人主義を生み出し、新たな哲学を生み出します。禁欲を説 くゼノンが創始したストア派、快楽を説くエピクロスが創始したエピク ロス派などだね。また自然科学も有名でアレクサンドリアのムセイオン では、ここの館長だったエラトステネスをはじめ、エウクレイデス、ア ルキメデスも学んでいる。 ヘレニズム時代に生まれた2種類の哲学のうち、ストア派はローマ時代に流行をみせ、セネカ、マルク ス=アウレリアス=アントニウスらが活躍した。ゼノンとセネカは同じストア派と覚えておこう。 第5章 エーゲ文明とギリシア政治史 135 このように、ギリシア∼オリエント∼イラン世界の歴史が目まぐるし く変わっているとき、西ヨーロッパではある小さなポリスが強い軍事力 を持ってどんどん大きくなり、最終的にはエジプトまで征服し、地中海 すべてを内海に入れてしまいます。そう、それがローマ! ローマがど のように発展していったのか、次の章で説明することにしましょう! ●●● ギリシア・ヘレニズム文化 ●●● ギリシアのポリスでは、市民が自由に美や真理を追究していた。ポリ スが崩壊し、領土が拡大したヘレニズム時代には、個人は世界市民 としていかに生きるべきか、という世界市民主義(コスモポリタニズ プ ラ ト ン な イ デ ア の 世 界 を 考 え る 哲 学 を 展 開 。 ム)が問われるようになった。 叙事詩(前8C) 『オデュッセイア』 ホメロス:英雄物語『イリアス』 ヘシオドス:教訓詩『労働と日々』 、神々の系図『神統記』 ギ リ 抒情詩(前7C) サッフォー:女流詩人、情熱的な恋愛詩を歌う シ ア アイスキュロス:『アガメムノン』『縛られたプロメテウス』 文 三大悲劇詩人(前5C) ソフォクレス:『オイディプス』 『エレクトラ』 学 エウリピデス:『メディア』 『バッカスの信女』 『女の議会』 喜劇詩人(前5∼4C) アリストファネス:『女の平和』 ドーリア式(前7C):柱頭に飾りなし(重厚) パルテノン神殿 ギリシア イオニア式(前7C):柱頭に渦巻状の装飾(優雅) 美 神殿建築 コリント式(前5C):柱頭にアカンソスの葉のモチーフを使用(繊細) 術 ギリシア 「アテナ女神像」 (フェイディアス作・パルテノン神殿の本尊) 彫刻 ヘレニズム 「ミロのヴィーナス」 「ラオコーン」 「瀕死のガリア人」 ギリシア ヘロドトス 歴史の父 『ペルシア戦争史』 (物語的記述) 歴 史 ギリシア人 『ローマ史』 (君主政→貴族政→民主政→衆愚政 学 ヘレニズム ポリビオス →君主政、という政体循環論を説く) 自然哲学 (万物の根源を追求) タレース:水(皆既日食を予測) ピタゴラス:数 ヘラクレイトス:火 デモクリトス:原子 ソフィスト 哲 (前5C・アテネ民主政期) プロタゴラス:懐疑主義 “人間は万物の尺度である” プロタゴラス 学 ギリシア哲学 ソクラテス:“無知の知” プラトン:イデア論『国家論』 (前5C∼4C・衆愚政期) アリストテレス:アレクサンドロス大王の師 実在論哲学 創始者:ゼノン(キプロス出身) ヘレニズム ストア派(禁欲主義) 哲学 エピクロス派(快楽主義) 創始者:エピクロス(アテネの市民) トロヤ戦争関連はホメロス、ペルシア戦争関連はヘロドトス、ペロポネソス戦争関連はトゥキディデス、 ポエニ戦争関連はポリビオスと覚えておくと安心。 ソ ク ラ テ ス の 弟 子 。 現 象 世 界 の 背 後 に 、 理 想 的 ア リ ス ト テ レ ス 手 法 で 学 問 の 総 合 的 体 系 を 作 り 上 げ た 。 プ ラ ト ン の 弟 子 。 古 代 哲 学 を 総 合 し 、 分 析 的 な 136 第 5 章 センター 問 題 で 確 認 ! 次の各文に関して、正しいものには○を、誤っているものには×を記しなさい。 □ ① クレタ文明の中心地クノッソス宮殿は英シュリーマンが発掘した。 □ ② ギリシア本土に南下した初めのギリシア人はアカイア人である。 □ ③ 征服型ポリスのスパルタでは、少数の市民が多数のぺリオイコイや へロットを支配した。 □ ④ 前594年、ペイシストラトスはアテネにおいて財産政治を実施し、市 民の奴隷化を防いだ。 □ ⑤ 前508年、旧来の部族制を変え、民主政の基礎を築いたのはペリクレ スである。 □ ⑥ ペロポネソス戦争の戦況悪化やペストの流行で、アテネは民主政が 腐敗し、デマゴーゴスによる僭主政に陥った。 □ ⑦ 歴史の父と呼ばれるヘロドトスは、著書『歴史』においてペロポネ ソス戦争の経過を物語的に描いた。 □ ⑧ パルテノン神殿はフィディアス設計のイオニア式建築物である。 □ ⑨ 前338年、マケドニアの王フィリッポス2世はカイロネイアの戦いで アテネ・テーベ連合軍を破った。 □ ⑩ アケメネス朝ペルシアはアルベラの戦いでアレクサンドロス大王に敗 れ、前330年に滅亡した。 □ ⑪ 前3世紀、イラン系のパルティアとギリシア系のバクトリアがプトレ マイオス朝より自立した。 □ ⑫ ヘレニズム文化の中心であったアレクサンドリアにはムセイオンと呼 ばれる研究所が建設された。 □ ⑬ ヘレニズム文化の時代、世界市民主義・個人主義が唱えられた。 解答 ①=× ②=○ ③=○ ④=× ⑤=× ⑥=× ⑦=× ⑧=× ⑨=○ ⑩=○ ⑪=× ⑫=○ ⑬=○ 解説 ①シュリーマン→エヴァンズ、④ペイシストラトス→ソロン、⑤ペリクレス→クレイステネス、⑥僭主政→衆愚 政、⑦ペロポネソス→ペルシア、⑧イオニア→ドーリア、⑪プトレマイオス→セレウコス