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教育によって社会を再構成するというルソーの課題について

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教育によって社会を再構成するというルソーの課題について
教育基礎論 2005.1.19
教育によって社会を再構成するというルソーの課題について
1. ルソーが『エミール』で探求しようとした主題
1.1. 「子ども」という概念
ルソーは、「人は子どもというものを知らない。〔中略〕かれらは子どものうちに大人を
もとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。
」
(上,p.18 l.11)
「人
は子どもの状態をあわれむ。人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅び
てしまったにちがいない、ということがわからないのだ。
」(上,p.24 l.8)と述べ、当時の
社会では、子どもについて間違った概念が持たれているということを指摘している。
そのうえで、
「生まれたときに私たちがもっていなかったもので、大人になって必要とな
るものは、すべて教育によってあたえられる。/この教育は、自然か人間か事物によって
あたえられる。」
(上,p.24 l.12)と三通りの教育を示している。そして、この中で「自然の
教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。」(上,p.25 l.3)として次のように述
べている。
完全な教育には三つの教育の一致が必要なのだから、わたしたちの力でどうす
ることもできないものにほかの二つを一致させなければならない。(上,p.24
l.10)
自然を観察するがいい。そして自然が示してくれる道を行くがいい。自然はた
えず子どもに試練をあたえる。〔中略〕試練が終わると、子どもには力がつい
てくる。そして、自分の生命をもちいることができるようになると、生命の根
はさらにしっかりしてくる。/これが自然の規則だ。(上,p.42 l.6)
つまり、ルソーのいう三つの教育を一致させるためには、子どもにあたえる教育を、でき
る限り自然の規則に合わせていくことが重要だということである。
1.2. 「自然人」の定義
ルソーは、「自然人」について以下のように言及している。
自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であ
って、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけ
である。(上,p.27 l.11)
人間の矛盾をとりのぞくことによって、その幸福の大きな障害をとりのぞくこ
とになる。そういう人間を知るためには、すっかりできあがったその人間を見
ることが必要だろう。
〔中略〕一言でいえば、自然人を知らなければならない。
(上,p.30 l.7)
以上のことから、「自然人」とは自分自身の存在そのものに絶対的な価値を見出し、自分
あるいは自分と同等のもの、つまり個々の自然人同士に対してのみ関係をもつ人間のこと
であるといえる。同時に、人間の内にある矛盾した態度を取り除くことによって、幸福の
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教育基礎論 2005.1.19
大きな障害を取り除くことができる人間でもある。
また、一方でルソーは「社会人」については以下のように言及している。
生まれたときから他の人々の中にほうりだされている人間は、だれよりもゆが
んだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけて
いるいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんに
ももたらさないことになるだろう。
(上,p.23 l.8)
社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全
体との関連において決まる。(上,p.27 l.12)
以上のことから、「社会人」とは、社会制度によって自然における絶対的価値を奪われ、
代わりに社会における相対的価値を与えられた人間のことである。同時に、社会制度の中
の偏見、権威、必然、実例によって縛られ、自然をしめ殺された人間である。
1.3. 「抽象的な人間」の定義
ルソーは、「抽象的な人間」について以下のように言及している。
わたしたちの生徒のうちに、抽象的な人間、人生のあらゆる事件にさらされた
人間を考察しなければならない。〔中略〕決して部屋の外に出ることのない人
間、たえず召使にとりかこまれている人間として子どもを育てること以上に、
無分別なやりかたを考えることができるだろうか。(上,p.32 l.9)
つまり、「抽象的な人間」とは人生のあらゆる事件にさらされた人間、言い換えれば、ど
のような者にでもなれるような人間のことをいう。ルソーの言葉によれば、「自然界の秩序
のもとでは、人間はみな平等であってその共通の天職は人間であることだ。だから、そのた
めに十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずがない。」
(上,p.31 l.8)
ということである。
1.4. ルソーが『エミール』で探求しようとした主題
では、結論としてルソーが『エミール』で探求しようとした主題とは何であろうか。ルソ
ーは次のように述べている。
一般の効用をめざすと称する著作はいくらもあるが、あらゆる有用なことのな
かでもいちばん有用なこと、つまり人間を作る技術はまだ忘れられている。
(上,
p.18 l.7)
わたしたちがほんとうに研究しなければならないのは人間の条件の研究であ
る。(上,p.31 l.18)
自然の教育は一人の人間をあらゆる人間の条件にふさわしいものにしなけれ
ばならない。
(上,p.53 l.8)
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ここでいう「人間」とは「自然人」のことであり、「あらゆる人間の条件にふさわしいも
の」とは「抽象的な人間」のことである。よって、ルソーの考える教育とは子どもを「自然
人」「抽象的な人間」となるようにすることである。そして、そのためには何をしなければ
ならないかということが、ルソーが『エミール』で探求しようとした主題であると結論づけ
られる。
2. 「子ども時代」の人間の教育
2.1. 「感覚の国」とは「子ども」にとってどのような世界か
ルソーは人間の不幸について、「わたしたちの欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこ
そ、わたしたちの不幸がある。」(上,p.104 l.7)と述べている。ところで、「自然は直接的
には自己保存に必要な欲望とそれをみたすのに十分な能力だけを人間にあたえている」
(上,
p.104 l.19)のだが、自然状態から離れてよけいな能力、想像力が目覚めてくると、「欲望
を満足させることができるという期待によって欲望を刺激し、大きくしていく」
(上,p.105
l.5)ので、欲望と能力の不均衡はますます大きくなり、人間は不幸になる。
よって、子どもには、自分の能力以上のことを期待し想像する力を与えてはいけない。こ
のことは、ルソーが「子どもをただ事物への依存へとどめておくことだ。」(上,p.115 l.9)
「感覚的な事物にだけ刺激されているあいだは、子どものすべての観念が感覚にとどまるよ
うにするがいい。」
(上,p.123 l.5)と述べている通りである。つまり、ルソーの言う「感覚
の国」(上,p.271 l.7)とは、あらゆる想像によって誇張されることなく、自分で感じたま
まの世界、事物にのみ依存する世界のことである。そして、子ども時代において生徒は、こ
の「感覚の国」に住まわせなければならない。
2.2. 「子ども」に徳を教えること
当時の社会通念は、ルソーが「子どもにまずかれらの義務について語り、〔中略〕子供が
理解できないこと、かれらが関心をもつことができないことを最初に話すというのも、一
般に行われている教育の矛盾の一つだ。」
(上,p.142 l.1)と述べていることから、子どもを
子どもとして扱わず、大人の理論をそのまま子どもに覚えさせるといったものであること
が分かる。これに対してルソーは、「善と悪を知ること、人間の義務の理由をさとること、
それは子どもにできることではない。」(上,p.125 l.12)としている。これは、2.1.で示し
たように、子どもは感覚のみをもった存在だからである。
そのうえで、ルソーは「ことばによってどんな種類の教訓も生徒にあたえてはならない。
生徒は経験だけから教訓をうけるべきだ。」(上,p.129 l.13)「道徳的な観念をたどるには
できるだけゆっくりと進まなければならないし、一歩ごとにできるだけ確実に足を踏みし
めなければならない」(上,p.146 l.9)と述べている。つまり、ルソーの考えでは徳や道理
というものは経験によって身につくものであり、しかも子どもの年齢とともに少しずつ身
につくものであるということである。
2.3. 「子ども」の成長を導く上での消極教育
ルソーは「子ども時代」の教育にについて、「悪いことをしようとするのをとめたりしな
いで、それをさまたげるだけでいい。
」
(上,p.115 l.12)
「自由であるために必要なだけの力、
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それが欠けているばあいにはおぎなってやるがいい。」(上,p.115 l.17)と述べている。つ
まり、子どもにとって良いとされるもの、徳や道理などを与えようとするのではなく、悪
いものを排除することが必要だということだ。これが消極教育である。そして、ルソーは
次のように結論づけている。
あなたがたの生徒の心をとおいところにむけさせないで、たえずかれを〔中略〕
さまよわせるようなことはしないで、いつもかれ自身のうちにとどめ、直接か
れの身にふれるものに心をむけさせるように努力するなら、あなたがたはやが
て、かれが知覚、記憶、さらに推論の能力さえもそなえているのをみいだすこ
とになる。それが自然の秩序なのだ。感覚する存在が行動する存在になるにつ
れて、かれはその力に相応した判断力を獲得する。そして、自己保存に必要な
力をこえた力とともにはじめて、その余分の力をほかの用途に持ちさせるため
に役だつ思索能力がかれのうちに発達するのだ。
このことは、子どもは直接経験したことから知覚、記憶、推論を身につけることが
できる、自然の秩序によってその能力が必然的に得られるので、わざわざ人為的にそ
れらを身につけるのを早める必要はないということである。よって、子どもを社会に
由来する偏見や先入観から解放し、子どもの成長を自然の秩序に則して導いていくこ
とが、「子ども時代」の教育におけるルソーの課題である。そして、消極教育とは、
その課題を実現させるための方法であるといえる。
3. 青年期の人間の教育
3.1. 「子ども時代」の教育から青年期の教育への変化
ルソーが、「私たちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回
目は生きるために。」
(下,p.5 l.10)
「この危険な変化は、あらわれはじめた情念のつぶやき
によって予告される。」
(下,p.6 l.6)と述べているように、人間が「子ども時代」から「青
年期」へと成長していく過程である大きな変化がある。ルソーが「第二の誕生」
(下,p.7 l.9)
と呼ぶその変化は、情念の現われとともにもたらされるのである。
ルソーは、
「情念はわたしたちの自己保存のための主要な手段である。
」
(下,p.7 l.15)と
しながらも、
「たしかに、情念の源は自然のものだ。」
(下,p.8 l.8)しかし、
「自然に生まれ
てくるわたしたちの情念はごく限られている。
〔中略〕わたしたちを押さえつけ、身を滅ぼ
させる情念は、すべてほかからやってくる。」
(下,p.8 l.10)と述べている。つまり、はじ
めは自然のものであった情念は、自然以外の原因によって形を変えてしまうということで
ある。そして、自然を離れた情念は人間を自然の状態から引き離してしまう。それが段階
的に生じるものであるということを、ルソーは次のように述べている。
わたしたちの情念の源、
〔中略〕それは自分にたいする愛だ。(下,p.8 l.14)
自己を保存するために自分を愛さなければならない。〔中略〕そして、こうい
う感情の結果として、わたしたちは、わたしたちの身をまもってくれるものを
愛する。(下,p.9 l.9)
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教育基礎論 2005.1.19
子どもがその関係、必要、能動的または受動的な依存状態を拡大していくにつ
れて、他人との結びつきという感情がめざめ、義務とか好き嫌いの感情が生ま
れてくる。(下,p.10 l.13)
特別の愛着をもてば、相手からも特別の愛着をもたれたいと思う。〔中略〕愛
されるには愛すべき人間にならなければならない。〔中略〕そこではじめて、
自分と同じような人間に注目することになる。〔中略〕そこから競争心、嫉妬
心が生まれてくる。(下,p.13 l.2)
恋愛と友情とともに、不和、敵対、憎悪が生まれてくる。
(下,p.13 l.11)
これらの情念の現われについて、ルソーは「社会のいろいろな危険は、新しい必要から生
まれる堕落を人間の心に生じさせないようにするための技術と心づかいを、わたしたちにと
っていっそう不可欠のものにしているのだ。」
(下,p.11 l.13)と述べている。では、以上述
べてきたような情念の現われに対して、今後の教育の課題とは何であろうか。それは、「道
徳的な存在としての自分が感じられるようになったら、人間との関連において自分を研究し
なければならない。」
(下,p.11 l.18)ということである。生徒を、自分の感覚のみを観念と
してもっていた状態から抜け出させ、他の人間との関係を結ぶようにさせるということであ
る。
3.2. 「情念」の現われに応じた教育
ルソーは、
「こういった種類の情念は、
〔中略〕、そこに自然に芽ばえてくるものではない。
〔中略〕しかし、青年の心についてはもうそうはいえない。わたしたちにどんなことがで
きるにしても、わたしたちの意志にかかわらず、それは生まれてくる。そこで、これから
は方法を変えなければならない。」
(下,p.13 l.18)と述べている。では、どのような方法を
とるべきなのか。
ルソーによれば、「あらわれはじめた情念に秩序と規則をあたえようとするなら、それが
発達していく期間をひきのばして、あらわれてくるにつれて整理されていく余裕をあたえ
るがいい。」
(下,p.22 l.7)ということである。情念は、生徒の発達に応じて段階的に生じ
るものであり、
「時がくれば同じ自然は生徒に説明してやることになる。」
(下,p.22 l.2)の
だから、教師は、生徒の情念が現われる歩みを自然の歩みに合わせればよいということに
なる。先走った知識を与えて生徒の欲望を刺激するようなことをせず、生徒の情念が自然
によって整理されるだけの余裕を与えることが、情念の現われに応じた教育である。3.1.
で、生徒が他人との関係を結び、社会を構成していくことになるというのは、まさにこの
段階においてのことである。そして、これが青年期の教育におけるルソーの課題である。
3.3. 生徒に社会を構成させるための行為基準
3.1. 3.2.示したように、青年期教育の課題は、感覚のみを観念としてもっていた生徒に他
人との関係を結ばせる、つまり社会を構成させるということである。そして、この段階に
おいて、ルソーは次のような行為基準を与えている。
第一の格率/人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えるこ
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教育基礎論 2005.1.19
とはできない。自分よりもあわれな地位に自分をおいて考えることができるだ
けである。(下,p.31 l.4)
第二の格率/人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけ
をあわれむ。
(下,p.32 l.8)
第三の格率/他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、
その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。
(下,p.34
l.10)
「子ども時代」の教育によって、社会の偏見や先入観から開放された生徒が、以上の行為
基準に従って社会を構成していくことが、整合的に結び付けられているか。そのことについ
て、次章から考察していく。
4. 「子ども時代」の教育と青年期の教育の整合性
4.1. ルソーの教育によって生徒はどのような社会を築くか
ルソーの教育によって生徒がどのような社会を築くかは、
エミールの社会や社交界での振
舞い方から読み取ることができる。エミールのように教育された人間が、大勢集まって社会
を構成したらどのような社会になるかを考察すればよいからである。
多くのエミールのような人間によって構成された社会は、
「かれは、だれの考えにも反対
しないで、自分の考えを述べる。」
(下,p.269 l.4)という部分からは、誰もが社会の偏見や
先入観から独立していて、自分の意見を自由に主張でき、誰も他人の意見を押さえつけるよ
うなことをしない社会だということがいえる。
ひとりひとりが自由で独立しているのだから、
社会に住む人々はみな平等だということになる。一方で、
「他人をよく観察することにうち
こんでいて、
臆見の奴隷には見られない余裕のある態度で他人のやりかたを理解する。」
(下,
p.270 l.11)という部分から、自分との関連において他人との結びつきをもっていることが
分かる。このことは、ルソーが与えた行為基準に合致している。また、「エミールは、他人
のやり方にぶつかっていくようなことはしないで、なるべく他人と調子をあわせるようにし
ている。」
(下,p.270 l.1)という部分からは、誰もが他者との協調性をもち、互いの主張を
調整していけるような社会だということがいえる。
このように見てくると、社会の人々が「自由」
「平等」であり、互いの主張を「調整」す
るというキーワードから導き出される社会とはつまり、民主的な社会のことであるといえる。
そして、ルソーが「自然の秩序にもとづいている尊敬、さらにまた社会の正しい秩序にもと
づいている尊敬のすべてに欠けることがないように、かれ以上に心がけている者はいないだ
ろう。けれども、自然の秩序は社会の秩序よりもいつも重くみられるだろう。」
(下,p.272
l.14)と述べていることからも分かるとおり、このような社会はまさに「自然人」によって
築かれた、自然の秩序に従った「社会」であるといえる。これが、ルソーの理想とする社会
であり、このような社会を築くことが、ルソーの考える教育の最終的な目的なのである。
では、果たしてこのような社会、ルソーがイメージしたとおりの社会は実現可能なのであ
ろうか。
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教育基礎論 2005.1.19
4.2. 「子ども時代」の人間の教育と青年期の人間の教育との違い
まずは、「子ども時代」と青年期における人間の存在条件の違いについて考えてみる。
ルソーの考える教育において、「子ども時代」の存在条件とは、2.1.で示したように子ど
もの観念が感覚によって与えられるのみに限定され、期待や想像、欲望によって観念の及ぶ
範囲が拡張されないことである。一方で、青年期の存在条件とは、3.1.で示したように感覚
のみに依存していた観念の範囲が徐々に拡張されていき、
他者との関係を結んでいくことで
ある。
「子ども時代」には、他者という存在も自分か受ける感覚の一部にすぎない。そこに、
自分と同様の存在があるといことを認識することはできないのである。しかし、青年期にな
ると観念の及ぶ範囲は自分の外の世界へと拡張されていき、他者を他者として、自分と同様
な存在として認識するようになるのである。
次に、「子ども時代」における消極教育の原理と、青年期に求められる教育原理の違いに
ついて考えてみる。
「子ども時代」における消極教育の原理とは、2.3.で示したように子どもに徳や道理など
を与えようとするのではなく、自然の秩序に反したこと妨げることである。青年期に求めら
れる教育原理とは、3.2.で示したように情念の発達をできるだけ遅らせ、情念に自然の秩序
を与えるだけの整理期間を確保することである。
4.3. 「子ども時代」の教育と青年期の教育の整合性
「子ども時代」は他者を自分と同様の存在として認識できないということから、子どもは
社会との関連を持たず完全に独立した存在となる。そして、この状態を保ったまま子どもに
知覚、記憶、推論を身につけさせるためには、社会的に良いとされている徳や道徳を教えて
はいけない。社会との独立性が崩れてしまう。そこで、消極教育の原理が必要となるのであ
る。社会に由来するあらゆるものを妨げ、自然の秩序によって必然的に、直接的な経験から
知覚、記憶、推論を身につけていくのを手助けしてやるだけでよいのである。
そこで、「子ども時代」の人間の存在条件が成立すると仮定するならば、社会から独立し
た状態、感覚のみを観念としてもつだけの状態で学べることすべてのことを学び終えたとき、
ルソーの教育課題の一つ、子どもを社会の偏見や先入観から解放するということが実現され
ることになる。この状態まできて初めて、「子ども時代」から青年期へと入っていける。観
念を自分の外へと拡張できる。なぜなら、自分の存在を完全に理解していないのに、他者を
自分と同様の存在として認識し、関係性を結ぶことはできないからである。
青年期は、情念の発達によって観念の範囲が拡張され、他者との関連性を結ぶ。ただし、
他者との関連性を結ぶときも、既成の社会からは独立でなくてはいけない。情念が段階的に
生じるものであるということは 3.1.で示した。しかし、情念の発達段階が観念の拡張段階よ
りも進んでしまっては、
観念の及ばない範囲が社会通念によって与えられることになってし
まう。これを防ぐために、できるだけ情念の発達を遅らせるという教育原理が求められるの
である。
これにより、青年期の人間の存在条件が成立すると仮定するならば、社会から独立した状
態、情念に自然の秩序を与えるだけの余裕を確保できた状態で他者を自分と同様の存在とし
て認識し、他者との関係性を結ぶことが完全にできることになる。そして、そこでルソーの
教育課題のもう一つ、社会の偏見や先入観から解放された人間に社会を構成させるというこ
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教育基礎論 2005.1.19
とが実現されることになる。
4.4. 結論
以上 4.3.の考察から、子ども時代の教育と青年期の教育は整合的に結びついているといえ
る。つまり、社会に由来する偏見や先入観から人間を解放することと、そのような開放さ
れた人間に社会を構成させること、ルソーの二つの教育課題は整合的に結びついているか
という今回の議論については、整合的に結びついていると結論づけることができる。そし
て、このような教育が完全に実現できたとするならば、4.1.で示したようなルソーがイメー
ジした社会、ルソーの理想とする社会も実現可能になるといえる。
ルソーは『エミール』によって、子どもを既存の社会から完全に解放し、自然の秩序に
従って教育したときどのような人間になるか、その人間たちによって当時の社会はどのよ
うな社会に作り変えられるかを思考実験した。そして、それを社会に突きつけることによ
り、当時の社会を批判しようとしたのである。今回の考察で、その思考実験の論理は矛盾
ないものであるということが結論づけられた。つまり、ルソーの社会批判は成功したとい
えるのである。
《参考文献》
ジャン=ジャック・ルソー(今野一雄訳)『エミール(上)(中)』,岩波書店,1963
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