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『1Q84』を読む 1Q84は果たして死海文書の架空の整理番号

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『1Q84』を読む 1Q84は果たして死海文書の架空の整理番号
『1Q84』を読む
1Q84は果たして死海文書の架空の整理番号でしょうか!?
part2
甲村記念図書館読書会
2016年3月11日
溝口めぐみ
1
「1.はじめに」
村上春樹文学は地下鉄サリン事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』前後
を契機に大きく変わりました。一般にそれに至るまでの作品を「デタッチメント」
、それ以
降の作品を「コミットメント」と言います。長編を里程標に語ると『風の歌を聴け』から『ダ
ンス・ダンス・ダンス』までが前者にあたり、
『ねじまき鳥クロニクル』
、
『海辺のカフカ』
、
『1Q84』と続く大作が後者に相当します。デタッチメントの特徴をあげると都市小説的
作風、個人主義的な主人公、ソフィスティケートされた一人称の文体といった点が挙げられ
ます。コミットメントの場合、こういった要約を考えると一口には難しく、物語は巨大に、
構成は複雑に、際立った幾人ものキャラクターが独特の世界を作り上げています。初期と比
較し、文章は平明な日本文に変わっていますが、『海辺のカフカ』の一人称と三人称が混在
する世界を経、『1Q84』では映画のカメラ・ワークのような完全な三人称へと移行して
います。本日は『1Q84』を語るのですがプロローグとしてコミットメントの作風に関し、
『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』について考えてみます。『ねじまき鳥クロニ
クル』では主人公の岡田亨と妻の兄の綿谷昇が描かれます。この二人は敵対する関係である
と同時に善と悪の立場を明確にするものです。物語を動かすのは主人公の妻、クミコです。
彼女が物語のお宝として争奪戦の対象となります。村上春樹はこの現代日本の物語にノモ
ンハンから太平洋戦争終戦までの興味深いエピソードの数々を様々な角度から挿入し、二
つの世界をオーバーラップさせます。つまり現代日本と太平洋戦争により滅びるかつての
日本を重層的に描き、綿谷昇を通して「国家を戦争に導く人物が現れる」と警鐘を鳴らしま
す(少なくとも私にはそう読めます)。綿谷昇の歪んだ心、病める生い立ち、社会に出てか
らの弁舌の見事さ、体制への身の振り方の巧妙さなどを描き、その根底にいる人物は恐らく
アドルフ・ヒットラーであろう、と連想させます。歴史的に言ってひとつの国が滅亡へと至
る本格的な戦争に突入するその直前、社会的不満から生まれる突発的な事件や軍事力の暴
走の果ての一時的なアクシデントなどが起きます。歴史的には予兆として。物語的には伏線
として。この小説で言えばそれに相当するのがノモンハンであり、村上春樹文学全体を考え
る時、現代日本におけるそれが地下鉄サリン事件と考えることが出来ます。
その作風をさらに複雑化させると同時に先鋭化させた小説が次の『海辺のカフカ』であり、
先の文脈、現代日本と滅びゆく国家という関連で考えるとカフカ少年の旅立ったのは四国
の高松でありながら寓話における寓意という角度から考えると一読しただけではその根底
に描かれている世界がわかりません。たとえばノモンハンといった具体的な地名はありま
せん。それを読み解く鍵の一つは明らかにタイトルあり、熟読することによりそこがナチス
ドイツ前夜のドイツ語圏(ドイツ語圏とあえて語るのはフランツ・カフカが生きた時代のプ
ラハをも含むからです)であろう、と判ります。アイヒマンの描き方からでもおおよその想
像はつきます。『海辺のカフカ』でも現代日本とドイツという滅亡へと向かいつつある国家
が重ね合わせるように描かれています。前作との関連で『海辺のカフカ』で注目すべき点は
悪の立場のキャラクターが綿谷昇からジョニー・ウォーカーへと移っていることです。より
2
いっそうの寓話化が進んでいます。
では『1Q84』で「首都高の非常階段を降りて行った青豆は世界の歴史の中でどこに行
ったのだろう?」といった考え方に展開します。それがこの小説の場合、よく読んでもわか
りません。この小説が現代日本について重要な問題を提議していることはわかります。善を
代表する人物も明快になっています。問題は「滅びゆく国家として描かれた重ねられた世界
はどこだろう?」
、
「悪を代表する立場の存在は誰だろう?」と考えるのが本講座のポイント
です。
「2.村上春樹文学全体について」
村上春樹文学をデタッチメント、コミットメントにわけると以上のことが言えますが、全
体を通して考える時、以下の特徴を指摘したいと思います。
①.村上春樹の小説の中、生きる者と死者が一つの世界にいます。その両者が出会うところ
が生と死の中間地帯です。その中間地帯は多くの場合、具体的な建造物となって現れます。
一番分かりやすい例が『羊をめぐる冒険』のクライマックス、主人公の「僕」は鼠の別荘(中
間地帯です)に行き、自ら「死んだ」と語る死者の鼠に再会します。この小説を最後に作家
は作中、死者を死者と説明することをやめます。それ以降、死者が死者と説明されないまま
リアルな描写が行われ、生きている者とみまがうような死者も登場します(そう私は読みま
す)
。
②.そういった死者たちの中、自ら死んだことに気づかない死者が現れると感じることがあ
ります。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のピンクの女の子に私はそうい
ったキャラクターを感じます。
『海辺のカフカ』の大島さんやそのお兄さんもそういったタ
イプと考えます。彼らは皆一様に死にいたる事故の記憶や可能性を台詞として語ります。
③.そういった死生観の様々なかたちの一つとして小説のはじめに生者として登場したキ
ャラクターがその後、物語の裏舞台、何らかの事情で死に、死者として再登場しただろうと
考える小説もありました。私がそう感じるのは『国境の南、太陽の西』の島本さんです。つ
まり物語の水面下でドラマが進行し、そのドラマが語られないまま物語が進むという形式
です。
④.以上の3点を別の角度から要約します。いまあなたが村上春樹の小説を読んでいると仮
定し、私の言いたいことは次の事です。そこに登場する彼(または彼女)は死者/幽霊かも
しれません。或いは主人公の意識の奥底から生まれた幻かもしれません。主人公の目にはリ
アルな存在ですが、物語の第三者の目から見ると存在していない可能性もあります。そうい
った可能性に関しては前後のエピソードなどから判断するしかありません。
こういった特殊な創造性の根底にあるのは明らかに上田秋成の『雨月物語』からの影響で
す。村上春樹はそのキャリアの初期、好きな作家としていまではよく知られているアメリカ
3
の作家と並べて最後にただ一人、日本の作家として上田秋成を挙げています。
『雨月物語』
の中、ある一編の主人公は死んだ親友と再会し、別の一編で主人公の男は自分の死んだ妻と
セックスをします。この二人の作家に共通していることは生と死、そして再生という独自の
死生観です。私は読んだことがありませんが、
『雨月物語』の元ネタが中国の物語と語られ
ていることからアジア的な死生観とも考えられます。
そういった物語をヨーロッパで考えると「福音書」の中の死と復活の主人公、イエス・キ
リストが挙げられます。「福音書」に関し、仮に寓話文学と考える時、まさに死と復活が主
題だろうと感じます。
「3.『1Q84』に入る」
村上春樹の発言について『考える人』
(2010年夏号)のロングインタビューの中から
いくつかの注目すべき言葉を纏めます。
①.インタビュアーの質問からかつて村上春樹が「もう40歳なんだから、歴史小説を書き
たい」と言ったということが明らかになります。勿論、一般的な意味での歴史小説ではなく、
村上春樹なりの歴史小説だと思います。
②.そのインタビューの中、『1Q84』に関し、要約すると作家は以下のように発言して
います。
「BOOK1」と「BOOK2」で総てを書いた。マテリアル(材料)は総て揃っ
ている。エラリー・クイーンの「読者への挑戦状」と同じでよく読めば読み解ける。その後
は誰が書いてもいい。
「BOOK3」は村上春樹なら「こう書きます」という内容だという。
つまり「BOOK1」と「BOOK2」が一つの作品であり、「BOOK3」はまた別の作
品であり、三作揃ってトリロジー(三部作)を形成します。ここで注意すべき点はこの小説
は読者の読み方によっては「BOOK1」と「BOOK2」で<謎のすべて読み解くことが
出来る>という意味の発言です。
③.さらにリトル・ピープルに関し、村上春樹はこう発言しています。
「リトル・ピープルはどういう存在で、彼らが何を目的としていのか、正確なところは作者
である僕にもわからない」
作者にもわからない存在を読者がそれを読んで知ることは出来ません。読者に与えられ
た可能性は個人的な読み方であり、自らの感じ方であり、独自の解釈です。作中の言葉を使
うと「仮説」です。
「4.様々な読み方」
「BOOK1」と「BOOK2」について沢山あるエピソードの中、その一つをサンプリン
グし、この小説に対するアプローチとしてこの原稿が書きはじめの頃、迷走した例を以下に
挙げます。
4
ふかえりがマザなのかドウタなのか、よくわかりません。読みながらマザと感じる時もあ
ればドウタと考えることもあります。「BOOK3」で天吾と小松がそれに関し、議論しま
すが結論が出ないまま終わっています。結局、マザやドウタがそれぞれに独立した存在であ
るかも不明です。天吾がふかえりと記者会見の練習の時、彼女は「ニンシンしたくないから」
と発言し、クライマックス、天吾とふかえりがセックスする時、「わたしはニンシンはしな
い。わたしにはセイリはないから」と言います。明らかに矛盾しています。前者は生身の女
性であり、後者はよく分からない存在に変化しています。こういった一人の人物におけるキ
ャラクターの違いをマザ/ドウタという角度から考え、この原稿を作成しようとした時、収
拾のつかないものになりました。
こうしたアプローチより、結果としては文庫化の際、カバー・デザインとして使われたボ
スの三連祭壇画『楽園の園』をじっと眺めていた方が役に立ったと思います。その絵の中央
パネルに俗世間の裸の人間たちの性的な狂乱が描かれています。まさに『1Q84』の世界
です。左のパネルはキリストやアダム、イブなどが描かれ、比較的な静謐な世界が表現され
ています。中央パネルの右のパネルには一目で地獄と判る絵が描かれています。左から右へ
時の流れを追うように見ていると特に解説の本を必要と感じないほどに画家が何を言おう
としていたのか、判るような気がします。
「5.私の読書体験/『1Q84』から歴史へ」
この講座で語ることは『1Q84』に関しての私の読書体験であり、個人的な意見なり、
感想に過ぎません。その読書体験には『1Q84』以外の読書も含まれます。
『海辺のカフ
カ』の後、フランツ・カフカの評伝を読んだ時と同じです。コミットメントの作品を公の場
で語る時、対象となるその作品を読んだだけでは語りきれないというのが率直な想いです。
2009年春、『1Q84』の「BOOK1」と「BOOK2」が同時刊行されました。
私はその2冊の本を購入し、一息に読みました。物語は面白く、スピード感に満ち、
「とに
かく面白かった」というのがその時の感想です。と同時によく分からない、或いは全く分か
らないという謎も正直、沢山残りました。
2010年春、
「BOOK3」が刊行されました。すぐに読みました。この時は「BOO
K3」だけを読みました。感じたことは前年の春と同じ、面白いけどまったくわからないと
ころも多い、といったものでした。
そのしばらく後、『1Q84』を「BOOK1」から「BOOK3」まで比較的落ついて
通読しました。意識的にゆっくり読みました。その読書の中で何かが私を捉えました。具体
的に言えば「BOOK3」の中、青豆が妊娠する場面です。青豆は性行為なしで妊娠します。
このエピソードがすべての始まりでした。現代医学が発達する以前、神話的脚色という問題
を除けば歴史上、性行為なしで妊娠した女性は受胎告知のヒロイン、イエス・キリストの母
5
親、マリアひとりです(少なくともそれが福音書に対するヴァチカンの読み方です)
。青豆
の根底にいる人物はもしかしたら聖母マリアなのだろうか、と考えました。この日本の舞台
とした小説のその奥底にあるのはイエス・キリストの生まれた古代イスラエル、或いは聖書
学が追求する世界かもしれない。この時点で私にキリスト教学の専門家が知り合いにいた
らこの小説とイエスをめぐる聖書世界の中、オーバーラップする部分を指摘してほしいと
依頼するところですがあいにくそういった知人はおりません。浄土真宗をなりわいとする
家に生まれた私は厳密には一般的な読書としての「福音書」以外にキリスト教を知りません
でした。そこから私の学習は始まりました。私の派生的読書は当然、
『聖書』、その他に<信
者によるイエス伝>、<学者によるイエス伝>、<新約聖書成立の歴史>、<古代イスラエ
ルの歴史>、<死海文書の謎>といったものへと続きました。勿論、入門書的な読みやすい
本です。そういう訳で至らぬところも多々あるとは思いますが、以下、この流れのままに論
を進めます。本講座と関係があると思われる歴史的事実を以下に記します。
ここで注意していただきたいことはこういった講座は普通、作品論を語るのですが、この
講座ではその作品のあまりに複雑な構造からしてその骨格になる部分に触れるという説明
から始まります。本格的な作品論は作品論でまた別の話になるだろうか、と考えます。『1
Q84』を語る上で特に指摘したい聖書学関連の歴史を述べます。
*.紀元前63年、古代イスラエルがローマ帝国に支配され、属州となります。
*.ローマ帝国の支配下にある間、ユダヤ教の過激派、熱心党(ゼロテ)の反乱は一時的な
暴発から最後のマサダ砦まで続きます。
*.紀元前2年ころ、イスラエルの辺境、ナザレでイエスが生まれます。
*.30歳近くになって布教をはじめたイエスは語っただけで何一つ書き残しませんでし
た。
*.紀元33年ころ、イエスが十字架で死にます。
*.紀元69年の神殿の陥落とその後、数年間にわたる戦いにより、古代イスラエルは滅亡
します(1948年のイスラエル建国までユダヤ人は世界各地をさまよう人々になります)。
*.紀元70年頃から100年過ぎにかけて4つの福音書が書かれます。
*.1947年、イスラエルのクムラン教団跡地で死海文書が発見されます(この原稿の中
で語られる死海文書とはイエスが生きた時代の古代イスラエルのユダヤ教についての古文
書という意味合いにおいてです)。
こうした歴史的事実に関し、学者によるイエスに対する仮説を以下に記します。
*.イエスは語っただけで何も書き残しませんでした。当時のユダヤ教は文書だけではなく、
口承による律法も認めていました。この事実に関し、イエスは読み書きが出来なかったとい
う説があります。当時のナザレという貧しい地域を考えると現在のような教育システムは
6
当然なく、紙もペンも豊富にはなかったと想像されることから有力な説と考えられます。
*.紀元100年過ぎ、キリスト教への迫害のさなか、イエスの実の父親が探されている状
況があり、その中、当時のローマ兵が父親ではないか、と考えられました。当時、ユダヤ人
の律法主義からいって私生児は異端者でした。この仮説に対する文学作品を日本文学から
引用します。遠藤周作(言うまでもなくカトリックの信者です)は『イエスの生涯』の中、
「イエスがローマ兵とマリアとの間の私生児であるという噂はこの異端律法を考えると興
味がある」と書いてます。武田泰淳にいたってはそのローマ兵を主人公にイエスをはじめと
する福音書世界の人々を小説『わが子イエス』の中で描きました。思うにこの仮説は小説家
の想像力を刺激する題材のようです。参考までに言えば日本文学中、この系列の中、優れて
いるものと感じる作品を挙げるすれば裏切りの人、イスカリオテのユダを主人公に描いた
太宰治の『駆込み訴え』だと思います。
3.新約聖書の多くの文書に関し、その実際の書き手を同定することは出来ません。福音書
に関しては一般に「福音書記者が書いた」と表記されます。歴史の表舞台に出てこない初期
キリスト教共同体のゴーストライターたちです。彼らは時代とともにその姿を変えます。作
中、引用されているバッハの『マタイ受難曲』を例に現代の公演を考えれば「福音書記者」
がそのステージの中、もっともソロの多い見応えの役になっています。
4.1947年、死海のほとり、クムラン教団跡地から死海文書が発見されました。一般に
その教団はユダヤ教のエッセネ派(敬虔な信仰集団)と考えられますが諸説があり、その文
書の内容からその教団に反対するものが現れ、その一部が分派し、暴力的なゼロテ/熱心党
になったとする考え方があります。ゼロテはローマ支配に対抗する過激派集団であり、当時
は一般的な存在でした。福音書の中にもイエスの弟子の一人として「熱心党のシモン」と書
かれています。
「6.歴史から『1Q84』へ」
以上の歴史的事実や仮説、さらに信者による「福音書」の読み方(つまり「福音書」の中
の奇跡の一切を信じるというヴァチカン的な読み方)までを前提に、村上春樹の『1Q84』
について考えてみます。結論を初めに言えば私は『1Q84』は聖書世界のこうした様々な
エピソードと作家の想像力がクロスする世界から脚本が作られ、青豆、天吾、ふかえり、小
松といったアクターやアクトレスが演じる演劇的世界と読みます。その本質はイエス・キリ
スト劇です。作、演出は村上春樹です。以下、その考え方を述べます。原稿をタイトなもの
にするため断定的な言い方になりますが、あくまでも私の個人的な考え方とお断りしてお
きます。
*.青豆が首都高の非常階段を降りた世界はイエスが生きた時代の古代イスラエルでした。
そこで初めて見る姿形の変わった警官は寓話におけるローマ帝国の兵士です。
*.天吾が1歳半頃の記憶がフラッシュバックします。母親が父親以外の男に抱かれている
7
という光景です。ここで天吾は幼少のイエスを演じ、母親のマリアがローマ兵に抱かれてい
る光景を記憶の中で目撃します(イエス私生児説がその根底にあります)
。
*.天吾が予備校の講師として自らの話の上手さに目覚めるというエピソードがあります。
イエスの布教の時の話し方の上手さと重なります。
*.物語にふかえりが登場し、
「空気さなぎ」を天吾がゴーストライターとして書き直すと
いうエピソードへ展開します。後にふかえりの話し言葉を、物語には登場しない友人のアザ
ミが幼い文章で書いたという事実が明らかにされます。その小説を天吾が本格的読み物と
して書き直し、「空気さなぎ」として世に出しベストセラーになります。これはイエスが語
り、その言葉を弟子たち(たとえば漁師といった人たちですから文学的才能はないと思いま
す)が書き留め、或いは語り残し、初期キリスト教共同体のゴーストライターたちがリライ
トし、「福音書」として完成、聖書が世界的な書物になる構図とオーバーラップします。こ
の時、天吾はイエスから福音書記者へとその役を変えます。一人多役という演劇的世界です。
ここでふかえりはイエスを演じます(ふかえりが演じるのは終始一貫してイエスです)。小
松は「福音書」におけるプロデューサー的立場から初期キリスト教共同体のトップの一人と
考えます。小松は最終的に迫害の被害者を演じることになります。いうまでもなくこの時期、
キリスト教はローマ帝国からの迫害の時期にありました。
*.イエスが読み書きが出来なかったという説に対し、イエスを演じるふかえりにはディス
レクシア(読字障害)という現代的な設定が行われます。
*.ふかえりが「平家物語」を語り、天吾が「サハリン島」を語るという場面が出てきます。
それぞれの役割はふかえりが口承文学の語り手、天吾が文学作品の書き手という二人の立
場を明確にしたものと考えます。前者はイエスであり、後者は「福音書」のゴーストライタ
ーです。
*.天吾と年上のガールフレンドの関係ですがローマ兵とマリアとの不適切な関係を意味
します。ここで天吾はローマ兵を演じます。ここまで天吾は幼少のイエス、布教のイエス、
「福音書」のゴーストライター、ローマ兵と4役を演じています。年上のガールフレンドが
演じるのは不適切な関係のさなかにいるマリアです。ローマ兵の子供を宿した時、ガールフ
レンドは物語から消えます。ここでもイエス私生児説が繰り返されます。電話でもう会えな
いと語る夫はヨセフその人です。そう考える根拠は「BOOK3」の中、天吾の父親の葬式
後、遺品の中から天吾の母親の写真が発見され、その母親の姿を見、天吾は年上のガールフ
レンドに似ている、と感じる点にあります。原文を引用します。
古い写真に写っている若い母親の面影が、どことなく年上のガールフレンドに似ているこ
とに思い当たった。
フラッシュバックで見る母親が天吾の意識の奥底から実際の母親として生まれ来たので
す。この女性は天吾だけに見える幻です。
8
この年上のガールフレンドに関しては後で詳しく触れます。
*.作中、敬虔な宗教団体、「あけぼの」の世界が語られます。その「あけぼの」から暴力
的革命を目指す「さきがけ」が分派し、暴発、国家による武力鎮圧により、消滅します。こ
のエピソードは死海文書の世界からの引用でクムラン教団から分派したゼロテが軍事的に
暴発し、ローマ帝国に鎮圧されたという仮説の一つと重なります。死海、クムラン教団、ゼ
ロテと続く関係性が『1Q84』では本栖湖、
「あげぼの」、
「さきがけ」とその姿を変えま
す。
*.療養所の父親を訪れた天吾に向かって父親は「あなたは何ものでもない」と息子に向か
っていいます。確かにこの言葉の通り、天吾は様々な役を演じる役者であり、物語の最後で
天吾がヨセフ役と一体化するまで実質的に「何ものではない」と考えます。この場面、父親
の言っている台詞は認知症患者の言葉ではありません。
以上が「BOOK1」と「BOOK2」における<学者よる聖書世界>からの考え方が反
映されたと考えるエピソードです。ところが作者は「BOOK2」のクライマックス、物語
を<信者による聖書世界>、「福音書」が精霊によって身重(みおも)になったと語る処女
マリアを妻として迎え入れるヨセフの物語へと一変させます。つまり「福音書」の中の数々
の奇跡の総てを信じる世界です。その奇跡を物語的にどう語るかがこの小説の骨格です。当
然、物語はスーパーナチュラルな展開を必用とします。
そのクライマックス、青豆はリーダー(深田保)を殺そうとします。深田保は聖書が語る
ところの預言者です。他方、天吾は不思議な展開からふかえりとセックスをします。天吾も
読者もその行為をセックスと考えますが、相手のふかえりは「オハライ」と呼びます。リー
ダーが青豆相手に語る「多義的な交わり」と呼ぶ行為とも解釈できます。
この時のふかえりは「わたしはニンシンはしない。わたしにはセイリはない」と語るので
すから巫女的な存在であり、時空間を超えて天吾と青豆が繋がる通路の役目をします。「B
OOK1」のふかえりとは明らかに別人です。天吾とふかえりの一体化は「福音書」という
奇跡的な書物を生み出したパワフルな組み合わせがその根底にあると考えられることから
彼らが演じているのは福音書記者と十字架での死後、復活のイエスです。この時、読者がセ
ックスと読むであろうその行為の途中、天吾は意識を失い、深い記憶の奥底に降りてゆき、
小学校時代の青豆の姿を目撃します。ふかえりの「オハライ」と呼ぶ行為は続いており、そ
の時、言葉のニュアンスを変えて「天吾くん」と言います。明らかに青豆の台詞です。この
時、初めて青豆はふかえりの姿を借りて天吾と結ばれます。天吾と青豆の時空間を超えたセ
ックスです(村上春樹の秋成好みです)
。この瞬間、天吾はヨゼフとなり、青豆はマリアと
なり、受胎告知という奇跡の物語は村上春樹という小説家の創作技術により、充分な説得力
を与えられます。イエスの父親は仮説としてのローマ兵ではなく、神の子という神話的脚色
9
とも異なり、真実、ヨセフだったという展開です。
「福音書」の中で書かれたヨセフとマリ
アは真のカップルだったというエンディングです。天吾は最後に演じた役、ヨセフと一体化
します。
それに対し、青豆のパートは相対的に現代日本の問題に深くコミットしています。環やあ
ゆみはDVや幼児虐待の被害として現代日本の問題点を明らかにします。彼女たちが誰を
演じているかを考えるなら彼女たち自身です。もしこれが外国映画ならクレジットタイト
ルに彼女たちを演じたアクトレスとして「環/herself」
、
「あゆみ/herself」と表記されると
思います。
この物語のもう一方の主人公は青豆です。彼女は倫理の担い手として罪を裁くのは罪を
犯すしかないという考えるヒロインです(当然、彼女の中には矛盾撞着があります)
。彼女
は善を代表するサイドの主役です。敵対するのはリトル・ピープルです。リトル・ピープル
はこの物語における絶対的な悪と考えます。彼らは世界に偏在する思念的存在です。ただい
つもは静かに生息していますが、この世界のどこかに「さきがけ」のような閉鎖性を見つけ
る時、空気さなぎという通路を通って登場し、その閉鎖性の中にいる人々の肉体と精神を乗
っ取ります。SF映画『ボディ・スナッチャー』のように。
この小説が告発しているのは世界のありとあらゆる種類の閉鎖性です。硬直した理念、柔
軟性を欠いた思考、他者の考え方を拒絶するシステム、閉ざされた部屋とその室内のよどん
だ空気。そういった世界で生身の人間がリトル・ピープルと一体化する時、世界を破滅へと
導く人間へと変化します。
「BOOK2」のクライマックス、リーダーの深田保はリトル・
ピープルに乗っ取られるただなかにいる被害者です。本来、彼は善の立場でありながら悪へ
と移行するそのさなかにいます。彼は事態のなんたるかを知り、自ら死ぬことを望んでいま
す。彼は『羊をめぐる冒険』で最後、背中に星のある羊を飲み込んで自殺した鼠と重なりま
す。ただ深田保は自ら死ぬことは出来ません(そういう設定です)。深田保の死は実質的に
は青豆による殺害ではなく、青豆の手を借りた自殺です。リトル・ピープルが深田を乗っ取
ることにより、目指した世界は『羊をめぐる冒険』の鼠の台詞を借りるなら「完全にアナー
キーな観念の王国」です。当たり前の話ですが机上の計算だけで国家運営は出来ません。無
政府状態なら尚更です。そういう世界は古代イスラエルの例にみるように遠からず滅びま
す。そういった世界ははじめこそ健全な思想や定められた原則によって出来上がりますが、
時の権力者によりその一部を都合よく解釈され、その在り方は別のものへと姿を変えます。
その結果、そうした国は多くの場合、戦争に突入し、滅亡します。
以上の考察を前提にこの小説全体に対する私の個人的な読み方を纏めます。
10
仮説1.
「BOOK1」のふかえりは生前のイエスであり、
「BOOK2」のふかえりは死後、
復活のイエスです。
仮説2.
「BOOK2」の最後、小松は教団に拉致され、殺されています。
「BOOK3」に
登場する小松は復活の小松です。
仮説3.
「BOOK3」に登場する看護婦の安達クミは天吾が幼少の頃、若い男と駆け落ち
し、長野県の温泉旅館で絞殺された母親の生まれ変わりです。
仮説4.
「BOOK2」の最後、青豆は拳銃自殺により、死んでいます。
「BOOK3」に登
場する青豆は復活の青豆です。
そう考える根拠を以下に述べます。
「BOOK1」のふかえりは生前のふかえりであり、その後、彼女は舞台裏、なんらかの形
で死にます。ふかえりが演じ続けている役が一貫してイエスであることを考えると十字架
で死ぬことは歴史的な事実ですから作中、具体的な説明は要りません。ただ水面下で物語は
進行しています。
「BOOK1」のふかえり失踪後の「第 23 章/青豆」の中、青豆はあゆみ
と一緒に遊びに出ますが、街は閑散として遊ぶ相手の男は上手く見つかりません。その場面
の描写の一つに以下の文章があります。
・・・男の選びようもなかった。東京の街全体に、誰かの喪に服しているような重苦しい雰
囲気が漂っていた。
ふかえりの死を暗に示唆しています。
「BOOK2」のふかえりは復活のイエスであり、
生前に比べてさらに奇跡的な存在になります。それぞれに「ニンシンしたくないから」/「わ
たしはニンシンはしない。わたしにはセイリはない」と語る根拠になります。
小松が演じているのは初期キリスト教団のトップという位置です。歴史をひもとくこと
により初代は過激な存在と判ります。そのポジションは帝国からの迫害により、刑死する運
命にあります。そういう位置にありながらそのポジションを継ぐ者は後を絶ちません。「B
OOK3」に登場する小松はそのトップとしての復活の小松であり、実質的に後継者であり、
比較的、性格が穏やかになっています。
「BOOK3」の中、牛河の回想で天吾の母親が若い頃、幼少の天吾をつれて男と駆け落ち
し、長野県の温泉旅館で絞殺された、と語られます。一方、看護婦の安達クミは天吾相手に
死と再生の論理を語り、
「誰かが私の首を絞めていた」という台詞と共にかつて一度死んだ、
と続けます。村上春樹の小説ですからこのようなキャラクターは当然のように登場します。
この二つのエピソードを結びつけます。安達クミは天吾の死んだ母親の生まれ変わりです。
11
最終的に「ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない」と語るクミと天吾との長く続く
話し合いは見方を変えれば死んだ母親と生きている息子の会話です。死んでも母親ですか
ら息子への優しさは変わることがありません。
「BOOK2」の最後、青豆は拳銃自殺します。彼女は文字通り死にます。およそ村上春樹
がチェーホフの小説作法の裏をかくとは思えません。そのクライマックス、リーダーとの会
話の中、青豆に与えられた選択肢は青豆が死んで天吾が生き残るか、天吾が死んで青豆が生
き残るか、というシンプルな二つのものしかありません。この小説は愛の物語であり、青豆
が選択するのは当然、その前者です。そこには重層的な死があります。天吾を守るため愛に
殉じる女性であると同時に(罪を裁くために)罪を犯した人間として最後、自殺します。さ
らに彼女の自殺に説得力を与えるのはホテル・オークラで預言者を殺したという事実です。
この物語の根底に聖書世界があると考える時、彼女は預言者を死に追いやり、罪の意識から
自殺するイスカリオテのユダと重なります。「BOOK3」に登場する青豆は復活の青豆で
あり、マリアそのものになり、
「BOOK1&2」に比べると子供を宿した母親として安ら
かな存在に変わっています。
彼女はかつて自分が死んだという事実に気づいてはいません。
「BOOK3」の第9章、天吾が看護婦の安達クミとハシッシを吸引する場面、青豆はクミ
の姿を借り、天吾へ「私をみつけて」と語りかけています。さらに続いて薬が切れた状態の
ふたり、クミは天吾相手に<この物語世界における死と再生の論理>を語ります。
二人の会話から引用します。
「私は再生したんだよ」
、安達クミの温かな息が耳にかかった。
「君は再生した」と天吾は言った。
「だって一度死んでしまったから」
「君は一度死んでしまった」と天吾は繰り返した。
「冷たい雨が降る夜に」と彼女は言った。
「何故、君は死んだの?」
「こうして再生するために」
「君は再生する」と天吾は言った。
「多かれ少なかれ」と彼女は静かに囁いた。
「いろんなかたちで」
天吾はその発言について考えた。多かれ少なかれいろんな形で再生するというのはいった
いどういうことなのだろう。
(中略)
「再生するためには何か必要なんだろう?」と天吾は尋ねた。
「再生するための一番の問題はね」と小柄な看護婦は秘密を打ち明けるように言った。
「人は
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自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない」
「それが多かれ少なかれいろんなかたちで、ということの意味なんだ」
あゆみもまたこの物語の中、絞殺されますが、彼女には「他の誰かのため」という部分が
ない為、再生することはありません。
年上のガールフレンドに関しては牛河でさえその存在を知り得ないのですから彼女は
「雨月物語」的ゴーストで、天吾にしか見えない存在であり、彼女はクミ同様、絞殺された
天吾の母親の生まれ変わりと考えます(繰り返しますが写真の中の天吾の母親は年上のガ
ールフレンドに似ています)。役そのものに重層的な意味が込められています。天吾には常
に年上のガールフレンド、安達クミといった死んだ母親の生まれ変わりがそばについてい
ます(村上春樹が描く物語がつまるところモラルであることを考えると年上(人妻)のガー
ルフレンドが実在することは考えられません)
。
天吾の父親の葬式の後、天吾と二人になったクミはこう言います。
「私は地元民だから、大抵のことには融通がつけられる。だから天吾くんは早く東京に帰っ
た方がいい。私たちはもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾がいつまでもいる場
所じゃない」
その台詞の「私たち」の部分に傍点がふられています。その一人称複数の中に含まれてい
るのは語り手のクミの他、死んだ母親がいます。この物語全編を通して天吾のそばには常に
死んだ母親がいます。天吾がクミと別れる時、それは天吾と死んだ母親との別離のシーンで
す。
「7.死海文書の整理番号について」
タイトルの『1Q84』について作中、1Q84年の「Q」は「Question mark」の「Q」
と説明されます。ほかならぬ村上春樹の小説なのですから、その説明を真に受けるわけには
いきません。日本語の場合、「9」と「Q」が同音なので年号が成立しますが、英語のタイ
トル『1Q84』
(ワン・キュウ・エイト・フォー)に関し、そういったものは成り立ちま
せん。「死海文書」関連の文献を読んでいて気づいたことですが、死海文書はその発見順に
整理番号(リファレンス・ナンバー)が付されています。たとえば「1Q1」はクムラン
(Qumran)の第一洞窟から一番初めに発見され文書という意味です。それが私がチェック
した文献では「1Q70」の「同定困難の断片」を経、十一洞窟の「11Q31」の「同定
困難の断片」まで続きます。いったん整理すると「1Q1」の場合、はじめの「1」は第一
洞窟の「1」、
「Q」は「Qumran」の頭文字であり、最後の「1」は一番初めに発見された
文書という意味です。 番号の読み方ですのでこの小説のタイトルの場合、
「いち・きゅう・
はち・よん」
(英訳だと「ワン・キュウ・エイト・フォー」となります)
。そこで考えたこと
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は『1Q84』は或いは架空の死海文書のリファレンス・ナンバーではないだろうか、とい
う疑問でした。
「1Q84/a novel/イエス・キリストをめぐる聖書世界を日本を舞台に置
き換えて描かれた村上春樹の寓話的小説」という考え方です。
「8.処女作にかえる」
ここでいったん処女作『風の歌を聴け』にたちかえります。これまで語った仮説、その文
脈から考えると『風の歌を聴け』は読書体験に関する寓話とも読むことも可能です。それま
で本を読んだことが無かった作家の分身、鼠は主人公の「僕」と『感情教育』を酒の肴に小
説について語り合います。
「何故本ばかり読む?」と鼠が訊ねる印象的な場面です。読んで
る本が「センチメンタル・エデュケーション」なのですから、主人公が答えるまでもなくそ
の答は出ています。読書とは即ち心の教育です。その後、鼠は突然、本を読み始めます。ヘ
ンリー・ジェイムスを読み、カザンザキスを読みます。ちなみにカザンザキスのその小説は
『再び十字架にかけられたキリスト』で、その作品は『風の歌を聴け』の舞台設定の197
0年、まだ日本では翻訳出版されておらず(実際、日本で翻訳が出たのは1998年のこと
です)
、その場面を想像力豊かに読めば鼠はその作品をギリシャ語からの英訳で読んでいた
と考えられます。内容は現代ギリシャを舞台にしたイエス・キリストにまつわる寓話的な物
語です。鼠はそうした読書の果てに小説を書き始めます。
そして最後、クライマックスで鼠は「僕」と会話の中、イエス・キリストの言葉を語りま
す。以下の通りです。
「それで、
・・・何か書いてみたいのかい?」
「いや、一行も書いちゃいないよ。何も書けやしない。
」
「そう?」
「汝らは地の塩なり。
」
「?」
「塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき。
」
鼠はそう言った。
鼠はその読書体験の最後に聖書を読んだことも暗示されます。その読書の流れを思う時、
村上春樹は聖書体験を世界文学全集を越え、遥か高みにあるものと考えていると推測され
ます。ちなみに「地の塩」は一般に「人間を心の腐敗から守る人」と解釈されます。つまり
倫理(モラル)の担い手です。文学、本来の役割です。
かつて『風の歌を聴け』に登場するジェイに関し、ジーザス(Jesus)の頭文字からとった
のではないか、という指摘が村上春樹の小説の翻訳者、ジェイ・ルービンよってなされまし
た。寓話における寓意としてジェイの根底にいる人物がイエス・キリストだろう、というわ
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けです。驚くべきことにその部分を読んで驚いた読者が村上春樹とのメール交換の時、その
問題をストレートに訊ねました。
『「ジェイの゛J”がジーザスの頭文字から来ているのでは」ってところではちょっと仰天し
ましたが、本当のところはどうなんですか?』
村上春樹はその質問に答え、自分の小説の翻訳者、ジェイ・ルービンを様々な角度から褒
めた後、こう続けます。
「彼の本にもそういう彼のユニークなとんがった世界観がにじみ出ていて、なかなか面白い
読み物になっていると思います。中にはいろんな仮説がありますが、本当のところは・・・本
人の口からは言えないんですね」
ただそのメール交換の本が読者から寄せられたおよそ8,000通のメールの中からの
約1,200通の返事によって出来ていることを思う時、作家からその返事が書かれた時点
でその質問者は示唆的な形で明快な回答を得ていると考えます。
ボネガット、チャンドラー、フィツジェラルド、上田秋成と村上春樹に影響を与えたと考
えられる作家たちはすでに述べられています。ただ村上春樹文学全体を通して考える時、彼
ら以上に影響を与えた人物は一編の読み物としての「福音書」、その主人公のイエス・キリ
ストではないだろうか、と考えます。村上春樹がいつ聖書を読んだのかは不明です。早熟な
読書家ですからおそらく小学生の時であったろうと想像します。村上春樹にとってイエス・
キリストが何故、寓話文学の主人公としてヒーローたりえたか、という問題を考える時、た
とえばフィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー)のモラルがロサンゼルスという
街の中に限定されるのに対し、イエスのモラルはその言葉をして宗教国家イスラエルをも
軍事国家ローマ帝国をも越えている、と説明することが出来るのはないでしょうか。
「9.結びの言葉」
最後に『1Q84』の中、私のもっとも好きな部分を朗読し、この話を終りにしたいと思
います。天吾と青豆の子供は同時にヨセフとマリアの子供ですからイエス・キリスト的な存
在です。場面は「BOOK3」で青豆が電話でタマルと妊娠の可能性について語り合った後
の描写です。
電話を切ったあと、青豆はソファに横になり、三十分ほどうたた寝をする。短い深い眠り
だ。夢を見るが、それは何もない空間のような夢だ。その空間の中で彼女はものを考える。彼
女はその真っ白なノートに、目に見えないインクで文章を書いていく。目を覚ましたとき、
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彼女は漠然とではあるけれど、不思議に明確なイメージを得ている。私はこの子供を生むこ
とになるだろう。小さいものは無事にこの世界に生をうけるだろう。タマルの定義によれば、
倫理の避けがたき担い手として。
「倫理の避けがたき担い手」という表現がいかにも村上春樹らしい文章と感じます。
本日はご静聴ありがとうございました。
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