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Title カルヴァンとセルヴェ Author(s) 砂原, 教男

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Title カルヴァンとセルヴェ Author(s) 砂原, 教男
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カルヴァンとセルヴェ
砂原, 教男
待兼山論叢. 史学篇. 5 P.71-P.92
1972
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/47968
DOI
Rights
Osaka University
カjレヴァンとセノレヴェ
Jレ
ヴ
ア
ン
と
セ
Jレ
ヴ
コ
ニ
砂
原
教
男
︵
︶
思想﹂を奉ずる人
配下におこうとしたジャン・カル、ヴァンによって行われ、以後数百年にわたり、ヨーロッパの﹁自由
1
体をめぐる両者の
々をして非難させるにいたったスペイン人ミシェル・セルヴェの処刑であった。乙の処刑は三位一
一五五三年十月二七日正午、ジュ、不lプ郊外の小高い丘、 シャンペルで一人の男が火刑に処せられた。 この処刑乙
して事実上その支
そ、当時のヨーロッパに吹き荒れていた不寛容の精神の犠牲として、ジュネーブを完全な神の国に
カ
︿
﹀
︿
︶
3
に、﹁還俗﹂をめぐる対立という見方をとる乙ともできる。何れにしてもこのような対立は、
民
にもち、信仰の純粋さのみを求め、 そのためには強制も辞さないというカルヴァンに対し、土日からのジュネーブ住
上の執行者である限り、常に政治問題とのかかわりあいそ忘れてはならない。 乙の場合も、外国からの亡命者を背後
一方が政治権力の事実
面をもっていると考えるべきだろう。乙れはまたゲッテインゲン大学の R ・ニュ 1 ルンベルガl教授が指摘するよう
2
ではなく、 ルネサンスの成果たる合理的精神に基づく自由探究と、宗教改革の主流をなす信仰の強要との対立という
対立の結果として行われたものであるが、 これは決して単なる神学上の論争という観点からだけ考察されるべきもの
1
7
:
2
7
︶
ζの事件はより明確になるのではないだろうか。今セルヴ
セルグ且とカルヴァンとは全く同じ年︵一五O 九年︶に生まれてい 57Vo カルヴァンは北フランスのピカルディのノ
ワイヨンで生まれており、 セルヴ品はスペインの地中海に沿ったサラゴッサ近郊のグィラヌエパに生まれている。北
フランスの陰うつに対する南ヨーロッパの明るさを二人に見るのは余りに風土決定論的であるだろうか。
セルヴェの家系は貴族の流れをくみ、信心深い人達ばかりであったようだ。父はアントニオ・セルヴェト・アリア
ス・レベスと称し公証人であったと、ミシェル自身がジュネーブの法廷で証言している。
︵
6
︶
彼の初期に受けた教育や生活については余り分っていなない。ただ、ドミニクス派の修道院や、サラゴッサ大学で
︶
続出したセクトの力は既に掴渇してしまっており、他方宗教改革はまだルターによってはじめられていなかアたの
の成長した時代は、 ヨーロッパ、勿論スペインでも寛容の精神が充溢していた時代であった。それは、中世後期以来
︵
7
学んだといわれているだけである。しかし彼の考えは、彼の育った時代に非常に影響されているといえると思う。彼
か
は、急激な変更i聖・俗両面におけるには出来るだけ反対し、もっと自由な生活、もっと自由な信仰を求めて対立
し、セルヴェ事件の時には恐らくカルヴァンはその第二次ジュ、不 lブ滞在中での最悪の危機にあったといえる。
4
︵
るりこのように政治的な観点から考察することによって、
らセルヴェはこの危機にうまく乗じ、自己の論敵カルヴァン号ジュネーブから追放しようとしていたとも考えられ
だ
ェの処刑された場所には噴出非の碑が立てられている。宗教が政治にまき込まれた結果の悲劇に対する瞬間非に外ならな
。
し
、
で、カトリック教会は自己の存立を守らなければという位の脅威を感じていなかったからであった。だから教会も異
端裁判を余り行わず、 ヨーロッパには一種の解放感が横溢していた。キリスト教的ヒヶ iマニズムが現われ、オラン
7ルグリトなどがでて、着々と宗教改革の基礎を築いてい?た。
このような様相はスペインにも見られ
ルカラとサラマンカで学び僧侶になったが、 突然フランシスコ教団に入り、厳格な禁欲生活を送り、 のちにはイザ
ェルの時代には平穏なスペインが訪れていた。乙の平穏な時代のスペインを代表するのがヒメ、不スであった。彼はア
ラナダの陥落後はム l ア人応対しても同様な運命が待っていた。すなわち、かれらには洗礼か追放かの選択しかなか
った。 スペインの宗教裁判の名がとどろいたのはこの時代であり、 それはまたミシェルの父の時代でもあった。ミシ
宗教裁判所は改宗したユダヤ人を守るために、改宗を拒んだユダヤ人の追放を強力に押しすすめた。 一四九二年のグ
えば、 セルグ品がそのへブライ的教養を学びとったサンクト・ブルゴスの司教パウルスはユダヤ人であった。しかし
れでも受け入れられたということである。数千人のユダヤ人が国家のみならず、教会の高官にも登用されている。例
8V
ハ
力を加えて行った。 この場合注目すべきことは、 人種的偏見というようなものは全くなく、洗礼を受けさえすれば誰
ていた。しかし十字軍後、キリスト教世界はスペインに足場を固めて行くにつれて、 ムーア人やユダヤ人に改宗の圧
て十字軍以前のイベリア半島には、 イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一ニ宗教が並存するという奇妙な状態が続い
うのは、 スペインは中世を通じてイスラム教の支配下に置かれていたが、 カリフの宮廷はユダヤ人を歓迎した。従ゥ
るばかりであった。 そればかりでなく、 スペインは他のヨーロッパ諸国とは異った特殊な状態におかれていた。とい
るが、 スペインはその歴史的事情から宗教裁判が殊に激しかったので、 その後の静けさとのコントラストは目を見張
るナグァルの
ダにはエラスムスが、 イギリスにはジョン・ヨレットやトマス・モアが、 フランスにはモ 1の司教ブリソ、不や王姉た
カJレヴァンとセルヴェ
3
7
ベラの聴聞司祭やトレド大司教を歴任した。彼は積極的にム!ア人の改宗に努力したが、同時に自費で十字軍を組織
またア
と呼ばれていたオッカム
彼は教会のためにル、不サンスの成果をとり入れるのに努力し、
円︶
一五二二年にはコンプルウトム
昌aoB
ここではトマス主義者とスコトス学派と新学 ︵
北アフリカのム iア人を攻撃している。
ルカラに大学を作っているが、
派とがそれぞれ一つづっの席をもっているという新しい傾向の大学であった。更に、
︶
︶
という一種の神秘主義運動が栄え、若い人々には夢吾、老
B1ECS というへブライ語・ギリシア語・ラテン語の三ヶ国語からなる旧・新約聖書を刊行している。
B
︵
可白色。印︶
乙
︵
﹀
に、それもスペイン人として、 スペインのム iア人やユダヤ人を如何にしてキリスト教徒に同化してゆけばよいかと
一五二八年にセルヴェは、 ツール 1ズ大学に法律を学ぶために入学している。しかしここで彼は法律よりも神学
躍していた人だが、彼の考えはエラスムス的であったといわれている。
U
から当然であった。 クインタナはフランシスコ派の托鉢僧で、 パリ大学を卒業し、 アラゴン議会の有力議員として活
影響を与えずにはおかなかったにちがいない。しかもセルヴェが十四才でジュアン・クインタナの付人になっている
のスペインには異質だったものが、人々を魅了した。 このようなエラスムスの流行は若いセルヴェにも当然何等かの
廷と共にエラスムス熱はスペインにもたらされ、 その形式にとらわれない敬神、合理性と倫理性の強調などそれまで
ランダの人がオラン、ダの人文主義者エラスムスに心酔するのは当然で、 カルロスに従ってスペインに移ったガンの宮
︿叩︶
きはじめることになった。彼はスペインの属領であったオランダのガンで一五OO年に生まれ、 そこで成長した。オ
一五一六年にハプスブルク家のカ l ルがカルロス一世としてスペイン王位につくと、また新しい風がスペインに吹
人には幻想を抱かせるようになった。
の
し
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ヒメ、不スの影響を受けてアルムブラドス︵k
︵
。
4
7
は真の理解にはな
いう現実的な問題に関心を抱くに至った。彼の三位一体論の否定という問題もこの点を理解せずに
らない。彼は自己の神学をスペインの現実から組み立てていった。すなわち、元来、 マホメット教もユダヤ教も一神
教であるという点で共通点をもって居り、従ってその気にさえなれば、 これらの宗教からキリスト教に改宗するのは
一つの実体に三つのペルソナという言葉もなかった。彼は聖書を離れ三位一体という考えの
ンでも再び異端審問が猛威を振うに至った。
このような時期にセルヴェは、
カトリック教会は勿論、 プロテスタン
ンタナと共に出席している。大体この頃で﹁エラスムス時代﹂は終り、 ヨーロッパは宗教戦争の時代に入り、 スペイ
一五二九年、 セルヴェはクインタナに呼、ひもどされ、 ボロ l ニアでのカルロスのドイツ皇帝としての戴冠式にクイ
かと考えるに至った。
問題は解決され
スト教から除外することは不当であると考えた。三位一体説を除けばスペインのもっている最大の
帰できるではない
る。しかもキリスト教自体ニケア会議の不当な結論を取り消すことによって正しいキリスト教に復
決められたものにすぎないということを見出した。彼は聖書にないような信条によって、 ムーア人とコ、ダヤ人をキリ
源を求めて神学者達や教義史を遡って行った。 その結果ニケア会議でアリウス派の教説からキリスト教を守るために
う言葉は何処にもなく、
論l は聖書にあることを信じ、学生達で集って聖書を熟読した。 その結果は、 ムーア人やユダヤ人を困らせているこ
が、三位一体とい
の教義は聖書にはないということが分った。父と子と聖霊について描かれている乙とは事実である
てキリスト教に入って行けないという現実があった。だから分りやすいように、 一つの頭に三つの顔がある、とか
人の非常によく似た老人という表現がして何んとか理解させようとしている。セルヴェはEしい教義! i殊に三位一体
容易であると思われる。所が現実には、 ムーア人やユダヤ人にとっては三位一体論が理解できず、 乙れが障害になっ
カノレグァンとセ jレヴェ
5
7
7
6
ストラスプール郊外のハ lゲナウのヨハ、不ス・ゼッツアから刊行している。
とれを実名を使って
ト諸派によって正統と認められている三位一体論を真向から否定した﹁三位一体の誤謬について﹂︵巴四吋弘巳冨広師
ユ
vg︶を、
開吋O
−
︵臼︶
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E
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g
u 回宙開話回口自︶刊行しているという ζとは、彼の厚顔さを示す
H出REmogωOHag・釦ロ但白河合48与k
︵司O
ことか、あるいわ彼のこの本に寄せる自信の程を示す ζとか判りかねるが、大胆なことと思う。 この書で三位一体論
を否定し、﹁三位一体論者を三位一日一体論者、無神論者とけなし、彼らの三神を﹁悪魔の欺まん﹂ コ−一頭の怪物﹂との
のしっていぷ﹂このような書物に対しては当然新教、旧教両陣営から激しい非難が加えられている。メラン包トンは
ζの書物を読み﹁これ程吐気をもよおす書物を見たととはない﹂と述べ、
スペイン
﹁乙の説は全く受け入れ蛇い﹂と述べている。更に、イタリア人で人文主者義で枢機卿にもなったジロラモ・アレア
H
g
k
F
H
gロ号。︶は
ンドロ︿の町己創
で著者を処置するように提案している。 セルヴ品は大胆にも、 乙の書物をサラゴッサの司教に送ったものだから、直
ちに一異端裁判の大法廷に訴えられた@法廷はセルヴェに出頭するように命ずるビラを作ったが、 セルヴェをおびき寄
アメリカ大陸に脱れようと考えた
せるために直ちに剥がされている。だから事実上何の処置もとられなかったわけである。
ζの本の出版の結果、新教・旧教の両方の世界から閉め出されたセルグ且は、
ζの当時の校正者は序文、注釈、訂正と
が、結局、ミカエル・ヴィラノヴァヌス︵富山岳脚色︿ロE5485︶という偽名でフランスに赴きリヨジで校正者とし
て生計をたてることにしている。校正それ自体は単調なつまらぬ仕事だが、
︵国﹀
いう面で非常な自由をもっていた。だから逆にこのようなものを通じて校正者の芳えを出せるというわけである。セ
ルヴヰは︸五三五年と一五四一年にプトレミイの地理学と︸五回二年にはパグニ!ヌスの聖書とを刊行しているが、
彼の人文主義的素養を示すものは前者の地理学である。彼はこれを原典からではなく、 一五二五年にニュ l ルンベル
カノレヴァンとセ Jレグェ
一五四一年版ではその数も増えてい
の校訂本をもとにしている。 しかし勿論各所にセルヴェの加筆が行われてい
フリi ス版は一五一三年のヴ
o百四円︶ の校訂版によゥているが、 このピルクハイマ l の本
v
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クの、ヴィリバルト・ピルクハイマ l ︵当日志田区百円n
︶
円
白
目
己
OOB
FgEE 司氏。印︶版を、
は一五二二年刊行のストラスプールのレオナルト・フリース︵
アルトゼ lミユラi ︵毛色骨
る。そのために一五三五年版では八十冊の参照した参考文献が列挙されており、
る。更にフリl スの一五二二年版をもとにしてではあるが、新旧地名対称表をつけている。内容に関しても、彼は国
一五一一一六年パリに帰り、大学で医学を学びはじ
の外部の姿よりも、 そこに生活している人聞に重点をおくようにしている。 これは亙に人文主義者の方法である。
校正者としての仕事のわずらわしさに見切りをつけたセルヴェは、
これに
という本を書いて
U
ο また、大学で地理と占星学を講義して賞讃を博しているが、
めた。医学を修得する聞の生計維持のため本を書いている。 一五三七年にはグシロップについて
居り、非常に秀れ、十年間に四版を重ねている
ンを通じカルヴァンとの文通を行っている。カルヴァンとは既にパリで面識があった。カルヴァンの後継者のテォド
る。また、リヨンの有名な出版者ジャン・フレロンを知り、聖トマスのスペイン語訳を出版しているが、このフレロ
改訂版を編集したりしているが、当地での彼の医術の名声は高く、 町の有力者の絶大な信頼を受けていたようであ
nF83 で、前述のプトレミ!の地理学とかペグニ l ヌスの聖書の
えよう。彼はヴィエンヌの出版者トレシェル︵吋,B
受けてヴィエンヌに移り、以後十二年間滞在する乙とになった。 この期間が恐らくもっとも静かな時期だったともい
E 吋 ︶に赴き、 そこで二年程開業している ρ ここで結婚したらしい。
り、リヨン郊外のシャルル i U
︵
︵
︶ の勧めを
円
一五四O年に、大学での彼の聴講生の一人でヴィエンヌの大司教ピエール・パルミエ︵E253HBぽ
Eg
対して同僚のねたみをかっている。結局パリ高等法院から占星学の講義を禁じられ︵一五三八年﹀たので、 パリを去
7
7
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︵
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u
i ル・ベサの﹁カルヴァン伝﹂によれば、 セルグェはカルヴァンとの会談を切望していたので、危険ではあゥたが時
と場所とを定めたが、 セルヴェはそこに現われなかった、と述べている。乙れは一五三四年のことである。どのよう
な事情で現われなかったか分らないが、そのセルヴェが人を介し︵手紙は常にフレロンの手を経由して交換された︶
両者とも偽名を使って︵セルヴェはミシェル・ド・ヴィルヌ lヴを、 カルヴァンはシャルル・デスプヴィ l ユを使った︶
ではあるが文通しだしたのはどうしてだろうか。後にジュネーブに現われたという乙とと考え合わせてみると、
ヴァンはいつかは自分の考えを分ってくれると少し甘く考えていたのではないかと思われてならない。
乙の文通でセル、ヴェは、彼のキリスト論と幼児洗礼の問題点について、 カルヴアンに教えようとしている。
ζれに
j
J
ζのキリスト教綱
﹁彼はもっと有益な研究から私をそらせようと
﹁今私がそれに対してした乙とに、どうか満足して欲しい﹂と結んでいる。乙れと同じ日
︶
る限り、彼を生きたまま町をたたせない。﹂と書いている。乙のファ l レルに宛てた有名な手紙から、カルグァンは
︵
n
同意すれば彼はここへ来ると云っている。しかし私は同意しないつもりだ。というのは、彼が来るならば、私の力あ
にファ lレル宛に﹁セルヴェは最近私に手紙をよこし、 それと一緒に大言壮語にあふれた大冊を同封して来た。私が
する悪魔である﹂と述べ、
緒にブレロンに、可成りはっきりとセルヴェの高慢な態度を非難し、
を頼むが、 カルヴァンは返却しなかった。 カルヴァンは一五四六年二月十三日付でセルヴェに対する最後の返事と一
要は欄外に激しい批評が書き込まれて返送されて来た。 この際セルヴェは自分の﹁キリスト教復興論﹂の写しの返送
き、時聞がないのでこれ以上め説明は乙の本を読んで欲しいと﹁キリスト教綱要﹂を送っている。
かに執筆していた﹁キリスト教復興論﹂の手稿の一部を同封している。 これに対しカルヴァンはもっと長い返事を書
対してカルヴァンは丁重に返事をしている。 乙の返事に満足しないセルヴェは、 いくつかの神学上の質問と共に、秘
Jレ
セルグェの本質を見抜いていたことは、はっきりと読みとれるが、更に、生かしておくべきでないという基本的考え
から、後述のヴィエンヌのカトリック陣営にセルヴェを売り渡したのは、表面には他人が立っているが、事実はカル
ヴァン自身の意図から仕組まれたものだという推測がなされている。 セルヴェからの手紙にカルヴァンは返事を書か
︿幻︶
一五五三年一月三日に印刷が終っている。全部
︵四日︶
ζれには著者の名も印
ノぜ
なかったので両者の文通はこれで終っている。
セルヴェは先にカルヴァンに送った原稿に手を加え、更にカルグァンへの手紙などを加えて刊行することにし、
2sg︶に送ったが断わられ︵一五五二年四月九日︶たので、ヴィエンヌの出版者兼販
ーゼルの出版者マリヌス︵冨担
︵
M50 、円丘四︶ というフランスから亡命して来た男がいる
知らされた。 カルヴァンの友人にギョ lム・トリー CE 2
−
−
KF54印︶に手紙ぞ送った。 乙の中でトリーはカト
が、彼はリヨンに居る従兄弟アントワ1 ヌ・アル、子 l ︵﹀己。仲間O
セルヴェがヴィエンヌでこの書物を刊行したということは一月後の二月二六日付の手紙でジュネーブからリヨンに
とを証明する乙とになった。
刷場所も明らかにされていなかった。 ただ最後のぺ lジにM ・S −Vという文字を入れた。これがセルヴェである乙
︿お︶
この書物こそセルヴェの主著である﹁キリスト教復興論色町片山由民向富山師自由一河g吾口氏。︶﹂で、
送られ、 そこからさらにジエノア・ヴェニスに送られた。また、シャティヨンの書店ジャコブ・ヴェステに可成り多
たようである。
くが送られ、%はフランクフルトに送られてい J針。ヵルヴァンはフレロンから二、三冊入手し
で千部印刷され、百冊づっ樽に入れ、 五樽は﹁白こしよう﹂という名目でリヨンの活字鋳造師ピエール・マルタンに
出版契約を結んだ。印刷は場末の小さな家で極秘のうちに進められ、
−03 とその義兄弟ギヨ lム・ゲル l ︵の巳ロ255の
FSRKFEC巳
58巳件︶と
売人パルタザ!ル・アルヌ l レ︵切但H
カJレグァンとセルグェ
9
7
0
8
︹幻︶
リックの方が秩序と訓練が保れているというが、ジュネーブの方がずっとそうであることを述べ、 フランスではイエ
医術に従事している。
彼はしばらくリヨンにいたことがあ
ス・キリストを偶像と呼ぶ男が現に居るのにどうして放っておくのか。彼はポルトガル系のスペイン人ミシェル・セ
ルヴェで、今はミシヱル・ド・ヴィルヌ lヴと名のり、
︵明日︶
り、今はヴィエンヌにいて、彼の本はパル夕、ザl ル・アルヌi レという人によって印刷されている。証拠に最初の部
分を送ると、四頁だけ同封されていた。
与﹀に届け出た。 早速調査が行われ、三月十六日
アル、子 lは直ちにリヨン教区の異端審問官オリl ︵富民匹芯Z O
にはセルヴェはずィエシヌの代官宅に召喚されている。命令を・づけて二時間後に出頭したが、 その聞に証拠物件は全
部かくされていた。翌日印刷所の捜索が行われたが、何の証拠も発見されなか?た。 セルヴェの庇護者のヴィエンヌ
大司教ピエール・パルミエはオリlに証拠が不充分だと指摘した。 そこでオリlはアルネーにジュネーブのトリーに
﹁あなたが欲しいといづているもの、印刷された本を
﹁私はただ、自分は教会の柱右だと云っている人々の美しい熱意と献身な
﹁復興論﹂の全部を送ってくれるように手紙を出させた。乙れに対しトリーは一二月二十六日付の手品川千、まず、妻感
そこまで進んだことに驚きの気持をのぺ、
るものにあなたの注意を喚起したかっただけである﹂と続け、
今は与えられないが、 それがなくとも本当にやる気があればそんなに難しいことではないように思う。しかし、私は
あなたに、彼を有罪にするのにもっとよいもの、彼の異端説が含まれている手書の原稿二十四枚なら与える乙とがで
きる。印刷された本なら否定できるが、手書原稿なら、 そうできまい。:::しかし、私が送るもの︵手書き原稿︶を
カルヴァンから手に入れるのには少なからざる苦労をした。勿論カルヴァンはこのようなのろうべき異端を押えつけ,
たくないからではなく、彼の義務は異端を、司法の剣で処罰するのではなく、教義そのもので説き伏せるのだと考え
カJレヴァンとセ Jレグェ
1
8
0
﹁事件がもっと進展すれば、お
・:しかし、 目下の所は、彼を逮捕し、裁判にかけるには充分だと私は思う。﹂と結
ているからである﹂と述べ、伎がカルヴァンを説得して結局これを入手したと述べ、
いおい残りの物も送りましょう
んでいる。異端審問官はヴィルヌ iヴがセルヴェであるという証拠と彼が﹁復興論﹂の著者であるというもっと明白
な証拠を求める手紙をジュ lネiブに出させたが、 これ以上のものは入手できなかったので、 四月四日にル lシロン
の城にオリl、 パルミェ、司教代理らが集って協議した結果、 セル、ヴェとアルヌ l レの逮捕が決定され、 アルヌ iレ
は自宅で逮捕され、 セルヴェは往診先から、域に病人が居るとの虚言でつれ出され逮捕されている。翌五臼からオリ
ーによる審問が行われたが、 これらの証拠に結局にヴィルヌiヴはセルヴェであり、 かっこの書物の著者であること
﹁復興論﹂の発送先を自白した。 六月十七日に世俗法廷は、
ヴィルヌ lヴを言語道断な異端、
治安妨
を認めた。
しかしセルヴェは四月七日庭の塀をのりこえて脱走い日。審理はその後も続けられ、 アルヌ lレは印刷した機械の
隠し場所と、
害、叛乱、脱獄等の罪状で火刑の判決を下した。執行は彼の肖像画に対して行わ引か。
、 カルヴァンはどれ位責任があるかについては、 その立場立場で考えが分れるのは
体
乙のヴィエンヌの事件に、 一
とは事実であろ
当然であるが、少くとも、ジュネーブ以外に住む人間を、ある程度意識的に敵陣営に売ったというこ
、あるいは黙認
ぅ。トリーがカル、ヴァンから苦労して原稿を手に入れたといっても、基本的にはカルヴァンの賛成が
がそれに先立ってあったという乙とは、 トリ!の第一番目の手紙にすでにセルヴェの著書の一部が同封されていたこ
︵
﹀
と直接、接触し
とからいえると思う。後にセルヴェからこの点を非難されたカルヴァンは﹁私は決して法王の手先き
MM
たことはない﹂と述べ、責任を回避しようとしたが、これで、それまで全くセルグュとヴィルヌ iヴが同一人物であ
82
り、且つ﹁復興論﹂の著者であると知らなかったカトリック側に、印刷所まで明記して知らせる必要があっただろう
か。ここに何かカル、ヴァンの異常さが伺えるようである。 それがセルヴェという人に対してであるか、あるいはセル
グュのもっている反三位一体論を含む神学に対してであるか。勿論、 これは解決できない問題だろうが、 それに関し
てロップの指摘は非常に示唆に富んでいると思う。
ロップによるとカルヴァンの主著﹁キリスト教綱要﹂は周知の如く、段々に増補、 訂正を加えつつ作り上げられて
来たものだが、 この三位一体論に関しても同様で、最初のラテン語版には三位一体論は余り述べられていなかった。
そこで、 カルヴァンは他のプロテスタント殊にジュネーブにパリから亡命して来たソルボンヌの博士ピエール・カロ
リ︵盟問門店。向。−C によって激しく攻撃された。 この苦い経験からカルヴァンは殊にこの三位一体論に関しては神経
質に対処し、自分の考えとの区別を殊更に明確にせんとしていたというのである。
一体どうして来たの、だろう
一つは、 セルヴェはイタリアへ行き、 そこで開業する積りで旅行の途中にジュ、不 lブに寄った。だから、勿論滞在
か。確たる一位拠、確たる証言がないので、色々の推測がなされている。二つ程紹介してみよう。
たきっかけを作ったカルヴァンの所に出かけて来るとは常識では考えられない行動だ。
して約四ヶ月、所もあろうにカルヴァンの町に現われ逮捕されてしまった。ヴィエンヌで危うく命を落しそうになっ
れ以上演神や異端の説の害毒を流させないために投獄することを決めた﹂と述べている。ヴィエンヌの獄を抜け出
︵斜︶
ジュネーブ牧師会議事録は﹁この年の八月十三日、ミシェル・セル、ヴェはある信者によって発見され、世の中にこ
2
の意志はなく、唯一晩泊り、翌日はポ lトで櫛を渡る積りだゥた。 その日がたまたま日曜目だったので、教会に行く
方が目立たないと思って教会へ行った丈である。というのは、中世末期の諸都市ではどこでもそうだっか料、特にジ
不lプでは、 日曜日には教会に行って説教が終るまで居なければならなかった。もしも宿屋にいて教会に行かなけ
、
ユ
れば、 直ちに訴えられただろう。 教会に出た方が目立なかったといえる。 したがってセルヴェは、 異邦人の気安さ
と、わずか一日しか居ないということから甘く考えていたのかも知れない。 乙の説に対しては、矢張少々説得力が弱
いとえいる。あのファ l レルへの手紙は知らないにしても、ヴィエンヌでの裁判の証拠物件は総べてカルヴァンから
が、新しい秩序の樹立という欄密な才能は持ち合わせていなかった。 そ乙にカルヴァンがたまたま来て協力するとと
た。所がベルンの援助を受けてやって来たギョ 1ム・ファ lレルは、 確かにカトリックの組織・虚飾を叩き潰した
という政治的判断もからんで行われたというのが実情であった。したがって全市民が心の底から福音に帰依したとい
うことは遂になかった。土着のジュネーブ人にとって第一の願いは市の独立の保持と発展であり、宗教は第二であっ
離脱した。ところが、ジナ不lプの宗教改革はその独立運動の際に、ベルン等のプロテスタント都市の援助を得ょう
ジュネーブは一五三太年五月二十一日に市民総会で﹁福音﹂に従って生喝さることを決議し、 正式にカトリックから
するのである。 そのためにはセルグェの来た時のジュネーブの状態を少し見て置く必要があろう@
これに対して今一つの推測の方が合理的のように思える。当時のカルヴァンを取り囲む政治状勢から説明しようと
得ない必然性が欠けているようであるι
る。ジュネーブで何かをする積りであったとか、誰れかと会う積りであったとかという何かジュ、不lプに寄らざるを
提供されていたという点だけで考えても、 普通ならばカルグァンの町を避ける筈である。 何んとも不自然に思われ
カルヴァンとセ Jレヴェ
3
8
4
8
ブを去ら
1l
になった。彼は神は至高のものであり、 人間は決して神の意図も計り知ることができず、総ては唯神の栄光のために
のみ在ると考えた。ジュネーブの人々とは真向から対立するのは当然である。 かくてカルヴァンはジュ、不
なければならなかった。 これはベルン式の礼拝方法の採用をめぐる対立から生じた結果だが、 その背後には市民に対
するベルンの援助があり、市民はベルン市の宗教政策がジュネーブより自由であるので、 ベルンと結んでジュ、不 lブ
一五三六年に確保していた諸権利をベルンに返還するというようなことを決めたりしたので、市内は
の制度をベルン方式にさせようとしたわけである。しかしカルヴァンの去ったあとのジュネーブは、親ベルン派が余
りに無定見で、
一五回O年アミl ・ペラン
不安定な状態に置かれるに至った。あの有名なカトリックに復帰するように促したサドレの書簡に対するカルヴァン
の返答は、ジュネーブの失った指導者の偉大さを人々に一再認識させるに至った。かくて、
一五四一年九
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ルヴァンは楽隊に迎えられてジュネーブ市に入った。しかしこのことはジェネ lブ市民が全面降伏した
カ
は市議会よりカルヴァン召喚促進の委託を受け、 カルヴンと接触している。数度にわたる交渉の結果、
月十三日
一五三七年の﹁ジュネーブに於ける教
ということにはならない。 カルヴァンは従来からの方法を改める意志は全くもっていなかった。彼は追放された時点
から正確に自己の理想をめざして機械のように歩みはじめた。彼の初仕事は、
会と儀式の組織に関し、牧師によって市議会に提出せられたる条項﹂をもとにした﹁ジュ、不lブ教会規程﹂の制定で
。 これに基いて作られた市民の徴戒訓練機関が監理会︵︵U
S即日田宮山吋ゆ︶であった。
占のブハw
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このようなカルヴァンに対する反対運動は、 彼の直接の部下たる牧師からはじめられ︵ベルナl ル|∞σBR
一五四七年とジュネーブ市運営の中心たる理事者︵∞可ロ
しかし反カルヴァンのリーダー達の不穏当な行動などが続いたり
たが、その動きは一五四五年頃から更に高まり、一五四六年、
色ロ︶の選挙は、 反カルヴァン派が勝利している。
カノレヴァンとセノレヴ、エ
しくなって来た。
したので一五四八年の選挙ではカルヴァン派と反対派とは同数になり、両者の対立はいよいよはげ
そのピ 1クが一五五三年であったといえる。二月の選挙は反カルヴァンの大勝利で、 そのリーダー、 アミ l ・ペラン
自身理事に当選した。また小議会もその過半数以上がペラン側についた。 この結果、 カルヴァン達に対する追求がは
。また、聖職希望
げしくなり、三月十六日には、聖職者が従来もっていた市民総会における投票権をとり上げられた
の末、監理会がも
者の試験にもっと小議会が関与できるようにとの主張が強く表明された。更に、従来幾度かの論争
っていた破門権に対する異論が再びおこって於bo
他方、亡命外国人に対する悪感情も高まり、 かれらは万以外の武器の所有が禁ぜられ、 その万も町でもって歩くこ
ベルト・ベルテリエ
BE−−官三回2FO日目白円︶の問題が未解決のままであっ払ド
ベルテリエは独立戦争で活躍した愛
国者の息子で、 アミ l ・ペラン、ピエール・アモーなどと共に反カルヴァン派のリーダーの一人であった。彼は既に
門されると議会に
一五四八年に監理会のもっている破門権を奪い返そうという運動をおこしていた。だから、彼が破
当選した
破門を取り消すように申出た。議会は監理会の決定を認めるというだけであったが、 一五五三年第一理事に
表
アミi ・ペランはベルテリエの破門を取り消した。このことはカルヴァンに対するペランというよりはペランに代
がっていた。
された古くからの市民の、更に市政府の挑戦と見なされた。両者とも隙あらば相手を倒さんとうか
と人々は考えてい
ヴァンの立場は政治的に最悪の状態に追いこまれていた。彼が再び町を立ち去るのは決定的である
た。正にこのような時にミッシェル・セルヴェはやって来たのだ。
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とは禁ぜられていた。また、亡命者が市の夜警につくことも禁ぜられるに至った。更に、 一五五一年にカルヴァンを
されていたフィリ
ののしったこと、教会に行かなかったこと、弁明を拒否したことなどのため、監理会によって破門
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ζれにもいくつかのおかしな点があるわ
セルヴェは反カルヴァン派としめし合せてカルヴァンを打倒する陰謀に荷担するために危険をおかして来たと考え
る意見がある。論理的には前の考えよりずっとすっきりしている。しかし、
けで、 セル、ヴェのジュネーブに来た理由の充分な説明にはならない。例えば、陰謀を企てていたなら、 そしてそれを
︵
ω
︶
カルヴァンが摘発したなら、当然それに関する何らかの記事が何処かに残っていてもよいはずだが、唯一つ、考え方
によればそれかなと考えられるような言葉が別の出来事に関して述べられている丈である。これはどうも納得しかね
る。ましてや、 カルヴァンへの陰謀を強調することによって、丁度、近代国家において叛逆者は極刑に処せられるの
と同様だとして、 カルヴァンの無罪を主張するならlーー結果論ではあるがーーーもっと明確な||場合によっては誇張
された陰謀の記事を残してもよくはないだろうか。もう一つ疑問点は陰謀が露見していないのに、 セルヴェが宿屋の
主人に翌日のボ iトを予約している点で、何故立ち去る必要があったのだろうかという疑問が残る。
こう考えて来ると、 セルヴェのジュネーブに来た真の理由を確定することは不可能なように思える。しかし、
は四囲の状況から推論するしか方法ないように見える。
ヴェが何の考えもなしにジュ、不lブに来るとも考えられない。しかも確たる証拠も証言もない。とするとわれわれに
セ
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ζした時には、告訴が認められるまで、原告も入牢することになっていた。この場合、カロリーナ法によれば、
君主・僧侶等地位の高い人は自分の代理人を立てる乙とができた。カルヴァンはニコラス・ド・ラ・フォンテl ヌ
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八月十三日につかまったセルヴェは市役所地下の牢に入れられた。当時のジュネーブの法律によれば、私人が訴え
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︵カルヴァンの召使い︶を代理人に立てた。 一五四三年のジュ、不1プの法規によると︵これはカルヴ
った。八月十四日に三十九の問
られた︶原告・被告両者の収容後二十四時間以内に告訴状が出されなければならなか
同Enユヨ宮内巳︶ がこの告訴状を認めて初めて裁判がはじまるわ
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題点を指摘した告訴状が出された。検察官 ︵
一切の費用は原告が負担し、被告への損害補償とか慰籍料とかも原告が負担しなければ
けで、もしも却下されると、
ブでの全
ならなかった。 この事件の場合、却下されると、以上の金銭的な損害だけではなく、 カルヴァンのジュネー
にとって大冒険で
成果はくずれ去り、彼自体の存立すら危くなることは自明であり、 この点、 この告訴はカルヴァン
の25
カルヴァンの法廷での代理人は亡命フランス人の法学者コラドン ︵
あった。
訴訟手続をとるように命じ
幸い、告訴の理由が決定的であったので、検察官は八月十七日に陪席のベルテリエに
た。かくてフォンテl ヌは釈放せられた。
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︶ であった。 八月末にセルヴェは、弁護士をつけて欲しいと願い出たが市当局は拒否している。彼は弁
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幼児洗礼についても闘わされ、
︵叫︶
市の代表弁護
護士なしで裁判を受けた。 それが合法的であった。これに対し、原告には、カル、ワァンの友人でもある
Z百四可︶ のクロード・リゴ!︵白血ロ色。担問。ごがなり、 これ以後カルヴァンは告訴人ではなく、神
印E
人︵昨日同叩印ggi
学上の助言を与えるジュネーブの牧師の一人として裁判を助けることになるのである。
それぞれ細かい点について論争が行
裁判においては、 単に三位一体だけでなく、
︵必︶
︵日制︶
それでも彼はフランスで裁かれるよりはょいと考え
るのに対し、もう一方は弁護士
われでいる。しかし一方は完全な行動の自由をもち、多くの専門の助言者をもってい
け日の目を見るという状態では
もつけられず、着のみ着のまま、ノミの一杯いる地下牢に放りこまれて、裁判の時だ
公正な裁判 ︵それも神学論争が中心だから︶ は期待できない。
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た。フランスからセルヴェを引き渡して欲しいとの要求があった乙とを聞かされたセルヴェは膝まづいてジュネーブ
︵紛︶
での裁判を嘆願している。乙の段階ではセルヴェは死刑を予想してはいなかったにちがいない。牢番を通じてペラン
と連絡していたらしい。恐らく前述のベルテリエが小議会に来て、外国人を裁く権利はないからこの裁判をやめるよ
うにして欲しいと訴えたことも聞いているだろう。そんなことの結果か、彼の態度は益々尊大になり、人々の憤激を
、
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買い、 さすがの彼の支持者も乙れには匙を投げ出さざるをえなかった。判断の材料にと他の市の教会の意見を聞くと
とに決め︵九月十九日︶、返事は十月十八日に、 ペルン、
チュ lリッヒ、 シヤフハ lゼンの四教会から来
、
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ぐにシャンペルの丘に連行された。
キリスト、永遠の神の子たる貴方、
たρ 捧
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セルヴェの最後の言葉は﹁イエス・
乙の両者の全存在をかけた戦いはカルヴァシの勝利に終った。彼は最大の危機を乗り切った。 これで彼のジュネl
」の
で祈
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前に連れ出され、 理事の一人から改めて刑の宣告を受けた。 セルヴェは新首刑にされんことを願ったが拒否され、直
カルヴァンに対し謝罪はしたが、自説の撤回には頑として応じなかった。 その日の朝十時に牢から市政府庁舎の門
来ていたファ l レルが牢にセルヴェを訪ね、改俊をすすめるが聞かず、 カルヴァンとの会見を求めた。
セルヴェは翌朝この判決を聞かされた。彼は予期しない重い判決に動転し、あわれみを乞うた。丁度ジュネーブに
く、帝国法、郎、 ユスチニアヌス法であった。
︵日︶
るが総て無駄で、全員一致で火刑に処すことになった。乙の場合の判決の根拠にした法は、ジュネーブの法律ではな
二十六日に小議会は会議を聞き、セルヴェに対する判決を審議した。この席でアミ l ・ペランは最後の努力を試み
た。何れもセルヴェを除くことの必要性は認めて居るが、その処刑を要求したものは一つもなかった。
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諸都市は抗議もし、善処も願ったが、一五五三年二月十八日とれも拒否されている。この件を皮肉っていると思われる。
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みた位であった。しかしベルテリエは市当局の意向を受けて欠席した。 ω
︵鈎︶切削凶山ロぢロ同・出− HYHa これによるとピ宮町片山口2 が完全に打ち破られて数年後帰国の許可を申し出したのに対し、市議会
は、かれらがセルヴェに t出向。ロ阿阿国ロ=を与えたから信用できないと述べている。乙の文書はドイツ語でしか残っていない
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が、乙の=ロ RBV
即日件=は宿泊を意味するから、隠れ家を提供したと、とれるというのである。
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︶ この裁判の手続、法律的説明等は以下の書による。何百回仲思百冊同巾同日向りぬなな両司令即時誌なの室、︵Z2ERvggm ω−
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て作られた刑事裁判令で、以後数百年間にわたって刑法の理論と実務とを支配した。︵以上国広ロユn
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rgdN邦訳世良晃志郎﹁ドイツ法制史概説﹂昭二九、三四一頁︶これは、その前身とい
うべき法律がいくつかあり、それらと共に広く、スイスにも行われていたらしい。
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︵必︶この弁護士をつける権利は一七三四年になってやっと認められている。有国田宮S F a−n
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︵日出︶前述の河巾岡山田可冊目では四十五頁に一日一って、論争がこまかく書かれている。
︵大阪府立大学工業短期大学部助教授︶
︵比四︶彼が逮捕された時金貨、金鎖、金の指輪、貴金属等をもっていたが、これらは検察官吋28同に没収され、裁判後、社会施
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︵見︶カルヴァンは一五五四年二月に、カステリオン達の抗議に対し﹁ミシェル・セルヴェの誤謬に対する正統信仰の擁護﹂を公
けにしている。
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︶ これについては司出え22・
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