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イソタケルノミコト神話学習資料
イソタケルノミコト神話学習資料 五十猿歴史研究会 スサノオ ⑧薬師山 ②神一. ⑦神別れ坂 饗 ⑨逢浜 房 ili雲鬘 薑i曇薑薑 罰 ③神 蕊 ④森(茂梨) -5韓 巨壷。 葛-.4FY閃‘ -、へ管 。 、鍔Z 鍵 蕊 miiiiilliil1Iiii薑! 世強 篝 鰯 謬藍 鰯 、 護% 鞭 ! 熱 1, ⑥韓郷山 霧 鍵 義潔 DmOfC ill 五十猛町ふるさとの神話 五十猛命(イソタケルノミコト)伝説考 はじめに 島根県大田市には『素斐鳴尊(須佐之男命=古事記の表記加騨鑑iiiif』に すさのおのみこと まつわる伝説があり、五十猛町を中心に伝承されてきたが、ご多分Iこもれずこ の地域も過疎による人ロの減少、高齢化が進み、神話を語ることができる古老 も数が少なくなっている。 このため、次の世代への伝承が途絶える事態になりかねないので、このたび 五十猛命にかかわる伝説をとりまとめ、地域の人々や子供たちに語り継ぎ、郷 土の町に対する誇りを醸成したいと思う。 五十猛命のかかわる記述は、後で述べることとして神話成立の経緯から記載 した。 『古事記』の成立 わどう 「日本神話」と一般に呼ばれているものは、712年(ギロ銅5年)にできた ようろう 『古事記』と720年(養老4年)|こ完成した『日本書紀』とに書かれている 神話をさしている。 この「古事記」と「日本書紀」は日本でもっとも古い歴史書であり、いわゆ きき る「記紀」と呼ばれるものである。 この2つの編集がはじまったのは、それより半世紀ほどまえ、672年にお じんしんらん こった壬申の舌Lといわれる内乱のすこし後のことであった。 てんじみことのり この乱で勝禾Iを勝ち取った天武天皇は、次のような詔をくだした。 ていざばん胆 「聞くところによると、家々に伝えている帝紀(皇室系図)と本辞(古し、物語) とは、すでにいろいろの誤りが生じて、本来の姿が失われている。今のうちに、 その誤りを改めておかないと幾年かするうちに、ほんとうの精神が失われてし まうだろう。 1 これこそ国家を治める大本であり、人民を教化する基本であるから、ここに 帝紀を選び、旧辞(本辞のこと)を尋ねしらべ、偽りを削り、正しいものを定 めて、後の世に伝えたいと思う。」 そこで天皇は、稗田阿礼に命じて欝熟篁銅鰯(帝紀のこと)と先代旧辞とを ひえ芝のあれ 暗記させた。 げんめいじ上てb、 その後、20年~30年たって元明女帝の代に、阿ネしも年老いてきたので女 おおのあそんやすまるみことのりよむ 帝は太朝臣安万侶|こ詔して「稗田阿礼の諭むところの勅語の|日辞を選録し て献上せよ」と命じた。 そこで安万侶は得意の文筆をふるって『古事記」3巻を書き上げた。 以上は、安万侶の書いた『古事記』の序文に書かれていることである。 (阿礼の口述を安万侶が筆記したものである) 『日本書紀』の編纂 天武天皇の業績はこのように、自分の手で「帝紀」と「旧辞」の正しい定本 がわLまのおうじ をつくろうとしただけでなく、681年|こは」11島皇子を始めとする11人の皇 じようこし上じ 族・貴族|こ命じ「帝紀」と「上古諸事」(1日辞のこと)を記し定めることとした。 はじめは「帝紀」「旧辞」を中心とするものであったが、のちのちの朝廷にひ じとう きつがれているうちに、だんだん規模が大きくなり持統女帝の代|こ18の氏族 か色 }こ命じてそれぞれ家記をさしださせた。 えんざ また、政府の公の記録とか、寺院の縁起とか、個人の日記とか、Iまては中国・ 朝鮮の史書まで広く集めて編纂が進められている。 とねりしんのう こうして、720年(養老4年)、時の史局の総裁であった舎人親王は『古割IF 記」よりはるかに分厚い、30巻におよぶ歴史書を朝廷にさしだした。 これが、『日本書紀』であった。 2 「帝紀」と「旧辞」 古事記と日本書紀とは、このような経過でそれぞれできあがったので、いき おい、この2つの本は、大きさも、扱っている時代の範囲も、資料の種類も、 体裁も、非常に違っている。 しかし、ここで問題となるのは、古事記と日本書紀が、その編纂の最初に資 料とした「帝紀」「旧辞」という2つの本のことである。 「帝紀」は皇室の系図、「1日辞」は昔物語を書いた本で、天武朝のころには、 すでに幾つかの写本が出来ていたことは、まえにあげた古事記の序文でもわか るのだが、それでは、この2つの本は、具体的にどのようなもので、いつごろ できたものであろうか。 「帝紀」も「旧辞」も残念ながら今日には残っていない。 多くの民族の神話もそうであるように、『古事記』『日本書紀』の日本神話も また、天地創造から説きおこしてある。 1.神話の始まり イソタケルが登場するのは日本書紀である。 日本書紀には本書の他に「一書に日はく」という異伝の文章が多数あり、多 くの言い伝えが列記されているが、その内容は概ね下記のとおりである。 【日本書紀(神代)】 昔、天地は混沌としていたが、やがてそこから神々が生まれ、その最後にイ ザナギノミコトとイザナミノミートの兄妹が生まれた。この竺准の神は最初の 鴫を造った後、結婚して知(洲菌(日本列島)を生んだ。 また、ili)i1章朱の神々を生み、甘稗である芙獺笑瀞、荷。瀞、であるツクユミ ノミコト、そして末弟のスサノオノミコトの竺貴子を生んだ。(一書においては、 )聯であるカグツチを生んだことでイザナミノミコトが亡くなり、夫のイザナ キノミコトが賛巣薗を訪れたり、その後に鐵を行って三貴子を産んだという展 開が語られている。) イザナキノミコトは三貴子にそれぞれ治めるべき領域を委任したが、スサノ オノミコトだけは従わず、綴國(地下の世界)に追放された。 ところが、最後に姉に会おうと高天原(天上の世界)に昇ったところ、天照 大神は弟が国を奪いに来たのだと思い、潔白を証明するために誓約を立てて争 った。 その結果、スサノオノミコトは高天の原で乱暴狼籍を働き、天照大御神は恐 れて葵>古橋(天にある洞窟)に隠れた。 世界が暗闇となって神々は困り果てたが、協力して天照大御神を連れ戻し、 ついにスサノオノミコトを追放した。 3 Ⅱ.五十猛命伝承 五十猛命が初めて書面に登場するのは、古事記で大屋毘古と記されているが、 具体的な事がらになると、日本書紀の記述によるもので、下記のとおりである。 あるふみ 日本書紀神代上第八段一書第四}こは しわざめずきなかれもろもろがみたらおばらくらおき あるふみのだま 『一書に日はく、素斐I烏尊の所行無状し。故、諾の神、科するに千座置 と み二いだけるのかみひ色 ついやら 戸を以てし、遂に逐う。是の時に、素美I烏尊,其の子、五十猛神を帥ゐて、新 そしもりところまずなわ二とあげ あまく超 羅国}こ降到りまして、曾戸茂梨の処に居します。乃ち興言して日はく、「此の & はに ほり 地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟・に作りて、乗りて東 あろ たけ 婚らち そ二 |こ渡りて、出雲国の簸の)||上に所在、鳥上の峯に至る。時に彼処に人を呑む大蛇 あまのははきりのつるざそ あり。素斐0烏尊、乃ち天蝿研之劒を以て、彼の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇の すなわさみそなはあや かけ 尾を斬りて刃畉けい。即ち壁きて視せぱ、尾の中|こ-の仲しき劒有り。素斐 いっよ 鳴尊日はく、「比は以て吾が私に用ゐるべからず」とのたまひて、乃ち五世の みまあまのふ色ねかみまだあめたてまつりあいわゆるくさなつるざ 孫天之葺根神を遣して、天(こ上奉く゛・此今、所謂草薙劒なり。初め五十猛神、 あまくださば§だねもしがから<にうことごとく 天下ります時に多|こ木種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持 十ぺておおやし章<に まきおほせいざんな ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲の国の内Iこ、播殖して青山に成さず なこのゆえになず》、さおし といふこと莫し。所以|こ、五十猛命を称|ナて、有功の神とす。 まし旗 且りち紀伊国|こ所坐す大神是なり。 【概要】 スサノオの行状は乱暴を極めた。そこで神々は罰として千座置戸を科して、 高天原から追放した。(千座置戸については、罪を購わせる賠償の品とする説と 4 はらい 神聖tjミ台で行われた祓とする説がある。) そこで、スサノオは、子のイソタケルを率いて新羅国に降り、ソシモリとい う場所にいた。 それから「私はこの地にいたくない」と言って、埴土で舟を作り、その舟に 乗って東に航海して出雲国の簸の川上にある鳥上峯に到着した。 そこには、人を呑む大蛇がいた。スサノオはアマノハハギリノツルギ(蛇を 切った剣の意)で大蛇を斬り伏せた。ところがその蛇の尾の部分を伐った時に 刃こぼれがしたので、尾を割いてみると尾の中に一振りの霊剣があった。 スサノオは「これは私物にしてはいけない」と言って、五世の孫であるアマ ノフキネを遣わして、天に献上した。これが今のクサナギノツルギである。 最初に、イソタケルが天から降って来た時、多くの木の種子を持って降って 来た。しかし、韓の地には殖えないで、全部、持ち帰った。 そして、筑紫から始めて大人島国全体に播いて国全体を青山に変えた。 いさおし 故|こ、イソタケノレを『有功の神(功績があった神)」という。 即ち、紀伊国に鎮座する大神である。 日本書紀神代上第八段一書第五 から<{ここがれしろ」Wユたとひ 一書に曰く、素斐1烏尊の曰く、「韓郷の島には、是金銀有り。若使吾が児 しら十 うぐたから上Uしげ の所御す国}こ、浮宝有らず|ま、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚鷺を抜き ひのき て散つ゜即ち杉|こなる。又、胸の毛を抜き散つ゜是、槍|こ成る。 かくれ 尻の毛は、 まきくす十で 是、披に成る。眉の毛は機樟に成る。巳|こして其の用ゐるべきものを定む゜乃 二とあげくすふたつうぐだから ち称して曰く、「杉及び樵樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。 みつのみやつくき がや 瀞 |土以 うつしきめおひとくさおくつすたへし今そなへ て瑞宮を為る材にすべし。被は以て顕見蒼生の奥津廃戸に将ち臥さむ具Iこ すべし。 そくら やそ二港ねみ準よ猿どニしう み二 夫の噸ふべき八十木種、皆能<播し生う」とのたまう。時に、素斐I烏尊の子を、 鞍づいそだけるみ二とまう1、ろもお猿やつひめみ二とすべみばしら 号けて五十猛命と日す。妹大屋津姫命。次Iこ抓津姫命。凡て此の三柱の神、 5 またよさだね重きぼど二しかラくま傘りたけ 亦能<木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。全して後に、素斐1烏尊、熊成峯 虫 ねの<Iこ に居しまして、遂に根国}こ入りましき。 【概要】 から<に スサノオは「韓郷の島には金銀が満ちてし、る。もし我が子が治める国からそ うぐたがら こへ渡ろうとするならば、浮宝(=舟)が無ければ渡る事は出来なし、」と言っ て、自身の髭を抜いて散らした。それが杉の木になった。 また、胸の毛を抜いて散らした。これは桧になった。 尻の毛は、まきになった。眉の毛は、くすになった。 ・杉とくすは、浮宝を造るのに使いなさい。 、桧は籍誓(めでたい宮)を造るのに使いなさい。 .まきは、人間を喪屋に安置する時の棺につかいなさい。 .さらに食料となる沢山の種類の木種を植えなさい。 この時、スサノオのもとにいた子をイソタケルという。その妹がオオヤツヒ メ、その次の妹がツマツヒメである。 この三柱の神が、樹木の粒子を播いた。 これらの神々を紀伊国に移した後で、スサノオは熊成峯(任那の熊川?、百 済の熊津?)に行き、最後に根の国に入った。 と記されている。 1,五十猛周辺における伝承と史跡 島根県大田市五十猛町には新羅国(現在の朝鮮半島)から帰られたスサノオ ノミコト(素斐鳴尊・・日本書紀に表記されている文字)が息子のイソタケル ノミコト(五十猛命)、娘のツマツヒメノミコト(抓津姫命)、オオヤツヒメノ ミコト(大屋津姫命)とともに木の種を携えて大浦海岸に上陸された伝説があ る。 日本書紀では、神々の上陸地点については何も触れていないが、この地に上 陸したという神話伝承は、現在に至るまで五十猛町の地元住民のアイデンティ ティのなかに強固に刷り込まれており、また神話の由縁を伝える地名も少なく ない。 それも、スサノオー行が船を繋ぎ止めて海岸の様子をうかがったという神 しんじようじま 島・上陸したとされる神上島・スサノオと三柱の兄妹神が別れたという神Bりれ <すしやま 坂・薬草を植え育てた薬師山.また兄妹神が下ロ歌山の地にそろって旅立つ時に 逢ったといわれる藍覆など、神話をほうふつさせる地名が海岸線に沿って点在 している。 からかみしらぎじんじゃ また、スサノオノミートを主祭神とする韓巾P新羅神社、イソタケノレノミコト を祀る五十猛神社、オオヤツヒメノミコトを祀る大屋姫命神社が隣の大屋町に けし、郡咄、せつしゃ からめ あり、ツマヅヒメノミートを祀る漢女神社が)11合町の物部神社(境外摂社)に ある。 (また、隣の宅野町にもスサノオー行が韓島に立ちよられ衣服を改めたあと、 五十猛の海岸へ上陸されたという伝説があり、スサノオを祀る韓島神社がある。) 五十猛町に上陸後、スサノオノは皇子たちと別れ、出雲の簸の川をのぼり、 人岐大蛇退治に話が展開していくが、イソタケルは五十猛にとどまって造林に 励まれ、ツマズヒメは川合町を中心の漢女(からめ)神社に鎮って伐材や製材 にあたられ、オオヤツヒメは大屋にて建築に努められたという。 また、二人の姫神は宅野で拷(たく・・こうぞの木が生えている野に由来す るといわれている。)の木から繊維を採取し、馬路の神畑で機織り物の道を開か れたとも伝えられる。 7 【地名考】 地名も三神が五十猛近辺にとどまり現地の人々との交流の中で、『三神が去っ た後、人々が五十猛命を偲んでイソタケと名付けたのではないか』と思われる。 五十猛村誌沿革によると ・・・古史ヲ按ズルニ、始メ五十猛村ト云ヒシガ、元明天皇和銅六年(71 3年)癸丑5月、風土記選定ノ際、鮴鑓(畿内・東海道・東山道・北陸 みずのとうし 道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)=命シ群郷ノジィZカニ好字ヲ用イニ字トサ ヘいとら みうし レヨリ、聖武天皇神亀三年(726年)丙寅磯竹二改メ、明治二二年巳丑再ピ 今ノ名二改ム。と記載されている。 【神社由来】 ○韓神新羅神社創立享保20年(1735年) 大田市五十猛町大浦 祭神スサノオノミート (石見風土記によれば神社は延長三年『925」創立で、いまの社殿は嘉永五 年『1852」当時の代官が郡費五十両をもって改築したという記録が残され ています。明治六年『1873』村社に昇格され、最近では昭和四十五年『1 970』本殿銅板屋根替え、昭和五十八年拝殿屋根替えがされています。・・・ ふるさと読本より) ○五十猛神社創立享保11年(1726年) 大田市五十猛町湊 祭神イソタケルノミコト (石見風土記によれば、五十猛神社は延長三年『925』創立で現在の社殿は 嘉永元年『1848』本殿再建、昭和55年『1980」拝殿が改築されまし た。・・・ふるさと読本より) ○大屋姫命神社創立明治7年(1875年) 大田市大屋町 祭神オオヤツヒメ ○漢女神社(物部神社の境外摂社) 大田市川合町 祭神ツマヅヒメ (島根県宗教連盟発行の大田市の神社一覧表より) 8 ○延喜式との関わり ニラにんさやくしざじようかんgやくしきえんぎきや<しき ・弘仁格式・貞観格式・延喜格式は平安Ⅱ寺代に編纂された三つの格式で三 代格式(きやくしき)といわれ律令の補助法令の総称である。 えんらよう 延喜式I±醍醐天皇の延喜五年(905年)から延長5年(927年)かけて 編纂された50巻の法典なのだが、このうち9巻と10巻が「神名式」で、い わゆる神名帳である。 『延喜式」に由来する言葉として、今なお用いられているおそらく唯一のも のが「式内社」で、この神名帳に記載されている神社のことである。 ・五十猛神社、韓神新羅神社、大屋神社、漢女神社はいずれも式内社ではない。 ただし、漢女神社を境外摂社とする物部神社は、式内社である。 2,五十猛命のその後 イソタケルノミコト・オオヤツヒメノミコト・ツマヅヒメノミコトの三神は 逢浜に集い、五十猛の地を離れ各地に造林の技術を教えつつ、大人島国を緑に 変え和歌山に移り住み、イソタケルノミコトは大神となった。 ●イソタケルを祀る神社は全国に約250社あるとされている。 『延喜式』における神名帳の「紀伊国」の名草郡には、いわゆる「式内社」 として出雲神話に登場するイソタケルのミコト・オオヤツヒメノミート・ツマ レ、たきそじんじゃ ズヒメノミコトを祭神とする伊太祈曾ネド社・大屋都比売・都麻都比売の神社が ある。(伊太祈曾神社の由緒にはイタケルと称されている。) 『続日本紀」によると、大宝2年(702)に勅命により、それまでイソタ ケル・オオヤツヒメ・ツマズヒメの三神を1社でまとめて祀っていたが、3か所 に分祀することになり、それが実際に行われてイソタケルノミコトを祀る伊太 祈曾神社が現在地に遷座したのは和銅六年(713)である。 「伊太祈曾神社由緒略記」による。 ●イソタケルノミコトを主祭神とする代表的な島根県内の神社 ・来待神社:松江市宍道町 ・立虫神社:簸川郡斐川町 ・伊賀武神社:仁多郡奥出雲町仁多 ・伊賀多氣神社:仁多郡奥出雲町横田 など、13社 9 m・次の世代へ 『古事記』『日本書紀』とも、時の権力者が自分たちの都合のよし、を書き連ね、 反対に都合の悪いことは書かなかったという側面があり、正確な歴史とはなら ないことは古今東西に共通していることである。 このため、この二つの書物に書かれた経緯や意図を詳しく検証することは「歴 史書としての価値がない」、とする歴史家もいるそうだ。 しかし、だからと言ってすべてを無価値とするのではなく、書かれている文 の内容から歴史の背景を読み取り研究・検証することが必要ではないか。 古事記・日本書紀に記載されている内容から、私たちの祖先の考え方や習」償 が多く読み取れるのである。 我々は、古代の神話や物語を事実だと思っているわけではないが、地方に昔 から代々受け継がれてきた伝説や、習慣をこの貴重な古典の中から受け継ぎ、 後世に伝えていく責任があるのではないかと考えている。 古事記・日本書紀・出雲風土記には膨大な出雲神話が記救されており、その 後の研究でも出雲王国の存在がほぼ定説になりつつあるが、西の石見には、そ れに比肩する神話と歴史はほとんど無いに等しいのである。 そのなかで大田市は石見の国の東に位置し、出雲と境界を接しており「三瓶 山は国引き神話の綱を繋ぎ止めた杭でこれが山になった。」と伝えられるなど、 出雲国との関わりは深かったと思われる。 新羅の国から帰ったスサノオが、その皇子イソタケルニミコトオオヤツヒ メニミコトツマツヒメノミコトを引き連れて五十猛海岸へ上陸したあと斐伊 川をさかのぼり、人々を苦しめていたヤマタノオロチを退治して櫛名田姫を要 り、のちに出雲国を統一する。 子孫のオオクニヌシが八十神たちの迫害にあいながらも、イソタケルの助け を受け出雲王国を建設する、という『神話が歴史に変わる節目の出発点が、五 十猛から始まった。』と考えるのは愉快な話ではないか。 10 【参照文献】 .「五十猛の名所・旧跡」 五十猛公民館平成20年10月発行 。「ふるさと読本」 西部ブロック推進協議会 .「大田市制30周年記念誌」1983年発行 ・井上光貞著「日本の歴史」中央公論社昭和40年2月4日初版発行 ・高橋統一他5名「神話・天領・近代化」-山陰・東石見の漁村と山村一 東洋大学アジア・アフリカ文化研究所「研究年報」第30号(1996年 3月発行) ・梅原猛箸「葬られた王朝」-古代出雲の謎を解く新潮社 平成22年4月25日初版発行 ・古典=ミックス「古事記」 主婦と生活社 『監修樋口清之』『解説小松和彦」 ・松前健著「日本の神々」中公新書 1974年9月25日初版 ・島根古代センター「いにしえの島根」 ・スサノオ・イソタケル神話学習講座資料 島根県立古代出雲歴史博物館専門学芸員森田喜久男 ・その他インターネット「日本神話の御殿」等より参照 11 身摂系大岡命五十種す 韓神新羅神社 御祭神 (通称) 大浦神社(明神さん) (交通) 大浦地区の港の上 (鎮座地) 大田市五十猛町大浦2719 (旧地名) 邇摩郡五十猛村大浦2719 (主祭神) 素霊鳴命 (配祀神) 大屋津姫命、抓津姫命 (神紋) 亀甲剣花菱 (本殿) 明神造問ロー間奥行一間 (拝殿) 明神造間口四間奥行六間 (境内地) 三三一坪 御由緒 勧請年歴は不詳ですが、父神素蓋鳴命と共に五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の御子 三柱の神は、新羅に行かれたが新羅の国の土地、風俗が合わず舟に乗って日本に帰られ、 この大浦の地にお渡りになられたと云われています。 先ずこの四神が上陸された所がこの大浦沖にある「神島」、又それぞれの神が別れられ た所を「神別れ坂」、又何時かここで逢おうと話し合われた所が「逢浜」で、又薬草を栽 培された所が「薬師山」、唐松を植林された山を「唐松が曽根」と名付けられ今も地名と してこの五十猛の地には残っています。 石見の国と朝鮮半島とは目と鼻の先で、朝鮮半島は六六○年新羅の国が半島を統一す るまでは高句麗、百済、伽耶の各国の内乱の絶えない所でした。今でもハングル文字の ついた物が流れ寄る所ですからその内乱の影響を石見の人達は時々受けたことでしょう。 五十猛命は沢山の樹の種を持ち各地に植えられ、又抓津姫命は木を切る製材の仕事を、 又大屋津姫命は家を建てることを教えられました。 又今もこの大浦には正月行事の伝統行事として「グロ」があります。 韓神新羅神社の下に三地区があり正月の伝統行事として「グロ」と呼ぶ仮屋を立てそ の周りを松や竹やむしろを材料にした小屋の中でお祭りをし、15日には解体し、トン ド焼きをするものです。これは大浦地区の文化と云えましょう。 国指定重要無形民俗文イ 丘十種の ■文化財の所在地大田市五十猛町大浦(いそたけちようおおうら) ■保護団体大浦グロ保存会 ■公開期日毎年1月11日~15日 ■文化財の概要 ①文化財の特色 ア)年頭にグロと呼ばれる仮屋を設けて歳徳神(としと<じん)を迎え、一年の豊漁などを 祈願する行事である。 イ)グロは20メートルほどの竹の柱を中心とする大型で独特の仮屋である。 ②文化財の説明 この行事は、島根県大田市五+猛町大浦に伝承されている小正月の行事で、竹を主な材料 としてグロと呼ばれる直径10メートルほどの円錐形の仮屋を浜辺に作り、歳徳神を迎えて 一年の豊漁や無病息災を祈願する。 行事の期間は、地区の人々が仮屋に集まり、屋内に設けられた囲炉裏を囲んで餅などを焼 いて食べながら深夜まで歓談して過ごす。仮屋は15日の早朝に解体され、各家が持ち寄っ た正月飾りとともに焼かれる。 歳の初めに仮屋を設けて神を迎え、生業の子祝や火焚きを行なう行事は、日本の各地に地 域的な特色をもって伝承されているが、この行事は西日本地域の中で特色ある小正月の行事 として注目され、また、グロと呼ばれる仮屋の形態も独特で地域的特色も豊かであり、我が 国の年中行事や民間信仰の変遷を考える上で重要である。 ■文化財指定 1995年(平成7年)11月20日大田市指定無形民俗文化財に指定 2005年(平成17年)2月21日国の重要無形民俗文化財に指定