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泉景文庫反 - 金沢市図書館
平 成 12年 度 近世史料館冬季反 泉景文庫反[ r、 期間:平成 12 年 12 月 9 日(土)~平成 13 年 1 月 30 日(火) 場所:金沢市立玉川図書館近世史料館展示室 /戸 一、 kAI JZιg次 j子 手F 金沢市立玉川図書館近世史料館 泉景の由緒書によれば、佐々木家の元祖は左衛門尉満政とされ、代々江川│ に居住してい たが、故あって若狭角鹿に移住した。左衛門尉から六代にわたり画を好み、七代左近之助 信成は狩野孝信の門弟となり、絵画の修行のため諸国を廻ったとされている 。 八代次郎左衛門信定も画を生業とした後、元禄 8年 ( 1 695) の十代次郎左衛門頼明 の時に大聖寺に移住、先住地の角鹿を性として名乗るようになった。 その後も代々紺屋を 営むなど画との関係は深く、泉景が画の道に進んだのもこのような家系が大きく影響して いたことは想像に難くない。 泉景は、安永 2年 (1773) 大聖寺で生まれた。幼名熊次郎、または愛之助、名は守 継。 泉景は画人としての雅号。 幼少の頃より父、祖父の影響で画を好み、由緒書によれば、わずか 5歳の時に描いた 扉風絵が、鷹狩に小松表を訪れた加賀藩十代藩主重教の目にとまり、金沢城二之丸御殿御 広式で賞を受けたとしづ。その後京都に上り、石田幽 1 丁、友汀父子に学んだ後、当時評判 の高かった狩野派の鶴沢探索門下 とな る 。 享和元年 (1801)探索の禁裏御用の仕事を助け、扉風等に画筆をふるい、その功に より享和 2年 (1802) 3月朝廷より法橋位を拝叙した。これを機会に角鹿性から祖先 の旧姓佐々木に改めた。 同年、大聖寺にもどる 。 その後は、加賀藩御用が増えた事により文化 8年 ( 1811) に金沢に移住、藩の仕事 を中心に活躍し、嘉永元年 (1848) 9月 、 76歳で死去した。 画風は師である鶴沢探索・探泉の影響を感じさせる、典型的な狩野派の流れで、山水 、 花鳥風月と様々な題材において優れた作品を残している。特に、人物や動物の高度な写実 性と、自然で生き生きとした動きに卓越した技術を見ることができる 。 これら泉景の画風 は、息子である泉玄、泉龍をはじめ、門下生達にも受け継がれてし 1く。 代表作として群鹿図(加賀市 実性院)、双鶏図(金沢市指定文化財)などが挙げられる 。 泉玄は、泉景の長子で文化 2年 ( 1 805) 金沢で生まれた。幼少より父泉景に絵を学 んだ後、父と同じ鶴沢門下として京都で修行する。 文政 5年 (1822)、竹沢御殿造営にかかる仕事に父泉景とともに携わった後、加賀藩 御 用 絵 師 と し て 活 躍 し た 。 嘉永 5年 (1852) 法 眼 位 を 拝 叙 、 明 治 1 2年 (1 879) 7 5歳で死去した。 画風は、泉景同様極めて安定した筆致を見せると同時に、風景画などでの情感溢れる描 写が素晴らしい。 また、人物や動物の描写では、流麗な動きや線の表現の中に、穏やかな 温かみが感じられるやさしい筆遣いが特徴である 。 代表作として、今回展示する辰巳旧園新造客殿図(金沢市指定文化財)、二ノ丸御広式御 居間遠望図(金沢市指定文化財)などのほか、利家公凱旋図など人物図も多い。 展示品解説 1 佐々木家系図 年代不詳 佐々木家に伝わる系図でその祖を宇多天皇としているが、書かれた年代等は不詳。か なり後世に作られたものと推察される。 2 泉景先祖由緒並一類附帳 天保 10年 ( 1839) 泉景により加賀藩に提出された由緒書。ここでは、左衛門尉満政を祖としており、前 出の系図よりは現実性を帯びたものといえよう。 ここでは、歴代の祖先が画才に優れていたこと、また、 4歳から絵を始めた自身の経 歴についても細かく記されている。 r 3 泉景法眼叙任宣旨 文政 4年 ( 18 21 ) 泉景に対し、朝廷より法眼の位を発給する旨を述べたもの。法眼は医師、画家、連歌師 などに授けられた位。 4 泉景法眼加級記 文政 4年 ( 18 21 ) 泉景が法眼位を授かったときの記録。御礼献上物を中心に書かれており、禁中様、長橋 様、仙洞様等 12名と、師事していた鶴沢家に対しでも様々な品を献上している。 5 武田信玄画像泉景筆 年代不詳 戦国時代の武将武田信玄を描いたものである。泉景中年期の作品とされ、彩色にいたる までしっかりと描かれている。手本となる原画があったと思われるが、明みを効かした眼、 への字に曲げた口など、淡色ながら重厚に仕上げられた構えは、堂々たる戦国武士信玄像 として見るものを圧倒する。後方の桜の聞から武田の菱紋旗がさりげなく見えるあたり、 構成面でも秀作といえる。なおこの絵は下絵として制作されたものであるが、本画も残さ れている。 /ー「 6 竹鶏図泉景筆 年代不詳 泉景は、狩野派出身らしく様々な動植物を鋭い観察力で描写したが、その中でも鶏は得 意な題材のーっとして、多くの作品を残しており、金地に軍鶏を描いた「双鶏図」などは 代表作のーっとなっている。 この作品においては、何より大胆な竹の描写が注目されるが、反面、鶏の描写はあくま で繊細で控えめである。こういった対極とも思える表現の融合を成功させるところにも泉 景の技術の高さを見ることができる。 7 管公園泉景筆 年代不詳 前田家は、自らを菅原氏の末商として崇め奉ってきた。そのためもあって加賀藩では多 くの菅原道真像が制作されたとみられ、これもそのひとつと考えられる。 構成はオーソドックスなもので、鎮座する菅公と梅の木が描かれている。 8 花鳥図泉景筆 年代不詳 9 泉玄法橋拝叙記 天保 5年 (1834) 天保 5年 8月、泉玄が法橋位を授かった時の記録。 7月 2 9 日以来の出来事や、御礼献 上物の記録が記されている。法橋は法眼の次の位。 1 0泉玄法眼任宣旨 嘉永 5年 (1852) 1 1泉玄自画献上ニ付褒美之儀伝状 嘉永 5年 ( 1852) 師匠鶴沢深龍守昭から泉玄に宛てた伝状。泉玄が献上した絵に対して、お褒めの言葉、 褒美の品が与えられる旨を伝えるもの。 これに対し、法橋か ら法眼の位が授けられることとなる。 1 2泉玄扶持改高二付俸給状 明治 2年 ( 1869) 1 3ニノ御丸御広式御居間遠望図 泉玄筆 (金沢市指定文化財) 泉玄が、藩に命ぜられて制作した写生図で、安政 5年 (1858) 7月真写と記されて いる。本画の下絵と推察されるが、金沢城として殿閣がほとんど残っていない現在では、 城内の様子を知る貴重な史料の一つである。御殿越しに遠望するのは、夕日の沈む宮越(金 石)、専光寺の浜あたりで、緑豊かな城下の様子も見ることができる。 作品としては、淡彩により上品かっ端正にまとめられており、中でも御殿から眺めた庭 園については、流水や盆栽などが細密に書き込まれている。また、建物や静物で占められ たややもすれば冷たい情景の中、数匹の亀を遊ばせるとしづ温かみのある表現は、生き物 描写を得意とした泉玄にふさわしい構成といえる 。 二 ノ丸御殿は、文化 6年 ( 1 809) に新造され、その後明治 2年 (1869) まで前 田家が使用し、その後は兵舎として使われたが、明治 14年 ( 1 881) 火災により焼失 した。 1 4 酒飯記土佐光信筆泉玄写 嘉永年間 一般的には「酒飯論 J とも言われ、土佐光信筆の写しとして制作された。原本は室町絵 巻からと推察される 。 下絵ながら彩色もされている大作である 。 1 5辰 巳 旧 園 新 造 客 殿 図 泉 玄 筆 年代不詳 (金沢市指定文化財) 兼六圏内の洋風建築である辰巳御殿を描いたもの。年代は不詳であるが、御殿の造営が 文久 3年 (1863) 前後であることから、それ以後、遅くとも明治初年には制作された と考えられ、その意味では、当時の兼六園の様子を見ることのできる 貴重な史料で もある 。 左方に山崎山、右方の曲水の橋には八つ橋を見ることができる。建物は白色に着色されて おり、全体としても淡彩ながら巧みに遠近感を作り出している。 圏内に茂る樹木や曲水など、伝統的日本の庭園風景の中にあって、直線的に描かれた洋 風の御殿が不思議な雰囲気を作り出している 。 また、泉玄はここでも動物をさりげなく描 き込んでおり、建物右手前に戯れる犬がそれである。 1 6泉玄隠居許可状 明治 3年 (1870) 1 7印章「守公」泉玄 1 8年 中 行 事 図 泉 玄 筆 年代不詳 人物描写を見てみると、写実的な線を基本とした泉景に対し、泉玄は柔らかい曲線によ る優美な表現を好んだ。 この下絵も、戯画ふうに流しながらも卓越した表現力によって、 極めて優れた風俗絵となっている。淡彩の軽やかな色使いや、人物の動き、表情などに見 ることのできる温かみのある筆遣いは作者の人柄を偲ばせる。 1 9恵 比 寿 大 黒 角 力 図 泉 玄 筆 恵比寿と大黒が相撲を取るとしづ、楽しい題材を水墨画で、さらりと書き上げている 。 右手の取り組みは、ユーモラスでありながらしっかりと安定した確かなデッサン力を感 /一 じさせる。画面構成も巧みで、左に置いた釣り竿やふろしきとが、絶妙なバランスを保っ ている。 佐々木一門が残した下絵などを調査すると、古典的な山水画からこれらの戯画調のもの までを自在にこなすための様々な習作が膨大に残されており、修練の厳しさと同時に高い 画力を源としていることを見ることができる。 /ーー、 一、七人扶持 本国若狭 生国大聖寺歳六十七 佐々木泉景 私は、大聖寺居住の故角鹿治右衛門の停で、幼名は熊次郎と名乗っていた 。 四才の 時から絵を描くことを好んでいたが、安永六年二七七七)二月、私が五才の時、泰 雲院様(加賀藩主十代前田重教)が小松へ鷹狩に来られ、そこで私の絵をご覧になり、 城中に招かれることとなった。よって周年三月六日、二の御丸御広式へ参上し、泰雲 院様の御前において書面を描いて差し上げたところ、白銀五枚、他に筆などの品々を 拝領し、なお一層書面に励むようとのお言葉を賜った。翌七日は金屋御広式へ招かれ、 前日の通りご上覧になり、 同様に描いて差し上げたところ、御料理などの品々を頂戴 した 。 これらの書画を寿光院様(重教の正室)もご覧になったとのことで、寿光院様から 品々を拝領した。これらの拝領物は現在も所持している。 その後、京都で禁裏御絵師鶴沢法眼探索へ入門し、探索死後はその息子探泉に師事 して修行に励んだ 。 享 和 元 年 二 八 O ご禁裏御絵御用を命ぜられ、その功により、 翌年(一八O ご 三 月 法 橋 の 位 を 許 さ れ た 。 その時、性を本性の佐々木に改めた 。 同年大聖寺へ帰国し、御医師格に命ぜられた 。 そ の 後 、 文 化 四 年 二 八 O七)十一 代藩主治惰の時、加賀藩において御扉風御衝立等の御用を命ぜられた 。 1 嘉永五年二八五二)秋、(佐々木)泉玄の法眼昇進の願いをもって上京し、桃花御殿 へ参上、御扉風・御絵を数双拝見する旨命ぜられ、自分の画を献上したところ、御満足 いただき、お褒めのお言葉、 画院、御染筆を頂戴した 。 法眼探龍守昭(花押) 平 成 12年度 近世史料館冬季反 泉景文庫反 / 期 間 : 平 成 13年 2月 9日(金) ~ 3月 20日(火) 場所:金沢市主玉川図書館近世史料館展示室 r- が分の g 金沢市主玉川図書館近世史料館 泉景の由緒書によれば、佐々木家の元祖は左衛門尉満政とされ、代々江州に居住してい たが、故あって若狭角鹿に移住した。左衛門尉から六代にわたり画を好み、七代左近之助 信成は狩野孝信の門弟となり、絵画の修行のため諸国を廻ったとされている。 八代次郎左衛門信定も画を生業とした後、元禄 8年 (1695) の十代次郎左衛門頼明 の時に大聖寺に移住、先住地の角鹿を姓として名乗るようになった。その後も代々紺屋を 営むなど画との関係は深く、泉景が画の道に進んだのもこのような家系が大きく影響して いたことは想像に難くない。 泉景は、安永 2年 ( 1 773) 大聖寺で生まれた。幼名熊次郎、または愛之助、名は守 継。泉景は画人としての雅号。 へ 、 幼少の頃より父、祖父の影響で画を好み、由緒書によれば、わずか 5歳の時に描いた 扉風絵が、鷹狩に小松表を訪れた加賀藩十代藩主重教の目にとまり、金沢城二之丸御殿御 広式で賞を受けたとしづ。その後京都に上り、石田幽汀、友汀父子に学んだ後、当時評判 の高かった狩野派の鶴沢探索門下となる。 享和元年 (1801) 探索の禁裏御用の仕事を助け、扉風等に画筆をふるい、その功に より享和 2年 (1802) 3月朝廷より法橋位を拝叙した。これを機会に角鹿姓から祖先 の旧姓佐々木に改めた。同年、大聖寺にもどる。 その後は、加賀藩御用が増えた事により文化 8年 (18 11) に金沢に移住、藩の仕事 を中心に活躍し、嘉永元年 (1848) 9月 、 76歳で死去した。 画風は師である鶴沢探索・探泉の影響を感じさせる、典型的な狩野派の流れで、山水、 花鳥風月と様々な題材において優れた作品を残している。特に、人物や動物の高度な写実 性と、自然で生き生きとした動きに車越した技術を見ることができる。これら泉景の画風 は、息子である泉玄、泉龍をはじめ、門下生達にも受け継がれてし、く。 代表作として群鹿図(加賀市 実性院)、双鶏図(金沢市指定文化財)などが挙げられる。 泉玄は、泉景の長子で文化 2年 (1805) 金沢で生まれた。幼少より父泉景に絵を学 んだ後、父と同じ鶴沢門下として京都で修行する。 文政 5年 (1822)、竹沢御殿造営にかかる仕事に父泉景とともに携わった後、加賀藩 御 用 絵 師 と し て 活 躍 し た 。 嘉 永 5年 (1852) 法 眼 位 を 拝 叙 、 明 治 1 2年 (1 879) 7 5歳で死去した。 画風は、泉景同様極めて安定した筆致を見せると同時に、風景画などでの情感溢れる描 写が素晴らしい。また、人物や動物の描写では、流麗な動きや線の表現の中に、穏やかな 温かみが感じられるやさしい筆遣いが特徴である。 代表作として、今回展示する辰巳旧園新造客殿図(金沢市指定文化財)、二ノ丸御広式御 居間遠望図(金沢市指定文化財)などのほか、利家公凱旋図など人物図も多い。 泉景の第二子として文化 9年 ( 1812) 金沢に生まれる。兄である泉玄とともに 父泉景に師事。その後 1 5歳で兄泉玄の師でもある京都の鶴沢探泉の門下を経て、江戸 狩野探信の元で、修行。狩野派の技術をしっかりと習得した。 加賀藩の御用を多く務めたが、明治に入ってからもさまざまな画業を残している。 7年 ( 1884) 没 。 明治 1 弟子によれば、兼六園の日本武尊像の原形製作は泉龍の手になるとしづ。 展示品解説 /一 1 佐々木家系図 年代不詳 佐々木家に伝わる系図でその祖を宇多天皇としているが、書かれた年代等は不詳。か なり後世に作られたものと推察される。 2 泉景先祖由緒並一類附帳 天保 10年 ( 1839) 泉景により加賀藩に提出された由緒書。ここでは、左衛門尉満政を祖としており、前 出の系図よりは現実性を帯びたものといえよう。 ここでは、歴代の祖先が画才に優れていたこと、また、 4歳から絵を始めた自身の経 歴についても細かく記されている。 3 泉景法眼叙任宣旨 文政 4年 ( 182 1 ) 泉景に対し、朝廷より法眼の位を発給する旨を述べたもの。法眼は医師、画家、連歌師 などに授けられた位。 ~ 4 泉景法眼加級記 文政 4年 (1821) 泉景が法眼位を授かったときの記録。御礼献上物を中心に書かれており、禁中様、長橋 様、仙洞様等 12名と、師事していた鶴沢家に対しても様々な品を献上している。 5 武田信玄画像泉景筆 年代不詳 戦国時代の武将武田信玄を描いたものである。泉景中年期の作品とされ、彩色にいたる までしっかりと描かれている。手本となる原画があったと思われるが、腕みを効かした眼、 への字に曲げた口など、淡色ながら重厚に仕上げられた構えは、堂々たる戦国武士信玄像 として見るものを圧倒する。後方の桜の間から武田の菱紋旗がさりげなく見えるあたり、 構成面でも秀作といえる。なおこの絵は下絵として制作されたものであるが、本画も残さ れている。 6 龍門図泉景筆 年代不詳 後漢書に登場する龍門は、中国黄河上流の急流にあり、鯉などの魚が下に集まるところ である。多くの魚は登ることができないが、もし登り切れば竜になるとの伝説で、登竜門 の語源になっている 。 ここでは流れ落ちる水とそれに立ち向かう鯉の様子が迫力ある筆づ かいで表現されている 。生き生きとした鯉の表現などに狩野派らしい優れた技術を見るこ とができる。なお、同じ題材を泉龍も取り上げ作品化している。 7 管公図泉景筆 年代不詳 前田家は、自らを菅原氏の末商として崇め奉ってきた。そのためもあって加賀藩では多 くの菅原道真像が制作されたとみられ、これもそのひとつと考えられる 。 構成はオーソド ックスなもので、鎮座する菅公と梅の木が描かれている 。 8 水鳥図泉景筆 年代不詳 9 泉玄法橋拝叙記 天保 5年 ( 1834) 天保 5年 8月、泉玄が法橋位を授かった時の記録。 7月 29 日以来の出来事や、御礼献 上物の記録が記されている 。法橋は法眼の次の位。 1 0泉玄法眼任宣旨 嘉永 5年 (1852) 1 1 泉玄自画献上ニ付褒美之儀伝状 嘉永 5年 ( 1852) 師匠鶴沢深龍守昭から泉玄に宛てた伝状。泉玄が献上した絵に対して、お褒めの言葉、 褒美の品が与えられる旨を伝えるもの。 これに対し、法橋から法眼の位が授けられることとなる 。 1 2泉玄扶持改高二付俸給状 明治 2年 ( 1869) 1 3ニノ御丸御広式御居間遠望図 泉玄筆 (金沢市指定文化財) 泉玄が、藩に命ぜられて制作した写生図で、安政 5年 (1858) 7月真写と記されて いる。本画の下絵と推察されるが、金沢城として殿閣がほとんど、残っていない現在では、 城内の様子を知る 貴重な史料の一つである。御殿越しに遠望するのは、夕日の沈む宮越(金 石)、専光寺の浜あたりで、緑豊かな城下の様子も見ることができる 。 作品としては、淡彩により上品かつ端正にまとめられており、中でも御殿から眺めた庭 園については、流水や盆栽などが細密に書き込まれている 。 また、建物や静物で占められ たややもすれば冷たい情景の中、数匹の亀を遊ばせるという温かみのある表現は、生き物 描写を得意とした泉玄にふさわしい構成といえる。 二ノ丸御殿は、文化 6年 ( 1 809) に新造され、その後明治 2年 ( 1 869) まで前 田家が使用し、その後は兵舎として使われたが、明治 14年 (1881)火災により焼失 した。 14 酒 飯 記 土 佐 光 信 筆 泉 玄 写 嘉永年間 一般的には「酒飯論 J とも言われ、土佐光信筆の写しとして制作された。原本は室町絵 巻からと推察される 。下絵ながら彩色もされている大作である 。 1 5辰 巳 旧 園 新 造 客 殿 図 泉 玄 筆 年代不詳 (金沢市指定文化財) 兼六圏内の洋風建築である辰巳御殿を描いたもの。年代は不詳であるが、御殿の造営が 文久 3年 ( 1 863) 前後であることから、それ以後、遅くとも明治初年には制作された と考えられ、その意味では、当時の兼六園の様子を見ることのできる貴重な史料でもある。 左方に山崎山、右方の曲水の橋には八つ橋を見ることができる。建物は白色に着色されて おり、全体としても淡彩ながら巧みに遠近感を作り出している。 圏内に茂る樹木や曲水など、伝統的日本の庭園風景の中にあって、直線的に描かれた洋 風の御殿が不思議な雰囲気を作り出している。また、泉玄はここでも動物をさりげなく描 き込んでおり、建物右手前に戯れる犬がそれである 。 16 泉玄隠居許可状 明治 3年 ( 1870) 1 7印章「守公J泉玄 ,r 18利家公凱旋図 泉龍筆 年代不詳 桶狭間の戦し、から戻る利家を描いたこの戦場画は、そのときの利家の様子を伝聞から絵 画化したもので、いくつもの敵方の首をぶら下げる馬上にまたがり、首を突き刺した長い 槍を肩に掛けたその姿は、壮年期以降の細面の穏やかな面相とは異なり、「槍の又左(やり のまたざ)J と称された青年期の勇壮にして豪放器落な利家像を表現している 。 かつて、武士の家では端午の節句には、この利家像の軸を掛け、男の子に「このような 勇敢な男であれ J と激励したと伝えられ、江戸のほか水戸藩、薩摩藩など各地で確認され ていた。原本が岸駒(がんく:江戸中期 後期)という説が根強く残っていたが、発祥は 定かではなく、明治初年頃までの風習であったと考えられるが、むしろお膝元であった金 沢ではあまり聞かれない。 r- 19 夕顔棚 泉龍筆 この絵については、久隅守景の有名な作品が原型となっている 。棚の下でくつろぐ親 の様子が柔らかな筆使いで書かれており、見るものを和ませる小品で、ある 。 久隅の原作を泉龍が自らのスタイルを取り入れて書き上げた習作と考えられる 。 20節分の図 泉龍筆 これも、泉龍が戯画調に書き上げたものである。節分の日の空想的な様子をさらりと書 き上げている。狩野派の忠実な後継であった佐々木一門では、完成作品はほとんどが破堤 のない整然としたものに仕上がっており、むしろ、これら戯画調に書き流したような小品 に作者の個性を見つけることができる 。 ここでも、ユーモラスな表現をしながらも、人物の動きなどは極めてなめらかな筆使い で書かれており、泉龍の優れた技術がうかがえる。 21虫づくし 泉龍の弟子によると思われる昆虫などの写生図。原図の模写と思われるが極めて写実 的な描写は佐々木一門の技術の高さを知ることができる。佐々木一門を含めた狩野派の 絵師達は通常 10年以上の修行期間が必要とされ、数多くの模写をくりかえしていた。 佐 々木家系図 (満政) ①② 佐 々 木 左 衛 門 尉l 満 景 ③ l道 直 ( , 1 ) ⑤ l時 ム ロ 111角 鹿 次 良 太 夫 11﹁ 為 光 (頼明) 一 (為泰)?泰重 1 1_ Z E塑 啓 型 議 案 一川 四組 信組 l 立又 rァ {; 3 C (近 情之 一 (民泰) 一 越前新保村大庄屋 一 森安彦右衛門娘 一 ﹁ 善春 仙台藩一(守) : 加茂勇之丞二女 寸二男 一 )r 子 -佐々木雅次郎 ー女 ﹁利 久太郎ーオ弥 一﹁政 li--娘 t ι w i l l - -仕 七左衛門娘 M 子 i女 木 左 BIB--角 鹿 次 右 衛 門 L f ⑦ 々 ) (頼春)一 江沼郡山代村肝煎 荻生筑後之助娘徳田吉左箭門娘﹁角鹿次兵衛 (直明)大聖寺荻生村稲荷神主備後守御歩組-⑫ー ⑬⑪ ②可角鹿次郎左衛門 佐 々 木 次 郎 四 郎L 一 JA Il 吊 5 5助 、 レ一 /J 「由緒書」・「系図」等により作成した。 成 (守貞・守公)-(守直 ⑬⑫⑬ 一 件・ 一一一 酒井無一良妹 横山山城守茶堂 !真野宗古 松本覚兵衛妻 定番御歩 子 ⑤ よ 大聖寺家中組外中村忠次郎市 県泉 北嶋建三郎妻 1 御細工者 L一一一一一一一一一一一惨 ま 軍 翌龍 EL 々 I河 合 弥 吉 妻 勝 子信平 ま 佐 (木 娘宣衛 , < 1 : : 門 政 光 久 佐 幸(左澄春 正 直直泡ノ措t : ; l 娘 月 日 fゴ 二 ザ 量 ニ出中雲qー 未 入守 :烏 宮室 口 = 一 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