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について く瓦) 斎 覚
エーリヒ・ケストナーの『ファービアン』 について(1) 寛 斎 藤 前回,モラリストと規定された主人公のモラリティーを次に検討したい ト と述べておいたが,この間,モラリティーを問題にするとは精神の一部を 問題にするだけなのか,と疑われかねないことに思い当った。当然ながら・ 主人公のファービアンという人間の精神と生のありよう全体を,いわば人 間性そのものを検討しなければならないので,たしかに主人公はモラリス トと規定されており,その精神の中核はモラリティーと呼んでしかるべき であろうが,検討の及ぶ先はこの語が一般に示す範囲をおのずから超える ことを,あらかじめ断っておきたいと思う。 まず,ファービアンの人間性がどのように表わされるか,また人間や社 会に対する彼の思考がどのような特徴を示すか,それがおおよそ明らかに なるまで順を追って見てみたい。 タバコ会社で広告のコピーライターをしている三十二歳のファービアン は独身で「夜は大いに発展し」13),第一章でいかがわしy・男女交際クラブ へ行く。小説の副題が「あるモラリストの物語」となっているだけに,初 めから主人公がこのような行動をとることを,意外に思う読者もいること 九 であろう。しかし次の章では,あるカフェでボーイが乞食を追い出そうと 八 しているのにひどく腹を立て,乞食をもてなそうとすることから,モラリ ストぶりの一端が見てとれるであろう。このささやかな出来事に典型的に 見られるように,弱者に対して一そして特に子供と老人に対して一特 一71一 別の感情を抱いているのがファービアンの大きな特徴である。しかし・ヴ ァイマル共和国の末期という政治的にも経済的にも極度の危機にさらされ ていた社会の中で,この情況に対するファーピァンの姿勢はすぐには明ら かにならない。ただし,彼がつきあうインテリたちを,いわば観察者とし て眺める彼の態度にそれが示唆されてはいる。 まずファービアンの観察の対象になるインテリは,新聞編集者のミュン ツァーとマルミーである。政府に対し批判的でありながら・「おれたちは ‘政府を攻撃すべからずつて命令を受けてるんだ。政府に盾つきやおれたち は損をするんだ。黙ってりゃ政府が得をするんだ」一りという政治部長のミ ュンツァーは,こうするのも自分の生活のためだと割り切っているように 見える。しかレ酒に酔うと泣きながら「おれは豚だよ」15)とわめきもする。 このような自分の行いに対する居直りとやましさ,それに自虐が混在して いる様子は,経済部長のマルミーにおいてもっとはっきりと見てとること ができる。彼はドイツ経済がいかに危機に瀕しているか,また政府の経済一 政策がいかにでたらめかを仔細に述べたてるが,ゆそれを新聞に書こうと はしない。彼はこういつて居直る。 rわたしは世の中の体制が間違っていることを知ってます。われわれ 経済界の人間は盲だって気がついていますよ。しかし・わたしはその間 違った体制のために専心奉仕しているんです。なぜならですね,わたし がささやかな才能を提供しているその間違った体制の中では間違った尺 度が自然に正しくって,正しい尺度が明瞭に間違っているんですから 九七 ね」1マ) そして,こういう自分をr卑怯者」ゆと呼ぶことも忘れない。もちろん このようなr間違った体制」はいずれ重大な結果を招かずにはいないと見 通しているが,r今さらどうしょうとも思わない」塒という。彼は,体制 一72一 の変革よりも国民の精神の変革の方がより根本的な問題だ,とみなしてい るようなのである。 rわれわれは国民全体の精神的な怠惰によって滅亡するのです。われ われは社会が変化してくれることを望みながら,自分自身を変化させる ことは望まないのです。『ほかの奴はどうだ』,こうみんなが考えて, 揺椅子に乗っかって,ユラユラこいでいるんです」2。) あるいは rあらかじめ精神を改造しないで現代の危機を経済的に解決しようと するのは,藪医者の治療法であります」2!) このようにマルミーは,精神的な怠惰を改めることが何よりも急務だと 主張する。しかしそういいながら,r間違った体制のために専心奉仕」し ている自分の精神は改造しようとしないのである。したがって,この主張 は,社会改革的なことは何もしたくないことの逃げ口上だとみなすことも 可能だと考えられる。 このようなインテリたちを前にして,ファービアンは最初大いに憤慨す るが,そのうち冷静な観察者に徹するようになる。この態度により・ファ ービアンが頽廃的なインテリたちと対比され,目立たされる。. しかし,ファービアンとミュンツァーやマルミーとの間には共通点もあ る。それは,インテリであるということの他に,彼らはみないわばりベテ 九 リストであり,いかなる政治組織や運動にもかかわっておらず,政治に対 六 し消極的であるという点であり,特にマルミーとファーピアンでは,社会 的な事柄を問題にする場合,社会体制そのものよりも,社会を構成する人 間の精神の方を重視するという点が一マルミーの場合,かりにそれがロ 一73一 先だけにすぎないとしても一共通している。 このようなファービアンの立場が明確になるのは,彼の親友であるラブ ーデとの会話においてである。ラブーデはレッシングの研究者であるが政 治活動もしており,明確な政治上の計画一国際協定,個人的利益の自発 的縮小,資本主義と技術を理性的限度に引戻すこと,社会給付の強化,教 育を文化的に深めること,そしてこれらによってヨーロッパ大陸を改革し, その没落をくい止めようという計画22)一をもっている。このように活動 方針がはっきりしているラブーデに,好きでもない職業につきながら何も しょうとしないファービアンが行動をうながされると,こう答える・ 「そりゃあぼくはやろうと思えばできるんだ。だけどやる気がないん だよ。やったって何になるんだ。何を目標にやるんだ。かりにぼくにあ る任務があるとしてもだね,ぼくがその任務を果せる体制がどこにある んだ。どこにもないじゃないか。みんな無意味だ」23) また,ラブーデの政治計画に対して,こう批判する。 rきみは権力を欲しがっているんだ。きみは小市民を集めて指導しよ うとしているんだ。それが君の夢なんだ。きみは資本をコントロールし て,プロレタリアに市民権を与えようってんだ。そうして・まるで天国 のような文化国家を造り上げようっていうんだ。しかしねえ,きみ,そ ういう天国へ行ったって,彼らはやっぱり横っ面をなぐりあうんだよ。 実現できない話だろうけど……。ぼくは一つの目的を知っているんだ。 九 五 もっともそいつは残念ながら全然目的じゃないがね。ぼくは人間をまじ めに,理性的にしたいと恵っているんだ。それで今のところぼくは人間 にど’こまでその資格があるか,それを観察中なんだ」24) 一74一 この発言からわかるように,ファービアンは,いかに理想的な社会体制 をつくろうとも現在の人間の精神のありようは変らない,つまり社会体制 の変化ぞのものは人間の精神を変えない,したがって体制以前に人間の精 神の方をまず変えなければならないと信じているのである。この点では, ファービアンとラブーデとでは見解が正反対である・ファービアンが人間 をもっと理性的(vern廿nftig)にしたシ・というのに対し,ラブーデは, rまず社会体制をまとも (vern廿nftig)にしなきゃだめだよ・そうすれ ば人間はひとりでに順応していくよ」鋤という。 精神の変革を優先させるとはいえ,ファービアンが自分の生きている時 代の情況をそのままにしておいていいと思っているわけでは決してない。 それどころか,彼はきわめて敏感に時代の危機を感じ取?ているのである。 彼は十七歳で第一次大戦に出たが,現在の自分は,かつてrちょうど戦争 が始まって,いよいよ今に召集されるってことがわかった時みたい」26)だ一 という。 「ぼくの運命は早晩もう戦場の露ときまってたんだからね。いったい, それまでぼくは何をして暮したらいいんだ。本を読んだらいいのか。人 格を磨いたらいいのか。金もうけをしたらいいのか。ぼくはある大きな 待合室に腰を掛けていたんだ。その待合室の名前はヨーロッパというん だ。一週間たつと汽車が出るんだ。そのことはわかってるんだ。しかし どこへ行くんだか・またぼくってものがどうなるんだか,それは誰にも わからないんだ。ところで,いまぼくはまた待合室に腰を掛けてるんだ。 ところが,その待合室の名前がまたヨーロッパっていうんだ。そしてこ 九 んどもまたぼくたちはどうなるか知らないんだ。1まくたちは過渡的な生 四 活をしているんだ。いつになってもこの危機は果てしがないんだ」罰 実際にrファービアン』の出版のほぼ二年後に,かっての戦場に代って, 一75一 今度はナチスの途方もない野蛮が待っていたことを思えば,上記のファー ビアンの感想から,時代に対する彼の感じ方がいかに正確であったかがい っそうよくわかるのではなかろうか。 しかし,深刻な危機の時代に生きているという時代認識にもかかわらず, 禁欲的なまでに政治活動に消極的な原因として,さらに彼の権力観が加わ る。時代認識では同じラブーデに,rぼくはただ傍観しないだけなんだ。 ぼくなら理性的に行動しようと試みるね」28)と非難されると・ファービァ ンはこう論駁する。 r理性をもった人間には権力は得られないだろう。いわんや正しい人 間‘こは」 29) そして,こう主張ずることによって,ファービアンは政治に対する自分 の消極的な態度に積極的な意義を与えることになる。これは・彼が自己の 立場を明らかにする上で,一歩進んだことを意味する。理性と権力の関係 をこのよう1とみる見方は決して新しいものではないが,権力には,宿命的 ともいえる堕落の契機がひそんでいるとみなし,したがって権力は志向し ないとする立場を,ファービアンは明確に打出したといえよう。 ピストルで撃ちあい,互い一に傷つけあったあるナチ党員と共産党員を助 ける場面で,ファービアンが共産党員にrきみはブルジョアじゃないか」 となじられると,「もちろん,ぼくは一個のプチブルだ。プチブルってい うと,今日じゃ非常な悪口だが」30)と答え,自分がプロレタリアの一員で ないことをあっさりと認める。しかし,心情的にはプロレタリアに対して 九 三 好意を抱いていて,ファシズムに敵意を抱いているのである。 rプロレタリアは一つの利益団体だ。一番大きな利益団体だよ。諸君 が諸君の権利を要求するのは,これは諸君の義務だ・それにぼくは諸君 一76一 の味方だよ。なぜなら,ぼくたちは同じ敵をもっているんだからね。ぼ くは正しいことが好きなんだ。たとえ諸君の方で何といおうと,ぼくは 諸君の味方だよ。だが・しかしだよ,たとえ諸君が天下を握るようにな っても,人類の理想は依然として実現されやしないんだぜ。ぼくたちは まだそれほど善良でもなければ,聡明でもないんだ」鋤 たしかにファービアンは心情的には左翼であるが,未来の展望では左翼 ほど楽観的になれない。それが彼のペシミステギクな人間観から来ている ことは,ここでも確認できる。さらにまた,この後ラブーデが,自分の政 治目的にそった具体的な行動計画をファービアンに打明けると,彼はいく つか疑問を示しながら最後にこういう。 r人間が豚であるかぎり,どんな完全な(g6ttlich)社会体制をもっ たところで,何の役に立つもんか!」32) ここでファービアンの人間観をもう一度振り返ってみれば,人類は堕落 しており,したがって理想的な社会をつくることはできないが,かりに完 全な社会体制をつくったところで,人間の堕落した精神は直らず相変らず 人類の不幸が続く,ということになる。だから,まず人間の精神の変革が 重要だというのである。 しかし,どうずればそれが可能なのか,ファービアンはそれには言及し ないのである。それに,敏感な読者なら,彼はそもそも人類が何らかの方 法で理性的になりうるとは思っていないのではないか,という疑いをすで 九 に抱いたことと思われるが・その疑いが正しいことは・彼とコルネリア・ ニ バッテンベルクとの出会いにおいて明らかになる。職を求めてベルリンに 出て来た法学博士の彼女と偶然知合いになったファービアンが,ベルリン について, 一77一 rこの巨大な石の都が続くかぎり世の中は永遠に変化しませんね。住 んでいる人間を見ると,まるで昔のままの気違い病院ですよ。東は犯罪 の住家だし,中央は詐欺の巣窟だし,北は貧困,西は淫乱,どっちを見 ても没落が住んでいます」鋤 と説明して聞かせるが,コルネリアに「いったいあたしたちはどうなるん でしょうね」鋤と不安気に尋ねられると,こう答える。 r楽天家は絶望するでしょう。ぼくみたいなメランコリカーは平気で すよ。ぼくは自殺する気にはなりませんね・なぜって・ぼくには事業欲 ってものがまるでないんですからね。事業欲なんてものは壁に頭をぶつ ’ けるようなもので,しまいには頭が負けるに決ってますからね。ぼくは. むしろじっと眺めて,待ってるんです。礼儀というものが世の中で勝利 を得るまで待って,それから世の中のために役に立つことをしてもいい んです。無信仰の人間が奇蹟を待つように,ぼくはそれを待っているん です」陶 以前はr人間をまじめ(anst註ndig)に,理性的にしたい」といっていたの が,ここでは礼儀(Anstandigkeit)が勝利を得るまで「待つ」に,姿勢 が後退している。しかも,待つといってもr無信仰の人間が奇蹟を待つよ うに」待つのである。要するに,そもそもファービアンは人間の精神が変 ると本気で思ってはいないのである。そして,このペシミスティクな人間 観がファービアンの想念の基底をなしていることは,これまでの観察から 九 一 明らかであろう。また,彼のメランコリーもそこから来ていることがわか る。つまり,人間と社会が変ることを強く願いながら,それが可能だと思 えない矛盾した気持が彼をメランコリカーにしているのである。とはいえ, メランコリカーという自己規定に安住しているともとれる彼の口吻に,生 一78一 きていく上での一種のたくましさを見てとる読者もいることであろう。 ところで,上記の引用は,これまで断片的に示されたファービアンの想 念をほぼ集約しているとみなしえようが,これを,彼の人間観を基にして 次のように整理しなおすことができるであろう。その際,顕著な特徴とし て精神重視,矛盾,政治的消極性の三点をあげることができよう。すなわ ち・理性を失っている人間の精神を変えないかぎ窮どのような社会体制 をつくっても人類の不幸はなくならない(精神重視)。したがって,まず 人間の精神の変革に期待するが,その一方で大多数の人間にはそれが不可 能であると信じている36)(矛盾)。そして社会体制の変革を先行させても, 人間の精神を変革しようとしても無駄であれば,あらゆる社会活動は無意 味だとみなさざるをえない(政治的消極性)。これがコルネリアとの出会 いまでで浮上る,ファービアンの想念のおよその相貌である。 この後,彼はコルネリアと恋愛関係に入ってから,悲観的なメランコリ カーとしての消極的な態度を微妙に変えていく。ところでぼくは前回,検 討課題の一つとして「ファービアンのモラリティーが一つの時代現象の域 を出ないものなのかどうか」という問題を設定しておや・たが,モラリティ ーも当然その一部をなす,上に見たような想念と心性をもつファービアン .ニタイプを,まさに当時の時代現象そのものととらえ,様々に分析してい る研究者にヘルムート・レーテンがいる。ただし.レーテンはファービア ン像を固定したものととらえて,彼の態度の変化や思考の揺れを視野に入 れていない。この点についてはまた後ほど論及しなければならないが,と もかくもレーテンの分析には教えられるところが多かったし,その」般的 な影響も大きかったのである。たとえば前に触れたキーゼルは,終始彼を 九 念頭において『ファービアン』を論じているといっていいほどなのである。○ そしてこの点からだけでも,ファービアンのモラリティーを考える上で, レーテンの分析と評価は無視できないと思われる。 したがって,ぼくとしては次にレーテンの指描で特に重要だと思われる 一79一 点をとりあげて,それが孕む問題を検討するとともに,レーテンとキーゼ ルの相違にも注目することで,ファービァン像の,さらには作品全体のぼ くなりの検討の参考にしたいと思う。 (続く) (注) テクストはケストナーの ,,Gesammelte Sch雌en mr Erwachsene“8Bde, (Droemer Knaur,1969)のうちの第二巻を用いる。以下のGS(狂)はこれの略号 である。なお.,,Fabian“からの引用は,小松太郎訳『ファーピアン』 (東邦出版 社,1974)によるが,日本語の表記法も含めて,変更させていただいた箇所がある。 また注の番号は,前回の発表分からの通し番号である。 13)GS(豆),S.18。 14)GS(豆),S.28. 15) GS (∬),S.31. 16)マルミーはたとえばこういう。「国家は引き合わない財産を保護します。それ から国家はですね,重工業を保護します。重工業はその生産物を損失価格で輸出 するが,国内ではそれを世界市場の水準以上で売るんです。原料が高すぎるから・ メーカーは賃金を下げる。国家は租税をもって大衆の購買力を減少させる。国家 はその租税を有産者に負担させる勇気はないんです。それでな.くても何十億とい う資本がどんどん国外へ逃げていくんです。どうです,徹底していませんか。こ のでたらめには一つのメソードがないといえるでしょうか」〔GS(H),S31〕 17)GS(H),S,28−29. 18)GS(H).S。29. 19)GS (H),S.29. 20)GS (豆),S.33。 21)GS(皿),S.33. 22)Vgt GS(H),S、67. 23)GS (H),S45. 24) GS(皿),S.46. 25) GS (皿),S.46. 八26)GS(H)・S・52・ 九27).「GS(H),S.53. 28)GS(H),S.53. 29)GS (皿),S.53。 30)GS (H),S.56. 31)GS(皿),S.57. 一80一 32)GS(皿),S.68. 33)GS(n),S.83−84. 34)_GS(H),S。84. 35)GS(皿),S.84. 36)ファーピアンは以前,r理性というものはごく限られた少数の人間にしか教え ることができないし・それにまた・それらの人間はすでに理性をもっているの だ」〔GS(n),S.129.〕とも主張していた。 八八 一81一