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2014年3月 - bicoid

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2014年3月 - bicoid
bicoid note
Mar 2014
140303:0550
テレビを捨てる日
コーヒー豆を買って店を出ると、秋空のようにまだらな雲
が空に浮かんでいた。空が青い理由については、小学四年生
の頃に夏休みの推薦図書で学んだ記憶があるけれど、その書
籍の名前は忘れている。そういえば僕は四季の中で冬が一番
好きだけれど、その理由も忘れてしまった。
夕食の席では、息子が苺かけご飯という非常に前衛的な取
昨日の昼食の席で、息子が卵かけご飯に牛乳を入れるとい
うチャレンジングな姿勢を見せた。本人は澄ました顔で「テ
レビで見たことがある」と言う(だから僕はテレビを捨てよ
うと言ったのだ)。「……それ、美味しいの?」と尋ねる
と、「牛乳の味がする」と返事があった。甘口なレビューだ
り組みを行った。あたらしい発見のために人生の何割かを
ける、じつに科学的な姿勢と言える。「……それもテレビで
見たの?」と尋ねると、彼は「違う」と即答した。「でも美
味しいと思う。たぶんね」とキャリアの浅い声優の吹き替え
のように静かにつぶやいた。
と思う。
何も変わっていないように見えて何もかもが変わっている
誰とも何の予定も入れていない日曜日。原付で逆瀬川まで
走り、あてもなく散歩をした。どの路地にも懐かしさと寂し
さがあった。角を曲がるたびに頭の中で対比が行われる。生
のと、何もかもが変わったように見えて何も変わっていない
のは、どちらがより残酷だろうか。そんな事を思いながら、
僕は月曜日の午前三時半に目を覚ました。
まれてはじめて誰かと手を繋いだ記憶と、人生の最後に誰か
と手を繋ぐ記憶のどちらがより重みを持つだろう。
3
140306:0203
新一
言うまでもなく星新一よりも俳句の方がショートショート
だけれど、ある場合にはどちらも宇宙を題材にしていて、何
かを投影している。
「光あるところに必ず影は出来る」と重厚な声で耳にするた
びに、光の有る無しはともかくとして、なにか物がなければ
影なんてできないよな、と思う。
「もしも球体の内壁にぜんぶ鏡が貼ってあったら、その中に
閉じ込められた人にはどんな景色が見えるだろうか」という
いかにも科学っぽいクエスチョンに対する回答として、「そ
もそも暗くて何も見えない」と返すのは僕のオリジナルかと
思っていたのだけど、どこかで読んだユーモアだったろう
か。
5
140307:0130
もっと自由に
さしすせるために
いま同じ仕事場にいるA君は、なかなかの好青年で素晴ら
しい。つまり、一般的な見地から言えば少し変わっている。
半年ほど前のこと、何かの折りに僕がキーボードをかな入
力で打つのを知ったA君は、翌日から何のアピールもなく自
然な態度でかな入力を使うようになった。聞けば、ずいぶん
前に一度、習得した事があったらしい。
「……そうなんだよね、かな入力で『さしすせそ』をダダダダ
ダって五回のキータッチで打つと、もうローマ字入力には戻
れないよね」と僕が仲間意識を高める発言をすると、彼は
「その意見はよくわからない」という表情で模範的な愛想笑
いを返した。ダダダダダっと思った。
7
140309:0222
ここにいる
四日ほどかけて、中村一義と100sのアルバムを一通り聞き
返した。ほとんど移動中の時間を当てただけだからあまり丁
寧な触れ方ではないものの、一人のミュージシャンの作品
を、時系列を尊重して筋道通りに接するのが好きだ。「歴史
を習うときには、現代から
るように学べ」という教えも、
それはそれで面白みを覚えるんだけど。
そんな僕にとってのこの人の再生回数トップ3は、「もしこ
のまま」「グレゴリオ」「ここにいる」でした。わかりやす
いと言えばわかりやすい。
9
140311:0144
虚像のアドレス
といった熱い自作のルポを読み返してから、僕はコーヒー
を飲み終え洗面台に向かった。
歯ブラシを手に取ってしばし鏡に目をやる。そこには、二
十代半ばの頃、小野不由美さんの小説を読み始めるまで「ひ
とりごちる」という表現を知らなかった人間が立っている。
漆黒のサングラスさえ備えていれば、周囲の誰もに「さむら
ごちる」と表現されたかもしれない、切羽詰まった面持ち
で。
ある音楽を耳にしたときに思い起こされる感情が、べつの
何か、たとえば写真や詩によっても同じように思い起こされ
るものだとしたら、芸術というのはポインタのような役割を
担うある種の「仕組み」でしかないのだ。そんな仮の帰結を
置いた考えを拠り所に、当然の事として佐村河内さんのこと
を考える。
彼はこれまでの風貌を消し去ることで、虚像へのポインタ
を上書きした。そして真相であるメモリのリークを意に介す
ることなく、「意外と眠たそうな素顔」という新たなポイン
タを宣言したのだ。
13
140313:0040
……めちゃくちゃ便利じゃないか、と思ったけれど、勝手
GHQのこと
に閉じるわけではないらしいので利便性という点では多くを
期待できそうにない。思い返してみれば、所ジョージさんが
司会をつとめる住宅リフォームの番組等では、クライマック
スで大抵、勝手にドアが動いているような気がするけれど、
彼はあの情景もホラーと認識しているのかもしれない。
つまり、この文脈において僕がぜひとも強調しておきたい
のは、所さんと僕とマッカーサーの誕生日が同じだという一
朝。歯磨きをしていた息子が、とつぜん叫び声をあげて泣
点である。
きながらリビングまで走ってきた。
鈍き黄金色の輝きを湛えた油膜に覆われし古代よりの死者
(要するにゴキブリの事ですが)が出たのかと思ったけれ
ど、それにしても泣き叫び方が尋常ではない。
しばらくの間をとって、どうにか荒い呼吸ができるように
なった辺りで事情を尋ねると、彼は「勝手に動いたの!」
と、またひとしきり大きな声で泣きながら叫んだ。「洗面台
の鏡の扉が、誰も触ってないのに勝手に動いた!」と繰り返
す。
15
140314:0105
いかなごと釘
今年もまたお隣に住む奥様から、いかなごの釘煮を頂い
た。いかなご似の釘であれば
を伸ばすたび警戒するところ
だけど、今のところそうした危険は感じられない。
自分で言っておいてなんだけど、「いかなご似の釘」っ
て、そのフレーズ自体にどうしようもない終着感があります
ね。それ以上どこにも行けない、という寂寥感とでも言う
か。ぱっと思いつく範囲では、類似の立ち位置の言葉として
は「非めくりカレンダー」あたりか。
17
ひさしぶりに、食事と入浴と図書館までの往復を除いて朝
140317:0041
潜水
から晩まで、たぶん十時間くらいXcodeを触った。
コーヒーを七杯淹れて、時々、気分転換に少し窓を開けて
からお香を焚いた。詩のないアンビエントな音楽を延々と流
し続けて、アイデアを出したり引っ込めたり。
たぶんこの世界には、そうした泥臭くて非効率な向き合い
方でしか実現させることのできない、幾つかのささやかな魔
夕食時、とんかつソースの容器に記された「ソースが飛び
法がある。そんな風に信じつつ、僕も潜ろう。
はねる事があります」という注意書きを見た息子が、疑いの
眼差しで容器に足が生えるのを待っていた。そういう事では
ないんだけど、と嗜めようと考えたのだけれど、確信が持て
なかったので僕も
を置いてしばらく待つことにした。
食事を終え、一緒に入浴している時にも、彼は「……この
前、『のび太の魔界大冒険』で読んだとおりに、ミナトが
『チンカラホイ!』ってやってみたけど、ちょっとしか動か
なかった」と言い残して湯船に潜った。詳細が知りたい。
19
140320:0126
タジキスタニング
昼過ぎに抹茶のチョコレートを口に入れた瞬間、『シュレ
ディンガーも猫』という、これまでの量子力学の礎を揺るが
す鮮烈なフレーズを思いついたのだけど、結局用途がわから
ないまま一日が終わろうとしている。
ここ数日で急に暖かくなったけれど、二十三時を回った時
刻の駅からの帰路は、まだ少し肌寒い。宙に浮かんだ月を見
上げると、不意に頭の中に何人かの顔が浮かんだ。月が沈ん
だら一緒に消えるものだろうか。
帰宅して一段落した頃に、ここ一週間ほど手放せなくなっ
ているTuneIn Radioでタジキスタンの放送を聞きながら、自
室でコーヒーを飲んだ。聞き慣れない異国の音楽は、なにを
歌った曲なのかさっぱりわからないけれど、たぶん曇り空の
日にお喋り村長と山登りしたら、人語堪能な山羊に出会って
お土産に角笛をもらった、みたいな物語だろう。
21
140324:0114
量とともに一気に体内を駆け巡るように思えた。そうしたわ
1977
けで、心ゆくまで「チューリップ」を弾いた。
夜になって、奥様が何気なく「そういえば型番とか、何だ
っけ……」と口にするまで、不思議なほどそうした現実的な
仔細を意識していなかった(友人からは「結構ちゃんとした
もの」とだけ予告されていたらしい)。自室で簡単に調べて
何週間か前に提案された話が実現し、今日、奥様の高校時
代の友人からアップライトピアノを譲り受けた。
みたら、楽器の製造開始年は、妙な親近感を覚えてしまう
1977年。そして「じつに愛好家に愛されている」モデルだと
わかった。僕も名だたるチューリッパーの一人として、その
気持ちには同意できる。
こちらで勝手に予定していたリビングの扉を通る搬入方法
では旋回が難しいとわかり、玄関から和室に繋がる封印され
た扉を何年かぶりに開いた。二人の業者さんに手際良く運ば
れて、部屋の一番奥、鳩時計の下に配置されたそのピアノ
は、なんの違和感もなく
盤蓋を開けられるのを待っている
オーバーホールも運送も、ぜんぶ友人の好意というのも感
謝し切れない。せっかくなので、
盤の一音一音に音階とは
別に88種類のニックネームをつけるくらい、大切にしよう。
ように見えた。
子供たちが一通り前衛的な曲を演奏したのち、そっと自分
の指を
盤に置くと、あの夏、抱え切れない痛みとともに心
の奥にしまって
をかけておいた大切なメロディが、その熱
23
140325:0143
中臣鎌足の思いで
必要な時点でそもそも完成度が低い、という批判にも反論の
余地がない。
トラックによる大掛かりな運搬から一日が過ぎて、リビン
グに配されたピアノは馴染み始めているようにも見える。家
族が寝静まってから、僕はそっとその蓋を開けて、子供の頃
から見慣れた白と黒の並びに指を置いてみる。そして遠い月
日曜日の深夜は少し時間が確保できたので、夕刻手に入れ
たばかりの新鮮なコーヒーを
いて自室に上がった。惜しま
にだけ届く細い声で、「中臣鎌足はもともと、中臣鎌子と名
乗っていたんだよ」とつぶやいてみる。
ずに、できるだけ丁寧に時間をかけて、平らな地面に寝転が
るように力を抜いて意識の輪郭を広げる。
やがてはっきりとした手応えとともに、「中臣鎌足の塊
(かたまり)ママまた借りたままかな?」という早口言葉を
考案した。しかしながら、残念なことに台詞として使用する
シチュエーションが浮かばない。
たしかに可能性はゼロとは言えないけれど、中臣鎌足の塊
はあまり何度も人に借りるものではない。早口言葉にルビが
25
140328:0236
どこにいる
ぜんぜん眠れないので、布団に寝転がったまま、沼地に沈
み込んでゆく自分の躯を空想をした。というのがそもそも空
想で、実際のところはいつもと同じように、本を片手に入浴
したまま意識を失っていた。というのもまた空想だとした
ら、僕はどこにいるのだろう。
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