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日本文学における古代的義祖の

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日本文学における古代的義祖の
日本文学における古代的なもの
内 容
大久間喜一郎
○古代という時代区分の意味ー食物の獲得と子孫の繁栄−旧石器時代の呪術t農耕儀礼ートーテミズム・異族
結婚の問題ー呪術と前論理心性i未開時代と古代”神話的世界観i生者と死者の対立−白鳥処女説話とその
原型ー古代人の残酷性i個人性の没却ー第二章の要約−古代修辞法の根底 結論に代えて
序 説
われくは文学史を叙述するのに際して、幾つかの時代に区切って説くのが普通の方法である。それは時間的にとらえ
られた文学現象の中に、時間的にある種の性格を共有しているというところから来ている。そういう、時代にょって区切
られた文学作品の共通の性格というものは必ずしも一定しているわけではない。そして何を基準としてその性格を定める
かという抑﹂とは、極端にい、兄ば文学史家の見識に一任されているのである。たとえば、表題に掲げた古代という時代区分
にしても同様である。日本の文学史が現今程の自覚に立って製作されなかった頃1それはつい戦前まではそうであった
といってよい吻だが−書目解題の時間的配列をもって文学史と考えていた頃までは、古代の意味を厳密に考えた人は極
めて少なかったのではないかと想像する。とにかく政治史の区分に従って便宜的に古代という区分を立てたのが、日本の
文学史の最初の体裁であった、大和時代または上代という区分には、政治史的な意味と近世国学の伝統的な思考しか見出せ
一13一
ないといっても大きな誤りではないであろう。こΣでいう古代なる時代区分は在来の区分に比較して確かに新しいもので
あるが、この区分法は西洋史の叙述方法に示唆されたものに違いなく、古代以下を中世・近世と分ける方法も多分にヨー
ロッパの方法が採り入れられているのである。西洋史においては勿論、ヨーロッパの文学史においても、古代といえばギ
リシア・ローマの時代を指すのであり、言うまでもなくエジプト・バビロニアの時代は古代に属している。そして四・五
世紀の頃から中世に入るのである。勿論、そこには便宜的区分の気持は十分にあるのだが、何よりもはっきりしているこ
とは、エジプトとかギリシア・ローマとかいう地域文化にその焦点が向けられていることである。これに反して日本の場
合では、宮廷が大和地方にあった時代と京都に存在した時代とが主となっていて、明治になって東京が首都となったこと
が特筆に価する位のものである。同じ国土の、しかも近接した地域の文化圏の交替に過ぎない現象をもって、文学史の時
代区分に利用することは、根拠薄弱の識りを受けても仕方がないことである。曽ての文学史区分における上古乃至上世の
称が何となく古代に該当するように考えられたのも、大和朝廷︵平城京の時代も含めて︶の時代ということx、神話伝説を
首にいたゴいた古事記・日本紀の生み出された時代ということがその要因ではなかったか。ところが近来、古代という区
分をもって、貴族政治の時代を中心に考えようとする傾向が強まっている。貴族政治の時代は平安時代の末まで継続され
る。つまり、古代は大和時代・奈良時代・平安時代の三時代を含むことになる。こうした区分を私は大体において肯定す
るのだが、ただし古代の下限を院政時代の直前に置くのが妥当ではない、かと考えている。それは、藤原氏の摂関政治が頽
廃したことから、後三条天皇による事実上の親政を経て、やがて白河上皇の院政が始まり、政治史上では貴族政治の中興
期を迎えたことになるのだが、この頃すでに武士階級の勃興を見ており、地方武士が次第に中央に進出し、院政の開始と
ともに殊に院庁と関係の深かった平氏は源氏を押さえて拾頭してきたのである。文化の面では言語・風俗において異質な
ものが、三百年の静説を保ってきた京の地に目立ってくるとともに、人々の世界観も新興階級たる武士との接触によって
14一
また保元平治の戦乱を体験することによって、次第に変っていったと考えられる。僧徒の横暴・朝家の失政.武家の勢力
伸長、それらはやがて末法思想や享楽的・悲観的な世想と相互に因果関係を持ちつつ助長されてゆく。平安末朝の文学に
はそうした変革の影響が直接間接に現われているのである。その故に中世の開始期を院政時代に求めるわけである。した
が,って私の考えでいえぽ、国初から院政期直前までが古代に当る。上限は明確ではないが下限は十二世紀に近い。これは
ヨーロッパ的な考え方でいう古代とは余りにも違い過ぎるように思う。だからといって古代の下限を平安貧都で打切る理
由は何もないように思う。平安時代はやはり奈良時代に結びつけて考えなくてはなるまい。そこで最も古代的であると思
われる時代は大和時代であるわけだが、今、平城京遷都を古代の最下限とした場合に、われわれの古代文学史は殆ど空白
一15一
にならざるを得な゜い。そんなわけで古代の最下限を十二世紀近くまで下げてくることも、日本文学史にあっては止むを得
ない仕儀なのである。 −
私は唯今、大和時代−詳細にいえば、大和・近江・明日香藤原時代とでもいった方が誤解は少なくなるのだがーが
最も古代的であるといったが、それは次のような意味である、古代というのが、ことば通り人間が文化生活に這入った初
期の時代に一番接近している有資料時代を指すものなら、所謂大和時代が古代というのに最もふさわしい時代であろう。,
またこの時代の文学であり、またそう考えてよい作品も相当に現存するのである。つまり古代というのは、われーが僅
かに想像し得るに過ぎない原始時代というものにも一番近い時代だということはできよう。古代と原始時代との間には考
古学的証跡以外は何物も介在しない筈であるから。
以上略説したことから次のような一応の結論を出すことが可能であるように思われる。それは原始時代の人間の精神構
造やその世界観の影響をもっとも濃厚に受けているのが古代の世界であるということである。それは古く原始時代に遍く
ゆき渡っていた呪術や禁忌の行為が習俗となり迷信に堕したとはいえ、今なお比較的多くの人々の中に細々と生き残って
’
いることを思うと、原始から古代への転換が完全な脱皮であったろうとは考えられないからである。こうした立場から、
原始的なもの玉残溜物を古代世界の人間精神の中から取り上げてゆく過程において、当然予測される原始形態からの変型
とその共時的通有性から、何等かの古代的な特殊性を割り出せるのではないかと考えるのである。これは勿論、文学にお
いては形式と内容との両面から見てゆかなければならないであろう。
O史学的知識の教えるもの
J・G。フレイザーは人類の最初の欲求は食物の獲得と子孫の繁栄にあったとみている。食物の獲得は今旧でもますま゜
す痛切な願いとなっているが、一.方繁栄しすぎた子孫はそのために地球上で種々問題をおこしている。だが、これとて個
個の人々の太古からの願いは決して今でも棄て去られてはいない。現にこの国の農村が人的資源を生産手段としてその多
くを必要としているように、未開原始の時代では今日程人間は健康を保持できなかったろうし、必要な食物の獲得は人手
なくしては容易でなかったに違いない。人類が後々までその生活史の上で支配されざるを得なかった鉄則はやはりこの二
つの問題であった。
人類が食を求めることと、子孫繁栄のために費した努力は、その原始の時代から有史爵代に這入って古代文化の開花す
るまで、否、厳密に言えぽ、近代に至って科学思想が普及するまでの人間の長い歴史を一貫して、人間生活を規制してき
たさまざまな呪術・禁忌といった原始的技術や原始的信仰の手段をもって行われた。食物を獲得する努力というものは、
屯デンの園を空想しない限り、人間が原始生活を始めた時から、人間が負ってきた苦労であると考えてよい。人類の発生
は洪積世になってからで、四・五十万年よりも以前から人間は狩猟によって食物を獲得してきたのである。時代と地域に
よって違いはあったろうが、大体において獲物は豊富であり、狩猟が成功しさえすれば、先ず餓え為ことはなかったであ
●
16一
一、
ろう。このような時期においては、貧弱な日本の農村などと違い、食料の獲得に要した人手が後には限られた生産物を余
計寡少なものにしてしまうといった矛盾は滅多に起らなかったと思われる。この意味で人口の増殖は、食物の獲得と共通
の目的を有していたと言ってよい。それに村落の形成が行なわれるようになった新石器時代以前にあっては、洞窟などを
住居とした小数集団の孤立的生活を全うするためにも必要なのは子孫の繁殖ということであったろうと思われる。
十九世紀の末、北部スペイソのサソタソデル県で発見されたアルタミーラ洞窟の原始絵画は、旧石器時代人の描いた絵
画として余りにも名高い。その他、フランスのラスコー洞窟・ルフィニャックの洞窟など百個所以上に亘る場所から旧石
器時代の絵画や浮彫が発見されているが、これらに共通の点は何れも洞窟の奥深く、近づき難い場所に存在し、描かれた
動物は、むしろ捕獲困難なものが多く、或いは狩猟の様子と思われるものが描かれ、或いは動物の仮面をかぶった呪術師
が描かれてあるなど、これらが芸術的意図によったものでないことは明らかであって、呪的目的によって描かれたもので
あることは疑いない。旧石器時代人が狩猟によって動物を得んがための呪術行為に使用されたものだと考えられる。彼ら
が多く食用に充てていた動物でも、それらが陥穽による狩猟法などで比較的容易に捕獲できるものの絵が少いことも、呪
的目的による制作であることを裏付ける。また壁面に刻まれた動物の像の上には、更に別の動物が刻まれていて、他に壁
面があるにも拘らず、何回でも重ねられているのが普通だということも、それが装飾や芸術的意図によるものでないこと
を示している。また、旧石期時代の後期に作られたと信ぜられる丸彫りの女性裸像が数多く発見されているが、それらに
共通した特徴は女性々器の誇張された表現であって、それらが女性の出産に関する呪術、つまり子孫繁殖の願いが食用動
,旧石器時代の長い蒙昧な時期を経て、沖積世に入って中石器時代から新石器時代に至ると、人類は定住生活とともに農
物増殖への願いに対しても共通するものと考える模倣呪術における呪物であったとされる。
耕生活を始めるようになり、生産経済の時代を迎える。農耕生活には、狩猟時代におけると同じく、数々の農耕儀礼が呪
一17一
的信仰を基盤として行なわれたと信ぜられる。一年を通じての農耕儀礼は春祭りと秋祭とが中心となって後々まで行なわ
れた。万物の死の象徴である冬を追放し、甦りの春を迎える春祭り、そこでは地下に種子として眠っていた穀類は発芽し
来るべき秋の収獲を約束するのである。秋祭りは収獲の祭りである。人々は地の母神に感謝を捧げ、収獲の歓びを神とと
か か ひ
もに祝うのである。この春と秋との二大祭儀は、日本でも歌垣あるいは擢歌会と称する行事によって行われてきたことは
誰も知っていることである。歌垣は都においては早くから宮廷に這入って儀式化してしまったが、地方農村にあっては
︵殊に東国では擢歌会と称して︶その古俗が比較的後代まで守られてきたようである。こうした擢歌会が既にフレイザーや
その他の人類学者によって報告せられている春祭り及び秋祭りなどの農耕儀礼に伴なう祭儀と同じ趣旨のものであったろ
︹註−︺
うということは、中国に見られる同種の行事などとも比較して殆ど疑いを容れないところである。これら農耕儀礼の祭儀
には必ずといってもよい程伴なってくる現象は性の解放である。万葉集巻九・高橋逮虫麿歌集所出の﹁筑波嶺の擢歌会の
歌﹂にも見られるように、男女の自由な交りを伴なっていたと考えてよい。これは古代の人々が性的に自堕落であったた
︹註2︺
めでもなければ、人間が本能の爆発の機会をそうした季節祭に求めたためでもない。未開といわれる種族が文明人と較べ
︹註3︺
て思いの外性的に厳しい戒律の中で日常を過しているという報告がなされている。恐らくそれは一地方・一種族特有の状
況ではなくて、多くの種族に共通するものであろうし、今日の文明国人もその原始未開の時代においてはやはりそうであ
ったのだろうと思われる。その.理由を求めるなら、その大部分はトーテミズムの社会と密接な関係をもった外婚︵国×oαq・
pヨ団︶の制度にあると考えられる。外婚制度では同一トーテムに所属する男女は互に性的関係を結んだり、結婚したりす
ることは禁ぜられるからである。トーテミズムが血縁協同体社会の成立と同時に発生する必然性を有するとすれば、それ
は人類の退化を避けるために異族結婚を要求する入間の本能から起ったものであり、同一クラソ︵氏族︶の成員間では男
女が相互に誘引を感じにくいという人間の本能に従ったものであって、そのために同一種族内に幾っかのトーテム・クラ
一18一
ソが成立し、互に血縁でないことを表示するのがトーテミズムの起原であるとするベルグソンの考察は確かに一つの真理
であろう。こうした考えを前提として、トーテム社会の盛衰を推測するならば、何らかの社会的変化1!例えばトーテム
︹註4︺
・クラソ同士相互の争いなどによって、クラソの拡張や異族の混合などは実際問題として避けることができず、トーテミ
ズムの崩壊が始まる。そうなると禁婚圏というものも厳密に設定できなくなる。日本のような狭隙な島国において、﹁魏
志倭人伝﹂などから推察されるように、数多の戦乱を経験してきた古代社会では血縁協同体とは言っても純粋なものでは
お や こ たはけ
あり得ない。そこに禁婚圏が早くから崩れて行った理由があると私は思う。﹁古事記﹂によると仲哀天皇の条に上通下通婚
を大罪とし、また、木梨之軽太子が同母妹の木梨之軽大郎女を妻としたために、人心の離反を招き伊余の国に放逐される
という事はあったが、異栂兄妹や伯叔父母との結婚は罪にならなかった。しかし、この禁婚圏の背後には、それ以前にも
っと広範囲に亘ゐ禁婚圏が存在したことを推測せしめるし、中央以外の地域では一層古い制度が守られていたかも知れな
いのである。日本が曽てトーテム社会を形成していたという積極的な証拠は発見できないが、神話時代の伝承中に存在す
︹註5︺
る多くの異種族の記憶、他郷の女子との結婚説話、今日でも地方農村に残っている結婚の風習などからみて、一地方の女
︹註6︺
性がその地方の若者の共有物であρたことなどは、トーテム社会とまでは断言できなくても、地域的区分による社会集団が
血縁意識によってある程度成立していたことが確められる。従つて古代の歌垣や擢歌会における性の解放といヶことは、
それ自身を目的とするのではなくて、もっと別、の目的があったのだといえる。それは今更いうまでもないことながら、地
,母神の受胎が穀物の実りであるとして、それを促進させるための類似行為に外ならなかった。つまり模倣呪術としての意
義があったのである。食物の獲得に対する人間の願望から生まれたそうした行為は、恐らくその真の意義を忘れた後々ま
で、時にはその形を変えて行われたのである。前述の筑波の擢歌会の歌にみえるように、筑波の山の神が許した行為と考
えて、性の解放という享楽だけを味わったのである℃
一19
食物獲得のために行われた春秋の祭儀における呪的行為を中心として、同じ目的から雨乞いや狩猟・漁猟などに関する
呪術も行われた。だが、これらに対して子孫繁栄のための呪術というものは集団的には行われた形 はない。それは恐ら
く、その欲求が個人とか家族のものであり、地域社会全体の盛衰に関係ある問題として意識されなかったからであろう。
ただ性器崇拝に関連ある呪術としてのみその存在を知ることができるが、それは寧ろ個人的に密かに行われたのであって
公的.集団的でないために、どの程度の熱意をもって行われたものか知ることができない。季節祭における性の解放は特
定期間の行事に過ぎないから、恐らくこの問題とは関係がないと思われる。子孫繁栄の願いは、その形に現われたものを
多く知ることはできないが、生及び死に対する諸種の行事は呪術と禁忌とを伴って展開されてきた。更にそれらを中心と
して、さまぐな呪術・禁忌・卜占の狩為が人々の生活技術として、現今の科学思想・科学的技術とは別の次元に立って
盛大に開花していた時代があったと信ぜられるのである。
王者が古くは呪術王としての義務と責任とをもっていたことは、この国の天皇の事蹟の中にもその痕跡だけは発見でき
るのであるが、古く﹁魏志倭人伝﹂の女王卑弥呼には呪術王としての性格を幾分見ることができる。その卑弥呼の時代ー
1紀元三世紀頃における日本では呪術は国家的な行事どして行われたのであろう。卑弥呼自身がもっていた呪術師として
の職能は殆ど疑いないところである。女性の神秘さがもたらした呪術師的特性は、ヨーロッパではタキトゥスの﹁ゲルマ
ーニァ﹂の記事から、極北地方のシャーマソに至るまで周知の事柄である。その後、史書に現れてくるところでは、天皇
は多く祭祀の長としての役割を以て描かれており、呪術王としての職務が稀薄になっているのを見ると、呪術的世界観は
かくやま ひ れ
国家的なものから個人的なものへと既に移行していたのだろうと思われる。﹁日本書紀﹂巻五・崇神天皇紀に武埴安彦の
妻、吾田媛が謀叛を企て倭の香山の土を領巾に包んで祈ったという記事などは対国家的・対集団的な呪術の一形式であっ
たろうか。
一20
こうした呪術やその消極的な形式と考えられる禁忌、また事実の予見や察知などに用いられたト占などは総て﹁思考万
能の原理﹂であるというのが、精神分析学の立場から考察したS・フロイトの意見である。思考万能とは、観念上の結び
︹註7︺
つきを現実上の結びつきと同一視する心性である。またレヴィ・ブリュ⋮ルによれば、これらを前論理的な神秘性と考え
︹註8︺
る。前論理心性の大きな特質は分析を行わないことにあるという。勿論、前論理心性とい,っても論理的なものと混在して
いるので、前論理的心性だけで前論理的世界観が成立しているのでないことはいうまでもない。前論理的心性というのは
思考万能の原理を包含する名称になるのだが、こ﹂に当てはまる未開社会の思惟には呪術・禁忌・トポとは別に前宗教的
思考としてアニミズム的思考がある。万物に霊魂を認めるという思想乃至信仰は、﹁日本書紀﹂神代︵下︶に﹁草木曝能く論
語ふことあり﹂とあつ、﹁記紀﹂﹁風土記﹂の説話にも多く散見するところであって、山川草木に精霊の存在を思ったこと
は﹁古事記﹂の倭建命の説話を例にとっても、伊服岐山の神は白猪の姿となって出現し、走水の海では后弟橘比売命を渡
い ぶ き
りの神に奪われるのである。また﹁さゴれ石﹂が巌となるという国歌﹁君が代﹂の表現もそうしたアニミズム的鳳考の流
れを汲むものである。アニミズムには更に前段階としてのプレアニミズムの時代があったというが、これは霊魂も精霊も
まだ個別化されない段階を称するのであって、﹁記紀﹂﹁風土記﹂などの古説話からはそうした形 を分析し得るところま
では行っていない。プレアニ、・・ズムからアニミズムへ、それは宗教の出現とともに、それへ連結さるべき一筋の流れとも
みられるが、また一方宗教とは別に、原始信仰として宗教と平行しつつ呪術や禁忌的手段と結びついて、長く後世へと持
続されてゆくのである。今日、俗信といわれ、迷信と称される庵のは、この原始信仰のある種のものに時折与えられる軽
侮的なことばではあるが、それは前論理性が論理性を圧倒していた未開時代から、次第に論理性が前論理性を駆逐してゆ
く時代へと移り変るにつれて生れてきたことぽであった。
以上を結論づければ、未開時代を支配したのは生活技術としての呪術・禁忌・ト占などの行為と、前宗教的信仰として
Q1一
一L
のアニミズムであった。その根底に横たわっている前論理性も、その初めは論理性を大きく圧倒していたにせよ、次第に
その比率を逆転せしむべく徐々に移り変りつxあったと考えられる。だが未開時代がどれ程悠久の時代に亘っても、原始
から古代に至るまでに必ずしも前論理的世界観が論理的世界観にとって代わっていたとは考えられない。何故なら未開時
代と古代との境界は論理的世界観の濃淡によって定められるものではないからである。文学史における古代をどこから始
めるかという問題ばそこにある。人間が文化生活を始めた時期、それが古代の開始期であると考えたい。文.化生活は物質
と精神との両面を含めて考慮されなければならないが、その程度に対する基準といったものはない。したがって、古代に
は未開時代の要素が残存し得るのである。そこで古代開始期を決定する方法として、その国民なり種族なりによって残さ
れた彼等自身の魂の記録をもって精神文化の徴表と考え、古代の出発点をその,記録の内容の発生時代に置こうとするので
あども をとめをとこ
ある。勿論、その時代は初めから明白であるとはいえない。しかしそれを明白にすることは古代文学史の研究者にとって
最初の課題なのである。
︹註1︺ 拙稿﹁迦具孜﹂人文科学研究第6号参照。
︹註2︺ 筑波嶺に登りて擢歌会をする日に作る歌一首﹁鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の
もはきつ かがひ あ ひと うしは いさ わ ざ
行き集ひ かがふ擢歌に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他も言問へ この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日の
こと
みは めぐしもな見そ 言も答むな﹂ 、 ︵日本古典文学大系︶
︹註4︺ ベルグソン﹁道徳と宗教の二源泉﹂参照。
︹註3︺ ハヴェロック・エリス﹁未開種族の性的衝動﹂︵エリス著﹁性の心理﹂8ハ日月社刊、所収︶参照。
︹註5︺ 大国主命は八十神と共に稲羽の八上比売を婚いに行き成功する。また大国主命の正妻は根の堅州国から連れ帰った須佐之男命
よば
う な い を と め
の娘である。そして後に高志の沼河比売に求婚する。その時の歌に﹁八千矛の神の命は八島国妻枕きかねて、遠々し高志の国に、
賢し女を有りど聞かして﹂とある。 −
万葉集巻九に見える菟原処女の伝説歌によれぼ、処女に求婚した二人の男性の中、]人は処女と同じ土地の男性であるが、一人は
一22
他郷の男性であった。当時の伝承では処女は他郷の男性である血沼壮士に心をひかれていたらしい。興味ある暗示である。
ち
をめ
とこ
︹註6︺ 今日でも地方によって略奪結婚の形式を残しているところはまだいくらか有るようである。先日ジャーナリズムで問題となっ
豊玉姫は海神の娘で日子穂々出見命の妻となった。異類婚説話の一つである。
た鹿児島県串良町有里に残る略奪婚の遺風などもその一つである。こxでは略奪行為の前に、女の村の若者に話を通しておく必要
があるという。こういう形式の結婚では大方そういうことになっているらしい。つまりある地方の女性はその土地の男性の共有物
︹註7︺ S・フロイト著﹁トーテムとタブー﹂参照。
であるという観念である。東京都内の池袋なども、かつて江戸の近在の村であった時分はやはりそうだったらしい。
︹註8︺ レヴィ・ブリュール・山田吉彦訳﹁未開社会の思惟﹂第一部第三章参照。
二、神話及び古伝話から帰納されるもの
神話的世界観 前章まで前論理的思考の世界をアニミズム及び呪術・禁忌・ト占行為の背後に求めたのだが、更に神話
についても同様であ奮いえる・そしてまた・伝説の多くにも同様な思考の反映投射が見ら糾研.神話筈代人の空想的
世界観の所産でもなく、超人間性をもつ神々に関する逸話集でもない。マリノウスキー−の研究によれば神話の本来の職能
は部族の憲法ともいうべきものであり、部族間の紛争や事件などは最終的には、神話に語られた起原説話にのっとって解
n註2︺
決されたもののようである。平城天皇の勅命によって斎部広成が﹁古語拾遺﹂一巻を撰して奉ったのは、祭祀職として中
臣斎部両氏が神代以来対等に扱われてきたものが平安時代に入ってから斎部氏が次第に中臣氏に圧迫せられ、中臣氏によ
って﹁中臣率二斎部一候二御門一﹂︵日本後記︶とまで奏上せられるようになったことを憤って、斎部氏が己れの家記を奏上す
ハ フ ニ
ることによってその不当を訴えんとい゜う意図であった。斎部広成は、当時社会的に優位を保っていた中臣氏に拮抗するの
に、現実的な政治手段によらないで家伝の神話的伝承に拠ったことは、当時の社会がまだそうした神話的伝承の権威を認
めていたことを表わすものであった。神話的伝承が日本においてもいかに天皇氏及びその他の氏々にとって重要なもので
一23
あったかということは、既に後代の中央集権国家となってからの記録とは言え、日本の正史である﹁日本書紀﹂神代巻が
多くの異伝−各氏の記録が資料になって“るものと信ぜられるーを公平に集録している慎重さがその証拠であろう。
これらを併せ考えても神話が部族の憲法的存在であったことは日本においても同様であったと考えられる。したがって神
話の前論理的世界観は日本の未開時代はいうまでもなく、われーが古代と称している時代に至るまで、かなりの権威を
もった存在であったと思われるのである。
記録に見える神代の記述は総体としてみるときは、統一国家意識によって編成されていると思われるから、これを体系
的神話と考えられないことは既に津田左右吉氏によって指摘されているとは言え、それを各説話に分割するときは、やは
りその内容は大方は神話である。例えば﹁古事記﹂に見える穀物の起原説話や人間が不死であり得ない説明神話などは、
それゐ\の重複または前後矛盾しているのだが、これなどは少くとも異なった部族の神話を併合した趣きがあると言え
る。一つの体系によって統一されている原始神話ではないが、記紀の説話が曽てはその部族に権威をもって臨んだ時代が
必ずあったに相違ない。今日われぐが見ている記紀の神代の説話は、そうした神話の形骸であると考えてよいのだと
思う。 .
生者と死者・天上と地上 生者と死者との間に、古くは交通が行われたというのが未開時代の考え方であった。少くと
も生者は死者の国へ往って帰ることが可能だったのである。ギリシア神話のオルペウスは死んだ妻のエウリュディケーを
連れ戻すために冥府にくだった。冥府はハーデースが支配する国であって、世界を巡る大河オーケアノスの流れを越えた
彼方にある光なき国であると考えられた。それは地下の連想をもった国である。冥府への道筋は後に種々に創作されるよ
うになったらしいが、日本では伊邪那岐命が、火の神を生んで死んだ伊邪那美命を連れ戻そうと黄泉国へ行った帰途、黄
泉比良坂︵泉津平坂︶を上ってこの世に帰着したことを記紀ともに伝えており、その時、千引の岩を引き塞えたので、それ
一24
から後はこの世と黄泉国との交通が不可能になったという。この黄泉比良坂を﹁古事記﹂では出雲の伊賦夜坂だと伝えて
いるのは、地下の国というものを単純に想像できなくなったむしろ後世の伝承であろうと思われる。
未開時代に・おいては死者の霊魂は己れの肉体から遊離するや、一定の日時の後に定められた死者の国へ行くと考えられ
たようである。同じシャーマニズムの圏内にあるエスキモー人の伝承にょれば、そうした霊魂はツピラク︹↓も一一p。犀︺と呼
︹註3︺
ばれていて、時々村落へやってきては人間に害を与えるといわれている。霊魂が直ちに死者の国に飛び去らない理由は、
仮死と真死の区別をつけ得なかbた未開人にとって、死者の蘇生という事実が多かったからであろう。この間に招魂法が
行われたことは想像に難くない。折口信夫博士が説い.ておられる﹁山尋ね﹂の方式というものは、死者の魂が山中や林の
中を迷っている問に呼び戻す招魂呪術なのである。折口博士がこれを﹁山尋ね﹂と命名されたのは、﹁万葉集﹂巻二の次
の歌にょっている。
ゆき
いはのひ め し の
君が行け長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ︵八五︶ 、
の四首を仁徳天皇崩御に際しての﹁魂乞い﹂︵里ー8魂︶の歌だと断定している。こうした招魂呪術を主題とするらしい歌を探
これは仁徳天皇の皇后、磐姫が﹁天皇を思はして作りませる御歌﹂と伝える四首の相聞歌の最初の作であるが、博士はこ
︹註4︺
つれ
すなら、更に次のようなものがある。
情もなき人を恋ふとて山彦の応へするまで歎きつ6かな︵古今集・恋一・五一=︶
この歌などはそうした招魂呪術を背景しているものであろう。古くは山彦の応えを山路に迷う死者の返答と信じていたら
しいのである。
未開時代には人々は、生者に対する死者の敵意を恐れた。死老の国にその霊魂が真に安定するまでは油断がならないと
考えていたようである。殊に変死した人間の霊魂は生者に敵意と反抗心をもっていて生者を常に死者の仲間へ誘おうとし
一25一
ているのだという思想はオーストラリア土人の信仰や中国の説話にも見られる。わが国の古代大和朝廷時代には天皇御一
代ごとに都を遷したが、これなども殉死老を含めて多くの死者を出したことから、その地を避けるような習慣ができたた
めだろうと思われる。死者の霊魂が完全に死老の国に落ちついてしまうように、つまり死の完成を早めるためと解釈され
るのだが、人間を構成している霊魂が肉体を去ったと見散されるときは、その人間がまだ生きていると信ぜられる段階で
︹註5U
早くも埋葬なされてしまうというフラッタリー岬の土人やボロロ族.バクワイン族などの例もある。
こうした古説話や人類学者の報告する諸例から、日本の未開時代には死者と生者、あるいは死と生とを現象の相違以外
には差別をつけていなかったろうということが考えられる。死は生者にとって無に帰することでもなければ、全く別な世
界の存在となることでもなかった。したがって古い時代には相互に往来することができたと信じていたのである。そして
死者は過去の存在ではなく、生者と同一の世界のどこかで、少くともある期間は死老同士の生活を営んでいると考・兄てい
たのである。その故にこそ死者の名を呼ぶことは、死者の霊魂をこの世へ一立ち帰らしめる結果となるので、死老の名をタ
ブーとして、死者には新しい名が与えられた。生前の名を誰︵忌み名︶として、誰︵おくり名︶が付けられるのである。ま
た死者が生前愛好した品物は死者の財物であるがため忙副葬品として埋葬された。更に古くは、死者の妻や奴碑までもそ
の財物と同一視するところから殉死させられたのだと信ぜられるが、後には普通一年間の服喪によってそれに代、兄られた
つまりその一年間が過ぎれば死者の霊魂は永遠に死老の国へ落ちつくか、または再生する霊魂たちの仲間に入ってしまう
かするのであった。
死老と生老との間にこうした無差別観念があったように、天上と地上・地上と地下・地上と海底の間にも相互に交通が
行われた。伊邪岐大神から生れた天照大神は高天原を治めるべく、﹁書紀﹂の記述では天の御柱によって天界に送られたこ
とになっている。天界から地上へ来たのは天若日子や天孫降臨とそれに随従した人々などがあるが、﹁日本書紀﹂によれ
一26
ば味紹高彦根神は死んだ天稚彦の家族たちから天稚彦と見誤まれたのを怒って喪屋を切り伏せたところ、これが地上に落
あじすき
ちて美濃国の喪山となったと伝えている。また﹁風土記﹂逸文によれば、伊予国の天山は倭の天の加具山と共に天上より
コ あめ
天降った山だという。また根の堅州国に住む須佐之男命を訪問した大国主命は、須佐之男の娘で呪術に長じた須勢理毘売
を妻として伴い、黄泉比良坂を経て再びこの国土に帰ってきて国作りを始める。これらの説話によって思えば高天原も根
ノ
の堅州国も、天つ神の国とか死老の国とかいう意識以外に、単なる他郷意識とも重なってくるのである。海神の宮を訪問
した彦火火出見尊の話も同様である。
動植物と人間 人間と植物、人間と動物とを同格視することは未開時代にあっては自然のことであった。カッシラーは
︹註6︺
こうした現象をトーテミズムの世界観であると判断している。トーテミズムは人間と動植物との間に血縁関係を意識せし
める。倭建命は東征の帰途、尾津の前の一つ松の下に到ったとき、以前其処で食事した際、忘れて行った御刀が残ってい
たので
ただ あ せ た ち きは
尾張に 直に向へる 尾津の埼なる 一つ松 吾兄を 一つ松 人にありせば 大刀侃けましを 衣着せましを 一
つ松 吾兄を
と謡って、松の木の功績を讃えた。これは記紀ともに見える説話であるが、この話は松の霊力を伝える説話であるととも
に、植物と人間とが同格であり、共通感情を持つものと考えられていた名残りである。また﹁万葉集﹂にもそうした親近
感を留めていると思われる作品が幾つか存在するし、平安時代の中期になっても松の木に関する限りこの信仰は残ってい
たようである。﹁源氏物語﹂桐壷巻の中で更衣の母君が﹁命長さのいとつらう思う給へ知らるxに、松の思はん事だに恥
かし思う給へ侍れば﹂と述懐している詞にょくそれが表われてい.馨、柳禺男氏の﹁参宮松の。碑﹂にょれぽ・禁旅行
︹註8︺
したり、路銀を借りたりする話がある。
一27一
人間と動物とがモラルを同じくすると考えられていた証跡は、人間と植物の場合よりも遙かに多く、その説話も世界中
に分布していると言ってよい。白鳥処女説話はその代表的なものである。天界から水浴をするために降りてきた白鳥が羽
衣を脱ぐと美しい処女であったというのが、この説話の重要な発端となっているのだが、これだけでは処女の本体は白鳥
なのか、白鳥の本体が天界の処女なのか分明でない。λiトソ版﹁千一夜物語﹂にはこの説話を中心に構成された長編の
︹註9︺
物語があって、主人公の処女は魔神の王の娘ということになっているのだが、それはこの説話の本質とは縁のない合理化
であろう。因みにこの物語で興味あることは、白鳥の処女が羽衣を隠した若者と結婚し、二人の子を儲けた後、やがて庭
に埋めて隠してあった羽衣を探し出して、二人の子を連れて故国に飛び帰ってしまうところ迄は、世にある白鳥処女説話
の類型を踏んでいることと、後に残された夫が歎難の末に妻の故国へ漂泊って行き、妻子と再会して再び若者の郷里へ連
れ帰ってくるということであるQ
さて、ここで話を白鳥処女の本質論に戻そう。レヴィ・ブリュールは﹁未開人の神話﹂の中で、マリソド・アニム族の
伝承やキワイ島のパプア人の伝承について考察を加えているが、それに拠ると人間がカンガルーや鳥に変身する説話が多
い。人間が本物の鳥の羽を身体に着けたり、口に入れて吸ったりすることに依って鳥に変身して空を飛んで行き、家に帰
って再び羽を外し人間の皮膚を身につけると元の身体に戻るという説話があゐ。恐らくこれらの説話は、白鳥処女説話の
原型を保存しているものであろう.と思われる。ただ、これらの説話では、変身する人間は男女を問わないのであるが、白
鳥処女説話では白鳥が必ず処女であるということは、白鳥の美しさにふさわしいものとして、その本体を女性と考えたこ
とと、女性がもつ呪的能力への信仰と処女神聖観との三者が重なって、白鳥を処女に限ってしまったものであろうと考え
る。要するにこの説話の中で、白鳥が処女になったり、処女が白鳥になったりするのには羽衣を着たり脱いたりするのだ
が、女性の皮膚の着脱という要素はもうなくなっている。従ってこの説話では、白鳥の本体は神聖な女性であるという方
一28
向に進んでゆくだけなのであるα
日本古典に現われる白鳥処女説話は、何れも断片的であって、 一貫した物語になっていない、﹁常陸風土記﹂白鳥の里
の説話では、
ロ
な ●
伊久米の天皇の世に、白鳥あり。天より飛び来て、童女と化為りて、夕に上り朝に下る。
とあり﹁風土記﹂逸文の﹁伊香の小江﹂の条にも白鳥処女の説話を伝えているが、この方は
い かご
やをとめ かはあみ
天の八女ともに白鳥となり天より降り、江の南の津に浴しき。
とあり、﹁丹後国風土記﹂逸文の伝える﹁奈具の社﹂の縁起に伴なう羽衣説話も本来はやはり白鳥処女説話の形を保存し
ていたのであろうと思われるが、これも本体が天女であることは﹁伊香の小江﹂の場合と同じである。これらの中では
﹁常陸風土記﹂の説明様式が古いものと信ぜられるが、いずれも変身後の姿を本物の白鳥なり処女なりとして叙述してあ
る点では同様である。
白鳥処女は羽衣を隠した人間と止むなく結婚し、やがて子供を産む。そして偶然のことから羽衣を見付け出し、子供を
︹註−o︺
連れて、或いは子供を置いて天へ帰ってゆくのが普通の形式であるσシベリアのモルドウィソ人の間に伝わっている話で
は、昔、水の神の娘たちが川の中から草原に遊びに来たが、その中の一人が村の青年に捉えられて、その青年と結婚し子
供を沢山産んだが、彼女は働きたがらないので皆に罵られ、子供を置いて水の中に帰ってしまう。この説話には白鳥や羽
衣などは出てこないが、女が高貴な素姓であることや、多数の中から一人だけが人間の国に残されたことなど、白鳥処女
説話の形式を殆ど備えている。ただ、この話では、女の本体が水の神の娘であるということが問題であって、それが本然の
あまをとめ
姿としては人間の女と同様に考えてよいかどうかということになると、極めて類似した話とは言いながら白鳥処女説話の
天処女などとはやはり違うのである。水の神の娘の方には異類的な面影が濃厚である。この説話はむしろ人間と動物との
一29一
異類婚説話に近いものである。人間と動物との問の婚姻説話というものも、両者を同格視した原始心性によるものなので
ある。記紀によると日子穂々手見命は海神の女の豊玉毘売と婚姻を結ぶが豊玉毘売の本体は八尋和麺であった。その本体
や ひろわ に
{つ国の形﹂と記はいっている︶を命に知られたことによって御子を残して本国の海宮へ帰るのであるが、前述のキワイ島
の説話でも生捕った牡豚と結婚する兄弟の説話があり、子供を生むと彼女たちは家を追われて出る。そして人間の皮膚を
脱いで元の豚に戻る。また鰐の娘と結婚した若者は子供が生れてから後、自分の妻を侮辱したため、妻は元の姿に戻って
河の中へ帰って行ってしまう。ここではその子供までが母親の姿になるという形が示されている。これは珍らしい例であ
る。﹁日本霊異記﹂の﹃狐為レ妻令レ生レ子縁第二﹄の話も、狐とは知らずに結婚して二人の間に子をもうけたが、女はやが
ヲ ト ヲ
て正体があらわれて去ってゆくという信田妻の形式をもつ説話であるが、これなどもその動物が狐だから人間に化けやす
いのだという後世の怪異談が先入観となって、この説話の本当の姿を見出す障害となっている。しかし、この説話も白鳥
処女説話と密接な関係をもった説話であって、やはり動物と人間との同格を疑わなかったトーテム社会の影響を残してい
ると考えてよいのである。
秩序の破壊と制裁 これまでに取り扱ってきた古説話から得たものは神話的前論理の世界観とトーテミズムの社会が培
かった空間的な無差別観であり、空間を占有する諸現象の無差別観であった。概括的にいえば、宇宙の諸現象は人間の如、
く喜怒哀楽し、人間の如く考え、人間の如く行動するということであった。そして今から考察する問題は人間個々の心唐
や信仰ではなくて、社会集団における個々の人間の立場とその価値についてである。古代社会における人間対人間の問で
おこされる事件を神話や古説話が取りあげた場合、その共通するところは残酷さということである。神話や古説話の中で
は人々はさしたる理由もなしに、またそれ程の悪事や失態もないのに権力者によって容易に生命を奪われる。,﹁古事記﹂
や﹁日本書紀﹂には謀叛の疑いや僅かの失錯によって権力者から訣鐵される話は極めて多い。この場合、謙数に価する真
一30
(「
の原因が記されていないのだと考えることは、これらの書物の記事を現実の歴史と思い過ぎている人々である。それにこ
の両書にしても表現過少の趣きがあるとは考えられない。われーが真意を把握できぬままに、何故これほどの入りくん
め とウ はやぶさわけの
だ表現が必要なのかと思わせる個所もある。やはり必要だと思われる表現手続きはとっているのである。たとえば、﹁古
ロ ところ たまつくり
事記﹂にみえる女鳥王とその夫速総別王討伐の話や、沙本毘古の謀叛の条にある玉作り人どもの土地を奪った話など、前
さかずき
者の話は軍を興して討伐する程の重大な失態ではないし、後者は﹁地得ぬ玉作﹂という諺の起原説話に過ぎないのであろ
うねめ
うが、いずれにしても今日の常識では納得できるような話ではない。また雄略天皇と三重の采女との説話にしても同様で
ある。采女が蓋の中に槻の葉が落ちていたのを知らずにそのまま天皇に捧げたために、采女は直ちにねじ伏せられて偲刀
で頸を刺されようとしたとある。采女の失態にどれほどの重大な意味があるにせよ甚しい人命の軽視ということは考えら
こだくみ サ
れる。日本書紀雄略紀では木工猪名部真根の妙技の程をためそうとして采女たちを裸体にして相撲をとらせたところ、果
して真根が失策をしたので真根を死罪にしようとした話なども同様である。 、
このような古代における人命軽視や残酷さは勿論日本だけの現象ではない。オデュセウスはトロイアー戦争の帰途、十
年間の漂泊の後に郷里のイタケーに辿りつぎ、妻のペネロペーに求婚した者どもを殺すと共に、求婚者に加担した廉で碑
女たちを全部絞殺した。こういう話を拾っていたら恐らく限りなく発見されることであろう。そして、こうした残酷ざは
単に説話の上ばかりではなく史実と考えられているものにも同様に多いのである。フライターフの﹁ゲルマソ史﹂による
と、古代にあっては樹木の皮を剥いだ者は、鵬の部分をえぐって腸を引き出し、剥がされた樹皮の代償としてその腸を幹
に巻きつけて息が絶えるまでその周囲を追い廻わされたということである。これには呪的な意味があるのであるが比類の
ない残虐さを感じる。また、ヘロドトスの﹁歴史﹂が述べているところでは、クセルグセスの后アメストリスは夫が息子
の嫁を愛人としていることに対する嫉妬の念を、嫁の母であり夫の兄弟の妻であるマツステスの妻に向け、マシステスの
一31−一一
妻を捕らえその乳房を切り取って犬に与え、鼻も耳も唇も舌も切り取った、とある。日本でも﹁魏志倭人伝﹂に記すとこ
ろによれば﹁其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し﹂とあり、更に長途の旅行には旅行者を襲う災害を避ける呪術的
目的から持衰と名づける老を帯同したが、若し途次に暴害に逢えば、持衰が謹まなかった故としてこれを殺したというこ
じ さい
とである。
以上述べた諸例は呪的意味を伴なう制裁やそれとは別な復讐的意図による処罰など様々ではあるが、それらの処置が何
れも残酷感を懐かせる共通の原因は、人間の生命の軽視という点にある。人間の生命を動植物と同価値に扱ったり、環境
や人間的弱点に対して徹底した狭量さを示したりする。またある場合には制裁を受けるべき必然性が、犯罪行為の結果で
はなくて、単に血の連がりということだけで成立する。意志や動機の如何に拘わらず、形に現われたものだけで制裁を
受ける。つまりこの時代の人間は自己を主張できないのである。人はその家族・その隣人と区別されることはないのであ
る。同じ人間という外形においてのみ認められるに過ぎなかった。古代説話における残酷性というものもこんな所に結ば
れるのである。従ってこうした物語から、現代人が残酷性を痛感する程には古代人はそれを感じなかったであろうという
ことは想像できる。残酷な物語を抹殺しなかった理由もそこにある。
個人性の欠如 近代の生活では、人々は社会の成員としての規律を強綱されると同時に、 一方では個人性︵個性︶が尊
重される。作者の個人性を不要とする仕事は、次第に機械化される傾向にある。作者の個人性が重んじられる仕事は、芸
術などを筆頭としてその作者の精神を束縛することは極端に嫌う。芸術家が時として反社会的ですらあるのは、寧ろ自然
の成行きなのである。宗教とかイデオロギーとかの圧迫が芸術的生命の息吹きを萎縮させてきた歴史は何としても否定で
きない。このように精神の束縛は個性の伸長をさまたげるものである。古代の奴隷社会では、奴隷は一個の物質でしかな
ったと考えられる。古代ローマの奴隷は名が無かったと伝えられる。﹁倭人伝﹂によれば邪馬台国では奴隷を中国へ輸出
一32一
している。奴隷に対して生殺与奪の権を握っていた自由民、その自由民も時の支配者から見れば、服従を宗とする存在に
外ならない。もし反抗がある−とすれば、それは力による抵抗以外にはあり得なかった。論理による抵抗は神の意志の前に
は存在し得ない。何故なら支配者としての王は神の意志の具現者であり、神意め具現者としての王の存在は論理以前のも
のだからである。しかし、民衆に対して絶対者として臨んだ王も、王自身が受肉神として資格づけられていたにせよ、や
はり見えざる神との接触は絶えず続けなければならなかった。それは日本神話における最高至尊の支配者であり神であっ
た天照大神さえ、やはり祭祀にたずさわらなければならなかったのである。この点で王もやはり神の支配下にあったとい
わなければならない。
神の意志の具現者であり、受肉神たる王もその初めにあっては神意の代行老としての存在であったに違いない。神意の
代行をよく為し得る者は、神の意志をよく聞き得る者である。従って、初めは神意を受ける能力に恵まれた女性が神の代
理者であり、神意の代行者が王だったのである。﹁倭人伝﹂によれば、邪馬台の女王卑弥呼について、
名づけて卑弥呼と日う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫靖無く、男弟あり、佐けて国を治む。
と述べており、卑弥呼が神の奉祭者であり男弟が神意の代行者であることは明らかである。また、﹁日本書紀﹂仲哀紀に
よれば、仲哀天皇の后、神功皇后に神が愚依して託宣を下すが天皇はその真偽を疑い、その言を用いなかったため神罰を
受けて崩御される記事がある。このような皇后の巫女的性格も後世では淡くなって、天皇の受肉神的性格が次第に醸成さ
れてゆくのだと考えられる。しかし一方では、呪術王的な性格も残っていて国民の災害を自身で引き受けようとする説話
も残されている。仁徳天皇が人民の困窮を知って三年間課役を免じ、天皇自身もそのために窮乏生活を送ったという記紀
の説話や、中国では唐の太宗は蛙虫の害を憂いて、災を己れの身体に移そ51として蛙を呑み込んだという説話などはそれ
である。しかしフレイザーのいうように、人民の災害を防ぎ得ない場合は、恰も﹁倭人伝﹂の持衰の如く人民によって王
一33
も殺されるのが本来の運命であった筈である。
このように、下は奴隷から上は王に至るまで、総てが絶対者を首に戴いた社会では、総ての人間に自由は許されない。
支配者からみれば支配される者の総てが同じ個性であり、支配老の意志が被支配者の個性を形成する。つまり支配される
人々は支配者と同じ個性が要求されるわけである。そうした社会では個性は無いということに等しい。また、このような
社会の成員の数は如何に多くとも、多にして一という関係しか成り立たない。個人は個人としての尊厳も与えられずハも
はや社会の成員としての存在でもなく、社会集団は単なる数の集合にしか過ぎない。そして各人の存在意義が若し有ると
するなら、それは労働力の提供者としてのみである。そこに人間本来の自我もあり得ず、したがって個人性︵個性︶をも
一34一
見出すことはできないであろう。
︹註1︺ 特に伝説といった言葉の裏には、昔話とは違うという意味をもたせてある。柳田国男氏に従え繧、伝説も昔話も話柄は類似し
あると考えたいのである。
考えられる。この個人性の欠如こそ、未開時代から古代へかけて人間の精神生活の反映として、これが古代文学の特質で
れらは個人性の欠如、あるいは個人的生活意識の稀薄という昇華された形において、後々まで人間の世界に残っていたと
・無生物の一切が混迷の中にあることを思わせ、人間の自覚も自我も、進歩の意識もあり得る筈がなかった。そして、そ
生きる人間の生命の軽視などの現象を生んだ。これら肯ないがたい世界観やその裏付けの上に成り立つ習俗などは、生物
前述したように、アニミズム的信仰と呪的世界は、また生と死との無差別観、人間と動植物との同格視、そして社会に
○
ていても、伝説の方はそれが過去に実在したと信じられているのである。
︹註3︺ ニオラッツェ﹁シベリア諸民族のシャーマン教﹂︵牧野弘一訳︶
︹註2︺ マリノウスキー﹁神話と社会﹂︵国分敬治訳︶第二章創成の神話。
[註4︺ 折ほ信夫全集﹁恋及び恋歌﹂﹁相聞歌概説﹂参照。﹁
︹註6︺ カッシラー﹁象徴形式の哲学﹂︿神話﹀︵矢田部達郎訳︶
︹註5︺ レヴィ・ブリュール﹁未開社会の思惟﹂︵山田吉彦訳︶第八章。
︹註7︺ 松の霊力に関しては﹁日本文学論放﹂中の拙稿﹁和歌史.の課題﹂︵二七四ー二七六︶を参照。
︹註8︺ 柳田国男﹁物語と語り物﹂︵角川書店刊︶所収。
︹註9︺ パートソ訳﹁千一夜物語﹂七七八夜−八三一夜。﹁バッソラーのハッサンの話﹂参照。昭和五年刊.中央公論版6巻所収。
︹註10︺ ニオラッツェ﹁シベリア諸民族のシャーマソ教﹂による。
三、古代的表現の性格
古代的表現について考察するに際して、これを内容面と形式面とに分けてみるということも、便宜的ではあるが一つの
方法だと思う。内容面といったのは、これまでに述べできた個人性没却の面であるし、,形式面というのは修辞法の面であ
る。そこで以下を形式面から述べてゆこうと思うが、修辞法の全般に亘って考察することは不可能のように思うし、今は
それだけの余裕もないので一・二の大きな問題とみられるものに限って述べてみた−い。古代修辞法で目立っ特色の一つは
対句・畳句の使用である。これは散文にも律つにも現在残っているよりも、もっと多く使用せられたものだと思われる。
まきむく ひ しろ
対句にしても畳句にしても文要するに反復句の変化であり、一種であると考えられる。
纒向の 日代の宮は
朝日の 日照る宮 夕日の .日がける宮
一35一
や ほ に きつ ひ
竹の根の 根垂る宮 木の根の 根延ふ宮
にひなへや ももぬふ
八百土よし い築きの宮 真木さく 楢の御門
新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は
ほっえ お しづえ
鄙を覆へり
葛城の 一言主の大神ぞ。
上枝は 天を覆へり中つ枝は東を覆へり 下枝は
この天語歌などは代表的なものである。
まがこと ひとニと よ ことさか
吾は 悪事も一言、善事も一言、言離の神、
︿以下略﹀
︵古事記歌謡・
一〇一・古事記大成本︶
− ︵古事記・雄略天皇︶
これなどもそうした反復句の例であって、前掲のものと同じ傾向の修辞であり、一つの本体を多くの名称で呼んでいる例
である。物の名が本質そのものであると信ぜられた前論理的思考形式を基底においた表現であって、後世の所謂修飾的表
現ではない。後者に限っていえば、その一句一句が一言主神の本質を表わすものであって、しかもそれらの一部分が脱落
したなら、この神の職能もやはり欠けてしまうのであろう。単に律感の問題ではなくて、人や物の能力や本質的表現の必
要性がこうした表現法を発生せしめる要因の一つであったのではないかと推測させる。また言霊という語で古くからいわ
れているように、言語⑪もつ魔力は、未開時代にあっては呪文・呪詞を生んだ。呪文や呪詞は精霊や神を呪縛して物事を
成就せしめる力ではなくして、言葉それ自体の呪力が作用するのである。従って効力ある言葉は、必要に際しては何度で
うけ
も繰返して唱えられたと考えられる。﹁古事記﹂上巻の記事で、天照大御神と速須佐之男命は天安河を中にして、互に誓
いをして子を生む条がある。
とつか わた きだ ぬなとももゆらに すす
先づ建速須佐之男命の侃ける十挙の剣を乞ひ渡して、三段に打ち折りて、奴那登母々由良爾、天の真名井に振り瀞ぎ
一36
さ が み に か み う い ぶぎ さ ぎり
みみづら やさか まがたま いほつ みすまる
て、佐賀美麺迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は⋮⋮⋮⋮
天照大御神の左の御美豆良に纒かせる八尺の勾聰の五百津の美須麻流の珠を乞ひ渡して、奴那登母々由良爾、天の真
名井に振り源ぎて、佐賀美麺迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は⋮⋮⋮⋮, ︵古事記大成本︶
同様な表現がこの後四回繰り返えされる。恐らく極めて古く、そして重要な伝承であるがため、一語も疎そかにできなか
ったからであろう。その他、あるいは
ぎぬ
なみふるひ れ なみぎる かぜふる かぜきる おぎつかかみ へ つ
菅畳八重、皮畳八重、緬畳八重を波の上に敷きて . ︵占事記・中巻︶
振浪比礼、切浪比礼、振風比礼、切風比礼、また奥津鏡、辺津鏡、併せて八種なり。 ︵同右︶
などという表現では、必ずしもこれらの種類の品々を正確に叙述しようという意図よりも、反復形式のもつ神秘性を重要
お あまな から あをみ はた し さ もの おぎ も は へ み
視しているのであろう。
そ にぎ たたへことを
大野に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海の原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥つ藻菜・辺つ藻菜に至るまでに、御
服は明るたへ・照るたへ・和たへ・荒たへに称辞寛へまつらむ。 ︵祈年祭祝詞・日本古典文学大系︶
このように対旬畳句という反復表現の豊富な使用は、神に対する告文であればこそ、厳粛な熱願の形式であると考えられ
る。しかし神に対する厳粛な態度から、こうした形式が考案され生まれてきたと考えるべきではなく、極めで古い時代か
ら受け継がれてきた表現法の中に、神を納得させる神秘さがあると信じたからに他ならない。万葉集における人麿の長歌
が反復表現を多く利用しているのは、作品に荘重な重厚さを与える意図より出たことは容易に想像されるが、それはまた
神秘感にも通じるものである。人麿の長歌の中でも殊に、日並みし皇子・明日香の皇女・高市の皇子らの麗去に当って作
られたものにそれが著るしい。神秘感に通じる荘重さが文芸における美の基準となっている点で、入麿の古代歌人的特質
があるといえよう。
一37一
また本来の機能として反復表現の一種から発達したと考えられるものは枕詞である。枕詞は、元来はそれを承ける詞
︵私はこれを承詞と名づけることにする︶の属性表現から発達したものであろう。
講ゑ鄙︶聾窄留︶草枕︵旅︶腰細の︵すがる審︶ささがにの︵蜘蛛︶飛郷の︵筑紫︶久方の︵天︶冬こ
すずか
もり︵春︶ み薦苅る︵信濃︶
などの例を拾ってみても、承詞の属性表現としての枕詞が発生し、それが後には同音の他語へもかXるようになっていっ
たものであろう。これらの例は一・二を除き、承詞が一語に限定されている例であって、枕詞自体の意味も明瞭であるも
のの中から列挙したのである。﹁石上︵布留︶﹂などの場合は、枕詞と承詞とが近接している地名であるところから成立し
たものであって、やはり一種の属性表現と考えられる。枕詞の本質が、それを承ける承詞の属性表現であったろうという
ことは、枕詞の添加によって承詞となるべきものを二度繰返えしたことx同じであり、前掲の一言主神の神名表示の様式
と同様な古代的表現様式であって、やはり名をもって実体の一部と考えた前論理的意識とその基盤を等しくするものであ
る。人麿の長歌に枕詞が極めて豊富に使用されているのは、対句・畳句が多く用いられている意味と同様なのである。
序詞︵序歌︶と主想との関連についていえば、古代的発想にあっては、序詞は主題に対してやはり導入部的な意義をも
あらき
っていたらしい。これも人麿の長歌をとりあげて考えれば、﹁日並みし皇子の尊の殖の宮の時の歌﹂では、三十七句にわ
たる序歌が導入部の働きを為しており、同じく﹁石見の国より妻に別れて上り来し時の歌﹂ ︵二一二︶では、二十二句の
導入部をもっている。だが人麿の場合は、導入部たる序歌から主想への展開は比較的無理なく行われているが、古歌の中
には序歌と主想との内容的差異が甚だしいものがある。
﹃射ゆ蹴をっなぐ川辺の﹄若草の若くありきとあが思はなくに ︵日本書紀.一一七︶
暴短のさつ矢季擁み立ち向ひ射る﹄騰蹴覧るにさやけし ︵万葦・六一︶
一38一
これなどは交芸としての完成を目措しているというより知主想を直接導き出す語に関して特定のいx方が大切に考えられ
た結果なのであろう。これも後世になって文芸としての完成を重要視するようになって来ると、次の歌のように序歌と主
想との転移が目立ないものもできてくる。
﹃むすぶ手のしずくに濁る山の井の﹄あかでも人に別れぬるかな ︵古今集・離別・貫之︶
この歌の詞書には﹁志賀の山越にて、いし井のもとにて物いひける人の別れける折によめる﹂とあることから、序歌の内
容を主想であるかのように錯覚を起こしやすい。
結論に代えて 日本文学における古代的なものが、未開時代の面影を残存させていることをもって、真に古代的な意味
を認めようとする論旨から、﹁個人性の没却﹂という一般原理的なものを帰納してきたわけであるが、これを現実に古代
文学といわれるものに当てはめて考えてみると、例えば﹁万葉集﹂における高市黒人や柿本人麿などの作には華麗荘重な
古代的修辞の壁によっても覆い得ない個人性の没却を感じる。それに対して大伴旅人・山上憶良・山辺赤人などでは、古
代的修辞様式もかなり崩れているし、旅人・憶良などには殊に強くにじみ出ている強い個性や、社会の成員としての人間相
︹註︺
互を結ぶ靱帯意識があって、何としても黒人・人麿と、旅人・憶良との間には一線を設けなくてはならないと思われる。
この現実に対して反証めいて感じるのは、額田王作と伝えられる諸作が特有の新味ある感覚をもっているという事実で
ある。しかしこれは個人性の没却ということxは異なった問題である。女性は支配者としての地位にあっても、常に現実
社会の操作には当らなかった。神に奉仕して託宣を聞き現実社会に伝える任務はあっても、現実社会の支配者ではなかっ
た。そして一般女性の場合も農作のための定住生活から受ける社会的摩擦は少い。女性の歌も主として自己および自己の
周辺を題材とするのが普通であった。、額田王の﹁春秋の優劣を判じた歌﹂や﹁近江に下った際の歌﹂にしても、そこに表
われているものは女性としての単なる拝情だけであって、対人間的なものや対社会的要素というものは見られない。純粋
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な感情は本能に近いものであるから時代を超越していると考えて差支えないと思われる。
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また、﹁古事記﹂﹁日本書紀﹂﹁万葉集﹂﹁風土記﹂といった主たる古代文学作品群をみてゆくとき、総括的にみて、内容
上にも形式上にも古代性を感じさせるのは、やはり﹁古事記﹂である。伝承上どれほど改修を経ているにせよ、未開時代
の心性や表現の形骸が一番多く残されているのは、今更いうまでもないことながら、﹁古事記﹂である。﹁風土記﹂の場合
は固有の地方的伝承を新しい教養人が綴り合せた面目を有しており、﹁日本書紀﹂の場合は表現の改修が何といっても多
い。そして未開時代の心性からかけ離れた説話の要素が目立ってくる。これは先進国であった中国の影響以外には考えら
れない。丁度、旅人や憶良の文学が中国的教養の力によって、白本に当時まだ残存していた筈の未開心性を振り捨てたの
拙稿﹁万葉から古今へ﹂参照。明治大学経営学部紀要・人文科学研究第三輯所収。
と同じような意味があるのであろう。
︹註︺
︿あとがき・右は昭和三十四年度・人文科学研究所研究助成金による研究の一部であることを付記する。﹀
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