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Letters from the WORLD
第53回世界からの手紙
私の故郷 上海の物語
過去から未来
図は上海浦东图片
21 紀世界の金融貿易センター アジアのニューヨークを目指す
中国最大都市の上海 その歴史や教育 中国の戦前戦後の劇的
社会変化を生きた祖母達 上海の昨日今日明日を上海っ子の
留学生董さんから盛り沢山のお話です
2014 年1月 24 日(金)18:30-20:00
日 時
(終了後カンフォーラで懇親会)
報告者
言 語
場 所
参加費
主 催
董 屹立(Yili Dong)情報学研究科修士回2回生
日本語
京大学国際交流センターセミナーハウス(吉田キャンパス事務棟東側)
無料(懇親会は実費)
吉田日本語学習友の会/京大生協留学生委員会
お問合わせ先
池村:[email protected]
第 53回
世界からの手紙
「上海租界史の百年間」
董 屹立(トウ キツリツ)
中国という国は日本の近隣であり、その人口の多さ、土地の広さおよび古代文明と日本
の深い関係は皆さんがご存じかと思います。しかし、近代の 200 年間、欧米諸国との頻繁
な戦争で、たくさんの民間人は命を落とし、一部の地域は植民支配に置かれていました。
それらの植民地を窓口として、欧米の西洋文明が猛烈な勢いで侵入し、伝統的な文化と西
洋文明は戦争のように激しく衝突しました。そういう背景で、中国は苦しみながら、近代
化が進みました。その後も、国内外の戦争と政府の頻繁な交代は地域発展の不均衡の種を
播きました。新中国が建国された近年、経済発展の不均衡な戦略に加えて、地域により人々
の個別価値観は更に大きく分離しました。私は生まれてから、ずっと中国に育ちましたが、
たぶん同じ地域に生活しているせいで、現代中国文化の全体像をなかなか捉えにくいと実
感しています。若い日本人の友達によく「中国の人はみんなお酒が好き、あなたはなぜダ
メですか?」
「中国の人は豪快で明るい性格の人が多いですね。
」などの中国人に対する一
般的なイメージを言われます。日本の大和民族と違って、中華民族という統一された民族
はそもそも存在していません。同じ漢族の人と言っても、住んでいる地域や育った環境に
よって、固別観念は大きく異なるので、一般的じゃなく、ぜひ一人ひとりを見ていただき
たいです。
本日の発表では、私の故郷、中国の最大都市――上海の近代歴史:租界時代の 100 年間と
いう話題を中心に紹介いたします。上海はまさに西洋文明と中国伝統文化がぶつかる先端
に立っていたところです。自分の故郷の話をすると言いながらも、あの時代に生活したこ
とがないため、本日の話は自分が上海に生まれてから 20 年間に聞いた話(祖父母の話も
含めて)
、及び見たドラマや映画などをベースにしたものです。基本情報:
上海市は中国の東部、中国のもっとも長い川――長江の下流にあります。以下は現在
(2013 年)の基本データです。
上海の古代歴史:
明の時代の様子(1500 年代)
今から、1000 年前、上海という場所は小さな魚村であり、人口は 10 万人以下、名前さ
え持っていませんでした。元の時代(800 年前ぐらい)、朝廷は始めて上海県と名付けて、
江蘇省に属することとしました。
上海開港
1842 年、中国の清政府がイギリスとのアヘン戦争に負けたあと、南京条約より、上海
をほかの 4 つの沿岸部の都市と一緒に、外国と自由貿易を行える港として、開港しました。
国にとっては、侮辱的なことですが、上海にとって、発展するきっかけとなりました。
租界時代の開始
翌年の 1843 年、英国の政府高官と商人グループ 26 人が上海に入り、貿易の準備をしま
した。最初に、中国人と一緒に過ごしたのですが、いくつかの事件により、双方の間に不
信感が増しました。上海地方政府の道台(知事)はイギリス領事――George Balfour に
中国人と別々に生活するよう要請しました。こういうきっかけで、イギリス人は上海での
居留地―租界を持つようになりました。租界とはレンタル土地という意味です。このこと
は 100 年間続く上海の租界時代のスタートとなりました。
イギリス人は昔の墓と雑草のほか何もない租界の中にたくさんのヨロッパスタイルの
建物を建て、まるで違う世界のようでした。それらの建物の中に、後ほど上海のシンボル
の建築の一つ――旧滙豐(ワイホウ)銀行ビルも含まれています。イギリス租界は現在上
海の最も有名な場所――外灘に当たります。外灘の英語――Bund という名前もイギリス
の東インド会社の商人がヒンディー語を使って作ったものと言われています。わずか 10
年で、イギリスの商人グループは 20 人ぐらいから数万人の規模まで増えました。
公共租界時代(国の中の国)
1850 年代に入り、フランスとアメリカをはじめ、欧米諸国はイギリスの大きなビジ
ネスチャンスに気づいて、次々と清政府と交渉し、武力による脅かしで不平等な協約にサ
インさせる手段を使い、争って上海で自分の租界を開きました。1870 年代、その数は 10
個以上に上りました。その後、フランスはイギリスの代わりに上海で最も面積が大きな租
界を持つことになり、その広さは全体租界の二分の一にまでになりました。上海は公共租
界時代を迎えました。
上海公共租界旗
左上: 英、米、仏、独
右上: 露、丁、伊、葡
下部:瑞、墺、西、蘭
19 世紀の半ば、清政府の欧米諸国の侵略に対する無作為を非難するため、全国で反政
府運動が爆発的に起こって、その中で、”小刀会起義”と”太平天国運動”という運動に
よる戦火が上海にも及びました。租界の諸国は自分の国の利益を守るため、軍隊を派遣し、
造反運動は上海を中央政府からブロックさせることになり、上海は事実上無政府の状態と
なりました。租界の中に学校、病院、警察局など、何でもあります。各国は自分の地域を
自治し、まるで国の中の国の状況になったようです。その後、政府が回復したのは半世紀
以後の辛亥革命後のことです。
全国のたくさんの場所で、戦争中に民間人は家、土地と生計を失って、上海それに租界
の内に避難するため押し寄せてきました。各国の商人はこれを大きなビジネスチャンスと
見て、一部の人を雇って、租界の銀行や工場で働かせました。中国人と外国人が分かれて
生活する時代はここで終了しました。このチャンスを利用する外国人は大きな利益を得て、
より多くの中国人の労働者を雇用し、ビジネスの規模の拡大を成し遂げました。1900 年
代の統計により、租界の中に住む中国人の割合は 9 割以上を占めています。その期間、外
国と貿易する中国人の会社や「銭荘」と呼ばれる銀行なども相次いで租界の内外に建てら
れました。その勢いは 1920-30 年代にピークとなりました。外国人の数も最多 15 万人以
上いました。その中には、たくさんのインドと東南アジアの安い労働力が含まれています。
租界時代の中国人の生活:
1850 年から、中国東沿岸部北部から南部まで(特に寧波、江蘇北部)のたくさんの
中国人がいろいろな原因で上海に移住してきました。これらの人は現在上海の主な人口と
なっています。しかし、上海でのチャンスが多いと言っても、仕事を見つけられる人はほ
んの一部です。多くの人は食べ物も、身を置く場所さえ見つけられなくて、自分で竹や木
などで作った「滾地龍」と呼ばれるシンプルな建物で凄惨な生活を過ごしていました。冬
になると、町中あちこち餓死、凍死する死体が見られます。一方、租界で過ごした中国人
は天堂ように華やかで裕福に暮らしていました。たとえば、租界で働いていた通訳者でも、
自分の建物を建てられるほどかなり経済的な余裕を持っていました。一部の人は外資銀行
や会社のマネージャまで昇りました。絶望的な貧富の格差を窺わせます。
しかし、全体的に言えば、租界時代の中国人の社会的地位は低くて、いくらお金を持
っても、せいぜい外国人の雇用者になるだけです。管理の権利は実際に外国人の手にあり
ます。たとえば、大部分の公園は中国人立入禁止という厳しいルールが定められて、外灘
公園の入口に「華人と犬は立入禁止」という侮辱的な掲示板も掛けられています。1925
年、勃発した「五・三〇運動」――学生と労働者による反帝国主義運動のあと、この掲示
板は撤去されました。
租界時代が上海文化への影響:
一言でいうと、
“五方雑居、華洋雑居”の移民社会で上海の租界史を表すのが、最も適
切だと思います。違う文化背景、違う社会身分の人がそれぞれの目的で上海まで集まって
きました。だから、繊細、曖昧な江南文化と豪快な北方文化が共存しているのです。オペ
ラ、西洋絵、映画から書道、中国各地の劇、呉地の伝統な茶番劇まで、東西の上品な芸術
と伝統地方文化も体験出来ます。上海は伝統的な文化の影響が浅くて若い町だからこそ、
外部からの新しいものを受け入れやすいのです。「自由、平等、民主」などの西洋文化思
想と伝統の儒教思想が共存することにも驚かないでしょう。
「上海では、出身背景を問わ
ず、能力と夢さえ持てれば、裕福に生きられる」という観念が迅速に広がっていました。
租界時代は上海に文化の多様性と包容性をもたらしました。その多様な文化を結合して、
生まれた「変」なものは「旗袍」と一部の上海方言が挙げられます。
それに加えて、現代性と商業性も租界時代の特徴です。これも現代上海が金融都市へ発
展する基礎を築きました。具体的に言えば、アスファルト道路,洋食,照明、通信などの
西洋技術の重要さは租界という小さい窓口を通して、中国全土に拡散しました。自由平等
の思想とともに、契約、秩序、法律を守るという精神も現代上海市民に大きく影響を与え
ています。租界時代のたくさんの教会学校は上海に西洋的な教育制度を伝えました。上海
への影響の最も大きなのは商業意識と功利意識です。「公平商売」「協力 win-win」「契約
精神」と強い「功利意識」は上海の商人たちの特徴です。しかし、一部の人は功利を重視
しすぎます。ですから、特に上海女性の抜け目のなさはよく批判を招きます。
日本軍の占領時代と租界時代の終わりへ:
第一次・第二次世界大戦が勃発し、たくさんの外国人が帰国したため、その人数がどん
どん減っていきました。中国人は租界を取り戻す希望を見ました。しかし、日中戦争が勃
発し、租界を含め全域が占領されました。アヘン戦争以来、上海は最も激しい戦闘の戦場
となりました。租界の人々の運命も大きく変わりました。個人財産と家が日本軍に接収さ
れ、大部分が租界から追い出されたのです。1945 年、戦争が終了後、ちょうど 100 年間
続く租界時代の終わりを迎えました。中国人はようやく上海の主となりました。その後、
内戦が起こって、戦火は 1949 年新中国建国まで、続きました。幸いなのは租界内の建築
の大部分は壊されていません。現在、旧滙豐銀行ビルの扉にもその時の爆弾の跡はまだ残
っています。
外灘の旧滙豐銀行ビルの違う役割により、上海の数奇な運命を窺わせます。新中国が
建国されたあと、国の発展戦略より、上海は金融中心の代わりに、一時的に政治運動の先
頭となりました。1978 年、改革開放してから、また経済中心の地位を回復しました。近
代の長い苦難な歴史を乗り越えて、新しい時代を歩み始めます。
付録:(租界時代の残った建築)
イギリス租界の風景:
フランス租界の風景:
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