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平成元年 都立光明養護学校高等部を卒業後、4 月やや遅れて上目黒

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平成元年 都立光明養護学校高等部を卒業後、4 月やや遅れて上目黒
平山の自立のあゆみ
2007/2/15
研修会資料
平成元年
都立光明養護学校高等部を卒業後、4 月やや遅れて上目黒福祉工房に入所する。
初の全体集会で、司会を任される。(すでに、トーキングエイドを使用)
しかし、トラさん似の職員に司会のまずさを指摘される。初めからトーキングエイ
ド使いやるき満々で司会をしたが、周囲に話が伝わらないと言われた。このことで、
「職員って一体何なんだ?」と言う思いを初めて持つ。けれども、相談する先輩も
いなく入所したばかりの工房から逃げ出したいという気持ちを強く持つ。
そして、ついに光明に逃げ帰った。(涙の第1回 脱走事件)電動車椅子で光明まで
2 時間30分の時間を要した。到着すると「良く来たね!」と歓迎を受ける。出前で
とってくれたラーメンの味が、忘れられなかった。そんな事件をきっかけに、障害
者と健常者の違いを少しずつ理解するようになった。また、初めての合宿で「車椅
子を押すと腕が痛む。」と言う介助職員の言葉に「人間の付き合いって何なんだ?」
と言う思いを持ち参加を強く拒んだ。(結局、職員が謝罪し参加する。)
平成6年
世田谷区の障害者団体の主催するサマーキャンプに参加して「ハンズ世田谷」を知
る。その後サマーキャンプの役員を勤める。上手くのせられたと思った。こうして、
「ハンズ世田谷」の活動に参加する。そこで「自立をしたい!」との思いを伝えた。
ところが「自分でやれば。」との返事に「今までの事は何?」との思いを強く持たさ
れた。そんな時、ゴリラに良く似た「自立の家」の小佐野さんに出会った。いろい
ろな事を話し合っていく内に「自立の道」を決めた。
平成10年
数年間、自立の家のヘルパーと自立生活を想定したトレーニングを行い、同時にお
茶を引っかけられる等の門前払いの仕打ちにあいながらも、しつこく不動産屋回り
を続ける。
「これが差別だ!」と感じた。15 件の不動産屋を回ったところで、すこし
ボケたおばあさんの不動産屋に出会ったカミサマがいた。泣いて泣いて拝み倒した。
こうして 10 月1日、工房から徒歩15分ほど離れた
蛇崩川緑道わきのアパートに入居する事ができた。
(雛の夢がない自立生活スタート記念日)
静かなアフターファイブを望んでいたのにヘルパーの方が大騒ぎと言う日もあった。
トイレが近くなるので「コーヒーを飲むな。」と言われる事もあった。そして、ヘル
パーは、タバコをプカプカふかすばかり。「いったい何だ!」と思った
平成12年
住処は見つかったが、つぎは食べる事。ヘルパーに頼むと出来上がるまでに3時間
かかった。
こちらは、やる気があったのに全く疲れてしまった。万漢全席じゃないぞ!俺は、
ロッキーかよ。
食事ボランティアを頼む事を決めたが、見つかった人もすぐに転居で、愛が生まれる
と思ったのにすぐにバイバイ。
「食べる事などどうにでもなる、もういい。」生きてい
けると思った。でも、髪の毛が抜けてきた。記念に入れ物に髪をとっておいた。オヤ
ジに「しずおアホか!」と言われて捨てた。
平成13年
この夏、日本テレビの「24時間テレビ、愛は地球を救う!」に初の車椅子障害者
ボランティアとして応募する。「募金受付」と言う事で参加した。最初はテレビ局も
びっくりしてくれたが、4班に分けられ今度はひとりにされた。
「劇団ひとりかよ!」
結局、倉庫のようなところでスタッフ、ボランティアの弁当配りをした。俺は、荷
物かと思った。ウソの麻痺で弁当を5個床に落としてやった。向こうから「もお、
いいよ。」と言い渡された。頭を下にして誤った。でも「愛は地球を救うは、脳性マ
ヒを救わない!」と言ってやった。何も返事はなかった。帰りにクソをしてそのま
ま置いてきてやった。
平成14年
この年、工房で非常勤職員をやっていたひとりの馬鹿に出会う。工房が終わってア
ルバイトがない時は、積極的に介護に入ってくれた。毎晩、二人連れ立って中目黒
界隈を飲み歩いた。男のロマンを感じた。二人で「工房で何かやりたいね。」
という話になった。平行して、休日に出かけた先で知り合ったストリートミュージ
シャン等を工房によんでライブを開催した。(「平山プロデュース工房ライブ」の始
まり)中には、メジャーに上り詰めたやつもいた。しかし、翌年の桜の花の咲くこ
ろに、あいつはあっけなく逝ってしまった。
平成16年
生まれてこのかたオレのココロのふるさと「中目黒駅前アパート」が取り壊される
事になった。色々と身の回りの事を考えなきゃいけなくなった。親の事、お金の事、
住む事など、、、。またまた、不動産屋回りの日々。区の住宅課にもお願いした。
そして、両親の引っ越し先にも近い都立大の平町に「自立のひとりの愛の巣」を見
つけた。介護人も「自立の家」だけにたよらず探してみようと思った。色々な事業
所を回って自分のことを説明した。高齢者以外は、難しいと言ってたところも何度
か通って OK させた。「コムスン」「セントケア」のヘルパーともまあまあ仲よくなっ
た。若いっていいナア。
平成19年
ここ1~2年ヘルペスで入院したり、結膜炎を患ったり、ハゲ(親父)の高齢化と
共にオレもヤバイと思ってきた。がむしゃらに、走ってきたが少しは考えよとウエ
に行ったアイツの声が聞こえた。ケムリも止めた。「できることでいいよ。」とやさ
しい栄養士さんに言われて野菜ジュースなんかも飲んでる。体調はまあまあいい。
宿泊で朝めし食えたのなんて何年ぶりだろう。決してまもりに入ったわけではない
よ!このごろバリアフリーも相当進んだと思う。昔は、さんざんJRの職員ともケ
ンカした。いまでは、東急のバリアフリー化も目標の90%以上を達成したそうだ。
しかーし、人とのバリアは、高く大きくなってきたなと思う。
「大丈夫?」の三文字を言う気もないし。言われる事もずいぶん減った。もう一度
ハード面のバリアフリーの事を言うと、何でも良さそうだと作ってみてからやれ「せ
まい」とか「ひろい」とか言ってる。事前の調査が足りないんだよ!そんな使いず
らさを感じさせられている間は、バリアがなくならないと思う。
こころのバリアはなくならないしょうがないと思うけど、せめて、コミュニケーシ
ョンとしての「あいさつ」は大切だと思う。あ
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