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徹と京

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徹と京
三朝ワークショップ
高等教育を
高等教育を含む地学教育史の
地学教育史の見直し
見直し:地球物理学の
地球物理学の制度化をめぐって
制度化をめぐって
山田 俊弘
Reexamining the History of Geoscience Education: the Institutionalization of Geophysics in Japanese Universities
Toshihiro YAMADA, [email protected]
20 世紀の日本地学史を叙述するにあたって、統一された地球物理学史の欠如は、その十分な
記述を妨げがちである。前世紀末より地学諸分野が「地球惑星科学」として再編されてきている
意味を考える際にも、現時点で斯学の発展のあり方を把握しておく必要がある。ここでは高等教
育を含めた地学教育史を科学史研究の観点から見直すという立場で、言い換えると大学における
制度化とディシプリンの形成を追う形で、京都帝大の事例を中心に話題提供したいi。
日本の大学における地球物理学諸分野の学科・講座の設置状況をふり返ると、19 世紀末の時
点で東大の地震学講座があるだけで、測地・気象・海洋などの分野は、必要に応じて役所の各部
門や大学の物理学科で研究される性格のものであった。ところが 20 世紀に入ると国際的な組織
化が進み、1919 年に国際測地学地球物理学連合 (IUGG) が設立され、測地・地震・気象・電磁
気・海洋・火山の各分科会を形成、1932 年の第 2 回国際極年から戦後 1957 年の国際地球観測年
へと日本もその役割の一端を担うようになる。
この流れに即応するように、大学における地球物理学の制度化が進んだ。1909 年当時京都帝
大総長であった菊池大麓 (1855–1917) は、震災予防調査会の上賀茂観測所を京大で引き受け将
来の「地球物理学研究」のために用いるべく (明治 42 年 6 月 17 日付書簡)、志田 順 (1876–1936)
を京都に招請した。志田は、宇宙物理学の新城新蔵 (1873–1938) の助力を得つつ、1918 年物理
学科に地球物理学一般の講座、1920 年宇宙地球物理学科(物理学科から独立)
、翌年第 2 講座の
海洋学(実質的独立)
、さらに気象学講座を加えて 1924 年に地球物理学科を成立させた。地圏水
圏気圏三圏の物理学研究が企図されていたと解釈できる。
志田は、1901 年に東京帝大物理学科を卒業後、大学院を経て 1903 年から 5 年間広島高等師範
学校に奉職したが、この時の教え子に松山基範 (1884–1958) がいた。松山は中学校教諭を経て
1908 年京都帝大物理学科に入学、卒業後は志田を助け、1922 年には新設された地質学鉱物学科
第一講座(理論地質学)の教授となって独自の道を開拓する。志田の 1912 年の地球潮汐に関す
る重要な論文は松山の助力で完成された。志田はさらに地震波動の初動の四象限分布を発見し、
震源で何が起こっているかを究明した。
ところで、志田が地球の弾性研究に際してまず参照している学者に英国のホプキンス(William
Hopkins, 1793–1866) がいる。ホプキンスはケンブリッジの数学者であったが、地質学者セジウ
ィックと交流があり、地質現象を数学的に処理する手法を開発しロンドン地質学会の会長も務め
た。彼は 1838 年に自らの研究分野を「物理地質学 (physical geology)」と名づけたii。実は最近の
科学史研究では、ホプキンスはケンブリッジにおける試験数学で優秀な成績をとる学生を育てた
という点で教育文化史的に評価されている。実際、彼の弟子にはストークスやマックスウェル、
トドハンターといった著名な数理物理学者がいた。競争試験の問題には、当時のいわゆる「混合
数学 (mixed mathematics)」的な題材、すなわち彼の言い方では物理地質学的な、後の言葉では地
1
三朝ワークショップ
球物理学的な出題が多かったとされる。志田を京都に呼んだ菊池が、留学時にケンブリッジで洗
礼を受けたのがこの試験数学の伝統であった。菊池は長く東大で数学を教えていたから新城の世
代までその影響があったと推察される。だが時代は移り変わっており、新城は 1905 年からのゲ
ッティンゲン大学留学をへてヴィーヘルト流の地震学を持ち帰り志田に伝えている。ヴィーヘル
ト (Emil Wiechert, 1861–1928) は 1922 年にドイツ地球物理学会の初代会長に就任していた。
さて松山は 1915 年マーシャル諸島で重力測定を行い、これをもとに博士論文を完成させるが、
米国留学後には岩石の残留磁気測定から古地磁気学を開拓する。彼の 1929 年の論文は過去に地
球磁場の極性が逆転していたことを示唆するもので、後に海底の地磁気異常の縞模様が検討され
た際に「松山逆磁極期 Matuyama Reversed Epoch」と冠名される根拠となる。こうして地鉱教室
を拠点に「松山スクール」とでも言うべき流れが形成されていくiii。
一方、志田は地震研究に取りかかった早い時点で深発地震の存在を推定していたが、地下深部
での発震機構を解明するため、松山とともに高圧実験装置の開発を試みたiv。このような研究は、
川井直人 (1921–1979) に引き継がれたとも言える。彼は古地磁気層序学の進展に寄与するとと
もに、1962 年新設の大阪大学基礎工学部で地球内部物質の状態を研究するために高圧実験装置
を開発、超高圧下の物性研究、いわば「現代の錬金術」への一つの道筋をつけたv。
松山の「理論地質学」講座は、戦後「物理地質学」講座と呼ばれ、「地質学と地球物理学の境
界領域をより高次に創造するという目標」を持つ分野とされたvi。
「物理地質学」が講座の名称以
上の実体を持ち得たのか議論の余地がある。しかしともに物理学に軸足を置きつつ、新城の関心
には宇宙進化論的な、松山の関心には地球進化論的な要素が多分にあったことを考えあわせると、
20 世紀前半の京大における地球物理学科形成とその余波は、今日の地球惑星科学的統合に示唆
を与える歴史的なエピソードと言えるかもしれない。
i
本発表は次の拙稿を基にしている. 山田俊弘「地球物理学史は可能か?―日本の大学における
地球物理学の制度化 1918 年–1958 年」, 日本地球惑星科学連合大会 2009 年大会予稿集, 2009,
J231-002; 「地球物理学制度化への挑戦―志田 順と京都帝大地球物理学科 1909 年–1936 年」, 日
本科学教育学会年会論文集, 33, 2009, 423-424; 「数学者, 地質学者に出会う―物理地質学とウィ
リアム・ホプキンス」, 日本科学史学会第 57 回年会・総会研究発表講演要旨集, 2010, p. 95; 「科
学教育史のなかの志田 順」, 竹本修三・廣田 勇 編, 京大地球物理学研究の百年 (III), 京大地球
物理の歴史を記録する会, 京都, 2011, 70-81.
ii
Physical geology は伝統的には「一般地質学」と訳される. これに対する historical geology (歴
史地質学) の訳語は「地史学」.
iii
西村進・西田潤一「松山基範に始まる京大地質学鉱物学教室における物理地質学的研究」, 竹
本修三・廣田 勇 編, 京大地球物理学研究の百年 (III), 京大地球物理の歴史を記録する会, 京都,
2011, 82-88. 日本の古地磁気学の諸流派については次も参照. 中井睦美「日本の古地磁気・岩石
磁気学の来た道, 行く道」, 地質学史懇話会会報, 16, 2001, 3-9.
iv
島田充彦「阿武山地震観測所と京大高圧実験の歴史―志田順の深発地震存在の発見との関連
で」, 竹本修三・廣田 勇・荒木 徹 編, 京大地球物理学研究の百年, 国際高等研究所・竹本修三
フェロー研究会, 京都, 2009, 8-12. なお熊澤峰夫氏は 1961 年春に名古屋大学の博士課程修了後,
京大の川井研, 安川克己のもとで高圧実験法を勉強, 秋には阿武山を訪問した (氏のコメント).
v
秋本俊一「超高圧高温実験と新物質」, 日本物理学会 編, 極限状態の物理, 丸善, 1976, 65-89, p.
88. なお三朝の装置は川井式を受け継ぐもの. 次を参照. 伊藤英司「川井式装置による地球内部
探査」, 高圧力の科学と技術, 14, 2004, 158-166.
vi
笹島貞雄 編著, 物理地質学その進展, 法政出版, 京都, 1991, 413 pp., p. 411.
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