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地域システム論Ⅰ
富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
地域システム論Ⅰ
A Note of Regional System Ⅰ
石 川 久 雄
ISHIKAWA Hisao
はじめに
1997年8月、日本学術会議の吉川弘之会長は秋の総会に向けて「第17期活動計画(案)」を公表した
(総会後は「同活動計画作成に際しての会長所感」)。その第2部では、学術会議の取り組むべき課題を、
A.学術の進化についての課題(領域創出)
B.社会が必要とする行動規範の根拠を提供するための課題(開いた学術)
C.課題研究のための体制
の3つに整理した上で、Aの領域創出の事例として「地域学」を提議した。
いま、この「領域創出−地域学」に至る文脈を私見に基づいて要約すれば、以下の通りである。す
なわち、人類の知識は科学−認識の対象領域を限定(科)し、その領域内で矛盾の無い体系を構築す
る営み(学)を積むことによって、高められてきた。しかし今日の社会や科学技術が当面している新
しい多くの問題は、これまでの個別<科>学や学<際>研究では解ききれないほどに複雑化している
ので、新しい対象領域の設定と、これに伴う認識の新しい枠組みの構築が必要なのだ、たとえば「地
域学」である、と。
この提議の中では、その例がなぜ地域学なのか、また地域学とはなにかについては論及されてない
ので、従来型<科>学認識の限界については同意する人でも、なぜと何かについては<科>の違いを
反映して異なる理解がありうる。後に例示するように、<地域>の捉え方さえ異なる−たとえば、比
較政治学には地域とは第三世界であるとする定義もあり、経済学・社会学・法学などには国の部分と
して捉える立場もある−からである。
この小論の立場から見る地域とは、可能な限り自己完結性が高く、偏った部分ではなく小さな全体
として、国の部分である。それは次世紀において最も重要な基礎的単位社会システムであって、この
地域社会に生きる人々の暮らしを充実し活力を最大化することこそ、国を良くし、地球社会を良くす
る最も確実な道だと認識する。この点では、シリコンバレ−最大のNPOであるジョイントベンチ
ャ−・シリコンバレ−・ネットワ−ク(JVSN)が打ち出した<バレ−の産業競争力は地域社会の
総合的な質(TQ)にある>というテ−ゼに全面的に賛同する立場にある。
振り返れば、近代=工業社会が必要とした国民経済という一次元システムは、技術と産業の発展に
よってすでに乗り越えられているのである。したがって、国民経済を組織し運営するためにつくられ、
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
今世紀前半を植民地争奪の世界戦争と革命で彩った国民国家の時代も終った。いま私達が暮らしてい
る情報社会・地球経済の時代を、人々の幸せに結びつけるには、地域、国、経済圏、地球社会という
4次元でより良いシステムを構築することが不可欠になったのである。
その中で、地域が最も基礎的な単位社会システムであることは、いま人類の最大課題である環境危
機を例にとりあげても明らかであろう。危機を回避するには、いまの経済活動様式や生活様式、人々
の価値観、法体系、諸制度など、互いに密接に関連する諸因子のつながり、つまりは現在の社会シス
テムを一新しなければ持続可能な社会には移れない。これを一つの国や複数国家の協定という次元で、
最適システムについて合意形成し、一挙に実現できるだろうか。たとえばISO基準の策定とその普
及過程を考えても、国際的合意をより円滑にするには、一定のまとまりを持つ基礎的な単位社会ごと
に、それぞれが多様な挑戦、失敗、成功の実験を競いつつ、そこから次の社会モデル−システムを探
し出し、国や國際間の合意にボトム・アップする方式を加えることが不可欠ではないか。これは、望
ましい情報社会や高齢社会のあり方を探すためにも、この小論が主題とする情報社会における國際競
争力を築くためにも、共通しているのである。
では偏った部分ではなく、小さな全体として部分であるような単位社会システムとは、どのような
姿か。地域学とは、これを明らかにする認識の方法論であり、またこれを実現する方法論でもあると
ころの、新しい<ソシアル・システム・サイエンス>の創造だと考える。
後記するように、経済学分野では1960年代のアメリカからは<地域経済学>の成立に先立って<地
域科学>というコンセプトが、70年代のイギリスからは<地域主義>、80年代のアメリカからは<国
民経済の枠を超えた都市経済「学」>というコンセプトが提起されている。この流れが、90年代には
経済学を超えたト−タルなシステムとして地域を認識することを促していると言える。これに応えた
90年代の日本からの発信が、一つは日本学術会議を場とした<地域学>の提議であり、二つはこれに
先んじて進められていた富山國際大学による<地域学部>の創設構想である。前者による<科を超え
た新しい学問領域開拓>の必要という問題意識は、後者の情報・環境・産業の3分野構成という選択
に対応している。新しい産業技術として生まれた情報を仲立ちとしつつ、まず自然<科>学・社会<
科>学の融合に挑むという理念は、地域学がトータルな認識論をめざすことから、いずれ人文<科>
学との協働も促されることは必然である。
このように新しい学問領域としての地域学とは、<科>学の否定ではなく協働によって創造される。
すなわち諸<科>学が地域という場に即して独自の、そして共通の問いを設定し、協働して解を探る
ことから始まり、この営みを積み上げて諸因子の相互連関である<全体>を認識する知に至るものと
考えられる。
念のために補足すれば、偏った部分ではないとか小さな全体とかいう形容は、現実に空間的にもシ
ステムの上でも、国という全体の一部分である地域のあり方を否定するのではない。部分であるから
こそ、望ましい地域システムをデザインするには、国という全体システムのあり方と切り離しては考
えられないという立場であり、その点で地誌的に限定された地域学を不可欠な要素として含みつつも、
そこに留まるものではない。
だからといって、地域−たとえば地方圏−を独立国家とし、国を合衆国にすればいいという単純図
式は、圏の中に巌存する規模の小さな地域の無視につながる。日本についていえば、工業社会時代の
先進国キャッチアップ・システムとして充分な合理性と効果を発揮した明治以来の集権・一極管理型
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
の国システムが、情報社会に移行した今日ではむしろ発展の制約要因に転化しているところに、地域
学を必要とする契機がある。後に、70年代前半の新全国総合開発計画に即して述べるような、地域を
部品化する単細胞型モデルを、それぞれが核を持つ複数細胞型モデルに変えること、地域社会のそれ
ぞれが活力を発揮できるシステムをまず考え、それからこれを実現するに最適な国システムを考える
ことが必要なのである。
また小さな全体とは、たとえばこの地球経済の時代に、暮らしが必要とする全ての財を地域で生産
する、という意味での全体ではない。現実の産業技術はそれほどには熟してなく、経済はまだ量産=
規模の利益を基礎としている。私たちは、巨大な世界企業が産業各分野に形成されつつある時代に際
会している。ここで地域が採るべき道は、世界市場を対象として厳しく専門特化した製品分野の選択
にあり、これを担う高度に専門化した中小企業の集積=分業と協業関係の構築にある。
その理由と理念的モデルは、<地域産業システム論>としてすでに述べた(
「21世紀の地域産業戦略
に必要な視点−地域産業システムと情報環境」<地域経済研究>第14号 川崎市 1997)。その主張は、
世界規模で競争する情報社会で日本の産業競争力を築くには、製造業・情報(生産)産業・高度産業
関連サービス業の三位一体化、すなわち専門企業の分業と協業=集積利益の構築が不可欠であること。
既存の量産品であればeビジネスで済むが、新製品開発力を持つ集積は、水平関係にある独立企業間
の信頼を基礎とすること。信頼は、相互に共有する情報の質と量=情報環境に規定されるので、これ
を実現するに最善の場は<地域>であること。そこでたとえば交流機会を増やし活性化して、在来企
業の閉鎖的企業文化を打破し、協同して起業や新規参入(競争相手ではない)を支援するなどが必要
なこと。この仕組を創るには、地域の大学、自治体、産業団体、NPOの参加が不可欠であること。
そのとき企業を含めて共有すべき理念は、物心両面において質の高い地域社会を創る、自主・競争・
連帯の時代を創ることではないか、という主張であった。
そこで以下では、経済研究領域では地域をどのように捉えてきたかをみるために、まずアメリカで
地域開発戦略・地域経済学・都市経済学などが成立する過程と、地域開発戦略に対する批判としてイ
ギリスのE.F.シュ−マッハ−が提起し、日本に大きな影響を与えた<地域主義>について素描する。
次いで、日本における地域問題の特性を捉えるために、これを典型的に示した70年代の地域問題を検
討する。以上の目的は、第1に地域のあり方と、これを反映する地域研究の内容は、国の違いを超え
て共通する部分と、国ごとに大きく異なる点があること。第2に、違いはまず国システムの差に起因
するので、日本で望ましい地域システムを構築するには、これを可能にする国システムの多極化が不
可欠であり、その意味でも地域学とは<リージョナル>でありつつ<ソシアル・システム・サイエン
ス>にならざるをえないこと、を示唆する点にある。
しかし地域学構築に際して経済学領域が担うべき課題には、なお80年代以降の日本における地域問
題の推移、国と自治体における政策の変化、望ましい地域システムに連動すべき国システムのあり方、
この視点からの 90年代構造改革の評価、以上に関連する地域研究の動向、そして富山県に即した地域
システムのデザイン、など多くが残されている。可能な範囲を、続稿で検討することとする。
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1 今世紀前半のアメリカにおける地域研究
国民国家、国民経済の時代だった20世紀に、社会<科>学の領域では国民国家の内と外にある<地
域>を対象とする新しい研究の必要が高まり、発展した。
内なる地域研究については、すでに第2次大戦前から社会学の分野で、大都市発展の陰で増大する
貧困などの都市問題研究が蓄積され、都市社会学として一つのジャンルを形成していた。経済学分野
では、今世紀の初頭に都市の地価形成原理に関する研究が現れ、20年代には地価と土地利用の関係分
析を主たるテーマとして「土地経済学」と呼ばれる分野を形成した。
当時のアメリカは、新興工業国として対欧州輸出を急増しつつあり、欧州各紙は後に日本が欧米か
ら浴びたのと全く同じ論調で、アメリカによる市場侵略を非難し始めていた。この背景にはアメリカ
における量産工業技術の発展があり、これに伴うサービス経済部門の拡大があって、工業都市のデト
ロイトや金融・商社のニューヨークなど大都市の発展が著しくなっていた。J.ジェイコブズによれ
ば、連邦政府が初めて所得税を導入した1913年に、その1/3を賄ったのはニューヨーク州であり、そ
の大部分はニューヨーク市だったとしている。(注1)今世紀初頭では、国が都市の面倒を見るのでは
なく、都市が国を賄っていた。飛躍するが、これはその昔に最盛期の商工業都市八尾が富山藩の台所
を賄ったのと同じ構図である。このように、伝統的な境界<科>学である経済地理学とは別に、経済
学の中で始まった地域分析が対象としたのは、大都市問題であった。
これに続いて、国が地域の面倒をみる時代が始まる。その契機は、世界の市場経済を揺るがせた
1929年の大恐慌にあった。アメリカでは、恐慌に続く大不況からの脱出をめざして、連邦政府が<ニ
ューディール>政策を打ち出した。財政資金を産業系社会資本投資に振り向け、沈滞する市場に大規
模な資本財需要と就業機会を提供して、経済循環の活性化を図るケインズ政策の具体化であった。
その象徴が、テネシ−川流域に連なる南東部7州を対象とした経済開発のためのTVA(テネシー
渓谷開発局)計画である。かつての自然豊かな農業地域が自然収奪型農業経営によって疲弊していた
同地域に、巨大ダムと大型発電所の建設、農村と農場への電力供給、安価な電力を資源とする肥料工
業の誘致、両者の相乗効果による農業生産性の上昇、アルミ精錬業など肥料以外の電力資源型工業の
誘致、ダムの景観を資源とする観光産業振興、住宅団地、道路、住宅団地、公園など生活系社会資本
整備など、一連の産業連関効果と所得・生活環境の改善を意図した壮大な計画だった。その後の<地
域開発政策>の基礎となる、地域研究の始まりである。
歴史は、世界戦争という空前の規模を持つ<公共事業>をもって大不況に終止符を打ち、国内地域
研究の政策的必要性は失われた。そして戦後は、イギリスに替わる世界の工場としての役割がアメリ
カの繁栄を支え、黄金の60年代に導いたから、不況・貧困・失業対策としての大規模公共事業の必要
も、国内の地域<開発>研究に対する関心も冷え、替わって国外世界の地域研究に政策的関心が向け
られることになった。その際に、TVA計画策定から実施後の評価に関する肯定・否定の議論が、少
なからぬ知的資産として役立っていると推量される。
(注1)ジェーン・ジェイコブズ「都市の経済学」TBSブリタニカ 1986
ページ。
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
2 第3世界研究−地域経済開発戦略
外なる地域研究について、西欧には七つの海を支配したイギリスを初めとする、外国−非西欧圏−
植民地の地誌文化研究の伝統がある。これを踏まえて、中学校での英語教育を禁止した日本とは逆に、
大戦に臨むアメリカは政策的に外国研究を重視し、多くの研究者が実際に海外世界を体験しつつ、研
究を蓄積し始めた。ライシャワーやドナルド・キーンなどの秀でた知日家知識人も、このような知的
風土から育った。
戦後のアメリカは唯一無傷な戦勝国として、戦前の西欧による植民地経営とは異なる次元で、自国
利益を保ち増やすための世界経営の必要に迫られた。自由貿易システムに包摂できれば、外国の市場
経済発展を支援することは自国の市場圏拡大を結果するという認識が、圧倒的な産業競争力を背景と
して成立し、パクス・アメリカーナの時代を支えた。ここから、政策的関心は外国研究一般ではなく、
経済開発戦略とこれが有効に作用しうる特定空間=地域の研究に向けられることになった。
その初期の成果は、対日占領政策や、戦後間もない時期にアメリカが東南アジアで主導した<緑の
革命>に表れている。これは日本で開発されながら国内では注目されなかった米の新種を、アメリカ
が東南アジアの米づくりに導入して生産性を飛躍的に向上させた農業革命であり、経済開発戦略だっ
た。
やがて農業から工業へと比重を移しつつ、産業発展を開始した新興国の<開発戦略>研究が、初め
は先進国で、やがては当事国による内からの視点も加わって国際化した。これにともなって経済学以
外の諸分野でも、いわゆる第3世界についての研究が活性化し、これを総称して<地域研究>という
表現が生まれる。
たとえば日本で、「講座政治学」中の「Ⅳ 地域研究」( 1987年刊 )を編集した矢野暢は、比較政治史
の立場から地域研究を次のように定義する。「(略)地域研究とはなにかを、私なりに定義しておくこ
とにしたい。<地域研究>とは、人文科学、社会科学あるいは自然科学のいずれの分野を問わず、第3
世界諸地域のなりたち、あるいはそこでの人間の営みについて、ある地域の全体像もしくは個別的局
面を対象に、実証的手法により解明を試みる学術的研究をいう。この定義には、地域研究を尊厳ある
学術的方法論として保つための要件をさりげなくふくませてある。」
(注2)
また2000年現在でも、文部省国立情報学研究所が行った「学術研究活動に関する調査」
(平成12年度)
で用いた研究分野の分類では、「地域研究」はコードG(特定領域の研究分野)にあげられ、研究対象
は欧州、北米を含んですべての国外にある。つまり地域研究とは、「外国研究」と同義である。
(注2)矢野暢 責任編集「講座政治学 Ⅳ 地域研究」 三嶺書房 1987 10ページ。
3 アメリカにおける黄金の60年代と都市・地域経済学の成立
他方当のアメリカでは、内なる地域研究が前記した都市経済学とは別の系譜で発展していた。広大
な新大陸を開発しつつ発展してきた歴史を反映してか、アメリカの経済学には経済地理学を経済研究
の源流として意識する伝統が含まれている。60年代に、その関心は産業立地論に向けられていた。大
好況のもとで設備投資を拡大する産業に、工場など事業所の立地選択についての最適解を提示する研
究から出発して、産業別立地特性を整理する方向に進んだ。企業経営視点からの地域評価基準、地域
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
研究だともいえる。
しかしその中に、同じ立地分析を地域の視点から見る研究も含まれていた。たとえば後に立地論の
大家とされるウォルター・アイザードは、
「地域分析の方法・地域科学序説」という今日的なタイトル
をつけた研究を60年に公刊している。(注3)
その意義について、山田浩之は著書「都市の経済分析」の中で「戦後のアメリカで発達した地域科
学(regional science)は、立地論を基礎として、地域分析の科学的手法を開発・発展させようとする
もの」と解説し、アイザードをその代表と位置付けつつ、「いうまでもなく、都市もまたひとつの地域
であり、地域科学が開発した地域分析の手法は都市分析にとっても重要である。とくに産業立地や都
市成長に関しては、地域科学の理論はそのまま適用可能であり、また都市経済学の基礎となった。
」と
評価している。(注4)
この流れが、60年代末に都市経済学とは異なる<地域経済学>として姿を現すことになる。その嚆
矢となったヒュー・ナースが、68年公刊の「地域経済学」
(注5)を<立地理論と地域経済開発論の入
門書>と規定したことは、この学の成り立ちと背景を端的に表している。ナースは、企業の立地因子、
地域構造、地域間交易、経済成長とその影響などについて古典派経済学のモデル分析手法を適用して
説明し、自治体と連邦政府が選択できる公共政策について記述した。翌年にはイギリスでも、また70
年代初めのアメリカで、地域経済学の教科書出版が続くことになる。
他方都市経済学の分野では、60年代に都市に関わるテーマ別研究が蓄積されていた。
都市財政、都市の産業構造、都市交通経済、住宅問題、都市の失業と貧困、大都市圏に関する地域研
究等々である。なかでも都市経済分析にとって最も基礎的な課題は「都市における経済活動の空間的
相互依存関係の解明であり、都市内における立地と土地利用の問題である」と前掲山田浩之はいう。
具体的には、第1に土地市場における価格形成原理の解明であり、第2は所得や人種の違いによる棲み
分け−高所得層は郊外へ、低所得層は都心へ−が市場原理によるのか、制度などその他の市場外要因
によるかの論争であるとしている。(注6)
以上のように60年代アメリカの経済学分野では、経済地理学、産業立地論、地域開発研究、大都市
問題研究などの流れが、<都市経済学><地域経済学>を形成し、60年代末にはアメリカ経済学会を
構成する12部門の第11に位置付けられて、公認のジャンルとなり、今日なお多くの研究関心を引きつ
けている。
(注3)
W.アイザード 笹田友三郎訳「地域分析の方法」朝倉書店 1969
(注4)
山田浩之「都市の経済分析」東洋経済新報社 1980
210ペ−ジ。
(注5) (H.O.
)ナース 笹田友三郎訳「地域経済学」好学社 1971
(注6) 前掲「都市の経済分析」211∼212ペ−ジ。
4 70年代における国際経済開発戦略の否定と地域主義の提唱
この間、國際規模で展開されていた先進国による地域開発に関する研究はどのように歩んだか。こ
こでの開発戦略とは、先進国の量産型大工場が企業合理性にもとづいて適地を選んで第3世界に進出、
各国は自由貿易システムのもとで相互に輸出入し、相互依存の関係を深める方式である。これによっ
て広域圏に分散立地した工場は必要な市場規模を確保できるし、立地を受け入れた国の工業出荷額も
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
就業者数も増加して、工業化の道が開けるという考えだった。60年代までアメリカの伝統的工業地域
であった北東部で進行した経済発展の図式が、そのまま新興国経済圏にも適用されたことになる。
しかし先進国での経験のように、産業連関の重層化、波及効果がそれぞれの国内で進展するという
期待は裏切られた。インドネシアに日本の造船業が立地しても、関連して鉄鋼業や機械工業が生まれ
るわけではなかった。国際分業の中で一部の工業生産を担うものの、国内の産業構造は偏ったままで
むしろ固定化し、成長の果実は国民の一部に限定されて、所得格差が拡大する傾向が強まった。
それはアメリカのTVA計画が、当初には目覚しい発展を始めたかに見えて、その後期待通りの産
業連関効果は働かず、素材工業以上の産業集積を実現できなかったこと。あるいは第2次全国総合開発
計画のもとで、太平洋メガロポリスの東端に位置する茨城県が、東京との近接性を基礎に素材系コン
ビナ−トを誘致し、第2の京浜工業地域をめざしたにもかかわらず、ついにそれ以上の波及効果を実
現できなかったこと、と同じ現象だった。日米の場合は、国内他地域・他産業の発展すなわち国の経
済成長が、市場原理と制度による所得再配分効果を発揮して格差増大を防いだ。しかし工業化初期段
階の新興国では、伝統的農業部門が圧倒的に大きかったから、格差発生を防ぐ術を持たなかったので
ある。
70年代の初めにはこうした現実を前にして、「もう一つの開発戦略(alternative development
strategies
ADS)」が提唱された。それは、外国から輸入する部分先端技術に依存する工業化では
なく、伝承された在来技術を基礎とし、その高度化−質と量の適正な技術−中間技術−発展を着実に
追求しながら、経済の迂回化=社会的分業の進展を地域ごとに実現するべきだという主張だった。
いわゆる内発的あるいは自立的開発戦略であって、これをG・マックロビーは「スモール・イズ・
ポシブル」と主張し、E・F・シューマッハーは「スモール・イズ・ビューティフル」と表現しつつ、
「地域主義(regionalism)」を提唱した。シューマッハーは、「20世紀後半のもっとも重要な問題は、
人口の地理的分布、つまり<地域主義>の問題である」として、これは国と国の間での分業と相互依
存を進める地域主義ではなく、各国内の地域を開発する地域主義であり、すべての大国の課題として
もっとも重要であるとともに、小国の論理的で合理的な反応であると主張した。(注7)
この主張の第1の意義は、先進国が発展途上国を対象として始めた地域研究−地域開発戦略研究とは、
実は国内でこそ必要なものであり、途上国と次元は異なっても問題は共通なのだ、という指摘にある。
事実途上国では大都市への人口過集中が進み、先進国ではアメリカもイタリアも南北格差が拡大、急
速な工業化に成功した中進国日本では、3大都市圏への民族移動がおきて過密・過疎問題と、地域間
所得格差が鮮明になっていた。望ましい市場経済の発展とはどのような姿か、という問題提起でもあ
った。
第2の意義は、地域をたんに経済開発の対象空間として捉えるのではなく、そこに住む人々の就
業・生活・文化を丸ごと包み込んだ、いわば社会の基礎単位として地域を捉え、経済という<科>か
ら脱け出そうとした点にある。
彼は、自分の主張を理念的地域モデルに表し、人口100∼500万人の地域を設定してこれをカルチュ
ラル・ユニットであるとした。<ユニット>は、複数の<ビレッジ群>であり、内一つがリージョナ
ル・センター機能(大学が立地)を果たす。ビレッジ群は、複数の<ビレッジ>から成り、内一つが
マーケット・タウン機能(高校が立地)を担う。各ビレッジ(小中学校区)は、複数の<コミュニテ
ィ>の集りである。そしてビレッジには小規模な、マーケットタウンには中規模な、リージョナル・
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センターには大規模な産業を配した。
(注8) 現実にこのモデルにもっとも近い産業集積のあり方は、
北イタリアにおける製品ごとに特化した地場産業都市の連なりであると考えられる。
シューマッハーを紹介しつつ日本における地域主義の必要を提唱した清成忠男は、「
(このモデルの)
前提になっているのは<人間の定住>である。定住のためには、魅力ある生活文化と就業の場が必要
である。そこで、シューマッハーは、ビレッジや中小都市における生活の再生と仕事の確保が必要だ
と考える」と補っている。
(注9)
(注7)E.F.シュ−マッハ− 斎藤志郎訳「新訂 人間復興の経済」佑学社 1976
E.F.Schumacher “Small is Beautiful” A Study of Economics as if People
Mattered
訳者によれば、副題は「あたかも人間を重視するかのような 経済学の研究」−232ページ。
(注8)清成忠男「地域自立への挑戦」東洋経済新報社 1981 41ページ。
(注9)同書 42ページ。
5 日本の70年代−第2次全国総合開発計画
(1)新全総計画の内容
國際開発戦略と、先進・新興各国の地域経済のあり方に関するシュ−マッハ−の問題提起は、70年
代半ばに日本に紹介されるや、賛同する経済研究者の範囲を超えて地域主義ブームを惹き起こす引き
金となった。日本における<地域>の特性を理解する上で、この 70年代は鍵ともなる時代なので、ま
ず理論や学ではなく実態と政策を見ることとする。
時代の初めには、高度成長のユーフォリアがピークに達していた。象徴の一つは、69年に策定され
た「第2次全国総合開発計画(新全総)」である。
この計画には二つの特色があったが、その一つが<ネットワーク方式>と呼ばれた高速交通網整備
計画である。全国に新幹線・高速道・地方空港・地方港湾の整備を進めて、国土利用効率を高める目
的だった。これに先立つ第1次全総計画(62年)の目的が、大規模工業用地の造成にあったことに続く、
産業基盤整備計画である。戦争の荒廃から出直した日本経済にとって、必要な投資だった。
しかし全総計画に含まれたこの合理性が、日本に導入された<地域開発>政策の性格を規定するこ
とになった。つまり開発の目的は日本経済の発展であって、地域発展ないし地域間均衡ではない、と
いう性格である。この計画は、経済政策の基本となる「経済計画」と実質的に連動しつつ、そこで掲
げられた成長率目標を実現するのに必要な、産業基盤整備投資の地理的配分計画であり、民間投資の
地理的選択を誘導するガイドラインとして機能した。
計画決定までには、政府税収入の7割を中央政府が取るという日本の財政システムの特性から、激
烈な公共投資誘致合戦という政治過程があり、そこで<やむなく>プロジェクトの数が増やされると
いう儀式を経たから、結果的に地域間均衡をめざす地域開発政策であるという衣もまとえたのである。
新全総二つめの特色は、計画の性格を端的に示す国土利用計画にある。その内容は、複数の県から
なる地方(圏)ごとに、その経済構造を農業、工業、観光などに単純特化して規定したものだった。
これは都市計画における専用地域制度をそのまま国土全体に適用する計画思想とも、空間の最大限利
用効率を追求する工場レイアウト手法の適用とも形容できる。
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なぜこのような計画思想が成立し、また社会的に受け入れられたか。それは早く豊かになるために、
日本経済全体の効率=生産性を第一に置くという合意が国中にあったからである。言いかえれば、工
業化と輸出によって貧困から脱却する道をすでに見つけた経験を共有する、中進国日本の社会意識を
反映した<地域開発>政策であった。
(2)
「日本列島改造論」に基づく新全総の改訂とその帰結
現実には、どのような効果をもたらしたか。大規模な交通基盤投資が日本列島の使い勝手を良くし
たという歴史的功績に加えて、重大な負の副作用があった。
第1は、企業を主とする土地の買占めと急激な地価上昇であって、やがて80年代後半のバブル経済
を導く伏線の役割を果たした。70年代の幕開けは、アメリカが國際決済の建前としたドルの金本位制
を放棄するという宣言から始まった。いわゆるニクソン・ショック、あるいはドル・ショックである。
欧日の為替市場は直ちに閉鎖され、通貨交換の固定相場制が変動相場制へ変わると、円高が不可避に
なった。当時日本は、57ヵ月に及ぶ「いざなぎ景気」が収束して、すでに不況局面に移っていた。鉄
鋼・電機機械・自動車などの主力製造業では過剰在庫を抱えた上に、円高が、頼みの輸出拡大による
不況脱出の望みを危うくしたのである。
このような背景のもとで、翌72年に時の田中角栄通産大臣が自民党総裁選に向けた個人的政策提案
という形式で「日本列島改造論」を公刊した。内容は新全総を骨格としながら、さらに大規模な交通
投資、都市建設、工業・農業・観光基地整備を加えた壮大な土木事業展開メニュ−であった。それは
40年前のTVA計画のごとく、公共投資を種として地域での産業連関波及効果の実現を企てた地域開
発計画とも、國際経済開発戦略とも次元の異なる政策だった。一言で表せば、建設業主体の産業政策
ではあっても、地域政策ではなかった。
「改造論」は、公刊された翌月には新全総がこれに合わせて修整され、権威づけられたので、強力
な不況脱出策として産業界からも地域からも歓迎された。しかし上述した状況のもとで、当時の景気
循環を左右した製造業の設備投資を拡大する効果は、当然ながら無かった。代わって、巨額な社会資
本投資が行われるとなれば、まず必要とされるのは土地だという<正しい>判断が、不況対策として
の金融緩和を背景に、諸分野の企業をして土地買占めに向かわせることとなった。その規模は、73年
1年間に法人が取得した土地は金額で 9.8兆円、面積で四国1島分に相当、購入資金の60%は銀行借入
れ、72∼74の3年間に地価は74%高騰、と推計されているほどに達した。(注10)
(注10)矢部洋三他編「現代経済史年表」日本経済評論社 1991 227ページ。
(3)地域システムの前提となる国システムの一例−土地価格と土地利用
土地投機が<正しい>判断だったと言う理由は、日本がなんらの地価抑制機構も持たない特異な市
場経済システムを、明治以降続けてきたことに起因する。
最初に産業資本が成立したイギリスでは、旧封建領主の大土地所有を是認し継続するという妥協を
経て、近代国家に移行する。産業資本の関心は、土地を所有することではなく利用する費用にあった。
企業経営の上で、不可欠な要素である土地のコストを最小にするには、買うよりも借りる方が安い。
だから土地の適正な借地料と、売買価格を決める根拠をどこに求めるかについては、まだ近代型市場
経済システムができてない時点では激しい議論が不可避になった。リカード経済学の重大関心も、こ
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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)
こにあった。やがて利子率との相関で決まるのだという考え方が理解され、土地財が市場システムの
中に包摂されることになる。地価上昇は即コスト増大を意味し、企業経営−ひいては市場経済発展の
足かせになるという常識が社会に共有される。
また別に、欧州の中近世自由都市に生まれた「土地は私有財産だが、その利用形態は公共が決める」
という強い伝統が重要な地価ブレーキになった。たとえば、「塔の街」として銅版画に残る中世のフィ
レンツエは、興隆期の毛織物商人が周辺の土地領主と同盟して、財産と生活の安全を守るために城壁
を築いて出来た都市である。その領主たちは、田園で暮らしていた時の「砦」建築様式を都市の中に
持ちこんだ。砦には、見張りと逃げ城に使った塔が付きものだったが、領主たちは都市政府による高
さ制限を無視し、威勢を塔の高さで競ったものだから塔の街になった。その上都市計画を無視し、勝
手に道路を囲いこんで隣の街区に自分の屋敷を広げたので、道路計画と都市景観は無秩序状態に陥っ
た。やがて近世に毛織物商人が欧州市場を制覇し、財力が蓄積されると、手工業者や小売商人=市民
と同盟して強力な都市政府をつくり、市庁舎の塔を超える高さの塔は上部を切り落とさせ、都市計画
道路は旧に復させた。活発な産業活動と快適な住生活の容器である今日的都市の原型は、このように
して生まれた。
この伝統は、西欧に共通する。今日のフランスでは、ある町に大店舗が進出できるかどうかは、日
本のように地元小売業者と大型店の協議で決まるのではなく、市民代表で構成される委員会で決まる。
立地する場所は、予め都市計画で商業地域が決定されている。ドイツでは、公共用地の買収に際して
は、計画が持ち上がった時点の地価に法定されているから、日本でのようなゴネ得の余地は無い。
昭和初期に和辻哲郎は、日本の政治風土の特徴として政治家の私益優先を挙げ、その基盤は国民の
社会関心、とくに「公共」観念の乏しさにあるが、それは「城壁の中の共同生活」経験が無いからだ
と指摘した。彼がいう政治風土は、たんに政治家のビヘイビアだけでなく、たとえば土地に関わる市
場経済システムに帰結して、基本的に今日まで持ち越されている。その途中で、日本経済にブレーキ
を取り付け、欠陥車を修復する機会が敗戦時に一度だけあった。
敗戦後の日本を規定したマッカーサ−の憲法原案には、土地を一般財とは異なる公共財として位置
付け、土地利用と価格形成に関する規制の必要が盛り込まれていたが、日本政府と財界の強硬な反対
にあって撤回された。マッカ−サ−が当時の日本人を12才だと酷評した要因の一つには、こうした近
代社会の価値観や基本的枠組みに知的関心を示さず、ひたすら平和な農業社会で形成された価値観に
しがみついて、私益優先を重視した日本の姿にあったかもしれない。
日本経済は、70年代に起きた欠陥車の暴走から何も学ばなかった。ブレーキの一つである企業会計
基準の簿価方式も持続されたので、地価水準の上昇は企業の含み資産−土地購入価格と時価の差−を
増やし、担保価値上昇が資金調達能力を高め、ひいては株価上昇を結果した。ミクロの次元では、土
地買占めは<正しい>判断だったことが証明された。しかしマクロでは、それが日本の物価水準を押
し上げて生産適地性を弱め、やがて製品輸出に代わる工場輸出を促す「空洞化」の内的要因となり、
さらには80年代後半のバブル狂騒曲を準備したのである。
列島総都市化の時代に、地域が國際競争力を持つ活発な産業活動と、快適な暮らしの器づくりに取
組もうとすれば、土台である土地利用について私的自由を規制し、公共の利益を優先する思想と制度
を創り、非合理な地価高騰を抑制する仕組みを整えることが不可欠である。国システムの次元でこれ
ができなければ、地域が住民の合意形成を図り、条例化する他は無い。
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(5章終。以下続稿)
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