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神様は、少々私に手厳しい!

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神様は、少々私に手厳しい!
神様は、少々私に手厳しい!
守野 伊音
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
神様は、少々私に手厳しい!
︻Nコード︼
N6752CD
︻作者名︼
守野 伊音
︻あらすじ︼
須山一樹は、ちょっと名前が男の子っぽいだけで花も恥らう普通
の女子大学生だ。そう、普通だ。少々、十か月前に異世界に行って
いただけだ。そんな一樹は、何の因果か再びその地を踏むことにな
る。
しかもそこは、嘗て来た国と敵対国で、更に十年経っていた!
プライムノベルスより書籍化しました。
1
※60話前後から、異世界語、過去、日本語のかぎカッコが入れ替
わってしまっています。ミスです、申し訳ありません。最終章の入
れ替わりは仕様です。
2
1.神様、ちょっとそこにお直りあそばせ
もしもこの世に神様がいるのなら、私こと須山一樹はその存在に
問い質したい。
ああ、神様。どうしてあなたは私にこのような試練をお与えにな
るのでしょうか?
と、涙を浮かべて懇願するのではない。
不敬にも神様の胸倉を掴んで前後に激しく揺さぶりながら。
﹁あんた私になんか恨みでもあるの!?﹂
で、ある。
息子が欲しくて堪らなかった父。結果的に四姉妹の父親になって
しまった際、せめて名前だけでも! とはっちゃけた結果、白羽の
矢が立った末っ子の私に一樹という男っぽい名前をつけたのは、今
ではもういい。
子どもの時分は散々からかわれていじめられたけど、今流行のキ
3
ラキラネームじゃないだけよかったと思うから。
大学生の時分に、漫画やアニメや小説や映画や妄想の中だけのこ
とだと思っていた、異世界に飛ばされるという体験をしたのも、ま
あいい。
たくさんの人に出会えて、尚且つその出会いは自分にとって掛け
替えのないものだったから。
その国が戦争中だったのも致し方ない。
こっちの世界でだって戦争は無くなっていないから。
ちょうど落ちたのが国境を守る駐屯地だったのも、まあ許せる。
男臭くむさ苦しく男やもめじゃなくても蛆が湧いたりしてたけど、
おかげで掃除やらなんやらで存在意義ができたから。
その世界で私は恋をした。
一生に一度の恋だ。
そもそも、出会い頭に剣を突きつけて縛り上げてきた男に恋をす
ることなんて、一生に一度で充分である。
相手はまだ十五の少年だった。けれど戦乱の国で騎士となった彼
は、平穏な日本で育った当時十八だった︵現在十九︶私より余程大
人だった。否、大人にならなければいけなかったのだ。
濃紺の髪に、アクアマリンのように澄んだ水色の瞳のコントラス
トが綺麗だった。色も、顔も、声も綺麗だと思った。何よりその存
在が美しくて、眩しくて、悲しくて。
守りたいと思った。彼にこれ以上傷ついてほしくなくて、世界が
彼につらく当たるのも許せなくて、悲しくて愛おしくて堪らなくて。
私にできる事なら何でもしたくて、彼を守るためなら何でもできる
と思ったし、実際できた。
4
色々あった。その全てを彼と駆け抜けた。
そうして私達は恋をした。互いの存在を求め合い、焦がれ、遂に
は手を伸ばしたのだ。
あれはようやく戦争が終わった夜のこと。長く続いた戦争は、民
の悲痛な願いと上の方々の思惑や利益を織り交ぜて、停戦という形
で幕を閉じた。
恋人となっていた私達は、その夜初めて結ばれた。
訳ではない。
﹁なんでっ、なんでなんでなんで! よりにもよってお互いお風呂
入ってベッド入ってこれからイチャコラしましょうねっていう時に
日本に戻した!?﹂
目の前に神様がいれば、凄まじい形相で食って掛かっただろう。
﹁十八歳の女が十五歳の少年に手を出したら駄目ってことだったの
!? 未成年なんちゃら罪とか条例とかそれ系だったの!? ショ
タコンアウトとかそんな理由!? 三歳差もアウトだった!? え
!? うそ!? 駄目!?﹂
年上の女の余裕とか全然なくて、初めての私はただただ彼にドキ
ドキして。彼も年相応な顔で照れくさそうに笑って。私達は溶けあ
うようなキスをし、ようとしていたのに!
息苦しいほど濃密な空気が一気に霧散して、呆然と自分の部屋を
見つめた私の気持ちが分かる!? ねえ、分かる神様!
5
あれだけ帰りたかった自分の部屋に、あれほどがっかりした私の
気持ちが分かる!?
あちらの世界で過ごした一年が、日本ではわずか一か月しか経っ
ていなかった衝撃もどうでもよく、久方ぶりに使用する電化製品に
整備された上下水道に感動するでもなく、私はひたすら泣いた。
いや、別に彼と最後まで出来なかったからではない。いや、それ
もないといったら嘘になるけれど。
私はあの世界に弾かれたのだと気づいた喪失感に泣き喚いた。何
よりここには彼がいない。彼と共にいられるのなら、生まれ育った
この地に二度と帰れなくてもいいと本気で思った彼がいないのだ。
泣いて泣いて泣いて。起きても眠っても泣いて。
私の世界は終わったと絶望しながらまた泣いて。
それでも世界は巡るのだ。
ちょうど夏季休暇だった一か月間は私の不在を誰にも知らせず、
私もまた誰にも語らなかった。誰も信じてくれないと思ったのと、
もう二度とあの世界に行くことはないだろうと悟った瞬間から、私
だけで抱えていたかったのだ。重くてもつらくても押し潰されそう
でも、誰にも分けてあげない。
一生私が抱えていく。
楽しくて悲しくて。
優しくて寂しくて。
美しく醜悪で。
6
愛おしい記憶を、私はまだ思い出に出来ないでいる。
ざわざわと人ごみが流れていく。
うん、別段物珍しくもない喧噪ですね。なのに私の足は縫いつけ
られたように動かない。だって車がいない。道路だってアスファル
トじゃなくて、石畳やタイル貼り。行き交う人々の服はで何と言う
か日本育ちとしては既製品にはとてもじゃないが見えない感じで、
あ、馬が荷を引いていますね。
ひくりと口端が引き攣る。
たくさんの籠いっぱいに積まれた果物を売る恰幅のいい女性、締
めて血抜きをした鳥を吊るしている男、麻袋に入った荷物を馬車に
積み込む若人。
頭の中をぐるぐる回る彼らの会話を理解するのに、私の脳は一拍
の閑話を有した。
何を言っているのかは分かる。教えてもらったもの。
何を書いてるのかも分かる。覚えたもの。
それでも一拍はいる。だって必死に翻訳してるんだもの。
背の高い建物が少ない空は広い。視界を遮るものがないからだ。
どこまでだって見渡せる景色の向こうに、唯一ともいえる巨大な建
物が鎮座している。現代日本では夢の国くらいでしか見られない西
洋風の城だ。
ああ、分かった。否、分かっていた。
ここは日本じゃない。大学に行こうとテキストを詰め込んだ鞄を
肩に担いで玄関を開けたら、そこは異世界でした。
7
トンネルを抜けたら⋮⋮そこは⋮⋮⋮⋮。
行き止まりでした!! のほうがまだよかった気がする。
あれほど戻りたかったこの世界。懐かしい匂いと雰囲気。生まれ
育った日本では遠い昔に置いてきてしまったこの空気。ああ、懐か
しい。ああ、また来てしまった。ああ、帰ってきた。私は戻ってき
た、戻ってこれたのだ。
ひくり、ひくりと口端が引き攣る。
道路が裏路地に至るまで整備されていて、城が見えるのならここ
は十中八九城下街。大街道に軒を連ねる少々高級感溢れる店達は、
こぞって国旗を店先に掲げている。
私と彼が愛した﹃グラース国﹄の国旗は、深く明るい青地を囲う
ヒメサユリ、その中心に国鳥大鷹の姿。
現在私の視界の中で意気揚々とはためいているのは、深く明るい
﹃赤﹄地を囲うミスミソウ、その中心に国鳥大鷲の姿。
この国旗を掲げるのは、嘗て我らが愛したグラース国と長らく敵
対関係にあった宿命の隣国。
﹃ブルドゥス国﹄だ。
神様、ちょっとそこに直れ。
8
2.神様、ちょっと歯を食い縛りあそばせ
往来で呆然と突っ立っているだけでも人目を引くのに、この世界
では珍しく女がズボンを履くという恰好をしている私に視線が集中
し始めた。
まずいと慌てて裏路地に飛び込んで物陰でしゃがみこむ。
落ち着け私。落ち着け須山一樹!何がどうしてこうなったのかは
分からないが、とにもかくにも私はこの世界に戻ってきた。まずは
状況把握だ。彼はずっと言っていたではないか。どんな時でも状況
把握は怠るな。戦場でそれを蔑にすれば死に直結すると。
[落ち着け落ち着け落ち着け。まずここはあの異世界! アーユー
オーケー!?]
目の前を横切る黒猫に確認を取ったら、物凄く迷惑気な顔をされ
た。こんなことで心折れたりしない⋮⋮⋮⋮嘘、ちょっと傷ついた。
でも立ち直る。
[そんでもってここはあのブルドゥス! 嘗てあれほどにっくきブ
ルドゥース! を掲げたブルドゥス! そんでもって私はかつての
敵国に来ちゃった大馬鹿者! こ、ここにいたらグラースの皆が迎
えに来てくれるとかそんな王道展開くる!? きちゃう!? アー
ユーオーケー!?]
﹁のぉ﹂
猫にしてはやけにはっきり宣言してきた。ノーといえる猫ですか。
素晴らしいです。
再度しっかり状況把握をして、私はしっかり頭を抱えた。
[最悪だ⋮⋮⋮⋮]
最悪の理由は幾つかある。最も悪いのに幾つもあるのはおかしい
?おかしくない。全部合わせて最悪なのだ。
一つ目。前回は彼がずっと支えてくれた。荒くれの軍人達から私
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を守り、衣食住を整え、異世界に一人放り出された私を支えてくれ
た。なのに今回は誰もいない。当然何の補助もない。あの時は右往
左往している間に質素ながら一人部屋と、この世界の服が用意され、
食事の心配もなかった。その内、砦内の掃除に食事の手伝いなどが
仕事となっていたが、少なくとも衣食住の心配をしたのは、ここは
異世界!? と動揺したあの日だけだ。
二つ目。ここは嘗ての敵国だ。幾らあの日停戦したといっても、
双方思うところどころか悔恨はあちこちにあるだろう。だってこの
二国が戦争していた期間は十年や二十年どころの話じゃない。なん
と優に三百年だ。そんなところに嘗て敵国で暮らしていた私が、果
たしてうまくやっていけるのだろうか。
三つ目。実はこれがまずい。いや、他のどれもまずいのだが、こ
れが一番まずい。私こと須山一樹は、実は少々顔が割れている。グ
ラースにいた頃、色々あって、ブルドゥス側に捕えられたことがあ
った。最年少騎士として名を馳せていた彼の恋人として。あの時は
思いが通じ合ったばかりだったから、少々恋愛脳になっていた私は、
捕えられて牢に放り込まれたにも拘らず、﹃恋人だって恋人だって
きゃー!﹄とかちょっと思ってた。
うん、馬鹿だ。
まあ、いろいろ怖い思いとかもしたわけだけど、今は関係ないと
して。問題は、ブルドゥス軍の一部に私の顔が割れていることだ。
[そもそも、今はあれからどのくらい経ってるんだろう⋮⋮えーと、
こっちで過ごした一年が向こうで一か月で、あれから十か月経った
わけだから⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮]
恐ろしいことに気付き、ひやりと背筋を何かが滑り落ちていく。
最悪の理由が増えた。寧ろ、これこそが正に最悪だ。
[十、年⋮⋮⋮⋮?]
足元からすとんと力が抜け落ち、お尻から地面にへたり込む。震
える両手で顔を覆い、体育座りの態勢でゆっくりと俯いていく。
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[え︱︱⋮⋮⋮⋮]
嘘でしょう?
震えながら呟いた言葉に、黒猫は﹁のぉ﹂と鳴く。
ついでのように降り始めた強めの雨は、傘を持たない私をあっと
いう間に濡れ鼠にしていった。
神様は少々、私に手厳しすぎるんじゃなかろうか。
﹁ねえ、どうしたの?﹂
立ち上がる気力を失くした私に叩きつけられていた大粒の雨が遮
られる。緩慢な動作で顔を上げると、左右に三つ編みをぶら下げた
そばかすの女の子が赤い傘を差しだしていた。
﹁お腹痛いの?﹂
[違う、大丈夫⋮⋮]
﹁ん?﹂
女の子はきょとんと首を傾げる。その様子を見て、はっとなった。
﹁[えっと⋮⋮あの]問題ない、ぞよ? ありがとう﹂
今度は通じたようだ。駄目だ、しっかりしないと。ぼんやりした
頭はこちらの言葉に日本語で返してしまっていた。聞くことは何と
かなるが、完全ではないし、自分で喋るとなると発音以外もちょっ
と怪しい。
気を張れ、私。だってここには誰もいないのだから。
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発音やその他に拙さを残す私の言葉に、女の子は思い至ったと言
いたげに言葉を続けた。
﹁あなた大陸の人? どうしたの? 何か困ってるの?﹂
この辺りは言語が一緒だから、言葉が違うのは海を渡った向こう
くらいのものだ。この近辺であっちもこっちも言葉が違ったら、私
の頭はパンクしているだろう。だって、こっちの世界が十進法でよ
かったと心から安堵した私だ。二進法とかだったら計算自体を投げ
ていた自信がある。
﹁[あー、えっと]心当たりのある人物を訪ねるしたが、既に消息
を失った⋮⋮⋮⋮違うね? 消す⋮⋮消し去る⋮⋮殺す⋮⋮違う⋮
⋮⋮⋮いない! 既にいなかった!﹂
こういう時の定番のごまかしである﹃遠方から知人を訪ねてえん
やこら説﹄を使うのにこんなに手間取るとは。元々生まれ育った言
語じゃない上に、十か月離れていたのだ。受験シーズンならまだし
も、頭は既に勉強脳から切り替わってしまっている。しかもあの頃
でさえ怪しかった語彙が、更に錆びついたようにぎこちなくなって
いた。
尚且つ、言葉を教えてくれたのが軍人達だ。物騒な単語か堅苦し
い単語が咄嗟に出てくるのがまずい。
一年もこっちにいてこの程度の言語力かと突っ込まれれば、面目
ないと恥じ入るつもりだが、実際翻訳のための補助がほとんどない
場所で一から言葉を覚えるのは思ったより大変な作業なのだ。
お互い、何が正解で間違っているのかの摺り合せから始めなけれ
ばならないのだから。
相手が自分と同じものを指しているのか、その事実を擦り合わせ
る作業さえ、言葉が通じなければ難航してしまうものなのだ。そし
て彼らは軍人だった。しかも戦時中の国境沿い。
忙しかったのだ。
﹁ごめん⋮⋮理解できたか⋮⋮⋮⋮分かるした?﹂
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﹁あ、うん。知り合いを頼ってきたけど会えなかったんだね?﹂
﹁適宜! 違うな! 適切! 適当!﹂
﹁言い直さなくても分かるよ。ねえ、じゃあうちにくる?﹂
﹁ん!?﹂
さらりと差しのべられた救いの言葉に、一瞬聞き間違えか翻訳間
違いかと思った。女の子はこてんと首を傾ける。
﹁困ってるんでしょう?﹂
﹁え、うん⋮⋮﹂
﹁じゃあ、行こうよ?﹂
当たり前みたいに手を差し出されて、私は躊躇いながらもその手
を取った。私より年下の、あの頃の彼くらいの年齢だろうか。女の
子は自分が濡れるのも構わず私を立たせて、落ちたまま転がってい
る鞄も拾ってくれた。
﹁あ、ありがとう﹂
﹁こっち﹂
﹁はい﹂
最初の角を右に曲がり、手を引かれるままに歩き始める。
通気性のいい運動靴はあっという間に水を通して中を水浸しにした。
びしゃびしゃと音を上げて歩きながら、女の子をまじまじと観察す
る。
背中までの茶色の髪を左右に三つ編みで纏め、そばかすのある可
愛らしい女の子だ。年の頃はきっと十代前半。立ち居振る舞いは上
流貴族のそれとは違い、素朴で普通の動作だ。
また一つ角を曲がる。
﹁あの、誠に宜しいか? 私は何も貴殿に差し出す術を持たない﹂
﹁お姉さん、誰に言葉習ったの?﹂
﹁妙なのは自覚するしてる⋮⋮⋮⋮﹂
﹁妙って言うか、男の人に習ったんだろうなーっていうのは分かる﹂
﹁誠ぞー﹂
﹁そうねって言いたいの?﹂
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﹁そうぞ﹂
﹁ね﹂
﹁ね﹂
﹁そう﹂
﹁そうね﹂
如何せん、男ばかりに囲まれていたせいで語尾がほとんど男物し
かストックがない。発音も気をつけて女の子の言葉を辿れば、彼女
のような柔らかい響きが生まれた。そうか!これが女言葉か!
﹁言えたず!﹂
﹁言えたよ?﹂
﹁言えたぞ﹂
﹁よ﹂
﹁ぞ﹂
﹁よ﹂
﹁言えたぞ﹂
﹁ぞのほうが言いやすい?﹂
﹁恐縮であるよ﹂
女の子はとんっと私の額を突いた。
﹁言えたよ﹂
あ、この子可愛い。
初めて会った時からにこりともしないけれど、私、この子好きか
も。
﹁言えたぞよ!﹂
﹁ぞってそんなに言いやすいかな﹂
﹁耳イカ﹂
﹁耳にタコ?﹂
﹁タコ。耳慣れした響きだからで考えられる﹂
私の拙い言葉にイラついた様子も見せず付き合ってくれる。その
代り、笑顔もない。というより、淡々とした喋り方と無表情だ。
でも、動作一つ一つが可愛い。
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﹁あ、お姉さん。名前は?﹂
﹁一樹だ。一樹・須山と申すもの﹂
こっちは西洋圏と同じで苗字が後で、名前が先。それくらいは間
違えない。
﹁貴君の名は何と申す?﹂
﹁貴君は貴族に使うんだよ。それと、何て言うの?のほうが可愛い
と思う﹂
﹁了解ぞ。えーと⋮⋮てめぇの名は何て言うの?﹂
﹁てめぇが全部持ってったね。リリィだよ。みんなそう呼ぶ﹂
﹁ペリー﹂
何だか黒船で開国を要求してきそうな名前だね。可愛い。
うんうんと頷いていると、ペリーはこてんと首を倒した。
﹁リリィだよ?﹂
﹁ペリィ﹂
﹁リ﹂
﹁リ﹂
少女は細い指で自らを指し、繰り返す。
﹁リリィ﹂
ペリーじゃなかった。ごめんね!
リリィに連れられて路地を曲がり始めて既に15分程。それでも
てくてく歩いていると、いつの間にかそこはがらりと雰囲気が変わ
っていた。
城のお膝元だけあって、大街道は貴族が好む洗練された雰囲気を
漂わせ、田舎もの︵私を含む!︶が躊躇う感を醸し出していたが、
ここはもっと混沌としている。きらびやかな宝石や装飾品を広げる
強固な砦を思わせる店が軒を連ねたかと思えば、今にも崩れ落ちそ
うなあばら家やがらんと空洞を設けた空き店舗が続く。人々の格好
も、擦り切れた服を着ている者もいれば、明らかに一般人ではない
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者もいた。
化粧の濃い女が眠そうに雨宿りしている向こうでは、目深に帽子
をかぶった男が顔を寄せ合って何かを渡し合っている。うん、怪し
い。
普通なら遠慮願いたい道ではあったが、リリィは躊躇いなく歩を
進めていくので私もついていくしかない。
﹁しかし、リリィ、誠に平気か?﹂
﹁何が?﹂
﹁私が参るすると、ご家族怒髪天するしない?﹂
﹁どっちもするはいらないと思う﹂
﹁⋮⋮私が参ると、ご家族怒髪天す⋮⋮しない?﹂
どうにも語尾がいろいろ混ざる。これは前からそうだった。気を
つけないと。
聞きづらいだろう私の言葉に、リリィは嫌な顔一つせず、一つ一
つ訂正してくれるから有難い。前はみんな忙しくて、通じればいい
という感じになっていたから余計にだ。それは私も同じで、その結
果がこのお粗末な語彙力だ。今考えると、よく彼と思いを通じ合わ
せられたなぁ、私。
﹃貴君好み私︱︱!﹄
あれでよく告白と分かってくれたなぁ。うん、彼は凄い。大好き。
﹁家族は怒ったりしない。大丈夫だよ。うちには、カズキみたいな
人結構いるから﹂
﹁え? そうであるか?﹂
﹁そうなの、のほうが可愛いよ?﹂
﹁そ⋮⋮ぅうん!そうなの?﹂
擦れ違った男が吸っていた葉巻のいがらっぽい煙をもろに吸い込
んでしまった。歩きたばこはやめてほしい。
リリィはこくりと頷く。
﹁そうなの。ついた﹂
16
何の予備動作もなくぴたりと止まったリリィに比べて、私は急に
は止まれずたたらを踏んで傘から出てしまった。
辿りついたのはとても狭い建物だ。入口は一つで、その幅も一人
が通れたらやっとの隙間しかない。華やかな要素は欠片もなく、控
えめな明かりだけを灯したひっそりとした暗い入口がぽかりと口を
開けている。
﹁ここ。入って﹂
﹁う、うん。邪魔立てして申し訳ないぞろ﹂
﹁お邪魔しますが一般的だと思うよ?﹂
﹁お邪魔しますぞ﹂
﹁ぞって言いやすいんだね﹂
リリィを先頭にそこに足を踏み入れると、入ってすぐの暗がりに
男が一人立っていた。
﹁ぎゃあ!﹂
思わず悲鳴を上げてのけぞった私に対し、リリィは平然としてい
る。なら、これは異常事態でも何でもなくて普通の光景なのだろう。
すっかり暗がりに溶け込んでいて、男がいる、という認識しか持て
ない存在でも、普通なのだ。
順応、なあなあ、見なかったことにする。これ、異世界で生きて
いくコツだ。
﹁お帰りなさいませ、リリィ様﹂
﹁うん、ただいま﹂
男はちらりと私を見た。
﹁そちらの方は?﹂
﹁カズキ。今日からうちにいてもらうの﹂
﹁畏まりました﹂
男はうやうやしく頭を下げ、リリィの為に道を開けた。これまた
最小限の灯りしかない細い通路で、人が一人通るだけで精一杯な作
りである。子どもであるリリィとであっても擦れ違うのは結構大変
だ。
17
﹁リリィって、お偉いさんだよこのやろうであるよ?﹂
﹁カズキに言葉教えてくれた人って複数?﹂
﹁肯定であるぞよ。なにゆえ?﹂
﹁いろいろ混ざってるから﹂
﹁そうだぜ!﹂
﹁そして女の人はいなかったんだなーって、思う﹂
﹁誠に⋮⋮﹂
自分でもそんな言葉遣いをしている気はする。
あの頃の私は、基本的に駐屯地から出たことがなかった。近くの
街に彼が連れて行ってくれたことはあるが、そこも基本的には集ま
った軍人を客とした盛り場。軒を連ねるのは酒屋と武器屋と娼館だ。
女性のいるような場所は全てちょっと怪しいので、彼は私を連れて
いってはくれなかったし、私も行きたい!と熱意を持って叫びだし
たいほど興味があったわけではない。
結果、この世界で女の子とまともに話したのは、初めてだ。
てくてくと歩を進めていくリリィの後ろを黙ってついていったが、
それにしても長い。狭いし暗いし長い通路だ。狭い家、にしてはち
ゃんと見張りみたいな人がいた。そして長い。やっぱり長い。この
長さを考えれば結構な敷地なのだろうか。それともただの通路?
疑問を浮かべながらもどこまで込み入った質問をしていいのか、
何より疑問をきちんと言葉に出来るか考えながら歩いていると、リ
リィがぴたりと足を止めた。
﹁ほばぁ!?﹂
今度止まれなかったら少女に体当たりを食らわしてしまうので、
慌てて両隣の壁に手をついて身体を止める。我ながら女性らしくな
い悲鳴が飛び出る。
そんなことは気にしないのか、リリィはくるりと振り向いて、変
わらぬ無表情で問うてきた。
﹁ごめん、聞くの忘れてた。カズキさえよければうちで働かない?
18
表が嫌なら裏方でもいいし。ご飯も出るし、部屋も用意できるよ
? 服も欲しければ用意できる﹂
なんと、仕事をゲットできるというのか!
日本でも就職氷河期大氷河。南極北極の氷は解けても学生の就職
難という名の氷は解ける兆しを見せないのに、異世界では仕事ゲッ
ト!?
﹁するします! 私は心の臓からそれらの任務をこなす努力を怠ら
ぬわ!﹂
衣食住。人間が人間らしく暮らしていくために必要な三カ条。人
間らしくも何も、まず生きていくために必要な食があるのが何より
有難い。
何の心構えもなしに異世界に飛ばされて、好きな人ができて結ば
れようとしてたら戻されて。再度何の予告もなしに飛ばされてたと
思ったら、嘗ていた国じゃなくてそこはまさかの敵国で。
神様ちょっとそこ座れ。正座な。とか思っていたけれど、意外と
神様もやるようだ。だって、無表情で淡々としてるけどたぶん悪い
子じゃないリリィが、最初に声をかけてくれた。尚且つ、衣食住を
一気に与えてくれるというのだ。こんなに有難い出会いが第一村人
!なら、大歓迎も大感謝!
騙されているかも?とかちょっとだけ頭を過ったけれど、とにか
くなるようにしかならないし、出会ったばかりだけど私はリリィが
結構好きだ。好きな人は信じたい達だから、騙されたらそれはそれ
で考えよう。私の人を見る目がなかったという話だ。
誰も彼もが敵だらけ、皆私を騙そうとしてる、皆私を狙ってる!
といった穿った感情で支配されると、純粋な優しさも全てが捻じ曲
がってしまう。それくらいのことは、この年になると分かる。
そりゃ、世の中には人を騙して得をしようとする人がいることが
いることくらい分かってる。騙されて痛い目みたこともあるし、自
分だって嘘くらいつく。ましてやここは異世界。刺々しく自分を守
る必要があるのかもしれない。
19
でも、だからといって棘ばかりでは誰も触れないじゃないか。
﹁やる気は凄く分かった。表と裏、どっちの仕事がいい?﹂
﹁床の下の筋肉であるが性に合うと思われるのだが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮縁の下の力持ち? 分かった、じゃあ裏方ね﹂
リリィはこくりと頷き、左の壁をトントンと叩いた。すると、薄
暗い壁がすーっと音もなく開いて光が差し込んでくる。
﹁入って﹂
言われるままに一歩進むとまた壁。
﹁うおぅ!?﹂
そしてまた男だ。今度は二人。身体に沿った服が多かったグラー
スとは違い、ふんわりと身体を包む服が多いブルドゥスにしては珍
しく、グラースよりの服を着た二人組だ。たぶん、動きやすいよう
にだ。
﹁お帰りなさいませ、リリィ様﹂
﹁ただいま。この人、カズキ。今日からうちに入ってもらうから﹂
﹁畏まりまして﹂
三十代半ばほどの男が、小柄な少女に恭しく頭を下げる姿は、何
度見たって見慣れない。そもそも日本人はよく頭を下げているが、
本当に心から相手を尊敬して下げている人はあまりいないと思う。
私だって礼はよくしたけれど、日本でこの人に頭を下げたいと思っ
て下げたことは一度もなかった。
男達が左右から取っ手に手をかける。その力の入れ方を見るに、
ただの木扉ではなさそうだ。引き戸になっている扉は、まるで鉄板
を重ねたように厚い。
少しずつ開いていく隙間から、むぁっと咽かえる様な甘い匂いが
溢れだした。甘いけれど、焼きたてのお菓子とは違う、もっと人工
的な匂い。
これは香水だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮リリィ?﹂
20
﹁なに?﹂
﹁この場は、如何様な﹂
神様神様神様、あんたちょっと一体全体私に何の恨みがあるって?
神様神様神様、あんたちょっとそこ直れ。
リリィはこてんと首を倒して、淡々と言った。
﹁娼館だよ?﹂
神様神様神様。
ほんと一発殴らせて!?
21
3.神様、ちょっとそこにぽんぽろりん
リリィに案内されたのは娼館の舞台裏だ。確かに裏方を頼んだけれ
ど、もうなんというか、刺激が強すぎてどうしよう。
﹁リリィ、おかえりー!﹂
﹁ねえ、リリィ、口紅ずれちゃったぁ!﹂
﹁あ、リリィ、マニキュア新色出たんだって。うちで使ってみない
?﹂
﹁リリィ、あの客今度から出入り禁止になったって?﹂
化粧途中のお嬢さんから、着替え途中のお姉様まで色取り取りの
お嬢様方が、わっと黄色い声を上げてリリィを出迎えた。化粧途中
のお嬢さんはともかく、着替え途中のお姉様。お胸ぷるんぷるん丸
出しで走り寄るのはやめてくださいませんか。女である私にも刺激
が強すぎます!
以前の世界ではむさ苦しい男共に囲まれていたので、ギャップが
強すぎる! なんだこの女の園!
リリィはお姉様達にもみくちゃにされながら、私を示した。
﹁カズキ。今日から裏方に入ってもらうから、仲良くして﹂
鶴の一声。その一声で、それまで眼中にも入っていなかった私が、
まるで部隊の主役のように全員の視線を集めた。
﹁言葉が安定しないから、みんな教えてあげて。男の人に習ったみ
たいで、男言葉になってるから﹂
さっきまでの姦しさが嘘のようにしんっと静まり返る。部屋の中
に充満している匂いは香水だけじゃない。もちろん衣装に焚き染め
る香に身体につける香水もある。ありとあらゆる化粧品、飾られる
ためなのか贈り物なのか大量の切り花に、男とは違う女の体臭。
全てが合わさり、むわっと濃厚なまでの甘い匂いに思考が回る。
22
じり。
女性達の、ヒールを履いたり裸足だったり、マニキュアを塗った
り塗る途中だったりの足が、揃ったように僅かに距離を縮める。
﹁あ、あの、見知りおけ、する、お初お目にかかるのだぞよ。私、
カズキと申し仕るそうろぎゃあああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああ!﹂
私の悲鳴と、女性陣のまるで跳躍とも呼べる突進はほぼ同時であ
ったで候⋮⋮。
﹁うっ、うっ、うぅ⋮⋮⋮⋮﹂
姦しい喧噪の中で、どうして私だけは自分の袖を濡らして泣き濡
れているのだ。
﹁ねー、カズキー。この色も似合うと思うわよ!﹂
目の前にばさりと放り出された、袖口とか腰回りにはたっぷりと
したフリルがついているのに、肝心なところの生地は物凄く節約さ
れた衣装を見て、私は声を張り上げた。
﹁既に補給物資は事足りているぞよ︱︱!﹂
私の必死の懇願は、﹁きゃー! カズキ本当に面白︱い!﹂とい
う、何とも楽しそうな歓声を発生させただけである。
今の私は、今からパレードですかと問いたくなるヒラヒラの上半
身に、踊り子さんでも始めるの?と問いたくなるシャラシャラの下
半身。持ってる色を片っ端っから試させて!? という面白がって
ます、私、という顔をしたお姉さま方に塗りたくられた顔で疲れ切
っている。
こうなるまでに、おっぱい大きい?あ、ふつー、とか、肌はきめ
細かいよねーとか、髪の手入れの仕方教えてーとか、散々こねくり
回された。
私もう、お嫁にいけない⋮⋮。
23
涙に濡れながらそろりと顔を上げると、周りにいる皆さんも一緒
に着まわして遊んでいたらしく、あられもない御姿になっていらっ
しゃった。それを考えれば、上下バラバラで顔お化けでも、何とか
なる気もしてきた。幾ら同性であろうと、素っ裸で悠々と闊歩する
度胸はまだない。
頼みの綱のリリィはいつのまにいなくなっていた。
よし、と、ぐったりした心に喝を入れる。ここは私にとって何の
基盤もない場所だ。あー、今日も疲れたーと言って後は眠るだけ。
そんな今まで当たり前だった行動ができる土台すらない場所。
以前がなければ、この時点で心折れていただろう。けれど今の私
は一味違う。異世界体験は二度目!玄人まではいかなくても、素人
さんとは違うのです!
そう、今の私は一味違う!
﹁おけしょーですよー﹂
パラパラパラ∼。
もみじのようなぷっくりお手手が、私の頭にクッキーの粉を振り
かけた。誰かの子どもなのだろう。まだおむつであひるさんのよう
になっている子どもが、満面の笑顔で私をクッキー味にしてくれた。
うん、一味違うね!
﹁こら! 食べ物を玩具にしない! ごめんなさいね、カズキ。ほ
ら、ごめんなさいしなさい!﹂
﹁ごめちゃ!﹂
元気いっぱいに両手を上げられては、へらりと笑うしかない。
よし、一味違ったところで、情報収集だ。
﹁あのー、小さく質疑応答宜しいぞよ?﹂
隣にいる綺麗な赤毛のお姉様に声をかけてみる。ちなみに反対側
のお姉様は、お胸がぽんぽろりされていた。立派なお胸でございま
すね!
﹁ん? しっかしあんた、よくもまあ見事に口調が混ざったもんだ
ねぇ﹂
24
からからと笑うお姉様は、おもむろに自分の服の中に手を突っ込
み、こちらも豊満なお胸をよいしょと調整した。真っ赤な髪に純白
のドレスは大変お似合いですお姉様!
﹁あのー、えー⋮⋮グラースと戦争終わるしやがった時ぞろ数える
して、現在、幾年月経過されたし?﹂
﹁は? ちょっと待ちな! 解読するから! えーと⋮⋮ちょいと、
あんた分かったかい?﹂
お姉様がお胸ぽんぽろりんのお姉様の肩を叩くと、お胸ぽんぽろ
りんのお姉様は、ふーーと水煙管を吐き出しながら妖艶に笑った。
﹁あたしを誰だと思ってるんだい﹂
おお! お胸ぽんぽろりんお姉様素敵!
お姉様はふふんっと鼻で笑って、たっぷりとした髪をかき上げた。
﹁最初から聞いてなかったに決まってるじゃないか﹂
ええ︱︱!?
﹁だと思ったよ。ほら、あんた、もう一度言ってあげな。あんたら
も! 新入りの解読手伝っておやり!﹂
赤髪お姉様の腹の底から出たような声に、周りにいた女性陣が自
分の作業を中断して寄ってきた。あの、そんな皆々様のお邪魔をす
るつもりはないんですが!?
﹁ほら﹂
皆さんにじっと見つめられ、お姉様に促される。え、私この衆人
環視の中、へんてこ言葉披露して情報収集しなきゃ駄目なの?え?
なにそれ泣ける。
少し悩んだけど、うじうじ言っても仕方がないので腹を決めた。
私はまだ状況把握すら全然できないのに、情報を得る機会を自ら失
ってなるものか!そして彼は皆はどうなったっていうか何処にいる
のっていうか今はほんとに十年後!?
﹁えっと、グラースの戦争終わるしたぞろ数えちまった現在、経過
日数は如何ほどなり?﹂
しんっと場が静まり返った。しかもなんか皆さんお互い耳を寄せ
25
合ってひそひそなさってる!なにこれ悲しい!寂しい!
ひとりぼっちで皆さんの反応を待っていると、結論が出たのか赤
毛のお姉様が先頭に出てきた。そして、まろやかな笑顔で私の肩に
手を置き。
﹁ググレカス﹂
ふぁ!?
﹁分からない、ごめんねって意味のカルーラの故郷の言葉だよ﹂
いつの間にか戻ってきていたリリィが教えてくれて、一気に体の
力が抜ける。まさかこの世界で某先生に御世話になる事を推奨され
るとは思わなかったから頭の中が真っ白になってしまった。
私の横に椅子を引っ張ってきたリリィは、巻物みたいなのを開き
ながら、横の書類にサインをし始める。お仕事ですか。私は今さっ
きあなたのおかげで無職じゃなくなりました。ありがとう!
﹁十年﹂
﹁え?﹂
﹁グラースとの戦争が終わって、十年だよ。今度平和祈念の儀もあ
る﹂
かりかりと羽ペンでサインを続けるリリィの言葉を反芻して、咀
嚼して、ごくんと飲み込むまで約十秒。飲み込んで頭の中で栄養に
なり始めると同時に、私は思いっきり抱きついた。
﹁リリィ好む! 私、リリィ大柄に好む!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮大好き?﹂
﹁そうぞよ! 大好きぞろ!﹂
思わず抱きついてはしゃいでしまったが、リリィは淡々としたも
のだ。でも、こてんと首を傾ける動作が可愛い。
﹁あの、大変遺憾ではありやがるが、ご教授願っちまいたいぞろ﹂
﹁いいよ。何教えてほしいの?﹂
羽ペンをインク瓶に刺してサインを続けるリリィに、カルーラさ
んは呆れと驚きを混ぜた声を上げた。
﹁リリィ、あんた、よく分かるねー﹂
26
﹁私思っちまう、同様に!﹂
﹁あんたが感心してどうすんのさ﹂
ぺしんと私の額を叩いたカルーラさんを、女の子がくすくす笑い
ながら指差す。
﹁姉さんだって、今の分かってるじゃーん﹂
次いでほんとほんとと笑い声が上がった。そういやあっさり返事
を返してくれたなーと思って視線を戻す。お姉様は、ふんっと鼻を
鳴らした。
﹁前後の流れが分かりゃ、そりゃあね。それくらいできなきゃ、こ
の仕事はやってられないだろ﹂
なるほど、それもそうだ。コミュニケーション能力がなければ客
商売は難しい。言語力がないと更に難しいがな!
﹁で、カズキは何を聞きたいの?﹂
そうでした。
リリィに促されて、ずっと口に出せなかった名前を舌に乗せよう
として、やっぱり一拍を要した。
誰にも話せなかった。誰にも話さなかった彼の名前。ひとり言で
さえ口に出すことは出来なかった。一度呼んでしまえば崩れ落ちて
しまうと分かっていたからだ。
会えないと分かっているのに、会いたかった。会いたいのに会え
ないと分かっている自分の物分かりの良さが、一番、嫌いだ。
﹁ルーナ⋮⋮ルーナ・ホーネルト﹂
十年。十年だよ、ルーナ。だとすれば、貴方はもう二五歳。私よ
りも年上になっちゃったの? 私より小さかった身長も、高くなり
ましたか? 私より細かった腰も、私より細かった足も、私より太
くなりましたか? 太くなりましたよね? 未だに私のほうが太い
とかありませんよね?
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ルーナ、ルーナ、ルーナ。
どんな大人になったの? どんな声で喋るの? 今何をしている
の?
私のことを、忘れてませんか? 私のことはもう、過去になって
いますか?
好きな人は、いるんですか?
私にとっての十ヶ月で、貴方は随分先にいってしまった。私には
どうしようもないところで、貴方は大人になってしまった。
その世界に、私はまだ存在しているのだろうか。
私は、縋るように言葉を発した。
﹁ルーナ・ホーネルト、存じ上げる人物存在するぞろ?﹂
⋮⋮今一シリアスで締まらなかった気がするのは、私の気の所為
じゃないはずだ。
28
4.神様、ちょっとそれはセクハラです
ルーナ・ホーネルト、十五歳。
濃紺の髪に、晴れた日の空が映ったような水色の瞳。成長途中の、
まだちょっと中世的な顔や身体。子どもの声から一回声変りがあっ
ただけのちょっとだけ低い声。
出会ったのは十か月前。
私の一生に一度の恋の始まりは、むさ苦しい男共が芋洗うように
ぎゅうぎゅう詰めになった風呂場に墜落したことから始まる。
うん、神様そこ座れ。座禅な。
落下の衝撃で星がぐるぐる回る中、臭いし、訳分からないし、な
んか色々ぶら下がってるしで、私の心中はパニックなんて言葉では
生易しい状態だった。
そこに飛び込んできたのがルーナだ。
脱衣所から一番近かったルーナは、手近にあった剣を引っ掴むや
否やその勢いのまま私を蹴り飛ばして剣を突きつけた挙句、縛り上
げて牢に入れるというとっても印象的な出会いを演出してくれた。
他の誰にも真似できない、印象に残る出会いだ。オンリーワンだ。
恋した今はナンバーワンでもあるけどね!
ちなみに、それをちくりと指摘すると﹃お前、それ言うと相打ち
になるぞ﹄と返された。男ひしめき合う風呂場に落下し、この世界
に来て初めて見たものが男の裸とかなにそれ最悪な女との印象的な
出会い。
29
うん、どっちもどっちだね!
あの頃のルーナは、私よりほんのちょっと背が低かったから、そ
れを気にしてる様を周囲にからかわれ、木から逆さまにぶら下がっ
たりと努力をしている姿が可愛かった。
この世界のことを何も知らない私だったけど、彼の前ではお姉さ
んぶったりしたこともある。最初は弟がいたらこんな感じかなと思
って、お世話になりながらもちょっとだけ面倒をみている気になっ
たりしたこともあった。
けど、なんやかんやあって、気づいたら恋をしていた。
そして、なんやかんやあって、恋人に落ち着いた。
﹃カズキ﹄
自分の名前が持つ響きを、あれほど美しく感じたことは、未だ嘗
てない。
ふわっと意識が浮上する。
何で目が覚めたんだろうと思ったら、幕がかかったように篭った
喧噪がここまで届いていた。
ここは娼館と一緒に飲み屋もやっている。まあ、いうならキャバ
クラみたいな感じだ。本当なら夜が一番忙しい時間帯なのに、リリ
ィが、今日は疲れてるだろうから仕事は明日からでいいよと言って
くれたので、それに甘えて用意されたベッドに潜り込んだことまで
は覚えている。
30
布団部屋の上にあるこの場所は、設計上の都合で少し余ったスペ
ースなのだろう。屋根裏部屋みたいな感じでロフトから上り、形は
二等辺三角形みたいになっていてちょっと面白い。底辺に当たる位
置には窓があるし、ここは三階だから結構景色がいい。今は夜だか
ら景色よりも灯りが見える。
炎が作り出す灯りは、ライトより柔らかくぼんやりとした光を夜
に浮かべるから結構好きだ。管理するのは大変だけど。
明けた窓からはさっきよりはっきりした音が聞こえてくる。きっ
と飲み屋側だろう。偶にどっと何かが湧いたような笑い声が届く。
眠ってしまってから気づくのは、思ったよりも濃い疲労感だ。
まあ、そうだろう。もう二度と戻ることのないと思っていた場所
に何の覚悟も予告もなく戻されて、久方ぶりになる異国語を頭の中
から引っ張り出してきて、辿りついた先でお姉様達に遊ばれて。お
胸は大変柔らこうございました。
ふーと長く息を吐き、眠る前に用意していた水差しから水を補給
する。
﹃ルーナ⋮⋮ルーナ・ホーネルト、存じ上げる人物存在するぞろ?﹄
私が聞いた名前に、場は一瞬固まった。しまった。やっぱり迂闊
だったと私は自らの発言を取り消したくなった。
あれから十年経っている。平和祈念も行われという。
それでも、駄目だったのだ。
嘗て敵国で、しかも軍人であった彼の名前を出したのは明らかな
失態だ。
戦争だから。そう言ってしまえばお終いだけど、戦争とは殺し合い
だ。状況によっては虐殺にだって成り得る。
慌てて前言撤回しようとした私に向けられたのは、にんまりとし
た女性陣の笑みだった。
31
[私、別にルーナのファンじゃないぃ︱︱!]
窓枠に両手をついて項垂れる。夜だから音量は控えめに。
まさか、ルーナのファンと勘違いされるとは思わなかった。
ルーナは人気のある騎士だそうだ。そうですよ、ルーナはかっこ可
愛いんですよ。
[なんか都合のいい感じに納得されてしまったのは解せぬけど⋮⋮
まあ、よかった、のかな?]
なんでも、近々行われる平和祈念の儀では、両国の王族、有力貴
族、そして騎士達が集まるそうだ。五年式典はグラースで行われた
らしいので、今度はブルドゥスと交互に平等に行う取り決めらしい。
ルーナ! ルーナが来る!
それを考えれば、今回ブルドゥスに飛ばされてよかったのではな
いかとさえ思える。だって、今から私の足でグラースまで歩いても、
絶対に式典までに間に合わない。その点ブラドゥスなら、ひとまず
旅路の心配はないわけだ。
式典に合わせて遠方からも人が集まってきている。純粋に儀式を
見に来る人もいれば、騎士を見たいというミーハーな方もいるらし
い。中でもルーナは人気の騎士らしく、毎年行われる︻抱かれたい
軍人・騎士ランキング!︼でもぶっちぎりの一位だそうだ!
わあ! 流石ルーナ! 凄いね!
と、思わないでもないけれど、一番最初に思ったのは、何やって
るんですかね両国さん。貴方がた因縁の二国じゃなかったんですか
ね。十年経てばその辺変われば変わるんですか? なんか変わっち
ゃいけない方向に変わってませんかね。
なんだかゆるくふんわりした方向に変わったらしい軍人や騎士団
の認識のおかげ︵?︶で、私は大陸からルーナを見たくてはっちゃ
32
けちゃったちょっと残念な子、扱いになった。
いや、確かにルーナルーナ言ってましたよ? 言ってましたけど
それは、私はルーナに会いたいんです、私はルーナの知り合いです、
っていうか恋人です! ⋮⋮⋮⋮でしただったらどうしましょう、
でも何はともあれルーナに会いたいんです! でもルーナ私のこと
忘れてたらどうしよう⋮⋮とか、なんかそんな気持ちがぐわーと湧
き上がった結果、残念な語彙力でルーナルーナルーナになっちゃっ
たわけでして。
あ、どう見ても残念な子だ。
実際は、ルーナに会いたかったけどどう足掻いても会えないよこ
れ⋮⋮となってたけど、神様とかがはっちゃけて異世界に来ちゃっ
たちょっと残念な子、だ。
﹁ルーナ﹂
一回枷を外してしまうと、事あるごとに呟いてしまう。
ルーナルーナルーナルーナルーナ。
[ナルーナに会いたいなぁ⋮⋮あれ?⋮⋮⋮⋮⋮⋮ルーナに会いた
いなぁ⋮⋮]
リピートしてたらうっかり間違えた。寝たほうがいいな、うん。
いろいろ考えるのは明日にしよう。あ、もう今日だけど。⋮⋮寝
よう。
窓を閉めてごそごそベッドに入り直す。硬めのシーツは、別に嫌
がらせでも何でもなくこの世界の平民には当たり前のものだ。何で
もかんでもツルツルサラサラしている日本が恵まれすぎているのだ
と、私はもう知っている。
今ごちゃごちゃ考えても仕方ない。とにかく今は生活基盤をしっ
33
かりすることが大切だ。初日で、一カ月後の式典でルーナがこの国
に来ることが分かっただけでも僥倖だ。あんまり望みすぎると足元
にぽっかり穴が開いたみたいに落ちたり、バナナでつるんといくみ
たいに転ぶかもしれない。
一歩一歩しっかりと自分ができることを確実に、一つ一つ丁寧に
自分がやらなきゃいけないことをこなしてから、遠くを見るのだ。
その為にも、今はしっかり寝よう!
﹁ルーナ、私、気張って後日よりての職務全うを図るぜ!﹂
明日から頑張って仕事をこなそうっと!
そう決意して、シーツを目深にかぶって無理やり瞳を閉じる。
[⋮⋮おやすみ、ルーナ]
どうせならあなたの夢が見れたらいいな。
なーんて乙女なことを願いながら眠った結果、見た夢は男共のぽ
んぽろりん湯けむり地獄で。
私のお仕事は、女性陣のぽんぱろりんをお包み遊ばすレース達を大
量に洗うことだと、私はまだ知らない。
34
5.神様、ちょっと一言物申したく存じます
娼館の朝は早い。
というより、一日中稼働しているといって過言ではない。夜は勿
論、宵越しの仕事の後片付けが朝から始まる。
﹁カズキー、これも洗ってー﹂
﹁カズキー、あたしのワンピ知らない? あの薄紅のワンピー﹂
﹁カズキー、これボタンとれちゃったぁ﹂
﹁カズキー、ああん! これ洗っちゃったの? まだ着れたのにぃ﹂
様々な年齢の女性陣が、きゃあきゃあ言いながら通り過ぎていく。
彼女達は今から眠るのだ。毎日お仕事お疲れ様です。でも。
﹁着衣着用乱れは心の臓の乱れにょろ︱︱!﹂
お客さんのこない、いわゆる舞台裏だとしてもいろいろ丸出しな
のはどうだろう!
繊細なレース仕立ての下着を丁寧に洗っては干して、なんとかれ
これ三時間。
桶の水を変えても変えてもおっつかない。まずはブラジャー、次
にパンツ、そんでもってガーター、と思えばタイツ、晩を持してキ
ャミソール。他にもいろいろ、どう着用するかも分からない物が、
ほらはよ洗えといわんばかりに鎮座している。
へーへー、洗いますよ。それが私のお仕事ですからね。仕事はき
っちりやりますとも。
洗濯機を使わない洗濯には慣れている。繊細なレースを崩さない
35
ようにというのは気を使うものの、以前はむさ苦しい男共の臭い固
い厚い生地の軍服やら練習着やらを洗わなくてはいけなかったこと
に比べたら。もう天と地。月とすっぽん。果汁100%と果汁1%
の香料入り。
ここで働き始めて既に十日。
生活リズムもそれなりに掴めてきた。
最初は、娼館ということもあってちょっと色々動揺した。けれど、
生活が伴った職場の裏方雑用なんて、基本的にはどこも変わらない
と気づいてからは、すとんっといろんなことが楽になった気がする。
だって、世界が違っても国が違っても身分が違っても、人は食べ
て眠って暮らすのだ。そこに文明を混ぜ込むと、洗濯して掃除して
心地よさをプラス。娯楽を交えるなら花を飾って細工物を置いたら
いい。そしたらまた掃除して、ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。
世界が違って、国が違って、文化が違っても、やってることは日
本と同じだ。
それに私には一年の下地があるのだ。洗濯だって出来るし︵依然
と違う洗い物で、繊細さに欠けるとしてかなり訂正されたが︶、料
理だって出来るし︵何でもかんでも大鍋にぶちこんで煮ればOK!
では駄目だと修正されたが︶、掃除だって出来る︵とりあえず蛆
さえ沸かなきゃいいし、通路は通れりゃいいんだよ! でいいわけ
ないんだよ! で鍛え直されたが︶のだ!
うん、駄目駄目だ!
そして、どうでもいい豆知識が増えた。ガーターは、パンツをは
いてから着用するんじゃなくて、ガーターの次にパンツ着用だ。
男の巣窟と女の園では、色々なものが違いすぎる。まず匂いから
して違う。こっちは香りで、あっちは臭いだ。
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厚くて汚くて固くて臭くて代わり映えのしない軍服︵ルーナのは
別。寧ろ嬉しかった︶と、レースの可愛くて色も種類も豊富な洗濯
物は、たとえ下着でもわりと楽しかったりする。軽いし。
桶の水を捨てながら、ずっと同じ体勢で凝ってしまった身体を解
そうと伸びをしていると、ここ数日で聞き慣れた声に呼ばれた。
リリィだ。
いつもと同じように左右に分けた三つ編みを揺らして、いつも忙
しそうだ。けど、こうやってちょこちょこ私のことを気にかけてく
れる。可愛い。
﹁カズキ﹂
﹁リリィ、どうしたにょろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮カズキがどうしたの?﹂
小柄な身体で、今日も何本もの巻物と書類の束を抱えたリリィを
見つけて、渡り廊下に駆け寄る。
﹁何でにょろ?﹂
﹁ぞろでは面妖だがの見解を頂戴したにょろ﹂
﹁にょろのほうが変だと思うよ?﹂
﹁え!?﹂
こてんと傾いた拍子に三つ編みが揺れる。これがまた可愛い。
うう、それにしても言葉って本当に難しい。
しょんぼりしている私に、リリィは、あ、と小さく声を上げて何
やらごそごそとしている。どうやらポケットから何かを取り出そう
としているようだ。慌てて彼女の荷物を持つ。
う⋮⋮意外と重い。巻物も書類もだけど、紙って結構重いよね。
﹁ありがとう。あ、あった。はい、これ﹂
﹁ん? これぞ何ぞにょ?﹂
﹁語尾がどんどん凄いことになっていくね﹂
リリィが取り出したのは、掌より小さめの貝だ。ホタテのような
貝殻には、染料で模様が描かれている。何これ可愛い。
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﹁塗り薬。洗い物は手が荒れるから。無くなったら言って﹂
荷物と交換するように渡されたけど、こんな重い荷物を自分より
小さな女の子に返すのも気が引けて、少し持つことにした。
﹁補給援軍してやるにょろり﹂
﹁ありがとう﹂
﹁で、塗る薬、一体全体どこのどいつに補給するがいいさ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どこから訂正したらいいか分からないけど、カズキだよ
?﹂
私の存在を訂正!? そんな殺生な!
リリィは、私を指した指をくるりと方向を変えて掌に向けた。
﹁カズキが使うんだよ? 荒れるでしょ?﹂
﹁私ぞろり!?﹂
﹁ぞろり?﹂
﹁誠に私如き若輩者が、このような愛らしき造形物であるを、この
手にすることができやがっていることが大丈夫!?﹂
﹁うん、カズキが大丈夫?﹂
なんてことだろう!
こんなに可愛くて女子力が上がりそうなものを、この世界で私が
﹄くらいも存在しなかったのに!
手にしていいとは!思い返せば、近場にそういったお店がなかった
のもあるけれど、女子力の﹃
﹁ま、誠に私ぞの所有物となりて!?﹂
こくりと頷く頭が丸くて可愛い。
﹁使って?﹂
﹁あ、ありがとう、リリィ! 大好きにょろぞん!﹂
﹁語尾がなかったら完璧だったね﹂
荷物があったから抱きつけなかったけど、私の心は晴れ模様!
リリィについて部屋まで歩く間も、そわそわは隠しきれない。
﹁桃の香りにしてみた﹂
﹁おなご如き匂いであるで、よきことにょんぞり﹂
﹁⋮⋮女の子っぽくていいね?﹂
38
﹁それ! それぞり!﹂
﹁いらないの混ざってる﹂
﹁ぞり!﹂
﹁そっち残しちゃったの?﹂
﹁ぞろりにょろ⋮⋮﹂
自分の残念度合いにしょんぼりだ。
リリィの仕事部屋は、色々曲がりくねった先にある。今までも何
回かこうやってお邪魔したけど一向に場所が覚えられないのは、別
に私が方向音痴な訳じゃない。そもそもこの娼館は、通りから少々
奥まった場所にある上に、細くうねったように通路が重なって、よ
く分からない。
﹁ありがとう﹂
﹁にょろぞん﹂
﹁どんどんかけ離れていくね﹂
﹁ぞにょ⋮⋮﹂
あまり飾りっ気のない部屋の左側にある応接セットがあるも、テ
ーブルどころかソファーまで書類が占拠しているところを見ると、
あまり使ってないらしい。書類と巻物で埋もれているのはそこだけ
ではなく、窓際にある仕事机も同じだ。小柄なリリィが椅子に座る
と、入口側から彼女は見えなくなる。
﹁リリィ、質問承諾宜しくぞよね﹂
﹁いいよ?﹂
こてんと倒れた首がやっぱり可愛い。これ私もやってみたいな。
﹁リリィ、何故にして私だわよの、先輩やっぱりこいつ怪しいっす
よの女の子っぽくっていいね連行しろした?﹂
これは最初から聞いてみたかった。
だって、言葉も不自由っていうか珍妙で、身元もはっきりしない
私に声をかけてくれただけじゃなくて、寝床もご飯も仕事もくれた
のだ。娼館だって聞いてびっくりしたけど、裏方仕事は本当にそれ
39
だけで、如何わしいことを強要されたりもしない。需要ないと思わ
れてるだけだったらどうしよう!
本棚に向かっていたリリィは、一拍置くと、妙に思いつめた顔で
私の前まで歩いてくる。
﹁カズキ⋮⋮﹂
﹁何事かにょ?﹂
﹁話の内容はともかくとして、まずはいろいろ訂正しよう?﹂
なんともいえない顔で肩ぽんされた。
そんなに珍妙だったのか、私の言葉遣い。リリィの優しさが痛い。
けど、リリィ可愛い。
私も首こてんやってみよう。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮ごきゅりって鳴った。そういや肩凝ってた。
はっ! これが若者と年寄りの差!?
リリィは、買い物があるからと私を連れて街まで繰り出した。リ
リィは毎日どこかに出かけているが、私にとってはこの世界に来た
日以来の外出だ。
以前は前線だったことと、ここがブルドゥスの首都で更に城下街
なこともあって、印象ががらりと違う。道はしっかり整備され、色
とりどりのタイルが美しい紋様を描いて埋め込まれている。
馬車はこの通りを使わない決まりがあるらしく、一本向こうの道
には結構な頻度で馬車が行き来しているのが見えた。きっとタイル
が割れるからだろう。街も戦場も荒野も、何でもかんでも馬が駆け
抜け、馬で駆け抜けたたイメージしかないから、ちょっと驚いた。
そして、ブルドゥスの服は可愛い。グラースの服はどっちかとい
うとカッコいい系だ。
ふんわりと生地を大目に使ったスカートとか、超可愛い。色も鮮
やか⋮⋮いや、これはきっとグラースもそうだったのだろう。私の
40
周りに男しかいなかっただけで!
ちくしょう!
現在は、リリィに連れられて目に眩しい心に楽しい装飾品店にお
邪魔している。お店の女の子達はお客さん達からいろんな装飾品を
貰うけど、それは貰ったお客さんの前でだけつける決まりなんだそ
うだ。そういうのを一人一人覚えるのって大変だと思うけど、そう
しないとお客さん同士で喧嘩になったり色々めんどくさいことにな
る、そうだ。
それに、まだ常連のお客さんがついていない女の子もいる。そう
いった子達も、毎度毎度同じ服や飾りでお店に出る訳にはいかない
ので、こうやって店から支給している、そうだ。
全部リリィから聞いた受け売りだ。しかも、今さっき。
髪飾りから首飾り、耳飾りから足飾りまで、つまり上から下まで
取り揃えた装飾品店は、表通りに店を為す大店だ。恐ろしいのは、
値札が出ていない事。どこの世界でも高級店の恐ろしさは変わらな
い。一庶民には身が縮みあがりますとも。
リリィは奥まった場所で店長といろいろ話している。じゃあ、そ
れを五個とか、それはいらない、とかだ。リリィが店に現れたら、
店員が奥まで店長を呼びに行く様子からして、きっとお得意様なの
だろう。そりゃあ、定期的に一定数購入下さるお客様は大変ありが
たい。
きらきら眩しい色とりどりの宝石を見ていると、いつの間に商談
を終えたのか、リリィが横で一緒に覗き込んでいた。
﹁うわぁ!?﹂
﹁何か欲しいのあったの? 買おうか?﹂
﹁とんでもないぜこのやろう!?﹂
﹁前から思ってたけど、カズキ単語覚えるとき、その台詞全部覚え
41
ちゃったでしょ﹂
う!どこが単語か分からないときに、丸暗記してたのがばれた。
ルーナにも同じこと言われたな。
戦闘に出る皆を見送っていると、新兵さんが﹁情けないけど戦場
に出るのが怖いから、家から送り出すみたいに言ってもらえません
か﹂と言ってきたときがあった。
だから、街に出た時に覚えた言葉を言ったら、新兵さんは真っ赤
になるわ、周囲は大爆笑するわ、詰所の窓からルーナが飛び降りて
きて雷落としていくわで大変だった。以降二度と言わせてもらえな
かったけど、あれ何だったんだろう。
﹁リリィ、あの、一個尋ねるするだわ?﹂
﹁時々女性言葉が混じりだしたね。いいよ、何?﹂
﹁あの、女が男見送るしたぞり吐く言葉﹂
店員さんが耳をトントンしてる。リリィはちょっと考えた。
﹁女性が男性を見送るときに言う言葉?﹂
﹁そうぞり! じゃなかった、ぞり!﹂
﹁そっちじゃないよ?﹂
こてんが可愛い。店員さんもこてんしてる。けどそれ、反対側の
耳をトントンしてるだけですよね。
﹁そう! えーと、﹃いってらっしゃいませ、あなた。浮気しちゃ
いやよ? 帰ってきたら子ども作りましょうね﹄と言うなりは、珍
妙なるだわ? 言うは、怒髪天な言葉だりょ?﹂
結局意味を聞けずじまいだったが、街に出た時に、女性が旦那さ
んらしき人を家から見送る時に使っていたから、この世界では一般
的な見送り言葉だと思っていたのに。
﹁えーと、カズキはそれ、誰に言ったの? 恋人とか伴侶?﹂
﹁はんりょ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あ、えーと、夫、夫妻または夫婦の男性側、旦那﹂
連ねられた言葉に知っている単語を見つけて、納得した。
﹁ああ、然り了承なさいました。えーと、はんりょ、異なる様があ
42
りてにょろぞんよ﹂
﹁違う人に言ったの?﹂
﹁然りなりて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮もしかしてカズキ、恋人の前で違う人にそれ言ったの?﹂
﹁ええ!? リリィ、何故にして私如きが恋人の存在を仄めかして
いたとご存じでいらっしゃったぞんりょろりだわさ!?﹂
慌てすぎて声が大きくなった。あれ? 店長さんや他の店員さん、
終いには他のお客さんも耳をトントンしてらっしゃる!
違うんです! おかしいのは貴方々の耳ではなく、この私だぁ!
ちょっとしょげそう。
﹁えーとね、カズキ?﹂
ぽりぽりと頬を掻いているリリィが、一つ一つ説明してくれたお
かげで、私は心の中でルーナに土下座した。
ついでに、この世界に来て初めて聞いた見送りの言葉がそれだっ
たことについては、神様に物申したい気持ちでいっぱいだよ!
ちくしょう!
43
6.神様、ちょっとそこの袖振り合う縁をお考えあそばせ
﹁カズキ? しっかりして?﹂
さっきまでリリィが店長さんと商談していた場所の更に片隅で、
私は顔を覆ってしゃがみこんでいる。だってそんな、ルーナの目の
前で浮気宣言とか私あんまりだ。
﹁えーと、喧嘩したんじゃなかったら、大丈夫じゃない?﹂
こてん可愛い! けど私には大ダメージ!
﹁喧嘩上等かかってこいやした⋮⋮﹂
﹁えーと、まずは喧嘩だけでいいと思うけど、喧嘩したんだ﹂
だって、ルーナいきなり窓から降ってきたと思ったらものすごく
怒るんだもん。なのに理由教えてくれなくて、こっちも訳分からな
くて。最初はびっくりして謝っちゃったけど、段々腹が立ってきて、
最終的には喧嘩した。
付き合い始めた十分後に喧嘩して、しかもそのまま彼を戦場に送
り出さなきゃいけないなんてと泣けたけど、ルーナからしたらもっ
と泣けただろう。なんつータイミングだ。
今なら分かる。本当に申し訳なかった。
お店からしたら凄く迷惑な場所でしゃがみこんでいる私の頭を、
リリィの手が撫でる。優しい。優しさが染みる。
﹁仲直りできなかったの?﹂
﹁和解できたした⋮⋮首飾り、頂戴できたしたにょり﹂
﹁にょりいらないけど、仲直りできたならよかったね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うんだわにょ﹂
戦場から帰ってきた彼は、戦闘の興奮冷めやらぬ仲間達と街へと
繰り出してしまった。私に会わずに。あれは泣けた。仲間達はいつ
44
もそうしていたが、ルーナは私の所に帰ってきてくれたのに、付き
合い出した途端その習慣が破れるとか! 泣けるね! と、思って
いたわけだが、街から帰ってきた彼は﹃カズキが悪いわけじゃない
って分かってるのに、怒ってごめん﹄と、首飾りをプレゼントして
くれた。
自分だって嫌な思いして、しかも命のやり取りをしてきた直後な
のに。
﹁私ありがとう言うに止めるのみにてぞ!﹂
彼がくれたものに対してなんて小ささだ! そりゃ、お金や物が
全てではないし、あの頃は︵今も︶私にお金も物もないけれど!
しかも、あの首飾りは手元にない。だって、こう⋮⋮ああいうシ
ーンだと装飾品外すよね!?
でも、ああなるって分かったらつけていたらよかった。いつも身
に着けていたのに。拙い言葉で手入れの仕方とか習って、大事にし
ていたのに。
今になって知る彼の優しさに惚れ直す。もう、メロメロだ。死語
だけど他に何て表現すればいいのか分からない。ああ、貴方に首っ
たけ!⋮⋮⋮⋮古いな。
﹁あのね、カズキ。さっきの質問だけど﹂
頭ポンポンしてくれるリリィにも惚れそう。私が惚れっぽいのか
? いいや、ルーナとリリィが素敵過ぎるのだ!
﹁カズキがありがとう言えるからだよ?﹂
﹁え?﹂
﹁カズキは言葉が不安定でしょ? でも、ありがとうはちゃんと言
えてる。だから、ありがとうをよく使う、使える人なんだなーって
思ったの。私、そういう人好き。カズキの恋人も、嬉しかったと思
うよ?﹂
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淡々と頭を撫でてくれるリリィに、やばい、本気で惚れる。
ありがとうを教えてくれた人ありがとう。確か通りすがりの人を
とっつ構えて聞いた気がする。名前も顔も声も年齢も何一つ覚えて
ないけど、ありがとう。後、ありがとうを普通に言える人間に育て
てくれてありがとう、お母さんお父さん。
何だか今なら世界中の人間にありがとう言える気がする!
店長さんに呼ばれていったリリィの背中を見つめながら、今なら
神様にだってありがとう言える気がする気分だ。
ありがとう言える人間でよかった。ありがとうを言える人間にし
てくれてよかった、ありがとうを知っている人間で本当に良かった!
私が世界中にありがとうをしていると、不意に表が騒がしくなっ
た。わーわーと人が騒ぐ声が近づいてくる。
お店の入口から外を覗くと、何やらパレードのようなものが近づ
いてきた。担ぎ上げられた輿が二十個くらい見える。その輿を取り
囲むように人々が移動しているのだ。
﹁今年の黒曜は粒揃いだな﹂
﹁ああ、今年こそ本当の黒曜も出るかもしれない﹂
そんな会話が聞こえてくる。なるほど、どの輿にも女の子がいて、
それがまた皆綺麗だ。十代から二十代くらいだろうか。意外と着飾
っていない、素朴な服を着ている。
不思議なのは、誰も彼もが黒髪と黒瞳で、来ている服はブルドゥ
スとグラース両方だ。
つまりこれは、二か国間の美人コンテストみたいなものなのだろ
うか。だって、騎士や軍人達まであんなふんわりしたノリになって
いたのだ。それくらいあってもおかしくはない。
﹁ちっ、浮かれおって﹂
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ちょうど店に入ってこようとしていた男の人が、パレードを見て
舌打ちした。
びっくりして見上げていると、私の存在に気付いていなかったの
か慌てて謝罪される。二十代くらいの人で、背が高い、わりとイケ
メンだ。
厚手のマントをぐるりと羽織っているから、結構なお坊ちゃまな
気がする。マントだってお金がかかるし、パッと見で一番最初に目
に入る場所だからか、この世界のお金持ちはまずマントからこだわ
る。お金がないと裏地もいれられず、ぺらっぺらになることもある
ので、ずっしり重量感があり、肩当ての細工も相当なこの人は、た
ぶんお金持ちだ。
﹁ああ、申し訳ない。お気に障られましたか?﹂
﹁えーと、否ですぞ﹂
﹁ん?﹂
凄く怪訝な顔をされた。相も変わらず変なことを言ったらしい。
ごめんね、お兄さん。私が変なのであって、お兄さんの耳は正常で
す。とんとんしなくていいよ!
﹁えーと、私、言語不安定。許すしてにょろ?﹂
﹁にょろ?﹂
﹁⋮⋮ぞろ?﹂
噴き出された。言いやすいけど、やっぱり語尾のにょろぞろは封
印しよう。癖で言っちゃったとき以外は。
金髪の人は口元を隠してくすくす笑う。まあ、楽しそうだからい
いや。馬鹿にしたような笑い方じゃないので、お茶の間に笑いを提
供させてもらったくらいの気持ちでいよう。
﹁大陸の方ですか?﹂
﹁えーと、否ですぞろ﹂
さっそくぞろが出た。なんて言いやすいんだ、ぞろ!
しかも咄嗟に否定してしまった。詳しく突っ込まれても面倒なの
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で、慌てて話題を変える。
﹁あの、こ、こうよー、とは、何ぞ⋮⋮だわ、よ?﹂
﹁こうよー、ですか?﹂
﹁え、ええと、先程、あちらの男共が言ってやがりやがった言葉﹂
﹁⋮⋮⋮⋮黒曜ですね。後、貴女、男性に言葉を習いましたね?﹂
﹁適切!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮正解、と取っていいのでしょうか﹂
ああもう! 言葉って難しい!
相手の微妙な沈黙で、自分が間違えたことを知る。謝ろうとした
が、男性は口元に手を当てて何かを考えていた。考え事中は邪魔し
ちゃ悪いなと思い黙っていると、はっと気が付いて逆に謝罪される。
いやいや、こちらこそ申し訳ない。と、ジェスチャーで返す。
﹁すみません。少々考え事を。ああ、それで黒曜のことでしたね。
あれはここ十年で定着したんです﹂
十年。ちょうど私がいなくなってからだろうか。ということは、
戦争終結後からの催しかな?
﹁あのー﹂
﹁ミガンダ砦をご存知ですか?﹂
﹁ぎょぱっぺ!﹂
突然出てきた名前に、珍妙な吹き出しをしてしまった。ああ、や
めて!可哀相な子を見る目で見ないで!
ミガンダ砦は、まさにこの世界で最初に厄介になった砦だ。何で
今ここでその名前を聞くことに!?
﹁だ、大丈夫ですか?﹂
﹁し、然り、然りがだわよのぞろにょろりん﹂
﹁⋮⋮全然大丈夫に聞こえませんが﹂
逆に大丈夫に聞こえたら心配だよ。
自分でも珍妙になってる気がするからね!
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心配げにしてる男の人に、何とか先を促す。ジェスチャーで。
﹁大丈夫ならいいんですが⋮⋮ミガンダ砦は我が国とも因縁の砦で
して、結構有名どころの騎士が揃っていたものです。当然相対する
我が方のウルタ砦もですが。終戦前は、我が方優勢だったのですよ。
それなのに、ある日を境にミガンダ砦側が押し返し始めて。なんで
も、異世界から現れた一人の女性によって、彼らは急激に強くなっ
たそうです﹂
﹁どろんじょろりん!﹂
﹁だ、大丈夫ですか!? ⋮⋮あ、ああ、大丈夫なんですか。⋮⋮
本当ですか? 大丈夫ならいいんですが。結局、ミガンダを落とし
きれなかったばかりか、押し返され始め、両国は終戦の運びとなっ
たのです。⋮⋮けれどその女性は、終戦が決まった夜に姿を消して
しまったそうで、今では戦を収めに来た天女じゃないかと専らの噂
です﹂
﹁ぎょろんぞ!﹂
反射なんで、どうぞお気になさらず続きをお願いします。
﹁そ、それでですね、その女性は騎士ルーナの恋人で、終戦へ貢献
した騎士がその結果恋人を失ったなんて哀れだという国王の意向で、
彼女を探すことになったんです。黒髪に黒瞳だったことから﹃黒曜﹄
と名付けられて、条件にあった女性を探す、というものだったのが、
いつの間にか美人コンテストのようなものに。全く嘆かわしい。そ
れに、あの頃の条件、十代から二十代というものも、本当を言えば
そろそろ意味を為さなくなっています。もう十年経ちますし。それ
に、まず美人というのがおかしい。私は彼女と話したこともありま
すが、平々凡々で美人というには程遠い⋮⋮⋮⋮⋮⋮やはり、私は
貴女とどこかでお会いしましたか?﹂
急に真顔になった男に、こっちの方が聞きたいと心の中で叫んだ。
どこだ!? 何処に驚けばいいんだ!? 私が美人コンテストの
発祥の地だということ!? ミガンダ砦の皆が強くなったのは掃除
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に食事メニューと口うるさい母ちゃんの如き私のお小言による生活
環境の向上で、ただ健康になっただけということか!? それとも
私がルーナの恋人と皆が知ってること!? なにそれ嬉しい!
じゃなかった、こいつ誰!?
私と話したことあるだと!? ブルドゥスに知り合いなんて娼館
の皆しかいないぞ!?
しかも今の流れ的に﹃黒曜﹄だとかいう珍妙な名前がついた私と
話したことあるブルドゥス人⋮⋮⋮⋮ブルドゥス軍の軍人か騎士く
らいしか心当たりが⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
じりりと摺り足で下がる私に、かちゃりとマントの下の剣帯を鳴
らして近寄る男。
思い出せ思い出せ思い出せ須山一樹!お前の記憶力が頼りだ!
そうして思い出される残念な語彙力。
あ、駄目だ!
まったく頼りにならない!
思い至ったのは私より相手が先だった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮その外見と残念な話し方⋮⋮お前まさか!﹂
﹁全力をもってして見当違いであらせられるぞてめぇはぞろにょん
!﹂
逃げようにもがっしり肩を掴まれては身動きが取れない。店の入
り口でこんな迷惑なことはおやめになったほうがよろしくってよ、
おほほほ。とか言ってみたいが言葉に出来る気がしないし、どうせ
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みんな﹃美人黒曜﹄に夢中だ。
﹁わ、私、十年前日、子どもだぞろり!﹂
必死に言葉を絞り出すと、男ははっとなって手を離してくれた。
そうだよ、十年前は私十八歳だったよ! 今は十九だからね!
ね!? 違うでしょ!
ふー、危なかったと胸を撫で下ろし、早いところサヨナラしよう
と男を見上げる。それにしてもイケメンだ。金髪綺麗だし、あ、目
の色すっごい綺麗なエメラルド⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
頭の中でひょろい少年がかちりと重なった。
﹁兎パンツ︱︱︱︱︱︱︱︱!?﹂
﹁やはり貴様か黒曜︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱!﹂
﹁ぎにゃああああああああああああああああああああ!﹂
女として人として、自分でもどうかと思う悲鳴を全力で挙げて、
私は店を飛び出した。﹃黒曜﹄パレードで賑わう人達に紛れようと
したら、逆に弾かれて道を塞がれる。
とにかく、兎パンツから距離を置かなくては!
私は転がるように路地裏に駆け込み。
あっさり追いついてきた、凄い形相の兎パンツにとっ捕まった。
51
7.神様、ちょっと色々如何いたしましょう
昔、といっても私にとっては一年くらい前、ブルドゥス軍に捕ら
えられたことがあった。
そこで色々あって、てんやわんやしている時、私は盛大に転んで
貴族の坊ちゃまのズボンを掴み、ベルトを引きちぎってパンツ丸出
しにしてしまったことがある。デフォルメはされてなかったものの、
ピンク色の兎パンツだった。
可愛いですね。
それはまあ可愛い坊ちゃまで、確か御年十五であらせられた。淡
い色の金髪と大きな緑の目がまあ可愛くて、まるで天使のようでし
た。
その天使は、十年の歳月を得てイケメンへと成長し、路地裏で壁
に両手をついて私を閉じ込めている。
お坊ちゃまお坊ちゃま、そんな、お貴族様ともあろう御方が、額
に青筋たてた状態で路地裏の壁なんか触っちゃ汚いですよ、ね!?
すぐ傍は興奮冷めやらない人達が騒ぎながら歩いているのに、す
ぐ傍の裏路地は常に日陰なので苔とちょっと泥っぽい匂いがする。
中にはこっちに気付いた人もいたのに、なまじ兎パンツが貴族な
もんだから見て見ぬふりされた。
ひどい! カムバック! 飴ちゃんあげるから!
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﹁違うぞ間違って見当違いな権利を主張するぞろ!﹂
﹁黒髪黒瞳の平々凡々で、類を見ないほど珍妙な喋り方をする女が
他にいるか!﹂
﹁いないにょろ⋮⋮⋮⋮?﹂
﹁いないだろ﹂
激昂してたのになんでそこだけ真顔で返すの。微妙に傷つくじゃ
ないか。
逃げようと必死に胸板を押すのに何これ硬い。びくともしない。
中に甲冑着こんでんの!? 昔は吹けば倒れそうな儚げな美少年だ
ったのに、何が貴方を変えてしまったの!? そのままひょろっひ
ょろでいてくれたら、突き飛ばしてばいならっきょできたのに!
兎パンツは私の必死の抵抗をしばらく無言で見つめていた。そし
て、淡々と語る。
﹁十年前、家の為名誉の為、緊張の中訪れた初陣の地で、敵騎士の
女にこれ以上ないほどの恥辱と屈辱を与えられたものでな。血反吐
を吐きながら鍛えた。その甲斐あって、今があるという訳だ﹂
私の所為だった!
それにしても近い近い近い! 顔も身体も全部近い!
﹁まさか本当に貴様と再び相見える日がこようとは⋮⋮あの屈辱、
今でもはっきり覚えているぞ﹂
﹁てめぇが桃色兎パンツ着衣着用しやがってるは、私の責ではござ
いませんのぞにょ!﹂
﹁今はもう履いてない!﹂
あ、そうなの? 似合ってたのに。そして私、この人の名前知ら
ない。兎パンツ着用者ってことしか知らないや。
﹁えーあー、えーと、⋮⋮後⋮⋮前⋮⋮違うぞりね⋮⋮⋮⋮前後⋮
⋮後日⋮⋮⋮⋮⋮⋮過去! 過去の事情はお水取ってぇーに流動さ
せるぞりょり!﹂
53
過去のことは水に流そうよ。だって、ほら。戦争して殺し合って
た国同士が仲良くなれるんだよ! ね!? 加害者がいっても駄目
!?
ですよね!
兎パンツは黙ったままびくともしない。何これ怖い。
押しても動かせないし、相手は動かないし黙ったままだし、ちょ
っと落ち着いてくる。すると観察する余裕が出てきた。それにして
もまあ大きくなっちゃってとか思っていたら、相手も同じことを考
えていたようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮貴様は、こんなに小さかったのか﹂
﹁兎パンツが巨大になられたのろ﹂
﹁兎パンツ言うな!﹂
兎パンツは禁句ワード。
﹁私、兎⋮⋮てめぇの名を存じないであるのでだよ﹂
﹁ほお⋮⋮? 私は十年間忘れたことはなかったというのに、貴様
は私の名など知りもしなかった、と﹂
﹁だっててめぇは名乗り合え前に、泣いて逃亡し﹂
﹁黙れ︱︱︱︱︱︱!﹂
真っ赤な顔で叫んだ兎パンツに、私の耳は限界を訴えてきーんと
なる。
﹁耳元で巨大な発声は常軌を逸した行動にょろ︱︱!﹂
﹁初対面で男のズボンを引きずり下ろした貴様にだけは言われる筋
合いはない!﹂
﹁人聞き又聞き悪いこと仰るはなきようにとのことぞろり︱︱!﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな、だ、たわけ︱︱!﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな、だ、たわけ︱︱!﹂
己の限界を試すかのように張り上げていた私達の声は、表通りか
ら上がった黄色い歓声に掻き消された。
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思わずそっちに視線を向けても、兎パンツが邪魔で見えない。
﹁視界遮る腕、ぽいしろして﹂
﹁私の腕を捨てるな! たわけ!﹂
邪魔なのに結局腕をどけてくれない。そんなに警戒しないでも、
あれは事故だったのだ。もう兎パンツお披露目させたりしないのに。
もう履いてないらしいけど、やっぱり警戒しているらしい兎パン
ツは、私の両肩を掴んでるは、足の間に膝をついてるはで、私はあ
んまり身動きが取れない。そこまで警戒しないでもいいじゃないか
⋮⋮いや、でも待てよ。傷つきやすい思春期の少年の心にそこまで
の傷を負わせてしまったのは私だ。そうだ、きっとトラウマになっ
てしまったのだ!
ああ、イケメンなのに、そんなトラウマを持つなんて⋮⋮。
居た堪れない気持ちと、可哀相にという気持ちが溢れだし、整え
られた金髪をよしよしと撫でると、物凄く嫌そうな顔をされた。
と、同時に、再び上がる黄色い歓声、というより、黄色い断末魔。
﹁な、なんぞろ!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか、貴様本当に知らなかったのか﹂
腕をどけてくれない兎パンツの腕に顎を置いて表通りを眺める。
さっきは男性が多かった人ごみが、今度はご婦人だらけだ。それこ
そ老いも若きもひしめき合い、一気に色の大洪水だ。
ご婦人方の大波の中心には、恐らく馬に乗っているのであろう位
置に男の人達が見える。何かの行進だろうかと呑気に思った私の耳
に、その名前が飛び込んだ。
﹁ルーナ様!﹂
自分でも分かるくらい身体が跳ねる。
﹁ルーナ様よ!﹂
﹁嘘!? どこ!? 見えない!﹂
﹁ルーナ様︱︱!﹂
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見えない。ルーナ? どこ? 本当に? ルーナ?
兎パンツに抑えられていることも忘れて身を乗り出す。女性陣の
視線はまだ遠くを見ているから、あっちにルーナがいる?
私、貴方に言わなきゃいけないことがあるの。謝らなきゃいけな
いことも、あって。でも、何より、会いたかったって、言いたいの。
ううん、言えなくてもいいから、ルーナ、会いたい。
ねえ、ルーナ、ルーナ!
﹁ルーナ様︱︱! グラースの王女様とご婚約なさるのは本当です
か!?﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?
﹁ルーナ様︱︱! 我が国の王女様とご婚約なさるのは本当ですか
!?﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮ひ?
﹁ルーナ様︱︱! 女嫌いって本当ですの︱︱!?﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮ふ?
﹁ルーナ様︱︱! 女好きって本当ですの︱︱!?﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮へ?
﹁ルーナ様︱︱!男色って本当ですの︱︱!?﹂
ほぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?
女性達の黄色い声は、一際甲高く鳴り響く。
﹁いや︱︱! だったらわたくしと︱︱!﹂
押し合いへし合い、せっかく綺麗に着飾ったのであろう髪もドレ
スもぐちゃぐちゃだ。それを必死に押しとどめようとしている兵士
の姿がある。なのに女性達は自分の髪留めや手紙をどこかに投げた。
それを投げる方向にルーナがいるらしいのだけど⋮⋮。
私はゆっくりと兎パンツに視線を戻す。それとは逆に、兎パンツ
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はふいーっと視線を逸らしていく。
﹁⋮⋮⋮⋮兎パンツ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮兎パンツ言うな﹂
[何あれ嘘でしょこっち向け︱︱!]
﹁何を言っとるか分からんわ、たわけ︱︱!﹂
思わず飛び出た日本語にも気づけない私は、兎パンツの両頬を両
手で覆って無理矢理目線を合わせる。
﹁王女婚約、誠!? 何故なら王女、子どもであらせられるがであ
るがぞんにょろりん!?﹂
﹁グラースの王女殿下は御年十九! 我がブルドゥス国王女殿下は
御年二十歳でいらっしゃる!﹂
﹁なにゆえに!?﹂
﹁十年経ってるからだ!﹂
﹁なるほどに説得!﹂
﹁納得だ、たわけ!﹂
なんと! 昔一回だけ砦に来ていた王女様は、まだ九歳のそれは
生意気で高飛車、失礼、高貴で聡明で気高きお子様だったというの
に、いつの間に十九歳に!
十年経てばそりゃ十九歳にもなるよね、九歳だった子も!
﹁きゃあああああ! ルーナ様︱︱! こっち見て︱︱!﹂
うわん、っと、沢山の黄色い声が重なって耳が痛い。
その視線の行き先を辿る。
後ろで一括りした濃紺の髪が見える。少しずつ近づいてくるうち
に、その表情までもが鮮明に見えた。
見間違えたりしない。十年経っても、きっと五十年経ったって。
あれは、ルーナだ。
ルーナだ! ルーナがそこにいる!
ルーナだ! ルーナルーナルーナ!
57
ルーナが
何あれ顔怖い!
思わず兎パンツにしがみついて、全力で揺さぶる。
﹁瞳がご臨終致して人相悪いぜあいつ状態なして戦況は極めて不利
状況報告せよだわにょ!?﹂
﹁貴様がいなくなって荒れたんだろう! 私が知るか! 式典や偶
の演習で会うくらいで、喋ったことはほとんどないわ!﹂
だって、だって、だって! あんなに可愛かったのに十年で一体
何があったの!?
凄く目つき悪いし、どっちかというといつでも笑ってた部類だっ
たのに何あれ! 俺は笑顔なんて知らないぜみたいな顔つきになっ
てるんですけど!? 澄んだ綺麗な水色が、なんか底なしの深さを
湛えた湖みたいな雰囲気になってるんですけど!?
確かにイケメンだけど!? かっこいいけど怖いのほうが勝るん
じゃないのあれ!?
[十年でほんと一体何があったの、ルーナ!?]
視線の端で行進していた濃紺が、ぴたりと止まる。
異変を感じて視線を戻すと、見開かれた水色と目が合った。
その唇が何かを言おうとぱくりと開いた瞬間。
﹁ふんだばらっしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
?﹂
58
気が付いたら逃げていた。何故か兎パンツも一緒に逃げていた。
何はともあれ、全力で逃げていた。
神様の馬鹿馬鹿馬鹿!
せっかくルーナに会えたのにこんな再会の仕方ってどうなの!?
感じたのは再会できた喜びより、ルーナ顔こわ!? っていうの
はどうなの!?
あれ!? でもこれ神様の所為じゃなくて私の所為か!?
何はともあれルーナ、なんか色々ごめん!
でも、顔こわっ⋮⋮!
59
8.神様、ちょっと歳月というものは恐ろしきものでございます
身を翻した私達の背後でパニックになった声が重なる。
﹁ルーナ様どちらへ!?﹂
﹁騎士ルーナ!?﹂
﹁何事だ!?﹂
﹁きゃー! ルーナ様はいま私を見たのよ!﹂
どっと沸いた歓声とも怒声ともつかぬ声を聞きながら、私は裏路
地に飛び込んで逃げた。それはもう、お手本に使えそうなほど立派
な韋駄天走りで!
そして、その隣を何故かマントを翻した兎パンツが疾走していた。
﹁なにゆえお隣を宜しいかしてるぞろ︱︱!﹂
﹁貴様こそ何故逃げる!? 貴様の男だろう!﹂
﹁ルーナ形相が尋常ではないぞなもし故に私は撤退を進言申し上げ
るにょろり︱︱!﹂
﹁つまり怖かったんだろうが!﹂
﹁適宜適切正当なる理由を要求する︱︱!﹂
﹁正解なら正解と一言でいえ︱︱︱︱︱︱!﹂
﹁正解ぞろ︱︱︱︱︱︱!﹂
﹁ぞろはいらん! ぞろは︱︱!﹂
全力疾走で路地裏を駆け抜ける私達を、犬と鼠と猫が不思議そう
な顔で見送ってくれる。偶に人がいたが、皆一様にぎょっとした顔
で君子危うきに近寄らずを実行してくれた。
そりゃまあ、凄い形相の男女が、プライドも何もかもをかなぐり
捨てて韋駄天走りで疾走していく様を見れば、私だって見なかった
60
ことにする。
﹁大体貴様! 何故今なのだ!﹂
﹁は!?﹂
﹁この十年間音沙汰なかった人間が、何故よりにもよっていま姿を
現したんだ!﹂
﹁帰宅帰還なるを私如きが扱える代物ではないそんなことも分から
ないのか貴様はだにょろ︱︱!﹂
﹁誰の台詞を丸覚えしたのかは知らんが腹立たしいことに変わりは
ないな! こっちだ!﹂
﹁ひょ!?﹂
ぐいっと腕を引かれて直角に道を曲がる。細い道は一見行き止ま
りだったけど、よく見ると横に扉があった。
兎パンツは何の躊躇いもなく取っ手に手をかけて中に飛び込む。
そのまま建物の中も疾走していく。
﹁こ、この場は何ぞろり!?﹂
﹁祖母が所有している店舗開店予定地だ!﹂
成程。よく見ればあちこち改装中のようだ。兎パンツは白いペン
キの缶を盛大に蹴倒して駆け抜ける。私は盛大にその白ペンキをひ
っかぶった。
兎パンツはそのまま四階まで駆け上がると、窓際にしゃがみ込ん
で外の様子を伺う。
窓の下を喧噪が通り、足早に遠ざかっていった。
兎パンツに抱きかかえられる形でそれを見送って、ほーと息を吐
く。兎パンツは緊張した面持ちで窓の下を覗きこみ、やがてどっと
力を抜く。そして、自分の胸に押し付けている私に視線を落として、
沈黙した。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮貴様、どうしたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮てめぇのけつはてめぇで拭けよなる白ペンキが私を
61
爆撃したにすぎぬことぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮女がケツとか言うな﹂
﹁けつって何ぞろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮私は断じて解説役は務めんぞ﹂
白ペンキを頭から引っかぶった私を見て、兎パンツは自分の行動
で思い当ったらしく、む、と渋い顔をした。
﹁ああ!?﹂
突然私が上げた声に、兎パンツがびくりと身体を震わせる。私は
慌てて兎パンツから飛び退いた。
﹁兎パンツ!﹂
﹁兎パンツ言うな!﹂
[兎パンツ!]
﹁⋮⋮何を言っているか分からんが、碌でもないことは分かる﹂
﹁マント絶望的に壊滅的汚れが襲いくるにょろ!﹂
高そうなマントは、私を胸に押し付けたことで白いペンキがべっ
たりだ。せっかく、缶を蹴り飛ばした時は無事だったのに、何てこ
と!
これ絶対洗っても落ちない!
﹁は?﹂
﹁マント! 全身全霊で戦うのみにょんぼろり、世は無情じょりん
⋮⋮⋮⋮﹂
まじまじとマントを見つめても、糸の一本一本、更には寄り合わ
せ部分にまでしっかり刷り込まれてしまっている。どう洗っても全
部落としきれる気がしない。
がっくりと項垂れていると、兎パンツは物凄く深いため息をつい
た。
﹁⋮⋮これは別にいい。どうせもう着れん﹂
﹁何故にしてぞ?﹂
﹁考えても見ろ。貴様を連れて逃げた男のマントしてあれだけ注目
を浴びたんだ。どの面下げて使い続けられる。今日下ろしたばかり
62
だが止むを得ん。⋮⋮いや、逆に僥倖か? 私の物だと知っている
人間がほとんどおらんからな﹂
羽織っていたマントを脱いだ兎パンツは、下に着ていたスカーフ
を外して私に放り投げた。どうやら拭けということらしい。これま
で汚してしまうのは気が引ける。
動きを止めていると、スカーフが回収された。それを視線で追う
間もなくごしごしと頬が擦られ始める。
﹁己が自身でなさるぞにょ︱︱!﹂
慌てて逃げると、あっさり投げて寄越される。
﹁だったら自分でやれ。大体貴様、今までどこにいたんだ﹂
﹁十ばかし数えた日頃の行いにょんぞろりよりにけりて、娼館にお
楽しみ中邪魔するぜの御様子でございましにょ﹂
再度窓の外を、そーっと伺っていた兎パンツは、ぴたりと動きを
止めた。そのままぎしぎしと関節を軋ませるように私の前にしゃが
みこむ。
﹁娼、館? ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮売れるのか?﹂
﹁失敬無礼不躾もの︱︱ !私如きとて、それ故の言葉を拝借する
にご教授願うぞりょ!﹂
上から下までまじまじと見つめた結果、真顔で大変失礼な言葉を
頂戴した。
兎パンツ、貴様⋮⋮私を怒らせたな?
私だって大人の女。ルーナと手を繋いだのも初めてのチューも、
私からだということを知らないのか! 知らないよね! うん知っ
てる! まあ、手を繋いだのは、男所帯のこの世界で、どうしても甘いも
のを食べたくなった私が思考錯誤した結果、分量とか細かいことあ
んまり考えなくていいクッキーを焼いたのを早く食べたくて、否、
食べさせたくて、ルーナの手を引いて走ったことに端を発するわけ
だが。
63
そして、初めてのチューは、情熱的だった。
血の味がしました。
身長が変わらなかったのが敗因だと思われます、否、勝因だ。転
んだ拍子に唇が当たっちゃった、きゃ! とか、少女漫画じゃよく
あるけど、あれ、実際やるとかなり痛い。その後きゃーきゃー言う
余裕なんか吹っ飛ぶくらい、本気で痛いよ。なんせ歯と歯が当たる
んです。歯は骨な訳で、そのまま顎骨とかに振動くるわ、これ歯折
れてない!? という本能的な恐怖で涙目ですよ。ルーナも口元押
さえて悶えてましたよ。その腰の細いこと細いこと、くびれを作ろ
うと奔走する世の女子が羨む細さで、例に漏れず私も存分に羨みま
したとも!
っていうのは置いておいて、私は大人の女の余裕で、十五歳ルー
ナを落とした、いや落とされた? ⋮⋮⋮⋮⋮⋮な、私は、肉食系
の女!
しかも今回は娼館にご厄介の身とあって、男をお手玉にころころ
する手練手管はお手の物! まあ、お姉様達から教えてもらったん
だがな!
こほんと喉の調子を確かめて、私は兎パンツにしなだれかかった。
私、いま凄くペンキ臭い。
﹁お兄さん⋮⋮今晩どう? たーっぷる、サービス、し・て・あ・
げ・る﹂
固まった兎パンツの頬を指で撫でながら、手順を確認する。カル
ーラさん曰く﹁最後が肝心﹂だそうだ。
えーと、ウインクは練習したけど﹁あんたはやらないほうがいい。
寧ろやるな﹂のお墨付きが出たから却下だ。するりと首筋に手を回
して、耳元で一言﹁うふん﹂で完璧だ!
えーと、出来るだけ色っぽく色っぽく⋮⋮⋮⋮。
﹁うほっ﹂
64
﹁何でだ!?﹂
それまで固まっていた兎パンツは、まるで呪縛から解けたように
怒鳴った。私の﹁突撃、隣のお姉さん!﹂作戦が呪縛とか失礼だ。
ちょっと言い間違えたみたいだけど、今ならまだ挽回が効くはずだ!
﹁うはん、あほん、うほっ!﹂
頑張ってみた。
兎パンツは私の肩を両手で掴み、ふるふると首を振る。何だろう。
世は無情って顔をしてる。
﹁騎士ルーナ⋮⋮同年代の若手騎士からの憧れを一身に背負う、今
や国すら背負う騎士ルーナ⋮⋮⋮⋮この女の何が良かったんだ? 否、女か? これ﹂
﹁兎パンツが無礼者にょり︱︱︱︱!﹂
﹁兎パンツ言うな︱︱︱︱!﹂
チョップ喰らった。
痛かった。
チョップした。
これまた痛かった。
騎士って頭皮も鍛えられるものなんですか、そうですか。凄いで
すね。
じゃあ、ルーナは禿げる心配ないんだね!
よかったね!
ついでに、私の頭皮も鍛えられてたみたいです。兎パンツが痛そ
うにしてる。
じゃあ、私も禿げないね!
よかった!
二人で頭と手を押さえて悶えていると、兎パンツがはっとなって
剣の柄を握った。
視線を辿って耳を澄ますと、蹴散らしてきたせいで工事道具が散
65
乱した階段を、誰かが上ってくる音に気付く。
兎パンツは音も立てずに立ち上がる。さりげなく私の前に移動し
た動きがルーナに似ていて、騎士という職業を思い出す。
﹃騎士は、守るものだ﹄
私にそう教えてくれたルーナは、すぐにくしゃりと照れた顔で笑
った。
﹃だから俺は、カズキを守るよ﹄
可愛かった。ああ、可愛かったさ。
なのにどうしてああなった!?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮貴様は何を一人で身悶えてるんだか﹂
﹁世の中は無情絶望遣る瀬無さに溢れてやがるぜ全くがにょろんぴ
ん⋮⋮﹂
﹁緊張感が続かんから黙っていろ!﹂
兎パンツが一番煩い件。
扉が外された入口の足元に転がっていたノミが、何者かに踏まれ
てかたりと鳴った。
﹁お嬢様、いました﹂
ひょこりと現れたのは、茶髪の青年だ。別に彼がちゃら男という
わけではない。
この世界の皆様は地毛がカラフルだし、瞳もカラフルだ。その中
で黒髪黒瞳の私は、実は珍しい部類に入る。﹃美人黒曜﹄さん達が
揃いも揃ってあの色を保持していることに驚いたくらいだ。
﹁ネイさん!﹂
制止するように伸ばしていた兎パンツの腕をくぐって駆け寄る。
青年は、片手をぴたりと上げて私を制した。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁イギュネイションスル!﹂
﹁イグネイシャルスです﹂
66
定番のやり取りは、私がネイさんの本名を言えないからだ。
﹁言えないなら仇名でいいよ﹂とリリィから許可をもらい、ネイ
さんになった。普通はそこを取って仇名にしないらしいが、リリィ
は﹁本人が分かればいいよ﹂と優しい。
ネイさんは、リリィの護衛だ。というか、娼館の門番みたいなの
もやるらしく、いうなら自警団のようなものらしい。詳しくは知ら
ない。それは興味がないからではない。私に教えてもらえない内容
だからでもない。つまり、詳しく聞ける言語力がだな⋮⋮。
初めてリリィに会った時もそうだが、一見一人で歩いているよう
でいて、リリィの傍には必ず誰かがいるようだ。隣にいるか隠れて
るかの違いらしい。分かる、分かります。リリィ可愛いから、一人
で歩かせるとか心配堪らんですよね! 分かりますとも!
ネイさんは、私を上から下まで見て、一つ頷いた。
﹁無事、ですかね? 全く、王族の方もいらっしゃる宝石店で行方
不明になるのは貴女くらいのものですよ﹂
﹁ごめん面目丸潰れなにょろぞうぞ﹂
﹁お嬢様も大層心配なさっておいでです﹂
[いやあああああああああああ! ごめんリリィ︱︱︱︱︱︱︱︱
! 猛省します猛省してます反省ポーズで半日過ごします!]
﹁⋮⋮⋮⋮俺との態度の差に納得いきませんが、お嬢様︱︱。上が
ってきて頂いて大丈夫ですよ。怪我もないですし、このテンション
保ててるんなら危険もないでしょう。若干一名騎士がいますが、ま
あ、俺も負けないよう頑張ります﹂
ネイさんが階段下に向けて声をかけると、てこてこと小柄なおさ
げが上がってくる。
﹁いた﹂
﹁リリィ! ごめんするにょろぞうさん!﹂
﹁にょろぞうさんが誰かは分からないけど、無事ならいいよ﹂
67
﹁えっと⋮⋮ごめん! 愛してるのはお前だけだよ! あいつとは
何でもないんだって! お前だけ! お前が一番! だぞり!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ、あのね?﹂
懇切丁寧に説明してくれたリリィは天使だ。
そして、よりにもよってな台詞ばかりを私に教えてくれた神様は
⋮⋮神様だな、うん。
﹁で、あちらさんはどなたさんですかね?﹂
私が正座でリリィから用語解説を受けていると、いい加減痺れを
切らしたらしい兎パンツが指をトントンしていた。
だから、私は答える。知ってることを普通に。
﹁兎パンツ﹂
﹁兎パンツ言うな!﹂
﹁いやでもしかしがかもし、私、兎パンツの名が存じないでありま
すにょろり﹂
正直に言ったのに、兎パンツは苦虫を七匹くらい噛み殺した顔を
して、ネイさんはひゅうと口笛を吹いた。
そしてリリィはというと。
﹁名前を聞くより先に男性のパンツを知るって、カズキって意外と
やり手だね﹂
と、至極真面目に、娼館経営者目線の感想を言ってくれた。
自分が凄く大人の女になった気分だ。
﹁にょんぼるぎん﹂
リリィの真似してこくりと頷くと、その本人からは淡々とした、
ネイさんからは生暖かい、兎パンツからは﹁えー、何こいつー⋮⋮﹂
という視線を頂いた。
大人の女になった気がしてたけど、気の所為だね! ごめんね!
このメンバーが揃うと、結局全員知ってる私が各々を紹介しなけ
68
ればならないようだ。まあ、兎パンツは兎パンツということしか知
らないんだけど。
﹁えーと、兎パンツ﹂
﹁兎パンツ言うな!﹂
即却下された。
﹁えーと、この方々お方々なるぞ、恐れ多くもリリィなるものぞり
ゅんど、恐れ多くもイギュンネイシャルンスであるぞろりんじょ﹂
﹁イグネイシャルスです﹂
即訂正が入った。
﹁そうぞり。それであるが、えーとリリィ、ネイさん、この方々お
方々なるぞ⋮⋮うさ﹂
﹁アリスローク・アードルゲと申す﹂
﹁アリスちゃんだぞろり﹂
私が困っていたら、引き継いで名乗ってくれた兎パンツの言葉を
引き継いだら、青筋走らせて人の頬っぺたを両手で引っ張ってきた。
何故だ!
﹁どこで区切っているどこで!﹂
﹁アーニョルドシュワちゃんでふ﹂
﹁誰だ!﹂
難しい。この世界の人の名前って難しい。太郎は、鈴木は? 花
子は、山田は? 三文字四文字で収まる名前って、本当に幸せなこ
とだ。
﹁アードルゲの騎士⋮⋮﹂
兎パンツもといアリスちゃんの名前を聞いて、リリィはぽつりと
呟く。なんだろう。何かこう、異世界でありがちな過去とか確執か
何かがあった!?
﹁抱かれたい男ランキング二七位﹂
﹁凄まじく絶妙!﹂
﹁微妙って言いたいんですかね﹂
﹁それぞり!﹂
69
﹁ぞりいりませんって﹂
そりゃ全体数から考えたら高い数字なだろうけど、ランキング五
十位から考えると、凄く微妙だ。
まじまじとアリスちゃんを見つめる。ちょっと神経質そうだけど
きりっとした眉、ちょっと広い額。禿げるなよ。すっとした目鼻立
ち。のっぺり顔の日本人からしたら羨ましいこって。
ルーナのほうが断然かっこいいけど、イケメンだと思うんだけど
なぁ。モテないのかな。兎パンツだからだな。あ、兎パンツ履いて
ないって言ってたっけ。次は猫パンツかな?
ルーナ⋮⋮⋮⋮あ、思い出しただけで顔こわっ!
﹁十三家の嫡男が、カズキに何の用?﹂
﹁貴様こそ⋮⋮この者とどういう関係だ。そもそもここは、我がア
ードルゲ家が所有する建物だ。そこに許可なく立ち入るとはどうい
う了見だ﹂
アリスちゃんは威圧感を膨らませて、二人を睨み付ける。二人は
私を探しに来てくれただけだ。
慌てて口を挟もうとすると、リリィはこくりと頷いた。
﹁改装はうちが持ってるから、許可はあるよ﹂
﹁は⋮⋮⋮⋮?﹂
呆けた声を上げるアリスちゃんに向けて、リリィは自分を指さし
て、こてりと首を傾ける。可愛い。
﹁私、リリィ・ガルディグアルディア﹂
ちょっとだけ沈黙が落ちた、と思ったら、凄い勢いでアリスちゃ
んが振り向いた。
﹁何故それを先に言わない!﹂
がくがく揺すぶられると、言えるものも言えない。ちょっと酔っ
てきた。
助け舟を出してくれたのはリリィだ。
﹁カズキが言える気がしなかったから、名乗ってない﹂
70
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
解放されて目を回していると、ネイさんがちょいちょいと指で私
を呼ぶ。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁イギュネルス!﹂
﹁はい違う。ガルディグアルディア﹂
﹁ギュルルンパディア!﹂
﹁はい違います﹂
ちくしょう!
ドヤ顔で言い切った自分が恥ずかしい。でも、言い間違いを恐れ
ていたら、この世界では一言も喋れない。言い間違いを訂正される
恥ずかしさに慣れてきた自分が悲しいけど、それにも慣れた。
﹁カズキは十日前、路地裏で蹲ってたからうちで働いてもらってる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮これを、か?﹂
﹁裏方﹂
﹁だよな﹂
合点がいったとしみじみ頷くのやめてくれるかな。一応本人の希
望で裏方選んだんです。一応。表っていっても裏方しか務まらなか
った気もするけど、一応本人の希望です。
﹁次はそっちの番。どうしてカズキを知ってるの?﹂
やっぱりつっこまれるよね。どうしよう。リリィに嘘つきたくな
いけど、これは喋っていいものなんだろうか。
その辺の判断がまだつかない。それに、自分でも訳分からない事
態になってる。黒曜って何、黒曜って。時代は変われば変わるもん
だ。
あーうー言ってる私を辛抱強く待ってくれるリリィ。リリィを騙
したくない。嘘も嫌だ。
この世界に来て途方に暮れてる私に、とんでもなく親切にしてく
れた。恩を仇で返すのは、日本人でとしてあるまじき行為だ。恩に
は恩で報いる、というほどのことが私に出来るか甚だ疑問だが、恩
71
人に誠意で返すのが、日本人として、人として、当たり前の行為で
はないか。
﹁あ、あの、リリィ﹂
﹁うん﹂
心を決めて口を開いた私の決意を、兎パンツ、じゃなかったアリ
スが遮った。
﹁こいつは黒曜だ﹂
﹁は?﹂
素っ頓狂な声を上げたのはネイさんだ。わりといつでも丁寧な物
言いのネイさんにはしては珍しい、間が抜けた声だった。
﹁黒曜ってのは、ああ、失敬、騎士様。黒曜というのは、あの、高
官でも解けるか甚だ疑問の筆記口頭試験を何度もこなし、作法、礼
法、芸に特化し、尚且つ美しさが求められる、正妃様も真っ青な難
関を突破した女性にのみ授けられる称号でしょうか﹂
二人のまじまじとした視線に耐えられず、私は逃げるようにアリ
スを見るのに、片手で瞳を覆ってしまった。ちょっと説明してもら
えませんかね。ちょっと、ねえ、兎パンツ!
﹁これは⋮⋮⋮⋮本体だ﹂
絞り出すような声を出したアリスの襟首を掴み、ぶんぶん揺する。
﹁何ぞろりその様はであります閣下︱︱︱︱!﹂
﹁私が決めたわけではないわ!﹂
﹁私原点回帰初心に帰れ馬鹿であるにょんぼろりんが、合否出来る
気配は欠片も皆無であります閣下にょろぞんぴ︱︱!﹂
﹁私に限らず、貴様を知る人間すべてがそう思っているわ、たわけ
︱︱︱︱!﹂
なんということでしょう。
﹃黒曜﹄発祥の地である私が、合格できる可能性ゼロな黒曜試験
だと!?
そもそもただの美人コンテストではなかったの!? いや、美人
72
コンテストも既におかしいし、そっちでも参加者になれる気が欠片
もしないけど!
﹁私捜索する必要性が出てきたなが物事を得た結果がこうよーであ
るぞろにょ!?﹂
﹁元は貴様を探す為だったものが、民衆にも支持が出てきた上に停
戦のシンボルとして扱いやすかった理由から政治的問題にまで発展
したんだ! そもそも、貴様本人がいないからだぞ!? 貴様を直
接見れば誰だってそんな高度な存在には成りえんと分かるものを、
本人が姿を消した所為で幾らでも話しを捏造しやすいわ、あまつさ
え騎士ルーナと恋仲になどなるからこんなことに!﹂
﹁ルーナ顔面形相恐怖がぽにょるんぞ︱︱︱︱︱︱!﹂
ルーナルーナルーナ。恋仲だって! 恋仲とかきゃー!
アリスを揺すっているのも忘れて、私は両手で頬を押さえた。恋
仲とか、自分でいうのもちょっと照れるのに、他の人の口から聞か
されるとやっぱ嬉しいもんだね!
あ、でも、思い出しただけで顔こわっ!
ルーナ、顔こわっ!
73
9.神様、ちょっと心の準備について小一時間語りましょう
ガルディグアルディア。
それは、ここブルドゥスの城下街、正確には王都エールムの裏を
統べる御三家の一つ、らしい。娼館経営が主ではあるものの、流通、
飲食店、建築など手広く商売をしている、らしい。本業である娼館
も、貴族や豪族を相手とした高級店だ。過去には王族が利用したこ
ともある、らしい。
王都エールムの住人でこの名を知らない人はもぐり、らしい。
らしい、らしいとなるのは、今まさに聞いたばかりのフレッシュ
な情報ばかりだからだ。フレッシュすぎて、自分でも咀嚼できてい
ないくらいフレッシュだ。いうならば、捕れたてぴちぴちの烏賊を
噛み切ろうとしているようなものだ。
﹁リリィは凄まじい御方であるだにょろー﹂
目の前で揺れるおさげを見て、しみじみ呟けば、くるりと振り向
いたリリィがこてりと首を傾げる。
﹁カズキがそれ言う?﹂
﹁うっ﹂
﹁知名度考えると断然カズキだよ?﹂
﹁摩訶不思議にょろり⋮⋮⋮⋮﹂
何がどうしてこうなった?
人目を隠れて娼館に戻っても、私の頭の中はその一言に尽きる。
十年前は、とにかく毎日のことで精一杯だった。元の世界に戻れ
るのかという不安も、日本を恋しがって泣く暇も夜しかなく、毎日
毎日奔走の繰り返しだ。
74
言葉が分からないのに、周りは屈強で結構下品で荒っぽい軍人ば
かり。騎士だって男ばかりなわけで、そんな中で服の着方から教え
てくれたのはルーナだ。ルーナがいてくれたから、味付けの違うご
飯にだって慣れた。ルーナがいてくれたから、お爺ちゃん軍医さん
に女の子の日の対処法だって聞きに行けた。
ボタン一つ、蛇口一つで何でも出来た世界は遥か遠く、水の用意
一つ儘ならない私にルーナは根気よく付き合ってくれものだ。
朝起きて顔を洗う一動作だって、慣れない身には難しいことだっ
た。
顔を洗うためには水がいる。水を使うためには水を汲まなければ
ならない。水を汲むためには井戸を使えなければならない。井戸と
は、そのまま桶を放り込んで引き上げればいいわけじゃない。桶を
落としたら紐を揺すって中に水を入れなければならないけど、入れ
すぎると重くて私じゃ上げられない。一度水を入れてしまうと傾け
て水を出すわけにもいかず、途方に暮れる。
そんな日々を、ルーナと越えた。
その内、洗濯だって料理だって、何とか様になるようになった。
掃除するに至っても、箒で軍人達を叩きながらこなせるようになる。
毎日毎日が忙しくて、毎日毎日が大変で。
毎日が大切だった。
毎日を一所懸命生きた。言葉は色々危うかったけれど、一年とい
う歳月は時間という名の非常に得難いものをくれた。一年で、朝起
きてから夜眠るまで、一連の生きるための行為を一人でもこなせる
ようになったのだ。
軍人達の下卑た野次にも軽口を返せるようになり、身体はごつく
ても意味なく暴力を振るわない彼らを急かして部屋を片付けさせ、
食事を共にした。
私がこの世界でしたことといえば、それだけだ。ミガンダ砦とい
75
う限りある世界で、そこにいる人達を中心としたこじんまりとした
生活。
それがどうだ。十年の間で、国規模の知名度って何故に?
やってたことは、掃除と料理とルーナに恋するくらいなのに、そ
れの何をどうやったら停戦の女神になるのだろう。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮ルーナ。
﹁うああああああああああああああああ!﹂
突然頭を抱えてしゃがみこんだ私に、リリィは首を傾げて頭をぽ
んぽんしてくれた。やだ、惚れる。
﹁リリィ、どうするが宜しくお願いします!? 私、私、あれほど
までにルーナに迷惑かけてくれやがってしやがってであるに、顔面
発見するにあたって敵前逃亡なるなどと、どのような悪行か!?﹂
どの面下げてルーナに会えるというのだ。
この世界では十年前、散々、自分でも分かるほどルーナに迷惑か
けて面倒見てもらった分際で、顔が怖かったくらいで全力で逃げる
とか酷い仕打ちだ。何という極悪人!
しかも恋人なのに!
いや、今でもルーナがそのつもりでいてくれるかは分からないけ
ど!
﹁あの話聞いた後で悩むところがそこなカズキ、私は好きよ?﹂
﹁ありがとう、リリィっ⋮⋮。私も、リリィ好き! 大好物!﹂
﹁凄く惜しかったね﹂
何か間違えたみたいだけど、リリィが頭をポンポンしてくれるか
らまあいいや。
あの話とは、今はいったん帰った兎パンツ⋮⋮アリスリョー⋮⋮
⋮⋮⋮⋮アリスが説明していったことだろう。
いつの間にか政治的意味合いの強くなった﹃黒曜﹄という存在は、
ついにあり得ない領域にまで担ぎ上げられている。
76
停戦の女神が平和の象徴の天女の祝福、とか、なんだかよく分か
らない二つ名だか三つ名だか知らない単語がつらつら並び、最終的
に恐ろしい規模の権利を託されようとしていた。
グラースとブルドゥスが組んだ停戦条約は、今年十年を迎えた。
十年目の今年、停戦は正式に同盟となる。
それを機に、二度と過去の過ち、この場合は長くにわたる戦争、
を犯さないように特別な機関を設けるという。この機関は、どちら
の国にも口を出す権限を持ち、国王に直接意見を述べる権利すら持
つという。
そんな重要な機関に所属する人間がどうやって選抜されるかとい
うとだ。
まず、グラース、ブルドゥスから各三名選抜。
次に、グラースからブルドゥスに、ブルドゥスからグラースに、
指名選抜各二名。
最後に、今年選ばれた﹃黒曜﹄が指名選抜一名。
合計十一名。
泣けるね!
他にも泣けるポイントはいくつかある。逆に泣けないポイントっ
てあるのだろうか。
アリスは、この件は自分だけの手に負えないと、上司に報告して
指示を仰ぐと言う。その上司、クマゴロウには嫌な思い出しかなか
ったりする。
そもそも、十年前に私がブルドゥス軍に捕らえられたのは、この
クマゴロウの所為だ。
ルーナ達本隊が出ている隙に、いつの間にか訪れていた援軍で数を
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増やしてミガンダ砦を急襲したのがクマゴロウ将軍だった。人手が
足りなくて、壁に張り付く兵士に物を投げつける役割を手伝ってい
た私を、あの混乱の中目敏く見つけだし、壁から引きずり落とした
のだ。
先端に錘がついた鎖に身体を巻き取られ、砦から引きずり落とさ
れた恐怖は日本に戻っても夢に見るほどだった。下が堀だったから
助かったけど、深い堀に落とされた上に鰹の一本釣りみたいに引き
抜かれた恨みは忘れてない。
まあ、その後、助けてくれたルーナといちゃついたがな!
そういえば、クマゴロウにとっ捕まったと話したら、ルーナは噴
き出していた。
⋮⋮⋮⋮クマゴロウじゃなかったのかな。
﹁リリィ、質疑応答宜しいぞろ?﹂
﹁いいけど、カズキの語尾って、幾つかの語尾が混ざってるよね﹂
質問したら逆にこっちが考えることになった。⋮⋮確かに、﹁∼
∼だぞ﹂とか﹁∼∼だろ﹂みたいなことを言っているのを聞いて覚
えた気がする。
そこまで考えて、私ははっとなった。
﹁私、語尾面妖にょろ!? 少々面妖ではなくにして、それほどま
でに!?﹂
﹁うん。特ににょろは、何が元になったのか見当もつかない﹂
あ、それは言いやすいからです。
結局、私はリリィにクマゴロウの本名を聞き直せなかった。リリ
ィが、渡り廊下の向こうからぱたぱた走ってきた人に呼ばれたから
だ。リリィはいろいろ忙しいし、そこに更に私の厄介な事情が転が
り込んできた。どうしたって対処に追われてしまう。
申し訳ない。
リリィは、彼女を呼んだ人の手元の書類を覗き込み、何か色々指
78
示を出している。しょんぼりした私に気付いたのか、とことこ戻っ
てきた。
そして、いつものようにこてんと首を傾ける。
﹁あのね、カズキ﹂
﹁うん﹂
﹁私ね、人って廻るものだと思ってるの﹂
﹁うにょ?﹂
私より幾つも年下に見えるリリィだけど、淡々とした口調は随分
大人っぽく見える。
この世界の人は、私にとって外国の人みたいに年齢が判別しづら
い。逆にこの世界の人に取ったら私は実年齢より子どもに見えるら
しいが。
そういえば、私、リリィが何歳か知らないや。
﹁私ね、昔、親切にしてもらったの。それでね? 私、困った貴女
に優しくしたいの。それで、貴女がいつか、誰か困った人に優しく
してくれるなら、世界って少しは優しい気がするんだよ﹂
情けは人の為ならず、だ。
リリィは、それを実践している。気張っているわけでも、無理を
しているわけでもなく、まるで普通のことみたいに。
﹁あのね、カズキ。カズキはいま、自分じゃちょっとどうしようも
ないことで困ってて、私はそれを手助けできる場所にいる。だから
ね、カズキは気に病まなくていいの。いつか、カズキが手助けでき
る場所で、困ってる人を手伝ってあげたらいいんだよ。そうしたら
いつか、私みたいにただ泣いてるような子どもが、誰かに助けても
らえるかもしれない。そうだったらいいなって、思うの﹂
可愛いリリィ。優しいリリィ。まだ子どもなのに、ただ年を取っ
ただけの人間より余程大人なリリィ。 勿論、私なんて比べ物にな
らない。
79
﹁えと⋮⋮リリィ。あの、にょね?﹂
﹁うん﹂
﹁私、居住いたしとる場所ぞで、リリィ申した発言同様なる語彙⋮
⋮言葉、存在するにょ﹂
﹁うん﹂
﹁えっと⋮⋮⋮⋮情け容赦は人の為ならぬ!﹂
﹁うん?﹂
﹁ならず!﹂
﹁多分、訂正すべきはそこじゃないと思う﹂
どうやらまた何か間違えたようだ。
だけど、リリィは得心したというよりにこくりと頷き、笑った。
ふわりと、まるで花が綻ぶように。
ああ、嬉しいな。いいな、嬉しいな。
ルーナが初めて笑ってくれたときと同じくらい、嬉しい。
人が笑うっていいな。それが大切な人なら尚更、それが自分の言
動でなら更に倍率どん!
どこの世界でだって営みがある。文化が違えば考え方だって違う。
でも、どこでだって人は泣くし、怒るし、笑う。どこでだって人は
優しい、優しくできる。
ああ、いいな。こういうの、いいな。
笑ってくれたことが嬉しいと、私も笑う。するとリリィはもっと
笑ってくれた。
ああ、嬉しいな、素敵だな。
人が笑えば、どこでだって生きていけると思えてしまう。仮令ど
80
れだけ困難でも。
そして、私は違う場所で生きる苦痛を知っている。
知っていても思うのだ。
ああ、嬉しいな、と。
そうして思い出すのはやっぱりルーナで。
ルーナ。
逃げてごめん。ちょっと物凄く、いやいや少々だけど⋮⋮否、も
のごっつ怖かったけど、あれはルーナだ。じゃあ、大丈夫。たぶん。
ルーナと会おう。
⋮⋮違う、ルーナに、会いたいんだ。
まだ私はルーナの恋人だろうか。もう私は彼の過去だろうか。聞
きたいことは沢山ある。婚約の噂は本当なのか。どっちの王女がタ
イプですか。両方とか言われたらどうしよう。女好きって本当かな。
女嫌いって本当かな。⋮⋮⋮⋮男色が本当だったらどうしよう。
まあ、全部会ってみないと分からないことだ。
全部そこからだ。で、どういうことに転がろうと、私は笑おう。
嘗て、ルーナがそう望んでくれたように。今、リリィが笑ってく
れたように。
笑おう。
言葉が違おうが、住む場所が変わろうが、変わらないものは変わ
らないでいいんだから。
リリィが笑うと私が笑って、私が笑うとリリィが笑う。
﹁楽しい﹂
﹁私、同感なるよ﹂
くすくす額を合わせて笑っていると、苦笑したネイさんが足早に
近寄ってくる。
81
﹁はいはい、花が揃って大変眼福ですが、そろそろお客さん達が見
え始めましたよ。いつも通り忙しい夜がきますよ﹂
ネイさんは、いつもの動きやすそうな服の腕に腕章をしていた。
従業員の腕章である。これをつけているということは、本当にすぐ
にでも仕事を開始しなければならない時間ということだ。
娼館は暗黙の了解で日暮れから開店だが、中には真っ昼間から顔
を出す人もいる。そういう人はこれから遊ぶぞ! って人に比べて
顔つきが厳しかったりするから、たぶん商談とかそれ系の裏の話を
こっそりしに来てるんじゃないかって思ってる。
﹁私、花なる批評を受けるしたが、お初でござるじょ!﹂
﹁俺も、女の子花扱いして、ござるじょって返されたの初めてです﹂
どうやらまた何かやっちゃったらしいと首を傾げる。あ、これリ
リィっぽくない!?
嬉々として反対側に傾けると、びきりと筋が悲鳴を上げた。どう
やら勢いをつけすぎたようだ。可愛い仕草は可愛い子がするべき。
分相応に生きろと、そういうことか、私の首よ。
﹁あ、そうだ。カズキ、カルーラがごめんって言ってたよ。今日の
お客さん長いから、空き時間の特訓できないって。何の特訓してる
の?﹂
そういやそんなことを言っていた。でも、カルーラさん、お色気
作戦失敗しました。
がくりとうなだれた私の背中を、リリィはポンポンしてくれる。
やだ、惚れる、とか言わない。もう惚れた。
﹁私、才能なき人柄やもしれぬわ⋮⋮⋮⋮。アリスちゃんを相手取
り、お色直し気配作戦決行したが、見事撤退を余儀なくの事態ぞろ
⋮⋮﹂
﹁うん、何の特訓してたのか分かった﹂
﹁きちりと、カルーラさん直訴でありにける、﹃うはん、あほん、
うほっ﹄も実戦にて使用したじょろ﹂
﹁うん、撤退を余儀なくされた理由も分かった﹂
82
リリィはこくりと頷いた。
可愛い。
本格的に娼館が稼働を始めると、それまでの緩やかな空気は一変
する。表では優雅で非日常な空間が演出されるが、裏では生活感溢
れる現実がてんやわんやで展開されているのだ。
併設された飲食店に出す料理が次から次へと運ばれていき、呼ば
れた女の子は乱れた髪を直しつつ、器用に紅を塗り直して走り去る。
飲食店に出る女の子と、娼館に出る女の子は予約が入らない限りシ
フト制だが、シフト間違えた女の子達がきゃーきゃー叫びながら前
を通過していく。
女性の舞台準備は、いつだって戦争だ。当然私も走り回っている。
﹁カズキ︱︱! 締めて! コルセット締めて︱︱︱︱!﹂
﹁待機︱︱! 少々待機︱︱!﹂
﹁待てない︱︱!﹂
目の前の女の子の背中に足を置き、ぎりぎり紐を締めていく。
﹁いまあたしがしてもらってるんだから、順番よ!﹂
﹁あんたはそれ以上締まらないわよ!﹂
﹁締まるわよ!﹂
﹁喧嘩上等いいぞもっとやれするなじょろ︱︱!﹂
﹁﹁どっちよ﹂﹂
娼館に出る女性陣は、コルセットを締めない。まあ、お客様の﹃
嗜好﹄でつける人もいるけど、大抵は男女差である身体の柔らかさ
を売りにしてるのに、コルセットつけちゃうと外すのも押し付ける
のも面倒だからと外していることが多い。
いまコルセットつけの流れ作業をしているのは、飲食店に出るシ
フトの女の子達だ。ちょっとでも細くくびれを作りたいのは、どこ
の世界でもいつの時代でも同じのようだ。
83
だけど、気の所為だろうか。
﹁もっと︱︱!﹂
﹁ふんだばぁああああああああ!﹂
コルセットを締めつけられてる女の子達より、コルセットを締め
ている私のほうが痩せてきた気がする。世の中って無情だな、あり
がとう!
﹁カズキ︱︱! ネックレス知らない!? 赤いの!﹂
﹁徹頭徹尾赤いにょろ︱︱!﹂
目の前にはずらりと並ぶ赤い宝石達。結局どれでもいいから﹁赤
いの!﹂という結論に落ち着いた。
﹁あ︱、歌いつかれて喉乾いた⋮⋮。カズキごめぇん、お水取って
ぇ︱︱!﹂
﹁了解! お水取ってぇにょろ︱︱!﹂
﹁取ってほしいのあたしなんだけど﹂
ありがとうと受け取った女の子は﹁⋮⋮お水だけってどうやって
教えるのかな? 井戸! 井戸の水を手にかけて、これがお水だっ
て教えれば!﹂と言っている。
どこかで聞いたことがある﹁ウォーター作戦﹂に、私が返事しよ
うとすると喧嘩が勃発した。
﹁あんた! それあたしの! ちょっとカズキ! あいつから取り
戻して!﹂
﹁それなるパンツの所有権を訴えざる者の存在あるじょろ︱︱!﹂
﹁パンツじゃないわよ!﹂
﹁パンツ異なるじょろ︱︱!﹂
忙しい。何はともあれ忙しい。
てんてこ舞い検定とかあれば、きっと一発合格余裕だ。
リリィもネイさんも早足で歩き回っているから、姿は結構見る。
話は出来ないけれど、いつもてこてこ歩いているリリィが、てって
84
ってっと歩いている姿を見るのは結構好きだ。可愛い。
目が回るほど忙しいけど、リリィも頑張ってるし、皆も仕事なん
だ。私も頑張ろう!
抱えていた桶から水を流し、腰に手を当てて気合を入れる。そし
て、甲高い声が飛び交う薫り高き戦場に再び舞い戻った。
きぃきぃ喧嘩する声に﹁じょろ︱︱!﹂、ねぇねぇ問いかける声
に﹁にょろ︱︱!?﹂と飛び回っていると、間髪入れずまた呼ばれ
る。
﹁カズキ﹂
﹁待機! 少々待機︱︱!﹂
﹁カズキ﹂
﹁待機懇願にょろ︱︱! ふん︱︱!﹂
今の私は、お客さんから貰った靴が、男の夢が入りまくりで小さ
すぎて履けないと叫ぶ女の子の為に、靴のサイズを広げている最中
なのだ。少々型崩れしても部屋の灯りを絞れば見えないというアド
バイスを元に、とにかく幅を広げる。これでEEサイズもEEEサ
イズくらいにはなったはず!
縦も、彼女より足の大きいお姉さんにお願いして足を詰め込んで
もらって少しは広がっているはず。お姉さんは﹁わたしも昔あった
わ﹂と笑い、無理やり足を詰め込んで走ってくれた。お姉さん素敵!
﹁如何にょり!?﹂
﹁う、ん、いける! 同伴とか言われなきゃ、いける!﹂
﹁しばし待機! このような軟膏塗布しからば宜しくお願いします
!﹂
﹁うん! ありがとうカズキ!﹂
お色直しを済ませた女の子は、靴擦れを起こさないようにそろそ
ろとお客さんの待つ部屋に戻っていく。
心の中でエールを送りながら見送って、次なる要件に立ち向かう
ことにした。
﹁カズキ﹂
85
﹁次代は何ぞろ︱︱!﹂
もう何でもこい。どんとこい。皆様のお仕事が順調に回るよう、
不肖ながらこの一樹、縁の下の力持ちに全力を尽くさせて頂きます
とも!
さあ、次の戦場は何だと勢いよく振り向いた私に、さっきから続
いていた静かな声が振る。
﹁カズキ﹂
濃紺の髪に、水色の瞳、の下にべったり隈。
あの頃も決して体格がいいとはいえなかったけど、余分なものが
なくなってシャープになった顎と頬、の途中の唇はむっつり引き結
ばれていて。
﹁ル⋮⋮⋮⋮ーナ﹂
﹁カズキ﹂
ルーナがそこにいた。
女の戦場できゃーきゃー叫んでいた声が段々鎮まっていく。
お姉さんの唇から盛大にはみ出た紅が、明かりに照らされる。艶
やかな赤がやけに目についた。
[なん、で⋮⋮⋮⋮]
[話が、したい]
私がこっちの言葉を覚えるより余程早く、余程完璧に覚えた日本
語が耳に心地いい。
記憶にあるより幾分も低い声が、私を呼ぶ。
﹁カズキ﹂
86
日は完全に落ち、灯りが増やされた室内。
ゆらゆら揺れる炎は、影を揺らめかせてルーナの顔を照らす。
炎より熱い何かを滾らせて私を見つめるルーナは。
超絶に怖かった。
顔が。
87
10.神様、ちょっと色々お待ちになって
﹁カズキ﹂
重ねるように名前を呼ばれる。
﹁カズキ﹂
あれだけ騒がしかった部屋の中が水を打ったように静まり返って
いた。この部屋がこんなに静かになったのは初めてだ。
皆の視線を感じる。ちくちくなんて可愛らしいものではない。ざ
くざくだ。
﹁カズキ﹂
﹁た、待機、少々待機! 事態把握なさるまで待機ぞり!﹂
﹁ちゃんと、待った。カズキが靴相手に凄い形相になってる間、俺
はちゃんと待ってたぞ﹂
こんにち
﹁何時如何なる時よりご覧頂けやがったぞ!?﹂
﹁蟹股になって、﹁靴よ観念致すぞろ! 今日がてめぇの命運底を
尽きた日付にょろ︱︱!﹂と叫んでた時からだ﹂
あ、結構前ですね。
そして相変わらず記憶力がいい。私にこっちの言葉を教えている
間に、さっさと日本語を覚えてしまった頭脳は健在ですか。大変羨
ましい。
って、そうじゃない。大事なのはそこじゃない。
皆は驚いて言葉もない。そりゃそうだ。こんだけ怖い顔のルーナ
が突如控室に現れたら、そりゃ怖い。私だって怖い。でも、これは
縁の下の力持ちとして、そしてルーナの恋人︵未確認︶として、私
の役目だ。
﹁ルーナ!﹂
﹁何だ?﹂
﹁何だであるぞりょ! ここなるはリリィと皆の家屋! お楽しみ
88
中邪魔するぜなる行為は慎まれるべきだりょ!﹂
皆の驚きようを見るに、ルーナの訪問は知らされてないし、そも
そもここは来客が入っていい場所じゃない。自警団の誰もついてき
てないどころか、正に今、向こうから大わらわで走ってきてる最中
だ。まさかとは思うけど、勝手に入ってきたわけじゃあるまいな!?
ルーナは記憶よりかなり伸びた身長で、じとりと私を見下ろす。
目つきわるっ!
﹁カズキ、大丈夫。中に入る許可はあるの。ただ、私達を置いて突
っ切っていっちゃっただけで﹂
大柄な自警団の隙間からひょこりとおさげが現れ、てこてこ歩い
てくる。ルーナの横を通り過ぎたリリィは、私の前でこてんと首を
傾けた。
﹁カズキ?﹂
﹁うにょ?﹂
﹁ここ、私と皆と、貴女の家よ?﹂
小さな手が﹁言い間違えちゃ駄目だよ?﹂と肩をポンポンする。
惚れてる身からすると、思わず両手で顔を覆って悶えるくらい幸せ
だ。
本当になんてありがたい存在なんだろう。
リリィのすぐ後ろにいたネイさんは、一つ頷くとくるりと向きを
変える。
﹁ここは花の裏舞台。俺達男は立ち入り禁止です。話し合いの場は
向こうに用意しますから、ここは退いてください。タダじゃあ、彼
女達の裸は見せれませんよって言いたいんですが⋮⋮⋮⋮寧ろ少し
は見てあげてくださいって言いたくなりましたよ﹂
私からすると、寧ろそっち見てです、ネイさん。
ルーナの瞳は、さっきからじとりと私を見据えて動かない。怖い。
89
蛇に睨まれたネズミはこんな気分なんだろうか。いやいや、私とル
ーナは恋人同士︵未確認︶。恋人同士は対等の筈。ならば蛇に睨ま
れたマングースの気分といったところか。⋮⋮あんまり可愛い図式
じゃないな。ならば、赤柴に睨まれた黒柴の気分でいこう。私、日
本人だし。
柴犬同士の睨み合い⋮⋮⋮⋮喧嘩だな!
﹁カズキ。カズキ? 何で戦おうとしてるの?﹂
思わず両手を前に構え、足を一歩引いて体勢を整えた私に、リリ
ィが不思議そうに首を傾けた。これで、向こうでは武道に通じてい
たとか、家が武闘派だったとかなら分かるが、私にそんな特殊技能
はない。
もっとこう、こういう話にありがちな特殊技能を持っておきたか
ったと十年前もひしひし感じた。頭いいとか、武闘派とか、人の心
が読めるとか、美人とか。
しかし現実では、私の頭は残念な語学力だし、韋駄天走りは得意
でも逆上がりは出来ない。顔も﹃黒曜﹄選抜条件に美人が入ってい
ることに驚愕する顔だ。
今の私は、残念な語学力で自分の行いを説明しなければならない。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮行程ぞり?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
頑張って単語を選んでみたけど、やっぱり残念だったようだ。
沈黙したリリィの目がルーナに向く。
﹁⋮⋮⋮⋮成り行きか?﹂
﹁ぞり!﹂
﹁成り行きで臨戦態勢取られた俺は、全然納得できないんだが﹂
﹁ぞろり⋮⋮﹂
またじとりと睨まれる。非常に目つき悪いですね。
でも、今のは私が悪い。思わず戦闘態勢を取るとかどんな再会の
仕方だ。しかも私は武人ではない。武人だったらいいのかと問われ
90
ると、そっちもアウトだろうけど。
何だか妙な沈黙が落ちて居心地が悪い。反射的に韋駄天走りで逃
げだしたくなる雰囲気だけど、ルーナと会おう、ルーナに会いたい
と思ったばかりだったと思い止まる。
まじまじと顔を見てみるが、やっぱりこわっ⋮⋮! 目つきわる
っ⋮⋮!
記憶にあるまだまだ幼さ満載の中性的な顔と、目の前の目の座っ
た青年とが重ならない。でも、目元は変わらない。目つき悪いし、
眉間に山脈の如き皺があるし、にこにこ笑ってた口元はむっつりし
てるけど、ルーナだ。それは分かる。顔怖いけど。
ルーナだ。ルーナがいる。目つき悪いけど。
あれだけ会いたいと泣いたルーナが、ここにいる。目の前に、手
を伸ばせば触れられる距離にルーナがいる。
﹁ル﹂
﹁やあやあやあ! 世界を艶やかに彩る宝玉達! 今日もご機嫌麗
しゅう!﹂
意を決した私の声は、自警団の皆を掻き分けて押し入ってきた酒
樽みたいなおじさんに遮られた。しょんぼりだ。
四、五十代くらいの人だろうか。胸もお腹も区別がつかないくら
いふっくらと膨らんでいる。酒樽おじさんが現れた途端、女の子達
の悲鳴が上がり、ネイさんが前に躍り出た。
﹁ギャプラー殿! 部屋でお待ちくださいと言いましたよ!?﹂
﹁まあまあ、そう固いこというな。目の保養だよ。減るものじゃあ
るまいし、な?﹂
﹁減ります。貴方に見られると色々減ります﹂
両手を広げておじさんの視界を邪魔するネイさんの後ろで、女の
子達がきぃきぃ怒る。それも気にせず、おじさんはにこにこ笑って
手を振っていた。
﹁おお、おお、今日も元気だ胸が揺れる﹂
91
あ、最低だ。
﹁この狸おやじぃいいいいいいいいいいい!﹂
﹁ちょっと! あたし狸好きなんだから狸に謝ってよ! 一緒にし
ないでよ!﹂
﹁狸ごめん! 確かに狸ってよく見ると可愛いよね! じゃあ、猪
?﹂
﹁ちょっと! 猪って食べられるんだよ!? あんな食えない親父
と一緒にしないで!﹂
﹁猪ごめん! えー、じゃあ、何?﹂
ちょっとだけ沈黙が落ちる。
﹁おっさんでしょ﹂
﹁おっさんよね﹂
﹁おっさんね﹂
どうやら結論が出たようだ。酒樽おじさんは、酒樽おっさんにな
った。
﹁おお、おっさんだとも。おっさんという生き物は総じて女性が好
きでねぇ。どれ、ちょいと触らせてくれないか﹂
﹁きゃああああああああああ!﹂
﹁こっちこないでぇえええええええええ!﹂
いきなり阿鼻叫喚になった。
酒樽おっさんが両手を伸ばして女の子のほうに向かうと、女の子
こ
達は櫛だの靴だの何でもかんでも投げてそれを阻止した。
﹁ギャプラー殿! この娘達はうちの宝です! いくらギャプラー
殿でも、ガルディグアルディアの宝に手を出したたらただじゃおき
ませんからね!?﹂
﹁おお、おお、イグネイシャルス。お前は相も変わらずお硬いのぉ。
男が女に惹かれるのは世の摂理だろう?﹂
﹁綺麗に纏めようとしても駄目です﹂
ぴしゃりと言い放ったネイさんに嘆息した酒樽おっさんは、ちら
りと私を見た。いたずらっ子みたいな顔してる。
92
この人誰だろうと思っていると、すぐに酒樽おっさんは見えなく
なった。ルーナが半歩ずれたからだ。顔はこっち向いてるのに、絶
妙に私の視界を遮っている。ルーナ、背中に目があるのかな。
﹁店に出てる娘じゃなければ構わんか?﹂
﹁カズキもうちの娘です! っていうかあんた、自分が案内してき
た騎士の女にちょっかい出す気ですか! 阿呆か!﹂
﹁何だ何だ。つまらんなぁ⋮⋮どれ﹂
ふっと酒樽おっさんがぶれたと思ったら、いつの間にかネイさん
を通り越して女の子達の中に突入していた。
なんという身のこなし。あのおっさん、動ける樽か!
﹁やあ、カルーラ。今日も赤い下着がよく映える﹂
﹁ちょ、捲るんじゃないよこの糞爺!﹂
﹁やあ、イリーナ。今日も君はいい香りだねぇ﹂
﹁嗅ぐな触るな近寄るな︱︱!﹂
﹁おや、ヨスナ。その下着は初めてじゃないかい?﹂
﹁何で分かるのこの酒樽親父!﹂
次から次へと女の子にちょっかい出しては殴られている酒樽おっ
さんは、ネイさんと自警団の手は華麗に避けている。華麗といって
も、酒樽体系だからぼよんぼよんと跳ねているみたいに見える。早
いけど。
﹁うちの娘達にちょっかい出すなって言ってるでしょうが! 自分
の奥方に絡め! この酒樽!﹂
﹁ほっほっほっ! 酒好きにはこれ以上ない褒め言葉だの!﹂
﹁くそっ! お前ら周り込め! 絶対確保しろ! そして吊るし上
げろ!﹂
すっかり丁寧さを失ったネイさんの言葉に、野太い声で﹁応!﹂
と答えた自警団の皆は、部屋の中に雪崩れ込む。
化粧道具にドレスが宙を舞い、風に吹かれた誰かの紐パンツがひ
らひらと私の前まで落ちてきた。
93
ちょいちょいと裾を引かれて、リリィに視線を戻す。正直、蛇に
睨まれた蛙ではないが、ルーナに睨まれたカズキは、こてりと首を
傾けるリリィを見て癒されました。
﹁ごめんね? ガルディグアルディアと同じく、帝都裏三家のジャ
ウルフガドールが連れてきたから大丈夫と思ってたんだけど、カズ
キは会いたくなかった? 一旦帰ってもらおうか?﹂
女の子達と、まだ手を振っているおじさんとの間に起こったこと
は、どうやらいつものことらしくリリィは気にしない方向でいくよ
うだ。でも、私は凄く気になるんですが。
私が向こうを気にしていることに気付いたリリィは、ちょっとだ
け首を傾ける。
﹁悪い人じゃないんだよ? ちょっと最低だから、いい人には見え
ないけど﹂
ちょっとでも最低だったらまずいんじゃなかろうか。
﹁カズキ﹂
あまり耳慣れない低い声に呼ばれる。
はい、分かってます。あっちを見てるのも、あっちを気にしてる
のも現実逃避です。あ、リリィを見てリリィを気にしてるのは、愛
です。
﹁カズキ? どうする? 帰ってもらう?﹂
﹁⋮⋮大事ない、大事ないぞり。私なるは成人の女! 現在逃亡す
るは成人女の恥辱!﹂
自分を奮い立たせるためにガッツポーズをした私に、﹁え?﹂﹁
へ?﹂﹁は?﹂と声が連なる。こっちが﹁え?﹂で﹁へ?﹂で﹁は
?﹂なんですが。
﹁そういえば聞いてなかったね。カズキって何歳なの?﹂
﹁私なるぞろ? 私なる成人女は、現在進行状況十九ぞりょ﹂
妙な沈黙が落ちる。この世界、といっても私はこの二国しか知ら
ないけれど、十六で成人とされていたはずだ。だから私は大人の女
94
! のはずだ。何か間違っただろうか。
この部屋が静かになったことなんて今日までなかったのに、今日
だけで何回も経験してしまった。何でそんなにまじまじ見るんです
かね。
﹁カズキ、カズキ﹂
そんな中でも、いつも通り淡々としたリリィの声が可愛い。反射
的に視線を戻す。
﹁私、十三歳。カズキがずっとお姉さんだね﹂
﹁私なるぞり、見る目如何ほどとお考えであるぞろり?﹂
﹁私より二、三歳お姉さんかなって思ってた。ごめんね?﹂
こっちの世界で結構若く見られることは知っていた。向こうでだ
って外国に行けば日本人は若く見られるから別にショックはないし、
十年前に小学生くらいに見られたことを思えば満足だってしている。
だから、リリィがそんなに申し訳なさそうな顔する必要ないのに。
﹁リリィ、私如きなるはこのくらい屁でもないぜであるじょろ。そ
れ故に、リリィぞ心身痛めるぞろりが、私なるはかーっ、泣けてく
るぜだぞろ﹂
﹁うん、ありがとう。でも、後でいろいろ訂正しようね?﹂
こくりと頷いたリリィが可愛くてほっこりしていたら、身体がか
くんと引かれた。ルーナが私の手首を掴んで歩き出したのだ。私よ
りちょっと大きいだけだった手が、いつの間にか片手で私の顔面掴
めそうな手になっている。
十年って、凄いなぁ。人の成長って何だか感慨深い。
こんな呑気な思考ができるのは、顔が見えないからだろう。こっ
そりと背中に視線を向ける。広い背中だ。前が見えない。昔は細く
てすらりとして、その腰の細さに自分の腹を摘まんでみたものだが
⋮⋮⋮⋮今でもくびれはありますね。羨ましいです。
﹁ガルディグアルディア、先程の部屋を借りる﹂
﹁いいけど、カズキ? 誰かつける? 私いようか?﹂
てこてこ歩いてくるリリィのありがたい申し出に、私は腹をくく
95
った。どうせどこかで話さなければならないだろうし、それがちょ
っと早まっただけだ。心の準備ができてなかっただけで、これは避
けては通れない道で、避けるつもりもない道だ。
﹁大事ないぞろ、リリィ! 逃亡したらば匿って頂ければ嬉しいぜ
!﹂
﹁逃げるつもりはあるんだね。分かった﹂
こくりと頷いてくれたリリィに和みながら、私は引きずられるよ
うに奥の部屋に入った。
ぱたんと木の扉が閉まった途端、外の喧騒が一切聞こえなくなる。
なんという防音性。
初めて入る部屋だけど、中にあるのが応接セットのみの所を見る
と、何か話し合いに使っているのかもしれない。
テーブルの上には茶器が揃えられている。さっきまでこの部屋で
リリィ達は話していたのだろう。
しんっと静まり返った状態で、ルーナはゆっくり振り返った。
﹁俺に、何か言うことは?﹂
﹁[え、えーと]⋮⋮⋮⋮ま、まあ立派になっちゃって! おばさ
んびっくりしちゃった! 前見た時はこーんなに小さかったのに!
学校で前から何番目!?﹂
﹁何で久しぶりに会った親戚のおばさんの台詞を選択した!?﹂
なんと、これは久しぶりに会った親戚のおばさんの台詞だったの
か。
昔、街でおばさんと青年が話してたのを聞いて覚えたのに、間違
っていたようだ。てっきり久しぶりに会った人への挨拶だと思って
たけど、そんなに限定的な挨拶だったとは。
ふと気づけば、いつの間にかルーナは扉側に移動していた。私が
96
逃げないようにですね、分かります。
思い返せば、確かに結構逃げた記憶がある。ルーナが怒る気配を
感じるや否や、猛ダッシュした。韋駄天走りはそうやって鍛えられ
たものだ。
ふーと静かで長い息を吐いたルーナは、まっすぐに私を見た。
﹁カズキ、いつこっちに?﹂
[十日前、です⋮⋮]
﹁とおか⋮⋮[ようか]が八⋮⋮[ここのか]が九だから、十日前
か﹂
[よく覚えてるね]
彼にとったら十年も前の話だ。
素直に驚けば、ただでさえ悪い目つきがすぅっと細まる。
﹁何で、忘れると思ったんだ﹂
怒ってると思った。けれど、すぐに違うと思い直す。
﹁それともお前は、俺のことを忘れて過ごしたのか﹂
傷ついてるんだ。
﹁いきなりお前が消えて、俺はずっとお前を探した。けど、お前は
いなかった。どれだけ探しても、何年探しても、どこにもいなかっ
た﹂
ぎゅっとこめられた眉間の皺は、怖いけど怒りじゃない。目つき
は相変わらずぎろりと怖いけど、そこに傷ついたルーナがいるなら
話は別だ。私はルーナを悲しませたくなんてない。
﹁今日、どうして逃げた﹂
よく見れば、あちこちに面影がある。よく見ないとないけど。
不安そうに揺れる水色、きゅっと食い縛られる唇。
﹁あっちで好きな男ができたのか? ⋮⋮それとも、こっちで? あの男は誰だ。お前と逃げたあの男が好きなのか? 俺より? 俺
はもう、お前の過去なのか?﹂
濃紺の髪が窓から入る月明かりに照らされて、綺麗だ。完全に闇
に溶ける私の色と違い、闇の中でも消えないこの色が、大好きだっ
97
た。
ブルドゥスに捕えられた時も、救い出されたのは夜だった。宵闇
の中を疾走する馬の上で、この髪をじっと見ていたのを覚えている。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ?﹂
ああ、やっぱり好きだな。好きだよ、ルーナ。
なんか獲物を狙ってる猛禽類みたいな目つきも、まあ、慣れれば
きっと愛嬌になる。それだけで人を倒せそうな気迫も、慣れれば私
も放てるようになるかもしれない。この世の不機嫌を背負ってるよ
うなむっつりとした口元も、笑ってくれたら変わるから。
﹁おい、カズキ⋮⋮⋮⋮お前、また人の話聞いてないな!?﹂
私、ルーナに何も話してない。ちゃんと話をしなきゃと思ってい
たのに、何も話してないし、何も確かめてない。ルーナは、まだ、
私と恋人でいてくれるのだろうか。どっちかの王女様と婚約って本
当だろうか。男色っていわれたらちょっと立ち直れないからこれは
後に置いておいて⋮⋮⋮⋮。
違うな。ルーナにいろいろ問い詰めるより、私が言わなきゃいけ
ないんだ。
﹁おい、カズキ!?﹂
私が今どう思ってるか。逃げた理由も話さなきゃだろうけど、ま
ずは、今の私の気持ちをルーナに知っていてもらわないと。人の心
を問い詰めたいなら、私の心を曝け出してからだ。
﹁ルーナ!﹂
﹁何だ!?﹂
幾つになっても、それが何度目でも、告白って勇気がいる。
私はぎゅっと拳を握りしめて、ルーナをまっすぐに見た。
﹁私、ルーナ好き! 大好物!﹂
ここ最近で一番の勇気を振り絞った告白で、私の顔は真っ赤だろ
う。ルーナの目が昔と同じくらい夜目が利いたらアウトだな。⋮⋮
98
そういえば、これリリィに言ったら惜しいと言われた気がする。け
ど、凄く惜しいということは概ね合っているということだから大丈
夫だろう。
それに、相手に好意を伝えるなら、やっぱり現地の言葉がいいと
私は思う。
心臓がバクバクいうし、膝まで震えてきた。
ルーナ、ルーナ。私はルーナ好きだよ。まだ好きだよっていうか、
好きじゃなくなるとかありえないよ、大好きだよ。そりゃ、顔こわ
っ、目つきわるっ、って思うけど。人は顔じゃないよ、ルーナ。だ
から私も顔じゃないと思ってもらえれば嬉しいです。
どきどきしてルーナの答えを待ったけど、部屋はしんっと静まり
返っている。
渾身の告白をスルーされたら流石に泣けるんですけど。
もしかして、私がまだルーナを好きなのは迷惑なんだろうか。で
も優しい人だからそれを言えずに悩んでいる⋮⋮⋮⋮にしては、何
だかぽかんと呆けた顔をしている。
こうしてみると昔と変わらなく見えるから不思議だ。
[ルーナ? そ、その⋮⋮どう?]
待ちきれずに返事を促してみると、ルーナの顔が夜目でも分かる
くらい真っ赤になっていく。
自分でも自覚があるのか、ルーナの大きな手は自分の口元を覆っ
た。
﹁よ、喜んで﹂
[え? 何が?]
びっくりしている私に、ルーナは途端にむっとした顔になる。
﹁何がって⋮⋮まさか、またお預け食らわす気じゃないだろうな。
お前、あれ本気で酷いからな!?﹂
[私、ルーナのおやつ取ったりしてないよ!?]
99
﹁なんでおやつ!﹂
[何が!?]
﹁お前が何なんだ!?﹂
言葉が擦れ違っている気がする。会話が噛み合わない。
未だに言葉が怪しい私と違って、ルーナは物凄く早く日本語を覚
えたけど、やっぱり齟齬がある。今回もきっとその齟齬が会話を混
乱させているんだ。
今すぐ言語力を急成長させることは出来ない。なら、私にできる
事は一つ。恥をかき捨て、行動で示すのみ!
﹁ルーナ好き! 大好物︱︱!﹂
叫びながら、ルーナに思いっきり抱きついた。ちょっと意気込み
すぎて体当たりになり、胸筋で思いっきり顔面打ったけど、ルーナ
はちょっと揺れただけで倒れない。凄い。昔は滑って転んだ私を助
けようとして、一緒に潰れていたのに。
﹁ルーナ好き! 私、長期的にルーナ好んでる! ルーナ大好物、
真実に大好物!﹂
好きだよ、ルーナ。私、ずっとルーナが好きだよ。
そりゃ、ルーナが過ごした時間に比べたら十分の一にも達してな
いけど、でも本当にルーナが好きなままなんだよ。
言葉が不十分なら行動で示そうと、ぎゅうぎゅう抱きついていた
ら、そろりと上がってきたルーナの手が腰に回りそのまま抱きしめ
られた。
﹁カズキっ⋮⋮⋮⋮﹂
記憶にある腕は細くて、腕を回した背中は骨が浮き出ていた。何
か衝撃があれば折れてしまうんじゃないかと本気で心配したくらい
だ。何かが当たっても衝撃は骨まで直接来るんだろうなと思うと、
大事に大事に、おっかなびっくり触れてしまった。そして、﹁女の
子扱いするな﹂とよく怒られたものだ。実際は女の子扱いではなく
子ども扱いだったのだけど、黙っておこう。
100
いま私を抱きしめる身体は、私を全部包んでもお釣りがくる。手
を回した背も、ぱんっと張った男性特有の広さと硬さ、そして熱さ。
ちょっと冷え性だったのに、筋肉が燃えているのだろうか。私を抱
きしめる腕もしっかりとした、硬くてちょっと痛いし苦しいくらい
の力だ。どこか不安になる華奢さも、細さもない。
この人は本当にルーナなのだろうかと、記憶が目の前の彼を否定
する。けれど、懐かしい匂いがする。これはルーナの匂いだ。睡眠
的な意味で一緒に眠った夜は、この匂いにどきどきして、そして安
心した。
ルーナが私を抱き返してくれてる。まだ、私を恋人と思ってくれ
てると考えていいのだろうか。夢みたいに嬉しい。身体がふわふわ
する。
﹁ルーナ⋮⋮私、真実ルーナ大好物⋮⋮⋮⋮﹂
﹁絶対違うと分かってるのに、ほいほい釣られる自分が憎い!﹂
﹁ルーナ、未だ私なるを好物?﹂
幸福な気持ちで硬い胸板に頬を寄せていたが、顔を上げると苦渋
に満ちた顔があった。目つきの悪さと眉間の皺と食い縛った口が⋮
⋮⋮⋮怖っ。
[⋮⋮私、迷惑だった?]
﹁⋮⋮分かってる、分かってるさ。お前のことだから、その気は欠
片もないって⋮⋮﹂
[ルーナ⋮⋮その、大好き、です、よ?]
乾いた笑い声をあげるルーナに、とりあえず自己申告しておく。
これで私の気持ちは伝えた。ただでさえ不確定要素が多いのに、伝
えなかったことで擦れ違うなんてごめんだから。
ルーナに好きといえなかったが故に喧嘩して、その直後に戦闘に
出たルーナを見送るなんて二度とごめんだ。
﹁ルーナが、大好物﹂
目をまっすぐに見て伝えると、一瞬水色が揺れる。そして、こっ
ちが驚くほど爽やかににこりと笑った。
101
﹁俺もカズキが大好物﹂
﹁ん?﹂
﹁そんなに、俺のこと好物?﹂
﹁んにょ?﹂
あれ? なんだかヒアリングが上手くいってない気がする。でも、
ルーナがこっちの言葉間違ってるわけないだろうし。
好物⋮⋮あれ? 私、もしかして間違えた?
むっつりした口元は驚くほどにこやかに笑っているのに怖いのは、
目が笑ってないからだろうか。でも、瞳は綺麗に澄んだ水色だ。ま
るで、森の中の湖みたい。
﹁ルーナ?﹂
記憶にあるより硬い皮膚を纏った指が、私の顎を掬い取る。
﹁だったら、どうぞ好きなだけ召し上がれ︱︱︱︱⋮⋮﹂
あれよあれよという間に、怖いけど端正な顔が近づいてきた。
そのまま私達は、十年ぶり︵十か月ぶり︶に、キスをし
なかった。
弾かれたように私の頭を抱え込んだルーナが身を翻したと同時に
窓が割れ、さっきまで私達がいた場所に何かが突き刺さった。
それが飛んできた音と刺さり方で分かる。戦場ではそれこそ雨の
102
ように降っていた。
これは、矢だ。私達は矢を射られたんだ。
﹁貴様っ⋮⋮!﹂
ルーナの澄んだ水色が、一気に怒りに燃える。
﹁何で後一分待てない!﹂
[え!? 一分もちゅーしないよ!?]
﹁俺はこれでも妥協してる! 寧ろ一分のキスのみで済ますことを
褒めろ!﹂
[褒める要素は一体どこに!?]
私より夜目が利くルーナは、既に日が落ち切った空を睨み付けて
いた。おそらくそこに刺客がいたのだろう。騎士らしからぬ舌打ち
が聞こえたけど、恋人の誼で上の人には内緒にしてあげるよ。
ひくりと私の鼻が何かを嗅ぎつけた。
私は、夜目は利かないけど鼻は利く。こと、食べ物に関しては絶
対の信頼を誇る。
その鼻に、久しく嗅いでいなかった臭いが届く。
[ルーナ⋮⋮⋮⋮]
﹁え?﹂
[燃えてる!]
私が叫ぶと同時に、世界が一変した。
窓の外を、まるで昼と見紛うばかりの明るさが走っていく。割れ
た窓の外を赤い炎が撫で上げ、割れたガラスの隙間から、怒声と悲
鳴が部屋に雪崩れ込んできた。
103
11.神様、ちょっと色々譲れません
扉を開けた向こうは、数分前とはがらりと景色が変わっていた。
まるで世界が裏返ったみたいだ。
昼間みたいに明るいと思った。けれど、すぐに違うと思い直す。
太陽みたいな白さはない。あるのはもっと橙色の光と、それさえ
も覆い隠す黒煙だ。
﹁何て防音性だ﹂
ルーナは、呆然と今までいた部屋を振り返った。窓が割れ、扉を
開けて初めて気づくほど、この部屋の音を遮断する能力は高すぎる。
よく見ると窓は二重になっていたし、そもそも窓は嵌めるだけで開
かないタイプのようだ。
廊下の向こうから怒声と悲鳴が響いてくる。流れ込んでくる黒煙
の勢いで、火の大きさも分かった。
﹁リリィ!﹂
﹁馬鹿! 体勢を低くして布で口元を押さえろ!﹂
思わず駆け出した身体をルーナが押さえる。確かに、火事で一番
まずいのは煙だ。火は確かに危ない。けれど煙は、下手に吸い込む
と一瞬で意識を失ってしまう。
慌てて袖口で口元を覆い、中腰で歩を進める。ルーナはいつの間
にか剣を抜いていた。
廊下を二つ曲がって、愕然とした。そこはいつも大量の洗濯物を
こなす中庭だ。建物に囲まれ、這うように伸びた渡り廊下の中央に
ぽっかり空いた土のあるスペースまでもが燃えている。
土が燃える。その理由を私は知っている。
[油が、撒かれてる]
104
開けたところに出て、改めて火の規模に愕然とした。
娼館全体の窓から火が噴きだし、皆が井戸の水を必死になって組
み上げている。あれだけ綺麗に着飾った女の子達の髪が焦げていた。
火は、もうすぐそこだ。
消火を手伝おうとした私の身体は、逆方向に突き飛ばされた。つ
んのめって顔から地面に倒れ込み、鼻を擦りむく。
突っ伏した私の上で、鉄と鉄が組み合わさる音がした。これは剣
と剣がぶつかり合う音だ。あれだけ戦場で聞いた音が、何でここに
あるんだ。
リリィと皆が、私も入れてくれた家の中で、鳴ってはいけない音
なのに。
そろりと頭だけを上げる。私を跨ぐようにルーナが立っていた。
ルーナの外套が邪魔でよく見えない。邪魔にならないよう視線だけ
を動かす。
いつの間にか外套のフードを目深にかぶったルーナは、左手で構
えた長剣で目の前の男からの剣を防ぎ、右手の短刀を逆手に持って
いた。右側には折れた矢が見える。
お互い一歩も引かない剣が、ぎちぎちと音を立てる。研いだ刃物
同士が立てる音とは思えないそれが、どれだけの力で押し合われて
いるのかを証明していた。
相手は体格的に男だと分かるけれど、それだけだ。額も口元も覆
われていて、目だけしか見えない。けれど、驚愕しているのは分か
った。
﹁グラースの騎士だと⋮⋮!?﹂
お互い顔は見えない。男がルーナを騎士と断定したのは、その獲
物にある。
軍人は長剣とナイフを持つのが主流で、騎士は長剣と短刀が基本
なのだ。
105
グラースのとついたのは、ルーナが二本の武器を扱ったことが理
由だ。
この世界の人に左利きはいないらしい。右脳涙目だ。短刀もナイ
フも、長剣が扱えない状況の予備で使われることが多く、一緒に使
うのは珍しい。
私の利き手が左と聞いて、皆が物凄く驚いていたのに驚いた思い
出がある。その手があったかと、砦の皆は左手でも武器を使う練習
を始め、今では両利きになった人も多い。ルーナもその一人だ。
砦の皆が強くなったと言われる理由に、もしかしたらそれもあっ
たのかもしれない。
顔のすぐ傍で、重量感あるルーナのブーツが擦りあわされたまま
少し動く。
[動けるか? 動けるなら合図して向こうに走れ。合図は何でもい
い、お前が決めろ。俺はそれに合わせる]
視線を相手に向けたままのルーナの言葉に頷いた。見えてないだ
ろうけど、気配で分かってくれるはずだ。
それにしても何でもいいが一番困る。
[一、二⋮⋮]
無難に日本語で、だー! までいこうとしたが、男の足が韻を踏
んでいることに気付いた。日本語は分かっていないだろうが、リズ
ムはとれるのだろう。寧ろ日本語を分かっていたら韻など踏まない
はずだ。無意識にリズムを計られていると気づき、咄嗟に変更する。
高校時代、これを覚えたら十点くれると言った国語の先生の言葉
でクラス中が必死になって覚えたものだ。こんな物これからの人生
で必要ないとか思っていたけど、必要でした。ありがとう先生!
[じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎ
ょうまつうんらいまつふうらいまつ]
[⋮⋮⋮⋮それ、まだ続くか?]
[ごめん、省略する⋮⋮ポンポコピーのポンポコナーのちょうきゅ
106
うめいのちょうすけ!]
最後を言い切ると同時にルーナが踏み込んだ。力付くで相手を押
し切り、私の上から離れていく。その隙に跳ね起きて駆けだす。
[転ぶなよ!]
[分かって⋮⋮⋮⋮なかったね!]
しっかり震えていた足は、あっという間に縺れて盛大に転ぶ。し
こたま鼻を打ち付けて悶えた。これで、鼻が低い日本人でも顔で一
番高い部位は鼻だと二回に渡って証明されたわけだ。
がばりと、腕の力で上体を持ち上げる。大丈夫、震えてるけど力
は入った。
そのまま勢いをつけて起き上がると、転がるように、ではなく、
実際転びながら渡り廊下に飛び乗る。
こんなの、怖いに決まってる。
日本なら、﹁まさかー﹂とか﹁そんなわけないって﹂で済むこと
が、それでは終わらないのがこの世界である。飛び交う矢は本物で、
斬り結ぶ刃物も本物で、熱気だけで焦げ付きそうな熱さが走り抜け
るのも、殺意も、現実だ。
怖いのは仕方ないと昔に割り切った。出来ないことをただ嘆くの
もあの頃散々やったから、もう飽きた。そして、出来ることを一所
懸命しようという決意なら、既に終えている。
自分が情けないのも、みっともないのも嫌だ。私にだってプライ
ドくらいある。けれど、自分の恥より嫌なのは、許せないのは、そ
んな私を守ろうとしたルーナが怪我することだ。
逃げるしかできないならしっかり逃げる。そのくらいできなくて、
何が成人だ。
少し高い位置にある廊下によじ登るとすぐに、お互いの背後を守
るように円陣になっている女の子達と、その中心にいる怪我人とリ
リィを見つけて駆けだす。
﹁カズキ、無事かい!? 西棟には入るんじゃないよ! あそこは
107
もう無理だよ!﹂
さっと円陣が割れて私を中に入れてくれたカルーラさんはナイフ
を持っている。よく見ると円陣を組んでいる女の子達は、それぞれ
何かしらの武器を構えていた。だが、素人目にも使い慣れているだ
ろうと思えた人は少なく、中には花瓶を抱えている女の子もいる。
怪我人の手当てをしているリリィは、私に気付いてぱっと顔を上
げた。騒動でインクをかぶったのだろうか。茶色の髪が半分黒い。
﹁よかった。あの部屋、外の音が聞こえないようにしてるから、呼
びにいかないとって思ってた。後手でごめんね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮リリィ、質疑応答宜しいか﹂
ぎゅっと拳を握りしめた私をじぃっと見たリリィは、初めて首を
振った。
﹁駄目。手当が先﹂
淡々と手当を続けるリリィに、私は唇を噛む。駄目だは、こっち
の台詞だよ、リリィ。
怪我人は女の子ばかりだ。そして、髪の色の濃い子。
正確には、夜目で黒髪に見える子、だ。
﹁標的なるは、私で正解ぞ﹂
﹁カズキ﹂
﹁私なるを定めた矢ぞろ﹂
﹁カズキ﹂
私の、所為だ。
リリィは、いつも癖のように首を傾ける動作をしなかった。
﹁あいつらの目的がカズキだとしても、それは貴女の所為じゃない。
それで私達が怪我をしたとしても、何一つ、カズキが悪いことはな
いんだよ﹂
淡々としているのにどこまでも優しい言葉と声音に、思わず縋り
つきたくなる。同時に、違うと叫びそうになる。私の所為だと叫び
だしたいのに、そうだと言われると死にたいくらいつらいだろう。
我儘な自分の言い分を口に出すことだけはしたくなくて、唇を噛
108
み締める。
その時、窓が開いた。
リリィの左側に聳えるのは北棟で、あそこは四階だろうか。まだ
火が回ってないらしく、ぽかりとした暗闇が口を開く。
暗闇に星が瞬く。違う、あれは。
窓から突き出ていたのは弩だ。ただの弓より扱いやすいと戦場で
も重宝されていたものが、何でここで、リリィを向いてるんだ。
﹁リリィ!﹂
咄嗟にリリィを引きずり倒して覆いかぶさった。小さな身体は、
昔ルーナに感じた華奢さ故の不安を私の手に伝える。
﹁カズキ!?﹂
非難と悲鳴が混ざった声でリリィが叫ぶ。リリィの左側の髪はイ
ンクで汚れて黒い。
矢は、リリィに向けて放たれた。
小さな手が私の頭を庇うように抱きこむが、私は小さな頭を胸に
押し付ける。
﹃カズキがずっとお姉さんだね﹄
そうだよ、リリィ。だからね、私の身体はリリィを隠せちゃうん
だよ。
ぎゅっと瞳を閉じる瞬間、視界の端を光が通りすぎ、次いで矢が
木製の何かに刺さった音がした。ミガンダ砦で、すぐ傍の樽に矢が
刺さって腰を抜かした時と似ている。
そして、重たいものが高い所から落ちて潰れた音。
恐る恐る目を開けると、目の前に、昼間の時よりちょっとグレー
ドダウンしたマントを羽織ったアリスがいた。
﹁⋮⋮⋮⋮アリスちゃん?﹂
﹁だから、それもやめろ!﹂
腕に嵌めた簡易の小盾から矢を引き抜いたアリスは、私の視線が
109
動くのに合わせてマントを払った。一応お忍びマントなのだろう。
色合いも黒に近い色だ。
﹁見る必要がないものは見るな、たわけ﹂
マントが視界を遮る一瞬、それを見てしまう。喉元に深々と小刀
が突き刺さったそれは、ぴくりとも動かなかった。
﹁あ、ありがとう﹂
﹁⋮⋮ふん﹂
振り返ると、短刀を投擲したままの体勢だったルーナが、遠目に
も安堵したのが分かる。対峙していた男は、窓から落ちた男と同様
に地面に倒れていて、そっと視線を外した私の身体が強引に引っ張
られた。
﹁カズキ! 怪我は!?﹂
私の腕から抜け出したリリィは、がばりと私の服を捲り上げる。
急回転して回れ右したアリスのマントが、勢いがつきすぎて私の頬
をビンタしていった。痛い。
﹁怪我、カズキ怪我は!?﹂
リリィは次から次へと私の服を剥ぎ取ろうとしている。
﹁無傷! 無傷だぞろリリィ!﹂
﹁鼻怪我してる!﹂
あ、これは寧ろ、鼻以外を怪我してたら落ち込むところです。
リリィが怒ってる。
樽引っくり返しても、桶引っくり返しても、滑った拍子にチョッ
プしちゃっても、絶対怒らなかったリリィが、物凄く怒ってる。
早足で近づいてきたらしいルーナに、ヘルプを出す為に視線を向
ける。
﹁うぉわああああああ!?﹂
なんか怖いのきてると思ったらルーナだった。
こっちはこっちで慄くくらい顔が怖い。よくよく見ると、こっち
が阿呆な事をした時に見せる、何か言いたいけど何を言うべきかみ
110
たいな諦め半分、苦笑半分みたいな顔だった。けれど、記憶にある
顔との差が激しすぎた。さっきの間でちょっと慣れたと思ったけど、
炎を背に逆光状態で不意打ちされると慄く。
私の悲鳴にちょっと傷ついた顔をしたルーナに、ぺしりと額を叩
かれた。意識がそっちに逸れたことに気付いたリリィは、私を引っ
張る。
﹁カズキ!﹂
﹁はっ!﹂
﹁私、カズキの所為じゃないって言ったよ!﹂
﹁はっ!﹂
﹁だから、カズキがこんなことする必要ない! もう二度としちゃ
駄目!﹂
私の身体のどこにも矢が刺さってないことを確認したリリィは、
硬く強張った身体で私を睨み付ける。 ごめん、リリィ、可愛い。
﹁えっと⋮⋮[ごめん、ルーナ。翻訳して。ちゃんと伝えられる気
がしない]﹂
﹁俺はいいけど⋮⋮⋮⋮そっちはよくないんじゃないか?﹂
[え?]
視線で促されて目線を戻すと、リリィが半眼になっていた。ごめ
ん、リリィ、可愛い。
﹁カズキの言葉がいい。カズキの言葉で、ちゃんと伝えてくれるな
ら、聞く﹂
周りではどこかでガラスが割れる音がしているし、自警団の皆が
襲撃者と戦闘を繰り返しているのに、私は言語力が試されている。
こんなことをしている場合じゃないと思うのと同時に、いま、これ
以上大事なことはないとも思えてしまうのは何故だろう。
﹁えー⋮⋮と、リリィ﹂
﹁うん﹂
﹁これなる事態が私の所為なるぞ有無は、少々の期間あちらこちら
に配置するぞろしても﹂
111
﹁うん﹂
﹁私、何卒の前提が存在ぜずとも、リリィ負傷、嫌ぞろ。であるか
らすらば、私、次なる前例が存在にょろも、再度再びやるにょ! ごめんぞろり!﹂
どこかでまた、ガラスが割れる音がする。
こんな事態を引き起こしたことへの謝罪より先に、頭を下げるこ
とがあるとは思わなかった。でも、撤回はしない。ごめんね。
﹁駄目﹂
﹁うん﹂
﹁許さない﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮いつもと、逆だね﹂
﹁ぞり﹂
﹁そっちが定着しちゃったね﹂
どうしてだろうねと、リリィがこてりと首を傾げて苦笑する。
﹁リリィにご教授願ったぞろ関わらず、このような結果であるが大
層不徳と致す遺憾が申し訳ないにょろり﹂
小さな手が両手で私の手を握る。くんっと軽く惹かれて傾いた頬に、
柔らかい感触。
﹁ありがとうのほうが、好き﹂
﹁ありがとう!﹂
﹁私こそ、庇ってくれてありがとう﹂
リリィが頬にキスすると同時に囁いた言葉に即座に反応したら、
まるでキスに対してお礼を言ってるみたいになった。あながち間違
ってもないけど。
﹁⋮⋮⋮⋮俺のときより嬉しそうな顔してないか?﹂
ルーナがぼそりと呟く。あながち間違いでもないね!
とりあえず廊下が入り組んだ場所まで移動する。ここはまだ火が
112
回っていない。その為暗いけど燃えてるより余程いい。
怪我人をそっと下ろして、無意識に息を長く吐いていた。
﹁きっと、私が色々買い物に付き合わせちゃったから、目立っちゃ
ったんだと思う。今はとにかく逃げて。ここに隠し通路があるから﹂
暗がりでよく見えないけれど、扉がある壁の右下に通風孔みたい
な四角い場所がある。壁にぽかりと開いた長方形の穴は、ここだけ
ではなくあちこちにあるのを見かけた。ここにあるのは心成しか少
し大きく見える。成程、一般的な通風孔を模していれば、確かに探
しにくいだろう。木の葉を隠すなら森の中という奴だ。
かろうじて人が一人通れそうな穴をじっと見つめる。這うのは大
変そうだけど、頑張るしかない。
﹁そういえば、騎士アードルゲはどうしてここに? 騎士ホーネル
トはジャウルフガドールと知り合いだから分かるけど﹂
そういえばそうだ。
明日また来ると言っていたのに、どうしてこんな時間、こんな時
に戻ってきたんだろう。
周囲をちらりと見たアリスは、﹁今更か⋮⋮﹂と呟いて嘆息して
話し始めた。
﹁⋮⋮⋮⋮数名の黒曜候補が襲撃を受けた。よもやと思いここに来
た次第だが⋮⋮まさか騎士ホーネルトがいるとは思わなんだ﹂
﹁黒曜候補が?﹂
怪訝そうに眉を寄せたのはカルーラさんだ。その話と娼館襲撃に
何の関わりがと言いかけて、
その眼が緩慢な動作で私を見る。
何故か、この世の苦行を一身に背負ったという雰囲気を醸し出し
たアリスが、重い声で続けた。
﹁⋮⋮異世界等という信じられん場所から来た所為で言葉が﹃少々﹄
苦手な、黒髪黒瞳で、少女のような成人女が実際の黒曜だと⋮⋮⋮
⋮伝聞は、知っているだろう﹂
113
娼館の皆の視線を一身に受けて、私はへらりと笑った。
﹁⋮⋮⋮⋮黒曜﹂
﹁う、うはん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮黒曜?﹂
﹁うほっ!﹂
カルーラさん直伝の秘義を発動させたのに、何故だろう。何かと
ても遣る瀬無いものを見るような目が私を囲む。その中でただ一人、
ルーナだけが半眼だ。目つきすっごく悪い。暗闇で見るとどんなホ
ラーかと思うじゃないか。
でも、ちょっとだけ慣れてきた。順応って素晴らしい。
﹁カズキ、裏方じゃなかったのか。どうして男を誘惑する術を会得
してるんだ。間違ってるけど﹂
﹁あれがそうだと何故分かった!?﹂
﹁騎士アードルゲ。俺はカズキが﹃もぎゃ﹄﹃ぷも﹄﹃べるんちょ﹄
としか発音できなかった時からの付き合いだぞ﹂
ああ⋮⋮みたいな空気が流れた。
いやいやいや。だって皆が何を言ってるか全く分からなかったん
ですよ。発音とかも全く耳慣れないし、舌の動きとかどうなってる
のそれって思ってまじまじ口ばかり観察してましたよ。
私の異世界語習得は、一所懸命ヒアリングして、喋り始めや語尾
を真似することから始まった。自分では真似ることができているつ
もりだったけれど、舌が全くついていかなかったし、耳慣れない言
葉ばかりで、結果ああなった。
そこから、状況や頻度を考えて、少しずつ今の状態にまで持って
いった。そりゃ途中からは、恐るべき精度で日本語を覚えたルーナ
の助けを多大に借りたけれど。
ちなみに、﹃もぎゃ﹄が肯定や分かったの返事、﹃ぷも﹄が否定
や疑問を感じたとき、それ以外が﹃べるんちょ﹄だ。
廊下の向こうからバタバタと足音が聞こえて、ルーナとアリスが
114
弾かれたように剣を構えた。
焦げくさい臭いを纏って現れたのは、ネイさん率いる自警団の皆
と、酒樽さんだ。
﹁お嬢様、あっちの避難は完了しました。怪我人は出ましたが、死
んじゃいませんのでどうぞご安心を﹂
﹁うん。よかった。じゃあ、こっちも避難始めよう﹂
リリィがこくりと頷いて、ネイさんと一緒に私を見た。二人とも
同じ顔でにこりとしないでほしい。謝らせてもらえないのも堪える
んです。
﹁後、ギャプラー殿、女性陣の下着は返却してもらいますからね。
なんつー火事場泥棒してるんですか⋮⋮﹂
酒樽さんは明後日の方向を見た。そっちには真っ暗な壁しかない。
﹁大丈夫ですよ、カズキ。要は生きていればいいんですから﹂
﹁後、台帳があると完璧。ここにあるから完璧﹂
どうやって入れていたのか、リリィが胸元からずるりと取り出し
たのは分厚い冊子だった。
﹁経営は数字さえあればやり直せるし、なくても、一度や二度の火
事で潰れてる体力じゃ、ガルディグアルディアは名乗れない﹂
﹁大丈夫、大丈夫だよ、お嬢さん。わしも再建への援助は惜しまん
し、裏三家最後の一家、ドントゥーアも同じじゃよ。わしらはそう
やって生きてきたんじゃからな。わしらがいがみ合っとたら、帝都
なぞその形も保てんわな。女の子はなーんも心配する必要はない。
心配する必要があるのは、二家の筆頭が揃ったガルディグアルディ
ア本家を攻撃したあ奴らのほうじゃて。な?﹂
酒樽さんは、体形に比べて意外と小さな手をぽんぽんと私の頭に
乗せた。三回目のぽんが来る手前で、ルーナの手が酒樽さんの手を
握る。
﹁二回までです、ギャプラー殿﹂
﹁お固いのぉ⋮⋮しょんぼりじゃて⋮⋮⋮⋮挨拶に頬にキスくらい
はかまわんか?﹂
115
﹁十年ぶりに再会できた俺が出来てないのに、いいわけないでしょ
うが!﹂
ルーナが積極的だ。おかしいなぁ。昔はもっとこう、手を繋ぐの
にも顔真っ赤になってたのに。十年って凄い。なんだか親戚の子ど
もの成長を見守るおばちゃんの気分だ。その目線で見ると、顔が怖
いのも愛嬌に思えてきた。笑窪? 笑窪なの? 痘痕も笑窪なの?
この顔に笑窪ついたら⋮⋮⋮⋮怖いことには変わりないな、うん。
くいくいと袖を引かれる。頭の中で笑窪のスタンプを押してみた
頬から視線を外せば、ちょこんとしたリリィ。可愛い。
﹁恋人より先にしちゃって、ごめんね?﹂
﹁マッチョご褒美ぞろ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いっそ?﹂
﹁いっそぞろ!﹂
こてんと首を倒すリリィが可愛すぎてどうしよう。
116
12.神様、ちょっとは賢くなりたいです
﹁あ、ははははは! あははははははははははは!﹂
突然娼館の皆が大声で笑い始めた。特にカルーラさんは爆笑だ。
一応ここ隠れているんですが、皆さん。
お腹を抱えて笑っている皆は、ひーひー言いながら苦しそうに目
尻を擦った。
﹁こ、こいつは傑作だね! この辺の国の女は必ず、﹃黒曜のよう
になりなさい﹄だの﹃そんなんじゃ黒曜になれない﹄だの言われる
ってのに!﹂
﹁そのようぞ事態が発生したらば大惨事じょろ!﹂
﹁自分で言うかい! あはははははっはははははは!﹂
痙攣しそうになるまで笑わなくてもいいじゃないですかね。皆の
笑い声が大きすぎて、すぐにここばれると思うんですが、それもい
いんですかね。 ちょっとだけ釈然としない思いで皆を見ていると、散々笑ったカ
ルーラさんは、懐から何かを取り出して振り始めた。
﹁あたしはね、﹃黒曜﹄ってのは迷惑だったんだよ。あたしに限ら
ず、娼婦は皆そうさ。そりゃ、中には憧れたりする子もいただろう
けどさ。娼婦ってだけで﹃美人で賢くて芸に秀でた女の頂点﹄って
いわれる黒曜様を引っ張り出してきて嘲笑されるのは忌々しいさ。
あたしらは、そりゃ世間様に誇れない仕事をしてる。けどね、あた
しらは働いてるって誇りがあるんだ。それをわざわざ、頂点である
﹃黒曜様﹄を引き合いにして、あたしらを底辺にしてくる奴らの多
いこと多いこと。﹃黒曜様﹄を褒めたいが為にあたしらを落として
ねぇ⋮⋮あたし達を嘲笑いの対象にしてくれた黒曜様がここにいた
ら、一発ひっぱたいてやりたいとさえ思ってたよ。八つ当たりだっ
117
て分かってるけどね、﹃お優しい黒曜様﹄だったら許してくれるだ
ろ? ってね。馬鹿だよねぇ﹂
綺麗なウインクに見惚れる。私は駄目だしされたけど。
それにしても、あれだけの大規模なパレードがあるにも拘らず、
黒曜の話が全くといっていいほど出なかったのはそういう理由だっ
たのか。
何かを褒める為に、何かを貶める必要なんてない。逆も然りだ。
いいものはいい。それだけでいいのに、どうしてその為に何かを貶
める人がいるのだろう。何かを貶さないと褒められない物に価値な
んてあるのだろうか。
少なくても、カルーラさん達を嘲笑って持ち上げる価値なんて、
﹃黒曜﹄は勿論、私にあるはずがない。寧ろそんな方法でしか褒め
られない物こそ、嘲笑の対象ではないのか。
整えられた爪の間で弄ばれていた小瓶の蓋が開けられる。焦げく
さい煙の所為で分かりづらいけれど、インクの匂いがした。
﹁でもさ、あんたが﹃黒曜﹄ってんなら、謝らなきゃいけないのは
あたしたちの方さ。勝手に偶像にしちまって、悪かったねぇ。びっ
くりしたろ? 怖かったね。ごめんねぇ。あんたは変わってないん
だろ? だとしたら、変わっちまったのは世界のほうさ。悪かった
ねぇ、ほんとに、ごめんね﹂
たっぷりと波打つ髪を一纏めにして、カルーラさんは小瓶の中身
を髪にぶちまけた。
﹁カ、カルーラさん!? 正気! 正気を確認!﹂
﹁あたしの気は確かだよ⋮⋮⋮⋮リリィ、あたしも結構分かってき
たよ﹂
リリィはこくりと頷く。こくりじゃないですよ!?
﹁ん、結構染まるもんだね。もしものときはこれをあいつらにぶつ
けて目潰しにしてやろうと思ってたけど﹂
真っ赤な髪が見る見る間に黒く染まり、綺麗な髪が暗闇に溶けて
118
いく。リリィもそうだけど、インクって落ちるの!? 最早日本語さえ出なくなって、水替え要求もしくは餌要求の金魚
の如くぱくぱくしている私に、ずしりとした重さが乗っかる。慌て
て視線を落とすと、私がこっちに来たときに持っていた荷物だった。
﹁はいはい、後のことはこっちでやりますから、カズキはそれ持っ
てとっとと逃げる。荷物、たぶんそれでいいと思いますけど⋮⋮⋮
⋮異様に重かったんですが?﹂
あ、すみません。大学のテキストと辞書、家庭教師のバイト用の
参考書に、休み時間用のお菓子の本三冊です。鞄ぱんぱんです。た
ぶんそろそろ壊れます。
﹁いいですか、カズキ。この異世界の荷物は、貴女が貴女である重
要な証拠です。見つかれば貴女の身を危うくするかもしれませんし、
悪用されるかもしれないことを忘れずに。逆に、黒曜が貴女である
ことを証明する大事な物です。命の次に守るように。いいですね?﹂
﹁はい! イギュンネイシャンさん!﹂
﹁イグネイシャルスです。⋮⋮そっちのほうがいいづらくないです
か?﹂
面目ない。結局ちゃんと言えなかった。
ネイさんからの忠告を胸に、鞄を横掛けにしっかり装備する。そ
の私の手に、小袋が手渡される。
﹁後で渡そうと思っていろいろ入れてる。使い方分からなかったら、
信頼できる人に聞いて。後、しゃがんで?﹂
がちゃがちゃいってる袋を肩紐に結びながらしゃがむ。女の子達
が代わりに結び付けてくれた。⋮⋮⋮⋮他にもいろいろ詰め込んで
ませんかね。なんだか一気に重くなったんですが。ありがとうとお
礼を言いながら、もっとしゃがんでと襟を引っ張られて頭を下げる。
頭を何かが通り、引かれた服の下にぽてんと重さが落ちた。
﹁今日のお店で買ったの。いつも頑張ってくれてるお礼。困ったと
きは売ってお金にしてね﹂
とんでもないことを言われて、思わず服の上からぎゅっと握りし
119
める。
﹁ありがとう! しかしでも、ここで引いたら男が廃るわぞり! 誠心誠意後生親身に誓い合うと誓うぞろ!﹂
頂き物を金で換金する前提なんて悲しすぎるし、何より大好きな
リリィから貰ったものを売るくらいなら雑草食んだほうがマシだ。
威嚇する動物みたいに胸元を掴んでいると、皆がどっと笑った。
よく分からないけど皆の笑った顔が好きなのでよしな気がする。笑
われてるのは私の行動だけどな!
﹁私達は時間稼ぎながら別ルートで避難する。カズキと騎士達はそ
この隠し通路使って﹂
気がつけば、怪我人の女の子達が自警団の手を借りて移動を始め
ていた。怪我をしているのに親指立てて、にっと笑ってくれる。
囮なんてさせられない。迷惑かけてごめん。私も事態がよく分か
らないけど巻き込んでごめん。怪我させてごめん。
色々、言いたいことがある。叫びたいことがある。全員に土下座
したって足りないくらいだ。
なのに、いまこの場で私が言えることはたった一つだけなのが悔
しい。
﹁ありがとう﹂
ごめんねと続けたくなるのをぐっと堪えて、両手で頬を叩く。い
ま私にできる事は、皆の迷惑にならないようとっとと姿を晦ますこ
とだ。
よしっと気合いを入れ、べたりと床に張り付く。これで隠し通路
もあっという間に這って見せる。這い蹲って待機したら、リリィが
首をこてりと傾けた。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ、どうしたの?﹂
﹁内密な通路突破ぞろ?﹂
﹁あ、隠し通路こっちだよ。そっちは通風孔﹂
合点がいったと頷いたリリィは、首からぶら下げていた鍵束をご
そりと取り出した。そんな所にそんな重たいものが入っていたとは
120
知らなんだ。
リリィは暗い手元に少し苦労しながら、扉の鍵を開けた。ネイさ
んともう一人自警団の人が二人掛かりで開けた扉は随分厚い。部屋
があるかと思ったそこは通路が続いていた。確かに、隠された通路
だ。
そして、通風孔っぽいと思っていた物は通風孔だったらしい。他
のに比べて若干大きい気もしたが、しただけだったみたいだ。
無言で起き上がってぱたぱたと埃を払う。うん、これは非常に恥
ずかしい。皆が何も言わないのは優しさだろう。でも、いっそから
かってくれたほうがよかった。皆の優しさが非常に痛い。
﹁⋮⋮⋮⋮変わってないな、カズキ。その、良くも悪くも素直で真
剣に阿呆やるところ﹂
[しみじみ懐かしむのはやめてくれますかね⋮⋮]
﹁他の奴らにからかわれたのも気づかず、上着を履いて、ズボンに
腕を通してにこにこしてた時から変わらないな。皆の着方見てれば
分かっただろうに⋮⋮⋮⋮﹂
[せめて日本語! 日本語でお願いします!]
﹁鍋をかぶって歩いてる時は何をしてるかと思った。まさか着飾っ
てるつもりだったとは⋮⋮﹂
[寧ろもう何も喋らないでくれるかな!? ね!? いい子だから
!]
過去の恥をしみじみ暴露された。皆の生暖かい目が優しくつらい!
[⋮⋮⋮⋮今の俺を子ども扱いするのはカズキくらいだからな]
[そこだけ日本語はずるくない!?]
恥ずかしさを振り払い、空気を換えようと無理やり元気いっぱい
振り返る。
﹁この方角ぞ、突撃致すぞ誠実に!﹂
﹁あ、隠し通路こっちだよ﹂
得意の韋駄天走りで暗闇に向かおうとしたら、リリィは開いた扉
の裏に座り込んだ。勢い込んだ私の首根っこをルーナが掴んで止め
121
る。
しゃがみこんだ小さな背中を見ていると、よいしょと可愛い掛け
声と一緒に、がこりと重たいものが動く音がした。
がこがこと、壁の中を何かが動いていく音がする。言うなら、木
の固まりが填まっていくような音だ。鉄とは違う、木特有の柔らか
めのがっこん音だ。厚い壁の向こうに何かがある。これは、ちょっ
とテンションが上がる。からくり屋敷だ。凄い。
目の前の壁が動いて通路が現れるのを今か今かと待ち侘びている
と、つんつんと裾を引かれた。
﹁カズキ、下﹂
促されて床を見ると、壁と床の境目の一部分がぽっかり隙間を開
けていた。今度こそ、かろうじて人が一人通れるか否かの隙間だ。
よかった、早まって壁に突進しなくて。
廊下の一部分がずれたように一枠開いたそこに、促されるままア
リスが足から入っていく。
﹁騎士アードルゲ。外套を尻の下に巻き込む形で座ってください。
え? ああ、そうです。滑り台です﹂
ネイさんの説明に、こんな場合なのに胸が高鳴った。
﹁滑るぞ台!﹂
﹁カズキ、カズキ。それ似てるけど根本的に何かが違う﹂
すかさずリリィから訂正が入る。面目ない。
身体を胸まで入れたアリスは、足元を確認しながらしゃがんでい
く。床を掴んでいる指に力が入っているところを見ると、足場は結
構下なのだろうか。どうしよう、ちょっと不安になってきた。
[こういうの、階段とか縄橋子だと思ってた]
﹁え?﹂
うっかり口に出してた独り言にリリィが振り返ってくれた。気に
かけてくれてるんだなーと思うと、胸がきゅんきゅんする。
﹁階段か縄橋子が現れると思ったらしい﹂
122
﹁ありがうぉわぁあああああ!?﹂
﹁うおおおぉぉ︱︱⋮⋮﹂
翻訳してくれたルーナにお礼をと見上げたら、身長が伸びている
彼を斜め下から見ることになった。顔の上部に影が入って、鋭い目
線が私を見下ろしていて、非常に怖かった。
﹁あ、ルーナにょ⋮⋮⋮⋮驚愕したぞろ﹂
﹁抱かれたい男一位の顔を見て、恐怖の悲鳴を上げるのはカズキく
らいですよ。さあ、用意して﹂
促されて入口を見ると、アリスはいなくなっていた。⋮⋮そうい
えば、さっき私の悲鳴に重なって何か聞こえたような気がする。そ
んなに急勾配の滑り台なんだろうか。
ごくりと唾を飲み込む。私の心配を察したのか、リリィがぽんと
背中を叩いてくれる。
﹁大丈夫。滑り台なのは、緊急を要する避難で女の子達が急いで避
難できるようにだから。急いでるのに普段慣れてない縄橋子で大人
数は無理。階段もこけると危ない﹂
﹁かと言っても、それなりの角度がありますから女性は二人で行く
ほうが安全です。騎士ホーネルト、先に入ってください。次いでカ
ズキを下ろします﹂
﹁感謝する﹂
短いお礼の言葉を告げたルーナは、くるりと振り返り酒樽さんに
も頭を下げる。
﹁ギャプラー殿も、この礼は必ず﹂
﹁これ、ルーナ殿に頭を下げられるとわしの立つ瀬がないわい。こ
んなもの、このギャプラーの恩返しの一つにもなりゃせんわ。恩人
の女一人助けられんで、何がギャプラーじゃ﹂
にっと笑った酒樽さんに、娼館の皆が三歩くらい引く。
﹁酒樽がいいこと言った⋮⋮﹂
﹁酒樽が真面目なことを⋮⋮﹂
﹁酒樽が⋮⋮⋮⋮﹂
123
﹁明日は雨だ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁明日は酒だ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁酒の雨か⋮⋮⋮⋮いいな、それ﹂
その光景を思い浮かべたのか、皆が幸せそうな顔になった。
﹁その雨で二日酔いになっても、薬用意してあげませんからね﹂
その光景を思い浮かべたのか、皆が頭を押さえて痛そうな顔にな
った。
もう一度頭を下げたルーナに並んで、私も頭を下げる。ありがと
うしか言わせてもらえないなら、せめて行動も合わせて伝えるしか
ない。
﹁さあ、急いでください﹂
急かされて、まずはルーナが隙間から滑り込む。アリスが入って
いくのを見て、大体の見当をつけていたのだろう。足を下ろすのに
躊躇いがない。流石、昔からそういう感やセンスがずば抜けていた
ルーナだ。戦場でも一度見た剣の軌道は必ず覚えていた。
私だって、一度食べた食べ物は必ず覚えている。美味しいジュー
スだと言われて一気飲みしたそれが調味料だったことも決して忘れ
ない。
隙間から下を覗けば、暗がりの中にルーナがいるのが見える。上
目遣いも怖いですね。でも、今度は大体の怖さを予想していたから
叫ばないで済んだ。
もう一度ありがとうを言おうと振り返った私の手を、リリィが両
手で握る。
﹁カズキ、忘れないで。私達は王の味方にも黒曜の味方にもならな
い。けど、絶対にカズキの味方だから。カズキの仲間だから。忘れ
ちゃ駄目だよ﹂
思わず小さなリリィの手を両手で包むように握り返す。本当に、
なんて、なんてありがたい存在なんだろう。リリィだけじゃない。
ここにいる皆に、どれだけ感謝を叫んでも足りない。
124
助けてくれただけじゃない。衣食住を提供してくれただけじゃな
い。それだけでも返しきれないほどの恩を貰ったのに、もっと尊い
ものを与えてもらった。人が人としてあるために必要な尊さを与え
てくれるのは、いつだって人だ。
ありがたい、ありがとう。
私と知り合ってくれてありがとう。私と笑ってくれてありがとう。
私と楽しくしてくれてありがとう。私を関係のない通りすがりの一
人にしないでくれてありがとう。
﹁ありがとうっ﹂
私と繋がってくれて、本当にありがとう。
﹁さあ、カズキ。急いでください。下に騎士ホーネルトがいますか
ら、そのまま飛び込んで大丈夫です﹂
促されるままにしゃがみ込み、両足を入れる。そして思いっきり
息を吸い込んで身体を滑り落とした。暗闇に落ちる感覚に背筋を何
かが駆け上っていったが、それもすぐに終わる。先に待機していた
ルーナの腕に抱えられ、膝の間に下ろされる。
﹁カズキ、気をつけて﹂
﹁人の名前は、せめて本名より短く覚えるようにしてくださいね﹂
﹁カズキ、あんた色仕掛け向いてないわ﹂
隙間から皆が覗きこんで声をかけてくれる。最後の言葉は駄目出
しだった。しょんぼりだ。もっと精進します、師匠。
﹁行くぞ﹂
短い合図が旋毛にかかったと同時に、背中に当たっていたルーナ
のお腹に力が入る。軽装の鎧でもつけてるのかと思うくらい硬かっ
た。
ルーナに押されて少しずつ身体が進み始める。声を出す間もなく、
125
あっという間に顔に当たる風が強くなっていく。真っ暗な中をかな
りの勢いで滑り降りていくのが分かる。右に傾き左に傾き、ぐるぐ
る回っているとさえ思う。
暗闇は前にいきなり壁があっても分からないほど深い。思わず、
抱え込んでくれているルーナの腕にしがみついた。
[こ、こわっ、怖い!]
﹁⋮⋮⋮⋮俺の顔とどっちが怖い?﹂
[あ、ルーナでお願いします]
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
迫力が違います、迫力が。
正直に答えたら、むっとしたのが雰囲気で分かった。それはそう
だ。顔が怖いとか言われて嬉しい人はいない。思わず素で答えてし
まったけど、凄い失礼だ。散々悲鳴を上げた後だけど、やっぱり失
礼はいけない。親しき仲にも礼儀ありだ。謝ろう。
謝罪は相手の顔を見て言わないと、これまた失礼だ。
振り向けば、前から叩きつけるような風に煽られた横髪が口に入
る。払おうとした手を大きな手に掴まれた。もう一本は私の頭の後
ろを通って顎を押さえている。動けない。
﹁ったく、お前は、俺に誰も近づかない時はひょいひょい寄ってき
たくせに﹂
[ん?]
﹁きゃーきゃー騒がれ出したら離れていくとか、お前本当に何なん
だ﹂
[須山一樹です]
﹁知ってる﹂
どうでもいいけど、低くなったルーナの声できゃーきゃーとか言
われると、違和感が凄い。
そして顔が近い。動けない。
﹁それでも、お前言ったからな。まだ俺が好きだって。だったら俺
も、遠慮しない﹂
126
﹁あれ?﹂
ルーナの顔がどんどん近くなる。これはあれだ、目を閉じなけれ
ばならないシーンだ。一体いつそんな雰囲気になったんだろう。そ
して髪がばしばし顔に当たって痛い。いやいや、そんなことより何
でこんな雰囲気に。いや、目を閉じるのが先か?
この間恐らくコンマくらいだろう。何はともあれ目を閉じようと、
気合を入れてぎゅうと目を閉じた私の耳に、風の音に紛れて慌てた
声が聞こえた。
﹁待て! 止まれ!﹂
﹁あ﹂
﹁え?﹂
焦ったアリスの声と、ちょっと間が抜けたルーナの声を聞きなが
ら目を開くと、目の前でアリスが踏ん張っていた。滑り台の途中で
止まっていたアリスに、私達はそのまま突っ込んだ。
なんとアリスは、勢いのついた二人分の力に耐えた。ルーナが咄
嗟に手足を使ってブレーキをかけたのも大きかったと思うけれど、
衝撃に持ちこたえたアリスは凄い。
﹁っ︱︱︱︱! 前を見ろ!﹂
荒い息を吐くアリスを乗り越えるように覗き込む。あまりよく見
えないけど、水音がするのは分かった。
[水路?]
﹁そうみたいだ。臭いがないから下水じゃないな﹂
﹁下水はもう一本下だ﹂
暗闇に慣れてきた目をこらすと、滑り台はここで終わっている。
水路から少し高い位置が終点らしく、アリスが止まっていてくれな
かったらそのまま水路に突っ込んでいた。
水路の横には人が歩けそうな通路もあるようだ。飛び降りられな
い距離ではないが、少々体制を整える必要がある。ごそごそと三人
で足の位置を調整していると、アリスが何かを引っ張った。
﹁おい、私の外套を踏むな﹂
127
﹁あ、ごめうひょぁ!?﹂
狭い滑り台の上で、身体を捻りながら私が踏みつけていた外套の
裾を回収しようとしたアリスの手が、私の脇腹を掴んだ拍子に珍妙
な悲鳴をあげてしまった。それに驚いたアリスがバランスを崩す。
落ちていくアリスの外套を踏んだままだった私も、足が滑って身体
が傾いた。慌てて掴もうとした場所はルーナの襟元だったようだ。
咄嗟に首が閉まるのは回避したルーナも、変に身体を捻った体勢で
は踏ん張りも効かない。
結果、三つの水柱が水路に上がることになった。
128
13.神様、ちょっとも賢くなれませんでした
﹁っぶふぁ!﹂
思ったより水路は大きく深かった。足が微妙につかない。爪先な
らかろうじて触っているけれど、踏ん張れるかといえばまた別の話
だ。
流されると焦った私の身体は、水を逆流するようにぐいっと強く
引っ張られた。あれよあれよという間に水から抱き上げられ、水路
の端に座らせてもらってようやく事態を把握する。私では足のつか
ない水路も、背の高い二人では胸元くらいだ。私を水から出してく
れたのはルーナだった。
まだ水の中にいるルーナに支えられて、思いっきり咽る。硬い胸
板に額をついて咽る私が水に落ちないよう押さえてくれているのに
甘えて、思いっきり咽た。ちょっと水が入ったようだ。
﹁大丈夫か?﹂
[だ、いじょうぶ。平気、ありがうぉわぁっげふぉ! げふっ、ご
へっ、へぶっ!]
気遣ってくれる声に何とか笑顔を返そうと顔を上げたら、息がか
かるくらい間近にルーナの顔があって思わず仰け反った。水を滴ら
せながら覗き込んでくるルーナの顔は、びっくりするくらい怖い。
悲鳴と一緒に空気が変な感じに気管を撫でていき、再び咽る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮女の悲鳴じゃない﹂
ルーナはごめん。アリスはほっといてください。
あの入口はちょっとやそっとでは見つからないとの事なので、何
はともあれ身形を整えようという結論になった。外に出た時に少し
129
でも違和感が少ないほうがいい。それはそうだ。出来るだけ目立た
ないほうがいいのに、びしょ濡れ三人組とか怪しさ以外感じられな
い。
油紙にくるまれていたおかげで濡れるのを免れた蝋燭を手近に立
て、二人は手始めに外套を絞ることにしたようだ。厚手で量もある
生地を、ぞうきんを絞るように簡単に絞っている。ぞじゃー! と
大量の水が絞られる音を聞きながら、私もさっさと服を脱ぐ。私か
ら見て、アリスは前を、ルーナは後ろを向いているので遠慮なく脱
ぐ。幸い、着ている服の枚数も構造も私のほうが簡単のようだし、
もたもたして一番最後になるほうが恥ずかしい。
﹁リリィ集団皆の衆、無事逃亡を謀れたぞね⋮⋮﹂
﹁ギャプラー殿と同じく、ガルディグアルディアも伊達にその名を
名乗っていないはずだ。帝都は彼らの庭でもある。寧ろ大丈夫じゃ
ないのはカズキだからな﹂
﹁いずれ、落ち着けば向こうから連絡があるはずだ。何処に隠れて
も届く可能性もあるが⋮⋮﹂
ワンピースみたいな服の下にズボンを履いているだけの私は、豪
快にワンピースを脱いだ。否、脱ごうとした。しかし、現代日本の
服に慣れている身には、こっちの世界の服は生地の質もそうだし、
量も多くて扱いにくい。
﹁どぉわぁ!?﹂
結果、濡れた服が盛大に絡まり、すっ転んだ。
顔面から倒れることだけは回避しようと、服が絡まった状態でも
がきながら手近にあったものに縋る。
そう、前にいた、アリスのズボンをしっかりと。
物音にこっちを振り返ったルーナさえ沈黙を守ったおかげで、妙
な静寂が訪れる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ごめんじょり﹂
悪気はない。悪気はなかったんです。
ベルトを外していたアリスのズボンは、全体重をかけた渾身の﹃
130
藁をも掴む﹄に耐え切れなかった。
赤生地に白いハート柄のパンツが蝋燭に照らされる。確かに兎パン
ツじゃありませんね。これからはハートパンツって呼びます。
﹁ハ、ハートフルパンツ、可愛いぞろりね!﹂
キャミソールにズボンだけという恰好の私と、決して振り向かな
いアリス。
ルーナはしっかり絞った外套を、そっとアリスに掛けた。とても
正しい判断だ。
大きな水路の左右に道があり、良く見るとあちこちに枝分かれし
ている。分かれ道を使わずまっすぐ進む為には水路を飛び越える必
要があった。ルーナとアリスは外套を翻して格好よく飛び越える。
私は、反対側から手を伸ばして引っ張ってくれるルーナの力を借り
た。足の短さが悲しい。助走つけてもぎりぎりだ。
絞っただけの服は気持ち悪いけれど、愚痴をいえる状況ではない。
かろうじて滑り台に引っかかり無事だった荷物をルーナが取ってく
れた際、剣先に引っ掛けて取ってくれた荷物が遠心力で私の額に激
突して痛かったけれど、文句はない。
﹁あ、あの、本心ぞろごめんじょろ﹂
アリスは無言だ。無言で歩を進めていく。私達はアリスについて
いくしかない。グラースならともかく、ブルドゥス帝都の地下にル
ーナが詳しいわけがない。
﹁閲覧禁止ぞ! 閲覧未遂ぞろ!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ごめん虚偽ぞろ⋮⋮閲覧したじょ⋮⋮⋮⋮ごめんじょろり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
無言だ。こっちを見ようともしない。
当たり前だ。多感な思春期時代に私が作ってしまったトラウマを、
再び掘り起こしてしまったのだ。何という惨いことをしてしまった
131
のだろう。悪気はなかったとはいえ、それで許される話ではない。
﹁私も着脱離脱するが対価ぞ!﹂
かくなる上は同じ恥を背負うしかない。加害者が同じ状況になっ
たところで許されるわけではないが、同じ場所には立てるはずだ。
﹁何でそうなる!﹂
勢いよくワンピースを脱ごうとしたら、勢いよく振り向いたアリ
スにチョップされた。痛い。
﹁放っておけという態度だろう、どう考えても! 寧ろ忘れろ! 全部忘れろ! 記憶喪失になれ!﹂
﹁ここは誰!? 私はどこ!? これぞりね!﹂
﹁近いが全く違う!﹂
﹁近距離なのぞ!? 遠距離なのぞ!? どっちぞり!?﹂
﹁どっちでもないわ! たわけ︱︱!﹂
もう一回チョップした後、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽ向いたア
リスをそろりと見上げる。どうやらトラウマを刺激して傷つけてし
まったわけではないようだ。
ほっと胸を撫で下ろして何気なしにルーナを見上げる。
﹁うぉわぁあああああ!?﹂
外套の留め具に蝋燭を乗せた簡易ランタンを持ったルーナは、顔
の下から揺らめく炎が当たって非常に怖かった。
﹁⋮⋮⋮⋮言っとくが、俺の顔が怖いって言ってるのはカズキだけ
だからな?﹂
﹁え!?﹂
衝撃の事実にアリスを見れば、こくりと頷かれた。一緒に逃げた
あれは何だったのか。半眼で見つめると、アリスの視線が逃げた。
﹁ま、誠ぞろ?﹂
﹁これでも一応モテるぞ?﹂
﹁しからば、ランキング一位との報告も⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それは忘れてくれ﹂
﹁はっ!? 男性好物なりとの報も!?﹂
132
﹁まずそっちを忘れろ、今すぐ忘れろ、何が何でも忘れろ﹂
真顔で迫られて思わず頷いてしまった。こんな短時間で二人から
記憶喪失を勧められた。流行っているのだろうか、記憶喪失。流石
異世界、とんでもないものが流行っている。
至近距離にあるルーナの顔を、落ち着いて改めて観察する。睫毛
長いですね。
そうか、皆怖くないのか。そう言われるとそう思えてくるのは日
本人の習性かもしれない。そもそも、何が怖かったのか、落ち着い
てもう一度見直してみよう。
目の前の顔に、少年らしさと少女らしさの中間の幼さを帯びた懐
かしい顔を重ねてみる。それを前提に思い浮かべて、今のルーナを
見る。びくってなった。
そうか、昔の顔を前提とするからいけないんだ。私の中でルーナ
の顔はあっちだから、あの顔があるつもりで今の顔を見上げると、
﹁うぉわぁああ!?﹂になるわけだ。
自分の行動を分析するとか、ちょっと賢くなった気分だ。
この調子で状況改善に乗り出そう。ルーナの顔を両手で挟んでま
じまじ観察する。昔の顔を思い浮かべず、最初から今の顔がある!
と思って見ると、びくっとならない。
睫毛長いですね。
その下にある瞳はすっと目尻が伸びて切れ長、鼻筋すっとして、
唇まで整っちゃってまあ。モデルさんや俳優さんみたいだ。ルーナ
が芸能人だったら、絶対ファンになる。足長いし、すらっと綺麗だ
し、理想の大人の男ランキングでも絶対一位ぶっちぎりだろう。
大きくなったなぁ。あんなに可愛かったのに、十年って凄い。手
も大きくなって、凄く格好いいお兄さんに⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
しみじみ納得していた私は、はっと気づいた。
イケメンだ! 超イケメンだ! イケメン過ぎてびくっとなる!
133
日本では天地がひっくり返っても、雑誌やテレビの距離からしか
眺められなかったイケメンがここにいる。イケメンって言葉じゃ軽
く聞こえるけど、びっくりするくらいイケメンだ!
Q.両手で頬を挟んで至近距離で見つめているのは誰ですか?
A.イケメンです。そしてルーナです。ついでに私の恋人です。
ぐわっと顔に火がついたのが分かった。まずい、気づいてしまっ
た。ルーナの顔、これ以上ないくらい格好いい!
悲鳴を上げていたのは怖かったからだけじゃない。びっくりする
くらいイケメンがいたからだ! こんなイケメンがいきなり視界に
入ってきたら悲鳴の一つや二つ上げるに決まってる!
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ?﹂
﹁うぉわぁあああああああああ!?﹂
頬を掴んでいる私の両手を握り、心配そうに顔を近づけてきたイ
ケメンに思いっきり仰け反ってしまった。まずい、誰だこれ格好い
い! 誰だも何もルーナだ格好いい!
全力で手を引き抜き、ルーナの背中を押してアリスと並べる。そ
のままぐいぐい押して先に進むよう促す。押している背中も広いは
硬いはでどきどきする。大人の男の人だ。ルーナが、年上の男の人
になっている。頭では分かっているし、ちゃんと分かっていたはず
なのに、びっくりするくらい格好いい。下手すると、向こうでもこ
っちでも、誰より知っている男の子だったはずなのに、全く知らな
い男の人に触っている気がする。
誰だ!? この、日本で出会ったら、恥ずかしさの余り一言も喋
れなくなるであろう年上のイケメンを子ども扱いした馬鹿は!
私だよ!
私があまりにぐいぐい押すので、ルーナは不満そうな顔をしなが
らもアリスと話すことにしたみたいだ。これからどうするかと話し
134
合っている。とても重要な話題だ。私の身の振り方を話し合ってく
れているのに、全然頭に入ってこない。
ルーナの横顔をそろりと覗いてみる。まずい、凄く格好いい。ど
きどきする。顔面直視できない。誰だ、このイケメンとちゅーしよ
うとしてたの。私か。
今までの人生でもこれからも人生でも、絶対に無縁だと思ってい
たイケメンが恋人だった。びっくりだ。人生何が起こるか分からな
い。寧ろ、今更気づいた自分にびっくりだ。
いっそ気づかなければよかった。だって、このイケメンと手を繋
いでいいとか凄くないだろうか。背中を押しても許されるし、あま
つさえ恋人とか嘘だよね状態だ。
このイケメンと昔、おんぶしたりおんぶされたり、着替えの最中
に入ったり入ってこられたり、抱きついたり抱きつかれたり、背負
い投げしたりされたりしていたのは誰だ! 私だ! どうしよう!
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮か?﹂
このイケメンと恋人って何故。いったいどんな奇跡が起こってそ
んな事態になったのだ。異世界に飛ばされたからですね。奇跡です。
﹁⋮⋮⋮⋮い、カズキ?﹂
ずっと一緒にいたらこんなに動揺することはなかったのだろうか。
否、毎日毎日イケメンになっていくルーナに悶えすぎて心臓が保た
なかった可能性も。まずい、ちゅーすら出来る気がしない。手も繋
げるだろうか。最後までとかとんでもない!
つまり、あの瞬間に私を日本に戻した神様は、私を助けてくれた
のか。
ありがとう神様! あんなにつらく苦しく悲しく恐ろしかった戦
争が終わった夜、この人と一生生きていこう、この人に人生も含め
て全部あげようと決意したあれを、寸前で中止させてくれたんです
ね!
[⋮⋮⋮⋮冷静に考えるとやっぱり酷い気がする!]
﹁酷いのは、お・ま・え・だ!﹂
135
握り拳で力説した私の頬を、ルーナがにょーんと引っ張った。
﹁また人の話聞いてなかったな?﹂
[ほーれふへ!]
﹁そうですねじゃない﹂
[ほんぴぇーぴぺまぷ!]
﹁反省してますじゃない﹂
[ふひひはへふ!]
﹁すみませんでもない。お前は昔も今も人の話をだな!﹂
頬っぺたを引っ張るルーナの顔が近い。格好いい。イケメンに至
近距離で頬っぺたにょーんにょーんされるなんて、私のキャパシテ
ィを超えている。
だってイケメンに頬っぺたにょーんにょーんだなんてそんな、そ
んなのっ⋮⋮⋮⋮どんな状況? 夢に見るどころか想像してみたこ
とすらない。壁ドンくらいなら想像して一人でにやついたことはあ
るけれど、頬っぺたにょーんにょーんに対して特にこれといった感
慨はなかった。
冷静に考えると別にときめくポイントではない。イケメン効果に
惑わされるところだった。イケメン効果、恐ろしや。
﹁流石、騎士ホーネルト⋮⋮よく分かったな﹂
﹁これくらい分からなくてカズキを口説けるわけがない⋮⋮あの頃
の俺は頑張った﹂
﹁ああ⋮⋮その通りだろうな﹂
しみじみ分かりあっている二人を見て、じわじわと感動が湧き上
がる。戦争をしていた国の騎士同士でもこんなに仲良くなれるのだ。
時間って偉大だ、人って素晴らしい、平和って尊い!
込み上げるものを感じ、二人の背中にそっと手を乗せる。分かっ
てる、分かってるよと頷くと、何とも言えない視線に見下ろされた。
二人分だ。
136
右に曲がったばかりの水路を今度は直進だ。先に飛び越えたルー
ナが当たり前のように振り返って手を伸ばしてくれる。何これ、超
格好いい。どこの騎士様だ。グラースの騎士様ですね、知ってます。
顔をできるだけ見ないよう、礼を言いながら手を借りる。その手
さえも格好いい。どうしよう。手を繋がれたまま歩き出されて仰け
反った。慌てて引き抜こうとすると指を絡められる。綺麗な長い指
の所々で剣だこが引っかかり、掌も硬い。でも、それは昔からだ。
華奢さはあったものの、十年前からルーナの掌はタコだらけで硬か
った。身体が出来上がる前から必死になって剣を握ってきたからだ。
そう思うと手を離したくなくなる。恐る恐る握り返してみると、
ちらりと視線が合う。盛大に顔を逸らしてしまったけれど、ルーナ
は何も言わなかった。
﹁それで、カズキは騎士アードルゲの屋敷にいてもらう﹂
﹁了承ぞ!﹂
﹁⋮⋮あっさり了承されるとそれはそれで複雑だな。本当はまた俺
達の所にいてほしいが、俺達の滞在場所は城だからな。全く安全じ
ゃない﹂
お城にいる黒曜候補が襲撃を受けて、ついでとばかりに私まで襲
われた後に、のこのこお城に出向いて過ごすのは危ないということ
だ。ルーナと離れるのは寂しいが、仕方がない。顔も見られないし
ね!
手を繋いだまま明後日を見て歩いている私達を怪訝な顔で見なが
ら、アリスが振り向く。
﹁私は騎士ホーネルトがあっさり了承したことに驚いたのだが。私
は貴殿とほとんど関わった覚えがない。よく信頼したな﹂
﹁アリスローク・アードルゲは、今時珍しく誠実堅実で真っ当な騎
士だと、グラースにまで名が轟いた騎士だからな﹂
アリスは、ひょいと肩を竦める。
﹁売り名で騎士ホーネルトと比べられると、我が身を恥じ入るばか
りだ﹂
137
﹁終戦後に名を馳せた己を誇るべきだ。俺はただ若かった物珍しさ
と、生き残っただけだ﹂
ルーナはちょっと憂いを帯びたように睫毛を伏せる。まずい、胸
がきゅんきゅんする。
今まではルーナ本体に惚れていた。心底惚れていました。しかし
今は、それにプラスして外見にも凄まじく惚れました。
どうしよう。
繋いだ手をそのままに、残った片手で顔を覆って身悶える。大丈
夫、大丈夫、大丈夫。私は思いっきり深呼吸する。すぐに慣れるは
ずだ。世界には﹃順応﹄という素晴らしい言葉がある。それに、今
は抜かれてしまったけれど、昔年上だったプライドもある。大人の
女として、きりっとした対応をできないと、過去に散々大人ぶって
ルーナを子ども扱いした私は立つ瀬がない。
きりっと顔を上げる。
﹁黒曜は⋮⋮黒曜呼びはまずいか﹂
﹁あ、カズキでいいにょろね﹂
﹁カズキの名前を知っている面子なんてたかが知れているから、大
丈夫だろう﹂
須山一樹という一個人より、黒曜として有名だからだろう。アリ
スは、一応かろうじて曲がりなりにも婦女子だからと、レディカズ
キと呼んできた。お互いしっくりこない。結局カズキに落ち着いた。
渋るアリスに、﹁ハートフルパンツ﹂と呼んだらあっさりカズキに
なった。
﹁カズキは馬に乗れるか﹂
きりっと答える。
﹁無理無謀だじょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何なら乗れる﹂
﹁鶏にょ!﹂
﹁鶏!?﹂
きりっと答えたら、物凄く驚愕された。
138
﹁驢馬だ﹂
﹁ぞり!﹂
﹁ただし、降りられなくていつまでも乗り続ける﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮もう、貴様は走れ﹂
﹁頑張れぞり!﹂
﹁頑張るのは貴様だ!﹂
頑張ります宣言したら怒られた。しょんぼりだ。
感覚的にはかなり歩いた頃、ようやくアリスが立ち止った。
﹁ここから出る﹂
確認する間もなく蝋燭を吹き消され、急に戻ってきた闇に眼が慣
れない。二人はさっさと準備を始めていた。この人達の夜目は人じ
ゃない。
最初にアリスが上り始める。
﹁カズキ﹂
ルーナに手を引かれて梯子を掴む。よく見えないけれど、感触か
らして鉄製だ。鉄棒みたいな臭いもする。緊張しながら一段、二段
と登り、幅を確かめた。後は手探り足探りで、そろそろと登ってい
くしかない。日本で梯子を登る練習をする機会がなかったことが悔
やまれる。
﹁俺がすぐ下から行くから、気軽に落ちてこい﹂
誰だ、この両手を広げて笑うイケメンは。
ルーナだ。格好いい。
下を見たら終わる。あらゆる意味で終わる。
私はひたすら上だけを目指した。やっぱり人間は、多少でも上昇
志向がなければ駄目だ。向上心って大切。前だけを見つめることも
時には必要だ。私は過去を振り向かない女!
半ば自己暗示のように繰り返し、何とか登りきることができた。
﹁寧ろ落ちてきてくれてよかったんだけどな﹂
私は何も聞こえなかった!
139
アリスは、突き当りにあった何かの蓋を片手で持ち上げる。ぱら
ぱらと小石や砂が降ってきて顔を背けて避けた。
﹁誰も⋮⋮いないな。大丈夫だ、上がってこい﹂
﹁ありがとう﹂
﹁ふん﹂
先に上がったアリスに引っ張られて、ようやく外に出る。
草と土の匂いが濃厚だ。いつの間にか私達は帝都を出ていたらし
い。上を見れば、隙間がないほどの星が夜空にぎゅうぎゅう詰めで
瞬いている。星の数が多いのか、それとも単に見える数が違うのか。
あの頃から思っていた疑問は、今でも解決できていない。
服についた土誇りを叩きながら振り向いて、動きを止める。離れ
ていても分かった。夜目が利かなくても見える。赤い光はまだ消え
ていない。帝都の中心で起こった大規模な火災は、ここからでもよ
く見えた。
﹁リリィ⋮⋮﹂
ぎゅっと鞄の横につけてくれた小袋を握り締める。ごめん、ごめ
んねリリィ。ごめんね皆。
まだ乾いていない服は動いていれば寒さを感じなかったけれど、
立ち止まり、夜風が流れる丘の上に立てばあっという間に体温を奪
っていく。寒い。でも、寒さなんてどうでもいい。リリィが、皆が、
痛いほうがつらい。
不意に背中から抱きしめられた。
﹁大丈夫だ。あの二家がこの程度でどうにかなるなら、グラースは
もうずっと前に勝利していた﹂
回った腕を掴んで頷く。絶対、謝りに行く。絶対、ありがとうを
言いに行く。
絶対だ。
この光景を忘れないよう目と記憶に焼き付けて、何回か深呼吸す
る。
140
[ありがとう、ルーナ。もうだいじょうぶふぉ!?]
そうだった。これイケメンだった。
いつものルーナのつもりでいたけれど、これイケメンだった!
何の気負いもなく振り向いたら、顔を近づけてくるイケメンがい
た。いや、イケメンじゃなくてルーナだけど、ルーナはイケメンだ!
仰け反ろうにも仰け反った先はルーナの胸だ。まずい、私の心臓
が破裂する。爆発だ。暴発だ。
目を瞑ることも思い浮かばず、目の前のイケメンルーナを見てい
ることしかできない。
﹁騎士ホーネルト、貴殿の仲間が馬を⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ハートフル兎パンツ︱︱︱︱!﹂
二頭の馬を連れて戻ってきたアリス、愛してる!
﹁騎士アードルゲ。二つ借りだ﹂
﹁私は騎士の本分を果たしているまでだ⋮⋮⋮⋮二つ?﹂
ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いたアリスを気にせず、ルーナ
は続けた。
﹁カズキの身柄を預かってもらう事と、矢を防いだ事だ。いつか返
す﹂
﹁結構だ。私は騎士だからな﹂
﹁いつか返すが、初見でカズキと逃げた事と、さっき中断してくれ
た事は水に流すつもりはないからな﹂
﹁借りは返さんでいいからそっちを忘れんか!﹂
141
14.神様、ちょっと見直し求めます
アリスが来た方向から、馬をもう一頭連れた外套が見える。その
人物はこっちを確認するや否や、諸手を挙げて手綱を離し、走り寄
ってきた。諸手に驚いた馬が走り去ろうとしたことに驚いたルーナ
とアリスが飛び上がる。馬を二頭連れているアリスは身動きが取れ
ない。弾かれたように走り出したルーナは、走り出した馬の手綱を
掴むや否や、ひらりと跨ってしまった。流石です。格好いいです。
何処をどう切り取っても格好いいとか凄いです。
そして、私はというと、外套にしがみつかれて背骨を軋ませてい
た。
﹁カズキさん!﹂
﹁どいつどなたが誰ですぞり!?﹂
﹁俺です、イヴァルです!﹂
﹁え!?﹂
外套の下から現れたのは、赤毛の青年だった。
﹁きょ、巨大になりやがったですねこのやろう!?﹂
記憶にあるイヴァルは、まだ十歳の子どもだ。騎士見習いで小間
使いのようなことをしていた、小さく痩せた子どもは、ひょろりと
細長く成長していた。よく転び、よくからかわれ、よく泣いていた
子どもは、涙ぐんだままにこにこと私を締めつけている。
さあ、思い出せ須山一樹。彼が、笑顔で締め落としにかかる程恨
まれるような何をした!
ぎりぎり背骨が軋んで、呼吸をしようにも肺が広がらない。苦し
い。
駄目だ、全然心当たりがない。イヴァルをからかった相手に箒で
殴り掛かり、肥溜めに落ちたイヴァルを助けようと一緒に落ちて一
緒にお風呂に入り、怖い夢を見たと泣くイヴァルと一緒に寝たくら
142
いだ。後は何だろう。鬼ごっこを教えて、影ふみを教えて、ケイド
ロを教えて、色鬼を教えて、高鬼を教えて、だるまさんが転んだを
教えて、クッキーを一緒に作った。焼き立てクッキー最高でした。
誕生日に作ってと強請られた手袋は異形と化した。⋮⋮⋮⋮それか!
﹁ご、ごめんぞろ、イヴァル! あれなるは悪意なき、私なるの真
なる実力を全霊を持って捧げたもうた結果じょろりよ! 配布され
し本は、右の利き手専用のみになりにけりにて、私ぞりの初心な者
には、荷物が重責過多な任務にょろぞんぴー!﹂
﹁ああ! 懐かしい! この無茶苦茶な言語力! 本当にカズキさ
んなんですね! 帰ってきたんですね!﹂
駄目だ! 許してもらえない!
ぎゅうぎゅう締め上げられて、ふわぁと意識が飛び立ちかける。
召される。
﹁イヴァル、そろそろカズキが落ちる﹂
﹁え!? あ! ご、ごめんなさいカズキさん! 嬉しくってつい
⋮⋮⋮⋮﹂
﹁体格差を考えろ。俺達と違って、カズキは変わってないんだから﹂
飛び立ちかけたと思ったら、本当に飛び立っていた。イヴァルの
腕から引っこ抜かれるようにルーナの腕に移動している。物理的に
空を飛んだ。ルーナの腕力凄い。
アリスは馬三頭の手綱を握っていた。
ぜーはーと息を整えている間も、イヴァルは嬉しそうに涙ぐんで
いる。どうやら手袋の恨みではないらしい。
記憶にある丸く小さな指は、いつのまにか長く骨ばっていた。私
の片手を両手で握っていたとは思えない力で、イヴァルは私の手を
握り締めて額につける。その手は震えていた。
﹁もう、会えないかと思いました﹂
﹁私もぞり、イヴァル。健在で何よりだりょ⋮⋮邂逅叶って、恐悦
至極にょろよ!﹂
﹁にょろですね!﹂
143
十年経った今、彼も立派な青年だ。二十歳になったはずなのに、
まるであの頃のように両手を握って飛び跳ねている。
一瞬、あの頃に戻ったような錯覚に陥った。
ルーナと出かけている所にイヴァルが走ってきて、皆が呼んでま
すよと楽しそうに手を引く。そうして﹃いつものように﹄砦に帰る
のだ。武器の手入れや鍛錬の音、鉄と錆び落とし、汗と男の臭いに
呻きながら、常にうるさいあの場所に。
でも、あり得ない。
私はあの日、この世界に訪れた時のように強制的に追い出された。
そして、十年。十年だ。ここでは、私の人生の半分以上の歳月が流
れている。それほどの時間が流れていて孤独感を感じないで済んだ
のは、彼らが私を置いていかなかったからだ。もう過去の人だと忘
れ、置き去りにしないでいてくれたからに過ぎない。あの頃世界の
全てだったミガンダ砦は、もう別部隊が配属されている。子どもは
大人になり、私を追い越して行った。私がいない間も世界は動き続
けている。
あれだけ帰りたいと願った日本は遠く、あれだけ戻りたいと願っ
た居場所は既に過去だ。
﹁カズキさん?﹂
くるくる変わる事態のように、ぐるぐる夜空が回る。星は白い線
のように伸びて、円を描く。
少し、疲れた。
泣き出しそうなイヴァルの顔が遠ざかる。
﹁カズキ!﹂
背中から私を支えてくれた腕は、まるで知らない人のようだった。
家族や友達がいる生まれ育った世界。
144
一生一緒にいたい恋人と仲間がいる世界。
選べと言われたら泣いて抗議する。選べるかと憤慨して暴れ回る
だろう。
でも、選ばせてもくれないのは、もっと酷い。
選べない。選べないけれど、覚悟も決められずに、強制的にぶっ
つんとぶつ切りにされるのはあんまりだ。
この世界で生きていくのかと腹を据えようとすると帰される。な
らばと、新たに得た全てを痛みにして、生まれ育った世界で覚悟を
決めようとすると戻される。
どちらを選んでも泣き喚く。どちらを捨てても一生悔やむ。
でも、せめて選ばせてくれたら、自分で決めたのだと思えたのに。
﹁起きなさい!﹂
[うはい! 先生!]
鋭く切り裂くような声に飛び起きる。手を突いた場所が予想外に
ふかっとしていて、反射的に、潰さないよう手をどけた結果、見事
にバランスを崩して転がり落ちた。顔面から落ちて鼻を打つ。神様
は私に、鼻を潰す呪いでもかけたんだろうか。
﹁何を言っているのかは分かりませんが、まずは湯殿で身体を洗い
なさい!﹂
[はい!]
﹁それは恐らく返事ですね! よい返事です! パール、湯殿へ!﹂
[イエッサー!]
﹁今のはパールに言ったのです!﹂
[はい! 先生!]
どうやら、ふかっとしていたのは枕で、転がり落ちたのはベッド
だったようだ。大きさと豪勢さから見てお金持ちに違いない。少な
145
くとも軍人達が寝ていたベッドが石のベンチに見えるくらい、ふか
ふかだ。
そこまで確認して、目の前の人に視線を向けようとしたら、立ち
はだかるふくよかな身体。恐る恐る視線を上げていくと、年配のお
ばさんが無表情で立っている。
どーんっという効果音が似合うその人は、白いエプロンを輝かせ
ながら腕まくりした。
気が付いたら、素っ裸にされていた。その手が首飾りに伸びた時
は流石にはっとなる。
﹁だ、大事じょり、凄まじく大事の存在物なりぞ!﹂
両手で屈むように首飾りを守っている私に、パールさんは両手で
畳んだタオルを差し出してきた。この上に置けということだろうか。
無言の圧力を感じて、そっと首飾りを外す。二本あった。二本⋮⋮?
まじまじと見つめる暇もなく風呂場に放り込まれた。羞恥心を感
じる暇もなくがしがし擦られ、お湯をぶっかけられる。
﹁ここは誰、私はどこ!?﹂
﹁手を上げてください﹂
﹁はっ!﹂
そんな感じであっぷあっぷ、たんまたんましている間に洗い上が
ったようで、脱衣所にぽいっと放り出される。へたり込んだ私の前
に、ずらりと並ぶ同じ格好、同じ髪型のメイドさん達。まるで軍隊
のように一糸乱れぬ動きだ。
じり、じりと、タオルに続いてそれぞれ着替えを持って近づいて
くる。
﹁た、待機! 待機ぞり! せめてもの情けなるは、パンツなるは
自身で着用なさ、にゃんこパンツ︱︱!﹂
タオル持ちメイドさん×3の次に突撃してきたパンツ持ちメイド
さんの持っていた物は、白にピンクのにゃんこパンツでした。可愛
かったです。
146
あれよあれよ、待って待ってしている間に着替え終わり、一杯の
水を渡された。急かされるままに一気飲みしたら柑橘系の果実水だ
った。風呂上りの水分補給だろうか。寝起きすぐにお風呂に入らさ
れたのでありがたい。
その後、どこかの部屋にぽいっと押しこまれた。閉まった扉の左
右にメイドさんが控えているので、出るに出られない。
仕方なく部屋の中に足を進めるけれど、ふかふかの絨毯って歩き
にくいし、靴で歩くと凄く罪悪感が湧く。いや、夏場の素足で踏ん
でも罪悪感が湧き上がるだろうけれど。
多分、お金持ちなんだろうなという感想しか出てこない部屋だ。
そうとしか思い浮かばないのは私が異世界人だからか、はたまたた
だ庶民だからか。
ちょっと真面目に考えようと、奥にあった鏡台を覗き込む。緻密
な細工とぺかぺかに磨かれたこれはあれですな、あれです、ほら、
あれあれ。なんかこう、歴史的価値がそんな感じで、紀元前⋮⋮は
いきすぎだけど、なんか昔に作られたあれです。
私には、鑑定も説明も過ぎたるものだった。
素直に、綺麗で可愛くて上品で、いいなー、欲しいなー、でも私
の部屋には合わないなー、高そうだなー、小指ぶつけたら痛そうだ
なーと思うことにしておこう。
鏡台から少し離れた場所には巨大な姿見があった。
そこに映っているのは、可愛らしいはっきりとした水色のワンピ
ースを着た私の姿だ。いつの間にか髪も結われていた。ちょっと巻
いた髪を、ちょっと結い上げてお花飾りで止めている。小走りで近
寄っていき、膝丈のワンピースの翻しながらくるりと回る。
[これが、私⋮⋮⋮⋮]
驚いてまじまじ見つめる。
びっくりするくらい似合わない!
[え!? ここまで似合わない!? もうちょっと、まあ見れるっ
147
てくらいは似合ってもいいんじゃない!?]
こういうのは、足が長くて細くて腰の位置が高くて、二の腕すら
りで鎖骨綺麗な女の子が似合うんだなとしみじみ思う。私はジーン
ズ派だけど、ここまで似合わないとショックだ。何だこれ、仮装か、
仮装なのか。夢の国に行っても現実に引き戻されそうなくらい似合
わないんだけど、どうしよう。
あまりの似合わなさに泣けてくる。しかし、はっと気づく。
[もしや!]
﹁どうしましたか﹂
[これって中学生とかそれくらいの女の子が着る感じなんじゃ!?]
それなら来年二十歳の私が似合わないのも頷ける。ドレスやワン
ピース一式が致命的なまで似合わないわけではないはずだ。そうだ
ったら、一応性別女子として号泣する。今はどうでもいいけれど、
向こうの世界に強制送還されたとき、こっちの世界で伸びた髪が元
の長さまで戻っていた私は若返っていたのだろうか。そうじゃなか
ったら既に二十歳に到達している。
若干現実逃避を兼ねたことを思いながら勢いよく振り向けば、目
の前に胸があった。胸だ。ぼいんさんだ。
恐る恐る上を向けば、ルーナくらい長身の女の人がいた。私を起
こしたのもこの人だ。まるで授業中に居眠りして先生に起こされた
ようだと思ったのは、彼女がきっちりしていたからだろうか。
髪の一房も落ちないくらいきちりと纏めて結い上げられた髪に、
少し目尻に皺があるけれどとても美人な人だ。だいたい四十代くら
いだと思うが、自信はない。
女性は、呆然と見上げる私を見下ろしながら、すぅっと息を吸っ
た。
﹁ここはブルドゥス! ならばこの地に根付く言語を喋るのが礼儀
です! 仮令不慣れでも郷に入っては郷に従いなさい!﹂
もっともだ!
﹁はっ! これなるはもしやもやもし! うら若き乙女なるおなご
148
の着用するお召し物ではなきかぞと思考したじょり!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴女、歳は幾つですか?﹂
﹁十九じょりん!﹂
﹁着替えを﹂
女性は踵を返すとメイドさん達を呼んだ。
え? と思う間もなく続き部屋に押し込まれ、マジックみたいに
服を剥がれた。するりんっと効果音が尽きそうなくらい簡単に長い
キャミソール姿になる。
﹁手を上げてください﹂
デジャブ。
あっという間に薄水色の丈の長いドレスに着替えていた。自分の
全体像を確認する間もなく、着替え部屋からぽいっと押しだされる。
押されながら何とか姿見を覗く。さっきのはワンピースだけど、
こっちは絶対ドレスだ。しかもそっとかけられたレースのショール
が上品だ。髪も後ろに一つで纏められ、真珠みたいな玉が連なった
髪飾りで止められていた。
こっちは何とか馬子にも衣装に辿りつけたかもしれない。そう思
いたいだけかもしれないけど。
さっきの女性は、いつの間にか用意されたお茶セットの前に座っ
ていた。促されるままに向かいに座る。
﹁失礼しました。てっきり、十二、三歳かと﹂
﹁ど、どうぞろ、お気になさる必要ぞ皆無にょよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
女性は、ただでさえぴしりと伸ばしていた姿勢を更に正し、豊か
な胸を張った。
﹁では、始めましょう﹂
﹁な、何をじょり?﹂
﹁わたくしは!﹂
149
﹁じょりん!?﹂
何て通る声だ。
女性の声は、距離があっても、周り中で雑談していても、まっす
ぐに届いてくるタイプの声だった。
﹁アリスロークの母、エレオノーラ・アードルゲと申します!﹂
﹁か、カズキ・スヤマでごじょりますぞ!﹂
﹁宜しい! ここはアードルゲの屋敷です!﹂
﹁はっ!﹂
反射的に挨拶を返して、はたと気づく。アリスのお母さん!? 若い、綺麗、声凄い! ついでに胸も凄い!
よく見れば端正な顔立ちのアリスとよく似ている。きりっとした
意志の強そうな釣り目で、エレオノーラさんのほうが強そうだけど。
しかし、そう考えると若い。二五歳の息子がいるようにはとても
じゃないが思えない。
﹁貴女が成人を迎えていると聞き、安堵しました!﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
﹁しかし!﹂
﹁はっ!﹂
はきはき喋るエレオノーラさんにつられて、私もはきはき喋って
しまう。
﹁我がアードルゲ家と縁続きになるからには、それだけで終わるは
ずがないと分かっていますね!﹂
﹁は!?﹂
﹁我がアードルゲ家は、ブルドゥス建国より繋がる由緒正しき家柄
! どこの馬の骨ともつかぬ娘が嫁げる場所ではありません! 仮
令、貴女とアリスロークが愛し合っていたとしてもです! 大体﹂
﹁た、待機! 少々待機懇願ぞろり!﹂
何かとてつもない勘違いをされている。慌てて訂正しようとする
と、ばんっと強くテーブルが叩かれた。茶器が吹き飛ばなかったの
が奇跡だ。
150
掌をテーブルに叩きつけて私を制したエレオノーラさんは、思わ
ず身を竦めるような強い声で、再度テーブルを叩いた。
﹁目上の人間が話しているというのに、遮るとは何事です!﹂
﹁はっ! ごめんじょりん!﹂
﹁申し訳ございませんです!﹂
﹁申し訳ござりませぬ!﹂
﹁せんです!﹂
﹁せんです!﹂
﹁最初から!﹂
﹁申し訳ござりませんです!﹂
﹁宜しい!﹂
息もつかぬ応酬で私は息が荒くなったのに、エレオノーラさんは
全く意に介していないようだ。きりりと眼差しを吊り上げ、お茶を
一口飲む。優雅です。
カップは、ほとんど音が立たないように下ろされた
﹁ここは貴女のような小娘がいていい場所ではありません言葉すら
覚束ないようでは話にもなりません貴女の存在がアリスロークひい
てはアードルゲの名の恥になるのです分かりますか貴女のような品
位の感じられない見目の美しさも持たない女ではアリスロークの妻
に相応しくないということです言葉が覚束ないのは大陸出身だから
でしょうがそれでは後見も期待できませんね貴女は何も持ってはい
ないつまり何の価値もないのです﹂
さっきまでの激しさとは打って変わって、ほとんど息継ぎをして
いないのではないかと疑うほど淡々と喋っていく。
﹁そんな価値のない女を我が家に迎え入れる訳はないと足りない頭
でも気づけるでしょうそもそも我が家に訪れる前に気付いてほしか
ったものですが起こってしまったことは仕方ありません貴女が如何
に価値のない女であろうが礼は尽くしましょう幾ら欲しいのです言
い値を払いましょうただし受け取ったからにはどうするべきか分か
りますね﹂
151
淡々と、つらつらと、無表情の唇が語っていく。
私は反論を諦め、掌に爪を立てた。
駄目だ、耐えろ。耐えなければいけない。彼女はアリスのお母さ
んで、私はこの家に厄介になったのだ。だから、我慢しろ。
ぎりっと歯を食い縛り、私はひたすらにアリスの訪れを待った。
﹁おい、起きろ!﹂
[うはい! 先生!]
鋭く切り裂くような声に飛び起きる。手を突いた場所が予想外に
ふかっとしていて、反射的に、潰さないよう手をどけた結果、見事
にバランスを崩して転がり落ちた。
私の鼻が! と慌てたけれど、私以上に慌てたアリスが支えてく
れたので事なきを得た。
﹁あ、ありがとう﹂
﹁カズキ!﹂
﹁はっ!﹂
﹁私がいなかった二時間で、母上と何を話した!?﹂
鬼気迫る顔で詰め寄られ、慌てて自分の恰好を見る。薄水色の丈
の長いドレスだ。夢かと思ったけれど、現実だったらしい。
必死に記憶を掘り返す。
﹁も、申し訳ござりませんです!﹂
思い至って、ざぁっと血の気が引いた。土下座に近い勢いでアリ
スに縋りつく。傍から見ると、土下座というより、胸倉掴んで引き
ずり倒したように見えるかもしれない。
152
﹁な、何をした!?﹂
のち
﹁湯殿で強制的洗濯したらば後に、残念ドレスを着こんだ故の現状
維持じょり! 後に、アリスぞ母親さんと会話を行ったが、とてつ
もなき流れるような流れを巧みに扱った会話にょろぞんけりは、私
如きでは難攻不落解読は不可能な結果が齎され、睡眠をとってしま
ったにょろ! ごめんにょろ!﹂
何だか、淡々と教科書を読んでいくだけの講義を受けている気分
になってしまった。板書することもなく、ただ先生が話して終わる
魔の講義だ。昼一番に入っていたらお昼寝タイムとしか思えない。
無理矢理とはいえお風呂を借りて、着替えも用意してもらった上
に、相手はアリスのお母さんだ。もしかしたらこれからお世話にな
るかもしれないのに、話の最中に寝てしまうなんて無礼すぎる。失
礼をしないよう掌を抓ったりして眠気を飛ばしていたのに、結局眠
ってしまったらしい。ただでさえ、挨拶もなしに誰かのベッドで熟
睡していたので、これは印象最悪コースまっしぐらだ。
お風呂に入って水分補給もして、さっぱりほかほかな身体。寝起
きであることも相まって、私の残念な頭は句読点を見つけられない
まるで早口言葉を翻訳できず、抑揚のない声音は子守唄に等しい。
ぐっすりでした。今は反省している。
申し訳なさと、怒られるという恐怖に、何も言えなくなった。ア
リスも無言だ。やっぱりもう一回謝ろう。反省ってこっちで何て言
ったっけ⋮⋮確か。
﹁と、とてつもなく始末書してるぞろ! ごめんぞろ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮寝ただけか?﹂
﹁ぞり!﹂
﹁母上と会話の最中に、眠った?﹂
153
﹁ご、ごめんぞり!﹂
﹁だけ?﹂
﹁ぞ、ぞり﹂
緊迫感は霧散し、アリスはがくりと項垂れた。両手をベッドに付
き、悲壮感を漂わせている。そして疲れている。凄く、疲れている。
﹁ご、ごめんぞろり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮眠ったのは、いい。倒れたのを無理に起こしたのは母だ。
知らなかった事とはいえ謝罪する。すまなかった⋮⋮⋮⋮だが﹂
﹁だが?﹂
支えてくれた体勢のまま項垂れているせいで全体的に近い。寧ろ
アリスの腕とベッドに挟まれている。しかし、今はそれどころでは
ない。アリスもだろう。
﹁母が、お前を気に入った﹂
﹁ん!?﹂
﹁何故だ、母上! 一体どうされたのだ、母上っ!﹂
﹁誠ぞり!? 誠、怒髪天な有様は存在しないのでじょろり!?﹂
何て心の広い人なんだろう!
私は思わずアリスに飛びついた。思わぬ奇襲にアリスもひっくり
返る。
﹁器巨大なる母親さん凄まじいぞり! 有難いじょろんぱ! 確実
に仕留めろぞ怒髪天と信じるに値する思考だったのろり! 私如き
思考ぞ遥か高みの御方ぞろ!﹂
﹁やめんかたわけ! どうせやるなら騎士ルーナにやれ!﹂
どうでもいいけど、アリスはルーナ本人の前では﹁騎士ホーネル
ト﹂と呼ぶ。パレードの時などに聞いた他の人からの呼び名も、ル
ーナや騎士ルーナだったから、たぶんこっちが浸透した呼び名なん
だろう。本人を前にしたらちゃんと苗字呼び。
ずっと思ってたけど、アリスって真面目だ。
154
とりあえず落ち着こうと思ったら、アリスは急に真顔になった。
﹁⋮⋮⋮⋮母上が気に入った場合、貴様に安息の地はない﹂
﹁ん!?﹂
何だか変な音がする。何処からだろうと耳を澄ませると、それは
廊下からやってくるようだ。さっき歩いたから知っている。廊下も
部屋の中と同じくらいふかふかだ。あんなにふかふかの上を靴で歩
いて、衛生面が保たれているって凄い。
﹁カズキ!﹂
﹁にょ!?﹂
﹁私と貴様は今より親友だ! いいな!? 親友であるからこそ、
危機的状況に陥った貴様を私が匿った! これでいく! 決して!
断じて! 私と貴様の間に男女の感情などあり得ない! 復唱!﹂
﹁私とアリスは念友!﹂
﹁親友だ、たわけ︱︱︱︱!﹂
何だろう。変な音が近づいてくるような気がする。妙な雰囲気も
するような。
アリスは必死の形相で私の肩を掴んで怒鳴った。唾が飛んできま
す。
﹁奴らに何を聞かれてもそれで通せ、名前は偽らんでも構わん!﹂
﹁や、奴ら!﹂
何だ、一体何が来るんだ!
アリスの肩越しに扉を見詰めると、取っ手が動いた。鍵がかかっ
ているのかがちゃがちゃと何度が動いた後、静かになる。これは諦
めたのだろうか。
ほっとした私に、何故か憐れむような眼差しが降る。
﹁⋮⋮⋮⋮何ぞり?﹂
﹁私には、嫁いでいった三人の姉と、二人の妹がいる﹂
いきなり家族語りを始めたアリスに、とりあえずうんと頷く。話
が飛ぶのは別に苦ではない。私自身よく飛ぶし、周りのみんなも飛
んでいた。マッハで飛ぶ話にも対応できなければ、女子大生などや
155
っていられない。
﹁そして、まだ嫁いでいない四人の妹がいる﹂
﹁じょ、女性陣多量ですにょ﹂
こくりとアリスは頷いた。
同時に、ばん! と扉が吠えた。ばんばんばんばんと間髪入れず
続く音に身を竦める私とは対照的に、アリスの目はどんどん遠くを
見つめていく。やめて、帰ってきて。私を一人にしないで!
﹁そして﹂
再びしんっと静まり返った扉は、次の瞬間吹き飛んだ。まるでス
ローモーションのように留め具が弾け、破片が散る。扉本体も、や
けにゆっくりとした速度で倒れていった。
﹁ごきげんよう!﹂
﹁ごきげんよう!﹂
﹁ごきげんよう!﹂
﹁ごきげんよう!﹂
以下同文、×いっぱい!
一気に華やかさを増した室内は、色の大洪水だ。色とりどりのド
レスで部屋の中を埋め尽くした女性達は、一糸乱れぬ動きでざっと
私達の退路を塞ぐ。
﹁従姉妹、姪、義姉、義妹、その他血縁、縁続き、総勢五三名だ!﹂
やけくそのように叫んだアリスの声に答えるように、女性達はに
こりと笑った。
前回は、ひたすらに男ばかりと出会った。
今回は、ひたすらに女性と出会う。
156
神様は、そろそろ加減とバランスを覚えたほうがいい。
157
15.神様、ちょっとの安息願います
老若男女⋮⋮男はいないな、老若女が勢揃いだ。なのに、全員テ
ンションが同じなのは何故だ!
﹁出来るだけ早く戻る。それまで耐えろ! 私は母上と話しをつけ
る!﹂
そう言い残し、私の親友︵仮︶は同情たっぷりの視線を置き土産
に、足早に部屋を出て行った。
話をつけに行ったんですよね? 帰ってくるんですよね? 私を
置いて逃げたんじゃないですよね!?
カムバック親友︵仮︶!
私は、ここでは狭すぎるときゃっきゃうふふする女性達に引きず
られるように、というより実際引きずられながら部屋を移動した。
気分は連行される囚人だ。宇宙人もこんな気分だったのだろうか。
連れて行かれたのは、庭がよく見えるガラス張りの部屋だった。
太陽の淡い光が綺麗だ。こんな状況じゃなかったら、駆け出して庭
に突進し、ガラスにぶつかっていそうだ。
部屋は広く、テーブルと椅子が沢山あった。そのどれもに軽食と
お茶とお花が乗っている。大学で例えるなら大会議室とか、小ホー
ルとか、そんな感じの広さだと思う。大きすぎないけど、小さくも
ない。少し意外だったのは、こういう時に用意される食べ物はお菓
子だと思っていたことだ。テーブルに乗っているのは、サンドイッ
チや小さめのパンだ。
娼館の皆と初めて会った時より腰が引けるのは何故だろう。皆様、
158
思い思いの服や下着や化粧道具を持っている訳じゃないのに。ある
のは上品な微笑みだけだなのに!
﹁あ、あの、カズキと申すにょろり!﹂
くるりと回されたと思ったら、椅子に座っていた。
﹁ごきげんよう、カズキさん! わたくし、妹のカトリーヌですの
!﹂
﹁ごきげんよう、カズキさん! わたくし、妹のカルロッテですの
!﹂
﹁ごきげんよう、カズキさん! わたくし、妹のベアトリスですの
!﹂
﹁ごきげんよう、カズキさん! わたくし、妹のヘレーナですの!﹂
私の前でくるくる回りながら女の子達が入れ替わる。私は必死に
顔と名前を一致させようと努力した。
﹁わたくし叔母のネリですわ!﹂
﹁わたくし姪のニーナですわ!﹂
﹁わたくしは伯母のテスタロッサですわ!﹂
﹁わたくし従姉妹のサラですわ!﹂
﹁わたくし⋮⋮⋮⋮﹂
あ、駄目だ!
既に、誰が妹かも分からなくなった!
名札を、名札を要求する! 出来れば顔写真入りでアルバムをく
ださい! そして、名札に日本語で振り仮名を振るために、並んで
一人ずつお願いします! 最初からお願いします!
彼女達は、決して重なって喋らない。一人一人喋ってくれる。そ
れはありがたい。ありがたいのだけど、一人一人の間に一拍もいれ
ないので全く頭に入らない。寧ろ、入った傍から抜けていく。くる
くる入れ替わる老若女達の顔と名前を一致させられるのは、ルーナ
くらいだと思う。
しかし、ここにルーナはいない。親友パンツもいない。気合を入
れてぐっと顔を上げる。残念な頭でも、出来ることはあるはずだ。。
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﹁あの!﹂
﹁お母様は、一所懸命努力する素直な女性がお好きなの﹂
﹁でも、お兄様の奥様になりたいと仰るご令嬢は皆様、一所懸命な
ご自身を伝えようと努力なさるの﹂
﹁エレナさんのご実家は、代々軍人ですのよ﹂
﹁努力はなさって当然ですもの﹂
﹁ひけらかすは恥! と仰る御方ですの﹂
﹁素敵でしょう?﹂
﹁わたくしエレナ様に憧れておりまして⋮⋮﹂
﹁わたくし達がおりますもの。どのようなお立場の女性が嫁いでい
らしても、アードルゲ家は安泰でしてよ?﹂
﹁お立場はどのようでも宜しいの﹂
﹁ですが、わたくし達と気が合う御方でしたら、とっても嬉しいと
思いませんこと?﹂
﹁エレナ様からの﹃根性試し﹄の試練をお受けになったのよね!?﹂
﹁貴女は倒れておしまいになるほどお疲れでしたのに、直前までそ
れを悟らせませんでしたでしょう?﹂
﹁エレナさん、﹃見上げた根性です! 素晴らしい!﹄と大層気に
入っておいでですの﹂
﹁それに、アリスさんが初めて女性をお持ち帰りなさったのよ!﹂
﹁それも、帰るなり寝室に駆けこまれて!﹂
﹁なんて情熱的!﹂
﹁驚かれたエレナさんが、林檎を握り潰されたのを見て、胸が高鳴
ってしまいましたわ!﹂
﹁誰も部屋に入らないようにと仰って医師を呼びに!﹂
﹁初めに貴女が眠っていたのはアリスさんの寝台でしてよ!﹂
﹁素敵でしょう!?﹂
﹁驚かれたエレナさんが、ドアノブを捩じ切っておしまいになった
の! 惚れ惚れしてしまいますわ!﹂
﹁わたくしの選んだお下着如何です!? 一等お気に入りなの!﹂
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﹁あら! わたくしのスズラン柄のお下着も素敵でしてよ!﹂
﹁皆様お待ちになって! わたくし一押しの星柄お下着は如何!?﹂
あ、駄目だ!
まったく口を挟めない!
ころころ鈴を転がすようなマシンガントーク。鈴のようでもマシ
ンガン。威力は抜群だ!
ずいっと一際近くに寄ってきた金髪の女の子は、夢見る少女のよ
うに両手を組んで大きな目を潤ませた。
﹁大陸出身で身元のない少女と、貴族の男性が情熱的な恋に落ちる
なんて! ああ、何て素敵なの!﹂
﹁否定! 否定ぞり!﹂
これだけは何としても口を挟むぞ!
エレオノーラさんとの失敗を教訓に、根性でヒアリングしていた
甲斐があって何とかカウンターのタイミングで返答できた。
﹁きゃー! もっと、もっとお話になって!﹂
﹁本当に楽しい喋り方をなさるのね!﹂
﹁素敵ですわ!﹂
﹁もっと何でもよいのでお話してくださいな!﹂
﹁お話なさるだけで楽しくさせてくださるなんて、カズキさんは素
敵な方ね!﹂
多勢に無勢すぎる! ここが戦場なら今すぐ戦略的撤退をするべ
きだ!
だけど、私には今さっきやけくそのように親友︵仮︶になったア
リスの汚名を雪ぐ必要がある。親友︵仮︶の為、そして自分の為、
言うべきことは言わねばなるまい。
﹁私なるは!﹂
﹁何々!?﹂
﹁何ですの!?﹂
﹁どうなさったの!?﹂
﹁もっとお話しになって!﹂
161
﹁何でもお話しになって!﹂
﹁素敵!﹂
﹁楽しいですわぁ!﹂
﹁もっといっぱいお話ししましょう!﹂
﹁パンは如何!?﹂
﹁こちらの蜂蜜がとっても合いますの! 是非召し上がって!﹂
一言に対して、返ってくるのが十倍以上。
親友︵仮︶、助けて。
部屋の入口を見ても、そこは固く閉ざされている。親友︵仮︶が
現れるのはまだ先のようだ。
いつの間にか粘ついていた口をどうにかしようと、勧められた紅
茶を飲み干す。熱かった。勢いのままカップをテーブルに置、こう
として、高そうだと気づいてそっと下ろす。
﹁アリスぞ恋仲否定ぞろ! 私、他人の恋仲存在するぞ!﹂
はっきり言い切った。やった、私はやったぞ!
ぴたりと女性達の動きが止まった。比喩ではなくお花畑よりカラ
フルな色合いの視界で、ぴたりと全員の動きが止まる。誰かがぽと
りと扇子を落とした。
驚かせて申し訳ないけれど、これで話ができる。
そう思ったのも束の間、耳を劈く黄色い悲鳴が上がった。おそら
く、一つ一つは﹁きゃああ!﹂や﹁まあ!﹂なのだろう。しかし、
それが五三人分も重なると私の平凡な耳では処理できない。五三人
分の黄色い声は、凶器でもいいんじゃないかと思う。
﹁三角関係!? 三角関係ですの!?﹂
﹁まあ、素敵! まるで物語のようね!﹂
﹁アリス様の片思いですの!?﹂
﹁あのアリス様が⋮⋮⋮⋮なんて素敵なの!﹂
﹁アリス様が、貴女を恋人の元から強引に連れていらしたの!?﹂
﹁きゃあ! まさかそんな! 素敵!﹂
﹁ロマンティックですわ!﹂
162
誰か、メガホンを、メガホンをください!
圧倒的に不利な状況だけど諦める訳にはいかない。メガホンもマ
イクもないなら、腹の底から声を出すしかない。エレオノーラさん
をお手本に、腹の底から声を!
出そうとしたら咽た。緊張しながら声を張り上げようとするのは
お勧めしない。咽る。
不幸中の幸いというべきか、突然咽た私を心配してくれた皆さん
は、興奮を治めてくれた。
大丈夫? と優しくかけられる声よりは大きく宣言する。
﹁大丈夫ぞり。 わ、私なるは、ル﹂
はっと自分の口を押える。ルーナの恋人宣言は流石にまずい。ア
リスが本名でいいと言っていたのは、私の名前が有名じゃないから
だ。﹃黒曜﹄探しをしていた時、偽物がたくさん出るだろうことを
予想して、私の名前は秘されたらしい。
しかし、ルーナは有名だ。それが﹃騎士ルーナ﹄と結び付けられ
るかは分からないけれど、迂闊なことはしないほうがいいはずだ。
それにロマンティック宣言とか私には荷が重い。恋人宣言もかなり
恥ずかしい。彼氏いるんだ宣言もなんとなく気恥ずかしいのに、恋
仲宣言はかなり恥ずかしい。さっきの一回で勇気を使い果たした。
﹁ル?﹂
慌てて誤魔化そうとしたけれど、あれだけの騒がしさの中でもし
っかり聞きとられている。急いで何か代わりになる言葉を考えなけ
ればならない。ルーナ⋮⋮ロマンティック⋮⋮ル、ロ⋮⋮ル、ロ⋮
⋮⋮⋮。ルとロで始まる言葉を誰か!
﹁ル、ル⋮⋮⋮⋮ル、ルーズソックスなロドリゲスぞり!﹂
ロドリゲスって誰だ。
自分で言ったけれど、思わず真顔で疑問符を浮かべる。更に、別
にロマンティックは口に出していないので、ロから始まる単語を考
163
える必要は全くなかった。
﹁ルーズソックス?﹂
巻き髪を後ろに流した女性が首を傾げる。そうだ、この世界にそ
んなものあるはずがない。かといって、こっちの世界にはない物で
すなんて説明できるはずがない。
嫌な汗が背筋を伝い落ちていく。まずい、弁明できる言語力なん
てない。頭脳もない!
女性は少し思案して、合点がいったと言わんばかりに輝いた笑顔
で両手を叩いた。
﹁大陸で流行っていると噂のルーズソックスですね!﹂
あるの!? ルーズソックスあるの!?
この世界に再び戻ってきたときより驚いた。
女性の一言で、周囲の女性達も一斉に喋り始める。
﹁書物で読んだことがございますわ! 大陸で流行した足カバーで
すわよね!﹂
﹁わたくしも聞いたことがございますわ!﹂
﹁何でも、布を贅沢に使用していることから富の象徴とか!﹂
﹁通常の何倍も布を使用して、敢えて余裕を持たせて弛ませるのが
流儀とか!﹂
﹁中には太腿まである物もあるとか!﹂
﹁落ちてしまわないよう縛る紐は色鮮やかな物を使うそうですわね
!﹂
きゃっきゃとお話しに花を咲かせる人々に、やっぱり口を挟めな
い私は、メイドさんに渡されたパンをもそもそ齧った。美味しいで
す。
﹁つまり、カズキさんは大陸のロドリゲスさんと愛し合っているの
ですね!﹂
﹁ぶほっ!?﹂
パンが喉に詰まった。愛し合ってるとか、言葉に出されると結構
な破壊力だ。慌てて何か飲もうと振り向く。
164
苦しいし、何だか謎の人物が出来上がってしまったが、何とか誤
魔化せたようだ。ほっとしてカップを取ろうとした私の視界で、ば
んっと勢いよく扉が開かれた。
﹁聞いてないぞ!?﹂
予想外の人物も誤魔化された!
突如として現れたルーナは、窓ガラスが割れんばかりの黄色い悲
鳴を意にも介さず、大股で私の前まで歩いてきた。昨夜と服装が違
う。身体の線に沿ったグラースの制服ではなく、少しふわりとした
服はブルドゥス寄りだ。
目の下の隈は眠ってないからだろうか。⋮⋮そういえば、いま何
時なんだろう。時計を探す暇もなく、大きくなった掌で肩を丸々掴
まれた。そのまま、ずいっと至近距離になった顔に悲鳴を上げそう
になったが、パンが詰まって身悶える。思わずイケメン顔を押しの
けて、カップに飛びつく。少し冷めた紅茶で流し込み、なんとか人
心地ついた。
﹁カズキ、お前っ! 男を作ったのか!? 俺がいるのに!?﹂
[ちょ、ちがっ⋮⋮!]
﹁きゃー! いったい何角ですの!? 何角関係ですの!?﹂
﹁素敵素敵! まるでお芝居のようですわ!﹂
﹁アリスさんにロドリゲスさんに、新人物に! カズキさんったら
素敵ですわ!﹂
﹁えー! カズキさんはお兄様にお嫁入りしてくださるのではない
の!?﹂
私の肩を掴んだまま、ルーナの首がぐるりと後ろを向いた。梟じ
165
ゃあるまいし、そこまで常人離れする必要はないんじゃないかな!?
かろうじて人間の範囲だとは思うけど、スムーズに回りすぎたル
ーナの首に慄いていると、再びぐるりと戻ってきた。
﹁うぉわぁあああああ!?﹂
あ、駄目だ!
イケメンどうのこうのの段階を飛び越えて、目が怖い! 非常に
目が怖い!
﹁どいつだ﹂
﹁は!?﹂
目の怖さと勝負できるほど低い声音で問われる。ドイツがどうし
たんですかね! ソーセージが美味しいそうですよ!
目が怖すぎてイケメンとか吹っ飛びそうだ。目つき悪い!
﹁俺がいるのに、お前と愛し合ったという不届き者はどいつだ。ど
こにいる。俺がいるのに俺より弱い奴は認めない。俺よりカズキ用
語を解読できるんだろうな、俺よりカズキ珍行動を理解できるんだ
ろうな。そうでなければ別れないぞ、俺がいるんだからな! 後、
騎士アードルゲとの婚約も認めないからな! 何せ俺がいるんだか
らな!﹂
人間混乱したら碌に思考も回らない。ぐるっぐる混乱した特に優
秀でもない私の頭脳は、矢継ぎ早に畳み掛けられて日本語すら出て
こなくなった。
ああ、おっきいソーセージに齧り付きたい。食べたらかしゅっと
汁が飛ぶくらいぷりっぷりのソーセージがいいです。ピリ辛も捨て
がたいけど、あまりきつすぎないハーブのソーセージな気分です。
⋮⋮⋮⋮今気づいたけど、私はどうやらすごくお腹が空いているよ
うだ。
﹁まあ! カズキさんったら罪なお人!﹂
﹁罪人に成り果てたが私!?﹂
﹁魔性の女ですわね!﹂
﹁無精の女ぞろりんぱ!?﹂
166
﹁アリスさんにこの方に、皆様素敵な殿方ばかり! きっとロドリ
ゲスさんも魅力的な方なのですね!﹂
それは知らない。
そこだけ思わず真顔になる。とりあえず、想像してみよう。頭の
中で髭面の小男がフラダンスを始めた。自分の想像力のなさが恨め
しい。
﹁注目!﹂
混沌とした部屋の中に、びりびりとガラスを揺らす声が響き渡る。
その声が響いた途端、きゃあきゃあはしゃいでいた女性達は、背筋
を伸ばして立ち上がる。一糸乱れぬ様子で身体の正面を声のした方
向、扉に向けた。
そこにいたのはアリスとエレオノーラさんだ。なんとエレオノー
ラさんはアリスより背が高かった。
﹁今日よりカズキは、わたくしの恩人としてアードルゲ家に滞在し
ます! 現状において、それ以上の詮索は無用! 異論は!﹂
﹁ございません!﹂
﹁宜しい! では、各自朝食を済ませ次第、平時に戻るように! カズキは朝食を済ませ次第睡眠を取りなさい! 以上! 解散!﹂
﹁畏まりました!﹂
下手をすると、ミガンダ砦の皆より統制されていたかもしれない。
定規で測ったような礼が五三人分並んでいる。壁際ではメイドさ
ん達も同じだ。これだけの人数がいるのに一糸の乱れもない背中を
呆然と見つめた。
エレオノーラさんはかつん! とヒールの踵を鳴らし、ぴんっと
伸ばした背筋そのままに足早に立ち去って行った。
張りつめた空気はあっという間に霧散し、女性達はからはさっき
までのきゃっきゃうふふな空気を醸し出された。
﹁カズキさん、仲良くしてくださいませ﹂
167
﹁カズキさん、たくさんお話ししましょうね﹂
﹁カズキ様、たくさん召し上がってね﹂
鈴のような声で笑いながら声をかけていってくれる皆さんに、何
とか一人一人頭を下げる。間髪いれないご挨拶くださいまして、誠
にありがとうございます。できれば一拍くらいは置いて頂けると嬉
しいです!
本日二度目となる全員の挨拶が終わった。大変申し訳ないことに、
誰が誰だかさっぱり分からない。後でアリスに聞こう。
女性達はこっちを気にしながらも、さっきみたいに質問攻めして
くることはなかった。楽しそうに食事を開始している。
もしかしなくても、これは朝食だったのか。確かに、よく見れば
壁際にスープやサラダが用意されている。恐らくだけど、最初は話
がしやすいように手だけで食べられる物だけテーブルに乗せられて
いたのかもしれない。
早足で合流したアリスに引っ張られるように隅の席に移動する。
﹁母上には事情を話した﹂
﹁アリス! 状況を報告せよを求むぞ私がぞろりんぱ!﹂
﹁後で説明する! それよりもそっちを何とかしろ、そっちを!﹂
促されるままに視線を向けたら怖かった。
目が悪い! 間違えた! 目つき悪い! そして怖い!
実は、世界で一番綺麗なんじゃないかと思うくらい大好きな水色
が、完全に座ってしまっている。
﹁カズキ﹂
﹁うはい!﹂
肩をがっしり掴んだ掌は熱いくらいなのに、掴まれたところから
冷気が漂っていく。
﹁百歩、いや⋮⋮百国譲って騎士アードルゲとの婚約を認めるとし
よう﹂
168
﹁欠片も認める気がないが、そのような事態は百国同盟が組まれる
よりありえん!﹂
もっともだ! もっと言ってやってください、親友︵仮︶!
﹁だが、どこの骨とも知れぬロドリゲスとかいう男だけは認めない、
断じて認めない! 騎士アードルゲ! ロドリゲスとは誰だ!﹂
親友︵仮︶は、ルーナに掴まれた腕を振りほどき、ぐいっと私に
押し付けてきた。
貴様なんて親友︵仮︶じゃない! 親友︵未定︶だ!
よく考えたら仮も未定もほとんど同じだ! じゃあもう仮でいい
よ、仮で!
親友︵仮︶は、私からびしばし飛び交う非難の視線に、同じ視線
で返してきた。
﹁私を巻き込むな、私を!﹂
﹁申し訳ござりませんです!﹂
もっともすぎる言い分だ。
アリスにはそろそろ土下座するべきだろうか。
﹁カズキ! 決闘を申し込む!﹂
[負けますね!]
﹁お前にじゃない、ロドリゲスだ! ロドリゲスとは誰だ!﹂
[貴方ですね!]
﹁俺か!﹂
次いで何かを言おうとしていたルーナは、ぴたりと動きを止めた。
丸くなった目は、さっきまでの怖さを完全に消して、まるであの頃
みたいに可愛い。
きょとしんとした顔が可愛いと言ったら、昔みたいに真っ赤にな
って怒るだろうか。
﹁俺?﹂
[他に誰が!?]
ぽかんとした後、じわじわ嬉しそうな顔になっていくイケメンに、
こっちは首筋から背中にかけて熱くなっていく。このままだと顔が
169
真っ赤になりそうだ。
しかし、それは杞憂だった。嬉しそうだったルーナは、じわじわ
悲しげな表情になっていく。
そして、悲壮感漂う顔で私を見つめた。
﹁カズキ⋮⋮⋮⋮俺の名前はロドリゲスじゃないからな﹂
[知ってるよ!]
170
16.神様、ちょっと色々考えています
黒曜候補が襲われた。
グラースとブルドゥスにとって大事件だ。
王族が住まう城内で襲撃事件が起こったこともそうだし、黒曜候
補は、美も知も兼ね備えた優秀な女性達なのだ。失えば人材の重大
な損失にもなる。しかも、襲われたのは優勝候補の三人だという。
幸い全員かすり傷程度だというが、二国の重要人物が集まっている
この時期に、そんな襲撃を許した時点で目も当てられない。
らしい。
重大な事件なのは分かる。凄く大変な事件なのも分かる。
しかし、私にとっては新聞やテレビのニュースのような感覚だ。
だって、そんな重大な事件だからこそ﹃元祖黒曜はこちらです!﹄
な私でも、ある意味物凄く関わりのないことだったりする。
寧ろ私にどうしろと。犯人を見つけ出す頭脳も、探りを入れる人
脈も、物理でとっ掴まえる力もない。
なので、とりあえずそういう事件があったと心に留めておくだけ
にする。気に病みたい気持ちはやまやまなのだが、如何せん私は身
近なことで手一杯だ。
国家レベルの事件より、自分の周りの事件が大事だ。身近と言っ
てもこれだって国家レベルの大事件だけど。
まず、娼館襲撃事件。これを聞いた両国の代表は呻いたり泡を吹
いたそうだ。ガルディグアルディアを襲撃した大馬鹿者はどいつだ、
戦争を始めたいのか! と、軍のトップは怒声を響かせたらしい。
酒樽さんがあそこにいた件は伏せられていた。ルーナがいたことを
伏せる為だそうだ。
171
リリィ達が無事だと聞いたからこそ、こうやって落ち着いて話を
聞ける。
今朝、ルーナの元に酒樽さん経由で手紙が届いていた。直接こっ
ちに届かなかったのは、私の場所を隠しているからだ。ルーナがブ
ルドゥス寄りの服装なのも同じ理由である。
手紙には、みんな無事であること、私の所為ではないこと、私に
元気でいてほしいと書かれていた。簡単に箇条書きで。文字の読み
がかろうじて、書きは多大に怪しい私の為に、まるで子どもに読ま
すお手本のようなそれが、本当にありがたかった。
あんなことに巻き込んでしまって尚、態度の変わらなかった人達が。
あんな目に合せてしまって尚、あんなにも優しかった人達が、本当
にありがたい。
後、筆記体だったら絶対読めなかった。
今は朝日が昇ってまだそんなに経っていないらしい。道理で日が
柔らかいと思った。
﹁騎士ホーネルトがジャウルフガドール筆頭と付き合いがあったと
は思わなんだ﹂
﹁五年前の式典でブルドゥスに来た際に、彼の奥方が盗賊に襲われ
ている場面に出くわしたんだ。以来、良くしてくださっている。色
々、凄い方だとは知っていたが、カズキの姿を見つけた後、探して
ほしいと頼んですぐに見つけ出した時は改めて思ったな。⋮⋮だが、
奴らは何故だ?﹂
騎士二人は、ぐっと眉間の皺を寄せた。
私達はまだ広間でご飯を食べている。あれだけいた女性達は、気
が付いたら食事を終えて全員いなくなっていた。一人また一人と退
出していたのは気づいていたけれど、気が付いたらメイドさんもい
172
なくなっている。飲み物や食べ物は、すぐ傍の台車に纏められてい
た。お仕事早いし完璧です。
横着して、身体を捻り、手を限界まで伸ばして台車の端を掴む。
そのままこっちに引き寄せていると、アリスに呆れた目で見られた。
ルーナは静かに頷いた。
﹁足じゃないだけいいと思う﹂
﹁貴様、そこまでっ⋮⋮!﹂
﹁あれなるは両の手が閉鎖されていたが故の悲劇じょろり! 更な
るはてめぇらがパンツ貯蔵するなるが敗因にょろ!﹂
﹁俺は、下着は自分で洗ってた﹂
確かに。ルーナは、パンツを自分で洗っていた。真っ赤な顔で﹃
下着は自分で洗う!﹄宣言していたのを思い出す。思春期の息子は
こんな感じなのかなと微笑ましく思っていた。
⋮⋮⋮⋮気の所為だろうか。こっちの世界でのパンツとの縁が半
端ない。自分の異世界体験を手記に残すとしたら、タイトルは﹁カ
ズキの異世界パンツ巡り!﹂だ。いや﹁パンツ異世界日誌﹂とか﹁
異世界パンツ記﹂とか!
あ、最低だ!
トマトとレタスとチーズのサンドイッチを齧りながら二人を見る
と、また眉間に渓谷を作っていた。この二人、結構似てると思う。
若いのに眉間の皺が凄い所とか。
﹁俺はあの時、確かに目立つ場所でカズキと騎士アードルゲの後を
追ったが、すぐに見失った上に名前は呼んでない﹂
﹁確かに⋮⋮⋮⋮娼館にいたことを知っている人間は?﹂
﹁ギャプラー殿に連絡してすぐだったからな、情報が漏れていたと
も考えにくい⋮⋮⋮⋮カズキの外見を知っている人間か、ガルディ
グアルディアの奥まで密偵を放てるような人間か、だ﹂
眉間に山脈が現れた。自分のことが話し合われているけれど、口
173
を挟めることが一切ない。ブルドゥスの上の人なんて全く見当もつ
かない。グラースでさえ分からないのに。
心当たりはと聞かれないのは、それが私以上に分かっているから
だろう。私のことだけど、私から物凄く遠い話だ。
﹁何故にして、私ぞ的ぞ、よく狙えよしたぞろり?﹂
﹁⋮⋮騎士ホーネルト﹂
﹁何で自分が標的になったのか、だ。黒曜だからとしか俺にも分か
らない﹂
そりゃそうだ。私個人が恨みを買うほど、この世界に関われてい
ないと胸を張って言える。
黒曜だから。理由がそれだけなら実際会ってくれれば分かるのに
と思いながら、野菜スープを飲み干す。コンソメ風味だ。
黒曜像とは似ても似つかない私を見てくれれば、殺す価値もない
と鼻で笑うはずだ。
﹁こくよーぞ存在ぞ良いのならば、何時如何なる時分でも、おーい
交代の時間だぜーするぞりょり⋮⋮﹂
﹁⋮⋮騎士ホーネルト﹂
﹁黒曜になりたいなら、いつでも交代するのに、だ。だがカズキ、
そうなると俺の立場が微妙だな。俺は﹃黒曜の恋人﹄で有名なんだ
が?﹂
憂いた顔で俯かれて、そのことに思い至った。ばんっとテーブル
を叩いて立ち上がる。
﹁それなるは多大に途方に暮れるぞ! 私、ルーナと別離するぞ、
いやぞ、嫌いぞ、嫌悪するにょ! ルーナ嫌いにょろり、大柄に嫌
いぞろり!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前の反応を試した俺が悪かった。悪かったから、心に
突き刺さる言葉選びは勘弁してくれ﹂
盛大にルーナへの愛を叫んだら、顔を覆って呻いてしまった。愛
を伝えるって難しい。そんなに照れなくていいんだよ?
俯いたルーナの背中に、ぽんっとアリスの手が乗せられる。どっ
174
ちかというとあっちが親友︵決定︶に見える。私とアリスの親友︵
仮︶よりよっぽどだ。
ここんっ、ここんっと素早いノック音がした。
﹁は﹂
い、と続くはずだったアリスの返事は、既に開いた扉で遮られた。
小さく呟かれた﹁い﹂が悲しい。
﹁アリスロークさん、お客様です﹂
エレオノーラさんはそれだけ言って、かつんとヒールを鳴らして
出て行ってしまった。
メイドさんが外側から押さえているのか、開かれたままの扉から
長身の男性が入ってくる。つんつんとした赤毛を見た途端、思わず
腰を浮かせて駆け出していた。
﹁ティエン!﹂
﹁おー! カズキお前、全然変わんねぇな!﹂
ティエンチェン・ハイは、ミガンダ砦にいた軍人だ。大柄な身体
と性格で、見た目通りの男だなとよく言われている。あの頃は二十
代だったけど、十年経ったので三十代後半に突入しているはずだ。
若干変化はあるけれど、あんまり変わらないようにも見える。
ちなみに私は、彼の名前を覚えるとき心の中でこっそり仇名をつ
けた。
ハイ・テンション、と。
お互い両手を広げて駆け寄っていたが、はっとなって踵で急ブレ
ーキをかける。きゅっと音を立てて回転し、バレエのようにくるく
る距離を取って離れた。
﹁危険だったでぞろり!﹂
ティエンは、私が脇腹弱いと知ってからは、しょっちゅうくすぐ
ってくるのだ。うっかり諸手を上げて再会を喜んでしまった。危な
175
い所だった。
脇腹を押さえてじりじり後ずさる。
﹁おい、カズキ?﹂
﹁ティエン、即座に腹部接触するぞろ! 私なるは、危機的状況を
索敵する能力ぞ精進したじょりん!﹂
脇腹を押さえて後ずさっていくと、ティエンは傷ついた顔をした。
﹁お前⋮⋮二度と会えなくなったと思ってた奴と十年ぶりに再会し
た俺が、そんなことすると思ってんのか!? お前は俺をそういう
奴だと!? かー、傷つくぜ!﹂
﹁え? あ、ご、ごめんじょりん!﹂
片手で顔を覆って嘆くティエンに、過剰反応しすぎたと走り寄る。
私に取ったら一年も経っていないけど、彼らからしたら十年経って
いるのだ。再会の挨拶もなしに脇腹擽ってくると疑って申し訳なか
った。
俯いてしまった長身の肩には届かないので、腕の辺りにぽんっと
手を置いて謝る。
﹁あ、馬鹿!﹂
いきなり人を馬鹿呼ばわりしたルーナにくるりと振り向いた私は、
全身を強張らせた。
﹁うにゃぁああああ!﹂
私の二倍はありそうな掌が、両手で私の脇腹をすっぽり覆ってい
る。それだけでもじわじわとくすぐったさが湧き上がってくるのに、
あろうことか、この男は指を動かしているではないか!
あははははと、大声で笑い出せるようなくすぐったさではない。
もっとこう、張り付くような、引き攣るような、痙攣にも似た感覚
がぞぞぞっと湧き上がってくる。
﹁ひ、ぁ、やぁあ! ふぁ、ひやぁ! あ、あぅ、ひ、やぅ、やめ、
やらぁ!﹂
息が、息ができない!
涙目でルーナに助けを求めようとしたらいなかった。薄情者!
176
こうなったら親友︵仮︶に救いを求めようとしたら、背後で凄い
音がした。同時に脇腹が解放されたので、転がるように親友︵仮︶
に走り寄る。
﹁親友︵仮︶パンツ︱︱!﹂
﹁こっち来るな︱︱!﹂
飛びすさって逃げられた。親友︵仮︶パンツ冷たい。
無情さに項垂れつつ、追撃を警戒してティエンに視線を戻すと、
ルーナにアイアンクローされていた。ルーナの手には筋が浮かんで
いる。全力だ。あれは痛い。いいぞ、もっとやれ!
﹁待て待て待て待て!﹂
﹁誰が待つか!﹂
﹁これはあれだ! あれだぞ! あれだろ!?﹂
﹁どれのあれでも絶対許さない﹂
﹁気張ると全部残念になる恋人を持つお前に、カズキの唯一エロい
ところを見せてやろうとだな! 先輩からの優しさだぜ!﹂
みしりと凄い音がした。あれ、ティエンの額へこんでない!?
﹁俺が見られないより、あんたに見られるほうが嫌に決まってるだ
ろうが! 後、残念も可愛いと思わなきゃカズキと付き合えるか!
阿呆が!﹂
ありがとう、恋人よ。
けど、残念は否定してほしかった。是非とも否定してほしかった。
﹁いってー⋮⋮これへこんでねぇか? なあ、カズキ?﹂
﹁近寄るな。そして禿げろ﹂
﹁おまっ⋮⋮! 恐ろしいこと言うなよ! 俺くらいの年齢になり
ゃあ、洒落になんねぇんだよ!﹂
﹁知るか。カズキも言ってやれ。禿げろって﹂
ルーナの背中に庇われつつ、顔だけ出してティエンと対峙する。
177
禿げろが攻撃になるのはどこの世界も同じだ。
﹁ティエン!﹂
﹁あ?﹂
﹁捥げろ!﹂
﹁おまっ⋮⋮!﹂
凄い速さでティエンの両手が前に回って前屈みになった。ついで
に、ルーナの背中もびくんと震える。アリスは庭を見ながら﹁綺麗
だな﹂と呟いていた。禿げろってそんなに恐ろしい呪いの言葉だっ
たのか。そうか、気をつけよう。向こうの世界みたいに、ハゲチャ
ビンのノリで﹁ハゲー﹂とからかってはならないらしい。
男三人は若干青褪めて見える。そんなに恐ろしい言葉とは思わな
かった。ここぞというときに使うとしよう。刺客に襲われたときと
か!
上品で高そうなカップに紅茶をなみなみと注いだティエンは、喉
を鳴らして一気飲みした。懐かしい。砦でも、誰が山羊乳一気飲み
できるかと勝負していたのを思い出す。変わってないなぁ。
ちなみに、一気飲みできなかったイヴァルは散々からかわれて、
大泣きしながら抱きついてきた。代わりに一気飲みしたら男気があ
ると散々褒められた。誇らしかった。
山羊乳は牛乳に比べて癖があり、最初はつらかったけれど、慣れ
ればこういうものだと思えるようになった。飲めるだけでもありが
たいのだ。でも、娼館で出してくれた牛乳のほうが断然好きです。
﹁あー、ひどい目に遭ったぜ﹂
私がな!
半眼で睨んでやると、にっと白い歯を出して笑われた。いい笑顔
しときゃ許されると思うなよ。快活な笑顔は大好きです。
ちょっと許してしまった私は、安い女かもしれない。
178
﹁で、ティエンは何しに来たんだ﹂
﹁何って、お前を連れ戻しにきたんだよ。黒曜候補と、姫さん達が
お前を取り合って大喧嘩だ。もうごまかしきれねぇぞ。後、カズキ
にも会いたかったしな﹂
快活にウインクされた。それは別にいらなかった。
﹁何故にして、大乱闘ぞろ?﹂
﹁乱闘までいってねぇよ! あー⋮⋮つまりな、こいつは﹃黒曜﹄
の恋人だろ?﹂
﹁じょりんぱ!﹂
﹁﹃黒曜﹄決定にはこいつの意見がでかいんだよ。だから試験前に
お近づきになっとこうって腹積もりが半分﹂
にやっと笑ったティエンは、ルーナの頬っぺたと指で突っついた。
﹁後は、こいつがモテるから。姫さん達は行き遅れてもこいつ一筋
だしなー。色々噂流して諦めさせようとしたけど一向にっていって
ぇ!﹂
頬っぺたを突いていた指を握ってあらぬ方向に曲げたルーナは、
眉間の皺を渓谷にしている。
﹁あんたの所為で凄まじい噂が飛び交っただろうが!﹂
﹁男色ぞり?﹂
﹁そうだ! いや違う、噂を肯定したわけじゃないからな!?﹂
慌ててぶんぶん手を振っているルーナに聞きたい。握ったままの
ティエンの指は無事ですか?
かろうじて無事だったらしい指を大事そうに確保したティエンは、
ふーふーと指に息を吹きかける。
﹁てめぇ⋮⋮先輩に向かって何てことしやがる!﹂
﹁こっちの台詞だ。後、俺は騎学院卒、ティエンは軍学院卒。先輩
じゃない﹂
ふんっと鼻を鳴らされたティエンは、にんまりと嫌な笑顔を浮か
べて私を手招きした。テーブルを挟んでいるので擽られることはな
いだろうと顔を寄せる。
179
﹁お前がいなくなって三年は探し回る。次の二年は荒れる。ここま
で、女の影なし。流れた噂が女嫌い﹂
﹁ティエン!﹂
押しのけようとして来るルーナの顔に、さっきとは逆にアイアン
クローを決められる。
﹁そっから別方向に荒れてなー? 来るもの拒まず去るもの追わず。
元々モテたからなー? 流れた噂が女好き。で、そっから荒れに荒
れて、落ち着いたのがここ二、三年だな﹂
言われた言葉を処理するまで少し時間が必要だった。
その間にアイアンクローから逃げだしたルーナは、ちょっと焦点
が合わない目で必死に肩を掴んできた。額が赤い、痛そうだ。
ぼんやりとそれを見ていると、ルーナが焦っていく。
﹁カズキ!? その、ちが、違う! 浮気とかそんなんじゃなくて
!﹂
[ルーナが⋮⋮ルーナが⋮⋮⋮⋮そんな⋮⋮⋮⋮⋮⋮]
﹁カズキ!?﹂
わなわなと手が震える。その震えが全身に渡った途端、私は椅子
を蹴り倒して立ち上がっていた。
[一人で大人の階段昇ってた︱︱! いやー! 裏切り者︱︱! お互いファーストキスもまだだったから、初めてのちゅーのとき一
緒だねって、一緒に初めてしようねって約束したのに︱︱! ルー
ナの馬鹿︱︱! あれだよ、あれと一緒だよ! マラソンで一緒に
走ろうねって約束したのに、先にゴールしちゃったパターンだよ!
? 分かる!? テスト勉強してないー、寝ちゃったー、とか言っ
てたのに、実際はしっかりばっちり勉強してたあれだよ! 本気で
寝ちゃってテスト勉強してなかった私に謝れ! 寧ろ私が先生に謝
れ! 先生ごめんなさい! 補習で休日出勤させて本当にごめんな
さい! あれって無給なんですよね、本当にごめんなさい! そし
てありがとう!]
先生のおかげで無事に高校卒業できました!
180
本当にありがとうございました!
そっちで何とかしろと渋っていたルーナも、﹃騎士ルーナ﹄が必
要だと説得されて渋々戻っていった。最後に、馬に乗ったティエン
がからから笑いながらからかってきた。
﹃こいつはともかく、カズキは男遊びとかしなかったか? ん?﹄
セクハラだ。当然そんなことはしていないから、胸を張って堂々
と答えた。
﹃それなることは当然存在皆無して⋮⋮⋮⋮⋮はっ!︵当然してな
いけど、元気のない私を気遣った大学の友達がばんばん合コンに誘
ってくれたり、サークルの飲み会に参加させてくれたり、何かその
場の雰囲気でアドレス交換しちゃったことは入らない、はずだ!︶
ないぞろ!﹄
﹃その間は何だ!? 何に思い当たった!? カズキ!?﹄
飛び降りようとしたルーナが乗ったばかりの馬のお尻を、大爆笑
したティエンが叩いてお城に戻っていった。何だかぐったり疲れた
アリスも一緒だ。
私は、エレオノーラさんの好意に甘えて寝させてもらうことにし
た。よく考えたら、昨日娼館が炎上してから二時間しか寝ていない。
段々落ち着いてくると、身体がずっしりと重く、瞼が下りてくる。
まだ朝だけど、明日から頑張るから今日は寝させてもらおう。
メイドさんに案内してもらいながら、宛がわれた部屋の前に到着
した。お礼の為に下げた頭を上げるのにも気力がいる。もう半分眠
っていた。
足元を眺めていると、かつんと踵を鳴らして誰かが立ち止る。ぐ
らぐら揺れながら顔を上げると、ぼいんなお胸があった。そして、
淡々とした声が降る。
﹁何か入用な物はありますか。仰って頂ければ、睡眠をとっている
間に用意しましょう﹂
181
﹁あ、ありがとうじょろり⋮⋮えーと⋮⋮⋮⋮必要補給⋮⋮⋮⋮⋮
⋮﹂
とろんとしてきた目を擦る。駄目だ、二度も話しながら眠って堪
るか!
根性でくわっと目を見開いて、姿勢を正す。
﹁可能存在するすれば、皆々様方ぞ記載されし図鑑ぞ借用頂けるじ
ょ願うじょろり!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮我々の一覧が分かれば宜しいですね?﹂
﹁はっ!﹂
﹁では、家系図を用意します。書き写すまで時間がかかりますので、
それまで眠っていなさい﹂
﹁はっ! あ、ありがとう!﹂
﹁ございます!﹂
﹁ごじゃりまにゅ!﹂
﹁ます!﹂
﹁ましゅ!﹂
﹁続けて!﹂
﹁ありがとうごじゃりましゅ!﹂
﹁宜しい!﹂
若干噛んだけれどOK出してもらえた。
もごもご復唱している私を、エレオノーラさんはじっと見下ろし
ている。何かしただろうか。こういう状況で真っ先に頭に浮かぶの
が﹃怒られる!﹄なのは何故だろう。今迄の人生経験だろうな。
﹁若干若くは見えますが、今の貴女は立派に成人して見えます。で
すがあの時は、貴女がとても幼い子どもに見えました。眠っていた
からでしょうか﹂
それとも、と続く。
﹁迷子だったからでしょうか﹂
その言葉に、私は返事ができなかった。
分からない。こちらの世界を生きる場所と定めるなら、私は迷子
182
じゃない。でも行きたい場所を決められない。決めた結果、また奪
われると思うと怖くて堪らない。選べないでいる以上、私は何処に
いても迷子だ。帰りたい場所が分からない。
捨てたいものなんてないんだ。どれもこれもが大切で、あれもこ
れもを手放したくない。
ミガンダ砦にいた頃は、ただ日本に帰りたくて泣いた。夜に一人
になって、ごわごわした毛布をかぶって泣いた。でも今は違う。帰
りたいけど捨てたくない。もう離れたくないのに帰りたい。
どっちも選べない。どっちも捨てられない。捨てたくない。
黙り込んだ私を、エレオノーラさんは怒らなかった。
﹁今日はもう眠りなさい。では﹂
そのままかつんと踵を鳴らしていなくなる。ぴしりと伸ばされた
背中をぼんやり見送り、のろのろと部屋の中に入ると、まっすぐベ
ッドに向かって倒れ込んだ。突っ伏したまま足だけで靴を脱ぎ、も
ぞもぞと脱皮するみたいにドレスから抜け出して布団に潜り込む。
寂しいと口から出そうになって、無理やり両手で抑え込む。いい
人達にいっぱい出会えた。いっぱい助けてもらって、今も迷惑をか
けながら支えてもらっている。
感謝してもしきれない。本心から彼らが大好きで、ありがとうと
思っているのに、悲しい。
悲しむのも、泣くのも、彼らへの裏切りに思えてしまう。唇を噛
み締めて身体を丸める。泣くな。泣く理由なんてどこにもない。大
好きな人達に囲まれて、助けてもらって、支えてもらって、これで
悲しいと思うなんて罰当たりだ。
日本でも同じことを思った私はとても我儘だ。元に戻っただけだ
ったのに、寂しくて堪らなかった。 元々得るはずのなかったもの
を世界に返しただけなのに、悲しくて苦しくて堪らなかった。
贅沢なだけだ。我儘なだけだ。
私は、とても得難いものを貰った。みんな、とても優しい想いを
183
向けてくれたのに、それでも足りないと叫ぶ私がいけないのだ。
ふと意識が覚醒した。
何かこれといったきっかけがあったわけじゃないのに、脳までし
っかり起きている。
ぎゅうっと丸めていた身体を伸ばすと、ばきばきと関節が鳴って
いるような気がした。実際は鳴ってないけど、感覚的にだ。
のそのそ起き出してベッドの上を這いながら、いつの間にか傍に
用意されていた水差しから水を貰う。ベッド脇にいつの間にか揃え
られていたスリッパみたいな室内履きを履いて、長いキャミソール
のまま部屋の中をうろつく。いま何時なんだろう。時計を探しなが
ら重たい生地のカーテンを開ける。
赤みのある薄紫の空が広がっていた。夜明けか夕方か。さあ、ど
っちだ!
腹具合から推理しようと考え込んでいると、窓のすぐ傍に机があ
るのに気付いた。そこに、丸められた大きな紙が置かれていた。
何気なしに手に取って開くと、たくさんの名前が線で繋がってい
た。家系図だ。エレオノーラさんが早速準備してくれたのだろう。
それにしても凄い人数だ。これを写してくれたのか。後でしっかり
お礼を言わなければ。
家系図は、横に繋がっている線が多かった。きっと、過去に遡り
すぎるより分かりやすいと親戚関係を纏めてくれたのだろう。
まるで教科書に載っているお手本のような、しっかりとした字は
読みやすい。少しずつ一文字一文字確認しながら読んでいく。それ
ぞれの人の横には、肌が白い、赤毛、いつでも帽子、狐、猫、など
その人の特徴らしき言葉が書きこまれていて少し笑ってしまった。
184
確かに狐っぽい人いたなぁと思いながら辿っていくうちに、一つ
不思議な事に気が付いた。
女性名は黒いインクで書かれているのに対し、男性は赤のインク
で書かれている。最初は男女で分けているのかと思ったけれど、家
系図がアリスに辿りついた時、唐突に理解した。
アリスの名前は、黒だった。
赤のインクが示すこと。それは。
[故人⋮⋮⋮⋮?]
たくさんの女の人達。彼女達と繋がった線と名前。
屋敷に一人もいない男の人達。
アリスにはお兄さんが二人いる。その名前は真っ赤に彩られてい
た。
家系図を持っていた手が震える。
長い、長い戦争があった。三百年に渡った戦争は、国と民に疲弊
を齎した。
知っていた。聞いていた。感じていた。
けれど、知らなかった。
震える手で家系図を机に下ろすと、くるんと丸まって止まった。
息が荒くなる。
目が霞む。震える胸元で、ちりっと何かが擦れ合った。
びくりと震えて視線を落とすと、菱形の枠に嵌った赤い石と、花
をモチーフにした銀と青い石が、揺れながらかちかちとぶつかりあ
っている。
185
思わず両手でその二つを握り締める。リリィから貰った赤い石の
首飾り。そして。
[リリィ、ルーナっ⋮⋮⋮⋮!]
昔、私の勘違いで喧嘩してしまったルーナがくれた、花と青い石
の首飾り。
返ってきた。大事にしていた首飾りを、ルーナが持っていてくれ
た。十年間を繋いでくれたのだ。
膝をついて近くなった床に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。泣くな。
泣く理由なんてない。泣いていいのは私じゃない。寧ろ私は、この
家に悲しみを齎した側だ。
泣くな泣くな泣くな!
強く念じるのに、そう思えば思うほど涙は止まらない。
がちゃり。
ノックもなく、扉が開く。かつんと踵を鳴らす音がして、エレオ
ノーラさんが入ってきた。灯りのない部屋ではその表情はよく見え
ない。
窓から差し込むのは薄紫の空から落ちる光で、部屋の中を照らす
には弱すぎた。
﹁おはようございます、カズキさん。宜しければ、朝食の前に少し
お付き合い頂けますか﹂
淡々とした口調に、感情は見つけられなかった。
186
17.神様、ちょっとこれから頑張ります
エレオノーラさんは落ち着いた色のドレスではなく、軍人のよう
な恰好をしていた。ティエン達が鍛錬の時に着るような服だ。ブル
ドゥスらしく、全体的にふんわりしていて、腰の部分は大きめのベ
ルトで止めている。ベルトからぶら下がっているのは剣だ。
私も似たような恰好の着替えを貰い、大股で歩く彼女の後ろを必
死に追っていく。正直、ドレスよりスカートより、ズボン姿の今が
一番動きやすいし慣れている。
﹁あ、あの﹂
﹁はい﹂
﹁エレオ、ノーラさんは、アリス⋮⋮ショークさん、から、どのよ
うな場所まで報告受理したぞろり?﹂
﹁ロークです。私の末息子はアリスロークと申します﹂
﹁面目次第もごじゃりませぬ⋮⋮アリスロークさん、から、ぞろ﹂
﹁言いづらければアリスと。わたくしもエレナで結構です﹂
立ち止まらないエレオノーラさんがどこを目指しているのか分か
らない。屋敷を出て裏の藪に突入してから大分歩いている。何とな
く道っぽくなっているから、偶に利用しているのだろうか。獣道に
しては大きい。それなりに生えている草は、エレオノーラさんがご
ついブーツで踏んでくれる。ありがとうございますと言ったら、当
然ですときっぱり言い切る彼女は、凄く格好いい。
﹁ほぼ、全てですね。あの子は身内に嘘をつくのが大層苦手ですの
で。騎士ホーネルト、軍士ハイも挨拶に来てくださいましたし、大
体の事は把握しております﹂
さらりと口に出された名前にぽかんとしてしまう。エレオノーラ
さんは全て知っていたのだ。知っていて、家に置いてくれたのか。
187
聞きたいことがある。けれどこれは、口に出していいことなのだ
ろうか。
﹁恨んでいますよ﹂
無意識に呟いてしまったのかと口元を押さえる。いつの間にか立
ち止まっていたエレオノーラさんは、表情を変えずに続けた。
﹁憎んでもいます﹂
だったら、何故家に置いてくれたんですか。美味しいご飯を、清
潔な寝床を、年齢に合った服をくれたんですか。何故、貴女の家族
に紹介してくれたんですか。
憎んでいるのなら何故、普通に接してくれたのだ。普通に、否、
それ以上に優しくしてくれた。面倒がらずに、意思疎通ができるだ
けで良しとせず、言葉を正してくれた。
彼女といると、しっかりしなければとか恥ずかしくない行動を取
りたいと思ったけれど、一度だって、恐怖や居心地の悪さを感じる
ことはなかった。
でも、恨まれていたのか。憎まれていたのか。
当たり前だ。グラースは彼女から多くの、言葉に出来ないほど膨
大な存在を奪い取った。そちら側に属していた私が恨まれるのは当
たり前なのだ。
足が震えるほど怖い。体中に力が入らないほど、つらい。
﹁全く、何て顔をするのです⋮⋮⋮⋮おいでなさい﹂
手を引かれて再び歩き出す。これでは本当に迷子の子どものよう
だ。
まっすぐ伸びた背は、こんな足場でも揺るがない。迷うことも怯
むことも知らないように、ぐいぐい歩を進めていく。
﹁恨んでも憎んでもいます﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁三百年前の祖国の決断を、ですが﹂
188
﹁え?﹂
歩みは止まらない。飛び出た枝を払っても、手は離されなかった。
﹁何が始まりだったかは最早分かりません。ブルドゥスとグラース
では伝え聞く内容も異なるでしょうし、興味はありません。恨み辛
みがあるでしょう。ただ、その代だけで終わらせてくれたらよかっ
たのです。延々と三百年、長い長い時間、わたくし達は争い続けま
した。わたくしの生家は軍人として、アードルゲは騎士として、代
々国に仕えて参りました。失うことばかりでした。父が死に、二番
目の兄が死に、弟が死に、一番目の兄が死に、家督は姉の息子が継
ぎました。嫁いだ先で、一人の義兄が死に、四人の義弟が死に、二
人の息子が死に、夫が死にました。逃げるを良しとせず、最期まで
部隊の為国の為に戦い抜いた彼らはわたくしの誇りです。彼らは英
霊として石碑に名を刻まれて、今でも王城の中庭に祀られています。
ですがわたくしは、彼らに生きて帰ってきてほしかった﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁長い戦争でした。誰もが何かを失いました。あの戦いで、何も失
わなかった人間などいません。彼らのように命を、わたくし達のよ
うに家族を、アリスロークのように幼年時代を、それぞれが失った。
そしてそれは、グラースの人々とて同じです。初めは憤怒を、次に
憎悪を、次に悲哀を。わたくし達は皆、疲れていたのですよ。憎む
ことにも嘆くことにも疲弊しきっていた。ただただ憎むには、長い
時間が経ち、失い過ぎました﹂
歩き続ける背は振り向かない。だから彼女がどんな顔をしている
か分からない。歩くたびに帯剣している音が響き、どんどん知らな
い場所に進んでいくのに、全く怖いとは思わなかった。
﹁戦争は時代と国の責です。個々に負わせるべきではない。ですか
ら、わたくしは騎士ホーネルトにも、軍士ハイにも、憎しみはない
のです。息子達が死んだ戦場とミガンダ砦が関係ないからだけでな
く、です。出会う場所が違っていれば、彼らは死んだ息子達と友情
を築けていたかもしれません。それがとても無念には思います。私
189
の息子達も、戦時でない場で斬りかかるような大馬鹿者ではありま
せん。出会う場所が、出会った時代が悪かった。ただそれだけのこ
とです﹂
﹁はい⋮⋮﹂
エレオノーラさんの声は、決して柔らかい声音ではない。けれど
強張っているわけでもない。淡々と事実だけを告げていく言葉に、
何故か泣きたくなってくる。泣いていいのは私じゃないのに、歯を
食い縛っても嗚咽が漏れだした。
つらい、悲しい、切ない。恨まれていなくてほっとした、嬉しい。
いろんな感情が渦を巻く。いま、一番大きな感情は、苦しいだ。
﹁昨日、わたくしは貴女を恩人として皆に紹介しました﹂
﹁は﹂
﹁事実です﹂
﹁い?﹂
ざっと機敏な動作でエレオノーラさんが振り向いた。ふわりとし
た風ではなく、私の正面に向かい合うと、足でブレーキをかけるよ
うにぴたりと止まる。
﹁皆、疲れていた。けれど掲げた刃をしまう先が見つからない。そ
んな中﹃ミガンダ砦に現れた異界の女神﹄は、縋る先としてこれ以
上ない対象でした。貴女には与り知らぬことでしょう。貴女の意思
でなく世界と時間を超える事こそ、貴女が頭を悩ませ、心を向ける
事柄です。十年経っていて、さぞや驚いたでしょう。そんな貴女に、
三百年続いた戦争の終結を押し付けることになって、本当に申し訳
ないと思っています﹂
掴まれていた手がそっと離されたと思ったら、両手で握られてい
た。硬く骨ばった指には、タコが幾つも出来ている。働き者の手だ。
お母さんの手に似ていて、また泣きたくなった。
﹁ですが、貴女の存在が終戦後、荒れる世論を収めたのも事実。恨
み辛みが再び諍いを呼ぼうとしていた時、貴女の名がそれらを鎮め
た。終戦して十年、再び火種が燃え上がらなかったのは、貴女のお
190
かげです﹂
﹁し、然らば、私は!﹂
﹁はい、貴女には関係のないことです。会ったばかりのわたくしに
心を開けとは言いませんが、わたくしは貴女に恩がある。恩には報
いるのがアードルゲの流儀!﹂
﹁うはい!﹂
急に張りのある声になったのに驚いて、こっちの声は裏返った。
がちがちに背筋を伸ばした私を、エレオノーラさんは諌めも笑い
もしない。
一つ頷くと、また背中を向けて歩を進めた。これ以上話す気はな
いのか、黙々と進んでいく。
黙々と、足元も見ずに伸びた背中を見て歩く。やがてその背は立
ち止まった。目的地に着いたのか、再度振り返って先を示す。木が
重なってよく見えないけれど、片手で枝が下げられたことで光がま
っすぐに差し込んできた。
[朝日⋮⋮綺麗ですね⋮⋮⋮⋮]
ありふれた言葉しか出てこない。でも、本当にそう思ったのだ。
それだけしか、思いつかなかった。
視界いっぱいに広がるのは、ブルドゥスの街並みだ。遠くにお城
が見える。日本みたいに灰色に高い建物が光を遮らず、薄紫から白
くなり始めた陽光が、まっすぐに万遍なく地上を照らしている。
遠くの遠くには山が見えて、その隙間から見える向こうにも街が
見える。そうやって自然以外に遮られることのない景色が延々と広
がっていく。こうやって少し高い場所から見るとよく分かる。ここ
は私が生まれ育った世界じゃない。違う場所だ。
分かっていても胸は痛む。でも、同じくらい、綺麗だと思う。本
心から、美しい景色に感動した。
横に並んだエレオノーラさんは、少し目を細めて光を全身に受け
191
た。
﹁夫が教えてくれた場所です。初夜を迎えた朝の挨拶もそこそこに、
わたくしの腕を引っ張ってここまで走りました。少し寝過ごしたの
で、夜明けに間に合うか心配だったそうです。自分が一等好きな場
所だと。この美しい国と、わたくしを守るのだと。子どものように
無邪気な人でした。貴女に、少し似ています﹂
﹁え!? そ、そのような方ぞ比較し申せば、アリスぞ怒髪天ぞろ
!?﹂
﹁間違っているわけではありませんが、﹃怒る﹄が一般的です﹂
﹁怒る、ぞろ﹂
一つ頷くその様子が、少しリリィに似ていた。
今、凄くリリィに会いたい。リリィにも見せてあげたい、リリィ
とも見たい。
そうして、また笑ってくれたら嬉しいなと思っていたら、ふっと
軽い吐息のような声が聞こえて顔を上げる。
あの時のリリィみたいな、柔らかい笑顔がそこにあった。
呆然と見つめる。
﹁ふ⋮⋮失礼。わたくしは、貴女に本当に感謝しているのです。ア
リスロークを戦場から帰してくれたことを、心から﹂
穏やかな顔で、エレオノーラさんは微笑んでいた。
そして、楽しげにくすりと笑う。
﹁あの子を送り出した時、これが今生の別れだと思いました。アー
ドルゲの男らしく、潔癖すぎるほどの理想と決意を胸に、腕は未熟
のまま、あの子は要請を受け、成人も前に戦場へと赴きました。戦
場に家族を送り出した女は、喪服で過ごします。いつあの子の戦死
の報が入るかと、わたくし達は全員喪服のまま日々を過ごしました。
それが⋮⋮⋮⋮ふっ、ふふ⋮⋮まさか、顔を真っ赤に憤慨して﹃母
上! パンツ見られました!﹄と帰還するなんて﹂
あの頃のアリスちゃんは、あったことをお母さんに報告する系男
192
子だったようだ。
エレオノーラさんは口元を押さえて肩を震わせている。若干お腹
を押さえているように見えるのは気のせいですか。まさかお腹痛く
なるまで笑っていませんよね。
さりげなく目元を指で擦ったのは、涙目になったからではないは
ずだ。きっと。
﹁何でも、貴女に下着を見られてから、この屈辱晴らさずしてアー
ドルゲの男は名乗れないと、それまで以上に我武者羅に腕を磨き、
士気が上がり急に押し返し始めたミガンダ砦との戦闘に、終戦まで
生き残ったのです。わたくしは感謝しました。神ではなく、貴女に。
死ぬが誉れと謳われて久しいあの時代に、必ず生き残るとあの子に
決意させた貴女は、わたくしの恩人なのですよ﹂
徐々に光を強くする太陽より余程、彼女が眩しかった。
強い人だ。強くて気高くて、きっと優しい。こういう人になりた
かった。こういう人でありたかった。なのに、現実の自分は馬鹿み
たいにぼろぼろ泣くばかりだ。
戦争で辛い思いをしたのは私じゃない。悲しみも、憤りさえ遠か
った。みんな無事で、一日一日が終わればよかっただけの、浅はか
な人間なのだ。前線にいたくせに、実際戦う皆を見ていたくせに、
当たり前のことに考えが及ばない、考えようとも思わない人間だ。
そんな私に、恩なんて言葉を与えてくれる人がいた。そんな穏や
かな目で、恩人だと言ってくれる人がいるなんて、考えたこともな
かったのに。
﹁快活、元気。大変宜しい。わたくしは好きです。ですが、何時如
何なる時もそうである必要などないのです。貴女はもっと、負の感
情を人前で見せるべきです。大人であるばっかりに周囲も言い出し
にくいのが難点です。八つ当たり、情緒不安定、大いに結構。騎士
ホーネルトにもっと曝け出せば宜しい。ガルディグアルディアも貴
女を案じておりました﹂
193
一瞬何を言われているか分からなくて、一拍空く。脳内でリリィ
がこてりと首を傾けた。可愛い。
﹁リ、リリィ!?﹂
﹁貴女への文とわたくしへの文がありました。言語への本格的な手
解きは、貴女が生活に慣れてからと思っていたそうです。こちらも
慣れてからと考えていたそうですが、﹃カズキはいつでも元気だけ
ど、いつでも元気でいようとも思っているみたいだから、無理して
いたら止めてほしい﹄と、ありました﹂
リリィがそんなことを考えていたなんて知らなかった。
だって、困るじゃないか。私だって分からないのに、どうしてこ
んなことになんて泣きついても、みんな困るだろう。それに、一回
崩れてしまったら立てなくなる。⋮⋮今日、ちょっと崩れたけど。
泣いて喚いて、どうしてと、何でこんなことにと周囲に当たり散
らしてもきっと楽にはならない。自己嫌悪に死にたくなるだけだ。
この世界が悪いとここの人達に八つ当たりするには、いい人に出会
い過ぎた。みんな泣きたくなるほどいい人で、笑っていてほしい大
好きな人達だ。
つらい、苦しい、悲しい、寂しい。そんなことを言っても、皆を
悲しませる。皆の所為じゃないのに、優しい人達だから、とても苦
しむ。
私も、充分すぎるほど良くしてもらっているのに、それじゃ足り
ないと泣き喚けるほど子どもじゃない。
楽しいほうが好きだ。悲しいより嬉しいほうが好きなんだ。自分
だけじゃなくて、みんなにも、悲しい顔じゃなくて笑っていてほし
い。皆に悲しい顔をさせる理由が自分だなんて嫌だ。
﹁負の感情は、四六時中では滅入りますし、親しくない人間からだ
と鬱陶しいでしょう。ですが、貴女と親しい人間、あるいは親しく
194
なりたいと願う人間からすると、ご褒美と成り得る場合もある、と
いうのは、夫の言ですが﹂
身体の前で合わされた手が、少し動いている。ちょっと恥ずかし
そうに見えるのは、もしかして、その相手はエレオノーラさんだっ
たのだろうか。
﹁話を聞くに、状況の変化が激しく、心構えをする間も、しっかり
と向かい合う時間もなかったでしょうが、少なくとも騎士ホーネル
トとはきちんと話をするべきでしょう。あの様子では今日も来るは
ずです。場は設けますので、話をしなさい。空いた時間はなあなあ
で埋められるものではありませんよ。失いたくないのなら覚悟を決
めなさい﹂
ルーナと、ちゃんと話をする。
当たり前だ。しなければならないと思っている。けれど、怖いの
も事実だ。変化する事態を走り抜けるのに必死で、まともに向かい
合ってない。私は、十年を背負える人間だろうか。
﹁貴女にこれ以上何かを背負わせたくはありませんでしたが、我が
家の事情は遅かれ早かれ気づいたでしょう。理由もなく匿われるの
も気持ちが悪いと思いましたので、早急だとも思いましたが話させ
てもらいました﹂
いろんなことがぐちゃぐちゃ頭の中を走っている。
子どもみたいにしゃくり上げが止まらない。せめて涙だけでも止
めようと、袖口で無理やり擦って押さえつけていた私の手が掴まれ
る。
﹁一つ問うておきたいのですが、これから我が家に滞在される際、
わたくしにどういった対応をお求めでしょう。仕えろと仰るならそ
うしましょう。身内のようにと言うならそうします。それによって、
今から態度が激変します﹂
﹁げ、げきへん!﹂
﹁今一意味を理解できていない気がしますが、劇的に変化という意
味です﹂
195
間は、間はないんですか。中間大好きです。
ちょっと待ってみたけれど、中間の選択肢は現れない。
﹁み、身内ぞ、望む、ぞり﹂
﹁いいのですね?﹂
﹁う!﹂
念を押されると怯んでしまう。でも、大丈夫だ、と思う。きっと、
恐らく、願わくば。
﹁は、はいじょろり⋮⋮﹂
恐る恐る頷くと、エレオノーラさんはすぅっと大きく息を吸い込
んだ。反射的に私の姿勢も正される。
﹁語尾が不安だからと奇怪語で誤魔化さない! 間違えるなら堂々
と間違えなさい!﹂
﹁うはい!﹂
至近距離だと肌がびりびりと震える。まさか、街までこの声が届
いていないと願いたい。
﹁恐らく、近日中には王城に召喚されるでしょう! よって! 本
日より貴女の教育を開始します!﹂
﹁はい!﹂
﹁よい返事です! 知識や歴史を叩きこむ時間はありません! 何
より優先されるのは、その滅茶苦茶な言語力です! せっかく娼館
という女性らしい話し方を学ぶ絶好の場所にいたというのに、何で
すかその体たらくは!﹂
﹁面目次第もごじょりません!﹂
もっともだ!
女の子らしい話し方がちょっと恥ずかしいとか、こっそり思って
いる場合ではなかった。
﹁身体も少し鍛えたほうがいいでしょう! 剣を仕込む時間はあり
ませんので、動けるよう身体を慣らします! では、屋敷まで駆け
足!﹂
﹁足︱︱!?﹂
196
踵を返したと思ったら、あっという間に走り去るエレオノーラさ
んの後を慌てて追いかける。早い。山道に近い道を、下りとはいえ
滑るように走っていく。でも、私だって娼館であっちに走り、こっ
ちに走りと走り回っていた。大丈夫だ、追いつける、たぶん!
かろうじて見失わずに済んだ背中に追い縋るように走り寄る。
﹁良い走りです! まったく身体を使っていない訳でも、使い方を
知らない訳でもないようで安心しました!﹂
﹁あ、ありがとうごじょります!﹂
﹁尚、一つ言い忘れておりましたが!﹂
﹁はっ!﹂
﹁その珍妙な言語、わたくしが可愛いと思った箇所は訂正しません
のでそのつもりで!﹂
﹁にょろぉおおおお!?﹂
197
18.神様、ちょっと目一杯頑張りました
エレオノーラさんには駆け足という名の、私にとっては全力二歩
手前マラソンで屋敷まで戻る。いつ戻るかも分からなかったはずな
のに、三人のメイドさんがタオルと水を持って待っていた。
荒い息を整えながら水を飲んでいると、気が付いたらエレオノー
ラさんがいない。首を傾げていると、屋敷の裏と繋がる道から走り
出てきた。そのまま立ち止まらずに私達の前を走り去っていく。
屋敷を周回して走り込んでいるのだと、五回姿を見た時に漸く気
が付いた。
私だと全力疾走しなければ出せない速度を淡々と走り終えたら、
次は腰の剣を抜いて素振りを始める。その内、全身を使って前に誰
かいるかのように剣を振り始めた。昔ルーナの剣を持たせてもらっ
たことがあるけど、あれは本当に重い。だって鉄なのだ。結局振り
上げることもできなかった。そのまま支えられずに脳天落ちてきた
ら、凄く虚しい自殺になる。
一通り鍛錬を終えたのか、剣をしまって颯爽と歩いてくるエレオ
ノーラさんに慌てて立ち上がる。結局私は走って戻ってきただけで
終わってしまった。一応、反復横跳びでもしてようかと思ったのだ
けど、出来なかった理由がある。
私は昨日、朝ごはんを食べて寝た。丸一日だ。そして今朝、起き
てすぐにエレオノーラさんと出かけてここにいる。
あれだけ動いて軽く汗ばむだけなのが凄い。メイドさんから渡さ
れたタオルで軽く顔を拭ったエレオノーラさんは、少し考えた。
﹁剣は無理ですので、やはり瞬発力を鍛える方向で﹂
198
グゴルゥルルルルルルルルルルル︱︱キュ︱︱
目上の人の台詞を腹の音で遮った私は、物凄く無礼だ。慌ててお
腹に力を入れて引っ込める。
ペコキュゥール
珍妙な音に変わった。
私が動けなかった理由はこれだ。私のお腹はぺこぺこだ! ぺこ
ぺこであってぺらぺらではないのがミソだ。
まだ主張を続けている私の腹音に、すぅっと聞き覚えのある呼吸
音が重なった。
﹁健康で大変宜しい! 朝食にします!﹂
ざっと踵を鳴らして機敏に向きを変えたエレオノーラさんは、颯
爽と屋敷に戻っていく。しかし、ぴたりと立ち止まったまた機敏な
動作で身体ごと振り向いた。
﹁沢山食べなさい!﹂
﹁食べなさいぞろ!﹂
﹁宜しい! ですが、食べる、です!﹂
﹁食べるぞろ! 多量に食べるぞろ!﹂
﹁結構! では、まずは着替えです! 駆け足!﹂
﹁足!﹂
エレオノーラさんは駆け足でも早い。背が高いのと足が長いから
だと思う。
﹁エ、エレオノーラさん、速度凄まじいぞろ!﹂
﹁エレナで結構! わたくしも貴女をカズキと呼びます!﹂
﹁エ、エレナさん!﹂
﹁宜しい!﹂
一つ不思議なのは、一緒に駆け足しているはずなのに、メイドさ
ん達はいつ振り向いても髪一つ乱れていなかった。よく見たらエレ
オノーラさんもだ。前髪が捲れあがって、アホ毛立ちまくりな私が
おかしいのかもしれない。
199
朝食は、昨日と変わらず大集合だった。違ったのは、食事はバイ
キング方式だったことと、エレナさんと食べたことだ。エレナさん
は朝食はしっかり派だった。曰く、﹃食事は、見苦しくない程度に
美味しく頂けたらそれで宜しい!﹄だそうで、彼女のお皿にはもり
っと料理が積まれていた。私も負けじともりもり食べた。よく見る
と、他の女性達もしっかり食べていた。まるで夕食と思えるほど肉
料理が多かったけれど、食事が終わる頃には綺麗になくなっていた。
当然デザートもぺろりだ。大変美味しゅうございました。
食事が終わった人から退出するかと思ったら、今日は全員残って
いる。どうやら昨日は気を使っていてくれたのだと気づく。
最後までしっかり食べきったエレナさんは、口元を拭いて紅茶を
一気飲みした。
﹁では、朝議を開始します﹂
いつの間にかメイドさんからバインダーのような物を受け取って、
エレナさんは立ち上がった。よく通る声に、女性達もお喋りをやめ
てざっと音を揃えて姿勢を正す。私も慌ててそれに習う。
﹁午前﹂
﹁わたくしは、マクレン家奥方様よりご招待頂きました庭園観賞に
参ります﹂
﹁わたくしとサリーナは、ドメニク家長女様よりご招待頂きました
観劇に参ります﹂
﹁わたくしは⋮⋮⋮⋮﹂
はきはきと女性達は手を挙げて連絡していく。
次に昼食、お茶会、夜会にまで予定の報告は続き、気がつけばほ
ぼ全員が手を挙げていた。
﹁殿方のいない屋敷を守っていく為に、外交は欠かせませんのよ﹂
ぽかーんと成り行きを見守っていると、隣のテーブルに座っていた
女性が身を乗り出して耳打ちしてくれる。うふんとウインクしてく
200
れたその女性は、確かドールだ。名前ではなく、家系図の名前の横
にエレナさんが書きこんでくれた特徴だ。確かに、金髪巻き髪の緑
の目。西洋人形が人間になったらきっとこういう感じだろうと思う。
名前はまだ覚えていない。
﹁カズキ!﹂
﹁うはい!﹂
﹁貴女は書斎でわたくしとお喋りです!﹂
﹁む、むちゃぶり!﹂
﹁お・しゃ・べ・り、です!﹂
﹁おしゃべり!﹂
﹁宜しい! 以上、解散!﹂
お喋りともごもご繰り返している間に、皆立ち上がって﹁畏まり
ました!﹂と声を揃えていた。慌てて立ち上がる。
﹁おしゃべり!﹂
盛大に間違えたけど、﹁良い復唱です!﹂と褒められたので嬉し
かった。
そして、私はとことん可愛い言い回しの言葉を覚えてなかったん
だなと、改めて実感した。﹃お喋り﹄と自分で言おうとすると﹃会
話﹄となる。可愛くない。
予定通り書斎では、手紙を書いたり署名したりするエレナさんの
横に構えられた椅子に座って、お喋りだ。書斎の机と椅子はエレナ
さんには少し小さいようで、この時ばかりはいつもぴんと伸ばされ
た背筋が曲がっている。たぶん、この書斎はアリスのお父さんの背
丈に合わせて作られている。
壁に掛けられている絵には、沢山の子ども達の中心でエレナさん
と小柄な男性が立っていた。とても、優しそうな人だった。
201
﹁姉達ぞ﹂
﹁と﹂
﹁姉達と喧嘩上等かかってこいやしたも停止し、いーっと気持ちな
ったぞり!﹂
﹁そうですか﹂
﹁はいぞり!﹂
﹁ぞりはいりません、が、個人的には可愛いと思いますので、身内
の前では直さないで結構﹂
﹁ぞり!﹂
﹁それだけでいいとは言っていません﹂
意外と会話はスムーズだ。訂正は入るけれど、エレナさんはちゃ
んと聞いてくれるし、適度に促してくれる。
﹁姉妹仲が宜しくて何より﹂
﹁いーっとなったぞり﹂
﹁わたくし達は鉄拳制裁、打撃粉砕が常でした﹂
﹁いっ、いー⋮⋮﹂
インク瓶に羽ペンの先をつけ、かりかりと署名していく様子を憧
れをこめて見つめる。昔、字の練習をするときに使わせてもらった
ことがあるけれど、紙を破くはインクつけすぎるはインク足りない
わで、結局黒炭を渡された悲しい思い出がある。黒炭は手も汚れる
から嫌です。
一段落ついたのか、羽ペンを置いたエレナさんは掌を顎に当てた。
﹁⋮⋮⋮⋮単語は大体の意味が通じますが、やはり助詞を徹底した
ほうが良さそうですね。それで幾分聞き取りやすくなります﹂
﹁ご面倒ぶっかけるぞり﹂
﹁ご面倒おかけします、です﹂
﹁おかけしますです﹂
﹁宜しい﹂
一つ頷いてくれる。可愛いと思ったら駄目だろうか。
202
エレナさんは、今まで出会ったことがないタイプだったけれど、
不思議と安らぐ。最近全体的にお肉がついてきたお母さんとは全く
似ても似つかないけど、アリスのお母さんなんだなと思うと、何だ
かこう、あれな気分になる。断じて如何わしいほうじゃない。
落ち着くというか、お母さんと話しているとはちょっと違うけど
それと似ている感じだ。自分でも何と言えばいいか分からないけれ
ど、要はエレナさんが好きだ!
書き上げたインクが乾いたことを確認して、とんとんと書類を纏
めたエレナさんに視線で促されて立ち上がる。
﹁貴女にお客様です﹂
首を傾げたのと同時に部屋にノック音が響く。
﹁入りなさい﹂
﹁失礼致します﹂
﹁よ、元気か?﹂
深々と一礼したメイドさんの後ろで、赤髪つんつん頭が軽い調子
で片手を上げていた。
小さめの応接室を用意してもらって、ティエンと座る。
﹁エレオノーラ・アードルゲ、戦乱に置いても戦後に置いても、女
手一つで家を守り抜いた豪傑って噂だけどよ、いーい女だよなぁ﹂
﹁エレナさんの胸囲が凄まじいぞろりが、視認侵攻阻むぞり!﹂
﹁え!? 胸!? あ、ほんとだ! でけぇ!﹂
﹁ぞり︱︱!﹂
余計なことを言ってしまったらしい。窓の下を横切っていくエレ
ナさんを見つけたティエンの目が輝く。慌てて窓の前で通せん坊す
るように両手を広げる。擽られそうだけど、ティエンはルーナのい
ないところでは擽ってこないので大丈夫だ。しかし、ルーナをから
203
かう為に擽られるこっちは堪ったものじゃない。
ティエンは昔から十歳以上年下のルーナを可愛がっていた。彼流
の可愛がり方、というのが問題だけど。ルーナから散々﹃寄るな触
るな構うな︱︱!﹄と嫌がられていたのに、それすらも面白がると
いう、典型的な好きな相手はからかうタイプだ。
﹁ルーナはまだ抜け出せねーんだよ。で、だ。それを横目に俺は抜
け出してきたわけだ。今頃歯ぎしりしてるだろーぜ﹂
けらけら笑っているティエンの前の席に座り直す。レースのテー
ブルかけに、お茶と可愛らしいお茶菓子が並べられているテーブル
に座ったティエンは凄く浮いている。小振りで一口サイズに飾られ
たお菓子を四つ一掴みで口に放り込んでいた。
﹁今日はな、あいつがいねぇ間に、あいつが話したがらないだろう
話をしにきたんだよ。あいつの、十年だ﹂
すっと雰囲気が変わる。私も背筋を伸ばす。
この目はあの時と同じだ。私とルーナが付き合い出す前に﹃ルー
ナをよろしく頼む﹄と、異世界の小娘に頭を下げたあの時と同じ目
だ。
﹁お前が消えて、ルーナはずっと探してた。でもな、すぐに砦は撤
収して帝都に戻らなきゃならなくなった。あいつは騎士をやめよう
としてたんだが、それも出来なくてな。結局引きずられるように帝
都に戻った。そっからは地獄だったろうぜ。終戦にはしゃぐ連中に
囲まれて英雄として掲げられたあいつは、何も幸せじゃなかった。
こぞ
いつもお前を探してて、黒髪や似た背格好が通るたびに追いかけて。
あの頃はなぁ、お前に憧れた女達が挙って髪を染め上げた。お前の
色が群衆を満たすのを見て、あいつは用以外ほとんど喋らなくなっ
た。無茶苦茶に働きまくって、働いて働いて、隙を見つけてはお前
を探しに行って。目だけがぎらぎらしていって、どんどん痩せてや
つれて、気絶するみたいに寝たと思ったら、お前を呼んで飛び起き
て。見ていられなかったぜ﹂
204
﹁うん⋮⋮﹂
﹁飯も食わねぇ、眠りもしねぇ。当然笑いもしなけりゃ、休みもし
ねぇ。皆があいつを英雄と讃えた。皆があいつを誇った。あいつは
そんな自分を蔑んだ。お前一人守れなかったのにって、もう無茶苦
茶だったんだぜ。あまりに休まねぇから、俺らが無理やり落として
眠らせて、無理やり飯詰め込んでもしょっちゅうだった。そんなこ
としてりゃ、当然身体もぶっ壊す。熱出してぶっ倒れても、俺らを
引っ掴んで﹃カズキを探してくれ﹄ばっかりだ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁それでも、きっと見つかると信じられた二、三年はまだよかった。
もうこの世界にはいないんじゃねぇか、それどころか二度と戻って
こねぇんじゃねぇか。もしも、もしも、お前が自分の意思で戻った
のだとしたら? 自分の意思で戻ってこないとしたら? 時間の流
れは一緒か? お前はもう誰かと一緒になってるんじゃねぇか? 疑い出したら切りがねぇ。そうこうしてる間にあいつも成人した。
成人してすぐは、お前のこともあるからと大人しかった周囲も、一
年、二年と経っていくと自重なんざ忘れる。もった方だと思うぜ。
一人が堰を切った途端、怒涛の見合い話だ。元々顔がいい上に戦争
の英雄だ。そりゃあ、女共はほっとかないさ。親もな。あいつはお
前がいるからって全部断ってた。いねぇじゃねぇかって返してきた
男爵のデブ親父を殴り飛ばして前歯全部圧し折ったりもしてたな、
そういや﹂
﹁う、ん﹂
自分の両手を組んで力を籠める。震えるな、絶対泣くな。逃げる
な、最後まで聞け。
私の意思じゃない。でも、私の所為で起こったことだ。私の所為
で、傷ついたルーナの話だ。
日本だったらまだ中学生の子どもの人生を狂わせたのは、私だ。
﹁大して強くもねぇくせに酒も飲みまくった。そこいらのチンピラ
に絡まれれば全部買って、まあ、荒れまくってたな。流石に薬はや
205
ってねぇが、根が真面目なもんだからそんな自分を嫌悪してもっと
荒れて、もう収拾つかねぇったらねぇぜ﹂
﹁うん﹂
﹁それがどうだ。お前が帰ってきた途端、ただのバカだぞ!?﹂
﹁うん!?﹂
いきなり目を見開いたティエンに、泣きそうだった気持ちが吹っ
飛んだ。ばんばんテーブルを叩いて大笑いするから、紅茶が零れな
いよう自分の分を確保する。
﹁昨日もロドリゲスに改名するとかぬかしやがる! だっはっはっ
! お、お前が、ロドリゲスとやらと愛し合ってるとか聞いたとき
﹃カズキは二心持てるような器用な性格じゃない。だから、娼館で
はまだ俺を思っていてくれたはずなのに、そこから数時間で愛し合
う男が現れるとか、それは運命か!? ロドリゲスはカズキの運命
の男か!? 俺の運命だってカズキだ! 決闘だ!﹄って思ったん
だと! バカだろ!? で、自分がそのロドリゲスだって分かった
ら、カズキが望むなら改名するだと! ぶわっはっはっはっ! バ
カだ! すげぇバカだ!﹂
どいつもこいつもロドリゲスプッシュはやめてほしい。しかし、
最初にプッシュしたのは私だ!
泣けばいいのか笑えばいいのか分からなくなってしまった。この
宙ぶらりんの気持ちをどうしてくれよう。そうだ、お菓子を食べよ
う。
マドレーヌみたいなお菓子を食べる。美味しい。フィナンシェみ
たいなお菓子も食べる。美味しい。絞り出しクッキーみたいなお菓
子も食べる。美味しい。
お菓子最高。
次のお菓子に手を伸ばしたら、皿が消えた。
﹁ああ!﹂
ざーっと流れるようにお菓子が消えていく。飲んだ! お菓子を
206
流し飲んだ!
﹁ティエンぞバカ︱︱!﹂
﹁だっはっはっ! この世は所詮弱肉強食だ! 油断したてめぇが
悪い!﹂
﹁捥げろ!﹂
﹁おまっ⋮⋮! ひゅんってなるから、それだけはやめろ!﹂
きゅっと前屈みになったティエンを、精一杯の冷たい目で見下ろ
す。食べ物の恨みを恐ろしいのだ。
この呪いの言葉をもう一回唱えてやろうと思ったのに、先に話さ
れてタイミングを逸した。無念だ。
﹁まあ、覚えておいてやれや。十五から今まで、あいつの十年はお
前のものだ。色々惑いもしたけど、あいつはいつだってお前を案じ
てたぜ。本当に自分の世界に帰れたのか、もしかしたら全く違う世
界に落とされてねぇかって。﹃カズキはちゃんと食事を取れてるだ
ろうか﹄﹃カズキは腹を空かせてないだろうか﹄﹃カズキは寒がっ
てないだろうか﹄﹃カズキはちゃんと眠れてるだろうか﹄ってな。
ずっと後悔してたぜ? 自分がそっちの言葉を覚えてお前と普通に
喋れるようになってから、お前の言語修正しなくなったこと。お前
とまともに会話できるのが自分だけだったのが嬉しかったって。で
も、それでお前が困ってないかって、ずっと悔やんでやがった﹂
﹁うん⋮⋮ありがとう、ティエン﹂
廊下が騒がしい。音はだんだん近づいてくる。誰かが走っている
のだ。それが誰か、なんとなく分かっていた。ティエンはもっと早
く気付いていたのだろう。しかし、エレナさんといい、ティエンと
いい、常人には到底不可能な芸当をさらりとやってのけるので、常
人代表としては自分が無能すぎるのかとへこむ。
耳を鍛えるにはどうすればいいだろうと考えていると、ぽんっと
肩を叩かれる。
﹁ああ、それと一つ付け足しだけどな﹂
207
﹁はいぞり?﹂
﹁来るもの拒まず去るもの追わず。だけどな、あいつはちゃんと選
んでたぜ!﹂
言うや否や、ティエンは窓を開け放って飛び降りた。
﹁こちらぞ三の高低差ぞ︱︱!?﹂
三階の窓から飛び降りたティエンに、思わず覗きこもうとした私
を追い越して、部屋に飛び込んできたルーナが身を乗り出して怒鳴
る。
﹁ティエン! よくも俺に隊長を擦り︵なすり︶付けたな!﹂
﹁だーっはっはっはっ!﹂
心底楽しそうに笑いながら、ティエンは悠々と歩いていった。そ
の姿が見えなくなるまで睨み付けていたルーナは、はっとなってぐ
るりと振り向くと私の肩を掴んだ。
﹁カズキ!﹂
﹁うぉわぁああああああ!?﹂
﹁弁明させてくれ!﹂
﹁何事ぞり!?﹂
ルーナの勢いにつられてこっちも勢いづけて返す。一体何があっ
たんだ。ルーナの顔は若干青褪めているような、高揚しているよう
な、複雑な顔色だ。
﹁俺は、寝ただけだ!﹂
﹁睡眠ぞ大事ぞりね!﹂
﹁違う!﹂
﹁大事ぞりよ!?﹂
﹁確かに大事だな!﹂
﹁ぞりね!﹂
﹁だな!﹂
結論が出たところでお互いきょとんとする。何か違うぞ、これ。
ルーナも同じことを思ったのか、首を傾げた後、疲れたように長
208
い息を吐いた。ずりずりと壁に背中を押し付けて座り込んでしまう。
大丈夫かと私も膝を折って前にしゃがむ。
﹁落ち着いて話そうと思ったのに⋮⋮なんでこうなるんだ?﹂
何がだろう。とりあえずルーナが落ち着くまで待ってみる。
そんな私をちらりと見て、もう一回深く息を入ったルーナは、唇
をきゅっと引き結んで顔を上げた。
﹁ティエンが言ったことは、半分正しい。俺は確かに、その⋮⋮⋮
⋮女の人と、同じ寝室で寝た、けど、寝ただけだ。睡眠をとった、
だけだ。もしくは、一緒に泊まったと口裏合わせてもらって、カズ
キを探しに出てただけなんだ﹂
[え?]
﹁自分でも信じてもらうのは難しいと分かってるけど⋮⋮いや、一
つ一ついこう。全部、聞いてくれるか?﹂
[も、勿論]
﹁ありがとう﹂
ほっとしたように綻ばせたルーナの顔が凄く可愛く見えた。惚れ
た弱みって凄い。
ルーナの話を聞かないはずがない。いや、聞いてなかったことは
あるけど。いっぱいあるけど!
ごめん、ルーナ。
﹁⋮⋮⋮⋮何で、カズキのほうが申し訳なさそうな顔してるか分か
らない﹂
重ね重ねごめん。
ルーナは不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに気を取り直し
た。
﹁まず、発端は、その、恐れ多くも王女殿下が俺を慕ってくださっ
ているという話から始まる﹂
[あ、それはまあ、前から知ってた]
何せ一度だけ砦に来たときも、私を見て二度見して、他の人に確
認して三度見していた。その眼は言っていた。﹃女の趣味悪っ!﹄
209
と。幼い少女から突き刺さる視線に、どや顔したのもいい思い出だ。
自分でも、異世界人で年上で美人でもない私を選んでくれたルーナ
の趣味を疑っていたときだった上に、付き合い始めで惚れた弱み満
々だった。なので﹃そうです! 私の恋人趣味悪いんです! 可愛
いでしょう!﹄とのどや顔だったのだが、今考えると何でどや顔し
たのか自分でも分からない。
﹁王女殿下が見合いを全て断る状況が続き、成人の儀を受ける前に
何としても諦めさせるようにとの厳命が下ったものの、俺はそうい
うことに疎い。それでティエン達に相談したら⋮⋮⋮⋮男色との噂
が流された﹂
[⋮⋮⋮⋮そっちが先だったんだ]
こくりと頷いたルーナの顔が青ざめている。綺麗な顔をしたルー
ナがそんな噂を流されたら、まあ、その、怖い思いをしたことだろ
う。ただでさえ男所帯の騎士や軍人はその手の話が多いらしいのに。
一回、中央から来たお役人がルーナに襲いかかったことがあって、
偶然目撃した私が箒とバケツと雑巾を両手に飛び掛かったことがあ
った。自分であっさり撃退して、相手を押さえつけていたルーナに
全部当たったのは本当に申し訳なかった。
ミガンダ砦では、ルーナが自分の身は自分で守れたことと、ルー
ナを弟みたいに可愛がっていたティエン達が守ってくれていたわけ
だけど、逆に追い詰められるとは。
﹁で、だ! それはそれで厄介な事態に⋮⋮何もなかったからそん
な憐れんだ目はやめてくれ!﹂
[わ、分かった! 相談したかったらいつでもどんとこいだからね
!]
﹁な・に・も・な・い!﹂
[わひゃりまひひゃ]
頬っぺた潰されて鬼気迫る顔で詰め寄られる。半端なくイケメン
で、半端なく怖い。
210
こくこく頷いていると、じとっとした目で見ながら解放された。
まだ疑った目をしていたけれど、話し始めた途端ルーナの顔はど
んどん俯いていく。
﹁男色の噂を払拭しようと⋮⋮その、そういう店に行ったのは、事
実だ。だけどな⋮⋮⋮⋮﹂
[うん?]
ぼそぼそと口籠られると聞こえない。もう一回言ってくれたけど
やっぱり聞こえない。口元に耳を寄せてもう一回促す。
﹁たたなかった!﹂
いきなり叫ばれて反対側の耳まで声が抜けていった。頭がぐわん
ぐわんする。目を回しているのに、ルーナは肩を掴んでがんがん大
声を出す。二日酔いってこんな感じだろうか。
﹁出来るわけないだろ! 初めてがあんな強制終了でどうしろって
言うんだ! ああいう雰囲気になればカズキが消えたことしか思い
出せなかった! あの虚しさと遣る瀬無さと絶望感! ああ、ああ、
この年で経験無いさ、悪いか!﹂
[ちょ、おちつ]
﹁相手の人には、今日は疲れてるとかどうしても眠りたいとか、や
らなきゃいけないことがあるから協力してくれとか頼んで誤魔化し
た! ああ、ああ、自分でも分かってる! 気持ち悪いさ! 重い
さ! 悪いか!﹂
[悪くないから落ち着いてってば!]
なんとか引き剥がしたルーナは項垂れたまま動かない。
耳がきんきんする。けど、絶対ルーナのほうが重傷だ。アリスと
いい、ルーナといい、どうやら私は十五歳の男の子にトラウマを植
え付けてしまうらしい。
ごめん、は、違う気がする。ありがとうも違う。
﹁⋮⋮⋮⋮もう一度会えるって信じてた﹂
[⋮⋮⋮⋮私も]
﹁⋮⋮⋮⋮もう、会えないかと思った﹂
211
[⋮⋮⋮⋮私も]
両手で顔を覆って動かないルーナは、少し震えていた。
大きな背中だ。大人の、男の人の背中が、震えている。
十年、十年だ。もう二度と会えないかもしれない私を、待つこと
が無意味になる可能性の方が高かった私を、置き去りにしないでく
れたこの人に、私はどうやったら報えるのだろう。そんな価値があ
る人間とは自分でも思えない。思えないけど、彼の十年を、子ども
が大人になる大切な十年を私にくれたこの人の時間を無駄にするこ
とだけは、できないし、絶対しない。
私はそっとルーナの背中に手を乗せた。
[でも、そういうことしようって娼館に行ったのは事実だよね?]
考えた結果、昨日からずっと考えていた罰を実行することにした。
びくりと震えたルーナは、ぐっと唇を噛み締めて顔を上げた。
﹁⋮⋮ああ。カズキには、申し訳ないと思ってる﹂
[じゃあ、正座して歯を食い縛る!]
正座は昔教えたことがある。記憶力のいいルーナは覚えているは
ずだ。素直に正座したルーナの前に仁王立ちになる。
﹁殴ったくらいで許してくれるのか?﹂
[お腹に力も入れる!]
﹁蹴りもか。何発でも来い﹂
大人しくじっと待っているルーナの前で、仁王立ちで見下ろす。
しばらくにらめっこ状態で見つめ合っていたけれど、一つ言いたい。
上目遣いのルーナ、凄く可愛い。思わず顔を逸らして悶えた間も、
ルーナは沙汰が下されるのをずっと待っている。
212
五分くらい経って漸く私の悶えは落ち着いた。
でも、じっと見つめる水色と目が合うと悶えが再発するから目を
閉じてもらう。ぴょんぴょんと飛び跳ね、両手首を回して準備運動
終了だ。
[よし、行くね!]
﹁ここで頭突きか!?﹂
がしっとルーナの顔を掴むと、流石に驚いたのか目が開かれてし
まった。でも止まってしまうと再開できる気がしないので、勢いの
まま顔を振り下ろす。
ふにっとした感触がしたと同時に、ぶわっと体中に何かが走って
いく。ちゅっとか絶対できない。何だその高等テクニック!
押し付けるだけで精一杯だった私は、零れ落ちそうなほど見開か
れた水色から慌てて距離を取った。十九にもなって、渾身のキスが
これとか自分を罵りたい。
今の私はたぶん、情けないくらい首の後ろまで真っ赤だろう。だ
って燃えそうなくらい熱い。
妙な沈黙が落ちた部屋の温度がどんどん上がっていく気がする。
[み]
﹁みっ!?﹂
[みゃぁああああああああああ!]
﹁待てカズキ、もういっかうわぁ!?﹂
羞恥ゲージが振り切れて、耐え切れず部屋を飛び出した私の後ろ
で大きな音がした。
正座に慣れていない身では、足が痺れて立つこともできないだろ
う。これで追いかけられないと踏んでいた私の勝利だ。孔明と呼ん
でくれていいのだよ。ちゅーで恥ずかしがる孔明で宜しければ!
[無理! ほんと無理! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい! 何
だこれ! いつもより多く恥ずかしい!]
213
顔を覆ったり、身悶えながら廊下を走り抜けていると、エレナさ
んと鉢合わせした。エレナさんは顔を真っ赤にして廊下を走り去る
私に、すぅっと息を吸う。
﹁元気で大変宜しい! 太く長く図太く、恋せよ乙女です!﹂
こっちの世界の乙女は、随分と逞しいものらしい。
214
19.神様、ちょっと規模をお間違えです
朝は、エレナさんとランニングから始まる。そのまま剣の鍛錬に
入るエレナさんの傍で、ダッシュしたり、反復横跳びしたりしてい
るのが私だ。
これは毎日過ごしていてわりとすぐに気づいたことだけど、エレ
ナさんは褒めて伸ばすタイプらしい。エレナさんは褒められるとこ
ろを探して褒めてくれる。駄目だとか、覚えが悪いとか、否定的な
ことは言われたことがない。呆れた目で見られたことはあるけど。
褒められれば素直に嬉しいので、もっと頑張ろうと思う私は単純
かもしれない。
あれ以来、会ったら話をしてくれるドールにそのことを話してみ
たら、くすくす笑われた。
﹁わたくしも最初はそう思いましたわ。一見厳しそうに見えて、お
身内にはとっても甘いのですわ、エレナ様は﹂
彼女はドール、ではなくドーラだった。覚えやすくて助かります。
ドーラは、アリスの二番目のお兄さんの奥さん、の、妹さんだっ
た。実家は叔父夫婦に乗っ取られたのだと、ころころ笑って教えて
くれた。全然笑い話じゃない。
﹁わたくしは貴女より底意地が悪かったので、何の裏があるのだと
散々疑ったものです。自分でも鬱陶しい小娘でしたわ。けれど、そ
んなわたくしにエレナ様は言ってくださったの。﹃厳しいのは、敵
と自分と時代で充分です﹄と。わたくし、結婚するならエレナ様の
ような方が理想なの⋮⋮﹂
うっとりと両手を組むドーラは、今年二十歳。
エレナさんのような男性とは未だ巡りあえていないそうだ。
215
私の一日は、大体書斎で仕事をするエレナさんとお喋り修行だ。
エレナさんがいないときや忙しいときは、家に残っている誰かとお
喋りする。
アリスの妹さんの部屋でお喋りしたこともある。少女漫画っぽい
表紙の本がたくさんあって、ああ、女の子だなぁと微笑ましく思っ
たりもした。
その中身が﹃騎士ルーナと黒曜姫﹄とかいう内容だった時は眩暈
がしたけれど。
私が元祖黒曜だと知らない少女達は、きゃっきゃっうふふと内容
を説明してくれる。いま、国で一番売れている本だそうだ。大丈夫
か、ブルドゥス。半ば本気でブルドゥスの未来を心配していたら、
グラースでも連続トップセラーの座に君臨しているらしい。グラー
スも大丈夫じゃなかったみたいだ。
とりあえず、本の作者に言いたい。私は別に、異世界に飛ばされ
てぼろぼろになった挙句雨に降られたところをルーナに拾われたわ
けじゃないし、誰かに性的に襲われかけたところをルーナに救われ
たわけでもないし、ちんぴらに絡まれたところをルーナに助けても
らったわけじゃないし、山賊に浚われたところを颯爽と取り戻して
もらったこともない。
そりゃ、砦内で迷子になったところを拾ってもらったり、洗って
いた大鍋に頭から突っ込んでひっくり返ったところを救ってもらっ
たり、ジュースと騙されて飲んだ酒で酔っぱらってティエンにちん
ぴらしてるところを助けてもらったり、イヴァルを助けようと肥溜
めに落ちたところを颯爽と引っ張り上げてもらったりはしたけれど。
読んでもらったお話しの中でのルーナは、見せ場のシーンのみな
らず、何かにつけて愛を叫ぶ。愛してる、愛の力を、愛をこの手に、
などなど。現実のルーナは、私に愛を語る前に殴り掛かっていく。
そっちの方が手っ取り早いと思うし、緊迫した場面で愛など乞われ
216
ても、真剣に困る。お話しの中ではロマンティックだろうけど、現
実では是非とも戦いに集中して頂きたい。
そして、そんなに災難にあって堪るか。男に襲われかけ、遭難し、
山賊に浚われ、本の中の私は散々だ。そりゃ、十年も連載が続けら
れて、今は云十冊になった本だから、登場人物達にも色々あるだろ
う。なけりゃお話しは続かない。
元祖黒曜からしたら堪ったものじゃないが。
中には、ルーナに懸想するライバルのお嬢様が出てきたりもして
いた。
女の子! あの臭くてむさくて汚かった砦に女の子! 現実にそ
んな子がいたら、私は断然そっちにべったりになった自信がある。
ライバル? そんなことより女友達ゲットしたかった。
あの頃に比べたらお花畑だなぁと女の子達を見つめる。話してる
内容はともかく幸せだ。
ふと部屋の片隅を見ると、絵本に載っていそうな、もろに﹃宝箱
!﹄と言わんばかりの木製の箱が置いてあった。開けると財宝ざっ
くざく出てきそうだ。
興味を惹かれてまじまじ見ていると、それに気づいたベアトリス
がさっと顔色を変えた。大きく手を広げてその前に立ちふさがる。
﹁い、いけませんわ、カズキさん! こ、この中に入っている本は、
耐性のない方は見た瞬間気絶してしまう劇薬なのです!﹂
﹁本で!?﹂
﹁ええ、ええ、そうですわ! ですので、決してこの箱を開けては
なりません。この箱は、同じ志を持った淑女のみが開けるもう一つ
の世界なのです⋮⋮⋮⋮﹂
神妙な顔で両手を握られて、決して開けないことを約束する。
よく分からないけれど、熟女のみが開ける世界は私にはまだ早す
ぎると思う。ベアトリスは私より年下のはずだけど。
﹁熟女のみなる箱は、決して開けはなりませぬぞ!﹂
217
﹁淑女ですが、もうそれでいいですわ﹂
今日は、エレナさんとのいつものお喋りに加えて﹃黒曜候補﹄の
ことを教えてくれた。
﹁黒曜の条件は幾つかありますが、外見的な条件は全員が満たして
います。髪には染粉、瞳には薄硝子を入れて、ですが。薄硝子、貴
女は入れてはなりませんよ。あれは、扱いを少しでも間違えると失
明しますから﹂
﹁そ、そのような恐ろしき物体、何故にして入れるのぞり!﹂
﹁条件を満たす為です。黒曜になれば名が売れ、その家族、一族郎
党利益を得ることができる。その為、黒曜候補には必ず後ろ盾がつ
きます。現在一番大きな後ろ盾を得ているのが﹃スヤマ﹄です。本
物の黒曜であると豪語しており、本物ではないかとの噂が絶えませ
ん﹂
﹁私ぞりか︱︱﹂
そうかそうか。私か︱︱。
そんなわけない。
﹁え!?﹂
驚いて飛び上がった拍子に角に肘をぶつけた。指先までびりびり
と痺れが走っていく。
私の反応を黙って見守ってくれたのは、きっとエレナさんの優し
さだ。こんなところで発揮してくれなくてもいいです。
﹁その他の黒曜候補は、最初から称号としての黒曜を目指している
娘ばかりです。よって、身元ははっきりしております。一般的には
貴族の娘が多いでしょう。勉学の場が整っておりますので。ですが、
その娘だけ身元が判明しておらず、後見人はザイール家、西南の方
に領地を持つ領主です。その娘が今年の黒曜となった場合、合同評
議会議員に選ばれるのは、間違いなく現当主ドレン・ザイールです。
他の娘がなったとしても、後ろ盾の人間が選ばれるでしょう。その
218
為に後ろ盾になったのですから﹂
一所懸命ヒアリングして、真面目な顔して頷く。成程、分からん。
すぅっと呼吸音が聞こえる。
﹁理解できないことははっきりと述べる!﹂
﹁は! 私如きになりたき人の気持ちが丸かじりで分からぬにょろ
!﹂
﹁如きは必要ありません!﹂
﹁私!﹂
﹁宜しい!﹂
この家に来て三日。言語力より、足腰より、肺活量が鍛えられた
気がするのは気のせいだろうか。
気を取り直してさっきの話を考える。
﹁質問ぞり﹂
﹁はい﹂
﹁あちらそちらの﹃スヤマ﹄なるは、お前、ほんっとに馬鹿だなぞ
り?﹂
﹁あちらかそちら、どちらかで結構。黒曜候補として城に上がった
以上、試験で上位です﹂
どうしよう、さっぱり分からない。
黒曜になりたいのは、利益になるから。それがどんな益かは人に
よって違うだろうけど、とにかく益になるから。
だったら﹃私﹄になる理由は?
黒曜になりたいのなら試験に通ればいいのだ。試験に通る実力が
あるのに﹃スヤマ﹄になるのは、寧ろ不利ではないのだろうか。黒
曜選びには、最終的には本人かどうかの確認でルーナと会うことに
なる。私を知っているルーナを前に﹃私はカズキぞり!﹄と名乗る
のだろうか。そんなことしていったい誰が得するんだろう。
無意識にエレナさんがしていたように、下唇に曲げた指を当てて
考え込む。紐を腕に通した小袋ががちゃがちゃと揺れた。
219
﹁それは?﹂
﹁あ! エレナさんに使用法のご教授願おうと思考して運搬したぞ
ろ! リリィ達に頂戴したにょ!﹂
書類を寄せてくれたので、空いたスペースに小袋の中身を並べて
いく。装飾品が多いのは、たぶんあの時身に着けていたのをくれた
からだろう。
﹁使用方法はご教授願うようにとぞり。よって、ご教授願いたいぞ
ろ﹂
取り出してみると、こんな小さな袋によく入っていたなと思える
量と種類が詰まっていた。きらきら綺麗な装飾品を指先で摘まんで
引っくり返す。ブローチの裏に文字が書かれていた。
もじ
この世界の文字は、ふんわり分類するとアルファベットを捩った
ような形をしている。ふんわり分類するならだから、実際はそんな
に似ていないけど、他に説明できないのだ。量はいろはよりは少な
いので何とか覚えられた。かろうじて。
短 い文章なので、記憶を総動員して何とか解読する。﹃愛するサ
リーへ 君の永遠の恋人ダニエルより﹄と書かれてあった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
サリーさん、これはあれですか。貴女確か、客の一人がしつこく
って鬱陶しいとぼやいていらっしゃいましたね。恋人気取りで嫌に
なっちゃうとも。確か、そのお客様の名前はダニエルじゃなかった
ですかね。気のせいですか。そうであれ。
頑張って解読したら結果がこれだった。ちょっと泣けてくる。
でも、あの時よりはましだ。私は昔、こっちの単語や文字をメモ
して纏め、私なりの辞書を作っていた。何度も訂正の線を入れ、何
度も書き直した渾身の一冊だ。必要な時にいつでも見られるよう、
肌身離さず大事に持ち歩いていた。
クマゴロウに砦から引きずり落とされるまでは。
水性なのが敗因だった。
220
思い出したら今でも泣けてくる。私の汗と涙と涎が染みついた辞
書が、水ででろでろになって、ただのゴミとなったのに気付いた時
の絶望を。
種類豊富な小物をじっと見ていたエレナさんは、剣だこがある長
い指で小瓶を持ち上げた。
﹁これは染粉ですね。この種類は良い品です。一時期貴女の髪色が
流行った時は、質の悪い染粉が安価で出回り、髪を痛めるだけでな
く、抜け落ちたり禿げあがったりという質の悪い事件が頻発したも
のです。ですがこれは、貴族が白髪となった折に使用する種類です
ので、逆に使用したほうが艶が出て美しくなるそうです⋮⋮⋮⋮色
は⋮⋮濃緑でしょうか⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうですね、今日染めましょう
か﹂
﹁え?﹂
﹁貴女の外見は目立ちすぎます。染めるよう話をするつもりでした
が、この染粉は貴重で、すぐに手に入らなかったのですが、ここに
あるのなら話は早い。今から染めましょう﹂
気が付いたら、メイドさんに腕を掴まれてお風呂場まで連行され
ていた。
﹁た、待機! 少々待機!﹂
全部脱ぐ必要はなく、上着だけ脱がされて首回りに大きめのタオ
ルが巻かれていくのを必死に止める。エレナさんは自分の袖を捲っ
ていた。まさか、エレナさん自ら染めてくれるのか。
﹁嫌なのは分かります。ご両親から頂いた身体を弄るのは抵抗があ
るでしょう。ですが、この屋敷を出た場所で、貴女を守るために必
要となるのです。今のこの時期、一目見ただけで黒曜と分かる娘が
見つかればどうなると思います。殺されますよ﹂
﹁わ、私は、染めましょうか異論ないぞろ!﹂
221
﹁は?﹂
染めなきゃいけないのなら染める。私は染めたことはないけど、
日本だと染めてる人の方が多いんじゃないかというくらい皆染めて
るから、別に抵抗はない。禿げるような染粉をリリィがくれるとも
思わないし、エレナさんの腕を信じてない訳でもない。
私は、ぐっと両拳を作って詰め寄った。
﹁そちらの色は、私、きゃあ似合うするぞり!?﹂
問題は似合うかどうかだ!
濃緑って染めた後どんな感じなんだろう。似合わなかったらどう
しよう。そりゃ染めたほうがいいんだろう。変装するには色を変え
るのが手っ取り早いし効果的だ。でも、似合わなかったらちょっと
悲しい。人生初染めが白髪染めなのもちょっと悲しい。用途は白髪
染めじゃないけど。
貧困な想像力で濃緑色の自分を想像してみる。⋮⋮⋮⋮頭に苔が
生えた。
﹁錆び︱︱!﹂
﹁錆びません。大丈夫、似合いますよ﹂
﹁ぞり⋮⋮﹂
女は度胸だ。なるようになる、はず。ならなかったらどうしよう。
そうだ、お菓子を食べよう!
結論が出たので、宜しくお願いしますと頭を下げて、上げる。口
元を何か布で覆われた。
﹁では、始めます﹂
エレナさんもメイドさんも、皆マスクのようなものをつけている。
私もきっと同じものをつけているのだろう。口に入らないようにだ
ろうか。でも、それだったら目も覆ってほしい。
興味はあるので、作業をじーっと見つめる。エレナさんは、何か
危険物を触るように真剣な顔つきで小瓶の蓋を開け、小鉢のような
器に粉と水を入れて混ぜ合わせ始めた。昔散々テレビのCMで見た、
練るお菓子みたいな感じになってくる。ちょっとやってみたいと思
222
った瞬間、それはやってきた。
[くさ︱︱︱︱!]
鼻が捥げるとか考える余裕もない。人間が息しちゃ駄目なレベル
で臭い!
良薬口に苦し、鼻に辛し!
臭さのナンバー1をあげたい染粉が、髪の毛に刷毛で丁寧に塗ら
れていく。エレナさんが油紙で覆われた水を弾く手袋をしているの
は、手が染まったら困るからであって、この臭い物体に触りたくな
いからではない。そう信じている。
根元から先まで何度も繰り返して刷り込まれて、臭い。
﹁⋮⋮眉もしますか?﹂
﹁気配消してるぞりして結構ぞろ︱︱!﹂
﹁そうですね、隠れていますから大丈夫ですね。では、このまま三
時間待機です﹂
﹁にょろ︱︱!?﹂
﹁女は我慢!﹂
﹁はい!﹂
﹁男も我慢!﹂
﹁はい!?﹂
このまま待機か、そうか待機か。
臭いが充満した浴室でぽつーんと一人待機する姿を想像する。居
眠りしたら大惨事になりそうだ。
窓は全開なのに、臭いが濃密過ぎて全く流れていかないのが辛い。
﹁では、わたくし達は戻ります。貴女はお喋りしていなさい﹂
﹁一人お喋り!? ど、努力しますよわ﹂
﹁わよ、なのか、わで切りたかったのか、悩むところですね。どち
らと判断します﹂
エレナさんからの質問だ。張り切って答えようとしたら、顔はこ
223
っちを向いていなかった。しょんぼりだ。
﹁どっちにしても努力は分かるので、どちらでも﹂
答えたのはルーナだった。脱衣所かどこかでブーツは脱いできた
のか、ズボンの裾を捲りながら入ってくる。実は、三日ぶりだ。グ
ラースの騎士代表ともいえる︵らしい︶ルーナは、あちこちに引っ
張りだこなので頻繁に訪れるのは難しい。
そう考えると来すぎな気もするけれど、大丈夫というのならそう
なのだろう。あまりそういう事情は教えてくれない。聞いても分か
らないとも思う。
﹁ルーナ! 元気してましょうぞ?﹂
﹁元気だ。カズキは?﹂
﹁強行突破な臭いその他は元気ぞり!﹂
﹁ああ⋮⋮確かに強烈だな﹂
軽く眉間に皺を寄せただけで、湯の張っていないバスタブに腰掛
けたルーナは凄い。私だったら﹃達者でな!﹄と挨拶して回れ右す
る。
エレナさんとメイドさんはお仕事に戻ってしまったので、ルーナ
と二人でのんびりする。臭いけど。
今日の朝食と昼食について熱弁して、昨日の夕食とおやつについ
て熱弁して、今晩の夕食について思いを募らせているのを、ルーナ
は頷きながら聞いていた。気がつけば食べ物の話題ばかりだ。他に
何か話せと言われたら、ちょっと悩む。
昔は、鍛錬と剣や鎧の手入れをしているルーナの横で、作業を見
ていた。ルーナが話すことは戦場のことばかりだったし、私は日本
のことばかりだった。そもそもルーナの趣味も分からない。ある意
味非日常が日常だったところに、別世界の日常から飛び込んでしま
ったのだ。
今だって恐らく非日常に分類される。でもそれが日常なので、あ
まり非日常に思えない。戦場ではない場所で、普通に自宅とかで寛
224
ぐルーナを見てみたいなーと思って眺めている間も、ルーナは静か
に笑っていた。
三時間は思ったよりあっという間だった。一人じゃなかったのも
あるし、ルーナと他愛もないお喋りをするのは楽しい。ルーナとじ
ゃなくても楽しいけど。
でも、ルーナはあまり喋らなかった。暗闇で見たら猛禽類を思い
出して叫びだしてしまいそうな目を優しく細め、少し微笑んでいる。
時々笑い声をあげていたので、別に楽しくない訳じゃなさそうなの
に、様子が変だ。様子がおかしいのは分かっていたけれど、果たし
てそれを聞いてもいいものかと悩んでいる内に三時間経ってしまっ
た。仕事のことは、話してくれない限り関係ない人間が首を突っ込
むべきじゃない。そもそも、この世界の常識も怪しい私では、きっ
と正誤の判断もできない。
﹁流すぞ︱︱﹂
﹁ありがと︱︱﹂
大きめの桶に頭を突っ込み、髪を洗ってもらう。自分でやっても
よかったけど、ルーナがやりたいというのでお任せした。自分で洗
うなら俯せに頭を突っ込むところだけど、洗ってもらうなら仰向け
だ。
腕を捲って楽しそうに洗うルーナの顔を下から見る。楽しそうで
何よりだけど、これ、結構恥ずかしい。臭いに慣れた頃にマスクを
外してしまったのが悔やまれる。仕方がないので目を瞑ることにし
た。これはこれで恥ずかしいが、背に腹は代えられない。
自分だったらがしがし洗って終わってしまうのに、ルーナの手は
丁寧だ。一束一束時間をかけてじっくり染粉を溶かしていくように
洗う。
﹁なあ、カズキ﹂
[ん︱︱? 痒いところはないですよ︱︱]
﹁それはよかった﹂
225
髪を絞って桶の水を変えてきたルーナの手は、濯ぎでもやっぱり
丁寧だった。
﹁どうしたい?﹂
[豆腐が食べたいなぁと思ってるんだけど、作れると思う? 大豆、
大豆探したい。あ、にがりって何からできてるの!? なんかこう、
苦いやつかな!?]
﹁違う。これから、どうしたい?﹂
目を開けたら、静かな瞳が見下ろしていた。
﹁グラースの王も、ブルドゥスの王も、お前に会いたがってる。お
前の立場的に、国できちんと保護したいと仰せだ。そして、お前に
矢面に立ってもらえば、労力を使わず解決できる問題も沢山ある。
でも、そうすればお前は、もうここにはいられない。この家に、と
いう意味でもそうだし、この空間にいられなくなるという意味でも
ある。ここも、ガルディグアルディアも、カズキにとって味方だっ
たけど、黒曜として立たされるとお前を利用しようとする人間とば
かり出会うことになる﹂
髪を絞り、渡されたタオルで拭きながら起き上った。貸してくれ
た手を握って顔を上げる。
﹁一度黒曜として立たされると、ずっとそこから抜け出せなくなる。
お前の名前は、お前が思っているより便利に使われてきた。何かあ
ればすぐに、民衆を味方につける手段として利用されてきた。その
本物が現れたら、当然逃がしたくない。グラースとブルドゥスが所
有を巡って牽制しあっているから今の空白時間がある。⋮⋮⋮⋮カ
ズキは、どうしたい?﹂
[ど、どうって、無理、無理だって。だって、そんな、私、馬鹿だ
よ!?]
国とか、そんなでっかい問題であれやこれや再配できる頭脳も能
力も、ついでに強靭な精神力もない。私に出来る決断は、精々ご飯
のメニューや、こっちのキャベツが重いとかで。私に出来る争いは、
その半額肉は私のだ︱︱! のレベルだ。
226
馬鹿すぎて泣けてくる。そりゃあ、利用しやすかろう。あれやこ
れや言われて分からなくなって、ほいほい言いなりになって、使い
捨てでぽいされる未来しか思い浮かばない。馬鹿に権力を与えては
ならない。それも、自分で考えられない馬鹿に。
三時間前まで、私の悩みは髪色が似合うかどうかだった。なのに、
今は全然別レベルの規模にまで膨れ上がった問題がのしかかる。
規模が大きすぎて想像もつかない。つまり、何とか法案が可決さ
れましたなどの夕方のニュースを興味なく見ていた私が、そっちに
瞬間移動するようなものだ。
足が震えてきた。
崩れ落ちないように掴んだルーナの腕は、まるで棒みたいに硬い。
もうちょっと柔らかくってもいいんじゃないだろうか。硬すぎて指
が回りきらず、掴み損ねてぺたりと床に座り込む。
そんな私の前に、ルーナは片膝をついて、腕を掴んでいた私の手
を取る。
﹁そんな場所に行きたくないなら、俺と逃げるか?﹂
[え?]
取られた手とルーナの恰好は、まるでお伽噺の騎士だった。
でも、これはお伽噺じゃないし、ルーナはお伽噺じゃなくても騎
士だ。
事態を飲み込めない私を前に、ルーナの微笑みはどこまでも優し
かった。
227
20.神様、ちょっと色々あり過ぎです
事態を把握することもできないのに、状況は私を置き去りにくる
くる変わっていく。
いや、本当は最初から分かっていたのに私がそこまで頭が回らな
かったのと、皆が隠してくれていたのだろう。その証拠に、ルーナ
はちっとも動揺していない。
﹁国を出る事にはなるが、俺はお前一人くらい余裕で養える。腕も
鈍ってないぞ。追われることも考えると、東の少数民族のどこかに
紛れ込むか、海を渡るという手もある。いっそ大陸まで足を延ばす
か?﹂
[ま、待って、ルーナ待って!]
ルーナの声は、気負った様子はなく穏やかだ。焦った私の声だけ
が浴室に響く。
﹁いつまでだって待つ、と言いたいが、そう長くは待ってやれない
のが現状だ。でも、出来るならカズキが選んだ道を行ってほしい。
あまり選択肢を増やせないのが悔しいが。⋮⋮カズキ。俺はカズキ
がどの道を選んでも必ず傍にいる。寧ろ、今よりは一緒にいれると
思うぞ﹂
[そ、そりゃ嬉しいけど]
﹁こっちの世界、いつもこんなのでごめんな﹂
結局取られた手にはちゅーされた。恥ずかしがる余裕もなく、つ
いでといわんばかりに染めたばかりの湿った髪にもされた。
﹁この色も似合ってる﹂
[そ、そりゃどうも⋮⋮]
手を取られたまま脱衣所へ行き、壁に設置されている鏡を覗き込
228
む。日本のようにくっきり映らず、少しぼやけているけれど、充分
判断できる。濃いずんだ餅みたいな髪色した自分がいた。ずんだ餅
が食べたい。いやいや、エンドウ豆を煮つけたという可能性も。ワ
カメよりは白味があるし、ほうれん草とも違う。抹茶が一番近い気
がする。緑茶を渋く入れすぎたとも考えられるけど、抹茶パフェ食
べたい。
﹁⋮⋮⋮⋮ズキ﹂
抹茶は昔苦手だったけど、今は飲める。やっぱり大人になって味
覚が変化したんだろうか。まあ、抹茶本体よりお茶菓子が好きなの
は変わらないけれど。
﹁⋮⋮⋮⋮い﹂
お菓子⋮⋮そうだ、最近お菓子作ってない。昔こっちの世界に来
たとき、お菓子が食べたかったけれど作り方が分からなくてクッキ
ー一つで悪戦苦闘した件を反省し、お菓子を作り始めたのだ。今で
はクッキーは勿論、シフォンケーキだって作れる。焼き縮みするけ
ど。
﹁⋮⋮⋮⋮るか?﹂
だが、こっちで作れるだろうか。温度設定ができるかすら不安だ。
砦では竃だったわけだけど、たぶんここでも同じだろう。薪を中に
入れてある程度燃やしたところに、焼きたいものを入れる。ボタン
で温度調整なんてできない。
焼けるのだろうか。クッキーならいけるかな。昔でも出来たし。
でも、いま食べたいのはクッキーじゃない気もする。今の気分は。
[チーズケーキ食べたい!]
﹁人の話を聞いてるか!?﹂
[はい! 聞いてません!]
﹁聞いてくれ、頼むから!﹂
[ごめんね!]
﹁惚れた弱みだ、許す!﹂
[ありがとう!]
229
私の恋人は太っ腹で幸せだ。太っても大好きだよ、ルーナ。太っ
たらお腹ぽよんぽよんさせてね。
というわけで、私は今、エレナさんと一緒に厨房に立っている。
ルーナを見送った後、私は向こうから持ってきた鞄からお菓子の
本を引っ張り出し、お菓子を作りたいとエレナさんにお願いしてみ
た。
エレナさんはまず、本に興味津々でずっと見ていた。こっちの本
とはいろいろ違うし、カラーだし、写真だし、興味深かったようだ。
しばらく無言で本を読んだ後、颯爽と奥の部屋に行ったかと思うと
エプロンを二つ持ってきた。
﹁わたくしも作ります﹂
﹁エレナさんも、お菓子創作好きにょろ?﹂
﹁以前、挑戦したことがあります。食べるのはもっと好きです﹂
﹁同意にょり!﹂
厨房まで歩きながら、エレナさんの目は本をまだ見ている。その
ページはチョコレートケーキだ。
﹁この本は貴女の世界では一般的な物なのですか?﹂
﹁そう⋮⋮だわよ!﹂
﹁語尾は、ある意味全てが不要です。見事な印刷技術ですね。絵も
素晴らしい﹂
﹁あ、それなるは[しゃしん]ぞり﹂
﹁しゃしん?﹂
しまった、説明を求められた。ただでさえ説明は苦手なのに、こ
っちの世界の言葉に翻訳しながらという高等技術が必要だ。
﹁そ、そちらに林檎があるぞり!﹂
﹁ありません﹂
﹁あるとするぞろ﹂
230
﹁はい﹂
例えから躓いた。
﹁林檎を、書くするが絵。丸ごと⋮⋮依然として⋮⋮情勢は依然と
して⋮⋮そのまま! そのまま待機! 待機違う! そのまま、覚
える⋮⋮報告書⋮⋮保持⋮⋮記録! そのまま記録保持したが紙に
うつすがしゃしん!﹂
﹁そのまま紙にうつす、ですか?﹂
﹁そうぞよ!﹂
﹁林檎を紙に押し付けるのですか?﹂
﹁物理的!?﹂
結局、本に載っているように、情景そのままを記録することがで
きる的な内容をふんわり伝えた。私の語彙力では、ふんわりという
よりごわごわ伝えた気もする。作り方が載っているページで、一緒
に作っている人が写っている写真で何となく理解してもらえた、と
思う。
専用の機械がないと写真は撮れないし、印刷もできないと言った
ら納得してくれて、その話は終わった。
けれど。
﹁人を、当時の姿のまま形に残せるのは、とても良いですね﹂
ぽつりと呟いたその横顔が、凄く印象的だった。
エレナさんと二人で意外とかわいいレースのふりふりエプロンを
着用し、厨房に仁王立ちだ。厨房にあった材料を確認した結果、チ
ーズケーキはチョコレートケーキに変更になった。どっちも大好物
です。
﹁エレナさん、以前創作したお菓子は如何ぞり?﹂
何を作ったのだろう。この世界でしかないお菓子とかだったら、
今度是非作ってほしい。是非とも食べてみたい。その結果、私のお
腹がぽよんぽよんになったらルーナに触ってもらおう。
231
いつも通り、ぴしりと伸びた背中でまっすぐに前を見つめたエレ
ナさんは、はきはき答えてくれた。
﹁焼き菓子です﹂
﹁大好物ぞり!﹂
﹁均等で、艶々で、大層美しい﹂
﹁はい!﹂
機敏な動きで、ざっと音を立てたエレナさんが私に向き合う。
﹁炭ができました﹂
﹁はい?﹂
﹁硬かったです﹂
﹁食事したにょり!?﹂
﹁はい。食べ物を粗末にすることは許されません。大変不味かった
です。正直、鍛錬より苦行だと思いました。次はケーキを作ってみ
ましたが、チョコレートを使用していないにも拘らず、同じ色の岩
ができました。硬かったです﹂
美味しいお菓子を作ろう。
何だか潤んできた視界に、私は決意した。
エレナさんが選んだチョコレートケーキは、無情にもメレンゲを
使うタイプだった。これは焼き加減が物を言う。もう一つ言うなら、
メレンゲ命だ。
ハンドミキサーがない状態でメレンゲを作るのは骨が折れる。で
も頑張ろうといれた私の気合いは無意味だった。
目の前で、白身が見る見るメレンゲになっていく。無表情のエレ
ナさんの手元では、最早目では追えない速度で手が動き、メレンゲ
を作っていく。メレンゲができるまで時間がかかるだろうと、悠長
にチョコレートとバターを湯煎で溶かしている場合ではなかった。 傍から見れば、お前チョコレートとバターに何の恨みがあるんだ
と思われてしまうだろう勢いで二つを溶かす。卵黄を放り込んで泡
232
だて器でぐるぐる混ぜる。そんでもって、一回振るった粉類をもい
っちょ振るいながら投下。さっくり混ぜる。
その間にメレンゲは完成してしまった。
﹁これで宜しいですか﹂
﹁ちょいと持ち上げてみろやぞり﹂
﹁はい﹂
﹁お見事でよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
柔らかいどころかしっかりめのメレンゲの完成だ。ちょっとしっ
かりしすぎている気もするので、もしかしたら焼いた時膨らみすぎ
るかもしれない。まあ、硬くなければそれでいい、甘ければ最高だ
と思う! お菓子の定義がちょっと分からなくなってきたけど、食
べることが苦行じゃないお菓子が完成すれば、もう何でも成功だと
思う。
エレナさんはメレンゲを一掬いして、私の作っていた生地にぐる
ぐる混ぜ合わせる。捨てメレンゲだ。こうしたほうがいきなりメレ
ンゲを混ぜ合わせるより生地同士が馴染みやすくなる。ここまでの
作業は泡だて器、こっからはヘラでやる。そして、選手交代だ。
私はメレンゲを半分生地に入れて、潰さないようさっくさく底か
ら混ぜる。混ざったら、今度は生地をメレンゲに投下。さっくさく
底から混ぜる。メレンゲの白い線が見えなくなり、生地に艶が出て
滑らかになったら焼く。
バターを塗って粉糖を振っておいた型に流しいれて、竃に走る。
そこでは普段厨房を任されているコックのおばさんが、汗だくで
用意してくれていた。
﹁頼むしますぞろ!﹂
﹁はいよ!﹂
頼もしいお言葉と一緒に、逞しい腕でケーキが竃に滑り込んでい
く。後は、おばさんに託すしかない。
両手を組んで、神様に祈るように竃を見つめる。おばさんも真剣
233
そのものだ。
﹁⋮⋮⋮⋮以前﹂
﹁はい﹂
﹁奥様のお作りになったブルトンヌを、あたし達がいつも焼いてる
ように焼いたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
﹁どうして、ああなったんだろうねぇ。それはそれは艶やかで、へ
こみ一つない、美しい炭だったんだよ⋮⋮⋮⋮﹂
私とおばさんは、がしっと固く誓い合った。エレナさんの作った
お菓子を完成させるんだ。そして、また笑ってもらうんだ!
頷き合う私達二人を前に、エレナさんはまだ本を見ていた。横か
ら覗きこんでみようとしたが、大きなお胸と長身に阻まれてよく見
えない。それに気づいたのか、ちょっと本を傾けてくれた。
とんっと指で示されたのはシフォンケーキだ。
﹁これはどのようなお菓子なのです?﹂
﹁ふりふり⋮⋮違うぞり、ふわふわぞり。スポンジケーキよりふわ
ふわわよ!﹂
のち
﹁作るのは難しいですか?﹂
﹁材料を細かく測量した後、竃にかける熱意ぞ成功すれば、できる
ぞろ。竃より取り出したる後、天地がひっくり返ったような大騒動
をするのがコツぞり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ケーキの上下を引っくり返す、で宜しいですか?﹂
他にも気になるお菓子がたくさんあったらしく、あれもこれもと
聞かれる。全部作ったことはないけれど、何となくぼんやり説明で
きたと思う。
そういえば、お母さんとはこんなことあんまりしなかった。
あっちに戻った後、お菓子も料理も作れない自分に反省し、実家
に帰った折に夕飯を手伝ったりはしたけれど、基本的には母が主体
で、母が決めたメニューを手伝っただけだ。まめまめしく手伝い出
した私に、さては男ができたわねとからかってきた母に﹃逆です。
234
男を失ったんです﹄とは言えなかった。
突然、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回された。どっちかというと、頭
ごと揺らされて首ががくんがくんと動く。驚いて顔を上げれば、無
表情のエレナさんが私の頭を鷲掴みにして揺らしていた。
これは、たぶん、慰められている。
気づいた瞬間、思わず笑ってしまった。
向こうではとっくに卒業したような対応をされている。子ども扱
いだと怒ったり恥ずかしく思うより、くすぐったさとありがたさが
勝った。
こういう場所にいたい。こういう場所で、自分に出来る仕事をし
て、自分に出来る範囲の世界で向上して、そうして生きたい。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しい。向こうでは
逆にそれ以外の道の方が難しいのに、どうして。
自分の身の丈では到底不可能な世界の話に、知らない間に組み込
まれていた。それが嫌なら逃げるしかない。大好きな恋人が手を取
って逃げてくれるという。ありがたいし、嬉しいし、惚れ直す。
だけど、ルーナと逃げたら、今ある全てを捨てていくことになる
のだろう。この世界で得た大切なものを置き去りにする覚悟が、ど
うしてもつかない。
優しい人達が、生まれ育った世界を遠く離れた私に居場所をくれ
たのに、どうしてその得難い存在を置いて、また知らない場所へと
飛び出していかなければならないのか。
選ぶことが多すぎる。多すぎるのに、状況はくるくる変わって、
私はそれに巻き込まれたままくるくる回っているだけだ。何も選ん
でいない。選ぶ暇もなく、道が一本しかなくなっていく。
流されるのは、私の決断の遅さが原因だろう。踏み切れない弱さ
が原因で失うものは何なのだろうか。
235
いい匂いが漂ってくるのに、私達の間に走るのはぴりりとした緊
張感だ。息を吸うのも憚られる張りつめた空気の中で、おばさんが
巨大なお好み焼きのへらみたいな道具にケーキを滑り乗せ、私の前
に差し出してきた。いい匂いを発し、焼き上がったばかりでふわり
と膨れた薄茶色のケーキ。艶々しているが、炭ではない!
私はそれに細い串を指そうと震える手を押さえる。本来は中が焼
けているかを見る作業だ。串に中身がついてこなければ大丈夫なの
だが、今は刺さるかどうかを重要視している。
ごくりと喉を鳴らしたのは誰だろう。もしかしたら全員かもしれ
ない。
串は、すっと抵抗なく滑り込んでいった。引き抜くことも忘れて
がばりと上げた私の顔は、感動と歓喜に溢れていただろう。
そのまま、無言で両手を広げたエレナさんの胸に飛び込む。お胸
で息ができないくらい抱きしめられたけれど、この喜びの前では呼
吸なんて二の次だ!
﹁刺さるぞ! 刺さるったぞり︱︱!﹂
﹁その場合は刺さったが正しいでしょう! ですが、刺さりました
!﹂
﹁刺さったが︱︱!﹂
歓喜している私達の横で、おばさんはケーキに刺さったままの串
を拝みだす。
その様子を、いつの間にか帰宅していたアリスが入口から見てい
た。
﹁だ、誰が刺されたのだ⋮⋮⋮⋮﹂
冷や汗をかいて後ずさる親友︵仮︶の目は、綺麗に洗って並べら
れた包丁に釘付けだった。
236
その日の晩は、ちょっとしたパーティーになった。どうしても夜
会に出なければならなかった人を除き、結構な女性達が夜会を断り
屋敷に残る。
ちなみにパーティーの名称は﹃エレナさんのお菓子を食べる会﹄
ではなく﹃エレナさんの作ったケーキになったケーキを見て感涙す
る会﹄だ。
私は配られて早速食べてしまった。美味しかったです。
冷めたケーキは、やっぱり少々膨らみすぎた影響でひび割れが目
立った。けれど、一口ずつに切り分ければ気にならない。そのまま
出す時は、上に粉糖かココアパウダーでもふればいい。ただし、そ
っとだ。周りをコーティングしていないケーキに飾り付けたパウダ
ー類は、扱い注意である。間違ってもお誕生日ケーキに使用しては
ならない。
蝋燭を吹き消す大盛り上がりのシーンで、爆裂に吹き飛んでいく
からである。
そっとケーキやその他を寄せて、テーブルを拭く虚しさといった
らない。
何はともあれお祝いだ。
お酒はどうしようかと思ったけれど、日本人なので二十歳まで我
慢である。細長くて可愛いグラスに入っているのは、柚子蜂蜜に似
た味のジュースだ。美味しい。
皆が一口サイズに切り分けられたケーキを崇め奉る様子は壮観だ。
﹁カズキさん! 凄いわ!﹂
﹁カズキさん、ありがとう!﹂
﹁本当に素晴らしいわ!﹂
﹁ねえ、いつお姉様になってくださるの!?﹂
最後の問いに、まじまじと親指の先サイズのケーキを眺めていた
アリスが噴き出した。
237
﹁天地がひっくり返ってもあり得ん話をするな!﹂
心からの叫びに、耳を劈く大ブーイングが起こる。グラスを持っ
ていなかったら耳を防げたのに、直撃を食らってしまった。
﹁どうしてですの!?﹂
﹁わたくし達、カズキさんとでしたら仲良く出来ましてよ!?﹂
﹁お兄様!?﹂
﹁寧ろ大歓迎でしてよ!?﹂
﹁手ぐすね引いてお待ちしておりましてよ!?﹂
﹁はっ!? ロドリゲスに敵わないと最初から諦めて!?﹂
﹁いけませんわ、アリスロークさん! 愛する女性を簡単に諦めた
りしては!﹂
﹁わたくし達も応援しますわ!﹂
﹁どんな手を使っても援護いたしますわ!﹂
﹁アリスロークさん!﹂
色の大洪水に詰め寄られたアリスは、普通なら彼女達の勢いに呑
まれて何も言えなくなってしまいそうなところを、窓に張り付いた
まま怒鳴り返した。流石、この家で生まれ育ったアリスだ。
﹁私は!﹂
﹁なんですの!?﹂
﹁どうされたの!?﹂
﹁何か策がおありですの!?﹂
﹁流石アリスロークさん!﹂
﹁それでこそアードルゲの男ですわ!﹂
一言投擲すればマシンガンで返ってくる。それがアードルゲクオ
リティ。このマシンガンに勝てるのは、バズーカを思わせるエレナ
さんの張りのある声だけだと思う。
﹁カズキと私は、しっ、しっ、親友だっ⋮⋮!﹂
そんな、心底心外である、何でこんなことにみたいな顔して親友
宣言しなくてもいいじゃないか。寧ろ淡々と宣言してほしい。その
後ぼそっと﹃寧ろこんな女娶ったら、ありとあらゆる意味で家が沈
238
む﹄って呟くのやめてください。
﹁そうですわ! 一度お伺いしたいと思っておりましたの!﹂
﹁男性と女性が親友だなんて素晴らしいわ!﹂
﹁一体いつお知り合いに!?﹂
﹁どんなきっかけで親友に!?﹂
﹁後学の為にも是非教えて頂きたいわ!﹂
アリスの視線と私の視線がばっちり合った。女性達はわくわくと
輝いた顔で私達を見つめているが、私達は無表情でこくりと頷く。
パンツで繋がる縁だとは、黙っていよう。
私達の心は確かに繋がった。今なら親友に仮をつけなくていい。
ただ、私はアリスに言おうか迷っていることがある。
私の故郷には、二度あることは三度あるってことわざがあるとい
うことを。
窓際に張り付くようにして二人で避難する。アリスはまだ一欠け
らのケーキを眺めていた。早く食べてください。透かすように天井
に向けて掲げなくても美味しいです。
﹁騎士ルーナと逃げるか?﹂
まじまじとケーキを眺めながら唐突にかけられた言葉に、葡萄っ
ぽい色した葡萄じゃない味のジュースを噴き出した。これ何のジュ
ースなんだろう。美味しい。
﹁それもありだろうな。ブルドゥスもグラースも、お前には住みづ
らくなる﹂
﹁アリスが発言していいにょろ⋮⋮﹂
﹁騎士アードルゲとしてはまずいが、実家でくらいいいだろう﹂
239
ついにぱくりと口に移動したケーキは、一瞬で消えた。もぐもぐ
咀嚼している姿は、何だか子どもみたいだ。
﹁奇跡だ。甘くて硬くない﹂
﹁お菓子だもね﹂
﹁奇跡だ﹂
二回の奇跡を頂いたので、三度目もありそうだ。
お皿とフォークをテーブルに戻し、アリスはようやくこっちを見
た。目の下の隈が凄い。たぶん、疲れているのだろう。アリスはあ
まり家に帰ってこない。忙しいのだ。たぶん、私の所為で。
﹁逃げるなら手を貸してやる。平和祈念の儀まで後半月程だから、
少なくとも十日以内には決めろ。酷だろうが、出来るだけ早く決め
ろ﹂
﹁承知してるぞり⋮⋮﹂
﹁騎士ルーナが、城で煩いんだ!﹂
﹁あれぇ!?﹂
そんな話だったっけ!?
アリスは苦渋に満ちた顔で、ばんっとテーブルに両手をついた。
﹁表だって接触は出来ないが、ほんの僅かな時間でも接触したら、
お前は元気か、お前は泣いていないか、お前は消えてないかだぞ!
? 会ったとき直接聞けと言ったら、聞いても大丈夫と答えるに決
まってるだと! そうかもしれんが、私を巻き込むな! 寧ろ私よ
り貴様が会っているだろう、騎士ルーナ!﹂
﹁と、とりもあえず、消えては私の判断では不可能ぞり﹂
﹁知っているわ! だが、その不安をお前の前で言うのは格好悪い
だのなんだのっ、だから私を巻き込むな!﹂
﹁ご、ごめんぞり﹂
﹁貴様の所為ではないわ!﹂
﹁どうすろと!?﹂
さっきはあれほど分かりあった親友が遠く感じる。一気に親友︵
仮︶に逆戻りだ。親友︵仮︶が何考えているのか分からない。
240
でも、お疲れなのは分かる。主に、私とルーナの所為で。
両手をテーブルに叩きつけたまま、がっくりと項垂れたアリスの
背中を、ごめんねの気持ちを込めて擦る。何だったら後でマッサー
ジしてあげよう。私は、お母さんの背中を一分一円でマッサージし
ていた凄腕なのだ。ちなみに、お父さんは一分百円くれた。お母さ
ん会社、厳しすぎる。
擦っていた背中は鍛え上げられていて硬い。私の指で通用するか
分からない。これは手首と肘の出番かと考えていたけれど、次第に
違うと気づく。硬いのは硬い。
けれどこれは、強張っている。
テーブルに叩きつけられた掌は、いつの間にか握りしめられてい
た。
﹁⋮⋮⋮⋮ぜだ﹂
﹁⋮⋮アリス?﹂
弾かれたように顔を上げたアリスは、その勢いのまま剣を抜いた。
﹁どこから漏れている!﹂
手を引かれ、突き飛ばされるように窓際から離される。
蹴躓きながら何とか振り返った後ろで、アリスが窓から飛び出し
ていく。
﹁総員戦闘態勢に移れ!﹂
エレナさんの鋭い声に、皆は一斉にケーキを口に放り込んでもぐ
もぐしながら駆け出して行った。食べるのは忘れない、その姿勢は
称賛に値すると思う。是非とも見習おう。
﹁貴女はこちらです﹂
手を引かれてつんのめりながら歩く。廊下では、惜しげもなくド
レスの裾を捲りあげ、足を丸出しにした皆や、メイドさん達が剣を
構えていた。
﹁ガルディグアルディアから渡された袋は持っていますね?﹂
﹁は、はい﹂
241
﹁では、それと、貴女の荷物だけ用意しなさい。地下室に行きます﹂
﹁た、待機、待機。何が﹂
﹁駆け足!﹂
﹁足︱︱!﹂
急かされるままに走るけれど、状況が全く分からない。
先頭を切って廊下を疾走していたエレナさんがぴたりと止まった。
あまりに急すぎて顔面から背中に突っ込んだけれど、伸びた背中は
ぴくりとも動かない。寧ろぶつかった私が弾かれて尻もちをつく。
お尻を擦りながら前を見て、愕然とした。
そこには男がいた。額も口元も覆われて目元しか見えないけれど、
男と分かった。
前も、見たから。
この男ではないだろう。だってあの男は、もういない。もういな
いのに、どうして同じ恰好した奴らがここにいるのだろう。
﹁その娘か⋮⋮? しかし、髪色が﹂
﹁髪色など幾らでも変えられる﹂
部屋の中からもう一人男が出てきた。どうやらその部屋の窓から
侵入してきたようだ。
エレナさんは無言で剣を構えた。
﹁その娘を寄越せ﹂
﹁断る﹂
男二人に剣を向けられても、エレナさんの背はいつもと同じ、ぴ
しりと伸びている。
﹁恩人であるこの子を、娘と同じ年であるこの子を、息子と結婚し
てくれたら楽しいと思っているこの子を、夫に似たこの子を、わた
くしが渡すと? この家から誰かを再び奪おうとしている輩に、わ
たくしが? 寝言は寝て言え、死んで言え!﹂
斬りかかったのはエレナさんが先だった。
242
ドレスを着た女性が放ったとは思えない速度の剣撃に、受け止め
た男はたたらを踏んだ。よろめいた男の腹を蹴り飛ばし、返す刃を
隣の男に叩きこむ。衝撃が目に見えるようだった。がくんと身体を
揺らして壁に叩きつけられた男の姿に、剣撃の強さが分かる。
重いのだ。戦場でも、鎚や斧といった重量のある武器を受けた相
手がこんな動きをしていた。長身を生かして相手の頭上から振りか
ぶる重さのある剣を、両刃の男は受けきれず、いなそうとした動き
も間に合わなかった。
がきんと、組み合った音に比べて重すぎる音がして、男の剣が折
れる。その男の首筋に剣を突きつけ、エレナさんは一歩踏み込んだ。
﹁誰に雇われた?﹂
低い声に男は答えない。
﹁初めにこの子を狙った輩は、問答無用で命を狙ってきたそうです
ね。今度は矢も火も使われていない。何故、連れ去ろうとする﹂
﹁使ってやろうか?﹂
﹁何?﹂
男の目は私を見ていた。目だけが見える。目だけが、私を捉えよ
うと動く。エレナさんの背が視界を遮って尚、視線が追っているの
が分かる。彼は今、私に話している。
﹁我がブルドゥス国の為に多大な犠牲を払ったアードルゲへの礼儀
として、思い出を焼かずにおいてやろうとしただけのこと。ここに
しかないのだろう? アードルゲの男達を描いた絵は﹂
エレナさんと旦那さんが並んで立つ絵。アリスがたくさんの兄弟
と手を繋いでいる絵。写真がないこの場所で唯一、今は亡き人達を
留めたものが、焼かれる? 壊される?
なんで、どうして。
決まっている。
私が、いるから。
243
足が勝手に下がる。
私がいるから、襲われる。リリィ達もそうだった。あの優しい人
達が、この優しい人達が、傷つけられる。人生の内、出会えない確
率の方が高いであろう、とても優しい出会いをしてくれた人達に私
が返すものは、こんな害悪でしかないのか。
目の前がくらくらする。首筋から背中にかけて、何か冷たいもの
が濡れるように広がっていく。動悸は激しくなるのに、呼吸はどん
どん浅くなる。息が吸えない。吐けない。
﹁申し訳、ございません﹂
男が笑った気がする。
﹁ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!﹂
﹁待ちなさいっ、カ﹂
飲み込まれた言葉は私の名前だろう。こんな時まで私のことを気
遣ってくれる優しい人に、私はなんてものを持ち込んでしまったの
だ。
思い出を、今は亡き人達を記したものを、質に取らせるような真
似をさせたのが私の所為だなんて、許せない。
気づいたら走り出していた。一刻も早くここから離れなければ。
エレナさんが、アリスが、皆が、家族と過ごしたこの家を焼かせ
るわけにはいかない。家族との思い出の品まで、失わせたくない。
そんな大切なものと天秤に懸けられる程、私は私の命に価値を見
い出せない。
途中で窓から飛び出て、転びながら振り向く。
どこかでガラスの割れる音がする。いつもは鈴を転がすような声
で笑う女性達が、鋭い声で剣を振るう姿が見えた。美しく装ってい
たドレスも髪も化粧も、崩れて汚れて破れて、血が。
244
それを見た瞬間、大声で叫ぶ。
[私は、ここだ︱︱︱︱︱︱!]
日本語は異質でしょう。聞き慣れないでしょう。
だから、私と分かるでしょう?
暗い外からは明るい屋敷の中がよく見える。全身を黒っぽい服で
覆った男達が一斉にこっちを見たと同時に、身を翻して走り出す。
暗い道では、どっちが街かも分からないけれど、問題はない。だ
って、何処に行けばいいのか分からない。何処に逃げたって誰かを
巻き込む。
自分の限界なんて考えずにただ走った。転ばないようにとか、膝
を痛めないようになんて考えない。いつもならあり得ない歩幅でた
だ走る。後ろも振り向かない。
日本と違って月明かりがないと本当に暗い。こっちの灯りは全部
が火だから、人がいない場所では灯りなんてない。自分がどこにい
るかも何処を目指しているのかも分からないまま走り続け、盛大ぶ
転ぶ。何かに蹴躓いたのだ。
痛い、暗い、怖い。
走っていたら自分の心臓の音と風の音しか聞こえない。だけど、
一度立ち止まってしまうと聞こえてしまう。
沢山の人間が走り寄ってくる音が。
荒すぎる自分の息が肺を焼く。肺がこれ以上広がらないと思うほ
ど息を吸っても酸素が足りない。真っ暗なのに瞬きする度に白い光
がちかちか瞬く。神経が高揚しすぎているのだ。
一度固く目を閉じて、大きく息を吸う。吐きながら目を開けた先
に、足があった。
ああ、追いつかれてしまったのだ。
暗闇の中で足だけ見えただけで、これが知っている人ではないと
すぐに分かった。あの人達は、地面に突っ伏している私を見て無言
245
で足音を殺して近寄ってきたりしない。こんなに大勢で周りを囲ん
で、無言で見下ろしていたり、しない。
こんなに人間がいるのに、酷く静かだ。
ルーナ。
ルーナ、ルーナ、ルーナ。
ごめん。大好き。ごめん。
ごめん。
閉じた瞼の裏に浮かんだ綺麗な笑顔を最後に、私の意識はぶつり
と途切れた。
246
21.神様、ちょっと指の強化願います
重たい鞄を抱えて一限の教室に入ると、履修登録を一緒にした友
達が手を振ってくれた。鞄を置いて取っておいてくれた場所にいつ
ものように座る。
﹁おはよー、美代﹂
﹁おはよ﹂
美代は少し巻いた茶髪を後ろに流し、レースのカーディガンを羽
織り直した。
まだ先生が来るまで少し時間がある。あまりお菓子を食べたこと
がないというルーナの為に練習しているお菓子の本でも一緒に見よ
うかと、ぱんぱんの鞄から取り出していると、美代は呆れた目で私
を上から下まで見た。
﹁またジーンズにロングカーディガン?﹂
﹁動きやすいっす﹂
﹁男っ気の欠片もない女子大生だこと﹂
やれやれと肩を竦められて、握り拳で反論する。
﹁私だって彼氏いるよ!﹂
﹁え!? 嘘!? 初耳!﹂
マスカラばっちりな目が零れ落ちそうなほど見開かれた。そんな
に驚かなくてもいいじゃないか。
へへんっと胸を張って、別に払わなくてもいい髪を払う。
﹁ルーナ・ホーネルトっていうんだよ﹂
﹁へー、何してる人?﹂
﹁職業騎士﹂
﹁へー、頭いいんだね﹂
確かに騎士は勉強も出来なきゃだけど、普通は剣の腕から褒める。
247
﹁なんで頭?﹂
不思議に思って聞くと、美代も同じ顔をして聞いてきた。
﹁へ? だって、棋士なんでしょ? 棋士って囲碁だっけ、将棋だ
っけ﹂
﹁そっち!? 違う違う! 剣持ってるほうの騎士!﹂
﹁銃刀法違反じゃん﹂
あっさり返されて、それもそうだと納得した。常に銃刀法違反な
彼氏を、さて、どうやって家族に説明しよう。
ルーナは背が高いから、玄関入るとき頭打ったらどうしよう。正
座は苦手だけど、ごめんね、うちの客間畳なんだ。
あれ? ルーナ泊まるんだっけ? そもそも、うちに来る予定な
んてあったかな。
首を傾げていると、アリスが教室に入ってきた。
﹁おはよー、アリスちゃん!﹂
﹁その呼び名をやめろ!﹂
外套を翻して怒鳴ったアリスは、リボンはないがぴしりと紙でラ
ッピングされた箱を鞄から出す。寸分の狂いない包箱だ。
﹁母上が昨日焼いた菓子だ。消臭にしろ﹂
﹁お菓子なのに!?﹂
破るのを躊躇うくらいぴったりとした紙をそろーっと剥がして箱
を開けると、つやつやぴかぴかの炭が綺麗に並んでいた。美しいで
す、エレナさん。これ、そのまま売り物に出来ます。贈り物にして
もきっと喜ばれます。炭として。
くっと涙を拭っていると、何故か窓からティエンが飛び込んでき
た。
﹁お、いたいた! おい、カズキ、ルーナ宥めてくれよ。鞄にエロ
本仕込んどいたら切れられた﹂
﹁そりゃー、切れられますね。で、イヴァルは何をやってるの?﹂
窓枠から頭だけ見えているイヴァルは、曖昧な笑顔で笑う。
﹁今にも落ちそうですぅ⋮⋮!﹂
248
﹁落ちかけてた︱︱! ちょ、ルーナ! ルーナ︱︱!﹂
窓に飛びついてイヴァルの首根っこを掴み、ルーナを探す。
﹁ルーナぁ! エロ本仕込んだ犯人ここにいるからこっち来て︱︱
!﹂
重い、イヴァルが重い。
だって昔は抱っこできていた子どもは立派な大人になっている。
私一人では引っ張り上げられない。
ルーナ、ルーナと呼んでいる私の袖が誰かに引かれる。
﹁ルーナ!?﹂
﹁違うよ﹂
ちょこんと立っていたのはリリィだった。
﹁カズキ、何してるの?﹂
﹁落ちてる!﹂
﹁カズキが?﹂
﹁イヴァルだね!﹂
リリィは、必死にイヴァルを引っ張り上げようとしている私を見
て、こてりと首を倒した。
﹁でも、これ、夢だよ?﹂
あ、可愛い。
可愛いリリィがくるくる遠ざかり、私の夢はぱちんと弾けた。
そうか、夢だったのか。いい夢だったな。
夢の余韻でぼんやりしながら、瞼を開けたくなくて硬く瞑る。
あり得ない夢が、想像通り幸せだったから、何だかいろいろ込み
上げてくる。あり得るはずがない。私の大切な人達が一所にいるな
んて、あり得ない。分かっている。私の夢が叶うには、どちらかの
249
世界の人が生まれ育った世界を捨てなくてはならない。
だから、そうであれと願ったことなんてないのに、私の夢は当た
り前のように、自分の幸福の為にルーナ達を犠牲にした。自分がこ
れだけ苦しい思いをしていることを皆にさせるつもりか。
反吐が出る。
込み上げてくるものを堪えきり、目を開けた。そこでようやく意
識がはっきりしてくる。
何かに包まって寝転がったまま、じっと部屋の中を見渡す。心臓
がどんどん早鐘を打ち始めた。気を失う前の状況をじわじわ思い出
す。
身動ぎ一つ取らず、目だけをぎょろぎょろ動かして周囲の様子を
窺う。部屋の壁は石畳で、窓はない。家具は、シンプルな机と椅子、
箪笥が一つだけだ。後は本棚がずらりと並んでいる。壁にはべたべ
た沢山の紙が貼られ、足元にまで本の山が広がっていた。
恐らく私が寝ている場所はベッドだろう。アリスちゃんの家のよ
うにふかふかしておらず、どっちかというとパイプベッドを思い出
す感触だ。
ここは何処だ。誰が何の為に私を連れてきたんだ。
そして何より、何よりも。
自分以外がたてる物音が聞こえ、心臓が振動さえ分かるほど激し
く鳴り響く。口を固く引き結んでいるから、漏れるのは鼻息だ。ふ
ーふーと煩い鼻息を放ちながら、目だけで扉を探す。ざっと部屋の
中を見渡して本棚の間に見つけた。ノブ付の普通のドアだ。石壁の
中でそれだけが木で出来ているが、本棚に埋もれかけていて違和感
を感じない。。
足音は部屋の前を通りすぎてはくれなかった。期待はしてなかっ
たし予想通りだけど、私の心臓はそろそろ限界だ。
250
がちゃがちゃと音がするのは、鍵だ。鍵付の部屋だ。しかも、外
側から。無理やり連れてこられたのだから当たり前なのだけど、目
の当たりにすると結構ショックなんだなと、ショックなのにどこか
冷静な部分が判断した。
ゆっくりと扉が開いていく。
﹁ようやく手に入れたか﹂
男の声が近寄ってくる。
﹁余計な手間をかけさせてくれたものだ﹂
怖い。ルーナ、ルーナ助けて、ルーナ怖い、助けて。
﹁後の面倒を考えると、アードルゲも燃やすべきだったか?﹂
それと、ルーナ、ねえ、ルーナ。
[っだぁああああああああ!]
二度も私の所為で大切な人達を傷つけたこいつが、何より腹立た
しい!
突然飛び起きた私に殴り掛かられて、男はやけに甲高く耳に触る
悲鳴を上げて床に転がった。外した。そのまま馬乗りになろうとし
たが、がくんと急ブレーキをかけられたみたいに身体が止まる。視
線を落とせば、足に鎖がついている。野獣みたいに鼻息荒く引っ張
ってもびくともしない。
[あんたが!]
がなった私に、男はひぃっと情けない悲鳴を上げて、転がるよう
に距離を取った。四十くらいの金髪で太った男だ。こいつの所為だ
と思うと全部が腹立たしく見えてくる。脂ぎった顔も、指についた
太い指輪も、前歯の二本が金なのも、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで
全部忌々しい!
ひぃひぃ後ずさる男に手が届かないのが悔しい。興奮が極限状態
251
の私は、自分の動きを制限する鎖を射殺さんばかりに睨んで、その
先に繋がっているのがベッドの足だと気づいた。
豪華で天蓋がついたタイプじゃなくて、ミガンダ砦にあったよう
な簡易のベッドだ。これならちょっと頑張れば動かせる。そう判断
して、足腰に力を入れて引っ張ると、予想通り、ずり、ずりとベッ
ドが動き始めた。
髪を振り乱して顔面に張り付け、動き始めたベッドににたりと笑
う私は、きっとホラー映画にぴったりの形相だ。
﹁ひ、ひぃ! おい、これは本当に黒曜か!?﹂
転がりながら下がっていく男に、手当たり次第に物を投げつける。
[あんたなんて嫌い! 大っ嫌い! どっか行け! 何なの、何な
のよ! 何で、全部いきなり、犯罪とかなんで平気で! リリィ達
の家を返して! エレナさん達の家を襲うな! 皆の怪我を治して
! どっか行け! あっち行け! 嫌い! あんたなんて嫌い! 私が、私が生きてく世界はどっちなのよ︱︱!]
半分は八つ当たりだと自分で分かっている。誰にぶちまけたらい
いか分からなかった鬱憤が、目の前の男に爆発した。申し訳ないと
は絶対思わないけど。
分厚い本を持ち上げた身体が羽交い絞めにされた。暴れてもがっ
しり関節ごと抑え込まれて身動きが取れない。
﹁本物って確認されてるんですけどねぇ﹂
声と腕の力で、私を押さえているのは男だと分かった。
﹁明るくて優しい女だって聞いてたんだけどなぁ﹂
軽い声音で話す若い男の顔を勢いよく振り返る。
本物と確認されている? 聞いている?
誰に?
一旦興奮が収まると、急激に身体の力が抜けていく。後には伸し
掛かるような疲労だけが残る。
252
私の力が抜けたことを察した男は、私を解放した。
と思ったら、両手に異様に重い何かを装着された。予想外の重み
に身体がついていかず、がくんっと膝が抜けたように床に座り込む。
驚いて視線を落とすと、両手首にごつい鉄の塊がついていた。昔
見たことがある。砦で捕虜に使われていたような、手枷だ。肩がす
っぽ抜けたと思う重さだった。枷というより、鉄の塊を填められた
というほうが近い。
[重っ⋮⋮!]
かなり重いけれど、踏ん張れば動かせない訳ではない重さだった
ので、踏ん張ってずりずり動かしながら移動してみた。中腰の蟹股
で歩く姿はかなり変だろうけど、私は真剣だ。
﹁ひ、ひぃ!? わ、わたしはもう関わらんぞ! ゼフェカ、お前
が面倒を見ろ! その為にわざわざ呼び戻したのだからな!﹂
この枷で殴られては堪らないと思ったのか、金歯の男は転がるよ
うに部屋から逃げて行った。どんなに恨み募る相手でも殺人までは
なかなか思い至らない。これは別に、男の頭にぶつけてやろうと思
っていたわけではなく、単に動くかなと思っただけだったのだけど。
﹁はいはい、了解しましたよっと﹂
軽い調子で片手を上げて応じた男は、中腰でじりじり動いて距離
を取ろうとする私を見て口笛を吹いた。
﹁それ持って動こうと思える女って相当根性あるよなぁ﹂
[根性だけが取り柄ですから]
﹁やべ、何言ってんのか全く分からない﹂
中途半端な長さでぼさついた青髪を一纏めにした男は、まじまじ
と至近距離でこっちの顔を覗き込んだ。
﹁美人って噂だったんだけどなぁ⋮⋮﹂
目に見えてしょんぼりされた。
そうともそうとも、美人じゃないだろう。そのことに一番がっか
りしてるのは、この私だぁ!
へこむ。
253
いやいや、へこんでなるものか。美人じゃなくてもルーナが好き
と言ってくれるならそれでいい。ルーナも、ルーナだったら何でも
好きだから、別にあそこまでイケメンになってくれなくてよかった
のに。
﹁距離、接近過多﹂
ぞり、とつけようとして、ぐっと抑える。エレナさん曰く、相手
を信用できないと判断した場合、もう単語だけで話しなさいとのこ
とだ。﹁おはようございます﹂の﹁おはようござ﹂くらいで切った
ような感じがして、収まりが悪くもやもやしてしまう。でも、皆か
らすると﹁ぞり﹂がついてるほうが違和感があるのだろう。エレナ
さんが可愛いと言ってくれたのが救いだ。
﹁あ、よかった。分かる﹂
軽い調子でひょいっと離れた男にほっとして、自分の状況に気付
く。
命を狙ったり、建物を燃やしたり、皆に怪我をさせたりする危な
い集団に浚われたのに、大人しくするどころかいきなり殴りかかっ
てしまった。しかも、自由な身でもどうしようもないのに、足と手
首に鉄枷。
やってしまった。
ゼフェカの腰でかちゃかちゃ揺れているのは剣だ。嫌な汗が滲み
出てくる。
後悔先に立たず。後から悔やむから後悔だ。じゃあ、先に悔んだ
場合どうなるか。案ずるより産むが易しだ。
どうすりゃいいの。
﹁⋮⋮⋮⋮る?﹂
それに、よく考えたら悔やんではいない。後先考えなかった自分
に反省はしているけれど、さっきの自分の行動に後悔はない。全く
事情は分からないし、ここがどこかも、あれからどれくらい経って
いるかも分からない。でも、さっきのおっさんに一泡吹かせられた
254
ことは、私の中で為すべきことをした分類に入っている。
仮令、喚き散らす子どもの癇癪のような行動だったとしても。
﹁⋮⋮⋮⋮︱い?﹂
そう考えると、少し落ち着いてきた。すると、あれからどれくら
い経っているかも分かってくる。きっと、まだ早朝だ。だって私の
腹具合がそう告げているのだ。お腹は空いたけど、無差別に鳴り散
らすほどではない。
自分なりに分析していると、突然ぱんっと何かが破裂した音と、
目の前に風が起こった。
驚きすぎると声も出ないとは本当だ。目の前で両手を打ち鳴らし
た青年が起こした風で髪が揺れた。
﹁おーい、聞いてる?﹂
﹁皆無ぞり!﹂
反射的に返事をして、うっかりぞりをつけてしまった。
﹁えっ、聞いてくれよ﹂
ぞりは特に気にされなかったようだ。けれど気をつけよう。気を
抜かないようにしっかりしなければ。だって、この人は敵だ。
﹁じゃあ、もう一回。初めまして、俺はゼフェカって言います﹂
﹁始めません、ゼフェカさん!﹂
﹁えっ、始めてくれよ﹂
しっかり者に見せようときりっと挨拶したら、凄く複雑な顔をさ
れた。何故だ。異世界文化って難しい。
お茶と軽食を用意してくれたゼフェカ︵さんはいらないそうだ︶
と、何故か一緒に朝食を取ることになった。枷は暴れないことを前
提で外してもらった。暴れたら即付けされる。どうせなら足枷も外
してほしかったけど、全部の望みが叶う訳がない。
やっぱり朝で正しいようだけど、窓がない部屋は、一応四隅と天
255
井付近のランプで照らされていても薄暗い。ついでに空気も悪い。
きっとどこかに通風孔はあるはずだから、後で一人になったら探そ
う。うまくいけば抜け出せるかもしれないし。
朝食はチーズを乗せて焼いたパンと、簡単なサラダ、スープ、お
茶だ。何が入っているか分からないし、何でこの人と一緒に食べな
くちゃいけないんだ。渡されたパンをじっと見つめていると、ひょ
いっと交換された。
﹁毒なんて入ってないけど、心配ならこっちをどうぞ。俺の齧りか
け﹂
﹁そちらぞ結構﹂
敵の歯型のついたパンよりは無傷のパンだ。少し悩んだけれど、
結局食べることにした。
だって、今はよくてもずっと食べないなんて不可能だ。すぐに助
けが来るとも思えないし、いざという時に弱っていたら走ることも
できない。助けが来てくれるにせよ、足手まといになるのはごめん
だ。
あのとき殺されなかったということは、少なくともすぐに殺され
ることはないはず。
覚悟を決めてパンを齧り始める。ちらりとゼフェカを見ると、美
味しそうにスープを飲み干していた。敵と一緒にご飯なんか食べら
れない。しかも浚われてきた翌日にモリモリ食べられる程私の神経
は図太くない。
だから、お代わりは食べられなかった。
﹁ごつそうさまですた﹂
きりりと顔を引き締めてご飯を終了すると噴き出された。
﹁ごちそうさまだね、それ﹂
真剣な顔で間違えていたわけだ。それは噴き出されても仕方ない。
ゼフェカは美味しそうにスープのお代わりを飲み干して、ごちそ
256
うさまでしたと言った。ご飯を食べている間も、特にこれといった
ことはなく﹁今日は晴れだよ﹂とか﹁食べ物何が好き?﹂とか、一
般的な世間話しかされていない。それに対してそっけなく、という
よりミスをしないように単語で返していたのに、気分を害してもい
ないらしく、軽い調子は変わらない。
こうなったら、自分で聞くしかない。
﹁こちらなるは、どちら?﹂
﹁え? えーっと⋮⋮言えないなぁ﹂
﹁何故、私、用事﹂
﹁え? えーっと⋮⋮言えないなぁ﹂
まあそうだろうなと思う。ちゃんと質問の内容を理解してもらえ
たかは謎だけど、最初から答えてもらえるとは思っていない。一応
聞いてみただけだ。
﹁質問はそれだけ?﹂
どうせ聞いても答えてくれないくせに。それに、エレナさん達は
無事なのか凄く聞きたいけれど、この男の口から聞いても信じられ
ないから、聞かない。
﹁じゃあ、俺からさせてもらおうか﹂
何を聞かれるのか、私は身を固くした。緊張して身構えると、胃
から朝ごはんが逆流しそうになる。勿体ないからお茶を一気飲みし
て押し戻す。頑張れ、お茶。
﹁黒曜はどんな男がタイプ?﹂
﹁は?﹂
身構えた自分が馬鹿らしくなる話題だった。
﹁あ、黒曜は騎士ルーナがタイプだったか⋮⋮面食いだねぇ、黒曜。
いやはや、男の趣味が良い。凄い男を捕まえたもんだ﹂
肩を竦めたゼフェカの﹃メンクイ﹄が何かは分からないけど、ル
ーナが凄いのは事実だ。ルーナは凄いんです。ルーナは凄く格好い
いんです。ルーナが褒められて私も嬉しい。
嬉しくなって、思わずどや顔になった。誰だって身内が褒められ
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ると嬉しい。あ、でもこれ敵だった。
﹁えっ、面食いって自慢するところだっけ? まあ、いっか。黒曜
は何か欲しい物ある? どうせしばらくここに引き籠ってもらうつ
もりなんだけど﹂
﹁帰還﹂
﹁却下﹂
﹁捥げろ!﹂
﹁言葉不自由なくせに、何でそんな恐ろしい単語知ってんの!?﹂
﹁男社会とは無情にょり﹂
しかし、どうしてみんな頭を押さえるんじゃなくて前屈みになる
んだろう。不思議だ。
しみじみ頷いて気づいたけど、また語尾が出てしまっていた。別
に気を許したつもりはないのに、ゼフェカの態度はまるで友達みた
いなのでどうにも緊張感が続かない。望んでではないけど同じ釜の
飯を食べてしまったのもあると思う。
でも、信用はしない。絶対。
だって、この人達がリリィ達の家を燃やして、エレナさん達の家
を燃やそうとした。自分の目的の為に平気で他者を害する人を信用
するほど、私は世間知らずでも子どもでもない。
ルーナもきっとアリスも、探してくれているはずだ。だからとい
って何もしないで手を拱いているわけにもいかない。私はエレナさ
ん達の所に帰られなければならないのだ。真っ先に皆の無事を確か
める。そして、巻き込んでしまったことを謝らなければ。お世話に
なったことのお礼も言ってない。何が何でも帰ってやる。謝るため
に、お礼を言うために、絶対帰る。会ったらまずは土下座だ。菓子
折りも必要だろうか。しまった、菓子折りを買うお金がない。まず
はバイトして⋮⋮それより先に会いに行くのが先決だろうな、やっ
ぱり。
絶対に帰る。その為に何をしなければならないか。考えろ、須山
一樹。皆の好意に甘えて、自分のことなのに人任せにしてきた。状
258
況に流されるままにくるくる回って、その結果がこれだ。
考えろ。一人で考えろ。今迄が恵まれすぎていたのであって、本
当なら初めてこっちの世界に来た時からしなければならないことだ
ったんだから。
無意識に握りしめた胸元に違和感を覚える。服の上から掴んだ手
でリリィから貰った首飾りは掴めたのに、それに吊られて首筋で揺
れる小さな感触がない。服を少し引っ張って首元に視線を落とすと
同時に、悲鳴に似た声が喉から漏れた。
﹁え? ちょ、何やって﹂
焦ったように制止してくるゼフェカを気にする余裕なんてない。
私は服をがばりと脱いで下着姿になる。どうせこっちの世界の下着
は向こうの部屋着より生地があるし、見られたところで減るような
ナイスバディでもない。それに今は、そんなことどうでもいい。
脱いで服を振っても何も落ちてこない。裏に引っかかっているの
かと引っくり返してみても見つからない。服を放り投げて、足枷と
繋がっているベッドに飛び込み、シーツを引っぺがして全部引っく
り返す。
[ないっ! ない、ない、ない! 何で!?]
石畳に膝を打ち付けたが気にならず、床に這い蹲って探す。継ぎ
目に落ちていないだろうか。ベッドの下に潜って埃を掻き分けても
見つからない。
ルーナから貰った首飾りがない。ルーナがずっと、十年間も大事
に持っていてくれた、十年前に私に贈ってくれた首飾りが無くなっ
ている。どこだ、どこで無くしたんだ。この部屋にないのなら、こ
こに連れてこられた時だろうか。だったら探すのは絶望的だ。正確
な場所が分からない。でも、探さなければ。連れてこられた道中だ
ろうか、それとも転んだあの時? 分からない。でも探さないと!
十年間、戻るかも分からなかった私の為に手入れをして保ってい
てくれた首飾り。前線で手に入ったものだから、たぶん、そんなに
高価なものじゃない。つまり、作りも甘い。実際、何度も直された
259
跡があった。
私の元に戻してくれた首飾りを、ルーナの気持ちを、私はこうも
簡単に無くして、蔑にしまうのか。
そんなの、嫌だ。大事にしたいし、大切なんだ。こっちの世界で
出来た繋がりも、ルーナという存在も。大事にしたいのに、大切に
したいのに、どうして私はいつもルーナを傷つけるんだろう。
飛び起きて、ゼフェカの胸倉を掴んで捲し立てる。
﹁捜索する為出陣許可を!﹂
のち
﹁え、いや、ちょっと!﹂
﹁目標発見した後帰還するぞろから!﹂
﹁え!? 帰ってきてくれるの!? そりゃ俺も怒られなくて助か
るけど!﹂
心底驚いたと目を丸くした相手にはっとなる。
そうだ、ここから出られたのならそのまま逃げればよかったんだ。
胸倉を掴み上げたまま微妙な沈黙が落ちる。
﹁あー⋮⋮えーと、探してるのは青い石ついた花の首飾り?﹂
﹁ぞり!﹂
﹁さっきから思ってたけど、ぞりって何!?﹂
珍妙なのは分かってるけど今はそれどころじゃない。ゼフェカの
胸元を掴んだままがくがく揺さぶる。
﹁てめぇは首飾りの行方存じ上げる!?﹂
﹁存じ上げる存じ上げる! だからちょっと落ち着いてくれる!?﹂
[これが落ち着いていられるか︱︱!]
﹁何言ってるか分かんないんだけど!?﹂
たぶん締まっていたのだろう。いつのまにか襟を締め上げていた
私の腕が、掴まれて強引に引っぺがされた。いとも簡単に外された
腕は本能的に恐怖を感じたけれど、今は首飾りの行方が一番大事だ。
﹁あー⋮⋮苦しかった⋮⋮。あの首飾り、あんたは俺達が預かって
260
るっていう証拠として、騎士ルーナに送ったよ。まあ、匿名でだけ
ど。そっちとどっちにしようかと思ったけど、あっちのほうが古か
ったから、あんたが昔からつけてるやつかなって。あ、後、首ごめ
ん。色々してる時にちょっと切れたみたいでさ。首飾りにもちょっ
と血がついてたかも﹂
ごめんごめんと、片手を顔の前で立てて謝られる。軽い。
つまり、首飾りは無くなったわけじゃなくて、ルーナの所に戻っ
たというわけだ。無くなったわけじゃなくて一安心だ。十年間大事
に持っていてくれた首飾りを私に戻してくれてすぐに、私の血が付
いた首飾りがルーナの元に戻ったと。
そうかそうか。
不思議と凪いでいた心が、突沸した。いや、どちらかというと最
初に戻ったのだ。
[無くなったより質が悪い!]
ごめんで済むかごめんで!
もう色々ぐちゃぐちゃになった私は、渾身の拳をゼフェカの顔面
に叩きこんでいた。パーじゃない、渾身のグーだ。知らない事とは
いえ、どれだけ人の気持ちを踏みにじれば気が済むんだ。どれだけ、
私の大切な人達を傷つけるつもりなんだ。心も身体も両方を!
素人の拳だから恐らく避けられたであろうゼフェカは、甘んじて
頬を差し出した。どうしてそう思ったかというと、顔面のど真ん中
に振りかぶった私に、流れるような動作で頬を差し出してきたから
だ。鼻で喰らうよりそっちのほうが被害が少ないと踏んだのだろう。
その結果。
ゼフェカの頬は少し赤くなり、私の指は折れた。
でも、特に後悔はしていない。ただし、折れた指が二本だったこ
261
とは、ちょっとだけ反省した。
262
22.神様、ちょっと残念過ぎます
自分が殴りつけた相手に手当てをされるという、気まずく、情け
なく、微妙な時間を過ごした私は今、部屋の中で仁王立ちしていた。
ゼフェカの仕事が何かは知らないけれど、色々することもあるの
だろう。ずっと私に付きっきりというわけにはいくまい。ずっと待
っていた一人の時間をようやく得ることができた。これから、脱出
口捜索活動に入ろうと思う。
ちなみに、手当のお礼はちゃんと言った。酷く驚かれたけれど、
そもそも殴りつけたのは私だし、彼らが私にした事を恨むのと、私
が筋を通す事は別問題だ。
利き手である左の指が折れたのは痛い。いろんな意味で。人差し
指と中指を纏めて、添え木と一緒に包帯で巻かれた自分の手を見て
嘆息する。右手で殴るべきだった。そんな冷静な判断ができるなら
まず殴りかかったりしなかったわけだけど、利き手は痛い。
ちゃんと考えなければと思った矢先にこれだ。ゼフェカが反撃し
てきたら、私なんて一巻の終わりだったのに、激情のままに殴り掛
かってしまった。
一拍置いて、掌の付け根で自分の頬を叩く。振動が折れた指に伝
わって痛かったけれど、反省と気合い入れを兼ねているからちょう
どいい。
﹁うし、頑張ろ﹂
まずはベッドに繋がった足枷の調査からだ。さっき首飾りを探す
263
時に這い蹲って気づいた。足枷の鎖はベッドに溶接されているわけ
ではない。ベッドの足に輪っかを通していたのだ。つまり、持ち上
げれば外れる。
[と、いうわけは、扉の外に見張りがいるんだろうなぁ⋮⋮]
過剰な拘束をされていないということは、逃げられないように他
が固められているのだろう。
とにかく部屋の中だけでも自由を得ようと、ベッドの足に通され
ている輪っかを回収することにした。頑張れば動かせないこともな
いベッドは、勿論頑張らないと動かせない訳で。
[ふんだばらっしょぉおおおおおお!]
足を差し入れ、使えない左手は肘を代用として、全力で少し浮か
せたベッドの足から輪っかが落ちる。すかさず足を引いて鎖ごと引
き寄せて、どすんとベッドを落とす。石床が割れるんじゃないかと
思う音がして、慌てて扉に目をやったが誰かが入ってくる様子はな
かった。
回収した鎖と輪っかは、邪魔なので腰に適当に巻いておく。なん
となく気になって手を嗅ぐと、馴染のある臭いがした。
[うへぇ⋮⋮鉄棒とかブランコの臭いがする。ベッド、これ鉄の土
台か]
除菌ティッシュが欲しいとか贅沢は言わないので、せめてウエッ
トなティッシュが欲しい。ごしごしと服で拭って、改めて部屋の中
を見回す。パッと見たところ通風孔は見つけられない。もしかして
壁を埋め尽くす本棚の後ろだろうか。だが、それだと通風孔の役目
を果たしていないんじゃなかろうか。
[まずい! 私窒息する!]
通風孔がない部屋なんて冗談じゃない。ピラミッドの遺体安置所
だって通風孔があると聞くのに、なんてことだ。奴らは私を生きな
がらミイラにするつもりなのだろうか。
[神様! ヘルプ!]
頭を抱え、空を見上げるつもりで天井に視線を向けて、私の焦り
264
は無意味と知った。この部屋に通風孔は普通に存在している。
天井付近の壁にだけど。
これはあれか。自分の限界に挑戦しろと。そういうことか神様!
よし、任せろ!
まず挑戦したのは壁の角を利用した、スパイダーウーマン的な動
きで地道に登っていく方法だ。幸い石をくみ上げた壁なので指を差
し入れやすかったのだが、ここで問題になったのは折れた指だ。掌
の付け根を押し付けて何とかしようと思った結果、盛大に落ちてお
尻をしこたま打ち、しばらく呻いた。
次に挑戦したのは本棚の上からの大ジャンプだ。この馬鹿高い本
棚を利用すれば、こう、壁走り的な勢いで通風孔に手をかけるくら
いはいけるんじゃないかと思ったのだ。壁走りをやったことはない
けれど、日本人だし﹃NINJYA!﹄的な感じでいけちゃったり
しないだろうかと期待した。結果、よじ登っていた本棚が倒れて咄
嗟に掴んだ隣の本棚も倒れた。薄情な私は本棚を裏切って心中を避
ける。本棚もそのつもりだったのだろう。本棚は倒れる勢いで私は
跳ね飛ばしたのだ。なんて優しい本棚だろう。ルーナという恋人が
いなければ惚れていた。あ、でもリリィにはルーナがいても惚れて
しまった。あれは仕方ないと思う。
スローモーションに見える世界でそんなことを思いながら、私は
盛大に落ちて額を切った。
﹁何の音だ!﹂
轟音が鳴り響いた部屋に、兵士のような恰好をした男の人が二人
駆け込んできて、中の様子を見てぽかんと口を開けたままになる。
なんということでしょう。
さっきまで、静かで本好きには堪らない雰囲気だった部屋は、私
の手によって様変わり。壁に並んでいた本棚は倒れた衝撃で破壊さ
れ、飛び散った木片が積まれた本の上に降り注いでいます。もうも
うと立ち込める白い埃が、この場の状況を更に悪化させて見せます。
265
何より、この部屋の印象を決めるのがこちら、顔半分を染めて尚止
まらない血を隠そうと、髪を全部前に持ってきて顔に張り付けて笑
う私。お部屋の印象を一発で決めてしまう、私の腕がきらりと光っ
た逸品です。
﹁うびゃぁ! ⋮⋮⋮⋮うへ、へっへっへっへっ﹂
カルーラさん直伝﹃うほん作戦﹄を決行しようとしたら、意気込
みすぎて変な声になった。それが何故か自分の中で非常にツボに入
り、笑いが止まらなくなる。大声ではないけれど、へっへっへっと
笑いが断続的に湧き上がり、お腹が痛くなってきた辺りでゼフェカ
が部屋に飛び込んできた。
部屋の惨状に唖然としたゼフェカに何ともいえない視線を向けら
れても、笑いはしばらく止まらなかった。
﹃うほん作戦﹄のみならず、日本人の心﹃笑って誤魔化せ作戦﹄
も失敗に終わったようだ。敗因はきっと、血が隠れ切っていなかっ
たことだろう。次に生かして頑張る所存だ。
しかし、冷静になれば、何があんなに笑えたのか本当に分からな
い。
﹁俺はね﹂
﹁はい﹂
﹁あんたの気持ちは分かるんだよ﹂
﹁はい﹂
背筋を伸ばして椅子の上で正座する私の目の前には、ゼフェカの
胸がある。
﹁俺が言うのもなんだそりゃって感じだろうけど、浚われてきたら
そりゃ逃げたいだろうし、恋人いりゃあその胸に飛び込みに行きた
いだろう﹂
﹁はい﹂
266
﹁でもな、俺らは何もあんたを取って食おうとしてるわけじゃない
訳だ﹂
﹁はい﹂
﹁確かに襲撃はしたけど、最初にあんたの命を狙ったのは俺らにも
予定外の事態だったわけで、何もあんたに危害を加えようとか、あ
んたが憎くてしてるわけじゃない﹂
しょきょりと包帯が切られる音がして、鼻が当たるほど近くにあ
ったゼフェカの胸が離れていく。薬箱らしきものに鋏と残った包帯
をしまうと、私の肩を強く掴んで項垂れた。
﹁なのにあんた、なんで一人で勝手に怪我していくわけ?﹂
﹁摩訶不思議にょろ﹂
﹁あんたが一番摩訶不思議だよ!﹂
思わず謝ろうとして、慌てて口を噤む。手当をしてくれたとはい
え、ゼフェカは私を浚った相手だ。礼はともかく謝罪はいらないの
ではないだろうか。とはいえ、勝手に怪我していく私の所為で怒ら
れることもあるかもしれない彼に、一応謝罪は必要かもしれない。
私は記憶を辿り、ティエンが使っていた謝罪の言葉を引っ張り出
した。確か、軽く謝る時に使う言葉だ。
﹁へーへー、すんませんねー、ぞり!﹂
﹁うっわ、すげぇ腹立つ。女の子なんだから顔に傷が残ったらなこ
とを心配してくれよ。男いるんだからさー。フラれるぞ、そんなん
じゃ﹂
頭の傷は、思ったより血が出るものだという知識くらいはあるの
で、縫ったりしない程度なら大丈夫だと思っている。傷は、まあ、
残ったら勲章ということで。
﹁ルーナぞ、否、は、ルーナは、そのような些末事薙ぎ払ってくれ
るわ! で、私なるを嫌ったりしない、良い男なのですぞよ﹂
﹁ああ、うん。あんたに付き合っただけじゃなく、恋愛にまで持ち
込んだ騎士ルーナはすげぇと思うよ。今までは伝聞でしか聞いたこ
となかったけど、俺いま本心からそう思うわ﹂
267
ルーナの良い男っぷりが認められて嬉しい。相手は敵だけど。
恋人のイケメンっぷりを思い出していると、段々逆上せてきた。
よし、話題を変えよう。
自分の中の話題を変えようと、とりあえず目の前にいるゼフェカ
を観察してみる。言動が軽いからついつい子供っぽく思いがちだけ
ど、こうしてまじまじと見てみるとルーナと同じくらいの年齢はい
ってそうだ。ちょっと猫っぽい目をしている。そして、口調と違っ
て動きは意外と雑じゃない。さっきだって、薬箱の蓋を押して重力
で閉まるがままにするんじゃなくて、ちゃんと最後まで蓋を持って
ぱたんと静かに閉めていた。
まじまじ見つめる私に気付いたゼフェカは、しなを作ってウイン
クする。
﹁なに? 惚れちゃった?﹂
﹁壊滅的に存在しない事態﹂
﹁くっそ、真顔で言われると傷つくわ﹂
絶対に傷ついていないと言いたいけれど、確かに微妙に傷ついて
いるような気がする。真顔か、真顔がよかったのか。切り札として
今度から練習しよう。目標はアリスちゃんの真顔だ。いつもは憤怒
! ってくらい怒るのに、何故ふとした拍子に真顔になるのだ。あ
れ、地味に傷つく。
﹁ありがとう﹂
おでこにぴたりと巻かれた包帯に触りながらお礼を言う。こっち
の包帯は日本で使っていた物に比べて伸縮性がないので、ずれない
為には本当にぴたりと張り付くように巻かなければならない。砦で
救護のお手伝いをした時には、散々不器用扱いされたものだ。多少
動いてもずれないように隙間なく巻くのは、慣れないと凄く難しい。
お礼を言う度、ゼフェカはちょっと片眉を上げて、その後に苦笑
する。
﹁どういたしまして。痛み止めの薬置いとくから、痛くなったら早
268
めに飲んだほうがいいよ﹂
﹁了解﹂
﹁よし⋮⋮にしたってなぁ﹂
はーっと長いため息をつかれる。
部屋の中は、私が手当てを受けている横でせっせと片づけられて
いた。重たそうな鎧を着た兵士のような、というよりたぶん兵士な
んだろうが、鎧をがちゃがちゃさせながら嘗ては本棚だった木片を
運んでいく。それを横目で一瞥して、ゼフェカは疲れた顔で言った。
﹁何か欲しい物は? 大抵の物は揃えてあげるから、頼むから大人
しくしててくれないかな﹂
﹁望む行動は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ものに、よるかな?﹂
このまま部屋の中で死なれても困るしねと肩を竦められる。こっ
ちとしても、がちがちに拘束されるのは望むところではない。
まずしなければならないことは何だろう。ここから逃げることだ。
ここから逃げる為には何が必要だ。敵をなぎ倒す力。無理。追っ手
を振り切って逃げ切る脚力。鍛錬しよう。今の状況を推理して紐解
く頭脳。あったらいいな。うふんあはん大作戦を成功させる色気。
いつか手に入れよう。
出来ないことばかりだ。ミガンダ砦でも、この年になって何もで
きない自分を恥じた。今まで何をしてきたんだと情けなくて、みっ
ともなくて、帰りたいだけじゃなくて消えてしまいたい思いも何度
もした。
その度に、ルーナがいてくれた。出来ることをすればいいのだと。
何も出来ないと俯く私に、じゃあ笑っていればいいと。あの頃のル
ーナは今よりずっとずっと、感情の出し方が不器用だった。それな
のにぎこちなく笑って、私を励まそうとしてくれたのだ。その後の
一年でよく笑う少年になった。それが非常に嬉しかったのに、その
後の十年で逆戻りしたような形相に再会の時は度肝を抜かしたもの
だ。
269
﹁おーい?﹂
目の前でぱぁんと風が弾けた。びっくりするから普通に声をかけ
てほしい。私の半眼に、呆れた視線が返る。
﹁何度も呼んだんだけど﹂
さあ、話題を変えよう。
ここにルーナはいない。いたとしても、おんぶにだっこじゃ私が
廃る。廃るほど繁栄しているのかと聞かれたら悩むけれど。
いつも同じことで落ち込む。自分の希望的観測でなければ、ミガ
ンダ砦で過ごし始めたばかりの時より出来ることは増えている。少
なくとも、日常的な動作で躊躇うことは少なくなった。
けれど、ずっと同じことを悩む予感がする。出来ることが増えて
も、出来ないことがある限りずっとだろう。そして、出来ないこと
など何もない超人には、絶対なれない。
しかし、同じことを悩んできたということは、その度立ち直って
きたということでもある。立ち直っているだけで、別に解決はして
いないけど! めそめそべそべそしている場合ではないし、何より、
何でこの人達の前で泣かなきゃならんのかという。ルーナの前でさ
えあんまり泣いてないのに。
行動で何もできないなら、せめて情報だけでも集めたい。私は何
の為に連れてこられたのか、ゼフェカ達は誰なのか、何なのか。一
番聞きたいのはそれだけど、そんなことを探る手腕も、頭脳もない。
ならば、まずはここがどこか、せめてこの部屋が何階にあるのかと
か、そういうことから始めよう。
その為にはまずこの部屋から出なければ何も分からない。窓もな
いし、扉にも覗き穴も一切ついていない。憎いことに鍵穴すらない。
だから、恐らくは鍵は外付けなのだろう。
そこまで悶々と考えて、はっと気づく。あるではないか。部屋か
ら出る、真っ当で、実は割と切羽詰まっている用事が。
270
﹁トイレ懇願、切望に﹂
この部屋にはトイレがないのだ。そこでしろとか言われたら辞書
で殴りつける。
ゼフェカは、あ、と間抜けな声を上げた。
﹁ごめんごめん。噂と違い過ぎる黒曜に驚いてうっかりしてた。こ
っちだよ﹂
ゼフェカが扉を叩いて合図を送ると、がちゃがちゃと音がして扉
が開いた。ちょっと拍子抜けしながらあっさり扉を越えてしまった。
しかし、左右に兵士が立っていてぎょっとしてしまう。四人もいる
のか。
部屋から出るとひんやりと薄暗く、黴臭い臭いがする。壁も床も
石だ。きょろきょろと廊下を見てみると、この部屋から廊下が伸び
ている。つまり、ここが突き当りなのか。廊下の先は暗くてよく見
えないけれど、そんなに距離はないらしく、反対側の突き当りに薄
ら階段らしきものが見える。上にしかない階段に、ここは地下か一
階と検討をつけた。
まあ、トイレまでの道のりをじっくり覚えさせてもらおう。私の
作戦はこれからだ!
意気込みを見せないよう平静を保つ私の前で、ゼフェカはくるり
と振り返った。
﹁はい、トイレ﹂
出てきて一歩、右側の壁に扉。頭の中で、軽快な音楽と共にテロ
ップが流れる。
残念、カズキの冒険はここで終わってしまった!
[残念過ぎる!]
﹁え? 何?﹂
怪訝な顔をするゼフェカに反応を返さず、扉に手をかける。大丈
夫だ、まだお風呂という手がある。頭を怪我したから今日は入らな
いほうがいいかもしれないけど、まだこの建物内をうろつけるチャ
ンスがある。
271
そう思い直して、とにかく火急の要件から済ませようとトイレに
入った。
だが、それを見た瞬間に頭の中に再度音楽とテロップが流れる。
残念、水回りはセットでした!
[残念過ぎる!]
トイレの横で、一つ段差を得て広がるタイル床とバスタブを見て
思わず抱えた頭がずきりと痛み、私はすごすご用を足して部屋に戻
った。
壊れた本棚は撤去されたが、中身、つまり本はそのまま積み上げ
られただけだ。何とはなしにその山を眺めていると、不意にゼフェ
カが足元にしゃがんだ。何だろうと覗き込むと、足枷の先をベッド
に繋げているらしい。後でまた外そうと思っていると、がしゃんと
重たい音がして慌てて視線を戻す。ベッドに繋がった足枷に大きな
南京錠が通されて固定されていた。
﹁ちぃい!﹂
﹁えっ、そんな気合いの入った舌打ち初めて聞いたんだけど。しか
も相手が女とか⋮⋮﹂
鎖もかなり短くされた。これだとベッド周辺しかうろつけない。
ベッドを引きずれば移動は可能だろうが、かなり疲れる。⋮⋮⋮⋮
その為のベッド装備か!
疲れたらいつでも眠れるようにベッドを持ち運ぶのは妙案かもし
れない。かもしれないも何も、妙な案だと自分で思った。
﹁流石にあんたをそのまま放置するわけないだろ。はいはい、とり
あえずこれ飲む﹂
ベッドに座らされ、温いお茶を飲む。苦い。
[うへぇ⋮⋮]
﹁ちょっと苦いかもだけど、年頃の女の子がなんつー顔するの﹂
﹁お年頃な女取扱いしてくれるは、ルーナだけで存分﹂
272
ゼフェカはちょっと考えた。
﹁充分?﹂
﹁それ⋮⋮⋮⋮﹂
手の中からカップが滑り落ちる。割れると思って身を竦めようと
したけれど、身体は勝手に倒れていく。荒いシーツの感触が頬に触
れ、突然霞み始めた視界の中では、ゼフェカに救われたカップが揺
れている。本棚に続いて君まで臨終しなくてよかった、カップさん。
﹁俺、今から出かけなきゃならないから、もうあんた寝てて。痛み
止めと水差しは枕元に置いとくから。後、明日は暴れないようにし
てね。したいことも考えといて。暴れられるよりマシ。用事あった
らこのベルで呼んで。誰かはいるから﹂
考えるも何も、眠らされたら考えられない。結局今日は、殴り掛
かって指折れて、NINJYAしようとして頭切れて、残念、カズ
キの冒険はここで終わってしまったしただけだ。
とにかく外に出なければ。ここがどこなのか、せめて建物の雰囲
気だけでも掴みたい。したいことなんてそれくらいしかないのに。
[したい、こと⋮⋮できる、こと⋮⋮⋮⋮⋮⋮]
﹁ん? 寝言?﹂
確認の為に屈みこんでくるゼフェカに焦点が合わない。普段あま
り薬を飲まないから、ちょっとしたものでも効きやすい私の意識は
もう限界だ。
もごもごと要望を伝えてみると、何ともいえない顔をされた。う
まく言えてなかっただろうか。だったらもう一回言わないと。
そう思うのに、私の意識はどんどん浮かんでいく。こういう時意
識が沈んでいくとよく聞くけれど、どっちかというとふわふわ飛ん
でいくみたいだ。
﹁なんで最後の最後に女の子っぽい要望なの﹂
困ったような声で毛布をかけられたところまでは覚えているけれ
ど、そのまますぅっと眠ってしまった。
273
274
23.神様、ちょっと色々ごめんなさい
結局私は朝まで寝続けた。
偶に起きて、ぼんやりした頭でトイレに行って水を飲んだのは何
となく覚えているけれど、ほとんどを寝潰した。ベルを鳴らせと言
われたけれど、薬でぼーっとしていた私はそんなこともままならず、
掴もうとしたベルを床に落とす音で呼んでしまった。
目を覚ますたびにどんどん酷くなる体中の痛みに辟易した。色々
打ったので、それが纏めてきているのだろう。頭はがんがんするし、
手足を動かしただけで体中痛いしで、私は凄く反省した。
捕まって訳の分からない場所に閉じ込められて、妙なテンション
の上がり方をしてしまった自分に。
どうせなら﹃どうしてこんなことに⋮⋮よよ⋮⋮﹄とかやって大
人しくしていて、外に出してもらえた瞬間どーん! みたいな勢い
で逃げればよかった。どうやっても外に出られない場所でどんがら
がっしゃんとかやってる場合ではなかったのに。
冷静なつもりだったけど、全くもって冷静ではなかったというこ
とだ。
﹁ルーナ⋮⋮﹂
毛布を大きくかぶって完全に潜り、ルーナの名前を連呼する。別
に、何かを望んだわけじゃない。そりゃ、ここにいてくれたら心強
いし、助けてほしいとは思っている。だけど、私は今そういうつも
りでルーナを呼んでいるんじゃない。いうなら、おまじないだ。自
分を元気づける呪文だ。
﹁ルーナ、ルーナ、ルーナ、ルーナ﹂
ぎゅうっと両手を握る。走った激痛に折れていたことを思い出し、
慌てて二本は逃がす。
275
思い出すのは十年前の笑顔と、今の笑顔だ。ルーナが笑っている
のを見るのが好き。ルーナを笑わせるのも好き。当然、一緒にいる
のも好きだ。あの頃は短くて、今は長くなった髪も似合っていた。
三つ編みさせてもらいたいなと思っていたのに、未だその機会がな
い。
この世界に戻ってきたのに、全然一緒にいられない。四六時中一
緒にとか、仕事の邪魔になりそうな頻度でなんて願ってない。ただ、
普通に会えたらいいのに。一日の終わりでもいい、一日の始まりで
もいい。お昼休みのちょっとでもいい。会いたい。普通に、会いた
い。
休みの都合がつかなくってとか、出張でとか、会えない理由はそ
んなのがいい。
こんなのは、嫌だ。
帰りたい。会いたい。だから、帰ろう。
込み上げてきた物をぐっと飲み込む。泣かない。泣きたくない。
少なくとも、泣く場所はここじゃない。あいつらの前でじゃない。
額を枕に押し付けて、思いっきり息を吸う。埃で咽た。
[よし⋮⋮頑張ろ!]
気合を入れて顔を上げる。泣くのはルーナの前でにしよう。
毛布に包まり寝ころんだまま、部屋の中をじっと観察する。
そもそも、ここは何の部屋なのだろう。私の為にわざわざ用意さ
れた部屋とは思えない。だとすれば、誰かの部屋だったはずだ。け
れど、窓はなく、鍵は外からかけられるこの牢獄のような部屋に住
んでいたのは、一体誰だろう。
本以外の娯楽品は見当たらない。ちょっとした小物も、観葉植物
も、何もない。ただ本を読む為だけのような部屋だ。ふと思い至っ
て、寝ころんだままでも届くほど積み上げられた本を一冊手に取る。
276
ぱらぱらと適当なページを選んで開く。文字は頑張れば一応読める。
読めないのは飛ばす。
私はきゅっと眉を寄せた。頭が痛い。怪我でじゃなくて、反射だ。
のそりと起き上がる。体中が痛くて呻いたけれど、筋肉痛だと思
い込んだら意外と動ける。これは筋肉痛、若い証拠だ。
[よっこいしょ]
鎖でつんのめらないよう気を付けて、本の山をベッドの周りに移
動させる。他の本を開いてみても、大体一緒だった。内容はまだ読
んでいないけれど、どれも表や図があったり、段落ごとに纏められ
ている。
小説では、ない。書き方からして資料といったほうが近いだろう。
ここにいた人は勉強していたのだろうか。勉強と聞いたら反射的に
逃げ腰になってしまう。もう二度と受験勉強はしたくない。
勉強が頗る苦手だったことを見込んで選ばれた、家庭教師のバイ
トをしている身としては、口が裂けても言えないが。
[してた、になっちゃうのかな]
バイト相手は高校二年生の男の子だった。友達の弟だったのだけ
れど、とにかく勉強への苦手意識が強くて名前さえ書けば合格する
ような高校に行ったと言っていた。その彼に勉強をさせてほしいと
言われたことが始まりだ。
そんな大事なことは引き受けられないし、私はそもそも勉強苦手
で勉強できないのだと散々言ったら、だからいいのだと言われた。
勉強できない人間だから、どこでつまったか分かってやれるのだと。
それは嫌味か、友よ。
でも、実際うまく言った。彼は私と非常によく似ていたのだ。
同じところで引っかかる。同じところでぐわーと叫ぶ。とりあえず、
点Pは動かないでほしいし、登場人物達は自分の気持ちを短歌にし
てくれたらいいと思う。後、歴史上の人物達は一文字違いとかやめ
てもっと個性を大事にしたらいい。
そんなこんなで、なんだかんだとうまくやっていたのに、いきな
277
り仕事を放り投げてきてしまった。以前は夏休みだったから誰にも
ばれなかったけれど、今度はそうもいかないだろう。皆、心配して
いるだろうか。
[ごめん⋮⋮]
心配させるだろうことも、何もかもを放り出してきたのも分かっ
ている。
けれど、どうしても、この世界に戻ってこなければよかったと思
うことはできないのだ。
がちゃりと鍵が外される音がする。振り向くと、朝食を持ったゼ
フェカが立っていた。それを見てお腹が鳴る。そういえば昨日眠ら
されてから何も食べてない。強制ダイエットですか、ありがとう!
自分の身体を見下ろすと、心なしか痩せてきた気がする。主に胸
が。
絶対許さない。絶対にだ。
﹁この恨み果たして夫婦仲円満解決、末代まで呪い殺されてやる⋮
⋮﹂
﹁なんか色々混ざってるけど、最終的に殺されるの君になってるよ﹂
﹁なにゆえにそのような事態が発生!?﹂
﹁俺が聞きたいんだけど﹂
異世界って不思議に満ちている。
そして私は、何故かまたゼフェカとご飯を食べている。﹁何が好
き?﹂とか﹁異世界ってどんな所?﹂とか﹁異世界ではどんな仕事
してたの?﹂とかだ。全部無視した。私は虜囚の身であって、敵と
は慣れ合わないのだ。
つんつんした態度で返してみたら、顔を指さされて物凄く笑われ
278
た。
﹁今更取り繕ってもとか、あんたの性格じゃその作戦向いてないと
か色々あるけど、まずは歯に挟まってる胡椒なんとかしてくれ。そ
んなんでクールな顔されると、俺、さっきから噴き出すの必死に我
慢してたんだぜ?﹂
慌ててお茶で洗い流した。鏡が欲しい。それもこれも、このサン
ドイッチが美味しいからだ。中に挟まっているペッパーつきのハム
とか絶品だ。
クールなツンツンキャラを失敗した今、私に残された道は一つし
かない。即ち、お馬鹿キャラだ。馬鹿をやって、こいつになら何ば
れても痛くも痒くないぜ、だって馬鹿だからみたいなキャラになる
のだ。よし、頑張ろう。
﹁然らばぁ、例の件はぁ、どうなったぞりぃ?﹂
﹁え? ああ、あれ? いいよ﹂
[やった!]
﹁あんたはいつも変わらず元気だねぇ﹂
しみじみ言われて、私はショックによろめいた。変わらない、だ
と?
つまり、私の言動は普段から馬鹿みたいなのか。そうかそうか、
ショックだ。
床に両手両膝をついてしばらくショックを受けていたが、私の中
で結論は割と早く出た。
まあいいや、と。
そして、私は現在、頭と左指二本に包帯、前には白いエプロン着
用で、台所に仁王立ちしていた。
﹁第一期、敵陣でお菓子を制作しやがれ会発足︱︱!﹂
﹁え? 俺が作るの?﹂
279
部屋から出よう作戦をいろいろ考えてみたのだが、当たり前のこ
とに考えるのは私だ。私の頭では、あの部屋ではできない事と自分
に出来る事を組み合わせると、これしか思い浮かばなかった。
回数を多くしようと、単なる趣味ではなく、﹃故郷では神様に富
や豊穣の御報告を兼ねてお菓子を捧げるしきたりがある﹄というこ
とにした。ちなみに、回数が多すぎても怪しいので三日に一回の頻
度にして私なりに頭を使ってみたのだが、ゼフェカから﹃え、女の
子らしい趣味だと思ってた。趣味でストレス発散できるなら毎日で
もいいと思ってたんだけど、三日に一回でいいなら俺も楽だわー﹄
と返されて、ぐあああ! となった。
余計な事しなきゃよかったんだね!
お菓子の本はここにないので、それなりに適当でも適度に出来る
クッキーを作ることにした。その材料をまじまじと見つめて、道具
を選ぶふりをして周囲を見回す。
小麦粉は一般家庭でも普通に出回っているとしても、バターと砂
糖をこれだけの量、それも時間を置かずに用意できるのはやっぱり
お金持ちなのだろう。小麦粉も不純物なく、向こうで売られている
ような真っ白でサラサラの粉だ。台所だって立派だ。立派過ぎる。
無駄に。蛇口一つにしてもごてごての蛇が巻きついたりと目に優し
くない。
ここにくるまでもそうだ。目隠しでもされると思いきや、足枷が
繋がっている鎖を持たれただけで、これといった拘束はなかった。
おかげで色々と存分に見ることができたのだ。
まず、私がいたのは塔のような場所で、今いるお屋敷とは渡り廊
下で繋がってはいたものの、地味に離れていた。部屋はやっぱり地
下だったようで、くるくる螺旋の階段を上がってお日様の下に出た
時は、眩しくて溶けるかと思った。私、吸血鬼じゃなくてよかった。
280
渡り廊下はまだ普通だった。寧ろ最低限の手入れしかされていな
いのがばればれの錆び具合である。だが、一旦屋敷に足を踏み入れ
るとそこは異世界と思った。ここはどこも異世界だけど。
きっと私のような粗忽者の為に引かれているのであろう、転んで
も怪我をしないふっかふかのマット。勿論、足を取られて三回ほど
転んだ。夏場は鬱陶しそうだし、湿度が上がると黴とかダニが大変
そうだと思った。洗濯とかどうなってるんだろう。
それに、何より目を引いたのは置物や飾りだ。壁には壁紙が見え
ないくらいびっしりなんだかよく分からない絵が飾られているし、
廊下も一寸の隙もないくらい訳の分からない銅像やら壺やらなんや
らがあった。それらを見た時の感想は、わー、お金持ちだー、では
ない。
まるで物語で見るような、典型的な成金だ、と。
[そういやあの人金歯だったよなー。あの時は、あれ目掛けて必死
に圧し折ろうとしてたなー。いやぁ、私も若かった]
﹁何言ってるか分かんないけど何で照れたの。ねえ、何で照れたの﹂
答えるつもりはないので、きりっとした顔を作る。
﹁クッキー制作開始ぞ﹂
﹁ぜってぇ碌でもない内容だ﹂
きりりと顔を引き締めたけれど、よく考えればお馬鹿キャラにな
るんだった。行き当たりばったりはよくないなぁと思いながら、適
当にお菓子作りを開始する。儀式用とかお供え用なニュアンスで作
ると宣言したからには、ちょっと硬めがいいだろうと目分量でバタ
ー少なめ、粉多め、どうせ自分で食べるから砂糖もちょっと多めに
する。卵は左手が使いづらいので、きっと誰でも一度は挑戦したこ
とがあるだろう片手割りだ。例に漏れず私も挑戦したことがある。
ただし、成功率はゼロだ。
ちまちまと殻を取り出して混ぜ、ふんっと気合いを入れる。
281
後は、レシピでは絶対するなの代名詞。
粉を入れたらさくっと切るように混ぜてね!
いいえ、練ります。手打ちうどんも真っ青な勢いで、全体重かけ
て、練ります。指が折れているので身体全体使って、ひたすら練り
ます。
[うぉおおおおおおおお!]
﹁生地が、生地が可哀想なんだけど︱︱!﹂
[だばらっしょおおおおおおお!]
﹁生地︱︱!﹂
最後にばぁんと粉をふった調理台に叩きつけて型取りに入る。
生地を寝かせたら、さくさくの食感になるよ!
いいえ、寝かせません。今夜は眠らせないぜな勢いで竃に突入し
てもらいます。
この指で型抜きは難しいし、そもそも型まで用意されていない。
なので、適当な厚さに伸ばして包丁で菱形に切っていく。バターが
少なめなので生地がべたつかずに扱いやすい。
その後ろではゼフェカが泣きながら竃の用意をしている。
﹁うっうっうっ⋮⋮生地が可哀想⋮⋮⋮⋮異世界の習慣ってこえぇ﹂
苦心しながら鉄板に乗せて、後はゼフェカに丸投げした。焦げて
も美味しく頂く派なので失敗しても構わない。一応、しっかり焼い
てとは伝えておいた。しかし、しっかりこんがり派の私でも、つや
つやの炭はちょっと頂いたことはない。でも、エレナさんが作って
くれたのならどんな物体でも頑張って頂く所存だ。仮令、食感がが
りごりじょりでも!
いい匂いが漂ってくるまで苦心しながら洗い物だ。私に背を向け
て竃を見ているゼフェカが置いといていいよと言ってくれたけど、
後片付けを終えるまでが料理だ。
日本ほど有能な洗剤がないので、洗い残しがないか何度も確認し
ながら洗う。借りたら元の状態は勿論、元より綺麗にして返すのが
282
筋だ。でも、たぶん、後で洗い直されるんだろうなーとは思ってい
る。要は私の気持ちの問題だ。
苦心しながら擦り、水切り棚に乗せる。ちらりとゼフェカを見る
と、真剣に竃と向かい合っていた。憐れな生地に救済をと呟きなが
ら、焦がさないように熱心に竃を見つめている。
私は、音をたてないようにそっと引出しを開けた。そこにはフォ
ークやナイフが種類ごとにしまわれているのを、器具を探す時に確
認している。恐らくは従業員用なのだろう。貴族の人は銀食器を使
うと聞いたことがある。その銀食器は曇らないよう手入れが大変で、
間違ってもこんな風に一緒くたにしまわれたりはしないそうだ。エ
レナさんは手間がかかると一刀両断していた。来客のときは使うそ
うだけど、エレナさん達の日常生活では使われていなかった。
音を立てないよう、フォークを一本ポケットに忍ばせる。ナイフ
にしようか悩んだけれど、食事用のナイフの切れ味なんて高が知れ
ている。拘束しているのが縄ならナイフを迷わず選んだけれど、こ
れは鎖だし、まして扱うのは私だ。だったら技も何もない、ただ突
き刺すに特化している方がいい。
ポケットに納めてから、ちらりとゼフェカに視線を戻す。さっき
と変わらず熱心にクッキーの焼き加減を見ていた。
ほっと小さく息を吐き、後は気取られないように黙々と食器を洗
う作業に戻る。借りた物は元通りかそれ以上にして返すのが筋だけ
ど、誘拐犯のアジトから逃げだす為にはそれはそれ、これはこれだ。
全ての罪を許して、彼らもいつかは分かってくれる、いつかは分か
りあえるなんて甘いのか優しいのか分からない考え方ができるほど、
日本だって甘い世界ではないのだ。
一応満足できるまで洗った食器を眺めながら、指に巻いていた蝋
紙を外す。水をそれなりに弾いてくれるとはいえ、ビニールとは違
う。ちょっと濡れてしまった包帯を外していると、目の前に新しい
包帯が揺れていた。
283
﹁はい、換え﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
﹁それと、はい、焼けた﹂
﹁ありがとう!﹂
﹁この差がなんか悔しい﹂
鉄板の上に並んだクッキーからは、焼きたて独特のいい匂いがす
る。嗅ぐだけでお腹が空いてくるこの匂いが大好きだ。これだから
手作りはやめられない。いつもならこの時点で大半つまみ食いに消
えるけれど、今回の名目はお供え用。涙を飲んで焼き立てが冷めて
いくのを見つめよう。ああ、無情⋮⋮。
﹁⋮⋮そんな、この世の終わりみたいな顔しなくてもいいんじゃね
?﹂
﹁貴様には分からぬさ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁しぶっ! 誰の真似だよ!﹂
﹁この、禿の気持ちなど!﹂
﹁あ、分かった。ミガンダ砦司令官、ギニアス・ルーバだ﹂
まさかの正解だ。まだ三十代だったのに、度重なる苦労で朝日が
眩しい頭となったギニアスさんだ。実は彼、異文化交流の先輩でも
ある。元は言葉の違う異民族出身で、幼い頃にグラースの老将軍に
拾われたのだそうだ。老将軍は、軍人としてはとても腕の立つ人だ
ったそうだが、人に何かを教えたりといったことが、控えめに言っ
たら今一、控えないで言うとど下手な人だったらしい。
その彼としばらく一対一で言葉を覚えたギニアスさんは、偉大な
る先輩である。
言語が不可解な人、第一人者である。
今回はまだ会えていないけれど、今は四十代になったのだろう。
少しずつ夕日も眩しい頭が年齢に副っていくはずだ。ついでにいう
と硝子のきらめきでも眩しかった。戦場で逆光を背に立つと最強だ
ったそうだ。 ギニアスさん、兜はかぶらないと意味がないんです
よ?
284
クッキーが冷めるまで待って、粉糖と水でアイシングを作る。利
き手を負傷すると些細な動作が面倒くさい。ゼフェカの顔を真正面
からじっと見て、盛大に舌打ちしてあげた。
﹁え!? 俺なんかした!?﹂
﹁ちぃい!﹂
﹁追い打ち!?﹂
こっちは折れたのに何故そっちの頬っぺたは無傷なのか。今度は
平手打ちにしよう。そっちのほうが拳より効くかもしれない。
どうせ細かい作業は出来ないし、元々苦手なので、ちょっと濃い
めに作ってスプーンですることにした。クッキーの上に儀式っぽく
文字を書く。それも、日本語で。何と書いているか分からないだろ
うから、それっぽく見えるはずだ。
[えーっと、まずは⋮⋮神さま、と]
本当は神様と書きたかったけれど、様が潰れて書けなくなると判
断した。
次は、仏さま。その次は、ご先祖さま。後は思いつかなかったの
で、寺、神社、墓と適当に書いていく。ご先祖様繋がりで仏壇も書
きたかったけど、漢字が思い浮かばなかったのでブツダン、と書い
た。後はもう適当に、カミサマ、かみさま、GOD、KAMISA
MAなどバリエーションで誤魔化した。
﹁作戦完了!﹂
バリエーションに感謝しながら、なんとか全てのクッキーに書き
切ることが出来た。それらを満足げに眺めて、はたと気づく。
[これ、結構壮観な並びだなぁ⋮⋮]
神やら仏やら墓やらが書かれたクッキーに囲まれると、ちょっと
微妙な気持ちになってきた。ついでに、お地蔵様を絵で描こうとし
たクッキーは、ダイエットに成功したのにアンニュイな顔の雪だる
まになった。
285
アイシングが乾くまで崩れないよう、そっとトレーに並べていた
ゼフェカはそれを持ったまま私に繋がっている鎖を器用に引いた。
﹁ほら、部屋に帰るよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮了解﹂
﹁ん﹂
ゼフェカを先頭に大人しく後をついてく。本当はもう少し色々見
たかったけれど、今はポケットのフォークを部屋に持ち込むことが
最優先だ。早足でさっさと歩いていくゼフェカの速度についていく
為には私も駆け足にならなければならない。ゼフェカの足は長いけ
ど、ルーナのほうが長い。たぶん。特に根拠はないけど。
結局帰り道はほとんど周りを見ることが出来ずに部屋まで戻って
しまった。扉の前にはさっきとは違う見張りの人が五人。⋮⋮なん
で増えてるんですかね。
これまたさっさと部屋に入っていくゼフェカに引っ張られるよう
に部屋に入る。そのままクッキーを受け取ろうとしたら、ゼフェカ
はにこにこしていた。
﹁何事?﹂
﹁ん? 異世界の儀式を見せてもらおうと思って﹂
﹁へ?﹂
はいと渡されたトレーがやけに重く感じる。
﹁だから、俺は君の故郷の習慣に興味があるの﹂
私の故郷には、クッキーの生地が憐れまれるようなこんな珍妙な
習慣はありません。
そう言えたらいいのに!
楽しそうにベッドに座ってしまったゼフェカを恨めしげに睨む。
﹁私なるの睡眠をとるのも仕事の内なベッドに、着席拒否﹂
﹁うわ、普通のこと言われてるのに、それが黒曜の言葉だと思うと
すげぇ違和感﹂
ベッドに座られたことを恨んでいるように睨むけど、私の心臓は
286
ばくばくだぁ!
どうしよう! お供えの儀式なんてやったこともないっていうか
そもそもそんなものない!
ぐるぐる回って終いには爆発音まで聞こえてきた私の思考は、ぴ
たりと止まる。そもそも正解なんてないし、あったとしてもゼフェ
カはそれを知らない。適当にこなしてしまおう。だってそれが変な
物でも、こういうものです、で済むのだ。変に動揺したり考え込む
ほうがおかしい。
﹁お楽しみ中邪魔するぜなる行為は叩き出すぞてめぇ、するぞりか
ら﹂
﹁りょーかーい﹂
へらへらと笑うゼフェカを気にしないようにして、とりあえず正
座して座る。私の前には、本で作った即興の台に置かれたクッキー
のトレイ。さて、どうしよう。儀式とかは、とにかく何かぶつぶつ
言って、頭下げていたらそれっぽく見えるだろうか。
とりあえず、ぱんぱんと手を叩く。
[えーと、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょ
のすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむ
ところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりん
がんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーの
ぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ︱︱⋮⋮えー、おは
ようございますおやすみなさいのこんにちはでメリークリスマス、
ジングルベールジングルベール除夜の鐘︱、えーと、南無南無南無
阿弥ほうれんそう、エロイッサムエロイッサムむこっくりさんこっ
くりさん、清めたまえー、祓いたまえー⋮⋮⋮⋮⋮⋮南無三!]
ぱんっと勢いよく手を叩いて頭を下げる。後は神社で使うあれを
すればいいかと考えていたけれど、思い出せない。何だっけ! 二
礼で、二拍!? また二礼!?
いつも貼られているのを見ながらしているので、ちゃんと覚えて
いない。
287
[三三七拍子︱︱!]
たんたんたん、たんたんたん、たんたんたんたんたんたんたん!
[フレー! フレー! あ、か、ぐ、み! フレフレ赤組! フレ
フレ白組! フレフレ黄組! フレフレ緑組! フレフレ紫組! もーいっちょ!]
たんたんたん、たんたんたん、たんたんたんたんたんたんたんた
ん!
[なんか一拍間違ったけど、終了! お疲れ様でした神様! 寧ろ
付き合わせてごめんね神様!]
神様、仏様、ご先祖様、その他諸々巻き込んでしまった全てに謝
罪を籠めて土下座で締める。
やりきった。この胸を満たすのは達成感だ。
きっと今の私は晴れやかな顔をしているだろう。
どや顔で振り向くと、どこかぽかんとしているゼフェカがいた。
なんですか、人が一所懸命応援、じゃなかった儀式していたってい
うのに。
﹁なんていうか⋮⋮住むところ違えば、ほんと文化ってそれぞれだ
よね﹂
しみじみ言ったゼフェカは、すたすた私の前まで歩いてきた。そ
して、なんの予告もなく、いきなり私のポケットに手を突っ込んだ。
﹁うぎゃあ!﹂
﹁うわ! 色気ない!﹂
﹁何事の行動するぞ!﹂
振り払ったゼフェカの手に握られている物を見て、動きを止める。
くるくると器用に回されているのはどこにでもあるフォークだ。
﹁これは没収。あんたに死なれちゃ困るんでねー﹂
フォークを盗んだと気づかれていたらしい。
背中しか向けていなかったのに、やっぱりゼフェカは普通の人じ
ゃない。そりゃ、普通の人は誘拐なんかしないだろうが、それだけ
じゃない。たぶん、凄く鍛えている。全然違うように見えるけれど、
288
どこか砦の皆を思い出す動きをすることがあるのだ。あまり詳しく
は知らないけれど、既視感を覚える。歩き方とか、腕の動かし方と
か、振り向き方とかだ。
しかも、何が腹立たしいって、武器になりそうな物を選んだつも
りだった。けれどゼフェカにとって、私が持っていても武器に成り
得ないという。私が自分の命を盾にするしかできないと、そう言わ
れているのと同義だ。そして、事実だ。
﹁今日のお勤め終わった? じゃあ、また飯持ってくる時まで大人
しくしててね﹂
取り上げたフォークを回し、掌をひらひらさせて部屋を出て行こ
うとするゼフェカに、私は止めていた息を吐き出した。
﹁ゼフェカ﹂
﹁ん?﹂
人を害したいわけじゃない。誰かを殴りたいわけでも、自らの力
を誇示したいわけでもない。
でも、無力がこんなにも悔しい。
﹁私に、何を、望む﹂
私に何をさせたいの。何もできないことは分かっただろうに、何
でここにいなきゃいけないの。
握りしめた掌は、皮膚を食い破って血を流す握力すらない。
﹁俺のご主人様の役に立ってくれるかなと思ってるよ﹂
﹁確実に役立て皆無! 捥げろ!﹂
﹁嫌だよ!?﹂
﹁私とて嫌ぞ!﹂
枕を振りかぶって投げつけようとしたけれど、これを取り上げら
れると私の枕が無くなるのでちょっと冷静になってベッドに戻す。
[禿げろー⋮⋮禿げろー⋮⋮禿げてしまえ⋮⋮万年禿げろー⋮⋮]
﹁うわ、なんか俺呪われてる気がする!﹂
﹁捥げろ!﹂
﹁なんつーもん呪ってんだよ! 若い女の子が!﹂
289
おなご
﹁貴様如きに若き女子扱いを受けるならば、鶏扱い望むぞ!﹂
最悪、ルーナだけがそう思ってくれたらいい。だからゼフェカに
そう思ってもらえなくて結構だ。
﹁へえ?﹂
ゼフェカの目にすぅっと何かが落ちる。それが影だと気づいた時、
その手は私の首に回っていた。
﹁じゃあ、縊っていい?﹂
思っていたよりずっと大きな手が私の首を完全に捉え、少しずつ
締まっていく。呼吸が苦しいほどじゃない。けれど確実に締まって
いく力に、勝手に膝は震えだす。
首を絞めるゼフェカの手を押さえることは、出来ない。
﹁あんたは頭いいわけじゃないけど馬鹿ってわけでもない。黒曜の
名前に自惚れてる様子もないし、悲劇に酔ってめそめそしないのも
点数高い。ある程度立場弁えられて、柔軟に考える頭があって、簡
単に頽れない精神がある。俺はこれでも結構気に入ってるんだ。だ
から、俺にあんたを殺させるなよ? 使い勝手のいい奴は大好きな
んだ﹂
いつものように、明るい声と笑顔で言われた言葉のなんて現実味
のないことか。
けれど首はどんどん締まっていくし、身体の震えは止まらない。
首は生き物の急所の一つだから押さえられると恐怖に震える。けれ
ど、この震えはそれだけじゃない。
砦ではそこらじゅうに溢れていたけれど、ルーナ達がいつも私か
ら遠ざけてくれたから、私はその怖さと正面から向かい合わずにい
られた。
これは、殺気だ。それも憎悪とかの感情が篭っているわけじゃな
い、事務的で淡々とした、殺気。
﹁俺はあんたを気に入ってるけど、別にあんたじゃなくてもいいん
だ。だから、大人しくしててくれるよね?﹂
頷く以外何ができるだろう。小さく頷いた途端、解放されてその
290
まま床に尻もちをつく。無意識に首に手を当て、ゼフェカから隠し
ていた。
﹁いつ、まで﹂
ここにいろと言うの。
最後まで言えなかった言葉を、ゼフェカは正確に汲み取った。
先程まで投げつけてきた殺気とも、無とも違う。色が読めない瞳
を浮かべて、彼は笑う。
﹁時代が終わるまで﹂
何の、とか、何で、とか。言いたいことや聞きたいことは沢山あ
る。投げつけたい言葉もだ。
でも、全部飲み込む。
傷ついたわけじゃない。傷ついたりするものか。こんなことをさ
れて傷つくほど、私はゼフェカを信用していない。
﹁じゃあ、俺行くけど、いい子にしててね﹂
ぐしゃぐしゃと髪を掻き回されても手を叩き落とせない。首を捻
って避ける事すらできなかった。その手が、怖い。
大きく固い手は、優しい人達の手しか知らない。クマゴロウ将軍
に掴まった時も、乱暴に扱われたりはしなかった。
﹁夕食、拒否。湯浴み、部屋で行う故に、盥要求﹂
掠れる声で伝えると、既に向けられていた背が肩を竦めたのが分
かった。
扉が開き、そして閉じられる。鍵が閉まる重たい音がして漸く安
堵する。鍵を締められて安堵するなんておかしな話だけれど、少な
くとも鍵が閉まっている内は誰も入ってこられない。
鍵が開く音がしないかに意識を集中しながら、私は大きく息を吐
いた。
[よし、逃げよう﹂
とりあえず、抜けた腰が治ったらだけど。
291
24.神様、ちょっとほうれんそうは大事です
私は冷たい床にぺたりとお尻をつけたまま、ずっとそうしていた。
どれくらいそうしていたか分からないけれど、要らないと言った夕
食と、お湯が入った盥が運ばれてきたので恐らく夕方は過ぎたはず
だ。
食事も湯浴みの用意も、全て兵士が行ったのでゼフェカは来なか
った。
そのことにほっとしながら、ベッドからシーツを剥ぎ取ってお湯
にしっかり浸す。その間に、ぬるりと滑る袖口に指を突っ込んだ。
そこには溶けてでろでろになったバターがある。ぬるぬると気持ち
が悪い不快感は無視して、それを足に塗りたくる。
私の足についている足枷は、私に合わせたオーダーメイドの品じ
ゃない。言うなれば既製品だ。そう簡単には外れないけれど、滑り
を良くして頑張れば、元々が手足小さい日本人。一応女。抜けない
こともないと踏んだ予想は正解だったようだ。ちなみに私は、手足
の小ささで日本人を証明するより、鼻の低さと手足の短さで証明し
てきた派だ。泣けるね!
[よ、いしょ!]
すっぽーんと気持ちよく抜けたわけじゃなく、ぬるりぬるりと地
味にずらして、また戻してで、ずるりと抜けた。地味だけど結果良
ければ全て良し、だ。
枕カバーで腕と足についたバターを出来る限り拭う。肺を空にす
るまで深い息を吐くと、唇の端がぴりりと痛んだ。指で拭うと血が
ついていた。さっきずっと噛み締めていたから、まあ、こんなこと
もあるだろう。
泣くより、マシだ。
292
口の中に血の味が残って眉を顰める。私の目の前にはトレーに乗
った夕飯がある。ちょっと悩んだけれど、自分で作ったクッキーに
齧り付く。敢えて硬く作ったクッキーを噛み砕くのは一苦労だった
けれど、気合が入っていい。柔らかいものも好きだけど、硬い物を
がしがし食べるのも大好きだ。
夕飯には手をつけず、残りのクッキーも出来る限りポケットに詰
め込む。非常食だ。夕飯は何が入ってるか分からないので、隅に寄
せてしまう。見てたら食べたくなってしまうので。また前回みたい
にお茶に何か混ぜられるのは勘弁だ。
私は浸していたシーツを盥から取り出し、絞らずに頭から被る。
当然水は滴り落ちてくる、というよりそのまま流れ落ちてくるが、
それが目的だからいい。
もう一度深く息を吐いて、吸う。
手には本だ。
Q.本とはどうやって使用する物ですか?
A.投擲する物です。
[ピッチャー、振りかぶってぇー、投げた︱︱!]
天井向けて投げつけた本は見事目標に当たった。目標は大きい。
何故なら、天井にぶら下がっている照明だからだ。
[もいっちょ!]
二発目も命中し、取り付けられていた蝋燭が降ってくる。火が消
える前にバターの染みついた枕カバーに移せば、あっという間に火
の規模が広がっていく。後は簡単だ。周り中の本につけて回ればい
い。積み上げていた本にも火をつけて回り、その本を撤去されてい
ない本棚に放り込んでいく。
293
どんどん火が回っていくのを扉の陰でしゃがみ、じっと待つ。す
ぐ傍で何かが弾けた音がしてびくりと腰を浮かせるけれど、まだ駄
目だ。まだ、煙が薄い。
我慢して腰を下ろす。体勢を低くしていないと、火事の煙は吸い
こんだだけで意識を失う、と、テレビで見た。べちゃべちゃに濡れ
たシーツで口元まで覆い、ひたすら待つ。
視界が遮られるほどの煙が部屋の中に充満してから悲鳴を上げよ
うと考えている。だってただ火が出ているだけでは、ただ兵士に連
れられて避難という形がとられるだけだ。馬鹿だって考えるのだ。
自分の作戦に悦に浸っていたら、目の前の扉が勢いよく開いて兵
士が雪崩れ込んできた。
﹁何だこれは!﹂
﹁女は無事か!?﹂
﹁これ、俺らの責任になるのか!?﹂
よく考えたら、凄い匂いがしているし、煙もどこかに漏れている
だろう。通風孔あるし。
駄目だ、馬鹿は考えても馬鹿だった。
よし、走ろう。
狼狽えてベッドに走っていく兵士と入れ違うように走り出す。部
屋に飛び込んできたのは三人。残り二人は中を覗き込むように残っ
ていたが、鎧を着ていない分、私のほうが早い。火のついた本を二
人に投げつけ、怯んだ隙に走り出す。突き当りが螺旋状の階段。ぐ
るぐるりと回った先が塔の出口!
まさか部屋を出られると思っていなかったのだろう。扉に鍵がな
いどころか、開きっ放しだった。恐らく夕飯が運ばれてきたときの
ままなのだろう。不用心すぎる。ありがとう!
うっかりもそうだが、慣れは重大な事故を招くことがあるので、
294
初心やマニュアルは大事なのだ。でも今はありがとう!
駆け出した空の色は暗かった。屋敷から少し離れた場所にある塔
はこんな時便利だ。夜という時間も素晴らしい。騒ぎが大勢の耳に
入るまで猶予が出来る。それがほんの少しでも大変ありがたい。
私は渡り廊下を十字に通り抜けて、目的の場所を目指す。ゼフェ
カが常にそちら側に立っていてよく見えなかったし、慣れた人には
そこまで意識されないと思うけれど、現代日本人にはちょっと珍し
いので分かりやすかった。
目的の場所に辿りついて、私はガッツポーズをした。厩舎、発見!
獣独特の臭いは、砦にいた頃は日常だったけど日本に戻ったら縁
遠くなるから、逆にすぐ分かった。
馬達は夜の闖入者に興味津々で視線を向けてくる。馬は噛みつい
てくるし、気をつけないと髪を食べられると昔ルーナに教えてもら
っているので、愛想笑いをしながらも堂々と厩舎を進む。左右から
私を見つめる馬の視線に、侮られないよう胸を張って歩く。馬糞で
滑ったのはなかったことにして忘れよう。足元に寄せられている飼
葉に馬糞を擦り付けるように歩いていく。運だ、運がついたんだ!
でも擦り付けていこう。
奥に並べられている馬具を掴み、一番近い馬に装着する。馬具名
はいろいろ正式名称があったはずだけど覚えていない。教えてくれ
たルーナごめん。今度機会があったら覚える。絶対短期記憶に放り
込まれるけどね!
﹁大変だろうけど、宜しくね﹂
馬の首筋をぽんぽんと撫でた私は、颯爽と馬に飛び乗った。濡れ
たシーツを頭から被り、鋭い声で馬を走らせる。今になってようや
く騒ぎに気付いた人々を尻目にその横を走り抜けていく。
そして、検討をつけていた場所に門を発見し、泡を吹いて止めに
来た門番を蹴散らして、そのまま屋敷を抜け出した。
295
[という、夢を見たんだ⋮⋮⋮⋮]
わーわーと騒がしい声を遠くに聞きながら、私は馬のいなくなっ
た厩舎でぽつんと立っていた。
足元にはごろりと逆さまに転がった馬具がある。今更馬具名思い
出した。これ、鞍だ、たぶん。鞍は重い。そして馬は大きい。自分
の胸よりも高い位置にある馬の背に、重たい鞍を取り付けるのは初
心者にはなかなか難しい。そもそも取り付け方も知らない。勢いの
ままに馬具を上に押しやれば、そのまま反対側に落ちた。その音に
驚いた馬は、甲高く嘶いて走り去ってしまった。ついでに他の馬の
パニックも見事に誘い、厩舎には私だけが取り残された。あっとい
う間の犯行でした。
どうやら馬達は見事に門を抜けたらしい。いつも通っている道を
通り、広い世界に飛び出していったのだ。素晴らしい! 作戦成功
だ! 私もつれていってくれたら完璧だった。シーツだけ引っ掛けてい
くんじゃなくてね!
馬に置いていかれた私は、一人置いていかれた傷心のままよろり
と厩舎を出た。とりあえず人目につかない場所にいようと考えられ
るくらいの理性は残っていたので、厩舎の裏に回る。
そこに、目立たない門を見つけた。恐らく馬番が利用しているの
だろう。質素な門は一応錠前がついていたが、これは外から開けら
れないよう為の錠前なので、こちらからは簡単に開けられる。
鍵を外し、指先でとんっと押すだけで、古い木の扉が軋んだ扉で
開いていく。
296
[えーと⋮⋮]
予定とは全く違うけれど、私はとりあえず屋敷からの逃亡に成功
した。
現実とはこんなものである。
私は、通りすがりの馬車に潜り込んでごとごと揺られていた。
転んでもう走れなくなったところを親切なイケメンに拾ってもら
った。
と、いうことは一切なく、ひたすら黙々と歩いていた。別に私が
豪胆な精神の持ち主という事ではない。始めは追っ手を気にして、
後ろを振り返りながら早足で歩いていたのだ。だが、今はてくてく
と夜道を一人歩いている。一応、舗装された道を外れ、道が見える
範囲で背の高い草に紛れてはいるものの、逃亡の身の上としては堂
々と歩いていると自分でも思う。けれど、走る気はない。だって、
足はがくがくするし、足裏は痛い。脇腹も痛い。要は、走り疲れた
のである。
ここがどこか分からないし、元々こっちの世界に土地勘などない。
だから、ひとまず馬が走り去っていた正反対の方角に歩いている。
一応先には町らしきものが見えているので近くまで行ってみるつも
りだ。そこでちらっと町の様子を見て、夜に近づくのが危なそうな
らどこか岩陰で夜を明かして、次の朝何食わぬ顔で町に入っていこ
う。この世界は、国境近辺ならともかく、内地で関とか検問とかは
ないはずだから身分証明などは大丈夫だろう。
逃げている身としては、このまま宵闇に紛れて隠れなければなら
ないのだろうが、私にはサバイバルな状況下で生き残れる知識がな
い。ついでにいうと、昔、砦で、こっちでは何の変哲もない虫に噛
まれて足がぱんぱんに腫れ上がったことがある。何となく言い出せ
なくて悪化させて、ルーナにチョップ三十連発頂いた。痛かった。
297
免疫力とか日本では自信がある方だったけれど、こっちでは弱い
のかもしれないと思うと迂闊にほいほいと森の人になれない。オラ
ンウータンへの道のりは遠い。
なので、とりあえず人の中に紛れようと考えた。最悪連れ戻され
ても、少しでも情報収集出来たら万々歳だ。
恐らく一時間は歩いただろう。ようやく町に辿りつく。一応警戒
していた追手がかかる気配はない。もしかすると、私の代理として
馬に乗っていってくれたシーツのおかげで、私が馬に乗っていると
思ってくれたのだろうか。シーツさん、そこ代われって思ってごめ
んね!
こそこそしていたら余計怪しい。ほっかんむりなんて持っての他
だ。濡れた服は歩いている内にそこそこ乾いている。だが、頭の包
帯は目立つので外してしまった。動いたので今更ずきずき痛んでき
たし、また血が出てきたのでしばらく包帯を当てて血止めをして、
その包帯はこそりと岩陰に置いてきた。あんな物持っていて、うっ
かり落としてしまったら面倒だ。血塗れの包帯を所持しているなん
て、まるで私が殺人犯のようじゃないか。物は大事にしたいが、包
帯を汚している物が悪すぎる。ただ汚れているだけなら当然洗って
使うけれど、血がついている物を持ち歩くのはリスクが高すぎる。
それに、今が冬じゃなくてよかった。冬だったら寒さで凍えるし、
服も上着がなくては目立つだろう。脱出するのに上着まで確保でき
ない。
町は思ったよりも大きかった。もっとこう、田舎の雰囲気を予想
していたが、近づけば近づくほど自分の予想が間違っていたと知る。
意外にも帝都に近い雰囲気だ。建物は大きくしっかりしているし、
街並みは大店と呼ぶのにふさわしい店が軒を連ねている。酒場以外
の店も開いていて、この世界では珍しく夜でも明るい。夜だという
のに人の往来が結構ある。その様子に安心して足を踏み入れること
298
にした。
ふんだんに使用されたランプや照明で、この街はとても明るい。
足元で大きな影が揺れるのに気付いて上を見上げると、大きな横
断幕が揺れていた。
[暗いな⋮⋮えーと⋮⋮]
流石に高い位置にあるものまでカバーできる光量ではない。何か
書いてあるので目を細めて頑張って見つめる。
[て、てつ、の、まち、ば、ばる、ばるま、へ、よう、よう、よう
こ、そ。て、てつ、てつ⋮⋮鉄? 鉄の、街、鉄の街バルマへよう
こそ、かな?]
二つ名かっこいい。私も欲しい。
アリスちゃんはパンツだね。パンツのアリス! いじめだね! ごめんね、アリスちゃん!
エレナさんは黒炭のエレナとかどうだろう。あ、かっこいい!
ルーナは、イケメンルーナとかどうだろう。あ、駄目だ。これ、
ただの事実だ!
可愛いリリィ!
ただの事実だ!
二つ名を考えながら道の左側を歩く。大きな道が何本か並んでい
るようだけど、よく見るとやっていないお店も多かった。ただ閉ま
っているだけなら夜だからかなと思ったけれど、看板が外れていた
り、窓から見える中ががらんどうだったりと、ちょっと寂れた商店
街を思い出す。
鉄の街という二つ名なので、てっきり鉄筋コンクリートみたいな
建物があるかと思いきや、別にそんなことはなかった。建物自体は
横にも縦にも立派だけど、他の所と変わらない気がする。骨組みに
使ってるのかもしれないけど、透視能力はないので分からない。
[私も二つ名欲しいなぁ⋮⋮よく言われてることくっつければいい
のかな。えーと、珍妙なカズキ! ⋮⋮⋮⋮寂しい。えーと、たわ
299
けのカズキ! ⋮⋮⋮⋮お前馬鹿だろカズキ!]
ぴたりと立ち止まり、しばし瞑想。何だか悲しい風が通りすぎて
いく。
[私、碌なことしてなかった!]
いやぁ、失敗失敗。いい二つ名がつくようにこれから頑張ろう。
人間、目標があるのはいいことだ。うんうんと頷いていると、変
な音が聞こえてきた。地響きのようなズドドドドという音がだんだ
ん近づいてくる。
非常食のクッキーを頬張ろうとしていた矢先に何事だろう。
ポケットから取り出したクッキーを齧りながら音のする方向を見
た私の身体は、反対方向に強く引っ張られた。
[うどぁ!?]
叫んだ拍子にクッキーが落ちる。なんて勿体ない! いや、まだ
大丈夫だ。三秒ルール発動だ!
必死にクッキーを拾おうとしている私の身体は一歩も前に進まな
い。それどころか、さっと口周りも塞がれた。そこまでして私にク
ッキーを食べさせないようにするとは、何者だ!
必死に暴れている私の視界がぐるりと回る。あれ、何だかこの体
制、前にもあったぞ。
でも、相手が違う。あの時はアリスちゃんだったのに、今はある
意味最も会いたくない人物だった。
﹁な、何故にして存在するぞり!?﹂
﹁こっちの台詞だよ!﹂
ゼフェカはいつもの軽い調子とは違い、額に汗まで浮かべて荒い
息をしている。
﹁何で、本物か!? どうやってここに!?﹂
﹁て、てめぇに教育する理屈はないにょろ!﹂
﹁あ、本物だわ﹂
一瞬で真顔になるのはやめてほしい。アリスを思い出して会いた
くなった。アリスちゃん、あなたは今どんなパンツを穿いています
300
か⋮⋮?
アリスちゃんのパンツに思いを馳せている場合ではないと気づき、
慌てて逃げようともがいても、がっしり掴まれて身動きが取れない。
そのままずりずりと暗闇に運ばれる。悲鳴を上げようとした口は再
び塞がれた。
そうこうしている間にも、地響きに似た音が近づいてくる。近く
なってくると揺れも顕著で、まるで空気まで揺れているみたいだ。
抱きこむように抑え込まれているので、ゼフェカの心音が伝わっ
てくる。凄くどこどこしていた。まるで全力疾走してきたみたいに。
﹁あんたにはいつも、ちょっとはじっとしてろよって思ってたけど、
今度ばかりは助かった。まあ、あんたにとっては全然良くないだろ
うけど﹂
暗い物陰から見ると、大通りは昼みたいに明るく見える。そこを
沢山の馬が走り抜けていく。馬だけが走っていく訳はないので、当
然馬上には人がいる。⋮⋮いや、さっきは馬だけ行ってしまわれた
けれども。とっても寂しかったけれども!
馬を駆る人達は無地のマントを羽織っていたので所属は分からな
いけれど、そこに見知った人を見つけて私は思わず身を捩った。
アリスちゃんだ、アリスちゃんがいる。
アリスちゃんの隣に、ルーナが、いる。
ルーナ。ルーナだ、ルーナ!
ルーナ!
顔怖っ! 滅茶苦茶怖い! なんだ、その、今さっき一人や二人
殺ってきましたみたいな顔は! 今まさに殺りにいってますみたい
な顔は! 超怖い! 超絶怖い!
でも好き! 見ただけで回れ右したい眼光してるけど愛してる!
大好き!
301
正直、今まで見た中で一番怖い顔だったけど、やっと会えたルー
ナにそれどころじゃなかった⋮⋮会ってはないね! 見ただけだっ
た!
一瞬だ。だってルーナは馬に乗っている。駆け抜けていくルーナ
は、あっという間に背中になって、どんどん小さくなっていく。そ
の頃になってようやく口元を覆っていた手が外された。
﹁離脱! 離脱するにょ! 脱皮懇願、切望に!﹂
﹁脱皮はベッドの上がいいな、俺﹂
[離してってば! ルーナ、ルーナ︱︱!]
馬上にいて、更にこんなに離れてしまっては聞こえないだろう。
分かっていても止められない。前もこうやってルーナを見ていた。
あの時は振り返ってくれたのに、私が逃げてしまった。今度は逃げ
ない。逃げたりしないから! あれは本当にごめんね! 今は反省
している!
叫んだ私の口を再度塞いだゼフェカは、さっきの軽口を忘れたか
のようにぎょっとした。
﹁騎士ルーナがいたのか!? 嘘だろ⋮⋮今晩は王家主催の夜会だ
ぞ。っていうか、早すぎだろ、行動が。馬飛ばしたって、城から一
日以上かかるんだぞ、ここまで。幾らこの時期に後見人が領地に帰
ったからって、他の後見人もそれぞれ帰るよう仕向けたってのに何
で特定できたんだ﹂
ぶつぶつ言っているゼフェカなんてどうでもいい。今は、あっと
いう間に見えなくなってしまったルーナに思わず泣きそうになる。
確かに、泣くのならルーナの前にしようと決めていたけど、今はル
ーナの前どころか背中も見えない。泣いて堪るか!
﹁あのまま大人しくしてたら恋人に会えてたのに、残念だったねぇ。
あ、もしかして泣いてる?﹂
苦労してバター仕込んで枷抜けして、火をつけて、馬に置き去り
にされなくても、あそこで大人しくしていたらルーナが迎えに来て
302
くれたのだ。
報告、連絡、相談。とっても大事。
静かになった私を、ゼフェカがひょいっと覗き込んでくる。
﹁うっ⋮⋮!﹂
喉に餅が詰まったみたいな声を上げたゼフェカが見たのは、はら
はら涙をこぼして震える私、ではない。
泣かないよう渾身の力で堪え、金剛力士像みたいな顔をした私だ!
二対像のどっちに似ていたかは自分じゃちょっと分からないけど。
私の顔に怯んだゼフェカの隙をついて拘束を解こうとしたけれど、
それはそれ、これはこれらしくてびくともしなかった。しかも、ど
こから取り出したのか、いつの間にか手枷が嵌められている。
﹁何故にして!?﹂
﹁寧ろ何でされないと思ったのさ。まあ、普通は女の子にしないけ
ど、自力で牢から抜け出してくるようなあんたにしないほうがおか
しいだろ。寧ろあんたおかしいだろ。あ、それと﹂
幸い足枷はついていない。ゼフェカの手だって二本しかないんだ
から、どこかで必ず隙が出来るはずだ。その時に走って逃げてやる。
走って走って、ルーナを追おう。それでルーナの胸にタックル、じ
ゃなかった飛び込んで泣いてやる。今度こそ仁王像にならずに号泣
してやる!
ぐっとゼフェカを睨み付けていると、拍子抜けするほど明るい笑
顔で返された。何だろう。
﹁あんた起きてると危険だから、道中寝ててね﹂
嫌だよと返事しようとしたら、お腹に鈍いような鋭いような、と
にかく熱い衝撃が埋まった。薬を使われた時はふわっとした眠気が
襲ってきたけれど、こっちはずしりと重い。
何だか私、最近こんなのばっかだ。お腹殴るんだったら、下っ腹
ダイエット中にしてほしい。お肉いっぱいついててクッションにな
るから痛さが軽減されると思うから。
303
意識を失う寸前、頬を滑り落ちていったのは涙じゃない。そんな
こと認めてなるものか。
これは涎だ。絶対涎だ!
そう言えば過去にも同じ言い訳をしたことがあった。
﹃目から涎流すほうが恥ずかしいと、俺は思う﹄
ルーナ、十年経った今、私は宣言します。
全く以ってその通りだね!
304
25.神様、ちょっと色々何事ですか
次に目が覚めた時、世界は激しく上下していた。
[な、ないないないいななななななない! ないわあ!]
﹁うわっ! 起きた瞬間奇怪な言葉発さないでくれる!?﹂
[ゆれ、ゆれる、ゆれっ⋮⋮⋮⋮]
﹁あ、舌噛んだ﹂
馬上では迂闊に喋らないことが推奨されます。慣れてない人間は
特に!
私はゼフェカに後ろから抱きかかえられるように馬で運ばれてい
た。腰をしっかり縛られているのが腹立たしい。そんなことしなく
ても、この速度で走り抜ける馬から飛び降りる度胸はない!
うっかり落下はあるだろうけど。⋮⋮ゼフェカ、私を固定してい
てくれてどうもありがとう!
どこに向かっているのか、一度聞いたけれど答えてはくれなかっ
たので聞くのは諦めた。どうせ行きたい場所に向かってはくれない
だろうし、もう一回口を開くと自殺する気がする。私には、舌を噛
み切る度胸はない。
馬はほとんど走りっ放しだ。二人も乗せて走り続けられる馬は凄
いと思ったけれど、これは恐らく軍馬だ。だって凄くがっしりして
いて、筋肉ムキムキである。砦で見た馬もこんな感じだった。戦場
を駆け抜けられる馬は、気性も荒い。今乗っている馬も、乗り手の
事より自分の走りだ! といわんばかりにどこどこ揺れてくれる。
駆けているのか飛び跳ねているのか分からない走りで進む馬の上
では、ゼフェカから逃げなきゃとか、ルーナに会いたかったとか、
大事なことが何も考えられない。私の心を占めているのはただ一つ。
305
お尻痛い、である。
ゼフェカは本当に急いでいるようで、ほとんど止まることはなか
った。かろうじてトイレ休憩&簡単な食事休憩が挟まったのは救い
だ。
ちなみに、トイレはその辺に生えている背の高い草の陰でだ。背
に腹は代えられないので仕方がないが、ここで一つ問題が発生した。
私が逃げないか、だ。
私の前では、真剣な顔をしたゼフェカがいる。
﹁俺だってそんなもの見たくない。かといって、あんたに逃げられ
ちゃ意味がない﹂
﹁はい﹂
真剣なゼフェカに、私も神妙に頷く。
﹁いいか? 一度でも逃げようとしたら、あんたが用を足す時でも
見張ることになるからな。俺にとっても罰ゲームだから、ほんと勘
弁してくれ﹂
﹁承知認識してるぞり。然らば、誓約をたてる行為ぞするにょ﹂
神妙に頷いた私に、ゼフェカは今一信じきれないという顔を返す。
﹁誓約? あんたの世界での?﹂
﹁ぞり。掌、借用する﹂
おさなご
﹁なんかすっげぇ怖いんだけど﹂
﹁幼子遊戯の一個ぞ﹂
怖がるゼフェカの手を取る。別に怖がる必要はない。日本では極
々当たり前の、子どもの遊びみたいなものだ。誰もが知ってる約束
の儀式⋮⋮あれ? これ、意外と普段やらないな。皆が知ってるけ
ど、別にそこまで日常の事でもなかった。しかもよく考えればこれ、
今では子どもの遊びみたいなものだけど始まりは違った気がする。
まあいいや。
まずは小指を絡める。
﹁あ、なんか可愛い﹂
306
ほっとしたゼフェカの力が抜けたので、小指を絡めたまま軽く振
る。
﹁指寸断拳骨、虚偽申告すーらば、針千束飲食ぞ、指寸断!﹂
﹁すげぇ怖いやつだった!﹂
顔を青くして指を引き抜いたゼフェカとの約束も済んだので、私
は意気揚々とトイレ︵野生︶に向かって足を踏み出した。見張られ
ない自由の世界︵時間限定︶だ!
﹁あぶぁ!﹂
輝かしい第一歩を踏み出すと同時に視界が回る。ぐきりと足首が
曲がって、盛大に地面とキスをした。地面とそんな熱烈な仲になっ
た覚えはない。私にはルーナという人がいるのだ。
何が起こったのだろうと視線を向けると、すっぽり開いた穴に私
の右足が足首くらいまで嵌っていた。
﹁⋮⋮一歩目で土竜の穴に落ちる奴、初めて見た﹂
ゼフェカの憐れんだ目を無視して立ち上がる。ぱたぱたと砂埃を
叩き、唇を拭う。
そしてすぅっと息を吸った。誰も言ってくれないから、自分で言
おうと思う。
[私、どんまい!]
生きるって、それだけで大変だ。
いつの間にか明けていた朝日がとっても目に染みた。
ついでにいうと、足は挫いた。
ゼフェカの腰としっかり結び直されて、再び馬上の人となり、早
丸一日。
307
暗くなった空を見上げながら、薬もお腹パンチも関係ないのに、
私の意識は朦朧だ。お尻は絶対重体だ。座布団を、座布団を要求す
る! そして足もがくがくだ。これ、絶対地面に下ろされても歩け
ない。生まれたての小鹿状態だ。いや、自分を小鹿呼ばわりとか図
々しい。あんな愛らしさは私にない。
あれだ。吊り橋を渡っている高所恐怖症の人状態だ。
がくがく揺さぶられながら朦朧とした意識で流れていく景色を見
ていたが、次第に私の目は釘付けになっていく。
﹁あ、あれなるぼほぁ!﹂
答えが返るかは分からなかったけど、問わずにはいられないと身
を乗り出した私の顔面に虫がクリティカルにヒットした。いろんな
意味で痛い。そして虫さん、ごめん。特にはごめんと思わないこと
にごめん!
遠目にも分かるほど巨大な建物が見える場所で、ゼフェカはよう
やく馬の歩調を緩めた。
﹁あんたほんと、絶妙についてないなぁ﹂
﹁あれ! あれなるは、城! それなれば、こちらなるは帝都帰還
!?﹂
﹁立ち直り早いな、おい。そうそう。これ帝都。あんたが最初に現
れた場所﹂
何度も見上げた建造物が、今日も悠然とそこにある。
あの建物自体には特に愛着はない。あるのは、あれを見上げた場
所にだ。
﹁リリィ⋮⋮﹂
帰りたい。戻りたい。
あの優しい人達に、会いたい。
目に見えてそわそわし始めた私に、ゼフェカは頭の上からすっぽ
り外套を被せた。
308
﹁顔出すなよ。後、妙な動きするなら即行眠らせるから。つーか、
もう眠らせていこうか?﹂
﹁精密に辞退なさるぞ⋮⋮﹂
これ以上薬やらお腹パンチやらで眠らされると、身が持たない。
それに、私が迂闊に助けを求めて、誰かが傷つけられるのは嫌だ。
﹁神妙に旅路につくぞ⋮⋮﹂
﹁え、俺らまた旅に出るの?﹂
﹁信頼関係築くなるが困難なる場合、指寸断の誓約なるを﹂
﹁さあ、行くぞ!﹂
小指を立たせた腕を持ち上げると、ゼフェカは即座に馬を進めた。
そんなに時間が経っていないはずなのに、ここにいた頃が随分昔
に感じる。
と、思うかと思っていたけど、そうでもなかった。寧ろ、あの地
下にいた時間が夢みたいに思える。
私達が通っている通りは、リリィと歩いた通りとは一本ずれてい
る。だからちょっと新鮮だ。店先には駐輪場みたいに馬を繋いでお
ける場所が用意されていたり、﹃愛馬へのお水サービス!﹄と書か
れた看板の横に水桶が置かれていたりする。
この新鮮な気持ちを伝える相手がゼフェカなのだけが残念である。
だから伝えないでおこうと決めた。
ばこっばこっと重い音を聞きながら揺られ、顔を隠した隙間から
ぼんやりと周囲を眺める。馬の足音はぱからっぱからっ、みたいな
軽快な音だとこっちの世界に来るまでは思っていた。
実際は地面の状態にもよるけれど、もっと重たく鈍い音がする。
そして、さっきまで猛烈に揺れる馬上にいたので、目立たないよ
うに普通の速度で進まれると眠たくなる。疲れもあるだろう。
﹁ゼフェカ⋮⋮﹂
﹁あんま喋らないでほしいんだけど、何﹂
﹁どちらなるに、進軍するのよ﹂
309
﹁あ、語尾すげぇ! 語尾だけすげぇ!﹂
﹁にょろりんぬぅ﹂
どうだとドヤ顔したら、凄く残念な物を見る目をされた上に、顔
を逸らされた。
そのままごとごと馬は進む。自分でも何かやらかした気はするの
で突っ込めず、仕方なく黙る。
この世界に再び登場して、何だか色々あった。映画とかだと、こ
の辺りになるといろんな人と出会って、色んな事情を知って、気合
を入れ直すところだと思うのだ。だってスタート地点に戻ったのだ
から。俺達の戦いはこれからだ! となるところではないか。
それなのに。
[何一つ分からない!]
﹁あ、うるさい。何言ってるのか分かんないけどうるさい。ちょっ
と静かにしてて﹂
[あの金歯が誰かも、鉄の街がどこなのかも、全く分からないんだ
けど!?]
﹁ちょっと、今から城に入るんだからほんと黙ってて。黙らなかっ
たら荷物扱いするよ﹂
[お城!?]
﹁はい、荷物扱い決定﹂
がっと首に衝撃が来て、私の意識はいったん途絶えた。
私の扱い、非常に雑じゃないだろうか。
誰かの話し声が聞こえる。ふわっと大きく声が聞こえたと思った
ら、凄く遠くで喋っているようにも聞こえた。
目が覚めた時、何故か椅子に座っていた。ぼんやりとした視界で周
囲を見回す。たくさんの人がいる。たくさんの⋮⋮⋮⋮。
﹁うぉわぁ!?﹂
310
広々とした部屋のほぼど真ん中にいることに気付いて慌てて立ち
上がる。挫いた足に力を入れてしまってよろめいた上に、お尻とか
太腿裏とかの筋肉がぶるぶるしている。寝起きでは当然身体を支え
きれずに、盛大に頽れた。
﹁カズキ!﹂
﹁ルーナ!?﹂
あんなに聞きたかった声がして反射的に顔を上げたら、誰かの背
中が邪魔だった。
﹁障害物撤去!﹂
﹁俺を障害物扱いとくる﹂
私の前に立ちはだかって小声で答えるゼフェカが邪魔で、椅子を
支えに立ち上がりながら身体をずらしてルーナを探せば、凄まじく
怖いルーナがいた。
あれは、二人や三人殺ってる!
思わず悲鳴を上げかけたら、また視界が遮られた。怖いけど見た
い私からすると、凄く邪魔です。
私のほうを向いたゼフェカは、いつの間にか結構いい服に着替え
ていた。ラフな格好ではなく、どちらかというと騎士の制服に近い。
対する私は変わらない。こっちの世界では誰もが認める普段着だ。
他の人もおめかしの格好なのに、私だけ普段着ってどうなんだろう。
ちょっと居た堪れない。けれど、ゼフェカに着替えさせられるのと
どっちが嫌かといえば、断然ゼフェカだなと思い直す。それなら、
この格好も仕方ない。背に腹は代えられないけど、背にプライドな
ら代えられる。
﹁目が覚めたのなら仕方ないけど、神妙な顔して黙ってろ。喋った
ら殴るぞ﹂
ゼフェカはそんなことしない、とは全く以って信用していないの
で、黙る。たぶん、必要なら躊躇わずに殴られるだろう。何となく、
そんな気はする。既にお腹を、首を、殴られていることだし。有言
実行、非常に迷惑です、ゼフェカ。
311
そのままくるりと前に向き直ったゼフェカを睨みつつ、周囲の様
子に気づいて、思わず頬が引き攣った。
映画とかで見たことがある。ゼフェカが向いているのはたぶん玉
座で、ここはえっけんの間とかそれ系の部屋じゃないだろうか。こ
の広さはもう部屋じゃない。大会議室というレベルでもない。体育
館だ。そして、えっけんってどんな漢字だったっけ。
しかも玉座らしき隣の、同じくらい豪華そうな椅子があって、玉
座にいるおじさんと同じくらいの歳のおじさんが座っている。おじ
さん達の胸元には、それぞれ国旗と同じ刺繍がでかでかとあった。
つまり、グラースとブルドゥスの紋様を胸に抱いたおじさん。
おじさんの隣には、これまたそれぞれ若い男の人がいる。一人はラ
グビー部みたいな人で、一人は書道部みたいな人だ。
そして、前に後ろに左右に、沢山の人がいる。五十人はいるはず
だ。あそこに座っている人が本当に王様とかだったら、たぶん、こ
の人数はとても少ない。だから、これは秘密の会見とかだと思う。
たぶん、おそらく、予想では。
その視線全てがこっちを向いていることに気付いて思わず現実逃
避したくなった。えっけん⋮⋮絵犬とか可愛い。絶対違うけど。
高い天井、遠い玉座。玉座よりは近いけど、やっぱり遠いルーナ。
まずい、泣きそうだ。
何が何だか分からないけど、とりあえず泣きそうだ。
﹁要求を呑むかどうか、数日内に決めてもらいますよ。もう時間も
ない事ですしね﹂
玉座に座っている髭のおじさんに向けてゼフェカが話している。
向かって左側にルーナがいる。アリスちゃんもいた。その他にもち
らほら見知った顔がある。砦にいた皆だ。
ギニアス隊長もいた! 何て懐かしいつるっぱげ! 相変わらず
なんて見事なつるっつる! 頭の形が丸く綺麗だから、つるりんち
ょが際立って思わず触りたくなる一品! つるりんぱに加速がつい
312
たのはティエンが部下になってからって噂は本当ですか!? かろ
うじて残っていた一本が抜け落ちたのは、私が砦に現れたからって
いうのは事実ですか! ごめんなさい!
﹁俺らに手出しは厳禁ですよ。もし何か仕掛けてきたら、その度黒
曜が傷を負うことになります。手を出せないと思わないことですね。
見ての通り﹂
﹁いっ!﹂
丁寧に磨き上げられた泥団子を見た時みたいにテンションが上が
っていたら、頭に激痛が走った。すわ隊長の怨念かと思ったら、ゼ
フェカに髪を掴まれている。そのまま引きずりあげられるように引
っ張られて、思わず涙が滲む。
﹁逃げようとするたびにお仕置くらいはさせてもらいましたよ﹂
[いた、痛い! 禿げる! はげ、隊長になる!]
﹁黙ってろって言っただろ﹂
理不尽すぎる。
突き飛ばすように手を離されて、床に尻もちをつく。絶対何本か
千切れた。枝毛&切れ毛になったらどうしてくれる。いや⋮⋮それ
でも髪があるだけ有難いと思うべきだろうか。
髪を手で直しながら顔を上げて、上げかけた悲鳴を飲み込む。ルー
ナの顔が超絶怖い。あれは四人や五人は殺ってる顔だ!
そこで自分の状態に気が付く。頭には再び包帯が巻かれていたし、
首にはガーゼの感触がある。左の指は二本纏めて添え木入りの包帯
で膨れているし、足首にも包帯が巻かれていた。
駄目だ。これじゃルーナが心配する。大丈夫です、ルーナ。これ
の大半は自分の所為です! 足首は土竜の穴です!
でも喋ったら殴られる。何とか元気だと伝えたくて、へらりと笑
ってみた。秘儀、笑って誤魔化せ作戦だ。
結果、ルーナが六人や七人殺ってる顔になり、アリスちゃんが痛
ましいものを見る目になった。
秘儀は失敗に終わったようだ。
313
﹁⋮⋮⋮⋮よくもぬけぬけと﹂
玉座らしき高そうな椅子に座っているおじさんが唸るような声を
出した。王様とは王冠をかぶっている物だと思っていたけど、そん
な物はなかった。思い込みはいけない。
その隣に設置されている、玉座より装飾が少ない脚の椅子に座って
いる青年二人は王子だろうか。本物の王子様にミーハー心が顔を出
しかけたが、今は恐怖画像みたいになっているルーナの顔を何とか
しなければ。
考えろ、考えろ。
喋るのは駄目。走るのは⋮⋮片足に足枷がついている。しかも足
枷の鎖はゼフェカの手の中に繋がっている。枷がついているのが挫
いていない足だったのが救いだろうか。単純に足首の包帯を見せる
為な気もする。
そこまで見て、はっと思いついた。言葉を発せられないのなら、
身体で伝えればいいのだ!
まず、鎖が鳴らないようにそろりと立ち上がる。そして、両腕を
伸ばした状態で頭の上に広げ、手首を左右に曲げる。挫いていない
足を軸に片足を上げれば完成だ。
秘儀、特に意味のないポーズ!
満面の笑顔をセットにしてみた。
ふぶっと空気が漏れだす音が聞こえた。ラグビー部っぽい王子様
の口元が波線みたいになっている。
ゼフェカが振り向く前に体勢を戻し、神妙に俯く。何か言いたげ
にまた王様に視線を戻したのを見計らい、腰を落としながら両腕を
使って何かを掬う。足は痛いけれど、蟹股は大事だ。
秘儀、ドジョウ掬いの舞!
今度は顎をしゃくれさせてみた。
314
ルーナの目元が揺るぎ、アリスちゃんが痛いものを見る目になっ
た。
今度は勢いよく振り向いたゼフェカの動きも読んでいた。既に神
妙に俯いた私に舌打ちが聞こえる。また前を向こうとして、フェイ
ントでこっちを見たのにはびっくりしたけど、次は何をしようかと
悩んでいてラッキーだった。
﹁⋮⋮⋮⋮要求を呑んだとして、その後はどうするつもりだ。この
ような一時凌ぎが長続きすると本気で思っているのか﹂
淡々とした声を上げたのは書道部っぽい王子様だ。かぼちゃパン
ツじゃない。かぼちゃパンツに白タイツは、それがどれだけイケメ
ンでも厳しいと思う。イケメンじゃなかったら更に厳しいと思うの
だ。だって、そのかぼちゃパンツを触らせてほしくてミーハー心ど
ころじゃない。でも、実物を見てみたくもあったのでちょっとだけ
残念だった。
どうやら、この場にいる全員vsゼフェカみたいになっているよ
うだ。なのに、誰も抑え込みに来ない。脅されてでもいるのだろう
か。もしくは質でもとられてるとか⋮⋮⋮⋮私か!?
嫌な事に今更気づいてしまったが、とりあえず私がしなければな
らないことを全うする。
﹁ご心配頂かなくても結構。こちらも考えくらいありますよ。勝機
がないのに、こんな大胆なことをしでかすと思ってるんですか?﹂
Y!
心の中では白鳥の主役プリマ!
カズキの叫び!
椅子に座って考えるカズキ!
ラジオ体操第一︱︱! 第二は知らない。
﹁こ、このような真似をして、ただで済むと思うな、下郎が﹂
﹁⋮⋮肝に銘じておきますよ﹂
片手で顔を覆って、腰を捻り、ドドドドドドと効果音をつけたい
ポーズ!
315
﹁ふぐ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
書道部っぽい王子様の喉から変な音が漏れた。
思いつく限りの芸や文字をやってみる。最終的には、足首と筋肉
痛に耐えながら、蟹股になって踊り、横歩きしている時にゼフェカ
が振り向いた。勿論、笑顔は大事である。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮おい﹂
喋っちゃ駄目って言われてるので喋りません。
口の前でバッテンを作って、そうアピールする。
ゼフェカに巨大な溜息を吐かれた。なんですか、私は一言も喋っ
ていませんよ。あ、神妙な顔を忘れていた。
両手を頭の上に乗せ、蟹股のまま神妙な顔にする。
即座に両手を引き裂くよう真ん中にチョップが落とされた。ゼフ
ェカの指示に従ったのに、酷いじゃないか。
﹁そういうわけですから、早いとこ結論を出してくださいね。では、
俺はこれで失礼します。ほら、黒曜。立って﹂
嫌だよ。
私は即座に座り込んだ椅子から、頑なに立ち上がらない。だって、
そこにルーナがいるのに、どうしてゼフェカと行かなければならな
いんだ。そこに皆がいるのに、どうして離れていかなきゃいけない
んだ。
﹁立て﹂
﹁拒否、拒絶﹂
﹁⋮⋮殴るぞ﹂
無造作に振り上げられた拳に思わず頭を庇う。
がっと鈍い音がした。一瞬殴られた音かと思ったけれど、痛みは
ない。恐る恐る腕をずらして顔を上げる。ゼフェカの拳は、私の顔
を通り越して背凭れを殴っていた。
剣に手をかけて今にも走り出そうとしているルーナを、隊長とア
316
リスちゃんが必死に止めている。
﹁喋るなって言っても聞きゃしない、立てって言っても聞きゃしな
い。なあ、騎士ルーナ。あんたが黒曜を説得してくれないと、梃子
でも動きそうにないな、これ。別に、哀れな捕らわれのお姫様をこ
の場で救出に来てくれてもいいんだぜ? かっこいいよな、巷で流
行りの、あんたらを主役にした小説だなぁ。でもな﹂
大仰に広げた手を流れるように胸の前につけ、まるで騎士のよう
な一礼を披露したゼフェカに、周囲の誰もが苦々しい顔をした。
ルーナの眼光が凄まじいことになっている。視線だけで人が殺せ
るなら、ゼフェカは即死だろう。余波を食らって私まで即死しそう
だ。とばっちりである。
そんな視線をもろに喰らっているはずなのに、ゼフェカは平然と
口端を吊り上げた。
﹁できないよな。二国の王冠は俺らの手の内だもんなぁ。いいんだ
ぜ? 式典を前にして、王冠を二つとも熔かされたいんなら﹂
﹁貴様ぁ!﹂
アリスちゃんが、ゼフェカを噛み殺さんばかりに怒鳴った。
﹁オウカン﹂
知らない単語だ。
﹁おっと、黒曜は知らないか。国王が頭にかぶるやつって言ったら
分かるか?﹂
[王、冠⋮⋮?]
王様の頭にあると思い込んでいた物。こっちの世界ではないんだ
なと思っていたのに、本当はここにないといけないものだった?
驚いてルーナを見れば、ぐっと何かを飲み込むような顔をした後、
小さく頷かれた。
﹁な、何故にして!? オルカン、非常重大重要禁則事項!﹂
﹁どこにだって裏切り者はいるさ。グラースにも、ブルドゥスにも。
この世のどこにも、誰もが不満を抱かない治世なんて存在しない。
そしていま、誰が多大な不満を噴出させているか、あんたらが一番
317
分かってるはずだ﹂
沈黙は、肯定だ。
ルーナ達から表情が消え失せ、王様やその近くに並ぶ人達がぐっ
と何かに詰まった。
大事な話をしている時を丸々寝こけていたようで、何も話が分か
らない。
﹁騎士ホーネルト﹂
グラースの王様が低い声で言った。
﹁ルーナ、待機ぞ﹂
隊長が呻くように言う。隊長、言葉を覚えるなら俺のが先達だと
お手本になってくれた隊長。貴方のおかげで、私の評価は今日も珍
妙です。
分かっているのは、私はまだルーナに飛びついて泣けないこと、
今更だけどゼフェカが敵なこと、二国とも王冠を奪われる大ポカを
やらかしてること。
分からないのは、いつになったらルーナに飛びついて泣けるのか、
ゼフェカは何をしたいのか、不満いっぱいなのは誰なのか、王冠は
どこにあるのか、今日のアリスちゃんのパンツの柄は何なのか、だ。
たぶん、どうにかなるのなら、皆はいま私を助けてくれた。だけ
ど、苦々しい顔をしながらもルーナのほうを止めているというのな
ら、そういうことだ。
ルーナが苦しそうだ。噛み切りそうになっている唇が、渾身の力
を持って開かれていく。
駄目だ、と、反射的に思った。ルーナに言わせちゃ駄目だ。
﹁ルーナ!﹂
視界の端でゼフェカが動いた気配がして、ばっと腕を上げて顔を
庇う。喋ったので殴られるかと思ったけれど、ゼフェカは肩を竦め
ただけだった。
ほっとする。殴られるのは痛いし怖い。
でも喋る。だって、ルーナに言わせちゃ駄目だと思うのだ。私だ
318
って言いたくないけど、元年上の意地もある。
﹁私、私なるは平常! 通常業務が元気溌剌いい天気!﹂
笑え、笑え笑え、私!
ルーナがいなくても平気なんて言いたくないけど、いまこの状況
を耐えろなんてルーナに言わせたくない。ルーナは何も悪くないの
に、私の我慢までルーナに背負わせちゃ駄目だ。
私が大丈夫なのは、私の所為だ。だから、大丈夫じゃなくなって
も、ルーナの所為にだけはならない。そうなったら私の所為だ。後、
ゼフェカ。
ぐわっと口を上げて笑う私に、アリスちゃんが教えてくれた。
﹁カズキ、外は豪雨だ!﹂
﹁豪雨ぞり!?﹂
いつの間にか外は豪雨だったようだ! ついでにいうと、私の胸
中も豪雨だよ!
事情も事態も、何も分からない。だったら私は、私のことをしよ
う。私にとって大事なことを優先しよう。
﹁ルーナ、私は大事ない! 平常、通常、普遍! 平和的解決、物
理も可! 平時、日常、毎日! 平穏無事に推奨物理!﹂
﹁黒曜、言いたいことは分かるのに、全然心に響かない。後、変な
の混ざってる﹂
﹁ゼフェカなるからは、放置希望﹂
ほっといてください。ルーナに響けばいいんですよ、ルーナに。
退出しようとするゼフェカに引っ張られてルーナが遠くなってい
く。挫いた足を庇いながらひょこたんひょこたん歩いてついていく
しかない。じゃらじゃらと鎖がうるさい。
口元を引き結んだ兵士さんが大きな扉を開けてくれる。
﹁黒曜様、どうか、ご無事でっ⋮⋮!﹂
悔しそうな様子に、私のほうが申し訳なくなる。
続く天井の高い長い廊下が見えた。どこまで続くのだろう。そし
て、この長い道を頑張って進んでも会いたい人はいないんだなと思
319
うと、足が鈍る。
﹁おい﹂
ゼフェカの咎める声を無視して、もう一度振り向く。
﹁ルーナ!﹂
唇を噛み締めたルーナがまっすぐに私を見ている。こういうルー
ナは怖くない。
昔はよくこういう顔をしていたから、その度に、抱きしめるかチ
ョップするか後ろから膝かっくんした。でも、今はそのどれも出来
る距離にいない。
ならば口で伝えるしかない。大体、私は元気だと伝える前にこれ
を伝えるべきだったのだ!
﹁ルーナ、恋愛してる! 凄まじく恋愛してる、非常事態に恋愛し
てる︱︱!﹂
﹁カズキっ⋮⋮! 俺も、俺も愛してる!﹂
そうして扉は閉まったのだけど、左右の兵士さんががちゃがちゃ
いってるのは何故なんだろう。寒いんですか、震えてるんですか、
風邪ですか。重たい鎧着て大変ですね。
彼らがさっきより悲痛な顔をしている気がするのは気のせいだろ
うか。物凄く口元を引き結び、何かに耐えるように目を見開いてい
る。いつもお仕事お疲れ様です。
﹁まずい⋮⋮騎士ルーナに勝てる気がしない。敵に回すべきじゃな
かったな⋮⋮⋮⋮﹂
ゼフェカの呟きの意味は分からなかったけど、ルーナが凄いのは
事実なので、堂々とどや顔しておいた。
兵士さん達の呼吸が物凄い勢いで噴火した。異世界の風邪は恐ろ
しい。
後、凄い唾が飛んできた。
それを見たゼフェカに﹁自業自得だよ﹂と冷たい目で言われたの
が納得できなかったので、﹁私はルーナを緊急招集に恋愛してるぞ
320
り!﹂と胸を張ったら、兵士さん達の頬が爆発した。
異世界はまだまだ、理解できないことで満ち溢れている。
後、凄い唾が飛んできた。
321
26.神様、ちょっと夢が見たいです
これ以上怪我をしないように足元を気にしながら、ゼフェカにつ
いていく。鎖は途中で外してくれた。もう逃げないと判断されたの
だろう。
人払いがされているからか、普段からこうなのかは分からないけ
れど、廊下を歩いている時に誰かと擦れ違うことはなかった。等間
隔で左右に兵士さんが立っているだけだ。
そして、はたと気が付く。
足元ばかり見ていたから、まったく道が分からない。どこをどう
曲がったらさっきのえっけんの間、に戻れるのか分かる気がしない。
こうなることを予想していたら、ちゃんと道順を覚える努力はした
のに!
覚えられるかどうかは、また、別のお話である。
そして、﹃えっけん﹄の漢字が思い出せない。どんなに思い出そ
うとしても﹃閲覧﹄しか出てこない。まず﹃えっ﹄が駄目だ。全然
出てこない。越境の﹃えっ﹄とか? 絶対違うのは分かった。
ああ、携帯が恋しい。携帯といえば、私のバッグはどうなったん
だろう。エレナさんのお家に置いてきてしまった。リリィ達がくれ
たお助け袋も取り上げられたままだ。ルーナの元に戻ったという、
あの可愛い首飾りも、どうなったんだろう。
唯一残っているのはリリィから貰った首飾りだ。それを服の上か
ら握りしめる。
大丈夫。大丈夫だ。特に根拠はないけど、そう思えている内は大
丈夫だと思うことにしている。大体、大丈夫って、大きく丈夫と書
くのだ。私は丈夫だ。更にそこに大がつく。小でも中でも並でもな
く、大がつくのだ。そう考えると、どこまでだって行ける気がして
きた!
322
この考え方を友達に話したら﹃うん⋮⋮あんたならどこまでも行
けるよ。それで帰ってくんな﹄と言われた。私の友達は凄く優しい。
優しすぎて涙がちょちょ切れそうだ。
足音が消えたことに気付いて顔を上げれば、大きな扉の前に立っ
ていた。
さっきから何度も通った扉も凄かったけれど、いま目の前にある
扉は格が違う。屋内にあるから扉だと思っていたけれど、これは、
扉というより門に近い気がする。
﹁俺はここからあんたを黒曜とは呼ばない。カズキって呼ぶからな﹂
左右に兵士さんが三人ずついるのに、そんな人なんて居ないかの
如く振る舞うゼフェカに違和感がある。王宮とか偉い人の家では、
兵士さんとかメイドさんとかは、そこにいても用がない限りいない
ものとして振る舞うのが一般的だと聞いたことがあった。けれど、
無視するのも気が引ける。例え知らない人でも会釈ぐらいはするほ
うが、私にとっては気が楽だ。
とりあえず会釈してみたら、無表情だった兵士さんの眉がぴくり
と動いた。
﹁こっからは城の中でもわりと解放されてる部分になる。下手すり
ゃ商人とかも入ってこられる区域もあるから、まあ、余計な事する
な、言うな。いいな﹂
ルーナから離された恨みで、沈黙で返すと念を押された。
﹁したら荷物な﹂
﹁了解ぞ﹂
私の意地もなんのその。即答してしまった。あちこち痛いのでこ
れ以上の打ち身は勘弁願いたい。
﹁おい、開けろ﹂
左右の兵士さん達は射殺しそうな目でゼフェカを見ている。目は
口ほどにものを言うと知っていても、本当に実感したのはこっちの
世界が初めてだ。
323
大きく分厚い扉が数人がかりで開かれていく。開いた先には左右
四人ずつ兵士さんがいる。彼らは皆一様に同じ表情をしていた。
﹁黒曜様っ⋮⋮!﹂
悔しいとその眼が語っていた。
別に誰が悪いわけではないのに、いや、ゼフェカは絶対悪いけど、
彼らがそんな顔をする必要なんてない。
だから、大丈夫だと伝えようとへらりと笑い、軽く会釈してその
前を通りすぎる。
皆が痛ましいものを見る目になった。
﹁気丈に笑われてっ⋮⋮なんてお労しい!﹂
秘儀、笑って誤魔化せ作戦の成功率は、かなり低いようである。
ゼフェカが言った通り、扉の先は同じ城内のはずなのにまるで別
の建物みたいだった。ここに来るまでは、廊下も含めて全て室内だ
ったのに、扉を出て少し歩けば中庭のような場所を見下ろせる渡り
廊下を通った。確かに豪雨である。
人の通りも多く、高そうな服を着た人達や、その人達に礼をして
道を譲るメイドさん達がいた。それなのに、私達が歩く道ではほと
んど誰とも擦れ違わなかった。
ひょこたんひょこたんと不恰好に歩く私の歩調に合わせてくれる、
ゼフェカの優しさが悔しい。いっそ物凄く嫌な人だったらスムーズ
に嫌えた。フレンドリーさが欠片もなくて、ただ怖い人なら素直に
脅えられた。はっきり言って、心底憎むという気持ちが今一分から
ない。たぶん一番近いのは金歯に飛び掛かった時の感情なのだろう
けど、あんな激情、日本ではめったにお目にかかれなかった。
そもそも、嫌うのは苦手なのだ。嫌いなものに気力を向けるくら
いなら、好きなものに飛びつきたい。ついでに、苦手なものは先に
食べる派である。先に片づけてしまい、最後は好きなものをたっぷ
り堪能するのだ。ただし、宿題は例外である。あれは最終日に徹夜
324
する物だ。
特に会話もなく、とにかく歩くことだけに集中する。たまにちょ
っと物陰に入って人をやり過ごしたりする以外、これといって出来
事はない。
何で隠れるのだろうと思ってゼフェカを見上げたら、面倒だからと
だけ返ってきた。何が面倒なのかまで聞いても答えてくれないだろ
うと思ったのでそれ以上聞かない。
建物や内装が物珍しいので映画みたいだときょろきょろしていた
ら、それも禁止された。だから、顔は動かさないように目だけぎょ
ろぎょろさせて頑張っていたら怖いと言われた。全く、難しい男で
ある。
流石お城というべきなのか、壁は厚くてしっかりしているようで、
屋内に入れば雨の音はほとんど聞こえない。開けた通路などでは雨
音で会話も聞こえないくらいだった。
どこをどう歩いたのか、どれくらい歩いたのかも分からないまま、
ただただゼフェカについていく。すると、いつの間にか辿りついて
いたらしい。左右を兵士というより騎士に近い男の人が固めている
扉の前で立ち止まったゼフェカは、彼らを手だけで制して中に入ろ
うとした。男の人は、素早い動作でその耳元に何かを囁く。
﹁⋮⋮⋮⋮て?﹂
﹁⋮⋮い。⋮⋮⋮⋮すが、⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮と﹂
何か予定外の事でもあったのだろうか。ゼフェカは小さく舌打ち
して自分で扉を開いた。促されるままに部屋に入る。
そこには誰もいなかった。たぶん、こういった場所ではごく一般
的なのだろう、私からしたらアンティークっぽいなと思う家具が揃
っている。奥に続く扉の先は寝室だろうか。トイレだったらどうし
よう。カズキの冒険はここで終わってしまった! の再来だろうか。
私を椅子に座らせたゼフェカは、扉の前の男の人に何か指示を出
している。聞こえない。聞き耳を立てに行きたいけれど、一度座っ
てしまうとどっと疲れが出て立ち上がれなくなってしまった。足と
325
かお尻がぷるぷるしている。攣りそうだ。これは、計らずもヒップ
アップ体操をしてしまったのではないだろうか。嬉しいじゃないか!
ルーナ、次に会えた時は見違えた私を見てください。体重計がな
いから分からないけど、いろいろ引き締まって、スタイル良くなっ
てるはずだから! きっとこういうのを怪我の功名というのだ。ただでは転ばないと
もいう。
このままいけばきっと私は、憧れのナイスバディ所持の大人の女
になれる!
キュッ、キュッ、キュッ、だ!
⋮⋮⋮⋮あれ!? ボンどこいった!?
今度バストアップ体操しよう。
目の前のテーブルにお茶が用意されていく。この世界ではペット
ボトルもお茶パックもない。ちゃんとお湯の温度とか、茶葉の量と
か、茶葉を浸してからの時間とかを考えながら入れないと、鬼のよ
うに苦くえぐく苦しく悲しいお茶が出来上がる。身悶えながらも全
部飲むのを付き合ってくれたルーナ、本当にありがとう。そしてご
めん。
それに、向こうでの﹃美味しくお茶を入れるやり方﹄の問題だけ
でなく、こっちの世界の茶葉は凄まじく味が濃いので、一つまみで
いいのだと大笑いしながら教えてくれたティエン。日本茶の感覚で
茶葉を入れていた時にどうして教えてくれなかったのか。げらげら
とお腹を抱えて笑い転げるティエンを背負い投げしたルーナは、こ
の世の誰よりかっこよかった。勿論、あっちの世界でも誰よりかっ
こいい。
何の躊躇いもなくお茶を入れている様子で、ゼフェカの慣れを感
じる。だったら安心して飲めそうだけど、目の前に現れたお茶を受
け取りつつ、口をつけるのをちょっと躊躇う。確かに喉はからから
326
だ。からからだけど、本当に何も入っていないのだろうか。何か入
っていても答えてくれないだろうけど、一応安全か聞いてみよう。
﹁こちらなる茶は、破損はないか、ぞり﹂
﹁不良品じゃないはずだけどな﹂
そう言ってあっさり自分の分を飲み干したゼフェカを見て、私も
口をつける。慎重に飲むはずだったのに、あまりに喉が渇いていて
一気飲みしてしまった。ちょうど良い温度でした。
﹁美味い?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぞり﹂
たぶん美味しかった。一気飲みしたから後味しか分からないけど。
﹁ありがとう﹂
お茶を入れてくれたから、お礼はする。
けれど忘れちゃ駄目だ。忘れているつもりはなかったけど、どう
しても意識から外れがちになってしまう。
ゼフェカは、凄いことをしている。凄い、悪いことをしているの
だ。何も分かっていない私が悪いとか決めたらいけないのだろうけ
ど、犯罪なのは確かだ、と、思う。
そんな相手とこうやってお茶を飲めているのは、私が平和ボケだ
からだろうか。ゼフェカをいい人だなと思っているわけでは決して
ないけど、極悪人や嫌な奴だと思いづらいのはこの気さくな感じが
あるからだろう。
やっぱりつんつんして、クールに接するべきだろうか。それとも
少しでも仲良くなって、情報を引き出すとか⋮⋮⋮⋮馬鹿に出来る
だろうか。
悶々と考え込んでいると、その様子を興味深げに眺めていたゼフ
ェカと目が合った。なんですか、私が考え事をしてたらそんなに珍
しいですか。私だって常に考えている。その結果が珍妙ではない保
証はないけれど!
まじまじ見られて、ちょっと居心地悪くなる。場を持たせるため
327
にお茶を一気飲みするも、空だった。そういやさっき飲み干したん
だった。
﹁あんたってさぁ、真面目な顔してたら普通に見えるのになぁ﹂
寧ろそれ以外の時はどんなふうに見えてるのかを問い詰めたい。
たわけ? 珍妙? 阿呆? お馬鹿?
碌なものがないね!
﹁あんたっていつも元気だよなぁ。それもお国柄? そういや、あ
の変な恰好なんなんだよ。俺がかっこつけてるのに台無しだろ。あ、
それともなんかの儀式? クッキーの時みたいな儀式の一環? な
あ、もっかいやってみてよ﹂
﹁拒否拒絶﹂
あれは大切な人達に私は元気だと伝えるための手段であって、ゼ
フェカを面白がらすためじゃない。足痛いし。今やると絶対に足が
攣る。自信がある。満々だ。
﹁ゼフェカがルーナなるなら、如何様に幾千万回でもって、存分に
披露実行を躊躇しないにょろりが、対戦相手がゼフェカなるは多大
に不平不満が大爆発にょ﹂
ルーナがやってというのなら喜んでやろう。足が折れてても頑張
る。でも、頑張って見せる相手がゼフェカではやる気も出ないとい
うものだ。そもそも、ゼフェカを喜ばせようと思わないし、何をし
たら喜ぶかも検討がつかない。
思い出すのは苦しそうな顔をしたルーナだ。あんな顔ばかりさせ
ている気がする。笑ってくれたら物凄く嬉しいのに、その為なら奇
怪ダンスでも何でも踊るのに。
珍妙ダンスを踊る私を見て笑うルーナを夢想する。あ、アリスち
ゃんが痛いものを見る目で私を見ている!
何だか思考がうまく働かない。いや、アリスちゃんの目は簡単に
浮かび上がるけど。
ぼんやりとした思考の中で、ゼフェカの声がぐるぐる回る。なん
328
だか夢の中にいるみたいに身体がふわふわしてきた。
﹁騎士ルーナなぁ、あんたと恋愛してるってのが未だに信じられね
ぇよ。あんたも恋愛してるってのが信じられねぇ。本気で。そもそ
も、あんたが女だってことも未だに不思議でならないんだけど、ね
ぇ何で?﹂
真顔で言われても困る。それと、何だか物凄く疲れた。頭がぐら
ぐらしてくる。
やはり、また薬か!?
ぐわっと目を見開いて睡魔に耐えると、ゼフェカが仰け反った。
﹁うお!?﹂
﹁睡眠をとるのも仕事の内だぜ! なる作戦失敗ぞ!﹂
﹁へ?﹂
そう何度も眠らされてなるものか!
テーブルに勢いよく額を打ち付ける。視界がぶれて星が散ったけ
れど、目はしっかり覚めた。
そんなに簡単な女と思わないでほしい。早々何度も同じ手に引っ
かかる程甘い女ではないのだ!
どや顔でゼフェカを見ると、凄く残念なものを見る目で私を見て
いた。そうだろうとも! 作戦失敗で残念だろうとも! やっと出し抜けたと胸を張っていたら、深々と溜息をつかれた。
﹁俺、なぁんにもしてないんだけど﹂
﹁虚偽申告ぞ︱︱。理屈なるは、私ぞ凄まじき、お、あいつ寝ちま
ったぜ、だりょ!﹂
﹁いや、あんたそれ、普通に疲れて眠いだけだろ。丸一日馬に乗り
続けて疲れない人間がいたらお目にかかりたいぜ﹂
呆れたように言って、吸いこまれそうな大口で欠伸したゼフェカ
をよく見ると、目の下にべったり隈があった。途中眠って︵眠らさ
れて︶いた私と違い、延々と長距離馬を操っていたゼフェカは私以
上に疲れているはずだ。
あれ⋮⋮? じゃあ私、無駄骨ならぬ、無駄額?
329
じんじんする額に、どっと疲れが溢れた。
﹁そのような︱︱⋮⋮﹂
﹁そんなぁ⋮⋮って言いたかったのかなと思ってるんだけど、正解
?﹂
﹁回答拒否拒絶にょ⋮⋮⋮⋮﹂
力が抜けて椅子の背凭れに倒れ込む。身体を捻って背凭れに頭を
押し付けて目を閉じる。もう、体中バキバキだし、痛いし、足腰な
んてそろそろ感覚が無くなってきた。
あ、もう寝たい。なんだか常に眠っている気もするけど、全身が
だるいし、疲れた。
でも、お風呂も入りたい。
こっちの世界のお風呂はボタン一つでお湯が溜まったりしない。
水を汲んできて沸かして、それを更に風呂場へ運ばなければならな
い。リリィ達の所みたいに一階に大浴場があって薪で沸かすんだっ
たらまだ楽なのに、上の階にお風呂がある場合、水を運ぶのは必須
だ。
今の状態でお風呂の準備をする気力も体力もない。もう寝てやる。
それで、夢の中でルーナに会うんだ︱︱⋮⋮。
﹁あんたさぁ、泣かないねぇ﹂
聞いたことのない響きの声が上から降ってきた。優しさとも、穏
やかさでもない。なんだか淡々としているのに、それでいて冷たさ
を感じない声音だ。
﹁流石に、騎士ルーナに会えたら感極まって泣き出すかと思ったん
だけど、まさか奇怪ダンス踊ってるとは思わなかった⋮⋮﹂
﹁私なるは、ルーナが元気溌剌いい天気なるにょが、一等ぞ﹂
だからゼフェカの予想なんてどうでもいいです。
その気持ちを態度で現す私に苦笑が聞こえた。もう目も開けたく
ない。このまま眠りたい。
﹁なあ、あんたはさ。自分の世界に﹂
眠りたいし、もう喋りたくないという態度を全面的に押し出して
330
いるのに、それを気にも留めないゼフェカが話しかけてくる。まあ
私も、ゼフェカの要望を気にも留めないのでお揃いだ。
[カエリタイ?]
そんなこと分からない。帰りたくない訳じゃないけど、その結果
がルーナとの別離なら選べないし、選びたくない。だから答えない。
そもそも、何でゼフェカにそんなこと答えなければいけないんだ。
自分の中でも結論を出せていないことを、ルーナと会えない原因を
作ってるゼフェカに答えたくない。
うとうとしてきた思考に何かが引っかかる。それに思い至った時、
眠気は完全に吹き飛んだ。飛び起きた私に、ゼフェカは驚かなかっ
た。
[日本語!? ゼフェカ日本人!? なんで!? え!? いつか
ら日本人!? 昨日!? 今日!? 明日!?]
﹁あ︱︱、何言ってんのか分かんない。俺が知ってるのそれだけだ
から、他は全く分かんないの。とりあえず座って座って﹂
[これが座っていられるか︱︱!]
落ち着けと言われて落ち着けるものではない。勢いのままに立ち
上がった私は、挫いた足に全体重を乗せてしまった。
[うぉふぅ⋮⋮]
勢いは完全に挫かれ、へなへなと椅子に崩れ落ちる。痛い。
﹁⋮⋮⋮⋮あんた、ほんとに馬鹿だろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮至極尤も恐悦至極﹂
﹁ほら、足見せてみろ﹂
どこからか救急箱みたいなのを持ってきたゼフェカは、手慣れた
様子でとろりとした液体を足首に塗る。その上にガーゼが乗り、包
帯がきっちりと巻き直されていく足首は、きつくはないけど動かせ
ない。固定するように巻くやり方も昔習ったけれど、私はうまく巻
けなかった。
﹁あんたは、もうちょっと怪我しないようにうまく立ち回れよ。あ
んたの男が泣くぞ。後、俺が殺される。すげぇとばっちり﹂
331
﹁少々はゼフェカの責務にょ﹂
﹁大半はあんたの所為だって認めるのかよ﹂
ははっと声を上げて笑う様子は、まるで普通の人みたいだ。気の
合う男友達みたいに思えてしまう。打てば響く人は大好きだから、
余計にだ。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
線引きを間違えちゃいけない。礼儀は守る。これは相手の為じゃ
なくて自分の為だから。
けれど、ゼフェカの為には、動かない。
﹁ゼフェカは、何事?﹂
﹁せめて何者って聞いてくれよ⋮⋮﹂
がっくりと項垂れた後頭部を見て、いやぁと頭を掻く。その辺は
いつも申し訳ない。
﹁内緒﹂
﹁てめぇ顎がたがた言わせるぞごらぁ! ぞり⋮⋮⋮⋮﹂
﹁すげぇしょんぼりしながら怖いこと言わないでくれる!? ミガ
ンダ砦の奴ら、ほんと碌な事教えてないな!﹂
そんなことはない。皆、いろいろ話しかけたり教えたりしてくれ
た。なのに、ちゃんと覚えられなかった私がいけないのだ。まあ、
どんどん珍妙になっていく様子を面白がって加速させてくれた面々
は酷いと思う。正しく覚えた部分を改悪されたと知った時は思わず
空に向かって吠えてしまったのも、今ではいい思い出だ。あの日か
らしばらくの間、私のあだ名が野犬になったのは許さないけど。せ
めて狼にしてほしい。かっこいいから。
﹁ゼフェカ、これは一体何事な言語は如何様に習得獲得したのわよ﹂
まさか、自分とルーナ以外から日本語を聞くとは思わなかった。
当初私が、こっちの単語を﹃もぎゃ﹄﹃ぷも﹄﹃べるんちょ﹄とし
か発音できなかったように、皆にとっては日本語の発音が難しいの
だ。
332
それに、私から覚えたとは考えにくい。だって、私は帰りたいな
んて言ってない。今は勿論、十年前だって。ルーナの前でも、言わ
なかった。
﹁ゼフェカ!﹂
﹁あんたの狼狽えた顔見れて俺は満足だし、お喋り終わり。時間切
れだし﹂
﹁制限時間?﹂
﹁そ、時間切れ﹂
ひょいっと竦められた肩越しに見える扉がいきおいよく開いた。
﹁ゼフェカ!﹂
部屋の中に飛び込んできたのは、綺麗なドレスを着た、綺麗な女
の子だった。目が大きい、顔小さい。後、異様に肌が白い。この世
界では珍しく、髪も瞳も黒色だから余計にそう思うのかもしれない。
黒は女を美しく見せるそうだしね!
ちなみに、その特典は私には当てはまらなかった。地味になった
だけだった。もしくは制服。泣けるね!
女の子は駆け込んできたいきおいのまま、ゼフェカに抱きついた。
﹁ゼフェカ! 良かった! 無事だったのね!﹂
﹁はいはい、無事だって。勝算がなきゃこんな賭けには出ないって
散々言っただろ?﹂
﹁でも、心配で﹂
﹁うん、心配してくれてありがとう﹂
危なげなく女の子を受け止めたゼフェカは、今まで見たこともな
いほど優しそうに笑って、優しそうな声で名前を呼んだ。
﹁スヤマ﹂
﹁何ぞり﹂
鳥肌立った。あんた馬鹿だろって言ってくれた方が何百倍もまし
だ。そんな声音で呼ばれて、きゃあ! 恥ずかしい! とか思える
のはルーナだけです。
333
それまで嬉しそうにゼフェカに抱きついていた女の子が弾かれた
ように私を見た。そしてゼフェカに視線を戻し、もう一回私を見た。
二度見ありがとうございます。
﹁こく、よう?﹂
﹁そう、彼女が本物の黒曜﹂
﹁これが!?﹂
三度見頂きました!
本日もご利用頂き、誠にありがとうございます! またの二度見
を心よりお待ち申し上げております!
そろそろ私の二つ名が決まりまそうだ。
私の名前は、二度見のカズキ!
宜しくね!
334
27.神様、ちょっと休憩入ります
女の子は、驚愕したとでかでかと書いた顔で、私をまじまじと見
つめている。動くたびに長いたっぷりとした黒髪が揺れた。そのま
まシャンプーのCMに出られそうなくらいきれいな髪だ。
﹁ゼフェカ、これ本当に黒曜なの?﹂
﹁誘拐したら、騎士ルーナがずっと俺に殺気飛ばすくらいには、本
物﹂
﹁嘘でしょう⋮⋮﹂
呆然とした声をあげた女の子の目が、また私を向く。大きな目の
中で黒が揺れる。
見る見るうちに、その綺麗な顔を盛大に歪められていく。嫌悪感
に満ちた顔になった女の子は、飛び退って私から離れた。
﹁臭い!﹂
[臭い!?]
慌てて自分の腕のにおいを嗅いでみる。すると、生乾きの洗濯物
の臭いと、ちょっと焦げの臭いと、汗の臭いと、土の匂いと、草の
匂いと、胸いっぱいに獣の臭いがした。
うん、確かに臭い!
﹁あ、忘れてた。俺は軽く流してから着替えたけど、あんたそのま
まだったね。風呂入ってこいよ⋮⋮⋮⋮薬塗らなきゃよかったな﹂
さらりと言われたけど、ちょっと恨めしい。自分だけさっぱりし
てるなんて羨ましい!
そして、お風呂どこですか!
お風呂は部屋の中にあった。ついでにトイレもあった。
335
残念、カズキの冒険はここで終わってしまったけれど、今回ばか
りはありがたい。あまり歩きたくないのだ。
温めないよう挫いた足は縁に乗せて湯の中に浸かる。じわじわと
染みこんでいく温かさに勝手に息が漏れた。
[ほへ︱︱⋮⋮]
自分で用意しようと腕捲りしていれた気合いは必要なかった。既
にお風呂の用意は整っていたからだ。誰かが入る予定だったのもし
れないけど、入ってこいと言われたので遠慮しない。入れてくれた
人ありがとう。
色んな傷に染みたけれど、やっぱりお風呂に入るのは気持ちがい
い。日本人だもの。頭の傷のことを考えるとあんまり洗わないほう
がいいかもと思っても、しっかり髪を洗ってリンスまでつけてしま
った。女の子だもの。
花の香りが強い石鹸は、基本的にお高い品なので、泡立ちも良い。
リリィとエレナさんの家でもそうだったけれど、石鹸もシャンプー
もいい香りがする。
悲しいことに、砦にいた時の石鹸は洗濯石鹸との違いがよく分か
らなかった。もっと悲しいことに、シャンプーは、なかった。
がしがしになっていく髪を哀れに思った隊長が、そっと補給物資
の欄にシャンプーと、更にリンスを追加してくれたことに心から感
謝したものだ。ただ、何故かリンスに嵌ったのが男達だった。さら
さらになったと、初めての感触に喜んでいる皆を見るのは嬉しかっ
たのだけど、巻き込まれて無理やりつけられたルーナの髪が一番綺
麗だったのは凄いと思う。そして、皆の話題に入れなかった隊長の、
悲しい背中が忘れられない。しょんぼり丸まった背中の上で、きら
りと光る頭部が眩しかった。
[隊長とは話せなかったけど、元気そうだったなぁ。うん、何より
だ]
336
そういえば、隊長はよくルーナと喧嘩していたけど、今はどうな
んだろう。喧嘩というか、ルーナが一方的に突っかかっていたよう
にも見えた。その様子は、反抗期の子どもみたいでちょっと可愛か
ったのだが、隊長にはショックだったようで、丸いつるりとした頭
を撫でながらよく相談されたものである。戦闘職の人達の中では一
際小柄な背中がしょんぼりと丸くなっていくのが可哀想で、励まそ
うとついつい長く話し込んでしまったものだ。しかし、あれだけ話
し合ったにも拘らず、翌日には必ず﹃ルーナが、ルーナが手前をひ
どく凝視するので候︱︱!﹄と号泣していた。思春期の少年の気持
ちが分からないと、隊長と二人で散々悩んだものである。つんつん
したルーナは可愛かったけど。
隊長がしょんぼりしていない時は、ティエン達にからかわれてい
るルーナを温かく見守った。あの時はまだお姉さんぶっていた時期
だ。それがいつのまにかルーナを好きになって、今ではすっかり大
人のルーナを見上げている。時の流れとは凄いものである。
あの頃は既にルーナが日本語を覚えてくれていたので、こっちの
世界の言葉で会話したのは隊長が一番多かったかもしれない。
﹁それなる結末がこの様だぜぞ!﹂
感謝もたくさんしているけど。
隊長、ああ、隊長。恋愛相談にも乗ってくれた隊長。何故かその
後、更にルーナにつんつんされて相談にやってきた隊長。何故かそ
の後、更につんつんされていた隊長。
隊長のちょっと情けないへらりとした笑顔を思い出したらもう駄
目だ。ぶくぶくとお湯に沈んで顔を覆った。隊長に会いたい。
そして撫でたい。あのつるつるした形良い頭を撫でまくりたい!
正直、女友達感覚だった隊長。今日も素敵につるりんぱでしたね!
両手で顔を覆ってもだもだしていたら、上げていた足が滑って溺
れた。鼻の奥が痛い。
337
長湯してのぼせたのと、身体が温まって睡魔が再び襲撃してきた
のとで、ぼんやりしたまま脱衣所に用意されていた服をもそもそ着
込む。元々着ていた服はどうすればいいんだろう。ちょっと考えた
けれど、結局このままでいいかという結論に達した。自分でするに
してもどうせ後になる。今はもう無理だ。眠い。
濡れた指の包帯も外して洗濯物に重ねる。
大欠伸しながら部屋に戻ったら、睡魔が撃墜された。あれだけ私
に進軍してきた睡魔は、その一撃であっさり沈んだ。
女の子が見慣れた服を着てくるりと回っている。たっぷりとした
黒髪がシャンプーのCMみたいに広がった。
﹁夜会、本当にこれで出ないといけないの? 何だか男みたい﹂
﹁そのほうが、君が黒曜だと信憑性が増すよ。本当は小物も揃えた
かったんだけど、流石名門アードルゲ。女でも剣の腕が立つから、
それだけしか奪えなかったんだ。こっちの被害のほうがでかかった
よ、正直。だから、そうしてほしいな、スヤマ﹂
優しげな声に、お風呂上りだというのに鳥肌が立つ。あんた馬鹿
だな呼びを希望します。でも、今はそれどころではない。
﹁私なるの所有着衣!﹂
彼女が着ているのは、私がこっちの世界に着てきた服だ。今の私
が持っている、数少ない日本の物。いや、持ってはいないけど。奪
われてるけど!
それを、モデルか女優さんかと思うくらい綺麗な女の子が着てい
る。
[在庫一掃セール1540円のジーンズと、タイムセール500円
のTシャツと、土日目玉商品980円のカーディガン⋮⋮⋮⋮]
お買い得品ゲットできたと諸手を上げて喜んだ過去が走馬灯のよ
うに蘇る。嬉しかった。楽しかった。幸せだった。それなのに⋮⋮。
俯いて、今の自分の恰好を見下ろす。紺のふんわりしたワンピー
338
スドレス。裾には白い刺繍が施され、レースやフリルも派手じゃな
いくらいについている。
私は頷いた。
こっちのほうが可愛いね!
﹁うわ、すげぇ笑顔﹂
﹁しかしながら、返却要求却下は閉口するぞり﹂
返してもらえないのは困る。大事な物なのだ。日本を感じること
のできる、大切な服なのだから。
﹁嫌よ、返さない﹂
それまで黙っていた女の子は、私を睨み付けるような目で一歩進
み出た。
﹁スヤマの名前も、黒曜の地位も、騎士ルーナも⋮⋮全部、私の物
よ。そうしてくれるってゼフェカが約束してくれた。だから、全部
私の物よ。絶対返さない﹂
そんなに睨まれても、困る。だって私はこの子を知らない。知ら
ない人から敵意を向けられても困る。それに、上から下までセール
品のちょっとよれた私の服を着た美少女に、睨みながら返さない宣
言をされても、正直、微妙な気持ちにしかならないんだけど、どう
しよう。
結論、困った。
﹁まあまあ、後で迎えに来るからそれまで好きにしててよ。眠いな
ら寝室はあっち。服は皺になるから脱いでくれな﹂
﹁何故にして着用しやがれしたぞり⋮⋮﹂
どうせ脱ぐならもっと気楽な服を用意してくれたらよかったじゃ
ないか。お風呂上りで汗ばんだ身体にこの服は、さらりとした長い
キャミソールを下に着ても、着づらかったのに。
﹁まあ、寝るんならだけど。ああ、それと﹂
何かを続けようとしたゼフェカの身体を引っ張って自分の方に向
けた美少女は、不安そうな顔をしていた。
339
﹁ゼフェカ、本当に、本当に騎士ルーナと夜会に出られるの? 今
までどんなに頑張っても全く話せなかったのに⋮⋮﹂
なんと、ルーナが誘惑されていた。衝撃の事実である。
目の前で悲しそうな顔をする女の子、﹃自称スヤマ﹄をまじまじ
見つめる。
ばさばさ動く長い睫毛、星がきらめいていそうな大きな瞳、血管
見えそうな白い肌、ぷくりとした唇。そして、全体的に小さく細い。
何歳なんだろう。たぶん十代だろう、くらいしか分からない。
そして凄く可愛いですね。この子に誘惑されて靡かないとか、ル
ーナは超人ではなかろうか。私なら即死だった。
不安そうな自称スヤマの肩に手を置き、ゼフェカは優しそうに微
笑んだ。鳥肌が立った。何でだろう。あんなに優しそうなのに。
﹁大丈夫。まあ、ちょっと条件は付けられたけど。ああ、そうだ。
カズキ、さっき言ったこと訂正な﹂
何故ここで私に振られたのだろう。そして、眠い。撃墜されてい
た私の睡魔が復活してきたようだ。ごめんね、私の睡魔。あなたは
決して弱くなかった。寧ろしぶとい。
頭がぐらぐらしてきた。
﹁如何なる箇所を訂正ぞりん⋮⋮﹂
非常に眠い。もう何でもいいからさっさと話しを終わらせてくれ
ないだろうか。これは寝ないと駄目だ。何も考えられなくなってき
た。今なら立ったまま眠れる。
﹁一日馬走らせて疲れねぇ人間なんているかって言ったけど、いた
わ﹂
それは凄いね。どこの体力お化けですか。
そう言おうと思った私の言葉は、どんっと重たい音で揺れた扉に
遮られた。
﹁な、何!? 襲撃!?﹂
自称スヤマさん、私が言いたいことを言ってくれてありがとう。
340
音は一回だけだった。ごくりと、私か自称スヤマさんが呑み込ん
だ唾の音が響く中、扉が開いていく。まさかとは思うけど、あれは
ノックだったのか。扉を一撃で粉砕させるつもりなのかと思う音だ
ったけど。
﹁やべぇ、凄い怒ってる。じゃあ、俺らは撤収するから夜までごゆ
っくり﹂
﹁敵前逃亡私も望むじょ! 戦場放棄に私も参加じょ︱︱!﹂
誰が来たか知らないけど、一人にしないで!?
ゼフェカは青い顔をした自称スヤマさんの肩を抱いたまま部屋を
出ていく。開かれた扉の陰に二人が入ろうとしたとき、自称スヤマ
さんが目を見開いたのが見えた。青いのか赤いのかよく分からない
顔をしている。
その顔を見て、私は決意した。
よし、逃げよう。
くるりと取って返した身体に、何かが巻きついた。
﹁うおわぎゃぁあああ!﹂
こんな時に﹃きゃあ!﹄とか可愛い悲鳴なんて出ない。腹の底か
ら飛び出た悲鳴を恥じたりしない。そんな余裕あるわけない!
全力で暴れようとした左手ががちりと固定された。
﹁折れてる手を振り回すな! 全部折る気か!﹂
[ルーナ!?]
掴まれた手と腰に回された腕を振り払い、凄い勢いで身体を反転
させてしまった。しかも、そのまましっかりと抱きつく。反射的に
抱きついてしまった私の身体がしっかり抱き直された。
硬い胸元に額を押しつけて、息を吸う。
[ル、ルーナ?]
﹁俺かどうか自信がない男に抱きつくのはやめてくれ﹂
[ルーナ]
﹁本当にやめてくれ﹂
341
[ルーナだ]
﹁絶対にやめてくれ﹂
[分かったからその話から離れてくれませんかね]
どれだけ念を押すんですかね。押されるようなことをしてきた身
としては大変申し訳ないけれど!
硬い身体にぎゅうぎゅうと抱きつく。ルーナだ。ルーナがいる。
何でかは分からないけど、ルーナがいる。一瞬夢かと思ったけど、
それにしてはやけに温かいし、硬い。この硬さはルーナだ。間違い
ない。
﹁カズキ﹂
[ルーナだ]
﹁顔が見たい﹂
[いま顔上げたら泣く、絶対泣く]
頬に掌が当てられて、優しい力で上を向かそうとしてくる。顔を
振ることでそれを払い、胸にぐりぐりと押しつけた。
[物凄い勢いで泣くよ。大爆発ってくらい泣くよ。爆散ってくらい
泣くよ]
あれだけルーナに抱きついて泣き喚きたいと思っていたのに、い
ざ手が届く場所に現れると躊躇してしまう。泣かずに済むのならそ
れでいいんじゃないかと思ってしまう。
つらさを分かち合わせてどうする。日本でのうのうと生きてきた
私が、戦場で生きる年下の少年に自分のつらさを押し付けてどうす
るんだ。ああ、違う。ここはミガンダ砦じゃない。ルーナはもう子
どもじゃないし、あの時と泣きたい理由は違う、はずだ。
分からない。もうぐちゃぐちゃだ。泣きたいけど泣きたくない。
泣くのならルーナの前にしようと思っていたのに、どうしよう。
今は、ルーナの前でだけは泣きたくない。
大切なんだ。
342
大切だから、笑ってほしい。笑った顔を見たい。笑った顔を見て
ほしい。
私のつらさも悲しさも、この子に与えるべきじゃない。私の弱さ
を背負わせてどうするんだ。私は年上なのに。違う、ルーナはもう
大人だ。分かっている。でも、ルーナに悲しい思いなんてさせたく
ないのは、彼が大人でも子どもでも変わらない。
だって、ルーナが大好きなんだ。
﹁爆散は困る、が﹂
顔を上げたくないのに、ルーナは膝をついてしまった。そうされ
ると立っている私の顔を覗きこめる。だったら更にその下に潜って
やろうとした私の顔が掴まれた。
澄んだ水色がまっすぐに私を見ている。人生の中で最も綺麗だと
思う物を選べと言われたら、私は迷わずこの瞳を選ぶ。
﹁泣くのは甘えじゃない。弱さでもない。泣くことを自分に許せる
なら、それは強さだ﹂
綺麗な瞳を持つ人が、綺麗な顔で笑った。
﹁それを俺に教えてくれたのはお前だろう﹂
カズキ。
優しい声が私の名前を呼ぶ。膝をつき、私の両手を包んだルーナ
は、その手に唇を落とした。澄んだ水色がまっすぐに私を見上げる。
ああ、なんて綺麗な晴れの色。
﹁仮令弱さであっても背負わせてほしい。昔は、カズキが俺の弱さ
を背負ってくれた。頽れたら支えてくれた。カズキにそうできる権
利を俺にくれないか。そうできる相手に、俺を選んでくれないか。
ごめんな、カズキ。俺が弱かったから、そうやって頑張ってくれて
たんだよな。でも、今なら大丈夫だから。カズキが倒れてもちゃん
と支えて歩けるから。やっと追いついた。だから、今度は俺にお前
を守らせてくれないか﹂
顔がぐしゃぐしゃになるのが自分でも分かる。たぶん、私は今、
343
物凄くぶさいくだ。
それなのにルーナは、何か大切なものを見るみたいに私を見上げ
ている。私も、こんな瞳を出来ていたらいいなと思う。こんな目で、
大切な人を見ていたい。
﹁泣いてくれて、ありがとう﹂
[ぞ、ぞんなの、わだじのぜりふだがら!]
息ができない。身体の奥から涙としゃくり上げる衝動が湧き上が
ってくる。ポンプで押し出されたみたいに泣きだした私の頭に手を
回して、肩まで誘導してくれたルーナに甘えて思いっきり首に抱き
ついた。
漫画やテレビみたいに綺麗に泣く方法なんて知らない。湧き上が
る衝動のままに、全部ぐちゃぐちゃに泣き明かす。
私のぐずぐずになった不明瞭な視界の中に、すっきりとしたルー
ナの首筋が見えた瞬間、涙腺が暴発した。
[がみが、がみがない︱︱!]
三つ編みしたいなと思っていた長い髪が根元からばっさりなくな
っていた。どうりで今まで腕に当たっていた、男なのにつるりとし
た綺麗な髪の感触がなかったわけだ。
﹁いや、髪はある﹂
[ぐび︱︱!]
﹁首もある﹂
[ない︱︱!]
﹁あるから﹂
別に、ルーナが髪を切ったからといって泣き喚くほど悲しいわけ
じゃない。けれど、もう何に対して泣けばいいのか分からなかった
私は、しばらくそのネタで泣き喚いた。もっと他に泣き喚く箇所は
いっぱいあったのに、どうしてそれだったのかは後になっても分か
らない。
344
[あだば︱︱!]
﹁頭もある﹂
[だいぢょーみだいになっだら、づるづるざぜで︱︱!]
﹁⋮⋮お前、隊長と仲良すぎだからな。お前も隊長も、同性の友達
感覚ってなんだ。女友達なのか? 男友達なのか? どっちなんだ
?﹂
[ルーナ、ずぎ、だいずぎ︱︱!]
ぎゅうぎゅう抱きついていた身体がやんわり引き剥がされる。
﹁俺も好きだよ。ずっと⋮⋮カズキが好きだよ﹂
本日二回目に重なった唇は、私の所為で物凄くしょっぱかった。
345
28.神様、ちょっと休憩短すぎると存じます
ルーナに抱きついたまま散々泣いた。
泣いても泣いても腹の奥から湧き上がってくるように衝動が治ま
らない。ルーナがいることに泣いて、ルーナの髪がないことに泣い
て、ルーナが抱きしめてくれることに泣いて、泣いてることに泣い
て。
もう何に泣いているのか分からなくなるまで泣いた。ルーナはず
っと私を抱きしめてくれている。幸せだなぁと思う。思うのだけど。
何度も何度もキスを仕掛けてくるルーナの口を掌で押さえる。む
っとした顔をされても私だって困るのだ。
[いぎ、でぎない]
[鼻でしてくれ]
[どぅるどぅるでずげど]
はらはらと美しく泣く技術なんて持っていない。女優さんとかあ
れはどうやっているんだろう。そこまで考えて、はっとなる。
あれが女子力!?
ルーナから手渡されたハンカチで鼻をかむ。こっちの世界はティ
ッシュがないから鼻をかむのはハンカチだ。抵抗感が半端ない。鼻
をかんだハンカチは厳重に折りたたんで、裏ポケットに放り込む。
後で洗おう。
いつか鼻水を自在に制御できる女子力を身につけるから、それま
で待っててね、ルーナ。
[えら呼吸できなくてごめんね]
[誰もできないから気にするな]
346
[ルーナは相変わらず優しいねぇ]
[えら呼吸できない恋人を責めるような男になるほうが、難しいと
思うぞ]
ルーナは、さっきまで私が使っていたお風呂場に入っていき、汲
み置きされている綺麗な水瓶を持ってきた。それに、どこからか取
り出したハンカチを浸す。ハンカチ何枚持っているんだろう。一枚
も持っていない私の女子力の低さが悲しい。いや、私だって普段は
持っている。一枚だけど。
絞ったハンカチを手渡されたので、もう一回鼻を噛もうとしたら
止められた。
[目元を冷やしたほうがいい。その格好ってことは、この後夜会に
出される可能性がある]
[へぇー]
[それ、白いエプロンつけたらメイド服だからな]
[なーるほど!]
道理で裾や袖にはちょっとした装飾がついているのに、胸元とか
お腹周りはすっきりしてると思った。この上にエプロンがくるわけ
ですか、可愛いね!
日本ではあまり縁のない格好にちょっと上がったテンションだっ
たけれど、いろいろと聞きたいことを思い出して急降下していく。
[そうだ! ルーナ、エレナさん達は!? 無事!?]
[お前が一番無事じゃない]
[いっ⋮⋮!]
消毒液を浸したコットンみたいな物が、遠慮なく額につけられた。
凄く沁みます。
[全員軽症だ。アードルゲ当主からは、服を奪われた事への謝罪が
あったが、侵入者十四名捕えていれば充分すぎる]
[エレナさん達すっごい]
エレナさん達が無事でよかった。ゼフェカもそんなことを言って
いたけど、信用できない。ルーナの口から聞けて本当によかった。
347
[それにしても、ルーナはどうしてここに?]
[この後の夜会で﹁ギコク﹂の供をしろとの要求に、条件を付けた。
この時間を取れないなら、俺は王冠を溶かされても要求はのまない
と言っただけだ]
[なるほど⋮⋮なんのお供って言った?]
[あー⋮⋮偽の黒曜だ]
[あー、だから﹁偽黒﹂]
丁寧に拭われていく傷口の痛みに悲鳴を上げないよう唇を噛み締
める。ただし、身体はぐねぐねうねってしまった。だって痛いんで
す。
額を覗き込むルーナの目つきが鋭くなっていく。間近でそれはや
めてほしい。痛みとは別に逃げたくなる。
[これはあの男か]
[え? ああ、これは、天井付近にあった通風孔めがけて壁走りし
たら盛大に落ちた!]
[何やってるんだ⋮⋮]
てきぱきとガーゼを当てて包帯を当てたルーナは、次に私の左手
を取った。
[指は]
[ゼフェカを殴ったら折れた!]
[何やってるんだ⋮⋮]
てきぱきと添え木を当てられ、やっぱり二本纏めてくるくる巻か
れていく。
[足は]
[栄光の第一歩が土竜の穴に⋮⋮⋮⋮とても、悲しい事件でした]
[本当に何やってるんだ⋮⋮]
深い深いため息を吐きながらも、ルーナの手は止まらない。自分
でするよと宣言するタイミングを完全に逸した。よく見ればお風呂
に入る前にゼフェカが使っていた薬品箱じゃない。
[それ、どうしたの?]
348
[持ってきた。あんな男が用意した薬なんか使えるか]
[うぐ]
ずっと使ってましたとは言えない。黙っておこうと口を噤んだら、
半眼を向けられる。何故ばれた。
眉間に皺をよせて黙々と手当をしてくれるルーナを見下ろしなが
ら、私も黙る。いっぱい話したいことも、聞きたいこともあったの
に、ありすぎて出てこない。でも、たぶん、こうしていられる時間
はずっとじゃない。聞けるときに聞いておかないと後悔する。そし
て、話せるときに話しておかないと、凄く勿体ない! 時は金なり
! ちなみに、そのお金はあっちのお金ですか、こっちのお金です
か。そこ大事だ。
[ねえ、ルーナ。髪どうしたの?]
[切った]
[そうですね。見たまんまですね]
しょきんと包帯を切って顔を上げたルーナと目が合う。見上げら
れると一瞬仰け反りそうになる。理由はルーナがイケメンだからだ。
怖かったからとかそんなわけが、ある。内緒にしよう。
内緒なのにルーナの目が半眼になっている。何故ばれた。
[⋮⋮願掛けの意味合いもかねて伸ばしていたから、お前と会えて
もういいだろうと切った]
可愛く嬉しい理由だった。私は思わず両手で自分の頬を押さえる。
髪を伸ばしたルーナもかっこよかったけれど、惜しむらくは一度解
いた姿を見たかった。
失われた濃紺の髪に思いを馳せていると、ルーナは急に真顔にな
った。
[ら]
[ら?]
[その晩にお前は浚われ、血のついた首飾りが送りつけられてきた]
349
[うぉわああああ!?]
なんというタイミング!
淡々と話しを続けるルーナの無表情さが、感情を剥き出しにする
より如実に感情を表現している。
[翌日、身内の不幸等の理由で、この時期に黒曜候補の後見人が半
数も領地に帰った。その内の一人がドレン・ザイール、あの偽黒の
後見人であり、バルマの領主だ]
[鉄の街、バルマ]
[知ってたのか]
意外そうに眉が動いたので、あの晩のことを話した。無表情から
少しでも表情を出したかったからなのに、今度はどんどん眉間に皺
が寄っていく。厩舎で馬を見送った辺りは呆れ顔をされた。望んで
いた表情はそれじゃあなかったかな。
[でも、どうしてあの金歯が犯人って分かったの?]
黒曜候補の後見人がどれだけいるのかは知らないけれど、半分も
の人が怪しい行動を取ったのなら特定にもっと時間がかかると思う
のだ。何か決定的な証拠でもあったのだろうか。
[あまり詳しいことは言えないが、ガルディグアルディアの情報網
だ、とだけ]
[リリィ!]
[⋮⋮他の事は興味なさそうだな。で、だ。バルマに向かった]
別に興味がないわけじゃないけど、思いもよらないところで会い
たい人の名前が出たからテンションが上がってしまっただけである。
ちょっとだけうきうきしながら話の続きを待つと、ルーナの表情
が潮が引くみたいにすぅっと失われていく。
[ら]
[ここでまた、不吉な﹃ら﹄が!]
[ザイールの屋敷は全焼する、道沿いの岩陰に血の付いた包帯が落
ちている、その町の裏路地にはお前の世界の文字で﹃墓﹄と書かれ
た齧りかけのクッキーが落ちていた]
350
[大半私の所為だった!]
後、ゼフェカ!
しかし、これはルーナに土下座したほうがいい気がする。大変申
し訳ない。なんというか、どれも悪気はなかったのに、こうも重な
ると思わぬところでひどい事態が勃発していた。
思わず神妙な顔つきになる。そのまま土下座して謝罪しようとし
て、ぴたりと止まる。
[ルーナ、私、石の塔の地下室しか燃やしてないんですけど]
[分かってる。ドレン・ザイールが見当たらなかったから、恐らく
証拠隠滅を図って燃やしたんだろう。あれだけの火災で死者が出な
かったのは、故意に燃やしたからだ。誰も消火に当たっていなかっ
たからな]
[よかった⋮⋮]
全部燃えた、ざまあみろとはどうしたって言えない。死者が出な
かったのは何よりだ。
自分を浚った相手の家とはいえ、自分が原因で全焼したと聞けば
気が気じゃない。火災保険とか絶対入っていないだろうし。そもそ
もこの世界、保険の概念も無かったりする。災害なんかがあると、
国からお金が下りてくるらしいので、ある意味税金が保険替わりな
んだと思う。詳しいことは知らないけれど。ちなみに、日本でのこ
とだって詳しいことは知らない。もっと勉強しておけばよかったと
思わないでもないけれど、結局必要になるまでしないんだろうなと
思う。自信満々だ!
[ねえ、ゼフェカは何がしたいの?]
[分からない。あの男が一番、何も分からない。ドレン・ザイール
の目的は一つだが、あの男はどこから現れたんだ⋮⋮]
[え!? 目的分かってたの!?]
びっくりだ。私には形を捉えるどころか、雲を掴むよりさっぱり
351
だったのに知らないところではいろいろ解明されていたようだ。
そりゃ、私はこの世界に戻ってきて日が浅いし、元々砦の事しか
知らなかった身の上だ。この国の内情や時事問題に詳しいわけがな
い。だから、決して私が馬鹿なわけではない、と、思う。
ルーナが首に手を持ってきたので、ちょっと傾ける。そこの傷は
そんなに大きくないみたいだからもう治りかけているはずなのに、
ルーナは痛そうな顔をした。
[バルマは鉄の生産で潤ってきた町だ。戦争が終わり、今迄みたい
に大量の武器を必要としなくなった現在では、大分廃れてきたと聞
いている。元々、鉄が取れる以外は特徴がなかった町だ。鉄精製所
が多い分、観光にも向かない。あの町は、長い戦争で得をしてきた
物の一つだ]
[そうなんだ⋮⋮⋮⋮え、それで何で私が連れて行かれたの?]
全く関係ないのではなかろうか。
少し考えて、ぴこんと考えが浮かんだ。
[あ! 鉄を使った商品アイデアが欲しいとか! 異世界人的な発
想でとかそんな感じの!]
だが、残念金歯! 鉄と言われてぱっと思い浮かぶのは、鉄鍋や
フライパン、鉄棒くらいだ。他にもいろいろあるだろうけど、とり
あえず思いついたのはこんなものだ。そして、そんな物はこっちの
世界にもある。
私の役に立たなさを思い知るがいい!
どうだと胸を張ったら、首を振られた。
[違う。ドレン・ザイールは戦争をしたいんだ]
[は?]
ルーナはいま何語を喋っているんだろう。本当に分からなくて聞
き直す。
[ドレン・ザイールは、二国議会の議員に自分を選ばせるつもりだ。
その為の偽黒だろう。奴は、再び戦争を起こしたい。だから、戦争
回避の為に作られる二国議会は邪魔だろうな。ただし、奴一人が紛
352
れ込んだくらいでどうにかなるともな⋮⋮庶子として二十歳くらい
まで田舎で暮らしていたそうだが、そんなに賢くないと太鼓判を押
されていた男だ。奴一人でここまでの騒動を起こせるとは到底]
[戦争!? せっかく終わったのに!?]
ずっと日本語を喋ってくれていることに今更気づいたけれど、そ
んなことは吹っ飛んだ。詰め寄ろうとした顔をがしりと掴まれて動
きを止める。
[動くな。まだ首の手当てが終わってない]
[ひゃい]
手が大きすぎて、私の鼻を若干潰してます、ルーナさん。
大きくなったなぁと、これまた今更ながらしみじみと感じる。ル
ーナは大人になったんだ。知らない十年間がこの顔である。うん、
怖い。
[せっかく終わった戦争始めてどうするの⋮⋮]
[武器を作りたいんだろう。奴は鉄を売り込めたらそれでいいんだ]
[馬鹿じゃないの]
するりと零れ落ちた言葉は揶揄ではない。心からそう思ったのだ。
自分勝手。その文字が頭に浮かぶ。でも、これはただの自分勝手
じゃ済まされない。そんな問題じゃない。戦争は、そんな理由で始
まっていいものじゃない。どんな理由でも始まっちゃいけないもの
なのに。
[エレナさんは、あの戦争で何も失わなかった人間なんていないっ
て言った]
[失っているだろう。人間性を]
ルーナは淡々と手当を続けた。
[戦争の儲けは奴を金の亡者にした。それだけの話だ。⋮⋮⋮⋮俺
達が守ったものは何だったんだろうな]
三百年もの間、二国の人達は何の為に戦ったのか。
失って失って疲れ果て、そうして得た物が平和じゃなかったのだ
ろうか。なんて遣る瀬無いんだろう。
353
だんだん下を向いてしまいそうになって、慌てて顔を上げる。首
の手当てをしてくれていたルーナは、何も言わずに手当てを再開し
た。
[え、ちょっと待って。それで何で私]
[馬鹿なんだろう。それか、質だろう。王冠で充分な気もするけど
な]
[そんな適当な理由!?]
納得いかない。どうせ浚われるならもっと明確な理由があったら
嬉しかった。あったら嬉しいけど、なくてもまあ⋮⋮みたいなおま
けですか。そりゃ、壮大な理由で浚われても背負えないけれど、何
となく憮然とした気持ちになる。人間って我儘な生き物だ。
[出来た]
[ありがとう]
[もうないか?]
[たぶん!]
[全部見せろ]
[絶対嫌だ]
じりっと詰め寄ってくるルーナを、蟹歩きで避ける。ほら、こん
な動きも平気で出来るくらい元気だよ!足痛いけど!
落下した時にしこたま打ったお尻の痣だけは絶対に隠し通して見
せる。この年にもなって、まるで蒙古斑みたいな痣になっているお
尻だけは絶対に見せてなるものか。そういえば、こっちの世界の赤
ん坊に蒙古斑は出るんだろうか。今度聞いてみよう。
今は他に話さなければならないことがいっぱいあるから後回しだ。
だが、私には確信があった。絶対忘れる。
[あ!]
[どこだ]
[怪我じゃない!]
354
すかさず伸びてきた手を握って止める。握り返された。嬉しいけ
ど違う。目的は果たされたからいいのだけど、何となく恥ずかしい。
繋がった手の所在に困り、ぶらぶら揺らしてみた。
[ゼフェカ、日本語喋ってた!]
[何?]
[後、ルーナは何でずっと日本語なの!?]
[どうせどこかで会話を聞かれているだろうから、その対策だった
んだが⋮⋮日本語? あの男が?]
ルーナは真剣な顔になった。難しい顔をして黙り込む。
その顔が凄い怖いとは言いづらい雰囲気だ。ついでに、手を振り
払って逃げ出したいとも言いだしにくい。仕方がないので話を続け
る。
[帰りたい、しか分からないって言ってたけど。たぶん、本当じゃ
ないかなと。日本語でぶわーって喋ったときも、全然分かってなか
ったような気がする]
[⋮⋮⋮⋮分かった。報告しておく]
そのまま黙り込んでしまったルーナを見上げながら手を揺らす。
どうしよう、この手。放していいんだろうか。それはそれで勿体な
い気もする。せっかくルーナが目の前にいるんだから、もうちょっ
とこのままいたい。揺らす必要は全くないけど、一度揺らし始める
と止めるタイミングが掴めなくなってしまった。
ルーナが難しい顔で何かを考えているので、私も何かを考えよう。
思い浮かぶのはあの女の子だ。
[ルーナ、あの子は誰か知ってる?]
考えたところで結局ルーナに聞かなければならないので、ルーナ
の思考の邪魔をしてしまった。申し訳ない。
[いや、彼女の詳細も不明だ。年の頃は十五だそうだが、それも定
かじゃないんだ。本物の黒曜を名乗った者は全員、染粉や薄ガラス
の確認をされる。結果、彼女の髪も瞳も、何も手が加えられていな
かった]
355
それは凄い。だからこそおかしい。
この世界では、黒髪黒瞳は全く存在しない訳じゃない。ただ、凄
く珍しいのだ。どちらかだけでも珍しいのに、両方揃っているとな
ると物凄く珍しい。そんな女の子が今まで誰にも知られずに一体ど
こにいたんだろう。
ルーナと話せていろいろ分かった気がしたけど、気の所為だった
ようだ。
ほとんどなんにも分からない!
まあ、情報交換できただけでよしだ。分からない場所が分かって
きたこともよしだろう。なんにも進んでいないのは全然よくないけ
ど仕方ない。世の中こんな物である。ひょいひょいとんとん拍子で
進むと、どこかで手痛いしっぺ返しが来るものだ。
もともと、私は部外者だ。ぐるぐる回っているけれど、この世界
からしたら部外者の余所者が、調子に乗って首を突っ込んでいいレ
ベルの話はとっくに超えていると私でも分かる。
だからまずは落ち着こう。やるべき事を考えたいけれど、何が余
計な事かも分からない。だったら聞くのがいいと思うのだ。私だっ
て何か役に立ちたい。
[ねえ、ルーナ。私は何をしたら役に立てる?]
[何もしないでほしい]
[ですよね!]
即答された。しかも真顔で。この宙ぶらりんの決意をどうしよう!
[出来るなら、今すぐ確保して連れ帰りたい⋮⋮]
[ルーナが私より日本語達者で涙目だよ、ほんと]
[出来る限り怪我をしないように、カズキがつらくないように過ご
してほしい。こっちの世界の都合で散々振り回している俺が言える
ことじゃないけど、もう駄目だと思ったら、俺は王冠よりお前を取
るぞ]
それはまずいと思うのですよ、ルーナ。
そう言いたかったのに、こっちを見る水色の瞳には決意済みと表
356
示されていたので黙る。この目をしているルーナはかなり頑固だ。
大人になった分威力も倍増に思える。
大きな掌が、顔を通り過ぎて首の後ろに回った。細い感触が首を
擽る。
[次に贈るのは指輪にする。そのほうがまだ安心だ]
ルーナの首飾りが私の首に帰還した。指輪なんていらないよ、ル
ーナ。私はこれがいい。この首飾りがあればそれでいいんだよ。⋮
⋮⋮⋮嘘です、指輪も欲しいです。というか、ルーナから貰えるん
ならその辺に落ちている平べったい石でも狂喜乱舞するよ! 棒で
も、草でも、紙ゴミでも︱︱!
嘘です。ゴミは流石にいりません。捨ててきてって言うんなら捨
ててくるけど。
首元で小さく揺れる大事な首飾りを指でつつく。私もルーナに何
か贈りたい。手持ちがないので何も贈れないけれど、いつか何か贈
れたらいいなと思う。待っててね、ルーナ。初お給料入ったら何か
贈るから! アリスちゃんにもお世話になったお礼に何か贈りたい。
きのこ柄パンツ贈るのはセクハラだろうか。
こんな時だからこそ楽しい想像をしてみる。リリィの所でもいい
し、どこか街角のパン屋さんとかで働いても素敵だ。花より食い気
なので、お花屋さんよりパン屋さんのほうが向いているだろう。日
本でもパン屋さんでバイトしたことがあるし。焼き立てパンの匂い
最高だった。ただし、焼き立てパンを陳列するのは非常に難しいの
が難点だ。
働いて、お給料もらって、お世話になった人みんなに贈り物を買
いたい。都合が合うなら、リリィやエレナさん達と一緒にお買いも
のもしてみたい。
そんな日が、いつか来るといいな。
[うへへ︱︱]
357
ルーナと目が合ったので、何となく笑ってみた。女子力の欠片も
ない笑い方だったのは反省している。けれどルーナも目元を緩ませ
て笑ってくれた。繋いだ手を無意味に揺らしても抵抗しない。
いいなぁ。こういう時間が好きだ。こんな風に普通の中に幸せを
見出して生きるほうが好きなのに、現実はどうにも難しい。
[ルーナ]
[何だ?]
[呼んでみただけ︱︱]
[何だ、それ]
小さく声を上げて笑ってくれたルーナに、もっと楽しくなる。あ
あ、こんな時間がずっと続けばいい。そんなのは無理だと分かって
るけど、せめてもう少しだけでも。
突如、水色の瞳が忌々しげに歪められた。もう少しも駄目ですか、
そうですか。私は休憩時間の終わりを知った。
ここんっと呑気なノック音がして、返事も待たずに扉が開く。
﹁お楽しみ中お邪魔しますよっと﹂
﹁ちっ﹂
﹁ちぃいい!﹂
ひらひらと片手を振りながら入室してきたゼフェカを、私とルー
ナの舌打ちがお出迎えした。
ちなみに、気合が入っている方が私である。
358
29.神様、ちょっと一日長すぎます
部屋に入ってきたゼフェカは、まだ繋いだままの私達の手を見て
にやにや笑う。その顔が無性にいらぁとしたので、ぎゅっと握って
どや顔しておいた。凄く残念なものを見る顔をされたのは何故だろ
う。
﹁あんたには恥らうという選択肢はないのか⋮⋮﹂
恥をかくはあっても、恥らうという選択肢はなかった。これだか
ら女子力のない人間は!
﹁望み通り、そいつとの時間は取ったぞ。後は俺らのお姫様のエス
コート、しっかりこなしてくれよ。怪我一つさせたら承知しないか
らな﹂
﹁こっちの台詞だ﹂
自分の女子力のなさをしきりに反省していると、視界がぶれた。
ルーナに抱きこまれている。筋肉が硬いからちょっと痛いけれど、
何だか嬉しい。そう呑気に思っていたら、段々ちょっとどころじゃ
なく苦しくなってきた。ルーナ、窒息します。
私を無言で強く抱きしめたルーナは、額にキスをしてから離れた。
背中に回っていた手が肩を滑り、腕を通り、指に絡まる。最後まで
私の人差し指を滑らせていった剣だこで硬くなった指が離れた瞬間、
私の手はぷらんと落ちた。
そして、前髪が払われた額に柔らかいキスが降る。
[愛してる]
苦しそうな顔をするルーナを見るのは、私も苦しい。ここは、か
らっと笑って﹃秘儀! 特に意味のないポーズ!﹄をすべきかと考
えていると、ルーナはぐっと唇を噛み締めて部屋から出て行った。
当たり前みたいにキスされた事に動揺する間もないらしい。
359
閉まった扉を見て溜息をついた私の目尻に何かが触れて、反射的
に叩き落とした。
﹁へえ、泣いたんだ﹂
延ばされてきた手を無造作に払ったことには、何の反応もないゼ
フェカが覗きこんでくる。それを三歩下がって避けた。
﹁ゼフェカに関係性のなき事柄﹂
両手で顔を覆って、大きく息を吐く。泣くだけ泣いたし、会いた
い人に会えた。充分だ。泣いたことがばれたのは無性に悔しいけれ
ど、泣き顔を見られたわけじゃないからよしとしよう。
顔を上げたタイミングを見計らってか、目の前に白いくしゅっと
した布が放り投げられた。慌てて両手で受け止める。丸い布が細い
紐で結ばれていた。
﹁それ、キャップ。頭につけて。あーあ、それにしてもなぁ。怪我
させるなって言われてもなぁ。俺に責任がないとは言わないけど、
あんた、真綿に包んでも綿に爪が引っかかって剥げたりとか、勝手
に怪我しそうなんだよなぁ﹂
否定できないのが悲しい。
鏡の前に移動して、髪を一つに纏めてキャップをつける。キャッ
プが落ちないようピンで留めていくにつれて、鏡に映った私とゼフ
ェカの顔がシンクロしていく。最終的には二人とも項垂れた。
五分後、私の髪を纏めるゼフェカがいた。
﹁⋮⋮⋮⋮女って、自分で身だしなみ出来るもんじゃないのか﹂
あちこちがぴんぴこ跳ね、側面がぼこぼこし、がたがたになった
頭が丁寧に纏められていく。言い訳が許されるなら、紐で結ぶって
凄く難しいとだけ言わせてもらおう。
ゴムが恋しい。
﹁あんたの世界じゃどうだか知らないけど、こっちじゃ一般的に、
女が男に髪を触らせるのは惚れてるからなんだぜ?﹂
思わず飛びずさって逃げてしまった。しかし、私の頭は既に完成
360
している。
﹁ありがとうぅぅ﹂
﹁うっわ、そんな忌々しげに礼を言われるとか初体験﹂
自分ではできない頭をちゃんとセットしてもらえたから礼は言う。
これをしなきゃ夜会の会場にもいられないらしいので、そこはあり
がたい、けれど、よく考えたら別に私が行かなきゃいけない訳でも、
行きたい訳でもないのだ。
﹁理不尽﹂
﹁世の中ってそれで出来てるんだぜ。知らないの?﹂
投げられた白エプロンに袖を通す。紐が絡まって少々手間取る。
無言で一回脱いで、どこにどう腕を通せばいいのか確認して着直し
た。もうゼフェカの手は借りない。借りてなるものか。
﹁なあ、知ってる? 男が女に服を贈る理由﹂
それくらい日本でも耳にしたことがあるから知っている。でも、
これは服を贈られたことには入らないと思う。そして、私の恥らい
を見ようとしてもそうはいかない。こんなちょっとしたセクハラく
らい、さらりと流せるのだ。ミガンダ砦で鍛えられた私は、きりり
と答えた。
﹁離脱ぞためと、私とて存じるぞ﹂
﹁離脱!?﹂
﹁⋮⋮着脱?﹂
﹁あ、そっちのほうが近いわ﹂
きりりと間違えた。まあ、いいや。
姿見の前で身なりを確認する。後ろから肩に手を置いて覗き込ん
でくるゼフェカが邪魔だった。白いエプロンは裾と紐の部分にフリ
ルがついていたけれど、後は至ってシンプルな作りだ。可愛い。ポ
ケットが裏側についているのは機能的でいいと思う。今は入れる物
が何もないのが悲しい。
﹁じゃあ行くか。ああ、そうだ﹂
361
部屋から出ようとしたゼフェカがくるりと振り向いたので、たた
らを踏んでしまった。
﹁いいか? 俺達は黒曜と騎士ルーナのお付だからな。余計な事す
るな、言うな⋮⋮⋮⋮余計じゃなくてもするな。寧ろあんたは突っ
立ってる以外、何もするな﹂
﹁それなるは、私を待機指定が最良ぞ?﹂
そんなに念を押すくらいなら、最初から連れて行かないほうがい
いんじゃないだろうか。
私の視線を受けて、ゼフェカも苦虫を噛み潰したような顔をした。
﹁分かってるけどなぁ⋮⋮こっちだって色々あるんだよ﹂
社会人は大変なのだろう。気苦労もあると思う。是非とも、気苦
労さんにはその勢いで頑張ってもらいたい。そしてゼフェカの額は
広くなればいいと思うのだ。ルーナやアリスちゃんの所に所属する
気苦労さんにも召集をかけたいくらいである。
﹁あ、後、スヤマと二人っきりになった時は一応気をつけといてく
れな﹂
何に気をつけろと言うのだろう。さっきルーナに、スヤマに怪我
をさせるなと言っていたからそのことだろうか。もしかして彼女は、
そんなにしょっちゅう怪我をする人なのだろうか。それなら、友達
になれる気がする。こんな出会い方じゃなかったら良かった。
残念な気持ちになり落ちた私の肩に、ぽんっと手が置かれる。
﹁殺すなって念を押しといたけど、ガルディグアルディアの所であ
んたを殺そうとしたのはあいつだから、まあ気をつけといて﹂
﹁危機的状況なるは私だった案件!﹂
﹁一応、私兵はあいつのだからなぁ。いやぁ、危なかった危なかっ
た。死ななくてよかったな﹂
軽いノリで背中をぱんぱん叩かれた。そんなノリで話されても困
る。大丈夫大丈夫と言われても全く信用できない。﹃はいはい﹄と
一緒で、繰り返されると信用できなくなるのだ。
それにしても、なんで初対面の人に命を狙われなくてはならない
362
んだろう。いや、そもそもあの時はまだ会っていなかったから、見
ず知らずの人に、だ。
﹁ゼフェカ、似非スヤマなるは、何故に私を標的にするよ﹂
﹁間違ってはないけど、偽って言ってくれよ、偽って﹂
﹁がせ﹂
﹁に﹂
﹁がに﹂
﹁そっちじゃねぇよ﹂
結局、偽を教えてもらっただけで、質問自体ははぐらかされてし
まった。はぐらかされたのか、私の物覚えが悪かっただけなのかは
悩むところだ。
部屋を出たら、ちょうど隣の部屋からルーナとスヤマが出てくる
ところだった。ルーナはさっきの服に上着を着ている。
﹁じゃあ、行くか﹂
ゼフェカに促されて、スヤマがにこりと微笑む。そして、ルーナ
の腕にするりと腕を絡める。
﹁ええ、行きましょう﹂
にっこりと私に向かって微笑むスヤマを見て、私は自分の頬が引
き攣るのを感じた。正確には、スヤマの隣に立つ、恐ろしいまでに
無表情のルーナが怖い。私はあまりの理不尽に眩暈を覚えた。何で
私が怖がらなきゃならないのか! ふんっと気合いを入れ、全然怖くないという態度を示す。つまり、
どや顔だ。
どうだ、私だってそのルーナを怖がったりしないでいられるんで
すよ! と、スヤマに宣言する。ルーナを見ないのは、これは彼女
に宣言しているからであって、決して、ルーナが怖いからではない
⋮⋮⋮⋮無言の圧力に屈してしまい、ちらりとルーナを見上げる。
するとルーナは、さっきまでの恐ろしい無表情から一変して、小さ
363
く笑っていた。思わずつられる。
きっ、と、睨んでいたスヤマの目が更に険悪になってしまった。
違うんです。あなたに睨まれたのに、嫌みを籠めた笑顔で返した
みたいになったけれど、単にルーナが笑っていたのにつられたんで
す。どや顔対決中に余所に意識飛ばして、勝手に幸せになっていて
誠に申し訳ございませんでした。特に反省はしていません。
しかし、この時の私は知らなかった。
今日一日いろいろあったが、一番つらい時間はこれからだという
ことを。
つらい。
私の心を占めているのはその言葉だ。
視線の先には、いつもより多く飾りがついた服を着たルーナと、
私の安売りコーディネートを着て尚、美しいスヤマが踊っている。
会場中の視線が二人を見ていると思う。
会場に入った瞬間からざわめきが起こった。ルーナにエスコート
されて人の中に進んでいくスヤマの頬は少し紅潮し、潤んだ瞳が彼
女をさらに魅力的に見せている。
﹁騎士ルーナが連れているという事は、あの御方が本物の黒曜様だ
というのか!﹂
﹁帰還の噂は真だったのか⋮⋮﹂
あちこちでそんな声が上がった。みんなの目が輝き、食い入るよ
うに二人を見つめている。波のように広がっていくざわめきも、耳
を凝らせばわりと聞き取れるものだ。
﹁ああ、なんてお似合いなの!﹂
﹁運命に引き裂かれたお二人がいま、こうして再会を果たせるなん
364
て! 本当にお伽噺のようね!﹂
きゃあきゃあ騒ぐ女の人達もいた。皆さん、丸聞こえです。
ルーナがエスコートしていることで、みんなの目には彼女が本物
の黒曜として映っているのだ。
一着いったい幾らくらいになるのか、見当もつかないドレスを着
た人達がいっぱいいる。こういうドレスを見ていたら、日本の普段
着がどれだけ実用性があってシンプルなのか改めて気づける。重ね
着でおしゃれしてる気分になっている場合ではなかった。
私とゼフェカは二人から少し離れた場所で控えることになった。
夜会の会場に入れるのは貴族とか招待状がある人だけかと思ったら、
そんなことはないらしい。どの貴族の人もお付の人を連れていた。
お付の人は、ご主人さんの目線一つで飲み物を用意したり、空いた
席を探しに行ったりしている。
壁の花、という言葉を聞いたことがあるけれど、本当に壁に張り
付いているのは使用人である。
そして私は、じっと立っているだけだ。つらい。
ルーナと踊るスヤマは幸せそうに笑っている。ルーナの顔は恐ろ
しいまでに無表情だったけれど、彼女の目はどこかうっとりしてい
た。私を殺そうとしたり、王冠を奪って国を脅したりしている人だ
とは思えないくらい無邪気に笑っているように見えるのは、私の目
が節穴だからだろうか。
そんな二人を見ながら、私はつらくて堪らない。
だって、凄く暑いのだ!
この世界では、電気がないので光源は全て炎だ。天井に何個もあ
るシャンデリアには蝋燭が大量に取り付けられ、地上でも壁にも柱
にも、テーブルの上にも大量の燭台に太い蝋燭。今が夏じゃなくて
本当に良かった。蒸して熱いだけでもつらいのに、会場中に充満す
る臭いの塊がまたつらい。
ご婦人方の香水はこれでもかと香るのに、何とも融和しない。私
が一番と主張しあう匂いに交じり、会場中に飾られた花の香りもこ
365
れまた凄い。更に食事まで用意されているとなると堪らない。
臭い、暑い、あと眠い。
何、この苦行。シュッシュッしたい。空気清浄器の前をぶん取り
たい。
香水はもともと体臭を誤魔化すためのものだと聞いたことがある。
皆さん、お風呂毎日入ったらいいですよ! と思うのは、日本が水
の豊富な国だからだろう。湯水のようになんて言葉も、所が変われ
ば、宝物の意味で取られたりするのだ。
などと、関係のないことをつらつら考えていても、やっぱり暑い。
心頭滅却すれば火もまた涼し。
強風により、停電でエアコンがご臨終した真夏日。日当たり抜群
の教室で、尚且つ一番日が当たる教壇に立っていた先生は、にこり
と笑って言った。
﹃心頭滅却すれば火もまた涼し。さあ、皆さん。瞑想しましょう﹄
そう言って本当に目を閉じたお爺ちゃん先生の指示に従って、私
達は目を閉じた。どこかで鳴り響く蝉の声がやけに大きく聞こえた
昼下がりは、今でも印象深い。ああ、優しく穏やかだったお爺ちゃ
ん先生の声を思い出す。あの静かな声音で、﹃不可です。残念です
ねぇ﹄と笑ったお爺ちゃん先生。試験滅茶苦茶難しかったです。今
期取り直して励んでいたのに、こっちの世界に来たことでまた落第
だろう。あのままでも落第だった気がしてならないが。レポートの
枚数規定、鬼のようでした。
[心頭滅却心頭滅却⋮⋮⋮⋮雑念多すぎで無理です、先生!]
﹁訳の分からない言葉ぶつぶつ言ってると思ったら、突然叫ぶのや
めてくれる?﹂
バルコニーに繋がる大きな窓の傍でただ立っているだけの私でさ
え、じんわり汗ばんでいる。せっかくお風呂に入ったのにと、残念
な気持ちだ。ドレスを着て踊っている人達はどうやってあの優雅さ
を保っているのだろう。あれが女子力なのか、そうなのか。そして
ルーナも、汗一つかかずにさらりと踊っている。あれがイケメン力
366
なのか、そうなのか。
﹁あーあ、騎士ルーナずっと踊ってるわ。うちのお姫様明日大丈夫
か?﹂
ルーナ達は、ダンスをしている時意外はひっきりなしに話しかけ
られている。それを避ける為か、確かにルーナはずっと踊っていた。
それに付き合うスヤマも、最初は幸せそうだった微笑みが、若干引
き攣って見える。ルーナは完璧な無表情だ。
こっちも﹃黒曜様﹄のお付とあってそれなりには話しかけられて
いるけれど、基本的には全部ゼフェカが相手をしているし、隙あら
ば﹃黒曜様﹄とお話をとそっちに流れていくから、私の役割は本当
に立っているだけだ。
SPとかが必要なほど囲まれたりするのかなと、ちょっとだけ思
っていたけれど、そんな心配は必要なかった。隙あらばと狙ってい
るのは分かるけれど、誰かを押しのけたり我先にと走ったりする人
はいない。対面やプライドもあるのだろうけれど、表面上は皆さん
上品だ。何故か常に笑っている。あれはあれで怖い。うふふ、はは
は、と笑っている人しかいない場所に一人でいると、場違い感でそ
わそわしてしまいそうだ。 だけど、良くも悪くもゼフェカが隣に
いるので、どこか隅っこにいたいときょろきょろしなくて済んでい
る。全然嬉しくはないけれど。それに、既に壁際で突っ立っている
ので隅っこにはいた。
緊張も特にしないので、三重苦から意識が逸れないでつらい。臭
いし、暑いし、眠い。けれど、きらきらと美味しそうに輝く食べ物
に心惹かれたりもする。だってご飯を食べていないのだ。なのに出
席者じゃない人間が食べることはできない。これまた苦行だ。四重
苦である。
本当にやることがないので、会場内の人を観察していようとした
ら、じろじろ見るのは目立つからやめろと言われた。何をしていれ
ばいいんですかね。
367
このままだと立ったまま眠りそうだ。
﹁ゼフェカ、オルカン返却要求﹂
暇なので交渉してみた。
﹁嫌だね﹂
即却下された。そりゃそうだ。
ゼフェカは両手を前で揃え、綺麗に背筋を伸ばしたまま話を続け
た。
﹁そもそも、オルカンなんてへんてこなもの盗った覚えはねぇよ﹂
この姿勢で立っている人がこんな会話をしているなんて、誰も思
わないだろう。そして、たぶん、私がちゃんと王冠と言えないから
この会話は止められてないんだろうと予想をつける。語学力のなさ
が役に立った。
会話が遮られる様子もないので、そのまま続ける。
﹁どちらさんが、オルカン略奪したぞ?﹂
﹁俺じゃないことは確かだなぁ。っていうか、知らない? いまこ
の二国で不満を噴出させてるのが誰か﹂
﹁存じぬが神﹂
﹁確かに、知らないほうが幸せな事ってあるよなぁ﹂
うんうんと一人で納得して頷くゼフェカを見ているのも何だった
ので、視線を会場に戻す。ルーナとスヤマはたくさんの人に囲まれ
ていて、ルーナの頭しか見えない。仕方がないので食べ物でも眺め
ていようと視線を流していると、ふと気が付いた。他の人より体格
がいい男の人と目が合うのだ。目が合えばすいっと流されたけれど、
こうも続くと偶然じゃない気がする。それが一人じゃないのだから
余計に気になる。
﹁軍士だよ﹂
﹁え?﹂
いきなり話が進んで、慌ててゼフェカを見上げる。
﹁ブルドゥスとグラースの民の間では、軍部の縮小、又は解体の声
がでかいんだよ。戦争が終わって十年、英雄だ守護者だのと持て囃
368
されていた軍士は、今や税金の無駄遣い、ただ飯ぐらいの役立たず、
戦争の負の遺物だの、言われ放題だ。騎士はもともと国内の守備職
だから残されるらしいけど、軍士達は解雇しろってあちこちで言わ
れてるんだぜ﹂
あれだけ暑いと思っていた空気が一気に冷えていく。臭いも気に
ならない。血の気が失せていく感覚が鮮明に分かる。
いつも大きな声で笑うティエンが背を丸めていたことがある。違
う戦場で戦友が死んだと歯を食い縛って泣いていた。誰もが何かを
失って、それでも守る為に戦い続けた。それなのに、彼らにかけら
れる言葉はそんな物だと言うのか。守ってもらったのに、色んなも
のを犠牲にしても守ってくれていたのに、守られていた人が返すも
のが、どうしてそんなものなのだ。
ああ、吐きそうだ。人の身勝手さが気持ち悪い。
﹁十年は、人が恩を忘れるには充分な時間だったんだろうな﹂
目の前がちかちかするほど、どんどん血の気が失せていく。失せた
血はどこにいくんだろう。冷たくなっていく手足に反して、心臓の
音は大きくなる。硬質でとげとげした鼓動が大きくなっていく。心
臓だけが激しく動いて、息ができない。
﹁まあ、俺は忘れないけどな。騎士ルーナもあんたを忘れなかった。
忘れない奴は忘れないけど、大多数の奴は今がよけりゃいいんだろ
うさ。だから、三百年も共に戦わせた騎士と軍士の間を裂くような
ことが平気で言える。蟠りしか残らないだろうになぁ﹂
エレナさんの凛とした横顔が浮かぶ。国の為に戦った人達を誇り
と言いながらも、帰ってきてほしかったと願う彼女を前にしても、
その人達は同じ言葉を吐けるのだろうか。
﹁戦時中は、相手に勝つことだけ考えて余力もなかったのに、下手
に余力が出ればこの様だ。人間ってのは業が深いなぁ、カズキ。国
の為に一丸になって戦っていた時代は終わった。今度は、自分の為
に、自分さえよければそれでいい人間達の戦場が始まったんだ﹂
グラースもブルドゥスも、不満があればすべて敵国の所為にして
369
きた。しかし、和平が成り立って十年。民の不平不満をいなす先が
無くなった。そうして、その業を軍人にかぶせるつもりなのか。誰
かの所為にするのはとても楽だけれど、それを、大恩ある人達に擦
り付けると言うのか。
三百年も戦争を続けて内乱が起きなかったのは、ひとえに軍士と
騎士が戦友だったからだと、昔聞いた。賄賂や買収など悪事が蔓延
らなかったのも、ちょっとしたバランスで国が失われてしまうと誰
もが分かっていたからだと。どれだけ地位を買っても、土台である
国が侵略されては意味がないのだ。
そうして保たれていた暗黙の了解が、平和を得て変わっていった
のか。
﹁戦争してたほうがよかったって思う奴が現れても仕方ねぇと思わ
ない? ああ、でも﹂
ずっと背筋を正したままだったゼフェカは、その背を曲げて私の
顔を覗き込み、にたりと笑った。
﹁戦争が終わったの、あんたの所為だっけなぁ。あんたが三百年続
いた時代を終わらせた。あんたの所為で、軍人達は窮地に立たされ
たって訳だ﹂
ああ、吐き気がする。
ルーナも、ティエンも、アリスも、エレナさんも、きっとみんな
知っていた。知っていて、私には教えてくれなかった。優しい人達
だから知らせないようにしてくれたのだ。
そんな優しい人達に、私が返せるものは何もないのか。返すどこ
ろか、奪うのか。
何をどうすればいいのか分からない。いっそ滑稽なまでに膨れ上
がった幻の黒曜とやらが、ぱあっとすべて万事解決してくれたらい
いのに。誰もが幸せな形を作ってくれるなら、服だろうが名前だろ
うが、何でも使ってくれたらいい。全部喜んで差し出すのに。
370
目の前がちかちかして、足元がぐらぐら揺れる。気持ちが悪い。
不快感のような、痛みのような塊が胸の奥を陣取っている。吐き出
したいのに、吐き出したそれが醜い悪態だったらどうしよう。余計
に不快感が増して、更に嫌悪感までプラスされるかもしれない。
三百年続いた時代が終わった。そんなものを私が動かせたとは思
えない。そこまで自分に価値を見いだせるほど図々しくはない。し
かし、何の所為であれ、時代は確かに終わったのだろう。
﹃時代が終わるまで﹄
ゼフェカは、あの地下室でそう言った。戦争をしていた時代は終
わった。そうして二国は十年の歳月を得た。次に終わるのは、何だ。
終わって、そうして次に訪れるのは何なのだ。
このまましゃがみ込んでしまいたいけれど、ゼフェカには縋りた
くない。ちかちかと白く点滅する視界は無意識に縋る人を探す。微
笑む少女と踊っていたルーナがくるりと回った拍子にこっちを見て、
目を見開いた。
ざっと青褪めたその顔で、頽れそうになった足に力が入る。
大丈夫。大丈夫だから、そんな顔しなくていいよ。
足腰に力を入れて踏ん張り、背筋を伸ばして胸を張る。顎を上げ
て視線はルーナに、後は口角を上げるのみ! にっと笑ってみせる。大丈夫だよ、ルーナ。私は今日も元気です。
なんかまた痛そうな顔をさせてしまったけれど、咄嗟に出るのが
笑って誤魔化せなのは、もうどうしようもない。だって日本人だも
の。
小さく口笛を吹いたゼフェカが、いきなり視界の端に消える。驚
いてそれを追うと、ゼフェカの腕を強く引き、ルーナ達のほうに押
しやる人がいた。
﹁何て顔で笑うんだ、お前は﹂
﹁アリスちゃん!﹂
371
炎の色を受けて、少し赤みを帯びた金色の髪を光らせたアリスは、
小さく嘆息してもう一回ゼフェカの身体を向こうに押しやる。たぶ
ん、凄く失礼な行動だと思う。真面目なアリスがしているという事
は、よほど腹に据えかねたのかもしれない。
﹁偽黒が呼んでいるぞ。早く行け﹂
忌々しげに睨みつけられたゼフェカは、ひょいっと肩を竦めた。
﹁はいはい、アードルゲ唯一の男子様の仰せのままに。ああ、そう
だ。カズキ、ちゃんと戻ってくることが条件だけど、もう好きに動
いていいぜ﹂
﹁さっさと行け、賊が﹂
﹁おお、怖い怖い﹂
微塵もそう思っていないと分かる声音で、ゼフェカはこっちを見
ているルーナ達の元に歩いていった。ルーナの顔が遠目でも分かる
くらい安堵している。とりあえずひらひらと小さく手を振ってみた。
ふわりと笑われた。倍返しだ!
[笑って誤魔化せ作戦危険だわ⋮⋮ルーナにされると惚れ直す!]
﹁お前は⋮⋮青くなったり赤くなったり忙しない奴だな﹂
呆れたように嘆息される。その嘆息さえなんだか懐かしくて、思
わず飛びつこうとしたら素早く避けられた。悲しい。
﹁やめろ、たわけ! ただでさせ不安定なこの時世に、騎士ルーナ
との友好関係にまで罅が入ったらどうしてくれる!﹂
﹁アリスちゃんと体感ぞり︱︱!﹂
﹁実感といえ、実感と!﹂
﹁びっちょん!﹂
﹁実感だ! たわけ!﹂
発音って難しい。
でも、さっきまで感じていた息苦しさは一気に霧散した。アリス
ちゃんは偉大だ。
周りの視線は若干気になるけれど、こうして話せる嬉しさに比べ
たらなんのその! ⋮⋮ぐさぐさ視線が突き刺さって背中が痛い。
372
あ、冷や汗かいてきた。
﹁全く貴様は⋮⋮﹂
この短時間で連発された嘆息をもういっちょ追加され、促される
ままに厚手のカーテンの裏に入る。壁があると思いきや、そこは壁
が窪んだスペースがあり、椅子が並ぶちょっとした休憩所のようだ。
他の壁にもこうしたカーテンがあったので、会場のあちこちにある
のかもしれない。
しかし、そんなことに驚いている暇はなかった。そこにいた人を
見て、思わず叫ぶ。
丁寧に結い上げられた茶色の髪に、薄らと化粧を施された白い頬。
小さな身体なのに、子どもっぽさを感じさせない凛とした立ち姿。
﹁リリィ!﹂
薄化粧でそばかすを隠しても可愛いリリィが、こくりと頷いた。
373
30.神様、ちょっと険悪の仲良しです
アリスに飛びついたみたいにリリィの前に走り寄ったけれど、そ
の勢いのまま抱きつくわけにはいかずにブレーキをかける。私じゃ
リリィを弾き飛ばしてしまう。足は痛いけれど、凄く嬉しいからよ
しだ。
最近はずっと誰かを見上げるばかりだったから、視線を合わせる
動作すら幸せだ。
私の前で、会場中の誰より可愛いリリィがこてんと首を傾けた。
﹁カズキ、無事⋮⋮じゃないみたいだね﹂
﹁そうぞり!﹂
﹁それも直ってなかったね﹂
﹁ぞり!﹂
﹁悪化した?﹂
﹁ぞり⋮⋮﹂
気持ちのままに言葉を紡げば、うっかり戻ってしまう。標準語で
話していても、うっかり方言が出てしまうような感じである。誰だ
って話しやすい言葉の羅列ってあると思うのだ。私はそれ以前の問
題だと言われたら否定はできないけれど。
﹁リリィ、邂逅望んでたぞろり!﹂
﹁うん、私も会いたかった﹂
肘まである白い手袋をはめたリリィの両手が、私の両手を取る。
﹁会えてよかった﹂
﹁私も同様! だがでも、リリィは何故にしてこの場に?﹂
﹁娼館燃えたから﹂
さらりとした返答に私も首を傾げた。ああ、リリィ可愛い。
374
リリィは繋いだ私の手をぎゅっと握って、くりっとした瞳で見上
げてくる。可愛い。
﹁これを機にと悪だくみを始めるのは絶対出てくるから、ガルディ
グアルディアは健在だって周囲に知らしめるために顔を出した﹂
成程。大きい組織はいろいろ考えることが多いのだろう。それを
しっかりこなしているリリィはかっこいい。
惚れ直していると、リリィが下からひょいっと覗き込んできた。
﹁の、名目で招待状を構えたけど、本当はカズキに会えるかなって
思って。来てよかった﹂
﹁リリィ︱︱!﹂
もう駄目だ。もうメロメロだ。これは惚れるなというほうが無理
だろう。
思いっきり抱きしめてしまった。最後の理性で、結い上げられた
髪は崩さないように気を使ったけれど、リリィのほうもぎゅうっと
抱きついてくれる。
﹁元気そうでよかった﹂
﹁私なるは、何時如何なる状況下であっても元気溌剌いい天気!﹂
小さな身体を抱きしめるといい匂いがした。そうだ、これが良い
匂いだ。石鹸のような、野原のような、爽やかで少し甘い香りだ。
何事もやり過ぎはよくないと会場のご婦人方に伝えたい。香りなん
て至近距離にいる人が気づけばいいのだ。遠距離射撃してこないで
ほしい。狙った人にだけ狙い撃ちしてください。全然関係のない人
に誤爆しまくるのはどうかと思うのだ。
しみじみリリィのありがたさを堪能していたら、何かに肩をとん
とんされた。
﹁俺もいるんですけどね。全く気付かれていませんけど、実は俺も
いるんですよね﹂
﹁ネイさん!﹂
ネイさんの声がして嬉しくなる。ちなみに、リリィを抱きしめた
ままだから頭は上げていない。今はこの暖かさに包まれて⋮⋮包ん
375
でいたい。幸せだ。ルーナに抱きしめられている時は安堵と一緒に
どきどきもするので、実は一番ほっとする瞬間かもしれない。
いつもしっかりしているリリィだから、子ども扱いはあんまり出
来ないけれど、実はちょっとだけ体温が高いのだ。子ども体温なの
だろうけど、あまりに心地よい温度だから、実はリリィだからとか
そんな理由ではなかろうかと少しだけ思っている。
﹁お嬢様と態度の差が激しいのが凄く気になります﹂
﹁申し訳ございません!﹂
﹁よりにもよってその言葉だけ上達著しいのも気になります﹂
面目ない。使う頻度が多い分、訂正される回数も増え、結果的に
素晴らしい発音と相成りました。
﹁更に重ねるならば、わたしもいるのだけどな﹂
﹁更に重ねるならば、わたしもいるとだけ﹂
聞いたことがあるような無いような声に、流石に顔を上げる。
二人の男の人が椅子に座っていた。どこかで見たようなと少し考
えて、得心がいった。
[書道部っぽい王子様と、ラグビー部っぽい王子様!]
成程。道理で聞いたことがあるような無いような声だと思ったわ
けだ。今日聞いたばかりだから耳には残っていたけど、今日しか聞
いたことのない声だから意識には残らなかったという。ごめん、王
子様。名前知りません。
﹁⋮⋮黒曜は何と?﹂
書道部っぽい王子様がアリスにひそひそと話す。丸聞こえです、
書道部様。
﹁黒曜の言語を解せるのは騎士ルーナだけです。私に分かるのは、
どうせ碌でもないだろうという事のみです﹂
酷い! けど否定もできない!
このやるせない思いをどうしよう。リリィで癒されていたいけれ
ど、流石に王子様の前で抱きついているのもどうかと思ってやめた。
でも、正直、身分うんたらかんたらというのが今一実感が湧かない。
376
なんかよく分からないけど偉い人、だけ分かっていたらいいかなと
思ってしまう。
二人の王子様は、初めて見た時と服が変わっていた。一日に何回
も着替えなきゃならないのは大変だ。あんなに装飾品じゃらじゃら
していたら余計に大変そうである。でも、よく考えるとルーナも着
替えていたし、私なんかお風呂まで入ってしまった。そう考えると
意外と大変じゃない気もする。大変なのはきっと、着替えを用意す
る人と洗濯する人だ。
ラグビー部様に手招きされたので近くまで行ってみる。示された
椅子の右側に立って、どうぞと言われるのを待ってみた。面接だと
これで正しいはずだ。結果、アリスに﹁早く座れ、たわけ﹂と勧め
られたので座った。異世界の椅子の勧め方って斬新だ。
今まで見たこともないほどかっこいい服装と髪型になっていたネ
イさんは、静かに下がってカーテンの傍に立った。他の人が入って
こないよう見張っているのかもしれない。どうでもいいけど、前髪
を上げたネイさんはホストみたいだ。
﹁さて、あまり時間はないが、まずは自己紹介といこう。わたしの
名はアーガスクだ。ブルドゥスの王子をやっている﹂
﹁わたしの名はエリオス。グラースの王子である﹂
ラグビー部様は、いかついごつごつとした、岩! という印象の
王子様だ。
書道部様は、するりとひらひらした、紙! という印象の王子様
だ。
堅苦しい感じで自己紹介されると思いきや、意外と気さくな感じ
だ。あまり難解な言葉は解読できないし、重苦しい空気は得意では
ないので嬉しい。
同じタイミングで自己紹介されて、同じタイミングで握手を求め
られなければ、もっと嬉しかった。
377
しかし、双方譲らない。ぐいぐいと二人の手が突き進んでくる。
困ったので、両手で握手してみた。
﹁ふん、どうだ、エリオス。黒曜の右手は私を選んだのだ﹂
﹁ふん、貴様は忘れてはいまいか、アーガスク。黒曜の利き手は世
にも珍しい左だ﹂
なんでいきなり喧嘩しているんでしょうかね。選んだも何も、私
から見て右にラグビー部様、左に書道部様がいたからそのまま手を
出しただけなんですが。書道部様のほうは握手というより掴み合っ
ただけになってしまったのが申し訳ない。
﹁私なるは、カズキ・スヤマと宣言するぞ。職業は︱︱⋮⋮皆無?﹂
﹁わたしの方が先に握られた﹂
﹁いいや、わたしのほうだな﹂
﹁わたしだ﹂
﹁わたしである﹂
私の自己紹介を聞いてください。寂しい。そして、喧嘩するなら
私の手を解放してからにしてもらえませんかね。
王子様二人が、互いの額がつきそうな距離でいがみ合い始めたの
で、掴まれた手は諦めて顔だけでリリィを振り向く。
﹁険悪の仲ぞり⋮⋮﹂
﹁犬猿だけど、間違ってないね﹂
こくりと頷いたリリィが可愛い。
見ているだけで癒されていると、双方から引っ張られてつんのめ
る。
﹁黒曜!﹂
﹁うはい!﹂
ラグビー部様は声が大きい。
﹁異世界人の女から見て好ましい男を選べ!﹂
書道部様は口調が早い。
﹁恐れながら殿下。これを女と分類するのは如何なものかと⋮⋮﹂
アリスちゃんは結構ひどい。
378
﹁失礼ながら騎士アードルゲ。何故なのか全く以って不明なのです
が、一応女性なんです﹂
ネイさんは普通にひどい。
﹁カズキは可愛いよ﹂
リリィは天使だ。
そして、いつのまにそんな話になったんだろう。話の前後は全く
聞いてなかったので分からないけれど、質問内容は分かったので答
える。
﹁ルーナぞり!﹂
一気にしらっとした空気になった。聞かれたから答えたのに、何
故だ。
﹁すまないな、黒曜。騎士ルーナが奴らの相手をしている内に話を
しなければならないのだ﹂
﹁ああ、時間はあまりない。よって、作法などは気にせずともよい。
手間だ﹂
そっちが勝手に犬猿の仲をやっていたのに、まるで私が話を長引
かせていたかのような言い分である。大変遺憾だ。
今はそれどころじゃないと分かるので空気を呼んで文句は言わな
いまでも、視線に恨みがましさが混じるのはどうしようもない。し
れっと目を逸らした王子様達のタイミングは一緒だった。実はすご
く仲がいいんじゃなかろうか。
﹁黒曜﹂
﹁はい﹂
﹁何でもいい、あの男について情報が欲しい﹂
どの男かと考えるまでもない。私が知っている人は、誰もが私よ
り知っている人がいる人ばかりだ。だから、彼らが知らなくて、私
の方が何かを知っているかもしれないと思われているのは一人だけ
379
だ。
﹁ゼフェカは、時代が終わる、と、申していたじょ﹂
ぞりと言おうとして慌てて止めたら変な音になった。誰も気にし
ていないからまあいいや。
両王子様の眉間にぐっと皺が寄った。この二人は絶対仲がいいと
思うのだ。
﹁時代が、終わる⋮⋮⋮⋮何を始めようとしているのだ﹂
﹁時代が、終わる⋮⋮⋮⋮何を始めようとしているのだ﹂
ステレオみたいに言うのはやめてほしい。
王子様達は、さっきより深い皺を寄せて互いを睨む。
﹁真似をするな!﹂
﹁真似をするな!﹂
いきなり喧嘩を勃発させるのもやめてほしい。
すこぶる仲が悪いけど、絶対仲がいい。額がぶつかる程の距離で
睨み合う二人を、アリスが嘆息しながら止めていた。生真面目なア
リスが偉い人相手にこの態度という事は、この二人はもうずっとこ
うなのだろう。
﹁アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
これはアリスに聞いていいことなのだろうか。でも、誰に聞けば
いいのか分からない。
﹁軍士が、解体、事実?﹂
﹁⋮⋮誰に聞いた?﹂
王子様二人に向いていた身体が私を向くのに、私は顔を上げられ
ない。
﹁⋮⋮ゼフェカ﹂
﹁⋮⋮何を言われた﹂
低い声は別に私を責めているわけではないのだろう。それは分か
るのに、ぐっと喉元に何かが詰まって言葉を出せない。
380
上げられない視界に影が落ちたと思ったら、顎を掴んで持ち上げ
られる。蝋燭の光に照らされて、余計に綺麗になった緑色の瞳が近
い。
﹁な・に・を・い・わ・れ・た﹂
﹁わひゃひにょ、しぇいらっへ﹂
頬っぺたをにょーんと引っ張らないでください。びっくりしてぺ
ろりと言ってしまった。引っ張られたままだったから珍妙な言葉に
なってしまったから、解読できないかもしれないけど。
﹁貴様の所為だと?﹂
アリスは私の頬っぺたかを解放して低い声で言った。あっさり解
読されてしまった。アリスちゃんは凄い。
﹁はっ、馬鹿が﹂
﹁ア、アリスちゃんが、がらわりぃなぁ、おい、ぞり!﹂
どこぞのちんぴらのように吐き捨てたアリスちゃんにびっくりす
る。
﹁カズキ、カズキ、今のはどっちかというとカズキの方がガラ悪い
台詞だよ﹂
﹁ええ!?﹂
ショックだ。
衝撃によろめいた私の顎が再び掴まれる。アリスは私に対して、
女性に対する距離感じゃない気がする。
顎というか、頬ごと掴まれてひょっとこみたいな顔になっている
私の顔を見て舌打ちされた。ひどい。
﹁いいか? 誇り高きブルドゥスの歴史は、貴様如きがどうこうし
た程度で変わらん。自惚れるな、カズキ。お前は部外者だ。この国
で起きたことは全て私達のものだ。たかが一年しかいなかった上に、
十年不在だった分際で、この国の歴史の責を負える身分になったつ
もりか? たわけ! 不届き者にも程がある!﹂
﹁つまり、カズキは何にも気にしなくていいんだよ、って事だよ﹂
リリィの要約が優しすぎる。いや、アリスちゃんも優しい。
381
二人の言葉を否定しないこの場にいる人みんなが優しい。優しす
ぎる。
私だって、自分がそんな大きい事をできるような人間じゃないと
分かっている。それでも、気になるものは気になる。
二人はそれを分かっているのだろう。分かっているから、それぞ
れの言い方で私が気にしないようにしてくれているのだ。
たぶん、何を言われても自分で分かっている。私は先のことまで
見通して行動できるような大層な人間じゃない。いま起こった出来
事を消化するだけで精一杯で、大局を見極めて考えられもしない、
普通の人間だ。
だから、戦争を止めるなんてこと、お前にそんなことできるわけ
ないだろと言われたら、分かってると答える。お前の所為じゃない
と言われても、当たり前だよと思う。
最初から分かってることを言われても、たぶん、こんなに心は軽
くならない。いまこんなに安堵するのは、彼らが、私の為を思って
言葉をくれるからだ。
ああ、本当に、私には勿体ないほどの縁と出会えたのだ。なんて
優しい、なんて尊い縁だろう。
そして、やっぱりゼフェカと一緒にいるのはよくないと実感する。
緊張は特にしないけれど、精神衛生上よろしくない人だ。あれ? もしかしてゼフェカは私のことが嫌いなのだろうか。私もゼフェカ
のやってることが嫌だから、別にいいけれど、この後またゼフェカ
の所に戻らなきゃならないのが憂鬱だ。
ゼフェカの言動に眉を顰めれば顰めるほど、リリィ達が恋しい。
リリィ達といられる幸せが込み上げてくる。後、リリィが凄く可愛
い。
まずい。あれだけ泣いたのに、何だかまた泣きそうだ。涙腺が緩
いのは年だろうか。それは別の意味で泣けてくる。
じわりと滲んだ目尻に力を籠める。ぶさいくな顔になったのは自
覚しているから、舌打ちはやめてください、アリスちゃん。
382
そして。
﹁あひひゃほう﹂
確かにありがたいし、得難い存在に心から感謝している。
だから、いい加減ひょっとこ顔から解放してくれませんか。
私の心からのありがとうが、物凄い勢いで台無しになった感が否
めない。
383
31.神様、ちょっとひょっとこにございます
ひょっとこ顔から解放された私は、逆にアリスちゃんの腕を掴む。
﹁アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
﹁エレナさん方々、無事の帰還をお祈り申し上げございます?﹂
﹁貴様は語群を増やさないほうがいいと母上に進言しておこう﹂
アリスちゃんの言葉にネイさんが頷いていた。賢くない頭で一所
懸命文を組み立てているのに。寂しい。
﹁母上も皆も無事だ。寧ろ、貴様の服を守れなかった事への謝罪を
託されてきた。偽黒の手に渡してしまった事を私からも謝罪する。
申し訳なかった﹂
綺麗に頭を下げたアリスちゃんの旋毛が見えて、慌てて両手と頭
を小刻みに降る。エレナさん達は勿論、アリスちゃんが謝る事なん
て一つもない。寧ろ私が菓子折りを片手どころか両手に山盛りで持
っていき、土下座して謝罪しなければならないのだ。
土下座をこっちの言葉でどう言おうか迷った一瞬で、アリスちゃ
んの態勢が元に戻り、私のひょっとこも帰ってきた。
間近にアリスちゃんの真顔がある。
﹁もう一つ伝言を持っているのだが、聞きたいか?﹂
聞きたくないです。エレナさんには凄く会いたいのに、何故だか
とっても聞きたくないです。
そう言いたいのに、ひょっとこ口では難しかった。後、アリスの
真顔が怖い。
﹁﹃貴女には申し上げたいことが多々、それこそ山のようにありま
すが、実際に会って伝えたほうがよいでしょう。よって、必ず無事
384
に会いましょう。互いの無事を喜んだ後、覚悟を決めなさい﹄だそ
うだ。大丈夫だ、あれくらいなら三時間ほどで済むだろう﹂
﹁何故が三時間!? 無事ぞ喜ぶ!? そのような故は大歓迎!﹂
﹁説教だ﹂
﹁はい、存じてた⋮⋮﹂
ひょっとこから解放された私は、がっくりと項垂れた。どうしよ
う、再会が怖い。再会の喜びと説教への恐怖を量りにかけると、そ
れは再会の喜びが勝っている。ちょびっとだけど。
﹁黒曜は、あのアードルゲの女傑エレオノーラに気に入られたと聞
いたが、誠だったか﹂
﹁ぞけつ﹂
知らない単語だ。袖を引かれたので振り向くと、リリィがいた。
﹁女傑だよ。ええと⋮⋮強くて賢い女性、みたいな意味で覚えてい
たらいいかな。傑物は分かる?﹂
﹁傑作な人物にょ﹂
﹁そこから微妙に怪しいですが、まあ、傑物の女性版だと思えばい
いですよ﹂
二人にお礼を言ってラグビー部様に向き直ると、書道部様と額を
突きつけあっていた。とっても仲良しですね。足が蹴りあっている
とか全然見えませんよ。
ビームでも出しそうな目つきで睨みあっていた二人の王子様が、
同じタイミングで勢いよく私を向いた。
﹁黒曜!﹂
﹁何故にして私なるを混在する!?﹂
思わず両手を身体の前でクロスして身を守ってしまう。なんとか
レンジャーが戦うポーズみたいになってしまった。違うんです。私
は戦いたいんじゃなくて身を守りたいんです。
私に詰め寄った王子様達は、同じ顔、同じタイミングでアリスを
見た。
﹁⋮⋮⋮⋮アリスローク﹂
385
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ど
うして私を巻き込むのですか、ではないか、と⋮⋮恐らくは﹂
﹁それぞり!﹂
﹁騎士ルーナを呼べ!﹂
﹁ルーナに再会叶うは、私とて悲願ぞ!﹂
私だってルーナと会いたい!
思わず叫ぶと、アリスはちょっと気まずそうな顔をした。みんな
の視線がアリスに集まると、物凄く気まずそうな顔で片手を上げ、
私の頭に押し付けた。そのままぐいぐいと押されて気づく。これは、
かの有名な頭ポンですか。全く気付きませんでした。てっきり首を
圧し折ろうとしているのかと思いました。
異世界の頭ポンって斬新だ。首痛い。
その様子を眺めていたラグビー部様は大笑いを始めた。高貴な生
まれの方が大口で笑うのはありなんだろうか。ありなんだろうな。
人間だし。
﹁人形兵器とまで言われた騎士ルーナを落としたばかりか、堅物代
表と名を馳せるアリスロークまで落としたか!﹂
大きな声で笑って言われた言葉に驚愕してアリスを掴む。なんだ
かさっきから掴み掴まれてを交互に行っている気がするけれど、今
はそれどころじゃない。
﹁ルーナとアリスちゃん落下したにょ!? どのような高低差より
て!? 負傷は!?﹂
慌てて怪我を確認しようとした私の両肩が、がしりと掴まれる。
﹁アーガスク様! お戯れにも限度があります!﹂
私の肩を掴んだまま、肩越しにラグビー部様に怒鳴るアリスは不
敬じゃないのか。ラグビー部様は豪快に笑っているから大丈夫だと
は思うけど、ルーナとアリスの怪我は大丈夫なのだろうか。
﹁カズキはたわけを凝縮したような女なのですから、からかわれて
は困ります!﹂
事態はよく分からないけれど、微妙にひどいことは分かった!
386
﹁カズキは優しいね﹂
﹁カズキは易しいですね﹂
何故だろう。微妙なニュアンスの違いを感じる。それが何かは分
からないけれど、ネイさんの台詞に含みを感じた。そして、結局、
怪我は大丈夫なんですかね。それとアリスちゃんは、私を解放して
から怒鳴って頂けませんかね。
どうすればいいのか分からないから、とりあえず目の前のアリス
ちゃんに怪我がなさそうな事を視線で確認する。動きにおかしいと
ころはないからたぶん大丈夫だと思うけど、チャンスがあればルー
ナも確認したい。
人形兵器というのは、昔のルーナの渾名だ。人形のように表情も
感情もないのに、凄まじく強く美しい少年騎士兵だったから、そう
呼ばされていたそうだ。そのルーナが、集団で襲いくるゴキブリに
パニックになった私に、大根もどきで殴られていたなんていったい
誰が思うだろう。本当に申し訳なかった。再度あんなことになった
ら、躊躇なく同じことを繰り返す自信がある。あれはいけない。理
性も思考も全て無意味となる。
他にもいろいろやらかしたのに、ルーナはよく私を好きになって
くれたものだと今でも思う。これはもう、異世界七不思議に入って
いいはずだ。トップに燦然と輝く。次いで、何で私はあっちにこっ
ちに世界を飛んでいるのかの謎がランクインしていたりする。
そんな私の肩に、どことなく楽しそうな顔をした書道部様の手が
ぽんっと置かれた。
﹁黒曜、貴女と話をしてみたいと長らく願っていたが、不可能かと
諦めていた。今はこのような状況だが、いつか場を用意しよう。騎
士ルーナも、ガルディグアルディアも、女傑エレオノーラも、皆招
き、盛大な無礼講で宴をしよう。きっと楽しい時となろう﹂
その場を思い浮かべたのか、柔らかく細められた瞳につられる。
387
私の乏しい想像力では、豪勢な美しい景色はうまく思い浮かべるこ
とができない。さっき壁の花⋮⋮草かな! をやっていた夜会の雰
囲気ではなく、中庭のような青空の下で飲めや歌えやの大騒ぎしか
思い浮かばないのはきっと、ミガンダ砦での暮らしが影響している
のだろう。でも、楽しそうなのは分かる。この王子様なら、堅苦し
いことは言わないと思うから、最低限のマナーさえ守っていればう
るさく言われないのではないだろうか。
いつか、そんな時が来るのだろうか。ミガンダ砦の皆もいるとい
いな。
楽しそうな未来を夢想していると、書道部様に手が置かれている
肩とは反対に、ラグビー部様の手がどしりと置かれた。
﹁その宴はわたしが仕切ろう﹂
﹁わたしが提案したのだが、やれやれ、これだから人の手柄を横取
りせぬと手柄を立てられぬ凡俗は﹂
﹁やれやれ、未だ絵に描いたパン程の構想もない段階で、既に手柄
を立てたつもりでいる凡俗は言う事が違うな﹂
﹁宴はわたしが開く!﹂
﹁わたしだ!﹂
私の頭の上でがつんと鈍い音がした。王子様の額が激突したのだ。
どうして私を挟むのだろう。迷惑すぎる。
﹁いつか!﹂
﹁この騒乱が終われば!﹂
﹁宴を!﹂
﹁するのだ!﹂
そして、人の頭上でフラグを建てるのは是非ともやめて頂きたい。
心底やめて頂きたい。
心の底からと書いて、心底だ!
威嚇しあう王子様をアリスが苦労して引き剥がし、話し合いを続
388
行した。
﹁軍部のことは、遺憾ではあるが、我々で王に進言しているのだが
⋮⋮。事は軍士だけでは済まない。軍士と共に戦ってきた騎士達も、
国に対し不信感を抱いている。騎士と軍士が対立している国もある
らしいが、ブルドゥスもグラースも、彼らの信頼が国を作ったとい
うのに父王は⋮⋮﹂
ラグビー部様が深くため息をついた。
﹁遺憾ではあるが、わたしの父王もブルドゥスの王と同じく、変化
を嫌う性質がある﹂
﹁大変遺憾ではあるが、わたしの父王も、ただ戦争に負けない政治
だけをしていれば良かった時代から抜け出せない。先を見ず、相手
国に向けられていた不満の矛先が己に向かうのが怖いのだ﹂
﹁多大に遺憾ではあるが、わたしの父王も、軍部を蔑にする危険性
が見えていない﹂
﹁最大限に遺憾ながら、わたしの父王も、軍部が敵に回るなどと考
えてもいないのだ。今まで尽くしてくれたのだから、これからもそ
うだろうと疑ってもいない﹂
遺憾なのは、大変、多大に、最大限に分かったから、そろそろ前
口上にスキップ機能つけて頂けませんか。スタートボタンでいいで
すか? それとも〇ボタンですか?
﹁わたしも出来うる限りの手は打つ﹂
﹁わたしも出来うる限りの手は打つ﹂
二人の王子様は同じようにため息をついた。本当に仲がいい。
﹁はあ﹂
私の返事はこれしかない。だって、そんなこと私に言われてもと
いうのが正直な感想だ。
﹁黒曜とルーナには本当に悪いと思っている。だが、このまま耐え
てほしい﹂
成程、そう繋がるのか。
私はこくりと頷いた。あ、今のちょっとリリィっぽい。
389
﹁最大限努力致す﹂
頑張って語尾は切った。収まりが悪くてもぞもぞするけれど、ネ
イさんが後ろでおおっと声を上げている。私だってやればできるん
です。
﹁黒曜は老将軍みたいだな﹂
﹁わたしが思ったことだな﹂
﹁口に出したわたしの勝ちだ﹂
﹁このような些末事で勝敗を競うなど、これだから器の小さい男は﹂
老将軍扱いされて傷心の私の前で、突如喧嘩を始めるのはやめて
もらえますかね。見た目は正反対だと思ったけれど、両王子様の中
身は一緒だ。
口に出したら巻き込まれそうなので、私は固く口を噤む。
﹁ねえ、カズキ﹂
﹁はい、リリィ!﹂
固く噤んでも、リリィに呼ばれれば開く。リリィが呼べば、天岩
戸だって簡単に開くと思う。
小さな手が、ふわりと私の頭の包帯に触れた。
﹁この怪我は、あいつらにやられたの?﹂
﹁大変多大に私の所為! 極小にゼフェカ﹂
﹁貴様という奴は⋮⋮﹂
呻いたアリスに、いい笑顔を返す。痛い者を見る目で返された。
リリィはこくりと頷いた。
﹁分かった。じゃあ、敵だね。カズキは怪我しないように気をつけ
て﹂
﹁はい﹂
極小でも敵判定なら、大半私の所為じゃなかったらどうなってい
たんだろう。じっと見ていると、こてんと首が傾いた。
﹁徹底的に潰すね﹂
﹁リリィ、可愛い!﹂
言ってることは凄かったけど、可愛かったからすべて許された。
390
王子様達は険悪で仲良しに、色々話し合っている。ここで話して
いいのかという内容も含まれている気がした。リリィ達は信頼され
ているのだろうけれど、私はどういう扱いなんだろうか。リリィ達
が何も言わないから大丈夫だろう認定なのか、こいつ馬鹿だから大
丈夫だろう認定なのか。おかしい。その作戦はゼフェカに対してや
っていたのに、どうしてこんなところで成功しているんだ。
確か、偉い人とかはこっちから話しかけちゃいけなかったように
思う。映画とか漫画とかの知識だけれど⋮⋮今更のような気がする。
それに、こっちから話しかけるネタも特にないので、話しかけられ
た時以外はリリィと話す。至福である。
﹁カズキは偽黒と話した?﹂
﹁極小に﹂
﹁そっか﹂
彼女とは話したと言うほど会話もできなかった。そもそも、まと
もに話せる時間もない。今日は本当に長い一日だ。また眠たくなっ
てきた。
片手で隠して小さく欠伸をする。
﹁き、貴様が淑女のような行動を!﹂
﹁そのようにまでに驚愕致すなくとも⋮⋮﹂
慄くほど驚かなくてもいいんじゃないでしょうか、アリスちゃん。
私だって欠伸やくしゃみするときは手で覆うくらいの常識はある。
両手がふさがってるときは、顔を背けるだけで許してほしい。咳を
しているときはマスクをする咳エチケットだって完璧だ! ⋮⋮こ
の世界でマスクってあるんだろうか。三角巾で鼻と口元を覆って掃
除をしたことはあるけれど、マスクは見たことがない。つまり、こ
の世界では咳をする人はみんなあれをつけて歩くのか! 見た目的
には凄く怪しいかもしれない。
風邪が流行ったときの街並みを想像している私の横で、リリィも
何かを考え込んでいた。あ、リリィの旋毛右巻きだ。可愛い。耳の
391
後ろに黒子がある。可愛い。
﹁リリィ、如何致したぞり?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
リリィは考え込んでいる。可愛い。
何を見ても可愛い。初孫を持ったお婆ちゃんはこんな気持ちなん
だろうか。
﹁ガルディグアルディア、どうしたのだ﹂
﹁ガルディグアルディア、どうしたのだ﹂
考え込むリリィの様子に同じタイミングで気づいた王子様達が、
同じタイミングで声をかけてきた。額を突きつけあってメンチ切る
のは勘弁してください。歯を出して﹁ああん?﹂みたいな顔もやめ
てください。テレビで見た猿の威嚇を思い出した。
﹁もしかしたら、娘かもしれない﹂
﹁ええ!? 何時如何なるときに誕生日!?﹂
﹁私の子どもじゃないよ? ドレン・ザイールの娘かなって﹂
﹁申し訳ございません﹂
そんなはずはないと分かっていてもびっくりしてしまった。お相
手は誰なんだと考えてしまったのだ。大好きなリリィが結婚する相
手は、絶対かっこいい人じゃないと。いや、かっこよくなくていい
から優しい人じゃないと。優しいは絶対条件だけど、リリィをとっ
ても大事にしてくれる人じゃないと。大事にしてくれるのは基本条
件だけど、リリィを何より大好きに思ってくれる人じゃないと。か
っこよかったら尚いいな。
一人で慄いた後、黙々と条件を積み重ねる私を冷めた目で見つめ
たアリスが、難しい顔をする。
﹁ドレン・ザイールに子はいないはずだ﹂
﹁ああ、確か⋮⋮終戦より二年前だったか。奥方と子は初産で亡く
なったと聞いた覚えがあるな﹂
書道部様が記憶を辿る。
そうだったのか。奥さんと子どもさんを一遍に亡くした金歯には
392
お悔やみ申し上げる。同情に似た気持ちが湧き上がってきた。同情
と思いたくないのは、彼にされたことが許せないからだ。
皆の視線がリリィに集中する。
﹁昔、店に来てたドレン・ザイールと会ったことがあるんだけど、
その時に、自分の娘も私くらいだから是非とも仲良くしてほしいっ
て言われたことがある﹂
﹁ああ、そういえばそうですね。随分昔の事ですが、女達への態度
が悪くて、すぐに出禁にしてしまいましたし。次期ガルディグアル
ディア当主との繋がりが欲しいと見え見えの態度でしたね。確か、
俺が﹃お嬢様に墓に入れと申されますか?﹄と聞いたら、ひどく慌
てて﹃生きていればの話ですとも﹄って⋮⋮⋮⋮生きてるんですか
ね?﹂
皆の視線が一斉に私を見た。何故、私を見る。私だって衝撃の事
実だ。みんな以上に訳が分からないんですが。
え? 終戦が十年前で、そこから二年前の訃報だから、十二? 十二歳? あれで!?
私が可哀想になる素敵バディだったのに、十二歳!? 小学六年
生!?
﹁何故にして!﹂
激しく項垂れる私の言葉に、書道部様の同意が続く。
﹁ああ、何故だ。何故、存在を秘匿する必要があった?﹂
その何故ではなかったけれど、それも気になるポイントだ。寧ろ
そっちの方が重要なポイントなのだろう。それは分かる。分かるの
だけど。
﹁成程⋮⋮少々大人びてはいるが、骨格は華奢な印象を受けたのは
それ故か﹂
﹁少々!?﹂
﹁確かに、若干大人びてはいるものの、全体的に不均等だと思った
のはそれ故か﹂
﹁若干!?﹂
393
異世界の基準って分からない!
﹁カズキ、カズキ﹂
がくりと項垂れた私の裾が引かれる。泣きべそをかきそうな顔で
視線を向けると、リリィがこくりと頷いた。
﹁まだ憶測だから、そうとは限らない。それに﹂
そこで一度言葉を切ったリリィは、凛と言った。
﹁個人差だよ﹂
﹁はいっ﹂
リリィの凄さは可愛いだけじゃない。
凄く、かっこいいのである。
394
32.神様、ちょっと非常に眠たいです
リリィは難しい顔で皆にこくりと頷いた。
﹁事実かはまだ分からないけど、ニコクなのに誰も知らない説明に
はなるかもしれない﹂
﹁ニコク?﹂
知らない単語は聞けるならその場で聞くようにしている。覚えら
れるかどうかは、また、別のお話。
リリィは、あ、と小さく声を上げた。
﹁そっか、カズキは知らなかったね。ニコクは、二つの黒。黒髪と
黒瞳を持つ人のことだよ。後、停戦もかけて、二つの国、二国って
意味もある。カズキから出来た言葉なんだよ﹂
﹁私!?﹂
﹁カズキの世界じゃ、みんな二黒なの?﹂
﹁多種多様化の色が存在するにょけど、私なるの故国ではそれなる
が巨大ぞ﹂
﹁多いんだ、凄いね。見てみたい﹂
私が言葉になるって不思議な気分だ。それくらい、黒が揃った人
は珍しいらしい。今は染める人も増えて見ただけでぎょっとされる
時代ではないけれど、それでも地毛だと知られたら物珍しがられる。
ミガンダ砦でも、最初は散々おもちゃにされたものだ。目の色見
せてくれと皆に言われて、眼球乾燥して大変だった。これ以上見世
物にされてなるものかと、ぎゅっとつぶってその場から逃げたら盛
大に壁にぶつかって気絶したのは苦い思い出だ。そりゃあ、目をつ
ぶって走ればぶつかりますよね。思い返せば、私を警戒してつんつ
んと取り付く島もなかったルーナが、気を抜き始めてくれたのもあ
395
れがきっかけだった気がする。
あ、こいつ馬鹿だから平気だわ作戦の成功である。ちなみに、そ
んな作戦を実行していたつもりは欠片もなかった。何故だろう。ゼ
フェカに対して行っていた作戦は、時を超えるというのか。
﹁あ﹂
突然声を上げたリリィに皆の視線が集中する。リリィはそのどれ
をも無視して、くりんと私を向いた。
﹁忘れてた。カズキ、ご飯食べてる?﹂
﹁極小じょりん⋮⋮﹂
返事と一緒にお腹が鳴った。キュウ⋮⋮と可愛らしく鳴った私の
お腹。おお、お前は女子力を手に入れたんだなと感動したら、次の
瞬間ゴギュゥウウと威嚇してきた。フェイントだったようだ。
﹁ネイ﹂
﹁はい、お嬢様﹂
いつの間に用意していたのか、目の前にお茶が用意されていく。
そして、ネイさんの懐から何かが取り出された。手拭いに包まれた
それを受け取って、促されるままに開くと、更に茶色っぽい紙に包
まれている。それも開くと、中には平べったい半月状の餃子みたい
な食べ物が入っていた。
﹁こうやって話す時間が取れなかったら、渡しやすいものがいいか
なって。食べて﹂
促されるままに食べる。他に誰も食べていない状況で、みんなに
見られながらの食事はちょっと気まずいけれど、お腹が威嚇してき
たのでありがたく頂くことにした。
一口齧ってもぐもぐ咀嚼。正確に言うと、一口︵大口で︶齧って
︵かぶりついて︶もぐもぐ︵ぐもぐも︶咀嚼。お腹空いてたんです。
﹁口に合うかな﹂
﹁美味︱︱!﹂
厚めの皮がぱりっとして、中にはひき肉と野菜が濃い目に味付け
396
された餡が入っている。なんだこれ、凄く美味しい。こっちの世界
では初めて食べる味付けだ。
気まずいとかなんのその。頬袋を作る間もなくぺろりと食べきっ
てしまった。
﹁よかった﹂
リリィはちょっと口元を緩め、小さく笑った。凄まじく可愛かっ
た。
ネイさんから、これまた用意されていたハンカチと受け取って、
口元と手を拭く。
﹁猛烈な勢いで美味だったにょ! リリィ、ありがとう!﹂
﹁久しぶりに作ったけど、うまくできてよかった﹂
﹁リリィが制作してくださったのでありますかにょ!?﹂
﹁うん﹂
もっと味わえばよかった。あんな、飢えた猛獣ががっつくみたい
に食べてしまうなんて⋮⋮凄く美味しかったです!
﹁お母さんが東方の少数民族の出身でね、そこの伝統料理なの。お
父さんも好きだったんだって﹂
﹁美味だものぞ!﹂
﹁おいしかった、のほうが可愛いとは思う﹂
﹁おいしかった!﹂
﹁よかった﹂
一気に満たされた気持ちだ。ただでさえ、見知った人達とさほど
緊張しない人達に囲まれ、お腹まで満たされた。これはもう寝るし
かないと私の身体が訴えている。威嚇してくるは、勝手に寝ようと
するは、私の身体は凄く自由だ。
食べ終わるのを待っていたのか、一息ついた私に、神妙な顔をし
た王子様達が詰め寄ってきた。
﹁黒曜!﹂
397
﹁うはい!﹂
ラグビー部様は声が大きい!
思わず飛び上がった私の両肩を書道部様が掴む。素晴らしい連携。
逃げられない。仲が悪いとか絶対嘘だ。
﹁父王は意固地となり、我らの進言に耳を貸さない。このままでは
国が割れる。永きの間、国を守護してくれていた騎士と軍士の心が
離れてしまえば、最早国として成り立たぬ。どうか、黒曜から父王
に何か言葉を預かれないか﹂
﹁我らの言葉は届かずとも、黒曜の言葉としてならば、何か胸を打
つやもしれぬのだ﹂
真剣な顔をしている二人と、なんともいえない微妙な顔をしてい
るアリスが並ぶ。その顔を見るに、散々止めてくれたのだと思う。
カズキはたわけだからとか、阿呆だからそんな難しい事求められて
も理解できないからとか、説明してくれたはずだ。ありがとう、親
友︵仮︶!
縋るような私の視線を受けたアリスは、神妙な顔をして首を振っ
た。
﹁貴様の台詞をうまい具合に切り取って組み立ててくださると⋮⋮
貴様の不利になるような組み立て方はしないと誓ってくださったの
だから⋮⋮⋮⋮まあ、頑張れ﹂
しかし、止められなかったんだね、親友︵仮︶!
皆の視線が私に集中する。とりあえず口周りに食べかすがついて
ないかだけは確認した。
私の言葉で親友︵仮︶の役に立てるなら喜んでやるけれど、そも
そも私は事態を把握できていない。そんな状態で役に立つ言葉なん
て言えるわけがない。しっかり把握していても役に立てるかどうか
怪しいというのに。
﹁不可能じょりん⋮⋮﹂
﹁我が身の力不足を黒曜に押し付ける形になり、誠に申し訳ない!﹂
398
﹁私の力が及ばないばかりに黒曜に押し付ける形となり、誠に申し
訳ない!﹂
若干言葉は違うものの、ほとんど同じ言葉を同時に言うのはやめ
てください。その後、額を突きつけて威嚇しあうのはもっとやめて
ください。いや、寧ろ同じ言葉だったほうがまだよかった。聞き取
りやすいので。私は聖徳太子さんではないので、一人の言葉だって
聞きとるのは一所懸命だ。
﹁え︱︱⋮⋮他者の忍耐を初期より頼りにしてなるの作戦は、他者
が忍耐を作戦終了行った時点で終了だぞりん⋮⋮なることは、先ん
じて周囲周辺よりてお喋りが無きはずもございませんよりて⋮⋮⋮
⋮ぬ︱︱ん⋮⋮﹂
誰かの我慢を前提とした事なんて、最初からうまくいくはずがな
い。だって、その誰かが我慢をやめてしまったらそこで終わってし
まう
当たり前のことだ。私がすぐに思い浮かんだ考えなんて、この人
達が言ってないはずがない。
﹁苦悶してる時の唸り声すら、徹底して可愛くないのは凄いですね﹂
﹁カズキは可愛いよ﹂
﹁はい。一周回ってだんだん可愛く思えてきました。ね、騎士アー
ドルゲ﹂
﹁可愛いの定義を見直してくるから、少々待て﹂
悩む私の後ろでみんな楽しそうだ。私も混ぜて。
﹁恩人を仇で返却するならば、信用第一安全第一が落下したも、苦
情は進言できぬぞり⋮⋮なることも、先んじてお喋り体験済であり
ましたにょ⋮⋮⋮⋮﹂
恩を仇で返すような人間も、上層部も、国すらも、信用なんてで
399
きない。
一般人の私ですらそう思うのに、今まで国に尽くして、命も人生
も懸けて戦ってきた彼らが思わないはずがない。そしてそんなこと、
既に誰かが言っているはずだ。
﹁私の目標は、カズキみたいな大人になることだよ﹂
﹁お嬢様、お嬢様、お嬢様! お嬢様の命令ならどんなものでも従
いますが、それだけは、それだけはどうか、お嬢様!﹂
﹁早まるな、ガルディグアルディア!﹂
思わず後ろを振り向きかけて自制する。今すぐリリィに抱きつき
たいけれど、流石に王子様二人を、しかもこんな重大な話題で放っ
ていくわけにはいかない。
﹁他者の想いを裏返して進軍しても、絶対平和的解決取得は不可能
じょりんなどと申す事態は⋮⋮既に把握済みで致すのでありにけり
て⋮⋮⋮⋮﹂
駄目だ。なんて陳腐な言葉しか思い浮かばないんだろう。私の語
群が少ないからだけじゃない。考え方も、知ってることも、誰もが
知ってることばかりだ。みんな分かってて、みんな知ってる。そん
なことしか言えない私に、国王の考えを変える言葉なんて思い浮か
ばない。
ぐっと唇を噛み締めたら、前に誰もいなかった。
﹁考え直せ、ガルディグアルディア!﹂
﹁気を確かに持て、ガルディグアルディア!﹂
ぐるりと回れ右をしたら、鬼気迫る顔をした男性陣四人が必死に
リリィを説得している。
さて、私はどうしたらいいんだろう。ぽかんとしつつ、逆に冷静
になってしまった。
400
人に聞いておきながらいなくなった王子様に怒ればいいんだろう
か。彼らからの問いに一所懸命考える私を置き去りにして、背後で
みんなわいわいしていることに寂しがればいいのか。
いや、違う!
私は必死の形相でリリィに詰め寄る男性陣を押しのけて、リリィ
の前に陣取る。そして、彼らに負けず劣らずの形相で、リリィの肩
を掴んだ。
﹁そのような事態が発生致せば、国ぞ世界ぞ大惨事にょ︱︱!﹂
﹁自分で言うかたわけ︱︱!﹂
アリスに渾身の力で引き剥がされた。
だって、だって、リリィが、リリィが!
世界の秘宝が! 重要文化財が! 人間国宝が! 可愛いリリィ
が!
よりにもよって私なんかを目指してしまったら、そんな、私は一
体誰に詫びればいいか分からないほどの大罪を!
﹁うっうっうっ⋮⋮リリィ⋮⋮リリィ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁な、泣くな、たわけ! 大丈夫だ、カズキ! まだだ! まだガ
ルディグアルディアは変異していない!﹂
﹁変異決行済みであるば、このような惨状では終了しないにょり︱
︱!﹂
思わず号泣してしまった。アリスがおろおろとしている。
﹁誰よりも本人が嘆いている場合、私はどうすればいいのだ﹂
﹁そんなことも思い浮かばないとは⋮⋮これが王子だなど嘆かわし
い﹂
﹁具体的な解決策を提示せず、他者を非難するだけの男に言われて
もなんとも思わんなぁ﹂
﹁他者からの策を頼ってばかりの男に言われてもなんとも思わん﹂
﹁幾らでもほざけばよい。私は黒曜からの助言を父王に伝える用意
401
が整ったのだ﹂
﹁ふ⋮⋮それが己だけだと思うたか。これだから凡庸な男は困る﹂
鈍い音がしたので、恐らく額をぶつけ合ったのだろう。短い付き
合いなのに見なくても分かってしまった。そして、あの台詞のどこ
をどう抜粋して加工すれば、優秀な皆さんの言い分を聞かなかった
王様の心を動かせるというのか。
しかし、そんなことに気を回す余力はない。だって、リリィが、
可愛いリリィが、私みたいになってしまったら絶望するどころの騒
ぎではない。
﹁な、泣くな泣くな泣くな! 私はどうすればいい!?﹂
おいおいと嘆く私の肩に手を置いて、必死に宥めようとしている
アリスちゃん。どうすればも何も、とりあえずがくがく揺さぶるの
はやめたらいいと思います。せっかくのリリィの手作りが栄養にな
る前に帰還してしまいます。
揺れる視界の中で、リリィが腕を組んでふぅと溜息をついた。可
愛い。
﹁私の長年の目標が、更に難易度高くなった気がする﹂
﹁お嬢様!?﹂
泣きそうな顔になったネイさんがリリィに詰め寄ろうとしたとき、
厚手のカーテン越しに声がした。
﹁失礼。私です﹂
﹁入れ﹂
みんな流石の反応でぴたりと騒ぐのをやめた中で、ラグビー部様
が許可を出した。書道部様は黙っているから、入ってきた人はブル
ドゥスの人なのだろう。ラグビー部様の名前も、王子様という役職
⋮⋮なのだろうか、も言わずに、自分の名前も言わなかったのは、
会場の人への配慮だろう。壁に耳あり、障子に目ありだ。でも、そ
れを考えると私達は随分騒ぎ過ぎた気がする。いやぁ、反省反省。
402
入ってきた男の人は、会場で私を見ていた人の一人だった。なん
だ、ラグビー部様の部下さんだったのか。もしかしたら、ゼフェカ
のお仲間かと思い、特徴などを必死に覚えていたのに肩透かしを食
らった気分だ。そりゃ、二国の王子様がお忍びでいるのだ。護衛が
アリスちゃんだけなはずがない。そりゃあそうですよね。ちょっと
考えれば分かりますよね。そのちょっとが分からないのが私である!
ちょっとでも何か役に立てないかと思って一所懸命覚えていたの
に、しょんぼりだよ!
ラグビー部様の前で即座に膝をついた体格のいい人は、おそらく
騎士だろう。その男の人は、やや早口で言った。
﹁すぐにお戻りください! 王と軍部が決裂しました! グラース
もです!﹂
﹁何だと!?﹂
重そうな椅子を蹴倒して立ち上がったラグビー部様と、同じ動き
をしても椅子が倒れなかった書道部様が騎士に詰め寄る。
﹁そのような会談の予定など聞いていないぞ!﹂
﹁我々もです! 否、恐らくはほとんどの者が! 大将軍が突然の
謁見を申し入れ、王が許しを!﹂
﹁大将軍は何と!﹂
騎士はぐっと唇を噛み締めた。
﹁最早軍士の不信感は留まるを知らぬ。その軍部を抱えてゆくか、
手放すかと選択を迫り⋮⋮﹂
﹁王は、手放すと!?﹂
無言で下がった頭が返事だ。
眩暈が起こったのか、ふらついた書道部様の身体を片手で押さえ
たラグビー部様も、残った片手で目頭を押さえた。
﹁騎士も黙っていないぞ⋮⋮国が、割れる⋮⋮⋮⋮父上っ!﹂
絞り出すような、叩きつけるような声が響く。唸るような声は怒
403
りの塊に思えたのに、悲しみにも聞こえた。
静まり返った空気の中で最初に動いたのは、書道部様だった。支
えられていた腕を軽く叩き、体制を整え、長い息を吐く。
﹁分かった。すぐに向かう。お前も⋮⋮損な役回りだな。ブルドゥ
スの騎士よ﹂
跪いていた騎士の人は一度大きく瞬きをして、ゆっくりとかぶり
を振った。
﹁⋮⋮いいえ、いいえ、エリオス様。勿体ないお言葉です。私は今
の時代を生きることが、貴方々と同じ時代を生きていることが誇ら
しくてならないのです﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ぐっと何かを飲み込んだ書道部様は、長い長い息を吐き出した。
そうして前を見たそこに、さっきまで見せていた狼狽はどこにもな
い。
﹁いつまで呆けている、アーガスク。私の騎士達もそろそろ痺れを
切らしているぞ﹂
狼狽が消えたついでに、さっきラグビー部様の腕を軽く叩いた時
に見せた優しさや感謝の念的な何かも消え去っていた。くいっと吊
り上った口角と皮肉気な声音に、ラグビー部様の口角もぐっと吊り
上る。
﹁⋮⋮ふん。真っ先によろめいた貧弱なものに言われる筋合いはな
いが、不本意ながら、話す時間も惜しいな。黒曜!﹂
﹁うはい!﹂
だから、いきなり大声で話を振るのはやめてほしい。
反射的に気をつけの態勢になった私の肩を豪快に叩いたラグビー
部様は、よしっと何かに気合いを入れた。何故、私を巻き込むんで
すかね。
﹁楽しい時間であった! 感謝する! この騒動が終わればゆっく
り話をしよう!﹂
﹁不本意ながら同感だ。いつか平和になった暁には宴をしよう!﹂
404
いつの間にか会場で私を見ていた人達が揃っている。その人達を
引き連れ、マントを颯爽と翻して、壁だと思っていた場所に開いた
穴から消えていく王子様に言いたい。凄く言いたい。
だから、フラグを立てるのはやめてくださいとですね!
後に続こうとした騎士の人は、くるりと私を振り返り、綺麗な礼
をした。
﹁お会いできて光栄です、黒曜様。泥試合だった戦に終わりという
きっかけをくださったこと、我ら一同心より感謝しております﹂
まみ
﹁は、い﹂
﹁再度、見える幸運を祈っております!﹂
もう一度深く頭を下げた騎士は、マントを翻して颯爽と穴に消え
ていった。
大変な事になった、と、いうことは分かった。心臓がどきどきし
ているのに、何がどう大変かまで思考が回らない。だって、大変な
のだ。遠い遠い世界の事だと思っていたことが、目の前で起きてい
る。遠くて、違う場所での事件みたいに、知らない間に始まってて、
大変だなー、誰か何とかしてくれないかなーとか思っている内に、
なんとなく終わってる。本来ならその規模の話だ。なのに、まるで
手が届きそうな場所で事件が見える。見えるのに、手なんて届くは
ずもない世界の話で。
頭脳も力も地位も権力も、もしかしたら関わる権利すらない私に
出来ることは、ただ、心臓をどきどきさせることだけだ。
何にもできない。話の全容を詳しく聞くことすらできないでいる
のに、後世で﹃歴史が動いた瞬間!﹄みたいな特集が組まれそうな
事態が目の前で起こっていく。
私は、事態の全容を詳しく聞いていない。仕事でも、家族でもな
い私が、どこまで突っ込んで聞いていいか分からないからだ。聞い
たところで何もできないからでもある。
405
アリスちゃんは一気に老け込んだみたいに、どっと疲労感を漂わ
せている。
王様とは立派な人なんだろうなとか凄い人なんだろうなと、勝手
に思っていた。一般人の私とは遠い人で、全然違う人で、国なんて
大きなものを支えられる人なんだろうと、何故か思い込んでいた。
けれど王子様達の話を聞くと、まるで、自分の地位にしがみつくた
だのおっさんのようにしか思えなくなってしまい、困る。会ったこ
ともない⋮⋮ほとんど、会ったこともない人だし、全く知らない人
だから、他の人の意見だけでそんなこと決めつけちゃいけないとは
思う。私では考えもつかないような大変な苦労があるとも思う。
けれど、私ですら天を仰いでしまいそうな方法を選択してしまっ
たのは、まずいというのは分かる。そしてその選択で、私の大切な
人達が苦しむのだ。
軍部はどこにいくんだろう。軍士は、ティエンは、いなくなって
しまうのだろうか。ああ、嫌だ。そんなのは、嫌だ。皆が仲違いす
るのは嫌だ。それが彼らの所為じゃないのは、もっと、どうしよう
もなく嫌だ。
頭がぐらぐらしてきた。
イヴァルが泣いている声がする。意見の食い違いで騎士と軍士が
喧嘩をしていたのを見たイヴァルは、怖いと泣いた。
一般的に軍士は庶民の出であることが多く、騎士は貴族の出であ
ることが多い。けれど、前線に出てくる騎士達は、後継ぎではなく、
﹃捨てられた﹄と本人達が申告するような扱いをされている人も多
かった。身分や家柄関係なく前線にいた、アリスちゃんのような人
が特殊なのだ。
戦場で戦ってきた人達は、そこにしかいられなかった。そうとし
か生きられなかった人が、もういらないからと放り出されて、どう
406
やって生きていけというのだろう。ティエンだってもう三十歳を越
えている。手に職となる技術もない男の人達に、何をして働いてい
けというのか。その人達へのケアも何もなく、もういらないからと
放り出されたら、誰だって怒る。それが、命も人生もかけて守って
きた相手からの言葉だったら、憎悪となってもおかしくない。
騎士だって、次は我が身かもしれない。それに、ずっと一緒に戦
ってきた人達がそんな扱いを受けて怒らないはずがない。そして騎
士も複雑だ。ほとんどの人が前線にいた軍士と違い、騎士は前線に
いなかった人達がいるのだ。お城や、国内を守っていた人達だ。そ
の人達だって複雑だろう。
イヴァルにとって、砦の皆が家族のようなものだった。その皆が
仲違いしているのは、幼い彼にとって凄まじい恐怖だったはずだ。
事態が落ち着いて、また皆で飲み交わせるようになるまで、一旦落
ち着いていたはずのイヴァルのおねしょは続いた。
幼い彼の泣き声が頭の中をぐわんぐわんと回る。
﹃カズキさん、カズキさん﹄
イヴァルが泣いている。家からの手紙がないと、戦争はいつ終わ
るのだと、ずっと一緒にいてほしいと、誰もいなくならないでほし
いと。
﹃カズキさん、カズキさん﹄
イヴァルが泣いている。戦争が終わったら、普通の子どもみたい
なことがしてみたいと。思いっきりかけっこがしたい、同年代の子
どもと遊びたい、勉強だってしたい、家族と一緒にご飯が食べたい、
家族と一緒に眠ってみたい。
﹃カズキさん、カズキさん﹄
イヴァルが泣いている。
手を繋いで、頭を撫でて。一緒にお風呂入って、一緒にご飯食べ
て、一緒に眠って。一緒にお話しして、一緒に笑って、一緒に、一
407
緒に。
一緒じゃなくてもいいから、いなくならないで。誰もいなくなら
ないで。
イヴァルは、そう言って泣いていた。
ごめん、ごめんね、イヴァル。いなくなってごめん。何も出来な
くてごめん。役立たずでごめん。ただ心臓どきどきさせるしかでき
なくて、本当にごめん。
幼い子どもの声が泣き喚く。ぐるぐる回る思考に合わせるように、
視界まで回ってきた。
あれだけ眠たかったのに、睡魔より強烈な衝動と覚醒が点滅して
交互に現れる。でも、これは睡魔だ。
﹁カズキ!﹂
三人分の声が重なる。これはまずいと膝を突こうとしたのに、視
界は一気に白くなった。
断じて気絶ではない。これはただ、睡眠をとっているだけである。
ぶつ切りに強制睡眠をとらされても疲労は取れないし、寧ろ溜って
いくんだなと、この世界に来て初めて知りました。ちょっと賢くな
った気分です。重ねて言います。これは睡眠です。
だから、みんな、そんな顔しなくていいよ。
408
33.神様、ちょっと入れ歯は凶器です
水の中にいるような、何枚かの膜越しのように滲む声が聞こえて
きて、ふわりと目が覚めた。掠れた視界を何とかしようと擦ると、
少し向こうに私の大切な人達がいた。ルーナもいる。
嬉しくなって飛び起きようとしたが、みんな深刻な顔をしている
ことに気が付いた。その視線が集まる先にあった懐かしい姿に、思
わず涙が滲む。
ミガンダ砦の筆頭医師、お爺ちゃん先生がいた。記憶にあるより
一回りも小さくなってしまったように見えるけれど、顔は変わらな
い。ミガンダ砦に来たばかりの頃、女性のいない場所で誰にも聞け
なかったことを教えてくれたお爺ちゃん先生。彼には本当に助けら
れた。あの頃からかなりのお年だったお爺ちゃん先生。⋮⋮亡くな
ってなくてよかった。
そのお爺ちゃん先生は、深くため息をついた。この深刻な雰囲気
はなんだろう。もしかして、私は何か深刻な病気が⋮⋮。
﹁カズキは﹂
ごくりとつばを飲み込んで、深刻な顔の先生の言葉を待つ。
﹁馬鹿なんじゃ﹂
唐突にけなされた。悲しい!
﹁知ってる﹂
皆に頷かれてた! これまた悲しい!
先生は組んだ皺くちゃの手に額をつけた。
﹁昔からそうじゃった。突如見知らぬ世界に放り出されれば、誰だ
って混乱をきたす。精神の安定を乱せば当然身体にも響くものじゃ
が、カズキはいつでもぴんしゃんしておった。何故なら⋮⋮こいつ
は馬鹿すぎて、自分が限界になっとることに気付かんのじゃ!﹂
409
くわっと目を見開いて私を馬鹿呼ばわりしないでください。夢に
見そうです。
﹁もう、わしが今まで見たこともない馬鹿でな!﹂
﹁私も、こんな馬鹿は初めて見た﹂
アリスちゃんが深く頷いた。
﹁ほんっとに馬鹿なんじゃ! 幼児が限界が分からずはしゃぎ、体
力が尽きた途端ぱたりと眠るあれじゃ! この年で! 馬鹿じゃか
ら!﹂
そんな、入れ歯飛び出す勢いで宣言しなくてもいいんじゃないで
しょうか。
かぽりと入れ歯が嵌め直される。もごもごと調整完了した後、再
び長く息が吸いこまれた。
﹁普通ならばどこかで気づき自分で調整するものじゃが、如何せん
馬鹿じゃから! 倒れるまで気付かんのじゃ、馬鹿じゃから! 十
年前など、倒れても気づかんかった。何せ馬鹿じゃから! 目覚め
た途端﹃もぎゃろっぱ!﹄などとぬかしおった。馬鹿じゃから! 歩いていたら眠っていたと本気で信じとった大馬鹿者じゃから! ﹃もぎゃろっぱ!﹄にわしが妙な顔をすれば、少し考え﹃もぎゃろ
っぱりす!﹄と言い直した大馬鹿者じゃから! 直す箇所はそこで
はないわ! お前の存在じゃ!﹂
存在から訂正された! 悲しい!
言い訳させてもらえるなら、私的には﹃おはようございます﹄と
言ったつもりだった。努力の結果が﹃もぎゃろっぱりす﹄だっただ
けで。
﹁ネビー医師﹂
すっとルーナが口を挟む。あれだけ﹁馬鹿じゃから!﹂と熱論し
ていた先生がちゃんと一拍置くくらいスマートに口を挟んだ。さす
がルーナだ。かっこいい。そして、控えめにでも私の馬鹿説を否定
してくれたら嬉しい。
ルーナは真顔で言った。
410
﹁カズキは、おはようございますと言ったつもりかと﹂
﹁⋮⋮ルーナ。お前さん、ほんっとに阿呆な女に惚れたもんじゃな
ぁ﹂
﹁そこは特に後悔していません﹂
ルーナは本当にかっこいい。大好きだ。
しみじみ惚れ直している間も、先生による﹁馬鹿じゃから!﹂攻
撃が続く。それに皆が頷く。
﹁立てば馬鹿者、座れば阿呆、歩く姿は大うつけじゃ!﹂
ルーナもしみじみ頷いていた。
あれ!? 否定は!?
その後もしばらく続いた馬鹿じゃから攻撃に打ちのめされた私は、
しおしおと萎れる。両手で顔を覆ってめそめそしていると、私が起
きたことに気付いたルーナが顔を覗き込んできた。
﹁カズキ? 起きたのか?﹂
しょぼしょぼと答える。
﹁もぎゃろっぱりす⋮⋮﹂
﹁ああ、おはよう。気分はどうだ?﹂
私の些細な反攻は綺麗に流された。
﹁地下室じょり⋮⋮﹂
目覚めに馬鹿じゃから攻撃をされた身としては、機嫌は地の底で
ある。
﹁そうか、吐きそうか?﹂
心配そうな問いかけにはっとなった。吐いたら、リリィが作って
くれたおいしかったご飯が帰還してしまう! ﹁誠心誠意をこめ、押しとどめろするぞり!﹂
﹁無理はするな。吐きたきゃ吐け﹂
慌てて両手で口元を覆うと、何の躊躇いもなく両手を差し出して
きたルーナが男前だった。馬鹿じゃから攻撃で瀕死になった心が一
411
瞬で復活する。単純だと笑いたければ笑えばいい。その前に自分で
笑ってやる!
﹁ふへへ︱︱﹂
﹁何という色気のなさ⋮⋮これはもう国宝ですね﹂
ネイさんの目には感動の色すら浮かんできた。
﹁カズキ、照れ隠しは別にいいけれど、気分は大丈夫なのか?﹂
﹁照れ隠しだったのか!?﹂
アリスちゃんは普通に驚愕している。慄きながら私を見ていた眼
が、徐々に哀れみをおびてきた。
﹁哀れな⋮⋮⋮⋮﹂
心がたっぷりこもった呟きに傷ついたけれど、心底納得してしま
った自分もいる。いつの日か、﹁ふふふ﹂とか﹁うふふ﹂とか笑っ
てみたいものだ。現状では﹁ふへへ﹂か﹁うへへ﹂だ。同じは行で、
どうしてこうも違うのか。
﹁ルーナ、譲れ﹂
一言声をかけてルーナと場所を変わった先生は、どっこいせと重
たい声と動作で目の前の椅子に座った。そして、横に用意されてい
た水盥で手を洗い、私の目の下を引っ張る。ここが白かったら貧血
だそうだ。
﹁ほれ、口も開けんか﹂
素直にぱかりと開ける。舌苔があったら免疫力が低下してる可能
性があるそうだ。
﹁気分は?﹂
今度は手首で脈を計りながら聞かれる。馬鹿じゃ馬鹿じゃと乱立
されて、ご機嫌でいられるわけがない。私は素直に答えた。
﹁馬鹿じょりで地下室にょ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁誰が機嫌を聞いたか。気分じゃ﹂
素直に間違えたらしい。
412
﹁ぬ︱︱⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮自分の気分を真剣に悩むんじゃない、馬鹿者﹂
﹁先生と再会叶って喜ばしいじょりん!﹂
﹁馬鹿じゃ!﹂
気合が篭った馬鹿じゃ宣言で飛んできた入れ歯に噛みつかれた。
先生、この入れ歯、ちゃんと整備してもらってください。絶対歯茎
に合ってません。
簡単に診てもらって、﹁まあ、よかろう﹂のお墨付きを頂いたと
ころで、リリィがとことこ近づいてきた。そして、私の両手を握る。
﹁カズキ⋮⋮つらいのに気づかなくてごめんね﹂
ぎゅっと握りしめてくれた小さな手を私も握り返す。
﹁私なるも全く以って欠片も認識しておらぬわだったが故、問題皆
無にょ!﹂
笑顔で言うと、あちこちから声が飛んできた。
﹁カズキは気づいてくれ﹂
﹁馬鹿じゃ!﹂
﹁全く以って大丈夫ではないな﹂
﹁お嬢様は欠片も悪くありませんが、カズキは悪いですよ﹂
私、袋叩き! ぼこぼこである!
傷心のままさっきまで横たわっていた場所に倒れ込む。
﹁カズキ? 気分が悪いの?﹂
﹁大惨事じょり⋮⋮﹂
よしよしと頭を撫でてくれる小さな手に、徐々に気持ちが浮上す
る⋮⋮というのは嘘で、急上昇した。既にご機嫌である。
にっこにこでがばりと飛び起きたら眩暈がして、再び馬鹿じゃ宣
言を頂いたのは内緒だ。
413
先生がいるから医務室かなと思っていたが、よく見ると普通の部
屋だった。普通といっても、日本ではレジャー施設や高級ホテルか
と思う部屋だ。ベッドがあって、なんか棚があって、なんか棚があ
って、なんかテーブルと椅子があって、なんか棚があった。まあ、
この面子がいるならあばら小屋でも天国です。
少し硬めのしっかりしたベッドの上で、ルーナが入れてくれたお
茶をにっこにっこしながら飲む。お礼を言って飲んでいると、肩に
少し重たい上着をかけてくれた。ルーナの上着だ。私は、いつの間
にかエプロンとキャップを外していた。そして首元もボタンが外さ
れている。
これまたお礼を言う。上着は肩の部分に違和感を感じて、少し面
白い。ルーナの肩に合わせた形をしているので、私の肩がはまりき
らずぱこぱこだ。文化祭で着たことのある学ランもそうだったけれ
ど、意外と重いのに、着ていると慣れてくるのもちょっと楽しい。
昔は似たようなサイズで着回せたのに、大きくなったなと改めて感
じる。ルーナの体温が残ってるのは、ちょっとだけ気恥ずかしい。
また笑いが込み上げてきたが、ぐっと堪える。このちょっとが女子
力だ。
﹁うほほ︱︱﹂
頑張ってみた結果、親友︵仮︶からの視線が、痛い者を見る目か
ら憐憫の情へと移行した。
一息ついたので、状況について聞いてみる。
﹁状況報告を、質疑応答宜しい?﹂
慣れと甘えで、当然いいよと返してもらえると期待していたら、
先生がひどく難しい顔をして重々しく口を開いた。
﹁馬鹿じゃからなぁ⋮⋮﹂
414
﹁なにゆえに、そのような痛々痛しさを染め抜いた瞳を!?﹂
﹁痛が多いわ、馬鹿者。おぬしは馬鹿じゃから、難しい話をして知
恵熱でも出されたら堪らんわ﹂
﹁否決不可能じょりん!﹂
﹁そこは否定せんか! せめてそこくらいは!﹂
大いに嘆かれてしまった。老体を労わりたいのに、先生は全身と
入れ歯を使って嘆いている。先生は元気だから、入れ歯も元気なの
だろうか。元気なのはいいことだ。たとえ、入れ歯に噛みつかれた
としても。
入れ歯を先生に返していると、リリィが説明してくれた。
﹁カズキが倒れてからすぐに騎士ルーナに連絡したら、ずっと踊っ
てた偽黒も限界だからって下がることになったの。それで、こんな
状態のカズキを渡せないって言ったら、明日帰ってくるなら別にい
いってことだった﹂
成程。だからこうして皆といられるのか。
そこは素直に嬉しいけれど、疑問も残る。ゼフェカはどうして私
を捕まえているのだろう。捕まえているにしては、こうして見張り
もいない状況で皆の元に返してもらえている。もしも、王冠を捨て
てルーナと逃げちゃったらどうするのだろう。そんなことしないけ
ど。
私の疑問は、皆も分かっているのだろう。分かっているけれど答
えを持たない、そんな雰囲気だ。何とも言えない空気が流れる。
﹁考えられるのは陽動だろう﹂
ルーナの言葉にアリスも頷いた。
﹁ザイールの屋敷の燃えかすを調べたら、大量の武器がどこかに流
れていたが⋮⋮軍部でないことは確かだ。奴はどこに流したんだ﹂
軍部の言葉が耳に入った途端、ぶわっといろんな言葉が頭の中に
広がった。
﹁ティエンは!?﹂
大変な事態が起こっていたのに、呑気に寝ている場合じゃなかっ
415
たのだ。起きてても何ができるわけじゃないけれど。
﹁軍士ハイは﹂
言葉の続きを緊張して待つと、鋭い声が遮った。
﹁待て、騎士アードルゲ! 内容は砕いて簡単に手短に、易しく頼
むぞ。何せカズキじゃ。何に知恵熱を出すか分からん!﹂
﹁む⋮⋮﹂
先生の要請を受けて深刻な顔で言葉を探すアリスを掴む。
﹁そ、そのようなまでに馬鹿ではござりまんにょろ︱︱!﹂
﹁いや、馬鹿じゃ﹂
断言された。だが、流石の私も深刻な話を聞いてるだけで知恵熱
を出したりしない、はずだ。先生にとって私はどんなふうに認識さ
れているのだ。本を読んだだけで爆発するとか思われてたらどうし
よう。
﹁わ、私なるの事柄を、どのように把握してるじょり!﹂
﹁カズキじゃ﹂
﹁カズキ﹂
﹁カズキ﹂
﹁カズキだ﹂
﹁カズキですね﹂
流れるように答えが返ってきた。間違ってはない、間違ってはな
いけれど。
﹁正答じょりん! しかしが、不可解にょ︱︱!﹂
何だろう。決して間違ってはいない。そうです、私が須山一樹で
す。寧ろ正しさに満ち溢れた返答であるにも拘らず、湧き上がるこ
の納得できない感!
もう一度ベッドに泣きつこうとした瞬間、扉が大きく開いて慌て
て元の態勢に戻る。変なところに力が入って、脇腹攣りそうだ。
ノックもなく部屋にずかずかと入ってきたのは、まさにさっき話
していたティエンだ。
﹁ティエン!﹂
416
疲れたのだろう。片手で振り回すように持ち上げた椅子を皆と並
べたティエンは、どかりと座り、声につられるように私を見る。
そして、思いっきり噴き出した。凄く、唾が飛んできました。
﹁お前、なんだその頭!﹂
﹁閲覧したのみにて、馬鹿が溢れ出る様がご覧頂けましたぞり!?﹂
大爆笑されている視線を辿り、慌てて自分の頭を押さえる。そん
な、見ただけで分かる程馬鹿が溢れ出ているとでも!?
しかし、そんな心配は無用だった。触ってすぐに分かったからだ。
確かに思い返せば、しっかり洗ってお風呂から上がり、拭いたとは
いえドライヤーのないこの世界。生乾きだった髪を縛ってキャップ
をかぶり、解いたらどうなるか。しかも、女子力のない私だから、
髪だって気合いで何とかなるという女子力を持ちえない。
結果、ボンバーだ。
手で適当に撫でつけてぼさぼさの頭にまで戻す。とりあえずボン
バーでなくなればいいや。ゴムがあればささっと纏めてしまうのに、
紐では更なるボンバーな未来しか思い描けない。
﹁把握済みであるならば、通達望むにょ⋮⋮﹂
あんなボンバー状態の髪で馬鹿じゃない宣言しても、そりゃあ誰
も聞き入れてくれない訳だ。理由はそれだ。そうであれ。
リリィの頭がこくりと揺れた。
﹁可愛かった﹂
﹁私なるもリリィが可愛いが故に、全く以ってどこ吹く風ぞり!﹂
手を握って目線を合わせると、控えめに微笑んでくれたリリィが
可愛くて可愛くて、私の髪がボンバーなまま皆と喋っていた悲しさ
なんて吹き飛ぶ。
﹁騎士ホーネルト、あれについての意見は?﹂
﹁昔見た髪が衝撃的過ぎて、あれくらいなんとも思わない﹂
ルーナとアリスちゃんは、なんだかずいぶん仲が良くなったみた
417
いで何よりだ。
﹁⋮⋮⋮⋮あれより酷かったのか?﹂
﹁全てが意思を持っているかのごとく、うねりながら独立していた。
俺は、あれより凄い寝癖も、髪型も、見たことがない。初めて見た
時は、異世界の人間は魔法が使えるのかと驚愕した﹂
個人的には、大学で強風に煽られてもボンバーにならず、きっち
りゆるふわロールを保っていた友人の髪に驚愕したものだ。あれが
女子力だというのなら、私には一生無理だ。後、あれもう、ゆるふ
わじゃない。強うねだ。
﹁それで、軍部はどうだ﹂
どっかりと座ってお茶を一気飲みしたティエンに、ルーナが聞い
た。
﹁離反が四割、騎士は二割ってとこだ﹂
﹁思ったより少ないな﹂
﹁そうでもないぜ。騎士は分からんが、軍士の残ってるうちの二割
傍観、一割が王冠を奪った犯人を見つけ出したら辞めるって言って
るからな。まだ軍士である以上、職務を果たしてから辞めるんだと。
騎士も危ういぞ。前線出てた奴らと、内地にいた奴らとの軋轢が噴
出してやがる。あー、めんどくさいぜ﹂
自分で注いだおかわりをまた一気飲みして、流れるようにゲップ
したティエンの言葉に部屋の中が暗くなる。だから、ゲップしたか
ったらせめて顔を背けろとあれだけ言ったのに。⋮⋮いや、本当は
分かってる。部屋の空気が暗いのはティエンのゲップの所為じゃな
い。
夜だからだ。
あえて空気は読まない。
だってティエンはいつも通りだ。努めてそうしているのかもしれ
ないが、それを望んでいるのなら乗っかる。⋮⋮これって空気読ん
418
でることになるのだろうか。
ティエンは私の頭を鷲掴みにして、わしわしと揺らした。たぶん
撫でられているのだと思うけれど、これは撫でるではなく、揺らし
てるとしかいえない。
﹁しっかし、こいつ返してくれてるところを見ると陽動の線がでか
いが、何から目を逸らさせたいんだ? 軍部切り離して、騎士団分
裂させて? グラースとブルドゥスを争わせたいんなら、どっちか
だけでやるべきだろ。両方でごちゃごちゃさせれば、有利になった
から攻め込もうなんてしねぇだろ﹂
﹁他所なる国は?﹂
﹁この辺で一番でかいのはうちら二国だ。ぶっちゃけ、これだけ軍
部も騎士団もぐちゃぐちゃで、辞めるって言ってる奴らが全部辞め
たところで、攻められてどうこうなる戦力差じゃねぇんだよ。残っ
てる奴らだけで占領できるくらいの開きがある﹂
﹁凄まじきお開きぞり﹂
﹁そうなんだよなぁ。あいつ誰なんだよ、ったくなぁ﹂
わっしわっしと掻き乱される髪は諦めた。どうぞお好きにしてく
ださい。
ゼフェカが誰で、何をしたいのかが誰も分からない。そもそも本
名でもないと思う。
何がしたくて、どうなりたくてこんなことをするのか分からない
行動ほど不気味なものはない。それによって齎される被害が想像で
きないし、何に対しての行動か分からなければ対処のしようがない
のだ。
﹁お前も大変だな、アードルゲ。女傑は伯父の説得か﹂
ティエンの言葉に、アリスは短く息を吐いた。
﹁軍家の母を持ち、騎士の家に生まれたからには、時代に揺れる覚
悟はとうに出来ている。母上がおじを説得できないのであれば、ア
419
ードルゲとおじは決別するしかない﹂
﹁アリスちゃん⋮⋮?﹂
彼の顔は、強張っているわけではないのに凄く固い。淡々として
いるようでいて、歯を食い縛っているようにも見える。
﹁エレナさん、どのようが事態が﹂
﹁貴様には関係のない話だ﹂
すっぱりと切られた。気になるけれど、空気を読もう。
﹁事実じょりんね!﹂
﹁貴様の台詞は余計なものが多い﹂
﹁じょりん!﹂
﹁必要なものだけを排除するな! たわけ︱︱!﹂
耳を引っ張った上に、間近で叫ばれて頭がきんきんする。
よろめいた私をルーナが支えてくれた。
﹁ここで話していても埒が明かない。カズキはちゃんと寝たほうが
いい。風呂は入りたいか?﹂
[入れるなら入りたい。夜会とかの会場って、華やかで凄いんだろ
うなって思ってたけど、すっごい臭いね。びっくりした。いやはや、
理想と現実って違うね!]
入れ歯に噛みつかれ、唾が飛んできたり、頭ボンバーなのと、お
風呂に入りたい要素は着々と積み重なっていたので一も二もなく飛
びつく。
満面の笑顔になっているだろう私を見て、ルーナはふっと笑った。
幸せだ。
﹁さっきも入ってたけど、カズキは本当に風呂が好きだな﹂
[日本人ですから︱︱]
﹁水が豊富な国民性はこういう所で現れるんだなって気づいた時は
面白かった﹂
[あれ? でも温泉あるって聞いたことあるけど]
﹁珍しいけどな﹂
[そうなんだ]
420
これ以上私が話に加わっていても邪魔になるだけだろう。気にな
るし、疎外感がないわけではないが、役に立てないならせめて邪魔
にはならないようにしたい。
とっとと眠って、明日の為の体力に回すのが一番いい気がする。
着替えの事をルーナに聞いていると、皆があまり見たことのない
顔をしていることに気が付いた。どうしたのだろう。
﹁リリィ?﹂
声をかけると、リリィははっとなった。可愛い。
﹁何を言ってるかは分からなかったけど、カズキは、普通に喋って
るとそんな感じなんだなって﹂
﹁ん?﹂
どういう意味だろう。
﹁ううん、何でもない。カズキはいつも一所懸命話してくれるから、
可愛いなって思っただけ﹂
﹁リリィがほうが、特等席で可愛いにょり!﹂
﹁ありがとう。いつか、私ともそんな風にお喋りしてね﹂
﹁ぞり?﹂
﹁私が覚えたほうが早いのかな⋮⋮﹂
考え込んだリリィの肩を、ネイさんが縋るように掴んだ。
﹁お嬢様! カズキ要素を習得するのは考え直してください!﹂
﹁早まるな、ガルディグアルディア!﹂
﹁待て、お嬢さん! 若い身空で早まるんじゃない!﹂
リリィに詰め寄った面々を尻目に、ティエンは再びゲップした。
一気飲みしすぎである。
﹁だ、そうだけど、そこんとこどうだ、ルーナ。カズキのとこの言
葉は難しいからなぁ。俺らは覚えられなかったけど、ガルディグア
ルディアなら出来そうだな。悔しいだろ﹂
にやっと笑って脇腹を肘で突っつかれたルーナは、その手を捻り
あげた。
﹁別に﹂
421
﹁いでででででで! 折れる!﹂
﹁別に﹂
﹁別にもくそも折れるわ!﹂
体勢を捻ったティエンは掴まれた腕を掴み返し、更に捻り返そう
とするもするりといなされている。身体は大きくなったのに、ルー
ナの動き方は昔とあまり変わらない。なんだか猫みたいで、するり
するりとティエンの太い腕を避けている。
そして、私は思う。
わいわいしているリリィ達と、ぎゃいぎゃいしてるティエンとル
ーナ。
わあい、私ひとりぼっち!
寂しい!
422
34.神様、ちょっとパンドラの箱の回収願います
お風呂も入ってさっぱりして、さらりとしたベッドで、さあ眠ろ
うかとしたけれどなかなか眠れない。今日もいろんなことがあった。
最近は安心して眠れる場所じゃないところか、強制睡眠ばっかりだ
ったから、こうして眠れる場所は本当にありがたいのに、落ち着か
ない。
眠れない眠れないともぞもぞして、いろいろ考える。リリィが可
愛いこと、軍部のこと、ティエンのこと、リリィが可愛いこと、イ
ヴァルのこと、アリスちゃんのこと、エレナさんのこと、リリィが
可愛いこと、ルーナのこと、犬猿の仲良しのこと。
リリィ可愛い。私は末っ子だから、あんな妹が本当に欲しかった。
私みたいな妹は真剣にいらない。お姉ちゃん達、妹が私で本当にす
みませんでした!
そして、気づいたら朝だった。
頭を使った途端眠るとは、さすが私である。⋮⋮疲れていたから
だと思いたい。
最後に可愛いリリィを思い浮かべたところまでは覚えているのに、
何故か入れ歯に追いかけ回される夢を見た。悲しい。
渡された着替えは、昨日の服よりもっといい感じだった。どうい
い感じかというと、ちょっと高そうなのである。きっといいお値段
がするはずだ。そんな感じがする。裾や襟がかちっとして、裾や丈
が色々長い。背が高い人がきたらかっこいいんだろうなと思いつつ、
423
エプロンをつけた。エプロンも刺繍とフリルとレースがついていた。
汚れるからするのだろうに、こんなに可愛くていいんだろうか。
エプロンをしたら何だかやる気が出る。制服を着たら気分が変わ
るのと同じだと思う。エプロンを着たら家事をする気になる。今か
らすることは家事じゃないけど。
部屋を出ようとしたら、ネビー先生が私を呼び止めた。
﹁カズキ﹂
﹁はい?﹂
﹁あの子を、見ていてやれ﹂
﹁え?﹂
先生は、静かな声でそう言った。
ルーナとアリスちゃんに連れ添われてどこかの部屋に入ったら、
ゼフェカとスヤマがいた。一日ぶりだね、ゼフェカ。全然恋しくな
いや!
ゼフェカは昨日とあまり変わらない、従者用の礼服で、スヤマは
下ろした髪を丁寧に巻き、明るい色のドレスを着ていた。今日は私
のジーンズではないらしい。
﹁おはようさ︱︱ん﹂
ティエンの真似をした私の無気力な挨拶を受けたゼフェカは、ち
ょっと眉に皺を寄せた。なんですか、気に入りませんか。私だって
朝からゼフェカに会いたくなかったやい。
﹁昨日の服はどうしたんだよ﹂
﹁仮にもそれが黒曜だというのなら、付けるのがメイドでどうする。
侍女だろう。そもそも、カズキをメイド扱いさせること自体許し難
いんだ﹂
今一意味が分からなくてルーナを見上げて、怖かったのですぐに
視線を戻す。目つき悪くするとやっぱり怖いね、ルーナ!
424
ルーナとゼフェカが睨み合っているので、二人に聞くのは諦めて
親友︵仮︶の裾を引く。静電気で弾かれた。冬じゃないのに静電気
を発生させるほど、私に女子らしい行動は似合いませんか。
でも懲りない。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
﹁じじょとは何ぞ?﹂
﹁⋮⋮メイドが分かってどうして侍女が分からないんだ﹂
不思議そうな顔をされた。そうは言われても、砦で皆が洗濯物の
山に埋もれつつ﹃あー、メイド雇ってくれねぇかなぁ﹄と愚痴って
いたので、お手伝いさんのことだと思っていたのだが違うのだろう
か。
そう言ったら解読にしばらくの沈黙を得て、返事を返してくれた。
﹁まあ、考えればそうだな。砦に侍女が派遣されるはずもない。侍
女の単語を聞いたことがなくても不思議ではないな。一般人がやれ
ばメイド、良家の子女がやれば侍女くらいの認識でいい。特にお前
は﹂
﹁了解したじょ。なればこそ、私はメイドで宜しかろう?﹂
﹁そうもいくか。メイドは立場が弱い。貴様をメイド扱いなど、騎
士ルーナが許すはずもない。昨日も相当腹の中が煮えくり返ってい
たはずだ。それに、仮にも黒曜にメイドをつけたとなると、国の威
信に関わる﹂
昨日の服でも可愛かったけれど、いろいろあるらしい。私はあん
まりそういう文化に詳しくないので分からない。西洋の文化に詳し
かったら分かったかもしれないけれど、如何せん知識不足だ。アル
バイトと正社員みたいなもの、という認識で合っているのだろうか。
⋮⋮間違ってる気がする。
とにかく、一応﹃黒曜﹄とされているスヤマにメイドをつけるの
はおかしいのは分かった。でも、それだったらどうしてゼフェカは
私にメイドの衣装を用意したのだろう。
425
こっちの世界での常識を、こっちの世界の人間が知らないのはお
かしいのではないだろうか。
﹁⋮⋮ゼフェカ、ブルドゥスの人間では無き様?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮さあな﹂
ひそひそと話していたら大きな音がして慌てて視線を戻す。ゼフ
ェカは打ち鳴らした両手を上げ、ひょいっと肩を竦めた。
﹁分かった分かった。庶民派黒曜様の演出は諦めるさ。ほら、そい
つ渡してくれ。今日はあっちこっちで茶会の誘いが入って忙しいん
だ。お貴族様は暇だねぇ。こんな状況下で、やることは茶会ばかり
かよ﹂
呼ばれても駆け寄りたくないし、動くのを躊躇っていたがそうも
いかない。
観念してスヤマの隣についた。ゼフェカの横に行かなかったのは
せめてもの反抗だ。いつか反攻もしてやる。
無表情のルーナとアリスちゃんにひらひら手を振って、にかっと
笑ってみた。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ、歯に胡椒が挟まってる﹂
﹁歯磨くぞおこなったにも拘らず!﹂
笑って誤魔化せ作戦は私にダメージを与えてきた。どうやら私は、
笑って誤魔化せ作戦の効果を見誤っていたようだ。
とにかく、サンドイッチには気をつけなければならないと肝に銘
じた。ハムは美味しいのに、なかなか手ごわい相手だ。
お茶会と聞けば、ししおどしがどこかでかぽーんと音を立ててい
る光景が思い浮かぶ。だって日本人だもの。
中学校の日本文化を学ぼうという授業で、お茶をしたことがあっ
426
た。しかし、如何せん抹茶が苦い。今ならちょっと苦いけど意外と
いけるとなっただろうけれど、数か月前まで小学生をしていた中学
生には、何の苦行かと思った。正座より何より、そっちがきつかっ
たのを覚えている。お菓子だけが救いだったのに、相手方の都合で
予定していたお茶菓子が酒饅頭になって絶望した。まあ、正座もき
つかったので、見事にひっくり返ったクラスメイトと折り重なって、
先生に笑われたオチもしっかりついている。
そんな、あらゆる意味で苦い思い出を噛み締める昼下がり。うふ
ふおほほと響く、上品な笑い方が溢れるお茶会会場で、私は静かに
立っている。
﹁あちらなるお菓子を頂戴致したい﹂
﹁お腹空きましたもんね﹂
﹁あちらなるお茶も頂戴仕りたい﹂
﹁喉も乾きましたもんね﹂
訂正しよう。別に静かではなかった。
私の左にイヴァル、右にはブルドゥスの騎士がいる。更にその左
右には、ここでお茶会している人達の護衛だの侍女! の人がずら
りと並んでいた。新しい言葉を覚えるとつい使いたくなってしまう。
イヴァルとブルドゥスの騎士は、私の護衛である。護衛がつくな
んてビッグな女になった気分だ。雰囲気を出すためにサングラスも
してくれないだろうか。
私語をする人なんて私達くらいしかいない。方々から飛んでくる
冷たい視線が痛いけれど、私達はやかましくお喋りだ。
何故なら、﹃目立て﹄と任務を受けているのである。
今日のお茶会では、今までスヤマに付いていたゼフェカがいない。
ゼフェカは王様と王子様を脅し⋮⋮謁見中だそうだ。
だから、スヤマを揺さぶるためにも精々調子を崩してやれと言わ
れている。ルーナは何もさせたくなさそうだったけれど、出来るこ
427
とがあればやりたいと申し出たのは私だ。
スヤマが表に出てくる時は、いつもぴったり張り付いていたゼフ
ェカがいないのだ。これはチャンスである。ゼフェカはスヤマに、
自分が合流するまで部屋には戻るなと言っていた。その言いつけを
破らせるのが私の役目だ。
いろいろ考えた結果、何も思い浮かばなかったのでお喋りに落ち
着いてしまった。まあいいや。慣れないことをするより、居心地悪
い思いをしながらでもお喋りする方が失敗はしないはずだ。
きっと下がってしまう騎士二人の評判は、後で責任もって上げて
くれるそうだし、こんな侍女を諌めることも出来ない人間として落
ちるのが黒曜の評価だけなら別にいい。元々、今ついている評価は
私には与り知らぬもので、過ぎたるものだから。
でも、お茶会の空気を悪くしてしまっていることは、本当にごめ
んなさい。
﹁どうしたの、ヒューハ。今日はやけに大人しいね﹂
﹁こんな状況でへらへら笑ってられる程、俺は豪胆じゃない﹂
﹁ヒューハはイヴァルと同年だった﹂
﹁え、今も同年です﹂
﹁同じ年なんだねーって言ってるんだよ﹂
﹁え﹂
お喋りはなかなかスムーズにいかない。主に私の所為で。イヴァ
ルの通訳がなければだんまりになっていたかもしれない。
ヒューハはイヴァルよりも少し背が高い。イヴァルはひょろひょ
ろだけど、ヒューハは少し鍛えられているように見える。イヴァル
も別に鍛えてないわけじゃないだろうけれど、筋肉がつきにくいの
かもしれないが、それは言わずに口を噤む。男の子にとって、筋肉
ないねと言うのは傷つくらしいと、昔のルーナを見ていて経験済み
だ。散々からかい倒していたのがティエンだからという理由だった
428
らどうしよう。
﹁ヒューハはイヴァルと友達だった﹂
﹁え、今も友達です﹂
﹁さっきと同じだよとだけ言っておくよ﹂
重ね重ね申し訳ないけど、その語尾言いにくい。だったんだね⋮
⋮だったんだね⋮⋮。
﹁だったるじょんね﹂
﹁え、なんか怖い﹂
そんな、実際に二歩も離れていかないでください。これでも精一
杯舌を回しているんです。
少し離れた場所で席に付き、うふふおほほとやっているスヤマが
ちらちらこっちを見ているのが分かる。話し相手の人達の視線も、
スヤマを見ているようでいてこっちを向いていた。ドヤ顔で応戦し
てみる。毛虫を見るような目を返された。凄い、毛虫のような睫毛
が毛虫を見るような目で私を見てくる!
﹁カズキさん、カズキさん﹂
ある種感動のようなものを覚えていると、イヴァルに裾を引かれ
た。なんだそれ、可愛い。静電気も発生しない。イヴァルの方が女
子力があるようだ。
﹁僕、カズキさんから貰った物、全部大事に持ってるんですよ!﹂
﹁え、何物を差し上げたぞ⋮⋮﹂
イヴァルの笑顔は子どもの頃と変わらず輝いているのに、何だか
嫌な予感がしてきた。
﹁えっとですね、クッキーと﹂
﹁廃棄求む! 至急緊急廃棄求むぞ!﹂
にこにこと爆弾発言が飛んできた。それ、たぶんもうパンドラの
箱並に開けちゃいけない何かになってる。パンドラの箱は一応希望
があったけど、こっちは絶望しかない!
429
一発目から飛ばしてくれたイヴァルは、その後も次々とかっ飛ば
してくれた。書き損じた書類でこしらえた折り紙や、得体のしれな
い何かになった手袋は腐るものじゃないからいいとしても、絶望だ
けが詰まった食べ物BOXは捨てることを約束させなければ。
必死に言い募ると、イヴァルは全力でそれを跳ねのけた。
﹁嫌ですよ! それに、大事なものは捨てないんです! ね、ヒュ
ーハ!﹂
﹁全面的に同意はするけど、食べ物はちょっと躊躇うかも﹂
﹁ちょっとのみ!?﹂
そこは全面的に躊躇ってほしかった!
物凄く不満な顔をされたけど、物凄く不安な私の気持ちもどうか
分かってほしい。必死にイヴァルを説得する。しかし、頑として首
を縦に振らない。そういえば、あの頃から何でもかんでもとってお
く子だったけれど、ここまでだったとは。あれだけ流行って、あっ
ちでこっちで見かけた断捨離本を読んでおくべきだった。しゃりっ
て美味しそうとか思っている場合じゃなかった!
﹁何故にしてそのようなものを後生親身に保管するぞ!﹂
﹁だって人は消えちゃうじゃないですか!﹂
身を切るような声に、私は思わず動きを止めた。
いつの間にかひょろりと伸びたイヴァルは、けれど昔と同じよう
に服をぎゅっと握っている。我慢をさせているのだと、分かった。
﹁人はぱって、ぱって消えちゃうじゃないですか! 後方支援だか
ら死なないって言ってたのに奇襲受けて死ぬし、強い人だって何で
もない交戦で死ぬじゃないですか! 戦闘には出ないから、絶対死
なないって思ってたカズキさんは、消え、消えちゃったじゃないで
すかぁ!﹂
﹁イヴァル⋮⋮﹂
﹁でも、物は残るじゃないですか! 物があったら忘れたりしない
し、その人は消えてもいなくなったりしない! 生きてても、いな
くなるし、今みたいに国が僕らをバラバラにしようとするなら、物
430
だけでも一緒にって、だからっ⋮⋮!﹂
大きくなったのに、昔の泣き虫イヴァルのままだったのだ。今に
も泣き出しそうな顔で、必死に自分を守っているような声が私を責
める。
朝、ネイ先生が言っていた言葉を思い出す。
﹃あれは、ゆっくりと失うことを知らん。戦場での別離はいつだっ
て唐突だ。それしか知らんまま図体ばかりがでかくなり、緩慢な別
れに恐怖を抱いている。放っておくと崩れるかもしれん。お前さん
だってその一因じゃぞ。お前さんの責ではないにしろ、見ていてや
れ﹄
幼い頃から戦場にいたイヴァルにとって、別れとは死だった。病
気で死ぬ人も、寿命で死ぬ人も、配属替えで別れることすらなかっ
たという。
﹃わしもいつかは老いで死ぬ。それすらもあれには初めての経験で、
恐怖だ。わしのことで脅えている今に、初めて死以外の別離を教え
たお前さんが帰ってきて、今は軍部との分裂じゃ。ちゃんと見てい
ろ。さもなくば壊れるやもしれんぞ﹄
死ななくても人は別れるものだと、私が教えてしまったのだ。い
ま、死ではなく、私みたいな別れでもなく、もっと精神的に近い別
れが彼を取り巻いている。今まで絶対だった軍士と騎士が分裂しよ
うとしているのだ。仲違いとは違うかもしれないけれど、目指す先
が分かれている。生きているのに別れなければならない。その事実
が、イヴァルを蝕んでいる。ただただ理不尽だと、分からないと切
り捨てられる子どもではなくなってしまったのが、更に彼を混乱さ
せているのだ。
十年、イヴァルは人との別れを極力避けてきたとネイ先生は言っ
た。つまり、新しい出会いを求めなかったのだ。現に、イヴァルの
知り合いで私が知らない人はヒューハだけだった。そして、たぶん、
ヒューハはイヴァルと似ている。
イヴァルの声に驚いた人々の視線が集まる中、ヒューハだけが静
431
かだ。その眼が共感している。そうだ、彼も戦場で育った子どもだ。
戦場で育った子ども達は、別れに鈍感になるか、敏感になるかの
二択なのだそうだ。彼らは理不尽で不条理な別れを日常的に見過ぎ
た。突発的な死に慣れて、緩慢な死を知らない。理解できない。
﹁イヴァル!﹂
昔より高くなった頬を両手で挟んで目を合わせる。額を合わせた
かったけれど高さが足りない。野菜が食べられなくていやいやする
たびに、眠れないと泣くたびに、よくした体勢だ。年上になった彼
に、こんな公衆の面前ですることになるとは思わなかった。
場所を移動しようとか、後にした方がいいとか、常識的な事も頭
をよぎる。けれど、すぐに打ち払う。駄目だ、今じゃないとイヴァ
ルが逃げる。
﹁食べる物箱は処分!﹂
﹁嫌です!﹂
﹁再度作成するから!﹂
振り払おうとする腕に喰らいつく。逃げようとする顔を強く抑え
て目線を外さない。これは小さい時の癖だけれど、イヴァルは目線
が合っていない話はちゃんと聞かないのだ。
﹁幾度再度、作成するから! 再度再び邂逅叶ったから、幾度でも
作成可能ぞから!﹂
﹁新しい物作ってくれても、カズキさんはまたいなくなっちゃうん
でしょう!? ずっといられるかなんて、分からないんでしょう!
?﹂
﹁はい!﹂
咄嗟に勢いよく肯定してしまった。
ぐしゃりと歪んだ顔に、慌てて何かを言おうとして一旦飲み込む。
言葉を選べ。間違えるな。きっと、言語が同じでも丁寧に紡ぐべき
言葉を、ただでさえ残念な語彙力で伝えなければならないのだ。
432
私は、乾燥した口の中で、なんとか唾液を飲み込む。
﹁イヴァル、私にょ⋮⋮⋮⋮少々待機﹂
早速詰まった。ちょっと待って。確か、何かいい単語を聞いたこ
とがあったはずだ。
目線は外しているけれど、私の手に挟まれて成すがままになって
いるイヴァルに、慌てないよう言葉を探す。
﹁いずれか、いなくなるやもしれぬ。ですが、それまでの期間、共
に並ぶが可能で、それによりて⋮⋮⋮⋮イヴァル、私のみならず、
人は、いずれ必ずいなくなる。ですが、私は、いずれそれなるのな
ら、大切に失いたい﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁大事に、大切に、失いたい﹂
それが何でも、永遠に失わずにいられる保証なんてない。出会え
ば必ず別離は来るのだ。でも、その別離がどういうものかは、過ご
した時間が決める。
緩慢な別離は、いま過ごしている全てだ。出会って、別れるまで
の全てがそうなのだ。
人が言葉を交わして別離するまで、生きて死ぬまで、始まって終
わるまで、全てが別離までの道程だ。
そして、終わると分かっているからこそ、いつかその瞬間が訪れ
た時に悔いないようにしたいと願う。
﹁いなくなるやもは、イヴァルも同様である、から、ですが、イヴ
ァル。私は、今現在を、大事に過ごすしたい﹂
願いも明日も、ぶつ切りに奪われる死だけが別離ではないとイヴ
ァルは知った。だったら次は、別れ方を知るべきだ。それさえ知れ
ば、イヴァルは大丈夫だと、私は思う。だってイヴァルは強い。こ
れだけ別れを経験して、これだけ別れを恐れても、出会いを嘆いた
ことは一度もなかったのだから。
もう視線は逃げていない。合っている視線は戸惑いによるものだ
けれど、まっすぐに私を見下ろしている。昔は必死に私を見上げて
433
いた瞳が、私を見下ろす。
﹁イヴァル、大事なるは失うまでの期間で、大切に別離を惜しじょ
ふっ⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
妙な沈黙が落ちた。頬を挟んだままだった私の両手をそっと外し
て、イヴァルが覗きこんでくる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮噛みましたね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ひゃい﹂
口の中に血の味が滲んでくる。結構いった。単語を選ぶのに必死
になって、舌の動きにまで気が回らなかった。大変、痛い。
口を押えて悶えていると、さっきまで私がしていたように頬が挟
まれる。
﹁口開けてください﹂
﹁あ︱︱﹂
大人しくかぱりと開けると、中を覗き込んだイヴァルはうわぁと
いう顔をした。やめて! 余計に痛くなる!
﹁あ︱︱⋮⋮かなりやりましたね。先生に薬を貰ってきます。ヒュ
ーハ、少しお願い﹂
﹁え、ちょ、イヴァル!?﹂
引き留めようとしたヒューハの声に、既に走り出していたイヴァ
ルは振り向かず、手を振るだけで答えた。
﹁お前がいないと通訳いないんだけど!?﹂
﹁私なるは、いつおう同様なる言語をお喋りしてるにょ!?﹂
﹁いつおう!?﹂
﹁い、しゅおう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮一応?﹂
﹁それぞり﹂
今や会場中の視線を二人占めした状態だ。スヤマを揺さぶるつも
りが、まるで主役状態である。ここまでしろとは誰も言ってなかっ
たし私もするつもりはなかったのにどうしてこうなった。
居心地悪そうにしているヒューハには大変申し訳ない。けれど、
434
イヴァルはもう少しだけ帰ってこないと思う。
私は、快晴なのに一滴だけ降ってきた滴で濡れた頬を袖で拭った。
イヴァルは、大丈夫だ。知らないだけで、知れば、ちゃんと受け
止めて進んでいける子だ、と思う。それは彼の子ども時代を一緒に
過ごした親ばか的な考え方かもしれないし、そうであってほしいと
願う私の願望かもしれない。
でも、彼の傷になるしかない私は、伝えたいものを伝えるしかで
きないのだ。私の言葉をどう受け止めるかは彼次第だ。届いてはい
ると思うから、後はどう飲み込むかを待つしかない。その結果が望
んだものと違ったら、また話し合う。それだけのことだ。
それに、あんな飯﹃だった﹄テロをこの世界に置いておくわけに
はいかない。かといって、あっちの世界に置かれても困るけど。
出来ればイヴァルに納得してもらって、彼の手で処分してもらい
たい。パンドラの箱を捨てて嫌われたくはないが、もしもの時は強
硬手段も必要だろう。⋮⋮まさかとは思うけれど、手袋もどきや折
り紙も同じ箱に入れてはいまいな?
私が悶々と考え始めたとき、大きく手を鳴らす音が響いた。
今まで私達に集中していた視線が音の出どころを見た瞬間、会場
中の声がうねったのが分かる。ざわりと音がざわめいた様が視覚で
きそうなほどだった。
何が起こったのだろうと音の出どころを探す。すると、人が割れ
るように後ずさりしている場所があった。音もそこからだ。
片方に革の眼帯をつけた男の人が、拍手をしながら歩いてくる。
腰に帯剣しているので軍人か騎士だ。男の人を見て露骨に眉を寄
せる人から、脅えるように後ずさる人までいる。その人は確実にこ
っちに向かって歩いてきて、私の前で止まった。
背が高い、三十代ほどの男性で、名前は知らないけれどナイフを
背中や腰で止めるベルトが見えるから、この人は軍士だ。
﹁いい言葉を聞かせてもらった。礼をしたい。黒曜、君の侍女を少
435
しの間借りてもいいだろうか﹂
突然話を振られたスヤマは、がちゃんとカップを皿にぶつけた。
さっきまで、詳しくは知らないので合っているかどうかは分からな
いけれど、綺麗な作法だったのに動揺しているらしい。違うんです、
スヤマさん。動揺してほしいのはこういうシーンでじゃなくて、も
っとこう二人っきりになった時にぽろりと情報を頂ける感じでお願
いします。ぽろりもあるよ! みたいなサービスを頂けると大変う
れしいです。生身のぽろりはいりません。私が悲しみに打ちひしが
れることになります。
私が現実逃避の旅に出ていると、スヤマがこほんと咳ばらいをし
た。
﹁い、いえ、お恥ずかしながら、見ての通り作法のなっていない侍
女ですので﹂
﹁ご覧の通りぞ有様だす!﹂
今だけはスヤマに同意だ。そうです、お恥ずかしい侍女はこの私で
すから、他を当たってください。貴方がどなたかは存じませんが、
他を当たってください人違いです!
私の必死の祈りは、低い淡々とした声で打ち砕かれた。
﹁それで結構。私も武骨な軍士。優美な作法など身に着けてはおり
ませんゆえ。では﹂
言うなり私の手を掴んで引いていくこの人は、一体誰なんですか
ね!
慌ててヒューハを見たら、こっちも慌ててついてこようとしてい
る。
すると男の人は、壁でもあるかのようにぴたっと止まった。当然
ぶつかった。カズキは急には止まれません。
﹁ヒューハ・ニキュヤ。少しの時間、譲ってもらいたいのだが?﹂
﹁し、しかし!﹂
﹁二言が必要か?﹂
淡々と告げられた言葉に、ヒューハがぐっと詰まった。もしかし
436
て、凄く偉い人なのだろうか。上下関係に厳しい職種だけれど、ヒ
ューハは騎士でこの人は軍士のはずだ。だったら直接の上下関係で
はないはずなのに、ヒューハは一拍迷った後、胸元に指を揃えた掌
を当てて踵を揃えた。騎士の礼だ。軍士は拳を当てる。
まあ、つまり。
﹁諦観した!?﹂
諦められたのである!
﹁ヒューハ︱︱! 待機! 少々待機︱︱!﹂
﹁⋮⋮了解しました。待っています﹂
﹁助力懇願救出要請!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あ︱︱⋮⋮聞こえません。何言ってるか分かりません﹂
﹁どちらさんなるか、通訳を! 翻訳求む︱︱!﹂
誰か、通訳呼んで︱︱!
犯罪者だって弁護士を呼ぶ権利があるのに、私に通訳を呼ぶ権利
はなかったらしい。
結局私は、訳が分からないまま引きずられて会場を後にした。
437
35.神様、ちょっと本日初めまして
知らない人に手を引っ張られるまま、ずんずん知らない場所に進
んでいく。いや、そもそも知っている場所は少ないけれど。
それに、私だってちゃんと抵抗してはいる。ただ、手も足も大き
くて背の高い男の人は、それに伴い歩幅も大きい。よし、踏ん張っ
て抵抗するぞ! と気合いを入れても、踏ん張る前にたたらを踏む
羽目になる。
背の高い人を必死に見上げるも、後頭部かよくてちらっと横顔が
見えるだけだ。必死に見過ぎて、段々、濃い金髪がバナナに見えて
きた。
﹁待機! 少々待機懇願願いまするぞ!﹂
返事がない! ただのバナナのようだ!
そんな物に返事を求めたことがまず間違いだ!
あんなに人の気配が溢れていた場所は既に遠く、いつの間にか周
囲には木しかなくなった。城にいたはずなのにいつの間に森に!
﹁心底待機懇願望むぞり! てめぇは一体全体どこのどなたでどち
らさん!?﹂
そこまで一気に言い切って、はっと気づく。
﹁⋮⋮⋮⋮他者に名を問答する際は己から! 私はカズキでぶ!﹂
突然止まった背中に激突した。硬い。ルーナもティエンもアリス
ちゃんも、みんな身体に鉄板仕込んでいるみたいだ。ゼフェカも仕
込んでいるようだけど、ゼフェカの場合は本当に仕込んでる可能性
も捨てがたい。
だが、今はゼフェカなんてどうでもいいのだ。
[鼻が、鼻がぁ!]
438
私は、諸にぶつけた鼻の安否確認に忙しいのである。曲がってな
いか、潰れてないかとわたわたしていたら、目の前の鉄板がくるり
と振り向いた。機敏な動作で翻ったマントが私に当たらないように、
さっと手で絡め取って後ろに流す動作が見事で、ちょっと見惚れる。
﹁名乗らずに失礼した。俺はヒラギだ。ヒラギ・ソルジアという﹂
﹁カズキでふ⋮⋮﹂
鼻血が出ていないことだけを確認して、私は優先事項を鼻から鉄
板に戻す。ゼフェカより鼻、鼻より目の前の人だ。
目の前に差し出された大きな手と握手する。ごつごつして、がさ
がさした、働き者の手だ。
﹁君とは一度話をしてみたいと思っていた。目の前に機会があった
ので、つい押し通してしまったが、驚かせてすまない﹂
﹁はあ、どうぞ⋮⋮も? どうも﹂
ようやくまともに顔を見られた。左目に眼帯をつけた男の人は、
よく見ると眼帯の下の頬にも傷がある。右目は綺麗な緑色で、ちょ
っと鋭い瞳⋮⋮どこかで見たことあるような。
﹁俺は、エレオノーラのはとこにあたる。エレオノーラの生家ナル
テン家の分家だ﹂
﹁エレナさん!﹂
どこかで見たと思ったら、エレナさんとアリスに似てるのだ。納
得だ。そしてすっきりである。
そして何故、この私が、はとこという難しい言葉を知っているか
というと、何のことはない。砦にはとこがいたからである。はとこ
の意味を私に説明してくれたルーナが一番大変だったと思う。
エレナさんのはとこにあたるということは、アリスから見たら⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮なんだろう。母親の従兄弟どころかはとこ⋮⋮⋮⋮
親戚のおじさん!
﹁お初にお目にかかるます! アリスロークさんには、何時如何な
る時も多大なるお世話面倒ご迷惑をおかけしてるカズキじょり!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そんなにか﹂
439
いやぁ、アリスちゃんにはいつもお世話になっています、おじさ
ん!
いきなり現れて、ずんずん人気のない場所に引っ張ってきた怪し
い人が、アリスちゃんのおじさんと知った途端一気に不信感が消え
去る。確かに、目元がよく似ているのだ。
思わずにっこにことしてしまったら、ヒラギさんは意外そうに少
し眉を上げた。
﹁アリスロークから聞いていないのか?﹂
﹁何事を?﹂
﹁俺が、軍の一部と共に国を出るかもしれないことをだ﹂
口には何も含んでいなかったけれど、盛大に噴き出す羽目に陥っ
た。
ヒラギさんは綺麗に髭が剃られた顎を片手で擦り、私を覗き込ん
でくる。ルーナより背が高い。
﹁アリスロークがあれだけ楽しそうにしていたから、てっきり親し
いと思っていたんだが⋮⋮⋮⋮ああ、心配を懸けまいとしていたの
か。それならばすまないことをした﹂
合点がいったと一人で頷かれても、いきなりとんでもないことを
暴露された私はどうしたらいいんだろう。あの時、ティエンが言っ
ていた事はこれだったようだ。これは私が聞いていい話なのだろう
か。本人が喋っているので大丈夫だとは思うけれど、聞かせたくな
さそうだったアリスちゃんの意向を優先すべきかもしれない。何せ
親友︵仮︶だから!
﹁アリスロークさんは! ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮いい天気ぞりね!﹂
意気揚々と話題を変えようとしたが、そういえば特にこれといっ
て話題がなかった。共通の話題はアリスちゃんだけれど、そのアリ
スちゃんさえ話題になりそうなことを知らない。親友︵仮︶すら失
格の勢いだ。アリスちゃんは何が好きなんだろう。今度聞いておこ
う。
ヒラギさんはちらりと空を仰ぐと、生真面目な顔で言った。
440
﹁今にも降り出しそうだが﹂
八方塞がりである。
なんとか他の話題をと思っていたが、はたと気が付く。ヒラギさ
んは軍の一部と国を出るかもしれないと言っていた。どう考えても
今回の騒動が原因だろう。
﹁あ、あの⋮⋮私なるにどの様子なご案件でしょうぞ?﹂
﹁ああ、一度黒曜と話をしたいと思っていたのだが、アリスローク
に断われていてな。あまりに断られるので、押し切ってみた次第だ﹂
黒曜とご存知でしたか。そうですか。⋮⋮違うとは思うけれど、
もしかして、終戦の原因と言われている黒曜をお恨みであるとか、
そんなことは、ないと信じたい。
そのことに思い至った瞬間、人気のない森っぽい場所、と思って
いた場所が、まるでサスペンスの舞台のように感じてしまう。空を
見たらどす黒い雲が上を覆っているし、湿った風が嵐の前のように
木々を揺らして葉っぱを落としてくる。背の高いヒラギさんの表情
は逆光でよく見えない。
チャンチャンチャーン。チャンチャンチャーン。
嫌なBGMが頭の中で鳴り響く。タイミングよく走り抜けていく
風に自重をお願いしたい。
私は、自分が如何に役に立たないお馬鹿で、終戦の女神なんて大
物になれるはずもないたわけであるかをヒラギさんに伝えるべく、
一所懸命言葉を組み立てる。こんな悲しい自己アピール初めて。就
活では絶対に役に立たない。
﹁要件⋮⋮というほどでもないのだが、どんな人間が見てみたかっ
たという好奇心だ。気を悪くさせたのならばすまない﹂
﹁このような人間だす﹂
両手を広げて、ついでに一回回ってみた。足に激痛が走る。ここ
まで散々駆使した足に走った激痛に一人で呻いている私を、ヒラギ
さんはまじまじと見つめている。そして、一つ頷く。
﹁大体理解した﹂
441
理解が早くて何よりです。
蹲って悶えていた私に手を貸してくれたので、ありがたくその手
を借りて立ち上がる。
﹁本当に、これといって何かがあった訳ではなかったのだが⋮⋮そ
う考えると君を珍獣扱いしていたようだ。申し訳ない﹂
﹁どんぞ⋮⋮お、お気になさらでゅ﹂
既に噛んだ場所を庇っていたら、別の場所を二連続で噛んだ。も
う、舌のライフはゼロである。口内炎一直線だ。誰か私にチヨコー
ラBBを恵んでください。
今度は口を覆って身悶える私の前で、手助けをしようにも出来な
いヒラギさんが困ったように立ち尽くす。
本当に、どうぞお気になさらず。
なんとか復活したのはいいが、落ちた沈黙が気まずい。色々聞き
たいような気がするけれど、聞いていいのか分からない上に親友︵
仮︶の意思も尊重したい場合はどうすればいいのだろう。
湿っぽい風になんとなく不安で落ち着かない気持ちを演出されて
いると、ヒラギさんがぽつりと言った。
﹁何かがあったわけではなかったのだが⋮⋮やはり、問うてみたか
ったのかもしれぬな。黒曜、君から見て、この国はどう見える?﹂
﹁国⋮⋮ブルドゥス?﹂
﹁そうだ﹂
突然の問いにきょとんとなる。どう見えると問われても、ブルド
ゥスにしか見えない。そんな私の様子に、ヒラギさん自身もなんと
も言えない顔をした。
﹁うまく言えぬが⋮⋮そうだな。我々はいま、この国は命を懸ける
に値するかどうか見極めの決断を迫られている。今までは迷う暇な
く命を捧げてきたが、今は良くも悪くも迷う余地がある。その上で
彷徨う身として、黒曜と呼ばれた君にはこの国はどう見えているの
442
か、問うてみたい。長らく停滞してきた我らと、突如として現れ、
去っていった君では、同じ物でも違って見えるのか、と﹂
言葉が出ない。そんなこと言われても困る。
﹁別に、君に何かを言われたからと、それで判断するつもりはない。
己が身の決断は、己で責を持つ。だから、ただ、聞いてみたかった
だけだ﹂
そう言われましても。
ヒラギさんは生真面目に背筋を正し、踵を揃えて私を見下ろして
いた。初対面なのにどこか懐かしいのは、こういうところがエレナ
さんに似ているからだろうか。
私は少し考える。だが、考えたところで私は私だ。偉人さん達み
たいに立派な事は言えないし、思いつかない。だけど、何かを求め
られているのは分かる。ヒラギさん自身も言っていたが、別に私が
どうこう言ってそれに従ったり、揺れたりするわけではないのだろ
う。ただ、判断材料の一つとしてか、それとも本当にただ聞いてみ
たかっただけのことだと思う。
それでも、求められているならちゃんと答えたい。初対面の人だ
けれど、アリスちゃんやエレナさんの親戚の人なら尚更だ。そう思
うのに、困ったことに全く何にも思い浮かばないのだ。
﹁不明ぞり⋮⋮﹂
﹁ぞり⋮⋮﹂
﹁不明、だぞ、よ? ⋮⋮だす﹂
﹁だす⋮⋮﹂
﹁申し訳ございません!﹂
﹁それは流暢なのか﹂
口元を、曲げた人差し指で覆ったヒラギさんは黙ってしまう。怒
らせただろうか。それとも、あ、駄目だこいつ、馬鹿だ、と、思わ
れただろうか。事実です。
どうしたものかと思っていたら、肩が震えている。何だ、笑われ
ていたのか。いつも通りですね!
443
﹁ふ⋮⋮く、くっ⋮⋮⋮⋮こ、黒曜、君は何というか、ふっ、くっ﹂
﹁私はたわけぞり!﹂
﹁ぶっ⋮⋮!﹂
揃えた指で自分の胸を指せば、盛大に噴き出された。どうぞ存分
に笑ってください。事実なので。
声だけは堪えようとしているようだけれど、結構漏れている。ヒ
ラギさんは、結構長く笑い続けていた。苦しくないのだろうか。
散々震えた背中が、またしゃきっと伸ばされたのは突然で、私は
思わず仰け反った。
﹁突然、返答に困る質問をしてすまなかった﹂
﹁こつらこそ、返答否で申し訳ございません﹂
﹁ぶっ⋮⋮!﹂
また何かが壺に入ったようだ。最初はちょっと怖かったけれど、
ヒラギさんは意外と笑い上戸かもしれない。そして、この様子だと
今の今まで我慢していたのだろうか。
﹁君は、堅苦しい単語交じりの喋りと動作が見合わないな﹂
笑いながら、ヒラギさんは体の向きを変えた。
﹁送ろう﹂
﹁へあ!?﹂
背の高い頭が下がったのを追っていた視線が、ぐんっと上がる。
慌てて目の前のものにしがみつく。立ったままの態勢で両足をその
まま持ち上げられる。直立不動で抱き上げられるとは思わなかった。
﹁怪我をしていたのに気付かず、すまないことをした﹂
﹁徒歩! 私なるは自力徒歩可能じょりん!﹂
﹁じょりっ⋮⋮!﹂
しがみついた頭が小刻みに揺れる。と、いうよりも、身体全体が
揺れていた。酔う。
しかし、酔っている場合ではない。この年で抱きかかえられて運
ばれるのは物凄く恥ずかしい上に、相手が今日会ったばかりのアリ
スちゃんのおじさんだ。遠慮すればいいのか、恥ずかしがればいい
444
のか分からないが、とにかく下ろしてほしい。だが、下ろしてほし
いのは山々なのだけれど、暴れるのはヒラギさんより私が危険な気
がするし、全力で嫌がるのは失礼にならないかと思うとそれも躊躇
う。
結果、ぬーんと悩んでいる間に普通に運ばれていく。ぽんぽんぽ
んと、ほとんど乱れない上下の振動が意外と心地よい。頭にしがみ
つくわけにもいかないので、背筋を伸ばしたまま肩を掴んでいた。
皺になったらすみません。しかし、見下ろした先で揺れる房がバナ
ナに見える。たぶん、量が多い髪を無理やり上げて後ろに流してい
るから固まった部分が房に見えるのだろうけど、何はともあれお腹
が空いた。
背の高い人に抱き上げられ、更に背筋を伸ばしていると、世界は
まるで違う景色を見せてくる。小さい頃お父さんに抱っこされると
きに見えた景色に似ていた。
﹁黒曜は、この国が苦手だろうか﹂
静かな声で問うてくる顔を見下ろす。彼は広がる景色を、少し目
を細めて見ていた。
さっきはヒラギさんの横顔を見上げるのに必死でよく見ていなか
ったが、小さな森のような場所を抜ければ高い生垣で飾られた庭に
出た。その向こうにはお城が見える。ブルドゥスの中心であり、象
徴だ。
﹁アリスちゃんも、エレナさんも、リリィも、みんな好きぞり﹂
正直に言うと、﹃国﹄のことは分からない。グラースの敵対国だ
ったブルドゥス。好きも嫌いも、どちらを選べるほど知ってるわけ
じゃないブルドゥス。何をもってして国とするかも分からない。け
れど、一つだけ言えるのは、私と出会ってくれたブルドゥスの人は
優しかった。アリスちゃんや王子様達が守ろうとしている国を嫌い
とは、言えない。けれど好きと満面の笑顔で言えるわけでもない。
世の中難しいものである。
全く答えになっていない回答はするりと身の内から零れだすのに、
445
聞かれた答えはまた不明だ。ヒラギさんの時間を無駄に使って本当
に申し訳ない。
謝罪は相手の顔を見てするものだ。視線を落として見たヒラギさ
んは、何か眩しいものでも見るかのようにお城を見ていた。
﹁そうか﹂
﹁はい﹂
そうして再び進み始めた歩は、またさっきと同じように一定の間
隔を乱すことなく私を運んだ。
すると、前方が騒がしいのに気付く。私は怪訝な顔をしたけれど、
ヒラギさんは変わらない。騒ぎの原因に検討がついているのだろう
か。
前からばたばたと走ってきたのは、私が知っている人ばかりだっ
た。アリスちゃんとイヴァルとヒューハと⋮⋮⋮⋮無表情で凄く速
いルーナ!
凄まじい速度で走ってくるのに全く表情が変わらない怖さに慄い
ている間に、あっという間に距離を詰めたルーナの腕にひったくら
れた。荷物のようにぶん回されたと思えば、何をどうやったのか、
気が付いたらお姫様抱っこである。手品だ。
﹁すまないとは思っているが、そう怖い顔をするな、騎士ルーナ﹂
﹁それは出来ない話だ、軍士ソルジア﹂
下から見上げたルーナの首筋が薄らと汗ばんでみる。よっぽど慌
てて走ってきたのかもしれない。
﹁ルーナ、辛抱かけて申し訳ございません﹂
﹁心配﹂
﹁しんぽい﹂
﹁ぱ﹂
﹁ぱ。憂慮は否定?﹂
﹁意味合い的には似ているけれど、憂慮をかけてとはいわない﹂
446
﹁難儀な⋮⋮﹂
ルーナに異世界語講座を受けている間に、アリスちゃんがヒラギ
さんに詰め寄った。
﹁おじ上!﹂
﹁お前も、そう怖い顔をするな﹂
﹁これがしないでいられますか!﹂
﹁手厳しいな、お前ら⋮⋮﹂
ヒラギさんは頭を少し掻いた。バナナが揺れる。
﹁おじ上、本当に、国を出るのですか﹂
﹁さあてな。それは国の出方次第だと言ってある﹂
﹁おじ上!﹂
﹁そう怒鳴るな、アリスローク﹂
大声を出したアリスをあやすのように手をひらひらと揺らしたヒ
ラギさんは、眼帯の上から傷痕を確かめるように触れた。無意識だ
ったのか、その掌をちらりと見てまた下ろす。
﹁おじ上のお怒りは尤もです。ですが現在、アーガスク様もエリオ
ス様も、懸命に王を説得してくださっています。ですから、しばし
の猶予を!﹂
﹁猶予があったところで、王子達が、いまこの状況を収めることが
出来ないのならば同じことだ。後数年待ったところで、何が変わる
わけではない。この状況の結末を待っていることが既に譲歩だ﹂
﹁おじ上!﹂
ヒラギさんは、静かに一歩だけアリスに歩を進めた。
﹁アリスローク、俺はな、隻眼となったことも、体中の傷もどうで
もいい。だがな、王の言葉は英霊達を侮辱したと同義だ。国の為に、
人生も命も、魂すらも懸けた英霊を、国の都合で切り捨てただけで
なく、侮辱したのだ。何を許せという? 何を許せるというのだ!﹂
﹁おじ上⋮⋮⋮⋮﹂
﹁この十年、我々は耐えに耐えた。その結果が王の暴挙だ。王子が
王を諌められないのならば、これ以上待っても何の意味もない。怒
447
りのままに反旗を翻さないのは、それが、俺たちなりの忠義の収め
方だからだ。⋮⋮だが、それも終いだ﹂
マントを翻して背を向けたヒラギさんを、アリスは追えないでい
る。追う言葉すら見つけられない。掌が真っ白になる程握りしめた
アリスの手が、痛い。
﹁ヒラギさん!﹂
咄嗟に呼びかけていた。伝えたい何かはある。あるのに、言葉に
はできない。こっちの言葉が不自由だからとか、そんな理由じゃな
い。心の中で渦巻く感情を表せる言葉は、日本語でだって探せない。
私に言える言葉は何処にもないのだ。この国の人間であるどころ
か、同じ歴史すら辿っていない私の言葉なんて、綿埃より軽い。
そして、彼らの言葉が重いのは、いつか歴史となるいまを懸命に
生きているからだ。
﹁再度再び、謁見可能ぞり!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮騎士ルーナ﹂
﹁また会えますか、と﹂
さらりと翻訳したルーナの返答を聞いた途端、ヒラギさんの頬が
爆発した。そんなにツボにはまる言葉を発したつもりはなかったん
ですが。
﹁黒曜﹂
﹁はい!﹂
ヒラギさんが笑う。そんな笑い方をすると、本当にエレナさんに
似ていた。
﹁再度見える幸運があれば、酒でも飲み交わそう﹂
﹁私なるは、未熟成人なるので、その他で願うます!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮騎士ルーナ﹂
﹁カズキの世界では二十歳からが成人となり、成人未満なので酒は
遠慮したいと﹂
再度再び爆発したヒラギさんは、マントをかっこよく靡かせて去
っていった。
448
歩行の振動に合わせて揺れるバナナは、逆光の中でも美味しそう
に輝いていた。
﹁あの人が鬼人ヒラギですか。思ってたより怖くなかったです﹂
イヴァルは、ルーナの周りをうろちょろして背を向けられた。
﹁きじん﹂
﹁鬼のように強く、前にいる敵は全員首を跳ねられるという事から
ついた二つ名だ﹂
﹁二つ名!﹂
今度は前に回ってきて両手を広げたイヴァルは、再び背を向けら
れてふくれっ面だ。
﹁アリスちゃんの二つ名はいずれ? 兎ぱ﹂
﹁ではない! そもそもない!﹂
﹁あるぞ﹂
﹁何!?﹂
﹁アードルゲ家男子アリスローク﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ただの事実だな。そして長いぞ﹂
また前に回ろうとしたイヴァルは、ヒューハにぶつかって一緒に
転んでいた。
﹁イヴァル! さっきから何なんだよ!﹂
﹁ごめん、ヒューハ。でも、僕もカズキさん抱っこしてみたいんで
す!﹂
﹁今の状況の騎士ルーナから奪おうとか、お前ほんと度胸あるな!
俺は怖いぞ!?﹂
﹁僕は騎士だから﹂
﹁きりっとしてもやってること馬鹿だぞ!? 俺で我慢しとけ! ほら!﹂
﹁そんなの誰にとっても得しないじゃないか!﹂
﹁少なくとも、俺は誇りと引き換えに騎士ルーナの冷たい瞳から逃
449
げられる!﹂
﹁誇りは失ってるよ!?﹂
自分で歩けるというのにルーナは下ろしてくれず、てんやわんや
で廊下まで送ってもらった。ようやく下ろしてくれたルーナが、﹁
気をつけろ﹂と言ったのに対して胸を張って﹁はい!﹂と返事をし
たらちゅーされた。ルーナは人目というものをもうちょっと学ぶべ
きだと思う。少なくても、十年前は人目を気にしまくっていたのに、
一体全体どういう方向に成長したのだ。
そして、足を庇いながら部屋に入った私を出迎えたのは、スヤマ
の平手打ちだったのは本当に予想外である。
しかし、私は頑張った。華麗な動きで平手打ちを避けたのだ。流
石私と悦に浸っていたら、続いて飛んできたクッションを諸に顔面
にくらった。よろけて壁に背を打った上に、その振動で壁掛けの絵
が降ってきたのは、予想外にも程があると思うのだ。
450
36.神様、ちょっとはっけよい致します
昼間なのに星が散った。綺麗だけれどじっくり見る余裕なんてな
い。
[いったぁ!]
私は脳天を押さえてのた打ち回っていたが、スヤマはスヤマで耳ま
で真っ赤にして怒り狂っていた。
﹁何であんな事するのよ! 私に恥をかかせたいの!?﹂
[へこんだ! 絶対へこんだ! 血、血出てない!?]
﹁私がここまで来るのにどれだけっ⋮⋮!﹂
[これ以上馬鹿になったらどうしよう⋮⋮⋮⋮]
﹁ちょっと、聞いているの!?﹂
肩を掴まれてはっとなる。
﹁聞いてないじょり!﹂
﹁聞きなさいよ!﹂
正直、本当に何も聞いていなかったけれど、不思議と、何々して
るの!? と言われる言葉はすんなり聞こえるものだ。大事な事は
なんにも聞いてないけれど!
スヤマはお茶会の時と同じ恰好だったけれど、髪が何房か落ちて
いる。部屋で暴れていたのだろうか。
頭に当てていた手を恐る恐る見て、血が出ていないのを確認して
から立ち上がろうとした体勢で、またスヤマが平手打ちを仕掛けて
きたので華麗に避ける。目測謝って壁に激突したら、今度は壁に掛
けられていた首だけの鹿が降ってきた。これは全力で避ける。今度
はへこむだけでは絶対にすまない!
451
﹁うぎゃあ!﹂
﹁きゃあ!﹂
死に物狂いで飛びのいたらスヤマを巻き込んでしまった。潰さな
いように慌てて頭を抱えて肘を床につく。その軽さにぎょっとした。
頭を支えた掌に伝わるのは、ふわりと細い髪質で、飛びのいた時に
感じたのは頼りなさだ。たぶん、私でもおんぶして走れる。頭も軽
い。ずしりと手に乗る重さがないのだ。
この柔らかさと華奢さは、子ども特有のものだ。昔のイヴァルを
抱っこした時や、ブルドゥスに捕まった時に縁があった小さな小さ
な女の子を抱っこした時を思い出す。ああ、あの子は元気だろうか。
両親を盗賊に殺されて、私を捕まえてミガンダ砦から帰還していた
ブルドゥス軍に保護された、小さな赤毛の女の子。
﹁子ども⋮⋮⋮⋮﹂
思わず呟いたら、身体の下のスヤマがぎょっと身を強張らせたの
が分かった。瞬時に自分の身体に視線を走らせている。⋮⋮パッド
? パッドなのか? そうであれ。
﹁十二歳﹂
リリィが言ったように彼女が本当に子どもなら、どうしてこんな
事をしているんだろう。思わず口から零れだした推定年齢を聞いた
途端、目を吊り上げたスヤマから今度こそ平手打ちを食らった。ば
っちーんとそれはいい音がする。非常に、痛い。高いところから水
に飛び込んで腹打ちした時と似た痛みが頬に走る。振りかぶられた
のだから当然だ。体勢が体勢なので避けられなかった。
スヤマは私の下から這い出して、私を打った手を庇うように抱え
ている。そりゃあ、そっちも痛かったことだろう。渾身の力だった
と思う。身を持って断言できる。だって物凄く痛かったです。
﹁いつ、気づいたの﹂
いつまでも気づいておりませんでした、とは言えないので、笑っ
452
て誤魔化してみた。しかし、打たれた頬が痺れて歪な笑みになって
しまう。それが不敵な笑みに見えてしまったのか、スヤマは華奢な
肩を落として壁に背を預けて俯いた。
﹁やっぱり黒曜なのね、あなたは⋮⋮馬鹿みたいに見せておいて、
その実、全て気づいていたなんて⋮⋮⋮⋮﹂
そうです、全部お見通しです。リリィが! とも言えないので、
とりあえず黙っておく。都合のいい誤解が起きてくれたようなので、
黙っているのが吉である。幸いここにゼフェカはいない。偽黒曜で
ある彼女から話を聞き出せるのは今しかないのだ。
迂闊な事を言ってしまわないよう必死に言葉を選んでいる間、表
情は自然と硬く真剣なものになる。それも、良い方向に作用してく
れた。
項垂れていたスヤマは、ぎゅっと両手を握りしめて顔を上げる。
私は、固く食い縛った唇が開かれるのを待った。
﹁そうよ⋮⋮私はドレン・ザイールの娘よ。この髪と目の所為で、
お母様は不貞を疑われて自害した。あなたはもう分かっていたので
しょうね⋮⋮私は、あなたが入れられていた石塔の地下で育ったわ﹂
初耳ですとは言えないし、あまりのことに言葉も出ない。
冷たい壁と床。黴臭く、蝋燭の臭いが充満した澱んだ空気。あん
なところで育った? 子どもが、あんな場所で。
﹁ただでさえ、庶子とは認められていたものの息子として迎え入れ
られることのなかったお父様は、私がいたら家を追い出されると恐
れたの。だから、ずっと、あそこにいたわ⋮⋮けれどある時、黒曜
という存在が知れ渡った。お父様は歓喜したわ。それまで、生きて
いるかの興味すらなかったのに、ある日突然沢山の本が運び込まれ
た。私に頑張って勉強しなさいと。もしもの時は、黒曜として名乗
れるほどにと。文字すら読めない私に、沢山の本を﹂
私が燃やした沢山の本。装飾品なんてない部屋に、無造作に詰ま
れた本。その光景を今でも思い出せる。私は短い間しかいなかった
けれど、冷たく薄暗い、黴臭い部屋で目覚め、目に入るのは山積み
453
の本だけの部屋。思い出すだけであの深々とした冷たさを思い出す。
二度と、戻りたくないと思う場所だ。
﹁実物なんて一度も見たことがないのに、知識ばかりを詰め込んだ。
そんな中、一つだけあった小説は、あなたと騎士ルーナの話だった
わ。⋮⋮⋮⋮本が壊れるくらい、何度も読んだわ。何度も、何度も。
お話の中でのあなたは、いつも楽しそうだった。いろんな冒険をし
て、いろんな場所に行くのよ。騎士ルーナに守られながら、幸せい
っぱいで。何で? どうして? 私と同じ色なのに、どうしてあな
たは幸せなの? 違うのに! この世界で生まれたのは私なのに、
どうして別の世界のあなたが幸せで、私はあんな場所にいなければ
いけないのよ!﹂
語尾が甲高く掠れる。子どもの、金切声。
何と言えばいいのか分からない私を見もしない子どもは、疲れた
ように肩を落とした。
﹁ある日ね、お父様がゼフェカを連れてきたの。ゼフェカは私を黒
曜にしてくれるって言った。あなたじゃないのよ、私を、黒曜にし
てくれるって部屋から出してくれたわ。あの塔から出してくれたの
よ﹂
﹁⋮⋮ゼフェカなるの、目標をご存じ上げる?﹂
﹁ねえ、黒曜。ゼフェカはこの国の人間じゃないのよ﹂
つらつらと語る子どもの言葉を邪魔しないようにそっと問いを挟
んだら、綺麗に無視された。精進が足りなかったようだ。
﹁だって、私でさえ知っているようなことを知らないこともあった
の。けれど、けれどね、この国の誰も私を塔から出してくれなかっ
たのに、ゼフェカは出してくれたのよ。不思議ね、異国の人の方が
優しいの﹂
スヤマはさっきまでの激昂を忘れたように、穏やかに微笑む。そ
の変化にぎょっとした。
﹁しょ、少々待機﹂
﹁戦争が終わって、鉄の需要はどんどん失われていって、嘆くお父
454
様の前にゼフェカは現れたわ。軍人の不信を煽り、数を減らした状
態でならば戦争が起こっても過去のような被害は出ないし、軍人の
数が減った分、自衛で武器を作ればいいのだと。私が黒曜として戦
争を止めれば、被害は本当に少なくて済むと﹂
﹁少々待機!﹂
﹁本当にうまくいくのかしらと思ったけれど、大人達はすんなり納
得するの、ゼフェカは、本当に凄いのよ。ゼフェカが話してきたら、
みんな協力してくれるの。お父様はゼフェカに頼りっきりになった
わ。ゼフェカの言う事は全部本当だって疑いもしないの⋮⋮本当に、
馬鹿な人。ゼフェカは、ザイールのことも、ましてお父様のことな
んてどうでもいいのに﹂
幾ら止めても、少女は滔々と語りを止めない。
私は一歩後ずさった。
何故だろう。今まで謎だった部分がするすると解き明かされてい
る気がするのに、嫌な汗が背筋を流れ落ち、頭の中ではBGMが鳴
り響く。チャンチャンチャーン、チャンチャンチャーン、と。
少女の語りを止めたいのに、彼女に呼びかける名前を知らない。
スヤマは私の苗字だ。彼女の名前であるはずがない。
やけに内情を話してくれる。感情を剥き出しにして、自分の素性を
恐らく包み隠さずに。嫌な予感が湧き出してくる。こういう状況、
映画とかだと⋮⋮。
﹁うどわぁ!?﹂
何の前触れもなく飛び込んできた子どもを避けられたのは反射だ
った。身体が咄嗟に動いたのだ。考えていたら動けなかっただろう。
勢いのまま壁に体当たりした子どもは、緩慢な動作で振り返る。
その手に握られた物に、今度はこっちが引き攣った掠れ声で叫ぶ。
455
﹁何事ぞ!?﹂
﹁知られたからには、死んでもらうしかないじゃない。そうじゃな
いと、ゼフェカに怒られちゃう﹂
[ですよね! なんかそんな気がしてた! しかもひしひしと!]
﹁何を言ってるのか分からない、わ!﹂
どこに隠していたのか、子どもが持つにはやけにごついナイフが
突っ込んでくる。⋮⋮本当にどこに隠していたんですか。
﹁ぎゃあす!﹂
転がるように避ける。良くも悪くも、子どもが持つにはごついお
かげで軽々扱えていないのが功を奏した。その代り、自分の中から
飛び出してきた悲鳴は、女子力どころか人間力すら置き去りにした
ものだった気がする。
鈍色がゆらゆらと揺れる姿から視線が外せない。ごつい刀身は、
それが触れた瞬間の痛みを容易に想像させて、まだ何もされていな
いのに足が竦みそうだ。
自分が唾を飲み込んだ音がやけに響いて聞こえた。
﹁前にガルディグアルディアの所であなたを殺そうとしたら怒られ
たけど、今回の理由なら、ゼフェカも納得してくれるわ﹂
﹁以前なるもあなたですたね!﹂
そういえばゼフェカもそんなことを言っていた。いろいろそれど
ころじゃないから綺麗に忘れていたが、そういえばそうだった。い
やぁ、失敗失敗! と笑って誤魔化せない雰囲気である。
﹁待機! 少々しばし待機!﹂
﹁駄目よ。知られたら困ること知ったでしょ? だから、死んで﹂
﹁てめぇなるで自業自得にお喋り開始したぞりょに、殺生ぞ!?﹂
確かに私はルーナ達の役に立ちたいと思っていた。武力、頭脳で
役に立てないと分かっているので、せめて敵の懐にいる間に情報収
集したいとは思っていた。だが、命と引き換えと言われたら全力で
お断り申し上げる!
何か武器に成りそうなものはないかと部屋の中に視線を走らせる。
456
そして、いいものに気が付いた。
[鹿︱︱!]
さっき私を殺そうとしてきた鹿の置物に飛びつく。鹿は恨めしい
目でごろりと床に転がっているが、この角でナイフと打ち合いでき
そうだ。雄鹿の角は大きく長いので、リーチもこっちの方が長い。
私は勝利を確信した。
[重っ⋮⋮!?]
一秒で敗北も確信した。
鹿の置物は思っていた六倍は重かった。持ち上がらない。持ち上
がっても中腰だ。こっちの動きが鈍くなるだけで、特に役には立ち
ませんでした。
﹁ゼフェカはね、いろんなところに連れて行ってくれて、いろんな
ものを見せてくれたわ。いろんなことを教えてくれて、いっぱい、
いっぱいお喋りしてくれて、いっぱい優しくしてくれたわ﹂
幸せそうに微笑みながら、穏やかな声音で話す姿だけを見れば、
子どもが楽しかった思い出を話す姿だ。けれど、その両手にしっか
りと握られた太いナイフが異質すぎる。
﹁黒曜、私ね、優しくされたいの。あの本でのあなたみたいに、た
くさん幸せな事があって、たくさん愛されて、皆の人気者になりた
いの。それでね、ただ一人にも深く愛されたいの。あの本でのあな
たみたいに、騎士ルーナに愛されたいの。その為に頑張ってるのに、
どうして邪魔するの?﹂
﹁ゼフェカが何事を行っているか存じてる!? 王冠強盗し、恐喝
してる! てめぇ⋮⋮あ、あなた? も、他者を誤魔化ししてる。
私なるの姓名を強奪して、虚偽申告してるなど、悪い行いであると、
認識済みである?﹂
﹁ええ﹂
子どもは、微笑みを浮かべて頷いた。
457
﹁でも、誰も私を助けてくれなかった。ずっとあんな場所にいた私
を、誰も出してはくれなかった。だから私は、自分で頑張ることに
したのよ⋮⋮⋮⋮あなたには分からないわ。黒い目で、黒い髪なの
に、私と同じ経験してないあなたに、何が分かるのよ!﹂
身を切るような叫び声だ。
向こうでそんなこと言われたら、分かりませんよ、超能力者じゃ
あるまいしって返したかもしれない。でも、いま求められている返
事はそういう事じゃない。そもそも、返事を求められているのかも
分からないけれど、このままじゃ駄目だという事は分かる。
誰も子どもを諭さなかった。それどころか率先してこの道に引き
ずり込んだのだとしたら、この子も被害者だ。やっていい事と悪い
ことがある。それを教えてもらえなかった子どもが犯している罪を
納得させるなんて、私には無理だ。言葉が達者でも、無理だろう。
﹁あなたと同様なる体験を行っておらずなら、何事も進言してはな
らないならば、あなたは、私のみならず、どちらなるともお喋り不
可ぞ!﹂
﹁うるさい!﹂
全身を使ったような怒声だった。身体全体が膨れ上がったように
思えるほど、掠れた金切声なのに重い。
子どもの血走った目が真正面から、私を射殺さんばかりに睨み付
けている。
﹁やっと、やっと私がいられる場所を見つけたのに、どうして今更
現れるのよっ! 一回消えたじゃない! 一回投げ出したのなら、
もうずっと消えていてよ!﹂
投げ出したんじゃない、逃げたんじゃない。消えたのは事実だけ
れど、私はルーナもこの世界も失いたくなんてなかった。そう言い
たかったけれど、そんな余裕ありはしない。
叫びながらナイフが振りかぶられる。しかし、小さな手では、や
はりごついナイフを扱いきれない。少女の手から抜けたナイフは、
勢いのまま私に向かって飛んできた。少女の踏込ばかり気にしてい
458
たせいで反応が遅れる。ナイフは私の肩を掠めて壁に突き刺さった。
意外と壁が薄いのか、半分も刀身が埋まる。壁が薄いのか、ナイフ
の切れ味が凄いのか、どっちだろう。
﹁いっ⋮⋮!﹂
肩を何かが裂いていった痛みと熱さが走る。傷口を見なければな
らないと思うけれど、見た瞬間凄く痛くなりそうで躊躇してしまう。
しかし、そんなことを考える時間もなかった。
自分の手からすっぽ抜けたナイフを呆然と見ていた少女は、空っ
ぽになった掌を二、三度開いては閉じ、血走った目でナイフめがけ
て飛び掛かってきた。
ナイフを渡すわけにはいかない。けれど、死に物狂いと表現する
のがふさわしい勢いと形相で飛び掛かってくる相手に対し、怪我を
させないよう防戦するのはどうしたらいいのだ。私はじりじり焼け
る肩と、ぐるぐる回る思考を持て余した。髪を振り乱して走ってく
る少女がやけにスローモーションで視界には映る。映るのに、どう
したいいのか分からない。
たぶん、本気で弾こうと思えば何とかなる。だって私は大人で、
彼女は子どもだ。大人の本気で抑え込めない訳はない。蹴ったり殴
ったりすれば、恐らく彼女の身体は吹き飛ぶだろう。けれど、どう
したって躊躇する。だって、私は大人で、彼女は子どもだ。
子どもは守られるべきだ。無論、悪いことをしたら叱らなければ
ならないが、これは叱るんじゃない。私の力が足りないから、彼女
に怪我をさせないで抑え込むことが出来ないのだ。ルーナなら、ア
リスちゃんなら、自分も怪我しないで、彼女にも怪我をさせないで
解決できるのに。
ぐるぐる混乱した私は、思わず両手を広げて叫んだ。
459
[だ、だばぁあああああああああああああ!]
特に意味のない気合いの声を上げ、私は渾身の張り手を繰り出し
た。
﹁ちょ、な、なに!?﹂
[張り手張り手張り手張り手張り手!]
﹁い、いたっ! 痛い、ちょ、なんなの!?﹂
[張り手張り手張り手張り手張り手張り手張り手張り手張り手!]
渾身といっても相手も後ずさりして避けるから、当たったとして
もぺちべちと微妙な感じだけれど、他に何も思い浮かばない!
[はっけよいのこったのこったのこったのこったのこった!]
﹁ちょ、まっ、なに!?﹂
蟹股になってずんずん部屋の隅まで追いやっていく内に、私はど
んどん冷静になっていく。何故なら、連続張り手で二の腕がぷるぷ
るしてきたからだ。まずい、これ、エネルギー切れで技終わる! そして痛い! 凄く痛い! 痛すぎて痺れて逆に痛くないような気
がするくらい痛い! 張り手の威力もどんどん落ちていくけれど、幸いにも私以上に混
乱した少女は気づいていない。このチャンスに畳み掛けるように相
手を説得できないものか!
﹁い、いずれ、尋常に勝負!﹂
﹁今しなさいよ!﹂
畳み掛けるどころか、戦闘意欲を再燃焼させてしまった。張り手
の勢いで勝負を申し込んでしまった私が悪い。言葉選びって本当に
大切だ。
土俵書いてのこったのこった勝負は駄目だろうか。今なら腕相撲
でも負けそうなほど腕がぷるぷるしてるけど。何なら指相撲でも足
相撲でも紙相撲でいいから、とにかくナイフだけは勘弁してくださ
い!
[もう腕が無理︱︱!]
﹁何言ってるのか分からないけれど、とにかく、ちょ、もうこの訳
460
が分からないの止めなさいよ︱︱!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何やってんの?﹂
突然現れた第三者の声に、私も少女も同じタイミングでそっちを
見る。部屋の入り口では、扉を開けたままの体勢で呆れた顔をして
いるゼフェカがいた。
部屋の隅に少女を追いやり、張り手を食らわす十九歳女。
女は、かっとなってやった、他に思い浮かばなかった等と供述し
ており、容疑を認めている模様です。
ゼフェカは、壁に刺さったナイフを見て、蟹股で腰を落として張
り手を繰り出した体勢のままの私を見た。
﹁ゼフェカ⋮⋮﹂
﹁ああ、はいはい。大体分かった。スヤマに怪我はない?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁だったらいいよ﹂
この声音に、私はやっぱり鳥肌が立つ。だって、本当に優しい人は、
あんな、優しく見せようと細心の注意を払った喋り方をしない。優
しさとは滲みだすものだ。そして、受け手が感じるものだ。優しい
優しいと煌々と光りながら押し出してくるものではないと、思う。
﹁わ、私がお父様の娘だって、十二歳だって知られてて、だから!﹂
﹁え? 嘘? なんで?﹂
くるりと私を向いたゼフェカにどや顔しておく。リリィは凄いん
です。
答えはしない私の渾身のどや顔に、あ、めんどくさいって顔をさ
れた。
﹁まあいいか⋮⋮。ナイフで襲いかかられて? で、あんたの反撃
は?﹂
﹁私なるの故国では、伝統由緒正しく⋮⋮⋮⋮手⋮⋮手⋮⋮[張り
461
手⋮⋮]﹂
しこ踏んだら足も腕も、何だかもう全部が痛かったけれど、頑張
って張り手のポーズをしたら呆れた目で見られた。そんな、張り手
をこっちの言葉で見つけられなかった私を責めないでください。
本当は一瞬、子どもは抱きしめて育てるといった標語が浮かんで
思わず両手を広げたけれど、抱きしめたら死ぬと気づいて張り手に
なった。気づいてよかった。
﹁⋮⋮あんたの故郷は本当に平和なんだなぁ。普通、ナイフ奪って
反撃だろ。なんでそんな珍妙体勢なんだ﹂
失礼な。私がやってるから珍妙に見えるだけど、お相撲さんの張
り手は強烈なんだよ! 受けたことないけど!
壁に刺さったナイフを引き抜き、くるくると布で包んだゼフェカ
は私の肩を覗き込んだ。
﹁うわ、痛そう﹂
やめてください。せっかく忘れてるんだからあえて思い出せない
でほしい。腕を何かが伝い落ちる感触が消えないのは、明らかに血
だ。見た瞬間痛さに泣き出しそうな予感がする。
﹁まあ、後で手当てしてやるよ。なあ、カズキ。あんた王子様達に
入れ知恵した?﹂
ゼフェカはあっさり話題を変えた。私の願いを聞き届けたという
よりは、単に自分の用事を尊重しただけのように思えるけれど、乗
る。
﹁そのような高度な技術、私に出来ると思うたか!﹂
﹁すげぇ! こんなすげぇ覇気で自分の役立たなさを語る奴初めて
見た! っていうか、いつ会ったんだよ﹂
﹁王子様々、どのような?﹂
﹁無視かよ﹂
無視するのは悪いことだけれど、ゼフェカに対してはちっとも心
が痛まない。
私は、神妙な顔で頷いた。
462
﹁蒸すぞり﹂
﹁⋮⋮あんた、真面目な顔してるときは大抵間違うよな﹂
そここそ無視してください。
ゼフェカは窓際まで歩いていって、ちょっと下を覗きこんだ。
﹁今まではくそまじめに王に進言してたけど、今回からちょっと手
法変えたみたいでよ。口を揃えて黒曜から叱られたって言うんだよ。
﹃王はそんな誰でも分かるようなことが分からないはずがない。全
てご存じの上で、王子達では考えもつかないようなそれは素晴らし
い案があるだけだ。もっと王を信じなさい﹄って諭されたってさ﹂
私が思いつくようなことは誰でも思いつくし、そんなこと他の誰
かが既に言ってるしと悩んだ覚えはあるけれど、そんなことを言っ
た覚えは欠片もない上に、もしかしなくてもその半音上げたような
喋り方をした場所は私の真似なのだろうか。ゼフェカ、物まねへた
くそですね。やーいやーい、ゼフェカの物まねへたっぴー。⋮⋮自
分で言っといてなんだけど、へたっぴーのぴーって何なんだろう。
万引きGメンのGと同じくらい謎だ。
私の心の中での罵倒を知る由もないゼフェカは、おかしそうに窓
枠を叩く。
﹁そしたらさ、あんだけ頑なだった王二人が、神妙な顔で頷いたん
だとさ! ﹃そのことに気付いた時初めて、王子達にこの件を任せ
られる﹄ってさ! ぜってぇ違うだろ! 俺もう腹痛くってさ﹂
﹁私なるの故郷には、押しても否なら引きずり落とせという格言が
存在するじょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あんたの故郷は平和なの物騒なの、どっちなの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮引き倒せ?﹂
﹁訂正しても変わらないというね﹂
ひょいっと肩を竦められた。まあいいや。
押しても駄目なら引いてみろの戦法で王子様達が王様を説得でき
463
たのなら何よりだ。基本的に全部私と関係ないところで進んでいく
からよく分からないけれど、これで少し前進だろうかとほっとする。
安堵したら痛みが鮮明になってきた。せっかく逸れていた意識が
肩に集中する。じりじりと焼けるように痛む傷を掌で押さえこむと、
ぬるりと滑った。とても、まずい気がする。傷口は焼けるように痛
むのに、手足の先は冷たくなっていく。
細い息を長く吐いて痛みを散らす。一回痛いと口に出すと、痛い
痛いと泣きじゃくってしまいそうだ。 別のことを考えようとしていた私は、遠くから聞こえる音に気が
付いた。なんだか騒がしい。最初は風の音かと思っていたのに、わ
ーわーとした声はだんだん怒声へと変わっていく。
何だろうと他人事みたいに思っていたら、この世界では聞こえる
はずのない音と共に、世界が揺れた。
﹁え⋮⋮?﹂
驚いて窓に近寄ろうとした私の前に少女が立ちはだかる。俯いて
顔が見えない。声が聞こえず聞き返すと、緩慢な動作で顔を上げた
少女は、歪んだ笑みを浮かべた。
﹁これからは、あなたが偽物になるのよ﹂
意味を聞き返そうとした私の目は、限界まで見開かれる。だって、
少女の肩越しに見える窓から、おかしいものが見えたのだ。
こんなものあるはずがない。だって、この世界にはなかった物な
のに。
﹁きゃ!﹂
少女を押しのけて、走り寄った窓に張り付く。この部屋は都が見
渡せるくらい高い位置にある。その都が、燃えていた。それだけで
も驚愕に値するのに、あちこちで上がるものがある。おかしい。な
んであんなものが、この世界で舞い上がるんだ。
464
私はあれを見たことがあった。でも、実際に見たことはない。で
も、よく見たのだ。ドラマで、映画で、テレビの中で。
地面から膨れ上がるものは粉塵で、そして、さっき世界を揺らし
たのは、爆音だ。地震がないからあれだけ地下道が広がっている国
で、城が揺れる。揺らしているのが自然ではなく人だからだ。
窓から顔を出した瞬間、左側から爆音が響いた。城の内側から凄
まじい音と爆風が轟き、もうもうと煙が噴き出している。
[ばく、だん?]
どうして? この世界の戦争は、剣と、ナイフと、弓矢と、槍だ
ったのに。火は、矢を燃やしながら飛んできただけだったのに。投
石機が岩を飛ばしてはきたけれど、あんなもの、なかったのに。
花火すらなかった。火薬なんて、なかったのに。
[なんで、爆弾なんかっ⋮⋮]
﹁やっぱり、あんたは知ってたか﹂
私の肩越しに同じ景色を覗き込んだゼフェカに掴みかかろうした
けれど、窓枠を掴んでいた自分の手が血で滑った。しかし、そんな
ことを構っていられない。
[なんで!]
﹁あんたの故郷は平和なの? 物騒なの? どっちなんだ?﹂
﹁ゼフェカ!﹂
詰め寄った私に、ゼフェカは器用に片頬だけ歪めた。
﹁それ、もうやめてくれる? 適当につけた名前だからさ﹂
﹁ゼフェカ! 何故にしてバクダン! ゼフェカ!﹂
﹁やめろっつったのに、聞きゃしねぇ﹂
あちこちで爆発音が響き渡る。世界が揺れて、耳がおかしくなり
そうだ。
﹁俺の名前はな、ツバキっていうんだ。名前がない俺に、あの人が
つけてくれた俺の誇りだ﹂
465
﹁⋮⋮ツバキ?﹂
﹁俺の髪さ、ほんとはワインみたいな色なんだぜ﹂
青い髪を一つまみして揺らすゼフェカが、振動でぶれる。
私は、この世界では馴染のない、けれど耳にはしっくりと溶けこむ
響きを反芻する。
椿、だ。
﹁花⋮⋮何故にして、ゼフェカが、その名前﹂
﹁俺がつけてって頼んだんだ。あの人と似た響きにしてくれた時は
嬉しかったなぁ⋮⋮ああ、でも、あんたとも最後の響きが似てる。
何? あんたの世界じゃそういう名前が一般的なの?﹂
噴煙が窓の外から町を隠す。なのに、私はそんな大事に意識が回
らない。
もう一人、いた? この世界に私と同じ人が、他にもいた?
﹁スヤマじゃねぇけど、俺もあんたが恨めしい。羨ましいのか、恨
めしいのか分からねぇけど、やっぱり恨めしいんだろうな。なあ、
カズキ。どうしてだろうな。同じように戦火で荒れる世界に落ちた
あんたとあの人。なのに、どうしてこうも違う? 俺の主は、身を
守るために知識を曝すしかなかった。そうして、爆弾が使われてい
く光景に心を病んだ。あんたと同じ世界から来た⋮⋮⋮⋮とても、
優しい人だったから﹂
私が二回もこの世界に現れたのなら、他の誰かだって現れていて
もおかしくはない。考えたら分かったはずなのに。だって私は、こ
の世界で聞くはずのない単語を聞いていたじゃないか。
ルーズソックスなんて物が、一文字も違えずあっちの言葉で存在
していると聞いた時に気付くべきだったのだ。ロドリゲスに動揺し
ている場合ではなかったのである。
カエリタイ。
あの言葉は、その人の言葉だったのだろうか。
﹁もう、あの人は俺さえ分からない。同じ場所から来た人間と会え
ば何か変わるかって思ったけど、平和そうなあんた見てたら腹立っ
466
てさぁ。会わすべきか今でも悩んでる。けど、あんたと会ってる奴
ら見てたら、やっぱり会わせてみたくなった﹂
いつも茶化すように揺れていた瞳が、怖いほどの強さで私を見る。
眼球が動かないのに、中心が震えるほどの力が瞳に篭っていた。
﹁あんたのこれからを、あの人の為に奪うぞ﹂
離れてと言いたいのに喉がひりついている。代わりに絞り出され
たのは別のことだった。
﹁そ、ちらなる人の、名は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ムラカミ・イツキ様だ。知ってるか?﹂
ムラカミ・イツキ。
姓名の順番を聞いて間違いないと分かってしまう。日本人だ。世
界だけでなく、国ですら同郷の人の名前だ。ムラカミは、村上だろ
うか。名前は酷く耳に馴染む。けれど、知らない人だ。
﹁⋮⋮存じ、ない﹂
﹁だろうな。それでも、あんたはこの世界で最もあの人と近しい﹂
ゼフェカの目が落ちてくる。視線が呼吸を奪うほど強くぎらつく。
この視線から逃れるべきだと思うのに、外したら飲み込まれるよう
な気もする。
逸らすこともにらむことも出来ずに見上げ続けていた私の視界の
端で扉が開いた。これは引き戸じゃなかったはずなのに、留め具ご
と部屋の中に倒れ込んでくる。そして、見知った二人も雪崩れ込ん
できた。ルーナと、アリスだ。
﹁貴様︱︱!﹂
﹁うお!?﹂
凄い形相で斬りかかってきたアリスに、慌ててゼフェカが剣を抜
いた。⋮⋮ゼフェカじゃなかったらしいけれど、ゼフェカで名乗っ
てゼフェカで覚えたのだからゼフェカでいいじゃないか。
﹁どっから沸いた!?﹂
﹁貴様、よくもっ!﹂
﹁見張り! 何やってた!﹂
467
息を継ぐ暇もない剣に、喋る余裕があるゼフェカに舌打ちしたい。
いいぞ、アリスちゃん、やれ! そこだ! と応援したいけれど、
言葉が出ない。なんだか視界もぐるぐる回っている。ふらついて足
元に視界を落とせば、何だか黒っぽい水溜りが出来ていて滑った。
そのまま倒れかけた身体が強く引っ張られて横っ飛び状態で抱きこ
まれる。
﹁カズキ!﹂
ルーナに手を引かれて、肩に走った激痛に思わず呻く。はっと私
を見たルーナは、それでも勢いを止めず、流れるように私を肩に担
ぎあげた。
[待って! ルーナ待って!]
まだ聞かなきゃならないことがある。聞いてもどうにもならない
かもしれないけれど、それでも聞かなければならないことがたくさ
んあるのに。
﹁駄目だ!﹂
そのまま走り出そうとしたルーナを必死に止めるけれど、すっぱ
り断られた。
﹁待って!﹂
ルーナの背に、今度は少女の声が突き刺さる。
﹁どうして!? 逃げる場所なんて、どこにもないのに! どうし
てその人なの! 私といたほうが絶対得するのに! その人といて
も、この先には何にもないのよ!﹂
どういう意味なのだろう。逃げるって、何で? どこに? アリ
スも逃げるの? ここはアリスの国なのに? 何もない先ってどこ
? 何?
次から次へと疑問が湧き上がるけれど、誰も不思議そうな顔はし
ていない。恐らく、この中で事態が呑み込めていないのは私だけだ。
しかし聞ける雰囲気でもない。
﹁私、ちゃんと黒曜になれる! 目も髪も同じ色だし、その人みた
いに馬鹿っぽくしてほしいならちゃんとできるわ!﹂
468
必死に縋りつくような声で叫ぶ少女に問いたい。馬鹿っぽいって
なんですかね、馬鹿っぽいって。私は馬鹿っぽいんじゃなくて馬鹿
なんです! と、胸を張って言える雰囲気でもなさそうだ。私だっ
て空気くらい読める。そして吸える。ついでに吐ける。
ルーナは振り向かない。少女に背を向けたままだ。
﹁俺達の出会いはカズキだから意味を成した。それ以外の誰と出会
っても、俺には無意味なものだった﹂
担ぎ上げられた私だけが少女を向いている。少女は、泣きそうな
顔でルーナの背中を見つめながら、肩に乗っかっている私を射殺さ
んばかりに睨んでいた。とても、器用です。
﹁アリスローク!﹂
﹁分かっている!﹂
飛び跳ねて間合いを取ったゼフェカを追い立てるように薙ぎ払っ
た剣を仕舞う間も惜しいというように、その勢いのまま回れ右した
アリスと私を担いだままのルーナは、窓に突撃した。
[え、ちょ、ま、ここ何階!?]
﹁六階だ!﹂
返事ありがとうルーナ! でも、全然嬉しくない数字でした!
﹁やめろ! 死ぬならお前らだけで死ね!﹂
血相を変えたゼフェカが走り出したけれど、ルーナ達の足は止ま
らない。
﹁誰が死ぬかっ!﹂
ルーナとアリスの声が重なった。
一切速度を緩めずに窓に体当たりする直前、身体がぐるりと回さ
れてルーナのマントの中に包まれる。ガラスが当たらないようにだ
ろう。硬い腕に深く抱きこまれたまま、ガラスが割れる音が全身に
響いた。
469
37.神様、ちょっと世界は丸いです
がくんと、落下特有の衝撃と、痒みとは違うけれど何かが走り抜
けるようなぞわわとした感覚が足先から脳天まで通った。
﹁ひっ⋮⋮!﹂
思わず目の前のルーナの身体に爪を立ててしがみつき、地面を探
して足が動くけれど当然何も踏みしめられない。パニックになりか
けた私の視界がぱっと開ける。風に靡いたマントが広がったのだ。
視界いっぱいに世界が広がる。綺麗な街並みが続く先には、緑の
世界があった。左右の端がなだらかで、ああ、この世界も地球と同
じで丸いんだと何故か妙に感動した。
なのに、綺麗な街並みのあちこちで爆音が響く。あれだけ綺麗に
敷き詰められていた石畳が吹き飛んでいくのが分かる。
多分、時間にしたら数秒もないのだろう。視界がぶれた直後に、
がくんと、落下とは逆にその場にとどまるような衝撃がきた。何な
のだと聞きたいのに、一気に水分が失われた口では質問すらできな
い。どこに視線を持っていけばいいのか分からずに、動き回る私の
目は、空に生えたロープを掴んでいるルーナの手を見つけた。その
手は、見たこともない分厚い手袋をしている。
﹁ルーナ!?﹂
﹁黙ってろ! 舌を噛むぞ!﹂
返事をする間もなく、また落下の感触。ひゅっと飲み込んだ空気
が変なところに入って、空で溺れかける。しかし、咽ている暇はな
かった。よく見たら上階から垂らされていたロープにぶら下がって
いるルーナは、そのまま滑り降り始めたのだ。手袋は手が焼けない
ためにだろうが、私は慌ててルーナにしがみつき直す。
[ろ、ろーて! ろーて使ってぇ!]
舌が強張って日本語なのに噛んだけれど気にする余裕がない。ル
470
ーナは私の分の体重も支えている。二人分を片手で支えてロープを
滑り降りているのだ。
しゃー、なんて軽い音じゃない。明らかに何かが焼け焦げている
音が通りすぎていく中、私達の身体は一気に下まで降りていく。
﹁ルーナ!﹂
﹁舌を噛むなよ!﹂
下からアリスの声が聞こえた瞬間、短い忠告をしたルーナは躊躇
なく私を放り出した。
[落ちっ⋮⋮!]
え、ちょ、殺生な!
無意識に縋るものを探して宙を泳いだ私の身体は、先に地上に降
りたアリスに抱きとめられていた。助かったと安堵したのに、それ
でも思わずしがみつく。心臓が物凄く煩い。
﹁カズキ! 息をしろ!﹂
目の前に再びルーナの顔が迫っていて、知らぬうちに止めていた
息を吐き出した。
抱きとめられた体勢のまま見える視界の先では、到底地面まで届
いていないロープの先が揺れている。多分、あの勢いじゃ、二人で
あの高さまでしかないロープから飛び降りられなかったので、先に
飛び降りたアリスに私を渡してくれたのだろう。⋮⋮死ぬかと思い
ました。
仰向けに抱きとめられたまま固まっていた私の顔に大粒の雫が降
り注ぐ。痛いほどに激しい雨が降る。ああ、もっと降ればいい。そ
うして、爆弾なんか使えなくなってしまえ。湿気て、二度と使えな
いゴミになればいい。
さっきまでいた城を外から見れば、酷い有り様だった。あれだけ
壮観に、聳え立つかのように存在していた城のあちこちで爆炎が上
がっている。シンデレラのお城みたいにあちこち生えている塔が、
根元から折れていく様がやけにゆっくりと目に焼き付く。
471
長い長い戦争の戦火はここまで届かなかった。どんな時でも国の
象徴であり続けた城がいま、燃えている。
何かを振り払うようにアリスは城から視線を外した。
﹁行くぞ!﹂
﹁待て、アリスローク! カズキ、肩を見せろ!﹂
﹁手当をしている時間はないぞ!﹂
﹁止血だけでもしないとまずい!﹂
叩きつけるような雨で髪が下りた二人が新鮮だなと呑気に思って
いたが、雨の勢いは増すばかりだ。仰向けの私は地上で溺れる。
﹁いっ⋮⋮!﹂
腕の付け根を何かの布で縛り上げられた。もう、傷口が痛いのか
縛られた場所が痛いのか分からないくらい痛くて涙目になる。そん
なに酷いのだろうか。張り手はアドレナリン全開だから出来たんだ
なと今更気づいた。
覚悟を決めて、未だ自分では見ていない傷口を見下ろそうとした
ら、今度はアリスが私を抱えたまま走り出していた。
﹁な、なに、何事!?﹂
﹁ロヌスターが落とされた!﹂
返事を返してくれたのはありがたいけれど、ロヌスターが何かが
まず分からない。人ですか、物ですか? ロブスターが落ちたら三
秒ルールで食べると思います。
﹁ロヌスターはブルドゥスの港町の名前だ!﹂
並走して走っていたルーナが答えてくれたと同時に、突然進路を
変えた。体勢を低くして走り出したと思ったら、その先にグラース
の騎士がいるのが見える。こっちに用事があるのか、お互い顔を見
合わせて走り出した。
二人に気付いていないのか、足を止めないアリスを制止しようと
した私は、呆然とした声を上げた。
﹁え⋮⋮⋮⋮?﹂
472
騎士二人が剣を抜き、鋭く声を上げてルーナに斬りかかったのだ。
ルーナも当たり前に剣を抜いている。
[なん、で⋮⋮グラースの、騎士が?]
呆然と呟いてしまったので出てきた言葉は日本語だったけれど、
グラースという単語でアリスは分かってくれた。
﹁ロヌスターを落としたのは、ガリザザ⋮⋮大陸の、国だ﹂
﹁たい、りく﹂
﹁何故だ! ガリザザは確かに巨大な国だが、海を渡るためには、
その前にルーヴァル国を越えなければならないのだぞ!? ルーヴ
ァルとガリザザの兵力は拮抗していたはずだ!﹂
﹁そもそもガリザザは跡目争いが酷すぎて、海を渡ってまでこちら
を攻める余裕などなかったはずだ﹂
いつの間にかルーナが戻ってきていた。さっきの二人はと聞きか
けて、飲み込む。多分、聞いちゃ駄目だ。聞いても誰かに傷を残す
だけだと分かった。
﹁カズキ。あれが何か分かるか﹂
あれが指す物は聞かなくても分かる。
[爆弾。私の世界の、武器⋮⋮兵器⋮⋮⋮⋮]
﹁止める方法は分かるか?﹂
[火薬は湿気ると使えなくなるから、この雨は、多分凄く好都合だ
と思う。精度も⋮⋮そんなによくないなら、すぐに使えなくなると
思う⋮⋮なってればいい]
私の言葉をルーナがアリスに訳してくれる。アリスは走りながら
ちらりと空を仰ぎ、安堵したのが分かる。
﹁そうか⋮⋮ならばこれは僥倖か。ルーナ!﹂
一瞬目を瞑って何かを噛み締めたアリスの顔を下から見ていたら、
またぐるりと視界が回ってルーナの顔を下から見ていた。アリスは、
飛び出してきたブルドゥスの軍人に剣を抜いている。
[ブルドゥスの、人?]
﹁分からない。式典に乗じてガリザザの奴らがかなり混ざっている
473
上に、反逆者も少なくない。もう、誰が味方なのかも分からない。
王と決別した軍士達の大半が、既に都を離れている。そんな状況で、
指揮系統も回らず、あんな新型兵器を出されては⋮⋮⋮⋮落ちるぞ﹂
何が、とは、聞かなくても分かる。分かってしまう。ブルドゥス
が落ちる。国を守護してきた騎士と軍士が国に不審を抱き、誰もが
バラバラになっていた時に爆弾まで出てきてしまった。あれは、こ
の世界の人が見たことも想像したこともない武器なのだ。
[皆は、皆はどうするの!? リリィは!?]
﹁とにかく城から離れないことにはどうにもならない。敵と味方の
区別がつかない。⋮⋮ネビー医師は、走れないから残ると動かなか
った﹂
[残ったら、どうなるの]
返事はなかった。
会話が途切れた私達の耳に届くのは、破壊音と怒声と悲鳴だ。
声が錯綜する。逃げろ、逃がすな、逃がせ。誰もが叫び、誰もが
追って追われて、逃げて、逃がされている。混迷する声の中、守れ
と叫ぶ声がどんどん消えていく。
同じ服を着ている者同士が剣を向け合い、違う服を着た者が背を
合わせて取り囲まれる様子が、次から次へと流れていった。
斬りかかってくる人達と、二人は交互に応戦している。最初はグ
ラースの人はルーナ、ブルドゥスの人はアリスなのかと思っていた
けれど、単に近いほうが応戦しているようだ。だって、もう何が何
だか分からない。騎士服でも軍服でもない、侍女だのメイドだのの
服装をした人も剣を構えているのだ。
そして、私はずっとお荷物である。
がくんがくんと揺れて回る視界は、走っている二人にぽいぽい回
されているからだけではない。叩きつけるような雨が肌に触れる度
に、体温が逃げていくのが分かる。そして、腕が痺れて動かない。
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ルーナもアリスも、私を抱えている間は強く肩を押さえつけている。
多分、血が止まっていないのだ。
どこをどう走ったのか全く分からないけれど、いつの間にか目の
前に見知った人達の姿を見つけて泣きそうになる。いつでも変わら
ない、にかっとしたティエンの笑顔と、つるりとした隊長の頭は本
当にほっとする。
﹁よくやった、ルーナ、騎士アリスローク!﹂
駆け寄ってきた隊長とティエンに覗きこまれた。
﹁よお、カズキ! 元気⋮⋮じゃねぇな! 残念だな!﹂
﹁残念じょりん⋮⋮﹂
﹁お前の語尾も残念だな!﹂
けらけら笑いながら私の肩を見ているティエンとルーナがひそひ
そ話している。ごめん、全部聞こえてます。
﹁⋮⋮血が止まってねぇな﹂
﹁⋮⋮縫わないとまずい﹂
﹁⋮⋮麻酔がねぇぞ﹂
﹁⋮⋮最悪、そのまま縫う﹂
その話、聞きたくなかった、いやほんと。
思わず頭の中で浮かんだ五七五を誰かに伝えたかったけれど、暇
そうな人は誰もいなかったので我慢だ。そうか、さっきから頭がぼ
ーっとして世界がぐるぐる回っているのは貧血だったのか。貧血、
今まで全く無縁だった病名です。なんか女の子っぽいとか、馬鹿な
事を考えた。
見たことある人も見たことない人もいる。全部で数十名だろうか。
少なくても、ここにいる人は信頼できると思っていいのだろう。だ
って、全員剣を握っていても意識は円陣の外に向けていた。背は、
475
仲間に預けている。
何だか木が多いなと思っていたら、ここも見覚えがあった。見覚
えも何も、今日アリスのおじさんと話をした場所だ。
その人達の視線が、全員弾かれたように同じ向きを向いた。雨音
の中に、人の足音が混ざっている。
誰かが剣を握り直した音がやけに大きく聞こえた。
しかし、灰色の世界の中に飛び込んできたのは、コスモスみたい
な色をしたドレスを身体に張り付けたリリィだった。
﹁カズキ!﹂
﹁カズキさん!﹂
走り寄ってくるリリィの後ろには、ネイさんと自警団の人が数人、
何だか泣きそうな顔をしているイヴァル。
そして。
﹁ヒラギ、さん﹂
﹁再度見える幸運があったはいいが、飲み交わせる状況ではないの
が如何とも、だな﹂
濡れた髪を鬱陶しげに払ったヒラギさんは、そのまま何十人か連
れていた男の人達を片手で止めた。部下の人達だろうか。
ヒラギさんは無造作に足元の石を拾い上げ、まるでお手玉のよう
に投げて遊ぶ。
﹁おじ、上﹂
﹁お前も黒曜も、人の呼び名を途中で区切るのが流行りか? 安心
しろ。私はあちら側ではないさ。声をかけてくれていれば入ったか
もしれないがね﹂
﹁おじ上!﹂
﹁あながち冗談でもないが、いざこうなると⋮⋮どうにもこうにも
腹立たしいな!﹂
語尾を強めて突如投げられた石が耳のすぐ傍を通りすぎていく。
ぎゅんっと吸い込まれそうな音が耳を掠めていった先で、鈍い音と
悲鳴が重なった。
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たくさんの見慣れた服が追ってくる。グラースの服、ブルドゥス
の服。だけど、着ている人はどこの人で、どこに所属すると決めた
人なのだろう。
﹁行け、アリスローク﹂
﹁おじ上!﹂
﹁離反も覚悟した。だが、俺達はまだこの国の軍士だ。ならば抗う
が道理だろう。⋮⋮後一日待ってくれれば、こんな損な役回りは投
げ出したのだがな﹂
重なる苦笑の声は、ヒラギさんが連れてきた男の人達が上げたも
のだ。彼らは肩を竦めて剣を抜いた。
そんな彼らと同様に肩を竦めたヒラギさんは、目を細めて一部崩
れ落ちた城を見上げる。
﹁⋮⋮⋮⋮一度は置いていくと決めたが、やはり腹立たしいものだ
な。英霊が眠る地を、よりにもよって異国の者に荒らされるのは﹂
城には慰霊碑があるとエレナさんが言っていたのを思い出す。
ここは、エレナさんのご家族が、アリスのお父さんやお兄さんが、
眠る場所なのだ。
﹁カズキ﹂
走り寄ってきたリリィの冷え切った手が、ルーナに抱きこまれて
いる私の頬に触れた。
﹁私は行けないから、どうか無事に逃げて﹂
﹁リリ、いっ⋮⋮!﹂
告げられた言葉に驚いて身を捩り、肩に激痛が走る。まるで、傷
口ががまぐちみたいに開いた感触だ。ルーナの大きな掌が素早い動
作で私の傷口を抑え込む。乾いたタオルがないのが致命的だ。濡れ
たタオルで止血しても、どんどん滲んで余計に失血していくから意
味がない。
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﹁私はガルディグアルディアだから。⋮⋮ガルディグアルディアは
帝都を守らなくちゃいけないのに、この事態を止められなかったっ
!﹂
﹁リリィ⋮⋮﹂
小さく細い肩に、雨で濡れたドレスが張り付いている。私は動く
方の腕を何とか動かして、その小さな頭を胸に押し付けた。冷たく
強張ったリリィの手がゆるりと動き、私の手を握り締める。
﹁⋮⋮ごめんね、この失態の責任は必ず取る。けれど今は皆を守ら
ないと⋮⋮カズキ、ありがとう﹂
﹁謝礼も、謝罪も、申すは私ぞ、リリィ⋮⋮⋮⋮ごめん、ごめんっ、
リリィ!﹂
私はきっと、最悪のタイミングでこの世界に戻ってきた。一番皆
の目を逸らさせてはいけない時にこの世界に現れて、掻き乱した私
は、まるで疫病神だ。
リリィの手を煩わせたのは私だ。いろんな気を逸らせたのも、余
計な手間をかけさせたのも、私だ。謝ったって許されないのに、他
に何を言えばいいのか分からない。なんでお礼なんて言ってくれる
のかも、分からない。
リリィ、リリィ、ごめん、ごめん、ごめん!
言葉にならない全部リリィを抱きしめる片腕に託す。濡れた頭に
額をつけて、ひたすらに抱きしめると、何故かリリィは小さく笑っ
た。
﹁カズキの所為じゃないよ。カズキは何も悪くない。いつだってカ
ズキを巻き込んだのはこの世界に生きる私達で、カズキはそんな私
達にいつも優しかったよ。恨み言言ってよかったんだよ。なんでこ
んなことに巻き込んだって、怒鳴りつけてよかったんだよ。なのに、
カズキはいつも優しいね⋮⋮⋮⋮ありがとう、カズキ﹂
﹁何故に、何故にしてリリィが謝礼を申すの! 私、私は、何事も﹂
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泣くのはずるいと分かっているのに泣き出しそうになった。駄目
だ、泣くなと自分を必死に戒めるのに、涙が溢れる。幸いにも雨が
流してくれてほっとしたのも束の間、リリィは的確にその涙を拭っ
てしまった。
そのまま両手で私の手を握って冷たい額をつけ、まるで祈りを捧
げるように瞳を閉じる。
﹁⋮⋮やっと言えた。私ね、カズキ、あの日からずっと、あなたに
言いたかったの﹂
﹁リリィ⋮⋮?﹂
﹁最初はあなただって分からなかった。けど、カズキ⋮⋮カズキが
黒曜だったんだね。⋮⋮泣き喚いて暴れる私を、ずっと抱きしめて
くれてありがとう。魘されて飛び起きる私に付き添って、一晩中子
守唄歌ってくれてありがとう。泣きすぎて痙攣をおこしそうになっ
てる私に、何羽も何羽もオリヅルを折ってくれてありがとう。癇癪
おこして石をぶつけたのに、笑って許してくれてありがとう、ごめ
んね、カズキ、ごめん、ありがとう、ありがとうっ⋮⋮﹂
喉が裂けんばかりに泣き続ける幼子がいた。両親を含めた人間全
員を強盗に殺された旅団の中で、唯一いた生き残りの子だった。
言葉も何も話せなくなって、唯一出る音は泣き叫ぶ絶叫で。
本来なら敵砦から連れ去ってきた私に触れさせるはずがなかった
けれど、盗賊に両親を惨殺された女の子は、騎士や軍士の男たち全
てを受け付けなかったのだ。
その子は三日後、お爺さんとお婆さんに引き取られていった。
お婆さんに抱き上げられて、親指を吸いながら涙をいっぱいに溜
めた大きな目で、最後まで私を見ていた。
いま抱きしめている身体は小さいけれど、記憶にあるあの子より
479
随分と大きい。
﹁⋮⋮赤、髪で、あった、にょ?﹂ あの子は少し癖のある赤髪だったはずだ。
呆然とそれを伝えれば、顔を上げたリリィが嬉しそうに笑う。
﹁覚えててくれたんだ。大きくなったら色が薄くなっちゃったの。
私の髪、梳きにくい上にあの時は暴れて大変だったのに、カズキ、
何度も梳いてくれたね。⋮⋮⋮⋮ごめんね、私、あなたの顔も、声
も、ほとんど覚えていないの。けれど、けれどね、あなたがとても
優しかったことだけは、覚えてるんだよ﹂
叩きつけるような雨がリリィを濡らす。ああ、でも、その頬を伝
い落ちるのは雨じゃないね、リリィ。
﹁あなたは私を優しいと言ったけど、最初に優しくしてくれたのは
カズキだよ。自分を浚ってきた敵国の子どもに、あなたはずっと優
しかった。私ね、ずっとカズキみたいになりたかったんだよ﹂
走り出した沢山の男達がヒラギさん達の集団と重なった。耳を劈
くような、鋭い鉄と鉄が擦れ合う音が響く。
私を抱き上げたままのルーナが、少しずつ後ろに下がった。隊長
も、ティエンもイヴァルも、戦闘に加わっていない人達は、同じよ
うに距離を取り始めている。
さっきリリィがしてくれたみたいに涙を拭ったら、その手に頬を
寄せてリリィは目を閉じた。
﹁私、喋れなかったから、あなたが名前を聞いてくれたのに答えら
れなかった。だから、あなたに名乗るまで、誰にも名乗らないって
決めてたの。カズキ、私ね、リーリアっていうの。リーリア・ユル・
ガルディグアルディア。カズキが救ってくれた、泣き虫の子どもの
名前だよ﹂
﹁リー、リア?﹂
﹁リリィは愛称だよ。お爺ちゃんもお婆ちゃんも死んじゃったから、
リーリアって呼ぶ人、もういないの。カズキが偶に呼んでくれたら
480
嬉しい﹂
それまでずっとリリィの後ろに立っていたネイさんが静かに口を
開いた。
﹁お嬢様﹂
﹁分かってる。カズキ、再度見える幸運を!﹂
リリィが遠ざかる。ルーナが走り出したのだ。
﹁リリ⋮⋮リーリア!﹂
ちょっと目を見開いたリリィが笑う。まるで花が綻ぶように、幸
せな夢を見た子どものように、嬉しそうに笑った。
﹁カズキ、大好きだよ!﹂
叩きつける雨の中、こっちが泣きたくなるほど華奢な身体は、あ
の時と同じように、最後まで私を見ていた。
どんどん小さくなり、ついには見えなくなったリリィの姿をそれ
でも追ってしまう。
話したいことがいっぱいあるんだよ、リリィ。あの時も、あなた
の存在に救われたのは私なんだよ。あなたの温もりに救われたんだ
よ。あなたがいたから泣かずにいられた。あなたに笑ってほしいか
ら、私は笑えたんだよ。
﹁リリィ⋮⋮リーリア⋮⋮⋮⋮リ、いぃ!?﹂
何度も何度も、まるで自分を奮い立たせる呪文にも思える名前を
繰り返していたら、もう十分すぎるほど経験した落下の感覚が襲っ
てきた。ルーナは地面にぽっかり空いた穴に飛び降りて、私を抱え
たまま危なげなく着地する。ルーナに抱かれていたので落とされる
不安はなかったけれど、落下の衝撃が全身をびりびりと走り抜けて
いった。
暗くてよく見えないけれど、また水路だろうか。雨音とは違う、
481
激しく流れる水音がする。
だんっ、だんっと、さっきルーナが着地した時と同じ音が断続的
に続く。皆が飛び降りているのだ。そして、誰も立ち止まらずに走
り出す。いつもなら分厚い鉄底の重たい足音が鳴り響いただろうけ
れど、雨に濡れてべちゃべちゃになった皆の足音もどこか湿ってい
る。
私も自分で走るべきだと思うのに、足腰どころか視界まで回って
よく見えない。
どこに行くの。どこまで行くの。ルーナ、私はどこに行けばいい
の。どこに行けば、リリィを迎えに行けるの。泣いて、泣いて、顔
を真っ赤にして、喉が裂けんばかりに泣き叫んで絶望を伝えていた
小さなあの子を雨の中に置き去りにして、私はどこに逃げるの。
﹁⋮⋮⋮⋮が﹂
﹁⋮⋮ない、頼む﹂
頭の上で声がする。私はぼんやりとする意識を何とか掻き集めた。
私が抱きつくように凭れているのは、硬いけれど柔らかい何かだ。
これは知ってる。筋肉だ。
[⋮⋮あれ? アリスちゃんだ。ルーナかと思った]
﹁⋮⋮げっ﹂
ぼんやり見上げたら、心底嫌そうな顔をされた。
[げって⋮⋮]
﹁なんでここで起きるんだ、お前⋮⋮﹂
全身濡れ鼠になった同士が引っ付いていてもべちゃべちゃで気持
ちが悪い。しかし、離れようともがいても身体が重くて動かない。
べったり凭れて迷惑だと思うのに、本当に指一本動かせないのだ。
特に右肩から指先まで感覚すらない。
なんとか顔だけ上げてアリスちゃんの肩に顎を乗せて、私は状況
482
を把握した。口元が引き攣るのが分かる。
薄暗くて丸い天井は、ここがまだ地下の水路だからだろう。ちょ
っと黴臭い。肌寒いのは、私達が濡れてるからだけじゃないだろう。
点々と散らばっているようで、恐らくそれぞれの分かれ道で追手
を警戒している人達の影が伸びてゆらゆら揺れている中で、蝋燭の
火で針を炙っていたルーナが顔を上げて私に気付き、心底気の毒そ
うな顔をした。
どうやら私は、迷惑にも気絶したにも拘らず、麻酔なしで縫われ
る直前に目を覚ましたらしい。なんというタイミング。せめて、二
針三針は縫われてからにしてほしかった。
何か地図らしきものを見て話しあっている隊長とティエンを背景
に、ルーナが近づいてくる。蝋燭の火が下から照らした顔は、シチ
ュエーションも含めて今までで一番怖かった。
﹁私ではなく騎士ルーナに抱きつきたいだろうが、許せ、カズキ。
私は縫えん﹂
ルーナが私の横に膝を下ろして、何かの切れ端を広げた。何本か
の線が見えるが⋮⋮物凄く、交通渋滞状態だ。その中でかろうじて
一直線に縫われている線をルーナが指さす。
﹁さっき布で試し縫いした結果、俺が一番ましだった、が﹂
[ここで不吉な﹃が﹄が!]
﹁絶対痛いのに変わりはない。耐えてくれ﹂
[ぬ、縫わないって、選択は⋮⋮⋮⋮無理、です、よ、ね、はい⋮
⋮分かってる]
右腕の袖はいつの間にか破られていた。剥き出しの自分の腕を恐
る恐る見下ろして、そこを初めて見る。ぱっくりと裂けた傷口から
見える肉は意外と平気だったけれど、未だに血が止まってないこと
に絶望する。これさえ止まってたら縫わなくてよかったのに!
意思の力でどれだけ押さえつけても、身体は勝手に逃げようとす
る。けれど、アリスにしっかりと抱きかかえられると身動ぎも出来
ない。
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見たくもないのに、既に縫い付けられたように動かせない視線を
持て余している私の口に、何かが捻じ込まれる。硬いけれどお箸よ
りは断然柔らかいそれは、アリスの指だった。
﹁口を開けろ﹂
﹁もぎゃ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮どういう返事だ﹂
アリスの指が捻じ込まれて喋れなかったんですと抗議しようにも、
そのまま強引に口を開かれて肩に押し付けられた。
﹁噛んでいろ。噛み切って構わん﹂
﹁もが﹂
涎つくよとか、噛むのはちょっととか、肩が張ってるから既に顎
が疲れたとか、色々思い浮かんだ。けれど、深く息を吸い、そして
吐いたルーナに全身が強張る。勝手に震える身体をアリスがしっか
り抑え込む。身動ぎくらいさせてほしい。縫われる痛みなんて想像
もできないのに、凄く痛いことだけはしっかり想像できる自分を殴
りたい。その勢いで気絶したい。
﹁意識飛びそうだったら逆らうな。そのまま気絶しろ。いいな﹂
さっきまで蝋燭に近くて温められた指が、冷え切った私の肩にひ
たりと触れる。
﹁⋮⋮いくぞ﹂
ぐっと唇を噛み締めたルーナに、私は神妙に頷いた。
こないでください。
追手がかかっている身としては、こんな音が反響する場所で大声
上げるなんて愚の骨頂と分かっているし、ちゃんとアリスの肩も噛
んでいた。けれど、道の先を確認しに行っていたイヴァルがすっ飛
んで帰ってくるくらい、くぐもった絶叫は響き渡ったらしい。
484
針が刺さる瞬間までは出来るだけ声も押さえて、アリスの肩も噛
まないようにしようと思っていたのに、終わった時には服越しじゃ
なかったら噛み千切っていたかもしれないくらいしっかりと噛んで
しまっていた。どっちかというとこっちの歯茎にも大ダメージだけ
れど。
﹁⋮⋮なんでこういう時は気絶しないんだ、お前は﹂
﹁⋮⋮そういえば、昔から時間差で気絶してたな﹂
﹁時間差か⋮⋮﹂
﹁時間差だ⋮⋮﹂
ぐったりした私の上でしみじみ頷き合うの止めてもらえますかね。
そんなこといっても、ふっと意識が飛びかけた時に、とってもぴっ
たりなタイミングで激痛が走ったら目も覚めるというものですが。
﹁ルーナ、片づけは私がやろう。それよりもカズキを﹂
﹁僕! 僕がカズキさんを抱っこします!﹂
﹁イヴァル、暇なら針と糸を頼む﹂
﹁暇じゃありませんよ!﹂
アリスが受け取ろうとしていた針と糸が、くるりと方向を変えて
イヴァルの手に渡った。イヴァルはぷりぷり怒りながらも受け取る。
[針と糸があるのに⋮⋮なんで麻酔ないんですかね⋮⋮⋮⋮]
自分の声が、自分でも驚くほど擦れていて別人のようだ。喉奥で
上げた絶叫の影響がこんな形で現れた。でも、麻酔なしで縫われる
痛みに比べたら大したことないので特に気にならない。なのに私を
見下ろす三人が揃って痛ましい顔をしたので、何だか大したことあ
るような気がしてきてしまった。
﹁ネビー医師がカズキに渡そうと用意していた救急箱に、ちょうど
麻酔が切れていて取りに行くところだったんだそうだ﹂
神様は、小技を効かせてちょっとしたところに手厳しさを混ぜて
きている気がする。
私は、針と糸をイヴァルに渡して空いたルーナの腕に渡された。
この短期間で何回腕の中を移動しただろう。
485
﹁イヴァル⋮⋮質疑応答いい?﹂
﹁はい﹂
﹁ヒューハは⋮⋮逃亡、出来上がった?﹂
グラースの人もブルドゥスの人も混ざって逃げてるのに、そこに
ヒューハの姿はない。イヴァルは一緒じゃなかったのだろうか。あ
あ、それに王子様達はどうなったんだ。
イヴァルは一瞬息を飲んだ。けれどそれは束の間で、すぐににこ
りと笑った。
﹁ヒューハとは、はぐれちゃったみたいです﹂
﹁[そっか⋮⋮]⋮⋮ご無沙汰⋮⋮沙汰⋮⋮ぶ、無事⋮⋮ご無事な
ら宜しいぞね﹂
﹁ええ﹂
どうしてイヴァルは笑うのだろう。笑おうとした顔で、笑うのだ
ろう。
その笑顔がそれ以上の言葉を拒絶しているように思えて、何も言
えなくなった。
﹁おーい、そこなる四人組、近々出立するぞ﹂
地図を見ながら額を突きつけあっていた隊長が声を上げると、周
りに散らばっていた人達も腰を上げ始める。私達も隊長の元に移動
した。移動といっても、私は運ばれているだけだけれど。
﹁ほんと⋮⋮いつからはぐれちゃってたんでしょうね﹂
私を抱いたルーナが立ち上がって視界が上がる。俯いたイヴァル
が呟いた言葉がやけに耳に残った。
486
38.神様、ちょっともう分かりません
移動しようとしていた集団が、先頭からぴたりと止まっていく。
ルーナが私を抱いたまま剣に手をかけたのに気付いたとき、私もよ
うやく前方から聞こえる音に気が付いた。
がつ、がつ、と、重たく湿った足音が近づいてくる。それも、複
数だ。
明かりは担当の人が手元に持っている分しか照らしてくれず、相
手は明かりを持っていないらしい。暗闇の中で足音が止まる。
かちゃりと鍔の鳴る音が重なり、誰かが静かに細い息を吐く音が
緊張感を募らせていき。
私のお腹は鳴った。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮なんでだよ﹂
呆れたティエンの言葉が突き刺さる。
違うんです。身体が冷えているのと緊張感で変に力が入って鳴っ
ちゃっただけで、お腹が空いてるわけじゃないんです。だからイヴ
ァル、ポケットから雨ででろんでろんになったクッキー出してこな
くていいよ。アリスちゃん、その、豪雨を受けてもなんの異変も見
受けられないつやっつやの炭は、もしかしてお菓子でしょうか。結
局その炭は懐に仕舞い直されたので詳細は分からなかった。
隊長が剣に手をかけたまま一歩前に出る。
﹁そちらはどちらぞ!﹂
﹁ギニアス・ルーバか﹂
﹁⋮⋮何故にして分かったぞ﹂
名乗っていないのにあっさり見破られ、しょんぼりしている隊長
487
の前に、影から数人の男の人が現れた。年齢は様々だが、びしょ濡
れで怪我をしているのはみんな同じのようだ。
先頭にいた長い髪の男の人は、隊長を確認して嘆息した。年の頃
は隊長と同じくらいだろうか。ブルドゥスの騎士だというのは服装
で分かった。そして、隊長の背からも緊張感が消えたのも分かる。
まみ
ちょっと撫で肩の隊長は、気を張る時はいかり肩になるから分かり
やすい。
﹁戦場で見える度に舌打ちしていた貴様に安堵するとは、俺も焼き
が回ったものだ﹂
﹁ウルヴァス将軍であったか﹂
ウルヴァス将軍と呼ばれた男の人と目が合う。とりあえず会釈し
たら驚かれた。
﹁黒曜か! よく、あの状況下で奪還できたものだ﹂
﹁手前共は黒曜を連れて逃亡しろとの命令を賜ったのみで、実態が
把握できずにいるのであるのだが﹂
﹁ええい、貴様は相も変わらず面倒な喋り方をする! とにもかく
にもついて来い!﹂
身を翻したウルヴァス将軍の横に隊長が並び、他の人は一歩引い
て道を譲った。こういう光景は何度も見たことがある。恐らく、こ
の中では隊長とウルヴァス将軍が一番偉いのだ。
しかし、後ろ姿だけでも対極な二人である。背が高い将軍と小柄
な隊長。私から見れば女性であっても長いと思うくらい長い髪の将
軍とつるりんぱの隊長。その二人が先頭を行く後ろを皆でついてい
く。かなり早足だけど誰も遅れず難なくついていった。
﹁今後の方針について話し合いが行われていたのだが、伯の一人が
あの妙な武器で弾けた﹂
妙な物言いだと思ったけれど、すぐに気づく。自爆、という言葉
がないのだ。自害ならあるけれど、爆弾どころか火薬がないのだか
488
ら当然である。
以前ルーナと爆散という言葉を使ってはいたけれど、あれは私がル
ーナに教えた言葉だ。弾けるように散る、と説明した覚えがある。
﹁伯は以前より苛烈な人物だったが、弾ける前の言動を見るに脅さ
れて仕込まれたわけではなく、伯は自らの意思で我らを滅ぼそうと
したのだろう。我らはアーガスク様をお連れしているが⋮⋮負傷さ
れている上に、少々⋮⋮荒れておられてな。道が増水で進めず、戻
った時に尋常ではない女の声が聞こえ、無体を働かれているのなら
見捨てるわけにもいかぬと現れた次第だ。黒曜も負傷しているのか﹂
﹁麻酔が存在せず、あるがままで縫い合わせたが故だ﹂
﹁あの声はそれでか。こんな場所で女の声がするのはおかしいと思
ったが、罠にしては酷い声だったのでな。⋮⋮しかし、我々ならば
ともかく、惨いことを﹂
将軍の部下の人達も私を見て痛ましい顔をした。しかし、うろち
ょろしているイヴァルが邪魔でよく見えない。まだ諦めてないよう
だ。ルーナはそんなイヴァルが見えないかのようにまっすぐ前を見
て⋮⋮偶にそっぽを向いている。見えている、絶対見えている!
﹁手前共は軍士ヒラギの隊により逃亡幇助を受けたが⋮⋮エリオス
様はどうなされているか存じているか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それが、アーガスク様が荒れておられる要因だ﹂
早足で進んでいる内に、皆の足音がおかしいことに気付く。水を
掻き混ぜるような音になっている。水路から水が溢れているのだ。
雨は爆弾を無力化するにはとても都合がいいけれど、地下水路を逃
げる私達にはとてもまずいものだった。
何度目かの角を曲がった先では、階段の踊り場で固まっていた人
達がこちらを見て剣を収めた。その円陣の中心で壁に凭れている人
を見て、アリスが駆け出す。
﹁アーガスク様!﹂
489
﹁針と糸を貸してくれ。こちらも血が止まらんのだ﹂
イヴァルから受け取った将軍は、手早く蝋燭の火に翳して消毒を
始めた。
麻酔が無いのに縫われる同士ですね、王子様。
アーガスク様は、右の脇腹を押さえて苦悶の表情を浮かべて⋮⋮
いなかった。浮かんでいたのは憤怒だ。予想外である。
﹁くそっ⋮⋮馬鹿がっ⋮⋮!﹂
﹁はい!﹂
ちょっと一瞬だけぼうっとしていたから、馬鹿に反射的に反応し
てしまった。アリスに呆れた顔をされ、ルーナとイヴァルには頭を
撫でられる。その生暖かい視線が逆に痛い。
﹁絶対に、許さんぞっ⋮⋮! エリオス!﹂
憤怒の形相で絞り出される声が紡いだ名前にぎょっとなる。てっ
きりゼフェカ側についた誰かの名前が飛び出てくるかと思いきや、
書道部様の名前が出てくるとは思わなかった。それとも⋮⋮まさか。
信じられない予想が頭の中を駆け抜けたけれど、炙った針を持っ
てアーガスク様の横に膝を落とした将軍が予想を否定してくれた。
﹁エリオス様はアンキに長けておられるが故に、伯の行動に一早く
気付かれ⋮⋮アーガスク様を庇ってくださったのだ。間合いを読み
違えたのは仕方があるまい。誰も、あのような兵器が存在するとは
思わなんだ﹂
﹁そして、エリオス様はどちらなるにいらっしゃるぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮酷い怪我を負ってしまわれ、動かすことが出来なかった
為、留まる事に賭けるとグラースの騎士達と共に残られた﹂
つい先日出会い、普通に話して、宴の約束をした。皆で無礼講の
中で騒ごうと言った二人の王子様の顔は簡単に思い出せる。なんだ
か少年みたいに楽しそうできらきらした目をしていて、その後猿の
威嚇みたいに額を突きつけあっていた姿まで鮮明だ。なのに、なん
だか随分遠くに思える。
そして、何が長けているのか分からなかったので後で聞こう。忘
490
れてなければ。
﹁⋮⋮⋮⋮王は﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮王が一⋮⋮伯に⋮⋮近⋮⋮った⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そのようか⋮⋮﹂
何と言っているのか聞こえない。耳を澄まそうとした私の意識は、
吠えるような呻き声を上げたアーガスク様の方に引き寄せられる。
アーガスク様は、動くたびに掌の隙間から溢れる血も構わず、拳
を地面に叩きつけた。
﹁あの馬鹿がっ⋮⋮! 体格の差を考えることも出来んのか! 私
を盾にするくらいのことも考えつかん頭脳で王子などと、片腹痛い
わ!﹂
吐き捨てた彼の脇腹に皆の視線が集中する。確かに、痛そうだ。
縫うためにアーガスク様の手が退けられ、傷口をもろに見てしま
った。あまり詳しくはないけれど、恐らく爆弾で砕けた破片か何か
で出来た傷だ、と思う。爆弾だと火傷になるんじゃないかなと、思
う。予想だけれど。
﹁参ります﹂
﹁ぐっ⋮⋮!﹂
﹁ぎゅっ⋮⋮!﹂
何の躊躇いもなく針を突き刺した将軍に、さっき初体験した激痛
を思い出し、アーガスク様と一緒に私まで呻いてしまった。しかし、
彼が上げた声はそれだけで、後は苦悶の表情を浮かべながらも歯を
食い縛り、荒い息を吐くだけだ。
私があれだけ大声を上げてしまったのは、やっぱり精進が足らな
かったからなのだろう。
﹁次なる事態では、必ずや沈黙を保ってみせるぞり⋮⋮﹂
私はひっそり決意した。
﹁次なんてあって堪るか! 馬鹿!﹂
﹁次なんて嫌ですよ! 馬鹿︱︱!﹂
491
﹁次の決意より回避に動け! たわけ!﹂
全然ひっそりしていなかったらしく、三連続で怒られた。私だっ
て、別に次の機会を望んでいるわけでは全く以ってないのだけど、
なんかごめん。
ウルヴァス将軍は手慣れた様子で縫い終えると、すぐにアーガス
ク様を支えて立ち上った。長居は出来ないので、みんな素早い動作
で動き始める。アーガスク様は体格がいいのでおぶえず、両方から
支えられているも自分で歩いていた。私もそうすべきだろう。ずっ
とルーナに抱きかかえられているのは申し訳ない。剣を振るう彼ら
の腕を余計な事で疲れさせるわけには。
そこまでぼんやりと考えいていた意識は、いつの間にか途絶えて
いたらしい。
﹁⋮⋮ズキ、カズキ!﹂
強く呼ばれた自分の名前に掬い取られるように意識が浮上した。
薄暗い景色はまだ私達が水路にいることを示しているし、水量も
さっきとあまり変わっていないからそんなに時間は経っていないよ
うだ。なのに、必死の形相で私を呼ぶルーナが不思議でならない。
﹁カズキ!﹂
[さむ、い⋮⋮]
どうしたのと聞こうとしたのに、口から出たのは自分のものとは
思えない、呼吸のような声だった。
寒い。表面だけじゃない。もっと奥、臓器から冷え切ったように寒
くて堪らない。皮膚があろうが、肉があろうが、身体を流れる血が
なければ命なんて保てないと知っていたはずの事実が虚ろに頭の中
を流れて行った。
﹁大丈夫ですよ、大丈夫ですからね、カズキさん!﹂
私の手を必死に擦っているイヴァルのほうが泣きそうだ。でも、
492
イヴァルの体温が分からない。両手で握られて、息もかけてもらっ
ているのに温度が届かないのだ。
﹁血液を流出過多しすぎたな﹂
﹁せめて服だけでも濡れてねぇもんにしてやりたいが、この雨じゃ
あな﹂
皆の顔がこれはまずいと告げている。自分では何だか全部が遠く
て、ただ寒いとしか思えない。ふわふわと浮いているようなのに、
ずぶずぶと沈んでいくような不思議な気分だ。意識が浮かび上がる
ようなのに、後ろに引っ張られるみたいにがくりと落ちては、その
感覚でまた浮上する。
﹁熱が出るのも困るがこれは⋮⋮﹂
﹁体温が下がるより、まだそっちのほうがましだろう﹂
小さな蝋燭に手を翳し、温もった掌を首に当ててくれたアリスち
ゃんは眉間に皺を寄せた。どうやら首も冷え切っているらしい。
﹁カズキは薬が効きにくい﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁カズキの国は衛生状態が良く、医療が進んでいるらしい。だから
か、カズキは病に弱い上に、向こうの質の良い薬が馴染んだ身体で
は、こっちの薬はあまり効かない﹂
﹁難儀な⋮⋮﹂
皆が黙りこくってしまった。それでも誰の足も止まらない。
将軍に支えられながら歩いていたアーガスク様は、耐え切れなく
なったのかがくんと体勢を崩して水の中に膝をつく。一緒に倒れか
け、踏ん張って耐えた将軍に支えられて再度立ち上がった彼は、薄
暗い中でも分かる程顔色を悪くさせ、水が溢れる水路に視線を落と
した。
﹁時代の終わりとあの男は言ったが、まるで世界の終わりだな⋮⋮﹂
﹁何を⋮⋮何を弱気なことを仰る! 貴方らしくもないことを!﹂
﹁⋮⋮そうだな、私らしくもないことだな⋮⋮。詮無き事を言った。
忘れろ﹂
493
時代の終わりとゼフェカは言った。時代は終わる。でも始まる。
知っているけれど、それは後世の人から見た流れだ。いまここにい
る私達には年表の境目なんて見えない。
ああ、だったら今は。
[歴史の途中だよ︱︱⋮⋮]
絶えず流れ続ける水に意識まで流される。その流れのように時間
も時代も流れるのだ。淡々と年表を語る先生の言葉を聞き流した授
業中に語られていた名前達だって、きっと、後に教科書に載るかも
なんて考えずに走ったのだろう。
だから、アーガスク様。時代や世界の終わりだと悲しい顔しないで
ほしい。
私達は常に後世の人間でしかない。歴史はずっと繋がっている。時
代は変われど、歴史は終わらない。だからずっと途中だよ。
﹁⋮⋮⋮⋮こいつ、偶に突拍子もなくいいこと言うんだよな﹂
﹁普段から良いこと言ってますよ! 大抵台無しな言葉選びしてる
だけで!﹂
翻訳してくれたらしいルーナの声の後に、呆れたようなティエン
の言葉が聞こえた。そしてイヴァルのそれは、褒めてくれているの
か何なのか今一分からなかったので聞こうと思ったのに、もう、水
音しか聞こえない。頭の中では水音だけが溢れ返り、それに伴って
体温もどんどん下がっていく気がする。まるで身体の中を水が流れ
ているかのように錯覚してしまう。
﹁カズキ、大丈夫だ。大丈夫だから﹂
私を抱いている腕に力が篭もる。
分かってるよ、ルーナ。大丈夫だよ。分かってるよ、全然、つら
くなんてないよ。寧ろずっと抱いてもらって迷惑かけてごめんだし、
みんながそんな顔しなくていいよと伝えたくて、あんまり成功した
覚えがないけど馬鹿の一つ覚えみたいに秘儀笑って誤魔化せを発動
494
する。
そうすると、やっぱり成功しなくて、ぐしゃりと痛そうに顔を歪
められて終わってしまった。別の秘儀を会得したいところだけれど、
身にしみついた秘儀はそう簡単には変更できない気がするのだ。
ゆらゆらと意識が揺れる、と思って目を開けたら、視界はがくん
がくんと揺れていた。水を掻き回すような音がする。
皆が走っているのだ。
いつの間にか、薄暗くて音の反響する水路は抜けていた。でも空
は水路と同じほどどす黒く、雷鳴が轟いている。雨は止むどころか
更に酷くなっているようで前も見えない。いや、ルーナ達は前を見
ているから見えているのだろうけれど、視界がぶれているのか、霞
んでいるのか、よく、見えないのだ。
でも、地面が緑色なのは分かる。雨でぐちゃぐちゃになった植物
の上を駆け抜けているから、水を含んだ音がするのだろう。
﹁走れ! 走れ走れ走れ︱︱!﹂
まるで空を掻き回すように剣を振りながらティエンが怒鳴った。
もう、なりふり構っていられないといった風にぐしゃぐしゃになっ
た皆が走る。叩きつけるような雨で皆の髪はべったり張り付いてい
るし、服は雨と泥で色が変わってしまっていた。
アーガスク様と将軍さん達の姿がない。はぐれたのか別れたのか
分からないが、この人数では一緒に逃げられないと分かれたのだろ
うと思う。そうであってほしい。
揺れて霞む視界を何とか凝らして周りを把握しようと努める。草
と土の匂いが強いからたぶん草原なのだろう。周りに人工的な建物
は見えない。見渡す限り自然が広がる広い場所だ。晴れた日に、い
や、雨でもいいけれど、こんな状況でなければピクニック気分にな
れたと思う。日本じゃちょっとお目にかかれない景色だなと、やけ
495
に呑気な考えが浮かんで、散る。思考が小刻みに途絶えるのは気絶
だろうか。駄目だ、ただでさえ怪しい頭なのに、まともに考えられ
ないので馬鹿みたいなことばかり浮かぶ。
私を抱いていたルーナが、弾かれたように身体の向きを変えて剣
を引き抜いた。今まで後ろばかりを気にしていた皆も、一瞬遅れて
すぐに横に意識を向ける。
向こうから集団が来るのが見えた。馬だ。馬に乗った集団が横か
ら迫ってきている。
﹁ルーナ! 構うな! 前進行進ぞ!﹂
止まりかけたルーナに隊長が怒鳴る。
ルーナははっと隊長を見た。何かに気付いたルーナに、隊長は頷
く。
﹁託したぞ﹂
﹁はっ!﹂
﹁騎士アリスローク、貴殿にも謹んで託して申し上げるぞ﹂
荒い息を吐いて剣を構えていたアリスが目を見開いた。
﹁私が背を向けていい訳がない! 私はブルドゥスの騎士だ!﹂
﹁それ故にだぞ。手前共より地理に詳しい⋮⋮⋮⋮ルーナとカズキ
を託すぞ﹂
ぐっと何かを飲み込んだアリスが頷くと、隊長は満足げに微笑ん
だ。そして、私の頭に手を置く。
﹁カズキ、壮健であるぞ﹂
[待っ、て⋮⋮隊長、待って]
声が上手く出ないのは血が足りないからか、寒さで舌がもつれる
からか。それとも、怖いからか。
再度笑って、もう振り向かない隊長に手を伸ばしたのに、泳いでい
る時みたいに視界がぐにゃついて掴めない。
496
﹁カズキ、お前、ほんととことんついてねぇなぁ。今度があれば、
今度こそ平和な場所に落ちとけよ。後、男風呂はやめとけな!﹂
からから笑って私の頭を撫でたティエンの手は、いつもはびっく
りするくらい冬でも温かいのに、今は別人かと思うほど冷え切って
いた。
﹁カズキ! ルーナと喧嘩すんなよ!﹂
﹁いや、寧ろ喧嘩してやれよ! 喧嘩だぞ!? 珍妙漫才じゃなく
てだぞ!?﹂
﹁無理だろ﹂
﹁無理だろうなぁ⋮⋮﹂
見知った面子が次々に私の頭に手を置いていく。
﹁カズキさん﹂
何も掴めなくて彷徨う私の手をイヴァルが取ってくれる。あの頃
は私の片手で彼の両手を掴めたのに、今はまるで私の方が子どもに
見えた。
﹁ありがとうございます、カズキさん﹂
泣きべそばかりかいていたのに、いま、イヴァルは皆と同じよう
に微笑んでいる。子どもは大人になったのだ。イヴァルも、アリス
も、リリィも、ルーナも。みんな大人になって、私ばかりが変わら
ない。変わらないまま、変わり続ける世界についていけないでいる。
﹁平和を守れと戦場に追いやられたけど、その平和がどういうもの
か経験したことがなかった僕に、幸せを教えてくれてありがとうご
ざいます。人と手を繋ぐと安心するってことも、頭を撫でられると
嬉しいってことも、抱っこされると温かいってことも、眠る前の子
守歌の心地良さも、雨の楽しみ方も、全部⋮⋮楽しいことや、温か
いことは全部、カズキさんが教えてくれたんですよ﹂
﹁イヴァル⋮⋮待機、懇願、待機、イヴァル⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あなたの為を思うなら、僕らと会ったことはいいことじゃな
いのかもしれません。でも⋮⋮⋮⋮﹂
497
待って、お願いだから、みんな待って。
私、そんなに賢くないから、分からないんだよ。こんな、次から
次へと状況がくるくる回ったら、何が起こってるのか分からなくて、
どうしたらいいのか分からなくて、ただ、怖いだけで。
こんな、何も分からないまま、ただ、失っていくことだけが分かる
のは嫌なんだよ。
﹁僕は、あなたと出会えたことに感謝します﹂
額に冷たい唇が落ちる。イヴァルは、知らない人みたいな顔で笑
った。
寒い。寒くて寒くて堪らない。
喉奥どころか、お腹の中、臓器も骨も、芯から寒さが湧き上がって
くる。でも、いま震えているのは寒さじゃない。
﹁お元気で、カズキさん!﹂
[待ってっ⋮⋮イヴァル、待って、お願い、待ってぇ⋮⋮⋮⋮!]
身を翻したイヴァルに追い縋ろうとした視界がぐらりと揺れる。
頭が重たくて支えられない。首が座らない赤ちゃんみたいにがくり
と崩れた私を抱え直し、ルーナとアリスは敬礼した。そして、全て
を振り切るように走り出す。
﹁大人しく投降すれば手荒な真似はしない!﹂
﹁ヒューハ︱︱!﹂
聞こえてきた声と、吠えるようなイヴァルの声に愕然とする。自
分の頭さえ支えられない身体を腹立たしく思いながら、ルーナの腕
の中でもがく。
[待って、待ってっ⋮⋮!]
分かっている。本当は分かっているのだ。待ってもらっても私に
は何もできない。邪魔になるだけだと分かっているけれど、こんな
498
のは嫌だ。
嫌だよ、イヴァル、隊長、ティエン、みんな。
やめて、嫌だ。何がなんだか分からないから、何が嫌なのか自分
でもちゃんと説明できない。でも、嫌だ、嫌だよ。
こんなのは嫌だよ︱︱⋮⋮。
ぶつ切りでしか保てない意識がある時は、常に視界が動いていた。
ルーナもアリスも何も言わず走り続けているのだ。もうどれくらい
こうしているのか分からない。叩きつけるような雨から守るように
マントで包まれていたけれど、分厚い生地越しでも分かる程雨足は
強かった。
意識が途切れた時は夢ばかり見ていた気がする。昔、ミガンダ砦
で皆と過ごした時の夢だ。淡々としていたルーナが段々つんつんし
だして、よく笑うようになった。柱の陰から遠巻きにこちらを気に
していたイヴァルが、満面の笑顔で抱きついてくるようになった。
ティエンが背中を叩く手の力が倍になった。隊長の頭部の輝きが更
に増した。
ああ、皆だ。皆がいる。
安心して走り寄るたびに、夢は覚めた。
何度も途切れた意識が次に浮上した時、打ち身が出来そうなほど
肌を叩いていた雨の感触は無くなっていた。でも、雨音は聞こえる。
それ以外は、酷く、静かだ。
自分が何をしていたのか分からなくて、少しぼんやりとする。何
をしていたのか、今、何をしているのか、分からないことを疑問に
思えない。まともな思考を行うにはちょっと、私の身体は血を流し
499
過ぎているみたいだ。
ぼやける視界に肌色の物を捉えて首を傾げる。シャツを羽織った
だけの半裸のルーナがいた。そのルーナに抱かれている自分と触れ
あう感触もおかしい。私はぼんやりと視線を落とし⋮⋮⋮⋮見なか
ったことにした。
これは人命救助だ。私の為にやってくれていることだと分かるし、
そうしなきゃいけなかったのだろうから文句なんてない。ないけれ
ど、私をパンツ一枚まで脱がしたのはルーナなんだろうなと思うと、
なんかこう、うがぁ! と叫びたくなる。元気だったら叫んでいた
かもしれない。でも今は、瞼を開けているだけでも億劫だ。頭がが
んがんするし、腕はじくじくするし、胸の中では何かが大声を上げ
て泣き叫んでいる。その心のままに泣き叫んでしまいたかった。何
かを責めて、何かを呪って、大声で泣き喚きたい。
でも、そうしたくないのも本心だ。何を責めればいいのか分から
ない。何を呪えばいいのか分からない。それに、ここにいる誰の所
為でもないと分かっているのに、私が責めれば、この優しい人達は
受け止めてしまう。そんなのは嫌だ。
目の前では、弱い炎がぱちぱちと音を上げている。燃やすものが
なかったんだろうなと私でも分かるラインナップが燃えていた。
私達に背中を向けて火の前に座っている、これまた半裸のアリスの
向こうには、楕円形の森が見えた。ここは洞窟とか洞穴なのだろう。
そして、風などで中に吹き込んで濡れていなかった木々や葉でなん
とか火を起こしたから、こんな雑多なものが燃えているのだと思う。
煙もそれなりに出ていたけれど、奥かどこかが吹き抜けなのか、風
が運んで行ってくれている。その中に虫らしき燃えカスがあること
に気がついた。この虫は油を多く含んでいて火付けに凄く役に立つ
のだと、昔ティエンが教えてくれたことがある。何かの幼虫みたい
な白いぶよぶよの塊だけどあれで成虫だそうだ。そして、それを私
500
の背中に入れてくれたことは一生忘れない。半脱ぎで腹踊りしなが
ら迫って驚かせてごめんね、ルーナ。慌てすぎて服が絡まってしま
い脱げなかったんです。尻もちついて後ずさるルーナは、そういえ
ばあれが初めて見せてくれた感情だったように思う。なんか、ほん
とごめん。
私が起きたことには気づいていないのか、二人はぽつぽつと言葉
を交わしていた。
﹁体温はどうだ?﹂
﹁まだ低いが、さっきよりは回復している⋮⋮よかった﹂
﹁それならいいが⋮⋮この雨の中辿りつくまでもてばいいな⋮⋮﹂
﹁辿りついて、大丈夫だという保証はないのだろう?﹂
﹁まあな。しかし、守護伯が寝返っていたのなら、何の道どこに逃
げても同じことだ﹂
﹁それもそうだな﹂
そこで一旦会話は途切れる。二人とも何かを考えているのだろう
けど、どちらもぐったりして疲れ切っている。当たり前だ。疲れな
いはずがない。ぐうすか寝ている私を抱いて、この雨の中、追われ
ながら走ってくれたのだ。
それなのに私は、彼らへ感謝の気持ちを伝える為に口を開く体力
を別のことに使っている。今にも閉じてしまいそうな瞼を必死で開
けて、他に誰かいないかを探しているのだ。でも、誰もいない。隊
長も、ティエンも、イヴァルも、みんなどこにもいなかった。
あの入口からひょっこり顔を出して﹃ひっでぇ雨だな、おい﹄っ
て﹃カズキさーん! すっごい濡れちゃいましたぁ﹄って﹃滴る雨
を遮るものが無き様がこれぞ⋮⋮﹄って言ってくれそうなのに、誰
もいない。
﹁⋮⋮⋮⋮帰してはやれないのか﹂
ぽつりと、アリスの口から唐突に出てきた言葉は私には意味が分
501
からなかったのに、ルーナは即座に理解したらしく私を抱いている
手に力が篭もった。
なんだろう。主語がないから分からない。
考えようとした思考が散っていく。ああ、駄目だ。ふわふわとし
た浮遊感と、重しを持ったまま粘着質な液体に沈んでいくような感
覚が交互に訪れる。これは意識が落ちる前兆だ。そのまますぅっと
気を失うには、私の体調が不調すぎるのだろう。浮遊感があれば体
中の痛みが増し、沈めば遠のく。楽な方に逃げたいけれど、もう、
逃げるのは嫌だなと無駄に抵抗してしまう。
一人で体力を消耗している馬鹿な私の上では、二人の静かな会話
が続く。
﹁⋮⋮⋮⋮俺には方法が分からない﹂
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
﹁もしも知っていたのなら、俺は十年前のあの日、絶対にその条件
を揃えたりしなかった﹂
十年前のあの日。
その言葉でようやく分かった。アリスは、私を元の世界に戻そう
としてくれているのだ。
でも、私もルーナも、その条件が分からない。何度も二人で考え
たけれど結局分からずじまいで、いつの間にか考えることはやめて
いた。お互い話にも出さなくなったのだ。
だって、帰ってしまいたくなかったから。
﹁⋮⋮でも、そうだな。きっと、帰してやるべきなんだろうな。戦
争がなく、医療が進み、子どもが子どもでいられる、穏やかで優し
い、カズキの故郷に。⋮⋮十年で、そう思えるくらいには、なった﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
視界が遠のいて、ルーナがどんな顔をしているのか分からない。
聞こえるのは、淡々とした声だけだ。
﹁だけど、それでも、俺は︱︱⋮⋮﹂
遠くで聞こえるその声は、酷く悲しそうで、酷く優しかった。
502
ひと眠りしたら、二人はまた雨の中進み始めた。私は常に眠って
いるような気がする。さっきまで洞窟の中にいたと思ったら森の中
を進んでいた。いや、林かもしれないけど私には違いが分からない。
あれってどういう区別なのだろう。木が二本が林で、三本が森って
ことしか分からない。
ごうごうと水が流れる音がするから、近くに川があるのだと思う。
でも、私はマントに包まれていて視界が極端に狭くなっているので
よく見えない。
おぶったほうが絶対楽なのに、ルーナは頑なに私を抱きかかえた。
雨が止まないからだ。マントで包まれているから大丈夫だと何度も
何度も言ったのに、これ以上冷やすのは駄目だと頑として譲らなか
った。
﹁そういえば﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮え?﹂
不意に話しかけられて、一拍どころか三拍くらい反応が遅れる。
﹁カズキは何かしたい事ってあるか?﹂
﹁⋮⋮どのように、したぞ、ルーナ?﹂
﹁いや、よく考えたら、カズキはまともに観光どころか町巡りすら
したことないんじゃないかって思ったんだ﹂
いきなり世間話を始めたルーナに首を傾げたら、アリスが乗って
きた。
﹁ああ、そういえばそうだな。というかお前は通貨の種類を知って
いるのか?﹂
﹁ツーカーを知らないじょり⋮⋮⋮⋮﹂
﹁金だ、金﹂
﹁所持した経験が、ないぞり﹂
リリィの所ではお給料もらう前にあんなことになったし、その前
503
もその後もお金を得て払ってという、生活に当たり前のことを行う
機会がなかった。金欠どころか一文無しである。しょっぱい。いや、
逆にお金がないのに生活させてもらえていた環境に感謝するべきだ。
そうだ、私は衣食住の何にもお金を出していない。これは由々しき
問題だ。生活費を返さないと! ⋮⋮お金がない。しょっぱい。
﹁金⋮⋮買い物⋮⋮通貨欠乏⋮⋮塩辛い⋮⋮﹂
﹁おい、何か唱え始めたぞ﹂
﹁カズキの世界にも魔法なんてものはないはずだぞ﹂
嫌だよ、こんなしょっぱい呪文。
金欠に喘ぎながら変身する魔女っ娘を想像して悲しくなった。子
どもに夢も希望も与えてくれない呪文である。
﹁ルーナと﹂
﹁ん?﹂
﹁町中を連行して、徒歩を行ってみたい﹂
﹁俺もカズキとデートしてみたい。カズキは食べ歩きとか好きそう
だ﹂
﹁デートを意味していたのか!?﹂
驚愕に慄いたアリスちゃんが滑った。足元注意である。
他愛もない話が続く。何でもない話ばかりだ。アリスちゃんは辛
い物がちょっと苦手で、私は酸っぱい物がちょっと苦手で、ルーナ
は熱い物がちょっと苦手で。アリスちゃんは海老が好きで、私はパ
ンが好きで、ルーナはハムが好きで。海老とハムのサンドイッチだ
と最強だと言ったら、二人は真顔で賛同してくれた。
私が何かを言ったらルーナが解読してくれて、アリスちゃんが驚
愕する。そんな繰り返しが楽しくて、浮かれてしまう。そんな場合
じゃないだろうと、こんな時によく笑えるなと頭の片隅で誰かが罵
る。誰かといっても自分だろうけど。
﹁カズキ⋮⋮カズキ?﹂
504
またぷつりと途切れていた意識がルーナの声で浮上する。目が覚
めて一番にルーナの顔を見れるので、ちょっと嬉しくて笑ってしま
う。そんな私にルーナも笑おうとして、失敗した。今にも泣き出し
そうな顔で、私の額に額をつける。
﹁死なないでくれ、頼むから、カズキっ⋮⋮﹂
悲痛な声にびっくりしたのはこっちだ。え? 私そんな、生死の
境を彷徨うような状態だったの!? 初耳です。
木は点在するけれど、いつの間にか少し開けた場所に出ていた。
ちょっと先には裂け目と吊り橋が見える。でも、建物がないから鏡
もない。顔色が見れないけれど、たぶん凄い惨状だろう。ホラーか
もしれない。好きな人に、ぼろっぼろのよれっよれの顔を至近距離
で見られている。よかった、恥らいの心がなくて。そんなものがあ
れば今頃羞恥で死んでいるだろう。
でも、ルーナもアリスもぼろぼろで、嬉しくもないお揃いだ。
[死なないよ⋮⋮だって、王子様達が、宴しようって、言ったんだ
よ⋮⋮⋮⋮無礼講だって、みんなで、全部終わったら、みんなで⋮
⋮絶対、楽しい]
私よりよっぽど疲れているはずの二人に歩かせているのに、私は
未来の夢を見る。
そこには皆いる。こんな叩きつけるような雨じゃなくて、びっく
りするくらい青い空の下で、皆で美味しい物を食べるのだ。いつか、
そんな日が来る。
だから。
[楽しみ、だね]
ふへっと変な吐息が漏れた私の笑みに、二人とも苦笑に近い顔だ
ったけれど今度こそ笑ってくれて、とても嬉しかった。
そんな私の夢は、切り裂くようなアリスの声で途切れた。
505
﹁ルーナっ!﹂
何かが潰れるような、鈍く重い音が、した。二度、三度、と続く。
凄い力で突き飛ばされ、私を抱いていたルーナは前のめりに倒れ
込む。咄嗟に胸に押し付けられて頭を守られる。
突如起こったことが理解できない。さっきまで動いているのか疑
問に思うほど小さかった心音が、耳の中で割れんばかりに鳴ってい
る。心音に合わせるようにだんだん荒くなってくる呼吸は、弾かれ
るように剣を引き抜いたルーナに少し乱暴な動作で地面に下ろされ
て止まった。
﹁うっ⋮⋮!﹂
地面は濡れていて、泥と敷き積もった濡れ葉でそんなに衝撃がな
いはずなのに、視界が真っ白に染まるほど身体に響く。口に入った
泥を吐き出すことも思い浮かばず、私は這いずって手を伸ばした。
﹁アリス!﹂
地面に倒れ込んだアリスの背中に剣が突き刺さっている。ルーナ
が向いた先に敵がいるのだとしたら、この剣は投擲されたのだ。次
いで飛んできた剣は、ルーナに叩き落とされる。
﹁ぐっ⋮⋮⋮⋮﹂
[アリス、アリスっ⋮⋮!]
アリスは自分に突き刺さった剣を抜いてしまい、私の喉からは変
な音が出た。何かを言おうとしたのに、結局悲鳴のような金切声の
ような呻き声のような、変な音しか出なかった。
動くたびに溢れ出る血を押さえる物が何もない。私は縋るようにア
リスの背に凭れ、痛いと分かっているけれどマントで傷口を強く押
さえる。他に何をしたらいいのか分からない。血を止める為には止
血点を押さえるといいということは知っていても、それがどこかは
分からないのだ。
﹁すまん⋮⋮カズキ⋮⋮⋮⋮﹂
[何がっ⋮⋮喋っちゃ、駄目、だってば!]
﹁どうやら、密偵は、私だったようだ﹂
506
アリスは歯を食い縛り、抜いた剣を見て、固く目を閉じた。
﹁気配は消したつもりだったが、よく分かったな。アリスローク﹂
﹁⋮⋮こういう、場所では、貴方なら、こうするだろうと、思い出
して、いました、から﹂
木々の隙間から現れた人物には見覚えがあった。
まるで熊のようにごつい、大きな男だ。記憶にあるのは、大柄であ
りながら清潔感ある姿だったが、雨に濡れて泥が跳ねていることを
差し引いても随分と印象が違う。
病み上がりのような暗い影を纏い、男はまた一歩踏み出した。
[クマゴロウ⋮⋮]
﹁何故ですか、ヌアブロウ隊長!﹂
クマゴロウじゃなかった。あの頃はクマゴロウにしか聞こえなか
った発音が、今ではちゃんとヌアブロウと聞こえる。成長だ。しか
も将軍じゃなかった。いろいろ間違えていたのが、今では自分で分
かる。あの頃の自分より、今の自分の方が圧倒的にこの世界に馴染
んでいるのだ。
目の前でゆっくりとした動作で近づいてくる男は、十年前、私を
砦から引きずり落とした張本人であり、アリスの隊長だ。
﹁貴様⋮⋮いま、カズキを狙ったな?﹂
ルーナの声が低くなっていて、私に言っているんじゃないのに怖
い。
﹁⋮⋮一人、か?﹂
﹁こちらの指揮系統も混乱している。部下を割く余裕がなかったの
だよ、騎士ルーナ﹂
ヌアブロウは先程投擲した剣の鞘を、興味なさそうにばらばらと
地面に捨てた。
﹁一度離反を決意したはずなのに、いざ国が燃えれば心変わりする
者が多くてな。軟弱な事だ。戦時中、屈強な精神で死をも恐れず戦
507
った戦士達はどこにいったのだ﹂
﹁隊長!﹂
﹁ヒラギにも声をかけなくて正解だった。国に対してあれだけ、憎
悪すら抱いていても、結局は国につく。アリスローク、お前と似て
頑なな男だ﹂
ゆっくりとした動作で私達を見たヌアブロウとの間にルーナが滑
り込む。その瞬間、ヌアブロウが剣を振りかぶった。組み合わさっ
た剣の音がやけに重い。尖れた刃物が重なり合うというより、鉄の
塊がぶつかり合っているみたいだ。
﹁牢に入れようが、殴られようが、気にも留めぬといった風に笑っ
ていた女が、たかだが刃傷一つ、雨に降られて死にかける。⋮⋮そ
れほどに脆弱な女に、我々は追いやられたのだ﹂
﹁隊長⋮⋮⋮⋮?﹂
ルーナが押されている。ヌアブロウの剣を受ける度、ルーナの身
体は泥の中を滑って少しずつこっちに近づいてきているのだ。踏ん
張りが効かないだけじゃない。それほどに、ヌアブロウの攻撃は重
い。素人の私が見ても分かるくらいだ。
﹁戦争は終わってはならなかったのだ、アリスローク。仮令怠惰で
惰性から続く戦争であっても構わなかった。民衆は国を守る王族と
戦士達を尊重し、慎ましやかに生き、王族は戦士と共に国を守る。
その形を我らは三百年間続けてきたのだ。それが終わった、終わっ
てしまった。その結果がこれだ。民衆は戦士達を蔑ろにし、王族は
そんな民衆を押さえられない。これが、私達が守り続けた国だ。そ
んな国を守る為に、私はどれだけ殺した? グラースの兵を殺し、
私の命令で部下を殺し、血を血で贖い続けた結果がこれか! 私は
英霊達になんと詫びればいい!? このような国を築くために貴方
々は死んだのだと、どうして言える!﹂
﹁お気持ちは分かります、痛いほど、同感です。ですが、だからと
いって、カズキは、関係ありません!﹂
ルーナの背中が私を隠そうとしてくれているけれど、相手の方が
508
一回りも二回りも大柄だ。ルーナの頭越しに、ぎらぎらとした目が
私を捉える。
あれは、殺意だ。ナイフで切りかかってきた偽黒の気迫なんて可
愛い物だと思う。視線だけで身体が竦む。冷たい物が競りあがって
きて吐きそうなのに、その為の呼吸すら凍りついたように動かない。
ヌアブロウは、底なし沼みたいな目で私を見ていた。
﹁力を持たず、財を持たず、ただその身だけの人間だろうが、時代
が求めれば時代を動かす楔になることがある。そういう事があるの
は、戦場でも分かっているだろう﹂
﹁だからと、いって、カズキを殺す必要は、ないではありませんか
!﹂
﹁繋がっている者が問題なのだ! 国中に名を轟かす者ばかりと繋
がっていながら、影響力がないとぬかすか、アリスローク。現にこ
の者は、我々が守ってきたブルドゥスという国の形を壊した。長ら
く不変であった我が国の変化に、この者が無関係であったとは言わ
さぬぞ!﹂
鋭い音がしてルーナの足元に小型の刃物が落ちる。いつ投げられ
たかも分からなかった。私に向けて投げられたそれをルーナが弾き
落としたのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮だからこそ、私は後悔している。貴様はあの時、殺して
おくべきだった!﹂
﹁ならば俺は、貴様を殺すぞ、ヌアブロウ!﹂
重い剣の音が一撃、一撃交わされる度、心臓に直接響く。がん、
がんと、剣の音に合わせて心臓が脈打つ。憎悪とはああいうものを
いうのだ。人から本気の害意を向けられたことなんてなかった。日
本で生きた十九年間、何かを憎んだり、誰かを本気で憎んだりした
ことはない。嫌いだなとか、苦手だなとか思うことは勿論あった。
でも、そんな時でも憎むまでいったことはない。悔しい時はその対
509
象より上に行こうと頑張ったし、どうしても合わないときは関わら
ないようにした。苦手でも、嫌いでも、悔しくても、その相手をど
うにかしようと思うより、自分をどうにかしてきた。
だから、誰かを殺したいほど憎い感情が分からない。誰かに、殺
したいほど憎まれる感情を叩きつけられたことも、ない、から。
ただ、怖い。気持ちが悪い。誰かに憎まれることがこんなにも恐
ろしいことだと知らなかった。そして、知りたくなかった。
見たくないのに、どろりとした怨嗟の瞳から目が離せなくなった
私の肩をアリスが掴んだ。はっとなって振り向く。アリスは肩を押
さえて立ち上がっていた。
﹁立て、るか⋮⋮?﹂
﹁動く、否、アリスっ﹂
﹁隊長の力、と、まともに組み合える奴など、軍士ハイくらいだ⋮
⋮⋮⋮本来、ならば、いなすべき、攻撃を、私達がいるせいで、ル
ーナは、受けるしか、ない。このままでは、剣が、砕かれる﹂
ルーナは身体が出来上がっていない時から大人の中で戦っていた。
ルーナの武器は、素早さとしなやかさだ。相手の攻撃をいなして、
流した勢いを利用して自分の攻撃を叩きこむ。昔に比べたら立派な
成人になっている今だって決してごついとは言えない。そのルーナ
が、地面に足が埋まるほどの衝撃を一身に受け続けているのは、私
が邪魔だからだ。
アリスが伸ばしてくれた手は視線で断わって、自分で立ち上がる。
血塗れの人の手を借りるのは申し訳がない。
立ち上がっただけで視線だけじゃなくて身体がぐらぐらするのが
分かる。白靄が点滅して、自分の呼吸音がやけに大きく聞こえてき
た。一歩でも動くと意識が飛びそうになる私の手を掴み、アリスが
走り出す。走ると言っても、一歩一歩強く踏み出すアリスに引っ張
られて私は進むだけだ。アリスも、前のめりになりそうな勢いで進
み、踏み出した一歩で身体を支えている。
510
﹁アリス⋮⋮アリス、アリスっ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんだ﹂
痛い。苦しい。気持ち悪い。吐きそう。
寒い。怖い。悲しい。つらい。
疲れた。歩きたくない。温かいベッドで寝たい。テレビ見て、友
達とメールして、お母さんのご飯が食べたい。
﹁⋮⋮私﹂
私、皆と会っちゃいけなかった?
私、この世界にいたらいけなかった?
私、私、私は。
胸の中で泣き喚いている言葉のどれも口には出さない。だって、
伝えたい言葉はそんな物じゃない。彼らが与えてくれたのはもっと
温かいものだった。彼らと出会って得たものは、こんな苦しくつら
い言葉じゃない。胸の中ではぐるぐるぎゃあぎゃあ泣き叫ぶ言葉が
あって、今はそれらが大騒ぎしているけれど、一番大きな気持ちだ
けを口に出す。
﹁私、皆と会えた事柄、非常に、嬉しいっ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私もだ。だから、そんなに泣くな﹂
違うよ、これは雨だよって言いたかったのに、もう言葉なんて出
せない。
髪が張り付いた頬を雨が叩いていく。泣いてない。泣いてなんか
ない。これは雨だ。
出来ないことばかりだから、せめて出来ることくらいちゃんとし
よう。もう、何で霞んでいるか分からない目を擦り、必死に足を動
かす。
吊り橋は、鉄線などで補助されていないと思うと怖いけれど、も
う全部怖いからどうでもいい。遥か下を轟々と流れる川は見ない、
雨風で激しく揺れてもそれは私が死にかけてるから視界が揺れてる
と思えば、まあ、なんとかなる。
511
﹁勝者も敗者もなくして、三百年流れ続けた血が許すとでも思って
いるのか! 子どもの遊戯ではないのだぞ! あのままミガンダが
落ちてさえいれば、明確な形での終戦が叶ったのだ! 貴様らも半
ば諦めていただろう! それを貴様らは、あの女を引き渡せぬと死
に物狂いで抗い始め、たった一年の結果がこの様だ!﹂
﹁戦争に疲れ切り、終戦を願ったのは民意だ! そして俺達が変わ
ったのは、俺達がそう願ったからだ!﹂
﹁敗者が存在せぬ状態で、戦争の責を誰も取らず、取りたがらず!
そうして全ての咎を押し付けられた戦士達の屈辱と無念をどうし
て許せる!﹂
﹁だからといって、カズキに責を取らせる事こそ咎だろう! 俺達
の問題がどう動こうと、それは俺達が負うべきだ!﹂
水が轟く音も、叩きつける雨の音も凄まじい音量なのに、二人の
怒声は何にも遮られず私に届く。だから、聞こえてしまった。
﹁貴様はあの女を強みとするが、私からすればただの弱みだぞ、ル
ーナ・ホーネルト!﹂
ヌアブロウの声が変わり、それまで一心に進んでいたアリスまで
もが弾かれたように振り向いた。一拍遅れて、私も振り向く。
この時見た光景を、私は一生忘れない。
赤い雨が降る。
灰色の世界の中で唯一色づく赤を纏い、ルーナの身体が頽れてい
く。
﹁あやつらを逃がすために受けていた分が致命傷だったな﹂
512
砕けた剣を蹴り飛ばし、ヌアブロウが歩を進める。振り下ろされ
たヌアブロウの剣は、受けた剣ごとルーナの身体を切り裂いた。
[ルー、ナ]
半分以上渡った吊り橋を無意識に戻りかけた私をアリスが止める。
でも、何で止められているのか分からない。アリスに掴まれている
から進めないのに、何で進めないのかも分からない。戻るじゃない、
進むだ。いま、私の頭の中にはルーナの元に行くことが進行方向に
なっている。
﹁っ、カズキ!﹂
[ルーナ、待っ、て、ルーナ、ルーナ、が]
﹁カズキ!﹂
私を引きずって連れていこうとするアリスのほうが泣きそうだ。
私は、なんでだろう。涙が出ない。さっきあれほど雨で誤魔化そう
としていた涙がぴたりと止まってしまった。
倒れたまま赤を広げていくルーナに固定された視界が黒い影に遮
られる。ゆっくりと、まるで吸い寄せられるように視線が上がって
いった。ルーナの血で赤く染まった剣は、雨で洗い流されていく。
けれど、事実は変わらない。この男は、ルーナを斬ったのだ。
ルーナを斬った剣が頭上高くに掲げられ、ぴたりと動きを止めた。
恐怖は湧かない。怒りも、憎悪すらも。
ただ、つらい。
ずるりと座り込んだ私の目には、滴り落ちてくる赤しか見えない。
何かが切れたのが分かる。どんなに深く吸っても息が上手く出来な
い。
もう歩けない。もう進めない。しんどい。つらい。苦しい。痛い、
苦しい、悲しい。その全てが飽和した。
﹁貴様の同胞が齎した兵器は、やがて世界を飲み込むだろう。戦争
の形が変わる。訓練など受けたこともない人間が多数を殺せる兵器
が広まれば、最早騎士も軍士も必要なくなる。我らが愛した国が変
わろうというのなら、せめて引導は我らが下す。だが、せめて、世
513
界を変えた責を負え、黒曜!﹂
何がいけなかったのだろう。
この世界に来たこと? でも、だったら、どうしたらよかったのだ。私も、きっともう一
人の人も、自分の意思で来たわけじゃない。どうやったら行けるの
か、どうやったら帰れるのかそんなの分からないのに放り出された。
そんな中で出会ってくれた人達と日々を過ごしたことは、そんなに
も、誰かから憎悪を生み出すことだったのだろうか。
その結果が皆を失うことだったのだとすれば、私はどうしたらいい
のだろう。
恨めばいいのか。呪えばいいのか。
でも、何を?
世界を、人を、時代を、憎めばいいのだろうか。こうやって恨ま
れるように、私達をこの世界に放り込んだ神様を、今、ルーナを、
アリスを傷つけたこの人を、呪えばいいというのだろうか。
ああ、でも、それも、嫌だな。
﹁やめてください、隊長! やめろ︱︱︱︱!﹂
私は前が見えないほどの雨と、振り下ろされる剣だけを見ていた。
赤を撒き散らしながら私の上に剣が落ちる寸前、ヌアブロウは両
目を見開いて身体を捻った。しかし、そこには誰もいない。
514
﹁俺が、カズキを、殺させるわけが、ないだろうっ⋮⋮!﹂
吊り橋の太いロープを利用して跳躍したルーナは、ヌアブロウの
肩を飛び越え様に踵で顎を蹴りあげる。そのままの勢いで腕を挟み、
無理やり剣筋をずらした。向きを変えた剣の切っ先が首を掠める。
でも、痛くない。血が出ているような気もするけれど、雨が強すぎ
るのと、元から流し過ぎていた血で身体は既に冷え切っている。
﹁ぐっ﹂
呻き声を上げて膝をついたヌアブロウに背を向け、ルーナは私を
抱えて走りだした。倒れていたアリスの腕も掴み、そのまま吊り橋
の端まで走り、私達を放り投げる。
乱暴な動作で私の顔を傾けて首を確認する。あからさまに安堵を
浮かべたと思ったら、血塗れの両手で私の頬を掴み、強く口づけた。
﹁愛してる、カズキ。お前に会えたその事実だけで、俺は一生、幸
福でいられる﹂
ルーナが笑った。私みたいに笑って誤魔化せの曖昧な笑顔じゃな
くて、初めて笑ってくれた時みたいに、ふわりと、幸せを形にした
ような笑顔で。
﹁ルー、ナ⋮⋮?﹂
﹁好きだよ、カズキ。みんな今のカズキを愛した。忘れるな。お前
だから、俺達の出会いは意味を持ったんだ﹂
痛みを感じないのに、血の味だけはやけに鮮明だ。
心臓が、うるさい。頭の中に心臓があるみたいに、どくんどくん
と、真っ赤な何かが鳴り響く。ルーナを掴もうともがくように伸ば
した手は、何も掴めなかった。ルーナが私を突き飛ばしたのだ。私
の下敷きになったアリスが呻き声を上げる。
﹁アリスローク、カズキを頼んだ﹂
﹁よせ⋮⋮やめろ、ルーナ!﹂
ルーナは、それにも笑うだけで、吊り橋に戻ってしまった。
515
頭を一振りしてヌアブロウが立ち上がる。
﹁⋮⋮よくぞ動いた﹂
﹁俺は、騎士だからな。騎士は、守るものだ。それに、俺はカズキ
の男だから、自分の女に狼藉働く不埒者一人排除できないで、どう
する﹂
ルーナだってもう限界だ。遠目でも肩で息をしているのが見える。
ルーナが触れたところ全部が真っ赤になっているのを見ても、どれ
だけ出血しているのか分かった。
﹁それで、これからどうするつもりだ。若くとも本当の戦場を知る
者である以上、あまり無様な真似はしないでもらいたいものだが﹂
﹁俺はカズキを守れるのなら、無様だろうが、本望だ!﹂
剣を持っていないルーナを押し潰すような勢いで剣が振り下ろさ
れる。ルーナは揺れるようにそれを避けたが、剣は吊り橋に触れる
前に斜めに振り上げられた。どこかに当たったのか、また赤が散る。
ルーナの身体が倒れていく。
雨は今も降りやまない。なのに、ルーナが笑ったのが見えた。
狭い吊り橋の上でヌアブロウが動けばそれだけバランスが悪くな
る。大きく揺れる吊り橋の上で、ルーナは剣を握ったヌアブロウの
腕にするりと身体を絡めた。
﹁でかい図体が、致命傷だったな、ヌアブロウ!﹂
足も使って身体を絡めたルーナは、揺れる吊り橋の勢いを利用し
て、そのまま宙に躍り出る。
そして、灰色の世界に全ては飲み込まれた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ルーナ?﹂
516
泥で滑る地面を掴み、地面に線を描きながら端に這い寄る。爪の
間に泥が詰まり、何か棘まで刺さった。
﹁ルーナ﹂
背高の細い草を掴んで身体を寄せ、切り立った下を覗きこむ。見
ただけで足が竦む高さの下では、茶色い水が渦を巻くように流れて
いる。水が岩に叩きつけられて弾ける様まで見えるのに、ルーナが
見えない。
﹁ルーナ﹂
音が、聞こえない。
﹁ルーナ﹂
色が消えた。
﹁ルーナ﹂
痛みも熱も感じない。
﹁ルーナ﹂
世界が見えない。
﹁ルーナ﹂
もう、何も、分からない。
517
39.神様、ちょっと色々変わりません
[名前! 私の名前は一樹です! 一樹! 名前!]
﹁⋮⋮⋮⋮うるさい。怒鳴っても何を言っているのか分からないの
は変わらない﹂
[須山一樹です! 名前、自己紹介! 私の名前は一樹です! 一
樹です、名前、名前!]
﹁⋮⋮⋮⋮名乗りを上げているぞ?﹂
﹁お、そうか! そんならこっちも名乗らねぇとな! よお、ナマ
エ! 俺はティエンチェンだ! よろしくな、ナマエ!﹂
[あれぇ!?]
﹁支度は済んだか。朝食に行く。ついて来い﹂
﹁もぎゃ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮今日も、凄い、寝癖だな﹂
﹁ぷも?﹂
﹁寝癖だ﹂
﹁べるんちょ!﹂
﹁駄目だ。全く通じない﹂
﹁か、噛みませんか?﹂
[子どもだぁ、可愛いですね! 私の名前は一樹でびゅっ⋮⋮⋮⋮]
﹁わあ! 噛んだ!﹂
﹁⋮⋮自分の舌をな﹂
518
﹁⋮⋮⋮⋮何やってるんだ?﹂
﹁み⋮⋮み、みなのものじょ、お、お、おまへ? そりょぬあうじ
ょりんぱ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮皆に似合うって言われたのか?﹂
﹁もぎゃ!﹂
﹁それは鍋だ、カズキ﹂
﹁べるんちょ!﹂
﹁カズキの生まれ育った故国なるものには⋮⋮﹂
﹁ぬう﹂
﹁育毛に優れた薬剤などが存在しうるものなのぞ?﹂
なにゆえ
﹁ぬぞ⋮⋮﹂
﹁何故に、手前の毛髪はこのような時代からの脱却が叶わぬゆえか
⋮⋮﹂
﹁ぬ︱︱⋮⋮たふほぉ﹂
﹁手前は隊長である﹂
﹁たうお︱︱﹂
﹁た・い・ちょ・う﹂
﹁た・ひ・ちょ・お。[ごめんなさい。なんか深刻な事しか分かり
ませんでした。最初から全部、ゆっくり、単語でお願いします]﹂
﹁すまぬ。何事か深刻な事柄しか理解不能だった故に、開始より全
て、単語で懇願申し上げるぞ。しばし待機ぞ。ルーナ! 助力願う
ぞ︱︱!﹂
﹁カズキさん、カズキさん、カズキさん! あのですね、お花っ⋮
⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どのような⋮⋮⋮⋮⋮⋮転倒なされたぞろりぞ﹂
﹁お花⋮⋮せっかく、きれいな、花、カズキさんにっ⋮⋮⋮⋮﹂
519
﹁泣く!? 多大に泣く!? あ、ありがとう! 美味でしたぞ!﹂
﹁食べたんですか!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何度も言うけど、嬉しい、だからな、カズキ﹂
﹁カズキ⋮⋮泣いてるのか?﹂
[⋮⋮⋮⋮泣いてないよ]
﹁カズキ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮私なるは、何時如何なる状況下においても元気溌剌今日も快
便だぜぞろり!﹂
﹁カズキの前で話す言葉はあれほど気をつけろって言っただろ、テ
ィエン︱︱!﹂
﹁うあああああああああ!﹂
﹁な、泣くぞ! 泣くぞ否ぞ、懇願じょ!﹂
﹁うああああああああああああああああ!﹂
[あいたぁ! 石ぃ! 泣かないで泣かないで! いい子だから⋮
⋮はい、ねんね︱︱、ねんねこねんね︱︱って、あいたぁ! そこ
で噛むの!? 血、血が出て⋮⋮]
﹁うああああああああああああああああああああああああああああ
あ!﹂
[大丈夫、出てない! 全然欠片も出てません! ほ、ほら、君の
赤毛ちゃんが血に見えただけだよ︱︱? あ、駄目!? ちょ、ち
ょっと待って! すぐに傷隠すから⋮⋮⋮⋮はい元気!]
﹁うああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああ!﹂
[駄目だったぁあああああああああああああああ!]
520
﹁ご、ごめんぞろり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮黙れ﹂
﹁閲覧忘却奮闘するぞろ故に! 兎パンツ!﹂
﹁黙れぇ︱︱︱︱!﹂
[ぎゃあ! また泣かせた! ごめんってばぁああああ!]
[ねえねえ、ルーナ]
﹁何?﹂
[そういえば最近、俺はカズキが分からない! って怒らないね]
﹁ああ、いや⋮⋮まあ、冷静になって考えてみれば、いつも分から
ないなって思って﹂
[成程!]
﹁カズキ﹂
﹁カズキ﹂
﹁カズキ﹂
﹁好きだよ﹂
﹁好きだよ、カズキ﹂
521
[ルーナ⋮⋮⋮⋮]
目蓋を開けると、いろんなものでばりばりになっていてただ開け
るだけで少し苦労する。
知らない天井をぼんやりと見て、ちょっと首を倒すと開け放たれ
た窓が見えた。綺麗な白いレースのカーテンがふわりと揺れた先に
は、透き通った青い空がある。そして太陽に照らされて輝く緑の絨
毯が靡く。まるでそこから溢れるような心地よい風が部屋に入って
きていた。
出窓に飾られた花のいい匂いも運ばれて私に届く。
なんだろう。まるで天国だ。
だって、目蓋を閉じた下にあるのは灰色の⋮⋮⋮⋮。
灰と赤に塗れた世界が目蓋の裏で点滅して、思わず飛び起きる。
[っ、あ⋮⋮!]
痛い。全部痛い。痛くないところなんてない。
眼球が押し潰されているかのようにずきずきと痛み、頭は脳から
揺れている。首で引き攣っているのはあの時の傷口だろうか、でも、
耳の下から流れるような線が突っ張っているのはリンパ線かもしれ
ない。
身体を折り曲げ、膝と一緒にシーツを握り込んで痛みに耐える。
痛みの全部が繋がっているような、電気にも似た激痛が全身を走っ
ていくのに、抜けていく先がない。ずっとぐるぐる回っている。
視界がぐらぐら揺れて焦点を絞れない。世界が回る。灰と赤が、
青と緑が交互に点滅して目を閉じることも叶わない。目を見開いて
いるのに、色が交互に点滅する。
雨の音が止まない。頭の中でマイクを近づけた時に鳴る音が脳を
圧迫するように響いているのに、雨が止まないのだ。
[ルーナっ⋮⋮⋮⋮!]
焼きついた記憶が一気に目の裏に蘇った。
522
笑うルーナが消える。どこにもいない。叩きつける雨の感覚も、
小石や草が混じった泥を握り締める感触もはっきり残っている。夢
じゃない。夢なんかじゃなかった。
膝と胸元を握り締めて身体を折った私の横に誰かがしゃがみこん
だ。そして、固く握りしめている私の手に温かい手が重なった。
﹁いけませんよ、目覚めたばかりの身体にそんな苦行を強いては﹂
知らない声だと分かっているのに、私はその手に爪を立てるよう
に握りしめる。
[ルー、ナ⋮⋮ルーナを、ルーナを探してください! お願いしま
す! お願い、お願いします、ルーナを、ルーナを助けてください
! お願いします、お願いだから、ルーナをっ⋮⋮!]
ルーナを探して。お願いだから、何でもするから、ルーナを助け
て。
知らない人にこんなことを言うなんて間違ってる。助けてもらっ
たのにお礼より先に頼みごとなんておかしいと分かってるけど止ま
らない。
私がしがみついている人は、そんな私を怒ったりはせず、ただ落
ち着かせようとしてくる。なのに私は、やんわりと身体をベッドに
倒そうとしてくる手を煩わしく感じてしまう。
探してくれないのなら、助けてくれないのなら、自分で行く。な
のにどうして止めるのだ。邪魔しないで。お願いだから邪魔しない
で。離せ。邪魔だ!
勝手な都合で、助けてくれた相手を疎ましく思う自分の醜さに吐
き気がする。醜さはそのまま胸の中で蟠り、塊となって伸し掛かっ
てきた。
[う⋮⋮⋮⋮]
咄嗟に口元を覆った両手を取られて、下に器が差し出される。
﹁構わないから吐いてしまいなさい。大丈夫ですから﹂
523
背を擦られた瞬間戻してしまう。といっても、胃液が胃と喉を焼
きながら出てくるだけだ。なのに吐き気が止まらない。もう何も出
てこないのに何度も何度もえづく私に、その手は優しかった。
﹁大丈夫ですよ。何せ僕がいますからね。僕はとても優秀なんです。
だから、大丈夫ですよ﹂
大丈夫、大丈夫。
低く静かな声はそう続ける。その声に導かれるように焦点が定ま
り、灰と赤が遠ざかった。
私の呼吸が落ち着いてきた頃、何か飲み物を渡された。口の中は
張り付きそうなほど乾いているのに粘ついていて、素直に受け取る。
﹁少しずつ飲んでください﹂
苦いのは何か入っているからだろうけど、だからといって今は水
分をとれることがありがたくて手放せない。少し気を抜けば変なと
ころに入り込んで、コップで溺れそうになる。飲むという動作を忘
れてしまったみたいに、いろいろ鈍っていた。
﹁ああ、素晴らしい! 飲みきりましたね!﹂
[ありがとう、ございます⋮⋮⋮⋮ごめんなさい]
張り付いていた喉がなんとか動いて声が出る。ようやく顔を上げ
てそこにいる人を見ることが出来た。紫色の長い髪をゆるく編んだ
男の人だ。ちょっと形が珍しいけれど白衣を着てるからお医者さん
なのだろう。
さっき感情が爆発したからだろうか、急速に色んなものが鈍くな
っていく。何かが伸し掛かったみたいに身体が重い。
﹁ルーナ・ホーネルトなら探しているが見つからん﹂
他の人がいるとは思わなかった。驚いたけれど、あまり感情が動
かない。
緩慢な動作で俯き気味に声の方向を見る。髪が垂れて視界を邪魔
524
するけれど、払う気力も沸かない。ただ、邪魔なだなとぼんやり思
うだけだ。
開け放たれていた扉の入り口に凭れて立っているのは、ぼさりと
した桃色の髪を一纏めにした男の人だった。紫の人と同じくらいの
年齢に見える。三十歳前後だろうか。桃色の人は服のボタンは開け
て、上着は羽織っているだけだったので、なんだか気だるげに見え
た。
﹁アリスロークとお前を回収したのが八日前、アリスロークが意識
を取り戻したのが五日前だが、一応他にもいないか捜索は八日前か
らしていたが、見つからん。お前を黒曜と証言させるなら、国民に
も顔が割れているあいつがいるのが一番いいんだがな﹂
淡々と、ぼさぼさの頭を掻きながら歩いてくる人を見つめる。
﹁俺は東の守護伯だ﹂
見ようと思って見ているわけじゃない。ただ、歩いてくるから見て
しまうだけだ。
﹁城では偽黒が黒曜の名乗りを上げ、王族及び反逆に与しなかった
貴族、騎士、軍士が偽の黒曜を仕立て上げ、国民を欺き、妙な兵器
を開発した挙句ばれそうになって国を焼いたとか、ある事ない事吹
聴中だ。ガリザザは、それらを見かねて黒曜に手を貸したとかなん
とか抜かしてる。賞金首となった面々は国中に散った。東西南北の
守護伯が奴らを受け入れた事で、中央からは守護伯全てすげ替えの
辞令が下ったが、俺達はこれも拒否した。よって現在、俺たち元守
護伯及び逃げてきた面子は全部反乱軍扱いだ﹂
淡々と、流れるように告げられる文章が頭を通り抜けていく。
﹁それならそれで構わんと、城にいる連中に宣戦布告を出した。こ
れが三日前。生死を彷徨っていたお前の容態が安定したからだ。こ
ちら側には本物の黒曜がいると宣言も済んでいる﹂
﹁カイリ、彼女はまだ目覚めたばかりなんですよ。時期尚早です﹂
﹁今言おうが明日言おうが変わらん﹂
カイリと呼ばれた人は、頭が重くてだんだん傾いていく私の顎を
525
掴んで上げさせた。三白眼というのだろうか。とても目つきが悪い。
そんな人にこんな間近で睨むように見下ろされているのに全然怖く
ない。
﹁黒曜、俺達はお前を掲げて国を取り戻す。これは既に決定事項で
あり、お前が拒絶しようが﹂
﹁カイリ! 無駄に怖がらせる必要はないでしょう!﹂
﹁最初に言っておいた方が面倒がなくていいだろう。ルーナ・ホー
ネルトの生存は難しいと判断したし、これを黒曜だと証言できる面
子は捕縛された。それでも、民意は必要だ。俺達にはこいつが必要
なんだ﹂
﹁カイリ!﹂
紫の人が彼を引き離してくれたおかげで手が離れて自由になる。
なったところで、意味なんてないけれど。
重たい頭をのそりと上げると、うまく定位置を定められなくて後
ろに行き過ぎた。仰け反って天井を見上げて、また下を向く。落ち
てきた髪の色が見慣れた黒に戻っていることにようやく気付いた。
エレナさんが染めてくれて、ルーナが洗ってくれた髪だったのに
なとぼんやり思う。
﹁黒曜。お前に決定権はない。お前がこの時期に再び現れたのは、
俺達にとっては僥倖だったんだ﹂
好きに、すればいい。それに従うかどうかは別だけど、そうした
いなら勝手にすればいい。もうどうでもいい。だって、私が嫌だと
言ってもそうするのだろう。だって、逃げても、逃げなくても、み
んないなくなったじゃないか。どうすればよかったのか、何をすれ
ば正しかったのか。何が間違っていて、どうしたらいけなかったの
か。分からない。たぶん、誰にも分からない。だったら正解なんて
ない。正解なんてないのだから、間違えても誰にも責める権利なん
てない。
私は言い訳を探しているのだろうか。それとも逃げ道か。そのど
526
れも違う気がする。ただ、思ったことが頭の中で垂れ流しになって
いるだけだ。思考なんてしていない。
なんだか何かが麻痺してしまって動かない。乾燥してるみたいな
のに硬く引き攣って、心が歪にしか動かないのだ。何かが軋む。軋
んで割れたところからどろりとしたものが滲みだしてくる。どろど
ろと心を覆っていくそれは、触れたところを焼いていくのに熱くな
い。痺れるように、冷たくて重い。
失うのは分かっていた。それが死であれ、世界を違える別離であ
れ、いつかは必ず失うのだと。だから大切に失いたかった。けれど、
失うとはこういう事だ。捥ぎ取られるように理不尽に、暴力的に奪
い取られる。そうした相手がいることが、苦しい。誰を恨めばいい
のか分からなければ、ただ喪失を嘆けた。けれど、憎しみの対象が
いるとどうしたって頭を過る。
憎めば楽になるのだろうか。何かを呪えば、憎めば、もう苦しく
ないのだろうか。憎むことが苦しかった。嫌うことが嫌だった。で
も、たぶん、変わればもう何も痛くない。
けれど、ああ、でも。
﹃それでも、俺は︱︱︱︱⋮⋮﹄
ルーナはあの時、何と言った?
﹁カズキ!﹂
開け放されていた入口の枠を掴み、倒れそうな身体をようよう支
えて現れたのはアリスだった。ズボンとシャツだけの簡単な服装だ。
白いシャツの下には包帯が透けて見える。
ああ、無事だったんだ。生きてる。よかった。
ほっとした自分に少し安心する。そう思えたことに安堵した。
527
けれど表情は動かない。髪の毛の間から見えるアリスが眉間に皺
を寄せたのが分かる。
﹁カズキ﹂
苦さを滲ませた声を遮って、私は笑う。
[ねえ、アリス。私、どうしたらいい?]
こんなこと聞いたら駄目だと分かっている。こうしろと言われて
も、結局自分が納得できなきゃ頑張れないし、その結果何かあった
時、誰かの所為に出来てしまう。
そして、そうと分かっていて、分からないように日本語で言った
私は本当に卑怯だ。
やっと表情が動いたのに、私が浮かべられたのは自嘲的な笑みだ
った。酷い顔をしていると自覚しているので見られたくなかったの
と、溢れた涙を隠して、両手で顔を覆って俯く。隠したって消えた
りしないのに、隠したことで安心する私はずるい。
泣きたくないよ、ルーナ。ルーナがいないのに、泣きたくない。
泣いていいよと言ってくれたルーナがいない場所で泣きたくなんて
ないのに。
顔を上げられない私の身体が揺れた。誰かが目の前に座ったのだ。
ベッドの上に直接胡坐をかいて座ったのか、アリスの膝が見える。
﹁変わるな﹂
私が何を言ったのか分からなかったはずのアリスは、きっぱりと
言い切った。俯く私には触らない。けれどどかないで続ける。
﹁ルーナも、母上も、ガルディグアルディアも、誰も彼もが今のお
前を好んだ。それを、変わってしまうな。こんなこと私に言う権利
はないと重々承知だ。それでも、お前を好きだと言った人間の所為
で、お前が変わってしまうな!﹂
528
﹃それでも俺は、カズキを待つよ﹄
細い枯れ木が弾ける音と雨音の中で、ルーナは静かにそう言った。
﹃俺の手でカズキを向こうの世界に帰して、手を放したのだとして
も⋮⋮また、十年でも、二十年でも⋮⋮俺は一生、ここでカズキを
待ってるよ﹄
失いたくなかった。誰も、彼もを、失ってしまいたくなんてない。
けれど、いつかは失うのだろう。それは不条理で暴力的なほどつら
いものかもしれない。残酷で、痛みしか残らないかもしれない。
それでも私は、あの人達と出会いたかった。
もしもやり直せるのだとしても、私は同じ道を選ぶだろう。私は
皆と出会いたい。出会いたい人と出会えた。だから、きっと、世界
は私にうんと優しかったのだ。
仮令どれだけつらくても、仮令どれだけ厳しくても、仮令どれだ
け悲しくても、私はあの人達と出会いたかった。出会いたい人と出
会えたことは、きっと、何より幸せなことだ。
ごめん、ごめん、ルーナ。
ずっと待っていてくれたのに、私はほんの数日で諦めるところだ
った。
自分の涙で溺れそうになる。でも、顔は上げられない。嗚咽も必
死に押し殺す。早く泣きやもう。そして今度こそ、泣かずにいるか
529
ら。
変わらないでいよう。少なくとも、別れでなんて変わってしまわ
ないでいよう。
変わるのなら、出会いで変わりたい。誰かと出会えたことで変わ
れる自分でいよう。そうでありたい。
何も出来ない私が出来ることは逃げることだけで、だけどそれさ
えも出来なかった私に出来ることは、変わらないことだけなのかも
しれない。
成長しないということじゃない。成長は人が生きる限り、ずっと
続く宿題だから放棄しない。けれど、変わらないでいよう。私は私
のまま、笑ってる。馬鹿みたいに笑ってるよ、ルーナ。
今度は私が待つ番だ。
待つよ。十年でも、二十年でも、ルーナと会えるまでずっと、笑
ってる。ルーナが好きだと言ってくれた馬鹿みたいに大口開けた顔
で笑ってるよ。同じ世界にいるから、ちょっと待ちきれなくて探し
に行っちゃうだろうけど、待つから。
待って、探して、そうして会えたら、馬鹿みたいに大泣きしよう。
だから早く泣きやもう。自分の涙で溺れてしまわない内に早く泣き
やんで。
そしたらもう泣かないで、アリスに、ありがとうって笑うのだか
ら。
530
40.神様、色々ちょっとシュールです
結局、あの後少しして、私は眠ってしまった。どうやらあの時渡
された水に何か鎮静剤的なものが入っていたようだ。
ふっと目が覚めて、見慣れない天井を見て一瞬パニックになりか
ける。だけど昨日の記憶が戻ってきて、長く息を吐いてやり過ごす。
あちこち痛いけれど、動こうと思えれば動けるし、実際昨日飛び起
きたわけだから大丈夫だろうと、そろーりと身体を横にしてから起
き上がる。流石に仰向いたまま起き上がる勇気はない。それくらい
昨日あれは痛かった。
窓はカーテンが閉まっていたので外が見えない。スリッパが見つ
けられず、まあいいかと裸足で降りたら、がくんと膝が抜けた。足
腰が萎えているのだ。とりあえずベッドに手をかけて立ち上がる。
ぶるぶる震える手足に驚く。歩かないと、若くてもすぐに萎えるん
だなと知った。何気なく下を向けば、寝間着の隙間で揺れる二本の
首飾りと自分の身体が見える。⋮⋮⋮⋮胸が、消えた。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮いっぱいご飯を食べよう。後、肩が治った
らエクササイズだ。両手を胸の前に合わせて押し合わせるあれをし
よう。痩せるのとやつれるのって違うんだなとしみじみ感じた。
ルーナに心配をかけてしまうようなやつれ方は駄目だ。骸骨やゾ
ンビみたいなのが迎えに来たら怖い。ルーナと会うときは、元気で
つやっつやな笑顔で行くのだから。
カーテンを引けば、薄紫色と赤色と藍色が入り交じった空が広が
っている。夜明け前なのだ。
凄く、綺麗だ。昔、当直だったルーナに寄り添って一緒に見た空
531
と似ている。寒かったけれど、一緒に毛布をかぶって星を教えても
らった。そして、明けた空にちょっと泣いた覚えがある。遮蔽物も
ないし、空を覆う汚れもないのでとても綺麗だけど、それでも空は
空で変わらないんだと思ったら、なんだか悲しくもないのに泣けて
しまって、ルーナを驚かせてしまった。
首飾りを二つ一緒に握りしめる。ついでに、残った手で頬を抓り
あげた。
[おはよう。ルーナ、リリィ]
もう泣かないと決めたのだ。ちゃんと笑っていようと決めたのだ
から、一人ででも泣かない。
窓ガラスに向けてにっと笑ったら、思ったより阿呆面だった。ま
あいいや。
窓を開けようかどうしようかと悩んで、結局開けてしまう。昨日
も感じたはずなのに、なんだか久しぶりに思える外の空気だ。思い
っきり吸ったらちょっと咽てしまったけれど、おおむね満足である。
ぼんやり外の景色を見ていると、後ろで音がした。そして何かが
割れる音が続く。
慌てて振り向くと、この世界の女の子にしては短めの、肩を少し
超えた長さの緑髪を緩く巻いて、薄ら化粧をした可愛い女の子が驚
いた顔で立っていた。扉を開けた時に落としたのか、足元には粉々
になった水差しとコップが盆の上で水と混ざっている。
誰だろう。名前を聞くならまずは自分から! いや、それよりも
朝の挨拶だろうかと、いやいや怪我の有無が先だ! と、いつもよ
り数段鈍っている頭で考えている間にタックルされた。可愛いワン
ピース姿なのに思ったより早い。そして痛い。
﹁ぐぇふ!﹂
目の前がちかちかする。
532
﹁だ、駄目! 死んだら駄目! 生きていたらきっといいことある
から!﹂
﹁も、問題否ぞ!﹂
﹁死なないで︱︱!﹂
﹁死なないじょ︱︱!﹂
朝焼けを眺めていたら自殺を心配されてしまった。
お腹辺りにぎゅうぎゅう抱きつく女の子に窓から引きずり倒され
る。星、再び。痛かった。
日本語七割、こっちの言葉三割でなんとか自殺をしようとしてい
たわけじゃないと説得した。慌てすぎて日本語成分が多めになって
しまったのは申し訳ない。
﹁⋮⋮⋮⋮本当に、死のうとしたんじゃない?﹂
﹁はい!﹂
﹁ごめんなさい、早とちりしちゃった﹂
てへっと傾げられた小首が可愛い。お尻を強打したけど、許す。
寧ろ心配かけて申し訳ない。そして、心配してくれてありがとう。
彼女は、あっと声を上げて私の上からどき、ぱたぱたと扉の前に
走っていく。スカートを襞を作るように片手で持って、割れた物の
後片付けを始める。珍しいスカートの寄せ方だ。私もそうだけど、
お尻の下にちゃっと引き入れて床につかないようにする人が多い気
がする。
﹁手を貸そうぞ﹂
﹁大丈夫だよ。ちょっと待っててね﹂
手際よく片付け終わった彼女はそれをどこかに置いてきて、また
別の水差しを持って部屋に戻ってきた。
﹁私の名前はユリン。十五歳だよ﹂
﹁私なるはカズキ。齢十九だじょ﹂
﹁うん、聞いてる。はい、お水﹂
533
お礼を言って注いでもらった水を受け取る。今度は何も入ってい
ないみたいで、真水の味がした。
﹁私があなたのお世話を言い付かってるの。何か用事ある? 食事
はもうちょっと待っててね。といっても、まだ具なしスープだけど﹂
具なしスープ⋮⋮切ない。早くおかゆになりたいものだ。あ、で
もおかゆないんだ。パン粥が楽しみだ。
﹁あの﹂
﹁何? 何でも言って!﹂
きらきらした目で詰め寄ってくるユリンは可愛い。同年代ではな
いけれど、友達になれたらいいな。
でも、まずはお願いしたいことがある。
﹁湯浴みを行いたい﹂
﹁あ、うん。そう言うかなって思って、昨日のうちに先生から確認
取っといたの。湯を浴びたり浸かったりは、まだちょっとだけど、
身体拭いて髪洗うくらいならいいって。よかったね﹂
髪はべたべたするし、身体も髪程じゃないけどべたつくから、さ
っぱりできるなら嬉しい。
﹁早朝より面倒をかけるして申し訳ございません﹂
頭を下げると、ユリンは私の肩をポンッと叩いた。
﹁女の子だもんね! それに、ずっとお世話できるの待ってたの。
だから嬉しい。何でも言ってね!﹂
いい子だ。どうしよう、いい子過ぎる。
ぱたぱたと走り去ったユリンの背中は心なしかうきうきしている
ように見えた。
昨日、カイリと呼ばれていた三白眼の桃色守護伯に散々怖い事を
言われたけれど、そんなこと忘れてしまいそうになる。
ユリンはすぐにお湯の入った桶を二つと、ふわふわとしたタオル
も二つ持ってきてくれた。
﹁髪洗う量のお湯はまだ沸いてないから、とりあえずこれで身体拭
いててね﹂
534
﹁ありがとう﹂
﹁私、お湯見てくるから⋮⋮⋮⋮あ、手伝いいるかな? ⋮⋮⋮⋮
どうしよう﹂
﹁問題否ぞ。ありがとう﹂
﹁そっか! じゃあ行ってくる!﹂
ぱっと笑って駆けだそうとした身体がぴたりと止まった。なんだ
ろうと思って見ていると、ふわりと裾を広げて振り向き嬉しそうに
手を振る。その笑顔につられて笑って手を振ると、もっと嬉しそう
になってくれた。やっぱり笑顔っていいなぁと再確認する。何もし
ていないのに、さっきのユリンを思い出すと自然に笑みが零れてき
た。
椅子に座って長い寝間着の上半身だけ紐を外して脱ぐ。タオルを
絞って顔から順番に拭いていく。あんまり強く擦って垢がボロボロ
出てきたらショックなので、加減しながらだ。肩には包帯が巻かれ
ている。たぶん、この下にはルーナが縫ってくれた傷口があるはず
だ。他にもちょくちょく傷があったんだろうなと思う跡があるけれ
ど、これらは治りかけだった。首にも包帯が巻かれているけど、さ
すがにここまでは見えない。
ちょっと両手を上げてみると、肋骨が浮き出ていた。強制ダイエ
ット成功である。憧れのボンキュボンまでの道のりは遥か遠い。
ちょっと腕を上げただけで疲れたのでさっさと下ろす。筋トレが
必要だ。
そういえば背中はどうなってるんだろうと身体を捻ると、背後で
大きな音がした。
﹁おい、ユリン! お前世話係引き受けたってほんと⋮⋮か⋮⋮よ
⋮⋮⋮⋮﹂
何の前触れもなく部屋の扉が開いたのだ。千客万来である。
535
緑髪を後ろで一つに纏めた男の子はユリンそっくりの顔で、飛び
込んできた体勢のまま固まった。勿論私も固まった。お揃いである。
この世界に戻ってきて、大体一か月。鍵をかける必要がないか、
鍵をかけられるか、両極端しか経験していなかった私は、湯浴みを
する時は部屋の鍵をかけるという、極々当たり前のことに頭が回ら
なかった。
沈黙が続く。少年に向けていた背中に髪が一房を落ちたのを皮切
りに、お互いの口が大きく開く。
﹁ううわぁあああああああああ!?﹂
﹁ぶわぁああああああああああ!?﹂
お互いの叫び声で我に返り、反射的にタオルで胸を隠す。ちなみ
に、﹁ぶ﹂から始まる悲鳴が私のだ。
﹁何があった!? カズ、キっ!?﹂
息が続く限り叫んでいたら、隣から扉を蹴り開けるような音がし
て、寝間着のまま剣を掴んだアリスが飛び込んできた、瞬間に回れ
右した。床から煙が出そうなほど見事なUターンだ。しかもUター
ンしながら男の子の首根っこを掴んで廊下に放り出す。凄技だ、匠
の技だ。
﹁鍵をかけろ、たわけ︱︱!﹂
[お隣だったんだね、アリスちゃ︱︱ん!?]
﹁うわぁああああああああああああ!﹂
こっちの扉まで壊れそうな音で叩きつけて閉められても、全員が
パニックになった私達の叫び声は続いた。
そして、剣を構えた人達がたくさん駆けつけてくる事態となって
しまったのである。部屋に踏み込もうとするのを止めるのが大変だ
った。アリスが。
536
﹁女性の部屋にノックもなしで飛び込むなんてどういうつもりよ!﹂
﹁俺が女嫌いだって知ってるだろ! なのになんでこの女の世話係
引き受けるんだよ!﹂
﹁私達以外誰がいるのよ!﹂
﹁っだぁ! だからその喋り方やめろっつってんだろ、くそ兄貴!﹂
﹁お前の所為だろうが、くそ弟! お前が女の子にそういう態度取
りまくるから俺まで一緒くたに女嫌いって思われるわ、フラれるわ、
お前の分の苦情は全部俺にくるわ! 女の子達に集団で責められる
苦痛がお前に分かるか!? 俺は普通に女の子好きだってぇの! お前が態度改めるまで俺はずっとこれでいくからな!﹂
ユリンとユアンは双子の男の子だった。女の子じゃなかったらし
い。どうりでスカートの寄せ方がぎこちないと思った。
双子はそっくりな顔で吠え合っているようだ。そして、ユリンに
言いたい。たぶん寝ていると思ったからだろうけど、君もノックな
かったよね!
そして、実はもう一組、双子がいた。
﹁ほら、カイリ! 謝りなさい﹂
﹁後でぎゃあぎゃあ泣かれるより、最初の印象が最悪ならそれ以下
はないだろ。それに、人間は極限状態で本性が出る。黒曜がどうい
う人間が試しただけだ﹂
﹁カイリ! 大体君はいつも乱暴なのだよ! それでもこの優秀な
僕の兄なのですか! ああ、嘆かわしい! こんなにも優秀な僕の
兄がこれでは、僕の評判まで傷がつきます! まあ、それ如きで揺
らぐような優秀さはではありませんがね!﹂
﹁うるさい。俺だってお前みたいな弟願い下げだ、カイル﹂
﹁そもそも! 数分の差で僕の上になるというのが解せないのです
537
! こればかりはいくら僕が優秀でも変えようがないと分かっては
いても、世の理不尽さにはほとほと呆れますね! まあ、それ如き
で僕のこの輝く才能は欠片も翳りはしないのですが!﹂
カイルさんの﹁僕は優秀ですから﹂宣言は昨日も聞いたけれど、
安心させるために言っていると思ったら本心だったようだ。
﹁大体、カイリは気を回す場所が違うといつも言っているじゃない
ですか!﹂
﹁何がだ﹂
﹁髪なんて、目も当てられないほどぼさぼさでも気にしないのに、
桃色髭は威厳がないだのなんだので、無精髭は生やさないように小
まめに剃るじゃないですか!﹂
﹁何がいけないんだ。まあ、今は剃る暇がなかったが。それと、お
前の紫髭も相当だぞ﹂
﹁僕の髭より、まずはその四日間着替えていないシャツを何とかす
るべきでしょう!﹂
大人双子の言い合いは全然関係ない方向にずれて言っている気が
する。既に私は関係ないですね!
私はというと、そんな声を扉越しに聞きながら頭を洗っていた。
そんな事態じゃないと分かっているけれど、一度沸かしてもらった
お湯をもう一度沸かし直してもらう手間を考えると後回しに出来な
い。アリスやユリンからも、それとなく勧められたのはそういう事
情があるからだと思う。
大きな盥の中で頭を洗い終え、タオルで乱暴に擦る。自分なりに
急いだつもりだ。だって、こんな声が延々と廊下で聞こえてきて焦
らない訳がない。部屋の中まで延々と響いてきているダブル双子の
喧嘩が廊下で続いていると思うともう居た堪れない。
ドライヤーがないので乾かすのは諦め、とりあえず滴り落ちない
くらいまで水分を取る。タオルを首にかけて、用意されていた着替
538
えに袖を通す。しかし、やっぱり寝間着だった。それでも上着は追
加されているし、下を向いても隙間から身体が見えたりしない。首
回りは大きく開いてないし、襟もちゃんとついているので、普段着
にちょっと近くなった気がする。ただ、ボタンが多い。ちまちまボ
タンをつけている間に急に外が静かになった。なんだかがちゃがち
ゃいっていたから、荷物でも運び込まれたのかなと思いながらそろ
りと扉を開く。
[⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮えーと]
目の前に広がる光景に何と言っていいのか分からない。いろんな
言葉を探すけれど、結局出てきたのはこれだった。
﹁早朝明朝より騒動勃発、申し訳ございませんでした!﹂
大人双子とアリスが、廊下で髭を剃っていた。わざわざ盥用意さ
せてまでここで剃っているのは、たぶんこの後に用事でもあるのだ
ろう。そして私にも何か用事があるのだろう。大変お忙しい中、阿
呆なことで貴重な朝の時間を削ってしまい、本当に大変申し訳ござ
いませんでした!
後、アリスちゃんも髭生えるんだね。ちょっと意外でした。大人
になっちゃってまあ⋮⋮⋮⋮ルーナも生えるのかな。生えるんだろ
うな。見たい。
少年双子はお互いの胸倉を掴み合ったままこのシュールな光景を
見ているので、扉から体半分出して私も見る。気持ちは分かる。お
父さんの髭剃り風景なんて興味なかったけど、こうして見ると男の
人の身支度風景ってちょっと面白い。
シュールだけど。
まじまじと見ていると、アリスちゃんの耳で綺麗な耳飾りが揺れ
ていることに気が付いた。そういえば昨日もきらきらしていた気が
する。昨日はちゃんと見る余裕がなかった。
今まであんな装飾品つけていなかったのに、どうしたんだろう。
詳しくは知らないので種類までは分からないけれど、黒い石と緑色
539
の石が、金髪の間できらきらして綺麗だ。
似合ってるなーと何の気なしに見ていたら、剃り残しがないか確
認していたアリスちゃんと目が合った。とりあえず、今更な気がす
るけど朝の挨拶をする。
﹁おはよう、アリスちゃん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ、おはよう﹂
何故か口籠ったアリスは、ちらりと自分の横で揺れる耳飾りに視
線を落としたように見えた。
髭を剃り終わった面々は、何故か私の部屋で朝食を取り始めた。
私はこの部屋を借りている身分だけど、聞きたい。なんでここに集
合したのかと。隣の部屋とかじゃいけなかったんですかね。
狭くもないけどベッドが大きいせいで広くも見えない部屋の中、
何で皆さん立ったままワゴンに乗った食事をとっていらっしゃるの
か。ベッドに戻された私の手には、ほかほか温かい具なしスープ。
五臓六腑に染みわたる優しい味だ。しかし、その視線の先では、無
言のまま黙々と朝食をとる髭剃り三人衆と、お互い小突き合いなが
らがつがつ食べる髭なし双子。キャンプとかパーティーみたいだか
ら、個人的には一人で頂くより楽しい。シュールだけど。
ゆで卵を丸々一個口に入れて、そのまま豪快に食べきったカイリ
さんを尊敬の目で見てしまう。喉に詰まらないんだろうか。そして、
なかなか豪快な朝食だ。伯爵さんだというから、もっとこう優雅で
洒落たご飯を想像していた。偏見すみませんでした! でも、私は
好きです。後、その分厚いベーコン私も食べたいです。
﹁黒曜は、これからどうするつもりだ﹂
厚切りベーコンに気を取られていたら、突然カイリさんが言った。
﹁髪を長身にしようと﹂
かちゃかちゃと響いていた食器の音が止まる。そして、皆の視線
540
がアリスに集中した。そのアリスは酷く難しい顔で私を見る。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ、何か、足がかりを頼む﹂
苦渋に満ちた顔でヒントを求められた。なんかごめん、アリスち
ゃん。
﹁ルーナが、私なると再会希望の際に、髪を長身にしたと聞きかじ
った故に、私なるもそのようぞ作戦を実行しようと思考したじょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮願掛けに髪を伸ばすそうです。カズキ⋮⋮伯が聞いたの
はそういう事じゃなくてだな﹂
呆れた顔のアリスちゃんに首を傾げると同時に、ぶばっと凄い音
がした。
﹁カイル、汚い﹂
カイルさんはお腹を抱えて笑っている。口に含んでいたゆで卵を、
前方にいたカイリさんの顔面に噴き出して。身長が同じという双子
の悲劇だ。そして何故そんなにもひぃひぃ笑われているのだろうか。
後、スープ美味しいです。じわぁと胃に染みていく感覚がちょっと
面白い。
慌てたユリンに渡されたハンカチで顔を拭いたカイリさんは、私
の前に立った。気怠そうな雰囲気で髪はぼさぼさなのに、なるほど、
髭はなくてつるつるだ。私はそんなカイリさんを見上げながら、こ
の両手で持ったスープをどうしようかと困っている。誰か受け取っ
てくれませんか。
﹁立てるか、黒曜﹂
ちょっと待ってください。スープ、誰かスープを受け取って!
さすがに、この短期間で足の力だけで立てるほど回復していない。
あたふたとスープを抱えている私の肩が押さえられる。
﹁俺達に担ぎ上げられて、立てるか﹂
立つとは、いま物理的に立ち上がるという事じゃなかったようだ
と、私はやっと理解した。昨日は問答無用で立てと言ったのに、今
日は聞いてくれるらしい。
少し考える。
541
﹁実行経験皆無によって、不明﹂
正直に答えたら、カイリさんは初めて表情を変えた。口端を軽く
上げたこれは笑みだろうか。
﹁どう返答があろうが立ってもらうつもりではあるが﹂
﹁質疑応答の意味が皆無!﹂
それ、聞いてくれた意味はあったんですかね!
びっくりした拍子に、半分弱残っているスープが零れそうになっ
て慌てて水平に保つ。
﹁ここで自信満々に頷かれでもしたら先行き不安だと思っただけだ﹂
どう反応を返せばいいのか分からず、カイリさんの後ろにいる面
子に視線で助けを求めてみた。すると、ユリンが力強く頷いてくれ
る。何の妙案が! と期待したら、スープをよそってくれた。揺れ
るスープの難易度が上がった。
見かねたアリスが器を引き取ってくれる。ありがとう、アリスち
ゃん。そのままお皿にごろごろしてるウインナーみたいなのを入れ
てくれてもいいんだよ。
﹁だが、しばらくの時間は養生に当てろ。死にかけた女を担ぎ上げ
た途端、死なれたら意味がない。後、何か要望はあるか﹂
﹁要望﹂
﹁お前がどう言おうが、俺はお前を担ぎ上げる。だから、せめて、
お前の望みくらいは叶えてやる。何か交換条件でもあったほうが、
俺も気が楽だ。ただブルドゥスの為に力を尽くせというには、お前
には関係のなさすぎる話だ。お前にも益があれば、信頼しやすい﹂
優しいのかそうじゃないのか今一分からない人だけど、嫌な人じ
ゃないみたいだからそれでいいような気もする。
そして私には、望みがあるのだ。
﹁皆達を、救出懇願﹂
﹁無論だ﹂
アーガスク様達は南の守護伯の元に逃げたと聞いたけれど、隊長
達は捕えられたという。彼らを助けてほしいと言えば、それらは作
542
戦内のことだと言われた。
ありがたいけど、私の望みはまだある。
﹁ルーナを、捜索懇願﹂
当たり前だと、今も探しているとカイリさんは言ってくれる。だ
けど、それだけじゃない。
﹁捜索期間を、設置しないして﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何?﹂
﹁発見するまで、停止しない。発見するまで、探すして﹂
探して。ルーナを探して。見つかるまで、探して。会えるまで、
探し続けて。
何も持ってない私が、死にかけた身体を引きずって探し回っても
出来ることはたかが知れている。だから、それができる人に頼むし
かない。どう足掻いても私を担ぎ上げるという人に頼むのだから、
無一文な自分の勝手なお願いでも、ちょっとしか申し訳ないと思え
ないのも、いい。
始めは不審げに眉を寄せたカイリさんは、一拍置いて頷いた。
﹁了承した。ルーナ・ホーネルト捜索には期限を設けない﹂
﹁ありがとう、ございます﹂
﹁だが﹂
ぎゅっと上着を握り締めていたら、まさかの﹁だが﹂が続いて慌
てて顔を上げる。交換条件の条件が飛び出てくるのだろうか。
﹁ルーナ・ホーネルトの発見は俺にとっても重要課題だ。だから、
他にも要望を考えておけ。幾らでも、思いつくだけ言え。お前を担
ぎ上げる代わりに、俺はお前の願いを何でも叶える。黒曜をさせる
以外の苦労はさせない。それが、俺がお前に与えられる益だ﹂
どさりと重たい物を渡される。持ちきれずに太腿の上に乗せたそ
れは、ちょっと煤けた私のバッグだった。これと一緒にこっちの世
界に来たのにすっかり忘れていたバッグは、あの頃のままだ。
﹁エレオノーラ・アードルゲからだ﹂
﹁エレナさん﹂
543
﹁彼女達は西の守護伯が保護している。お前の身を案じていた。と
にかく、今は休めばいい。どうせすぐにどうこうできる状態じゃな
い。要望があればそいつらに言えば俺に伝わる。いいな﹂
カイリさんは私の返事を待たずに部屋を出て行った。
﹁大丈夫ですよ、すぐに良くなります。何せ僕は優秀ですから!﹂
そう言いながらカイリさんの後を追ったカイルさんも、たぶん色
々用事があるんだろう。私は重たいバッグを乗せたまま、ちょっと
考える。
[⋮⋮⋮⋮厳しいあしながおじさん?]
足は確かに長かった。羨ましい。
願いを何でも叶えてくれるなんて言葉を、自分が言われる日が来
るとは思わなかった。何が何でも黒曜はさせられるらしいけど、願
い事は何でも叶えてくれるらしい。
ちょっと、悲嘆すればいいのか喜べばいいのか、怒ればいいのか
申し訳なく思えばいいのか分からなくなってきた。次にカイリさん
に会った時、酷いと罵ればいいのか、どうもありがとうございます
! と満面の笑顔を向ければいいのかも分からない。
﹁⋮⋮アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁⋮⋮何だ﹂
﹁スープを頂きたい﹂
とりあえず、色んなことは朝ごはんを食べ終わってから考えよう。
食事は元気の源。腹が減っては戦は出来ぬ。
もりもり食べて、早く、走り回って元気にすっ転べるようになら
なければならない。話は全部それからだ。
なみなみとよそわれたスープを一気に飲み干す。
﹁おまっ⋮⋮ばっ⋮⋮!﹂
青褪めたアリスに返事は出来なかった。胃がうねうね動いてのた
打ち回るのが分かる。まあ、つまり吐きかけた。ぎりぎりセーフで
よかった。
544
結論として、人間、無理はよくない。少しずつ、適度にって大事
だなぁとしみじみ思いました。
545
41.神様、友達少々騎士が出来ていました
﹁さあ、薬の時間ですよ﹂
朝食を終えたら、カイルさんが満面の笑顔で何かを持ってきた。
さっきまで、最後の骨付きベーコンを巡って骨肉の争いを繰り広
げていた少年双子は、さっとカートを押して部屋を飛び出していく。
後片付けだと信じたい。決して、カイルさんの手にある、濃緑の液
体を見て逃げたのではないと信じたい!
﹁さあ、どうぞ﹂
にこやかな笑顔で差し出されたコップを受け取るなと本能が告げ
ている。液体のはずなのになぜか弾力が予想される揺れ方もさるこ
とながら、臭いが、もわんとっ!
﹁大丈夫ですよ。何せ、この優秀な僕が作った薬ですから! 効き
目は天下一!﹂
にこにこ笑って太鼓判を押してくださるカイルさんの肩越しに、
少しだけ開いた扉が見える。そこから同じ顔が生えていた。
﹁味も天下一よー﹂
﹁最悪な意味でって言えよ⋮⋮って、あ! 俺のベーコン!﹂
﹁早い者勝ちよ、バーカ!﹂
﹁てっめ、このやろう!﹂
廊下で繰り広げられる、続・骨肉の争いをBGMにして、私は震
える両手でコップを掲げ持つ。
良薬口に苦し、鼻に辛し!
さっき、人間無理はよくないなと思ったばかりだけど、これはち
びちび飲んでいる内に心が折れる一品だ。飲みきるためにはこれし
かないと一気に呷ったら、色んな意味で吐きかける。でろりとした
食感、口に入れる前から目に染みる沼のような臭い、口に含んだ瞬
間から吐き出せと全力で訴えかけてくる本能。
546
両手で口元を押さえて水を要求すると、青褪めたアリスが水差し
から注いでくれた。
﹁素晴らしい! 全て飲みきりましたね! 毎食後これをしっかり
飲んでいればすぐに良くなりますよ。何せ﹂
その後に続く言葉が簡単に予想できて、切れ切れに口に出す。
﹁優秀な⋮⋮カイルさんの、作成した、薬、じょ⋮⋮﹂
﹁カズキ︱︱!﹂
がくりと事切れた私の耳には、悲痛なアリスの叫び声が届く。耳
元で叫ばないでくれるととっても嬉しかったと思いながら顔を上げ
ようとした私の横に、どさりと何かが落ちてきた。それを視界に入
れた瞬間、私も同様に叫んでいた。
﹁アリス︱︱!﹂
ベッドの上に転がる空になった白いコップに残った色は、青緑だ
った。原材料は何なのか、聞かないほうが幸せな事ってきっとある。
﹁二人とも素晴らしい! さすがこの優秀な僕の患者です!﹂
両手を叩いて喜んだカイルさんの後ろで、半分ずつに引きちぎら
れたベーコンを齧る同じ顔が見える。
﹁すげぇ⋮⋮飲んだぞ、あれ﹂
﹁凄い⋮⋮流石アードルゲ男子アリスロークと黒曜⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前一口で噴いたよな﹂
﹁お前は半口だったわね﹂
﹁うっせぇよ!﹂
ベーコン齧りながらぎゃんぎゃん怒鳴り合う双子。双子って声ま
で似るんだなと思いながら、私とアリスはベッドに沈んだ。
朝のひと騒動を終えて一息つく。私はベッドの上で座っているま
まだ。アリスはその横のソファーに座って落ち着いた。双子はとい
うと。
﹁俺の勝ち!﹂
547
﹁お前それ反則よ!﹂
ベッドの横にあった棚と椅子を部屋の隅に引っ張っていき、カー
ドゲームに興じていた。ゲームの進行より喧嘩のほうが長くて多い。
それと、ユリンの見た目は女の子なのだから、とりあえず足は閉じ
たほうがいいと思う。ユアンより開いているのはどうなんだろう。
﹁カズキ、聞けるか﹂
明日にするかと、この期に及んで猶予をくれようとするアリスの
優しさに苦笑する。
﹁大丈夫。報告要請﹂
﹁⋮⋮⋮⋮分かった﹂
アリスが教えてくれた現状は、聞けば聞くほど項垂れてしまいそ
うになるものだった。
ブルドゥスと同時期にグラースの王都でも爆弾を使った襲撃が行
われたという。ブルドゥスのものほど執拗ではなかったものの、王
と王子のみならず、多数の者が式典の為に国を離れていたため、グ
ラースも混乱を極めている。多数の安否の確認だけでも大変だろう
に、既に、王の死亡は確認されていた。爆発に一番近い位置にいた
のが王だというのだから、それは事実なのだろう。一度だけ、会っ
たともいえないくらい蚊帳の外だった場所で見たおじさんがもうい
ないのだと聞いて、なんともいえない気持ちになった。泣けるほど
親しくも思いもないけれど、へーといえるほど知らない人じゃない。
式典の為にたくさんの人が集まっていたと聞いて、そういえばそ
んなものがあったなと今更思い出す。それどころじゃなくてすっか
り忘れていた。
王都は、ガリザザ軍と、元騎士、元軍士によって落ちた。しかし
王都を完全に掌握するためには、貴族にも民にも通ずる王都裏三家
の協力が不可欠であり、協力要請という名で三家の当主がかなり強
引に捜索されているらしい。今の所三人とも雲隠れしていると聞い
548
て、これだけはほっとした。
そして、現在の私達の状況はというと、反乱軍とみなされ、討伐
されようとしているらしい。
突如大陸の軍が王都に現れ、王族が国民を騙そうとしていたと聞
いた民衆は、何が何だか分からないだろう。混乱をきたさなかった
のは、スヤマがいたからだと、アリスは膝の上の両拳を握りしめた。
﹃黒曜﹄が彼らを宥めた。﹃黒曜﹄の存在自体が鎮静効果があるの
だと聞いて、何だか熱さましの薬みたいだなと思う。全員が全員、
スヤマの言葉を鵜呑みにしたわけではないだろうけれど、民衆の反
応は半々だそうだ。﹃黒曜﹄がいるから、あちらが正義であると言
い募る者と、長年国境を守り続けている守護伯が国を裏切るはずが
ないと言い募る者とで暴動が起こる度に、﹃黒曜﹄の名がそれらを
諌める。
ちなみに、私は終戦の女神を名乗る不届き者の偽黒で、捕まれば
斬首だそうだ。
うわぁい! やったね! 打ち首だよ!? なかなか経験出来る
ことじゃない!
最悪だ!
﹃黒曜﹄の言葉で王族を悪だと言い切ってしまえるほどに王家の
威信が落ちていることも、無駄に膨れ上がった﹃黒曜﹄への信頼感
も問題だけど、その﹃黒曜﹄が元祖黒曜であるかどうかの真偽を問
うて欲しい。切実に。せめて私の言い分も聞いてから打ち首お願い
します! 後、元祖黒曜だったら賢いこと一切合財言えません! 王族どうのこうの、情勢どうのこうのも然る事ながら、そもそも諌
549
めるための言葉選びすら不可能です。
最初は﹁ざんしゅ﹂が何か分からなかったけれど、アリスが自分
の首に揃えた指先を当て、横一文字に引っ張ったので理解した。
﹁打ち海老︱︱⋮⋮﹂
﹁首だ、首﹂
﹁首︱︱⋮⋮﹂
﹁首は嘆くな。大事にしろ﹂
﹁首、一大事!﹂
﹁本当にな﹂
緑色の瞳がが真剣に私の首を見ていて、なんとなく首を擦ると肌
じゃなくて布に当たる。そういえば包帯があった。打ち首の前に落
とされかけたんだなと思うと、ぞわっと鳥肌と寒気が走っていくの
で慌てて振り払う。あの時を思い出すと、雨の音と、灰色と、赤が
蘇る。
﹁カズキ、どうしたい?﹂
唐突に聞かれた言葉に首を傾げかけて、包帯の下で傷が引き攣れ
て慌てて元に戻す。激痛はないけれど、地味にじりじり痛む。
﹁逃げたいのなら、私が逃がしてやる﹂
予想だにしなかった言葉に私が反応するより早く、双子が腰の剣
を抜き放つ。その時、初めて理解した。私のお世話係に普通の女の
子が宛がわれなかった理由を。
二人は、私の見張りも兼ねていたのだ。
﹁アードルゲの騎士、それは、カイリ様を裏切るということか﹂
さっきまで夢中になって興じていたカードが双子の足元に散らば
っている。それを躊躇いなく踏みにじり、双子は同じ動作で一歩詰
めた。
550
そんな二人には視線をやらず、アリスは私を見ている。
﹁ここには、黒曜ではなく、カズキとしてのお前を願うものはいな
い。だから、せめて、私だけはカズキ個人の幸せを願う。⋮⋮ルー
ナとも、そう約束した﹂
﹁アードルゲの騎士!﹂
﹁下がれ。仮令負傷していようが、お前達を打ち倒すくらい訳もな
い﹂
静かな視線は私を向いているけれど、その手は剣にかかっている。
私はシーツをぎゅっと握って、放した。
﹁アリス﹂
双子のぴりぴりした気配が肌を刺す。見えないものを克明に感じ
るのは、空気を読む日本人だからか。それともそれだけここの空気
が張り詰めているからか。
分からないから、とりあえず笑っとく。
﹁私なるが存在すると、便利?﹂
﹁⋮⋮ああ。誰もお前の代わりなんて務まらない。誰が代わっても
偽黒だ。俺達に義があるのだと証明できる術として、お前はこれ以
上ない存在だ﹂
私がいなくなったらみんな困るだろう。そして、私を逃がしてく
えにし
れるというアリスも全てを失う。それを分かった上で、逃がすと言
ってくれた。それだけで充分だ。本当に、私はこの世界で良い縁を
結んでもらえた。そこだけは、素直に神様にありがとうと言える。
﹁大丈夫﹂
へらっと笑ったら、アリスの目が少し揺れる。
﹁ヒラギさんよりも、質疑応答したが、私、ブルドゥスを心底好む
かと質疑致されとも、不明ぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ﹂
﹁だが、でも、しかし、皆、好きぞり。ブルドゥスで遭遇した皆、
551
好き。アリスちゃんも、リリィも、ネイさんも、エレナさんも、ヒ
ラギさんも、アーガスク様も、全員、好き。⋮⋮⋮⋮虚偽申告した
ぞ。ドボン・ホイールは否ぞ﹂
﹁ドレンだ。ドレン・ザイール﹂
うろ覚えで適当に言ったら盛大に間違えた。金歯の名前を呼んだ
りしなかったから余計にだ。でも、語呂はあっているような気がす
る。
﹁従って、皆の援軍として存在可能ならば、私なるは、奮闘可能⋮
⋮⋮⋮大丈夫、大丈夫、アリス。大丈夫﹂
出来るよ、アリス。こっちの世界で私を助けてくれた皆の役に立
てるなら、ちゃんと、自分の意思でそう決められるから、大丈夫だ
よ。
怖くない訳でも、自信がある訳でもない。でも、逃げるのは、も
う充分だ。充分逃げた。優しい皆が逃がしてくれた。こんな状況に
なって尚、逃げ道を残してくれる。もう、充分だ。このありがたい
縁だけで、私はちゃんと決意できる。
うまく伝えられないから、やっぱり笑ってしまう。皆が私に見せ
てくれたみたいに、綺麗に笑えていたらいいな。
﹁ありがとう、アリス﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ありがとう。すまない﹂
﹁何故にしてアリスが謝罪するぞ。ちなみに、奮闘は致すが、実行
成功可能か否かは、別腹の話じょ﹂
出来るかどうかは知らないよ! 頑張るけどね!
一応、ちょろりと予防線を張ってしまった自分のへたれ具合が情
けない。もう笑うしかないと、またへらりと笑ったら、アリスは剣
から手を放してじっと私を見た。たぶん、アリスの目には朝に窓で
見た私の阿呆面が映っていることだろう。にこりと綺麗に笑えなく
て、なんかごめん。
アリスが立ち上がる様子がなくなったことで、双子もそろりと椅
子に座り直す。こっちはまだ剣に手をかけたままだ。
552
そっちも気になるけれど、話しているアリスが優先だと視線を戻
す。アリスは、左耳についていた耳飾りを外して私の前に突き出し
た。首を傾げる。痛い。どうしたのだろうと思っていると、またず
いっと眼前に押し出されてきたので、とりあえずまじまじと眺めて
みた。高そう。
﹁受け取れ﹂
﹁保管保全するじょ?﹂
ちょっと待ってほしい。私の荷物はこの鞄だけで、こんな綺麗な
耳飾りを入れる箱や袋を持っていないのだ。
わたわたと鞄をひっくり返して中身を確認している手が取られて、
しゃらりと耳飾りが落とされた。
﹁受け取ったな﹂
﹁強制!﹂
後で莫大な料金を請求されるタイプの詐欺が頭を過り、慌てて突
っ返すと、アリスは意外にも素直に受け取ってくれる。ほっとして
落ちてきていた髪を耳にかけたら、視界いっぱいにアリスの胸が見
えた。そして、そのまま左耳につけられる。油断禁物である。
﹁身につけたな﹂
﹁強要!﹂
耳元で耳飾りが揺れる感触がある。慌てて耳を触ると、意外とし
っかり止まっているみたいで、ピアス穴のない私の耳にきちんと収
まっていた。
﹁やる﹂
﹁わ、私なるは、すっちまってすっからかんだぜ! なる会計情勢
じょ!?﹂
お金はない! 一切ない!
いや待て、鞄が戻ってきたという事は私のお財布がある。日本円
で宜しければお支払致します! 一万七千と八百九十六円で宜しけ
れば! 意外と入っているのは、生協でゼミ教授の本を買わなけれ
ばならなかったからだ。しかも二冊。先生、学生で売り上げ伸ばす
553
の止めてください。授業これ指定とか酷いです。しかも一冊が高い
です。
わたわたと財布を開けて、レシートとポイントカードをぶちまけ
た私の手をアリスが取る。ベッドの上で散らばったカード達がちょ
っと恥ずかしい。片づけられない女ですみません。纏めてやればい
いやと、家計簿つけるのをサボっていたつけが、まさかの異世界で
回ってきた。
﹁お前がブルドゥスの為に黒曜としての道を選択してくれるという
のならば、私がお前の剣となり、盾となる。互いの瞳の色の装飾品
を、互いで身に着けた物を交換するのが友の契り。片側が身に着け
た装飾品を捧げるのが騎士の誓い。⋮⋮だが、ルーナとも正式な誓
いを交わしていないお前の騎士に私がなる訳にもいかない。よって、
形式は騎士の誓いだが、交わす契りは友のものだ﹂
﹁全く以って理解不能ぞり!﹂
﹁たわけ﹂
﹁仰れるられる通り!﹂
ちゃんと説明してもらったのに頭の中で処理できない。噛み砕い
て理解していく時間を貰う。アリスも私がスムーズに理解できると
は最初から思っていなかったらしく、所々補完を入れながら待って
くれた。⋮⋮つまり、親友︵仮︶の︵仮︶がのいて、騎士︵仮︶に
なったということだろうか。
恐る恐る聞いてみたら、アリスも噛み砕く時間を得て、そうだと
頷いた。たわけと返されなくてよかった。
﹁妙ちきりんな友情開始ぞり﹂
﹁貴様が珍妙だからちょうどいいだろう﹂
﹁手酷い!﹂
ずばっと言い切られた。否定できないのがこれまた悲しい。
友達の宣言をするのって珍しいし、ちょっと恥ずかしいけれど、
私は勝手にアリスを友達だと思っているから今更な気もする。
554
﹁私なるは、アリスに何事を返品すれば宜しかろう?﹂
﹁貴様からのものは何もいらん。騎士の誓いは、こちらから捧げる
だけだ。これ以上、貴様が背負う必要などない﹂
﹁そ、そのような条件下においての承諾は不可能ぞり!﹂
﹁もう渡し終えたから、返品不可だ﹂
﹁詐欺詐称ぞ!﹂
﹁迂闊な貴様が悪い!﹂
殺生な!
友達は気づいたらなってるものなんだよなんて微笑ましい光景は
遥か遠い。何だろう、この強制友情の契り。しかも、アリスに不利
ときた。貰うだけ貰って、何も返さない関係なんて友達じゃない。
ただでさえお世話になりっ放しなのに、負担だけかける関係なんて、
ごめんだ。
﹁念友はそのような関係性ではありえぬじょ!﹂
アリスの腕を掴んで叫んだら、双子がぶばっと噴き出して、驚愕
した顔で私とアリスを交互に見ている。心なしか私の胸を見て顔を
見て、胸を見てを繰り返している気がした。一体何を確認している
というのか。アリスは容赦なく私の頬っぺたを引っ張った。痛い。
﹁親友だ! このたわけっ! 貴様らも確認するな! カズキは女
だ! 何がどう間違って過ちに溢れようが、念友にだけは成り得ん
!﹂
結局たわけ呼ばわりである! 事実そのものなのが悲しい!
だけど、実際たわけでも、これだけは譲れないし、譲らないよ、
アリスちゃん。
﹁アリス﹂
﹁なんだ!﹂
勢いよく振り向いたアリスは、少し驚いた顔をした。私、そんな
に変な顔をしてるだろうか。してないとは言い切れない。だって、
いつもしている気がする。そして、アリスのほうがルーナより昔の
面影が多いなと、いまふと思ったのは何故だろう。
555
﹁アリスが点呼したら、早急に訪れる。アリスが危機的状況が発生
したならば、奮闘する。アリスが泣くするなら、襟元を借用する。
アリスが必要必須としておらずとも、私なるは勝手に登場するぞり
! 親友なる故に!﹂
アリスが呼んだらすぐに行くよ。アリスが危ないなら走るし、ア
リスが泣くなら胸を貸す。だって、友達だから。いつの間にかなっ
ているのが友達で、いつの間にかそうしたいと思える人が友達だ。
アリスはいらないって言っても、そうしたいと思うのは勝手だし、
させてもらう。友達だから大事だし、大事だから友達なんだから、
思うなと言われても無理なものは無理だ。
たわけと言われるかなと思いつつ、言うだけは言わせてもらった。
アリスは無言だ。翻訳にえらく時間がかかっている。そんなにまず
いことを言ったかなと自分の言葉を反芻していたら、それはそれは、
深く長く大きなため息を吐かれた。肺の中空っぽになってるんじゃ
ないだろうか。
その肺活量に感心していたら、アリスが床に膝をついて私の手を
取った。手を引かれて、肩にかけていた上着が落ちる。落ちたとい
っても、ベッドの上だから別にいいけれど。
アリスは、まるで騎士みたいな体勢だ。みたいも何も、騎士だけ
ど。
﹁⋮⋮人の宣誓を取るな、たわけ﹂
この短時間に、いったい何回のたわけを頂いたのか。今度数えて
みよう。
私の手に額をつけたアリスが取った体勢には覚えがある。昔、ル
ーナが私にしたものだ。ルーナはこの首飾りに口づけて、今はこん
な物しかないけれどと笑い、今のアリスと同じ言葉を言っていたよ
うに思う。
556
わ
われ
﹁我が慶びは君がもの、君が嘆きは我がもの。君が憎悪は我が剣が、
君が不幸は我が盾が。全ての幸は君が為、全ての禍は我が身を持っ
て振り払おう﹂
あの頃はまだ、なんて言っているのか今一よく分からなかったけ
れど、ただのおまじないだよって言っていたのに。こんなに大切な
言葉だったなんて、ルーナは教えてくれなかった。
私は馬鹿だから、きっといろんなことに気づけなかった。私が気
づかなかったところで、私が知っている以上の優しさをくれていた
のだ。私はそれに報えるだけの何かを、彼らに渡せたのだろうか。
いま、凄くルーナに会いたい。そしてどうか、私が知らなかった
彼らの優しさを教えてほしい。どうかお願いだから、知らないまま
でいさせないで。ありがとうって言わせてほしい。
﹁我が友よ。君との友情を我が誇りとし、生涯懸けて守り抜くと我
らが証に誓う﹂
アリスの顔が近づいてきて、左についている耳飾りに唇が触れる。
繊細な音で金属が揺れた。耳元で小さく吐かれた息に、全て終わっ
たと気づく。知らずに緊張していた身体の力が抜けた。
すっと離れたアリスは、今度は長い長い息を吐いた。吐きすぎで
ある。
﹁カズキ﹂
﹁はい﹂
﹁これからは、契りを交わした友として遠慮なくいかせてもらう﹂
﹁過去において遠慮なさってたにょ!?﹂
びっくりだ。
結構遠慮なく頬っぺた引っ張ったり、チョップ落としてきたり、
耳がくわんくわんするたわけを頂いたりしていた気がする。衝撃の
557
事実に慄いた私の頬っぺたが片手で潰された。ひょっとこ再び。い
や、三度?
﹁これまで以上にだ。まずはその珍妙な言葉遣いからだ! 言って
おくが、私は自他ともに認める細かい男だ! 徹底的に直してやる
から覚悟しろ!﹂
[なんは、ほんはひはひへは! ひひひひほ!]
なんか、そんな気はしてたよ! ひしひしと!
ひょっとこ顔のせいで日本語だったのにちゃんと言えなかった私
に、アリスは目を閉じてふっと笑った。
﹁⋮⋮私の細かさと、貴様のたわけ。どちらが上か、勝負だ!﹂
我が細かい友の声は、部屋の隅にいた双子も思わず耳を塞ぐほど
でっかかった。後、友情ってなんだっけとちょっと悩む。
日本にいたらお目にかかれない契りの儀式を経て、ちょっと感慨
深いような照れくさいような余韻は、見事なまでに霧散したのであ
る。
558
42.神様、少々多大にやらかしました
黒曜として立つと決めても、私の環境が劇的に変化するという事
はなかった。当たり前と言えば当たり前だけど、誰も私に賢く素晴
らしい戦略なんて期待してないらしい。ほっとした。そんな物を求
められたら、満面の笑顔で肥溜めに飛び込むしかない。
私が求められたのは、体調回復、アリスちゃんによるたわけ矯正講
座。そして、ちょっとした日本の知識だ。
カイリさんは昼夜問わず、偶にふらりと現れて、日本のことを少
しだけ聞いていく。
爆弾についても聞かれた。といっても、私では作れない事、爆発
は範囲内に入れば敵も味方も吹き飛ぶような無差別の衝撃である事、
雨に濡れると火がつきにくくて使いにくい事、爆発による怪我は火
傷と破片による怪我になるような気がするという、ふんわりとした
説明しかできなかった。
アリスが逃げようかと言ってくれたことも多分報告されているだ
ろうけど、本当に何も変わらない。そのことに触れられもしなかっ
た。アリスと引き離されることもなければ、アリスもそれを心配し
ているようには見えない。
不思議に思って聞くと、伯はそういう方だという答えが返ってき
た。
そんな感じで、私は穏やかに一か月近い時間を過ごしていた。
﹁これは? これはなんですか?﹂
﹁それは﹃ヘアゴム﹄じょ!﹂
﹁それは﹃ヘアゴム﹄です、だ﹂
559
鞄に突っ込んでいたヘアゴムをびよんびよんと引っ張ったら、部
屋の隅にいたユアンの方がびくりと飛び跳ねた。ユリンも最初は驚
いたようだが、すぐに手に持ってびよんびよんし始める。
﹁どうしてお前は、妙な言葉を引っ付けるんだ﹂
﹁言い難い故に﹂
﹁言いづらい﹂
﹁いいじゅらりん﹂
﹁い、い、づ、ら、い﹂
﹁い、い、ず、ら、り﹂
﹁語尾を上げるな、下げろ。ずは、づだ。づ。最後は、いだ、い。
どうして最初のいが言えて、最後が言えない﹂
それは舌の動きの問題だ。あっちがうまくいけばこっちでぼろが
出るといった調子である。変に意識したら、今まで言えていたもの
まで珍妙になる始末だ。
﹁アリスちゃん、繊細ね︱︱﹂
﹁細かいと言え、細かいと﹂
﹁ちび!﹂
痛い、痛い、痛い。無言で頬を抓りあげるの止めてください。
昔、調理の手伝いで大根もどきを細かくし過ぎた時に﹃ちびっこ
くしてまあ﹄と言われたことがったのだけど、何か違ったのだろう
か。
﹁野菜の滅多切りがちびっこいと、ティエンが申していたぞ﹂
﹁間違ってもユリンとユアンには言うなよ。一番気にする年頃だ。
⋮⋮滅多切りはみじん切りか?﹂
小声で言いながら頬を存分にみょんみょんしたアリスは、私の手
元を覗き込んで溜息をついた。
私は、また一から辞書作り中だ。作ってなかったのかと言われた
けど、堀から落ちるまでは存在していた旨を伝えると肩をポンッと
叩いてくれた。
560
﹁⋮⋮それだけの文字を操れながら、何故だ﹂
アリスの手元には昨日大雑把に説明した、ひらがな、カタカナ、
漢字、ローマ字が書かれたルーズリーフがある。後、漢字辞典。何
でこんな物が鞄に放り込まれていたかというと、ゼミの定期レポー
トの課題が漢字の語源を調べてこいだからだ。まさか大学生になっ
てまで漢字辞書が必要になるとは思わずに実家に置いてきてしまっ
たので、これは大学の図書館で借りたものだ。
私の手元をまじまじと覗き込んで本気で不思議そうな顔をされた
ので、私は胸を張った。
﹁十九年の鍛錬の成果じょ!﹂
﹁じょはいらんと何遍言えば分かる、たわけ!﹂
﹁いいづらり!﹂
﹁いだ! どうせつけるなら、﹃ね﹄や﹃よ﹄くらいの柔らかい語
尾を選べ!﹂
﹁ね!﹂
﹁そうだ!﹂
﹁にょ!﹂
﹁違う! よ、だ、よ!﹂
﹁にょーん﹂
﹁何故伸ばした﹂
そっちこそ、なんで真顔になった。
鞄に何冊か入っていたファッション雑誌は、いま私の手元にない。
何でも、私が黒曜だと民衆に広める為に異界の服装から広めようと
しているらしく、服飾関係の人達が色々頑張っているという。私の
黒曜としての衣装も作ってくれるそうだ。ちょっと楽しみにしてい
る。
何冊もファッション雑誌を持っていたのは、別に私がお洒落に敏
561
感だからじゃない。雑誌はいろいろ見たいけど、全部買うととんで
もない出費になるので、ゼミの友達と一緒に個々で一冊ずつ買って
皆で回すのだ。付録はジャンケンだ。登校しようとした第一歩でこ
っちの世界にきてしまったので、借りっ放しになってしまった。申
し訳ない。
一応、こっちの世界に持ち込んじゃいけないものだろうという認
識はあるけれど、私の手元に戻ってくる前に大体の検分済みだった。
まあ、爆弾とか銃とか、そんな情報が載った本は持っていないし、
携帯の充電はとっくに切れている。保っていたら逆に怖い。一体何
を糧に生き延びた充電だと恐れ戦く。でも一応、参考書は鞄の奥に
突っ込んだままにした。歴史部分は戦争の絵もあるからだ。幸い戦
闘シーンのような挿絵はなく、戦闘機や戦車がちらりと写っている
だけだったので、これが何なのか理解されていなければいいと願う。
私の持ち物で特に大人気だったのはお金で、今も双子が小銭をひ
っくり返したり、打ち鳴らしている。こっちの世界では使う機会も
ないし、彼らに盗まれる心配をしているわけでもないけど、万札は
そっと回収しておいた。千円は涙ながらに諦められる。五千円も血
涙流しながら断腸の思いでかろうじて手放せる。
でも、万札は立ち直れない。
困ったときはこれ一枚! 一枚あれば一安心! な万札さんは、
大事に大事にお財布にしまっている。けれど、まあ、アリスちゃん
が見せてくれと言ったので見せた。親友だし。透かしを見比べて、
お札の大きさを見比べて、細工の細かさに感嘆してと楽しそうだっ
たのでよしだ。一番大きい万札が一番価値があって、一番小さい千
円が紙の中では一番安いと説明したり、描かれている人は偉人だと
説明しようとして美人美人と連呼し、美人の概念の違いに双子と一
緒に散々悩まれた。
562
そして暇になる私である。皆、私のお金が目当てだったのね! と心の中で遊んでみたけど、すぐに飽きた。寂しい。
暇なので適当に鼻歌を流していたけれど、気が付いたら熱唱して
いた。歌い終わった時には、双子は壁に張り付いているし、アリス
ちゃんの腰は半分くらい遠ざかっている。どうもすみません。うっ
かり熱中しました。
私は、マイク代わりに握っていたシャーペンをノートに挟んだ。
突然歌い出した私には驚愕したけれど、歌には興味があるらしく、
ユリンがにじり寄ってくる。
﹁い、異世界の歌?﹂
﹁ぞ⋮⋮はい﹂
ぞりと言いかけた瞬間、アリスの指がぴくりと動いて慌てて言い
直す。そろそろ頬っぺたの原型が変わる。
CD売上一位の曲だと言っても通じないだろうから、ちょっと考
える。
﹁流行りの歌じょ[痛い痛い痛い]﹂
結局みょーんされた。違うんです、アリスちゃん。あれは純粋に
噛んだんです。
﹁異世界で流行りの歌!? 聞きたい!﹂
リクエストを受けて、適当に何曲か歌う。カラオケは好きだった
から十八番も含めて色々歌った。歌詞を忘れたところは、らららか、
にゃにゃにゃで誤魔化す。サビだけしか覚えていないのもあったし、
一人アカペラはちょっと恥ずかしいけど、ユリンが楽しそうだから
まあいいや。
懐メロから流行曲、童謡から合唱曲、CMソングからアニソンま
で手広く歌ったら、アリスが驚愕した目で私を見ていた。何だろう
と思ったら、こっちの世界でこれだけ歌を知っているのはそういう
職の人か貴族くらいだと言われた。確かにこっちの世界では、あっ
ちやこっちで四六時中何らかの音が流れていたりしないから、それ
もそうかもしれない。歌手みたいな人が歌っている場所にお金を払
563
って見に行くか、貴族の屋敷に呼ぶか、そういう方法が一般的だそ
うだ。流れの芸人達もいるそうだけど、彼らはてっとり早く稼ぐた
めに人気のある曲を歌うことが多いそうだ。
ラジオやテレビ、ネットなんて説明できない。いろんな意味で。
主に私の言語力の所為で!
ちょっと考えながら言葉を探す。
﹁私なるの故郷では﹂
﹁私の故郷では﹂
﹁⋮⋮私にょ故郷では﹂
﹁の﹂
﹁の﹂
アリスちゃんは妥協しない男だ。助かるけど、話は全く進まない。
次こそ成功させようと、口の中で何度か練習する。単品だと言える
のに、言葉で続くと舌がおっつかない。
﹁私、の! 故郷では、音楽が近所の幼馴染が深剃りだね﹂
部屋に沈黙が落ちた。双子の視線がアリスに集中する。アリスの
眉間の皺は今や山脈だ。ごめん、親友。頑張って。
両拳を膝の上で握りしめ、苦悶の表情を浮かべていたアリスがは
っと顔を上げる。
﹁私の故郷では、音楽が身近で馴染み深いだ! どうだ!﹂
﹁お見事ぞり!﹂
﹁ぞりはいらん!﹂
そんな感じで、ユリンが私の世界の話をねだり、私の答えをアリ
スが解読しながら毎日を過ごし、身体の回復に努める。薬は相変わ
らずこの世の物とも思えない味だったけれど、自分でも分かる程身
体が回復していくので効き目は抜群だ! 味も、人の意識を奪う効
果抜群である。
564
一か月の間に、アリスちゃんに土下座したりもした。
﹁私の珍妙修正は、どうぞ三度に一度で懇願願いますにょ!﹂
このままでは顔の原型が変わる。おたふく様になる。七福神の頬
っぺた凄い人になる。それはそれで幸せが訪れそうだけど、できれ
ば両親が与えてくれた顔のままで過ごしたい。
物覚えが悪い自分に付き合ってくれる親友に申し訳ないと思って
いると、それはそれは深いため息が返ってきた。
﹁既に、三十回に一度に留めている﹂
﹁達者でな、私の頬!﹂
さようなら、私の頬っぺた! 短い付き合いでしたけどお元気で!
十九年は別に短くないだろうけど、これから付き合っていく年数
を考えると短い気がしたのである。
カイリさんは本気で異世界の文化を広めるつもりらしく、今度は
私の歌った歌を広める気らしい。ベッドの傍にごとごととピアノが
運び込まれてきて、彼らの本気度を知った。
確かに、世間一般の黒曜像と照らし合わせた場合、あのスヤマに
対抗できる部分は私が本物であることしかない。手っ取り早いのは、
違う文化を見せることだろう。私も、斬首は御免だ。
守護伯は、戦時中から変わらず、名前の通り国境を守る伯爵だか
ら守護伯と言われるらしい。その都合上、どこよりも早い伝達手段
を保持しているという。それはそうだろう。だって、国境が攻めら
れたという連絡が遅かったら、それこそ取り返しがつかない。だか
らそのことに驚きはしなかったけれど、その伝達方法は王族でさえ
も知らない、守護伯だけのものだと聞いた時はさすがに驚いた。
その伝達手段を酷使したおかげで、東西南北の市井では既に異世界
風の服が人気だと教えられた。王都では﹃スヤマ﹄黒曜派が多いら
565
しいので、周りからじりじり浸食させていくための根回しだという。
だけど、市井の皆さんに言いたい。異世界風の服が大人気らしい
ですが、私はまだずっと寝間着です。こっちの服飾の皆さんが作っ
た服を見たこともありません。なのに、黒曜プロデュースみたいに
宣伝されるのは詐欺だと思います。そして私もその服見たいです。
後、欲しいです。
そして、歌を広めるのはいいけれど、著作権とか大丈夫だろうか。
私が歌ったけど、私が作詞作曲したわけでも権利を持っているわけ
でもない。まあ、著作権の侵害で訴えてくる人がいたら、その人に
にじり寄って、問答無用でどこ出身か教えてもらう所存だ。同郷だ
ったら握手しましょう。ちなみにこの場合の同郷の単位は、世界だ。
私が歌って、ピアノ担当が楽譜に起こしていく。ピアノ担当はな
んと、アリスとユリンだ。こっちの世界の男子は本当に芸達者であ
る。
アリスは貴族の嗜みだから当然だと言っていたけれど、ユリンと
ユアンは貴族ではないらしい。どっちにしても、この場でピアノが
弾けないのが私だけだという事実がちょっと悲しい。リコーダーと
カスタネットとトライアングルなら任せてください。
ユアンも弾けるらしいけれど、女と関わりたくないそうで必要以
上に近寄ってこないし、実は会話もほとんどない。それでも最初の
内はアリスにしか挨拶してくれないし、そもそも視線すら合わなか
ったけれど、反応があるまでおはようやおやすみを連呼していると、
心底うるさそうな視線をくれるようになった。出来ることからコツ
コツと。いや、この場合は出来ることからぴーちくぱーちくとだ。
⋮⋮年上のやる事じゃない気もする。
ちなみに、私を女扱いしてくれるなんてユアンは大物だ! とア
リスと一緒に感心していたら、双子に凄く微妙な顔をされた上に私
とアリスは本当に親友なんだなとしみじみ納得された。
566
アリスは酷く落ち込んでいた訳だけど、この場合、どの意味でも
落ち込むのは私じゃないだろうか。
そんな感じで過ごしていたある日、音を確かめながら楽譜に起こ
していたアリスが、何か思いついたのか私に手招きした。歌い終わ
って暇な私はひょいひょい釣られる。ぱっと立ち上がっても眩暈が
しなくなったし、挫いていた足は痛くないし、吐き気ももうない。
元気って本当に素晴らしいことだ。
﹁なぬ?﹂
﹁に﹂
﹁にぬ?﹂
﹁なにだ、このたわけ!﹂
私は別に、頬っぺたを引っ張ってもらうためにわざわざ近寄った
わけじゃない。アリスも引っ張る為にわざわざ呼びつけたわけじゃ
ないはずだ。引っ張る時は自分から移動してくる。全然嬉しくない。
ちょっとの会話でもたわけの嵐を頂いているけれど、それ自体は
別に苦ではない。アリスちゃんは親友として律儀に、私の珍妙な言
葉を直してくれているのだ。それはもう丁寧に、細かく、執拗に、
直してくれる。おかげで、私のほっぺはそろそろ餅になりそうだ。
頬っぺたを押さえてじりじりピアノに近寄る。私のその様子に、
即座に伸びてきていた手を引っ込めたアリスは鍵盤を指した。
﹁何か弾けるものはあるか?﹂
歌うのは出来てもピアノは弾けない。聞けば聞いたことあるかく
らいは分かるだろうけれど、曲名すら怪しい。ぶんぶんと首を振っ
て無理だとアピールしながら、はたと気づく。そういえば一曲だけ
何故か弾ける曲がある。ピアノは習っていないし詳しくも全然ない
のに、どうしてかこれだけは弾けるのだ。
私は立ったままアリスの横に並び、黒鍵盤に指を添えた。
皆ご存じ、猫を踏んでしまったあれである。最後はてってけてー
567
て、てんてんで〆る。何でこれ弾けるんだろう。周りも弾ける人が
多かった。でも、習った覚えのある人もいない。なんとも不思議な
曲だ。
アリスは面白そうに私の弾いた曲をなぞっていく。一度聞いただ
けである程度弾けるアリスが凄いのか、私が馬鹿なのか。
﹁軽快な曲だな。黒鍵盤だけというのも面白い。曲名は何というの
だ?﹂
﹁猫⋮⋮猫⋮⋮⋮⋮猫ふんじばった!﹂
﹁⋮⋮恐ろしい曲だったのか﹂
﹁踏みにじった?﹂
﹁貴様の故郷では猫に何の恨みがあるのだ!﹂
﹁失敬! 私、猫は好物にょ!﹂
﹁食べる、のか⋮⋮?﹂
物凄い方向に間違われたので、慌てて否定する。
﹁ち、違うにょ! す、好き! 猫、好き!﹂
﹁食べる、のか⋮⋮猫⋮⋮⋮⋮﹂
どうすりゃいいの。
ピアノは無理だけど、せっかくなので、チューリップが咲いたり、
しゃぼん玉が飛んだり、夕焼けで烏が鳴いたから赤とんぼ見ながら
でんぐり返ったり、こいのぼりが屋根より高かったり、ぼんぼりに
灯りをつけたり、クリスマスやお正月、誕生日も祝って歌っておい
た。
あんまり意識したことはなかったけれど、歌って意外と覚えてい
るものだ。小さい時以来聞いてなかった歌も多いし、歌詞の二番三
番なんかは全く覚えていないけれど、なんだか懐かしい。卒業式定
番ソング繋がりで校歌も歌ってみたけど、中学校のと高校のが混ざ
った気がする。小学校のは覚えていなかった。
568
楽譜の量が結構な量になった頃、私の喉は枯れ、その日はお開き
になった。できれば枯れる前にお開きになってほしかった。そして、
枯れる前に気付きたかったものである。
﹁大丈夫よ、カズキ。カイル様が薬を作ってくれるわ!﹂
喉を抑えてあーあー言っていたら、ユリンが凄い勢いで顔を逸ら
しながら励ましてくれた。悲しい。
﹁悲しいにょ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮語尾はもう諦めるべきなのか? 最近は反射的に貴様を抓り
そうになって迷惑している﹂
アリスはぶすっと文句を行ってきた。言われても困る。これから
はおたふく風邪の時みたいに頬っぺたをガードしながらアリスと話
すべきかもしれない。
私は頬っぺたを守りながらアリスから距離を取る。
﹁ああ、そうだ。カズキ﹂
﹁なに?﹂
呼ばれたのでひょこひょこ近寄ってしまった。そんな私の小学校
時代の渾名は鳥頭である。ちなみに、中学校時代では鶏頭と呼ばれ
た。高校ではハヤブサと呼ばれた女はこの私である。かっこいいと
喜んだのも束の間、ハヤブサは猛禽類の仲間ではなくインコの仲間
だと知った時は可愛いと喜んだものだ。雀とも御親戚な感じだそう
で、とりあえず米粒貰って喜んでおいた。楽しい思い出である。
﹁近々、来客があるそうだ。後、服が届くそうだ﹂
﹁服﹂
﹁貴様の世界の意匠が凝らされているらしい﹂
ついに寝間着から卒業する日が来たらしい。どんな服だろう。可
愛いといいな。格好よくてもいいな。面白くてもいいな。もう、寝
間着以外なら何でもいいな!
569
ちょっとわくわくしていると、アリスの視線がふいーっと逃げた。
ユリンといい、アリスといい、みんな目を逸らしすぎじゃないだろ
うか。
﹁貴様が皆と協力して作り上げたそうだ﹂
﹁虚偽捏造!﹂
﹁私は採寸されたが⋮⋮﹂
﹁身に覚えの欠片がないにょ!﹂
私の扱い雑じゃないだろうか。まあ、採寸されなくても大丈夫な
タイプの服なのだろう。そうだ、そうに違いない。
無理やり自分を納得させていたら、ユリンが、あっと声を上げた。
﹁私が代わりに採寸されたよ!﹂
﹁どうもありがとう!﹂
採寸さえも仲間外れだったけれど、後日届いた服のサイズはちょう
どよかった。流石プロの皆さん。素晴らしいお仕事です。
服は、胸元が着物みたいに合わせるタイプで、腰は太目のベルト
で縛って裾が長い。前は太腿くらいまでの長さなのに、後ろは膝裏
まである。袖は軍服みたいに硬く折れ曲がっていて裏地が見える。
生地は黒で、前後の長さの違いで見える裏生地は赤、襟や袖に入っ
ている線や模様は青だった。何でも、黒曜の黒、ブルドゥスの赤、
グラースの青を取り入れたそうだ。作ってもらって文句は言わない
けれど、ユリン伝手に﹃好きな色は?﹄と聞かれて、水色と即答し
た分は欠片も取り入れて頂けなかったらしい。
黒のズボンを穿いたら、裾が長かった。ブーツの中に押し込んで
隠す。採寸してもらえなかったつけがここで現れた。つまり、皆様
が想定していたより私の足は短いと、そういうことですね! 胴長
ですみません。後、甲高です。ブーツが入って本当に良かった。
それにしても、約一か月でここまで仕上げた衣装担当の皆さんは
570
本当に凄い。市井の皆さんにお披露目された物は二週間かかってい
なかったはずだ。何が広まったのかは知らないけれど。
久しぶりに寝間着以外の服を着たので、初めて制服を着た時みた
いに身が引きしまる思いだ。下に着ているハイネックの中に入って
しまった髪を引っ張り出した時に、アリスから貰った耳飾りが引っ
かかって、慌てて髪のほうを引っこ抜く。装飾品をつけ慣れていな
いので、未だにやってしまう。気をつけよう。友達の証をぶちっと
千切ってしまったら目も当てられない。
姿見の前でくるりと回ってぴたりと止まる。ちょっとコスプレみ
たいだけど、格好いいから気分は上々だ。よしっと気合いを入れた
時、ノックが聞こえた。
﹁どんじょ﹂
﹁第一声で噛むな﹂
そう言われましても。発音まで気を付けていると、別の何かが抜
かっていく仕様です。
部屋に入ってきたアリスも私と同じ恰好をしていて、思わず瞬き
してしまう。
私の視線に気づいたアリスは、自分の恰好を見下ろした。その耳
にも、お揃いの耳飾りが揺れる。
﹁貴様付きだと分かりやすいからな﹂
へーっと思ってアリスを眺める。大変良くお似合いです。忘れが
ちだけどアリスちゃんはイケメンだ。そのイケメンと同じ服装同じ
装飾品で並べられる自分が可哀想になる。まあ、胴長短足平たい顔
では私の断然圧勝ですがね! 悲しい。
違うのは、アリスの腰にあるのは剣帯で、当然剣を差しているこ
とくらいだ。
﹁あ﹂
﹁何だ?﹂
よく見てみるとアリスの前合わせが逆だった。
571
﹁アリスちゃん、前﹂
﹁前?﹂
﹁差向かって逆方向だぞろ﹂
自分の襟をちょっと持ち上げて示してみる。
﹁それは死者衣装。死体に着用させる着方﹂
﹁そんな規定があったのか﹂
剣帯ごと剣を渡されて、慌てて両手で持っている間に、アリスは
さっさと服を直した。
﹁ユリンとユアンは?﹂
いつもはどちらかが必ずいるのに、アリスの後ろには双子のどち
らもいない。
﹁今日は来客が多いからな。手が回らないのだろう。行くぞ﹂
﹁どの辺に?﹂
﹁どこに、だ。来客があると言っただろう﹂
私への来客だとは思わなかった。久しぶりに部屋から出て浮かれ
ながら首を傾げる。もう二か月近く滞在しているのに、全く知らな
い廊下をわくわく歩いていたら、曲がり角を曲がり損ねて角で肩を
打ち、階段は最後の一段を踏み外した。
ちょっと浮かれすぎた。地味に痛い。アリスちゃんの心底呆れた
視線はかなり痛い。
アリスちゃんに連れられてきた部屋は、私がいた場所から結構離
れていた。一度も外に出ていないから同じ屋敷内なのだろうけど、
階を移動して、あっち曲がってこっち曲がってを繰り返したおかげ
で、一人で部屋に帰れる自信は全くない。帰りは絶対にアリスに引
っ付いていよう。
アリスがノックをしている横で、ムンクさんが叫んでいらっしゃ
る顔に見える壁の模様が気になって同じ顔をしていたら頭を叩かれ
た。
﹁失礼します﹂
572
そのまま中に押し込まれる。中には、カイリさんと、騎士らしき
人三人。そして、光沢のある綺麗なドレスを着た、綺麗な女の人が
いた。結われていても分かる程、長くたっぷりとした金髪に、目も
眩みそうな体型です。
女の人は、私が部屋に入ってくるなりさっと立ち上がり、止めよ
うとする騎士達を手だけで制止させる。そして、私の目の前に立っ
て、心なしか胸を張るように口元を吊り上げた。
﹁久しいわね、黒曜﹂
美女から笑顔で差し出された手が嬉しくて、私は満面の笑顔で握
手を受けた。
﹁どちらさまで!﹂
額まで綺麗な美女に青筋がぴっと走る。
﹁グラースの第一王女、ヴァミリアです!﹂
憤怒の顔で私の手を握り潰した美女がまさか、昔ドヤ顔してみせ
てしまったお子様だったとは思いもよらなかった。うわぁと喜びが
湧き上がる。月日って本当に凄い。あの小さかった女の子が、こん
な絶世の美女になるなんて!
﹁巨大化してます! 丸々と太ったですよ! 何よりですぞ! 良
き事でござりますにょ!﹂
大きく成長なさって、お元気そうで何よりだと感動していたら、
凄い勢いでアリスに口を塞がれた。そして、ヴァミリア王女様の額
では、青筋が雷の如く縦横無尽に走り回っている。
﹁⋮⋮⋮⋮アリスちゃん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私、やらかしたな?﹂
そっと尋ねると、アリスは深く深く頷いた。
573
43.神様、美女と少し仲良くなれました
ヴァミリア様の綺麗な指が、優雅にカップを掬い取って口元に運
ぶ。
﹁⋮⋮貴女は、変わらないのですね﹂
﹁バムルア様は太っ⋮⋮[痛い痛い痛い]﹂
隣に座ったアリスが机の下で足を踏んでくる。やらかしたのは分
かるけれど、王女様を前にひそひそ続けるわけにもいかず、どの辺
をやらかしたのかが分からない。このままでは墓穴を掘り続ける気
がする。
慎重に行こうと、ごくりとつばを飲み込む。
﹁ヴァミリアです、ヴァミリアよ。昔は貴女を見上げたわたくしも、
貴女を追い越すほどに成長致しましたの。成長、しましたのよ。成
長﹂
﹁成長﹂
﹁そうです﹂
﹁巨大に成長なさ[痛い痛い痛い]﹂
アリスが踏んだままぐりぐりしてきた。どうやら、立派な墓石も
建ててしまったようだ。
青筋の行方を確かめると、青筋を湛えた微笑みで、ヴァミリア様
は一言一言強調してくれて聞きやすい。
﹁大きくなりましたの。子どもが、大きく、成長致しましたの﹂
﹁大きく﹂
﹁そうです﹂
青筋は走ったものの、昔は私のどや顔に顔を真っ赤に憤慨してい
た姿を思えば、本当に大きくなったものだ。あの頃から綺麗で、今
も面影がないわけじゃないのに全く気付けなかった。胸の中がじわ
りと温かくなるくらい感動する。本当に、あの小さかったあの子が。
574
﹁すっかり様変わりに武人さんになったのですね!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮騎士アードルゲ、正直に答えなさい。わたくし、それほ
どまでに、その⋮⋮ごつい、かしら﹂
言いづらそうに口籠ったヴァミリア様に首を傾げていると、今ま
で足を踏んでいたアリスに頬っぺた引っ張られる。結局引っ張られ
るのか。
﹁貴様はっ⋮⋮! 偉人をあれだけ美人と言い間違えたのに、どう
してこういう時は言えないんだ!﹂
﹁⋮⋮私、何と言った?﹂
﹁武人だ﹂
憮然と答えられて、慌ててヴァミリア様に向き直る。こんなに麗
しく成長なさった一国の王女様を武人と呼んでしまうなんて。そり
ゃ、ごついと言われたのかと勘違いされるはずだ。
﹁申し訳ございません! 言い間違えたぞり! すっかり様変わり
に大きく成長して、丸々と肥え太った美人[痛い痛い痛い痛い痛い
]﹂
﹁申し訳ございません、ヴァミリア王女! 我が友は悪気だけはな
いのです! いや⋮⋮賢さも大して⋮⋮階段を落ちた事から運動能
力に長けているわけでも⋮⋮足は短く鼻も低い⋮⋮⋮⋮この者は、
悪気もないのです﹂
暗に他にも色々ないと言われている。事実なのが悲しい。
座らないで王女様の後ろに立っている三人の騎士達の目には、怒
りよりも憐れみが浮かんでいる。
ヴァミリア様は、んっと小さく咳払いをした。流石王女様、咳払
いまで上品だ。そのままにこりと微笑まれると幸せな気分になれる。
その青筋さえなければ。
﹁ねえ、黒曜、貴女とは二人きりでお話ししたいわ。女同士、堅苦
しい席ではなく、ねえ? 殿方のいない場所で、二人きりで再会を
喜びましょう﹂
目が全然笑っていなかった上に、額の青筋の嵐が怒りを如実に現
575
している。アリスは片手で顔を覆って呻き、騎士達の目は憐れみだ
けになったが、カイリさんは欠伸をしながら髭の剃り残しを確かめ
ていた。どうやら、また徹夜だったようだ。毎日お仕事お疲れ様で
す。
そして、目の前に美女。以上! な席が出来上がった。一国の王
女様と二人っきりという状況なのに、アリスだけでなく彼女の護衛
のはずの騎士達まで心配げな瞳を向けていたのは私にだった。まあ、
それだけやらかしたわけですが。
美女は伸びた背筋のまま、またお茶を飲んだ。やらかした自覚は
あるので、私は唾を飲み込む。笑顔だ。笑顔が大事だ。日本人なら
できる!
ほとんど音をさせずにカップを置いた王女様は、静かに私に視線
を合わせた。
﹁黒曜、元気そうね﹂
﹁てめぇのせいでな!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮おかげさまでと、言いたいのかしら?﹂
﹁申し訳ございません﹂
早速やらかした。
﹁満面の笑顔で罵られるとは思わなかったわ⋮⋮﹂
ぶつぶつ言いながら長い睫毛が何度か瞬く。睫毛の下では、綺麗
な紫色の瞳がじっと私を見ていた。
﹁話には聞いていましたが、本当に、あの頃のままなのですね﹂
﹁王女様は、ご、ご、ご機嫌うるるわせくであららせみられますた
ようでおよろこぶ申し上げます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮無礼はもう今更よ。聞きづらいわ。普通に喋りなさい。
貴女に作法なんて求めてはいません﹂
去り際にアリスが教えてくれた言葉を言おうとしたけど、見事に
576
舌が絡まった。自分でも何と言っているのか分からなかったので、
そう言って頂けてほっとした。
﹁怒髪天⋮⋮怒ってはない?﹂
﹁昔でしたら即刻罰を与えていたかもしれません﹂
﹁勘弁願います﹂
へこりと頭を下げると、ヴァミリア様は初めてちゃんと笑ってく
れた。
﹁今は、分かりやすい貴女が心地よいと思うくらいは疲れているの。
そのくらい、成長したのよ。成長、成長ですよ。私も大人になった
の﹂
あの小さかった女の子がと、何だか目頭が熱くなる。気分はすっ
かり親戚のおばちゃんだ。
﹁お年を召したのですな⋮⋮。ご年配になられて、およろこぶ申し
上げます!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮成長と仰い﹂
やらかした瞬間は青筋が走っていくので大変分かりやすい。王女
様、どうもありがとうございます! そしてほんとすみません。
ふぅっと優雅に息を吐いたヴァミリア様が開いた瞳は、とても静
かなものだった。
﹁貴女は、これからのことを聞かされているのかしら?﹂
﹁いいえ﹂
﹁そう﹂
短く答えたヴァミリア様は、ちょっと困ったような顔で私を見る。
﹁わたくしも、昔はよく仲間外れにされてもどかしい思いをしたも
のよ。話を聞かされても何も出来なかったでしょうし、気を揉むだ
けだったかもしれないけれど、口惜しいものよね﹂
﹁はい﹂
﹁相手が心配してくれているのが分かるから、余計に聞けなくなっ
577
てしまうの。役立たずと蔑まれていたのなら意地でも暴き出してや
ろうと思えるのに、わたくしが心痛めることのないようにと隠され
てしまうと、何も知らないまま笑っていなければならないのよ﹂
ちらりと私の肩越しに扉を見た視線の動きで、ああ、だから二人
きりになるように言ってくれたのだと今更気が付いた。
﹁黒曜﹂
﹁はい﹂
﹁戦になるわ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁だから、わたくしはここにいるのよ。兵を連れて、ここにいるの﹂
三百年続いた戦争の中で、互いの国の守護伯は国境を守りきった。
けれど今、ブルドゥスは内側から侵略を受けて、落ちた。ガリザ
ザを後ろ盾として、グラースとブルドゥスの兵が協力したというの
だから皮肉としか言いようがない。
その軍は、国境を落としにやってくる。何とも奇妙な話だ。国の
国境を落としにきた軍と、同じ服を着た兵同士が争うのだ。
﹁ロヌスターの沖合にガリザザの軍が確認されています。運良く嵐
が足止めしていてくれていますが、嵐が止み次第上陸されるでしょ
う。あれが上陸し、王都を目指す前に、せめて迎撃の態勢だけでも
整えなければなりません。ブルドゥスとグラースが落ちれば、あれ
は、この大陸を飲み込むでしょう。あれが姿を現して、偽黒を支持
していた民が気づいたとてもう遅い。この大陸で、我々以上の軍を
持った国は存在しないのです。一度落ちてしまえば、大陸自体がガ
リザザの手に渡ってしまう。その為には、何より、民意を一つに纏
め上げなければなりません﹂
カイリさんが急いで日本の文化を浸透させようとしていた理由が
今更分かった。もう、時間がなかったのだ。自分達が属している場
所の正当性が認められなかった住人達はどうするのか。最悪の場合、
578
ここも内側から崩れていくことになる。そうなった時、終わるのは
ブルドゥスという国だけじゃない。大陸自体が呑み込まれる。
だから急いだのだ。皆急いでいた。でも、誰も言わなかった。ア
リスさえ、何も教えてくれなかったのは、意地悪じゃない。
優しすぎると変な文句が出そうになって飲み込む。おかげさまで
追い立てられるように元気にならなくて済んだのだ。薬の量と頻度
はちょっと多かった気もするけれど、穏やかに過ごせた一か月間は、
彼らの優しさだった。
﹁一か月で何とかグラース内の乱は落ち着かせました。火種は未だ
燻り続けていますが⋮⋮後は残してきた者達に任せます。父王も兄
も不在の状況下で⋮⋮皆、よく頑張ってくれました﹂
﹁バム⋮⋮バミル⋮⋮バ、バミリア様も、大変奮闘致したことで﹂
﹁言いづらければヴィーで結構よ﹂
﹁ブイー﹂
﹁せめて愛称くらいは発音なさい!﹂
面目ない。口の中でブイブイ言って練習する。でも、中学校の時
からなのだけど、ヴァ行の発音がそれはもう苦手で苦手で。﹃下唇
を噛んでヴィ﹄と教えられても、ブーイブーイ言い続けた挙句、噛
み切った馬鹿はこの私だ。
﹁ブイー、ブイー、ブーイ﹂
﹁ヴィー﹂
﹁ブビ﹂
﹁こんなにも相手を殴りたい気持ちになったのは生を受けて初めて
だわ。喜びなさい、黒曜。グラースの王女を野蛮な気持ちにさせた
のです。誇っていいのよ?﹂
せめて平手でお願いします。
ゆっくりと持ち上がってきた握り拳に全力で頭を下げた。
579
スパルタ先生のおかげで、なんとか不恰好ながらも発音できるよ
うになった。王女様を愛称で呼べるという光栄の極みより、体育会
系の感動が残ったが。
﹁ありがとう﹂
お礼を言おうとしたら先を越された。教えてもらったのはこっち
なので首を傾げる。
その先で、ヴィーは頭を下げていた。一本の乱れなく結われた頭
の分け目や旋毛部分は、髪や飾りで覆われている。
慌てて顔を上げてもらおうとしたけれど、王女様の肩を掴んで引
き上げていいものか悩んでしまい、結局わたわたと両手を振るだけ
になってしまう。ヴィーは指先まで綺麗な掌を揃えて、頭を下げた
ままだ。
﹁貴女を巻き込むわたくし達の無力を、どうかお許しください﹂
﹁ヴィー、頭部上げて、ヴィー!﹂
わたわたしていた手が細い指に掴まれる。ゆるりと上がった視線
が私の耳を見て、ふわりと緩む。
﹁騎士アードルゲと揃いの契りですね。⋮⋮わたくしも、持ってい
ます。友が、おりますの。王都で兄はきっと生きています。そして
わたくしの友も、決して諦めず状況を打破しようと懸命に奮闘して
いることでしょう。⋮⋮どうか、貴女の力をお貸しください。民の
信頼を失った王族と、反逆者と名指された誇り高き守護伯の為に、
どうか、手を貸してください。貴女の存在が、黒曜という名の存在
が、民の心を取り戻す光となるのです﹂
﹁友⋮⋮﹂
私にそんな壮大で重要なこと出来ないとか、私の存在が凄まじい
偶像化してるとか、色々思う所はあったけれど、私が拾えて口に出
せたのはそんな何気ない言葉だった。
580
ヴィーはドレスの胸元から一本の首飾りを取り出して見せてくれ
た。同じ大きさの紫色の石と金色の石が並んでいる。
﹁わたくしとブルドゥスの第一王女アルヴァラは、唯一無二の親友
なのです﹂
ちょっといたずらっ子みたいな顔で笑ったヴィーに驚いた。
﹁王子様方々は、大層犬猿の仲でした﹂
﹁あら、わたくし達は殿方のような意地の張り合いは致しません。
まあ⋮⋮その、色々と、ありますけれど﹂
ちょっと気まずそうにヴィーの顔が逸れる。
﹁色々﹂
﹁⋮⋮⋮⋮その、まあ、色々、かなり﹂
﹁かなり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮主に、騎士ルーナのことで﹂
予想だにしない名前が飛び出してきて、思わず吹き出してしまっ
た。そういえば、今尚ルーナを想っていると聞かされていたはずだ。
なのにすっかり忘れていた。
ヴィーは、ちょっともじもじしながら視線を逸らし続ける。その
耳が赤い。
﹁だ、だって、素敵なのですもの! あの、物語の挿絵から飛び出
してきたかのような立ち姿! 誰と交わしても決して膝をつくこと
のない剣の優美さに、それを奢らない清廉な心!﹂
﹁セイレン!﹂
って、何!
﹁奢らず、貶さず、我欲に走らず、常に騎士の鏡として燦然と輝き
続ける若き騎士が、目も眩むような美貌なのですよ!? 慕わない
女がどこにいます!﹂
﹁サンゼン!﹂
って、何!?
いま質問できる雰囲気ではないので質問を飲み込む。後でアリス
ちゃんに聞こう。覚えていれば。
581
セイレン、サンゼン⋮⋮セイレン、サンゼン⋮⋮センゼン、サン
ザン⋮⋮センセイ、サンザン⋮⋮先生、散々!
原型どこ行った?
早速忘れて必死に思い出していると、ヴィーは口端を吊り上げて
皮肉気に笑った。
﹁しかも、貴女一筋です。⋮⋮⋮⋮最高でしょう?﹂
思わず咽こむ。
﹁ヴィーは⋮⋮ルーナが﹂
﹁好きです。ずっと、あの方をお慕いしております﹂
十年で、少女は美女になった。けれど、その瞳は変わらない。大
きく綺麗な紫色の瞳がちょっと熱で潤んで、幸せそうに綻ぶ。その
先には、いつだってルーナがいた。
どうしよう。いや、こればっかりはどうしようもないけれど。
多分、私は見るからに挙動不審になっているだろう。おたおたと
両手を上げ下ろし、きょたきょたと視線を彷徨わせる。きょろきょ
ろさせるほど範囲は広くない。ヴィーを見たり、ヴィーを見たり、
逸らして見たり。
そんな私の様子に、ヴィーは楽しそうにころころと声を上げて笑
う。
﹁あら、焦っているの? どうしましょう、わたくしこんなにも魅
力溢れる女になってしまいましたし、焦るのは致し方ありませんね。
そんなに悩んで⋮⋮どうしましょう?﹂
これは女の決闘とかやるシーンだろうか。手袋投げつけて決闘だろ
うか。どうしよう、手袋持ってない!
﹁て﹂
﹁て?﹂
﹁手袋取得してくるじょ!﹂
﹁せめてわたくしに関係ある事柄で悩みなさいよ!﹂
青筋の嵐!
関係はあるんだけど、それをうまく説明できないでわたわたして
582
いる私に、ヴィーは呆れた目を向けた。
どうしよう。どうしようもないけど、どうしよう。
それに、ルーナは。
ぎゅっと拳を握ると、それに気づいたヴィーが私の手を取った。
細くて、綺麗な指だ。
﹁⋮⋮大丈夫よ。騎士ルーナは生きています﹂
驚いて顔を上げると、ヴィーは真剣な瞳で私を見つめていた。
﹁だって、そうでないとおかしいもの﹂
﹁え?﹂
﹁わたくしは、ずっとあの方を見てきました。ずっと、お慕いして
きましたから。けれど、あの方の背中や横顔ばかりです。あの方の
瞳はいつでも貴女を探していました。⋮⋮わたくし、貴女が再び姿
を現したと聞いて、嬉しくてならなかったのです﹂
両手で私の手を握って、顔の前まで持ち上げたヴィーは、ちょっ
と泣きそうな顔をした。慌ててされるがままだった手を握り返す。
泣きそうな人を見ると慌ててしまう。私が握り返したところで何が
できる訳でもないのに、ヴィーは嬉しそうに笑ってくれた。
﹁これでやっと、あの方が笑ってくれるのだと思って、本当に嬉し
かった。⋮⋮大丈夫よ、黒曜。十年間、ずっと貴女を探し続けてき
たあの方が、ようやく貴女と出会えたというこの時に死んだりする
はずがありません。きっと生きています。そうでないと、このわた
くしが許しません!﹂
﹁わ、わしも許さないじょり!﹂
﹁わし!?﹂
﹁噛んだじょり⋮⋮﹂
勢い込んだら老人みたいになった。
言い方は残念になったけれど、私もヴィーと同じように信じてい
る。絶対会える。絶対、ルーナは生きている。絶対だ。根拠はない
けれど、そう、信じている。
583
ぐっと両手を握り返したら、ヴィーはくすりと笑った。
﹁他の誰ともこのような話はできませんが、ヴァルとならお互いを
律さず心のままに語り合えるのです。あの方は決してわたくし達を
見てはくださいませんでしたが、わたくし達はそれでもよかったの
です。少し言葉を交わせただけで、お互い自慢しますのよ。わたく
しの方が多く見て頂けた、わたくしの方が多く言葉をかけて頂けた、
と。まあ⋮⋮その、それでよく、その⋮⋮諍いも、しますけれど﹂
﹁バム﹂
﹁誰ですの、それ﹂
いきなり真顔になるのは、ほんと勘弁してほしい。
さっきまでの、顔をほんのり赤くさせてもじもじ身を捩っていた
可愛い人はどこに行ったというのか。
﹁わたくしの親友の愛称を呼ぶ許しを差し上げたというのに!﹂
﹁ビャル﹂
﹁ですから、誰ですの、それ﹂
﹁バムゥ﹂
﹁黒曜﹂
にこりと笑ったヴィーの額に縦横無尽に走り回る青筋。ゆったり
と優雅に持ち上がってくる握り拳。
﹁誇っていいのよ⋮⋮?﹂
瞬時に私の額はテーブルにめり込んだ。
土下座する時間も惜しかった。後ちょっとでも遅かったら、王女
様の高貴な握りこぶしが私の頬にめり込んでいた気がする。これ、
絶対脅しじゃない。本気だ。
テーブルに額をめり込ませている上で、ふぅと上品なため息が聞
こえてきた。
﹁黒曜、わたくし達はね?﹂
﹁はい﹂
﹁最早、あの方に選んで頂けるなどという幻想を抱いてはいないの
584
です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
さあ、顔を上げてと優しい声と手に促されて身体を上げた私は、
壮絶な笑顔を見つけて動きを止めた。背中を嫌な汗が流れていく。
﹁でもね?﹂
﹁は、はい﹂
﹁それもこれも、あの方が誰にも余所見をせず一途に貴女を想って
いたからであって、別に貴女に負けただなんてこれっぽちも思って
はいません!﹂
﹁おっさる通りでござります!﹂
﹁誰が猿よ!﹂
﹁仰れるられる通りでございます!﹂
暴れ回る青筋に三度土下座の用意に入った私の肩が、むんずと掴
まれる。頭突きをくらいそうなくらい美女の青筋が近い。
﹁更に!﹂
﹁はい!﹂
﹁どこの馬の骨とも知れない女が黒曜を名乗って、世間的にあの方
の隣に立つ理由を得たのが気にくわないなんて、これっぽっちも思
っていませんわ︱︱!﹂
﹁仰れるれるれうれうれうれる!﹂
がくんがくん揺さぶられて目が回る。
尋常じゃない声量に驚いたのか、廊下で待機していたらしいアリ
スちゃんと騎士三名が﹁失礼します!﹂と飛び込んできた。
そんな彼らが見たのは、私の胸倉を掴んで馬乗りになったヴィー
と、がんがん揺さぶられて上着が肌蹴た私である。
沈黙が落ちた部屋の中で、ヴィーがぽつりと呟いた。
﹁⋮⋮⋮⋮わたくしの行き遅れ理由が、また一つ増えました﹂
﹁⋮⋮災難ですにょ﹂
﹁他人事のように!﹂
585
﹁さ、災難ですにょ︱︱!﹂
﹁言い方を変えればいいというものではありません! もう、もう
っ⋮⋮! 貴女と再会した際には、もう昔のわたくしとは違うのだ
と言えるように努力してきましたのに! 貴女、もう、どうしてそ
う珍妙なのよ! もうっ、馬鹿︱︱!﹂
結局ヴィーにも頬っぺた引っ張られた。
両手でみょんみょんされながら、私、一生化粧しないほうがいい
んじゃないかなと全然関係ないことを思った。
586
44.神様、少し頬っぺた伸びました
ひゅんひゅんと軽い音をたてて刃がきらきらしている。偶にびゅ
んっと重い音がするのは力の入れ方が違うんだろう。
私の視界の中では、髪を縛った双子が剣を交わしては喧嘩し、距
離を取っては喧嘩し、踏み込んでは喧嘩し、避けては喧嘩している。
﹁元気溌剌いい天気ぞねぇ﹂
﹁元気と天気、どちらを喜んでいるのか分からん﹂
﹁元気溌剌じょー﹂
﹁だからどうして語尾が珍妙に彷徨うんだ﹂
﹁いいやすり﹂
﹁言いやすい、だ⋮⋮⋮⋮貴様の舌基準の言いやすさが分からん﹂
ようやく動き回れるようになったので、私はアリスちゃん達の朝
の鍛錬の見学をさせてもらっている。今までは窓から外を見ている
だけだったので鈍りきった身体を何とかしようと思ったのだ。
リハビリの専門的な知識なんてないし、いきなりマラソンだと体
も心も折れそうだったので、ラジオ体操から始めることにした。
三人がそれぞれ鍛錬しているのを眺めながら、一人で﹁ちゃーん
ちゃらちゃちゃちゃちゃ﹂とBGMから始めていたら、三人にひそ
ひそされた。歌詞があるところはちゃんと歌ったのに、更にひそひ
そされた。どうやら異世界の不可思議な儀式について話し合ってい
たらしい。﹁これなる行動は、老若男女、知らぬところなしじょ!﹂
と答えておいた。
日本人なら誰でも知ってる馴染み深い音楽と行動なのに、三人に
は物凄く微妙な顔をされた。
587
柔軟したり、走ったり、剣を合わせたりと、一通りいつもの動作
を終わらせたアリスちゃんは、今は私の後ろに座って普段腰に差し
ている剣の手入れをしている。といっても、ちゃんとしたのは夜に
部屋の中でしているそうなので、ただの点検だそうだ。
私達が座っているのは岩だ。アリスちゃんは貴族なのに結構大雑
把である。お揃いの上着は近くの枝に引っ掛けた。大きさの違いは
あるけど、うっかり間違えてアリスのを着てしまいそうだ。
[あいうえおー、かきくけこー、さしすせそー、いろはにほへとー、
ちりぬるはー、なんちゃらかんちゃらー]
﹁⋮⋮⋮⋮気のせいか、最後がひどく適当に聞こえたぞ﹂
﹁事実ぞろ﹂
﹁事実なのか﹂
﹁じょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私への返事も適当じゃないか?﹂
﹁ごめんぞ﹂
低くなった声に素直に謝ったら後ろ向きのまま肘で背中を小突か
れた。ごめんってば。
足元で何か分からないけど白い塊運んでる蟻に見入ってました。
蟻さん達が私の足がある場所まで来たので足を上げて道を作ってや
る。蟻にとったら私の足を迂回するだけでも大変な距離だろう。
ちょみちょみと動いて通りすぎていく蟻にエールを送って、私は
伸びをした。
﹁アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
アリスが剣をしまったのを確認して、その背中に凭れる。鍛えて
いるアリスはそれしきのことではびくともしない。
﹁出発進行はいつ如何なる時期?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何?﹂
588
凭れていた背中が強張った。
私の翻訳に対する質問じゃないと分かっていたので、そのまま続
ける。
﹁戦闘開始、いつ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮誰、から、聞いた?﹂
﹁ブイー⋮⋮ヴィ、ヴィー﹂
せっかく練習したのに失敗した。ヴィー、ごめん。もっと練習し
ておくから許して。
アリスは私の答えを聞いて、強張らせていた力を長い溜息と一緒
に抜いた。
﹁⋮⋮⋮⋮すまん。どう切り出せばいいか、分からなかった﹂
﹁理解するしてるにょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮すまん﹂
言いにくかったのだろう。アリスは真面目だから、言い方とかタ
イミングとか色々凄く悩んだと思う。やっと終わった戦争が国を割
る形で始まることも、そこに私が担ぎ上げられることも、言えなか
ったのだ。
後頭部をアリスの背中に押し付ける。
﹁大丈夫。大丈夫、アリス。私、大丈夫、ありがとう﹂
たぶん、悪いのは、こんな事態なのに傷ついたり落ち込んで立て
なくなると心配させた、私の弱さだ。
アリスの前で大泣きしてしまったあの日、たぶん、ひどく怖がら
せてしまったと思う。
元とはいえ、年上の私が大泣きしたらびっくりさせたはずだ。そ
う思うのは、私自身泣いている人を前にしたら、たとえ相手が子ど
もでもひどく狼狽えてしまうからだろうか。
それに、アリスは優しい。優しいから、余計に悩ませた。
﹁アリス、私、意外と強敵なのじょ?﹂
589
元年上として、元年下を悩ませるなんて言語道断だ。
﹁だから、ありがとう、大丈夫﹂
私、意外と強いから、アリスが私の分まで背負いこんで悩まなく
ていいんだよ。私の分は私が背負ってちゃんと消化するから、アリ
スはアリスの分だけで悩んでください。そんでもって、お互い消化
できたら一緒に遊ぼうよ。それが友達ってものだ。
ぐいぐい押すように凭れて仰け反ってみる。アリスは押されるが
まま俯いていき、また一つ長いため息を吐いた途端、ぐいんっと滑
るように押し返してきた。
﹁ぐぇふ!﹂
力任せに押し返すんじゃなくて、私を折り畳むみたいに身体を滑
らせてきたアリスに伸し掛かられて女子力皆無な呻き声が出る。
[重い重い重い!]
人の背中でブリッジしないでください。先にしたのは私だけど!
私はアリスを支えきれず前につんのめってべしゃりと潰れたのに、
アリスは共倒れになる前にさっと立ち上がっていた。このやろう、
親友め。
﹁これで意外と強いと言われても困惑ものだな、親友?﹂
そんな私を見下ろして、アリスは鼻で笑った。このやろう、親友
め!
いーっと歯を剥き出してやろうと思ったけれど、王子様方の猿の
威嚇を思い出してちょっと躊躇った私の前に手が差し出される。
﹁ほら﹂
このやろう、親友め、大好きだ!
何だか友情を深め合えたような気がしたけれど、出発がまさかの
明日だと聞いた時は、思わずアリスの背をばしばし叩いてしまった。
アリスも甘んじてそれを受けていたのは、自分でもちょっとと思っ
たのだろう。
590
私のことを気遣ってくれるのは大変ありがたいのですが、贅沢を
いうなら心の準備をする期間を設けて頂けると更に嬉しかったです
! しかしその晩、明日のことを考えながらベッドの上をごろごろし
ている時に気付いた。
よく考えたら一晩は余裕がある訳だし、私の頭脳では行き当たりば
ったりでなるようになったほうが勢いでいける気がする。無意味に
くよくよする時間がないほうがいいこともある、はずだ。
成程、私の親友頭いい!
ありがとうアリスちゃん!
私はベッドの上で隣の部屋に向けて土下座し、心地よく眠りにつ
いた。
そして、アリスちゃんのブリッジに押し潰された私を蟻が助けて
くれて、二人で女王蟻がいる場所に連れて行ってもらったら、そこ
にはルーナがいた、という夢を見た。
目が覚めたら目の周りがかぴかぴになっていたので、頬っぺたを
ぱんっと叩いて気合を入れる。
[よし、がんばろー]
幸先いい夢だ。
嬉しくて抱きつこうとしたら、すいっと避けられて地面と熱烈に
ちゅーしたけど、たぶんいい夢だった!
でも、朝の挨拶を交わしたアリスちゃんの脇腹は突っついておい
た。何となく八つ当たりです。ごめんね、アリスちゃん。
591
﹁ほら、笑いなさい。貴女の得意分野でしょう、黒曜﹂
﹁ふ、ふへへ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮鉄壁の笑顔を身につけたわたくしの頬を引き攣らせ
るのは、流石としかいいようがないわ﹂
私とアリスとヴィーとカイリさん、ヴィーとカイリさんの騎士は
天井が高い馬車に乗って、たくさんの人の前を通っていく。道の真
ん中を兵士が行軍し、左右にはグラースとブルドゥスの旗を降る人
々が歓声を上げていた。
アリスと騎士達は片手を胸に付けた礼の姿勢のままだけど、私と
ヴィーはそれぞれ利き手を肘より先の部分だけ揺らして手を振る。
肩や二の腕を動かして大きく振るな、けれど離れた人からも振っ
ているのが見えるようにというヴィーの指示だ。ちらちらとヴィー
の所作を盗み見て、何とか体裁を保つ。
今日のヴィーの服はドレスではない。上だけ見ればかなり豪華な
軍服に見える。あちこちに装飾品はついているし、下は長いスカー
トだけど、上の部分は襟付きで前にボタンもあった。
カイリさんも、きらきらする留め具で止めた分厚いマントを羽織
って片手を上げている。格好いいです。
私は帯が太くなった。以上! 終了!
私達が乗っている馬車は、天井だけじゃなく車高も結構高く作ら
れている。馬車というより、豪華な荷台にも思えた。いや、荷馬車
も馬車だけど。だって天井といっても幌みたいだ。緻密な細工が施
された柱が六本、そこに綺麗なレースみたいな布が張られている。
私もちゃんと幌って言葉を知ってるんだよとアリスに胸を張った
ら、せめて天蓋と言えと怒られた。
確かに、幌の馬車だったらこの状況は豪華なドナドナだ。
悲しそうな瞳で見てなるものかと、引き攣った笑顔を保った。中
途半端に高さがある方が、高層ビルから下を見るより怖い気がする。
592
見下ろしても、まっすぐ前を見ても、たくさんの人がうごうごし
ているのが見えてちょっと酔いそうだ。全校集会で前に立つときよ
り緊張する。
あれは何かの賞を取った時だった。確か工芸の授業で何かの賞用
の何かを作った時のことだ。細かいことはあんまり覚えていないけ
れど、私の前の人達が賞状と景品を受け取り、それを片手で持って
右手で校長先生と握手しているのを見ていた。いざ私の番になり、
緊張しながら賞状を受け取り、さあ賞品を! 意気揚々と待ってい
たら私の分はまさかの広辞苑だった衝撃。片手で持って握手とかも
う、何の鍛錬かと思った。
懐かしい思い出が蘇ってきたのも、この人の多さだろうか。それ
とも、これだけの人の視線が全部こっちに向いているからだろうか。
それとも、何だか学校で合唱したような、JでPOPなカラオケ
で歌ったような音楽が鳴らされているからだろうか。曲の終わりら
しき箇所はてってけてーのてんてんだった。
それとも、彼等の着ている物が原因だろうか。
彼等の服の首元からぴょこりと生えている物体には見覚えがある。
[フード⋮⋮]
男女ともに、服にフードがついているのが面白い。成程、あれが
﹃黒曜プロデュース、異世界のお洒落!﹄か! どうしよう。これ、日本のファッション関係者が見たら悲鳴を上
げるのではなかろうか。誰の所為でもないけれど誰かに謝りたい。
ごめんなさい。
でもまあ、この短期間で流行らせられるのは、比較的お手軽でお
手頃価格なものだろうから気持ちは分かる。分かるけれど。
[⋮⋮⋮⋮えーと]
彼らの服には文字が書かれている。異世界文化浸透はフードだけ
593
でなく、文字もあったようだ。
ただし、選び抜かれた文字が問題だ。
肌荒れ
にきび しみ
たるみ
に、これ一本!
のトレンド!
れで決ま をチェック☆
はNG! 便秘解消!
切れ毛枝毛はもうさよな
の新色は
顔が暗く見え
自然なウェーブをキー
文字のチョイスも切り方も悲しい。女性物のファッション誌で繰
り返し使われていた言葉が選抜されたらしいけれど、せめて一言ご
相談頂きたかった。目をキラキラさせている麗しいお嬢さん達が、
肌荒れ、の文字を背負っているのが申し訳なさすぎる。
﹁ねえ、黒曜﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
あまりの大惨事に俯きそうになった時、ヴィーに呼ばれて慌てて
顔を上げる。笑顔、笑顔が大事だ。
﹁あの藍色の服を着ている男性、見えるかしら﹂
﹁え?﹂
594
﹁あの方が持っている布に書かれた言葉、可愛らしくていいわね。
何という意味なの?﹂
ヴィーのにこやかな視線の先を辿って見つけたそれに、私は思わ
ず呻いた。
﹃二の腕ぷよぷよ。腹肉たぷたぷ。太腿ぷるぷる﹄
こっちの皆にとって、私の言葉ってこんな風なのかなと思うと、
今まで以上に申し訳なさでいっぱいになった。
微妙に耳に馴染んだ音楽を聞きながら笑顔で手を振っていたら、
高校の先生のお言葉を思い出し、周りで歓声を上げている人達を野
菜だと思うようにしたらあまり緊張しなくなった。
観客は野菜と思いなさいと、合唱コンクールで緊張するクラスに
先生は言った。そして発表の寸前まで、スイカは野菜か果物かで白
熱のバトルが繰り広げられてしまう事態となり、しっとりとした歌
だったのにまるで軍歌のようだったと審査員の先生達に評される結
果となった。
道を埋め尽くさんばかりに、人参、じゃがいも、玉ねぎ、南瓜、
長芋、キャベツ、大根など、延々と野菜が続いていく様を想像した
ら自然と笑みが浮かんでくる。
どうしよう、カレー食べたくなってきた。
涎も滲んできたのは想定外だ。
それにしても、こうやって今日出発したということは、ヴィーの
到着は本当にギリギリだったのだろう。それとも、到着次第出発だ
ったのだろうか。
595
﹁そうよ、いい感じです。ここに立つ者は不安を一切外に出しては
ならないのです﹂
ヴィーは穏やかな笑顔で手を振りながら、そう言った。
﹁何があろうと笑顔は崩さずにいなさい。敵には精神的な弾圧を、
味方には安堵を与えられますから、覚えておきなさいね﹂
ヴィーの笑顔が深くなる。なのに、声は淡々としていた。
割れんばかりの歓声の中でも聞こえるのは、私とヴィーの距離が
近い事と、こんな中での話し方をヴィーが心得ているからだろう。
﹁仮令この先何があろうと、もしも隣にわたくしがいなくなったと
しても、一人でここに立つことになっても、笑っていなさい。それ
が、民の希望として立つ者の義務です﹂
言われた内容に思わずヴィーを向く。すかさず前を向きなさいと
注意された。
﹁そんな顔をしては駄目よ、黒曜。笑顔は武器です。ほら、貴女の
数少ない得意分野でしょう。阿呆面なさい﹂
非常に難しい注文が来た。ただ笑えばいいだけでなく、阿呆面を
しなければならないとは⋮⋮⋮⋮いつも通りですね!
にへらっと笑ってみたら、素晴らしい阿呆面ですと褒めてくれた。
全然嬉しくないかと思いきや、褒められたのでそれはそれで嬉しか
った。
その時、長い沿道の中うわんうわんと続いていた歓声が乱れた。
それまで黙って片手を上げていたカイリさんが分厚いマントを翻
して私とヴィーの視界を覆う。何が起こったか分からず、尻もちを
つかないよう枠に手をかけた私の足が何かを蹴った。
掌サイズの石だ。
何でこんな物が隣を見ると、先程までの笑顔を仕舞い込み、無表
情になったヴィーがいた。
596
﹁グラースは出ていけ!﹂
いつの間にか静まり返った音の中、その声だけが響いた。
ざわりと大勢の声がうねった直後、がつんと鈍い音がして足元に
石が転がってくる。アリスか騎士かは分からないけれど、誰かが弾
いたのだと分かった。マントを広げたまま身体を私達に向けたカイ
リさんが、肩越しに見ている方向に石を投げた人物がいるのだろう。
たくさんの人が強く足を踏み出した音と何かが倒れた音がした時、
カイリさんはマントを下ろした。
騎士とアリスが、私達を中心に剣を抜いて背中を向けている。
すっと動いたのはヴィーだった。その動きに合わせて私も前に進
む。
そこにいたのは老人だった。老人は、痩せこけた皺だらけの手足
を振り回して暴れている。取り押さえようとしている人達も、下手
に手を出せば折ってしまうと思っているのか周りを囲んでなんとか
落ち着かせようとしていた。
﹁グラースがわしの息子を殺したんだ! グラースなど滅ぼしてし
まえ! グラースがブルドゥスの地を踏むなど許さんぞ! 息子が
守ったこの地を穢させてなるものか!﹂
老人は顔を真っ赤にして怒鳴った。
﹁お前達もどうして戦わん! グラースがこの地に踏み入ったのだ
ぞ!﹂
腕を振り回して叫ぶ老人は、結局自分の足に縺れて転んだ。けれ
どその身体のどこにそんな力があるのかと驚くほどの声量と怒気を
纏わせて、こっちを睨みあげてくる。
﹁呪われろ!﹂
唾を撒き散らし、眼球が飛び出さんばかりに睨み上げながら、老
人はそう言った。
﹁呪われろ、忌まわしきグラースの王族め!﹂
597
抜け落ちた歯の隙間が数えられるほどの大口を開けて、その言葉
が吐かれる。その口が、そして、と続く。
﹁グラースに加護を与えた黒曜も、呪われろ!﹂
罵声は、初めてじゃない。
ヌアブロウは私を殺そうとしたし、スヤマもそうだ。
﹁呪われろ! 呪われろ、呪われろ! わしの息子を奪った奴らは、
みな呪われて然るべきだ!﹂
見も知らない人達が私を見て喜んだ。その中には、私を嫌う人も
いる。
うまくできない息を細く吐き、吸う。
﹁はい﹂
穏やかな笑顔を浮かべたヴィーはそう言った。
﹁わたくしがブルドゥスの方々から恨まれるのは道理。呪いも受け
ましょう。ですがそれは、この戦いを終えてからです﹂
ヴィーの手が、下にいる人達には見えないように私の手を握った。
﹁老人﹂
それまで黙っていたカイリさんが静かに口を開いた。
﹁貴方の息子を死なせたのは、守護伯である俺だ。正確には俺の父
だが、恨む先はこの血統だ。矛先を謝るな。呪うのも俺にしておけ。
領民に殺されるなら、俺も本望だ﹂
淡々とそう言ったカイリさんは、突然馬車を飛び下りた。結構な
高さがあったけれど、危なげなく降り立つと、地面に転がる老人の
為に膝とマントを地面につけて手を差し伸べた。
老人は驚いたように目を丸くする。
﹁だからその恨み、この世代までにしてほしい。いつの時代も当た
り前のように血を吸っていた地面を知らない子ども達がいるんだ。
その子ども達は、もう、十になる。今再び開かれる戦火は子ども達
598
まで届かせはしない。必ず食い止めると約束する。だから、老人、
恨むなら俺にしろ。俺達を、戦を知る最後の世代にしてくれ﹂
老人の目が彷徨う。恨む先が彷徨う。彷徨って、私を見た。
それにつられるように、何故か、他の人も私を見た。
行軍中の騎士達も、軍士達も、沿道を囲む周り中の視線が一斉に
私を見る。野菜の暗示はとっくに解けていた。
何か言えと、言われている気がする。
背中を嫌な汗が伝い落ちていく。
強張る視線を向けた先で、アリスも同じ顔をしていた。その眼は
言う。何か言え、と。いや、何も言うな!? どっち!? [が、頑張ります!]
わあっと歓声が上がって波のように広がっていく。老人はカイリ
さんに支えられながら咽び泣いている。カイリさんは土で汚れた老
人の手も裾も気にせず、その身体を支えて立たせた。
心臓がばくばくいっている私の横にアリスが寄ってくる。緊張し
すぎで頭がふわふわしてきた。
﹁お前にしては上出来だ。よく思いついたな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何事を?﹂
アリスとヴィーの目が座っていく。
﹁⋮⋮⋮⋮お前の国の言葉で言ったことだ﹂
﹁え!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮偶然なのですね﹂
右にヴィー、左にアリス。
その二人が同じタイミングで深いため息を吐いた。でも、顔は笑
顔。怖い。
﹁黒曜、顔﹂
まだ握っていた手を握り潰される。痛い。
﹁皆が見ています、笑いなさい﹂
599
慌てて阿呆面を作ると、歓声は一層膨れ上がった。
歓声に応えるために上げられたヴィーの手を真似して、私も片手
を上げる。笑顔は大事、笑顔は大事。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
穏やかな笑顔を浮かべたアリスちゃんは私を見ない。私も出来る
限り見ないように会話を続ける。
﹁ドロワ・リェロとは、何ぞり﹂
﹁何だそれは⋮⋮⋮⋮もしかして、呪われろか?﹂
﹁それ﹂
﹁知らなかったの!?﹂
ヴィーの笑顔は引き攣った。
﹁⋮⋮⋮⋮知らんでいい﹂
﹁了解ぞ!﹂
町中を抜ければ行軍速度は一気に増した。私達は馬車から降り、
ヴィーは自ら馬を駆る。私は乗れないのでアリスに同乗させてもら
った。先に乗ったアリスに引っ張ってもらおうと思ったら、首根っ
こ掴んで引っ張り上げられた。どうもありがとうございます。首締
まりました。お世話かけます。服伸びました。
そうして辿りついたのはウルタ砦だ。十年前、私が捕えられてア
リスの兎パンツを露出させた、あの砦である。ここからさらに東に
行けば、ミガンダ砦があるのだと思うと意識がそっちにとられそう
になって慌てて戻す。
大きく頑丈な門が開かれていくとまた、割れるような、うおんっ
と空気を震わせる声が上がった。ここにいるのは先に待機していた
軍人と騎士達なので、町で聞いたような女性や子供の声が混ざって
600
いない分お腹にずしんとくる。
私達は馬に乗ったまま砦の中に入っていった。
﹁黒曜様だ﹂
﹁黒曜様⋮⋮﹂
﹁あれが、黒曜様﹂
馬車に乗っていない分距離が近く、彼等の言葉も困惑も伝わって
くる。
そうです、これが元祖黒曜です。二代目三代目とどんな黒曜が現
れようと、私より﹁え!? こいつ!?﹂みたいな顔をされる黒曜
は現れないでしょう!
二度見のカズキの名は伊達じゃない。私は満面の笑顔を浮かべた。
﹁どんじょ宜しく!﹂
どや顔で、舌はしっかり噛んだ。乗馬しながら喋るのって本当に
危険である。
外ではカイリさんとヴィーが皆の前で演説を行っている。
私はというと、この後出て行って皆に一言欲しいと頼まれている
ので、その言葉の組立に忙しい。だから、そういうことは早く言っ
てほしいものである。
そうして、樽の上に座って考えるカズキが出来上がった。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁言っておくが、私は手伝わんぞ。翻訳ならしてやる﹂
﹁何故にして!?﹂
私の懇願をアリスは鼻で笑った。これが私の親友だ。このやろう。
﹁融通の利かん私が定型文のような文章を作っても意味がないだろ
う。好きにしろ。そうやってミガンダ砦でも居場所を得たのだろう
が﹂
﹁黒曜の理想現実を打ち砕くが、宜しいか!﹂
﹁早いうちに砕いて、カズキで立場を築いておけ。お前が本物だと
601
いう信頼なら、伯への信頼が築いてくださっている。伯がお前を担
ぎ上げる以上、ここにいる者はお前を偽黒だと疑うことすらしない
だろう。だから後は、貴様としての居場所を確保しろ。貴様が原型
だというのに、あの黒曜像が気持ち悪くて堪らん⋮⋮﹂
﹁殺生な! いやしかし同感!﹂
﹁普通ではないのに絶妙に訂正を入れられない喋りをするな!﹂
﹁申し訳ございません!﹂
頬っぺたみょーんは既に日常茶飯事どころか、挨拶に近い。みょ
みょーんと伸ばされながら、私は決めた。どうせ取り繕ったところ
で化けの皮は剥がれるのが世の常だ。どっちにしても私がかぶれる
ような化けの皮なんてたかが知れている。百均とかで売ってると思
う。化けの皮105円!
絶対買わない。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
﹁懇願しても宜しいか?﹂
﹁⋮⋮頼むから普通に願ってくれ。願う⋮⋮お願いが妥当か? お
願いだ、お願い﹂
﹁おめえがいい!﹂
﹁突如変貌を遂げさせるな︱︱!﹂
これからお願いする相手の噴火させてしまった私は、誠意を見せ
ようと慌てて腰を九十度に折るお辞儀を試みた。
その結果、凄い勢いで頭突きをかましてしまって二人で悶絶する。
﹁ご、ごめんぞり⋮⋮﹂
﹁この、たわけっ⋮⋮﹂
私は頭を、アリスは顎を押さえて身悶える。ほんとごめん。
﹁ごめんの上乗せで、金貸してくれよ、お願い懇願、申し訳ござい
ません!﹂
﹁は?﹂
602
反対側から騎士さんが開けてくれた扉が、自動扉みたいに開いて
いく。
広がるのはたくさんの人が整列している景色だ。こういう時、制
服の意味がよく分かる。同じ服を着た人達が揃うと、彼等が同じも
のに属していると強く感じるのだ。
一寸の乱れなく列を成す人達の前にただ歩いて出ていくだけで、
歩き方を忘れそうなほど緊張する。いま私、歩き方変じゃない? どんな表情してる? 歩幅おかしくない? なんか早くない? い
や、遅い? 手はもっと振ったほうがいいかな、それとも身体の横
に垂らすだけ?
普段は全く気にも留めない、意識すらしたことがないような些細
なことが気になる。終いには指の角度まで気になってきた。
アリスが隣を一緒に歩いてくれなかったら、即座に回れ右して逃
亡を試みただろう。
ヴィーとカイリさんが並んでいる斜め後ろにでもこっそり控えよ
うとしたら、二人は真ん中を開けてくれた。そこに行けということ
ですね、ありがとう、嬉しくないです。
逃げ道を失った私は、からっからになった口の中で何度もつばを
飲み込み、そこに並んだ。
ここにはマイクなんてない。いくらしんっと静まり返っていると
はいえ、自分だけの声でこの人数に言葉を届けなければいけないの
だ。声が震えていては駄目、息を吸い損ねても駄目。落ち着け落ち
着けと、自分に何度も言い聞かせる。緊張すると喉とかその奥が引
き攣って吐きそうになる。
ちらりとヴィーを見たら、声には出さず口を動かしていた。
﹃貴女の、得意分野でしょう?﹄
穏やかというには少し意地悪な、僅かに皮肉気に口角を上げたヴ
603
ィーに応える。
笑顔で。
﹁はじめまして、カズキ・スヤマです﹂
発音はこの際捨てる。さっきアリスちゃんにきちんと翻訳しても
らった言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。長い文章は駄目だ。
短く端的に、私らしく!
﹁この戦いが、終われば、一杯、やりましょう! 私の、奢りです
!﹂
先頭の方にいる人達の顔はよく見える。鳩が豆鉄砲喰らったよう
な顔だ。
それらがじわじわ崩れて、ゆっくりと口角が上がっていく。
﹁黒曜様、私は二杯がいいです﹂
﹁俺は三杯でお願いします!﹂
﹁一杯は少なすぎますよ!﹂
友達間でお金のやり取りはしたくない派だけど、手持ちがないの
でアリスに借金を申し込んだ身の上だ。この人数に奢りきるために
は、これ以上増やすと破産する!
アリス曰く、経費で出してもらえると思うとの事だけど、正確で
はないので節約できるところはさせてもらえるとありがたい。
﹁い、一杯と半分!﹂
﹁せこい! もうひと声!﹂
﹁い、一杯の半分と半分!?﹂
﹁減った! 減りましたよ、黒曜様!﹂
﹁え!? い、一杯が半分!?﹂
﹁増えたけど当初よりは減っています!﹂
﹁に、にぱい!﹂
604
﹁おお!﹂
ちょっと噛んだ。
﹁を、半分!﹂
﹁結局一杯!﹂
競りの結果、一杯で手を打ってもらえることになった。
大歓声に両手を上げて答え、やり遂げた気持ちでアリスを見上げ
たら、片手で顔を覆って呻いている。
﹁如何したにょ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮気にするな﹂
﹁了解ぞ!﹂
﹁少しは気にしろ、たわけ︱︱!﹂
アリスが気にするなと言ったのに、殺生な!
アリスちゃんに怒られていると、どっと笑い声が上がる。
﹁頑張れ、アードルゲ!﹂
﹁黒曜様、そこで蹴りですよ、蹴り!﹂
ここに来るまでの緊張感は最早どこにもない。
やんややんやと響く笑い声に包まれながら、私はアリスちゃんに
抓られた頬っぺたをそのままに視線だけを遠くに向けた。
あっちには王都がある。軍はそこからやってくる。
三百年間悲願だった終戦が叶って十年。
戦火で人が死ぬという、酷く当たり前で、酷い理不尽が、再び始
まるのだ。
605
45.神様、少し信頼してもらえました
ウルタ砦の造りは、なんだかんだでミガンダと似ていた。周りは
ぐるりと深い堀が囲っているし、鼠返しみたいにせり返す壁に、あ
っちこっちににょきにょき伸びた物見の塔。分厚い壁に直接開けら
れ、外側は細く内側は広く作られた弓射穴。穴は台形だったり三角
だったりしているけれど、どれも先に行くほど細くなっているのは、
反対側から射られにくくするためだ。
それを覗き込んだり、梯子を登って物見の塔から下を覗きこんで
いる私の首根っこをアリスちゃんが押さえてくれる。支えがある事
に安心して更に身を乗り出したら、強引に引っ張り戻されてチョッ
プの嵐を頂いた。
﹁そういえば、いいのか?﹂
﹁何ぞ?﹂
﹁何が、だ。飲酒はできないとおじ上に断ってなかった?﹂
﹁重大深刻な規則違反故に、どうか内密に懇願⋮⋮内密にお願いじ
ょ﹂
しーっと唇に指を当てて秘密にするようお願いしたら、ノリよく
返してくれたのはユリンだけだった。
砦内を上から眺めると、たくさんの人が忙しなく動いているのが
見える。中には女性もいた。女性達は周辺の町や村から手伝いに来
てくれているのだ。死ぬかもしれないことを覚悟している人だけが
集められているという。若い女性より、ちょっと年配の方が多い。
籠いっぱいの芋を抱えて運んでいる女性の一人がこっちに気付い
て、にっこり笑ってくれた。籠を下ろしてきゃーきゃー手を振って
606
くれる。
﹁きゃー! アードルゲの若様︱︱!﹂
ちょっと年配でも、黄色い悲鳴に年は関係ない。
うっかり手を振り返さなくてよかった。これはあれだ。前から来
た人の挨拶に答えたら後ろの人にしていたパターンだ。ただでさえ
恥塗れなのに、余計な恥をかく必要はない。ただでさえ恥塗れなの
に⋮⋮⋮⋮あれ? 今更一つや二つ増えても何も問題ないんじゃな
かろうか。
アリスちゃんはひらりと手を振っただけで、大層クールだった。
いいなぁ、私も女性とお知り合いになりたい。友達になりたい。
寂しい思いで手摺に顎を置いて下を見ていると、年嵩の女性が豊
かなお腹を揺らして私に気付いてくれた。
﹁黒曜様︱︱! ご機嫌如何︱︱!?﹂
﹁じょ︱︱!﹂
嬉しさのあまりちょっと変な返事になった。はーいって言おうと
したのだといい訳させてほしい。また余計な恥を背負ってしまった。
けれど、女性達がどっと笑ってくれたので、まあいいや。
﹁黒曜様︱︱! 今日もお元気そうで何より︱︱!﹂
﹁みにゃさんも︱︱!﹂
﹁なですよ、な︱︱!﹂
﹁みなちゃんも︱︱!﹂
﹁あれまあ! この年でそんな可愛い呼び方してもらえるなんてね
!﹂
やんややんやと盛り上がっている中にいる方は、どうやらミーナ
さんというらしい。
﹁ミーニャさ︱ん! 本日もお元気︱︱!?﹂
﹁は︱い、元気ですよ︱︱! 黒曜様もご機嫌麗しゅう!﹂
﹁うるわぴゅ︱︱!﹂
ぶんぶん両手を振っていると、比較的若い年齢の女性と目があっ
607
た。三十歳くらいだろうか。女性は私を見てにこりと笑い、静かに
頭を下げた。
慌てて私も下げて手摺に額を強打する。痛かった。
偵察からの定期連絡では、恐らく今日の昼頃には反乱軍が遠眼鏡
で確認できる距離に来るだろうとの事だ。
みんな出来る限りいつも通りにしようとしている。それでもどこ
か緊迫感が漂う。いつもより笑顔が多いのが、逆に不自然だ。
みんな忙しそうにしているのに、特に出来ることがない私は、邪
魔にならないよう端切れでアメフレ坊主を制作している。
恐らく爆弾が使われるだろうことは作戦会議で何度も言われてい
た。作戦会議と言っても、騎士代表と軍士代表、そしてカイリさん
とヴィーが話し合っている横に座って、意見を求められた時に答え
るだけだけど。
いま王都を占拠している反乱軍とガリザザ軍より、こちらの方が
圧倒的に数は多い。けれどそれは、そちら側に属していない騎士と
軍士という単純な数だけ見た結果だ。こちら側の隊は東西南北の守
護伯の所に散っているだけでなく、未だ動かない人達も多い。
国に見切りをつけた。そう言って王都を離れた人達だ。彼らが動
かなければ、王都奪還は難しい。
そして、カイリさん達が何より不思議がっていたのは、どうして
この方向を攻めてきたのかということだった。代々の守護伯が建て
てきた砦は、グラース側から攻めやすい場所に建てられてきた。当
然背後から攻められることは想定しておらず、グラース側から攻め
にくい場所に砦はなく、撃退用の細工もされていない。そこを狙っ
て拠点を張ればいいものを、何故馬鹿正直にこの辺りでは最も強固
とされているウルタ砦を狙ったのか。カイリさん達がウルタ砦を拠
点としたのは、彼等の動きがここを目指していたからだ。もしも彼
608
らがそのまま町を目指していたのなら、躊躇いなく町の前に陣を張
っただろう。
密偵によれば、ゼフェカは王都の地下水路も掘り返しているのだ
という。﹃反乱軍﹄の残党狩りが名目らしいけれど、色んな箇所を
強引に打ち壊しているので住人達からは不満と不信が溢れだしてい
る。偽黒への信頼が必要な時にそんなことをしていいのだろうか。
沖合では嵐が停滞しているようだし、その雨がこっちに来てほし
い。でも、嵐はそのまま停滞していてほしい。
アリスちゃん達は奇妙なものを見る目で見ていたけれど、テルテ
ル坊主を説明し、引っくり返してアメフレ坊主にしたら、もっと作
れと真顔で言われた。子どものおまじないでも、やらないよりはま
しだと。私もそう思う。
﹁完成!﹂
四つ目のアメフレ坊主が完成して手を上げたら、ユアンに当たっ
た。
﹁ご、ごめんじょ﹂
﹁俺に触るな!﹂
突き飛ばされて、壁にぶつかる寸前にアリスが手を差し入れてく
れた。
﹁あ、ありがとう、アリス。ユアン、ごめんじょ!﹂
﹁うるさい!﹂
﹁ごめんじょ︱︱⋮⋮﹂
小声で言っても怒られた。これは腹話術を練習するべきかもしれ
ない。
心底嫌そうな顔をして、私が当たってしまった場所を払っている
ユアンにもう一度謝る。
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﹁ユアン、ごめんじょ!﹂
﹁カズキ、ごめん!﹂
﹁私がごめんじょ!﹂
申し訳なさそうに謝ったユリンに慌てて謝ると、ユアンが怒鳴っ
た。
﹁ユリン! 女なんかに頭下げるな!﹂
﹁愚弟が迷惑かけたんだから謝るのが当然でしょう!﹂
﹁女みたいな喋り方すんなって言ってるだろ!﹂
今日のユリンはユアンと同じ服装をして、化粧もしていない。動
きやすいようにだろう。
ユアンがユリンを突き飛ばし、ユリンが突き飛ばしかえす。
﹁何すんのよ!﹂
双子の喧嘩が突如始まることは珍しくないけれど、流石に手が出
るのは珍し⋮⋮くもないけれど、今日のは一段と激しい気がする。
しかし、アリスは腕を組んだまま止める気配がない。兄弟喧嘩には
口を出さない主義のようだ。私もそうしたいけれど、喧嘩の発端を
担ってしまった身としては是非とも止めたい。
﹁ご、ごめんじょ︱︱!﹂
胸倉を掴んで殴り合う二人を引き剥がそうと間を割って入る。
﹁ごめん、待機! ごめん⋮⋮ま、待って待って待って!﹂
強引に間を割ったらユアンの怒気が膨れ上がった。そういえば、
発端は私が触ってしまった事だったと気づいたけれどもう遅い。両
手で突き飛ばされて、進行方向にいたユリンに当たってしまった。
一緒に倒れかけたユリンごとアリスが支えてくれた。
﹁女なんて大嫌いだ!﹂
﹁ごめん!﹂
﹁女なんて、みんな嘘つきだ!﹂
﹁ごめん!﹂
﹁女なんて、俺は、大っ嫌いだ!﹂
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ユアンは目を吊り上げて全身で怒鳴りつける。なのに、目線が合
わない。
﹁女なんて、自分さえよければいい最低な奴ばっかだ! あんただ
ってそうだ! あんたの男は生きてるかも分からないのに、心配す
るどころか、いっつもへらへらへらへら楽しそうにしやがって! 自分が助かったからそれでいいんだろ! 女なんて自分さえよけれ
ばいいからな! あんたなんかを助けて死んだ騎士ルーナはかわい
そうだ!﹂
﹁この、バカ野郎っ!﹂
私の足元を怒鳴りつけているユアンを、ユリンが殴りつけた。
﹁何すんだ!﹂
﹁お前はっ⋮⋮! この歳になって言っていい事と悪い事の区別も
つかないのか!﹂
﹁ほんとのこと言って何が悪いんだよ!﹂
﹁このっ⋮⋮!﹂
もう一度振りかぶったユリンの手に慌ててしがみついて止める。
﹁待って! 待って、待って!﹂
﹁カズキ、放して! こいつは言っても分からないんだ!﹂
﹁少々待って! お願い故に!﹂
身体全体を使ってなんとか止めると、ユリンは渋々手を下ろして
くれた。体重をかけてぶら下がる形になってしまったけれど、それ
でぎりぎりだった。まだ十五歳でも、鍛えている子はやっぱり力が
強い。
ユアンはじとりとした薄暗い目で私を見ていた。その口は薄く開
いている。たぶん、私が何か言ったら即座に怒鳴り返されるだろう。
﹁ユアン﹂
﹁うるせぇ! 女なんかが俺に説教するな!﹂
﹁ルーナは、生きてる﹂
﹁は?﹂
611
ぽかんと口が開く。そうしていると凄く幼く見えた。人間、素の
表情の時に本性が見えると聞いたことあるけれど、虚をつかれたよ
うに顔の力が抜けたユアンは、まるで昔のイヴァルのように幼かっ
た。
身体の小ささもそう思わせる一つだろう。ユリンとユアンは十五
歳にしては小さめだ。
﹁ルーナは、生きてる。必ず、生きてる。決定して、生きてる。確
定に、生きてる。⋮⋮えーと⋮⋮⋮⋮あ! 断じて、生きてる! 誓うして、生きてる! 絶対的に、生きてる! えーと⋮⋮断固生
きてる!﹂
﹁うるせぇよ!﹂
確かに!
自分でもそう思ったので素直に頷く。どの言葉選びならうまく伝
わるかなと考えたけれど、分からなかったので全部言ってみた。
ユアンは怒って梯子を飛び下りて行ってしまった。ユリンが呼び
とめても振り向きもしない。ユリンは盛大に舌打ちした。
﹁ごめん、カズキ。愚弟が本当にごめん﹂
﹁私がごめんじょ⋮⋮⋮⋮撫でてよい?﹂
﹁え? ⋮⋮いい、けど?﹂
下げられた頭が綺麗に丸かったので、触りたい気持ちが湧き上が
ってきて許可を貰って撫でてみる。ユリンは驚いていたけれど、す
ぐにふにゃりと恥ずかしそうに身を捩って笑った。
﹁カズキ、怒ってないの?﹂
﹁子どもは、子ども利用するつもり故に﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮騎士アードルゲ︱︱﹂
ヘルプが入ったアリスちゃんはしばし考えた。
﹁⋮⋮⋮⋮扱い、だ! どうだ!﹂
612
﹁それにょ!﹂
﹁にょはいらん! 大体、子ども扱いするつもりも意味が分からん﹂
言葉は通じていたのに意味は通じなかった。
﹁ルーナも、イヴァルも、子ども利用⋮⋮扱い、なかった故に、可
能箇所では、子どもは子ども扱いしたいと、思考していた上に、テ
ィエンよりも、お願いを受けるした﹂
子どもらしくいられなかった子どもがいた。そうできない時代に
生まれた子どもは、そうできない時代を生きて大人になった人達の
中で戦っていた。
﹃ガキをガキ扱いするやり方が分かんねぇんだよなぁ﹄
昔、ティエンは私にそうぼやいた。有難いことに、私は子どもら
しい子ども時代を送って、子ども扱いしてもらってきた。だから、
子ども扱いしてやってくれと頼まれたときは喜んで引き受けたもの
だ。それはもう張り切った。抱っこしようとしてルーナにチョップ
されてちょっと落ち着いたけど。
ちなみに、ルーナには、最初は嫌そうにされて、次は鬱陶しがら
れて、次は照れくさそうにされて、最終的には﹃子ども扱いするな
!﹄と怒られた。イヴァルには、最初は怖がられて、次は照れくさ
そうにされて、次は嬉しそうにされて、最終的には抱っこをねだら
れた。可愛かった。
アリスはそういえばと口を開いた。
﹁⋮⋮あの頃、貴様は私も子ども扱いしていたな。普通、十五歳に
するか?﹂
﹁私の故国では子どもにょ﹂
﹁貴様の国の成人は幾つなんだ﹂
指を二本立てる。流石に二歳とは思われないので、それだけで伝
わった。
﹁平和だな﹂
613
﹁ぞり﹂
成人とされる年齢は時代で変わると歴史の先生は言った。平和に
なればなるほど上がっていくのだと。急いで大人になる必要がない
この時代に生まれた事を恥じる必要はない。ただ、それが当たり前
ではなかった時代があったのだと知っていなさいと先生は言った。
子どもらしさを奪われない時代に、子どもらしく生かしてもらっ
た。更に姉ばかりで、従兄弟も年上ばかりだった私は、いつも子ど
も扱いしてもらっていた。
そんな私が、自分がしてもらってきたことを誰かに返すのは当然
のことだ。
癇癪に癇癪で返すのは年上が廃る。周りの人達が今までそうして
きてくれたように、私も誰かに返したい。返し方を多大に間違えた
りもするので、そこは気を付けていきたい所存だ。
﹁嫌いな状態は、発言してにょ﹂
実はひっそり憧れていた年上の立場だったが、周りにほとんど年
下がいなかったので今一加減が分からない。十五歳が思春期真っ盛
りの一番難しい年頃だという事も分かってはいる。イヴァルなら喜
んだこともルーナは怒ったりと、なかなか難しかった。
あの頃は。子ども扱いしていた相手を好きになった自分が信じら
れなかったし、好きになってもらえた時はちょっと複雑だったのは
内緒だ。
だからこそ、いま、泣いてほしいとルーナが言ってくれた時は、
驚いたし、嬉しかった。本当に、幸せだったのだ。
ユリンは少し俯いて、照れくさそうに笑った。
﹁⋮⋮⋮⋮嫌じゃないから、いいよ﹂
614
そう言って髪を梳いていた私の手を両手で握って止める。あれ?
やっぱり嫌だった!? と慌てて手を引こうとしたら、ぎゅっと
握られた。
﹁ユアンは別にカズキが嫌いなわけじゃないんだ。女の人が嫌いで
もなくて⋮⋮嫌いなのは⋮⋮⋮⋮俺達を産んだ人なんだ﹂
﹁え?﹂
ユリンの瞳が仄暗く光り、さっきのユアンそっくりな色を揺らす。
﹁俺達はさ、この国で生まれたんじゃないんだ。父親は知らない。
物心ついた時は既にあの人と三人暮らしだった。あの人は、外では
いつもにこにこしてて、穏やかで、愛情深い人に見えた。双子だか
らと眉を寄せられても、それでも自分の大切な子どもなのと微笑ん
だ。俺達が転ぶととても心配してくれて、頭を何度も撫でて、手を
繋いでくれた。けれど、家に帰った途端今までつないでいた手を振
り払って、俺達を何度もぶった。ぶって、蹴って、よくも恥をかか
せたなって怒鳴りつけた。産むんじゃなかったって、なんで自分ば
っかりこんな目にって、いつも怒ってた。怒るか、泣くか、自分を
憐れむか、そればかりだった。外では、ママはあなた達が大好きよ
って口癖みたいに言ってたのに、家に帰ったら殴りつけるんだ。も
う、訳が分からなくって、俺達は、自分を憐れんでいるあの人が、
いつその矛先を俺達にぶつけてくるか、そればっかり考えてた。俺
はさ、あの人が俺達を愛してないんだって知ってた。あの人は自分
が一番大事なんだって。⋮⋮違うな、自分しか大事じゃなかった。
二番も三番もなくって、一番である自分だけが大事なんだ。でも、
ユアンはいっつも、ママ、ママって泣いてた。ママ、どうしてって。
ママ、ママって。いつか家の中でも外みたいに愛してもらえるって
信じて、いつもママ、ママ、って⋮⋮⋮⋮﹂
手には痛いほど力が入っている。
615
私の手が握り潰されそうなほど力を込めているその手は、震えて
いた。
﹁ある日、町にサーカスが来たんだ。移動サーカスが来て、あの人
は俺達をそれに連れて行ってくれた。ユアンは外ではあの人が優し
くなるから外に出るのが大好きで、それで、サーカスが楽しくて、
もう、上機嫌だった。今でも覚えてる。一輪車で細い綱を渡るんだ。
高い高い場所から飛び降りて、高く跳ねて、まるで魔法みたいだっ
た。それで、あの日は、家に帰っても、あの人は笑ってたんだ。初
めて、家の中でも外みたいに穏やかで、俺達の頭を撫でた。ユアン
はぼろぼろ泣いて、ママ、ママ、だいすきって、あの人に抱きつい
たら、あの人はママもよって抱き返した。食事も、抜かれなかった
だけじゃなくて、ちゃんと、温かいものを作ってくれた。あんなに
おいしいもの、初めて食べた。夜は、テーブルの下でコートにくる
まるんじゃなくて、あの人のベッドに一緒に入れてくれた。温かか
った。びっくりするくらい温かかった。あの人は俺達を抱きしめて
眠った。ユアンはもうずっと泣きっぱなしで、でもにこにこしてて、
これからはママ、ずっとこうしてくれるのかなって、ママ、ユアン
たちのことすきだってって、ママ、ママ、ユアンたちもママのこと
だいすきだよって、ママ、ママって。これからは、いっぱいたのし
いことしようねって、いっぱいいっぱいうれしくなって、いっぱい
いっぱい、しあわせになろうねって。ママと、ユリンとユアンで、
いっぱいしあわせになろうねって、ずっと言ってた﹂
俯いたユリンが震えていて、咄嗟にその頭を掴んで抱きしめた。
ユリンの震える手はそのまま背に回って、ぎゅっと背中を握った途
端、膝から崩れ落ちた。引きずられるように私も膝をつく。
﹁⋮⋮でも、目が覚めたら、俺達は檻にはいってた。かたくてさむ
くてくさかった。となりの檻には、手足がみじかい人がはいってた。
616
その向こうの人は、両目の眼球が飛びだしかけてた。その人達が、
かわいそうにって言うんだ。今日からはお前達も俺らの仲間入りだ
って。なに言ってるのか分からなくて俺達は抱きあってた。それで、
指さされた先を見たら、あの人がにこにこ笑ってた。にこにこ、見
たことがないほど幸せそうに笑って、団長から支払われたお金を数
えてた。ユアンが、ママ、ママって喉から血が出るほど叫んだのに、
あの人は一度も俺達を見ないで、ずっとお金を数えてた。それから
は地獄みたいだった。顔以外はさんざん鞭打たれたし、芸ができな
かったら飯抜きは当たり前だったし、出てきても残飯ばっかだった。
俺達がいたのは、明るく楽しいのは表だけで、裏では金持ち相手に
人間を見世物にしたくそみたいな見世物小屋だった。団長は金さえ
もらえば何でもした。何でもさせた。俺達は物よりひどい扱いで貸
し出された。ユアンは笑わなくなった。喋らなくなった。いつも親
指吸って、俺の手を握ってた。でも、ある日、サーカスはここにき
た。戦争が終わって国境付近が危険じゃなくなったから、新しい稼
ぎ場所だって思ったんだろうね。いつもみたいに表のサーカスが終
わって、裏の見世物小屋に集まってきた貴族の中にカイリ様とカイ
ル様がいたんだ。俺達はいつも、とにかく引き離されないように抱
き合ってた。団長も、そっくりなのが並んでいるから意味があるっ
て俺達をいつも一緒にさせてた。カイリ様とカイル様は俺達を見て、
自分達も双子だがここで見世物にするのか? って団長に聞いた。
団長がえって言った。え、って、すごく不思議そうな声を上げたの
が、なんでか、今でも凄く耳に残ってる。その後、いつの間にかサ
ーカスを取り囲んでた隊がサーカスを打ち壊してたの、覚えてる。
それを、俺らは抱き合ったまま見てた。団長がいつもの俺達みたい
に檻に入れられてるのを見てた俺達を、隊の人が抱き上げてくれよ
うとしたんだけど、俺達は引き離されるって思って、獣よりひどく
抵抗しちゃったんだ。そしたら、カイリ様が俺達を二人一緒に抱き
上げてくれた。それで、それでね、大丈夫だって、もう大丈夫だっ
て言ったんだ。カイル様も、大丈夫だよって、カイリは優秀な僕の
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兄だからって、だから、もう大丈夫だよって、言ったんだ﹂
淡々と、感情が削ぎ落されたように語っていたユリンの声に感情
が戻る。
冷たかった手にも血が巡っていくのか温もりが戻ってきた。
﹁ねえ、カズキ、お願い。ユアンに優しくしてあげて。ユアンが怒
っても、怒らないであげて。ごめん、でも、ユアンに優しくしてあ
げて。お願い⋮⋮ユアンは、本当は、俺なんかよりずっと甘えたな
んだ。甘えたで、優しくって、仲良いのが好きなんだ。お願い、ユ
アンと楽しいことしてあげて。ユアンを幸せにしてあげて。ユアン
を笑わせてあげて。ユアンから、あの人を取りあげてあげて。あの
人は、ユアンには要らない。俺はもうとっくに捨てたけど、ユアン
は、まだ、バカみたいに持ってるんだ。あの人を持ったまま、あの
人を見てる。バカだ、あいつ。俺達にはもう、あの人は要らないの
に﹂
何と言えばいいのか分からない。うんともいいえとも言えない。
どの言葉も軽すぎる。どんな言葉も無責任だ。
でも、ユリンはきっと私を信頼してくれた。だから、彼等にとっ
てとても大切な話をしてくれたのだ。今までユアンに突き飛ばされ
ても罵られても、ユアンを嗜めるだけでその理由を教えなかったユ
リンが、私に話してくれたのだ。
無責任な言葉だけは返せない。
﹁⋮⋮私の限度の限り、努力、致す、よ﹂
必死に言葉を探したのに、結局ありきたりな言葉しか言えなかっ
た。
自分の不甲斐なさに落ち込みそうになっていると、突然大きな音
がした。鐘を力の限り打ち付ける音だ。
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ユリンはぱっと私から離れて、いつもみたいに快活な笑顔を浮かべ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮始まるか﹂
アリスは遠眼鏡から目を放し、私に渡す。アリスが使っていたピ
ントのまま私も遠眼鏡を覗き込む。遠くには狼煙が上がっている。
その狼煙の根元には蟻の群れがぞろりぞろりと動いていた。
でも、分かっている。あれは蟻なんかじゃない。
人間だ。
619
46.神様、小さな声が聞こえました
泡が弾けるように笑い声が消えていく。波が引くように笑顔が消
えていく。
息を吸うのも憚られるような、肌を刺す緊迫感に変わった砦の前
で、ぞろりぞろりと反乱軍は陣を整えた。
馬が走り、旗が立っていくのを遠眼鏡越しに見ていた私は、それ
を見つけた。馬を六頭もかけてそれは運ばれている。大きな荷物だ。
何だろう。
[にー、しー、ろー、はー、とお。にー、しー、ろー、はー、にじ
ゅー]
ざっと数えて百くらいだろうか。
旗の傍にいた人が片手を振りながら何かを言っているのが見える。
それに合わせて、荷の周りを囲っていた木がばらされていく。
首を傾げながらそれを見ていた私の産毛が逆立つ。首の付け根辺
りにぶわっと鳥肌が立ったのが分かる。喉が引き攣れて、歯が鳴っ
た。
﹁カズキ⋮⋮? おい、カズキ!?﹂
私の異常に気が付いたアリスが肩を掴んで向き合う。そこで呪縛
が解けたように私の身体は動き出した。
﹁カイリさん!﹂
あれの全形が現れる前に私が叫んでいたのは、自分の口から出た
とは思えない金切声だった。
なんてものを、なんてものを、なんてものをっ⋮⋮!
あんなものまで、作っていたのか。作ってしまって、いたのか。
620
﹁カズキ!?﹂
﹁カイリさん、カイリさんっ⋮⋮!﹂
私は梯子から落ちるように降りて、カイリさんを呼んだ。
私の声を聞いた誰かが伝達してくれたのか、私の前にカイリさん
が駆け寄ってくる。
﹁どうした﹂
﹁兵器! バクダンを、投擲する、兵器! タイホウ!﹂
﹁何!?﹂
血相を変えたカイリさん達は遠眼鏡を取り出して私が指さす方を
見た。
大きな黒い鉄の車輪が支える、巨大な筒。
私は唇を噛み締めた。
ムラカミさん。ムラカミ・イツキさん。
会ったこともないあなたを責めたてたい。なんてものを教えてし
まったのだ。なんてものをこの世界に持ち込んでしまったのだ。
叫びだしたい。殴りつけるほどに罵りたい。
けれど、彼の人は分かっていた。分かっていたから、心を病んだ。
心を病む程、苦しんだ。
彼の人は、あれが何を齎すのか分かっていた。
だって、知識のない私にだって分かってしまう。だから、爆弾の
作り方を教えられる人が分からないはずなんてない。分かっていて
教えるしかなかったのだと、それも分かってしまう。だから、罵倒
は全部飲み込んだ。
いつから、一体いつから、この世界にいたのですか。
爆弾だって大砲だって、一朝一夕で出来るものじゃない。実戦で
621
使えるくらいの精度になるには、一体どれくらいの時間が必要なの
か。
震える両手で顔を覆ってしゃがみこむ。
ヌアブロウは言った。戦争の形が変わると。その通りだ。個人の
剣の腕がどうこうという問題ではなくなる。あれは、一度放たれれ
ば敵も味方もない無差別の殺戮兵器だ。
走ってきたヴィーは蹲る私に驚いて、自分も膝をついて背中を擦
ってくれた。細い指だ。布越しにもその冷たさが分かる。ヴィーが、
どれだけ気を張っているのか分かった。
﹁⋮⋮⋮⋮黒曜、あれの仕組みを教えてくれ﹂
低いのに、恐ろしいまでに静かな声に促される。
震えないようにぐっと噛み締めた唇に痛みが走り、血の味が滲む。
噛み切ったのだ。でも、おかげで冷静になれた。
震えている暇はない。これから変わっていくものに脅える時間す
ら、ないのだ。
おおづつ
﹁タイホウ⋮⋮大筒内に、バクダン投入するして、火で、投擲する、
兵器﹂
﹁止めるには、どうすればいい﹂
私が聞きたいよと怒鳴り返したい。
でも、私しかいない。あれが何か知っているのは、私しかいない
のだ。彼らはこれから知る。知ってしまう。知らなければ、ならな
い。
必死に考える。私馬鹿だからで逃げてはいけない。
﹁バクダン、設置前に、バクハツ⋮⋮⋮⋮弾けさせる。バクダン、
設置後、大筒内に火矢投入、弾けさせる。投擲、開始前に、火、つ
ける人、を﹂
622
﹁⋮⋮つまり、投擲させる前にどうにかするしか方法がないという
ことか﹂
﹁⋮⋮申し訳、ございません﹂
﹁いや、感謝する﹂
マントを翻してカイリさんが指示を飛ばし始めた。
﹁弓に自信のある者を集めろ! 大筒にバクダンが設置された瞬間
を火矢で狙って筒内を射れ! 他の者はバクダンが設置される前に
弾けさせろ! とにかく矢だ! あれを投擲させるな! 後、攻城
兵器を出せ!﹂
﹁伯、それは!﹂
﹁構わん。あれを町に持ち込ませるわけにはいかん﹂
躊躇いながらも頷いた人達が走り去っていく。
攻城用の兵器は、巨大で殺傷能力が高い。人に向ける物ではない。
だから、長い戦の中でも防衛戦には用いないという暗黙のルールが
あった。残虐すぎないようにという自戒だ。
井戸に毒を投げ込まない、川に毒を流さない。疫病を流行らせな
い。誰が定めたわけではないけれど、それらは暗黙の了解で守られ
てきた。
それを、カイリさんは破るのだ。
破らせてしまうのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮ムラカミという人間が現れた場所がガリザザだったから
こそ、今迄表面に出てこなかったのか﹂
﹁え?﹂
アリスはちらりと私を見て、すぐに遠眼鏡に視線を戻した。
﹁ガリザザは確かに軍事力は高いが、身内間の殺し合いが酷い国だ。
だから恐らく、誰か、王族が己手の内を晒さないようずっと隠して
いたんだろう。それが今になって表面化してきたのだとすれば⋮⋮
最初からそのつもりだったのか、それとも、何かがあったのか﹂
こんな時、テレビは本当に便利だったんだと分かる。世界情勢が
623
ぽんぽん流れてくれた。私は、それらをクリックもせず、音量も上
げず、ただ流していたのだ。
⋮⋮いや、待てよ。向こうの世界でグラースやブルドゥスの世界
情勢がニュースになったらかぶりついた自信はあるけれど、ガリザ
ザの事をやられても反応したかどうかは微妙なところだ。ぶっちゃ
けると、ガリザザがこっちの国か向こうの国かも分からなかった可
能性もある。
知らないことを知ろうとしないまま、それでいいやとのうのうと
生きてきたのだと、思い知る。
砦をぐるりと囲む壁の上は通路になっているけれど、矢を防ぐた
めに壁がとても高い。攻城兵器を設置する場所がないため、兵器は
通路に上げられはしたものの、そこで一先ず休憩だ。
﹁あいつらに壊してもらった場所から突っ込ます﹂
カイリさんは顎を擦りながら遠眼鏡で向こうを確認している。
攻城兵器は巨大なボーガンみたいな形をしている。五、六人がか
りで弓を引き、木の幹みたいな太い矢を打ち込むのだ。
﹁黒曜は下がっていろ。破片で死なれたら目も当てられん﹂
邪魔になるのは分かっているので素直に頷いた。遠眼鏡を借りて、
邪魔にならない場所から戦場を見て見慣れない兵器がないか確認し
よう。⋮⋮銃は、作られていないことを祈るしかない。もう、あれ
があったら剣すら無意味になる。流石にまだ小さな弾を作れはしな
いと思うが、戦争は色んな物を飛躍的に向上させる。進歩とは、呼
びたくないけれど。
﹁ヴィーは?﹂
﹁わたくしは様子を見ながら場所を変えます﹂
兵の士気を見ながら位置を考えるのだそうだ。そんな高度な決断
624
私にはできそうにないので、私は私に出来ることを頑張ろう。
﹁アリスロークとユリンは弓を持て﹂
つまりこの二人は、弓に自身のある者に入るのだろう。アリスち
ゃん達のスペックが高すぎる。そして私のスペックは地を這ってい
るわけだ。
そんな場合じゃないのに落ち込みそうになっている私の背中を、
ヴィーがばしんと叩いた。非常に、痛い。
﹁笑顔!﹂
﹁じょり!﹂
そうだった。笑顔は大事! それしかできないのにそれすら放棄
してどうする。
私はびしっと背を伸ばして、ぴしりと揃えた手を額に当てて敬礼
した。こっちの世界の敬礼ではないけれど、まあいいや。
﹁どうして貴女は返事まで奇抜なの!?﹂
﹁笑顔!﹂
両手を広げて渾身の笑顔を浮かべた私に、ヴィーは腰に手を当て
て胸を張った。
﹁宜しい!﹂
﹁ありがとう、ブビ!﹂
﹁黒曜?﹂
にこりと微笑みながらゆっくり上がってきた掌に、私は腰を九十
度に折って謝罪の意を示した。
どっと皆が笑ってくれる。だったら馬鹿でも間抜けでもいい。道
化でいい。
いま私に求められていて、私が出来ることは一致しているのだか
ら。
大事なのは士気だ。私は怖がってはいけない。動揺してはいけな
い。笑っているのが﹃黒曜様﹄の大事な仕事だ。
﹁アリスちゃーん! あちらなるで待ってるじょ︱︱!﹂
625
﹁分かったからさっさと行け!﹂
しっしっと私を追い払ったアリスちゃんを、周りの人達が肩を組
んで囲んだ。
﹁アリスちゃーん、ひっどーい﹂
﹁アリスちゃーん、黒曜様かわいそー﹂
﹁アリスちゃーん、つめたーい﹂
﹁やかましいわ!﹂
しなを作った男達に囲まれたアリスちゃんが、お前の所為だぞと
言わんばかりに私を睨む。勿論その通りなので、私は片手をびしり
と揃えた。
[めんご!]
﹁何を言っているのかは分からんがふざけているのは分かったぞ!
貴様、後で覚悟しておけ!﹂
﹁嫌じょ!﹂
﹁しろ!﹂
囲いから抜け出てきたアリスちゃんにチョップされた。痛かった。
﹁カズキ、後からユアン行かせるから!﹂
﹁了解じょ︱︱!﹂
どこにいようかと考えていたら、アリスちゃんが、外は確認でき
るので元々見張り部屋として使っていたけれど、あまりに狭いので
物置部屋になった場所を教えてくれたのでそこに行くことにする。
周りの人がばたばた忙しそうだから一人で行くことにした。どうせ
すぐそこだ。流石にこの距離で迷子になったら日常生活に支障をき
たす。
口元を引き結んで反乱軍を見つめる人達が、私の姿を見たら片手
と口元を上げてくれる。
﹁頑張りましょう、黒曜様﹂
626
﹁俺の一杯は桶でお願いしますよ!﹂
桶!?
﹁あ、俺は樽でお願いします!﹂
樽!?
私の借金がどんどん膨れ上がっていく予感がする。
一旦一階まで下りて中庭を移動していたら、大きな弓を手にして
壁で待機しているアリスちゃん達と目が合った。ぶんぶん両手を振
ったら、ユリンはぴょんぴょん跳ねて弓を持ち上げてくれたけど、
アリスちゃんにはしっしっとされた。
カイリさんの姿はないので、いろいろ確認しながら移動している
のだろう。
﹁黒曜様﹂
﹁え?﹂
野太くない声に驚いて振り向いたら、今朝お辞儀しあった女性が
いた。私は手摺とも挨拶してしまったけれど。
お手伝いの女性達はみんな地下の暗室に避難しているはずなのに、
彼女は重そうに芋の入った籠を持っていた。もしかして避難すると
知らないのだろうか。
﹁お手伝うの方々は、下で待機ですぞ﹂
﹁はい、存じております。私もすぐに参りますが、黒曜様を呼んで
きてほしいと頼まれまして﹂
﹁私?﹂
﹁はい、守護伯様がお呼びです﹂
さっきまで一緒にいたのに何か伝え忘れたのだろうか。それとも
新たに何か伝えることが出てきたのか。まさか、新たに何か兵器が
出てきたのだろうか。
まさか、銃?
627
﹁カ、カイリさんは、どちら!?﹂
﹁こちらです、お早く﹂
女性は重そうに籠を持ち直して身を翻したので、私も急いでつい
ていく。
﹁⋮⋮おい、何やってる。お前はあっちに行くよう言われただろ﹂
﹁ユアン! カイリさんが点呼している故に!﹂
﹁カイリ様が?﹂
心底嫌そうに近寄ってきたユアンは、実際心底嫌なんだろうなと
思う。ユリンはちゃんと伝達してくれたようで一緒についてきてく
れたけど、心から嫌そうだった。私との距離は三人分は離れていた
から、よく分かるというものだ。
ちらりとこっちを見ては、私と目が合うと盛大に顔を歪めて舌打
ちするので、それはもう、非常に分かりやすかった。年上としてあ
えて突っ込まなかったけれど、傷つくわー。
いつの間にか砦内はしんっと静まり返っていた。覗き穴を横目で
確認すると、広がる砂埃が見える。大人数が移動しているのだから、
土も舞い上がるだろう。
そして、もう視認できる距離まで大砲は近づいてきていた。代わ
りと言わんばかりに日が落ちていく。夜が来る。あちこちで篝火が
焚かれ始め、木がぱちぱちと弾ける音と、煙い臭いが広がっていく。
こっちは矢で狙いを定めなければならないのに、あっちは当てれ
ばいいだけだ。宵闇は確実に反乱軍の味方だ。
何かの拍子で火蓋は切って落とされる。ぴりぴりと産毛が逆立つ
緊迫感でそれを感じていた私は、早く女性を避難させないといけな
いのではないかとそればかりが気にかかったのに、女性は大丈夫で
628
すとそればかりだ。やけに重そうな芋の籠も、持つのを手伝おうか
と申し出たらやんわりと断わられた。役立たずですみません。
案内されるがまま建物の中に入って、誰もいない階段を上がる。
こっちはミガンダ砦側だ。今から戦闘が始まろうとしている側では
なく、何でこっちなんだろう。
ふと何気なしに覗き穴から下を覗きこみ、私は息を飲んだ。
堀の陰に人影がある。下から数人の男達がこっちを見上げていた
のだ。
その中で一番大きな男を、私は知っていた。
何でこんな場所にと思ったけれど、よく考えたらここは彼が守っ
ていた砦だ。この辺りの地理も砦の構造まで全て知り尽くしている
から、影に紛れて砦に近づくことは難しくなかったのだろう。
泥沼のようなどろりとした怨嗟を纏った瞳が、影の中にも溶け込
まずに私を睨みあげていた。思わず震えそうな足を叱咤し、壁に拳
を叩きつける。
﹁ヌアブロウ!﹂
﹁何!?﹂
私を押しのけて覗き込んだユアンは舌打ちした。
雨が、降る。赤い雨がやまない。
ルーナ。ルーナ。ルーナ。
生きていて。お願い、生きていて。ルーナ。
ヌアブロウへの怒りより懇願が湧き上がる。あの人が生きてたよ、
ルーナ。だから、だから、お願い。ルーナ。
ヌアブロウが死んでいてほしいとは思わない。
﹁ルーナっ⋮⋮﹂
ただ、ルーナに、生きていてほしい。
629
ごつりと固い壁に額をつけて歯を食い縛る。今はこんなことを考
えている場合じゃない。早く誰かにこの事を伝えないと。
走り出そうとした私は、ユアンの背中にぶつかった。
﹁ユアン?﹂
足が何かを蹴り飛ばす。芋だ。何でこんなところにと思ったけれ
ど、それが女性が持っていた籠の中身だと気づくのにそう時間はか
からなかった。
突然風が強く吹き込み、私の髪をあおる。なんで、こんなに風が。
﹁動かないでください﹂
﹁てめぇ⋮⋮⋮⋮何してやがる﹂
砦を囲む壁には、上の通路に出るまでにも幾つか階がある。その
中には、敵に張り付かれた際に熱湯を流したりするために大きく開
く場所があるのだけど、その何本もある鍵代わりの棒が、全て外さ
れていた。
﹁静かにしていてください。大声を出すと、これに火をつけます﹂
呆然と視線を落としていく先で、女性が蹲っている。さっきまで
抱えていた籠の中身がぶちまけられていた。その手には篝火から取
ったのだろう火のついた木が握られている。
私は、湧き上がってくる感情を必死に飲み込んだ。いま、私の顔
は酷いことになっているだろう。泣き出したいような、怒鳴りつけ
たいような、訳の分からない熱さが溢れだす。
[なんでっ⋮⋮!]
篝火に照らされて歪な光沢を放った爆弾が、そこにあった。
使わないで。
そんなもの、使わないで。お願いだから、こんな簡単に、使って
しまわないで。
630
叫びだしたい言葉を必死に止めている私に、女性は顎で私の後ろ
を指した。
﹁飛び降りてください、黒曜様﹂
脅すように⋮⋮実際脅しているのだろう。女性は火を爆弾に近づ
ける。
﹁死にはしません。下は水ですし、すぐにあの人達が引き上げてく
れますから⋮⋮少なくとも、今は﹂
[なん、で]
﹁⋮⋮何を仰っているのか、分かりません﹂
喉が張り付いてうまく言葉が出ない。彼女は自分が脅しに使って
いる物が何なのか、本当に分かっているのだろうか。
﹁⋮⋮そんなものここで弾けさせたら、てめぇも死ぬぞ﹂
﹁元より覚悟の上ですよ﹂
﹁手伝いの奴は、グラースに恨み持ってそうなのは選んでねぇはず
だぞ!﹂
﹁そうでしょうね。私の、片思いでしたから﹂
女性は淡々と私を見た。
﹁私が好きだった人はこの戦場で死にました。そして私自身、病に
侵されています。もって後数年だというのがお医師様の見立てです。
私に家族はいませんし、もう、この国にも人生にも、未練はないん
です。だから、あの人の死を冒涜した国と、あの人を殺したグラー
スに加護を齎した貴女も、道連れです、黒曜様﹂
はんなりと笑う女性に背筋が凍った。
鉄底が入った重たい足音がこっちに近づいてくる。
﹁カズキ? あっちで待てと言っただろう?﹂
アリスの声だ。
﹁アリス! 待って! 来客は駄目!﹂
﹁来客ってお前﹂
631
ははっと、軽い笑い声でアリスが近づいてくる。通路の奥から影
が伸びてきた。
﹁早く飛び降りなさい、黒曜。さもなくば、騎士アードルゲも道連
れにします!﹂
﹁アリス、停止! アリス!﹂
﹁黒曜!﹂
﹁アリス!﹂
爆音が響くと同時に砦が揺れる。一瞬、心臓が止まったように思
った。すぐに砦への砲撃が始まったのだと気づく。
突然の揺れに、意識を向けられなかった私の身体はよろめいてた
たらを踏んだ。
﹁ユリン!﹂
鋭い声で叫びながらこっちに走り出していたアリスが身体を捻っ
たと同時に、後ろに隠れていたユリンが弓を放ったのが見える。
ユリンの矢は、的確に女性の手を貫いた。
火花が散ってぎょっとしたけれど、幸いにも引火しなかったよう
でほっとする。しかし、すぐにアリスの顔が引き攣った。
﹁カズキ!﹂
アリスの手が伸ばされる。けれど、窓から飛び込んできた鎖に絡
め取られ、宙に引っ張り出された私は、それを掴むことができなか
った。
前にもこんなことがあった。あの時は私の辞書が駄目になった。
でも、一人だった。一人で引きずり落とされた。悲鳴を上げる間も
なく、ただ恐怖に凍りついた私は何を見ることも出来ず水に叩き落
とされた。
けれど、今は。
﹁このっ、放せ!﹂
ヌアブロウの鎖は、隣にいたユアンも巻き込んでいた。更に、窓
632
の外に引きずり落とされた鎖と掴んだアリスも宙に躍り出ている。
アリスは私とユアンの頭を守るように抱え込み、三人縺れながら
堀に落ちた。
手が使えない状態で水に落とされると、一瞬で頭はパニックにな
る。無茶苦茶に鎖を解こうと力を込めて暴れてもどんどん沈んでい
く。鼻から、耳から、水が入る。ぼこんぼこんと水の音が頭の中で
響いて、他には何も聞こえない。
どこが上か下かも分からなかった私の身体が、強引に引きずりあ
げられる。相変わらず足はつかなかったけれど、際限なく体内に流
れ込んでくる水が止まって、反射的に息を吸い込む。
アリスが鎖を片手で引っ張りながら体重を支え、水中で壁に足を
つけて沈むのを回避していた。その膝の上に乗せられて激しく咽こ
む。両手が使えないので、いろいろ垂れ流しなのに拭うことも出来
ない。
﹁大丈夫か?﹂
[も、こんなの、ばっか]
﹁だな﹂
思わず日本語で言ってしまったのに、アリスは軽く笑った。とり
あえず自分の肩口で鼻水だけは拭っておく。
﹁いってぇ⋮⋮﹂
ユアンもぼやいて頭を振って水を散らす。
﹁わっぷ!﹂
もろに水が散ってきた。今更濡れても気にならないけれど、雫が
目に入ってぎゅっと瞑る。
﹁互いに死に損なったようだな、アリスローク﹂
﹁隊長⋮⋮﹂
部下らしき男達に鎖を渡して引かせたヌアブロウは、すっと視線
633
を上げる。
水を飲んだ所為で、がん、がん、がんと頭が揺れる。それに止め
を刺すように、がん、がん、がん、と鐘の音が鳴り響く。砲撃音に
負けないよう、設置されている鐘を力の限り叩きつけるユリンを見
上げた。その手が剣にかかっているのを見たユアンが青褪める。
﹁てめぇ! ユリンに手を出したらただじゃすまさねぇぞ!﹂
﹁ほお? ならば我が身を守る為に貴様の首でも飛ばそうか?﹂
﹁てめぇ! ユアンに手を出したらただじゃすまさねぇぞ!﹂
そっくりな顔と声に同じ怒気を向けられたヌアブロウは、奇妙な
感覚を味わったらしく軽く頭を振った。けれど、打ち棒を放り出し
たユリンが放った矢は的確に斬り落としていたのは流石だ。褒め称
えたくは絶対にないけれど。
人の声が近づいてくる。鐘に気付いた人達が助けにきてくれてい
るのだ。
それまでせめて時間稼ぎにならないかと、身体を捩って男達の邪
魔をする。岸に引き寄せられるにつれて、剣を握ったアリスが細く
息を吐く。アリスは戦うつもりだ。必死に鎖から手を引き抜こうと
するけれどびくともしない。ならばせめて噛みついてやろうと、軽
く咳き込みながら喉の調子を整える。噛みつこうと大きく口を開い
た途端咽こんだら意味がない。
ヌアブロウはちらりとこっちを見ただけで、剣をしまった。
﹁私が手を出すまでもない﹂
﹁え?﹂
弾かれたように振り向いたユリンの背中が。
赤に呑まれて、消えた。
634
﹁ユリン⋮⋮⋮⋮?﹂
赤が弾けるまでのほんの一瞬、迷子の子どものような声がした。
635
47.神様、小さな子どもが泣いています
周りの物を吸い込むように飲み込んだ赤は、凄まじい音と風を巻
き起こして膨れ上がった。
壁が、空気が、捻じ曲がって弾け飛ぶ。咄嗟に私達を抱きしめた
アリスの肩越しに大量の破片が降ってくるのが見える。その中に、
さっきまでユリンが握っていた弓が半分になって頬を掠っていく。
巨大な破片が堀の中に落下した勢いで水が暴れ回り、私達は溢れ
出た水に流されて堀から叩き出された。
鎖も外されず、ユアンごと麻袋を被せられて男達に担ぎ上げられ
る。袋に詰められる寸前、ぐったりとしたアリスはそのまま縛り上
げられたのが見えた。その頭から血が流れていて、破片が当たって
いたのだと気づいた。
荷物みたいに放り投げられ、一気に振動が変わる。馬に乗せられ
たので気づいたけれどどうにもできない。がくんがくんと揺られな
がら、舌を噛まないように唇を噛み締める。
﹁ユリン⋮⋮? ユリン、ユリン、ユリン﹂
ぶつぶつと呟いているユアンは、無意識なのか唯一動かせる足を
絡めて、頭を擦りつけてくる。寒いのかもしれない。
﹁ユリン、どこ⋮⋮?﹂
私は、それに応えることができなかった。
袋の端を掴み上げて滑り落とされる。地面に叩き落とされた衝撃
で呻いている間に鎖が外さて突き飛ばされた。何の抵抗もせずに一
緒に放り込まれたユアンが崩れ落ちるのを支えきれず、押し潰され
るように座り込む。
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縦に何本も棒が見える。いや、現実逃避だ。本当は分かっている。
これは棒じゃない。
檻だ。
隣の檻に放り込まれたアリスが頭を押さえながら起き上がる。
﹁ユリン⋮⋮?﹂
小さく震える声にはっとなって視線を落とす。
﹁ユアン、負傷は?﹂
ユアンはやけに幼い動作で私の裾を握って、顔を上げた。
﹁ママ、ユリンはどこ?﹂
﹁え?﹂
きょときょとと頭と一緒に視線を動かして、檻を見て、私を見て、
また檻を見て、私を見る。
﹁ママ、ねえ、ママ。こんどはママもいっしょね﹂
ぱっと嬉しそうに笑ったユアンは私に抱きついて胸元にすり寄る。
﹁ママ、ママ、もうおいていっちゃやだよ。ねえ、ママ、こんどは
みんないっしょね。ユアンと、ユリンと、ママ。ね、みんないっし
ょ。ママ、ママ、ママ﹂
アリスも驚愕の目でユアンを見ている。目で訴えられても、私に
だって分からない。小さく首を振った私にぎゅうぎゅう抱きついた
ユアンは、親指を銜えて首を傾げた。
﹁ママ、ユリンはどこ?﹂
﹁ユ⋮⋮アン﹂
﹁ユアンはここにいるよ? ママ、ユアンとユリンをまちがえちゃ
いやぁよ?﹂
くすくす笑ってすり寄ってくる頭を反射的に抱きしめて、呆然と
したアリスと視線を合わせる。私もアリスと同じ顔をしているだろ
う。
﹁ママ、ママ、うれしい。ママがユアンをだっこしてくれる。ねえ、
637
ママ、ユアンね、ずぅっとママにだっこしてほしかったんだよ﹂
ママ、ママ、ママ。
﹁だいすき。ママ、ユアンね、ママがだぁいすき!﹂
ユアンが笑う。無邪気な幼子のように。
笑っていたユアンは、ふと悲しそうな顔になって私の頬に手を伸
ばした。触れたその場所がじくりと痛んで眉を寄せる。どうやら、
破片で切っていたようだ。
﹁いっ⋮⋮!﹂
﹁ママ、ママ、おかおいたい? ちがでてるよ、ママ、おかおどう
したの? いたい? ママ、ユアンがおまじないしてあげる﹂
私の頬にとんっと軽いキスをしたユアンは、えへへと笑った。
﹁ママ、もういたくない?﹂
﹁あ、りがとう﹂
﹁ママ、だいすき!﹂
ほんの数時間前に俺に触るなと憤慨した少年は、どこにもいなか
った。
砲撃による振動が地面を伝わっているから、それほど距離を離さ
れたわけじゃないのは分かる。何より、私達を囲んでいる男達の数
を見れば分かってしまう。ここは、反乱軍のど真ん中だ。
その輪の中に知った顔を見つけてしまい、唇を噛み締める。
﹁ヒューハ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お久しぶりです、カズキさん﹂
気負いない返事に、あのお茶会の時に三人で喋っていた続きでは
ないかと錯覚を起こしそうになる。でも、そんな事は有り得ない。
﹁イヴァル、は?﹂
﹁元気ですよ。ここに来るまでは毎日俺に怒ってました。牢の中か
らですけどね﹂
638
生きているのなら、生きていてくれるなら、今はそれだけでほっ
とした。
彼の言葉を信じていいかは分からないのがつらいけれど。
私はユアンの頭を抱えたまま、絞り出すように叫んだ。
﹁ヒューハ、使用、停止して!﹂
それだけで私が何を言っているのか分かったのだろう。ヒューハ
はちらりと爆音による赤が散る方角を見て、首を振った。
﹁あれなるは、使用しては不可な物ぞ!﹂
周りを囲む男達は酷く静かだ。砲撃で上がった粉塵で夜空が覆わ
れていく様子に怯みもしない。あれの威力を知っている。それなの
に、使うのか。
﹁⋮⋮あれを使った代償を背負う覚悟くらい、ありますよ。俺達は
騎士で、軍士だ。自分達が使った武器の咎を負う覚悟は、最初から
持ってる﹂
爆音が響く。地面が揺れる。粉塵で星が消え、月光もない闇が訪
れていく中、赤い炎だけが舞い上がる。
﹁⋮⋮虚偽申告ぞ﹂
﹁侮辱しますか。その覚悟のない者が武器を持っているのだと、貴
女はそう言うんですか﹂
ぴくりと眉を動かしたヒューハの他にも、同じ動きをした男達は
多かった。
﹁ママ、ママ、こわい。ママ﹂
腰に手をやったアリスは、剣を奪われていることに気付いて小さ
く舌打ちして私に制止をかけた。
﹁カズキ﹂
分かってる。自分で檻をぶち破る力も、相手を言い負かす言語力
も、そもそもそんな頭さえない私が、檻に入れられた状態で相手に
売る喧嘩ほど愚かなものはない。黙って従順にしているのが得策だ
ろう。まして、今のユアンに怒声なんて聞かせるべきじゃない。何
639
が起こってるかは分からないけど、それくらいのことは分かる。
分かる、のに。
﹁理解する、してない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何をですか﹂
私はユアンの耳を塞ぐように抱きしめて、胸元に頭をつけてすり
寄っている彼の身体を隠すために、自分の身体を折り曲げて彼を覆
った。私の視界にはユアンの背中だけが見える。
嘘つき。ヒューハの、嘘つき。
﹁あれなるの、ツケを払うするは、お前達では、ないくせにっ⋮⋮
!﹂
何が咎を背負う覚悟はあるだ。
現にいま、その代償を支払って震えているのは彼らじゃないでは
ないか。あの赤い光が呑み込んだのは、この双子じゃないか。
ユリンは無事だと信じたいのに、そうさせてくれないくせに。
爆弾も、大砲も、使った人だけで終われるような代物ではない。
その時代だけでも終われない。
これからずっと続くのだ。あれをこの世界に持ち込んだ側の私が
言える言葉ではないかもしれない。けれど、だからこそ言える言葉
がある。戦争で、多くの人間が死んで国土が焼けた。戦争は惨く愚
かなものだと、笑い声の中で学ぶ時代に生まれたからこそ、知って
いる事実がある。
﹁あの火は、使用した者のみに降るは、ありはしないぞ!﹂
この人達はずっと国境で戦ってきた人達だ。国境での戦いは、戦
うものとそうでないものをきちんと線引きしていた。
だけど、彼らは見たはずだ。王都で爆弾が使われたとき、逃げ惑
う戦争を知らない人達を。区切られていた戦場が広がったその時、
代償を払うのは自分達だけだと言えるのか。
640
いま、ここできょとんとしているユアンを前に、それを言うのか。
﹁⋮⋮⋮⋮王都まで運びます。せめてそれまではゆっくりしていて
ください﹂
どんな言葉をどんなに言い募っても、相手に届かなければ意味な
んてない。
ヒューハは私達に背を向けて行ってしまった。
﹁ヒューハ! 待って、お願い、ヒューハ! あれなるを使用する
は駄目! お願い、ヒューハ!﹂
﹁カズキ!﹂
檻に額を押しつけて、アリスが苦しそうな声で叫ぶ。
﹁⋮⋮もう、いい﹂
﹁アリス⋮⋮﹂
﹁もう、いいんだ﹂
疲れ切った声でそう言ったアリスは、小さい笑い声を上げて口角
を歪ませた。
笑っているのに、何だか泣いているように見えた。
檻を乗せた馬車は激しく揺れながら夜空の下を進んでいく。
すぐに激しい雨が降ってきたのは嬉しかった。アメフレ坊主が効
いたのかもしれないし、砲撃が大気を揺るがして雨を呼んだのかも
しれない。
﹁ママ、さむい。さむいよ、ママぁ﹂
問題は、雨曝しになる私達だ。
私達の檻が乗せられている馬車は幌のない、荷台だけの馬車だ。
檻は雨を遮らない。
﹁カズキ、これをかぶっていろ﹂
アリスは自分の上着を絞って檻の隙間から渡してきた。手足を縛
られていないから出来ることだ。それだけ檻が強固なんだろうなと、
641
どうでもいいことを思った。
﹁アリスは、寒いない?﹂
﹁寒くない、だ。これくらいでどうにかなっていては騎士は務まら
ん。いいからかぶっていろ﹂
どうしようかと悩んだけれど、ありがたく受け取る事にした。そ
して私にしがみついているユアンを包むように掛ける。アリスはち
らりと視線を寄越したけれど、何も言わなかった。
ユアンはぐりぐりと額を私の胸元に押し付けて、嬉しそうに笑う。
﹁ママ、ママ、おうたうたって?﹂
難問である。
どうしよう。私、この世界の歌知らない。
﹁ママ?﹂
不思議そうに小首を傾げているユアンに急かされる。どうしよう。
仕方がないのでお手紙食べてみる。
勢いのまま手紙の食べ合いから始まり、思いつく歌を続けていく。
驚いたことに、ユアンは歌に交じってきた。
﹁ユアン、何故にしてご存じ?﹂
﹁なにを?﹂
﹁歌﹂
﹁ママがうたってくれたでしょ?﹂
きょとんと首を傾げられて、こっちが首を傾げる。
﹁⋮⋮そうか、楽譜を作っている時に覚えたのか﹂
驚いたアリスがそう言った。私も驚いてユアンを見下ろす。ユア
ンはにこにこ笑っていた。
あの時ユアンは、ぶすっと部屋の端にいただけだったのに、まさ
か意味も分からない歌詞を覚えていたのか。もしかして、ルーナ並
に記憶力がいいのかもしれない。
そして、一番スペックが低いのはこの私である。そろそろ地下三
階くらいに到達する己のスペックに嘆いていると、段々ユアンの声
642
が小さくなっていく。
﹁ママ⋮⋮ママ⋮⋮⋮⋮ずぅっと、ユアンと、ユリンと、いっしょ
にいてね﹂
親指を銜えてとろとろと眠り始めたユアンの背中を、リズムに合
わせてそっと叩く。やがて規則的な寝息が聞こえ始めてようやく私
は全身の力を抜いた。
アリスのいる檻側に凭れて息を吐いたら、アリスも同じように反
対側に凭れた。檻さえなければ、背中合わせで岩の上に凭れていた
あの時みたいだ。
﹁アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
﹁子どもなるに﹂
﹁なるはいらん﹂
﹁子どもに、点呼された場合、何と答えるが正当?﹂
﹁母上は﹃はい、何ですか﹄と答えていたが、お前は、﹃はい﹄か
﹃なに﹄くらいがいいんじゃないか?﹂
﹁はーい! なーに!﹂
﹁何故伸ばした﹂
怒られるかと思いきや、アリスは笑っているようだ。
﹁アリスちゃん﹂
﹁何だ﹂
﹁私なる⋮⋮私、王都、自力で入室したこと皆無ぞり﹂
一度目は、家出て一歩で王都に登場。
二度目は、ゼフェカに運ばれて途中から気絶闊歩。
三度目は、檻で強制送還。
おのぼりさんにしても、もうちょっとまともなおのぼりさんをし
たいものである。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
643
﹁何だ﹂
﹁私、ザンシュ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮させんぞ﹂
斬首なんだな。
﹁アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何だ﹂
﹁手、縫おう﹂
﹁何!?﹂
﹁え!?﹂
びっくりして振り向いたら、ユアンがぐずったので慌てて体勢を
戻す。そっと背中を叩いているとすぐに寝入ってくれてほっとした。
﹁む、結ぶ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮繋ぐだ、たわけ﹂
檻の隙間からアリスの手が出てきたので、ありがたく繋ぐ。背中
合わせだから握り合っているみたいな繋ぎ方になった。
私の手は酷く震えていたけれど、アリスは何も言わずにいてくれ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮十年前も、お前はこんなに震えていたのか﹂
と思ったら、考え事をしていただけらしく普通に突っ込んできた。
私の親友は空気が読めないらしい。
そんなことはないと見栄を張ろうかとも思ったけれど、アリス相
手に今更取り繕えるものは残っていない気もする。だから、正直に
白状した。
﹁以前は、もっと凄まじく、がっこがっこだった。何故なら、一人
だった故に﹂
一人で壁から引きずり落とされて、袋に放り込まれて、がっくが
くのぶっるぶるだった。
644
﹁それ故に、パンツ、ごめん! 悪意はなかった!﹂
ぶんるぶんる足が震えている状態で、早く歩けと後ろから押され
たから、それが軽くでもそれはもう盛大にすっ転んだ。目の前にい
たアリスは災難だったとしか言いようがない。
悪気はなかったんです! いや、他にもいろいろなかった⋮⋮今
でもないけれど。
重ね重ね申し訳ない。
謝ると、繋いでいる手が軽く震えた。アリスは、小さく笑ってい
る。
﹁⋮⋮お前にそんなものがないことくらい、十年前から知っていた
さ﹂
﹁そうだったじょ?﹂
﹁せめて、の、にしろ﹂
﹁そうだった、の?﹂
﹁ああ、そうだ⋮⋮⋮⋮そうだよ、カズキ﹂
アリスは後頭部を檻にぶつけた。
﹁お前は類を見ないたわけで、並び立つ者がいないほどの珍妙だが
⋮⋮普通の、女なんだよ。そのお前が普通に暮らせないこの世界は、
おかしいんだろうな。この時代で、どうすればお前は、普通に、幸
せに、暮らせるんだろうなぁ﹂
﹁アリスちゃん、そのようなこと、思考していたの?﹂
﹁ああ⋮⋮考えているさ。私だけではなく、皆、お前のことが好き
な人間は誰だって考えているさ。考えていないのはお前だけだ、た
わけ﹂
﹁ごめん!﹂
﹁たわけ⋮⋮⋮⋮たわけ、たわけ、たわけ、たわけ、たわけ、たわ
け﹂
たわけの嵐を頂いた。大放出である。今ならつかみ取りだって出
来そうだ。
﹁お前ほどのたわけは、この先現れないんだろうな﹂
645
﹁アリスちゃんほどのたわけ連射も、現れないじょ﹂
﹁よ、だ。よ﹂
﹁あららわれないよ﹂
檻の中で叩きつける雨を受けながら、私達はずっと手を繋いでい
た。
久しぶりに見る王都は、やっぱり人の数が多いのが印象的だ。戦
場でずらりと並ぶ人の群れを見てきたのに、これだけ距離が近いと
受ける印象も変わる。
﹁ママ、ママ⋮⋮こわい。ママ﹂
﹁大丈夫! 私もこわい!﹂
﹁まったく大丈夫じゃない答えを返すな、たわけ﹂
左右に溢れ返る人の真ん中を檻の中に入れられたまま通っていく。
つい先日ヴィーと一緒に手を振りながら同じような状況を経験した
けれど、あの時と今では周りの人の目が全く違う。
何せ私は、﹃黒曜様騙った偽黒﹄なのである。
周りから偽物コールが絶えず湧き起っていた。
﹁ママ⋮⋮ママも、こわいの?﹂
﹁お揃いの!﹂
﹁よ、だ。よ﹂
﹁お揃いよ!﹂
私にしがみついているユアンは、ぱっと嬉しそうに笑った。
﹁ママとおそろい!﹂
﹁お揃いよ!﹂
﹁ママ、ママとおそろいで、ユアンね、うれしい!﹂
ぎゅうぎゅう抱きつくユアンの頭を、撫でながら耳を塞ぐ。
聞かなくていい。全部、子どもが聞く必要のない言葉だ。
646
﹁殺せ!﹂
﹁黒曜様を語った不届き者なんて、早く殺してしまえ!﹂
﹁あいつらのせいで俺の店は壊れたんだ! バクダンなんてこの国
に持ち込みやがって!﹂
﹁せっかく平和になったのに!﹂
バクダンを使ったのは私じゃないですよーと心の中で否定する。
声の中には不安げなものもあった。
﹁⋮⋮偽黒の隣の檻にいるのは、アードルゲの若様じゃないのか?﹂
﹁アードルゲ様だって?﹂
﹁⋮⋮耳に契りがないか?﹂
﹁アードルゲ様と偽黒が契りを?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮本当に、あれは偽黒なのか?﹂
怒声と一緒にそんな声が入り交じる。
でも、それらは全部次から次へと溢れかえる音に呑まれて通りす
ぎていく。
﹁いずれ彼らは気づくだろうな﹂
檻の横に立って周囲を見下ろしているヌアブロウが、私達だけに
聞こえるように言った。
﹁自分達が処刑に賛同した貴様が本物の黒曜であったと。そうして、
二度と取り返しのつかない事態となって初めて後悔するだろう。だ
が、その頃には既にガリザザの軍が到達している。ガリザザはブル
ドゥスを飲み込み、塗り潰す。そうして、ブルドゥスは終わるのだ。
戦士を侮辱した国の末路は、消滅がふさわしい﹂
﹁⋮⋮隊長は、国に⋮⋮⋮⋮民に、復讐するつもりなのですか﹂
﹁安心しろ。黒曜にもする予定だ﹂
全く安心できない返事が返ってきた。
既に処刑台に運ばれているのに、これ以上どうするつもりなのだ
ろうか。
647
馬車が止まったのは、大きな噴水のある広場だった。広場の周り
にはぐるりといろんなお店が並んでいる。こんな場所で処刑とかや
ったら、後々の商売に差し障るのではないかと思ったけれど、現在
ひっきりなしに現れるお客さんにてんてこ舞いになっている店員さ
ん達にはそんなこと考える余裕もないのかもしれない。
噴水の隣にはちょっとした舞台のような物が組まれていた。
数人がかりで檻ごとそこに上げられる。がつんと檻同士がぶつか
って、ユアンが悲鳴を上げた。
﹁⋮⋮檻が開いたら、私が隊長達の気を引きつける。その隙に、ユ
アンを連れて逃げろ﹂
どうやってとか、アリスちゃんはとか、聞きたいことは全部飲み
込む。
聞く時間も、飲み込む覚悟もない。
﹁了解よ﹂
ユアンの手を握って、何度も息を吸う。心臓がうるさい。心臓が
跳ねすぎて肺が焼けそうだ。
がたがたと震える足を殴りつけ、唇を噛み締める。走れるように、
せめて、走れるように。他のことは何も考えない。
﹁黒曜。貴様の死刑執行人が現れたぞ﹂
歓声が沸き上がると同時に兵士の手が檻にかかる。同じように檻
が開かれていくアリスが腰を低くして、ぴたりと、止まった。
その隙を見逃さず、兵士達はアリスを縛り上げる。なのに、アリ
スは驚愕を浮かべたまま私の後ろを見ていた。
私は檻から引きずり出され、引き離されたユアンの金切声を聞き
ながら地面に膝をつかされる。ぎゅうぎゅうと荒縄に縛り上げられ
た痛みに顔をしかめた。顔も地面に押し付けられているので痛いけ
れど、何故だか腕の痛みの方がきつい気がする。
ぎぃ、ぎぃ、と、木で出来た舞台が軋む。私の前に歩いてきた人
の靴が、顔のすぐ傍で止まった。
648
髪を掴んで引きずりあげられ、向けられた視線の先に見つけたの
は、私がこの世で一番好きな色だった。
﹁ルー、ナ⋮⋮⋮⋮?﹂
少し伸びた濃紺の髪に、光を混ぜ込んだような水色の瞳。
夢に見た。何度も何度も夢に見た。それは幸せな夢だったり、あ
の、灰色の時だったり様々だったけれど、何度も、何度も、ルーナ
を探した。
ルーナがいる。夢みたいに、ルーナがいる。
だけど、その手に握られているのは、見たこともないほど大きく
長い剣だった。
﹁これより、偽黒の処刑を行う!﹂
ヌアブロウたった一人の声が、これだけの人の歓声に負けじと響
く。
﹁この者はあろうことか黒曜の名を騙り、国を混乱に貶めようとし
た大罪人である! よって、ここでその罪を償ってもらう! 仮に
も黒曜を名乗った女だ、騎士ルーナに手を下されるのならば本望で
あろう﹂
笑い声が上がった。
でも、そんなこと、どうでもいい。
ルーナがいる。ルーナが此処にいる。
生きてる。生きて、此処にいる。
649
それだけを願っていた。どんな怪我をしていても、ただ、生きて
いてくれたら、それだけでよかった。
なのに。
兵士達が私の膝を折ったまま、頭を掴んで無理矢理舞台の端に突
き出した。舞台の下に立っている人が私の髪を掴んで、半円に削ら
れた穴がある板に私の首を嵌める。
﹁ルーナ﹂
身動きが取れなくなって、私が見えるのは、私に片手を突き上げ
て怒声を上げている人達だけだ。遠い場所では不安げな顔をしたり、
顔を逸らしたり、口に両手を当てて走り去っていく人もいる。
けれど、私に近い人達は、殺せ、殺せ、と、何度も何度も声を上
げた。
﹁ルーナ﹂
泣き喚きたい。
ルーナが生きていた。生きていてくれた。
それだけでよかったはずのに、全てを投げ出して泣き喚きたい。
﹁言い残すことはあるか﹂
﹁ルーナっ⋮⋮﹂
どうしてそんな、知らない人間を見る目で、私を見るの。
ママ、ママ。
ユアンが泣き叫んでいる。
カズキ、カズキ、ルーナ。
アリスが、叫んでいる。
殺せ、殺せ。
650
知らない人達が、いっぱい、いっぱい、叫んでいる。
音が振動となり、頭の中だけじゃなくて体中をぐるぐる回る。
回って、巡って、処理できないまま、涙となって零れ落ちた。
[好き、だよ。ルーナが、好きだよ]
言い残したいことは分からないけど、伝えたい言葉ならそれだけ
だ。
苦しいのに、苦しすぎると飽和するんだなと、私はあの時からそ
れを知っていたのに、呆然と、そんなくだらないことを考えた。
髪が寄せられて首が剥き出しになる。すぅすぅと風が走り抜けて
いく。
何故だろう。
怖くない。
恐怖はない。怒りもない。
ただ、悲しい。
床を擦っていた剣がゆっくりと上がっていく。持ち上げられると
もう視線で追うことも出来ない。
だけど、影が見える。長い剣が振り上げられたのが分かった。そ
して、振り下ろされたのまではっきりと分かってしまったのが。
やっぱり、悲しかった。
651
652
48.神様、少々限界です
目を瞑ることも忘れて、ただただ影を見つめていた私の腕が急に
自由になった。
なのに動かすことが思い浮かばず、身体の横にだらりと落とした
腕を誰かが掴んで立ち上がる。
頭ががくんと動く。身体の動かし方が思い出せない。私はいま立
っているのだろうか。足元が覚束ない。視線の中に入っているもの
が脳まで回らず、ただ流れていく。
私いま、首、あるのかな。
﹁⋮⋮何をしている、ルーナ・ホーネルト﹂
﹁死にかけていた俺を救ってくれたことに感謝はしているが、騙し
討ちのように連れて来て、何の説明もなく女を殺せと剣を渡されれ
ば、俺が何も考えず実行すると思っているのか。馬鹿にするにも程
があるぞ﹂
頭を上げることが思い浮かばない私の視界の中では、今まで首を
嵌めていた板の周りに縄が散らばっていた。
切られた縄の残骸を見て、ママ、ママと金切声をあげているユア
ンを見て、カズキと叫んでいるアリスを見て、ゆっくりと顔を上げ
る。
ルーナがいた。
長い剣を舞台に突き刺して、空いた手で私の二の腕を掴んでいる。
﹁俺の記憶がないのをいいことに、お前達の都合がいいように使わ
れるのは気にくわない。まして、この女は嘘をついているようには
見えなかった﹂
653
﹁⋮⋮記憶があろうがなかろうが、扱いにくい男だ﹂
﹁だろうな。俺も自分の性格くらいは把握した﹂
周りに聞こえないように素早く会話を終えたヌアブロウは舌打ち
をした。
それに構わず、ルーナは私を引きずるように歩いてアリスとユア
ンの間で手を放す。ぺたりと坐り込んだ私に、兵士の手を振り払っ
たユアンがしがみついてくる。
﹁ママ、ママっ⋮⋮!﹂
何も反応を返せない。分からない。分からない、分からない。息
の仕方も、思い出せない。
俯いたアリスが肩を震わせて呻いた。 ﹁⋮⋮⋮⋮ヌアブロウ﹂
ぎりりと、歯を噛み締める音が聞こえる。
﹁私は、貴方を尊敬していた。だが、もう二度と、隊長とは呼ばな
い。⋮⋮十年、十年だ。十年カズキを待ち続けたルーナに、よりに
もよって、ルーナに、カズキを殺させようとした貴様を、私は一生
許さないっ⋮⋮! 裁かれるべきは貴様だ、ヌアブロウ!﹂
血を吐くような熱さで吐き捨てたアリスに、ヌアブロウは何も言
わない。ただ淡々とした視線を落とし、やがて興味を失ったように
視線を逸らして私の腕を掴んだ。
﹁私の友に触れるな、外道がっ!﹂
﹁お前が言ったのだろう、アリスローク。だから、私が手を下すま
でだ﹂
足に力が入らない。引っ張られるままに腰が浮いたとき、誰かが
叫んだ。
﹁やっぱり、あの方が本物の黒曜様だったのよ︱︱!﹂
﹁あたしが言ったとおりでしょ︱︱!?﹂
﹁騎士ルーナが記憶を失ったという噂は本当だったのね︱︱!﹂
654
﹁騎士ルーナの記憶を奪って黒曜様を殺させようとするなんて︱︱
!﹂
﹁きゃ︱︱! ひどいわ︱︱!﹂
﹁なんてことを︱︱!﹂
﹁あの方が本物の黒曜様よ! だって、アードルゲ様と契りを結ん
でいるもの︱︱!﹂
﹁たとえ記憶がなくても、騎士ルーナが黒曜様を殺すわけがないも
の︱︱!﹂
あちこちで上がった甲高い声に、殺せと叫んでいた人達がバツが
悪そうに消えていく。中には忌々しげに顔を歪めた人もいた。そう
いう人達は同じ方向に消えていくので、もしかしたらサクラだった
のかもしれないなと、ぼんやり考える。
そしていま、あちこちで上がっている甲高い声に、何だか聞き覚
えがあるような気がしてきた。
﹁騎士ルーナに黒曜様を殺させようとするなんて、あまりに非道だ
わ! ひどすぎるわ︱︱!﹂
一際大きな声に引かれて視線を彷徨わせると、たっぷりとした真
っ赤な髪を揺らした美女がいた。
﹁⋮⋮カルーラ、さん﹂
私の視線に気づいたカルーラさんは、ばちんと綺麗なウインクを
返してくれた。
動きが緩慢になっていた心を打ち抜かれた。うほん作戦の威力の
凄まじさが証明されたのだ。よろけた私に、畳み掛けるように声が
上がる。
﹁黒曜様︱︱!﹂
﹁黒曜様、ああ、なんてお労しい!﹂
﹁私達の黒曜様を返せ︱︱!﹂
あちこちで上がる声を辿ると、その先では知っている人々がいた。
最後に声を上げた少女は、娼館が燃えたあの日、私の所為で怪我を
負った子だ。彼女はもう元気だよと証明するように、怪我をしてい
655
た肩を振り回して手を振ってくれる。その視線が、私を誘導するよ
うに流れた。視線の先を辿る。
人ごみが割れて、自警団に周囲を囲まれた小さな影を見て、私は
ユアンを抱く力を強くした。
こんなの無理だ。
泣かずにいるなんて、絶対、無理だ。
ざわざわと人々の動揺が広がっていく。
少し離れた屋根の上で、お腹周りが膨れて遠目だと余計に酒樽み
たいに見えるおじさんが片手を上げている。彼の向かいの屋敷のバ
ルコニーには杖をついたおばあさんが凛と立っていた。
﹁守護者だ﹂
﹁王都の守護者だ﹂
﹁三家が揃ってるぞ!?﹂
ああ、そうか。
今更ながら気が付いた。リリィと娼館を守る自警団。統率のとれ
た、たくさんの男達。それはちょっとした軍隊のようで。
裏三家とは、お城とは別に王都を守る役割を担った人達だったの
だ。
﹁ガルディグアルディア及び、ジャウルフガドール、ドントゥーア。
我々三家は、お前達が掲げる女を黒曜と認めない。我々は偽黒を城
から引きずり落とし、城に王族を取り戻す。あそこは、国を守ろう
と最初に立った一族が住まう場所だ。なのに何故、ブルドゥスをガ
リザザに売り渡した貴様がそこにいる﹂
﹁⋮⋮小娘が﹂
﹁小娘であろうがなかろうが、私はガルディグアルディアだ。なら
656
ば、その決断はジャウルフガドール及びドントゥーアと同等の意味
を持つ﹂
少し、背が伸びたのかな。
ねえ、髪も、伸びたね。
どっちにしても、相変わらず、可愛いね。
﹁リリィ⋮⋮!﹂
小さな身体をぴんっと伸ばしたリリィの声は、雑音全てを弾き返
した。
無事でよかった。元気そうでよかった。会えて嬉しい。リリィ、
リリィ。
ああ、リーリア。
﹁その薄汚い手を放せ、ヌアブロウ。お前が触れるその人は、私の
大切な人だ﹂
安堵と歓喜が湧き上がる。じわじわと膨れ上がって末端まで巡っ
ていくのと一緒に、さっきまで怖い顔をしていた民衆達がリリィに
同調し始めた。人って勢いに呑まれるものだ。
困惑が広がっていく中、ヌアブロウは口角を吊り上げた。二の腕
を掴んでいた手が離されたと思った瞬間、首を掴まれて持ち上げら
れる。人を片手で簡単に浮かせるヌアブロウの腕は、それを驚けな
いほど太くてびくともしない。
﹁これに釣られてのこのこと出てきたか、ガルディグアルディア。
ドブネズミのようにこそこそと隠れまわっていた慎重さをそう簡単
に無くすようでは、その名も分不相応ではないか?﹂
浮いた私の足にユアンが縋りついて泣いている。お願い、ユアン。
引っ張らないでくれると非常に嬉しい。
両手でヌアブロウの腕を引っ掻いても、本当にびくともしない。
657
こっちの爪が剥がれそうになる始末だ。
かろうじて隙間があるのか、薄く細い呼吸は何とか続いているも
のの、徐々に視界が赤くなっていく。苦しい。首から上にいろんな
ものが集中していく気がする。というより、首から下にいけなくな
っているのだ。
﹁私は、放せと言った﹂
リリィが片手を上げた瞬間、ヌアブロウは目を見開いて私を解放
した。解放したのか、ただ手を放したのか分からない。寧ろ、叩き
つけられたような気もする。
解放されたはずの息が詰まり、打ち付けられた衝撃で力の入らな
い身体を必死で起こす。起きた傍からユアンに抱きつかれて、再度
後ろに倒れ込んだ。
ヌアブロウは少し腰を低くして、剣に手をかけている。
﹁⋮⋮⋮⋮貴様がそこにつくか﹂
低い声が示す先を見て、息を飲んだのはアリスが先だった。屋根
の上で黄色い髪の束をはためかせているその人は、ぎりぎりと引き
絞った弓からちょっとずらして顔を見せてくれる。片目を覆う眼帯
と弓が重なるように位置を調整したその人は、視線が合った瞬間、
眉を軽く上げた。
﹁おじ上!﹂
﹁再度見える幸運に恵まれたな、アリスローク﹂
広場を囲む建物の窓や屋根の上に弓を引き絞る男達がいる。自警
団もその中に交じっているらしく、ネイさんもいた。距離があるは
ずなのに、彼等が限界まで引き絞る弓の音が聞こえる気がする。
﹁今ここでお前とやりあおうとは思っていない。お互い痛み分けで
は済まないからな。だが、そいつらは置いていってもらおうか。そ
658
の筋書きに付き合わせるには、俺はその役者達に情が移りすぎてい
るらしい。それに⋮⋮少々悪趣味が過ぎるぞ、ヌアブロウ﹂
兵士が駆け寄ってきてヌアブロウに何か耳打ちしている。
﹁各地に散った隊と軍が動いたぞ、ヌアブロウ。各々、お前達反乱
軍を掃討しながらこの地を目指している。指揮を取っておられるの
はアーガスク様だ。お前が指揮から離れた東も守護伯が盛り返した
し、頼みのガリザザも嵐がやまぬことにはなぁ。さあ、どうする?
一度引くか? それともここで俺とやりあうか? それはそれで、
俺は一向に構わんが﹂
舌打ちしたヌアブロウは踵を返した。
﹁行くぞ、ホーネルト﹂
彼の仲間と思わしき男達の動きが少し慌ただしい。どうやら他に
も何かあったみたいだ。
嘆息して背を向けようとしたルーナは、何故かぴたりと動きを止
めた。驚いた顔で私を見ている。その視線の先を辿って私も驚いた。
ルーナのマントの端を掴んでしまっている。しかもしっかりと。
ルーナの驚いた顔と見つめ合う。大丈夫、ルーナ。私の方がもっと
驚いている。
私の頭より、手の方が賢かったようだ。何かを考えるより先に手
が動いていた。
﹁⋮⋮⋮⋮放してくれ﹂
困惑を混じらせた声に口元が震える。
[ルーナ⋮⋮私のこと、分から、ない?]
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮すまない﹂
低く呟いたルーナに、私の中から湧き上がった感情があった。
自分でもびっくりするけれど、なんと喜びだ。
こんな状況なのにじわじわと湧き上がってきた思いが胸から指先
まで行き渡った瞬間、思わず全開の笑顔を浮かべてしまう。
[生きててよかったっ⋮⋮!]
659
よかった、ルーナ、よかった。
生きてた。生きてた。生きてた、ルーナ! 生きてた!
ルーナが喋ってる。ルーナが歩いてる。ルーナが立ってる。
夢じゃない。幻でもない。願望でもない。
ただ、事実として、ルーナがここにいる。生きている。
仮令その眼に浮かんでいるのが困惑でも、いい。私と同様の歓喜
なんて欠片もなくても、よかった。それでも、この身を満たしたの
は心の底から湧き上がる喜びだ。
よかったと、心からそう思える。よかった。嬉しい。ああ、よか
った。ただでさえ少ない語群が更に狭まる。他には何も思い浮かば
ない。
嬉しい、嬉しい、よかった!
﹁⋮⋮⋮⋮何を言っているのかは分からなかったが、ルーナの様子
から見るに、お前が満面の笑顔になる場面ではなかったということ
だけはよく分かった﹂
解放されたアリスが何とも言えない顔で私を見ている。アリスを
押さえていた男達は、ヌアブロウに従ってじりじりと後退していく。
そちらを気にしつつも、アリスがやけに変な顔をしている。そし
て、徐に片手で私の目を覆った。何だろうと首を傾げたけれど、す
ぐに感謝する。
ありがとう、アリス。こんな顔、ユアンに見せられないね。
やけに息がしにくいと思っていたら、鼻が豪快に詰まっているこ
とに気付く。風が当たる頬っぺたは冷たいし、胸から何度も何度も
しゃくり上げるように息が出ていく。
嬉しいんだよ。嬉しくて嬉しくて堪らない。
660
それは本当なんだよ、ルーナ。
ぼたぼたと滝のように零れ落ちる涙を止める術を見つけられない
のに、笑顔だけが溢れだす。笑顔は溢れ出るのに、歯がかちかちと
なる。たぶん、凄く珍妙な女に思われているだろう。気味悪がられ
ていたら嫌だな。気持ち悪いって思われていたら嫌だな。嫌われた
ら、嫌だな。
だって、しっかり握っていたはずのマントがするりと取り戻され
た。そのまま木が軋む音が遠ざかっていく。でも、アリスに手をど
けてとは言えなかった。去っていく背中を見て、叫びださずにいら
れる自信は欠片もないのだ。
﹁騎士ルーナ﹂
リリィの声だ。見えなくたって分かる。
﹁記憶を取り戻したくなったらいつでも声をかけて。私達はいつで
も受け入れるよ﹂
返る声はない。
アリスの手が躊躇いがちに外されたとき、既にルーナはいなかっ
た。空っぽの掌を何度か握っては開く。いつだって伸ばした手を取
ってくれたルーナは、私の手に空っぽを残していった。
﹁ママ?﹂
私の足元にぺたりと座り込んだまま、裾を握り締めて不安げなユ
アンの声に慌てて袖で目を擦る。ついでにこっそり鼻水も拭ってお
く。ティッシュ欲しい。
大きく息を吸い込んで勢いよく吐いて、もう一回ずびっと大きく
鼻を啜る。
﹁はぁい!﹂
渾身の笑顔で見下ろせば、ユアンは輝くように笑ってくれた。
661
﹁⋮⋮本当なら無理矢理にでも連れていきたいけど、あの腕で敵対
心持たれると厄介じゃすまないのが面倒だね﹂
リリィはとことこと舞台まで歩いてきて私を見上げた。可愛い。
﹁カズキ、久しぶり。早くその顔の傷、手当てしよう⋮⋮ああ、そ
うだ﹂
小さな拳がひたりと舞台に触れる。視線だけで呼ばれたネイさん
が窓から飛び降りて駆け寄ってきた。
﹁これ、打ち壊して﹂
﹁はい、お嬢様﹂
綺麗な礼をしたネイさんに背を向けて、リリィはふわりと微笑ん
だ。
﹁無事でよかった﹂
﹁リリィもご無事でなぬより!﹂
嬉しくて嬉しくて、満面の笑顔で答えたらがばりと顔を上げたネ
イさんが驚愕に慄いていた。
﹁す、凄いですね、お嬢様。カズキがこっちの言葉を話しています
よ﹂
﹁以前よりお喋りしていたよ!?﹂
以前の私は何語を話していたというのか。
﹁カズキ語だね﹂
﹁カズキ語ですね﹂
﹁カズキ語だな﹂
リリィ、ネイさん、そしてアリスにまで即答された。悲しい⋮⋮
ような気がしたけれど、よく考えてみると特にそういうわけでもな
い気もする。とりあえずどや顔しておいたら、ユアンが一所懸命褒
めてくれた。どうもありがとう。
リリィに案内されてきたのは、前にアリスちゃんと逃げ込んだア
662
リスちゃんちの建物だった。そして、まだ工事中である。ヒラギさ
ん達は別ルートで散っているそうだ。
﹁ここの地下﹂
アリスちゃんが複雑な顔をした。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮こんな事態だから文句は言わんが、我が家の所有地
に何をしているんだ﹂
﹁エレオノーラさんには許可取ってるよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮母上﹂
周囲の人払いがされている内に早くと促されて急いで入ろうとし
たら、ユアンがぐずった。
﹁ユアン、どうしたよ?﹂
﹁の、だ。の﹂
﹁どうしたにょ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮のだ﹂
いやいやと首を振って後ずさるユアンに引っ張られて、私の身体
も建物から出てしまう。
﹁ユアン、どうした、の?﹂
﹁ママ、ママ、もっとおでかけしよう? ねえ、ママ、まだ、もう
ちょっと、おさんぽしよう? ママ、ユアンね、もっとママとおで
かけしたい﹂
いやいや、いやいやと首を振って、ユアンは泣きべそをかく。
﹁目立つ﹂
リリィの一言で自警団の一人がさっとユアンを抱え上げて中に入
った。中は窓全てに板が貼られていて薄暗い。前に来たときにはこ
の板はなかったように思う。流石に私が引っかぶった白ペンキは無
くなっていた。
扉が閉められると同時に下ろされたユアンはがたがたと震えて、
両手で頭を抱えて蹲る。
﹁ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、ごめんなさい、ママ、ママ、マ
マ﹂
663
どうしたのだろうとアリスと顔を見合わせて、はっとなる。
ユリンは、双子のお母さんは、外と家の中では態度が全く違った
と言っていた。
﹁ユアン﹂
﹁ママ、ママ、ママ、ママ、ママ﹂
﹁ユアン﹂
丁寧に、丁寧に、ユアンの名前を呼ぶ。何度か繰り返していると、
ユアンは恐る恐る腕の隙間からこちらを見た。
﹁ユアン﹂
広げた手の先、つまり掌をちょいちょいと動かして呼んでみたら、
ユアンは涙でいっぱいになった目を何度も瞬かせた。そうっと銜え
た親指を吸いながら、じぃっと私を見る。
﹁ユアン﹂
阿呆面として大変ご好評頂いている満面の笑顔を浮かべて呼ぶと、
全身のバネを使って飛び掛かってきた。
﹁ママ︱︱!﹂
当然、受け止めきれなかった。後ろに弾け飛んだ私をアリスが止
めてくれる。
﹁あ、ありが、いだだだだだだだだ!﹂
﹁ママ! ママ、ママ! ママ、だいすき!﹂
ぐりぐりと高速で擦りつけられる頭が骨を削っていく。肋骨が折
れる。全力で抱きしめてくれる鍛えた十五歳の本気の腕力に、私の
内臓と骨は悲鳴を上げた。
﹁ユアン! 少々優しく! 少々、加減を優しくお願いございます
!﹂
﹁ママ、マぁマ⋮⋮﹂
﹁なーに⋮⋮はーい?﹂
どっちの返事がいいかなと悩んだけれど、結論が出なかったので
両方言ってみた。
ユアンは、どこかうっとりするように私の胸に頬を寄せて目を閉
664
じる。
﹁ユアンね、ママが、だぁいすき﹂
そのままぎゅうぎゅう抱きしめられて詰まる息をなんとか繋いで
いると、リリィが横にしゃがみ込んだ。ユアンと私を交互に見てい
る。どうしたのだろう。
﹁カズキ⋮⋮私、誰にも言わないし、絶対役に立てるから、教えて
くれる?﹂
﹁何事を?﹂
首を傾げて聞くと、リリィは至極真面目な顔で頷いた。
﹁父親は誰? いつ産んでたの? 十年前?﹂
畳み掛けるように相次ぐ質問を飲み込んだ瞬間、私は盛大に狼狽
えた。
﹁ア、アリスちゃ︱んっ!﹂
﹁こ、ここで私を呼ぶ奴があるかっ! このっ、たわけぇ︱︱!﹂
私以上に狼狽えてすっ飛んできたアリスに引っ叩かれた。痛かっ
たけど甘んじて受けよう。私より正確に説明してもらえると思った
のだけど、なんか、本当にごめん。
懇切丁寧に、それはもう細かく、執拗なほど説明してくれたアリ
スのおかげで誤解は解けた。
﹁つ、疲れた⋮⋮﹂
アリスがぐったりしている。お疲れだ。色々あったからほっとし
て疲れたのだろう。虚脱感に襲われるほど誤解が嫌だった可能性も
あるけれど、そこは置いておく。
﹁カズキ、まずはお風呂入ってきて。お風呂から上がったら手当て
しよう? 東の伯弟からいい傷薬貰ってるの。これ使うと傷痕が残
りにくいから、すぐに塗ろう﹂
リリィの方が痛そうな顔をして私の頬の傍に指を伸ばした。そう
いえば顔が切れていたと思い出す。触れないのは触れると痛そうだ
665
からだろうか。⋮⋮私の顔どうなってるんだろう。腫れたらお岩さ
んかな。いや、あれは目だ。じゃあおたふく? なんか幸ありそう
だ。
その薬はきっと、優秀な人が作ってくれた優秀な薬なのだろうな
ぁと思いながら、何となく袖の臭いを嗅いでみる。泥臭いような苔
臭いような、微妙な臭いがする。
雨曝しで王都まで運ばれてきて、その前は堀に落ちて泥だらけだ。
確かに、お風呂に入ってきた方がいいだろう、リリィの提案にあり
がたく乗っかる。
﹁ママ、ママ﹂
ユアンがくいくいと裾を引いてきた。
﹁なーい?﹂
﹁おい、混ざってる﹂
失敬失敬。うっかり間違えた。ちゃんと訂正しよう。
﹁はーに?﹂
﹁ママ、あのね、ユアンね? あのね⋮⋮おねがいがあるの﹂
もじもじと口ごもる姿を見ていると、何でも全力で叶えてあげた
くなる。よしきた、任せろ!
﹁ユアンも、ママといっしょにはいりたいの﹂
﹁うーん!?﹂
凄まじい難問だった。よくないこないで、任せないで!
﹁お前はこっちだ﹂
アリスちゃんがユアンの首根っこを掴んで引き寄せる。ユアンは
意外にも大人しくいう事を聞いた。ただし、がっかりとしょんぼり
のコラボだったが。
﹁ユアン⋮⋮ママとおふろはいったことない⋮⋮⋮⋮いっつもユリ
ンとだもん﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
悲しげに上目使いされて、アリスと一緒に罪悪感に塗れる。
ごめん、ユアン。他で挽回するから本当にごめん。
666
どうしようかな。昔、リリィとやったみたいに折り紙で遊んでも
いいかもしれない。いらない紙もらえるかな。アリスもやるかな。
アリスは器用そうだな。というより、細かそうだ。そういう人は折
り紙も凄いのを折れる。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ?﹂
折り紙⋮⋮鶴とか風船⋮⋮花も折れるよ。後、風車と二重船とや
っこさんと⋮⋮⋮⋮ああ、ごめんアリスちゃん。あんまり難しいの
知らない。
ぐるぐるぐるぐる、色鮮やかな折り紙が回っている。鶴が飛んで、
ぱっくんさんがぱくぱくしてて、カラフルな箱が重なって、やっぱ
りぐるぐるぐる回って。
﹁ママ︱︱!﹂
悲痛な叫び声がするのに、私はそれに応えてあげられない。
頭を支えられず、仰け反って倒れ込んだ私の背にアリスが滑り込
んできた。そのまま床に座り込んだらしく、後ろから抱きかかえて
くれたアリスの胸に背中と頭をつけたのが分かる。じわりじわりと
浸透してくるアリスの体温が気持ちいい。
﹁時間差⋮⋮こういうことか、ルーナ﹂
深いため息を旋毛に感じる。ごめん、アリスちゃん、ありがとう。
そう言いたかったのに、口を開いただけで力尽きた。全部がぽわぽ
わしている。景色も、音も、体温も。
思考さえもふわふわしている。その中で、ルーナが微笑んでいた。
ルーナ
ルーナ
ルーナ
﹃好きだよ﹄
667
当たり前に聞けていた頃のちょっと高い少年の声じゃなくて、い
まのルーナの声がそう言った。嬉しかったのに、息も出来ないほど
苦しい。
私もだよ。私も、ずっと、ルーナが好きだよ。
そう答えたいのに、答える術がない。だって、ルーナがいない。
ルーナがいない。どこにもいない。
生きていてくれたのに、ルーナがいない。
ルーナの中に、私がいない。
微笑むルーナが遠ざかる。
目尻から滑り落ちた涙をアリスの指が掬い取り、再度深いため息
をつく。
﹁⋮⋮つらいならつらいと言え。この、たわけ﹂
苦しそうな言葉が降る中、私は、馬鹿連呼しながら飛んでくる入
れ歯の幻を見ながら意識を失った。
668
49.神様、少し眠ったのでまた頑張ります
ぐいんっと意識が持ち上げられたと思ったら、ふわりふわりと真
綿で押し込まれるように沈んでいく。持ち上がった時は、ぶわんぶ
わんと耳鳴りがして、頭の中がぐわんぐわんと痛い。がんがんがん
と、鋭く痛むんじゃない。水の中にいるように痛みが膨張する。
熱くて、痛くて、苦しい。
誰かの手が私の額に触れた。ああ、冷たくて気持ちいい⋮⋮いや、
ちょっと寒い。ちょっとじゃないな、かなり寒い。
気が付いたらがたがたと震えていた。歯ががちがち鳴る。嫌だな。
頭痛くて、体中痛くて、ちょっと動くだけも億劫なのに震えると更
に疲れる。
嘆息が降ってきた。それだけでこれが誰か分かった。
アリスちゃんだ。
その手が額から頬をなぞり、首筋に触れる。
﹁⋮⋮本当に効かんな﹂
熱が下がっていないらしい。まあ、そうだろう。だって熱が出た
時の症状そのままだ。頭痛いし、関節痛いし、身体は重いし、寒い
し、暑いし、苦しいし。悲しいし。
﹁大抵の人間は一回飲ませればある程度の熱は下がる薬なのだがな
⋮⋮﹂
それにしても、声を聞く前に溜息だけで誰か特定できるってどう
なんだろう。親友だからこれくらいできて当然か!
ちょっと、親友の定義が分からなくなってきた。
重たい目蓋を開けると、目の前にいたのはアリスじゃなくてユア
669
ンだった。ユアンは私の顔のすぐ傍で寝息を立てている。おお、近
い。そう思ったけれど、驚く気力はなかったので、近いなーと呑気
に見ているとその身体が持ち上がった。
﹁目が覚めたのか。ちょっと待っていろ﹂
私の目が開いたことに気付いたアリスは、抱き上げたユアンを隣
のベッドに寝かせて掛布をかけている。それを見ながらとりあえず
起き上がろうともがくけれど、なかなかうまくいかない。手足の踏
ん張りは何とかなるけれど、ちょっと動くと頭が割れるように痛む。
ベッドの上で悶える私に気付いたアリスが慌てて戻ってきた。
﹁たわけが! たわけ、何をしている、たわけ! 動くな、たわけ
!﹂
たわけ言いすぎじゃないだろうか。それとも今の私の視界がぶれ
るように、たわけもぶれていっぱい聞こえただけだろうか。あらぬ
疑いをかけて申し訳なかった。ごめんね、アリスちゃん。
﹁⋮⋮ほら、寝ろ、たわけ﹂
やっぱり気の所為じゃない気もする。
﹁水⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て﹂
水差しから注いでくれた水を片手に持ったまま、アリスの手が首
下に回る。そのまま背中を支えるように肩を抱いて上半身だけ持ち
上げてもらった。それだけで世界が回る上に頭が割れる。いま何度
くらい出てるんだろう。熱の高さが気になったけれど、口から出た
のは全然別のことだった。
﹁あれより⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁どのくらい、日程⋮⋮﹂
﹁お前が倒れてからまだ一日も経っていない。今は夜だ。⋮⋮いい
から、今は寝ていろ﹂
掛布をかけ直してもらい、寒さに震える私の為にもう一枚毛布が
670
追加された。
﹁アリス⋮⋮﹂
﹁何だ﹂
﹁ルーナ、は﹂
﹁⋮⋮⋮⋮熱が高いんだ。だから、今は何も気にせず眠れ﹂
目が潤む。鼻の奥がじくじくする。これは熱が高いからだ。
熱が高いんだ。だから、だから。
﹁⋮⋮アリス、も﹂
﹁眠れと言っているだろう﹂
﹁アリスも、睡眠、とる、して、ね﹂
﹁お前が寝たらな。水を変えてくるから大人しくしていろ﹂
﹁了解、ぞ﹂
﹁ぞはいらん﹂
しっかり訂正を入れたアリスは、手拭いをかけた桶を抱えて部屋
を出て行った。
それをぼんやりと見送って、唇を噛み締める。
﹁ふっ⋮⋮﹂
関節が痛む腕を持ち上げて顔に乗せる。本当は両腕を乗せたかっ
たけれど、身体が重くてうまく動かなかった。噛み締めた呼吸が漏
れる。幾筋も幾筋も涙が零れ落ちていくのを止められない。熱が高
い時は涙まで熱い。
頭が焼け落ちるほど熱いのに、ぼんやりするどころかどんどん明
確に恐怖を叩きつける。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
ルーナ。
ルーナ。
ルーナ。
どうしよう。どうしたらいい?
671
ルーナがいない。
生きていてくれた。
ルーナがいない。
生きていてくれた。
ルーナがいない。
生きていてくれた。
ぐるぐるぐるぐる思考が回る。熱で蒸発するように思考が溶けて、
また現れての繰り返しだ。文字が頭の中で暴れ回る。嬉しい、生き
て、ルーナ、よかった、嫌わないで、ルーナ、嬉しい、ルーナ、気
持ち悪い、ルーナ、ルーナ、ルーナ。
痛む身体を無理やり折り曲げて掛布を握り締める。どれだけ強く
握りしめても、痛みも熱も全然逃げていってくれない。
どうしよう。ルーナ。苦しい。痛い。つらい。
悲しい、寂しい、苦しい、痛い。
ルーナがいない。ルーナがいるのに、ルーナがいない。ルーナの
中に、私がいない。
大好きな水色が知らない人間を見下ろしていた。目が会う度に柔
らかく光を溶かす大好きなあの色が、無機質に光を弾き返して私を
見ていた。
ルーナが、私を知らないと言った。
﹁ふ⋮⋮くっ⋮⋮う、ぇ⋮⋮⋮⋮﹂
どれだけ堪えても嗚咽が止まらない。両手で口を押えて必死に飲
み込むのに、せっかくさっき飲ませてもらった水が全部目尻から零
れ落ちていく。
熱が高いから気が弱くなっているのだ。早く熱を下げて、頑張ら
ないといけない。だから、早く眠って体力をつけないと。それなの
に、体力を使って夜更かしだなんて正真正銘馬鹿のすることだ。
分かっている。分かっている。分かっている。
672
早く寝ないと。早く熱を下げないと。早く、早く、早く。
そう思うのに、肌を焼きそうなほど熱い涙はいつまで経っても止
まらない。
ルーナを見つけるまで止まらないつもりだった。ルーナに会える
まで、何があっても諦めないつもりだった。
けれど、そうして辿りついた先にあの笑顔がないのだとしたら、
私はどうしたらいいのだろう。
いつしか眠っているのか起きているのかも分からなくなった。
ただ、やけに帰ってくるのが遅かったアリスの手が嘆息と共に私
の涙を拭ったのは分かった。その指に、まるでずっと桶を持ってい
たかのような痕があったのを、熱に浮かされたまま感じたのは覚え
ている。
皺だらけなのに妙にしっとりした手が額に触れて意識が浮上する。
﹁⋮⋮⋮⋮おはようござります﹂
﹁人は成長するものじゃなぁ。この年になると涙もろくてかなわん
っ⋮⋮!﹂
どうしてネビー先生が感動に咽び泣いているのだろう。そしてど
うしてここにいるのだろう。夢だろうか。入れ歯が飛んでくる夢を
見たので、本体が召喚されたのだろうか。入れ歯強い。
かちゃかちゃと音がする。先生が鼻を啜りながら何かしているの
をぼんやりと眺めていると、べちゃりと濡れた手拭いが視界を遮る。
是非とも絞って頂きたかった。
﹁よく頑張ったな、カズキ。えらいえらい﹂
673
がんがんする頭をぐしゃぐしゃと撫でている声はティエンのもの
だ。
何が何だか分からないけれど、褒められたらしい。熱に浮かされ
て弱った心は褒められたことでじわりと涙をにじませたが、はたと
気が付く。
私、別にこれといって何もしていなかった。
お酒奢る約束して、堀から落とされて、首落とされかけただけで
ある。
あ、そういえば。
﹁⋮⋮私、首、存在してる?﹂
﹁し、してますよ! な、何言って! 先生! カズキさんが熱で
おかしなことを!﹂
﹁いつものことじゃ﹂
すぱっと言い切られたイヴァルは、釈然としない声で唸った。そ
う、イヴァルだ。痛む関節をようよう持ち上げて、視界を遮る手拭
いをどける。やっぱりイヴァルだ。
なんだ、夢か。
そう判断して再び眠ろうとしたら、背後が騒がしい事に気付く。
どっっっっっこいしょと身体の向きを変えると、隣のベッドの上に
リリィとユアンがいた。
﹁こう?﹂
﹁そう﹂
ベッドの上に大きな板を置き、そこで二人が何かをやっている。
﹁ママからおしえてもらったの?﹂
﹁というより、昔、これ貰ったの。それをお爺ちゃんが解して、折
り方を書きとめてくれたのを覚えた﹂
リリィの手はてきぱきと折り鶴を完成させていく。拙い動作でそ
れを追いかけるユアンは、ぷくりと頬を膨らませた。
﹁ずるい。ユアン、ママからおしえてもらったことない。リリィ、
あっちいって! ママはユリンとユアンのママだよ! リリィいや
674
! あっちいって!﹂
﹁大丈夫。私はママになってもらおうとは思ってないから﹂
きっぱり言い切ったリリィに、ユアンは首をこてりと倒した。リ
リィもそれに合わせるように首を倒す。鏡合わせのようにおんなじ
角度で首を傾げあっている二人が可愛い。
﹁じゃあ、なぁに?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮と、ともだ、ち、を、目指してる、つもり﹂
﹁おともだち!﹂
﹁声が大きいよ﹂
なんだあれ、天使だろうか。天使が二人で折り鶴してる。じゃあ
ここは天国か。
あれ? じゃあやっぱり私の首はさようなら?
どうしよう。首が。私の首。どうしよう。
﹁私の首⋮⋮どちら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮また珍妙なことを考えているな﹂
嘆息ばかり聞いている気がする親友が私のベッドに腰掛けた。
﹁アリスちゃん⋮⋮﹂
﹁何だ﹂
﹁何故にして、皆、集合﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮聞くのか? その状態で?﹂
どんな状況でも聞くだろう、普通。だって、皆がいるのだ。
熱で目が潤んでいるのに、乾いて引き攣ったみたいにぎこちなく
なる目を必死に皆に向ける。やっぱり皆がいた。間違いなく皆がい
る。
﹁とりあえず、お前さんはこれを飲め﹂
先生が粉と錠剤が乗せて三角に折った紙を渡してきた。起き上が
ろうと悶えて、結局陥落した私の身体をアリスちゃんが支えてくれ
る。爺さんや、いつもすまないねぇ。そう言ったら、本当になと返
してきそうだ。
675
白湯で飲み下し、またベッドに沈む。苦い、まずい、喉がモソモ
ソする。
﹁これが効けばよいがなぁ﹂
目を細めると頭痛がましになる気がするので、そのまま皆を見て
いると、イヴァルが私の手を握った。
﹁ヌアブロウの元から、一部の兵と⋮⋮ヒューハが、投降してきま
した﹂
﹁ヒューハ⋮⋮﹂
イヴァルは握った手に額をつけて項垂れた。
﹁カズキさん、カズキさん、カズキさん﹂
﹁うん﹂
﹁ヒューハと、投降してきた兵達は、ブルドゥスとグラースに報復
したいんじゃなくて、敵を作りたかったんですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮敵?﹂
﹁敵がいればまた軍士も騎士も必要になるからって。憎悪の先が欲
しかったって⋮⋮⋮⋮あいつは馬鹿だっ⋮⋮!﹂
ぎゅうっと握りしめられた手が痛いけれど、それは言わないでお
いた。
大きくなったイヴァルの手は、片手でだって私の手を包めるのに、
両手で何かを祈るように私の手を握り締めている。
﹁ガリザザがその役目を担った今、もう、これ以上は必要ないって
投降してきて⋮⋮⋮⋮処刑してくれって、言うんですよ。国民の恨
みが他の軍士や騎士に向かわないように、死刑にしてほしいって、
言うんですよ。⋮⋮これで、またみんな一緒にいられるだろうって、
﹃平和﹄になったなって、笑うんですよ。あいつ、壊れてる。僕だ
って、たぶん、相当、だけど⋮⋮⋮⋮だけどっ、こんなのっ⋮⋮!﹂
握りしめる互いの手を挟むようにして、額を合わせる。他には何も
できない。力のこもった掌は冷たく、同じ蔵イヴァルの額も冷え切
676
っていた。
﹁⋮⋮なんで、なんでこんなことになっちゃうんでしょうね。何が
いけなかったんでしょう。殺し合わなくていい場所が欲しくて僕達
は頑張ったはずなのに、なんで、敵がいなきゃ成り立たないんでし
ょう。なんで、誰かを憎まなきゃ、うまく、いかないんでしょう。
なんで、どうして、何かを憎まなきゃ、みんな仲良くできないんだ
ろうっ⋮⋮﹂
分からないね。本当に、何でだろうね。
敵がいるときはみんな仲良くできるのに、どうして敵を作らなき
ゃ仲良くできないんだろうね。
分からないね。分からなくて、悲しいね。
イヴァルの頭をぐしゃぐしゃと撫でたティエンは、私の枕元の方
に勢いよく座った。お腹の横辺りに座っていたアリスちゃんの身体
が跳ねあがり、たたらを踏んで立ち上がる。何度かベッドとティエ
ンを見比べて、もう一度そっと座り直したアリスが不憫だ。
﹁俺達がここにいるのは、城を取り戻したからだ。ヌアブロウは城
を放棄してロヌスターへ引いた﹂
私が寝ている間にいったい何が。
﹁じきに本隊が戻ってくる。お前のおかげだぞ、カズキ﹂
寝ている私がいったい何を。
そう思っているのが伝わったのか、ティエンは私の頭もわしわし
と撫でた。頭がぐわんぐわんするから、あんまり揺らさないで頂け
るとありがたいです。
﹁異世界人のお前がこの世界の未来を憂えて叫んでるのに、自分達
が動かないのは恥だとさ。こうなった時はいろいろごちゃ混ぜだっ
たからな。連携も取れずに各自判断するしかなかったから、密偵と
してあちら側につくと決めた奴らが少数いたんだよ。そいつらと連
絡取りながらやってたからな、お前さんが捕まった時のこととか筒
抜けだぞ﹂
677
自分の行動を思い返してみる。捕まってドナドナされただけなの
でこれといって恥はないはずだけど、筒抜けと言われると無い恥を
恥らいたく⋮⋮⋮⋮ならなかった。恥があろうが恥だらけだろうが、
何かもう全部今更だ。
﹁アーガスク様も、軍士と騎士に頭を下げて回った。全部、やり直
しだ。終戦から歪んだまま放置してきたツケを今払って、全部、一
からやり直す。国の在り方をもう一度考え直す事から始めるんだぜ。
めんどくせえよなぁ?﹂
そう言うくせに、ティエンの顔は豪快な笑顔だ。そうだね、めん
どくさいね。けど、めんどくささを優先して何かを失うくらいなら、
面倒に立ち向かう方がいいに決まってる。
﹁エリオス様も生きておられる。⋮⋮⋮⋮火傷の痕は消えぬし、左
目と左耳は使えぬが、生きておられる。それで充分だと仰った。⋮
⋮⋮⋮カズキ、ルーナはロヌスターに同行した。じゃが、諦めるで
ないぞ﹂
ネビー先生は怯みそうになった私を覗き込んで言った。
﹁瀕死のあやつが運び込まれた際、診たのはわしじゃ。けれどな、
カズキ。かろうじて一命を取り留めた時、あやつの記憶はあったん
じゃ﹂
﹁え?﹂
﹁目覚めた第一声が、カズキだった。その後はお前さんの怪我の状
態を言い募っておったわ。腕は自分が縫ったが、きっと酷い痕が残
るとか、せめて首だけでも傷跡が残らないよう診てやってほしいと
か、熱が出てはいないか、痛がっていないか、泣いていないか、必
死に言い募っておったわ⋮⋮⋮⋮じゃが、あやつらが連れていって
しもうた。そうして、次に会えた時にはあの様じゃ。すまんかった、
カズキ。わしが、ルーナを守れなかったんじゃ﹂
しわくちゃの顔を更にしわくちゃに歪めて俯く先生に呆然となる。
ルーナは、記憶喪失になったんじゃなくて、されたというのだろ
うか。魔法もないのに、そんなことできるのだろうか。
678
﹁あやつらに何をされたかは分からん。ただ、惨いことをされた事
しか分からんのじゃ。⋮⋮指の爪がな、無くなっておったんじゃ。
飲んでおる薬を見て、わしは、もう、許せんかった。ガリザザは香
の大国じゃ。古くから香を使ったまじないが盛んで⋮⋮何かしら、
されたのだろうな﹂
吐き気が胸の中に湧き上がって、必死に飲み込む。
アリスが控えめに先生を止めようとしているけれど、それを断る。
教えてください、先生。ちゃんと聞かなきゃ、決意も出来ない。
﹁頼む、カズキ。ルーナを責めんでやってくれ。責めるなら重体だ
ったルーナを守れんかったわしを責めてくれ。頼む、カズキ。ルー
ナを諦めんでやってくれ﹂
年老いた身体を折り曲げて謝る先生に向けて必死で手を伸ばす。
しわちゃくちゃなのにしっとりとしているのは、薬を扱っているか
らだろうか。
その手を握り締めて額をつける。いま、出来る動作が限られてい
るからさっきからこれしかできないけど、籠める想いに違いなんて
ない。
﹁諦めるはずが、ありは、しないよ﹂
﹁カズキ⋮⋮﹂
初めて先生の涙を見た。
大丈夫、大丈夫だよ先生。
吐息も思考も全部熱いけれど、大丈夫です、先生。
﹁私、結構、強靭なのぞ!﹂
もう、充分泣いた。充分めそめそした。
もう、充分だ。
ルーナ
ルーナ
ルーナ
679
ルーナの中に私がいない。
けれど、私の中にはルーナがいる。ずっとずっと、ルーナがいる
よ。
たった一つ、恋をした。そしてこれが、ただ一つの恋だ。
好きだよ、ルーナ。ルーナが大好きだよ。
ずっとずっと、ルーナが大好きだよ。
今も、昔も、これからも。
一生、ずっと、どこまでも。
ルーナが、大好きだよ。
ルーナが生きていてくれた。一度はそれだけでいいと思ったじゃ
ないか。これからもう一回ルーナを探しに行くだけだ。生きている
ことが分かったのだから、前よりずっと気が楽じゃないか。
本当は、ずっと怖かった。
日本に強制的に戻されて、時間が過ぎて、ルーナが透明になって
いくのが。ルーナを忘れるのが怖かった。ルーナがいなくても平気
になっていくかもしれない自分が、怖かった。今はまだ全てが鮮明
で、こんなにも強烈な痛みが、やがて時に癒されるかもしれないの
が、ルーナを過去にするのが、怖くて、怖くて、堪らなかった。
それに比べたら、走り続けることに恐れるなんて、本当に馬鹿だ
った。走る先がある事がどれだけ有難いか、私は知っているのに。
昨夜は本当に熱の所為で気が滅入っていた。いや、今でも熱は高
いけれど。
﹁先生、先生﹂
680
大丈夫だよ、先生。
走る先はぶれていない。私は馬鹿だから、目の前にルーナがぶら
下がっていたら、止まることも忘れて走り続けられる自信がある。
満々だ。
﹁私、ルーナが大好き!﹂
傷つくことを恐れて手を引っ込めるには、ルーナが好きすぎるの
だからしょうがない。ふられたのならともかく、私はまだこの恋を
失っていない。
追いかける。どこまでだって手を伸ばす。馬車馬上等、馬鹿上等。
望みがそこにいるのに、立ち止まってどうするんだ。馬鹿は先のこ
となんて考えない。ただ、目の前にある目標めがけて一直線だ。
先に何も見えないのに、ルーナは待っていてくれた。十年間、た
だひたすらに望み続けてくれた。
今度は私の番だと、決めたのだ。
待って、追いかけて、手を伸ばす。どこまでだって、諦めない。
だって、ルーナが大好きなのだ。
鼻水を啜りながら顔を上げた先生と顔を合わせて、握る力を強く
する。
﹁先生、なればこそ、薬、多量に、お願い。全て、飲み下す。早急
に元気となるよ!﹂
﹁たくさん飲めば治ると思うのは大間違いじゃ﹂
目は赤いのに、そこはきっぱり言い切る先生は医者の鏡だ。
早く元気になろうと決意を固めていた時、部屋の扉がノックもな
しに叩き開けられた。
681
皆の視線を独り占めして駆け込んできたのはネイさんだ。髪がひ
どく乱れているから、よっぽど必死に走ったのだろう。
﹁お嬢様! 仮眠を取ってくださいとお願いしたじゃないですか!
なんで寝室にいないんですか!﹂
﹁ちょっとは寝たよ。どうしたの﹂
﹁それがっ⋮⋮カズキ、起きていたのですか﹂
リリィはベッドから降りて、とことことネイさんに近づいた。ネ
イさんはちらりと私を見る。目が合ったので掌をひらひらしたら、
盛大に溜息をつかれた。最近皆に溜息をつかれる。ついに、私の二
つ名を変更するときが来たのだろうか。
つまり、溜息の⋮⋮。
﹁すぐに来てください。カズキ以外﹂
仲間外れのカズキだよ、どうぞ宜しく!
682
50.神様、白い輝きは少し早すぎます
﹁ママ︱︱! みて、ユアンがつくったんだよ! ママ、ママ、み
て!﹂
﹁ふぐっ!﹂
皆が出て行くと同時にユアンがベッドに突っ込んできた。全員と
言われたけどユアンは普通に残った。誰も何も言わなかったので、
ユアンも仲間外れ仲間だ。
どっかんと効果音が尽きそうな勢いで飛びついてきたユアンの衝
撃でベッドが揺れる。後、私の頭と視界と思考も揺れた。私の頭に
盛大なダメージを齎してくれた張本人は、くしゃくしゃの折り鶴ら
しき物を嬉しそうに握りしめて目の前に突き出している。その彼に
言える言葉はこれしかない。
﹁ユアンはすさまじいよ、よき子どもよ﹂
﹁えへへー。ママ、いいこいいこして。ママ、ねえ、ユアンすごい
でしょ?﹂
このきらきら輝く瞳を前に、褒めずにいられる人間などいるもの
か。
掛布から出たままになっていた腕を持ち上げて頭を撫でると、ユ
アンは照れくさそうに身を捩って笑った。
﹃予断は許さん状況だが、ユリンも一命を取り留めた﹄
部屋を出ていく前に、ユアンに聞こえないよう耳元にそう言い置
いていったアリスの言葉を思い出しながら、嬉しそうに笑うユアン
を見る。
﹁ユリンにもおしえてあげるんだよ! でも、ユリンおそいね。ど
こいっちゃったのかな﹂
嬉しい情報なのに、何も知らされていないユアンが悲しい。無邪
683
気に微笑む彼に伝えるには、せめてユリンの容態が安定しないと難
しい。
﹁そうだの﹂
﹁の?﹂
﹁にょ?﹂
﹁にょ﹂
﹁にょーん﹂
﹁にょにょーん!﹂
首を傾げながら、くすくす笑う姿が幸せそうなのが救いだ。
撫でる手に嬉しそうにすり寄ってくる様がまた可愛い。
﹁ママ、ママ﹂
﹁はーい﹂
丸い頭は、髪の毛もさらさらで気持ちいい。羨ましい。
﹁ママの髪、きらきらしててきれいね﹂
髪の毛を羨ましがっていたら、私の髪も褒められた。嬉しい。天
使の輪っかがあるのだろうか。
ユアンはまるで猿の毛づくろいみたいに私の髪を選り分けて、一
本摘まみ上げた。
﹁まっしろで、きらきらしたのがあるよ!﹂
白髪︱︱!
ちょっとこれは手厳しい。めそめそせずにはいられない。十代な
のに登場した白髪の存在に私は涙を飲み、抜いてくれるようユアン
に頼んだ。
人生初白髪を眺めて涙していると、隣の部屋から何かが割れる音
がした。
﹁ふざけるな!﹂
そう叫ぶ声が壁を貫いてきて、ユアンはびくりと震えて私のベッ
ドに潜り込んで隠れた。ぎゅうぎゅうしがみついてくるユアンに絞
684
られながら、私も驚いて壁を見つめる。
だって、今の声はリリィだった。
﹁⋮⋮⋮⋮ママ、いまの、リリィ?﹂
﹁その、ようよ﹂
リリィのあんな声、聞いたことがない。
﹁リリィ⋮⋮?﹂
﹁ママ、ママ、リリィどうしたの? リリィおこってるの?﹂
不安そうにしがみついてくるユアンの頭を撫で、必死に身体を起
こす。頭と視界がぐあんぐあん揺れる。上半身を起こして一旦揺れ
が収まるのを待ち、ベッドの横に腰掛けて再び待つ。頭痛い。後、
寒い。
かたかた震えながら立ち上がる。身体は火照っているのに寒い。
でも、上着が見当たらないので諦めて一歩踏み出した私に、ベッド
から飛び出してきたユアンがしがみついた。不安がっているからか、
そぉっと引っ付いてきてくれたおかげで吹き飛ばされずに済んだ。
それどころか、支えになってくれている。ありがたい。
ユアンに引っ付いて、そろりと廊下に出る。廊下の空気がひんや
り感じるのは、私の熱が高いからか、単にここが地下だからか。
自然と下がる視線の先で、自分の素足が見えた。しまった裸足だ。
でも、靴もなかった気がする。いや、探せばあったのかもしれない。
身嗜みも裸足も、なんだかもうどうでもよくて、隣の部屋の前に
座り込む。頭痛い。
ママと呼びかけたユアンの口に掌を重ねる。残った手は人差し指
を立てて、自分の口につける。ユアンはすぐに分かってくれた。自
分の人差し指も立てて、しーっと息を吐く。
それに頷いて、ひたりと扉に耳をつける。何せ相手は軍士に騎士
に自警団。気配に敏感そうである。
幸いと言っていいのかどうか分からないけれど、リリィの声に気
を取られているらしく誰にも気づかれていない。それほど、リリィ
が激昂しているのだけど。
685
﹁絶対駄目。許さない。追い返せ!﹂
リリィが怒っている。ユアンが脅えて私にしがみついた。
リリィ、リリィ、どうしたの。リリィ。
﹁ガリザザにカズキは渡さない!﹂
聞こえてきた言葉を咀嚼して、理解するまでにちょっと時間がい
った。
﹁⋮⋮どちらにしても今はカズキを動かすことは出来ないよ。何が
何でも本隊がつくまで時間を稼ぐ。ネイ、自警団全部出して﹂
リリィにしては随分乱暴な勢いで扉が開く。そして、張り付いて
いた私と目が合って、リリィは動揺を顕わに息を飲んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ﹂
﹁は、話は盗み聞きさせて頂いたよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮正直だね。聞かせてもらったでいいと思うよ﹂
リリィが困ったように眉根を下げる。それに対して私は口角を上
げてへらりと笑う。
﹁説明、お願いしても宜しい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮嫌だ﹂
﹁そこをなんとしても﹂
﹁⋮⋮⋮⋮嫌だ﹂
床にしゃがみ込んでいる私からは、俯いて唇を噛み締めるリリィ
の顔を覗きこめる。下から覗きこんだら、リリィは顔を背けた。シ
ョックを受けそうだったけど、自分の様子を見直すと、ホラーの如
く髪を垂らして下から見上げていたのだ。それは逸らされるだろう。
納得して、髪を耳にかける。今更気づいたけど、頬に何か貼られ
ていた。傷の手当てをされていたらしい。痕残らないといいなぁ。
686
﹁リーリア、お願い﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それ、ずるいよ、カズキ﹂
﹁申し訳ございません!﹂
﹁そこで笑顔なのも、ずるいよ﹂
リリィはくしゃりと顔を歪めて私に抱きついた。いつもは温かい
リリィの身体が冷たくなっている。けれど、今は私がほっかほかだ
からちょうどいい。
﹁ママ、ユアンもおんぶ﹂
ユアンがぺたりと私の背中に張り付いてきて、支えきれず三人で
潰れた。
病は気から。
何が何でもルーナの心にくらいついてやると心を奮い立たせたの
が効いたのか、純粋に薬が効いたのかは分からないが、なんとか微
熱まで下がった状態で、アリスに乗せてもらった馬でかっ飛ばす事
丸一日。
さらさらとしていた風がねっとりと湿り気を帯び、段々と増してく
る磯の香りで海が近いことが分かる。
小高い丘の上で一団は唐突に馬を止めた。
首を傾げる間もなく響き渡る轟音に、凭れているアリスが身体を
酷く強張らせる。パニックになりかけた馬を宥めながら、音が響く
たびに宥める人達自身が身を竦めていた。
﹁ママ⋮⋮﹂
突然走り出してもおかしくないほど脅える馬から一旦降りた私に
ユアンが走り寄ってくる。その手を繋いで、私は空を見上げた。眩
しい眩しい太陽だ。
﹁ママ⋮⋮あれ、なぁに?﹂
[⋮⋮⋮⋮なんだろうね]
687
﹁ママ?﹂
[⋮⋮本当に、なんで、あるんだろうね]
太陽の横にゆらゆらと揺れる物がなければ、いっそ感動するほど
美しい青空だった。
長く途切れなかったロヌスターの嵐が、突如として掻き消えた。
それはまるでシャボン玉が弾けるように唐突で、嵐があった事実が
信じられなくなる程綺麗さっぱり消え失せたのだという。
それに首を傾げながらも、焦らされ続けたガリザザの軍はロヌス
ターに上陸しようとした。
晴れ渡った空に響き渡る轟音と、あり得るはずのない景色が現れ
なければ。
ロヌスターを囲んで陣を組んでいるのは南の守護伯が率いる一団
と、そこに散った騎士と軍士だ。だが、圧倒的に数が足りない。対
するガリザザ軍は、沖に停泊している船の数だけでこちらの人数を
超えているんじゃないだろうか⋮⋮ちょっと盛り過ぎたけれど、そ
れだけの船がいるのが遠眼鏡で確認できた。
嵐が留めていてくれて本当に良かった。あんなのに上陸されてい
たら混乱を極めたブルドゥスもグラースも、あっという間に飲み込
まれていただろう。
陣の中で、皆の視線が私を見ている。その視線に焼かれながら、
ヴィーの言葉が私の背を押してくれる。
﹃笑顔よ﹄
分かってる、分かってるよ、ヴィー。ありがとう。
私は笑顔を浮かべて、しっかりと地面を踏みしめて皆の前を歩い
た。
688
案内された部屋に入り、まずは今日もつるりと輝く人と再会を喜
ぶ。
﹁ギニアス隊長!﹂
﹁カズキ、互いに命あることが喜ばしいぞ﹂
少しやつれた隊長は、それでも目尻に皺を寄せて喜んでくれる。
両手をぎゅっと握りしめて視線を合わせ、私はへらりと笑った。
しかし、再会を喜び合う時間はあまりない。
今まであえて視界に入れずにいた、どっかりと椅子に座る人物に
顔を向ける。ワインレッド色の髪を揺らして、彼はひょいっと親し
げに手を上げた。
﹁よお、カズキ。満身創痍だな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ゼフェカ﹂
﹁ツバキだってぇの﹂
見たことのない服を着たツバキに私達の冷たい視線が投げられる
が、彼はちっとも気にしないらしい。上半身は何枚か色の違う布を
重ねて編んだような服で、腰から下は色んな飾りのついた帯から垂
らした長い布で覆っている。ちょっと、インドとかエジプトとかモ
ンゴルとか、なんかその辺りっぽい服装のような気がするけど、詳
しくは知らないので何とも言えない。とりあえず、刺繍が凄いのは
分かった。
ツバキは、両手を横にしたまま平行に重ねた不思議な礼をした。
﹁ガリザザ帝国第四皇子ディナスト様の遣いとして参った私に、返
答を頂けますか?﹂
黒曜様、と、吊り上げた口角でそう言ったツバキが腹立たしい。
﹁あの子どもを置き去りに致した、どちらの口が申すの﹂
ヒューハ達が抜け、一部、英霊が眠る石碑の前で自害、した、ヌ
アブロウの一団は城を捨ててここロヌスターに逃げ込んだ。城にツ
バキの姿はなく、城にはただ一人、担ぎ上げられた少女が残された。
689
彼女の父親であるドレン・ザイールは北の国境を超えようとした
ところを北の守護伯に捕らえられたという。彼はそうして全てを白
状した。スヤマと名乗る彼女は、生まれてからずっと幽閉されてい
た齢十二の女の子だと。
利用するだけ利用して、用が無くなれば置き去りだ。ツバキも、
ドレン・ザイールも、勝手にも程がある。
ツバキはさっきの畏まった体勢をすぐに崩して、ひょいっと肩を
竦めた。
﹁俺も彼女も、お互いの利益の為に手を結んだんだ。あいつは黒曜
として城にいたい、俺はブルドゥスを混乱させたい。俺は別にあい
つを裏切ってはいないぞ。寧ろ献身的に協力してきたさ﹂
悪びれず笑顔さえ浮かべているツバキに怒りを浮かべるべきだろ
う。
だけど、握りしめた掌に力を込めてそれを流す。彼女は、王都に
戻ってくるエレナさんに預けられると聞いた。たぶん、ツバキに連
れていかれるよりそっちの方がいい。
誰の罪がどう裁かれるのか、そもそも、何をどう罪とするのか。
何も決まっていない。罪の在り処がどこになるか、罪の発端を何と
定めるのか。全てこれから決まっていくのだ。
罪を裁くか、元凶を罪とするか。何を元凶とするか、それは個人
か制度か個のない多数か。
時間がいる。見てみぬふりをされてきた問題が噴出したいま、ど
うあったって混乱する。どれだけ皆が頑張っても、次から次へと絡
まっていく。
だから、時間が、必要なのだ。
﹁ツバキ﹂
出来るだけ高圧的に、アリスに翻訳してもらった台詞を紡ぐ。
690
﹁私、ブルドゥスもグラースも損なわせるのは、嫌。故に、ガリザ
ザに、行ってあげる﹂
やっと、私に出来ることを見つけた。
今まで蓋をされてきた見たくないものを開けて、率先して泥の中
に飛び込んで前に進もうとしている人達がいる。その彼らの見る景
色の中にいま、ガリザザは要らない。いつか対峙しなければならな
いかもしれないけど、いまは誰もが手一杯だ。
ガリザザは嵐で足止めを食い過ぎた。幾ら大砲があろうとも、各
地に散った兵が終結すれば、泥試合では済まなくなる。
だが、長く危険な航海を得て手ぶらでは帰れない。
だから、黒曜を連れて帰る。
この部屋の中にいるガリザザの人間はツバキだけじゃない。
彼らの目が私を量る。こんな女に価値があるのかと。こんな物を
連れ帰ったところで手ぶらと変わらないのではないか。
だから、私は笑う。ちょっと勢いつけすぎてどや顔になったよう
な気もするけれど、まあいいや。
ゆったりと人差し指を窓に向ける。
﹁空を、落下させようか?﹂
弾かれたように皆の視線が空に向けられた。
そこに浮かぶのは、ここにあるはずのない物。
聳え立つビル群だ。
ぐるりと景色が変わり映し出されたのは飛行機が飛び立つその瞬
間だった。一拍遅れて轟音が鳴り響く。ごおごおと、鉄の塊が空に
飛び立つその音が、この世界に響き渡る。
691
この世界にあるはずのない景色。聞こえるはずのない音。
それがいま、ロヌスターの空を覆っていた。
おお、と恐れるような慄きが部屋を見たし、私を見る目が今度は
化け物みたいになった。
それにも、当然どや顔で返しておいた。
﹁おい、やめろ。人が必死で探してやっと見つけた物を勝手に使う
な﹂
いつになく真剣な顔をして、少し早口になったツバキに笑顔と視
線だけを返す。下手に喋るよりよっぽど効果的らしく、ツバキは舌
打ちした。
﹁俺は散々探したんだぜ。あんたらをここに連れてきた、あの石を。
あんたが現れた道の地下水路、痕跡でもないかとミガンダまで探し
た。まさか海まで流れ着いてるなんて思うかよ。⋮⋮⋮⋮あんたは、
あれを使いこなせるのか?﹂
﹁ツバキには、関係なきことよ﹂
渾身の笑顔を張り付けて、そう言い切る。
﹁⋮⋮余計なことしやがったら、ルーナに薬渡さねぇぞ﹂
﹁ツバキも、余計なこと、しやがらないほうが宜しいよ﹂
その手の中にちらつかされる丸薬を見て、思わず殴りつけたくな
る。
それは、大陸で使われている麻薬のようなものだ。飲んでも高揚
感などは得られないのに、切れると平衡感覚を失って立つことも叶
わなくなり、水も食事もとれなくなり、最後には衰弱死してしまう
という、悪魔みたいな薬だ。捕えた人間を逃がさないようにする、
鎖よりも卑怯な手段だ。
人差し指の先程の小さな丸薬。これがないと、今のルーナは生き
ていけない。
こんなもの薬じゃない。ただの毒だ。
﹁ルーナなぁ⋮⋮ああも面倒だなんて思わねぇじゃん。ヌアブロウ
692
に記憶消してほしいって言われたからさ、せっかく死にかけで弱っ
てるから効きやすいと思って香で弄ってみたけど効かねぇし、かと
いってちょっと拷問したら弱ってるから一回本当に死ぬし。スヤマ
が泣くから必死に蘇生させたらさせたで、やっぱり香効かねぇし。
もう手間にも程がある。香の大国の名が泣くわ﹂
本当にめんどくさそうに肩を竦める軽口が吐くには、内容が釣り
合わない。
怒鳴り出さないよう奥歯を噛み締める。
そんな私をひょいっと指さして、ツバキは笑った。
﹁あんたをあっちに帰してやれる方法があるぜって言ったら、よう
やく心揺れたみたいでやっとまじないかかったんだよ。さすが黒曜
様、あんたのおかげだ。⋮⋮まあ、あんたのことを忘れさせようと
したら自分含めて全部忘れたのは予想外だったけどな﹂
視界が真っ赤に点滅する。ちかちかと切れかけの電球みたいに光
りながら何かが焼き切れていく。高熱が出ていた時より熱い。この
熱さで、大事なものを燃やせるほど、制御も出来ない熱が暴走して
いく。
ああ、激怒ってこういうことだ。
指の関節が軋む程握りしめていた拳が、拳のまま包み込まれた。
身体の陰で他からは見えないけれど、アリスの手が私の拳を握り込
んでいる。
アリス、意外と手が大きいね。そんな関係ないことが頭に浮かん
で、そんなことを考えられる自分に、少し安堵した。
﹁ツバキ﹂
怒りを全部顔面への力にする。
怒ったって、人は笑える。笑おうと思えば、どんな場面でだって
笑える。
そして、笑顔は武器にだってなるのだ。
693
視線を向けた先で空の景色がぐるぐると変わっていく。
﹁私、怒ると、それなりに、恐ろしいよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ、そうかい。俺もだよ﹂
口角を吊り上げたツバキに、私も同じ顔を返した。
694
51.神様、小さな約束を決意にします
無言で部屋を出て廊下を歩く。顔には笑顔を張り付けたままだ。
目が合った人には流れるような会釈である。私、余裕あるんですよ。
怖がってなんてないよ。冷静だよ。そう思わせられる程、ほぼ無意
識に笑顔を出せる。ああ、私、日本人でよかった。
﹁⋮⋮さっきのあれは、どうやった?﹂
﹁⋮⋮多大に偶発的出来事ですた﹂
﹁おい!﹂
尊敬と驚愕入り交じった視線を向けてくれてるところごめんね、
アリスちゃん。凄い偶然でした。
指差した先で景色が入れ替わった時、誰より慄いたのはこの私で
ある。
﹁⋮⋮石とは何ぞろね﹂
﹁⋮⋮知らんのか﹂
﹁欠片も﹂
どうしようね。そんなものがあったなんて考えてもみなかった。
偶然、神様の悪戯的な何かですっぽーんと異世界に来たのだと。
ツバキは、私達を連れてきた石と言った。つまり、ムラカミさん
がこっちの世界に来たとき、その石が近くにあったのだろうか。だ
ったら何で帰らなかったのだろう。帰れなかったのか、帰らなかっ
たのか。ツバキが石を探しているということは、もう、その石は手
元にないのだろうか。
分からない。分からない。分からない。
何も分からない。
分かるのは、私にできるのは笑っていることだけということだ。
全部はったりで、全部嘘に近い。私には何もできない。なんにも
695
分かっていない。だけど、強そうでいよう。せめてガリザザの人達
の目には、恐ろしい化け物みたいに映りたい。
それだけの価値がある人間に見られるよう、はったりと虚偽を纏
わりつかせて笑っていよう。実態は、銃とか戦車とか、そんなもの
が映ってくれるなよと必死に祈ってはらはらしているだけだとして
も。
﹁あれは⋮⋮まずいのだろうな﹂
﹁かなり多大に大変に﹂
﹁⋮⋮どうにかできるか?﹂
﹁接近すると、私が強制撤去をくらう可能性が巨大故に、接近は最
終作戦ぞ﹂
私がこっちの世界に来たとき、傍にあの石があったのかもしれな
いが、少なくともあんな状態ではなかったはずだ。流石にあれだけ
轟々と鳴っていたらどんなに馬鹿でも気づく。
﹁どうにか致したいのはまやまやだが⋮⋮難関じょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮やまやまだ﹂
﹁それですた﹂
きりりと間違えた。ごめんね、アリスちゃん。
﹁アーガスク様、王都に到着致したのかの﹂
﹁何もなければ、恐らくは﹂
﹁宜しいことね﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだな﹂
空を見上げれば日本が見える。ぐるりぐるりと景色が移り変わる
のは、その石というのが暴走しているからだろうか。それは、とっ
てもまずい気がする。それとも、海にあるようなので、その景色が
スクリーンみたいに映し出されているのだろうか。
幸いにも物の行き来はないようなのはほっとした。今の所はだっ
たらどうしよう。でも、私がこっちに来たとき、玄関には何足も靴
とかあったのにそれらはこっちに来ていない。こっちに来た物は、
私が持っていた鞄や身に着けていた服だけだ。以前もそうだった。
696
物は人と一緒じゃないと移動できないのだろうか。
だからといって安心はできない。人が移動してきてしまうほうが
大問題なのだから。
この世界の人達から見たら恐ろしいだけだろう。見たことのない
建物、景色が、轟音を伴って空に映し出されているのだ。
両手を上に伸ばして、目を閉じる。
車の走る音がする。音楽が溢れている。騒がしい、私の故郷。
﹁⋮⋮この曲、お前が歌っていた歌だな﹂
そうだね、ランキング一位だったから人気曲なんだよ。
音楽が溢れている。懐かしい、ありきたりなバラード。震えない
携帯を嘆いて、街路樹を一人歩いて、あなたの声を探す恋愛の歌。
泣きそうだ。どうしよう、凄く、泣きそうだ。
目を閉じて、思いっきり息を吸い込む。
帰りたいのかな、どうなんだろう。帰りたくないなんてちっとも
思わないけど、この世界から離れたいとも思えない。
﹁おい、カズキ!﹂
焦るアリスの声と手に引っ張られて慌てて目を開ける。
﹁な、何事!?﹂
﹁お前何やった!?﹂
﹁え!?﹂
示されるままに空を見て、私の頬も引き攣った。
空に映っていた景色が消え去っている。
﹁じゅ﹂
﹁じゅ!?﹂
﹁柔軟⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮偶然も大概にしろよ﹂
どうしよう。背伸びしたら石の力が消えたとかだったら、なんか
もうどうすりゃいいのだ。
697
皆の視線が一斉に私を向いている。え、笑顔だ。笑って誤魔化せ。
さっき出てきたばかりの建物の窓から、青褪めたツバキが飛び出
してくる。
﹁カズキ! お前何やった!﹂
どうしようもないほど柔軟です。
両手を上に伸ばしただけですとは言えず、笑顔で誤魔化せ作戦だ。
もうこれしかない。
﹁何事も?﹂
事実だ。まごうことなく事実である。
なのに、ツバキは苦い顔をした。気持ちは分かる。それは分かる
けど、何が起こったかは分からないし、申し訳ないとも特に思わな
い。
首を傾けて笑顔を向けた瞬間、叩きつけるような豪雨が落ちてき
た。あまりの勢いに肌に打ち身ができそうなほどだ。
﹁ツバキ様! 発見できました!﹂
﹁この女に近づけるな!﹂
兵士が何かを包んだ布を抱えて走り寄ってくるのを、ツバキは自
らもそっちに走りながら怒鳴って制止した。
﹁俺はそれを持って先に本国に戻る。この女と石は一緒にしないほ
うが良さそうだからな﹂
﹁はっ!﹂
アリスが上着を脱いで私にかぶせようとしている間に、ぴたりと
雨がやんだ。空は、びっくりするほど晴れ渡っている。
でも、もう何も見えない。何も聞こえない。
日本は、もうどこにもなかった。
何が起こったのだろう。呆然としてぽかりと開いた口を慌てて閉
じる。強そうな笑顔を忘れないようにしなければ。威圧的に、高圧
的に、偉そうに、全部計画通りですよって顔をするのだ。
きりりと表情を引き締めて、盛大などや顔を浮かべる。
698
﹁⋮⋮⋮⋮ずぶ濡れでそんな顔をされて、も、な⋮⋮⋮⋮⋮⋮白髪﹂
﹁え!?﹂
白髪第二段発覚事件発生。
﹁よいではなきか。⋮⋮⋮⋮ある故の悲劇ぞ﹂
隊長は寂しそうに自分の頭をつるりと撫でた。水を弾く、よいつ
るりでした。
ツバキは、兵士が抱えるそれを私から遠ざけながら振り向いた。
ちらりと見えたのは、二等辺三角形みたいな石だ。もしかしすると
割れているのかもしれない。所々黒ずんでいて、残った部分はLE
Dみたいに輝いている。けれど、時々点滅しているのは、安定して
いないのかもしれない。
じぃっと石を見つめていると、その視線を遮るように場所を変え
たツバキの所為で見えなくなった。
﹁あんたが連れていいのは一人だけだぞ。船ごと乗っ取られたらた
まったもんじゃねぇからな。⋮⋮⋮⋮ああ、でも、あの壊れたガキ
は特別に許してやるよ﹂
これには流石に笑顔なんて浮かべていられない。
何があるか分からないのに連れてなんて行けるはずがない。ユリ
ンが生きていてくれたのだから、ユアンはきっと大丈夫だ。だから、
危ないと分かっている場所になんて連れていけない。
﹁ユアンは同行許可しない﹂
﹁ディナスト様は壊れた人間が好きなんだ。面白いからだってさ。
結局ブルドゥス落とせなかったし、手土産増やしとかねぇと俺らの
首が飛ぶの。玩具は多いほうがいいんだよ。壊しても次がねぇとな。
分かった?﹂
﹁悪趣味め⋮⋮﹂
アリスの言葉に、ツバキはひょいっと肩を竦めた。
﹁俺じゃねぇよ。その代り、あんたと同じ船にルーナ乗せてやるよ﹂
699
﹁⋮⋮⋮⋮そのような条件は、飲み込まない﹂
﹁飲まなかったらここで俺らと全面戦争だ。このまま本国戻れば首
が胴から離れるんでね。ディナスト様の機嫌とらなきゃいけないわ
けよ﹂
ツバキは兵士が運んでいく布の塊をちらりと見た。
あんな物放置するわけにはいかない。まして、ツバキやガリザザ
に渡すわけにはもっといかない。絶対に奪い取らなければならない。
﹁じゃあな、黒曜。ガリザザで会おうぜ﹂
﹁ツバキ!﹂
﹁ごたごた言ってると、めんどくせぇからやりあうか? バクダン
ならたんまり転がってるぜ﹂
ぐっと言葉を飲み込む。爆弾は恐ろしいものだと私が分かってい
ることを前提としてそう言うのだから、性格が悪いにも程がある。
﹁ルーナの記憶云々は、俺にはどうだっていい話だ。直せるなら直
せばいいさ。黒曜の名の元に、我らに奇跡をお与えください、って
な﹂
そう茶化してひらりと身を翻したツバキは、楽しそうに笑った。
去っていくツバキの背中を見ながら、禿げろ禿げろと呪う。
はらりと金の糸が肩に落ちてきて、無言でそれを見つめた。そし
てゆっくりと見上げる。
﹁⋮⋮何故憐れみに満ちた目で私を見るんだ﹂
呪いの誤射が発生した。なんか、ごめんね、アリスちゃん。
隊長がアリスちゃんを見つめる瞳がとっても優しい。なんか、本
当にごめん、アリスちゃん。
遠巻きにガリザザの兵達が見つめる中、私は皆の元に足早に戻っ
た。
700
ガリザザ兵と、南の守護伯が連れた隊のちょうど真ん中辺りでリ
リィ達は待っていてくれた。
﹁ママ︱︱!﹂
涙とかその他諸々でべちゃべちゃになったユアンに飛びつかれる。
予想していたので踏ん張ったけれど、当然吹き飛んだ。同じように
予測していたアリスが背後で支えてくれなければ即死だった。
﹁ママ、ママ、ママ! ユアンおいていっちゃいやよっていったの
に! いったのに!﹂
﹁申し訳ございません!﹂
﹁ユリンもママもいないから、ユアン、ユアンっ⋮⋮ママのばか︱
︱! ママなんか、ママなんかっ⋮⋮⋮⋮だいすきだもん!﹂
﹁いだだだだだだだだ!﹂
頭ぐりぐりが肋骨を削っていく。骨にダイレクトにアタックして
くるこれを何とかしないと、その内骨折しそうだ。
そして、今回はえらく長く続いている。いつもならこの辺で引き
剥がしてくれるアリスが、皆にさっき起こったことを説明している
からだ。なんとか自力でユアンを宥めて立ち上がる間に、話は終わ
っていた。
﹁一人か⋮⋮﹂
隊長達が難しそうな顔をしている。
その横で、リリィが無表情で黙り込んでいた。王都を離れられな
いはずのリリィが此処にいるのは、残る二家が行ってこいと言って
くれたからだ。酒樽さんとドントゥーアのお婆さんが後を請け負っ
てくれた。
﹃行ってきな、ガルディグアルディア。あんたはこれから次代の三
家の先頭に立つ女だからね。こんなところで禍根残されるより、こ
れを糧にあたしらの次代を引っ張ってもらいたいもんだよ﹄
そう言ったドントゥーアのお婆さんは、颯爽と去っていった。持
っていた杖を忘れて。かなりご高齢に見えたけれど、しっかりとし
た歩みだった。
701
結局ヒラギさんや王子様達、ヴィーと、会えなかったのは心残り
だ。ユリンも、かろうじて一命を取り留めたという話だけで、その
後が分からない。
もう少し時間が欲しかった。心の準備をできる時間が。
けれど、時間があったのならそもそも私はここにいないのだ。
リリィは拳を握りしめたまま無言で歩いてきて、地面に座り込ん
だままの私の横にしゃがみ込んだ。
﹁⋮⋮カズキ、逃げたいなら、逃げて、いいんだよ﹂
﹁ありがとう! だがしかし、大丈夫!﹂
元気いっぱいに答えたのに、小さな小さな子どもみたいにしゃが
み込んだままのリリィは、悲鳴のような声で叫んだ。
﹁私、こんなことさせるために、あの日あなたに声をかけたんじゃ
ないっ⋮⋮!﹂
リリィはいい子だ。優しい、いい子だ。
膝に額をつけて俯くリリィに、ユアンが慌てている。自分も泣き
そうになりながらリリィの背中を擦り始めた。ただ、力が強くてリ
リィの身体が凄く揺れている。
﹁リリィ、私なるも、リリィにそのようなことを発言させるために、
再会したのではないよ。リリィ⋮⋮リーリア。私ようやく、皆の為
に実行可能なこと発見したよ。それがとても嬉しいよ﹂
﹁カズキはいつも、いつも、私達の為に頑張ってくれたよ! カズ
キがいてくれたから隊も軍も動いたよ! 王族も、国民も、私達だ
って、カズキがいてくれたから、同じ目標に動けたんだよ⋮⋮! いつだって、カズキが一所懸命頑張ってくれたから、私達も頑張ら
なきゃって、カズキのおかげで、みんな、無くそうとしている物が
702
何なのか分かったんだよ!﹂
違うよ、リリィ。私は何もできなかったよ。
次から次へと発生する事態にぐるぐるぐるぐる巻きこまれて、ぐ
るぐるぐるぐる流されて、次から次へと移り変わっただけだよ。そ
の私を助けようと、皆が力を合わせて頑張ってくれたんだよ。私が
何もできないでぐるぐる回ってるから、見かねた人達があっちこっ
ちから手を伸ばして私を回転から助けてくれようとしたんだよ。
だから、ちゃんと自分で皆の役に立てるのが、私は嬉しいんだよ。
﹁カズキの馬鹿!﹂
﹁もっともよ!﹂
胸を張って肯定したら、リリィはがばりと顔を上げた。
﹁なんで怒らないの! ちゃんと怒ってよ! 理不尽なことに怒っ
てよ! カズキに押し付けられる全部、笑って許さないでよ! 許
しちゃいけないことまで許さないでよ! なんでいつも怒ってくれ
ないの!﹂
目が真っ赤だよ、リリィ。
リリィの小さな身体を抱きしめる。昔に比べたらずいぶん大きく
なった。けれどやっぱり、まだまだ華奢で小さな身体。
﹁私、リリィと会えて嬉しい。リリィと会えて、本当に、幸福よ﹂
﹁私は怒ってって言ってるんだよ!﹂
﹁うん﹂
﹁うんじゃない!﹂
﹁は、はぁい﹂
怒ってと怒るリリィを抱いたまま、旋毛にぐりぐりと頬を擦りつ
ける。
﹁リリィ可愛い。リリィ大好き。リリィと会えた私は、本当に幸福
者よ﹂
﹁カズキ!﹂
﹁リリィ、リーリア。好き、大好き。リーリア、会えてくれてあり
がとう。リーリア、好き、幸福よ。リーリア、私と出会えてくれて、
703
本当にありがとう﹂
激怒はツバキに向かっていて既に定員オーバーだけど、それだけ
じゃない。
この世界で私は、出会いたい人達に出会えた。出会えてよかった
と思うだけじゃない。私は、この人達と出会いたかったんだと心底
思える人達と出会えた。皆が私にくれた物に報える何かを探してい
た所に、恩返しのチャンスが転がり込んできて、私はそれに飛びつ
いた。そんな私の為に、リリィが泣いてくれる。
リリィと出会えた。皆と出会えていた。それだけで、私はこの世
界にいられて本当に良かったと心から思う。ちょっと色々手厳しく
ても、白髪が二本できても、私はこの出会いに感謝している。神様
ありがとうって、心から言える。
だって、この世界での出会いは、私にとってどうしようもないほ
ど掛け替えのないものなのだ。
それを守れる手段がここにあって、それが私にしかできないこと
で。
だから、その手段を選ばないことの方が奇妙に思える。
いろいろ考えた。けれど、元々私に出来ることが限られている以
上、どんなに考えても取れる手段はあんまり変更ない。
何でもできると自惚れているわけじゃない。寧ろ何もできないと
いう自負しかない。
それでも、できることがある。しなければならないことも、した
いことも、あるのだ。
﹁その他にも、私は、私の進行する理由が存在する故に、リリィが
泣く必要は、皆無よ﹂
704
石を奪い取らなければならない。できるなら、ムラカミ・イツキ
さんとも会いたい。
そして、ルーナを追いかける。
どこまでだって、追いかけるのだ。
変わらないものがあるとルーナが教えてくれた。十年間想い続け
てくれた。変わらず、好きだと言ってくれた。
今度は私が、何があっても変わらないものがあると、ルーナへの
想いは変わらないものだと、ルーナに答える番だ。
うまく伝えられなくて、行動で伝わらないかとひたすら抱きしめ
る。
﹁⋮⋮⋮⋮カズキ、は﹂
﹁うん﹂
﹁どんな大人に、なりたかった?﹂
そっと抱き返してくれる手の感触を感じながら、私はちょっと考
えた。リリィくらいの時、私はどんなことを考えていただろう。将
来、どんな大人になりたいと文集に書いただろう。
﹁か﹂
﹁か?﹂
﹁可愛いクソババア!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それは両立するの?﹂
あれ?
確か可愛いお婆ちゃんになりたいと書いたのだけど、あの欄はな
りたい職業とかそんなのを書く為の欄だった。消防士とか警察官と
かケーキ屋さんとか看護師さんとかそんな言葉が並ぶ中、燦然と輝
く可愛いお婆ちゃん。
なんでいきなり老後なの⋮⋮。そう項垂れた先生に、私は思った。
ほんとにね!
705
なんだか色々と間違えた気がする。言葉を探していると、リリィ
はくすくすと笑い始めた。
﹁可愛いクソババアか⋮⋮いいね、それ﹂
﹁お嬢様、お嬢様、お嬢様! 早まるのはどうか、本当にそれだけ
は!﹂
ネイさんが真っ青になっている。何故だ。いいじゃないか、可愛
いお婆ちゃん。リリィなら今でも可愛いから、そのままお婆ちゃん
になったら可愛いお婆ちゃんだよ。
リリィはごしごしと目元を擦って、私の頬にキスをくれた。
﹁私やっぱり、あなたみたいな大人になりたい。大好きだよ、カズ
キ﹂
﹁私も、リリィ大好き!﹂
﹁ユ、ユアンもママだいすきだよ!﹂
慌てたユアンから頂いたキスと、一歩も引かなかったリリィに挟
まれる。両手に花状態でキスを頂いた結果、ひょっとこと化したの
はどうしてだろう。異世界って、本当に不思議に満ちている。
ちょっと鼻を啜ったリリィが、私の袖を引く。
﹁カズキは、誰を連れていくの﹂
﹁え?﹂
﹁あれ﹂
指差された先で、隊長とティエンとイヴァルとアリスちゃんが難
しい顔で話しあっていた。
何があるか分からない場所についてきてなんて言えない。一人だ
と心細くても、絶対に、言えない。けれど、ユアンを連れていかな
ければならない以上、自分だけのことでは済まない。誰か腕の立つ
人にユアンを守ってもらいたい。
﹁私が行く﹂
706
﹁駄目ですよ! アードルゲ唯一の男子が国を出たら!﹂
﹁ここで親友を放り出す方がアードルゲの男として許し難い﹂
ついでに母上にも殺される。そうぼそっと呟いたアリスちゃんに、
みんな神妙な顔でその背を叩いた。ぽんぽんと背中を叩かれるアリ
スちゃんが不憫だったので、私も混ざってぽんぽんしてみる。何故
か私の手だけはすぐにばれて頬っぺた抓られた。理不尽である。
私の頬を抓り終えたアリスは、隊長達に頭を下げた。
﹁貴方々も同じ気持ちでしょうが、どうか譲って頂きたい。必ず、
守ります。命に代えてもカズキを無事に連れ帰ります⋮⋮ですから、
どうか、私に友を守らせてください﹂
私は本当に、掛け替えのないものを貰っている。
だから、この決断に悔いなんてない。
皆と握手して、別れを惜しむ。
そういえば、こうやってちゃんと別れるのは初めてかもしれない。
心構えをする時間があるのはあるで、覚悟を決めるのがちょっと大
変なんだなと知った。
お酒を奢る約束をした人達に、どうか立て替えておいてほしいと
頼んだら、ツケですよとネイさんに即答された。了解! と返事を
したのに、だから帰ってきなさいと返されて、うっかり感動した。
リリィがとことこ歩いてきて、こてりと首を倒す。
﹁ユアン?﹂
﹁なぁに?﹂
﹁カズキの言うことよく聞いてね。困らせたら駄目だよ。約束だよ﹂
﹁わかってるよ! ユアンとリリィのやくそくだもん! リリィ、
またユアンとオリガミしてあそんでね!﹂
﹁うん﹂
目の前で交わされる優しい約束が、どうか破られることのないよ
う、私は誰に祈ればいいだろう。
707
ふわりとリリィが抱きついてきて、慌てて抱きとめる。
﹁⋮⋮カズキ、私ね、夢の見方を忘れた時は、いつもカズキを思い
出すの。カズキが楽しそうにしている姿とか、笑っているのを思い
出したら、どこまでだって行ける気がするの﹂
ぎゅっと抱きしめられる身体を包み返す。次に会えるときは、も
っと背が伸びているのかな。
﹁どうか、カズキにとっても、そういう人がいますように﹂
リリィはそう言って微笑んだ。まるで花が綻ぶように、幸せの象
徴のような笑顔で。
だから、私も自然と微笑んだ。
﹁ありがとう、リーリア!﹂
またね。
皆、またね。
絶対、また会おう。
帰ってくるから。ちゃんと、ルーナを連れて、帰ってくるから。
当ては全くないけれど、絶対、帰ってくるから。
だから、頑張ってくるよ。
﹁カズキさんがくれた時間を、絶対に、無駄にしません。だから、
だからっ⋮⋮﹂
イヴァルは飼っている泣き虫に餌をやりすぎだと思う。
﹁おう、カズキ! 俺らが迎えに行くのが先か、お前が帰ってくる
のが先か競争だな!﹂
豪快に笑うのは大変結構ですが、私が吹き飛ぶ勢いで背中叩くの
は全く以って結構ではありません。
708
﹁カズキ、再度見えるその時は、手前の頭はふさふさぞ!﹂
十年経っても変化の見られない頭への希望を忘れない隊長の意気
込みを、私も見習う所存です。
﹁お嬢様をクソババアにはさせませんからね!﹂
どう足掻いても、リリィは可愛いお婆ちゃんになるのは決定です。
謝られたら困ると分かってくれている皆は、一言もごめんって言
わない。それがありがたい。一言ごめんって言われたら、こっちこ
その謝り合戦だ。
息を吸って、吐く。泣かない、泣かない。
泣く理由なんて、どこにもない。
﹁行って参るますよ!﹂
皆の記憶に残るのは、心からの笑顔でいいのだ。
揺れる桟板から小舟に飛び移り、これまた揺れる小舟で運ばれて、
大きな船の横に降りた縄梯子を上る。縄橋子は、こうやって反対側
が側面だと何とかいけるけど、ぷらぷらぶら下がっているタイプだ
と、絶対うまく上れない自信がある。
上り切った先では、ガリザザの人達からの化け物を見る視線が待
っていた。どや顔大事だ。
どや顔をどや顔で取り繕っていると、一つだけ違う視線を見つけ
た。
709
世界で一番大好きな水色が、静かに私を見ている。
柔らかく細まったりしない。私を呼ぶために唇は開かないし、綻
ぶように笑ってくれることもない。
それでも、やっぱり嬉しかった。
ルーナ、好きだよ。大好きだよ。
自然と浮かんだその笑顔が、ルーナが好きだと言ってくれた笑顔
だったらいいな。
そしてまた、そう感じてくれたら嬉しいな。
ルーナ、どうか私を思い出してください。
そして、異世界七不思議に燦然と輝く栄光の第一位だけど、それ
でもどうかお願い。
どうかもう一度、私と恋に落ちてください。
710
52.神様、少々いきなり過ぎやしませんか
ベッドというよりは大きなクッションに近い寝床で目を覚ます。
早朝特有の、薄靄がかかった藍色の部屋の中を、クッションに顔
半分埋もれた状態でぼんやりと見回して、隣のクッションに膨らみ
があるのに気付く。珍しい、というより、この二か月で初めてだ。
興味をそそられて起き上がろうとしたが、ユアンに纏わりつかれ
ていて身動ぎできなかった。しかし、流石に慣れたので身体を捩り
に捩って、腕の隙間から這い出る。眠る前はぎゅうぎゅうと抱きつ
いてくるので結構苦しいけれど、最近は眠った後の力は弱まってい
るのでありがたい。
靴下を履かず、行儀悪く靴の踵を踏んで隣のクッションの傍にし
ゃがみ込む。
うつぶせに埋もれて寝息を立てているのはアリスだ。いつも私達
が眠るまで起きていて、私達が起きる前には着替えまで済ませてい
るアリスの寝顔を見るのは、実は初めてである。
﹁眉間に皺、凄まじいよ﹂
凄く難しい顔をして眠っているアリスの眉間を見ていると、自然
と同じ顔になってしまう。アリスはぴくりともしない。疲れている
んだろう。ずっと気を張ってくれているのを知っている。後、最初
の頃は船酔いで大変そうだった。手首が腱鞘炎になりそうなほどず
っと背中を擦っていたものだ。馬には乗れるのに、船の揺れは駄目
だったらしい。ユアンは平気そうだった。なんでも、昔は綱渡りと
かボール乗りとか色々練習させられたらしい。
﹁ごめんね、アリス﹂
せめて今だけはゆっくり眠ってもらおうと、出来る限り音を立て
711
ずにそっと立ち上が、ろうとして、盛大に足が攣った。ビタミン!
誰か私にビタミンを!
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮朝っぱらから何をしているんだ、お前は﹂
音を立てないように悶えていると、半眼になったアリスと目が合
った。そんな馬鹿な。私は音を立ててないよ!
アリスはもぞもぞと丸まったと思ったら、ぐいんっと伸びた。
﹁気配がやかましい﹂
﹁殺生な⋮⋮﹂
私の努力は無意味だったようなので、盛大に悶えたらユアンも起
こしてしまった。
本当に申し訳ない。
アリスが貰ってきた水で顔を拭く。着替えはアリスが水を取りに
行っている間に済ませておいた。今度は朝食を取りに行ったアリス
を待つ。手伝いたいけれど、私はむやみやたらと部屋を出ないほう
がいいというのがアリスの判断だ。
扉の下辺りからごんごんと音がする。
﹁はーい﹂
﹁開けてくれ﹂
アリスの声に扉に駆け寄る。
両手がふさがっているから足で合図しているのだ。鍵を外して扉
を開けると、両手に籠を持ったアリスとルーナが立っていた。
﹁おはよう、ルーナ﹂
﹁ああ、おはよう﹂
隣の部屋のルーナも、いつの間にか毎日こっちでご飯を食べるよ
うになっていた。最初はちゃんと話を聞きたいとこっちの部屋に来
ていたけれど、いつしか基本的に一緒に行動するようになっている。
この二か月、記憶は相変わらず戻らないけれど、ルーナととても
712
仲良くなった。
﹁ルーナ、私の分の赤い物はくれてやる﹂
﹁俺も朝から辛いのは要らないぞ﹂
﹁そこを何とか﹂
﹁俺は応援に徹する﹂
アリスが。
床に分厚いカーペットが敷かれているので、その上に直に座って
食事をとる。椅子と机はない。クッションも多いし、ベッドの形態
からそういう文化なのかもしれない。
私の分のご飯をアリスが少しずつ摘まんでいくのをじっと待つ。
毒見だ。そんなことしてほしくないし、殺すつもりならまず連れて
いこうとしないはずなので大丈夫だと思うけれど、アリスは頑とし
て譲らなかった。
ルーナは熱いのが苦手なので冷めるまで待っている。ユアンは私
が食べ始めるのを待っている。
ご飯を食べるまで、いつも少し時間がかかるのだ。
ちょっとの時間をおいて、ようやく食事が始まる。今日のメニュ
ーは、固く焼かれたもそもそしたパンと、野菜スープと、赤いお漬
け物みたいなのと、ミカンみたいな果物だ。異常に酸っぱいけど。
船は、航海の途中で幾つか島を経由する。そこで新鮮な野菜やら
果物やらを仕入れているらしい。ツバキが乗った船は、こっちが三
つ島を経由する間二つしか経由しない、という感じで、順調にこっ
ちと距離を取っている、らしい。
冷めたスープをルーナが黙々と飲んでいる左右で、ちょっと口を
713
つけただけのアリスとユアンがうへぇという顔をしている。ガリザ
ザの文化らしいけれど、食事の味付けは全部大変スパイシーなのだ。
スープも、なんかカレーとかフォーとか、それ系の味が濃く混ざっ
たような大変個性的な味がする。
私は、グラースですでに食文化は違うものだという経験があるし、
日本では色んな味を試したことがあるので結構平気だ。ただし、朝
から辛いのは結構つらい。
食文化の違いって大事だ。アリスがやつれた原因の一つは、スパ
イシーな味付けと、必ず一品添えられる辛い物という食事事情だと
思う。ハーブが効いたお肉とは一味違う感じなのだ。
それにしても、このミカンらしき果物の酸っぱさはどうしよう。
﹁酸い!﹂
たぶん豊富なビタミンなので頑張って飲み込むけど、それにした
って酸っぱい。噛まずに飲み込むのに、口に入れた瞬間に広がる酸
っぱさ。ちょっと心が挫けそうだ。
﹁ママぁ⋮⋮これ、いや⋮⋮⋮⋮﹂
果物から手が離れかけたとき、ユアンがべそをかいて私を見た。
その大きな目が私に問いかける。好き嫌いしてもいい? と。
﹁が、頑張って、ユアン! これはとてつもなく豊富なビタミンの
塊だよ!﹂
﹁ビタミンってなぁに?﹂
水に溶けやすい健康と美容の味方です。
この二か月、アリスと顔を突き合わせてみっちり叩きこまれたお
かげで進化した私の言語力を持ってしても、ビタミンの説明を可能
とするには至らなかった。
食事を終えた後、ルーナは溜息をつきながら丸薬を飲み込んだ。
714
それが齎す結果を分かっているから飲みたくないだろうが、飲まな
ければならない。毒を自ら飲み込むルーナを見るのは、つらい。け
れど一番つらいのは本人だろう。毎日じゃないのだけが救いだ。
塩で歯を磨いて、ちょっと休憩する。ルーナとアリスは剣の手入
れだ。剣は取り上げられるかと身構えていたのにスルーだったので、
アリスは拍子抜けしていた。まあ、船の上でどうこうしても無駄だ
と判断されたのだろう。同感だ。
アリスはユアンの分の剣の手入れもしている。今のユアンに扱わ
せるのは危ないけれど、あるに越したことはない。
私は窓を開けた際に留め損ねて、風で跳ねかえってきた木製の窓
に顔面を強打した以外は、概ね元気である。
﹁ママ、みて﹂
袖を引かれて振り向くと、それはもう立派な羽を広げた折り鶴が
いた。折り鶴も箱もやっこさんも完全にマスターしたユアンは、角
も羽もぴんっと美しい折り鶴をあっという間に折ってしまう。ちな
みに、ルーナとアリスもそれはもう美しい鶴が折れる。
この中で、折り紙のスキルが一番低いのはこの私だ!
﹁凄い!﹂
褒められたユアンは、嬉しそうに満開の笑顔になった。
﹁これも! これもみて!﹂
﹁見事!﹂
﹁これも!﹂
﹁素晴らしい!﹂
一通り見せ終わって満足したらしいユアンは、やりきった顔で次
715
はアリス達に見せに行った。
それを見送って、しおり代わりに広げる前の折り鶴を挟んでおい
た本を開く。
この船での待遇は悪くない。乗組員達はこっちを窺うだけで関わ
ってこようとはしてこないし、こっちもそのほうが都合がいいので
助かる。監禁されるわけでもアリス達と引き離されることもないの
で、ひとまずは落ち着いていた。
退屈しないようにという配慮なのか、部屋には本もある。
その本のタイトルが﹃騎士ルーナと黒曜姫﹄だったのは物申した
い気持ちでいっぱいだ。何でよりにもよってこれをチョイスしたの
だろう。チョイスした責任者は誰だ。ツバキのような気がしてなら
ない。
ルーナもぱらぱらとその本を見ながら、これは事実かどうか聞い
てきた。全く以って関わっていない旨を伝えたら見向きもしなくな
ったけど。
私は文字の勉強と暇潰しもかねて読んでいる。凄く時間がかかる
けれど、時間ならたっぷりある。
それにしても苦難ばかりだ。ライバルいっぱいだし、崖から落ち
るし、船から落ちるし、塔から落ちるし、馬車から落ちるし、川に
落ちるし、屋根からも落ちている。⋮⋮あれ、結構経験した気がす
る。いやいやそんな馬鹿な。私が落ちたのは恋だ! 後、肥溜め!
主人公達の苦難は続く。中には騎士ルーナが記憶喪失になったり、
黒曜姫が記憶喪失になったりして、思わずメモを取る用意をした。
記憶喪失となり、隣国のライバル王女様が恋人だと思い込まされ
てしまった騎士ルーナを前に黒曜姫は、このまま自分のことを忘れ
て王女様と結婚した方が彼の幸せだと身を引くシーンには、目から
鱗だった。
716
なんと! そんな考え方があったとは!
がんがん喰らいつくしか思いつかなかった私の女子力は地を這っ
ていると思い知る。健気とかいじらしさが欠片も存在しない。そも
そも、ルーナを人参に例えた時点で女子力は皆無だった気がする。
騎士ルーナの記憶が戻ったと入れ替わり状態で黒曜姫の記憶が失
われた際には、騎士ルーナが自分は彼女を傷つけたのだと身を引こ
うとするシーンを見て、とりあえず忘れても何とかなるよう、常に
ルーナが大好きだと書いた紙でも持っておこう。油性ペンがあった
ら掌にでも書きたいくらいだ。
そして身を引いたルーナに喰らいつく!
そして消え失せる女子力の気配。
まあいいや!
ルーナとアリスは大変仲良くなったけれど、私は、嫌われてはい
なさそうだ、以上! な感じだ。なんというか、こう、壁がある。
エベレスト並みに高そうではないけれど、二階建てくらいの高さは
ありそうだ。
喰らいついてはいるけれど、それを赤いマントでひらりと交わさ
れているような、そもそも舞台に上がってくれていないような、微
妙な感じだ。
本からちらりと視線を上げると、ルーナはユアンに誘われて紙飛
行機を折っていた。誰が一番飛ばせるかを狭い室内で競い合ってい
る。
大変楽しそうだ。是非とも私も混ぜてください。
勢いよく立ちあがった私の上をルーナの紙飛行機が通りすぎてい
く。そのまま広大な海原に旅立った紙飛行機を見送り、振り向いて
目が合ったルーナにへらりと笑っておいた。無表情で返されても怯
まない。慣れた。順応。大変素晴らしい言葉だ。
717
ユアンの紙飛行機は私の額を直撃した。微妙に痛かった。
紙飛行機選手権一位はルーナだったが、投げた所から直角真下に
墜落した私と、反転して後ろの壁に激突したアリスとで、最下位争
いは熾烈を極めたのである。
一日一回は甲板の上に出る。やっぱり太陽の光を浴びないといけ
ない。太陽の光を浴びないと作られないビタミンがあるとかテレビ
で見たような気がする。確か、ビタミンAからZまでのどれかだっ
たはずだ。
アリスとルーナが剣の打ち合いをしているのを、樽に座って見物
する。足元には私の太腿くらいはありそうな太い綱があった。甲板
に上がるまでの壁には、もっと細い綱が丸めてかけられていたので、
それぞれ用途が違うのだろう。
﹁ママ、みて! おさかな!﹂
﹁美味しそう!﹂
﹁うん!﹂
ユアンと一緒に光合成しながら、目を輝かせて跳ねた魚を見つめ
る。その気配を察したのか、それ以降一度も跳ねてくれなくなった。
二か月経って、記憶が戻らないルーナと同様に、ユアンもこのま
まだ。
ママ、ママと笑ってくれるのは可愛いし、慕われるのは嬉しいけ
れど、このままじゃいけない。彼の慕いは紛い物で、実際は嫌われ
ているのだとしても、ちゃんと元に戻してあげないと。
でも、もう遠眼鏡で見れば大陸が見えるほどの距離に来たのに、
ここまでの時間で解決策を全く思い浮かばなかったのが申し訳ない。
718
海面を見ながら考え込んでしまっていた私に、ユアンは不安そう
な顔をした。
﹁ママ、どうしたの? どこかいたいの?﹂
﹁全く問題ないよ!﹂
﹁ほんと?﹂
﹁真実!﹂
嬉しそうに抱きついてきたユアンを抱きとめて、私は覚悟を決め
る。樽から落下する覚悟だ。思ったと同時に行動に移しているらし
いユアンは、なかなか力加減ができないようである。
樽は低い。いける!
そう覚悟した私の背中は、甲板よりは断然高い位置にあり、断然
クッション性のある物に着地した。硬く瞑った目をそろりと開ける
と、ルーナが私達を見下ろしている。どうやら凭れているのはルー
ナのお腹らしい。
﹁あ、ありがとう、ルーナ﹂
﹁いや、気をつけろ﹂
﹁了解!﹂
﹁ユアン、アリスが剣を見てやるそうだ。行ってきたらどうだ﹂
視線の先を辿ると、アリスが剣を持っていないほうの手でこいこ
いしている。
﹁ママ、いってきてもいい?﹂
﹁是非ともいってらっしゃるませ﹂
﹁いってきます!﹂
ユアンは元気よく走っていった。
ちょっと変わったのは、こうやって少しの間でも私から離れるよ
うになったことだ。きっといい傾向だ。そう思う。離れていた分、
戻ってくる時はロケットで突進してくるけど、いいことのはずだ。
719
そうして残される私とルーナである。
アリスを見ると、わざとらしく視線を逸らされた。親友として思
う。アリス絶対こういうこと得意じゃない。二人っきりにしてくれ
たのだろうなと、何とも分かりやすい態度である。
どうしようかなと少し考えたけれど、何にも思い浮かばなかった
ので、時間は有意義に使おうとかねてより考えていたことを実行す
ることにした。
﹁ルーナ、ルーナ﹂
﹁何、だ⋮⋮⋮⋮何をしているんだ?﹂
腕を組んで胸を張り、足を組んでふんぞり返る私に、ルーナの何
とも言えない視線が降ってくる。
﹁ツバキの上官に会った際に、如何にして理由付けを行った上で、
どこまで偉そうな態度が実行できるかを考えている﹂
﹁⋮⋮⋮⋮理由付けを聞いてもいいか?﹂
珍しくルーナが会話を続けてくれたので、テンションが上がって
きた。大体私が話したことに軽い相槌を打つだけで会話終了となる
パターンが多いので、大変嬉しい。張り切ろう。
﹁掌を見せながら両手を組み上げたことで、武器を所持していない
ことの証明。足を組み上げたことで、すぐに席を立つことなく貴方
の話を聞きますとの証明! 如何!? 偉そう!?﹂
﹁凄く﹂
これでどや顔をつければ完璧だ。更に偉そうに出来ないかと研究
を重ねている私を見下ろしながら、ルーナはぽつりと言った。
﹁理由を聞かれる前に首が飛ぶ可能性があるくらい、偉そうだ﹂
﹁作戦停止!﹂
それは困る。首とはルーナと同じくらい大事に年を重ねていきた
い。
偉そうなのがいけなかったのだろうか。じゃあ、次は強そうなの
を目指そう。強そう⋮⋮猛獣だろうか。動物が自分を強く見せる方
法は、牙を見せて体を大きく見せる。つまり、両手を広げてちらり
720
と歯を見せればいいのか!
その体勢を取ろうとして、はたと思い止まる。これ、ただの馬鹿
じゃないだろうか。
自分で気づけて良かった。
ちょっと気分転換に別のことを考えようと、ちらりとルーナを見
る。﹃騎士ルーナと黒曜姫﹄では、お互い擦れ違いながら想いを深
め合っていく様が色々描かれていた。つまり、あれを参考書として
頑張ればいいのだろうか。
確か、隣にいる騎士ルーナの手に影が重なるようにして、影だけ
見るとまるで手を繋いでいるかのようないじらしい事をしていたは
ずだ。よし真似しようとルーナの影を確認したら、腕を組んでいて
影は不在だった。
こういう場合の対処法も是非とも書いていてほしかったものであ
る。
行き場のなくなった手を思いっきり上に上げて伸びをする。柔軟
して身体も気分もすっきりだ。
気持ちを入れ替えた瞬間、まさかの豪雨に見舞われた。さっきま
で晴れ渡っていた青空が、突如としてどす黒い雲が渦巻く大嵐に変
わっている。いくら山と海の天気は乙女の機嫌ほど変わりやすいと
いっても、突然にも程があるのではないだろうか。
乗組員達が泡を喰ったように帆に飛びついた。巻き起こる風が帆
ごと船を持っていこうとしているのだ。
アリスとユアンも駆け寄ってくる。とにかく船内に入ろうとして
いた時、船員が叫んだ。
﹁おい、あれを見ろ!﹂
叩きつける雨で海水が跳ねあがり、海と空の境も分からなくなっ
た景色の中で、海面から突き出てきた物を見て人々の顔色が変わっ
た。
721
海中から縦に浮かび上がってきたのは、いま私達が乗っている船
と同じ船だ。
あれは、まさか。
﹁ツバキ様の船か!?﹂
巨大な帆を支える柱が根元から折れた船は、風と波に激しく煽ら
れながら、段々こっちに近づいてきた。
﹁これはまさか、石の力か!?﹂
﹁さっき黒曜が妙な動きをしていたが、まさか石を呼び寄せたのか
!?﹂
恐ろしい化け物を見るような脅えた瞳が私に集中する。
違います! 柔軟です! 言い方変えてもただの背伸びです!
心の中で弁解している間にも、船はあちらこちらから現れた。ツ
バキが乗っていた船だけじゃない。共に進んでいた複数の船も沈ん
でいたのだ。
﹁これが、石の奇跡⋮⋮﹂
誰かがそう言った。
違う。
私は首を振る。
﹁こんなの、ただの災厄だ﹂
本にあった言葉が読めなくて、アリスに教えてもらった。こんな
に早く使う機会が訪れるなんて思ってもみなかった。
叩きつける雨と跳ね返る海水で前もよく見えない。
揺れる甲板で足元が滑り、立っていられない私の腰をルーナが抱
えて持ち上げた。
﹁アリス!﹂
﹁分かっている!﹂
投げられた綱はあっという間に腰に巻きつけられ、その先がルー
ナに繋がる。ぶれる視界の中で、アリスとユアンも同じように繋が
722
っていた。
ルーナは私を抱えたまま、滑るように甲板を移動してアリス達と
並んだ。そして樽をひっくり返して中身を空にしてしがみつく。
﹁息を止めていろ!﹂
その声に従おうとした瞬間、激しい衝撃が船を襲い、雷鳴と荒れ
狂う並の中で、木が裂ける悲鳴のような音を確かに聞いた。
渦を巻く荒れる海の中心にいた船は、まるで取り囲むように近寄
ってきた難破船に次々と体当たりされて砕け散る。
響き渡る轟音の中、上も下も分からなくなった。
もがいても、もがいても、掻いているのは水なのか空気なのかも
分からない。
ただ、もがく私の頭を抱き寄せて、胸に抱いてくれた手が誰のも
のかだったのだけは、はっきりと分かった。
723
53.神様、少々全力で振りかぶりました
ごとごとごと、と、鈍い音がずっと聞こえている。偶にがたっと
ちょっとだけ高い音がして、身体も揺れた。
何だろう。何の音だろう。どこかで聞いて、最近よく聞く、馴染
のなかった馴染ある音。
身体に纏わりついている服が湿っていて気持ち悪い。手も、何故
かうまく動かせなくて、ちょっと不満だ。寝ぼけたまま唸ると、凭
れている温かい何かが身動ぎして私の身体を抱え直した。
⋮⋮⋮⋮私、何に凭れているんだろう。
恐る恐る目を開けたら、光の線がたくさんあった。細い光の筋が
通る場所には、白い欠片がきらきらしている。綺麗で幻想的な空間
だけど、それが埃だと分かってしまうと素直に綺麗と思えない。た
だの埃っぽい空間に様変わりである。人間って我儘なものだ。
幾筋も落ちる光の線の合間には、疲れ切った表情をした人達がい
る。見覚えのある人もいた。同じ船に乗っていた、ガリザザの兵士
だ。彼らは一様に悲嘆にくれていて、両手で頭を抱えている人もい
る。何故両手なのかというと、彼らの手は片方ずつ動かすことがで
きなくなっているからだ。その手首を黒く塗りつぶしているのは、
以前、私も嵌められたことがある、手枷だ。
自分の手を見下ろせば、じゃらりと重たい音がして鎖が揺れた。
大変懐かしい、鉄の鎖との再会である。
重たい鉄枷を持ち上げて、まじまじと見つめながら、ふと気が付
いて臭いを嗅ぐ。やっぱり鉄棒の臭いがした。予想はついていても
何故か嗅がずにはいられなかった。
﹁目が覚めたのか?﹂
724
凭れているものが気になって目を覚ましたのに、鉄の臭いにうへ
ぇという顔をすること優先してしまった。
驚いて飛び起きる。
﹁ルーナ!?﹂
﹁大事なさそうで何よりだ﹂
ちょっと肩の力を抜いたルーナに胸の中がじんわり温かくなる。
心配してくれたのだろうか。だったら非常に嬉しい。心配かけたこ
とは申し訳ないけれど。
ルーナは手枷のついた自分の手を持ち上げて、抱きかかえていた
私を離した。包まれていた温もりが無くなった途端、濡れた服も相
まって一気に体温が下がった気がする。これが、今の私とルーナの
距離だった。
つまり、目が覚めたら離されるけど、意識がない状態なら懐に入
れてもらえるくらいは仲良くなったということだ!
二か月の船旅は無駄ではなかったのだと、ちょっと嬉しい。
﹁ここは?﹂
﹁囚人用の馬車だ﹂
全然嬉しくない状況だった。
何がどう囚人用なのだろうと思ったら、馬車の幌部分が全部鉄だ
った。鉄の箱を馬が引いているのだ。光の線が何本も落ちてくるこ
とから、結構ぼろぼろなのは分かった。
物珍しくてきょろきょろと見て、はたと気づく。
私、別に罪を犯していない。
﹁私! 潔白⋮⋮﹂
思わず大声を出してしまい、馬車中の視線を独り占めしてしまっ
たので、慌てて音量を下げる。
725
﹁⋮⋮⋮⋮ガリザザの兵が一緒に囚われている事に疑問は?﹂
﹁少々﹂
﹁気づいてはいたようで何よりだ﹂
ちょっと安堵したらしいルーナは、小さく嘆息した。やっぱり嘆
息のカズキのほうがいい気がする。短足のカズキだったらどうしよ
う。
﹁それで、何故にこのような事態に?﹂
﹁さあな。俺も、周囲をちゃんと確認出来たわけないじゃからな。
ただ、この近辺の海岸に打ち上げられた人間は全て捕えられたよう
だ。遠目だったが、アリス達は別の馬車に乗せられていた。気を失
っていたようだったが、まあ、大丈夫だろう﹂
﹁アリスちゃん! ユアン!﹂
声を小さくしようとしていた努力をうっかり忘れる。無事でよか
った。
みんな無事だったので、ひとまずは安心だ。
ほっとして身体の力が抜けたら、さっきのルーナの言葉が気にな
ってきた。
ちゃんと確認できなかったという事は、少しは確認できたという
事だろうか。つまりルーナは、捕まる前に目を覚ましていたのだ。
嫌な予感がする。
﹁⋮⋮⋮⋮ルーナ?﹂
﹁何だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮予測するに、ルーナが捕えられたは、私が差しさわりに
なったのでは?﹂
ルーナは強い。足も速い。
そのルーナが、こうもあっさり捕まったなんて信じられない。見
た感じ怪我もなさそうだから、抵抗もしていないように見える。
ルーナは何も答えない。それが答えだった。
﹁ごめん!﹂
私が呑気に眠っていたから、さぞかし足手まといだっただろう。
726
咄嗟に両手を床につけて謝る。謝ったところで許される問題じゃ
ないけれど、それとこれとは別問題だ。そのまま勢いよく下げよう
とした額が、ルーナの枷のついた両手で止められた。
﹁⋮⋮⋮⋮ちょっと待て﹂
﹁はい!﹂
手に押し上げられて上げた先で、ルーナは微妙な顔をしている。
﹁幾ら記憶がないといっても、恋人だった女を見捨てて自分だけ逃
げるような男だったのか、俺は。寧ろ、お前はそんな男と恋仲だっ
たのか? 俺が言うのも何だが、そんな男とは関わらないほうがい
いぞ。見る目ないぞ、お前﹂
私の所為で、ルーナがルーナに濡れ衣を!
﹁そ、そのようことはないよ! ルーナは、凄まじくよき男だよ!
優しく毛深く清廉だと、ヴィーも申していたよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮毛深く﹂
﹁毛深い騎士だよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮自分で言うのは非常に躊躇われるが、気高くで合っ
ているか?﹂
﹁それですた!﹂
重ね重ねて、更に重ね合わせるくらい申し訳ない。
とりあえず落ち着いた後は、落ち着いてなかったのは私だけだけ
れど、声を抑えて話した。
事態はよく分からないけれど、最後の当面の不安であったルーナ
の丸薬について聞いてみたら、無事だそうでほっとした。船旅だか
らもしもの時の為に油紙で何重にも包んでいたのだそうだ。このま
まのペースだと後一か月は保つという。
ほっとはしたけれど、丸薬自体は全く以って嬉しくないので、何
とも言えない気持ちになった。
727
後、私の懐に入れていた、記憶喪失に備えた対策[私はルーナが
大好き!]と日本語で書いたメモは、濡れてでろんでろになって全
く以って無事ではなかった。
何の予告もなく一際大きく馬車が揺れて、身体を支えきれずルー
ナの胸に頭突きをかました。硬かった。
﹁ご、ごめん﹂
﹁いや⋮⋮どこかについたようだな﹂
確かに、馬車の揺れが止まっている。外の音をよく聞こうと耳を
澄ませると、何故かガリザザの兵士達が両手を顔を覆った。
﹁もう、終わりだ⋮⋮﹂
不吉なこと言わないでください。
その一人を皮切りに、何人もの人が立ち上がり、壁をガンガン叩
き始めた。
﹁やめろ! 出してくれ!﹂
﹁同じ国の兵士じゃないか!﹂
﹁頼む、後生だから!﹂
﹁出してくれ! 助けてくれ!﹂
大の男達が金切声をあげて助けを乞う。
思わずルーナと顔を合わせるけれど、ルーナは軽く眉を顰めただ
けで大した反応はない。
﹁⋮⋮ルーナ、驚愕しないの?﹂
﹁捕えられた時も似たような狂乱状態だったからな。寧ろ、ここま
で静かだったことに驚いた﹂
﹁成程﹂
ルーナが落ち着いているので、私もパニックにはならずにいられ
た。私の所為で捕まったルーナにこんな事思うのは酷いとは思うけ
れど、一人じゃなくて有難い。一人だったら、こんな恐ろしい馬車
にいられるか! 私はブルドゥスに戻る! と飛び出してしまいそ
728
うだ。
でも、パニックにはなっていないけど緊張はしているわけで、心
臓がどこどこ鳴っている最中に、突如開かれた扉に驚いて思いっき
り後ずさってしまった。
扉を開けたのは、馬車内のガリザザ兵と同じ恰好をしているから、
彼らもガリザザ兵だ。外のガリザザ兵に、内のガリザザ兵が縋りつ
く。
﹁頼む、助けてくれ!﹂
﹁頼む、頼む!﹂
﹁俺達、仲間だろ!?﹂
縋りついた兵士が、ぎゃっと呻いた。外の兵が鞭のようなものを
振るったからだ。
ばしんばしんと革がしなる音が響き渡る。
﹁情けない。それでもディナスト様の兵士か!﹂
蔑む視線を受けても、兵士達は尚縋りつこうとした。そして、再
び鞭が唸る。
﹁ディナスト様の勅令を忘れたとは言わせんぞ! 証がなければ人
とは認めん! お前らはただの家畜だ! 仮令それがガリザザの兵
であろうと変わらぬと!﹂
﹁だから、証はあった! 海で流されただけで!﹂
﹁黙れ豚ども! 証を失った時点で貴様らの人として証明は失われ
たのだ! 分かったらさっさと進め! 人になりたければ勝利ある
のみだ!﹂
啜り泣く男達と一緒に馬車を下りる。
他にもたくさん馬車があった。それらから降りてくるのは、ほと
んどがガリザザの兵士だ。それはそうだろう。だって、あれだけの
数で侵略にきていた船のほとんどが嵐に呑まれたのだ。流れ着いた
人達がこれだけいても不思議じゃない。
中には軍服じゃない人もいた。男の人ばかりだけれど、様子はみ
729
んな一緒だ。皆一応にびくびくとしていて、中には震えながら何か
に祈っている人もいる。
私達がいる場所は、広場のように開けている。周りはぐるりと崖
に囲まれていて、自然の神秘を見せつけてきた。
ただ、異様なのは、その崖の上にずらりと人がいるという事だ。
いや、鉄馬車からぞろぞろ項垂れた男達が出てくるのも充分異様だ
けれど。
上にいる人達は、まるで運動会の時のようなテントの下にいた。
日除けなのだろう。皆身なりが良く、ドレスだったり、ツバキが来
ていたような服に何割もひらひらときらきらを追加したような服を
着ている。
たぶん貴族の人達だろうという予想はついた。ブルドゥスやグラ
ースの洋風な服装だったり、ツバキ風だったりしているのは何故だ
ろう。
その中でも群を抜いて派手な空間がある。
他の人の何倍も広くテントが張られ、そもそも二、三段高い。大
きな長椅子に寝そべっている男がいた。その男の周りには女の人達
がたくさんいる。遠いわ、高いわ、逆光だわでよく見えない。
何故か目が合っている気がして、なんとなく見返す。でも、こっ
ちに手を振っていると思ったら後ろにいる人でした的なあれだろう
と思ったので、すぐに視線を外した。
﹁カズキ﹂
﹁はい!﹂
ルーナに呼ばれたからでもある。
何でしょうと勢いよく振り向いた私の背中に、何かが体当たりし
てきた。
﹁ママ︱︱!﹂
﹁ふぐぁ!﹂
730
吹っ飛んだ。
﹁ユアンだぞ、と﹂
﹁も、もう少々手早くお知らせ頂ければ、幸福、でした⋮⋮﹂
慣れた衝撃をくれたのは、当然ユアンである。向こうからアリス
も早足でやってきた。無事でよかったとか、再会できてよかったと
か色々あるけれど、とりあえずびっくりした。
﹁ママ、ママ、ママ! あのね! ユアンね!﹂
﹁き、聞く! 聞く故に、少々待って!﹂
身体の上で嬉々として話しだされると潰れる。嘆息したルーナが
ひょいっとユアンを持ち上げてくれたので、その隙に立ち上がって
体勢を整えた。腰を落してふんばり、さあ、どんとこい! と待ち
受ける。ルーナに手を離されたユアンの突進を、今度は全力で受け
止めた。
ユアンは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。
﹁ママ! ユアンね、泣かなかったよ!﹂
﹁え?﹂
﹁アリスがね、男なら、すきな人をまもるんだっておしえてくれた
んだ。ユアンね、ママがだいすきだから、泣かないでママをまもる
んだって、男と男のやくそくをしたんだよ!﹂
﹁大人と大人の約束!﹂
﹁ちがうもん﹂
ぷくりと膨れた頬が可愛い。ごめんねの気持ちを込めてその頬っ
ぺたを潰したら怒られた。
もう、もう、ママ! と地団太を踏んでいるユアンの頭を撫でて
いる横で、ルーナとアリスが話している。簡単に再会を喜んですぐ
に状況の把握に努めている姿を見ると、やっぱりこの二人は騎士な
んだなと思う。
﹁ここはルーヴァルらしい。まさか、ガリザザを第四皇子が事実上
731
統一したとはな⋮⋮﹂
﹁ルーヴァルは占領されたのか?﹂
﹁ああ﹂
アリスの瞳がちらりと上の一際派手な集団を見た。
﹁あれがディナスト皇子だそうだ⋮⋮別名、狂皇子だ﹂
狂皇子、ディナスト。
嫌な二つ名だ。
こっちからはちゃんと見えないけれど、あれがツバキの上司だ。
﹁反旗を翻した人間の生まれ故郷を住人諸共焼打ちにしただの、人
間を獲物に狩りをするだの、碌な噂がないらしい。ルーヴァルに侵
略した後、証を持たない人間は家畜として扱うという触れを出して
いる﹂
アリスは苦々しい顔を浮かべた。
証。さっき兵士達の会話の中に出てきた言葉だ。
﹁兵士ではない人間も含めて、闘技場で戦わせて勝者に証を与える
らしい。一家の長が勝てば家族は免除されるらしいが、負ければ勝
つまで奴隷だ。⋮⋮狂ってる﹂
﹁⋮⋮自国の兵でも関係ないらしいな﹂
絶望に打ちひしがれた顔で項垂れるガリザザの兵士達がその証拠
だ。彼らは同じ服を着た男達に枷を外されても、顔を覆ったまま動
かない。私達も流れ作業で枷を外してもらった。鉄棒の臭いはしっ
かり手首に残ったけれど。
﹁今日は、この辺り一帯を使った遊戯だそうだ﹂
﹁遊戯?﹂
重たかった枷から自由になった両手をぶんぶん振って感覚を取り
戻しながら首を傾げる。耳の後ろに砂が張り付いていて、慌てて擦
り落とす。お風呂入りたい。髪の毛も塩でばりばりだ。
アリスはそんな私をちらりと見て、吐き捨てるように言った。
﹁罠に人間を嵌めて、上から見学する遊戯だ。⋮⋮吐き気がする﹂
732
ぐるりと私達を囲むたくさんの視線。綺麗な服を着て、綺麗に座
っている。その人達の手には遠眼鏡が握られていて、私達を見下ろ
していた。服装が違うのは、ガリザザとルーヴァルと二国が揃って
いるからだったのか。
航海中に聞いた話だけれど、ルーヴァルは元々、グラースとブル
ドゥスから移住した人達が建てた国だという。だから言葉も同じだ
し、文化も似ている。そこから更に南に行った地でそこにいた少数
部族と一緒になったりして大きくなったのがガリザザらしい。時と
ともにいろいろ変化して、今ではガリザザとルーヴァルは全く違う
ものになっている。服装一つでも、まるで別物だ。
何はともあれ、少々の発音の違いはあるものの、言葉が一緒で本
当に良かった。これ以上混ざられると、私の残念な頭脳では、日本
語でさえ怪しくなってしまう所だった。大陸は多数の少数部族がい
るので、中には言葉が違う人達がもいるらしいけれど、共用語は私
でも話せるから嬉しい。
﹁⋮⋮悪趣味にも程がある﹂
ルーナも苦い顔をしてぐるりと視線を回す。その視線を追って、
アリスは舌打ちをした。
﹁生き延びた者には報酬があるらしいが、馬鹿馬鹿しい⋮⋮唯一の
救いは、本来は闘技場で負けた一般人が参加させられるはずだった
ところに、今回の嵐で証を失った大量のガリザザ兵に矛先が向いた
ことだな﹂
﹁成程。だから、女子供がいないのか。⋮⋮⋮⋮カズキが黒曜と分
かっているだろうに、躊躇いもなく放り込むのか﹂
ルーナとアリスの憐れんだ視線が私を見る。やめて、なんか自分
が可哀想な気がしてきたじゃないか。
それにしても、全く嬉しくない紅一点である。では嬉しい紅一点
733
とは何か。それは多分、白い皮と餡子の中で燦然と輝く苺大福の苺
とか、真っ白いクリームの上にちょこんと乗っかった苺とかだ。
﹁アリス、やけに詳しいな。誰に聞いた?﹂
﹁同じ馬車に捕らえられていた一般人の男だ。こんな遊戯が行われ
るとあっては、証を持っていない人間が死に物狂いで証を奪い取る
事件が頻発しているらしく、証を奪われて逃げていたが捕えられた
らしい。運悪く海岸線に逃げていて捕まった人間がまだいるらしい
が⋮⋮⋮⋮カズキ! 遠い目をするな!﹂
苺食べたい。
周囲を囲む崖の上で、綺麗な恰好をした人達が楽しそうにこっち
を指さして笑っている。その下では、項垂れた二百人近い男達がこ
の世の終わりみたいな顔でぶつぶつ何かに祈っていた。
まるで、悪い夢の中にいるみたいだ。
馬鹿な考えを振り払うように、頭を軽く振って髪から砂を落とす。
ルーナもアリスもユアンも無事で、皆揃っているのだ。悪夢じゃな
い。悪夢はもっと何かを失わせてくる。
とりあえず手櫛で髪を整えて、服もちゃんと直す。気持ちを切り
替えるには身なりを整えるのが効果的だ。しわしわでよれよれだけ
ど、ちょっと持ち直した私の背を、アリスがぽんっと叩いた。
﹁安心しろ。組分けは自由に組める。だからお前は、怪我しないよ
うにだけ気をつけろ﹂
促された先では、班決めみたいに五、六人に人々が分かれていく。
ガリザザ兵の服を着ていない人達は、泣きそうな顔でおろおろと同
じような人と固まった。あれが、アリスに色々教えてくれた人達だ
ろうか。全部で三班くらいの人数がいる。その三班は寄り添うよう
に固まった。
﹁了解﹂
足手まといにならないように頑張ろう。役には立てなくても足手
734
まといにならないだけで大分違うはずだ。
﹁要は生き残ればいいんだろう﹂
いつのまにかいなくなっていたルーナが私の肩を叩き、アリスと
ユアンに剣を渡していた。どうやら荷物が返されているらしい。剣
が返ってきて安心すればいいのか、剣が必要な事態なんだろうなと
暗い気持ちになればいいのか、ルーナが私の肩を叩いて励ましてく
れたことに歓喜すればいいのか。
⋮⋮⋮⋮歓喜かな!
がんがんと荒い鐘の音が響き渡る。慌てて鐘の音が鳴った場所を
向いたら、皆の視線は別の場所にあった。ディナスト皇子が立ち上
がったのだ。さりげなく向きを調整して、そっちを向く。
遠目だからちゃんと見えないけれど、裾がひらひらしているのは
見える。頭と肩でもさもさ揺れ動いているのは鳥の羽だろうか。ク
ジャクの羽くらい大きく見えるけれど、何の羽だろう。
﹁つまらん﹂
短い言葉で、別に叫んだわけではないのに、その声はよく響いた。
周りが静まり返っているからだけではない。偉い人の条件はよく通
る声を出せることだろうか。言ってる事とやってる事は最低だけど。
﹁女がいないから花もないな。まあ、その分、質を高めて俺を楽し
ませろよ﹂
周りからの憐れみの視線が私を見る。皇子の中で、私は女性の分
類には入れて頂けなかったようだ。大変光栄である。
﹁そうだなぁ⋮⋮ああ、そうだ。誰でもいいから組の中の誰か殴れ。
思いっきり。軍人だろ、お前ら。相手を吹っ飛ばすくらい派手に出
来るだろう。手加減した組は失格で獣の餌にくれてやる。精々気張
れ﹂
つまらなさそうに言われた途端、兵士達は同じ班の人間を殴り飛
ばした。躊躇いもなくだ。殴られた人の口から血と白い物が飛び出
735
したのは、もしかして、歯だろうか。
唖然とした私達の傍に、一般人の三班が悲しげな顔で近寄ってき
た。その内の三人を仲間が支えている。その頬は真っ赤に腫れあが
っていた。
﹁早く済ませたほうがいいよ。殺せとか腕を切り落とせって言われ
ないだけマシなんだから﹂
痩せ形で頬のこけた男の人が、びくびくしながら教えてくれた。
戸惑っている間に、私達以外の班は皆ノルマ達成している。
﹁そこのお前ら、獣の餌が望みか?﹂
さっきまでのつまらなそうな様子はどこに行ったのか、皇子は楽
しげな声を上げた。
妙な、空間だ。妙というか、おかしいというか、尋常じゃない。
狂皇子。まさしく、狂っている。だって、何だろう、この空間。
こんなの、どう考えたっておかしい。気持ち悪いくらい趣味が悪
くて、吐き気がするのに、どうして皆こんなものなんだよって顔し
てるんだ。
﹁ルーナ、私を殴れ﹂
﹁待て、腕試合は俺の勝ちだっただろう。アリスが俺を殴ったほう
が被害は少ない﹂
ルーナとアリスが素早く会話を交わした。ちょっと待って、私、
その腕相撲対決見た事ないんだけどと、全然関係ないことを考えな
がら、私は手を上げた。
﹁はい! 私、殴る!﹂
﹁お前、それで前に指を折っただろ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何やってるんだ﹂
慌てたアリスと呆れたルーナに、へらりと笑う。
だって、この三人の中なら、私が殴ったほうが一番誰の被害も少
なくて済む。役に立てないなら、せめてくだらない事で体力使わせ
736
たくない。こういう露払いなら私だって出来る!
[いっせぇのーで!]
ぐっと右の拳を握って、思いっきり振りかぶった。手加減なし、
腕を止めるな、何も考えず、手心加えず、思いっきり行けと、頭の
中で自分に言い聞かせる。
そうして私は、渾身の力を込めて自分の頬をぶん殴った。
真っ赤になった視界の中で、ぽかんとした人達の顔が見える。
だって、誰でもいいからって、言ったじゃん。
とりあえず、鼻血はたらりって流れてくるんじゃない。ぶばっと
噴き出すんだなと、無意味な知識を手に入れた。
倒れ込む寸前、誰かが私の身体を掬い取ってくれた。前に酷く慌
てたアリスがいるから、後ろにいるのは、もしかしてルーナだろう
か。
﹁何をっ、何をしている!﹂
アリスに答えようにも顔が痺れていてうまく動かせない。でも、
覚悟をして自分で殴ったので思考は結構冷静だ。血の味がする口の
中を舌で確認する。幸い歯が欠けている場所は発見しなかった。よ
かった。だって永久歯だ。
顔を殴っただけなのに、身体全部痺れたみたいにぶるぶるするの
は衝撃なのか、それとも私が弱いから怖がって震えているだけだろ
うか。強くなりたいものである。
﹁だい、じょ、ぶ。みびで、じようじだ﹂
私の利き手は左だから、多少は力が弱まったはずだ。
うへへと笑ったら、凄い量の鼻血が流れ出した。洪水だ。はっと
737
視線を上げたら、私を覗き込むルーナがいた。その、なんともいえ
ない顔と言ったらない。そりゃあそうだろう。見るに堪えない顔で
ある自覚は満々だ!
慌てて手の甲で鼻を押さえる。その手を取られて、それはもう、
海よりも深い深いため息が落とされた。ルーナは私の鼻の上を摘ま
みながら、自分の服の裾を引っ張って私の鼻に当ててくれた。
﹁ごべん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮謝るくらいなら最初からするな!﹂
ルーナに怒鳴られた。びっくりだ。
怒鳴られるほど関心を向けてくれているなんて思っていなかった。
これは喜ばしい事だろうか。単に私が馬鹿だから怒鳴らないと分か
らないと思われているだけだったらどうしよう。
﹁このっ⋮⋮この、このっ⋮⋮⋮⋮たわけ!﹂
物凄く溜めてから頂いたたわけにはへらへら笑えたけど、目一杯
に涙を溜めたユアンがぶるぶる震えて突っ立っていたのには、誠心
誠意謝罪した。
なかなか止まらない鼻血に辟易していると、どこで息継ぎしてい
るんだろうと首を傾げたくなる笑い声が響いた。皇子が大爆笑して
いる。皇子様としての威厳とかは大丈夫なんだろうか。後、笑い声
もよく通る。いい声を持った人は得だけど、内緒話の時は困りそう
だ。
﹁よくやった! 生きていれば後で褒美をくれてやる!﹂
いえ、要りませんと断れる雰囲気ではないので、心の中で丁重に
お断りした。
皇子はまだお腹を抱えて笑っている。
﹁お前達もこれくらいのことはして、俺の意表をつけよ。全員右倣
えではつまらん﹂
そもそも出してきた命令がおかしいのだけど、それに突っ込める
738
人は誰もいない。
ずっ、と、鼻を啜りながら起き上がる。
﹁まだ動くな、たわけ!﹂
﹁だびびょーぶ﹂
たらりと垂れてきた鼻血を手の甲で擦ってみたけれど、また垂れ
てきたので袖で押さえた。
﹁マ、ママ⋮⋮ママぁ⋮⋮﹂
﹁べーび。べんび、べんび﹂
﹁ママ、べんぴなの?﹂
﹁げんびでず﹂
平気だよ、元気だよと伝えても、ユアンは泣き出しそうだ。ごめ
ん、鼻血止まらない。
右手を何度か握ってみて折れてないことを確認する。痺れていて
感覚がなかったけれど、問題なさそうだ。
﹁ルーナ!﹂
﹁⋮⋮何で俺に怒鳴るんだ﹂
﹁以前、カズキはどういう女か私に聞いてきたな! こういう女だ
! だから絶対に目を放すな!﹂
﹁⋮⋮これ以上ないほど凝視した目の前で、自分をぶん殴ったけど
な﹂
﹁⋮⋮だから、こういう、女なんだ﹂
がっくりと肩を落としたアリスの背をぽんぽんと叩いて励ました
ら、チョップしてこようとした手が彷徨い、頬を抓ろうとした手も
彷徨っていた。
鼻血大洪水の私を慮ってくれる親友の優しさにほろりとなる。
だって、ルーナがアリスを殴るのも、アリスがルーナを殴るのも
嫌だったのだ。まあ、私が私をぶん殴るのも見たくなかっただろう
けど、そこは早い者勝ちである。
さっさと早い者勝ちで失礼した申し訳なさと、私は大丈夫だよと
739
いう気持ちを込めて、指さしてぷすーと笑ってやると、アリスの眉
が吊り上がった瞬間その指に齧り付かれた。
親友が、技:齧り付きを持っているとは露知らず。間抜けな悲鳴
を上げてしまった私を指さして、アリスはふんっと鼻を鳴らした。
ついでに、心なしかへの字口のルーナと、目に涙をいっぱいに浮か
べたユアンにも指さされた。
男性陣の仲の良さが飛躍的に良くなった気がする。
しかし、そんな時間は長くは続かない。
皇子のずっと下。壁の付け根に置かれていた箱の覆いが解かれて
いく。ぱかり、ぱかりと、まるで玩具のように簡単に開かれていく
箱の中から、ぞろり、ぞろりと姿を現してくるその生き物を見て、
誰かが金切声を上げた。
﹁牙蛇だ!﹂
キバヘビという単語を初めて聞いた。だって、たぶんあれは、グ
ラースにもブルドゥスにもいなかった生き物だ。
じりじりと皆の足が下がっていく。私を半分以上抱き上げるよう
に抱えたルーナも、その波に逆らわず足を下げていく。
思ったより大きい身体。思ったより素早い動き。思ったより、心
に直接恐怖を叩きこんでくるその生き物の名を、私の世界ではこう
呼んだ。
[鰐!]
両手を勢い良く広げ鳥の羽を散らせて、皇子が叫ぶ。
空からやけに綺麗な羽が降ってくる。きらきらと光を弾いて、ま
740
るで天からの贈り物のようだった。
でも、それを降らせてくる人は、絶対天使なんかじゃない。
﹁さあ、宴の始まりだ!﹂
こんな狂宴、参加費無料でも断固お断りである!
741
54.神様、この動物園はちょっと遠慮致します
﹁何だ、あれは!?﹂
﹁ワニ! アリスちゃん、ワニ!﹂
﹁だから、ワニとはなんだ!﹂
﹁キ、キバヘビ!?﹂
﹁だから、それが既に何なんだ!﹂
﹁ワニ︱︱!﹂
どう説明すればいいんだろう! こっちの世界で爬虫類ってなん
ていうの!?
あれ!? 鰐って爬虫類だよね!? 恐竜だっけ!? 恐竜って
何類!? 恐類!?
動物園で見た事のある鰐は、のんびり水中から顔を出していたり、
日向ぼっこしていたり、とぽとぽ歩いていたりとゆっくりした印象
だった。けれどここにいる鰐は、箱から出てきてこっちをロックイ
ンした途端猛ダッシュだ。絶対お腹が空いている!
鰐から距離を取ろうとすると、必然的にみんな同じコースになっ
た。ガリザザ兵の波の中で、私を担ぎ上げたルーナとユアンの手を
引いたアリスは、逸れないようにぴったりと隣に陣取っている。
﹁出口はどこだ!﹂
誰かが、いや、寧ろ皆が怒鳴っている。四方を自然の壁に囲まれ
たこの場所は、広いけれど世界はもっと広い。こんな鰐だらけの場
所より、もっと広く雄大な世界の方がどれだけいいか。
﹁あっちだ!﹂
﹁逃げろ!﹂
出口を見つけた誰かが叫んだ。皆が見た方向に視線を向けると、
確かに出口がある。鋼鉄の門だけれど。
742
﹁牙蛇を仕留めた班には鍵をくれてやる!﹂
自分は壁に取り付けられた鉄の籠みたいな場所に避難して、安全
を確保している係りの兵士が怒鳴る。
﹁さあ、急げ豚ども! キバヘビの数はお前達の数と比例しないぞ
!﹂
それを聞いた瞬間、ガリザザ兵達は悲鳴に似た雄たけびを上げて
鰐の群れに突進していった。
班の数と鰐の数が比例しないということは、鰐を倒せなかった班
はここから出られないという事だろうか。と、理解するまでにちょ
っと時間が必要だった。倒せなかったらどうなるんだろうというと
ころまでは考えないでいよう。
﹁カズキとユアンはここにいろ。ルーナと私で、キバヘビだかワニ
だかを⋮⋮⋮⋮ルーナ?﹂
ルーナは鰐ともみ合う兵士達をじっと見ている。つられてそっち
を見てしまう。兵士の足にくらいついた鰐が、身体をぐるぐる回し
て捩じ切ろうとしている様が見えてしまって、うっかり吐いた。
驚いたのか、ルーナはすぐに私を下ろした。そりゃあ、担ぎ上げ
た人間がいきなりマーライオンと化したら驚くだろう。どん引きさ
れただろうなと思ったら鼻血がまた垂れてきた。フルコンボだどん。
女子力以前の問題だ。これでルーナにフラれたら、白髪二本どこ
ろの話じゃない。
周囲では兵士達の悲鳴と怒声、金切声が響き、正に阿鼻叫喚だ。
なのに何故か、私の頭の中を愉快な短手短足の太鼓が楽しげにエコ
ーを残しながら通り過ぎていく。フルコンボだどーん、どーん、ど
ーん⋮⋮と。日本で友達と叩きまくっていた太鼓が、現実逃避を背
負って異世界トリップして来てくれたらしい。
﹁ママ、だいじょうぶ!? ママ!﹂
﹁大丈夫だす⋮⋮﹂
でも、大丈夫かと聞かれたら大丈夫と答えるのは世の常だ。
743
袖で鼻血を押さえる私に、ルーナは自分のマントを頭からかけた。
一瞬、臭い物には蓋を!? かと思ったけれど、背中を擦ってくれ
たのでただの被害妄想だったと知る。思っただけで言わなくてよか
った。私の所為で、ルーナがルーナに濡れ衣を! 再び! になる
ところだった。
視界が半分以上隠れた先で、ルーナの足が見える。
﹁すぐに終わらせるから目を瞑っていろ﹂
﹁え?﹂
ルーナはあっという間に身体を反転させて兵士の中を走り抜けて
いく。
﹁ルーナ!﹂
アリスの制止にもルーナは止まらない。そのまま速度を上げて鰐
の群れに突っ込んでいく。兵士達がもみくちゃになって戦っている
場所じゃなくて、鰐しかいない場所に走っていくから、胃液で焼け
た私の喉が引き攣った。
﹁ルーナ、危ない!﹂
素早い動作で薄く開けた長い口を突き出してきた鰐に怯みもせず、
ルーナは勢いを殺さずだんっと強く地面を蹴って壁を走った。
忍者だ。以前地下に閉じ込められた時、私が目指したのはあれだ
った。
大股で壁を斜めに走った勢いそのままに高く飛び、剣を鰐の脳天
に突き刺した。しかしそこで止まらず、突き刺した剣を軸に身体を
ぐるりと回して隣の鰐に膝を落とすと、何度かばく転なのか側転な
のか分からない動きで鰐から距離を取った。
﹁仕留めたぞ! 鍵を渡せ!﹂
剣を突き刺した鰐がぴくりとも動かないのを確認して、ルーナは
声を上げる。
もみくちゃになっていない分確認しやすかったのか、門の傍にい
た私達の元に、鍵はすぐに降ってきた。
744
それをちらりと横目に確認したルーナは、何故かこっちに戻って
は来ない。そのまま走り出して、一般人三組の傍にいた鰐の目を立
て続けに斬り捨てた。それにしても、よく飛ぶ。物凄いジャンプ力
だ。
﹁後はやれるだろう﹂
ぽかんとした一般人の皆さんは、呆然としながらもこくこくと頷
く。それを見て、ルーナはようやくこっちに戻ってきた。
﹁ど、どうしよう、アリスちゃん。凄まじく惚れ修繕だ!﹂
そんな場合じゃないと分かっているのに、どうしよう、ルーナか
っこいい。
﹁惚れ直すといえ、惚れ直すと。しかし、何度見ても凄まじい動き
だな。あれを敵にして戦っていた時代があったと思うと恐ろしいな﹂
走って戻ってきたルーナは、地面に落ちたままの鍵を拾い上げて
首を傾げた。あ、可愛い。リリィを思い出す。リリィ、お元気です
か。私は元気に鼻血ぶー。
﹁他の奴に拾われるぞ?﹂
﹁あ、ああ、すまない﹂
鍵を開けて先に進む。鍵を手に入れたらしい兵士がこっちに走っ
てきていたのに、裏側にいた係りの人みたいな兵士は、無情にも門
を閉めた。どうやら、鍵を持っていようがいまいが、一回ずつ開け
る仕様のようだ。
門の先は、岩壁が剥き出しのトンネルだった。ぽつりぽつりと明
かりがあるだけマシだろう。そこを、ぞろりぞろりと幽鬼みたいに
人々が進む。
﹁⋮⋮これ、どこまでつづくの?﹂
私の裾を握ったユアンは、不安そうに見上げながら聞いた。ルー
ナとアリスに。質問相手に私を選ばない判断。大変素晴らしい。
﹁そう長くはないだろうな。これが見世物なら、観客から見えない
745
時間が長いと都合が悪いだろう﹂
﹁恐らくはな。それよりルーナ、キバヘビだかワニだかを知ってい
たのか?﹂
﹁いや?﹂
ルーナはあっさりと答えた。
﹁⋮⋮それでよく飛び出したな﹂
﹁他の奴らと戦っているあれの動きを見て、大体把握した。手足は
短いから組み合わなければ攻撃としては意味をなさないようだった
し、とりあえず口と尾に意識を集中させれば何とかなるだろうと思
っただけだ。問題は外殻の硬さだったが、まあ、全体重かければ何
とかなるだろうと﹂
﹁硬かったか?﹂
﹁いや、甲羅を予想していたが、それほどじゃなかった。殻じゃな
いらしい。あれなら普通に斬れそうだ﹂
﹁腹と背で色が違ったから、もしかすると腹はもっと柔らかいかも
しれんな﹂
﹁そうだな⋮⋮だが、あの巨体だ。引っくり返すのは難しいだろう
が、段差があればあるいは﹂
生まれて初めて鰐を見たのに、どうやったら倒せるかしか話して
いない騎士二人。
﹁まあ、上は隙があるし、騎士や軍士なら壁があれば何とかなるだ
ろう﹂
﹁騎士や軍士なら壁を走れるみたいな言い方はやめろ﹂
騎士と軍士のハードルががんがん上がっていく。主にルーナの所
為で。
アリスちゃん頑張れ。私とユアンが応援しています。
﹁ルーナ、マント、ありがとう﹂
﹁別に持っていていいが⋮⋮大きいから邪魔か﹂
洗って返せないのが申し訳ない。
746
出来る限り土汚れを払ってマントを返したら、ルーナは小さく頷
いて受け取った。
観客から見えない場所で罠にかけても意味がないという判断か、
通路には特に何もない。鍵を手に入れた他の人達も黙々と歩いてい
る。
何もないのはありがたいけれど、それはそれで不安だ。
﹁⋮⋮⋮⋮道が曲線じゃないか?﹂
ぽつりとルーナが言って、アリスは勢いよく振り向いた。
﹁何!?﹂
﹁なだらかな曲線を描いているような気がする﹂
二人は嫌そうな顔で道の先を見つめる。
﹁えーと、なめらかな直線ということは⋮⋮﹂
自分の手を持ち上げて蛇みたいな動作でぐねーと、伸ばす。
﹁曲げろ﹂
アリスに無造作にぐきりと曲げられた。これから曲げる予定だっ
たけど、アリスちゃんはせっかちだ。引っ張られるままに手を曲げ
ていくと、とんっと自分の胸に着地した。
それと同時に、先頭を歩いていたガリザザ兵が引き攣った声を上
げる。
なんだろうと視線を向ければ、前方が明るい。なんだ、出口だと
喜んだのも束の間。
私の頭に響いた声は、手足の短い太鼓だった。
もう一回遊べるど⋮⋮
﹁結構だす!﹂
頭の中の声を思わず遮ったけれど、それで現実が変わるわけじゃ
ない。
出口は、さっきの広場に続いていた。
つまり、ぐるりと壁の中を回ってきただけである。
747
入口より大人一人分ほど高い位置に出口はあった。
ぐるりと囲んだ壁の上で見学しているテントの群れと再会して、
唖然とする。しかし、後ろが閊えると左右に控えた兵士に突き落と
された。ルーナが小脇に抱えてくれたので事なきを得る。
ばらばらと降ってくる他の人達も、呆然とへたり込んだ。
そんな私達を見下ろして、壁の籠に立っている兵士の一人が大声
を上げた。
﹁やり方は分かっただろう! 敵を倒し、自由を奪い取れ!﹂
今まで岩壁だと思っていた場所や、草が生えていると思っていた
場所から扉が現れる。それらは、ぐるりと回る岩壁一帯に存在して
いた。やったね、出口︵仮︶が増えた。全く嬉しくない。
頬と喉がひくりと引き攣るのは止めらない。だって、ここにいる
のは鰐だけじゃない。
﹁牙猫だ!﹂
ライオンに見える!
﹁縞猫だ!﹂
虎かな!
﹁山犬だ!﹂
狼っぽく見える!
﹁角豚だ!﹂
サイに見えるけど気のせいかな!
﹁大猿だぁ!﹂
ゴリラに見えるけどなぁ!
﹁砂漠の神だぁ!﹂
私にはアマゾンの神に見えるよアナコンダ!
748
猛獣ふれあい動物園大開幕だ。
入園無料でもお断りである!
さっきまで溢れていた鰐に追加で、世界中から掻き集められたと
しか思えない猛獣がひしめき合っていた。地面の所々に黒い水だま
りができているのが見えてしまい、慌てて視線を上げる。
私達が突き落とされた出口だか入口だかもう分からない場所の更
に上で、籠に乗った係りの兵士と目が合う。あそこから広場を見渡
して、鍵とか投げてくるのだろう。ちょっと場所を代わってほしい。
そしたら鍵を全部落として片っ端から開けて回るのに。
﹁ユアン! カズキを守っていろ! 私はルーナと⋮⋮⋮⋮カズキ
?﹂
同じタイミングで走り出そうとしたルーナとアリスのマントを掴
んで、全力で踏ん張って止める。人間を止めているはずなのに、何
故か軽トラを思い出した。かなり引きずられて地面に二本の跡が続
く。
﹁何か作戦でもあるのか?﹂
﹁作戦? カズキが? 頭を使って?﹂
不思議そうに振り向いたルーナに、アリスは心底不思議そうな顔
を向けた。ちょっと待って、アリスちゃん。アリスちゃんから見た
私について、後で頭を使って話し合いましょう。頭突きで。
まあ、後のことを今考えても仕方がない。私はすぐに気持ちを切
り替えた。
﹁規律違反である説も考えられるけど、ルーナ、あちらに到達可能
?﹂
﹁あちら?﹂
749
籠を指した私の指を追って、三人の視線が上を向く。ユアンはす
ぐに飽きて抱きついてきた。油断していてもろに吹っ飛んだ私の上
で、ルーナとアリスが顔を見合わせる。
アリスは無言で壁を背にして、両手を前で組み、腰を落とした。
ルーナは無言で壁から離れ、その場でとんとんっと軽くジャンプ
した。
二人の動作で察して、私とユアンはそっと壁沿いに距離を取った。
あまり壁から離れると、猛獣とふれあえる広場に強制参加してしま
いそうだったからだ。
﹁行くぞ﹂
﹁ああ﹂
短いやり取りだけで走り出したルーナが、アリスの組んだ手に足
をかけると、そのタイミングでアリスは腕を振り上げる。ルーナは
飛んだ。比喩じゃなくて、本当に飛んだ。
﹁足りんか﹂
舌打ちしたアリスは、すぐに口を噤んだ。
籠に届かなかったルーナは、壁の出っ張りに手をかけてぐるりと
身体を捻り、思いっきり壁を蹴って無理やり籠に手をかけた。そし
て、やっぱりぐるりと身体を回して籠に降り立ってしまう。忍者な
のか曲芸師なのか分からないほど、身軽にぐるぐる回れるのは昔か
らだけど、あれが出来ることが騎士の必須条件だったら大変なこと
になると、それだけは分かった。
だって、猛獣を前に青褪めていた兵士達がぽかんとこっちを見て
いる。今まであえて視線に入れないようにしていた皇子をちらりと
見てみると、お腹を抱えて笑っていた。何を言っているかまでは届
かないけれど、ばんばん膝を叩いている所を見ると本気笑いだ。彼
にはお腹が筋肉痛になる呪いをかけておこうと思う。
突如として現れたルーナに、係りの兵士は慌てふためきながら剣
750
を抜こうとした。けれど、ルーナのほうが早い。何か言葉をやり取
りしているらしいけれど、聞こえない。ただ、兵士の方が赤くなっ
たり青くなったりと忙しいのは分かる。
次の瞬間、黒い雨が降ってきた。
﹁いたたたたたたたた!﹂
一個一個は大したことなくても、これだけ大量に降ってくれば流
石に痛い。そして、どれだけの量の鍵が用意されていたんだろう。
一人の係りがこれだけ持っているという事は、壁ににょきにょき生
えている籠全部合わせるととんでもない数になりそうだ。
じゃらじゃらと足元で音を立てる鍵に、アリスはうんざりとした
顔をした。
﹁⋮⋮これを、片っ端から試すのか﹂
﹁⋮⋮盛大な手間だねよ﹂
﹁逆だ﹂
﹁よねだ﹂
どれだけ面倒でも頑張らない訳にはいけない。全く先が見えない
鍵の山にしゃがみ込んで指先で鍵を選る。正直どれも同じに見える
けれど、少なくともずらりと並ぶ扉の数だけ種類はあるはずだ。
忍者みたいに飛び降りてきたルーナが周りを警戒している隙に早
く見つけないといけないのに、どうしよう、全く見分けがつかない。
﹁ママ、おんなじのを見つければいいの?﹂
﹁逆でお願いします﹂
﹁ちがうのを見つけるの?﹂
﹁うん﹂
ユアンはじっと鍵の山を見て、ひょいひょいと三本持ち上げた。
﹁これ、おんなじじゃないよ。あ、これもちがうよ﹂
躊躇いもなくひょいひょい拾い上げていく様子をぽかんと見つめ
る。その間もユアンは絶好調だ。あっという間に私の手の中はいっ
ぱいになった。
﹁なんこ見つけたらいいの?﹂
751
﹁四十四個だ﹂
﹁はーい!﹂
あっさり答えたルーナに、私とアリスは顔を見合わせる。
﹁⋮⋮アリスちゃん、アリスちゃん﹂
﹁⋮⋮何だ﹂
﹁一目見たその時から鍵を選り分けるユアンと、一目見たその時か
ら扉の数の把握を可能とするルーナ。私はどちらに驚愕致せば宜し
いか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮とりあえず、私は落ち込むことで忙しいから、後でいい
か﹂
﹁宜しいと思われるよ﹂
常識の行方を探し求めて落ち込む親友の背を擦る私の前で、ルー
ナは﹁ユアン、これもだ﹂とひょいっと鍵を拾い上げた。
扉を八つ開けて、八回広場に戻ってくる。
九回目で正解らしき扉を引き当てられたのは、多分運がいい方な
のだろう。誰の運がいいかは分からないけれど、私でないことは確
かだ。
﹁ふびあ!?﹂
﹁ママ︱︱!﹂
ひっくり返った悲鳴を上げた私に反応を返してくれたのはユアン
だけだ。後の面子は、またか⋮⋮という視線をちらりと向けただけ
だった。天井から滴り落ちる水滴は、何の恨みがあるのか、さっき
から私の背中に滑り落ちてくれる。首の隙間から腰の付け根まで一
直線だ。
ユアンは慌てて背中をばしばし叩いて水滴の進行を食い止めてく
れようとするけれど、残念、そこは既に通過済みである。
現在ここを歩いているのは私達だけじゃない。ルーナとアリスが
開けた扉の兵士を打ち倒して回ったので、誰でも自由に扉を行き来
752
できる自由の広場が出来上がっているのだ。だって、兵士に手を出
したらルール違反なんて言われていない。
それに便乗した一般人の三組が、ご一緒していいですかとびくび
くしながら一緒に移動している。にも拘わらず、何故私だけ水滴の
襲撃を受け続けるのだろう。
兵士達は皇子が怖いらしく、自ら鍵を手に入れるつもりのようで
ついてはこなかった。猛獣は猛獣で、猛獣同士の争いに発展してい
て人間なんて眼中にないのも多かったので、どういう結末になるか
は私にも分からない。たぶん、私じゃなくても分からない。
﹁⋮⋮そうですか、やはり貴方々は祖国の。大陸訛りがありません
ので、そうだろうと思ってはいましたが⋮⋮⋮⋮そうですか。祖国
は無事ですか。よかった﹂
アリスちゃんと同じ馬車に掴まっていて、ちょっと顔見知りらし
いロジウさんがほっと肩の力を抜く。ルーヴァルの人達は、グラー
スとブルドゥスを祖国と呼ぶらしい。そして、確かに彼らの話し方
にはちょこちょこ発音が気になる場所がある。ただ、私が間違って
いる可能性も多大にあるので、あえてつっこまない。
﹁ディナストの大軍が祖国に向かった時は胸をかきむしる思いでし
たが、それが駐留もせずに戻ってきたので首を傾げていたんですよ﹂
ロジウさん以外の人もうんうんと頷いている。皆、怪我もないよ
うで凄い。男の人が十二人いるにしても、兵士でさえ数を減らして
いる中、大した怪我もないのは凄いことだと思う。
﹁それでですね⋮⋮その⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
もごもごと口籠ったロジウさんに傾げた首に、冷たい物が触れた。
﹁いっ⋮⋮⋮⋮痛い?﹂
すわ水滴かと反射的に上げてしまった悲鳴は、途中で途切れた。
だって、水滴よりは冷たくない、というより、何だかぴりっと痛い。
私の悲鳴がおかしかったのに気付いたルーナとアリスが振り向い
753
て、動きを止めた。首を傾げようとしたら冷たい声が落ちる。
﹁動くな﹂
さっきまで聞いていた、おどおどと震える声はどこに行ったのか。
まるで別人のように冷え切ったロジウさんの声が淡々と響く。その
手に握られた剣は、ぴたりと私の首に当てられていた。
754
55.神様、少し水量多いです
﹁⋮⋮⋮⋮何を、している﹂
低いルーナの声に、私も聞きたい。
私、何をされているんでしょうかね。
視線だけを恐る恐る下ろせば、私の首筋に剣が当てられていた。
成程、これが首に当たってちょっと切れたのだろう。成程成程と頷
こうにも刃物が近い。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮うわぁ!?﹂
状況を理解できると、反射的に首に触れている剣を押しのけよう
と手をやってしまう。
﹁お、おい、危ないぞ﹂
﹁痛い!﹂
﹁いや、当たり前だろ!? 何で素手で触ろうとするんだ、ってい
うか何で触るんだ! 馬鹿か!?﹂
剣はぴくりとも動かなかった代わりに、私の手がさくっと切れた。
切れ味抜群ですね!
﹁カズキに手を出すな!﹂
アリスが怒鳴った。
﹁寧ろ出されたのは俺だ!﹂
﹁それもそうだな!﹂
ロジウさんも怒鳴った。ちょっと焦ったらしく、剣を少し首から
離してくれる。
すっぱり切れた掌がじくじく痛む。今度はそろりと視線を上げて
みると、やっぱりそこにいるのはロジウさんだ。さっきまでびくび
くしていた一般人の人達は、剣を抜いて私達を取り囲んでいる。今
は、どこからどう見ても一般人には見えない。
﹁剣を寄越して、両手を上げろ﹂
755
﹁りょ、了解!﹂
﹁あんたじゃない!﹂
かなり慌てながら、指示に従ってラジオ体操の早送りみたいに勢
いよく両手を上げたのに怒られた。理不尽である。
﹁手を上げろに従うしたよ!?﹂
﹁いや、そうだけどな、ちょ、邪魔! 手を下ろせ!﹂
上げろと言ったり下ろせと言ったり、ロジウさんは大変我儘だ。
でも、首に剣を当てられている身としては素直に従うしかない。正
直、凄く怖い。だって、首に当てられた刃物はあの広場を思い出す。
あの時、剣を持っていたのはルーナだった。そして私は、本当に首
が落ちたと思ったのだ。
あの時は命の危機に瀕した恐怖が後から来たけれど、今は既にそ
の恐怖を知っている。だから身体が勝手に震えだす。どうしよう、
怖い。首を守る為にも長い物には巻かれようと、慌てて早送りラジ
オ体操で両手を下げる。
﹁ちょ、危ない! 切れるから動くな!﹂
﹁下げろしたよ!?﹂
怖くてぶるぶる震える手で頑張って指示に従ったというのに、ロ
ジウさんは酷い。
ルーナとアリスは、私達から視線を外さずにゆっくりとしゃがみ、
地面に置いた剣を足で滑らせて両手を上げる。
﹁カズキ! 大人しく言うことを⋮⋮聞いてるな﹂
﹁⋮⋮かなり素直に従ってはいるな。ユアン、大丈夫か? 剣を向
こうに渡せるか?﹂
ユアンはぎゅっと両腕で剣を握りしめていた。その眼にはたくさ
んの涙が溜まっている。
﹁こ、これあげたら、ママにひどいことしない? ユアンなんでも
するから、ママにひどいことしないでぇ!﹂
756
﹁く、くそ⋮⋮。人質を取ってる時点で酷い事をしている自覚はあ
るが、罪悪感が湧き出すな!﹂
ロジウさん以外の面子も、酷く罪悪感に塗れた顔でよろめいた。
けれど、すぐに何かを振り払うように首を振り、再度剣を私の首
に近づける。
﹁いいか、この女を殺されたくなければ黙って指示に従え。いいな
? まずは俺達について歩け⋮⋮危ない!﹂
殺されたくはないので慌てて歩き出そうとして、首に当てられて
いた剣でさくっといきかけた。ロジウさんが慌てて剣をずらしてく
れたので事なきを得る。馬鹿を混乱させるとこうなるんですよ! 本当にどうもすみません!
﹁い、如何にすれば宜しいか!?﹂
﹁頼むから何もしないでくれ! もうやだ⋮⋮俺、全然しまらない
⋮⋮⋮⋮﹂
嘆くようなロジウさんの言葉を最後に妙な沈黙が落ちて、何とも
居心地が悪い。
﹁ロジウ﹂
一番後ろにいた人から急かすように呼ばれて、ロジウさんははっ
と顔を上げた。
﹁悪い。急ぐ。俺達に従って、黙って歩け﹂
私の腕をしっかり掴んだまま、ロジウさん達は横の壁を蹴る。ト
ン、トン、トトン、トン、トトトトンと、何だかリズミカルな蹴り
だ。何だろうと思っていると、壁が動いた。一人がギリギリ通れる
隙間が現れ、私達は剣を向けられたままそこを通る。最後の一人が
通り終えると同時に、すぐに壁は閉まった。
完全に真っ暗になって何も見えなくなる。
﹁進め﹂
そうは言われても、全然見えない。現代っ子は暗闇に弱いんです。
こんなに暗かったら目の前が壁でも分からない。そろりそろりと
足を伸ばして地面を確認して一歩踏み出す。踏み出してから剣を思
757
い出して慌てて首を守ったけれど、既に剣はなかった。
﹁おい、進め﹂
﹁み、見えぬよ﹂
﹁大丈夫だから進め﹂
何が大丈夫なのかは分からないけれど、大丈夫だそうなのでそろ
りそろりと足を進める。
視界が暗闇に覆われている分、他のことに神経が過敏になってい
く。歩く音だけじゃなく、小さな衣擦れ、剣帯と剣が擦れる音、呼
吸音まで鮮明に聞こえた。
周囲に聞こえるんじゃないかと思うほど、私の心臓がどこどこ鳴
る。皆いるのだろうか。いつの間にかルーナ達はいなくなっていて、
私だけになっていたらどうしよう。不安になって必死で目を凝らし
ても、光源が全くないのでいつまで経っても目が慣れない。
どこどこ鳴る胸をぎゅっと握った瞬間、ぴちょんっと澄んだ音が
走り抜けた。背中を。
﹁ふびあ!?﹂
﹁何だ!?﹂
﹁たわけか!?﹂
﹁ママ︱︱!?﹂
ルーナもアリスもユアンも、見えないけれどちゃんといた。
﹁お前ら静かにしてくれるかな!?﹂
﹁ロジウもうるせぇよ!﹂
﹁ごめんな!?﹂
ロジウさん達はいてくれなくても別によかったけれど、いるらし
い。
まあ、それはともかく、水滴のおかげで意図せず皆がいることを
確認できてほっとした。安心して一歩踏み出したら不意に地面の感
触が変わる。水溜りに足を突っ込んだようだ。慌てて足を引っ込め
る。
少し先にいるルーナ達も進むのを躊躇っているらしく、前がつっ
758
かえた。けれど、背中を押されて仕方なく足を進める。水溜りはい
つまで経っても終わらない。それどころか、だんだん嵩が増してい
る。
水は重い。水嵩はまだ膝にも届いていないのに、既に疲れた。ど
れくらい歩いたのか分からないけれど、恐らく大した距離じゃない
のに何キロも歩いたように疲れてしまう。
水はどんどん深くなる。前が見えないのに水に浸かっていくのは、
どんなに気を奮い立たせても恐ろしい。自然と逃げ腰になる私の背
を、たぶんロジウさんがぐいぐい押す。まさか、このまま溺死させ
ようという思惑なのだろうか。でも、こんな狭い通路で一緒に水に
入っていくロジウさん達だって危ない。幾ら剣を取り上げられても、
グラースとブルドゥスが誇る騎士がいる。ユアンだって、カイリさ
んの元で剣を鍛えていた。私だって、噛みつくくらいは出来る。い
ざとなれば死なば諸共で喰らいついてやると気合いを入れて、歯の
具合を確かめる。
﹁寒いか? 悪いな、もうちょっとだから頑張れな﹂
がちがちと歯を打ち鳴らすと、寒さによる震えと勘違いしたのか
ロジウさんが耳元で囁いた。ごめんなさい、その首に喰らいついて
やろうと思っていましたとは言えない。
悪い人ではないのだろうか。私の首を首質にルーナ達を脅してい
るけれど、悪い人では⋮⋮悪い行いをしている人には間違いない。
水は既に私の腰を越えて胸元まで到達している。もう半分以上泳
いでいるのだけど、いつになったら水から上がれるのだろう。
﹁⋮⋮本名かは知らんが、ロジウ﹂
﹁黙ってろ﹂
黙々と泳いでいたら、アリスの声がした。黙っていろと言われた
759
のに、アリスは続ける。
﹁抵抗はしない。だから、カズキを渡してくれないか。私達が抱え
て進む。女子供にこれ以上の深さは無理だ﹂
﹁いや、大丈夫だ﹂
ロジウさん、私は結構大丈夫じゃありません。
女子供の代わりに即答してくれたロジウさんに反論したいけれど、
一気に深さが増した水面が顎の下にまで到達してうまく喋れない。
灯りがないので見えないけれど、この水の色が凄く気になる。透明
だったらまだいいけれど、泥水とか緑色だったらどうしよう。足を
突っ込むだけでも躊躇するのに、どっぷり浸かっている状況では、
知らないほうが幸せな事実もあるかもしれない。汚水の臭いはしな
いけれど、飲み込まないように必死で爪先立ちになる。
﹁ここを潜ったらすぐに着く﹂
躊躇している所にこれである。躊躇うなという方が無理があると
思うのだけど、ロジウさんはぐいぐい私の頭を押して水に沈めよう
としてきた。
前方でも躊躇っているのか、水面が酷く揺れる。
﹁せめてカズキを返せ!﹂
﹁お前達は騎士と見受けるが、それがここまで拘るとなると、この
女、かなりの身分か?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴様、その女が誰か分かっているのか?﹂
アリスの声が低くなった。ごくりとロジウさんの喉の音が聞こえ
る。
﹁私の親友だぞ! 大事に決まっているだろう!﹂
﹁ユ、ユアンのママだもん! ママだもん! ママだもん!﹂
﹁わ、私だって皆大事だもう!﹂
突然の親友宣言とママ宣言に慌てて私も混じったら、いきなり静
かになった。自分の言葉の後に沈黙が落ちるとなんとなく罪悪感が
湧く。そして、皆の雰囲気がルーナに何か言えと求めている気がす
る。暗闇で誰の表情も見えないけれど、なんとなくそんな気がした。
760
﹁⋮⋮⋮⋮俺の﹂
ごくりと唾を飲み込んだのは誰だろう。私が入っているのは確か
だ。何と続くのだろう。知り合い? 顔見知り? せめて通りすが
りの異邦人じゃないことを祈る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮仲間だ﹂
﹁ア、アリスちゃん! ルーナが、ルーナが私を仲間と申してくれ
た! アリスちゃごぼぶ﹂
﹁沈んだか!? おい、カズキ!? 沈んだか!?﹂
ルーナが私を身内にカウントしてくれていたと思わぬところで判
明して、一気にテンションが上がる。上がりすぎて水をもろに飲み
込んだ。吐きたい。けど嬉しい。てっきり、知り合いレベルだと思
っていたら、仲間だった。結構悩まれていたけど、一応仲間だった
! 次は目指せ友達か! いや、出来れば恋人に戻りたいです! 後、なんか苔っぽい味がする! 苔を食べたことはないけれど、臭
いと同じ味がする!
﹁他の意気込みからすればかなり微妙な扱いだけどいいのか!? ああ、もう! とにかく潜れ!﹂
頭を掴まれてそのまま水に押し込まれる。暴れる前に腰を抱えら
れて一気に前に進むと、急に深くなった。どれだけ足を伸ばしても
爪先が掠りさえもしない。パニックになって押しのけようとした私
の両手が纏めて掴まれる。私の身体を抱えたロジウさんはぐんぐん
と先の見えない水の中を泳いで行く。怖い。暗闇でさえ必死だった
のに、息ができない水の中を連れていかれるなんて、本能自体が酷
く嫌がる。せめてこれが信頼できる相手だったら全然違ったのに、
私を抱える人はロジウさん。
凄く、逃げたい。
そんなことを考えている間も、ロジウさんはぐんぐん進む。耳の
中でぶわんぶわんと音が膨れていく。一体いつまで息を止めていれ
ばいいのか分からないのも困る。どっちが上か下かも、終いには目
を開けているのかどうかすら分からなくなった時、急に顔面に風が
761
当たった。
﹁おい、息していいぞ﹂
水越しじゃない声に膨らませていた頬を一気に解放する。そのと
き、ようやく目を閉じていたことに気付く。ごしごしと両手で顔を
擦りながら目を開くと、広い水面が広がっていた。色を心配してい
た水は、ありがたいことに綺麗だったけれど、恐ろしいまでに澄ん
でいる。その代り、酷く冷たい。
天井まで続く岩壁は高すぎて光が届いていない。私達が現れたの
は広がった水場の横壁らしく、すぐ傍に岸部があった。岸部には、
ずらりと人が集まっている。灯りもそっちに集中していた。洞窟に
しては大きすぎるし、よく見ると壁の一部には階段らしく段差も見
えるから、人の手が入っているのだろう。
ぼこぼこと水泡が上がった所から頭が現れていく。三番目くらい
に顔を出したルーナは、頭を振って髪を掻き上げ周囲を確認してい
る。目が合った時、微かにほっとしたような目をしてくれたのが、
どうしようもないほど嬉しかった。
一人で幸せな気分になっていた私に話しかけてきた人がいた。
﹁ここはルーヴァルの地下遺跡なんだぜ。正確には、ルーヴァルが
できる前にあった国の遺跡だ。そこが滅亡して長らく不毛の地にな
ってたところに、そっちから来た人間が国を作ってルーヴァルがで
きたんだぜ﹂
聞いたことのある声に勢いよく顔を上げる。
どうして、彼が此処にいるのだろう。どうして、そんな、まるで
普通の知り合いみたいに話しかけてこられるのだろう。
彼が何をしたか私達が知っていると分かっているだろうに、どう
して。いま、憤怒で真っ赤になったアリスを見ただけでも、否、見
なくたって分かっているだろうに、どうして、そんな普通に。
﹁貴様っ⋮⋮!﹂
﹁おお、怖い。そんなに怒らないでくださいよ、騎士アードルゲ﹂
762
以前より伸びた気がするワインレッドの髪が、蝋燭の明かりに照
らされてオレンジっぽい色を放つ。
﹁あんたも宥めてくれよ。なあ、黒曜﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ツバキ﹂
冷たい水と同じ声音で呼ばれた自分の名前に、ツバキは満足げに
口角を吊り上げた。
763
56.神様、少しの女子力吹き飛びました
地下なのに花の匂いが溢れ返る。花弁がお湯に大量に投入されて
いるからだ。岩壁が剥き出しの壁と天井。ついでに湯船も床も岩だ
けど、お湯の中だけパラダイス。色とりどりの花弁が蝋燭の明かり
の中でも鮮やかに揺れて、とってもパラダイス。
ただし、私にだけはデストロイ。
﹁ふ⋮⋮ふへへ⋮⋮⋮⋮﹂
濡れた床で滑って転び、強かに打ち付けた腰を押さえる。立てな
い。岩は痛かった。パラダイス気分を見事に打ち砕いてくれた様は、
正にデストロイ。そうして増える、お尻の蒙古斑。おかしい。蒙古
斑は成長の過程で消える物なのに、どうして私は増えるのだろう。
岩剥き出しの風呂場に、テーマパークみたいだとテンションが上
がったのは仕方ない。家風呂ではなく、銭湯規模に大きなテーマパ
ーク風呂が貸切だったのに更に上がったのも致し方ない。
じゃあ一体何がいけなかったのだろうと、花弁浮かぶ湯船に片腕
だけつっこんで考える。
湯船いっぱいに浮かぶ色とりどりの花弁向けて、お風呂だー! と叫びながら走り出したことだろうか。それとも適当に巻いていた
タオルが肌蹴たけど誰もいないからまあいいやと放置したら足に絡
まったことだろうか。この隣ではルーナ達が皆でお風呂入ってるん
だな、あれ? 私やっぱり仲間外れのカズキ!? とか頭を過って
意識散漫になったことだろうか。設置されている石鹸が可愛かった
ので目移りして碌に前を見ていなかったことだろうか。
まあ、そのどれかがいけなかったんだろうなと結論付けて、大人
しく身体を洗うことから始めた。
始めようとした。
さあ、目の前に並びますは、赤、青、黄、緑、桃、黒、茶、水、
764
紫からなります石鹸レンジャー。どれを使えばいいのだろう。どれ
でもいいのか、どれかじゃなければいけないのか。
﹁どれを選択すればよいのか⋮⋮﹂
﹁香りが違うだけですが、個人的には黒がおすすめです﹂
﹁ならば黒よ﹂
﹁はい﹂
おすすめという黒の石鹸を手に取って匂いを嗅いでみると、確か
に、意外にもいい匂いだった。花というよりは果実に近い気がする。
さくっといってしまった傷で地味に苦労しながら、タオルに石鹸を
乗せて泡立てると、面白い事に白い泡がもこもこと出来上がってい
く。それを楽しんでいた私は、ぴたりと動きを止めた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮貴様はどちら様でしょう﹂
﹁⋮⋮今更ですか?﹂
私の後ろには、小豆色の髪を一つに纏めた女性がいた。年上だろ
うか。いや、でも分からない。女性は両手を捲って桶を抱えている。
これは悲鳴を上げて身体を隠すところだろうか。いや、でもここは
女風呂で、彼女は女性で、ついでにいうと私はお風呂を借りている
身だ。
とりあえず、あわあわになったタオルをべろんと広げて前面に張
り付かせてみる。
それについてのコメントは特になく、女性は濡れるのも構わず床
に膝をつけて頭を下げた。
﹁これからお世話をさせて頂きます、アマリアと申します﹂
﹁これはどうぞご繊細に﹂
一礼したまま微動だにしないアマリアさんに頭を下げる。
﹁しかし、私は全く以って一人ぼっちで大丈夫です。アマリアさん
の手をご迷惑おかけせずとも、一人ぼっちです!﹂
掌をさくっと切っていても、ざくっとではない。大丈夫だと主張
しようと切れた掌を見せて、幸い血も止まっていると伝える。
余計な手間をかけさせるわけにはいかないときりっと答えると、
765
アマリアさんは一つ頷いたので、分かってくれたのだとほっとした。
誰かに手伝ってもらってお風呂に入るのは非常に抵抗がある。一緒
に入るのはいいけれど、洗ってもらうのはお断りしたい。
﹁失礼﹂
﹁突然!﹂
よかったよかったと安堵していた私の手に、無造作に何かが貼り
つけられた。傷口があった場所を見れば、深緑色の四角い何かが貼
られている。ぶにぶにとした感触は、開いたアロエみたいだ。
﹁本来は化膿止めに使用しますが、水を弾きますのでどうぞそのま
まご入浴ください﹂
﹁どうぞありがとうございます﹂
﹁失礼します﹂
﹁何事を⋮⋮⋮⋮あれ?﹂
あれよあれよという間に髪を洗われて、あれよあれよという間に
いい匂いのする何かを身体に塗られて、あれよあれよという間にな
んかすべすべになっていた。
一体何があったのか。気が付いたら花弁が浮かぶ湯船に浸かって
いた。イリュージョン。
呆然とお湯に浸かっていたけれど、気持ちいいのでまあいいやと
いう気分になってきた。
﹁ア⋮⋮アマ、⋮⋮ア、アマアマ⋮⋮⋮⋮ア、アマルアさん﹂
﹁アマリアです﹂
﹁アマアリアさん!﹂
﹁アマリアです﹂
口の中でアマリアさんの名前を練習する。その間も、アマリアさ
んはきちんと両手を揃えて待っていてくれた。
お風呂場にはたくさんの椅子と石鹸があるから、ここは大浴場な
766
のだろうか。そう聞いたら、アマリアさんはいいえと答えた。
﹁ここは普段使用されてはいません。ですが今回は、保護されてく
る一般人の為に用意されました﹂
﹁保護﹂
﹁はい。ガリザザ第四皇子の遊戯から、です﹂
つまりここはディナストのあれから避難してきた人達の為の場所
だったのだ。それが、急遽予定変更になったのだろう。だって、強
制参加させられる人達の代わりにガリザザの兵士が宛がわれたのだ
から。
ロジウさん達は、一般人救出の為に紛れ込んでいたルーヴァルの
騎士達だったと聞いた。
ここは、ガリザザの侵略から逃れた王族含むルーヴァルの人達が
隠れている神殿なのだそうだ。神殿といっても、ルーヴァルができ
る前に滅亡した国の神殿らしい。ここのことを知っているのはルー
ヴァルでも極一部で、当然ガリザザの人間が知るはずもなく、今も
見つかっていない、らしい。
というような話を、ツバキがぺらぺら教えてくれた。そして、私
が黒曜でルーナがルーナでという話もぺらぺら喋ってくれた。それ
を今にも殴り掛かりそうな形相のアリスの後ろで聞いていたのだけ
ど、とりあえず、あの場にいた方々全員から﹃え!? こいつ!?﹄
の視線を頂いたと胸を張ろう。
やっぱり私には、二度見のカズキの二つ名がふさわしい。
他にもいろいろ聞きたいこと、聞かれなければならないことがあ
ったけれど、私とユアンの盛大なくしゃみで皆はっと我に返った。
そして、何はともあれ風呂だという、大変ありがたい流れになった
のである。
アマリアさんは、私が湯船に浸かり始めた最初は黙って壁際に立
767
っていたけれど、溺れたりしませんよと伝えると一礼してお風呂場
を出て行った。奥の方で音がするので、何か用意しているのかもし
れない。
それにしてもお風呂が気持ちいい。ちゃんと湯船に浸かったお風
呂は久しぶりだ。このままご飯食べておやすみなさいの流れになっ
てくれたら大変嬉しいけれど、それは無理なんだろうなと思う。残
念だ。色々説明して、してもらってがあるはずだ。その間、うとう
としないよう頑張ろう。
お風呂から上がったら、アマリアさんは何かよく分からない液体
を身体に塗ってくれた。
﹁これは何物で?﹂
﹁肌の乾燥を防ぎ、滑らかに保つ乳白水です﹂
何だか美人になった気分だ。
別に乳白水を塗ってもらって顔の原型が変わるわけじゃないけど、
エステみたいでテンションが上がる。エステに行ったことがないの
で完全に想像になるけれど、セレブな気分だ!
この手の物の匂いが似るのか、それともルーヴァルがブルドゥス
と関わりがあるからかは分からないけれど、何だかカルーラさん達
を思い出して懐かしくなる。色んな匂いが混ざり合っていたけれど、
お仕事明けの朝方は乳白水の匂いがいっぱいだった。カズキ、カズ
キと手招きされて洗濯物を抱えたまま近寄ったら、お裾分けと言っ
て顔や首に塗ってくれた。
一年どころか半年も経っていないのに、まるで夢のように思えて
くる。
皆に会いたい。
不意に寂しくなる。こんな時はアリスちゃんに体当たりするに限
るが、残念なことにアリスちゃんは男風呂だ。今のルーナに体当た
りしたら絶対避けられるし、どっちにしてもルーナも男風呂だ。流
石に男風呂に突撃するのは躊躇われる。神様によって投入されたあ
768
の経験だけで充分だ。
パンツと短いキャミソールみたいな状態で、アマリアさんが色々
塗ってくれる。部屋の中に沈黙が落ちた。黙々とお仕事をこなして
いく姿はかっこいい。
﹁アマリアさんはお幾つですよ?﹂
﹁十九歳です﹂
﹁同じよ! お揃いよ!﹂
﹁はい﹂
会話終了。
女性にいきなり年齢を聞いたのがいけなかったのかもしれない。
申し訳ないことをした。次は無難に好きな食べ物を聞こうとしたら、
アマリアさんがいきなり短剣を抜いた。一体どこに持っていたのか
という疑問はともかく、何やら入口が騒がしい。
脱衣所の入り口の扉が壊されんばかりの勢いで開き、中に飛び込
んできたのは上半身裸のユアンだった。よく見たら下はタオルだけ
ど、私はそれどころじゃない。
﹁ア、アマリアさん、待ってぇ!﹂
腰を低くして迎撃態勢になったアマリアさんに慌てて縋りつく。
触り慣れたこの硬さ、これは筋肉だ。その私を、慣れた衝撃が襲っ
た。
﹁ママ︱︱!﹂
とりあえず吹っ飛んで、なんとか体勢を立て直そうと努力する。
なんでユアンがここにいるんだろう。女風呂に入れる年齢は過ぎて
しまっているとどうやって説得しようか考えていたけれど、すぐに
そんな場合じゃないと気づく。
ユアンは震えていた。
769
濡れた髪からぼたぼたと水を落とし、それと同じくらい涙をいっ
ぱいに溜めた顔を上げる。
﹁ママ、ママは、ユアンとユリンのママだよね!?﹂
咄嗟に返事ができなかった私に、ユアンはぐしゃりと顔を歪めた。
﹁ママ⋮⋮? あいつの言うことうそだよね? あいつがうそつき
なんだよね? ママは、にせものじゃないよね? ねえ、ママ、う
んって言って? ねえ、ママ、おねがい、うんって言って!﹂
﹁ユ、ユアン待って、ユアン! あいつとはどいつ!? ツバキ!
?﹂
一体男風呂で何があったのか。ユアンは必死の形相で私に言い募
る。
﹁ママ、おねがい、ママ、やだ、おいてかないで、ママ! ママは
ユアンとユリンのママだよね!? うそなんかじゃないよね!? ママ、ママはユアンのこときらいじゃないよね!? ママ、ユアン
のこと、め、めいわくだって、きらいだって、ちがうよね!? ね
え、ママ、おねがい、いっしょにいて、いなくならないで、やだ、
ママ、やだ、やだぁ!﹂
必死に縋っているのに、まるで溺れていくようだ。縋れば縋るほ
ど溺れていく。私は藁のつもりはないけれど、ユアンは溺れないよ
うにと必死に溺れていく。
﹁ユアン、落ち着く! ユアン!﹂
﹁ママ、やだ、ママ! おいてかないで、ユアンをおいていかない
で。ママ、ユリンはどこ!? ねえ、ママ、なんでユリンはいない
の!? ママはママでしょ!? ねえ、ママ!﹂
言葉が届かない。だって、今のユアンには聞く耳がないのだ。私
に問うているのに、私の答えを聞く耳がない。本当に溺れている人
みたいだ。助けて助けてともがいて、助けの手を弾いてしまう。
水泳の授業で先生は言った。溺れている人は無我夢中になって何
も分からなくなる。ただ助けてほしいと、それだけで頭がいっぱい
になってしまっているから、助けに行ったら引きずり込まれて一緒
770
に溺れてしまう。
だから、先生は言った。
入口の方で大きな音がして、ばたばたと誰かが走り込んでくる。
﹃絶対に、一人で助けに行ってはいけませんよ﹄
﹁入るぞ!﹂
﹁無事か!?﹂
私の上で泣きじゃくるユアンの肩越しに、お風呂上りなのに青褪
めたルーナとアリスが駆け込んできた。ユアンと同じくタオル一枚
かと思いきや、二人はかろうじてズボンは穿いている。アリスちゃ
んがぴょんぴょんしているのは、ズボン穿きながら走ってきたから
だ。濡れた足に無理やり穿こうとすると引っかかる。
一人じゃユアンを落ち着かせられなくても、三人なら何とかなる
はずだ。もしかしたらアマリアさんも手伝ってくれるかもしれない。
三人寄れば文殊の知恵。四人寄れば⋮⋮⋮⋮何かの知恵!
﹁失礼﹂
アマリアさんの揃えられた掌が、とんっと軽い動作でユアンの首
に当たったと同時にユアンの目がぐるりと回った。怖い。どさりと
降ってきた全体重に潰されて、ぐえっと変な声が出た。
ユアンは完全に気を失っている。三人寄った結果、四人目の手刀
が解決した。知恵って素晴らしいけれど、とっても重いものだ。そ
して、アマリアさんかっこいい。
﹁落ち着かせる必要があると判断しましたので、勝手を致しました。
申し訳ありません﹂
深々と下げられた頭に、アリスが慌てて手を振る。
771
﹁いや、感謝します。こちらこそ止められず申し訳ない﹂
丁寧で大人な謝罪を黙って見上げていたけれど、そろそろ助けて
くれたら嬉しい。
どうしようかなと思いながら、とりあえずユアンの濡れた髪を絞
っていると、大きなタオルが渡された。ルーナが傍に合ったタオル
を渡してくれたらしい。
﹁ありがとう﹂
﹁⋮⋮そうじゃない﹂
ありがたく受け取って、わしゃわしゃとユアンの頭を拭いていた
らため息をつかれてタオルとユアンを取り上げられた。身軽になっ
た身体の上にタオルが降ってくる。
﹁巻いたほうがいい﹂
確かに、私はパンツだった。髪を拭いて湿ったタオルをちゃっち
ゃと腰に巻く。お見苦しいものをお見せしました。
﹁ユアンはどうしたこ⋮⋮と⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ああ、ちょっとな。ルーヴァルの王子が勘違いを⋮⋮⋮⋮どうし
た?﹂
ユアンを椅子の上に下ろしてタオルの巻を直していたルーナが、
私を見て怪訝な顔をする。その声に振り向いたアリスも妙な顔をし
ていた。
どうしたのと、聞けない。私はいまどんな顔をしているのだろう。
私の視線はルーナに糊付けされたみたいに引っ付いている。その視
線を辿ったアリスがはっとなった。
﹁カズキ、私はユアンを部屋に連れていく。⋮⋮お手数ですが、案
内して頂けますか﹂
﹁は⋮⋮⋮⋮畏まりました﹂
私をちらりと見たアマリアさんは、静かに一礼してユアンを抱き
上げたアリスの為に扉を開ける。
772
﹁待て、アリスローク。俺は﹂
﹁その格好のカズキの相手を私にさせるつもりか。勘弁してくれ。
記憶が戻ったお前に殺されるだろうが! ユアンのことは私に任せ
ろ、カズキは頼んだ! ではな!﹂
アリスは凄い勢いで背中を向けて出て行った。残されたルーナは、
困ったように視線を逸らしたまま濡れた髪を掻き上げる。
﹁⋮⋮とにかく、お互い服を着よう﹂
﹁⋮⋮痛かった?﹂
﹁え?﹂
上着を着ていない剥き出しの上半身には、それがはっきりと残っ
ていた。当たり前だ。消えるはずがない。だって、あんなに、血が。
外では服装をほとんど乱すことのない騎士だからこそ、肌は白い。
その白い肌の上、肩から腰まで斜めに走る大きな傷跡がある。あの
時、ヌアブロウに斬られた傷痕だ。
もう血は出ていない。でも、傷痕はまだこんなにも太い。細く薄
くなんてなっていないのだ。傷痕の色は肉の色に近い赤茶色で、周
りは爛れたように引き攣っている。
痛かった? なんて、聞いた自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。
痛くなかったはずはない。痛かったに決まってる。あの時ルーナは
どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。怪我した私
をずっと抱いて走ってくれたルーナに、私は何もできなかった。守
るどころか、傍にいることすらできず、ルーナは爪を全部剥がされ
て記憶を失った。
私の視線の先を辿ったルーナは目を瞬かせて、もう一度私を見る。
その水色が、知らない人間を無感情に見下ろしていた時とは違う色
で、無性に泣きたくなった。
ルーナは少し考えて、軽く両手を広げた。
773
﹁触るか?﹂
﹁え?﹂
﹁痛くない。だから、触って確かめてみろ﹂
動けずにいると、ルーナの手が動いた。私の手に触れる前に一瞬
だけ躊躇って、ゆっくりと握る。その手に引かれて、胸板に手をつ
けた。
恐る恐る指で触れた傷痕はつるりとしていた。ここだけ皮膚が新
しいからだ。皮膚との繋ぎ目はぼこぼこしているけれど、その一つ
一つがやっぱりつるりとしている。肩口から胸の間を通って、脇腹
を通り越し、腰骨の近くで止まっていた。
﹁痛くない。今は寧ろ⋮⋮くすぐったい﹂
﹁ご、ごめん﹂
何度も指で往復していたら、そりゃあくすぐったいだろう。慌て
て離した手をルーナが掴んだ。手を引かれて肩がルーナの方を向く。
﹁お前だって、傷がある﹂
躊躇うように撫でられた場所には、一本の線がある。痕が薄くな
る薬を塗らないかとカイルさんは何度も言ってくれたけれど断った。
だって、ルーナが縫ってくれたんだ。出来る限り痛みがないよう
に細心の注意を払ってくれた。出来る限り早く済むように額に汗を
浮かべて必死になって縫ってくれた。
ルーナが、いなくなる前に、私の怪我を手当てしてくれた痕だ。
だから、消したくなかった。消えてしまわないでほしかった。
その傷にルーナが触れる。生きているルーナが触れている。
﹁本当よ。くすぐったい﹂
かさついた指が、触れるか触れないかの距離を何度も往復してい
くから、思わず笑ってしまう。掻きたいような、自分で触って感触
を消すのが勿体ないような、胸の中までくすぐったい気分だ。
ふへっと変な笑いが漏れると、ふっと小さな吐息が降ってきた。
視線を上げると、ルーナが笑っていた。目尻がちょっと下がって
774
優しい目になる、私の大好きな笑い方だ。
﹁な? くすぐったいだろ?﹂
ルーナが笑ってる。ルーナが、私を見て、私と話して、笑ってく
れた。
泣きたい。けど、笑いたい。ルーナが笑ってくれたのに、私が返
すのは泣き顔なんて嫌だ。
﹃どうか、カズキにとってもそういう人がいますように﹄
ありがとう、リリィ。
ちゃんといるよ。私にも、そういう人ちゃんといてくれるよ。
それはリリィもそうだし、アリスもそうだし、ユアンもそうだし、
ヴィーも、エレナさんも、皆そうだ。誰かが私の言動で笑ってくれ
たら、こんなに嬉しいことはない。
その皆に言って回りたい。
ルーナが笑ってくれたよ。私と話して、笑ってくれたんだよ。
﹁⋮⋮⋮⋮ルーナ﹂
どこまで近づいていいのか分からなかった。嫌われるのが怖かっ
た。
でも、だからといって遠いままなのが一番嫌だ。
ぎゅっと両手でタオルを握って、勢いよく顔を上げる。
﹁好きです! 友達よりてお願いします!﹂
私にできる精一杯の告白に、ルーナは面食らった顔をした。可愛
い。目が大きくなるとちょっと幼くなって昔を思い出す。でも、懐
かしがる余裕はなかった。心臓がどこどこうるさい。
﹁⋮⋮⋮⋮ごめん﹂
断られた。待って、ルーナ、私諦められないっていうか諦める算
775
段が全くつかないというか算段ってこういうときに使う言葉だっけ
日本語さえ怪しいよどうしようどこまでだって喰らいつくつもりだ
けど断わられた相手にどこまでだったら喰らいついてもストーカー
じゃないのか既にストーカーだったらどうしたらいいのかな通報か
などうしようお巡りさん私です。
ぶわっと頭の中を流れていった思考の末路は、パトカーに乗り込
む私だった。間違えた、馬車だ、馬車にするべきだと、呆然とした
ままイメージを修正していた私の手をルーナが取った。手錠ですか?
﹁俺から言うべきだった﹂
﹁⋮⋮囚人ですか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何でだ?﹂
鉄馬車の中で揺られる自分を想像したけれど、どうやら違うらし
い。よかった。
﹁記憶を無くした俺が馴れ馴れしくするのはどうかと思ったし、無
くしても特に問題がないと思っていた。それでいいと思っていたが
⋮⋮カズキ、俺の無くしたお前との記憶を、教えてくれないか﹂
ルーナの言葉を頭の中で咀嚼して、繋がれた手を見て、顔を見て、
もう一回手を見た辺りでようやく理解できて、慌てて握り返す。
﹁ど、どこまでだって生々しくて大丈夫よ! どんどん多大に生々
しくお願いします!﹂
﹁馴れ馴れしく頼む。それと、そろそろ服を着たいし、何より着て
ほしい﹂
自然に視線を逸らして壁を見たルーナに、そういえば下着だった
と思い出す。
今さらだけど、ここが女子力の見せ所かもしれない。
私は胸の前でばってんを作り、すぅっと息を吸った。きゃあ、だ。
きゃあーと可愛くいこう。
﹁へぶし!﹂
しかし、飛び出したのはくしゃみで、飛び出て消えたのが女子力
だ。鼻水が垂れた。
776
女子力は諦めて、大人しく服を着たほうがよさそうである。
777
57.神様、蒙古斑が少し増えました
着替え終えて脱衣所を出ると、既に着替え終わっていたルーナが
待っていた。そして、いつの間にか戻ってきていたアマリアさんが、
頬っぺたに何か湿布みたいなものを貼ってくれる。微妙に臭かった
けれど、良薬口に苦し鼻に辛しの法則なんだろう。
用意してもらった部屋に案内してもらう。道は灯りが届かない場
所が多く、とても暗い。洞窟みたいな道は急に天井が低くなってい
る場所もあり、普通に歩いているだけで頭を打ちそうになる。その
度にルーナの掌が私の額を押さえて助けてくれた。お手数おかけし
ます。
途中何本も道があり、ぐねぐね曲がったりもしたのでもうさっぱ
り道が分からない。道すがら部屋らしき場所も見つけたけれど、二
度と辿りつける気がしなかった。でも黙々と同じ歩幅で歩くルーナ
は道を覚えているような気もする。ルーナの記憶力万歳。私の記憶
力残念。
ルーナの邪魔をしないように静かにしていると、誰一人として喋
らないまま目的地に到着した。
何故目的地と分かったかというと、転々とした灯りの数が増えて
きたと思ったら、一つの扉の前にアリスちゃんがいたからだ。正確
には、アリスちゃんとロジウさんと、ずらりといっぱいの人である。
怖い。
﹁アリスちゃん! ユアンは!?﹂
慌てて駆けだしたら、アリスちゃんとその他大勢の皆さん全員が
揃ってお黙りのポーズを取った。強面の人達でも、人差し指を立て
て口に当てると一気に可愛くなる。
両手で口を押え、お黙りますのポーズで従順を示す。アリスが指
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さした先を見ると扉が少し開いていて、中がちょっとだけ覗ける。
長椅子に座っているユアンの背中が見えた。
﹁アリス、お前はどうしたんだ? 何で外に?﹂
﹁それがだな⋮⋮ユアンに、ママはママだよねと聞かれて、思わず
詰まった。結果、みんな大嫌いと追い出された。⋮⋮⋮⋮私は嘘は
苦手なんだ!﹂
﹁し︱︱!﹂
音量が上がったアリスに、皆から人差し指のお黙りポーズが降り
注ぐ。そういえばアリスちゃんは身内に嘘をつくのが大層苦手だと
エレナさんが言っていた。
﹁アリスちゃんは身の内に対して嘘がど下手と、エレナさんが申し
ていたよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うるさい。母上達に嘘が一切通用しないのは私の嘘が下
手なだけではない!﹂
確かに、アードルゲの女性陣相手に嘘が通用する気が全くしない。
嘘どころか、隠し事さえできない気配がひしひしとする。
ちょっと子どもみたいに不貞腐れたアリスは、大体、と続ける。
﹁お前達は落ち着いたのか?﹂
そうだった。アリスちゃんにちゃんと報告しなければ!
あのね、あのねと日本語で言ってしまったけれど、アリスは特に
何も言わずに頷いてくれた。脱衣所での喜びを思い出し、嬉しくて
嬉しくて、思わず意気込む。
﹁ルーナとなめなめしい友達となったよ!﹂
アリスがどん引きの顔でルーナを見る。ルーナは哀愁漂う表情で
遠くを見た。
﹁⋮⋮馴れ馴れしいという単語を選んだ、俺が悪かったんだろうな﹂
﹁こいつの無限に上がり続けるたわけ度数を忘れ、一瞬でも疑って
本当にすまなかった﹂
ルーナの背中を叩くアリスのお風呂場での後姿を思い出す。その
779
背にだって傷があった。ヌアブロウが投げた剣が何本も刺さったん
だ。傷跡が残らない訳がない。
散々凭れたり、凭れられたりしていたので、今更騒ぎ立てるのも
変だろう。けれど気になるものは気になると、じぃっと見ていると、
視線に気づいたアリスが片眉を上げた。
﹁何だ。幾ら物言いたげに見ようが、貴様がたわけである事実は変
わらん﹂
﹁そのような事実、覆せるとは端から思ってはおらないよ!﹂
堂々と胸を張ったら、アリスだけでなく、他の皆さんからもなん
とも言えない視線を頂いてしまった。
咳払いして、話を戻す。
﹁ユアンは何事が?﹂
﹁細かい説明は後にしても、お前を母と呼ぶユアンを奇妙に思う者
がいるのは当然だからな、一先ず簡単な説明はしていた。バクハツ
に身内が巻き込まれた瞬間を目撃して、少々心が混乱していると説
明していたんだが⋮⋮⋮⋮それを王子が聞いていたらしくてな﹂
それを王子が聞いていて、一体何がどうしたのだろう。
﹁私も今聞いたのだが⋮⋮ガリザザの襲撃で王と王妃が崩御なされ
ているそうだ。王子は、ユアンも母を亡くしたと思ったらしく、そ
の上でお前を身代りにしていると激昂された、らしい﹂
ルーヴァルの騎士達に囲まれている状況で話しづらそうに教えて
くれるアリスの話を聞く。ごめん、よく分からない。真面目に聞い
てはいるけれど、今一分からないでいる私を見ぬいたアリスが、諦
めて懇切丁寧に教えてくれた。ひそひそとだけど。
要約すると、王子様は自分がお母さんを亡くして寂しい思いをし
ているのに、身代わりの私で満足しているユアンに怒った、という
ことらしい。お怒りの王子様に、身代わりで満足するなんてお母さ
んへの愛情はその程度だったんだとか、身代わりにされた私はきっ
と嫌がってるとか言われたユアンは大パニックになったのだそうだ。
﹁王子様はお幾つ?﹂
780
﹁御年八歳におなりだそうだ﹂
結構言いがかりな気がするけれど、小学低学年なら仕方ない。お
父さんもお母さんも殺されて、国を乗っ取られてと、色々と大変な
時に心のどこかに触れてしまったのだろう。何せ、風呂場に特攻し
てくるくらいである。
とばっちりをくらったユアンは散々だろうけど、どの道話し合わ
なければいけないことだ。
﹁ユアン﹂
私は一人で部屋に入る。お風呂の時みたいにユアンがパニックを
起こしたら外にいるルーナ達が止めてくれるけれど、話し合いは私
が適任だろうと満場一致だった。私ほど説得に向いてない人間もい
ないと思う。反対一名なので満場一致じゃないはずなのに、最初か
ら数に入れて頂けなかった。選挙権をください。
﹁ママ!﹂
ぱっと振り向き、抱きついてきたユアンに押し潰されて床に座り
込む。長椅子には辿りつけそうにないので諦める。
﹁ママは、ママだよね!? あいつがうそつきなんだよね!? ね
え、ママ!﹂
﹁ユアン、私のこと、好き?﹂
﹁すき!﹂
勢いのまま放たれた好きにちょっとだけ肩の力が抜けた。反射み
たいに返ってきたその言葉が支えだ。
﹁どのような個所が好き?﹂
﹁あのね、あのね! ママってよんだら、はぁいってユアンを見て
くれるとこ。ぜったい、いつよんでも、いやだなって顔しないでは
ぁいって、なぁにって言ってくれるの、すき﹂
手をぱたぱたさせて頷くユアンの嬉しさが見ただけで分かる。私
は胸元をぎゅっと握った。
781
﹁あとね、あとね、ごはんおいしいのあったら、ユアンにもくれる
のすき。ユアンもおんなじの食べてるのにね、ママったらおかしい
の。あとね、きれいなのあったら、ユアンにも見せてくれるのすき。
おもしろいものあったら、ユアンにもおしえてくれるのもすき。た
のしいことあったら、ユアンもまぜてくれるの、うれしい。あっち
いけってしないの、じゃまだって、でていけってぶたないの、うれ
しい。きれいだねって言ったら、そうだねってにこってしてくれて、
頭なでてくれるの、だいすき!﹂
にこにこして嬉しそうに話しているユアンの肩越しに、こっちを
見ている人達が見える。扉の隙間分しか見えないけれど、誰の表情
も冴えないのは分かった。それは私も同じだろう。顔はどんどん下
を向いていく。
だって、だってそんなの、当たり前のことだ。何一つ特別なこと
ではない。そんな当たり前のことを喜んでしまうほど、ユアンはず
っと悲しかったのだ。
ユアンの本当のお母さんに対してふつふつと怒りが湧き上がる。
そんな当たり前のことを、してあげなかった人。
唇を噛み締めて怒りを押し込める。怒ってどうする。怒って、嫌
って、それでどうなるんだ。もしも会えたら罵るのか。なんてひど
い人なんだと罵倒するのか。違う。そんなことユアンは望んでいな
い。お母さんひどいねと言い合って、それで気が済むことじゃない
のだ。誰かの同意を得て慰められるようなことだったら、ユアンの
心はこんなにも惑わなかった。
﹁でもね、でもね、いっつもにこにこしてるのが、いちばんすき!
ママはにこにこしてるときが一ばんかわいい!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ありが、とう⋮⋮ユアン、ありがとう﹂
上手な愛の示し方なんて知らない。愛の示し方なんて、どんな教
科書にも載ってなかった。練習もした事ないし、そもそもそんなこ
と考えた事すらなかった。
782
私が出来るのは、ただ、好きだ! という気持ちを隠さないだけ
である。そんな力任せの好意しかあげられなかったのに、ユアンは
嬉しそうに笑っている。
もっと、もっと、してあげられることがあるはずなのだ。たった
これっぽちのことでユアンは笑ってくれるのに、どうして、これっ
ぽっちのことしかできないんだろう。
ごめん、ユアン。一番かわいいって言ってくれたのに、ちょっと
顔を上げられない。
﹁ママではなかったら、その全て、嫌いになる?﹂
ユアンはきっと、ただ、愛してほしかっただけだ。
だから、それに賭けよう。
息を飲んだのが、俯いていても分かった。口の中がからからだ。
何か飲んでから来ればよかった。
向かい合っているユアンの膝がじりっと後ろに下がる。逃げられ
る前にその手を掴む。
ごめんね、ユアン。笑えないけど、逸らさない。
﹁ユアン、私、ママではないよ﹂
﹁いや⋮⋮きこえない!﹂
私の手を弾いて耳を塞ごうとしたユアンの頬を掴み、顔を寄せる。
﹁ユアン﹂
﹁きこえないきこえないきこえない!﹂
ぶんぶん振り回される頭を押さえていられず、諦めて手を離す。
そのまま後頭部を掴んで胸元に押し付けて抱きしめる。突き飛ばさ
れたらこれでも駄目だけど、ただ手を掴んでいるよりいい。何より、
他人の鼓動と体温は心を落ち着かせてくれる。他人の温度が心地い
いと教えてくれたのはルーナだ。でも、そうと知った時、お互いの
783
鼓動は爆発寸前で落ち着きはしなかったけれど。
﹁ユアン、私、ママでないと、駄目?﹂
﹁きこえない!﹂
聞こえている。ちゃんと届いている。だって、ユアンはきょとん
としていない。不思議なものを見るように、異世界の言葉を聞いた
かのように、首を傾げてはいないのだ。
﹁ユアン、お願い、聞いて! ユアン!﹂
﹁きこえない! きこえないったら!﹂
﹁ユアン、お願い!﹂
ユアンはぶんぶんと首を振って私を突き飛ばした。蒙古斑がまた
増えた予感がする。
﹁うそつき!﹂
﹁嘘ではないよ!﹂
﹁ママはママだもん!﹂
﹁ママはママだというのはママで正しいくて、私をママと呼びたい
のであればそれはそれで別段構いはしないけれど、私はママではな
いよ!?﹂
やっぱり無理だ。私には、相手を説得できる上手な言葉選びなん
てできない。自分でも何を言ってるのか分からないという体たらく
なのに、それを相手に納得させるなんてどうすればいいのだ。
﹁どうして!? どうしてそんなこと言うの!? ママがなに言っ
てるのかわからない!﹂
﹁私も分からない!﹂
﹁どうして!?﹂
﹁それは私の言語能力が大変多大に残念であるから!﹂
ごめん、私いま会話になってるのかどうかすら分からない! 馬
鹿を焦らせるとこうなる! これだから馬鹿は困る!
﹁もういい! みんなだいっきらい! みんなうそつきだ! みん
なきらい! あっちいって! ユリン、ユリンに会いたい⋮⋮ユリ
ン、どこぉ⋮⋮﹂
784
打ち付けた腰を押さえて顔を上げると、自分の服の裾を両手で握
り締めたユアンが、目にいっぱい涙を溜めて私を見下ろしていた。
﹁ママは、ユアンのことが、き、きらっ⋮⋮きらい、だから、そん
なこと言うんだ!﹂
﹁大好きよ!﹂
他の何を間違えてもそれは間違えないよ! いや、大好物って言
ったことはあるけど!
反射的に返した言葉に、ユアンはぐしゃりと顔を歪めた。
﹁ほら、きらいって言った! ユアンといっしょにいたくないから、
きらいって! ⋮⋮⋮⋮⋮⋮だいすき?﹂
﹁大好きだす!﹂
大事な場所で噛んだ。ぽかんとした大きな瞳からぽろりと零れ落
ちた涙に狼狽えて、おろおろしながら扉に助けを求める。味方はそ
の隙間から、頑張れの口ぱくを送ってくれた。例え姿形はなくとも、
心が通じ合えていればそれはとても心強い援軍となる。そして、皆
の気持ちは私に届いたよ。つまり、援軍は出せない孤軍奮闘せよと
いうことだね! 目を逸らしたアリスちゃんには後で頬っぺたみょ
ーんをやり返すと決めた。
呆然とだいすきと繰り返したユアンは、ぺたりと座り込んだ。
﹁だいすき?﹂
﹁だ、だいすき!﹂
﹁だいすき? ママが、ユアンを、すき?﹂
呆然と繰り返すユアンから拒絶の気配が薄まった隙に、慌てて畳
み掛ける。
﹁た、多大に大好き! 凄まじく大好き! 盛大に大好き! 怒涛
の如く大好き! えーと⋮⋮膨大に大好き! おびただしい数に大
好き! 極太に大好き! 猛烈、痛烈、激烈に大好き︱︱!﹂
785
知っている単語を片っ端から使って愛を叫ぶ。人はこれを馬鹿の
一つ覚えという。ごり押しともいう。
どうだろう、伝わっただろうか。どきどきしながらじっと見つめ
ていたユアンが、ぽつりと言った。
﹁⋮⋮⋮⋮どのくらい?﹂
﹁こ、このくらい!﹂
両手をいっぱいに広げたら、肩がごきっといった。痛い。
﹁⋮⋮⋮⋮ユアンは、もっとすきだよ。このおへやくらい、大すき
だもん﹂
﹁わ、私はカイリさんのお屋敷ほどの規模で大好きだよ!﹂
﹁ユアンはブルドゥスくらい大すきだもん!﹂
﹁私は海ほどの大好き!﹂
﹁ずるい! ユアンはお空くらい大すき!﹂
﹁私はチキュウくらい大好き! ウチュウも含めるして、ギンガケ
イ全部より大好き! ムリョウタイスウより上で大好き︱︱!﹂
どうだ! これ以上はないだろう! 私はやりきった笑顔を浮かべた。でも、ちょっと大人げなかった
なと反省しかけて、はたと気づく。私は別にユアンと競っていたわ
けではないし、ましてや負かせたかったわけでは断じてない。
また泣かせてしまっただろうかと、恐る恐るその表情を窺う。
﹁⋮⋮チキュウってなに? おれ、しらない﹂
憮然とした顔でユアンはそっぽを向いた。久しく見ていない表情
に、今度は私がぽかんとなる。そしていま、彼は自分を何と言った?
﹁おれ⋮⋮﹂
﹁ねえ、ママ、俺、おなか減った!﹂
あ、そこはまだママなんですね。
慌ててアマリアさんに頼んで食事を持ってきてもらった。食事は
船内で出された物とは違い、少々スパイス感はあったけれど、グラ
786
ースやブルドゥスで食べ慣れた料理だ。
それらを口に運んで舌鼓を打ちながら、ちらりとユアンを見る。
黙々と一口サイズのお肉を食べていたユアンと目が合った。
﹁なに?﹂
﹁別段何も不都合はございませんよ!﹂
﹁変なママ﹂
おかしそうに笑うユアンに、ふへへと笑い返す。ごめん、変なの
はいつもです。
﹁ママ、これおいしいよ﹂
﹁どれ?﹂
﹁これ、はい!﹂
フォークに刺してこっちに向けられた野菜らしきものを食べる。
アリスがはっと手を止めた。
﹁待て! それは!﹂
はい、あーんしてもらった照れくささを味わう余裕は、私にはな
かった。
﹁にっ⋮⋮!﹂
がい!
ちょっと苦いとかそんなレベルじゃない。鳥肌立ちそうなほど苦
い! 舌が痺れそうなくらい苦い!
自分のお皿から私が食べたものを食べたルーナの眉間がぐっと寄
った。苦いのがわりと平気なルーナでもこうなる物体Xは、今も私
の口の中で泳いでいる。飲み込めない。
ルーナは、片手で自分の口元を押さえたまま、ずいっと水の入っ
たコップを渡してくれた。お礼を言う余裕もなく一気飲みする。
﹁ママ、ひっかかった!﹂
悪戯が成功した子どもみたいな顔で、というより、悪戯が成功し
た子どもそのもののユアンは、楽しそうに私を指さして笑った。
787
はしゃぎ疲れたのかまっさきにうとうとし始めたユアンを寝かせ
て、そっとベッドから離れる。
衝立を挟んだ部屋の反対側は灯りを絞っている。ルーナとアリス
がいるそっち側に移動して、ようやく一息つく。
部屋割りは、ない。全員同じ部屋だ。ユアンは私と同室じゃない
と嫌がるのは変わらなかったし、もしもまたパニックを起こすと私
一人じゃ止められない。じゃあ、もう一人アリスかルーナが同室に
という話し合いの結果、四人セットになった。なんかもう、雑魚寝
も今更な雰囲気だから、ベッドがあるだけありがたい。
用意された寝巻に着替えたルーナ達は、ゆったりとした上着を羽
織っている。私は大きなストールだった。
﹁寝たか?﹂
お茶と簡単に摘まめる夜食が乗ったテーブルに座っていた二人に
頷く。座ったまま片手で椅子を引いてくれたアリスにお礼を言って、
私も座る。
﹁寝た偽装が多くて、少々大変だった。子守唄は好きのようだから、
歌う期間は大人しかったけども﹂
寝たと思ったら、だまされたーと目を開けるユアンに両手で足り
ないほど騙された。いつもは一緒にベッドに入って子守唄を唄った
ら、わりとすぐに寝入ってくれていたのでちょっとびっくりだ。
﹁子どもは親の愛情を試そうと悪戯を仕掛けることがあるそうだな﹂
﹁後は反抗期だが⋮⋮あれは反抗期か? 自我の芽生えのほうか?﹂
驚いた私に、二人はすっと静かに何かを持ち上げてみせた。
﹁はじめての育児﹂
﹁新米パパと新米ママのための一冊﹂
ユアンを起こさないように絞られた灯りで影が落ちた顔、低めら
れた声音。ホラーな雰囲気で読み上げられた本のタイトルは、今の
788
私達にとても大切なものだった。でも、雰囲気は台無しです。
本はアマリアさんが用意してくれた物らしい。他にも﹃子育て夫
婦にこれ一冊!﹄とか﹃子どもの心はここで分かる﹄﹃親はなろう
とするのではない、なっているものだ﹄などなど、大量に積まれて
いた。
黙々と読みふけっていた騎士二人は、育児に協力的ないいお父さ
んになるだろう。でも、目は悪くなりそうだ。
お茶が入ったカップを静かに当て、三人でお疲れの乾杯をして人
心地つく。子どもの頃に、夜中に目が覚めてリビングを覗けば、こ
うやってお酒を飲んでいる両親を見たことがあった。もう寝なさい
と言われる側ではなくなったんだなぁと感慨深いような、あの日常
のありふれた一角では決してない状況だなぁと切ないような、奇妙
な気分に陥る。
﹁ユアンはきっと⋮⋮子供時代をやり直しているんだろうな﹂
ぱらぱらと捲っていた本を閉じたアリスは、静かに言った。
﹁⋮⋮⋮⋮私でやり直して、宜しいのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それは全く以って良くはないが﹂
ですよね!
﹁まあ、悪くもないだろう﹂
どっち!
本を並べて三人で育児会議をする。そして、これまで通りいこう
と特に身のない結論となった。
ふと、ルーナと目が合った。特に意味もなくにへらと笑うと、ふ
っと目尻を細めて笑ってくれて嬉しくなる。でも、すぐに考えるよ
うに伏せられてちょっと寂しい。
曲げた指を唇に当てて、何かを言うのを躊躇うような仕草に首を
789
傾げる。とりあえず、ルーナの言葉が纏まるまで待つ。
﹁お前は⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁俺の、何が好きだったんだ﹂
唐突な質問に瞬きをする。
﹁ルーナこそ、何故にして私を好きとなってくれたのか、摩訶不思
議よ﹂
驚いて、思わず質問に質問で返してしまう。はぐらかす意図は全
くなかったので慌てて弁解しようとした私に、ルーナはえ? と不
思議そうな声を上げた。
﹁可愛いからだろう?﹂
﹁え!?﹂
﹁え!?﹂
私とアリスの声が被る。
今日はいろいろあったけれど、一番驚くことが最後にやってくる
とは思わなかった。
﹁⋮⋮思い出さないままの方がお互いの為になると思ったのは、俺
の所為だけじゃないと思うぞ﹂
驚愕に慄く私達を交互に見たルーナは、ちょっと憮然とした顔を
していた。
790
58.神様、かしゃかしゃ系は小さくても苦手です
人は驚いたときにどんな声を上げるだろうか。
あ! ひぃ! きゃあ!
色々あると思う。そんなの人それぞれだし、状況もあるだろうし、
喉の調子だって大事だ。
﹁ママ、これあげる!﹂
﹁あひあ!?﹂
満開笑顔のユアンの手から飛び出してきた、コオロギみたいな虫
を丁寧に受け取ってしまった私は、どんなに理論武装を固めても擁
護しきれない悲鳴を上げた。
﹁ママ、ひっかかった!﹂
無邪気に笑うユアンに、頬っぺたみょーんの罰を下せない。だっ
て、私の手の中にはまだ奴がいる。両手で包み込んだコオロギみた
いな虫を誰かにどうにかして頂きたい!
子どもの頃はバッタとかは平気だった系の虫だけど、大きくなる
と足のかしゃかしゃした動きが妙に苦手だ。あの頃は宝物に見えた
セミの抜け殻を大好きなお母さんに渡したくて、大量に集めた。あ
りがとうと言った母の笑顔は引き攣っていたような気がする。誠に
申し訳ございませんでした!
掌の上でしゃかしゃかとした感触をプレゼントしてくれる虫を放
り出すことも出来ない。落とした瞬間こっちに向けて飛んできたら、
全てをかなぐり捨てて叫ぶ自信がある。
﹁アリスちゃん! 贈答品です!﹂
﹁要らん﹂
﹁そう仰らず!﹂
791
﹁素直に助けてと言えんのか、貴様は!﹂
手の中からむんずと掴み上げた虫を遠くに放り投げたアリスは、
その手で私の頬っぺたを引っ張った。是非とも洗ってください。
袖で頬っぺたを擦りながら、ユアンを向く。
﹁ユアン! 生物は禁止と申し渡してるよ!?﹂
﹁ごめんなさーい!﹂
けらけら笑うユアンは全く反省していないのが分かる。
今まで大変大人しくいい子だったユアンは、今や物凄いいたずら
小僧だ。
三人で子育て勉強会をした翌朝、目が覚めたら全員の頭が細かい
三つ編みに占領されていたのが始まりだった。誰かに解いてもらっ
た方が早かったので、三人で円陣を組んで解いていると、寂しくな
ったユアンが突入してきたりした。三つ編みパーマ頭はその日の昼
過ぎごろまで続いた。
﹁生き物は禁止と重ねて通達するよ!?﹂
﹁はぁい!﹂
あ、これ駄目だ。絶対次も虫だ。
満開の笑顔で手を振って虫を探すユアンは、大変大人しいいい子
ではなくなったけれど、大変かわいい子には変わりはなかった。悪
戯しても大丈夫、嫌われたり捨てられたりしないという安心感が齎
した結果だと思えばよい変化なのだろう。しかし、偶にちらりと顔
色を確認する視線を向けてくるので強く叱るに叱れない。
私達がいるのは光の届かない地底ではない。太陽がさんさんと降
り注ぐ少し開けた場所だ。草もあるし土もある。でも、野原かと言
われると悩む。何故ならここは切り立った崖の途中なのだ。ぽっこ
り開いた空洞なので、外から見ようとすると飛行機でもないと無理
である。この崖には、こういう穴ぽこスペースが幾つかあるらしい。
ルーヴァルの前の国は本当に凄い技術を持っていたようで、色々
792
くり抜いて、自然の中に居住空間を確保していた。誰だって、岩に
しか見えない崖の中に階段や部屋があるなんて思わない。こんな凄
いことができる国がどうして滅んだのだろうと不思議に思っていた
私に、アマリアさんは揃えた指で遠くにそびえる大きな山を示した。
﹁嘗てここにあった国は、あの山を神の山として崇めていたそうで
す。ですので、その麓に神殿としてここを作ったと言われています﹂
﹁神の山﹂
確かに、立派で雄大で神々しい。素晴らしい山だ、神の山と呼ば
れるのも頷ける。正直、他の山とどう違うのか全く分からないけれ
ど、言われてみれば偉大に見えてきた。
﹁この神殿、半分以上が埋もれています﹂
﹁何故にして?﹂
﹁あれが、火の山だからです﹂
[火山!]
﹁カザン?﹂
まさかの火山だった。成程、道理で広いお風呂場のお湯が全然冷
めないと思った。温泉だったのか。お肌つるつるになってきたのも
それが理由だったら嬉しい。
﹁火の山からは火の水が噴き出すのですが、その前兆として大地が
揺れたりもします﹂
はい、知っています。地震大国出身です。火山いっぱい温泉いっ
ぱいです。
﹁大地が揺れれば、人々は神に祈る為に神殿に篭ったそうです﹂
滅びた理由がなんとなく察せてしまった。噴火する山の麓に篭っ
てしまったのだろう。
とりあえず、埋もれたと言われる部分にはいかないほうが賢明だ。
何百年も前の話だそうだけど、ご冥福をお祈り申し上げるから幽霊
になって出てこないでほしいと切に願う。⋮⋮素朴な疑問だけれど、
こっちの世界の幽霊に南無阿弥陀仏は効くのだろうか。般若心経と
かはどうだろう。ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー。そこ
793
しか知らないはんにゃーしんぎょー。駄目だ。日本の幽霊にも効か
ない気しかしない。
効き目皆無感満載の般若心経を必死に思い出しながら、ユアンを
見る。しゃがみこんで草を掻き分けるユアンの隣にいる身なりの良
い少年が何やら耳打ちしていた。二人のいたずらっ子の目がこっち
を向いて、にまぁと笑う。何やら素晴らしいいたずらを思いついた
ようだ。そして、熱心に土を穿り返し始めたので、やっぱり次も虫
なのだろうなと想像がつく。ミミズだろうか。ミミズならまだ⋮⋮
なんとか⋮⋮。かしゃかしゃするのが一番苦手なので、うにょうに
ょなら⋮⋮たぶん⋮⋮なんとか⋮⋮おそらく⋮⋮願わくば⋮⋮。
﹁ユアン、この石掘りやすいからやる﹂
﹁ありがとう、ミヴァエラ﹂
身なりの良い少年は、自分が使っていた石をユアンに渡した。そ
れを眺めながらしみじみ思う。
﹁⋮⋮⋮⋮王子様が石で地面を掘るのは宜しいのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮良くはないだろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮良くはないんだよ。聞いてはくださらないだけで﹂
さめざめと泣くのはロジウさんだ。ちなみに、アマリアさんのお
兄さんだったりする。世間って狭い。代々ルーヴァル王家に仕えて
いるお家なのだそうだ。そして、彼らがお仕えしている王子様は、
現在地面にしゃがみ込んでミミズ探しに精を出している。
お風呂場騒動があった次の日、兄王子様と一緒に謝罪にきてくれ
たミヴァエラ王子とユアンは仲直りし、今やいたずら仲間だ。
それを眺めながら、ふむと顎に手を当てた青年は、現在ルーヴァ
ル王となった兄王子ラヴァエル様だ。ラヴァエル様は、長い金髪に
一見美女と見紛うほどの美貌である。まるで絵本に出てくる王子様
のように、少女の夢を形にしたといっても過言ではない王子様だ。
ラヴァエル様は、麗しい顔に豪快な笑顔を浮かべた。
794
﹁はっはっはっ! いいじゃないか! 子どもは土の子だ!﹂
﹁全く良くないですよ! 兄上なんですから王子から仰って下さい
よ!﹂
ただし、中身はティエン寄りだったりする。黙っていたら目が潰
れると叫びたくなるほどきらきらしているのに、この親しみやすさ
は凄い。
﹁はっはっはっ! どれ、私も混ざってこよう! ロジウ、良い石
を探せ!﹂
﹁やめてくださいよ!? 国王がマント引きずって虫探しとか、親
父が生きてたら俺が殺されますよ!﹂
﹁はっはっはっ! 気になるようなら初代王と話でもしていればい
いさ!﹂
﹁それが一体全体何の解決になると!?﹂
片手を上げて虫探しに加わった国王様を、ロジウさんが半べそで
追いかけていった。親しみやすいにも程がある国王様である。何で
も、彼等は元々ブルドゥスとグラースの王族ではないらしく、偉そ
うにするのも変だろうという心情らしい。
そしてなんと、アリスちゃんが初代の王様に似ているらしいのだ。
おかげさまで、身元は結構すんなり信用してもらえた。いいのか悪
いのかは分からないけれど。
ルーヴァルが出来たのは、ブルドゥスとグラースの戦争を忌避し
た人達が、今よりも航海技術がないのを承知の上で海に出たのが最
初だと言う。貴族も平民もなく、志同じくして船に乗り込む人達を
見捨てられなかったのがアリスちゃんの御先祖様だ。新天地までの
護衛もかねて国を出たアリスちゃんの御先祖様は、船長みたいな感
じで皆を纏めていたらしい。そして、そのまま願われて初代の王様
になったそうだ。彼には子どもがいなかったのと、元々王族ではな
いのだからと引退する際、後任を頼まれたラヴァエル様の御先祖様
795
が後を継ぎ、今に至るそうだ。
ラヴァエル様は、民が望み、その相手が自分達より国を想い、導
けるのなら喜んでこの座を退くと笑っていた。けれど、それから三
百年間、彼らが王様であり続けたのだから、きっと慕われているの
だろう。
﹁ほら、大きいのを見つけたぞ。ユアン、お前にあげよう﹂
﹁ありがとう! ママ︱︱!﹂
何てことをしてくれたのでしょう。慕われている王様は、私に回
ってくる巨大ミミズを掘り当ててくださった。それを両手で受け取
ったユアンが、満面の笑顔でこっちに向かってくる。
﹁これあげる︱︱!﹂
﹁はぁ︱︱いっ!﹂
私は心の中で涙を散らしながら両手を出した。もうやけくそだ、
なんでもかんでもどんとこい。ユアンの笑顔が可愛いのを心の支え
に頑張ろう。ミミズなら耐えられる!
根性で広げた私の掌にぽとりと落とされたのは、まさかの巨大な
カナブン系の何かだった。
﹁あべあ!?﹂
﹁ママ、ひっかかった︱︱!﹂
きゃらきゃら笑って次なる獲物を探しに行ったユアンの背中を見
送ったアリスは、ため息をつきながらカナブン系をキャッチ&リリ
ースした。
こっちに飛んできた。
薬の相談もあり、診察を受けているルーナを待っている間に日向
ぼっことしゃれ込むのが晴れの日の過ごし方だ。
ぽかぽかした日を浴びながら、ユアンのいたずらに奇声を上げて
いる私の背中を誰かが引っ張った。
796
﹁こんなところにいたのね!﹂
振り向くと、たっぷりとした髪を高い位置に結い上げた女の子が
頬を膨らませている。彼女はアマリアさん達の妹、アニタだ。さら
さらした髪も綺麗だけど、アニタみたいにたっぷりとした髪も可愛
い。
弟王子様よりちょっと年上のアニタは、スカートをぎゅっと握っ
て頬を膨らませた。
﹁あたくしを置いていくなんてひどいわ!﹂
﹁アニタは勉学中の時間だと伺っていたよ?﹂
﹁皆は自由時間なのに、あたくしだけ勉強というのが気にくわなく
ってよ!﹂
気持ちは分かるけど、サボリはよくないと思う。気持ちはよく分
かる。それはもう分かるけれど。
﹁アニタ﹂
淡々と名を呼んだアマリアさんがアニタの首根っこを摘まみ上げ
た。
﹁姉様ばかりずるいですわ! あたくしだって愛しの殿方と逢瀬を
重ねたいのに!﹂
頬を膨らませたアニタは、器用にアマリアさんの手から脱出して
ユアンの元に駈け出していく。気づいたロジウさんが慌てて片手で
制す。
﹁アニタ! 王族相手に走り寄る馬鹿がいるか!﹂
﹁王様、王子様、ごきげんよう!﹂
アニタはぴたりと止まって、スカートの端を摘まんですいっと頭
を下げた。優雅というよりは、体育会系の部活を思い出す勢いだ。
﹁はっはっはっ! アニタはいつも元気だなぁ﹂
王様からOKが出たので、アニタはふんっと鼻息荒くしてユアン
の横にしゃがみ込んだ。
﹁ユアン様、ごきげんよう!﹂
﹁こんにちは?﹂
797
﹁アニタ、俺は?﹂
﹁王子様には先程ごあいさつ申し上げたわ﹂
しょんぼりしたミヴァエラ王子様は、どうやらアニタのことがお
好きらしい。対するアニタは、ユアンに一目惚れなんだそうだ。大
人の身体の中にある幼く純粋な子どもの心に惹かれたやらかっこい
いやら可愛いやら、色んな説明を受けた。けれど私は、当のユアン
が背後からおんぶをねだってきて潰されていたので全部は聞けなか
ったし、覚えていない。ごめんね、アニタ。そしてどうしよう、こ
の三角関係。
﹁ユアン様! 今日こそ答えて頂くわよ!﹂
﹁何を?﹂
﹁ユアン様が一番好きな女の子はだれ!?﹂
﹁ママ﹂
一秒も考えずにさらりと返った答えに、射殺さんばかりの視線が
私に突き刺さる。女の子って言ったのにとぶつぶつ言われても困り
ます。女の子、お姉さん、おばさん、おばあさんの正確な区分なん
て私も知らない。ユアンのおばちゃんって呼んでいいから睨まない
で! おばちゃん悲しい!
私をぎりりと睨んでいたアニタは、思い直したようにたっぷりと
した髪を払った。
﹁⋮⋮いいのよ。殿方はいつまで経ってもママに弱いって、あたく
し知っていてよ!﹂
﹁え? ちょっと待ってアニタ。その括りに兄ちゃん入ってる?﹂
﹁いまは兄様なんてどうでもよくってよ!﹂
﹁え︱︱⋮⋮﹂
しょんぼりしたロジウさんに背を向けたアニタは、両手をぎゅっ
と握りしめてユアンに詰め寄る。妹は強い。
﹁ユアン様! おば様以外で一番好きな女の子はだれ!?﹂
﹁リリィ﹂
これまた間髪入れずに返ってきた答えにアニタは真顔になった。
798
無言のままユアンに背を向けて戻ってくるその姿は、まるで戦地に
向かう武将の如き気迫だ。それを待ち受ける私は敗戦の将である。
﹁だれよそれぇ!﹂
何故私に仰るのか。妹がいなかった私には分かりかねるけれど、
私の相手をしてくれていた姉達はこんな理不尽にも耐えてくれてい
たのだろう。ごめんね、お姉ちゃん。彼女達が私の相手をしてくれ
ていたように、私もアニタに答えよう!
﹁リリィは可愛いよ!﹂
﹁けんか売っているの!? 買ってさしあげてよ!? それと、そ
のリリィって女の情報よこしなさい!﹂
目線を合せようと屈んだおかげで、掴みやすくなった胸倉をがっ
くんがっくん揺らされる。女の子とのスキンシップって激しい。
﹁リリィは可愛くて、徒歩でも可愛くて、小さく走るしても可愛く
て、座っていても可愛くて⋮⋮あ! 笑顔も可愛い!﹂
﹁何一つ情報増えていなくってよ!?﹂
そうは仰いましても、事実なのだから仕方ない。リリィを説明し
ろと言われたら、可愛いなくして表現できるはずがない。
﹁リ、リリィは、み、み、み、みっつあみでしでしでし﹂
がくがく私を揺さぶっていた小さな手は、情報を絞り出すや否や
何の未練もなく離れた。私の身体は勢いが残ったまま地面に倒れ込
んだけど捨て置かれた。寂しい。そして女の子強い。
﹁姉様! あたくしの髪を三つ編みに結ってくださいませ!﹂
﹁お客様の胸倉を掴まない﹂
﹁姉様はあたくしの首根っこを掴んでいますわよ!?﹂
﹁姉はいいのです﹂
﹁不公平ではなくって!?﹂
﹁ありません﹂
姉も強かった。
確かに、思い返せば姉に勝てた試しがない。そもそも、あれは勝
負だったのか。姉達はよく﹃あんたが馬鹿で助かったわ⋮⋮﹄と言
799
っていた。お姉ちゃん達は助かったのか! よかった! 褒められ
た! そうご満悦だった私の反応は、もしかしたらおかしかったの
かもしれないと、何故かいま思った。私も大人になったようだ。
母に首筋を噛まれた動物みたいに大人しくなったと思ったアニタ
は、アマリアさんの手が緩むや否や、素早い動作でその手を逃れた。
﹁大体、おば様が決まった相手がいないから、子どもが親離れしな
いのよ!﹂
﹁面目次第もございません!﹂
とんだとばっちりである。でも、反射的に謝ってしまうこの気迫。
﹁前に言っていた好きな人とはどうなったの?﹂
﹁何一つ進退ございません﹂
﹁ああ、もう! おば様が独り身じゃなくなったらきっと寂しがる
ユアン様を、あたくしが慰めて差し上げるんだから早くしてよ! もう誰でもいいから!﹂
﹁私が宜しくはないでよ!?﹂
﹁兄様空いてましてよ!?﹂
﹁ロジウさんの取り扱いが非常事態に雑!﹂
私を押し付けられるロジウさんが哀れでならない。そして恋する
少女が止まらない。どうしよう。まだ年齢一桁なのに、私よりよっ
ぽど見事に恋する女だ。そして、目的の為なら手段を選ばない子ど
もらしい無茶ぶりも止まらない。
﹁アニタ! お前はいつもどこでそういうの覚えてくるんだよ!﹂
﹁炊事場のお姉様達のお手伝い中ですわ!﹂
﹁うっ⋮⋮そうか、あそこか⋮⋮俺には手が出せないっ⋮⋮⋮⋮!﹂
女の戦場には入れないロジウさんは、両手で顔を覆って項垂れて
しまった。アニタはまだ小さいのにお手伝いをしっかりするいい子
である。左右を王子様に挟まれて、せっせと虫探しているユアンも
お手伝いはしてくれるから、いい子だ。でも、虫は要らない。
800
そして、炊事場のお姉様達の平均年齢は四十六歳だと聞いたのだ
けど、アニタの中でおばさんとお姉さんの基準はどこにあるのだろ
う。
次の虫攻撃へ心の準備をしている私の裾をアニタが引っ張る。
﹁おば様、あれ読んだ?﹂
﹁読書しました﹂
﹁それでどうしてうまくいかないのかしら﹂
アニタは心底不思議そうに首を傾げた。
あれとは、アニタが貸してくれた恋する乙女のバイブル。その名
を﹃騎士ルーナと黒曜姫﹄。⋮⋮まさか、海を渡っているとは思わ
なかった。挿絵に描かれている姿とは似ても似つかないおかげで、
アニタは私が黒曜とは考えもしないらしい。まあ確かに、実物の私
をモデルに話が書かれるなら、タイトルは﹃二度見の黒曜﹄だろう。
﹁そういえば、あたくし、おば様の好きな殿方とお会いしたことが
ないわ。仕方がないわね。今日はその方を見て、あたくしも一緒に
作戦を考えてあげてよ﹂
憂いをおびた顔で片手を頬に当て、切なげに息を吐き、大人顔負
けの雰囲気を醸し出したアニタの向こうにお目当ての人物を発見す
る。診察が終わったのだ。今日は早くてよかったね。
﹁ルーナ︱︱!﹂
突然叫んで手を振った私に、目の前にいたアニタはびくっとなっ
た。驚かせてごめんなさい。うっかり喜びが溢れだしました。
片手を軽く上げて返事してくれたことが嬉しくて、笑顔も一緒に
溢れだす。その様子に現れたのが私の好きな人だと気づいたアニタ
は、興味津々の顔で振り向いた。
そして、固まった。
﹁無謀じゃなくって!?﹂
801
﹁やはり!?﹂
少女の目から見ても、私がルーナを好きなのは無謀の領域に入る
ようだ。だけどアニタさん。真実、私とルーナは恋人同士だったん
です。
事実は小説より奇なり! と言いたいところだけど、借りた本の
中では、黒曜姫がウインクだけで男の人をよろめかせたり、気絶さ
せたりしていたので、こっちも十分奇妙だよなぁと思って結局言え
なかった。
802
59.神様、ちょっと開けゴマでした
ルーナと入れ替わりに、アリスちゃんと王様達は遺跡の中に戻っ
ていった。アリスちゃんはブルドゥス出身であり、戦経験がある騎
士として色んな話し合いに参加している。けれど、どうやらどっち
かは必ず私達いるようにしているらしく、ルーナがいないときはア
リスちゃんが、アリスちゃんがいないときはルーナが絶対傍にいる
のだ。結果、アリスちゃんに相談があったらしい王様もここで土い
じりである。いいのかなぁと思うけれど、その辺りの判断は私の心
配など無用だろう。
﹁ママ︱︱!﹂
﹁はぁ︱︱い!﹂
少し離れた場所からユアンが手を振ってくれた。振りかえしてい
る間に、アニタがユアンを引っ張ってもっと離れていく。落ち着い
てルーナと話せるようにと気を使ってくれるアニタさんだけど、そ
の時にいつも﹁後は若いお二人で﹂と真顔で言われる。彼女と同じ
年だと喜んだあれは幻だったというのか。
そしてユアン。振ってくれていた反対側の手から、バッタらしき
何かが飛んで行ったのを見てしまったのだけど、言い訳はあるかな
! 後、そのバッタの進行方向がこっちなのが凄く気になる!
バッタの行方を気にしている私の横で、ルーナは何かを考える顔
をしていた。
﹁ユアンが子ども時代をやり直していると過程して﹂
﹁うん?﹂
﹁⋮⋮次は反抗期か?﹂
803
﹁え!?﹂
ユアンが盗んだバイクで走り出してしまうその日がきたら、私の
することは決まっている。まずは、そのバイクをどこで手に入れた
か詰問することから始めるべきだろう。⋮⋮いや、いくらなんでも
バイクはないな。だって免許がない。ユアンはエンジンもかけられ
ないだろう。じゃあ馬車か。盗んだ馬車で走り出す十五のユアン。
ズボンをずり下げて﹁うるせぇんだよ、ばばあ!﹂とか言ってくる
のだろうか。⋮⋮どうしよう。いくら想像しても﹁ママ、うるさい
!﹂しか思い浮かばない。
そして、私がうるさいのはただの事実である。
ルーヴァルの人達は、現在こうやって隠れながらもガリザザ軍に
攻め入って拠点を奪還しているという。特に本拠地であるここの隊
は、ツバキから得た情報を元に既に十以上の拠点を奪還している。
ガリザザは皇位継承権を持っている人間が死ねば、そのまま数字
が繰り上がるらしく、現在第四皇子であるディナストは元十七皇子
だったというのだからその恐ろしさが分かる。
ツバキは元々十三皇女に仕えていたのだそうだ。その十三皇女は、
ディナストが真っ先に攻め込んだ地方を統治していた。そして弟皇
子であるディナストに攻め入られ、死んだ。 十三皇女は、ルーナが飲まされた丸薬の研究をしていた人だとい
う。あれは元々ガリザザの皇族に伝わる秘薬だったのだそうだ。ツ
バキがあれを使うのはそういった繋がりがあったからだろうか。で
も、解毒薬を作っていたという皇女様に仕えていたのに、それをル
ーナに使った。皇女様がいなくなった現在、研究を続けられなくな
ったというのに、それを誰よりも分かっていて、ルーナに。
ツバキとはあれ以来顔を合わせていない。色々と聞かなければい
けないことはあるけれど、アリスは私とツバキを頑なに会わそうと
804
しない。
あの石のことを、ルーヴァルの人達には話していないようだ。な
らばいまどこにあるかという問いに対し、私に話すという返答だけ
が返ってきたという。
それでも、ツバキには会うなと、アリスは言う。私が怒っても、
泣いても、ユアンが酷く動揺すると言うのだ。
だから私は一所懸命ポーカーフェイスを練習している。なのにア
リスちゃんは、私の渾身の無表情を気色が悪いと一言で切り捨てた。
ひどい。ならばと、にへらと笑ったら阿呆面と言われた。どうしろ
と。
完璧なポーカーフェイスができるようになるまで、私は別のこと
に精を出すことにした。当然、ルーナの記憶回復のお手伝いだ。ル
ーナは日本語を覚えていた。だから、二人の時はもっぱら日本語仕
様で記憶にちょっかいをかけている。
[丸薬は少量ずつ減らしてみる方針になった]
[うん]
[それはともかく夢がだな]
ともかくされていい部分ではないと思うけれど、せっかくルーナ
が話してくれているのであえてつっこまない。それにしても、ルー
ナの日本語はまったく支障が出ていない。動作だって、知識だって
不便していない。閉ざされてしまっているのは思い出だけなのだな
と、思い知る。でも、顔には出さないでへらりと笑う。私はポーカ
ーフェイスを極めたいい女になるのだ。
﹁あ、今日の夢はどんなのだった?]
普通に聞いたのに、ルーナは口籠った。
夢というのは、言葉通りルーナが見た夢の話だ。ルーナは最近よ
く夢を見るらしい。白黒なのに、ひどく鮮明な夢だと言う。夢の内
容を聞いた時驚いた。だって夢の中身を私は知っていたのだ。
805
ルーナが見ている夢は、昔あったことだった。つまり、過去だ。
だから私も知っている。
思い出を思い出せないのなら、覚えている私が記憶を刺激すれば
いい。ルーナが夢で見てくれているのなら、私の残念な説明だけじ
ゃなくて映像がついている。素晴らしい。
ルーナが夢を見た日はこうやって思い出を辿ってお喋りする。隊
長もティエンもイヴァルも登場して、ルーナも結構楽しそうだから
私も嬉しい。最初は、声は届くのに顔が見えなかった夢の中で、人
の顔が見え始めてからはもっと嬉しい。でも、私の顔はまだ見えな
いらしい。顔が見えず、白黒の世界の中でうるさい私の声。ルーナ
には心地よい眠りを提供したいのに、なんということでしょう。昔
も今も、私はうるさい。
今日のルーナは何やら口籠っている。どうしたのだろう。最初に
見た夢が、背中に虫を入れられて腹踊りしながら迫ってくる私だっ
た時と同じ反応だ。さあ、過去の私は何をやらかした!
他の誰かと何かがあった可能性も無きにしも非ずだけれど、どれ
だ、どのやらかしだと記憶の中を引っ掻き回す。凄腕収納術でも収
まりきらないくらいには、心当たりに満ち溢れている。
[⋮⋮⋮⋮カズキが]
[やっぱり私でしたね!]
可能性なんてなかった。百発百中で私の所為でした!
[周囲の連中が、故郷の家族の話で盛り上がっている最中にふらり
と席を外して倉庫に行ったんだ。追ったら、倉庫で蹲っていた]
[ん?]
[俺は、お前が泣いてるのかと思った]
そんなことあっただろうか。起きてたら目の周りががぴがぴだっ
たことはあったけど、自分の部屋以外で泣いたことはほとんどなか
ったはずだ。私が忘れてしまっているのか、今回は過去じゃなくて
ただの夢なのだろうか。
806
ちょっと考えていると、ルーナは何ともいえない顔をして私を見
ていた。
[近寄ったら、鬼気迫る顔と声で、樽に向かって開けゴマと連呼し
ていた]
[説明する権利を要求します!]
凄い覚えてる︱︱!
物凄い勢いで手を上げて発言の許可を請うた私を、ルーナは何と
も言えない目で見下ろした。
[⋮⋮⋮⋮ただの夢なのかと思った上で、そんな夢を見る俺の感性
を疑っていたのに、事実だったのか]
心当たりしかありません。そして悩ませてごめんね、ルーナ。ル
ーナの感性は正常です。
お酒を飲めない私にティエンは、食糧庫から林檎を取ってきて齧
ればいいと声をかけてくれた。けれど、この世界の樽は心を開いた
人間にしか蓋を開かないと言われて、成程、流石異世界と納得した
私の頭が悪いのだ。後、ティエンの悪戯心。
樽に心を開いてもらう言葉が思い浮かばず、扉を開くならこれし
かないと連呼したのが開けゴマだ。天岩戸風に踊ってみたりもした
けれど、そこは見られてなかったのは不幸中の幸いである。一人フ
ォークダンスに、ドジョウ掬い。結構楽しかった。
一所懸命説明して気づく。これは単に私が馬鹿であると言い募っ
ているだけではないかと。そうと気づいてしまった途端、勢いが削
がれる。いくら私でも、好きな人を前にして醜態を晒し、平然とし
ていられる訳がない。
そろりと顔を上げて様子を窺うと、ルーナはふっと笑った。それ
が嬉しくてふへっと笑い返す。平然とはしていられないけれど、醜
態とかどうでもいいくらい幸せだからまあいいや。
ルーナは私と目を合わせて、少し眩しそうに目を細めた。その胸
807
元辺りで、私の頭の影が揺れている。ごめん、ルーナから見たら逆
光ですね。
[ルーナ、あっち行こう。日陰のほう]
腰かけていた岩から立ち上がった私の手が掴まれた。ルーナは、
変わらず少し目を細めて私を見上げている。
﹁こんな顔をしているんだろうって、分かるんだ﹂
[え?]
急に言葉が戻って、頭が少し混乱する。
﹁見えないけど、カズキは多分、夢の中でもこんな顔をして笑って
いるんだろうなと分かるんだ。分かるのに、どうしてだろう。何故
か、見えそうになると、霧散する﹂
ゆっくりとルーナの言葉が続く。私の混乱に合わせたというより
は、自分でも掴めないものを形にしようとしているように見えた。
だって、口調がちょっと幼い。少し他人行儀な、ただただ騎士であ
るような喋り方じゃない。昔みたいなルーナの喋り方だ。
﹁夢の中で、お前が俺を呼ぶんだ。笑ってると分かる。分かるのに、
見えない。何故だろうな。見えないのに、分かるんだ。見ようとす
ると﹂
[目が、覚める?]
何でだろう。心臓がどくどくする。
ルーナに掴まれている腕から伝わりそうなくらい、心臓が早鐘み
たいだ。嬉しくて幸せな時のどきどきじゃない。浮かれて身体が熱
くなったりしない。どくどくと心臓は血液を送り出すのに、何かを
恐れるように冷え切っていく。
私の問いに頷いたルーナの視線がぶれる。逸らしたんじゃない。
その手は私の手を握り、その顔は私を向いて、この目は私を見上げ
ているのに、視線が合わない。
﹁思い、出せない﹂
私を呼ぶその声は、まるで迷子のようだった。
808
ルーナは頭がいい。記憶力だって抜群だ。日本語もちゃんと使え
るままだ。
なのに思い出せないものがある。香の呪いとは催眠術のようなも
のだろうと私は思っているのだけど、それにしても妙だと思ってい
た。
だって、あんなに何でもかんでも覚えているルーナだ。思い出と
しては思い出せなくても、場面場面を記憶として思い出せてもおか
しくない。現に、音や言葉は思い出せるのだ。夢という形であるに
せよ、ちゃんと、会話の内容までしっかりと思い出せる。隊長の顔
も、ティエンの顔も、イヴァルの顔も、言葉も、声も、思い出せる。
なのに、おかしいじゃないか。
どうして、私の顔だけ、見えないのだろう。
そんな、まるで、意図して忘れているかのように。
私の顔だけ。
私の、こと、だけ。
ぐしゃりと自分の顔が歪んだのが分かる。ぶれていた視線がはっ
と私を捉えた。
手を握っている方とは反対の手が、私の頬に触れる。
﹁ごめん。ごめん、カズキ。思い出す。絶対に思い出す。だから、
頼むからそんな顔⋮⋮⋮⋮﹂
そこまで早口で言い募ったルーナは、両手を放して自分の顔を覆
った。
﹁させているのは俺だな⋮⋮⋮⋮ごめん﹂
不安なのはルーナのほうなのに、謝らせてしまった。ごめん、ル
ーナ。ポーカーフェイスへたくそで本当にごめん。ちゃんとポーカ
ーフェイス練習するから、ちょっとだけ待って。すぐに鉄壁の仮面
809
を身に着けて、クールビューティーな女になってみせるから。
掌の付け根で唇の端をぐにぐにこね回す。ここだ。ここが強張る
からいけないんだ。ちょっと気を抜けばぽろりと零れそうになる言
葉も一緒に揉み砕く。
私が自分の顔をマッサージしている間、ルーナも自分の顔を覆っ
たまま動かなかった。
けれど、ぽつりと言葉が零れ落ちる。あまりに自然に零れ落ちた
その言葉が、自分の口から溢れだしたのかと思った。
﹁思い出したい﹂
思い出して。
叫びだしたい言葉を必死に飲み込む。思い出して思い出して思い
出して。お願いだから、思い出して、ルーナ。
言い募りたい。泣きついて、泣き喚いて、泣きじゃくりたい。
泣いていいって言ってくれたじゃない。泣いていいって、ルーナ
の隣で泣いていいって言ってくれたのに、今はルーナに抱きつく権
利すらない。
でも、言えない。言ってなるものかと奥歯を噛み締めるのも本心
だ。服の上から胸元を握りしめる。二本の首飾りが服の中で絡みつ
いている。
追い打ちかけたいんじゃない。追い詰めたいんじゃない。勝ちた
いんじゃない、負けたいんじゃない。
一緒にいたくて、笑ってほしくて、思い出してほしくて。
なのに、どうにもこうにも、難しい。どうしてだか、私はいつも
ルーナを苦しめる。
﹁思い出せそうなんだ。なのに、思い出そうとすると、何かが滑り
落ちていく⋮⋮何て言っているのかは分からないが、あの男の、声、
が﹂
そこまでは聞いていた。けれど、そこまで聞いた瞬間、私は身を
810
翻した。
﹁カズキ!?﹂
[聞いてくる! ルーナはユアンをお願い!]
一人じゃ遺跡の中を歩けないけれど、今ならまだアリス達に追い
つけるはずだ。
私は呼び止める声を無視して走る。予想通り、少し走ったらアリ
ス達の背中に追いつけた。この先はうねうねと枝分かれしている道
も、ここまでなら一本道なのもありがたい。
足音を響かせて走り込んできた私に驚いて振り返ったアリスの元
に、転がるように、というより、転んで辿りついた。
足元をさっと鼠らしきものが走り抜けたのがまずかった。そこが
急な階段だったのはもっとまずかった。結果、勢いのまま何回か前
転して、アリスの前に到達する。びっくりだ。
べたんと尻もちをついて座り込んだ私を、アリス達が見下ろす。
何が起こったか理解できなくてぽかんと座り込んだ私の頬を、ア
リスは両手でがしりと掴んだ。がっちり固定されて身動ぎ一つでき
ない。
﹁首は!? 折ってないな!?﹂
﹁ぶ、無事﹂
﹁たわけ!﹂
無事を告げるとチョップが降った。痛い
﹁このっ、たわけたわけたわけたわけたわけたわけ︱︱!﹂
﹁も、もう、もう、も、もう、も、も、申しわわわ、ごめごめごめ、
ごめ︱︱!﹂
謝ろうとしたけれど、何発も連続で繰り出されるチョップでラッ
プみたいになった。ごめんYO︱とかやっている余裕はない。
打ち付けた痛みは驚きの後にやってくる。痛い個所はじわじわと
広がりをみせていくけれど、幸い大したことはなさそうだ。
﹁勘弁してくれよ⋮⋮﹂
すわ曲者かと、抜かれかけていたロジウさんの剣が静かにしまわ
811
れる。私にはロジウさんに謝る余裕もない。
﹁アリス!﹂
﹁なんだ!﹂
﹁付き合って!﹂
﹁どこへだ!﹂
﹁ツバキの元!﹂
ぴたりとアリスの動きが止まった。太陽の光が遠くなり、薄暗く
のち
なった中でも分かるほど、眉間に皺が寄ったのが見える。
﹁なに?﹂
﹁会議終了するまで待機している。その後、お願い、付き合って。
鉄仮面は未熟だけれど、お願い、アリス﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何かあったのか?﹂
﹁何事があったか分からないから、問い質す。ツバキがルーナに何
事を行ったか、問い質す!﹂
ツバキの目的とか、石のこととか、ムラカミさんのこととか、聞
かなきゃいけないことはたくさんある。けど、いま聞きたいことは
一つだけだ。
止められたら一人で行くつもりと見抜かれたのか、アリスは嘆息
して指を私の額に当てた。そのまま突かれると思いきや、まさかの
デコピンが叩きこまれる。痛い! 額を押さえて悶える私を見下ろしながら、アリスはふんっと鼻を
鳴らした。
﹁会議が終わるまで待っていろ。何なら、隣室で会議を聞いている
か?﹂
それはお断りしたい。絶対寝る。
両腕を使って全力でばってんを作ってお断り申し上げたら、ばっ
てんが完成するより早くチョップが繰り出された。騎士の凄技をこ
んなところで使わないで頂きたい。
﹁⋮⋮だが、まあ、私を呼びに来た点だけは評価してやる。たわけ﹂
評価されてもたわけである。でも、点だけであろうと評価しても
812
らえたので、勢いのまま一人で行かなくてよかった。ツバキがどこ
にいるのか知らないし、知っていても一人で辿りつけないけど、一
人で行かなくて本当によかった。
それらを口に出さない程度の分別はある。そっと心の内にしまっ
て顔を上げると、何故か半眼のアリスがいた。何故ばれた。
﹁たわけ!﹂
ついでとばかりにチョップの追加も頂いた。
痛かった。
813
60.神様、秘言が少々物騒です
アリスと並んで大きな絵を見上げる。ガリザザに国を奪われなが
らも、ルーヴァルの人達が必死に守った絵だ。その絵は、離れた場
所にある蝋燭のゆらゆらとした灯りに下から照らされていた。
その大事な絵を見上げながら、私達は同じ方向に首を傾ける。
﹁⋮⋮⋮⋮似ている?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮正直、自分ではそうは思わん﹂
同じタイミングで反対方向に首を傾けても、見えるものは変わら
ない。
﹁⋮⋮⋮⋮強引に例えるならば、目が似ているな気分が﹂
﹁⋮⋮⋮⋮目元は母上に似ているとよく言われるぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮金の髪の毛ですね!﹂
﹁正直に金髪しか合っていないと言え﹂
男性なのも合ってると思います。
私達が見上げているのは、ルーヴァル建国の王でアードルゲ御先
祖様の肖像画だ。
アリスちゃんに似ているということだったので、そのつもりで見
上げた先にマッチョがいた私の気持ちを誰か分かってほしい。筋肉
隆々の腕を丸出しにして豪快な笑顔を浮かべているこの人は、絶対
ティエン風味だ。アリスちゃんの御先祖様じゃなくてティエンの御
先祖様だと言われたほうが納得できた。ラヴァエル王子様は、彼の
血は受け継がずとも、気質を受け継いでしまったのだろう。
なんともいえない気持ちで、絵とアリスちゃんを交互に見ても事
814
実は変わらない。
﹁よくぞこの様で、アードルゲのアリスちゃんと納得して頂けたね﹂
﹁アードルゲの秘言がルーヴァルの王族に伝わっていたからな﹂
﹁ひごん﹂
知らない単語です。先生、教えてください。
びしりと片手を上げたら、ぐきりと曲げられた。何故。
アリスも自分の腕に首を傾げた。
﹁すまん。反射だ﹂
﹁ならば仕方あるまいね!﹂
﹁納得するな﹂
﹁どうすろと﹂
アリスはちょっと考えた。
﹁どうもするな﹂
﹁了解よ!﹂
きちんと返事をしたのに、アリスの目がお前馬鹿だなって言って
いる気がする。何故。
﹁秘言は、己がその家の者であるという証明で⋮⋮⋮⋮まあ、合言
葉とでも思っておけ。一応十三家が一つなんでな。色々あるんだ。
まさかルーヴァル王家にも伝えられているとは思わなかったが⋮⋮
まあ、構わんだろう﹂
﹁合言葉!﹂
何だかかっこいい。子どもの頃は秘密基地に憧れたものだ。段ボ
ールで作った秘密基地。合言葉は﹃山!﹄﹃川!﹄﹃虫刺され!﹄
である。合言葉はちっともかっこよくなかったし、秘密基地は翌日
降った雨で壊滅したけれど、いい思い出だ。ついでにいうと、秘密
基地には今でも憧れている。
﹁凄いね。どのような言葉であるのかなぁ﹂
﹁⋮⋮何だお前、知りたいのか?﹂
﹁え!? 教えてくれさるの!?﹂
﹁そんな状況になったら、ありとあらゆる意味でアードルゲが滅ぶ﹂
815
滅びの呪文!
なんということでしょう。アードルゲの秘言は、バがついてスで
終わるほどの威力があるらしい。
﹁存じ上げないのが最良の選択ね﹂
﹁そうだな﹂
そんな恐ろしい言葉、私じゃ管理しきれない。アリスもあっさり
頷いた。
﹁だからさっさとルーナとよりを戻せ﹂
滅びの呪文からなぜか突然発生した話題に、私はしっかり抉られ
た。
﹁戻すたいのはやまやまよ﹂
﹁だろうなぁ﹂
アリスは続き部屋との扉を開けた。そこは小部屋になっていて、
机とソファーがあるだけだ。会議室の隣は遠慮願いたかったけれど、
目の届く範囲にいろと言われたので仕方がない。この部屋はここし
か出入り口がないから、私が出入りしたら絶対アリスが気づく。
﹁お前はここで待っていろ﹂
﹁了解よ!﹂
﹁静かにしていろよ﹂
﹁大丈夫﹂
私はきりっとアリスを見上げる。
﹁仮眠を取るゆえ!﹂
﹁起、き、て、い、ろ!﹂
﹁起床時間は静かではないよ!﹂
﹁何でうるさいか寝てるかの選択しかないんだ、お前⋮⋮﹂
一人でいても騒がしい。それが私、須山一樹です!
呆れながら扉を閉めようとしたアリスの腕を掴む。
﹁アリス﹂
﹁何だ﹂
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思わず引きとめたけれど、言っていいのか分からない。
アリスはいつもこうやって会議に出ていた。会議の内容は、夜に
ユアンが眠ってから教えてもらっている。
馬鹿なことはつるつると流れ出るのに、言いたいことが出てこな
い私に、アリスはふっと笑う。
﹁たわけ﹂
そしてくらったデコピンに、仰け反って呻いている間に扉は閉ま
っていた。
締め切られた扉の向こうでは、数人の話し声が聞こえてきた辺り
から一気に人の気配が増えた。小窓もないので向こうの様子は分か
らない。映画とかだと、こういうところにマジックミラーがあるん
だよなぁと思いながら扉の前にしゃがみ込む。こうしていたら向こ
うの音が聞こえるのだ。ぺたりと扉に張り付いて体育座りする。
この向こうで行われているのは、これからを決める大事な話し合
いだ。うるさくするわけにはいかないから、とりあえずじっと聞い
ていることにした。こうして直接会議を聞くのを初めてだ。
知らない声が粛々と、時に激しく、国を取り戻そうとしている。
ディナストは、行方をくらませた私達を探すという名目で、遠方
の村や町まで焼こうとしているという、その隙に、その分手薄にな
った王都、城を取り戻すのだ。
バクダンが。命など惜しくはない。雨を待つ。国を。そんな時間
はない。守ろう。
いま、扉の向こうで歴史が動いていく。それを聞きながら、私は
膝頭に額を擦りつけた。
ああ、頭が良ければよかったなぁと、思う。ここで扉をばばーん
と開けて、私に素晴らしい考えがございますと言い放てるような頭
が欲しかった。誰も犠牲になりません、何も傷つきません、まるで
817
魔法のように皆の願いが叶う策がありますよと。
でも、そんな物はない。いくら考えても、何も思いつかない。
﹁城にいるのがヌアブロウならば、私が出ます。⋮⋮あの男を形作
ったのはブルドゥスだ。同じ国の人間が始末をつける﹂
凛としたアリスの声が聞こえる。揺るがない騎士としての声。
ああ、力でもいい。ここは私に任せろと言い放てる力。敵をばっ
たばったと放り投げ、皆を守れるような力があればいい。
でも、そんな物もない。
﹁グラースの騎士ルーナと共に、ブルドゥスの騎士である私が、必
ずや騎士と軍士の成れの果ての始末をつけると誓う。あれは、私達
が始末をつけるべき、戦災だ﹂
アリスは、今のルーナにヌアブロウの相手をさせたくないと頑張
ってくれたとロジウさんから聞いた。けれど、戦力としても士気の
為にも、ルーナに出てほしいというルーヴァル側の意見は覆られな
かったのだ。
記憶を自分の物として実感できていないルーナは、ヌアブロウに
私の処刑人として引っ張り出されたときにそれを断った。けれど今
回は違う。ルーナは戦うと言った。戦う理由があると言ったのがア
リスだったからだ。アリスの言を信じると、アリスがそう言うのな
ら、決して私利私欲の為じゃないと信じると笑った。
あの時アリスは、一瞬泣きそうな顔をして俯き、たわけと呟いた。
額を膝に埋め込んで、頭を両腕で抱える。この世界に来るまで、
こんな苦しさ知らなかった。出来ないことがあるのなんか当たり前
だった。出来ないよーと笑って言えた。なのに、今はこんなにも苦
しい。どれだけ自分を小さく押し込めても、どれだけ縮こまっても
足りないくらい、情けない。
出来ないことが苦しい。出来ないことが情けなくて、その情けな
さを知らなかった自分が恥ずかしい。
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ああ、賢くなりたい。力が欲しい。どっちも欲しいなんて言わな
いから、どっちかは欲しい。
世界に影響力のある凄い人になりたいとか、誰よりも上にいるほ
ど偉い人になりたいと思ったことはない。ルーナとアリスもそれで
いいと言ってくれた。こういうことを考えるのも背負うのも、お前
の仕事じゃないと言ってくれた。
それはそうだろう。私なんかが国の未来を背負ったら一歩で転ん
で終わる。背負われた国も一秒で逃げだすだろう。そんなもの期待
されていないと分かってる。分かっていても、何もできないことが
苦しい。どこか遠い場所じゃなくて、手を伸ばせば届く場所で頑張
ってる人達が見えるのに、自分にはできないことだからと無関心で
いられる達観した人間に、私はなれない。
扉の向こうでは、次から次へと様々な作戦が練られている。それ
だと先発部隊が壊滅するとか、被害は仕方がないとか聞こえてくる。
やめて、声しか知らない男の人。さっき、敵の動揺を誘うために先
発部隊にルーナとアリスを入れるのもいいなって言ってたじゃない。
じゃあ、他の誰かだったらいいのかと聞かれたらどうしよう。そん
なの分からない。どうしたらいいのかなんて分からない。打開策も
代替品もなく、ただ嫌だなんて通じないと子どもだって分かってる。
この扉の向こうは、何一つ有意義な言葉を持たないで、感情だけ
をばらまく場所じゃない。彼らの決断がルーヴァルという国の未来
を決めるのだ。ルーヴァルがこのままガリザザに搾取されるか、ル
ーヴァルとしての名前を持ったまま国として復権できるかの瀬戸際
だ。
アリスは彼らに力を貸すだろう。ルーナだって、記憶があれば頼
まれなくても動いた。だって彼らは騎士だ。彼らの生き方に私が口
出すべきじゃない。だから飲み込んだ。行かないで。死なないで。
もう、戦わなくていいじゃない。大陸だよ。海渡ったんだよ。ルー
ナやアリスが出なくたって。
819
自分勝手な思いが顔を出すたびに必死に飲みこむ。
じゃあ、アニタがどうなったっていいんだ。アマリアさんが、ロ
ジウさんが、王子様達が、どうなったっていいんだ。彼らの、彼女
らの大切なものが粉々に砕かれると分かっていて、そう言えるのか。
私は扉にずるずると凭れたまま、更に小さく縮こまった。
私が失わないならそれでいいと割り切ることも出来ないくせに、
我儘にも程がある。
嫌だ嫌だと我儘だけで許される年齢はとうに過ぎている。嫌だと
言うのなら、そんなの酷いと非難するのなら、それを打開する物を
差し出さなければならない。何もできないくせに、批判や批難だけ
は簡単だ。だって、何の責任も負わず、感情一つあればいいのだか
ら。そんなこと言ったって現状は何も解決せず、歯を食い縛って批
難の先へ進もうとしている人の心を切り裂くだけだ。
飲み込め。解決策も出せないのなら不満も飲み込め。役に立てな
いのなら、せめて不満を背負わせることだけはするな。背を押せな
いのなら引っ張るな。
顔を隠し、頭を抱え込み、私は小さく笑った。
[⋮⋮これ、きっついよ、アリスちゃん]
アリスちゃんは優しいなぁと小さく呟いて、後は全部飲み込んだ。
どれくらい時間が経ったのか、誰かが椅子を引く音がした。それ
に続いてあちこちで椅子の動く音がする。一人一人が発言するんじ
ゃなく、皆がそれぞれの会話をしながら立ち去っていく。最後まで
残った人が何かを話して立ち去ったのを最後に、室内に静寂が落ち
る。
かつかつと、機敏な動作が瞼の裏に浮かぶ音が近づいてきた。
凭れていた扉からちょっと身を離して、大きく息を吸う。
820
ノックもなしに扉が開く。最近、私の親友の遠慮が旅に出てしま
ったようだ。私の遠慮は割と最初からいないのでお揃いである。
勢いよく顔を上げ、頭を抱えていた腕で髪も一緒に跳ねあげた。
﹁おはよう、アリスちゃん!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どうせならそのまま寝ていろ、たわけ﹂
ぱんぱんとお尻を叩いて立ち上がる。アリスは手を貸してはくれ
なかった。いつもは息をするみたいにしてくれる動作、今日はそれ
がない。座っていろと言われているんだろうなと分かる。それくら
いは、一緒にいた。
﹁アリス!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なんだ﹂
﹁付き合って!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どこへだ﹂
いつもは絶対入れてくれなかった会議の部屋。それを、今日に限
って入れてくれた。厳しい話を直接聞かせてくれた。アリスの口を
通した柔らかいものじゃなくて、現実そのままを。
﹁ツバキの元!﹂
立てなかったら、顔を上げられなかったら、笑えなかったら。ア
リスの中でどれが基準になっているかは分からない。もしかしたら
全部できなきゃ駄目だったのかもしれない。アリス審査はとっても
厳しい。
苦虫噛み潰したみたいな顔をしているアリスは、とても優しいか
ら。
きつくてしんどい理由をくれた。逃げだす理由をくれた。戦いを
前にそんな暇はないと切り捨ててくれてもよかったのに、私の中に
逃げ出す理由を作ってくれようとした。
﹁⋮⋮⋮⋮あの男は、お前にとっての毒になるぞ﹂
﹁私の故郷には、毒を食すならお皿までという言い伝え⋮⋮伝達事
項? が、ありまして﹂
合格してしまった私に、アリスはあの時のルーナに浮かべたもの
821
と同じ顔した。
﹁⋮⋮よし、満面の笑顔で他の男の元に行こうとしていると、ルー
ナに告げ口しておこう﹂
﹁どんじょ踏みとどまって!?﹂
﹁噛むな、たわけ。いや、浮気者︱︱﹂
﹁手酷い冤罪発生! 断固抗議する!﹂
﹁受理しないぞ?﹂
﹁何故にして!?﹂
苦情受付が機能していないので、実力行使だとアリスの背中を両
手で押そうとしたらひょいっと避けられて壁に激突した。痛かった。
822
61.神様、少さな灯りが見えません
ツバキは現在軟禁状態だという。本人もそれでいいとあっさり受
け入れて、大人しくしているそうだ。
ガリザザの情報を提供する。けれど、ルーヴァルがガリザザに負
けたり、自分が取り返されるようなことになればガリザザにルーヴ
ァルの情報を提供する。口当たり耳当たりの良い建前を一切口にせ
ずそう言ったツバキを、ラヴァエル王子は受け入れた。当然反対も
あったけれど、今のところ彼が提供した情報に嘘偽りはなく、また
逃げ出す素振りも反抗的な態度もなかったと聞く。
ツバキがいるという部屋まで色んなところをぐねぐね進んだ。と
っくの昔に帰り道は分からなくなったけれど、ツバキのいる場所に
近づいているのは分かる。だって、通路の両端に休めの状態で立っ
ている兵士がいる頻度が上がってきたのだ。灯りが少なめなのは、
ツバキが逃げ出した時に足が鈍るようにだと聞いた。
がんごんぶつかり、ツバキ対策で私の痣が増えていき、アリスは
黙々と進んでいく。夜目が利くのか、私が利かないのか。
暗い道をぐねぐね進んでいると、蟻の巣みたいだなとふと思った。
次の灯りまで遠いから、真っ暗な道に向けて歩いていくと、何だか
未来もそんな気がしてきてしまう。先が見えない真っ暗な未来。進
んでも進んでも、灯りはぽつぽつとしかなくて、その先には明るい
物や温かい物は何もないんじゃないか。頑張って進んでも、この場
所みたいに空気は冷たく澱んでいて、幸せなこととか楽しいことは
ないんじゃないか。そんな気持ちが湧き出てきて、顔が下を向いて
いく。そう気づいて、慌てて上げる。下を見たところでどうせ見え
ないのだから、せめて顔を上げて前を見ていよう。上げても見えな
いけど、気分まで下がるとどうしようもない。大丈夫だと言って、
823
渋るアリスに連れてきてもらったんだ。せめて嘘にならないよう、
大丈夫でいるためにも気分は上げておこう。気分が上がるとテンシ
ョンも上がるはずだ。
顔を上げていたおかげで、唐突に止まったアリスの背に気づけた。
ほら、前を見るって大切だ。ただし、結局体当たりはした。カズキ
は急には止まれません。
それは、岩壁にただはめ込んだような他の部屋の扉とは違う。隙
間なく埋められた鉄の扉がそこにはあった。その左右に兵士が二人
いる。二人は、アリスと私を見て一礼し、何も言ってないのに鍵を
開け始めてくれたので、恐らく連絡が先に行っているのだろう。三
本ある太い鉄棒の鍵だけでも結構なインパクトがあったけれど、そ
れを外した後に鍵穴まで現れたのにも仰天した。厳重だ。
兵士の二人は、ノックもなしに重たい鉄扉を押した。鍵を外す作
業音がある意味ノック変わりなのかもしれないなと、開かれた扉の
先で驚きもせず悠然とこっちを見ているツバキを見て思った。
厳重な鍵の部屋だから、中も同じように重々しい感じかと思いき
や、意外とシンプルで普通だ。テーブルと椅子と棚。本棚もある。
ホテルみたいだ。更に奥があるのはお風呂とか水回りなのか、それ
ともベッドがないから寝室なのかもしれない。もしかしなくても、
私達の部屋より広そうだ。居候の身だし、特に不都合がないので文
句はないけれど、せめてルーナとアリスはベッドを別にしてあげて
ほしいとは思う。壁際きゅうきゅうに詰めてもくっつけないとベッ
ドが二つ入らない部屋幅で、私とユアンで一つ、ルーナとアリスで
一つだから仕方がないけれど、この広さはちょっと羨ましい。
たまに寝相悪くて、ユアンと一緒に二人のベッド侵略を開始し、
そっちのベッドを乗っ取って本当に申し訳ない。朝起きたらルーナ
824
達のベッドで大の字に寝ていて、ルーナとアリスが私達のベッドの
壁端で寝ていたときは思わず土下座した。
周りが岩壁だから、田舎のお婆ちゃん家みたいに襖外したら大部
屋になるような作りは無理だし、部屋の形や狭さは仕方がないと分
かってはいる。いるけれど、寝ているときは気をつけようがない。
軟禁されたいわけじゃないからこっちの部屋に移りたいとは思わな
くても、羨ましいと思うことは許してほしい。後、ルーナとアリス
は本当にごめん。
こっちにも連絡がいっていたのか、テーブルの上にはお茶とお菓
子が用意されていた。
アリスは何も言わず中に入ったので、一応礼儀として挨拶をして
おく。
﹁お邪魔虫します﹂
ちゃんと礼儀は通したのに、アリスはため息をついて、ツバキは
ハッと笑いを吐き出した。
ツバキは、読んでいたらしい本を閉じて立ち上がる。テーブルに
置かれた本の背表紙には見覚えがある。凄くある。私がこっちの世
界でまともに読んだ本なんて指一本で数えることができるので、見
覚えがあるのなら、あれは黒曜姫と騎士ルーナだ。なんですか。お
気に入りですか。その参考書、あんまり参考になりませんでしたよ。
だってルーナ腕組んでたから。
ツバキの服は、ルーヴァルの人達みたいな服だ。ルーヴァルにい
るのだから当然かもしれないけれど、その辺拘り無いタイプなのだ
ろうか。ブルドゥスにいるときはブルドゥスの服を着て、ディナス
トの遣いだという時はガリザザの服を着て、ルーヴァルに情報を渡
している時はルーヴァルの服。
825
それは当たり前のことだけど、たぶん、私が思っているより当た
り前じゃないことだ。
﹁さて、と。久しぶりだなと感動の再会を喜びたいところだけど、
アードルゲの騎士は出ていっちゃくれないか? あの存在を既に知
ってるとはいえ、細かい事話すほど、俺はあんたのこと信用しちゃ
いねぇの﹂
ひらひらと振られた片手に、アリスは眉間の皺を取った。深くな
るのかと思っていたから驚く。
﹁断る﹂
でも断わった。
受け入れる気が最初からなかったから、悩む必要もなくて眉間の
皺が取れたのだろうか。
﹁即答かよ﹂
﹁カズキと二人にしておけるほど、私も貴様を信用していない﹂
そう言ったアリスは私の腕を掴んで椅子に座らせて、その隣にさ
っさと座った。
ツバキはひょいっと肩を竦めて向かいの椅子の背に肘を置く。ま
だ座らないらしい。
﹁番犬かよ﹂
﹁親友だ﹂
﹁親友よ﹂
同じタイミングで訂正したら、ひゅうっと口笛が返ってきた。私
は笛ラムネがないと吹けないのでちょっと羨ましい。
﹁あんたより年下だった頃のイツキ様は、あの石の取り扱いにもっ
と慎重だったぜ? 何せこっちの世界に現れた際にあった石は、デ
ィナストにエマ様が負けて城が攻め落とされた時、ディナストに奪
われまいと自ら砕いちまったからな﹂
全部大事だった話の中で、どこに重点を置けばいいのか。悩む私
に、元十三皇女だとアリスが教えてくれた。そういえば知らない名
826
前の人がいたとようやく気付く。お願いだから情報は小出しにして
ほしい。一つの会話で纏められても全部理解するまでに時間がかか
る。
﹁あの石は、利用しようと思ったらどうとでもなる。イツキ様は身
近な人間にも、あの石の存在すら明かさなかった。下手すりゃ世界
をひっくり返せる石を託せる程、あんたはそいつを信用してるのか
?﹂
そいつと指さされたアリスは、何も言わずツバキを睨み返してい
る。ツバキも掌の動きはひらひらと軽いのに、目が笑っていない。
こういう笑い方を、ツバキはよくする。嘘をつくときは目も笑うの
に、相手を試している時は笑っていないような気がする。間違いな
いと断言できるほど親しくはないけれど、そんな気がしている。ま
あ別に、間違っていても問題ないくらい親しくないから、悲しくも
悔しくもない。
でも、アリスちゃんとはそうじゃない。
﹁私、アリスが信用できない状況下に陥ったのならば、他者の誰し
も信用不可な状態よ﹂
微動だにせずツバキを睨み返していたアリスが、目を丸くして私
を見た。どうしてそんなに驚くんでしょうかね。
アリスに裏切られたら、他の誰を信用するのも怖くなる。そのく
らい信用も信頼もしているし、アリスが好きだし、大事な親友だ。
それを、さも意外であるといわんばかりに驚かなくてもいいんじゃ
ないだろうか。そんなの分かってい⋮⋮るわけがないかもしれない。
そういえば言葉にした事はなかった。言葉って大事だ。
﹁アリスは、重要案件な親友よ﹂
﹁一気に義務的になった信用は置いておいて、あんたは俺に何を聞
きたいんだ?﹂
椅子の背に肘を置いたまま、ツバキは掌に顎を乗せた。まだ座る
気はないらしいけれど、それを待つ必要もないだろう。膝の上に乗
せた両手をぎゅっと握り、瞳が揺れないよう、声が震えないよう気
827
合を入れる。
﹁⋮⋮ルーナに、何事を、言ったの﹂
﹁は?﹂
﹁ルーナにまじないを施した際、何事を言ったの﹂
石の事とか、ツバキの目的とか、たぶん私が聞かなきゃいけない
のはそういうことで。そんなのは分かってる。聞きたくないわけで
も、聞かなくてもいいやと思ってるわけでは決してない。ただ、真
っ先に聞きたいのはルーナのことだ。
ぱちくりと瞬きをした瞳は、予想外のことを言われたからだと思
った。私が聞くであろうどの質問をすっ飛ばして、ルーナのことを
聞いたからだと。
﹁は、ははっ⋮⋮!﹂
でもまさか、どっかり椅子に座ってお腹を抱えて笑い出されると
は思わなかった。
私にとっては重大事項だけど、ツバキからしたら呆れられるかも
しれないとは思っていたけれど、ひぃひぃ苦しそうに笑い転げられ
ると困惑する。アリスと目を合わせて、今度はこっちがぱちくりと
瞬きする番だ。
一人で呼吸困難になりかけているツバキは、ぴたりと動きを止め
て長い息を吐いた。ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き乱し、その手を頭
から引っこ抜かないまま、肘の間から視線が合う。
﹁⋮⋮あんたはほんと、あの人と同じ世界の人間なんだな﹂
何を今更という思いと、なんで今それを思ったんだろうという思
いが混ざり合う。後、なんで爆笑したのだろう。疑問には思ったけ
れど、余計な事を言って口を噤まれても困るので、アリスと首を傾
げ合うにとどめる。
もう一回深く息を吐いたツバキは、お茶を一気飲みして、また息
828
を吐いた。こっちにも分かるくらい、大きく大きく息を吐く。息を
吐き切った後に口元に浮かんだのは、苦笑だった。
﹁あの人もそうだった。エマ様が会議から戻れば、その内容よりエ
マ様の頭痛を気にかけた。遠征から戻れば、進退より怪我の有無ば
かりを気にした。⋮⋮大局を見ることはできない人だった。作戦を
立てるとか、制度の歪を見つけるとか、そんな形で世界に関わる自
分を、考えたことすらない人だった。⋮⋮いつだって、目の届く範
囲しか見えず、手の届く範囲しか分からなかった。でも、その範囲
をとても大事にした。見える範囲に関わった人には、身分関係なく
言葉をかけた。転べば手を差し出して、一緒に池に落ちても笑って
いるような、優しい、人だった﹂
ツバキはぐしゃりと髪を握り潰し、口元を歪ませる。
﹁奴隷商から逃げだした俺を、可哀相だからという理由だけでエマ
様に頭下げて匿って、子どもだからという理由だけで甘やかして、
それを信じられなくてナイフ振り回して暴れた俺に切りつけられて
も、怖がらせてごめんねと謝るような⋮⋮優しく、愚かで、馬鹿な
人だった﹂
歪んだ口元から紡がれるそれは、まるで宝物を開くような音だっ
た。だからだろうか。目と耳で全く違う世界が、全て過去形で語ら
れていると気づくのに、少し遅れた。
めい
﹁俺は、あの人の為なら何だってできる。あの人を生かす為なら、
エマ様を殺したディナストの配下にだって下る。ディナストの命で
嘗ての同胞だって殺すし、ブルドゥスが滅ぼうがグラースが隷属に
堕ちようがどうでもいい。ルーヴァルがディナストを殺してあの人
を解放できるなら、俺は命を懸けても協力する。ルーヴァルが負け
るならラヴァエルの首を取って、ガリザザに戻る﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴様は、そんなことを繰り返してきたのか?﹂
静かなアリスの問いに、ツバキの口角は三日月のように吊り上っ
た。
﹁それがあの人を生かすというなら、当たり前だろ﹂
829
まるで狂気のような色を浮かべてツバキは笑うのに、何故だろう、
恐ろしく感じない。
﹁よく、生き延びたな﹂
﹁俺が死ねばイツキ様を殺すとディナストが言うからな。そりゃあ、
必死にもなるさ﹂
﹁ディナストは、貴様の行動を見逃しているのか﹂
﹁あいつは、反抗する奴が大好きなのさ。反攻も好きだぜ。絶望か
ら憎悪へ変貌した感情が一番強いから、それが向かう先にいるのが
面白いんだとさ。だから、あいつは俺に言った。あの人を生かした
いなら下れってさ。下って、その命令を受けながら、その中でもが
けと﹂
ツバキは平気で嘘をつく。呼吸するように、普通に嘘をつく。
﹁俺は、あの人を生かせるのなら、世界だって裏切れる﹂
けれど、何故だろう。今は嘘をついているように思えない。今ま
で見てきたツバキとは雰囲気が違って見える。どうしてだろうと考
えて、すぐに気が付いた。頭を上げていないからだ。今までのツバ
キは、呆れようが、馬鹿にしようが、嘘をつこうが、肩をすくめよ
うが、必ずこっちを見ていた。けれど今は、子どもみたいに腕で頭
を抱えて、肘をついて机を見ている。視線だけを動かして、私を見
て、また机に戻す。
﹁⋮⋮⋮⋮あんたも、あの人も、この世界になんて来るべきじゃな
かったんだ。もっと、自分の手の届く世界だけで完結できる、あん
たらの世界で幸せになるべきだったんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私達の、意思ではないよ﹂
﹁分かってるさ。だから、あんたにもあの人にも、明確な恨む先が
ない。神様とか運命とか、目に見えない曖昧なものを呪ったって救
われない。あれは、縋る分にはいいんだろうけど、恨む先には向か
ないから﹂
呪うとか恨むとか、現実味の沸かない言葉がつらつら続く。いや、
そう思いたくないだけかもしれない。だって私は、憎悪に近い感情
830
を知っている。それを憎悪と定義づけなかっただけだ。赤い雨と灰
色の世界を思い出せば、今でも滲むあれは、怒りとは異なる何かだ
った。
そして、縋る先という言葉に、ふと、大学の先生の言葉を思い出
した。日本で自殺率が高いのは、信仰する絶対神がいないからだと。
あの時はふーんとしか思わなかったけれど、今は頭の中をぐるぐる
回るくらいどきどきする。
﹁⋮⋮⋮⋮だけどな、あんた達は明確な恨みの先になるんだよ。目
に見える、手の届く憎悪の的があったら、そりゃあ恨むだろう。恨
む先がないほど虚しいものはない。憎悪は喪失に嘆く人間の救いに
すらなる。憎悪は憎悪を呼ぶ。憎悪をぶつけ合い、尊厳だけでなく
命まで奪い尽くしても止まらず、個々の諍いが国同士の争いになっ
て、全てを焼き尽くす。でもな、俺達はそんなの慣れてるんだよ。
あっちの部族が殺し合っただの、あっちはまだ最中だの、しょっち
ゅうだ。憎悪だって手馴れてる。家を乗っ取られたり、山賊に家族
を殺されたり、冤罪押し付けられて処断されたり、当たり前なんだ
よ。弱いやつは強いやつに搾取される。力でも身分でもそうだ。下
のやつが踏みにじられる。恨みの先だって明確だ。だから、俺らは
簡単に憎める。そのやり方は、あちこちで学べるからだ﹂
つらつらと続けられる言葉をうまく咀嚼できない。ツバキも、私
の理解なんて求めていないのかもしれない。次から次へと言葉を垂
れ流す。まるでダムの放流のように、今まで中に溜めていたものを
解放していく。
﹁でも、あの人はそうじゃなかった。憎んだことも憎まれたことも
なく、憎悪を募らせた人間を見たことすらなかった。だから、憎み
方が分からず、憎まれるままに押し潰されていった。不条理や理不
尽に憤っても、すぐに悲しみや嘆きに変わった。憎むのが、本当に
へたくそだったんだよ。憎悪をぶつけ合い、他へ被害を弾け出せば
よかったのに、それすらできなかった。他を巻き込んで分散させる
831
ことを考えもつかず、一人で憎まれた。憎み方も分からず、憎悪か
ら身を守る術も知らず、バクダンなんて凶器をディナストに与えた
ことを大陸中から憎まれた。あの人だって、好き好んで教えたわけ
じゃない。自分の所為じゃない、自分が悪いんじゃない。そう思う
のは当たり前のことだったのに、そう思う自分を恥じて、自分の無
力を責めた。自分を責める奴らを憎む術は見つけられなかったくせ
に、自分だけは酷く上手に憎んだ。憎んで憎んで、自分を壊した。
下手に倫理観とか持ってなきゃよかったんだ。人間の理想の形なん
て知ってなきゃよかったんだよ。こんな時はこうするのが理想だと
か知ってなきゃ、自分勝手に理由を作って逃げられたんだ﹂
机の隅に置かれていた紙に何かを書きこんだツバキは、それを私
の前に滑らせた。持ち上げて、短い言葉を何度も読み直す。
一瞬、なんと読むか分からなかったけれど、何度も何度も思いを
馳せた人の名前がかちりと収まる。村上だと思っていたからすぐに
は当てはめられなかった。
﹁⋮⋮男性?﹂
﹁字だけで分かるのか?﹂
﹁男性に使用する事例が多いよ。それ故に、私が少々、稀である﹂
羽ペンを受け取り、その横に書いた名前をなぞりながら読み上げ
る。
﹁スヤマ、カズキと、読むよ﹂
アリスとツバキは目を見開く。音が違うから、字も違うと思って
いたのだろう。私もそう思っていた。でも、漢字はいろんな読み方
がある。名前ともなると、普通に使うよりもっと自由度が高い。
邑上 一樹
須山 一樹
832
きっと偶然だ。それは分かる。文字で世界を渡ってしまえるのな
ら、世界中の一樹さんが消えてしまう。偶然だ。偶然だと分かって
いる。
けれど、酷い偶然だと、思う。
そう思ったのは私だけではなかった。私と理由は違ったけれど、
この偶然に残酷さを感じたのがもう一人いた。
﹁だったら、あんたでよかったじゃねぇか﹂
ぐしゃりと前髪を握り潰して俯いたツバキは、泣き出しそうな声
でそう言った。
﹁イツキ様は十六歳だったから、あんたの方が年上で、馬鹿で、鈍
感で、図太いなら、あんたがガリザザに落ちればよかったんだ。十
年前、多分同じ日、同じようにこの世界に現れて、同じ字を持つな
ら、あんたがガリザザでよかったじゃねぇか。たった一年で向こう
に帰れたかもしれねぇんだ。⋮⋮ミガンダに落ちていれば、あの人
は今も、笑っていてくれたかもしれねぇのに﹂
そんな、かもしれない、だったらよかったのになんて憶測や願望
で、ルーナ達と出会えなかった可能性を願われたくない。
﹁なんでイツキ様だけがあんな目に合わなきゃならねぇんだ。あの
人が何したって言うんだ。だったら、あんただって、同じ目に合わ
なきゃ、不公平じゃねぇか﹂
ツバキの言い分は勝手だ。けれど、怒りは湧かない。いま怒って
いるのは私じゃない。ツバキのほうだ。邑上さんが名づけたという
その名の元となったワインレッド色の髪で隠された顔は、もしかし
たら思っていたより若いのかもしれない。いま感情を剥き出しにす
る顔を見て、そう思う。
﹁⋮⋮⋮⋮俺がルーナにかけたまじないは、所詮は香を使った上で
成り立つものだ。定期的にかけ直さねぇとどこかで綻びる﹂
上げられた顔に、喉が引き攣る。空気が急に塊みたいに喉に詰ま
833
った。
﹁記憶が戻るのを拒否してるのは、ルーナ自身だ﹂
底なし沼みたいな目をして、ツバキが笑っている。これは、憎悪
だろうか。十年前、同じように日本からこっちの世界に落ちた、私
と邑上さん。邑上さんと知り合ったツバキから私への、憎しみなの
だろうか。ああ、でも、ヌアブロウに向けられたものとは違う。あ
れよりもっとどろりとしていて、歪んでいるように思う。
無造作に上げられた手が私に伸びる。弾かれたように立ち上がっ
たアリスにちらりと目を向けただけで、とんっと人差し指が胸をつ
いた。
﹁十年前、あんたが壊したルーナのこれの所為だぜ?﹂
﹁私が、壊した?﹂
出会って、別れて、傷つけた。ルーナを苦しめたのは私だ。でも、
壊した? 胸を、心を、壊した? 私が、ルーナの?
﹁だから、俺が言った言葉に揺れた。今でも記憶が戻らない。俺は、
あんたを帰す方法を知ってるって言っただけだったのにな?﹂
訳が分からないと顔に出ていたのだろう。胸を突く指の力が強ま
り、ぐりっと押し込まれる。素早く伸びてきたアリスの手がそれを
ねじりあげて離れていく。なのに、痛みが残った。じくり、じくり
と、とっくに離れていった指の感触が消えない。
﹁ルーナは強いだろうさ。何せ海を渡ってこっちにまで噂が届くほ
どだ。けどな、カズキ。その根元が脆けりゃ意味がねぇんだぜ? 有名になれば生い立ちにまで話は広がる。そりゃあ、ルーナは空っ
ぽだったろうさ。そこにあんたが現れた。あんたも、あの人も、こ
かつ
っちの人間とは感覚や感性が違う。あんたらの平和なそれは、俺達
みたいに餓えた人間にはたちが悪いくらい染み込むんだ。あんたは
空っぽだったルーナの根本になった。でかく陣取って、これからで
かくなるガキの根元になって、取り換えが利かなくなった時に﹂
じくり、じくりと、胸が痛い。
834
﹁ごっそり消えた﹂
息が、できない。
﹃思い、出せない﹄
ルーナの瞳がぶれる。瞳の中の私がぶれて、映らない。
でも、きっと、ルーナはもっと痛かった。ルーナは大きくなった。
私より少し低かった背が、今では背伸びしたって到底届かない。ル
ーナは大きくなったのだ。大きくなったけど。
﹁俺なら、生きていけない﹂
言葉とは裏腹に、その顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
﹁あいつは、あんたを帰せる手段があると知った。記憶が戻ったら
あんたを手放す術がある。ルーナの本能が、死に至る傷を回避しよ
うとするのは生き物として当然のことだよなぁ。だから、俺にはど
うすることも出来ねぇよ。何せ、壊したのはあんただ。どれだけ力
を蓄えて頑強になろうが、その根元がぼろぼろだ。ルーナの腕に適
う奴はそうそういない。でもな、あんたが抜けてすかすかになった
根元をつつくなら俺にもできる。簡単に、誰にだって﹂
ヌアブロウの言葉が蘇る。
﹃貴様はあの女を強みとするが、私からすればただの弱みだぞ、ル
ーナ・ホーネルト!﹄
私は、皆と出会えたことに感謝した。この出会いを幸福なことだ
と思っている。
でも、それは私だけだったのだろうか。この出会いに優しさを貰
えたのは私だけで、私は、ルーナを傷つけることしかできなかった
のだろうか。
835
﹁あの人が壊されたのが許せない。世界があの人に優しくなかった
のが許せない。あんたが馬鹿みたいに笑えてるのが許せない。けど
な、一番許せないのは、あの人だけが不幸になったことなんだよ﹂
私が同じようになっても何も解決しないし、たぶん、ツバキも邑
上さんも救われたりしない。けれど、そうだとしても、不平等であ
ることが許せないと、ツバキは言う。
﹁あんたも不幸だったら、あんたらは可哀想だねで済んだ。あんた
も壊れてたら、あんたらは不運だったで済んだ。でも、ひどいじゃ
ねぇか。名前だけじゃなくて、異世界から落とされるなんて訳分か
んねぇもんまで同じなのに、どうしてあの人だけが壊されるんだ。
⋮⋮あんただけが救われるなんて﹂
許されない。
朗らかな笑顔で、ツバキは笑った。
836
62.神様、少し太陽眩しいです
心臓の音がやけに近くで聞こえる。頭の中で鳴っているんじゃな
いだろうか。
何かを言わなければ。何かを言いたい。なのに、口の中が引っ付
くくらいカラカラで、喉の奥に言葉が張り付いて何も出てこない。
逸らすことも出来ずに見つめ続けたツバキの顔がぶれる。なんだ
と思ったら、アリスが私の腕を掴んで立ち上がっていた。そのまま
引っ張られてつんのめる。せめて手を繋いでくれたらまだ普通に歩
けるけど、二の腕を引っ張られるとうまく重心が取れない。
待って、アリス。私まだ石のこととか、なんかこう、いろいろ聞
いてない。そう思うのに言葉に出せない。喉に張り付いて、何でも
ない言葉まで出てこないのだ。
﹁一番聞くべきことは聞いた。これ以上はいても意味がない﹂
大丈夫だって言った。大丈夫だと言って連れてきてもらったのに、
なんて体たらく。
ツバキも特に用事はないのか引き留めようとはしない。何かを、
言わなければ。
﹁ツバキは、以前、邑上さんと私を出会わせたいと言った﹂
私のこの先を彼の為に奪うと。でも、今の様子は会わせたいよう
には思えない。
ツバキは少し考えるように上を見て、視線だけを私に戻した。
﹁壊れたあんたには興味ない。でも、壊れてないあんたは恨めしい﹂
﹁⋮⋮どうすろと﹂
﹁⋮⋮さあなぁ。俺にも分かんねぇよ﹂
自分でも分かってない答えを問うたって意味がない。だって答え
がないのだから。
アリスは扉を二回叩いた。たぶん、外からカギがかけ直されてい
837
るのだろう。がちゃんがちゃんと、重苦しい音が響く。
壊した。壊された。私が、ルーナを? 私が、ルーナを。
重苦しい音は、胸の中にツバキの言葉を沈めていく。人に対して
壊すという言葉を使う恐ろしさと、それが私で、対象が私の大好き
な人で。
なんで? 異世界から来たから? 価値観とか感性とか、日本人
だから? そうだったら、こっちの世界の人を傷つける?
違う。違うと、思う。違うと思うのに、壊すという言葉が重すぎ
る。自分じゃどうしようもない所で、変えようもない場所で、大切
な人を傷つけるかもしれない可能性に怖じる。
扉が開いてアリスに引かれながら、ふと、何かに引かれるように
部屋の中を振り返ってしまった。ツバキは笑っている。その笑顔に、
何故か問いが口から滑り出た。
﹁ツバキは、邑上さんに壊された?﹂
ぐるぐる言葉が回るせいで、ただでさえ鈍い思考が動かない。考
えるよりも先に口に出してしまった私の問いに、ツバキは妙な顔を
した。目を見開いたのに細めて、顔半分だけ奇妙に歪める。
﹁⋮⋮⋮⋮壊したのは、俺だ﹂
掠れた声は、重たい鉄扉が閉まる音の向こうに消えた。
暗い道を黙々と歩く。偶にある灯りで影が伸びても、光が届かな
い場所で暗闇と混ざり合ってしまう。
二の腕を掴んでいたアリスの手はいつの間にか繋がれていて、そ
れでも速度は緩まない。ざっざっと、重く生真面目な音に、歩幅の
揃わない不恰好な音が混ざる。
大丈夫だと言った。大丈夫だと。大丈夫だから、お願いだからア
リス、振り向かないで。
838
私は、ルーナと出会わないほうがよかった?
そう聞けば、アリスはなんて答えるだろう。聞きたくないのに答
えが欲しい。誰かの答えが欲しい。自分で背負うのが苦しいから、
誰かが言った答えが。
駄目だ。そんなのずるい。ずるい考えばかりがぐるぐる回る。こ
れは逃げだ。責任の押しつけだ。そう分かるのに、ぐるぐるとまわ
るものが止まらない。
ちゃんと自分で考えて、自分で結論を出して、自分で頑張らなけ
ればならない。自分で出した答えを、自分で実行して、成功しても
失敗しても自分で責任を背負うべきだ。それが正しい在り方だ。人
として真っ当で正しい在り方だから、そうすべきで、それが苦しい
のは私がずるいからで。
どことも繋がっていない手で前髪を握り潰す。ろくでもない。ろ
くでもない考えはやめよう。いま考えなければいけないのは、どう
したらルーナが悲しくないかだ。
何度も息を吐く。吸って、大きく吐く。吐いた空気のほうが多く
て、ちょっと頭がくらくらしてきた。でも吐く。ぐるぐる回るろく
でもない思考を吐き出してしまう。あまり、身の内に抱えて育てた
い感情じゃない。
﹁だから毒だと言っただろう﹂
呆れた声でアリスが言う。まったく、仰る通りです。
毒を食らわば皿までの精神だったけれど、あの毒、液状だったみ
たいで、結構皿から零れてた。
﹁あの男の言うことは気にするな。貴様は貴様らしくたわけのまま
笑って、阿呆みたいに転んでろ﹂
後半は簡単に、それこそ目を瞑っていても実行できそうだけど、
前半が難しい。気にするなと言われても気になるものは気になる。
839
いくらたわけの権化と言われた私でも、忘れられることと忘れられ
ないことがあるのだ。
そう言いたいけど、口に出すと零れそうで唇を噛み締める。鼻を
啜ったら響くかな。響いたら気づかれるかな。アリスは、もう気づ
いている気がするけれど。
だって、繋いだ手が優しい。
﹁こんな事態に陥らなければ、ルーナが一人で乗り越えようとして
いたことだ。特にお前にだけは一生隠すつもりだっただろうな。惚
れた女の前で格好つけようとしている男の努力を無駄にするな﹂
﹁⋮⋮私とて、好きな人物のお役立ちしたいよ﹂
ずびっと鼻を啜ったら、思ったより響いた。どうでもいいけど、
泣くってどこからが泣くだろう。涙滲むくらいなら泣く一歩手前で
許される気がする。涙が零れ落ちなかったらセーフだろうか。鼻水
垂れたら別の意味でアウトだ。
涙が滲んでいなくても、泣いてる人は、きっといるけれど。
横道から伸びてきた灯りに照らされた一瞬、アリスの耳元で緑が
揺れる。私の耳でも同じ色が揺れているはずだ。胸元では、ルーナ
とリリィがくれた首飾りが絡まって静かに揺れている。
この世界に着の身着のままで落ちた私に、皆がくれた。目に見え
るものも、見えないものも、たくさんくれた。私は、目に見えるも
のは何も渡せなかったし、目に見えないものなんて、それこそ面倒
や厄介事しかかけてない。
そんな私が、皆との出会えた奇跡を嬉しいと思うことは、いけな
いことだったのだろうか。
アリスは一度も振り向かず、私の手を引いて前へと進む。
﹁貴様がウルタ砦に落ちていればどうなったんだろうな﹂
考えたこともなかった問いに、少し考える。金髪美少年だったア
840
リスちゃんがぽんっと浮かぶ。⋮⋮泣いて走り去っていく姿しか思
い浮かばない。
﹁アリスちゃんのパンツが毎時毎日大惨事よ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮やめろ﹂
空いたアリスの手がベルトをしっかり掴んだのが見えた。二度あ
る事は三度ある。アリスちゃんにはズボンガードを徹底してもらい
たい。
﹁つまりは、そういうことだ﹂
﹁パンツ?﹂
﹁違う!﹂
今の流れでパンツ以外の何があるんだろう。
首を傾げたら、アリスは一つ咳払いした。
﹁お前達の出会いはお前達だから意味を持った。ルーナがそう言っ
ただろう。だったら、信じてやれ。当人が悔やんでいないものをお
前が悔やんでやるな。それこそルーナが哀れだろう﹂
なんだお前、忘れたのかと聞かれて、慌てて首を振る。振ってか
らアリスには見えてなかったと思い出すけれど、振動で分かったの
だろう。アリスは重ねて聞いてはこなかった。
ただ手を引いて、まっすぐに前に連れていってくれる。
﹁石のことや国のことはひとまず忘れて、自分にとって一番大事な
ことに専念しろ﹂
自分の実力をちゃんと見極めないと駄目だ。あっちもこっちも気
になるけれど、どっちもそっちも全力でやらないとどうにもできな
いことばかりだ。片手間でどうにかできることじゃない上に、元々
そんな器用に素晴らしい力は持ち合わせていない。
ふんっと鼻を鳴らしたアリスは、それまで一定のペースで引いて
いた手を引っ張った。自然とつんのめったら避けられる。殺生な。
﹁また戦争だ﹂
横に逸れて目の前から消えた背中を通り過ぎ、二歩ほどけんけん
して顔を上げたら、いつの間にか前が開けていた。一気に眩しくな
841
った世界に目が痛くなって、ぎゅっと瞑る。
﹁だが、何があろうと、ルーナは必ずお前の元に返してやる﹂
だから、と続く声に促されて目を開けた。
柔らかい陽光の下で、ルーナとユアンが遊んでいる。きっと剣の
稽古だろうけど、斬りかかったユアンの剣を受けもせずひらりひら
りと避けるルーナは、まるで踊っているみたいだ。もうっ、もう!
と頬を膨らませて地団太を踏むユアンを見るルーナの瞳は柔らか
い。
ふと顔を上げたルーナと目が合う。空の色よりもずっと澄んだ水
色が一度瞬いた。太陽を背負っているのはルーナなのに、水色は眩
しそうに細まっていく。私の後ろは暗い洞窟で、ルーナのほうがよ
ほど眩しい。だからだ。息ができないくらい胸がぎゅっと締まるの
は。
﹁頑張れ、親友﹂
アリスが押してくれた勢いのまま走り出す。
﹃好きだよ、カズキ﹄
血の味のするキスをして、ルーナは言った。
﹃みんな今のカズキを愛した。忘れるな。お前だから、俺達の出会
いは意味を持ったんだ﹄
そう、言ってくれた。
ルーナが見せてくれなかった傷がある。ルーナが教えてくれなか
った悲しみがある。
私はルーナを傷つけた。ルーナを悲しませて、苦しませて、十年
経った今も癒えない傷をつけた。もしかしたら、私は、ルーナと会
わないほうがよかったのかもしれない。
それでも。
﹃お前に会えたその事実だけで、俺は一生、幸福でいられる﹄
842
そう言ってくれたルーナの言葉を信じたい。
私と出会えて幸せだと言ってくれたルーナを信じたい。
私の所為だと泣き喚き、ルーナから離れるのは、お前なんかと出
会わなければよかったとルーナに言われてからでも遅くはないはず
だ。
﹁ルーナ︱︱!﹂
徐行せずに突っ込んだ私にルーナは慌てて両手を広げた。ルーナ
が記憶を失ってからずっと、どこかでしていた遠慮を全部捨て去る。
体当たりに近い勢いのまま、私も両手を思いっきり広げ、ルーナの
胸に抱きつく。本当は首に齧り付きたいところだけど、この勢いの
ままだとルーナの顎に頭突きをかます未来しか思い浮かばない。
右足を一歩後ろに下げることで転倒を免れたルーナは、目を丸く
して私を見下ろしていた。ちょっと幼いその表情が、昔みたいで可
愛い。
﹁な、なんだ?﹂
初めて笑ってくれた時は嬉しかったなぁ。
初めて手を繋いでくれた時は嬉しかったなぁ。
初めて好きだと言ってくれた時は嬉しかったなぁ。
初めて泣いてしまった時、狼狽えながら上着を脱いで頭からかぶ
せて、ついでに樽もかぶせて隠してくれた時は笑ったなぁ。何か音
がすると思ったら、外からこっそり空気穴開けてくれてた時は楽し
かったなぁ。
﹁ルーナ!﹂
馬鹿やったら呆れられたなぁ。
美味しいねって笑ったなぁ。
何もない所で三回転するくらい盛大に転んだらびっくりされたな
ぁ。
目が合ったら笑ったなぁ。
843
そのどれもがルーナにとったら傷になってしまったのかもしれな
い。
けれど、やっぱり思い出してほしい。私には全部大事で、ルーナ
もそう思ってくれていると、信じたい。そう言ってくれたルーナの
言葉を信じたい。
見上げる水色がぶれる。ルーナの中の私がぶれる。
それでもいいよ。ぶれなくなるまで何度だって言うから。何度だ
って追いかけるから。
もし、思い出せなくても。もしも、一生思い出せなくても。
﹁好きだよ、ルーナ! 大好き!﹂
私も一生変わらないよ。変わらないで、一緒に待つよ。今度は一
緒にルーナを待つから。
いつか気が向いたら、怖くなくなったら、つらくなくなったその
時。
戻ってきてくれたら。
嬉しいなぁと、思うんだよ。
昔、豪華な温室で育った子どもがいたと聞いた。温室で育ちなが
ら、人の手に触れられることなく、温もりを知らない子どもがいた
と聞く。
その子どもの名は、ルーナ・サファイルだと、聞いた。
844
63.神様、少しだけ時間をください
ふっと意識が浮上した。泥のように眠っていたわけじゃないけど、
夜中に目を覚ますなんて稀だ。
ゆらゆら影の揺れる世界をぼんやりと見回す。普通は深夜独特の
藍色の世界が広がっているけど、ここは月明かりがないから、通風
孔の前に置かれている灯りが無かったら本当に真っ暗で何も見えな
い。
どうして起きちゃったんだろうと、目を擦りながら首を傾げてい
たけれど、すぐに理由が分かった。
二つぴったり並べているベッドの上を四つん這いで進んで、横に
いたユアンを乗り越える。ベッドの上は立つより這ったほうが早い。
﹁ルーナ﹂
アリスとユアンを起こさないように声を潜めて、でもルーナを起
こせるように強めに揺さぶる。
﹁ルーナ、ルーナ﹂
駄目だ、起きない。
アリスとユアン、起こしたらごめん。
﹁ルーナ!﹂
潜めていた声を張り上げる。寝起きとは思えない、自分でもちょ
っとびっくりするくらい大きくぱんっと張った声が出た。でも、そ
のおかげで水色の瞳が弾かれたようにびくりと開いてくれた。
強張った水色がさっきの私みたいに部屋の中を彷徨って、私で止
まる。
﹁おはよう﹂
なんて言えばいいのか分からなかったから、とりあえず起床した
845
人間に一番あてはまる挨拶を選んでへらりと笑ってみた。正解かど
うかは分からないけど。
﹁⋮⋮ああ、ごめん。うるさかっただろう﹂
ルーナは汗に濡れた顔を両手で覆って俯いた。
﹁無言であったよ! 大丈夫!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮カズキは起きただろ?﹂
﹁何気なく!﹂
なんとなく起きてしまっただけで、ルーナは何も悪くないのだと
必死で伝えていたら、必要以上に声が大きくなってしまっていた。
ルーナは人差し指を当てて、私の音量を下げるよう伝えてくれた。
衝立の向こうで着替えているルーナが戻ってくるまで何となく正
座で待っていたら、ど真ん中で正座していた所為でユアンに蹴られ
た。ごめん、邪魔でした。
ユアンに掛布をかけ直して端っこに移動したところではたと気づ
き、慌てて後ろを振り向く。ユアンにかけた掛布はアリスのだった。
何もかぶらず壁端を向いて寂しく眠るアリスに、慌ててさっきまで
私が使っていた掛布をかける。⋮⋮あれ? ルーナとユアンのがど
っちか分からなくなった。まあいいや。どうせ朝起きたらごっちゃ
混ぜだ。主に私とユアンの所為で!
開き直って、また衝立に視線を戻す。戻ってくるまで待っていた
けど、戻ってこない。
ルーナが魘されるのは今日が初めてじゃない。というより、よく
魘される。
明日は、出陣なのに。
出陣といってもいきなり戦闘に入るんじゃなくて、戦闘に行くた
めの行軍だけど、出陣に変わりはない。心配なのも、行かないでほ
しいのも、変わらない。言ってはいけないことだから言わないけど。
しかし、こうも魘されていたら、体調が悪くなってもおかしくは
846
ない。
﹁ルーナ? 覗き魔するよ?﹂
一応一言かけてからにしようと思ったら、衝立の向こうで噴き出
された。
﹁覗き魔はやめてくれ﹂
せめて普通に覗いてくれと言われたので、頭を横にして覗いてみ
た。こっちの世界に来たときは肩を少し越えるくらいだったのに、
いつのまにか結構伸びている髪が顔面を覆って何も見えない。
﹁それはただの怪談だ﹂
私もそう思う。これ、ただのホラーだ。
ここは地下だから月明かりは差し込まない。灯りは、岩壁を削っ
て作られた小さなくぼみに設置された蝋燭だけだ。その小さな灯り
に下から照らされて影を作ったルーナは、もう怖くない。
再会した時は、それは怖かった。もうとんでもなく。お前誰だと
叫びだしたいほど怖かった。逃げ出したいほど、というか、逃げだ
したほど怖かった。
でも、今は全く怖くない。だって、ルーナが笑ってる。
声を潜めて笑うルーナが眩しい。光源は小さな蝋燭一つなのに、
眩しくて堪らない。
眩しいのにずっと見ていたくて見つめていたら、ルーナと目が合
った。少し困ったような笑いに変わってしまって残念だ。
﹁起こしてごめんな﹂
﹁欠片も問題ないよ。ルーナは睡眠できるそう?﹂
明日は早いから少しでも眠れるに越したことはない。ベッドに戻
ろうと促したら、ルーナはちょっと考えていた。眠れないのだろう
か。だったら、何か温かい飲み物でも持ってこよう。
﹁飲むもの頂戴してくるから、待ってるしていて﹂
﹁待て、カズキ﹂
847
﹁少しそこだよ﹂
だから一人で大丈夫だと言ったら、ルーナは首を振った。そして、
私の足元を指さす。その先を辿って視線を下ろし、納得した。
アリスとユアンの靴を履いている。しかも左の靴を右に、右の靴
を左に履いている体たらく。靴の爪先が自由な方向に向いている。
暗かったからでは言い訳不可能なくらい、何一つとして合ってい
ない。
いやぁ、失敗失敗。うへへと誤魔化し笑いを浮かべながら靴を履
きかえた私の前に、ルーナの手が差し出された。これはどうも御親
切にとその手を借りて立ち上がったら、そのまま繋がれた。嬉しい。
思わず握り返したけど、よく考えたらどうして握ってもらえたの
か分からない。
﹁カズキ、悪いけれど、少し付き合ってもらえないか?﹂
﹃はい、喜んで︱︱!﹄
首を傾げていたら夜更かしのお誘いを頂いて、これまた思わず了
承してしまった。手放しで嬉しい。それに、ルーナは明日から大変
なんだから眠ってもらったほうがいいとは思うけど、このまま眠っ
て悪夢を見たら本末転倒だ。体力ごっそり持っていかれる。それだ
ったら、少し落ち着いてからのほうがいいはずだ。その手伝いなら
私でもできる。おしゃべりして気分を紛らわせたいなら果てしなく
喋るし、ただ一人になりたくないだけなら私は貝になるよ!
鼻息荒く気合を入れていたら、背後でユアンが唸った。うるさく
てごめん、ユアン。とりあえず今は貝になります。
チャックのある貝になった私は、ルーナに引かれるままに部屋を
後にした。
ここは、昼でも夜でも大して変わらない。ぽつぽつと現れる灯り
だけを頼りに進んでいく。それにしても、皆どうして道が分かるの
だろう。私は未だにさっぱりだ。
階段を上がっているのは分かる。上がっていく内に予想した通り、
848
辿りついたのは皆でよく遊ぶ場所だ。上向いてぽっかりくり抜かれ
たような場所からは、綺麗な空が見えている。落ちてきそうな夜空
という言葉を聞いたことはあったけど、それを心からこういうこと
なんだなぁと思えたのは、この世界に来てからだった。
夜は、夜露の所為か、草木の匂いが濃密になる気がする。でも、
それだけじゃない匂いは空の匂いかなと言ったら、ルーナに笑われ
た。昔も同じことを言って笑われた。
そして。
﹁そうかもな﹂
そう言ってくれるのまで、同じだ。
どうしようね、ルーナ。記憶があってもなくても、あんまり変わ
った気がしないんだよ。首の傾げ方とか、笑い方とか、その為の呼
吸のタイミングとか。好きな所、全然変わってないんだよ。
﹁夢をな、見るんだ﹂
﹃うん﹄
﹁本や玩具ばかりが所狭しと転がってるのに、俺しかいない部屋に
座ってるんだ﹂
﹃うん﹄
﹁あれは、俺の過去だろう?﹂
繋いだ手に力を籠めてしまう。けれど当人であるルーナは、強張
った様子も気負った雰囲気もないことにほっとした。
﹃私も、聞いた話になるけど﹄
﹁誰から?﹂
﹃ルーナから﹄
ルーナから聞いた話をルーナに話す奇妙な状況に、ルーナは苦笑
した。
どうしよう。泣きたいくらい時間が穏やかだ。ルーナの雰囲気が
凄く柔らかいのは夜だからだろうか。
こんなに穏やかな進み方をする時の中では、ずっとぐるぐる回っ
849
ているろくでもない考えが全部砕け散る。何だって出来ると、どこ
までだって行けると、そう思ってしまう。
﹃ルーナのお母さんは、他の誰かにルーナを触らせるのが凄く嫌で、
メイドさんとかも遠ざけて、五歳になるまで外に一歩も出たこと無
かったって﹄
ルーナのお父さんは凄くモテて、他にもたくさん女の人がいたら
しい。その中で最初に子どもができたお母さんが正妻になって、生
まれてきたルーナが男の子だったから正妻のままだったと、聞いた。
お母さんは、ルーナがいなくなったら他の女の人が家に入ってくる
からと、ルーナを失うのを何より恐れていたらしい。けれど、ルー
ナのお父さんが他の女の人の所に行くのも嫌で、傍にいられるとき
は常についていったから、ルーナはいつも一人だった。使用人の人
達は、ルーナが生きているかどうか確認に来るだけで、声をかけた
り、遊んでくれたりということはなかったそうだ。
ルーナはいつも、窓際に座って本を読んでいたという。そんな小
さな頃から絵本じゃない本ばかりを読んでいたから頭がいいのか、
頭がいいから読めたのか。卵が先か鶏が先かの疑問は置いておこう。
﹃でも、庭が綺麗だったんだって﹄
﹁⋮⋮そうだな。なんとなく、思い出せる。かなりの周期で花壇に
植えられている物が変わっていくのが、唯一、面白かったような気
がする﹂
部屋の外を知らないルーナに、少しでも外を見せてあげたいと思
った庭師さんがいたのだ。庭師さんは、既に咲かせた花をせっせと
花壇に植え替えた。早い周期でたくさんの種類を入れ替えて、色ん
なものを見せてくれたそうだ。新しい花は、地面に名前を書いて教
えてくれたという。
850
でも、そんな日々は突然終わりを告げた。
ルーナに弟がいたのだ。その弟が、既に騎士としての訓練を始め
ていると聞いたルーナのお母さんは悲鳴を上げたという。弟のお母
さんは、ルーナのお母さんより身分が高かったのもこじれた原因だ
と、全く興味なさそうにルーナは言った。
一番の元凶は、ルーナのお父さんが、後継ぎはいるならそれで後
はどうでもいいという方針だったことだ。一歩も外に出ていないル
ーナの跡継ぎとしての認知度は、致命的なまでに低かった。
ルーナのお母さんは、通常八歳から入学するはずの騎士学校に五
歳のルーナを放り込んだ。休みの日は必ず帰宅するようにして、大
人でも厳しい訓練を受けさせた。幸いというべきかは分からないけ
れど、才能があったルーナはぐんぐんと腕前を伸ばしていったので、
お母さんは安心した。
安心して、お父さんべったりに戻った矢先、亡くなった。
死因は病だったと聞く。事故だったとも聞く。事件だったとも聞
く。
詳しい話は何も分からないまま、ルーナに関係することは、ルー
ナに関係ない場所で、ルーナではない人達が決めていった。
ルーナは、学校で訃報を受け取った。
しかし、既に葬儀は終わり、サファイル家の跡継ぎは弟となって
いた。正妻になった人は、先妻の息子であるルーナを家から追放し
た。それが罷り通ってしまうくらい、ルーナのお父さんは家のこと
に全く興味がなかったのだそうだ。
厄介事の塊とされてしまったルーナを引き取る人は誰もいなかっ
た。孤児院にいれるという話すら出ていたという。それは、外聞が
悪いからという理由で却下されたらしいけれど、外聞というならも
う相当だと思う。
大人達が揉める中、ルーナは初めて自分の家の庭に足を踏み入れ
た。
851
だけど、ルーナがいた部屋から見える花壇に、花はもう咲いてい
なかったという。庭師の男は、正妻になった人が家中の使用人をす
べて入れ替えた時に一緒にクビにされていた。
その時、ルーナは初めてがっかりしたと言った。一度でいいから、
いつも眺めていた庭に立ってみたかった。一度でいいから、あの庭
師から直接花の名前を聞きたかった。そう思ったと。
自分の幾末より、庭に花がなかったことにしか気になる事がなか
ったルーナを門の外から呼ぶ人がいた。
それが、フセル・ホーネルト。
ルーナに花を見せてくれた、庭師さんだった。
庭師さんの養子になったルーナは、騎士学校の寮に戻り、卒業後
はそのまま戦場に行った。だから、庭師さんと暮らしたことはない
という。けれど、手紙はいつも来ていた。砦にも、毎月届いていた。
ルーナと恋人になった日、会わせたい人がいると、私に教えてく
れた。
その時に、昔の話も教えてくれた。
どうして人形兵器だなんて呼ばれていたかの理由として教えてく
れたのだけど、歯をぶつけ合う事故じゃないキスにいっぱいいっぱ
いだった私としては、庭師さんありがとうという感想しか思い浮か
ばなかった。
それからは、手紙も読ませてくれた。異様に可愛らしい便箋は彼
の奥さんの趣味で、ちょっと笑ってしまった。返事で私のことを書
いたのか、今度連れてきなさい、忙しくても連れてきなさい、どう
でもいいから連れてきなさいと書かれていて、これまた笑った。
︻猫も犬も、幼い頃に人の手が触れていない動物は、一生人に懐か
ない︼
852
昔、ルーナは無表情でそう言った。確かに、その頃のルーナは自
分から誰かに触れることはなかったし、ティエンが肩を組もうとし
てもひらりと避けていた。それを考えると、私がいなくなっていた
間に荒れたという十年間は、ある意味随分人間らしい荒れ方だった
のかもしれない。良い事かは分からないけど、そう思う。
いまルーナは、私と繋いだままの手を軽く持ち上げた。
﹁俺は、人に触れるのが苦手だったようなんだけどな?﹂
ちょっと茶化すように言われて、私はへらりと笑って盛大に目を
逸らした。
﹁⋮⋮⋮⋮その反応が返ってくるとは思わなかった﹂
理由を聞こうと待機しているルーナに、私は逸らした目線を彷徨
わせて、夜空に固定した。わあ、星が綺麗!
駄目か。観念しよう。
﹃⋮⋮⋮⋮転んで、転がって、落ちて、滑って、飛んで、沈んでい
く私を助けてくれている内に、どうでもよくなったそうです﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
なんか、高尚な理由とか輝かしくも尊い思い出ではなくて本当に
申し訳ない。一応言い訳させてもらうなら、ゴム底じゃない靴を履
き慣れていなかったというのを上げさせてもらおうと思う。今はさ
すがにそこまで盛大に転がってはいかない、はずだ。
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64.神様、離ればなれは少しだけだと
呆れられるかなと思ったけれど、ルーナは特に何も言わない。会
話も途切れてしまったので、同じように星でも見てるのかなと視線
を戻したら、水色と目が合った。ずっと見られていたのかと思うと、
急に恥ずかしくなる。欠伸しなくてよかった。でも、ちょっと待っ
て。私起きてから鏡を見てないから、目やにとか涎とか確認してな
い。寝癖は諦める。寧ろそっちを見て。
どうせならここに来るまでに確認しておけばよかったと思うけれ
ど後の祭りだ。水色が綺麗で、もっと見ていたくて、逸らしてほし
いと思えない。
逸らせずに見上げた水色がぶれる。
待って、ルーナ。私まだ、もうちょっとだけでいいから、手を繋
いでいたい。
水色の中で私がぶれる。そのまま溶けてしまうと思った瞬間、ル
ーナは固く目を瞑った。
はっとなって、慌てて繋いでいた手を離す。
﹃ごめん、ルーナ! しんどかった!? 頭痛い!? 目!? 目
が痛い!?﹄
ごめん、私を見ていたら苦しかった!? ごめん、ごめん、ルー
ナ。ルーナが大丈夫になるまでゆっくりでいいから、いつかでいい
からと思っていたのに逸らせなかった。逸らすべきだった。今のル
ーナにはつらい行為なら早く逸らしたらよかったのに、ごめん、凄
く嬉しくてつい見入ってしまった。
触っていいのか、寧ろ黙ったほうがいいのか分からず、両手を彷
徨わせていた私の両手が掴まれる。目を閉じているのにどうして掴
854
めたのだろうとびっくりして飛び上がった私の前で、ゆっくりと、
両眼が開かれていく。
綺麗な水色の中で、私がびっくりしている。びっくりした私が、
揺れずに、水色の中にいる。
﹁カズキは、怒っていいんだ﹂
﹃何を?﹄
夜に起こされたこと? ルーナだって好き好んで魘されたわけじ
ゃないし、困ったときや苦しいときはお互い様だし、寝てる間のこ
とを怒るとなると、私とユアンは毎朝ルーナとアリスに土下座から
一日を始めなければならなくなる。⋮⋮あれ? それ今でもわりと
してるな。
そう聞くと、視界がぶれた。目の前が真っ黒になって、何が何だ
か分からない。聞くと視界が奪われる禁断の質問だったのかと驚愕
したけれど、温かさと音が染み込んできて、やっと理解した。
﹁それだって怒っていい。押し付けられる理不尽なものにも怒って
いい。俺の弱さを、押し付けられたことを、怒っていいんだ﹂
離れたくなくて押しつけた耳に、心臓の音が聞こえる。背中に、
頭に、回った掌が温かい。どうしよう。私も抱きしめたい。意を決
して、彷徨わせた手をルーナの背中に回す。服をぐしゃりと握り締
めてしがみつく。
﹁俺がカズキの弱さを背負うと約束したのに、結局また背負わせた﹂
﹃思い、出したの?﹄
ルーナは申し訳なさそうに首を振って、また謝る。
﹁俺は、カズキに背負わせてばかりだ﹂
そんなのどうでもいいよ。帰ってきてくれたじゃない。生きて、
帰ってきてくれたじゃない。
﹃⋮⋮アリスに、何か、聞いた?﹄
ツバキと話した内容を聞いたのかもしれないと、ふと思った。ル
ーナは答えない。それが答えだと分かる。
855
﹁⋮⋮一緒にいて、分かった。結局俺は、記憶があろうがなかろう
が、カズキがいようがいまいが、気になるんだ。どうあっても気に
なるくせに、失うのが怖いからと思い出せないのは、ただ俺の弱さ
だ。カズキの所為なんかじゃない。記憶の中の俺は、カズキとの記
憶に縋って生きた。カズキとの記憶は弱みじゃない。俺の支えだっ
たんだ﹂
鼻の奥が痛い。目の奥が熱い。
どうしよう。最近私は、随分と泣き虫だ。
泣いていいといってくれたルーナの前だからそのまま泣いていい
のか、それともまだ記憶を思い出せないから堪えたほうがいいのか。
分からない。どうでもいい。いま、ここにルーナがいる以上に大
事なことなんてない。
﹁前に、聞きそびれたことを、聞いてもいいか?﹂
声を出したら鼻水出そうで、頷くことで返事にする。
﹁カズキは、俺の何を、好きになってくれたんだ?﹂
声には純粋な疑問しかない。私がルーナを好きだということを疑
っていないことが嬉しい。ちゃんと伝わっていたんだ。
鼻を思いっきりすすって、何度も息を吐く。何度吐いても、熱っ
ぽさが消えない。しゃくり上げそうになる胸をなんとか落ち着かせ
る。
答えを探す必要はない。だって、私の中に既にある答えだから。
﹃言葉が、人の心を打つって、初めて、知った。それが私の言葉だ
ったことが、信じられなかった。何気ない言葉でも、私が言った言
葉が誰かの中で咲いた瞬間を、初めて見た。言葉が、誰かに影響す
るって知ってたのに、初めて分かった。言葉が誰かの心を揺らして、
芽吹いて、咲いた。気持ちが、言葉で届くって教えてくれた。⋮⋮
ルーナが、教えてくれたんだよ﹄
856
涙が止まらない。熱なんて出てないのに、流れる涙で火傷しそう
だ。
﹃私の言葉を胸の中で咲かせてくれるくらい、誰かに好きになって
もらったのなんて、初めてだった。何気ない言葉を美しいものとし
て咲かせてくれるルーナが、私の言葉で、嬉しそうに笑ってくれる
のが嬉しくて、もっと笑ってほしくて、笑ってくれたら、嬉しくて﹄
言葉は、気持ちは、私の中だけで持っていたって咲いたりしない。
そこに意味が出来たり、輝いたりしない。言葉に意味を持たせてく
れるのは、いつだって自分以外の誰かだ。その中に意味を見出し、
何かの糧にしてくれるのは、言葉を受け取ってくれた誰かなんだ。
﹃ルーナ。私の言葉を、綺麗なものにしてくれてありがとう﹄
私の気持ちを美しいものとして受け取ってくれる、純真な心が眩
しかった。信じられないほど真摯な気持ちを初めて向けられて戸惑
った。けど、どうしようもなく嬉しくて。そうしてくれるルーナの
美しさが、どうしようもなく、好きだった。
ルーナの中で咲いた美しさに恥ずかしくない人間になろうと思っ
た。私の言葉を真摯に受け止めてくれる人がいると知ったから、絶
対に傷つける言葉は吐かないでいようと決めた。侮辱や罵倒を、悪
意の気持ちで吐いたりしないと決めた。
どんな言葉も、何気ない言葉でも、全身全霊で抱きしめてくれる
人がいると教えてくれた。
だから私も、ルーナが受け止めてくれる真摯さに、応えられる人
間でいたいんだ。
腕の力が強くなって、深い息が身体に染みこむ。きっとこれは言
葉だ。音にならなかっただけで、ルーナの気持ちだ。
﹁ありがとう︱︱⋮⋮﹂
ルーナはそれ以上何も言わなかった。でも、それでもいい。
お互いの心臓の音が混じり合うだけで、伝わるものもあると思う
857
から。
﹁⋮⋮必ず思い出して帰ってくる。だから、もう少しだけ待ってい
てくれるか?﹂
頷くだけでもきっと伝わる。抱きしめる力を強くしても分かって
くれる。
だけど、大事なことは言葉にしたい。それが言葉として形に出来
るのなら、ちゃんと、言葉で伝えたい。
背中から手を離してルーナの胸を押す。やんわりと緩めてくれた
腕の中で、一所懸命顔を拭って息を整える。
好きだよ、ルーナ。大好きだよ。
気持ちが溢れだせば、自然と笑顔になっていく。
一緒には行けない。今は一緒にはいられない。だから、持ってい
って。今の私を、記憶として連れていって。
﹃はい、喜んで!﹄
私は会心の笑顔を放った。だって、水色に全開笑顔の私が映って
いる。水色の中の私は、笑顔のまま目を見開いていく。落ちてきた
唇は額だったけど、触れた瞬間、びっくりして思わずぎゅっと目を
瞑ってしまう。
そして、何だか無性に恥ずかしくて、部屋に帰るまで顔を見られ
なくなったのは私だった。
何だか照れくさい気分のまま部屋に戻ったら、ぶすっとしたユア
ンがアリスに羽交い絞めにされていた。
﹁⋮⋮⋮⋮何事?﹂
靴を脱いでベッドに登ると、ユアンは盛大に不貞腐れた顔で睨ん
858
できた。
﹁起きたらママがいないから探しに行こうとしたら、アリスが俺を
邪魔するんだ!﹂
﹁私は寝ている﹂
﹁絶対うそだ!﹂
ユアンに同意だ。絶対嘘だ!
結局私達は、夜も更けたというのに、くすぐり合いから足相撲ま
で遊び倒してしまった。
足相撲を知らなかった三人に比べて、私は歴戦の勇者。騎士でも
何でもない私にも勝利することは可能だ! まあ、結果は華麗なる最下位だった。そして、ルーナとアリスの
勝負がいつまで経ってもつかなくて欠伸をしたことまでは覚えてい
る。
いつ眠ったのか分からない二人だったけれど、朝はちゃんと私達
より先に起きて着替えも終えていたのは流石だ。でも、二人の頭で
ぴょいんと跳ねている寝癖を見つけて、ユアンと二人、ベッドの上
から笑った。
この近辺には入口を探そうとしているガリザザ軍がたむろしてい
るから、ルーヴァル軍は地下道を通って遠い出口から出る。まだ移
動だから、鎧を着ている人はいないけど、荷物の中でがちゃがちゃ
している音が凄い。
でも、そんな音に負けないくらい、送り出す人達の声が溢れ返っ
ている。あっちではラヴァエル王子⋮⋮じゃなくて、もう王様だ。
ラヴァエル王に、ミヴァエラ王子が何かを言って、その頭をぐしゃ
ぐしゃに撫でられて頬を膨らませている。アマリアさんは、ロジウ
さんの胸と自分の胸に掌を置いて、何かを言っていた。アニタはロ
859
ジウさんに屈んでもらって額を合わせて、何かを言っている。きっ
と、それぞれの祈りだろう。武運を、無事の帰還を、生還を。
なんで分かったかというと、あちこちで祈りが溢れているからだ。
言葉は祈りだ。祈りを声で相手に届ける。
一緒に戦えない人間に出来ることは、必死の祈りと、彼らに生き
て帰りたいと思ってもらえる記憶を持っていってもらうことだけだ。
私もいろいろ考えた。いっぱい、頭がショートするくらい考えた。
でも、気の利いた言葉なんて思いつかない。祈り方も知らない。だ
から、素直に願いだけを連れていってもらうことにした。
﹁ルーナ、アリス﹂
二人の手を握って、顔を上げる。
﹁待ってる!﹂
持っていって。
願いを言葉で連れていって。
必ず戻ってくると信じてる。信じないと、見送れない。背中は押
せないけど引っ張らないから、帰ってきて。
繋いだ手は震えが止まらないけど、声は震えなかった。
﹁俺も、待ってる。だから、早く帰ってこいよ﹂
ユアンはアリスに抱きついて、頬に親愛のキスを贈り合う。私も
ルーナに抱きついて、頬に贈り合った。
﹁カズキ、一つ聞いてもいいか?﹂
﹁宜しいよ?﹂
﹁夢の中でいつも、答えを聞けない言葉があるんだ﹂
何だろう。ちゃんと答えられるだろうか。忘れてしまっていなけ
860
ればいいな。
まだ聞かれていない記憶を必死に掘り出す。
﹁砦で、ティエンチェンに引っ張られて遊びに参加していた話をし
た時﹂
﹃色鬼で黒毛と言ったティエンを絶対に許さない﹄
おかげで皆に頭を掴まれて眉毛を触られ、もみくちゃになった。
でも、そのティエンに高鬼と色鬼を教えてしまったのは私なので、
自業自得ともいえる。黒毛和牛食べたくなった恨みも忘れないけど。
ルーナは笑いながら、違うと言った。
﹁かくれ鬼は、何の遊びだと言った?﹂
それなら覚えている。ティエンが突如として開催する鬼ごっこだ
のかくれんぼだのの遊び大会。勿論非番の人だけで、参加自由だけ
ど娯楽の少ない場所だったからか、結構な参加率を誇っていた。そ
んな中でもルーナは毎度断っていたけれど、全員から追いかけられ
て参加せざるを得なかったので、思わず応援したものだ。
そんな時にかくれんぼの話を聞いた。ルーナは、一度も見つかっ
たことがなかった。かくれんぼの時は、これ幸いとどこかに篭って
本でも読んでいたのだろうなと苦笑した覚えがある。かくれんぼは
隠れる遊びだろうとルーナが言うから、確か、違うと答えた。
﹃かくれんぼは、見つけてもらう遊びだよって言った気がする﹄
それがどうしたんだろう。かくれんぼしたいんだろうか。帰って
きたらしようね!
答えられてよかったと安堵したら、ルーナは深く息を吐いて目を
閉じてしまった。さあ、私は一体何をやらかした!?
いまこの状況でのやらかしは、いつものやらかしの比ではないく
らいまずい。
わたわたしていると、再度深く抱きこまれた。
﹁⋮⋮お前と出会えた幸運に、感謝する﹂
よく分からないけど、離れたルーナの顔は穏やかに笑っていたの
861
で幸せだ。
一度離れて、くるりと相手を交代する。ユアンはルーナに、私は
アリスに贈り合う。日本人の私にはちょっと照れくさいけれど、想
いを伝えるのにもっといい方法を知らない。
アリスとの挨拶は、ちょっと追加もあった。頬に贈り合った後、
頬を寄せて耳飾りを軽く触れ合わせるのだ。
いろんな祈りの形がある。でも籠める願いも想いも変わらない。
どうか無事で、待ってる、帰ってきて。
後、大好き!
﹁行ってくる﹂
うん、ルーナ。待ってる!
﹁大人しく待っていろ﹂
うん、アリス。それは約束できないなぁ!
言葉に出してなかったのに、アリスには頬を抓られた。どうして
分かったのだろう。
壁だと思っていた大きな岩が、左右五人ずつが引っ張る太いロー
プで動いていく。
その先にぽっかり空いた暗闇に、皆が消えていく。振り向いて手
を振る人、まっすぐに前だけを見る人。進むだけでも人それぞれだ。
ルーナとアリスは、振り向かなかった。
﹁待ってる!﹂
行軍の音と、他の人の声で聞こえるはずがないと思っていたのに、
二人は同じタイミングで拳を上げてくれた。
ユアンと固く手を握り合い、立ち尽くす。もう姿は見えなくなっ
たのに、一歩も動けない。
これが最後の光景だったら嫌だ。背中を最後の記憶にしたくない。
862
ちゃんと前を向いて、顔を見ておかえりと迎えたい。
待ってるから。
私はここで待ってるから、絶対帰ってきて。武勇なんて要らない。
英雄として語られる誉も、名誉も名声も、何も持って帰らなくてい
い。その身一つでいいから、お願いだから帰ってきて。
エレナさんの言っていたことが、今なら分かる。ここに二人の英
霊の像が建ったとしても、全然嬉しくない。無様でいい、泥まみれ
でいいから、生きて帰ってきて。
それまでずっと待っている。二人が帰ってきた時、走ってすぐに
出迎えられるよう脚力鍛えて待ってるから。
何があろうと、私は変わらず二人が帰ってくる先にいる。帰って
くる理由の一つであり続ける。
待ってるよ。
ここで待ってる。二人を待ってる。
絶対に、何があろうと。
待っていたかったんだよ︱︱⋮⋮。
863
65.神様、少しだけだと信じていました
戦端が開かれたと連絡が入ったのは三日前。
ルーヴァルの国民は、国を取り戻そうとするルーヴァル軍の進行
を妨げたりしない。王都の近くまで行軍は順調だったと聞いたとき
は安心した。順調であればあるほど、戦端が近くなると分かっては
いたけれど。
私達は、ルーナ達がいる方向を眺めることが日課になった。
何でもないことを話しながらユアンと二人で外を眺めていると、
後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきた。
﹁ユアン様、ごきげんよう!﹂
﹁私もいるよ!﹂
寂しい!
ユアン限定に放たれた挨拶に激しく自己主張する。ドレスの裾を
持ってちょこんと挨拶していたアニタは、そのままきゅっと回転し
て私を向いた。
﹁カズキ! 出かけませんこと!?﹂
﹁ん!?﹂
小さな手が私の手を握る。目がキラキラしていて、凄く可愛い。
そういえば、いつからおば様呼びじゃなくなったんだろう。
﹁物資調達班が街まで出るみたいなの! 今なら姉様もいないから、
こっそりついていってお買いものしませんこと!?﹂
ぴょんぴょん飛び跳ねているアニタが可愛い。うきうきしている
のも可愛い。
でも、こっそりは頂けないと思います!
﹁ごっそりは禁止事項だよ、アニタさぁん﹂
﹁こっそりでしてよ! ねえ、よろしいでしょう? だって、もう
864
ずっとこもりっきりですもの。ね? 少しくらい羽を伸ばしにいき
ましょう?﹂
どうしよう。既に行く気満々だ。
今朝まで私達と一緒にここから戦場の方向を眺めていたアニタの
寂しさが爆発して、変な方向に向かってしまったようである。アマ
リアさんも忙しいみたいで、あまり見かけないことも大きいと思う。
九歳のアニタが一人で抱えるには厳しい。だって、もう十九の私も、
全然、平気でいられない。
ロジウさんを見送った不安と遣る瀬無さを紛らわせるならそれに
越したことはないんだろうけど、困った。こっそりは駄目だ。
﹁ごめん、アニタ。私、街でお買いものおこなったことがないよ﹂
﹁大丈夫よ。あたくしが案内してさしあげるわ。何度もいったこと
があるから、任せてくれてよくってよ!﹂
胸を張る様子は可愛いけれど、その何度もは許可ありとなし、ど
っちなのかが凄く気になる。でも、それを聞いたらもう知らないと
走り去られそうだから、一先ずは置いておこう。
腰ほどの高さしかないアニタの顔が見えるよう、膝をついて目線
を合わせる。
﹁ごめん、アニタ。私、初めての街巡りのお買いものは、ルーナと
のデートに取っておきすると決めているなので、ごめん﹂
皆で出かけてもいい。でも、そこにルーナがいないとデートにな
らない。
ルーナとアリスと一緒に雨の中を走り抜けた。デートしようね、
買い食いもしちゃおうねと約束した。先に一人でデートに行ってし
まうのは約束破りになる。ルーナは気にしないかもしれないけど、
やっぱり待っていたい。
もう一度ごめんねと謝ると、アニタはしゅんっと肩を落とした。
﹁それでしたら、しかたがなくってよ。淑女は約束を守るものだも
の。いいわ、あたくしがカズキにつき合ってさしあげてよ! さあ、
カズキ! 座りなさい!﹂
865
要約すると、遊びなさいと言うことみたいだ。
虫掘りか、虫投げか、剣の稽古か! と身構えたら、アニタは本
を読み始めた。淑女万歳。私の基準が全く淑女ではなかっただけで、
特に身構える必要はなかったようだ。
﹁ママ、俺向こうで遊んでる﹂
﹁はーい﹂
暇だったようで、早々に逃げ出したユアンを見送る。向こうとい
っても、どうせそんなに広い場所じゃない。くるっと視線を回せば
必ず見つかる範囲だから特に気にしないでいいのだ。
ちょうど通路からミヴァエラ王子が現れた。彼の護衛の人達も、
少し顔ぶれが違うのは、やっぱり戦闘に出た人員調整の結果なのだ
ろうなと思う。
二人は少し話して、ちらりとこっちを見た。なんだろうとひらひ
ら手を振ってみたら、満面の笑顔で虫を探し始めたので、見なかっ
たことにした。さあ、ルーナもアリスもいないこの状況で、どうす
ればキャッチ&リリースできるだろう!
まあ、その時考えようと、現実逃避もかねてアニタに視線を戻す。
﹁アニタ、何の本を読書しているの?﹂
﹁カズキも読むべきでしてよ!﹂
きらりと光った瞳に嫌な予感がした。ずいっと突き出された本の
表紙に、予感は現実となる。騎士ルーナと黒曜姫。どこまで私の前
に立ちはだかるのか!
﹁既に読書終えますたよ⋮⋮﹂
一冊だけだけど。
アニタはとても不思議そうな顔で私を見上げた。
﹁それで、どうしてそうなの?﹂
そうなのとはどうなの?
聞くべきか。聞かないほうが平和なのか。聞けば悲しい返事が返
866
ってきそうなので、話を変えることにした。
﹁アニタは、こちらの本、好きね?﹂
いつも読んでいるし、きらきらしながら私に勧めてくれる。
アニタは、読んでいた本を抱きしめて嬉しそうに笑った。
﹁ええ! あたくし黒曜なんてだいっきらいでしたけれど、兄様と
姉様が、会ったこともない人間を嫌ってはいけませんよと仰ってこ
の本をくださってから、この本がだいすきなの! ⋮⋮カズキ? どうしたの?﹂
変えた話の先で悲しいことになった。可愛い笑顔で頂いた大っ嫌
いに貫かれた。
いや、そもそも黒曜は黒曜石から来た通り名だから、石が嫌いと
かそういう理由だ! ⋮⋮ったらいいなぁ。
﹁お、お気にとめず⋮⋮﹂
﹁あの方が心配? ⋮⋮そうよね、ガリザザのまじないで記憶をう
ばわれた恋人だったなんて、どうしておしえてくださらなかったの
! あたくし、ただの想い人だと思っていてよ!?﹂
理由を聞く間もなく、更に変わった話題の先で怒られた。
いや、なんかごめんなさい。ロジウさんとかアマリアさんに聞い
ているものだとばかり。それに、聞いているかどうかを聞くのもど
うかなと思っていたら、まあいいやという感じになりました。
仲間はずれにしたわけじゃないけど、結果的にそうなってしまっ
てぷりぷり怒るアニタにへこへこ謝る。
でも、謝っていたらすぐに許してくれた。
﹁いいのよ⋮⋮恋人の記憶をうしなって、カズキも精いっぱいだっ
たのよね?﹂
慈愛に満ちた顔で頭を撫でられる。アニタは優しい。
小さな手で一所懸命私を慰めようとしてくれるアニタは、にっこ
り笑って本を持ち上げた。
﹁大丈夫よ、カズキ! この本を読んで解決方法をさがしましょう
867
! あたくしも協力してさしあげてよ!﹂
アニタさん、きっとその本を開いても解決方法は載っていないし、
その参考書、あまり役に立ちませんでしたよ? そうは思うけど、アニタがあまりに真剣だから何も言えずに一緒
にページをめくる。
﹁ほら、この場面とか⋮⋮あ、こっちの台詞も役に立つかも知れな
くってよ﹂
﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮はい⋮⋮﹂
次から次へと色んな案を出してくれるアニタに、言えないことが
一つある。
アニタさん。大変申し上げにくいのですが、ページめくるのが早
すぎて私のなめくじ並の字を読む速度では全然読めません!
一所懸命いろいろ考えてくれているアニタに、どうやってこのス
ペックの低さを伝えようか悩んでいた私は、たぶんとても悲痛な表
情を浮かべていた。
﹁⋮⋮大丈夫よ、カズキ﹂
気が付いたら、アニタのほうが泣きそうな顔で私の手を握ってく
れていた。
﹁きっと思いだしてくださるわ。だって、恋人なのですもの。ね?﹂
﹁う、うん?﹂
﹁大丈夫。きっと大丈夫。⋮⋮それに、もし、もしも記憶がなくて
も、またあらたに思い出を作ればいいの。大丈夫よ、だって、あた
くしも兄様も姉様も、みんな血なんて繋がってはいないけれど、家
族になれたのだもの! だから、大丈夫よ、カズキ! ね!? 元
気出して!﹂
﹁ええぇ!?﹂
励ましてくれているアニタには悪いけれど、とんでもない事実を
さらっと教えてくれたおかげで他のことが何も頭に入らない!
868
聞いていいの!? 駄目なの!? これは教えてくれたのか、そ
れともつい喋っちゃっただけなのか!
道理で、ロジウさんを見送っていたアマリアさんとアニタの祈り
方が違ったわけだと、今更気が付いた。喋り方だって、みんな違う。
それらは男女の違いだったり、性格の違いだったりだと思っていた。
わたわたしていた私が気が付いた時、周囲も騒がしかった。
そんなまさか、他の皆さんも初耳で!?
いつの間にか人がどっと増えている。その中にアマリアさんもい
た。アマリアさん達は壁の前に膝をつき、壁の一部を外して遠眼鏡
を差し込んだ。王子様の周りにも人が集まって、何か話している。
どうしよう。聞いていいんだろうか。
話しかけていい雰囲気じゃなかったので様子を見ていたら、視線
に気づいたアマリアさんが足音を立てずに近づいてきてくれた。私
も踏み出して近寄る。
﹁ガリザザ軍が﹂
そこまで聞いた瞬間、世界が揺れた。
聞きたくもないのに聞き覚えのある爆音が響き、真っ黒の煙が昇
り、空を覆い始める。
悲鳴を上げたアニタと震えるユアンに抱きつかれて尻もちをつく。
反射的に抱き返して見上げたアマリアさんは、いつも通りだった。
﹁攻めてきました﹂
何事もなかったかのように会話を続けられた。はい、凄く攻めら
れてます。
確かにこの周辺はガリザザ軍が屯していると聞いたけれど、いき
なり戦場になる状態だなんて知らなかった。パニックになりそうだ
けど、アマリアさんがあまりにいつも通りだから、驚いている私が
おかしい気分になってくる。
869
震える二人の頭を抱えている私に手を貸そうとして、手が空いて
いないことに気付いたアマリアさんは困った顔をした。困った顔を
する場所はここじゃない気がする。その後ろで黙々と上がる黒煙の
方だと思います。
私の視線の先を辿ったアマリアさんは、頷いた。
すみません! 何に頷いたのか分かりません!
﹁大丈夫です﹂
﹁はあ﹂
確かに、凄く大丈夫な気がする。
﹁この遺跡内にいることは元々知られていますし、偶にああやって
入口を作ろうとバクダンを使ってくるのです﹂
﹁は、はあ﹂
﹁基本的に、入口は壊されれば水に沈むように作られています。水
の中であの兵器は使えませんし、それでも強行突破されるようなら、
その隙に移動すればいいだけです。奴らが地下に辿りつくまでの罠
を突破できるとは思えませんが、まあ、いつものことです﹂
﹁はあ﹂
成程。どかんどかん爆発音がしているけれど、ここにいる人に取
ったらいつもの光景らしい。確かにみんな落ち着いている。遠眼鏡
で破壊されている場所と状況を確認してはいるけれど、誰も走って
はいないくらいのんびりだ。
﹁カズキ様がいらっしゃった際は、この数倍は派手でした﹂
それはどうもご迷惑を!
ユアンとアニタは震えているけれど、それは仕方がない。だって
ユアンは爆弾で子どもに戻ってしまい、アニタは本当にまだ子ども
だ。
破壊の意味では大丈夫だそうだけど、二人はここにいないほうが
870
いいと思う。火薬の臭いが充満して、煙いのもある。
﹁ユアン、アニタ、部屋に帰還しよう?﹂
爆発音に紛れてしまわないよう、ちょっと大きめの声で伝えると、
二人はこくこくと頷いた。
いったん離れてもらって立ち上がる時、さっとアマリアさんが手
を貸してくれた。どうやらさっきからタイミングを見計らっていた
らしい。ありがたく借りた手で立ち上がる。
お尻をはたこうとしたら、アマリアさんがはたいてくれて飛び上
がった。どうもありがとうございます結構です!
﹁ルーヴァルの残党共!﹂
爆音がやんだと思ったら、おじさんの声が響く。
﹁貴様らがそこにいるのは分かっているのだ!﹂
大丈夫です、おじさん。アマリアさん達は分かられているのを分
かってます!
顔が見えないので推定おじさんに向かって、心の中で言い返す。
壁が腰くらいの高さの場所もあるので、ちょっと覗けば見えるだ
ろうけど、特に見たくもないので背中を向ける。いまはとにかく、
ユアンとアニタを音の聞こえない場所に連れていってあげないと。
震える二人の背中をさすりながら、足を進めようとしたとき、そ
の言葉が響いた。
﹁ディナスト皇子は黒曜をご所望である! 黒曜さえ渡せば、貴様
らは見逃してやる!﹂
一瞬身体を強張らせたけれど、アマリアさん達は特に何の反応も
示さない。中には肩を竦めている人もいた。その様子に、おじさん
の言葉を選択肢に入れている人がいないと分かってほっとする。一
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瞬でも強張ってしまった自分を反省しよう。本当にすみませんでし
た。
﹁黒曜?﹂
大きな瞳を丸くして、アニタが私を見上げる。
﹁誰が?﹂
アニタの震えは止まっていた。
﹁カズキが?﹂
小さな唇が、きょとんと、私の名前を呼んだ。
﹁黒曜?﹂
﹁え⋮⋮⋮⋮?﹂
呆然とした声を上げたのは、後ろに傾いでいく私じゃなくて、私
を突き飛ばした子どもだった。
世界がやけにゆっくりに見える。
こんな時は世界がスローモーションに見えると聞くけれど、本当
にそうなんだと考える余裕があるくらい時間の流れがなだらかだ。
皆の視線が一斉にこっちを向いて、何かを叫びながら走りだす。
それを見て、またアニタに視線を戻した。いろんなことを考える
時間の余裕はあるのに、身体はちっとも動かない。
アニタは呆然と私を見て、ぐしゃりと顔を歪めた。
872
﹁ちが、まっ、ちがうの、カズキ、カズキ﹂
必死に伸ばされる小さな両手は、私を手繰り寄せようとしていた。
でも、届かない。
たぶんそれでよかった。彼女の身体はとても小さいから、よしん
ば掴めても、一緒に落ちてしまう。
﹁まっ、て⋮⋮いや⋮⋮﹂
向き合ったままのアニタが遠ざかる。絶望を形にしたなら、きっ
とこんな顔をしていた。九歳の女の子がするにはあまりに不釣合い
なその顔に、胸の中にすとんと落ちたのは謝罪だった。
ああ、そうか。
びっくりしたんだね。ごめんね、教えてなかった私が悪いね。び
っくりさせちゃってごめん、アニタ。
だから。
﹁いやぁああああああああああああああああ!﹂
だから、そんなに泣かなくていいんだよ。
さっきまでのスローモーションに比べ、落ち始めたら一瞬だった。
固く目を瞑ったと同時に地面に叩きつけられる。
息が詰まり、痛む身体中を確認するのも怖くて身動き一つできな
い。
はっ、はっ、と、小刻みな自分の呼吸だけが聞こえる。そこに心
臓の音が控えめに混ざりはじめた時、ようやくおかしいと気が付い
873
た。落ちた瞬間、身体が跳ねた気がする。それに、あんな高さから
落ちたなら生きているはずがない。こんなこと考えられる余裕なん
てあるはずがない。痛みなんて感じる間もなく死んでいるはずだ。
﹁う⋮⋮⋮⋮﹂
吐息がかかる距離で聞こえた呻き声に飛び起きる。誰かの腕が私
の身体を滑り落ち、ぱたりと落ちた。いつもはきちりと結われてい
た小豆色の髪が広がって、彼女の顔を隠している。
﹁アマリアさん!﹂
私を抱きかかえていたアマリアさんのおかげで、こうして生きて
いるんだと思ったら、心臓が急激に動き始めた。
﹁ア、アマリアさん、アマリアさん!﹂
動かしていいのかも分からず、ただ呼ぶことしかできなかった私
の耳に、もう一度小さな呻き声が聞こえた。よかった、生きてる。
身体中の力が抜けた。
力が抜けて私の手もぱたりと落ちる。その感触にようやく気が付
いた。これは幌の上だ。荷台の上にぱんっと張られた幌のおかげで
助かったのだ。
でも、この幌は。
そこまで考えた瞬間、足を掴まれた。ぎょっとする間もなく引き
ずり落とされる。落下の距離は大したことなかったのに、さっきの
恐怖で身が竦んでしまう。地面に叩きつけられたと思ったら、髪を
掴まれて顔が上がる。ぶちぶちと鳴った音は、髪が引き千切れた音
だろうか。
一々動作が乱暴だと感じるのは、実際乱暴なのもあるだろうけど、
こっちの意思を全く反映させるつもりがないからだ。
﹁黒曜か!?﹂
さっきのおじさんの声だ。
腕を捻り上げられ、髪を掴んで引きずり上げられてからようやく
近づいてきたらしい。そこまでしなくても、大したことは出来ない
874
のに。
おじさんは、おじさんだった。推定おじさんじゃなく、おじさん
だ。その手が伸びてきて、思わず首を竦める。
放して、触らないで。
そう叫ぼうと息を吸い込んだところで、頭から何かをぶっかけら
れた。思いっきり咽て、地上で溺れる。
妙な臭いがする水を桶一杯にかぶせられた。執拗に髪を擦られて
いるから、たぶん、染料落としの何かだろう。
﹁どうだ!? 地毛か!?﹂
﹁落ちません!﹂
﹁皇子に知らせを!﹂
ほぉっと、周り中から息が漏れた。それは感嘆の吐息じゃない。
心からの安堵だ。
﹁これで、首が繋がった⋮⋮﹂
へなへなと崩れ落ちる人さえいた。その人達の首が繋がったおか
げで、私の首は皮一枚になった。
どうしよう。どうしたらいい?
待ってると言ったのに。二人を待ってるって言ったのに。どうし
てこんな。
アマリアさん。誰か、アマリアさんの手当を。お願い、誰か。ア
マリアさんを。
息が吸えない。はっはっと、小刻みな呼吸しかできなくなる。怖
い、嫌だ、痛い。嫌だ、どうしよう、どうしたらいい。待っていた
い。嫌だ、こんなの。待って。待っていたい。二人をここで、帰り
を。どこにも行きたくない。約束したのに。待ってるって。嫌だ、
行くのなら、どんなにも怖くても、ルーナ達がいる場所がいいのに。
どこを見ても私を見下ろすガリザザ軍の男しかない。怖い。嫌だ。
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私を見下ろす囲いで、空も見えない。
ぐるぐる回り始めた世界の中で、それは聞こえた。
安堵の吐息が溢れていたから、こんな状態の私の耳にも届いたの
だ。
唇を噛み締める。駄目だ。まだ、やらなきゃいけないことがある。
恐怖の中に逃げ込んで思考を放棄するより、大事なことが残ってい
る。
﹁ユアン!﹂
放せと叫ぶユアンの声がぴたりと止まった。
﹁大丈夫! 私は平気! 大丈夫! だから、喧嘩するは禁止よ!
お願い、お願いだから、私の分量まで、ルーナとアリスを待って
いて!﹂
アニタを怒ったら駄目だよ。
私の分まで、約束を守って。
お願いだから、無事に戻ってくる二人を迎えて。
よかった、お疲れ様、待ってた、嬉しいって、頑張ってきた二人
を迎えて。
﹁嫌だ! 嫌だ、なんで⋮⋮!﹂
ありがとう、ユアンを押さえてくれている人。見えないから誰か
分からないけど、ありがとう。
手加減なしに縛り上げられて、物みたいに立たされる。
気を失っているアマリアさんを、普通に縛って、普通に馬車にい
れたことに安堵する。よかった。これでアマリアさんまで放り投げ
たらそれこそ許せない。
暴れなかったら手荒いことはされないのかもしれない。
でも、まだ、せめてもう少し。ユアンと。
どんなに踏ん張っても引きずられていく。馬車に放り込まれる前
に、思いっきり息を吸う。
﹁お願い、ユアン! ルーナとアリスを、待っていて!﹂
876
﹁なんでいつも!﹂
突き飛ばされて顔から落ちる。
痛みを無視して跳ね起きても間に合わない。扉が閉められていく。
﹁助けてって言ってくれないんだよっ⋮⋮!﹂
扉が閉められる寸前に滑り込んできた声に応える術は、もう、な
かった。
877
66.神様、少し短すぎる部分があります
鉄馬車全体が跳ねているみたいに進むから、座っているだけでが
んがん身体を打つ。かといって、壁に当たらないようにと離れてい
たら転がって大惨事だ。結局壁に凭れてがんがんぶつかったほうが
ましという結論になった。前の時はルーナが抱えてくれていたから
呑気に眠っていられたんだなと、ようやく分かった。
外は何も見えない。固定された格子状の窓はあるけれど、更にも
う一枚外からしか開けられないスライドの窓があるから、縛られて
なくても開けられない。
アマリアさんはどうなったんだろう。一見怪我は見つけられなか
った。けれど、それだけじゃ無事か分からない。頭を打っていない
ことを願うしかない。受け身は取れていただろうか。⋮⋮分からな
い。目を瞑ってしまって何も見ていなかった。後ろ向きに落ちた私
を助けてくれたのに、落ちるまでそれに気づかなかった。
がつんと後頭部を鉄壁にぶつけて目を閉じる。必死に手を伸ばす
小さな少女の姿が焼きついて消えない。怒るべきなのだろうか。で
も、あの場所で、誰より後悔していたのはアニタだった。
アニタ、ねえ、アニタ。
アニタが黒曜を嫌いなのと、兄姉みんなの血が繋がっていないの
は関係があるのかな。
思わず突き飛ばしてしまうくらい、憎しみのような嫌悪は、関係
があるのかな。
あの時鳴っていた音が爆音だったのは、関係が、あるのかな。
878
ねえ、アニタ。黒曜は、黒曜と繋がる何かは、あなたに何をした
んだろう。
分からない。分からないなら、聞かないと駄目だ。
その為には、帰らないと。
ユアンは泣いているだろうか。それとも怒っているだろうか。怒
りの代償として虫を集めていたらどうしよう。籠いっぱいの虫を投
げつけられたら私が泣く。
後ろ手に縛られた手を握り締めて、目を開ける。窓が閉じられた
鉄馬車だけど、あの地下の暗さには敵わない。隙間から光が漏れて
いるし、灯りがないと何も見えない闇じゃない。
だから、手を引いてもらわなくても一人で歩ける。
﹃ルーナ﹄
大丈夫。
﹃ルーナ﹄
大丈夫。
﹃ルーナ﹄
大丈夫だ。だって、こんなの初めてじゃない。いわばプロだ。捕
まるプロだ。逃げ出すプロじゃないのが悲しいけれど、蹲らないで
いられる。
初めて捕まった時はリリィと会って、逃げ出そうとか考える余裕
がないままに助けてもらった。ツバキに捕まった時は、最初にドタ
バタしすぎて逃げ出しにくくなった。
だから、チャンスを待とう。扉が開いた瞬間走り出したいところ
だけど、我慢だ。足枷がつけられたら何も出来なくなる。耐えるの
だって戦略だ。私の頭で思いつく数少ない作戦だ。考えろ。思考を
放棄するな。考えろ。頭の中焦げても考えろ。考えろ。馬鹿でも考
えろ。プライドなんて二の次三の次だ。へこへこ頭を下げよう。土
下座だってしよう。何が何でも、生きて帰ろう。
879
がつがつと、自分で頭をぶつけて気合いを入れる。
こんなことばかりだ。会えたと思ったら遠ざかって、近づけたと
思ったら離ればなれになる。もう嫌だ。なんでこんなことばっかり。
そう思うのは嘘じゃない。でも、諦めたくない。どんな願いも諦め
たくない。諦めたら終わってしまう。諦め方なんて、誰にも教わら
なかった。両親が、先生が、皆が教えてくれたのは諦め方なんかじ
ゃない。彼らは私に、頑張り方を教えてくれたんだ。
諦めない限り、願いは終わらない。帰りたい。会いたい。ルーナ
と、アリスと、ユアンと会って、リリィ達がいる場所に帰るんだ。
馬車が止まる。いろんな音が鉄越しに聞こえてきた。
錠の開く音がする。外から錠をかけられる異様な状況にも慣れて
きた。慣れって大事だ。その慣れを生かして足枷がつけられないよ
う、大人しく、従順に、その時を待とう。
﹁降りろ﹂
逆光で偉そうに言われても怖くない。だって顔が見えない。大丈
夫だ。足は震えていない。だから、ちゃんと歩ける。
私は従順に立ち上がり、神妙に馬車から転がり落ちた。
純粋に段差を踏み外した。痛かった。
後ろ手に縛れている所為で、どこも掴めず支えられなかった。盛
大に顔から落ちて悶えていたら、上から爆笑が降ってくる。全然嬉
しくないけれど、聞き覚えがあった。
﹁さあどう出るかと思いきや、お前はつくづく面白いなぁ、黒曜﹂
ディナストだ。
頭を上げたら不敬だろうか。大人しくしていようと決めたからに
880
は、徹底的にしようと、反射的に上げかけた頭を地面に落とす。相
手の出方に従おう。大人しくするってそう言うことだ。睨み付けた
り、逃げ出そうとしたいけどそれは大人しくない。
﹁おい、黒曜?﹂
呼びかけられても顔を上げろと言われてないから上げない。だっ
て、面接だって座れと言われるまで座っちゃ駄目なんだ。
しかし、相手の出方を見ようと思ったけど、相手が出ない。変な
沈黙が落ちて、背中や首筋に視線が突き刺さっている気がする。顔
を上げたいけど、駄目だ。大人しく、従順に。
﹁⋮⋮なんだ、つまらんな。以前見た際は珍獣に見えたが、ただの
犬だったか。犬なら犬らしく鳴いてみせろ﹂
後頭部に何か乗ってきて、顔が地面に押し付けられる。形状的に
靴の気がするのだけど、気のせいだろうか。
﹁わぉん!﹂
従順に、鳴けと言われたから鳴いた。プライドより命だ。そして、
犬の鳴き真似して痛むプライドは最初からない。
﹁⋮⋮猫﹂
﹁にゃあ!﹂
﹁鶏﹂
﹁こけーこっこっこっこっ!﹂
﹁鰐﹂
鰐!?
鰐の鳴き声!?
何かと鰐を放ってくるディナストは、鰐が好きなんだろうか。い
や、そんなことより大人しく従順に鰐の鳴き声を。実物を見た私に
隙はない! 鰐はあれだ。あの大きな口をぱかりと開けて、ずらり
と並んだ歯を見せつけて⋮⋮。
﹁わ、わにぃ!﹂
それっぽいの言っておけばいいかと思っていたのに、これじゃな
いのだけは確かな出来栄えになった。それは分かるけど、冷静にな
881
った今も正解が分からない。
しんっと静まり返った中に、わにぃにぃにぃ⋮⋮と悲しいエコー
が響いていく。響いているということは、何か、天井がある場所な
のだろうか。
﹁はっ!﹂
一言飛び出した笑いを皮切りに、ディナストの爆笑が響く。この
人、笑い上戸だと思うのだ。笑う度に頭の上の圧力が揺れながら増
すから、これ、やっぱり足だ。でも、この笑いが従順の効果だとし
たら、私の作戦は大成功である。相手の機嫌を損ねないようにする
のは大事だ。
ガリザザの皆さんこんにちは! これがごますりの黒曜です!
顔を上げていいなら手も揉もう。如何にして相手の機嫌を損ねず
にいるかを考えていたら、衣擦れの音がして、頭の皮が剥がれた。
﹁いっ⋮⋮⋮⋮!?﹂
痛い痛い痛い!
何が何だか分からず、とにかく痛みから逃れようとしても手が動
かせないので余計に混乱する。上半身が浮き、頭の左半分が燃える
ような痛みを発していた。耳元で、じゃくじゃくと、細かい物が削
ぎ落されるような音がする。
目の前が真っ赤になって、痛みと恐怖で身体中が強張る。削がれ
ている、頭を、痛い、死ぬ、痛い、怖い、痛い!
身体中を電流のように走り抜け引き攣らせた激痛は唐突に消えた。
支えがなくなって地面に打ち付けた肩の痛みが救いに思えるほどの
激痛だった。
ひっ、ひっ、と、引きつけを起こしたような呼吸が心音と同時に
口から洩れる。死んだかもしれない。だって、頭剥がれた。
真っ赤に染まった思考の中で、鋭いのか鈍いのか分からない痛み
が一緒に回る。自分の現状を把握するのが怖い。だって、だって、
これで地面が真っ赤になってたら、もう。
882
﹁つまらん女なら首を送ってやるつもりだったが、これなら生かし
ておいたほうが面白そうだ。おい、こっちを送っておけ﹂
その声に恐る恐る目を開けたら、見覚えのある色の糸を握った手
が見えた。見覚えがあるどころか、私の髪だ。
髪。ディナストの右手にはカーブを描いた短剣。そのまま視線を
上げれば、浅黒い肌に銀髪の男がいる。前は遠くてよく見えなかっ
たけれど、こんな人だったのか。
そして、髪。
髪。
頭じゃなかった。
身体中の力が抜ける。よかった、頭じゃなかった。髪だ。頭が削
がれたかと思った。なんだ、髪か。皮かと。それくらい痛かった。
毛根どころの騒ぎじゃない。頭皮ごとごっそり失ったかと。
髪でよかった。なんだ、髪かぁ!
髪!
髪?
恭しく腰と頭を下げた人が両手で掲げ持った、銀色のお盆みたい
な器に乗せられた量を見て、いつの間にか解放されていた両手で自
分の頭を掴む。
﹃禿げ!﹄
以前ツバキにかけた呪いが、まさかのこっちで返ってきた! 人
を呪わば穴二つ! 同じ穴の貉! 自業自得とはこのことか! 因
果応報とはこのことか!
⋮⋮⋮⋮ことわざと四字熟語のレパートリーが尽きた。
手で触って確認したら、左側の髪がごっそり無くなっている。長
い場所も残ってはいるけれど、耳より短い場所もあった。髪を掴ん
で短剣で削ぎ斬ったらそうなるだろう。ぺたぺたと確認した掌をそ
883
ぉっと確認しても血が付いていなくて、もう一度ほっとする。よか
った、皮は無事だ。
禿げは怪しい。
私から切り離された髪がどこかに運ばれていくのを、がんがんす
る頭でぼんやり見送ってしまう。とりあえず生きていた安堵と、あ
れ、どこに行くんだろう。
その視線に気が付いたのか、ディナストは剣をしまいながら説明
してくれた。意外と気さくなんですね。
﹁ルーヴァルに、というよりは、お前の男に贈ってやるのさ﹂
意外でも何でもなく、鬼さくですね。
殴り飛ばしたい。
ぐっと堪えて拳を握り込むに留める。駄目だ。従順に、大人しく。
生きて、ルーナの所に戻るんだ。ルーナごめん、首飾りに続いて二
回目だけど、出来れば一回目の事は思いださないでもらえると嬉し
い。
唇を噛み締めて、飛び出る言葉も拳と一緒に抑え込む。けれど、
そんな私の努力は、髪を持っていった人が合流した先にいた、もう
一人を見て吹っ飛んだ。
正確には、その人が両手で持っているお盆の上に乗った、小豆色
の髪を見て。
﹁やっぱり、生きがいいのが一番だな。黒曜もそう思うだろう?﹂
大人しく隣を歩く私の手を引き、子どもみたいに無邪気な笑顔を
浮かべて同意を求めてくるディナストを睨む。答えようにも顔が痛
くて喋れない。飛び掛かった私を殴り飛ばしたその手で繋ぎ、平然
と引っ張っていく姿に、狂皇子の名前がちらつく。鼻血出した私を
見て、あの時みたいだなと楽しげに笑う姿は、異様なものにしか見
えなかった。
884
手を振りほどきたい。けれど、軽く握られているようでいて、引
き抜こうとすれば指が折れんばかりの力を籠めてくるから諦めた。
折れるのは、その頬殴り飛ばす指二本の為に取っておくのだ。
ここは、陣の中みたいだ。建物じゃないのは分かる。サーカスみ
たいなテントがたくさん建っているのだ。ディナストはたくさんの
人間を連れて、テントの間をぬったり、そのまま通り抜けたりと進
んでいく。
いろんな装飾が、今まであまり見たことがない物ばかりで物珍し
い。こんな状況でなければ立ち止まって眺めてみたかった。西洋風
な印象だったルーヴァルとはがらりと違い、アラビアンな雰囲気だ。
詳しくないので断定はできないけれど、たぶんアラビアンだ。お腹
を出してひらひらしてる服だから、アラビアン⋮⋮あれ? インド?
刺繍が凄くて思わず目を引かれてしまった私を引っ張って、ディ
ナストは幕をくぐって階段を昇っていく。転ばないよう慌ててつい
ていった先で、むわっとした熱気と、うわんっと立ち上る歓声が響
く。空いた手で耳を塞ぎながら、思わず眉を顰めてしまう。
そこは、初めてディナストを見たあの場所に似ていた。テントの
中なので、巨大な岩壁に囲まれているわけじゃない。けれど、観客
席のようなものが中央の地面をぐるりと一周囲っている情景は、ど
うしたってあの日を思い出す。
兵士達はディナストが入った来た瞬間、ぴたりと歓声を止めたけ
れど、上げられた片手を見てすぐに再開した。さっきより声が大き
くなったのは、盛り上げる為だろうか。
たくさんの兵士達が何を見ているのだろうと、中央を見て、喉が
引き攣った。
﹁アマリアさん!﹂
肩より短くなった小豆色の髪を揺らしながら、兵士達に突き飛ば
885
されているアマリアさんを見つけて切れた口の中を忘れた。思いっ
きり叫んだ私の声が届いたのか、アマリアさんはたくさんの歓声の
中でも顔を上げて、ぐるりと視線を回す。そして、最上段にいる私
を見つけた。
血の味がする唾を飲み込んで、もう一度口を開いた私の言葉が遮
られる。
﹁女ぁ!﹂
必死に手を引き抜こうと暴れる私の髪が掴み上げられた。ディナ
ストは、私の髪を手綱か何かと勘違いしている。純粋に感じる痛み
と、さっき感じた恐怖で思わず身が竦んでしまった。
﹁お前が負ければ、この女を俺の伽に呼ぶことにした﹂
遠目でも分かるくらい、アマリアさんの眼が見開かれる。
﹁勝てば客人として持て成してやる。望めば同室にもしてやろう﹂
﹃触るな! 放して! 放せ!﹄
当初の目標なんて吹き飛んだ。この状況で大人しくしていられる
わけがない。アマリアさんを囲む男達は、ざっと数えても三十人以
上いるのだ。しかも、全員素手じゃない。剣や鉄槌を持っている。
一番危険がなさそうな武器でさえ棍棒なのだ。
﹁アマリアさん! 逃亡して! アマリアさん!﹂
逃げ道があるとは思えないけれど、それでも逃げてほしい。こん
なのただの嬲り殺しだ。兵士達はにやにや笑って、剣の腹を掌に打
ち付けたり、肩を叩いたりしている。楽しんでいる。楽しんで、人
を、嬲ろうとしている。
﹁アマリアさんに手を上げるなぁ!﹂
掴まれた手を引き抜けないなら、空いた手で暴れるしかない。そ
のままディナストの腰に手を伸ばし、剣の柄に届いた瞬間、繋がれ
ている手を捻りあげられた。折れる。いや、折られる。でも、剣は
引き抜いた。
その剣をディナストのお腹に当てる。片手を捻りあげられた痛み
で首元まで上げられなかったけれど、剣は、突きつけられた。
886
﹁アマリアさんに、手を、上げるな!﹂
必死に叫んだけれど、周りの雰囲気がおかしい。だって、皇子に
剣を突きつけているのに、誰一人慌てていないのだ。ディナスト本
人も面白そうに見下ろしているだけだった。
﹁何故に、して﹂
剣をお腹に突きつけられている当人は、くつくつと笑う。
﹁お前が俺を刺すのと、周りの兵士がお前を殺すのはどっちが早い
?﹂
そう言われて初めて、首の後ろや背中にひやりとした切っ先が多
数向いているのに気が付いた。
﹁お前が俺を刺すのと、俺がお前の腕を圧し折るのはどっちが早い
?﹂
みしりと軋んだのは、きっと骨だろう。
﹁こんな手も振りほどけないお前の片腕は、どれほどのものだろう
なぁ? 既に震えるその腕で、俺を殺せるのか?﹂
嘲る顔に、歯を食いしばる。
私が持っているこれは、刃物だ。決して人に向けてはいけないと
教わってきた包丁。切る時は猫の手で。刃物は人の肌に触れさせる
ものではない。そう教わってきた刃物を、人を斬るために作られた
剣を、私は今、人に向けている。腕を切られたときは痛かった。他
者から、それも勢いがないと耐えられない、熱のような痛みだった。
薄く鋭い刃が、肌を裂いていく痛み。その後に滲みだす激痛。
あの痛みを、私は人に与えようとしている。
刺すために。人を、害すために。
こみ上がってくる何かを、ぐっと飲み込む。
分かっている。分かっていて、剣を奪った。
﹁試験、してみろ﹂
試してみろ。
冷たくなった手から滲みだす汗で滑る剣を握り直した私に、ディ
887
ナストは意外そうに片眉を上げた。そして、くつくつと笑い出す。
剣を突きつけている私には全く余裕なんてない。何がおかしいん
だと怒鳴り返そうとした私を遮ったのは、アマリアさんだった。
﹁カズキ様﹂
神経が尖っている時に呼ばれた自分の名前に反射的に反応してし
まった。振り向いたと同時に周りの兵士に剣を叩き落とされる。慌
てて拾おうとしたけれど、蹴り飛ばされた剣は人の足に飲まれてど
こにも見えなくなった。
追い縋ろうとしたけれど、次に聞こえてきた言葉に跳ね起きる。
﹁剣を二本﹂
﹁アマリアさん!?﹂
渡された剣を鞘から引き抜き、軽く振ったアマリアさんはそれを
地面に突き刺した。そして、立たせた剣の間に立ち、服を脱ぎ始め
る。目を瞠った兵士達はすぐに口笛へと変えた。
﹁アマリアさん!﹂
悲鳴を上げる私に、彼女は一つ頷いた。頷いた理由が分からない!
野次と下卑た言葉が飛び交い始めたテント内は、しかし、アマリ
アさんが脱いでいくにしたがって徐々に静かになっていった。
シンプルなドレスを脱いだ下から現れたのは、片方の肩だけを通
したスポーツブラのような形をした革の胸当てと、短パンのような
ズボン。お腹は、お婆ちゃんちのそのまま水を凍らせる製氷皿みた
いに割れている。
そして、その背中には、まるで生きているかのような龍の入れ墨。
身を乗り出したのはディナストだった。
﹁ヌエ族か! これはいい! 生き残りがいたか!﹂
ざわりと広がる動揺を意に介さず、アマリアさんは立てていた剣
を引き抜き、二本を構えた。
888
﹁我はヌエ族が戦士が一人、アマリア・クリーガー。ガリザザ兵よ、
その命、惜しまぬならばかかってこい!﹂
その声は、たった一人とは思えないほど力強く、大気を揺らした。
889
67.神様、もう少しで冬が来ます
アマリアさん、アマリアさん、アマリアさん!
危ない、いや凄い! 後ろ危な、くなかった、そのまま蹴り上げ
るんですね優美です! 四人がかりとか卑怯⋮⋮その体勢どうなっ
てるんですかアマリアさん!
目が追いつかない。頭も追いつかない。言葉にする余裕もなくて、
頭の中だけで延々と言葉が流れ、流れ切る前に新しい映像が入って
きて、どうしたらいいのか分からない。
アマリアさんの動きは止まらない。赤に塗れても、止まらない。
なのに、兵士の輪も途切れない。数が増えている。
﹁流石だヌエ! バクダンの成果を手っ取り早く試そうと根絶やし
にしたのは早計だったな!﹂
まるで子どもみたいにわくわくとした声を上げる男の胸倉を掴む。
こっちのほうが背が低いから掴み上げることはできなかったけれど、
引っ張って揺さぶることはできる。
﹁ディナスト!﹂
男はその動作に怒ることはなく、寧ろ楽しそうになすがままだ。
﹁なんだ? 俺は別にあの人数だけとは言ってないぞ﹂
﹁アマリアさんに、手を上げるな!﹂
﹁あれがまさしくヌエ族の生き残りなら、あの程度で殺せるとは思
えんがな。それにしてもお前、伽の相手をさせると言ったのを聞い
てないのか馬鹿なのか。伽が分からん歳とも思えんが﹂
﹁存じぬわ!﹂
ヌエ族のことすら分からないのに、そんな二文字どうでもいい。
﹁釘だか鍵だかなら存じるけれど、そのような事案より、アマリア
さんの周囲の兵士を収納して!﹂
890
﹁せめてもう少し艶めいた言葉を思い浮かべられんものか﹂
ディナストが兵士達を下げる気がないのは分かったけれど、他に
どうすればいいのか分からない。この場で一番偉いのはディナスト
だ。ディナストの言葉を跳ね飛ばしてまで命令を撤回させてくれる
人がいるのか。いたとしても、誰か分からない。いっそ、この近く
にいる人全員に言って回ったほうがいいのか。言って回ったくらい
で聞いてくれるなら、既に誰かが止めてくれているだろう。でも、
だったら、刃物を。刃物で。
当たり前のように辿りついた思考に胸が冷えた。⋮⋮ああ、そう
か。だから、剣は、武器は恐ろしいんだ。
力のない人間でも、相手を従わせられると思ってしまう。従わせ
ようと、思ってしまう。弱い人間ほど、それに縋ってしまう。弱い
人間ほど、簡単に使ってしまう。ちゃんと使うことも出来ないくせ
に、ちゃんと制御できる技術も意思もないくせに、簡単に。
でも、それだったら、どうしたらいい!
首と視線をせわしなく動かしていた私の耳に、わぁっと歓声が聞
こえて慌てて視線を戻す。
一斉に斬りかかられ、逃げ場がないと息を飲めば、その姿が消え
る。足を広げて一気に体勢を低めたと思えば、地面を這うように回
転して相手の足を切り裂く。剣を受け止めて弾き返し、返す刃で後
ろの兵士を突き刺す。
両手は自然と組んでいた。自分の指を圧し折りそうな力を籠めて
握りしめ、目に力を籠める。瞑ってしまいたいほどの赤が舞うのに、
瞬きをした次の瞬間、アマリアさんが倒れていたらと思うと、一瞬
さえも恐ろしくて堪らない。私が見ていたって何かが変わるわけじ
ゃないけれど、目を外すことが、怖い。髪を切られた時より恐ろし
い。赤を散らせているのはアマリアさんだ。普通なら彼女のほうが
怖かったかもしれない。でも、今は、彼女の赤が散る瞬間が何より
恐ろしい。
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アマリアさん、アマリアさん、アマリアさん。怪我しないでくだ
さい。勝たなくてもいいから怪我しないでください。ディナストが
なんと言っているかは分からなかったけれど、アマリアさんが酷い
目に合わなくていいのならそっちでいいから、お願いだから、アマ
リアさん。
ディナストは鰐が好きみたいだから、爬虫類の、もしかしたら蛇
と戦わせて面白がるつもりかもしれない。それとも、釘でも投げつ
けてくるのだろうか。それとも、あの時みたいに鍵を探させるつも
りかもしれない。
蛇は得意じゃないし、釘は避けられる気がしないし、鍵は全く見
分けがつかないと思う。でも、それでも、アマリアさん、私頑張り
ますから、だから、アマリアさん。
外円から飛んできた矢がアマリアさんの頬を掠める。首を傾けた
アマリアさんの髪を剣が切り落とす。砂をかけられて視界を失った
アマリアさんを、兵士が後ろから羽交い絞めにする。
気がつけば私も同じように羽交い絞めにされていた。知らない間
に走り出そうとしていたのか、暴れる身体を押さえつけられている。
﹁アマリアさん! アマリアさん! アマリアさん!﹂
叫ぶだけしかできない私を、アマリアさんが見ている。たくさん
の男達が羽交い絞めにしている腕の隙間から、アマリアさんが私を
見ている。
どうしたらいいか、分からない。
他の音が全部遠くなって、アマリアさんの瞳だけが鮮明に見える。
その瞳に既視感を覚えた。ルーナの瞳に似ている。言葉が通じな
かった頃から、大丈夫だと瞳で伝えてくれていたように。
同じ光を宿した瞳が、兵士達の腕の隙間から私を見ていた。
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そう分かったと同時に、地面から湧き上がるような声がだんだん
近づいていることに気がつく。おおおおおと続く音はすわ地響きか
と思いきや、アマリアさんだった。
地の底を這うような怒声を吐き出しながら、羽交い絞めにしてい
た兵士が背負い投げしたのだ。しかも、周りを抑え込んでいた兵士
諸共。
どすんと重たい音が六人分、ある意味地響きだ。
私も、私を羽交い絞めにしていた人も、ぽかんと口を開けたまま
になってしまった。
﹁成人男ともなると十人投げ飛ばした奴もいると聞くが、女でもこ
れか⋮⋮流石戦闘民族といったところか﹂
呆れたような声を出したディナスは、軽く片手を上げ、それまで
と言った。
﹁お前の勝ちだ、ヌエ族の女﹂
その言葉を皮切りに私の拘束も緩まっていく。まだやんわりと掴
まれている腕を振り払い、椅子を蹴散らして駆け降りる。中央の地
面に飛び降りて転んだけれど、すぐに起き上がって走った。呻き声
を上げて倒れている兵士達の中央にいたアマリアさんも、彼らを飛
び越えて走り出す。倒れた男達は生きている。その事実に安堵した
自分を、喜べばいいのか詰ればいいのか分からなかった。
私なんかよりよっぽど早いアマリアさんのおかげで、あっという
間に出会えた。
﹁負傷は!?﹂
﹁お怪我は!?﹂
お互いの言葉が重なる。私の足元から頭まで視線を流したアマリ
アさんは、顔と頭を見て眉間に皺を寄せた。そして、素早く膝をつ
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く。
﹁申し訳ありません!﹂
﹁私は皆無よ! アマリアさん! 負傷は!?﹂
﹁全ては私の失態です。お怒りはごもっともですが、どうぞ、罰は
私にお与えください!﹂
﹁負傷は!?﹂
﹁あの子の憎悪の風化を見誤った私に責がございます! どうか、
お怒りは私に!﹂
﹁﹃あれ!? 私、声出てますか!? それか言葉間違ってます!
?﹄ア、アマリアさん! 負傷は!?﹂
慌てすぎて心の中だけで話しかけてしまっているのか。私の耳に
届く私の声は幻聴か! 後ごめんなさい! 皆無って言ったけど鼻
血忘れてました! 軽傷でお願いします!
﹁アマリアさん! 負傷! 負傷報告を要求しますよ!﹂
﹁⋮⋮ございません﹂
声が出ているか確認しながらもう一度聞いたら、今度は届いたら
しく答えてくれた。確かに、見下ろした感じ怪我は頬に薄く浮かぶ
線だけだけど、戦う人達はしれっと痛みを隠してしまうから安心は
できない。
﹁失礼おかけしますよ!﹂
打ち身とかだと触らないと分からない。一声かけて触ろうとした
ら、アマリアさんが身を引いて、あからさまに逃げた。やっぱりど
こか怪我をしているのだろうか。
﹁汚れます﹂
慌てて自分の手を見たら確かに汚れていた。こんな手で人に、し
かも怪我人に触ろうだなんて失礼にも程がある。
﹁申し訳ございません! 洗濯してきます!﹂
﹁そちらではございません﹂
﹁足!?﹂
﹁そちらでもございません﹂
894
じゃあどっち!? 顔!? それは今更どうしようもありません
! お見苦しくてすみません!
とにかく掌だけでも何とかしようと、お腹辺りでごしごしと拭う。
さっき転がったので、腰や背中は土塗れなのだ。かろうじてまとも
なのはお腹だけである。
ぱん、ぱんと、掌を打ち付ける音がやけに響く。ディナストが手
を打ち鳴らしている。それを見て、そうだ、まずははたけばよかっ
たと気づいた。
﹁よくやった。ではこれより、お前達は客人としてもてなしてやろ
う。無論、目は付けるがな﹂
笑う男に驚く。てっきり牢屋に入れられると思っていた。私の視
線に気づいたのか、ディナストは大仰に肩を竦める。
﹁そんな目をされるとは心外だな、俺は約束は守る男だぞ? そも
そも、守られないかもしれない提示では誰も必死にならないからな。
そんなのはつまらないだろう? 助かると思えるからこそ、人は死
に物狂いになれる。無様に這い回って必死になる姿こそ見世物に相
応しいだろう?﹂
途中まではいい事を言っていたような気がする。途中までは。
一所懸命な人を嘲笑うのは嫌なことだ。でも、嘲笑うために人を
必死にならなければならない状況に追い込む人は、もっと酷い。
﹁残念ながら俺はまだやることがあるのでな。お前達はゆるりと寛
ぐといいさ﹂
相変わらずもさもさ羽を揺らして、ディナストはテントを出て行
った。入ってきた時とは違う場所から消えたので、たぶんあちこち
に出入り口があるのだろう。自分はもさもさ羽を揺らしているくせ
に、人にけしかけてくるのは爬虫類。私も鳥がいいけれど、何もけ
しかけてこないのが一番好きです。
ディナストの姿が見えなくなるまで見つめる。見送ったというよ
り、気が変わってくるりと振り返ってきたら怖いからだ。
895
﹁ああ、そうだ﹂
だというのに、普通に振り向いてきた。無意識にびくりと跳ねた
身体を隠すかのように、さっと立ち上がったアマリアさんが前に立
つ。
﹁時間が空けばつき合えよ。お前はいい暇潰しになりそうだ。あま
り時間がないのが惜しいがな﹂
時間がないのなら暇潰しに使わないでどうぞゆっくり休んでくだ
さい。忙殺されてください。社畜⋮⋮国畜? のように!
でも、余計な事を言って戻ってこられても困るので黙っておく。
そのまま、ディナストだけじゃなくて、その周りを囲んでいた人
も完全に見えなくなって、ようやく力が抜けた。
いつの間にか現れていた女の人達が目の前にいて、深々と頭を下
げる。
﹁湯へとご案内いたします﹂
メイド服じゃないけれど、たぶんそんな仕事の人だろう。
確かにお風呂には入りたい。髪からはまだ染料落としの妙な臭い
がする。でも、入って大丈夫だろうか。そんなことしている余裕は
ないだろうか。相談したい。
﹁アマリアさん⋮⋮⋮⋮﹂
振り向いたらまたアマリアさんの旋毛があった。それを見て、ざ
っと血の気が引く。
﹁ア、アマリアさん!? 気分が!? 悪化!? 徒歩不能です!
?﹂
やっぱり怪我をしていたのか!
慌ててアマリアさんの前に背中を向けてしゃがみ込む。
﹁伸し掛かってください、運搬します! 先生、誰か医者先生を!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮跪いているだけです﹂
おぶろうとした身体が予想の三倍は重くて固かったので、当然の
如く私は潰れた。けれど、アマリアさんは怪我もなく元気だったの
896
でよかった。
かろうじて汚れていなかったお腹もしっかり土で汚れた私を、先
に立ったアマリアさんが立たせてくれる。
﹁申し訳ありません。服を汚してしまいました﹂
背中を指されて、首だけ回したら赤黒いしみがべったりしみこん
でいた。それが何か分かっているからひくりと喉が震える。じわり
と肌にまで浸みこんでくるようで、今すぐ服を脱ぎ捨てたくなった。
けれど、返り血を全身に浴びているアマリアさんを拭いたのだと思
うことにしてその考えを振り払う。
もう一度膝をつこうとしたアマリアさんを慌てて止める。
﹁アマリアさん、後で教えて頂くたい話がございます。しかし、で
も、先だって、お湯に入室しましょう! 可能ならばご一緒に!﹂
そして、更に可能なら、その割れたお腹をちょっと触らせて頂き
たい所存でございます。
思うだけに留めるつもりが、ぽろりと願望を口に出してしまった
私に、アマリアさんは目を丸くしてから、少し笑ってくれた。可愛
かった。
メイドさんを先頭に、兵士に囲まれてテントを出る。大きさは違
っても、基本的には同じ色や形のテントをどうしてみんな迷わない
んだろうと思ったら、入口辺りに旗がはためていた。たぶんこれが
目印になっているんだろうなと思いながら通り過ぎる。いろんな人
の視線が突き刺さるけれど、意識して意識しないように弾きだす。
ヴィーが教えてくれたように、胸を張って、堂々と、アマリアさん
を見上げる。他に目のやりようがない。息苦しいんで、何か話しま
せんか?
見上げた先のアマリアさんは、難しい顔をして周囲に視線を走ら
897
せていた。
﹁アマリアさん?﹂
﹁⋮⋮ディナストの、時間がないという言葉が気になります﹂
﹁忙殺されているのでは?﹂
そのまま書類の海に溺れてしまえばいい。営業でもいいよと言い
たいけれど、営業で戦争しそうだからやっぱり篭っていてほしい。
﹁あの男が忙しいということは、ろくでもないということです﹂
凄い信頼だ。
ろくでもない企みをしていることに絶対の信頼があるディナスト
は、もうニートになってもらうほうが良さそうだ。でも、暇なら暇
で、ろくでもないことになりそうだから難しい。
﹁わ﹂
一際大きな風が走り抜けていく。髪が短くなった部分は、頭皮の
上を直に撫でていかれた気がする。随分と冷たい風だ。この世界に
来てもうだいぶ経つ。そろそろ冬が近づいてくるのだろう。でも、
春を迎える前に冬に襲われた気分だ。ルーナの心を溶かしてから冬
が来てくれたら嬉しかったのに。冷たい冬の夜番も、二人で毛布に
包まって星を見ながらだったら楽しかった。ただでさえ綺麗な星空
が、冬のきんっと冷えた空気で更に晴れ晴れと広がっていた。
ルーナに会いたいなぁと思いながら見上げた空に、ばさりと重た
い布がはためく音が響いた。音は一つじゃない。あちこちのテント
の上で聞こえる。
﹁巡礼の旗!?﹂
絶句したアマリアさんの視線を追っても、同じ旗が見える。旗は
シンプルだ。白の布地に﹁干﹂の字の上が突き抜けて、上の線のほ
うが長い模様。未の書きかけと言ったほうがいいかもしれない、模
様というより文字に近い形が刺繍されている。
﹁あちらは、何ですか?﹂
あちこちで上がり始めた旗を見て不安になってきた。アマリアさ
んが絶句するくらい、唇を戦慄かせるくらいの衝撃を与えるあの旗
898
は、何を意味するのだろう。
怖いことじゃなければいい、恐ろしいことじゃなければいい。そ
う思うのに、それだったらアマリアさんはこんな顔はしていないだ
ろうなと思う自分もいる。
でも、まさか、弾かれたように私を見た瞳が懺悔に塗れていると
は思わなかった。
あれが何かは分からなかったけれど、全く以って嬉しくないもの
だと分かった。
そして、どうも、それが私に降りかかるらしいと分かるくらいに
は、私の察しは良いのである。
帰りたかった。
戻りたかった。
日本にも、隊長達とも、リリィやエレナさんにも、東の守護地に
いる皆とも。
アリスとも、ユアンとも、会いたかった。
そして、そして。
もう一回。
ルーナに笑ってほしかった。
でも、初めて、この世界に来て初めて。
ああ、もう無理だと思った私を、皆は怒るだろうか。
899
﹁今でこそそれなりの精度を保ってはいますが、あの兵器の初期は、
それは酷いものでした﹂
アマリアさんは淡々と話してくれた。
﹁その範囲を、強度を、威力を、成果を調べるのに、我々のような
少数民族は都合がよかったのでしょう。ちょっとした衝撃で保管し
ていた場所ごと吹き飛ばすような兵器を前に、敵も味方も飛び散っ
た。援軍となるはずだった部族は来なかった。己が生存と引き換え
に我々を売ったのだと、後で知りました。私が生き残ったのは、仲
間の死体が盾となったからです。気がつけば、故郷は跡形もなかっ
た。仮令一人であっても、最後のヌエ族として部族の誇りを懸け、
ガリザザに復讐しようと思いました。そんな時です。我々を売った
部族が、我らと同様ガリザザに滅ぼされたと聞いたのは﹂
たくさんの人の声がする。知らない言葉もあった。でも、意味は
分かる。
これは怨嗟だ。
﹁私は、襲撃を受けたその部族を見に行きました。何がしたかった
のかは自分でも、そして今でも分かりません。嘲笑いたかったのか、
ざまあみろと叫びたかったのか、憐れみたかったのか。⋮⋮そこは、
黒と灰の世界でした。かつては何か名がついていたはずの物は、全
て灰と炭になっていた。ヌエの時もそうでしたか、ガリザザ軍が早
々に撤収していった理由が、その時ようやく分かりました。あれは
全てを破壊するから、略奪するものが何もないのだと。その何もな
い場所で泣き声がしました。それが、あの子です﹂
たくさんの声は、揃えたわけでもないはずなのに、同じ意味ばか
りを繰り返す。それは、それだけの怨嗟が蔓延していたからだ。
900
声と一緒に風が通り抜けていく。枯葉も舞っているから、冬は意
外とすぐかもしれない。
﹁嘗ては家族だった炭を抱いて、あの子は一人泣いていたんです。
そうして、立ち尽くす私に家族で真っ黒になった小さな手を広げて、
抱きしめてと訴えたのです。私は、あの子を抱いて逃げました。逃
げて、逃げて、国境で行き倒れたところを兄様が拾ってくださった
のです。兄様は父様に、妹が欲しいと頭を下げ、父様と母様はそれ
を許してくださった。兄様達は、この国で生きる術を与えてくださ
いました。言葉遣いも、ドレスの着方も全て。そうして新しい世界
で生きている内に、憎悪は、風化したのだと、思っていました。⋮
⋮思って、しまったのです﹂
石礫も棒きれも飛んでこない。なのに、怨嗟が届く。そして、声
よりも瞳から放たれる憎悪のほうがよほど恐ろしく、痛かった。
﹁あなたの所為ではない。分かっています。あなた達の所為ではな
い。あの子だって分かっています。ディナストがそれを楽しんでい
ることも。あの男が、いつもは楽しむ怨嗟の先をあなたと同郷の人
間にずらしたのは、そうして苦しむあなた達を見るほうが楽しいか
らだと、あなた達が苦しむ姿を見て、ディナストを憎む人間の憎悪
を受け止めるほうが楽しいからだと、分かっているのです。⋮⋮分
かっていても、蘇ってしまったのでしょう。家族が四散する瞬間が、
あの熱さが、色が、臭いが。まだ三つだったあの子の記憶に、残っ
てしまったのでしょう﹂
アマリアさんはあの夜、何度頼んでも上げてくれなかった額を床
に擦りつけて、全てを話してくれた。でも、今では、顔を上げてく
れなくてよかったのかもしれないと思っている。だって、あの時の
自分がどんな顔をしていたのか、分からないのだ。
901
﹁やはりルーヴァルは楽しいなぁ、黒曜よ﹂
楽しそうなのは貴方だけですよ。
﹁王城を落とした時はこんなものかと思ったが、あやつらは取り返
したぞ。そうでなければつまらん。これでこそルーヴァル! まあ、
そのおかげで俺達は退路を失ったわけだがなぁ﹂
ディナストの一軍はいま、ルーヴァルの王都を堂々と横断してい
る。誰からも石は飛んでこない、棒も飛んでこない。街道には恐ろ
しいまでの数の住民と、ルーヴァル軍がいるにも拘らずだ。
自分達の国を蹂躙した国の王が、目の前を通っていく。ディナス
トは、鉄馬車の中に身を隠しているわけではなく、幌の下にすらい
ない。誰からも見やすいよう、まるでちょっとした展望台のような
物の上に乗って、鎧も身に着けていない。
なのに、誰も動かない。動けない。
だって、彼等は巡礼の旗を掲げているのだから。
今の私は真っ白な服を着ている。裾や袖は長いのに、飾りも刺繍
も一切ついていないドレスだ。ドレスというにはシンプルすぎて、
ワンピースといってもおかしくない。
巡礼の衣装だそうだ。
その私を、たくさんの瞳が見つめている。彼らの後ろの建物は、
嘗ては美しかったであろう名残を残したまま崩れ、焼け落ちていた。
聳え立つ国の象徴である王城でさえ似たような有り様なのだ。
そして、ここに来るまでの道沿いに見た、たくさんの墓石。墓場
は満員で埋める場所がなかったんだろうなぁと、欠伸をしながらデ
ィナストは言った。疫病が流行る前にさっさと埋めてしまうに限る
と。
902
ディナストは、数多の視線を気にも留めず、否、寧ろ心地よい陽
光のように浴びながら、あっちの建物の時は何個の爆弾を使った。
ここは逃げ込んだ人間がたくさんいたから纏めて吹き飛ばした。そ
んなことを、街道沿いにいる人達に聞かせるように大きな声で語る
のだ。
視線だけで人を殺せるのなら、ディナストはもう何百回と死んで
いる。でも、何より恐ろしいのは、それだけの憎悪の視線を叩きつ
けられて尚、楽しくて堪らないと笑う姿だ。
私に向くのは、ディナストに叩きつけられるような苛烈な瞳では
ない。もっとどろりとした、滞留する怨嗟。
﹁お前の所為じゃない!﹂
一人の男の人が叫んだ。
﹁お前達の所為じゃない!﹂
もう一人の女の人が叫んだ。
﹁だが、お前達さえこの世界に現れなければっ!﹂
顔を覆って、頽れながら、やり場のない怒りと悲しみと喪失の痛
みを、声と瞳で世界に放つ。私に、叩きつける。
﹁こんな凄惨な死は有り得なかったんだっ⋮⋮!﹂
︻ハナビっていうのを作ろうとしてたんだ︼
そう、ツバキは言った。
美しい花を夜空に咲かせられたのなら、それをツバキ達に見せら
れたのなら、自分がこの世界に来た意味があったと思えると笑って
いたと。
怨嗟が渦を巻く。渦巻いて、抜け出す先がない。延々と周囲の怨
嗟を巻き込んで肥大化していき、もう誰にも止められない。
903
私を匿っていたと聞いただけで、ルーヴァル新王へ不信と怨嗟が
進路を変えてしまうほど、暴走を始めている。私がいると知っただ
けで剣先が彼に向いてしまうほど、誰もが何もを許せないでいる。
だけど、それは当たり前のことだ。彼らの怒りは正当なもので、彼
らの怨嗟は正義に等しいもので、彼らの悲哀は節理で。
じゃあ、邑上さんがいけないのか。確かに浅はかだった。確かに
結果は無残なものとなった。確かに、彼が齎したもので、取り返し
のつかない惨劇が起こってしまった。
けれど、高校生の男の子がたった一人異世界に放り出され、そこ
に意味を見つけ出そうとしたことは、そんなにもいけないことだっ
たのだろうか。こんな怨嗟を一人で背負わなければならない願いを、
彼が持ったというのだろうか。
王城が近づくにつれて、ディナストは逆に口を噤んでいった。そ
れは緊張しているわけでも、私に気を使ってくれているわけでもな
いことは、彼がわざわざ王城の傍を通っていることで充分分かって
いる。目的地に着くまでに、王都を通る必要なんてなかったのに、
あえてこの道を選んだのは、そのほうが誰の顔も歪むからだろう。
城壁は崩れ、塔は折れ、未だ煙が上がっている焼け焦げた側壁。
そこにいるルーヴァル兵達は疲れ切り、怒りとも焦りとも悲しみ
ともつかない表情をしていた。死に物狂いで王都を、王城を取り戻
したのに、その目の前を元凶であるガリザザ軍が通り過ぎていくの
に手を出せない。
だって、巡礼の旗があるのだ。
巡礼の旗を掲げる者に手を出してはならないという不文律。
大陸には、とても大きな滝がある。まるで世界の割れ目のように
ぽっかり空いた円形の空間に、水が流れ込んでいくのだそうだ。人
々は、そこに神を見た。神に真意を訪ねるとき、神に近しい場所へ
と向かう。
904
主に、罪人への裁きを乞うために巡礼は行われると、アマリアさ
んは言った。
世界の底へ、神の元へ、裁きを乞いに行き、生きて帰れば無罪。
死ねば有罪。
今まで無罪となった人間は、誰もいない。
これは、巡礼者に手を出してはならないという不文律を利用して、
ディナストが退路を確保しているだけだと分かっている。
でも、贖いを求める人々の声は当然のものだ。断罪を求める人々
の切望も当たり前のものだ。責任の在り処を示せと、贖いの方法を
示せと、彼等は言う。
そこに怨嗟の出口はあるのだろうか。小さくても滞留する怨嗟が
流れる場所があるのなら、何かは変わっていくのだろうか。
誰かが償わないと終われない。償ったところで到底割り切れるも
のではない。それでも誰かの贖いがなければ、始めることさえでき
ない。この世界の誰かに、それも被害を受けた人達に割り切れと、
どうしようもなかったのだから分かってくれと叫ぶのは間違ってい
ると、思う。
でも、それを邑上さんに払わせるのも酷だと、そう思ってしまっ
た時点でもう駄目だったのだろう。嫌だと、怖いと、なんでと叫ぶ
私のもっと奥で、もう、決まってしまっていた。
私には関係ないと叫ぶには、自分でも思っているより同郷の誼と
いうものは強かったようだ。そして何より、この世界で出会った人
達への愛着が、世界への責任の放棄を許せなかった。
905
68.神様、少し傍に行きます
煤で血で汚れて疲れ切ったルーヴァル兵の中に、どうしたって見
つけてしまう二人と目が合う。その隣のラヴァエル王が握りしめて
いるのは小豆色の髪だった。
王様、アマリアさんは無事ですから、早く助けてあげてください。
暴れて、暴れて、今尚暴れて、鉄馬車の中に猿轡噛まされて縛り上
げられているんです。婚約しているなんて初耳でした。びっくりし
ました。事が落ち着くまでは発表するつもりはなく、ただのアマリ
アですと言ってましたけど、そういう問題じゃないと思います。後、
直接言えませんけど、おめでとうございます。凄くお似合いだと思
います。
殊更ゆっくりになった速度に、本当にディナストは性格が悪いと、
いっそ感心するくらいだ。人はどこまで意地悪くなれるんだろう。
この状況で、人の顔をにこにこ見ていられるディナストが、本当に
分からない。分かりたくもないけれど。
でも、その意地悪に演出された時間を利用する私は、もっと最悪
だ。
﹁アリスちゃん、ごめん、こちら返す!﹂
整えさせてもらえなかった頭は、耳が丸出しで飾りが外しやすく
906
て助かった。黒い石と緑の石がしゃらりと揺れる綺麗な耳飾り。ア
リスとお揃いの、友達の証。一度ぎゅっと握りしめて、アリスに向
けて投げ返す。アリスは小走りで前に移動して受け取ってくれた。
ごめん、うまく投げられなかった。
﹁ルーナも、記憶しておらずかもしれぬけれど、こちら返す! ご
めん! 赤色はリリィに返却して!﹂
首飾りも二本とも外して投げ返す。今度はうまく投げられて、ル
ーナは三歩横にずれただけで受け取ってくれた。
最初は違和感があった重さはすぐに気にならなくなって、今では
重さがないほうが違和感がある。揺れる重さがないと心許ない。こ
んな時は無意識に握りしめていた二本が、耳元で揺れて存在を教え
てくれた音が、なくなった。手のやり場がない。心のやり場は、も
っとない。
﹁アリス! ごめん、別たれて!﹂
﹁たわけ⋮⋮﹂
さっきの私みたいに耳飾りを握り締めたアリスが震えている。
﹁私は別れんぞ! そう簡単に絶交できると思ったら大間違いだ、
このたわけ!﹂
はい、たわけです。だからそう仰らずに、是非とも別れてくださ
い。
投げ返してこないのは、投げ返しても私が受け取らないと分かっ
ているからだろう。
ごめん、アリス。友達になってくれてありがとう。嬉しかったし、
楽しかったし、本当に、救われた。そう幾ら言い募っても足りない
くらいの未練を、ちゃんと伝えていればよかったのか、言わなくて
よかったのか。
なのに、一生、一度だって言いたくなかった言葉は言わなくちゃ
いけない。
﹁ルーナ! ごめん、別たれて! 他人へと戻ろう!﹂
ごめん、もう思い出さなくていい。寧ろ思いださないで。どんな
907
思い出も痛みにしか変えられない。どんな約束も心を切り裂く刃に
しかならない。だから、ごめん。寧ろ今も忘れてくれたらいい。あ
なたとの未来を諦めた私を、忘れてくれたらいい。
約束なんて、しなきゃよかったね。叶えられない約束なら、あな
たを傷つけるだけの叶わない約束なら。優しい思い出と一緒に、忘
れてしまっていい。
でも、ごめん、ごめんね、ルーナ。
出会わなかったら良かったとだけは、どうしても思えないし、思
いたくないんだよ。
﹁⋮⋮分かった﹂
アリスが信じられないものを見る眼でルーナを見た。同じように、
驚いてしまった自分が恥ずかしい。私が別れようって言ったんだ。
そうしてほしくて、そう望んで、自分で言ったのに、ルーナがそれ
を了承するはずがないとでも思っていたのか。浅ましい。ずるい。
酷い、馬鹿、消えてしまいたいくらい、恥ずかしい。
もう何を堪えているのか分からなくなった。笑わなきゃと思うの
に、唇が戦慄いで動かない。ちょっとでも動かせば零れ落ちる。泣
くな、何やってるんだ、自分で別れてって言って、ルーナが了承し
てくれたんだから喜べ、たわけ。
笑うことも泣くことも出来ずに動かせない視線の中で、ルーナが
集団の前に進み出た。こんな状況だというのに、ルーナが近くなっ
ただけで嬉しくなるこの心の単純さが、どうしようもなく誇らしい
自分は本物の馬鹿だ。
﹁カズキが俺に愛想を尽かすのは当たり前だ。お前の弱さを背負う
と言いながら、失う可能性をちらつかされただけで揺れて、カズキ
を忘れるような大馬鹿だ﹂
喋りながらもルーナの歩みは止まらない。その手に何をか握って
908
いる。でも、視界が揺れて、よく見えない。
﹁巡礼の儀を受ける者は、一人罪を量りに地に沈む。共に行くが許
されるは、たった一人の近しい者のみ。お前に愛想を尽かされた俺
にその権利はないんだな﹂
ないよと言わなきゃいけないのに、嘘でも愛想がついたなんて言
いたくない。そもそも喋れない。だから頷いて伝える。尽かされる
愛想はあっても、尽く愛想は一生ないけれど。
ルーナは止まらない。どんどん近づいて、ガリザザ兵の間さえ突
っ込んでくるから、ガリザザ兵が割れていく。なんだか映画でこん
なシーンがあったなと、こんな状況なのに思ってしまった。なんだ
っけ。古い映画なのに、そのシーンだけは何かと例えで使われるか
ら覚えてしまう。確か、海が割れるんだ。
﹁それでも俺は、その権利が欲しい﹂
あげない。
﹁カズキ﹂
知らない。誰、それ。知らないから、お願いだから、もう黙って
ほしい。
お願いだから、そんな、懐かしい水色で私を見上げないで。
﹁カズキ﹂
聞こえない。知らない。カズキなんて知らない。誰、それ、知ら
ない。だから、あっちいって。
﹁たったいま振られたばかりだけれど、知っての通り、俺は諦めが
悪いんだ﹂
知らない。知らないから、お願いだから黙って。こっち来ないで。
嬉しくなるから。
私、そんなに強くないんだよ。それなのに、大好きな水色を柔ら
かく揺らして、大好きな笑顔を浮かべて、大好きな声で名前を呼ん
で近寄ってくるなんて、酷いと思うのだ。
﹁好きだよ﹂
おかしいね、ルーナ。私、耳がおかしくなったみたいなんだよ。
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﹁覚えていたはずの言葉も気分が高揚したら変に混ざり合うのも、
人の言うこと真に受けて大真面目に馬鹿やるところも、もう年下に
なったのに俺を子ども扱いする癖が残ってるところも、人の厄介事
を面倒だとか思いもつかずに当たり前に両手を広げるところも、何
でもないことを楽しめるところも、全部好きだよ﹂
目も、おかしくなったみたいだよ。だって、おかしいじゃない。
やめてよ、ルーナ。なんでよりにもよって今なの。
﹁愛してる﹂
馬鹿じゃないの!
﹁カズキ、俺と結婚してくれ﹂
みんな私を馬鹿馬鹿言うし、私もそう思っていたけど、一番の大
馬鹿者はルーナだと思う。
ルーナは別れてくれた。綺麗に、速やかに、私が望むままに別れ
てくれた。
なのにまさか、グレードアップさせて打ち返してくるとは思わな
かった。
﹁はっははははは! いいぞ、ホーネルト! 上がってこい! お
前を巡礼の同行者として認めてやろう!﹂
巡礼は巡礼者がするものであって、その同行者をディナストが決
める権利はないと思うし、上がってこいといながらいきなり速度を
上げるのも意地悪だと思うし、慌てて走り始めたガリザザ兵は大変
だ。
アリスやルーヴァル兵も一部が分かれて馬に飛び乗り、追ってく
る必要なんてないのに追いかけてくる。いきなり速度が上がったの
に、普通に並走して乗り込んでくるルーナはもっとどうかと思う。
ほぼ梯子に近い急階段をしれっと上がってきて、まるで最初から
910
ここにいたかのように当たり前に立つルーナは、本当に。
﹃馬鹿じゃないの!﹄
﹁そうか?﹂
けろっと答えたルーナに怒りが湧き上がる。怒りだ。そう、怒り
だ。絶対、怒りだ。
なんで、よりにもよって、いま。今こそ、お前なんて知らないと、
無関係だという所だろう。ルーナはもっと空気を読むべきだ。
両手で頭を抱えて、肘で顔を隠す。肘がじんわり濡れていく。
﹃なんで、思いだしたの﹄
ルーナは、頭を抱えて下を向く私の視界に入るよう、何かを握っ
ていた掌を出してきた。そこにあったのは、ざんばらに切られた私
の髪だ。紫色の紐で結ばれたそれがあった場所にルーナの手が触れ
る。
﹁安全な場所にいるはずのカズキの持ち物が送りつけられてくる衝
撃は、なかなかのものだぞ﹂
その手を振り払って、髪の毛も叩き落とす。
﹃帰って!﹄
﹁嫌だ﹂
﹃嫌い!﹄
﹁ああ﹂
﹃大っ嫌い!﹄
﹁うん﹂
﹃ルーナなんて知らない! 嫌い! あっちいって!﹄
﹁うん、ごめん﹂
触らないで、抱きしめてこないで。必死で突き飛ばそうとしてい
るのにびくともしない。いつもは、指一本で引っ張っても振り向い
て身体を傾けてくれるのに、こんな時に限って全然離れてくれない。
私は怒ってる。嬉しくなんて、ない。子どもが駄々をこねるみた
いな言葉しか思い浮かばなくて、子どもが癇癪起こしたみたいな動
きしかできないけど、凄く怒っているのだ。
911
ルーナが笑ってくれても、抱きしめてくれるその胸が温かくても、
触れるその手がどれだけ優しくても、嬉しくなんてない。
嬉しくなんてない。馬鹿じゃないの。
そう、思い続けられない私が一番馬鹿だと、分かっている。
もう知らない。もう、もう、ルーナなんて大好きだから、もう知
らない。もう、どうしたらいいのか、分からない。
背中に手を回さないのは、私の最後の意地なのか、それとも抱き
しめるより胸倉掴み上げたかったのかは自分でも分からない。
ルーナのお腹の上辺りの服を握り締めて頭突きする。硬い。
﹃楽しいことのほうが好き﹄
﹁そうだな﹂
﹃嬉しいことのほうが好き﹄
﹁そうだな﹂
あれが嫌だった、これが不満だった。そんなことを大好きな人に
聞かせるより、これが美味しかった、あれが面白かったと伝えて笑
ってくれるほうが好き。
﹃今日会ったことを話したい。明日したいことを話したい。また明
日ねって手を振りたい。おはようって、当たり前みたいに会いたい。
明日の約束をしたい。買い物行きたいねって、新しいお菓子出たん
だよって、あの服可愛いねって。⋮⋮頑張るよ。課題とか、バイト
とか、頑張るよ。でも、なんで、それじゃいけないの。なんで、そ
れじゃ駄目なのっ⋮⋮!﹄
なんで私達なの、なんで私達がこんな思いをしなくちゃいけない
の。
そんなのみんな思ってる。家を、街を壊されて、国を奪われて、
912
家族を殺されて、友達を失って、腕とか足を吹き飛ばされて。何で
こんな目に、自分達が一体何をしたって、たぶん、みんな思ってる。
私達の所為だよ。私達の世界が今まで戦争してきて、兵器の在り
方を知っていた私達の所為だよ。でも、全部私達の所為なのは私達
の所為じゃない。その知識を私達の罪にしたのは、私達じゃない。
誰もが救いを求めてる。誰もが責任の在り処を求めてる。そして、
憎悪の対象を探した時に現れるのはやっぱり私達で、それはきっと
間違いじゃない。
それでも私は、普通の、どうということもないその辺の一人でい
たかった。そんな重たいもの背負いたくない。偉い人が私の知らな
いところで、いつの間にか解決するなり時間の中に流すなりしてほ
しかった。私はそれを、ああそんなこともあったねって、そういえ
ばあれってどうなったのかなぁって言うような場所にいたかった。
だって苦しい。だって怖い。だって、そんなの嫌だ。
﹃もうやだ、家に帰りたい! お母さんに会いたい! お姉ちゃん
達に会いたい! お父さんに会いたい! 学校行く! 学校行って、
皆と会う! 服見に行って、本見に行って、小物見に行って、パフ
ェ食べる! 髪も切る、ちゃんと、髪も、切る。回したら水が出る
んだよ、押したらお風呂沸くんだよ、火がついて、ご飯出来るんだ
よ。夏でも冷たいもの食べて、冬でも夏野菜食べれるんだよ。剣と
か、矢とか、ないんだよ。大きな怪我とか滅多にしないんだよ。馬
とか乗らないで、車であっという間につくんだよ。涼しいんだよ、
温かいんだよ。黒髪でも、目が黒くても、誰も変な眼で見ないんだ
よ。だって、そんなの当たり前だから、全然、普通で、言葉だって、
私、変じゃないんだよ﹄
自分でもどこにしまっていたのか分からない愚痴が全部噴き出す。
今までは特に苦しいと思ったこともなかったものまで溢れだして止
まらない。
﹃遠くにいても声聞けるし、メールでいろんなこと教え合えるし、
913
顔だって見れるし、国外でも飛行機で行ったら一瞬だよ。何か月も
船使わなくてもいいんだよ。空飛んで、すぐ会えるんだよ。だから、
あっちのほうが便利で、凄い、快適で、だからっ! ⋮⋮だから、
リリィに、会いたい。リリィ、リーリアに、エレナさんに、ユアン
に、ユリンに、カイリさんとかカイルさんとか元気かな。ねえ、隊
長は元気かな、イヴァルはティエンにちょっかい出されてないかな、
ヴィーは怒ってないかな。ねえ、不便とかどうでもいいよ。井戸で
水組んでもいいよ、お湯沸かすのに時間かかっていいよ、怪我した
って、熱出したっていいから、皆に会えるほうがいいよぉ⋮⋮!﹄
ルーナが悪いんじゃない。ルーナに言ってどうする。ルーナは優
しいから、全部受け止めてくれる。自分でも何を言いたいのかも分
からない私のぐちゃぐちゃを、受け止めてしまう。だから、そんな
ことより楽しい話をしよう。ルーナが笑ってくれるような話をして、
一緒に笑おう。楽しい、わくわくうきうきする話をしたい。そのほ
うが好きなのに。ルーナの所為じゃないことをルーナに叩きつけて
泣き喚くなんて大嫌いなのに。
﹃なんで、そんな、嬉しそうなのっ﹄
ルーナは、うんと頷きながら、凄く唇を落としてくる。こっちは
自分を憐れむ涙で溺れそうだというのに、ひっきりなしに落ちてく
るキスに照れる暇もない。
﹁十年越しで叶ったからな﹂
﹃何がっ!﹄
﹁カズキの、弱音、泣き言、八つ当たり﹂
何かのCMみたいな語呂合わせやめてほしい。くしゃみ、鼻水、
鼻づまり。花粉症かな?
ルーナがあまりに嬉しそうだから、思わず涙が止まる。でもそれ
も一瞬で、すぐにぼろぼろぼろぼろ、馬鹿みたいに流れた。
﹁何を言っているか分からんのはつまらんなぁ。おい、ホーネルト、
914
翻訳する気はないか?﹂
肘をついて眺めているディナストを完全に無視したルーナは、私
の顔を胸に押し付けたまま抱き上げて、さっき上ってきた階段に腰
掛ける。
﹃なあ、カズキ﹄
﹃⋮⋮なんですか﹄
涙は止まらないけれど、受け答えする心の余裕は出来た。だって、
なんだか、ルーナが穏やかだ。それに今更、ルーナが帰ってきてく
れた実感が沸いてきて苦しい。大体の物事は私に関係ない所で進ん
でいって、私に関係のない場所で解決する。別にそれが悔しいとも
寂しいとも思わない。ルーナが帰ってきてくれたことだけ分かれば、
それだけでいいと思ってしまうのは単純だからだろうか。
﹃さっきの返事を聞いてない﹄
﹃さっき⋮⋮﹄
﹃俺は結婚を申し込んだ﹄
噎せた。こんな状況で何を言っているんだろう。こんな状況だか
ら言っていると言われたらそうですかとしか言えないけど。
﹃指輪も花も雰囲気もないから駄目か?﹄
﹃いや、それはルーナがいればいい、です、けど、ね⋮⋮⋮⋮忘れ
たから知らない﹄
意趣返しにそっぽを向く。忘れたことにというよりは、もう全部
に対する八つ当たりのようなものだ。だから、黙ってしまったルー
ナにちょっと申し訳ない思いが湧いてきて、そろりと顔を上げる。
そしたらチューされた。訳が分からない。
﹃だったら、一生許さないでくれ。一生、俺の横で怒ってくれ。一
生、一緒にいて、怒ってほしい﹄
本当に、ルーナは私より馬鹿だと思う。馬鹿も馬鹿、大馬鹿者だ。
﹃⋮⋮ずっと怒るのは疲れるから嫌です﹄
﹃じゃあ、笑ってて﹄
﹃⋮⋮そうする﹄
915
﹃でも、弱音を吐いてくれたら更に嬉しい﹄
﹃⋮⋮⋮⋮ルーナは馬鹿だと思う﹄
ずびっと鼻を啜って、ようやく他を見る余裕ができた。
階段に足を下ろしたルーナの上に座っているから重そうだけど、
ルーナは特に何も言わないから甘えることにする。いつの間にか街
は見えなくなっていて、ちょっと丸みを帯びた大地が広がっていた。
異世界でも星って丸いんだなぁと、当たり前のことを昔気づいた時
は大興奮したものだ。
﹃なあ、カズキ。逃げるか? ここで振り向きざまにディナストに
斬りかかって、そのまま飛び降りて馬を奪おう。巡礼の不文律は大
陸のものだから、そもそも俺達には当て嵌まらないしな。そのまま、
逃げようか。どこか遠くで、二人で生きていこうか﹄
まるで鳥が飛んでいると伝えるような何気ない声音だった。
冷たい風が濡れた頬を走り抜けていく。冷たすぎないその風に、
ルーナも心地よさそうに目を細める。
﹃⋮⋮ルーナ、私ね。この期に及んで、まだ、いつの間にか知らな
いところでいろんなことが解決するんじゃないかって思ってた。世
界が関わるような、国が関わるような大きなことは全部遠い所で決
まって、いつの間にか終わってるんだって、思ってたんだよ。それ
で、私とか邑上さんが謝らなきゃいけないことは、謝り方とか、謝
る場所とか、教えてもらえるような気が、してた﹄
その知らないはずの人達は、遠いところにいるはずの人達は、私
の目の前で頑張っているのを知っていたのに。彼らは誰かにとって
の遠い所にいる人達で、私は、私にとっての遠い場所で解決するの
だと、思っていた。
﹃そうか﹄
﹃うん。だから﹄
どうせこのまま行ったら、誰とも会えなくなる。だったらそれも
916
いいね。冷たい水の底に二人で沈むより、全部放り出して、二人だ
けで幸せに生きました、めでたしめでたし。
きっとみんな許してくれる。リリィも、エレナさんも、みんな優
しいから、それでもいいよって言ってくれるだろう。だから。
﹃絶対、嫌だよ﹄
﹃だろうな。逃げてくれるなら、そもそも俺にこれを返してこない
からな﹄
もぞもぞ動いたと思ったら、頭から何かが通って、胸をとんっと
揺らした。青い石の首飾りと、赤い石の首飾りが、いつものように
揺れる。
恐る恐るそれを握り締めた。首飾りは放り投げた私を怒ることな
く、いつも通り掌に納まってくれる。
﹁ルーナ!﹂
突如飛んできた聞き慣れた怒声に、無意識に背筋を正す。びっく
りして落ちかけた私を支えたルーナは、ちょっと身体を傾けて下を
覗き込んだ。
﹁これをそのたわけに返しておけ!﹂
﹁ああ、分かった!﹂
いろんな音に掻き消されないよう大きめの声と共に飛んできたの
は、こっちもさっき投げ返した耳飾りだった。ルーナはそれを片手
で受け止める。慌てて両手で受け止めようとした私は、当然空振り
だった。
﹁アリス!﹂
﹁この大たわけ! 婚約おめでとう!﹂
﹁え!? あ、ありがとう!?﹂
離れていても分かるくらいふんっと鼻を鳴らしたアリスは、馬を
操ってルーヴァル兵の中に戻っていく。それでも並走は続けている
から、きっと最後までついてきてくれるのだろう。
﹃カズキ、少し傾けてくれ⋮⋮⋮⋮そこまで傾かなくていい﹄
917
慌ててぐぎっと音がするまで傾いた私に耳飾りをつけてくれたル
ーナは、また両手を私の腰に戻した。
﹃さて、何から考えようか﹄
﹃え?﹄
﹃やっぱりドレスからか?﹄
﹃え?﹄
﹃行き来可能ならご両親への挨拶が最初なんだろうけどなぁ﹄
﹃何の話!?﹄
﹃カズキの世界の民族衣装がいいか? それともこっちの衣装でい
いか?﹄
﹃もしもし!?﹄
﹃家が広いほうがいいか? 庭が広いほうがいいか? 両方?﹄
﹃ルーナさん!?﹄
﹃犬飼うか? 猫がいいか? ⋮⋮鰐は何を食べるんだ?﹄
﹃気に入ったの!?﹄
ルーヴァルとガリザザの国境に位置する、神の座する場所といわ
れる神聖な巨大滝に辿りつくまで私は、結婚式と新婚生活について
の話をみっちりと詰められた。疲れた。
その景色を見てパッと出てきたのは、テレビ番組だった。
﹃ナイアガラの滝﹄
﹃ないあがら?﹄
﹃私の世界の大きい滝代表で、一回実物を見てみたいと思ってたら、
こっちで見れた﹄
世界にぽっかり空いた巨大な穴。そこにあちこちから流れ着いて
合流した水が流れ落ちていく。ナイアガラの滝をぐるりと一周させ
て円にしたみたいだ。確かに、神様がいると言われたら納得してし
918
まう壮大さ。世界百選には必ず入るだろう。でも、個人的には、こ
の底にいるのは神様よりネッシーがいい。浪漫的に。
円の七割が海のように集まった巨大な川が流れいて、三割がちょ
っと高くて陸地になっている。そこに神殿があって、神様を祀って
いるらしい。ちなみに、神様は神様で、名前はないという。
神様に供物を投げ入れる為に道からちょっと突き出して作られた
桟橋みたいな場所がある。そこから巡礼者も落ちるらしいので、何
て余計なものを作ってくれたのだと石を投げたい気分だ。
﹁今日は一際水飛沫が激しいが、この向こうにあるのが我が祖国ガ
リザザだ﹂
湿気の所為か、羽が少し萎れているディナストは、このまま国に
帰るんだろう。自分だけ。私だって帰りたい。
﹁ここには俺の血族も多数いるぞ。殺すと周りがうるさいのは大体
落としたからな。会ったら俺の恨み言でも聞いておけ。なんなら伝
えに来てもいいぞ? そのほうが面白そうだから、是非来い﹂
面白いのが好きといいながら、面倒なのは嫌いらしい。本当に子
どもみたいだ。この人とほとんど関わることがなかったのは、たぶ
ん私にとっていい事だったのだと思う。
弾けそうになる気持ちを振り払って、ルーナと繋いだ手に力を籠
める。ルーナは何も言わず握り返してくれた。
ディナストが指さした方向を眺める。あれが、邑上さんがいる国
だ。
ごめんなさい、邑上さん。私がこれからここに落ちても、たぶん、
バクダンの被害に曝された人達の一時の慰めにしかならない。慰め
にすらならないかもしれない。それでも。
後ろを振り向くと、ガリザザ兵から一定の距離を置いてルーヴァ
919
ル兵がいる。それより更に後ろにいる人達はきっと、普通の人達だ。
今までだったら、列に並べと言われたらあっちの人達の後ろに並ん
だだろうけど、今は知り合いの多いほうに走り寄ってしまう。
ラヴァエル王とアリスは二歩くらい前にいた。危ないよ。いろん
な意味で。
﹁ラヴァエルさ︱︱ん⋮⋮さ、様︱︱!﹂
﹁なんだ!﹂
﹁アマリアさんとアニタに伝言お願い申し上げます!﹂
王様に言伝頼むとは、私も偉くなったものだ。不敬まっしぐら。
でも、それを咎めてくる人は誰もいなかった。もし咎められたら、
虫の借りを返してもらったと言っておこう。
﹁今度、お買いもの出発しましょう! お楽しみにしていてますぞ
りと!﹂
﹁了解した! 一言一句、発音違えず伝えよう!﹂
﹁そこなるは違えてお願い申し上げます!﹂
語尾を彷徨った自覚があるだけに、そのまま伝えられると凄く悲
しい事態になる。
﹁カズキ!﹂
﹁はーい!﹂
奔流に負けないよう声を張り上げたアリスに負けないよう、私も
返事をする。
﹁お前と同郷の男は必ず助けてやる! ユアンのことも、母上のこ
とも、ガルディグアルディアのことも、すべて引き受けてやる! だから!﹂
邑上さん、アリスは凄くいい人で、凄く優しくて、凄く頼りにな
るから、安心して。
神様への審判は私が受けに行ってきますから、安心してアリスと
出会ってください。私がこの世界で出会った人達があなたに繋がっ
920
たら、こんなに嬉しいことはない。
﹁だから、安心して帰ってこい!﹂
﹁アリス、ありがとう!﹂
うん、と、答えられなかった私にアリスは凄い形相になる。金剛
力士像みたいだった。
ガリザザ兵がせっつくために突き出してきた抜き身の剣を、ルー
ナが素手で叩き落とす。ルーナ、その手、鋼鉄で出来てるんですか?
剣の代わりにルーナの手が背に回って一緒に桟橋を進む。私の着
ているのが白いドレスだから、ある意味結婚式みたいだ。凄いヴァ
ージンロードである。底を覗きこんだら更に凄さが分かった。はる
か遠くで白が舞っているのが水の到達地点だ。かなり、遠い。見て
いるだけで頭がくらりとする。これが観光ならちょっと勇気を出し
て写真を撮ったんだろうなと、現実逃避する。
﹃ルーナ﹄
﹁ん?﹂
﹃今からでも遅くないから、婚約破棄する予定、ないですか﹄
改めて見下ろす高さに震えが止まらない。なんでいつも、怖いと
心臓ドキドキするだけじゃなくて吐き気がするんだろう。ここにマ
ーライオン建てたら観光スポットにならないかな。
それはさておき、こんな場所に、ルーナを引きずりこむのは気が
引ける。一人で落ちるのはそれこそ死んでもごめんだけど、ルーナ
を引きずり落とすのは死にたくなるほど申し訳ない。この土壇場に
なるまで言い出せなかったのは、どうしようもなく、一人は嫌だっ
たから。今は言った自分を罵っている最中だ。一人は嫌だ、一人は
怖い、こんなの嫌だ。
でも、ここで言わないような人間とルーナを一緒に落とさせるの
は、もっと嫌だった。
921
顔を見上げることができなくて、繋いだ手だけを頼りに頽れない
で立つ。
﹁カズキ﹂
呼ばれて、観念して目を開くと、ルーナが目の前に跪いていた。
﹁愛してる﹂
﹃あ、りがとう﹄
だけどさようならと言われたら、逆に飛び込む勢いができるかも
しれない。靴を揃えてアイキャンフライ。
ルーナを信じていないわけじゃない。でも、信じているから一緒
に死んでとは、どうしたって言えないのだ。今ほど一緒にいてほし
くて、一緒にいないでほしい瞬間はない。
ルーナは、繋いだ手に額をつけた。この光景を、二回、見たこと
がある。
﹁我が慶びは君がもの、君が嘆きは我がもの。君が憎悪は我が剣が、
君が不幸は我が盾が。全ての幸は君が為、全ての禍は我が身を持っ
て振り払おう﹂
懐かしい言葉に目が丸くなるのが分かる。私が浮かべた驚きに、
ルーナは柔らかく相好を崩した。
﹁だけど俺達は夫婦となるのだから、全ての慶びを分かち合おう。
全ての嘆きを二人で背負おう。俺がカズキを守るから、カズキも俺
を守ってくれ。全ての不幸を幸と変え、共に明日を迎えよう。⋮⋮
ヤメルトキモスコヤカナルトキモ?﹂
昔、何かの拍子で話した言葉を、わざと片言で言って促してきた
ルーナに思わず笑う。
﹃死が二人を別つまで?﹄
﹁世界が二人を別っても﹂
922
立ち上がったルーナに抱きしめられて目を閉じる。でも、顎に手
をかけられて慌てて開けた。ルーナがちょっと笑う。どうもすみま
せん。嬉しくてつい、うっかりうっとりしてました。
﹁愛してる﹂
﹃私も、あ、い、してる﹄
大好きは言えるけど、愛してるはちょっと気恥ずかしかった。で
も言う。
しかし、恥ずかしがるところはそこじゃなくて、これだけ大勢の
人が見ている前で深い誓いのキスを仕掛けてきたルーナだと思う。
ちょっと酸欠です。恥ずか死にます。後、涙が止まらない。
そんなことをぼんやり思っていたら、ルーナが一歩動いた。抱き
ついていた腕に力を籠める。ルーナも、首の後ろを持っていた手を
頭に変え、深く深く抱きしめてくれた。
世界の底に落ちていくのに、どうしよう、怖くない。
全然怖くない。
ルーナ
水飛沫で滑る掌で掴み、隙間ができないよう傍にすり寄る。
ルーナ
硬く張った身体を掴んで寄り、私を見つめる瞳を覗き込む。見た
だけで胸が温かくなる水色の中では、まじまじと見つめる私がいる。
周りでは圧巻の景色が自然の雄大さを伝えているのに、ルーナしか
見えない。
ルーナ
音が、聞こえない。
ルーナ
923
水色以外が消えた。
ルーナ
恐怖も感じない。
ルーナ
世界が見えない。
ルーナ
もう、ルーナしか、分からない。
924
69.神様、少し蟹多過ぎです
︻ちがうの︼
小さな女の子が泣いている。
︻ちがうの︼
小さな両手を強張らせて、顔をぐしゃぐしゃにして、泣いている。
︻あたし、ちがう⋮⋮︼
硬い動作で首を振り、戦慄く顔を両手で覆った少女は、悲痛な声
で叫んだ。
︻ちがうのぉ⋮⋮!︼
うん、違うね。分かってる。怒ってないよ。違うもんね。びっく
りしちゃったんだもんね。
分かってる。分かってるから、そんなに泣かなくていいんだよ。
大丈夫だから、泣かないで。ねえ、大丈夫だよ。だから、泣かな
いで。
﹁アニタ⋮⋮﹂
掠れた自分の声で、ぼんやりと意識が浮上した。
925
下になっている頬を線が撫でていく。線は、滑らかな動きで肌を
撫で続けている。これはなんだろうと不思議に思うのに、なんでだ
ろう。全然、思考が働かない。
くすぐったいそれを払おうと持ち上げた手も、酷く緩慢にしか動
かなかった。しかも、持ち上げた時に水音が。これ水だなぁと、鈍
くだけどようやく思い当った。水との境界線が揺れて顔をくすぐっ
ているのだ。なんで水? と不思議に思いながらも、霞みがかった
頭ではうまく処理できない。でも、頭の上で声が聞こえて目を開く。
﹁う⋮⋮﹂
目の前にいたのは私を抱え込んでくれているルーナの胸だった。
﹁⋮⋮ルーナ?﹂
どうしてルーナと一緒に水の中に倒れているのだろう。ルーナと
一緒に、ルーナに抱きしめられて、私もルーナにしがみついて⋮⋮
そこまで考えたところで、かちりと思考が繋がった。
そうだ、私達、落ちたんだ。
﹁ルー、ナドリゲス!﹂
慌てて名前を呼んだと同時に、持ち上げたほうの腕を何かが這っ
ていく感触に、語尾が盛大に彷徨った。がしゃがしゃとした動きが
一気に肩まで這い上がってきて全身が総毛立つ。
﹁ひっ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮俺はロドリゲスじゃない﹂
﹁いああああああああ!?﹂
悲鳴の間に何かが挟まった。
目を覚ましたらしいルーナが、腰を抱えていた腕を移動させて何
かを摘まんでいる。硬いかしゃかしゃした足を持つ、全長は大きい
けれど本体はそうでもない体。甲羅を掴まれて腕をしゃきしゃきさ
せているその姿は、そう、蟹だ。
かしゃかしゃ具合は似たようなものなのに、虫じゃないと分かっ
ただけで全身の力が抜ける。ルーナに放り投げられた蟹は、ぽちゃ
りと水に帰っていった。その手を借りて立ち上がり、ようやく周り
926
を見ることができた。
石や岩がごろごろ転がった洞窟だ。奥はどこまで続いているのか
分からないけれど、結構深そうだ。光が届かない場所があるくらい
には深いのは分かった。蟹を放り投げた方向からは水と楕円形の光
が入ってくる。
どうやらどこかに流れ着いたらしい。生きて、流れ着いたらしい。
凄い。
奇跡という言葉がふさわしいと思うのに、凄いの一言がぐるぐる
頭を回る。
﹁カズキ﹂
髪を掻き上げて水を払っているルーナに呼ばれた。ルーナが、私
を呼んでいる。ルーナ、生きてる。ルーナが私を知ってる。私達、
生きてる。
私が好きなルーナがいる。私を好きなルーナがいる。ルーナも私
も、生きてる。アリスちゃん、生きてるよ。会えるよ。また会える
よ。終わってないよ。会えるよ!
じわじわと湧き上がってきた喜びか感動か大好きか、なんなのか
もう分からない感情が爆発した。
﹁ルーナぁ!﹂
﹁俺はロドリゲスじゃない﹂
﹁初動は生の再会を歓喜しよう!?﹂
飛びつこうとした出鼻をくじかれた。でもルーナにとっては大事
なことなのかもしれない。二回言ったし。それとルーナ、私が言っ
たのはルーナドリゲスだよ!
さて、じゃあ改めて抱きついていいかなとそわそわしていた私は、
次の瞬間、真顔でスカートをめくりあげて脱ぎ捨てた。濡れて身体
927
に張り付いたドレスは正規のやり方じゃ脱げなかったのだ。いきな
り下着姿になった私にルーナが三歩下がる。私は真顔で三歩追う。
脱ぎ捨て御免! でも待ってルーナ、逃げないで!
私は、大きめの石の上で地団太を踏むようにジタバタ踊りながら
叫んだ。
﹃蟹︱︱!﹄
脱ぎ捨てたドレスを上下に振って他にもいないか確認しつつ、く
るりと向けた背中を這う蟹。私は立ち上がっているのに、今尚元気
に横歩き。最近とても縁がある落下直後の私が言うのは残酷かもし
れないけど、出来れば落ちて頂けませんか?
無言で蟹を掴んでリリースしたルーナは、マントに蟹がいないか
確認して私にかけてくれた。どうもありがとう。
そして、私のドレスからはまだ二匹出てきた。ドレスの型自体は
シンプルだけど、裾がずるずる長くて邪魔だし、何より真っ白だか
ら目立つので、もう蟹にあげることにした。
住み心地は如何ですか?
持っていったら再利用できないかなと提案したけれど、ルーナは
首を振った。
﹁あの男が着せた衣装なんているか。白なんて以ての外だ﹂
﹁そのような問題事項ですたか⋮⋮﹂
まあ私も、飛び込み用の衣装は着ていたくないので、勿体ないけ
どやっぱり置いていこう。縁起でもないし。
私は、絞って渡してくれたルーナの服を借りた。上着は重くて動
けなくなるからシャツを借りる。通した袖が余っているのを見て、
はっとなった。
﹁ルーナ!﹂
﹁ん?﹂
﹃彼シャツ!﹄
928
﹁かれしゃつ?﹂
ばっと立ち上がって両手を広げた私を見上げて、マントをもう一
回絞っているルーナが首を傾げる。
﹁カズキの世界の民族衣装か?﹂
民族衣装ではない。伝統衣装でもない。いや、でもある意味伝統
衣装?
彼氏のシャツを借りるから彼シャツ。そうです、この人私の彼氏
です。いや、婚約者? 私の人生でそんな存在いたことがないので、
実感がまるで沸かない。いたらいたで問題だけど。
そうです、私達婚約したんです。あんな事態の中で流れるように
婚約したから、なんだか実感が全然沸かないけれど、婚約者ってい
ったらあれですよ、あれ。
あれだよ!
なんだか急に恥ずかしくなってきた。言うんじゃなかった。
彼シャツについて私からの説明を待ちながら、ルーナは水際で靴
を探してくれている。私の靴は両方とも脱げていた。ブーツみたい
になっているルーナの靴は脱げていなかったので貸してくれるつも
りだったみたいだけど断った。ここは石や岩だらけだから裸足だと
怪我をする。それに、もし戦うことになった時、踏ん張らなきゃい
けないから絶対駄目だ。それだったら、ルーナよりは体重の軽い私
が何か適当に巻いた靴もどきを作ったほうがいいと思う。
シャツの袖を捲ってマントを羽織り、借りたベルトで腰の上辺り
を絞って高さを調節する。無言で。
でも、すぐに口を開くことになった。
﹁ルーナ﹂
﹁ん? ⋮⋮靴ないな﹂
﹁ごめん、大変寒いので、移動したいよ﹂
身なりを整えて一息つき、ようやく気づく身体の冷え。ルーナは
執拗なまでに服を絞ってくれたけど、ごめん、やっぱり寒い。生き
ているだけで奇跡だから文句は言えないけど、身体は我儘いっぱい
929
に歯をがちがち鳴らす。
ルーナは早足で戻ってきてくれて、さっと私を抱き上げた。ルー
ナだって疲れているだろうから辞退しなきゃいけないと分かってい
るけれど、ちょっと離れがたくて躊躇する。無意識にルーナの首に
回しかけた手を身体の前で中途半端に浮かせていると、ルーナが頭
を下げた。
﹁寂しいから回してくれ﹂
ルーナが寂しいなら仕方がないなぁ! ルーナは甘えん坊だなぁ
! もう、仕方がないなぁ!
嘘です、ごめん、ありがとう。
ちょっとだけだと自分に言い訳して首に抱きつく。温かい。後、
ルーナの匂いがする。
﹁靴より先に火を起こせるものを探そう。出口も見つかるといいな﹂
﹁ルーナ﹂
頬がついている首筋から、とくとくと小さな振動を見つけられた。
歩く揺れとは違う確かな音に、胸の中に何かが込み上げる。
﹁生きていて喜ばしぽぉ!?﹂
じんわり染み入る喜びを噛みしめている首筋にキスしてくるのは
どういう了見か。思わず語尾が跳ねあがった。大変くすぐったかっ
たです。
これは一言文句を言ってやらねば気が済まない。
﹁ルーナ!﹂
身体を離して向かい合ったら唇にされた。
ルーナには破廉恥の罪状を与えようと思う。そして私は猥褻物陳
列罪。私達、お似合いの夫婦になれると思うんだ。
でも、幸か不幸か身体は温まった。主に首から上が。
この熱をぱたぱたあおいで冷ますべきか、後生大事に大事な熱源
930
とするべきか悩んでいると、ぴたりとルーナが歩みを止めた。
﹁誰だ﹂
﹃え? カズキです﹄
﹁ごめん、カズキ、違う﹂
え、私はついに自分の名前も間違えた!? 流石にそこまで馬鹿
ではないはずだ!
慌ててルーナを見ると、視線が全く別方向を向いている。壁しか
ないと思っていた場所に隙間があり、その中で動く何かが見えた。
﹁いや、待て。敵じゃあない﹂
両手を上げたのは燃えるような赤髪の女性だった。絶世の美女だ
! と、びっくりするくらい綺麗な人だ。でも、妙な格好をしてい
る。いや、私も人の事は言えないけど。
美女は、ひらひらの襞がたっぷりとしたスカートを身体の横で一
つに纏めて縛り上げ、そこにウエッジサンダルみたいな上げ底靴を
引っ掛けている。褐色の肌を惜しげもなく晒し、太腿まで大胆に見
せている足には、草鞋みたいな靴を履いていた。
壁の隙間からは出てこようとせず、ちらちらと洞窟の奥を気にし
ながら、美女は早口でまくしたてる。
﹁いいか、時間がないから手短に話すぞ。これからここに村人が来
るが、決して信用するな。名も明かすな。だが警戒は見せるな。何
も知らないふりをして、従順にしていろ。後、お前達は恋仲か?﹂
噎せた。いきなりなんだろう。
﹁婚約者だ﹂
慌てず騒がず婚約者宣言。ルーナは頼れる人である。私だったら
今までの慣れもあって、普通に恋人と答えてしまいそうだ。
﹁ならば余計にだ。決して、互いを男女の仲、あるいはそうなり得
る可能性がある間柄だと悟らせるな。兄妹で通せ、いいな﹂
﹁何?﹂
美女の言うとおり、奥から松明の灯りで伸びた影が見えてきた。
931
それに気づいた美女は、さっと隙間に身を隠す。そして、何やらご
そごそとしたと思ったら、壁をよじ登り始めた。
﹁そうじゃないと、お前達は二度と会えなくなるぞ﹂
﹁お前は﹂
﹁必ず連絡をつけるようにするから、大人しく言うことを聞いてい
ろ。じゃあな!﹂
壁の途中の隙間にするりと身体を滑り込ませたらしく、美女の姿
は消えた。
私とルーナが顔を見合わせていると、ざわざわと人の声が近づい
てくる。ルーナは私を平らな岩の上に下ろし、その前に立った。
十人前後の男の人が現れる。若い人から老人まで年齢は様々だけ
ど、彼らは一様にぱちくりと目を瞬かせた。
﹁お、おお! 生きて流れ着いた人間がいたか!﹂
わっと声を上げて走り寄ってきた一番背の高い男の人は、他の人
達と同じように破顔した。
﹁よかったなぁ、お前達。運が良かったぞ! ここ最近数は多かっ
たけど、全部死んでしまってたんだよ﹂
いやぁ、よかったよかったと、人の良さそうな笑顔で喜んでくれ
ている人達の頭を、腰の曲がったお爺さんが杖でぽこりと叩く。
﹁こりゃ、騒いどらんで早く湯と着替えを用意してやりなさい。早
く休ませてやらんと、女の子までいるじゃないか。さあさあ、怖か
っただろう。おいで、村まで案内しよう。もう大丈夫じゃよ、ここ
には追ってくるものは何もないからな﹂
お爺さんの柔らかい声に促されて、私達も男の人達に囲まれて歩
きだした。まあ、歩いているのはルーナなんだけど。
ルーナに抱かれて足音が響く空間を進むのは、あの日を思い出す。
あの後ルーナと離ればなれになったんだと思ったら、ぶるりと身体
が震えた。その震えを見た髭の人が、弱ったように眉を下げる。
932
﹁まだ冬じゃないとはいえ、寒いよなぁ。さっき一人連絡に走らせ
たから、ついたらすぐに湯を使えばいい。えーと⋮⋮すまん、名前
を聞いてなかったな。俺はライだ﹂
いかめしい顔を困ったように崩すライさんに、ルーナはちらりと
私を見た。
さっきの女の人が何なのか、誰を信頼したらいいのか分からない
けど、二度と会えなくなるのは絶対に嫌だ。もしさっきの人が嘘を
ついていたら、この親切そうな人達に申し訳ないけれど、その時は
謝ろう。
﹁俺はギニアス、こっちは妹のリリィだ﹂
そんな素晴らしい偽名を私が名乗っていいのだろうか。
男の人達は、え!? と仰天した声を上げた。視線を、私とルー
ナの顔を何度も往復させる。
﹁に、似てないな﹂
﹁腹違いだからな﹂
しれっと答えたルーナに私も頷く。嘘じゃない。ついでにいうと
お父さんも違いますよ!
﹁それより、さっき数は多いと言ったがここにはよく人が?﹂
しれっと話題を変えたルーナの無表情は最強だ。その無表情に怯
んだのか、ライさんが私に視線を逃がしてきた。へらりと笑って返
したら、ほっとしたように表情を緩ませて話し始めてくれた。
﹁お前達もあの巡礼の滝から落とされたんだろう? ここはあそこ
から落ちた者がよく流れ着くんだ。⋮⋮最近は、本当に多くてな。
けど、生存者はこの数年片手の数もいなくて、みんな心を痛めてい
たんだよ。ほら、あれさ﹂
促された先で洞窟は終わっていた。洞窟の先は森だ。杉よりも節
が太くてどっしりした木がいっぱいあったけれど、促された先で森
は途切れていた。
そこにはたくさんの墓石が並んでいて、ひゅっと掠れた息が出る。
933
広い、空間だ。墓地だなんて言葉では想像もつかないほどの距離
をずっと、等間隔で墓石が並ぶ。向こうが、見えない。
思わずルーナの胸に縋りつく。ルーナも抱き上げてくれている腕
に力を籠めた。
﹁こ、こちら、全て?﹂
﹁まあ、中には村人もいるけどな。それにしても多いだろ? どっ
かの部族は、罪を犯した一族郎党放り込むっていうし、神に判断を
委ねるって大義名分で気楽に処分された人間がこれだけいるのさ﹂
男の人達は、みんな丁寧な礼を墓地に向けて先を進んだ。
横抱きにされているから、私の視線は自然と墓地に向いたままに
なる。墓石は、どれも丁寧に手入れされているらしく、きちんと花
も手向けられていた。これだけの数を管理するのは大変だろうし、
中にはとても古い物も見える。でも、古さは見えても手入れがされ
ているのは分かった。苔や蔦がないのだ。
死者への手向けがあって、ちゃんと埋葬されているのが分かるの
は、ここの人達への不安を打ち消す。でも、それを補って余りある
莫大な数の墓石は、お化けとか幽霊とか、そういう怖さとは別の恐
怖を与えてきた。
﹁ギニアス達はどうして落とされたんだ?﹂
ライさんの質問に慌てて視線を戻す。間違って落ちちゃいました
じゃ駄目だろうか。駄目だろうな。
どうしようかなと思考をフル回転させている私の腕を、ルーナの
むらおさ
指がとんっと突いた。
﹁村ということは、村長がいるんだろう?﹂
﹁ああ、いるけどどうした?﹂
﹁どうせ、長にもう一度話さないとならないなら手間だ。纏めて話
す﹂
その隙に考えるとルーナの顔に書いているけど、完璧な無表情と、
934
しれっとした態度でばれなかったらしい。
ライさんは愉快そうに笑った。
﹁はは! そりゃそうだ! さあ、見えてきたぞ!﹂
森は唐突に終わり、一気に視界が開ける。
そこには、驚くほどのどかで、どこか懐かしい景色が広がってい
た。
密集した家から連なる道の先に、点々と離れていく家がある。更
にその奥には段々畑が続いていた。そこでは男の人達が何かを囲ん
で笑っている。畦道を子ども達が棒を持って走り、きゃあきゃあ楽
しそうな声を上げ、その後を籠を持った女の人達が歩く。さっき会
った女の人みたいに、やけにたっぷりとしたスカートと、ちらちら
見える厚底靴は動きづらそうだけど、女の人達は何か冗談でも言い
合っているのか、肩をぶつけて笑い合っていた。
先頭を走っていた子どもがこっちに気付いて進路を変え、きゃあ
きゃあはしゃぎながら走り寄ってくる。
﹁わあ! あたらしい人!?﹂
﹁ねえ、あとで遊ぼうね!﹂
周りをくるくる回る子ども達を、杖を持ったお爺さんが一喝した。
﹁こりゃ! 二人は疲れとるんじゃ! 遊んでもらうのは今度にし
なさい!﹂
﹁え︱︱!﹂
﹁ケチ︱︱!﹂
﹁ケチなもんか。ほれ、飴をあげるからな。あっちで良い子にして
おいで﹂
ぷくりと頬を膨らませた子ども達のケチ大合唱に、お爺さんは懐
から取り出した袋を丸々渡した。すると手のひらを返したようにふ
とっぱら∼の大合唱。
﹁ありがと︱︱!﹂
﹁喧嘩せんと分けるんじゃよぉ﹂
子ども達は早速戦利品をお母さんに見せに走った。少し離れた場
935
所で籠に作物を詰めていた女の人は、子どもの話を聞くために腰を
折り、慌てて顔を上げてお爺さんに頭を下げた。
﹁いつもすみませ︱︱ん! ほら、あんた達もありがとうしなさい
!﹂
﹁あぁりぃが、と︱︱!﹂
﹁ちゃんとしなさい! もう、すみません!﹂
当たり前だけど安心できる会話にほっとする。もうずいぶんと、
こんな普通の光景から遠ざかっていた気がする。
段々畑を駆け抜けていく風は、村全体を揺らしていく。同じ風で
目を細める人達が幸せそうで、私は、なんだかとてもお母さんに会
いたくなった。
936
70.神様、少しの違和感分厚いです
﹃ヒノキ風呂⋮⋮﹄
﹁え? なんて言った?﹂
思わず呟いてしまった。
お湯の温度を見ていた女性が振り向いたので、慌てて両手を振る。
﹁大丈夫﹂
﹁そう? 一人で無理そうだったら手伝うから、すぐに言ってね。
お湯から上がったら髪も整えちゃいましょう。酷いわ、女の子の髪
をこんな⋮⋮﹂
そういえばざんばらだった。切られた髪に衝撃を受ける暇もなく
色々あったから、意外とショックはない。頭の皮じゃなかった安堵
が先に立ったのも大きかった。
まるで自分の事のように苦しそうな顔をした女性は、指先で涙を
拭って笑顔を見せる。
﹁大丈夫よ、私がちゃんと可愛く直してあげる。服もとびっきり可
愛いのを選んでくるから、楽しみにしててね﹂
﹁ありがとう﹂
女性が出て行って静かになった脱衣所から、お風呂場をもう一回
覗き込む。簀子に囲まれた木のお風呂は、入ったことはないけどど
こか懐かしい。ヒノキかどうかは分からないけど、お手入れ大変そ
うだ。黴とかどうやって防ぐんだろう。
ルーナの話に合わせられるよう出来るだけ喋らないよう気を張っ
ていたのに、濡れた木の匂いで力が抜けていく。今はとりあえずお
風呂に入ってしまおう。ルーナも別のお風呂に入っているみたいだ
けど、離れている時間は出来るだけ短いほうがいいと思う。全然、
937
話せる時間がなかった。彼シャツに呻いている時間にもっと聞ける
ことがあったのに、ルーナと何でもない話ができる楽しさに浮かれ
ていた。ヌアブロウはどうなったんだろうとか、ロジウさんは無事
なのかとか、色々、聞かなきゃいけなかったのに。
急いで身体を洗っていたら、所々ピリビリ痛んだ。あちこち擦り
むいたり打ったりしている。一時は死ぬとさえ思ったのだから、こ
の程度で済んで幸いだった。背中は見えないなぁと身体を捻ってい
た私は、すぐにはっとなる。私でさえこれなんだ。私を抱えていた
ルーナはもっと酷いかもしれない。
手桶をひっつかんで頭からお湯をかぶる。
はしゃいでいる場合じゃない。ルーナと一緒だとつい甘えてしま
いそうになるけど、ルーナが教えてくれない傷に気づけるようにな
りたいと思ったばかりなのに、なんて体たらく。ルーナに甘えるん
じゃなくて、甘えてもらえるようしっかりしたい。ただでさえ、足
手まといにならないよう頑張ってもおっつかない戦力⋮⋮お荷物だ
というのに。どうやってもお荷物なら、キャベツじゃなくてかつお
ぶしくらいのお荷物になりたい。軽いほうがいい。かつおぶしは無
謀だとしても、せめて四個パックのヨーグルトくらいなら、いや、
待て、それだったら三個セットのプリンのほうが。そして、どうし
よう、桃のゼリーが食べたくなってきた。この世界でゼリーを食べ
たことはないけど、ゼラチンが手に入るなら作れるはずだ。ルーナ、
ゼリー好きかな。ゼリー、林檎ゼリー食べたい。あれ? 最初に食
べたかったの何だっけ? 葡萄? いや、蜜柑?
悶々と考えながらお風呂を出たところで気が付いた。私はお腹が
空いている。そして食べたかったのは桃だ。でも、お腹が空いてい
ると気づいた今は唐揚げ食べたい。
気がついてしまったらお腹が自己主張を始めた。何かご飯を恵ん
ではもらえないだろうか。お金は⋮⋮ないけれど、皿洗いで支払い
938
可能なお店があったらありがたい。
そんな計画を立てながらいつの間にか籠に用意されていた着替え
を手に取って、思わず戻した。
確かに、やけに容量あるなと思ってはいた。何枚着るんだろうと
も思った。でも、まさか、全部もさぁとついてくるとは思わなかっ
た。籠の底には下着もあったけど、この量の下にあったから申し訳
程度にしか見えない。
この村では、今まで見たどの国の衣装よりボリュームある服が文
化のようだ。上半身は割とすっきりしてるのにスカートだけボンバ
ー。
後で、もっとすっきりしたタイプはないのか聞いてみようと考え
ながら靴を探して、見つけた瞬間思わず声が出た。
﹁おぉぅ⋮⋮﹂
なんて立派な、聳え立つがごとくの、上げ底。
昔こういうのが流行ったと聞いたことはあるけど、明らかに日常
生活で使うものじゃない高さだ。
あまりの高さに慄いていると、こんこんと控えめなノックが聞こ
えた。
﹁リリィさん? 何か声が聞こえたのだけど、どうしたの? 何か
分からないことでもあった?﹂
﹁く、靴、靴が無謀です﹂
開けていい? と可愛らしい声がして、お風呂の用意をしてくれ
た女性が入ってくる。そして、靴を見てにっこりと笑った。
﹁可愛いでしょう! この村で一番高いの持ってきたの! これか
らこれがリリィさんの靴よ!﹂
目をキラキラしながら渡された靴に、ごくりとつばを飲み込む。
別の靴をくださいとは言い出せない雰囲気だ。私、あなたくらいの
上げ底がいいです。私の靴の三分の一くらいですし、そっちがいい
です、とも、言い出せない圧力がある。
939
とりあえず履いてみた。そして、分かり切っていた事実を確認し
て、私もにっこりと笑う。それはもう盛大に、見事なまでにすっ転
ぶ予感しかしませんよ!
ぐらぐらする身体を支えられなくて一人では碌に歩けない。結局、
手を握ってもらって恐る恐る歩く羽目になった。いっそ裸足で歩き
たいですと訴えたけれど、そんなの駄目よと怒られた。更に、気に
入らなかった? と涙目で訴えられて、はい、とは言えなかった自
分の意思の弱さが悲しい。髪を綺麗に整えてもらった恩もある。切
られた線に合わせたらベリーショートになる短さを、他の髪を持っ
てきてうまく誤魔化してもらった。おかげさまで肩より少し上の位
置で済んだ。ありがとうございます。正直、いが栗くらい覚悟して
ました。
脱衣所を出てすぐの廊下に人だかりがあると思ったら、何人かの
人と話しているルーナだった。男性陣はみんなシンプルなのに、ど
うして女性陣はこんななんだ。でも、シンプルな服を着ているルー
ナが新鮮で、こんな状況なのにちょっとときめいた。なんかこう、
生活感があるというか、寛いでいるように見えるというか。まだ乾
ききってない髪が下りているのも相まって幼く見えるのも可愛い。
ルーナと呼ぼうとして、はたと気づく。ルーナは駄目だ、偽名の
意味がない。じゃあ、ギニアス? でも、兄妹なら兄上? 兄様?
それだと堅苦しいだろうか。貴族じゃない人の呼び方を知らなか
った自分に気付く。いや、でも前に聞いたことがあった気が。確か、
何かと混ざりそうだなぁと思ったような⋮⋮。間違えないように気
をつけて⋮⋮。
﹁おじいちゃん!﹂
﹁お兄ちゃんじゃなくて!?﹂
﹁言い違えました!﹂
940
私に気付いたルーナが早足で近づいてくる。靴、普通だ。元々ル
ーナが履いていたほうは濡れているから替わりの靴だけど、普通の
靴である。どうして私はこんな上げ底にぷるぷるしているのだろう。
﹁どうしたんだ? どこか怪我⋮⋮﹂
支えられて歩いている私を心配してくれたルーナが怪訝な顔をし
た。その顔がいつもよりだいぶ近い。他の人に縋っていた両手をル
ーナに移動して、しっかり掴む。それだけでぐらりと揺れた。
﹁ほ、歩行不能﹂
ぶるぶる震える身体をなんとか片手で支えて、スカートをもさぁ
と持ち上げる。少し屈んで足元を覗き込んだルーナは眉を寄せた。
その様子から、やっぱりこれは普通じゃないと分かる。
無理、本当に無理です。膝ががくがくと横にぶれる。ちょっとで
も力を抜いたら足首がぐきりといく。ピンヒールじゃないだけマシ
だけど、だからといって救いにもならない。
﹁まあまあ、この村じゃあ、新しく来た女の子は一番高い靴を履く
習わしなんだ。皆を見下ろせるくらいえらいってことさ。それに、
目立つから皆が顔を覚えやすいしな﹂
そんなえらさより歩きやすさを選びたいです。
私は、ルーナに支えられたまま腰を曲げ、足を引きずるようにし
てなんとか部屋まで辿りついた。
なんとなく年老いたお爺さんの印象があった村長さんは、お父さ
んくらいの年齢だった。村長さんの奥さんはふっくらとしたお母さ
んくらいの年齢の優しそうな女の人で、エプロンで手を拭きながら
奥から出てくる。
﹁リリィさんは何が飲みたいかしら?﹂
﹁あれ、あれいこう。この前に開けたばかりの特別な!﹂
﹁真っ昼間から何言ってるんですか、あなたは。それに、若い女の
子はあんな辛口のお酒は好みませんよ。リリィさん、お茶がいい?
941
果実水がいい?﹂
うきうきした村長さんの提案をぴしゃりと遮った奥さんに、慌て
てお茶をと返す。
﹁分かったわ。とびっきり美味しく淹れてくるから待っててね﹂
私が着ている服よりも動きやすそうな裾を翻して、私より断然低
い厚底の靴で奥に引っ込んでいった。あの服と靴、貸してもらえな
いか後で聞いてみよう。
きっぱりお酒を断られた村長さんは、しょんぼりと肩を落とした。
その後ろでは男女数人の人が苦笑している。村人さんだろう。その
中にはライさんもいた。ひらひらと手を振られて、軽く頭を下げる。
部屋は生活感溢れていた。壁際には棚が合って、その上には奥さ
んの趣味なのかぬいぐるみが並んでいて可愛い。たぶん手作りなん
だろうけど凄く上手だ。他にも刺繍やキルトみたいなものが壁に飾
られていて、多趣味な奥さんなのが分かる。
﹁さて、お二人さん。茶を待ちがてら、話を聞かせてもらいたいん
だがいいだろうか﹂
私はルーナを見上げて、きりりとした顔で頷いた。お任せしても
宜しいでしょうか!
頷き返してくれたルーナは、さりげなく腕を移動させて、私に触
れるか触れないかの位置に指を落ち着かせた。
﹁俺は、グラースの騎士だった﹂
とんっと指が触れてきて、それに合わせて神妙に頷く。たぶん今
も騎士だけど、更新手続きしてないからね! 更新手続きあるかは
知らないけど。
﹁騎士だったというと、もう騎士じゃないのか? そもそも、グラ
ースの騎士だったとなると貴族だろう。そんな御仁がどうしてこっ
ちに?﹂
﹁俺達が出会ったのはもう十年以上前の話になる。俺の父親は女に
だらしない男で、俺は先妻の子供だが、リリィは違う。後妻とその
942
子供とで色々ごたごたしていた上に、この髪と瞳の色だ。少し目を
離した隙にこの大陸に連れ去られた。いま家は弟が継いで、俺はよ
うやくリリィを探しに来られたんだ。そんな頃に連れ去られたせい
で言葉も混ざって妙な具合になっているが、やっと見つけた。だが﹂
ルーナの手が切り揃えてもらった私の髪に触れる。
﹁女の髪を切り刻むような奴に連れられていた所為で、取り戻すの
に強引な手を使うしかなかった。結果、罪人として落とされたとい
うわけだ﹂
さらりと話された内容に感心する。凄い。ほとんど嘘を言ってな
い。ちょっと順番を変えて、言わなかった部分が多いだけだ。これ
なら私でも、話を振られてもぼろを出さずにいられる。流石ルーナ、
ありがとう! 設定づくりには全く協力できなかった分、他の事で
しっかり頑張るから!
尊敬の念を込めて見上げた私の髪に触れたままのルーナは、痛そ
うな顔をしていた。
﹁⋮⋮恐ろしい目に合ってきたから、今のリリィは俺がいないと夜
も眠れず、食事もとれなくなってしまう。あまり離れたくはないか
ら部屋は同じにして頂きたい。リリィへの用事も俺を通してほしい﹂
お荷物にならないよう気合を入れている所にこの設定である。
ルーナは、膝の上に両拳を置き、深々と頭を下げた。
﹁面倒だとは思うが、今はどうかそのように取り計らって頂きたい。
仕事や手伝いは俺がリリィの分まで全て引き受ける。今は静かに療
養させてやりたいのです﹂
頭を下げられた村長さんは、慌てて両手を振った。
﹁お、おい、そんなことしなくても大丈夫だぞ。事情は分かった。
大変な目にあったんだなぁ⋮⋮。よし!﹂
ぱぁんと自分の膝を叩いた村長さんは、可愛らしいレースのカー
テンがかかった窓を開けて私達を手招きする。普通に立とうとして、
盛大に前のめりになった私をルーナが支えてくれた。申し訳ない。
943
村長さんは青い屋根の家を指さして、にっかりと笑った。
﹁あの家を使えばいい。あれは俺の息子夫婦が使ってたんだが、ば
かすか子どもが増えてなぁ。流石に手狭になって引っ越してから空
き家になってるんだ﹂
﹁家?﹂
思わず口に出してしまった。指さされた家は、庭がある小ぢんま
りとした一軒家だ。そういえば、さっきルーナも妙な事を言ってい
た。仕事や手伝いって、ここで資金を稼いでいくつもりなんだろう
か。それだったら私も手伝うけど、ライさんは確か新しく来た女の
子が一番高い靴を履くと言っていなかったか。
それにしたって、家を借りるほど長く滞在するつもりはない。
だって、早くアリス達と会いたい。アリス達に生きていると伝え
たい。あの後どうなったのかも気になる。お城はどうなったの、ア
マリアさんは? アマリアさんは無事ですか? ユアンは泣いてい
ないだろうか。怒ってそうだな。そして、アニタに、大丈夫だと。
それに、言い方は悪いけど、とっても田舎に見えるこの場所では
必要な物が手に入らないと思う。それじゃ駄目だ。お金は確かに必
要だけど、村に長居はできない。だって、ルーナ。
でも、もしかしたら村だと宿屋がないのだろうか。アパートみた
いな存在もないとしたら、一軒家でもそんなに驚く必要はないのか
もしれない。
そうだ、私の早とちりだ。馬鹿はこれだから。
そう納得しようとしていた私に、村長さんはとても悲しそうな顔
をした。お茶を淹れてきてくれた奥さんも、痛ましい顔で私達を見
ている。他の人も同じ顔で、私達を見ていた。
﹁⋮⋮ごめんな、リリィ。この村は巡礼の儀で流れ着いた人間が作
った村なんだ。そのままこうやってその子孫で続いているのは、そ
の人間達に帰る場所がなかったからだけじゃない﹂
944
何だか心臓がどくどくする。頭もぐつぐつしてきた。
村長さんの口が動くのが怖いのはどうしてだろう。何を言うか全
く見当もつかないのに、聞きたくない。
お荷物にならないようしっかりしようと思っていたのに、急に心
細くなって無意識に彷徨った手をルーナが握ってくれる。これくら
いだったら兄妹の範囲内かな? 幼くないからちょっと無理がある
かもしれないけど、やっと再会できた兄妹ならありだろうか。
そんなことをぼんやり思っていた私の手を握った瞬間、ルーナが
ぎょっとした顔で見てくる。その顔で初めて自分の状態に気が付い
た。あ、ごめん、道理で寒かったわけだ。
﹁リリィ、お前熱がっ⋮⋮﹂
﹁出られないんだ﹂
焦ったルーナの声と、憐れみを含んだ村長さんの声が重なった瞬
間、私の意識はぶつりと途切れた。
945
71.神様、女子力の差が少々ではありません
駄目だよ、帰るんだよ。
日本に?
日本にだって帰りたい。でも、約束したのはどっちだった。
帰らなきゃ。みんな待ってる。リリィとも約束した。アリスちゃ
んが金剛力士像みたいな顔して待ってる。
それに、出られないって、困る。困るんだよ。
だって、どうするの。ルーナ。どうするの。ルーナの丸薬、どう
するの。
この村にあるの? あれ、ガリザザの王族が主に使ってて、他の
人はかなり高位の貴族じゃないと使えないって言ってたじゃない。
希少だから、凄くお金がかかるから。庶民が一年働いたって一個も
買えないって言ってたじゃない。だから、ラヴァエル様が融通して
くれてたのに、どうしよう。どうしたら、お金、薬。
嫌だ。せっかく会えたのに、またルーナがいなくなったらどうし
よう。ルーナ、待って、薬探してくるから。薬、買える場所探して、
薬買えるお金を稼いでくるから、何でもするから、私頑張るから、
待って、いなくならないで、待って、ルーナ、置いてかないで。ル
ーナ、やだ、置いてかないで、ルーナ、いなくならないで、待って、
待って、やだ、もう嫌だ、ルーナ。お願いだから、ルーナ。
一人は寂しいよ。一人じゃなくても寂しいんだよ。
ルーナがいないと、悲しいんだよ。
ルーナに会えるまで止まらないでいられた。ルーナに思いだして
もらえるまで待てるよう頑張れた。なのに、ルーナに会えたら、ル
ーナが思いだしてくれたら、今度はいなくなるのが怖い。忘れられ
946
るのが恐ろしい。
なんだ、この弱虫。泣き虫。意気地虫⋮⋮意気地なしだ。
でも、きっと、ルーナも同じだった。今よりずっと年下だったル
ーナに、同じ恐怖を叩きつけたのだ。
それでもルーナは帰ってきてくれた。よりにもよってなタイミン
グだったけど、この恐怖の中に帰ってきてくれた。一生一緒にいた
いと願ってくれた。それに応えられなくて何が恋人だ、何が婚約者
だ。
失う恐怖に逃げ出すものか。そんなものより失くした後悔のほう
が強いに決まってる。
たぶん、私達は、一緒に居続けるために覚悟がいる。既にしてい
たつもりの覚悟より、もっと大きな覚悟が。一緒にいてもいなくな
るのが怖くて、一緒にいないともっと怖い。
それでも、どんなに怖くても頑張ろうと思えるのは、やっぱり一
緒にいたいからだ。
堂々巡りの怖さが渦巻く心の中で、一番大きくずどんと陣取って
いるのが、ルーナが大好きというひどく単純な気持ちなのだからど
うしようもない。
一緒にいるために頑張らなくちゃいけなくて、一緒にいるから頑
張れるなら、一緒にいるために頑張れる。
だから。
﹃ルーナ⋮⋮﹄
自分の声で目が覚める。熱い。熱くて、寒い。
﹃⋮⋮⋮⋮なんで、そんな、嬉しそうなんですかね﹄
私を抱きしめて一緒に寝転んでいるルーナは、この世の春みたい
に目を輝かせている。でも、すぐに肺が空っぽになるんじゃないか
と心配するくらいの息を吐いて、額を合わせた。
947
﹃高熱で丸一日目を覚まさなかったカズキが起きたんだ。喜ばない
ほうがおかしいだろう﹄
潜められた声の内容を理解するまでに、ちょっと時間がいった。
﹃熱⋮⋮一日!?﹄
慌てて起き上がろうとした身体をやんわり止められる。でも、ど
っちにしても頭がぐわんぐわん揺れて無理だった。
背中の下から首を押さえて身体を起こし、水を飲ませてくれたル
ーナは、私をまたベッドに戻した。熱でいろんなものがぐにゃぐに
ゃ熱い。
﹃色々、限界だったんだろう。いいから今は休んでくれ﹄
﹃でも、ルーナの、薬⋮⋮薬、買いに﹄
﹃薬がいるのはお前だろう⋮⋮全く﹄
部屋の中はカーテンが閉め切られていて、時間がよく分からない。
ぼんやりとルーナを眺めて、何がどうなったんだろうと考える。
今一思考が繋がらない。ずっと夢の中にいるみたいにぽわぽわして
いるのだ。
﹃なんで、また、熱⋮⋮向こうじゃ、熱とか、滅多になかったのに﹄
﹃いつ熱出した?﹄
処刑台の上でルーナとエンカウントした日です、とは、言えない。
どうしようかなぁと考えながら、やっぱりルーナを見つめてしま
う。甘えたいけどしっかりしたい。それを両立できるいい女になり
たいものだ。絶世の美女にはどう足掻いてもなれないけど、絶品の
いい女なら目指せるはずだ。なれるかどうかはまた別のお話である。
答えない私に嘆息しつつ、掌で熱を確認したルーナは、もう一回
嘆息した。連続溜息でルーナの肺は空っぽだ。
﹃やっぱり高いな⋮⋮薬がいるか⋮⋮だが、医者も今一信用できな
いしな﹄
どうしたものかと考え込むルーナを見て、私も悩む。そうだ、薬
だ。ルーナの薬がいるんだ。でも、どうして薬が手に入らないんだ
ろう⋮⋮⋮⋮こんな風に話していていいんだろうか。
948
ようやく事態を思いだして、慌てて呼び名を変える。そもそも日
本語で喋ってよかったんだろうか。ブルドゥスだと大陸出身だから
とか言い訳があったけど、実際にその大陸でどこにも使われていな
い言葉を、安全か分からない村で使っていいのか分からない。
﹁ル、たいちょ、ギ、ギニアス⋮⋮兄貴?﹂
﹃⋮⋮好きに呼べばいいけど、ギニアスがいいんじゃないか? 兄
は呼んだことないから使い慣れないだろ? それに、今はルーナで
大丈夫だ。屋根裏の狸は少し前に逃げていったからな﹄
﹃何したの?﹄
﹃ちょっと罠を﹄
この村に来てから、ルーナのしれっと具合が増している。それに
しても、罠を仕掛けなきゃならないのは、やっぱりこの村が普通じ
ゃないということなんだろうか。最初に会った女の人は誰なんだろ
う。ルーナの薬どうしよう。
聞きたいことがいっぱいある。
﹃ルーナ、聞いていい?﹄
﹃⋮⋮元気になってからにしないか?﹄
﹃それで後悔したこと、いっぱいあったから﹄
次があるなんて保障、どこにもないじゃない。
自然と浮かんだ言葉を慌てて飲み込む。言霊ってあるのだ。日本
ではそんなに本気で信じていなかったけど、駄目だと言われている
ことをあえてする必要もない、験担ぎならいくらでもする。でも、
こんな、現実になったら悔やんでも悔やみきれない言葉を吐けない。
﹃聞かないと寝ないつもりだな?﹄
﹃うん﹄
ルーナはまた肺を空っぽにした。
そして私の身体を跨いで壁際に回って元の位置に戻る。抱きしめ
られると温かい。でも、これはいいのだろうか。私は男兄弟がいな
いから分からない。
﹃兄妹で、これはあり?﹄
949
﹃俺は妹がいないから分からない。まあ、大丈夫だろう。カズキが
寒い寒いと震えが止まらなかった末の苦肉の策、という流れだから
な﹄
しれっと再び。いや、三度。
でも、確かに色々やってくれた形跡が残っている。掛布は家中の
布をかき集めてきたかのようにこんもり積み上がってるし、中には
乾かしたルーナのマントもあった。足元に触れる、布に包まれた硬
い物は多分湯たんぽだし、ベッドの下から覗いている鉄鍋に入って
いるのは焼き石だ。
その背中が掛布から出ている所を見ると、ルーナは暑いんだと思
う。ごめん、ルーナ。私はまだちょっと寒いけど温くて、凄く幸せ
です。
でも。
﹃ルーナ、薬、どうしよう﹄
何より気になるのはルーナの丸薬だ。元々持っていた分すらどう
なったか分からない。一応厳重に油紙に包んではいたけれど、あれ
だけの水に飲まれたんだから使い物にならない状態になっていると
思う。
私よりよっぽど不安で堪らないだろうルーナは、深刻な顔で、欠
伸をした。よく見ると目の下に隈がある。
心配かけたなと視線を胸に落とす。
﹃隠す必要もないし一応伝えてみたら、外から流れ着いた人間の中
に、あの薬を専門に研究している人間がいるらしい。解毒薬を専門
にしているらしいから、明日会ってくる﹄
﹃⋮⋮ほんと!?﹄
ちょっと理解が遅れたけど、その内容が頭に入った瞬間思いっき
り顔を上げてしまった。後頭部がルーナの顎に直撃する。脳天から
爪先まで貫いていった電流に似た衝撃に、目の前に星が散った。
﹃ぐっ⋮⋮カズキ、舌! 舌噛んでないな!?﹄
﹃は、はんらまへん⋮⋮﹄
950
﹃噛んだな⋮⋮﹄
﹃ごへん⋮⋮﹄
話を続けてくださいと身振り手振りで伝える。
﹃⋮⋮身体はつらいと思うけど、出来れば一緒に行こう。置いてい
くほうが心配だ﹄
﹃行く。寝てたら起こしてください﹄
﹃ああ、分かった﹄
今度は私が肺の中を空っぽにする番だった。だって、嬉しい。ど
うしよう、嬉しい。まだどうなるか全然分からないけど、もしかし
たらルーナがあれを飲まなくても大丈夫なようになるのだろうか。
ずっとどうしようって思っていたけど、どうすることも出来なくて
悶々としていたことに一筋の光明が差しこまれただけで、有頂天に
なりそうだ。
﹃ところでカズキ、お前口の中どうしたんだ?﹄
いい事に繋がればいいなという期待でどきどきしていたら、不意
にルーナが聞いてきた。
﹃口の中?﹄
﹃舌噛んだで思いだしたけど、落ちる前のキスで血の味がした﹄
なんだか凄い台詞だけど、意識したら終わる気がする。意識した
途端、ベッドからも飛び降りてしまいたくなりそうだ。心を落ち着
かせようと深呼吸したら、胸いっぱいにルーナの匂いを吸い込んで
逆効果だった。ルーナ大好きなのが裏目に出た。表にしても好きだ
からまあいいや。
それにしても口の中。そんなところ怪我しただろうか。
記憶を辿って、一つ心当たりを思いだした。
﹃あ、殴られたあれかな?﹄
﹃⋮⋮⋮⋮誰に?﹄
951
﹃ディナスト。自分で殴った時よりは鼻血ましだったから、殴り方
があるんだろうね﹄
こんな感じでと、軽く捻りを入れて手首を動かす。
そういえば口の中が切れていたような気がする。ディナストに捕
まってこの程度の怪我で済んだのは幸いだった。巡礼の滝から落と
されたけど、結果的には私もルーナもこうして生きてる。もっと幸
いなことに、私達にはそれを喜んでくれる人達が待っている。
神が住まうと言い伝えられる滝から落ちて、私は生きていた。
私は、許されたのだろうか。
ルーナの胸に額をつけ、ゆるく首を振る。
普段はいい事があってもお礼を言いに行ったりしない神様に、こ
んな時だけは縋ってしまいそうだ。生きていたら無罪なんて基準は
人間が勝手に決めたことで、当人である神様が聞いたら﹁初耳です
よ!?﹂とびっくりするかもしれない。
許しは神様から貰うものじゃない。少なくとも、実際に被害を受
けた人間がいるのに、余所に請うものじゃない。もし、本当に神様
が私を許してくれたとしても、私は、私だけは、それを言い訳にし
てはいけないのだ。⋮⋮でも、神様の所為でもあると思う私がいる
のも事実だ。神様、責任折半しましょう。
あの人達は私に謝罪を求めなかった。謝れとは一言も言わなかっ
たのだ。求めたのは贖いだけで、そこに救いを見出そうとしていた。
でも、きっと、彼らが本当に求めた物は違うはずだ。彼らが求め
るものは私達への贖いではなく、排除だ。この世界から爆弾を排除
すること、爆弾のなかった時代を取り戻すことが、たぶん、本当の
願いだ。
ディナストから爆弾を取り上げることが、皆の本当の願いなのだ
と、思う。
952
滝を思いだすと、自然とその原因になった人も思いだす。私の髪
を削ぎ切りにし、ぐーで殴って楽しそうに笑っていたディナスト。
そういえば、彼は知らない単語を言っていた。せっかくだから忘れ
てしまわない内に聞いておこう。
﹃ねえ、ルーナ、の、顔怖いっ!﹄
ふと見上げた顔は、再会した頃のルーナを彷彿とさせた。やめて
ルーナ。なんか最近はそのぎらりとした目もかっこいいと思えてき
て幸せなんです。怖いけど。
﹃⋮⋮何でもない﹄
﹃どこをどうとってもそうは見えないけど、一つ聞いてもいい?﹄
﹃どうぞ﹄
どうぞ。ああ、とか、うん、じゃなくてどうぞ。でも、まあ、何
でもないと本人が言っているから尊重しよう。蛇は藪の中で静かに
眠っていてもらったほうがいい。あえて藪蛇を突っつく必要もない
と思う。
﹃トギって何?﹄
﹃トギ?﹄
﹃ディナストがトギの相手をさせるって言ってたけど、カギの親戚
?﹄
﹁⋮⋮⋮⋮伽﹂
そう、トギ。たぶんトギ。カギ、クギ、イギ、いろいろあるけど、
たぶんトギであってるはずだ。聞き間違えじゃなかったら。
いつもならすぐに答えをくれるルーナが無言だ。もしかしたら大
陸特有の言葉で、ルーナも知らないのかもしれない。歩く百科事典
みたいに何でも知ってるルーナだけど、そりゃ知らないこともある
だろう。
お互いの吐息と体温が混ざり合う距離に無言でいると、とろとろ
と睡魔が襲ってきた。頭痛はするけれど、ルーナの鼓動とリズムが
953
合わさるとなんだか落ち着いてくる。
﹃カズキが﹄
睡魔に身を任せそうになってきた時、ぽつりと言葉が降ってきた。
﹃させられると俺が激怒して、俺以外と望むと、俺は泣く﹄
私に謎かけを仕掛けるとは恐れ入ります。さっぱり分からない。
でも、凄まじく大ごとなのは分かった。ルーナを泣かせるわけには
いかない。これ以上泣かせてなるものか。
そう決意するものの、睡魔にとろとろ溶けていく。
﹃リリィとも?﹄
﹃困る﹄
眠い。
﹃アリスちゃんも?﹄
﹃ありとあらゆる意味で一番まずい﹄
凄く眠い。
額に落ちてきたくすぐったい感触に、とろりとろりとまどろみ始
めた意識をかき集める。明日は丸薬に詳しい人の話をしっかり聞い
て、ルーナを助けてくれるようお願いしよう。その為に出来ること
は全力で手伝おう。
﹃ルーナ⋮⋮﹄
眠りに落ちる前にルーナの顔を見たらいい夢見れそうで、閉じか
けの瞼を必死で開く。
﹃早く熱下げて明日から頑張るから、絶対帰ろうね顔怖い﹄
寝入りばなに見るには、かなり強烈な顔だった。
結局私は、その顔のルーナと花畑で花冠を作って遊ぶ夢を見た。
幸せだったけど、なんか違う感溢れる、悪夢なのかそうじゃないの
か今一判断できない夢だった。
﹁よし﹂
枕元にあった、借り物だと思う水銀の体温計を振って木のケース
954
に戻す。保健室で見た物より随分と太い体温計だった。どっちかと
いうと理科室にあったほうがしっくりくる。
朝、私の熱は微熱にまで下がっていた。元々風邪じゃなかったし、
気合と根性とルーナがいたから下がってくれたみたいだ。熱がある
と心も弱るからいけない。すっきり爽やか、これに限る。昨日は、
こっちに来てから熱出すことが増えたなと思ったけど、よく考えた
ら死にかけて熱だけで済む私の図太さに胸を張るところだった。
図太さ万歳、馬鹿万歳!
一通り自分の図太さを誇って讃えたところで、そろそろ現実逃避
をやめて本題に戻ろう。
ルーナがいない。
そりゃ、ルーナだってずっとこの部屋にいられるわけじゃないと
分かっている。なのに、そんなに広いわけじゃない部屋の中でさえ、
一歩踏み出すことも躊躇するのは情けない。
閉め切った部屋特有の濃度の濃い空気を吸い込み、ベッドから足
を下ろす。靴がない。ちょっと探してみたけど見つからないし、そ
もそもあったとしてもあれだと思うと諦めもつく。裸足でいこう。
汚れたら後で洗えばいい。それよりも、私が着ている服のほうが問
題だ。何だろう、この、とろとろした生地。シルクみたいにさらり
としていない。肌触りが悪いわけじゃないけど、足に絡みついて非
常に歩きづらい。クッションに使うと気持ちよさそうだけど、服に
使うと動きづらくて困る。
﹁ギ、ギニアス︱?﹂
扉から顔だけ出して見回しても、そこには誰もいない。そして部
屋以外の場所を初めて見た。子どもが増えて引っ越したにしては、
随分綺麗な家である。柱にシール⋮⋮はないにしても、傷の一つや
二つや五個や十個あってもおかしくないのに、まるで新築みたいに
955
綺麗だ。ちらりと天井に視線をやっても、そこにあるのは変わらぬ
板張りの天井。私ではこの上に誰かがいるいないの気配が分からな
い。そして、いたら怖い。ホラーだ。
出来るだけ気にしないよう、恐る恐る廊下に出てみると、奥から
音が聞こえてくる。とんとんとんと、何かを小刻みに切っていく音
だ。お母さんがお味噌汁を作っている音を思いだす。お母さん、元
気かな。ねえ、お母さん、お腹空いた。昨日から何も食べてない。
裸足なのを生かして音を立てないよう進んでみると、土間に到着
した。
音を出していたのはルーナだったようだ。
﹁おはよう、リリィ﹂
背中を向けたまま、切っていた何かを小鍋に流しいれて振り向い
たルーナにお母さんを見た。うん、大好き。朝からかっこいいです
ね。
﹁おはよう、ギニュぅ⋮⋮アス﹂
兄さん呼びは慣れてない。でも、ギニアス呼びも別に慣れてなか
ったと今更気が付いたけどもう遅い。隊長なら呼び慣れてるけど、
兄を隊長呼びする妹は怪しすぎる。
﹁早いな。起きる前に作ろうと思ってたんだけど、間に合わなかっ
たか﹂
流石に土間に裸足で降りるのを躊躇している内に、手を拭きなが
ら近寄ってきたルーナが額に触る。冷たくて思わず肩を竦めた。
﹁⋮⋮まだ少しあるな。朝食食べれそうか?﹂
ぐぅ、ぐーるるるるる、ぽこぺん。
私より先に返事を返したことより、最後を珍妙に締めたお腹に物
申したい気持ちでいっぱいだ。
私より急いているお腹の返事にぷっと笑ったルーナは、私の額を
軽くついた。
﹁すぐ出来るから座ってろ﹂
956
﹁はーい!﹂
﹁ただし、出来栄えは期待するなよ?﹂
﹁ギニアスが食事当番した食事ならば、全てぽろりとたいらげるよ
!﹂
﹁ぺろりだな﹂
土間から一段上がったそこの部屋がリビングになっているらしく、
テーブルと椅子がある。いそいそ移動して座り、わくわく朝ご飯を
待つ。
﹁ギニアス、材料、どのように調達した?﹂
﹁ああ、やるとは言われたけど、そういうわけにもいかないからな。
ちょっと薪割りして回ってきた。後、逃げた牛を追ってきた﹂
﹁牛!?﹂
﹁そうしたら卵を貰った﹂
﹁卵!﹂
異世界では牛が卵を産む、というわけじゃないから、たぶん牛を
飼っている人が鶏も飼っていたんだろう。
最後にぐるりと掻き回した小鍋を寄せて、その火でお湯を沸かす
ルーナを眺める。白くとろりとした物を器によそっている背中に、
ようやくはっとなった。ずかんと両拳と額を机に叩きつける。女子
力っ!
わくわくご飯を待っている場合じゃなかった。ルーナはご飯作っ
ててもかっこいいなとか見惚れてる場合でもなかった。ルーナだっ
て死にかけた直後なのに、寝込んでいる私の為に、看病から食料調
達に調理まで全部請け負ってくれている。せめて洗い物だけでも担
当しよう。
﹁リリィ? 気分が悪いか?﹂
ふんわりいい匂いと一緒に心配げな声が降ってきて、しょぼくれ
ながら顔を上げる。
﹁問題ない⋮⋮﹂
﹁食べられるか?﹂
957
﹁ぺろりと⋮⋮﹂
﹁だったらよかった﹂
ふっと笑って目の前に置かれたのは、お雑炊みたいな料理だった。
小さく切られた野菜と、見慣れたものより細くて長いお米が、ふん
わりとした卵色している。
お腹がぽこきゅぅると鳴る。女子力は食べてから考えよう。腹が
減っては戦ができぬ! お腹が張っても眠いからできないと思うけ
ど、それも後で考えよう。
﹁頂戴してもよい?﹂
﹁熱いから気をつけろよ?﹂
木のスプーンで食べたご飯は、大変美味しく完食致しました。空
っぽの胃に熱いものが流れ落ちていく感触さえ美味しくて、女子力
忘れてがっついた私を愛おしげに見つめてくれたルーナの器の大き
さには驚くばかりである。後、舌は火傷した。
﹁ごちそうですたさま!﹂
しっかりおかわりまでたいらげて一息付いたところで、ルーナが
器を持っていこうとしたのに気付いて慌てて止めた。
﹁私が洗浄致すよ﹂
﹁まだ熱があるのに何言ってるんだ? いいから座ってろ﹂
いや、でも、そういうわけには。確かにまた熱が上がったらそれ
はそれで迷惑をかけるけど、でも、後片付けくらいは。でも看病さ
せて徹夜させるのはもっと駄目だ。
両手を持ち上げたまま彷徨う私の肩が軽く押される。とんっと押
されただけなのに、へろりと椅子に座り直してしまった。秘孔を突
かれた!
﹁頼むから、この程度で倒れるくらい弱ってることを自覚してくれ﹂
秘孔でもなんでもなく、ただ私の足腰が弱っているだけだったら
しい。
958
﹁俺が頑丈なのは知ってるだろ? だから、その辺は気にしなくて
いいから、少し養生してくれ。お前、やつれたぞ﹂
﹁見苦しい!?﹂
慌てて両手で顔を押さえる。寝起きも相まって、ぶさいくの極み
だろうか。
﹁いや、可愛い﹂
真顔で返さないでください。反応に凄く困ります。
ムンクの叫びみたいに両頬を押さえたまま俯いて身悶える。どう
しよう。ルーナには、丸薬対処の次点くらいの重要度で眼鏡が必要
かもしれない。
959
72.神様、少し鼻が曲がりました
﹁あれが話にあった森か。リリィ、見えるか?﹂
﹁良好よ﹂
﹁方位磁石も無効になるどころか、獣も寄り付かないとなると相当
だな﹂
村から出られない原因は、見渡す限り広がる樹海だ。方角が狂い、
獣も避けて通る、別名人喰いの森。そんな名前がつくほどの人数が、
森に飲まれて死んでしまったそうだ。遺体も回収しに行けないとい
うから相当だ。外部から人は一切入ってこられない。かといって、
こちらからも出ていけない。ここは秘境だ。
神の裁定とされる滝を越えて九死に一生を得た人達は、結局この
場所を出ることを諦めた。そうしてここを終の住処と定め、定住し
たのだという。
村から出るためには、私達もあの森を越えて行かなければならな
い。
その問題の森を眺めるルーナを見上げて、隣を歩くライさんに気
付かれないよう拳を握り込む。
気にしない、気にしたら終わる。元気が出るようにと奥さんから
の優しさがもさぁと溢れた服と、上げ上げ底の靴で、立ち上がった
瞬間生まれたてのカズキになった私を心配してくれたのは分かる。
分かるから、気にするな。非常に居た堪れないけど、気にするな。
村中の好奇の視線が私達を追っている中、当たり前みたいに私を
抱えて歩くルーナを気にしたら、何かが終わる。次の瞬間奇声を上
げて走り出す予感しかしない。せめて俵担ぎにしてくれたらまだ良
かった。これがティエンなら、へいタクシー、あっちに宜しく! と言えるくらい楽しめるけど、ルーナだとなんだか非常に恥ずかし
い。
960
周りを子ども達がちょろちょろしながら、いいなぁ、だっこいい
なぁと声を上げている。庭先で洗濯物を干している女性達が、あら
あらと微笑ましい笑顔で見送ってくれ、畑仕事をしている男性達が、
はははと軽快な笑い声を上げてくれる。
怪我したり、熱出したりと切羽詰まっていない素面の状態だとこ
んなに恥ずかしいことだったのかと、今更知った私を誰かどうにか
してほしい。
﹁ギニアスは過保護だなぁ﹂
短い髭を撫でるライさんの苦笑が刺さる。
﹁そんなに心配なら家に置いてくりゃいいのに﹂
気配が読めるルーナと違い、欠片も分からない私が一人で、屋根
裏に誰かいるかもしれない家にいるのは心細いどころかただのホラ
ーだ。出来るだけ、お互い目の届く範囲にいようとしているのでそ
の選択肢はなかった。けど、そんな事は言えないのでへらりと笑っ
て誤魔化す。
﹁目を離すと、すぐに掃除や片づけをしようと動き回るからな﹂
﹁ははは! 兄も大変だなぁ!﹂
一通り笑ったライさんは、ああ、そうだと、何かを思い出した顔
をした。
﹁昨夜畑見に行ってた奴がそっちの家の前通った時、何か大きな音
がしたって言ってたぞ? 何かあったか?﹂
﹁ああ、どうも屋根裏に鼠がいるみたいだったから、罠を仕掛けて
みたんだが逃げられた。鼠より大きかったようだから狸かもな。巣
を作られる前にどうにかしたい。トラバサミがあれば貸してもらえ
ないか?﹂
﹁毒餌を撒いたほうがいいんじゃないか? かみさんに作ってもら
おうか?﹂
﹁冬を前に毛皮も取れれば尚いいかと思ってるんだが﹂
下手すると足の骨ごと粉砕する罠が仕掛けられた屋根裏に侵入で
961
きる猛者が、果たしてどれだけいるだろうか。
毒餌を勧めるライさんと、トラバサミを譲らないルーナの、両者
一歩も引かない攻防が繰り広げられる。
私の上で。
結局、目的の家に着くまでその攻防は続いた。私の上で。
是非とも降ろしてください。
目的地に着いたことでいったん停戦してほっとした。
私達が貸してもらった家は一階建てだけど、ここは二階がある。
庭も広くて、所狭しといろんなものが植わっていた。ごちゃごちゃ
と雑草が生えているように見えるけど、よく見たら小さなポップみ
たいなものがあるから、ちゃんと管理されているのだろう。
その庭にひょいっと入っていったライさんは、扉をノックするか
と思いきや、そのまま裏に回ってしまった。
﹁おーい! モーリー、来たぞぉ!﹂
大声がチャイム変わりのようだ。
裏で何か話し声が聞こえて、ぱたぱたと足音が回ってくる。
﹁ああ、来たか。待ってたぞ﹂
ひょっこり顔を出したのは、褐色の肌に紫色の髪をしたあの美女
だった。髪の色が違うけど、洞窟で最初に会った第一村人に間違い
ない。だって美人だ。年はたぶん私より年上だと思うけど、目鼻立
ちはっきりした美人さんで、うっかり見惚れそうになる。睫毛凄い。
美女は、たっぷりとした長い髪を適当に結い上げて、ぴんぴこ跳
ねた髪を気にせず玄関の扉を開けてくれた。扉の向こうには所狭し
と積み上げられた箱や瓶が凄い。
﹁散らかっていて悪いけど、適当に座ってくれ。ライ、案内頼んで
悪かったな。茶でも飲んでいくか? 礼にこの前の酒持っていって
くれ﹂
﹁新入りを案内して礼をもらっちゃ立つ瀬がないぜ。いいさ、気に
962
すんな。ゆっくり診てやれ。ギニアスとリリィも後でな﹂
ひらりと片手を上げて帰っていくライさんに頭を下げる。
ライさんは一回振り向いてにっかりと笑って、畑のほうに歩いて
いった。
﹁さて、と。ま、とりあえず入れ﹂
私とルーナは、モーリーさんの家に入ってすぐに鼻を押さえる羽
目になった。
﹁あ、まずい! 焦げた!﹂
凄まじい臭いが目にも染みて立ち止まった私達の横を、モーリー
さんが駆け抜けていく。奥で大きな音がしたと思ったら、小さな鉄
鍋を片手で振りながら戻ってきた。
﹁煎ってたの忘れてた⋮⋮﹂
真っ黒焦げのそれが臭気の原因だと嗅がなくても分かって、二人
で鼻を押さえて後ずさる。凄い臭いだ。いったい何を煎って、何を
焦がしたらこんな臭いになるのか。まさかとは思うけど、それ、ル
ーナの薬になる何かではないですよね?
心なしか引き攣ったルーナの頬に、私の頬も引き攣る。
しかし、その時間は長くは続かなかった。二階から凄い音が下り
てきたのだ。
﹁モーリー!? なんか焦がした!?﹂
﹁悪い、マーカス。煎りすぎた﹂
二階から降りてきた小柄な男の人は、うへぇと顔の前で手を振り
ながら慌てて窓を開け放っていく。たくさん積み上げられた瓶や箱
を倒さないよう、間をすり抜けていく様子はまるで猫みたいだ。
﹁ちょっとマイハニー! よりにもよってそれ焦がす!? これ、
ちょっとした襲撃だよ!?﹂
﹁悪い。だからもう一回取ってきてくれ﹂
﹁ええええええええええええ!?﹂
963
家中の窓を開け終えたマーカスと呼ばれた男の人は、そこでよう
やく私とルーナに気付いた。ぱたぱたと服をはたいて皺を伸ばし、
顎の下に手を付ける。
﹁やあ、話は聞いてるよ! 君達が新入りだね! 俺の名前はマー
カス! この美人の夫さ! ね、マイハニー!﹂
﹁マイダーリン、愛してるからもう一回宜しく﹂
モーリーさん、にべもない。
がっくりと項垂れたマーカスさんは、机に顎を乗せてぶぅぶぅ文
句を言った。
﹁それ、どうしてもいるのぉ?﹂
﹁いる﹂
するりと近寄ってきた美人の奥さんに目を輝かせたマーカスさん
の横を、モーリーさんはこれまたするりと通り過ぎて行った。そし
て、その机の引き出しから透明な瓶を取り出す。その中には、ふや
けたか何かで形が崩れてはいるものの、見慣れた丸薬が入っていた。
﹁ギニアスといったな? 見せてもらった丸薬調べたけど、お前、
厄介な奴に目をつけられただろ。これは王族でも滅多に手に入れら
れないような、最古の製法で作った丸薬だぞ。いったいどこの令嬢
に所望されてこんなの飲まされたんだ﹂
﹁まあ、綺麗な顔してるからねぇ。薬使ってでも傍にいて欲しいっ
ていう御令嬢が出てきても不思議じゃないねぇ。リリィちゃん、モ
テるお兄ちゃん持つと大変だねぇ﹂
ルーナを眺めてしみじみ頷くマーカスさんに同意する。
﹁ギニアスはお綺麗なすまし顔が素敵にかっこうよいので、大変よ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮褒めてる? けなしてる?﹂
全身全霊で褒めてます。
﹁ツバキに﹂
私とマーカスさんからの賛美を無視して、ルーナはモーリーさん
964
の質問に答えた。
モーリーさんの大きな目がぱちりと動く。
﹁ツバキ?﹂
﹁ハニー、知ってる名前?﹂
ひょいっと覗き込んできたマーカスさんの鼻を摘まんで、モーリ
ーさんは肩を竦めた。
﹁いや? 珍しい名前だなと思って。男か女か分かりゃしない﹂
﹁確かになぁ。どこの部族だろうな﹂
鼻を摘まんだ指にちゅっと軽い口づけを落として、マーカスさん
は背伸びした。
﹁さぁて、愛しい奥様からの指示だ。ちゃちゃっと取ってきますか。
十分で戻るよ、マイハニー﹂
﹁ああ、悪いな、マイダーリン﹂
﹁いいえ、待っててね﹂
ウインクしたマーカスさんが軽快に飛び出していった瞬間、モー
リーさんは家中の窓を閉め始めた。
﹁おい、手伝え。十分って言ったところを見ると、七分ほどで戻っ
てくるぞ。ギニアス、お前気配には敏いな?﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ、頼む。あいつが戻ってきたら合図をくれ。私もそれなり
には読めるが、やはり戦闘職には敵わん。後、リリィ﹂
突然振られて、慌てて手を上げて返事をする。
﹁はい!﹂
﹁お、元気でいいな。じゃあ、お前はそこの上着を羽織れ。窓を閉
めた言い訳に使わせてもらうぞ。お前は寒い。いいな﹂
﹁私は極寒で凍死寸前よ!﹂
﹁私の家は凄まじい環境だな!﹂
ははっと軽い笑い声を上げてくれただけで、睫毛と髪と胸が揺れ
て、一気に部屋の中が華やかになる。ただ、臭いが凄いまま窓が閉
まって嗅覚は死んだ。
965
家中の窓を閉め終えたモーリーさんは早足で私達の傍に戻ると、
何かを調合しながら話し始めた。あれがルーナの薬のようだ。
﹁時間がないから単刀直入に言うぞ。この村は閉ざされている。そ
れは人喰い森に囲まれているからだけじゃない。万が一でもあの森
を越えて生還する者が現れれば、村の存在が明るみに出てしまう。
だから、誰もこの村を出られないようにしているんだ﹂
﹁女の衣装が奇妙なのもそれが理由か﹂
﹁なんだ、気づいてたのか﹂
二人だけで分かり合っていないで、是非私にも説明してほしい。
けど、時間がない中、馬鹿に割いてもらうのは勿体ないので後でル
ーナに聞こう。私は、わさぁとしたスカートを持ち上げて、上げ上
げ底の靴に視線を落とした。
﹁それ、私がマーカスと結婚するまで履いていたのと同じくらいの
高さだな﹂
極められた上げ上げ底靴の先輩がこんなところにいたとは。
﹁三世代くらい外の血が混ざっていない奴と結婚しないと、靴はそ
のままで服も面倒なままだ。結婚したら結婚相手に見張り役が移行
するから、家の中を見張られることは無くなるぞ。まあ、女は結婚
して子どもが出来れば、一応は幸せに暮らせる。見ての通り、のど
かで食い物には困らない村だからな﹂
ぴくりとルーナの眉が動く。
﹁女が逃げ出さないように囲い込むのは分かった。だが、男はどう
した?﹂
﹁この村の女を娶らされる。懐柔されない者は墓場行きだ。普段着
も寝間着も動きづらいように作られているし、靴はああだ。女はそ
う簡単には逃げだせない。だが、私は、ずっとここにいるわけには
いかないんだ。帰って、やることがある﹂
モーリーさんは、長い睫毛でも隠れきれないほど大きく強烈な瞳
966
で、まっすぐに私達を見た。
﹁お前達が外の世界に未練が無く、この村に骨を埋めるつもりなら
忘れてくれ。だが、もしそうではないのなら、協力してはくれない
だろうか。私は、帰らなければならないし、帰りたいんだっ﹂
ぎりりと音を立てたのは、握りしめた拳か、噛み締めた唇か。
﹁⋮⋮最近は水の流れが変わったせいか、ほとんど生きて流れ着か
ない。一年前の一人を除いて、本当に久しぶりの生存者なんだ﹂
﹁生きて出ようとする人間は、他に一人しかいないのか?﹂
﹁いない。最初はいたかもしれないけど、もう既に村で十年、二十
年過ごしている連中ばかりだ。この村では絶対に外部の人間同士で
子どもを作らせない。村人との間に子ができ、憂いなく穏やかな日
々を過ごしていく内に、その全てを捨てて行こうという気持ちが萎
えるんだろうな⋮⋮リリィも、その口か?﹂
呆然として言葉を出せなかった私に、モーリーさんは疲れた目を
向けた。期待しているのに、期待するのに疲れた人間の眼だ。
そして、その口とはどの口ですか。つまり、ここだと、戦争もな
くて黒曜と呼ばれることもなく、穏やかに毎日を暮らすことだけを
考えられる。でも、ルーナ以外と結婚して、ルーナも誰かと結婚し
て、それで、リリィともアリスちゃんとも、皆と二度と会えないと。
ようやく追い付いてきた理解に、ぱかりと口が開く。
﹁こ、困るます! 私はルー、ギニアスと結婚する口です!﹂
﹁誰だ、ルーギニアス﹂
﹁リリ、リーリアとも、確実な再会を約束した口です!﹂
﹁リ多過ぎだろ、リリリーリア﹂
突っ込んでくるモーリーさんの眼に、じんわりと光が戻っている。
形良い唇は笑いをこらえるように震えていた。
﹁つまり?﹂
﹁確実に帰還する口です﹂
967
冗談じゃない。寝言は寝て言えとは正にこういう場面で使われる
言葉だと思う。前にそう啖呵を切ったエレナさんはとてもかっこよ
かった。
﹁巡礼の滝から落とされた者は、外の世界に嫌気がさした人間も少
なくなかったが、お前達はそれでも帰りたいか?﹂
﹁約束をした人々がいるよ。確実に帰還すると約束した人々が、い
っぱい、いるよ﹂
身を乗り出した私の手を両手で握り、モーリーさんは深い息を吐
いた。
﹁ギニアスは?﹂
﹁ここに残る要素が欠片も見当たらない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん、そうか。リリィの脈からしても嘘はついてないな。
凄く速いぞ﹂
手を繋いでくれたと思っていたら、嘘発見器されていたらしい。
確かに指が親指の付け根辺りを押さえている。これぞ手動嘘発見器。
今度やり方教えてください。
﹁ですが、でも、モーリーさん﹂
﹁うん?﹂
﹁私どもを、即座に信頼して宜しいか?﹂
嘘発見器以外でも信頼できる物を提示しなくていいのだろうか。
いや、それはモーリーさんも同じだけど。
モーリーさんは困ったような顔をした。
﹁そうなんだがな⋮⋮それ地毛で、目も地色だろう?﹂
﹁如何にも﹂
私の髪と目の色がどうしたんだろうと首を傾げると、モーリーさ
んは苦笑して、握っていた手に力を籠める。
﹁私はどうにもその色に弱くてな。信用するならお前がいいと思っ
てしまったんだよ﹂
968
笑ってくれて構わないぞと言われても、笑う場所が分からない。
う、うへへ? と疑問形で笑うと、モーリーさんはきょとんとした
後、破顔した。
良く分からないけど、モーリーさんが笑ってくれて嬉しくなって
いる私の肩にルーナの手が乗ったと思ったら、少し大きな声で言っ
た。
﹁大丈夫か、リリィ、気分が悪いのか?﹂
﹁え?﹂
いきなりなんだろうと聞き返す間もなく、しっかりとした弾力に
顔を押し付けられる。モーリーさんに抱きしめられたと気づいたと
同時に、明るい声が部屋に戻ってきた。
﹁たっだいまぁ、愛しのハニー! って、何その羨ましい状況! リリィ、俺と交代しない!?﹂
﹁うるさい、ダーリン。大丈夫だ、リリィ。お前の兄さんの薬は、
私が必ず抜いてやる。だから安心しろ。もう大丈夫だ。な? だか
ら、泣かなくていいんだよ﹂
泣いてないけど空気を読んで鼻を啜ったら、さっきの強烈な臭い
をもろに吸い込んだ。そういえば、あの元凶である鍋を持ってたの
はモーリーさんだった。思いっきり噎せた私を慌てて引き剥がした
モーリーさんが耳元でささやいた言葉を、思わず復唱しそうになっ
て根性で押しとどめる。そして、強引に別の形で繋げた。
﹁し、真実に?﹂
﹁ああ。この薬には、ちょっとばかり詳しくてね。だから、大丈夫
だよ、リリィ﹂
その顔をまじまじと見つめ返して、私は秘儀を発動して笑って誤
魔化した。変じゃないかな。ちゃんと笑えてるかな。ちゃんと、マ
ーカスさんを誤魔化せてるかな。
頭の中でさっきの台詞が何度も蘇る。何度も、何度も、蘇る度に
荒くなりそうな息を、咳で誤魔化して、私は笑った。
969
︻私はエマ。ガリザザの、元第十三皇女だ︼
970
73.神様、少し秋の夜が強すぎます
指を曲げてノックしてみると、こんこんと返ってくる感触と音に
頭を抱える。
﹁うぉう⋮⋮﹂
やってしまったと項垂れる私の後ろの扉、裏口に当たる土間の扉
が開いた。この家、村全体に当たることだけど、鍵がないので誰で
も出入り自由だ。ルーナの肩越しに、沈みかけた夕日が見える。暗
くなる前に皆が家に帰っていく。帰りを待つ家からは夕食の支度の
煙が上がっていた。
それはここも同じだ。同じなのだけど。
﹁ただいま﹂
﹁おかえる⋮⋮﹂
﹁どうした?﹂
﹁本日の夕食が大惨事﹂
昼過ぎから村の人達の手伝いに出ていたルーナが帰ってきた。靴
を脱いで隅に寄せ、上着をはたいて、壁のでっぱりに引っ掛けて戻
ってきたルーナが後ろから覗きこんでくる。
﹁ん?﹂
﹁魚頂戴したが、刺身に挑戦大惨事﹂
うまく下ろせなくてぐちゃぐちゃになった。
﹁よって、団子として野菜スープに投擲した﹂
﹁うん﹂
悲しいけれどそこまではいつも通りだ。どう使えばいいのか分か
らない材料は全部スープになるから、具だくさんである。
私は、さっきまでノックしていた物体をお皿に乗せてルーナの前
に差し出した。綺麗な茶色の焼き色をした、平べったいパンもどき
971
だ。村長の奥さんに教えてもらった通り、発酵のいらない簡易パン
を焼いてみた。日本語でメモを取るわけにはいかず、かといってこ
っちの世界の言葉を喋っている速度で書けるわけもない。そして、
うろ覚えのパン作り開始となったのだ。
結果、詰め込み学習後の頭みたいに、遊び心もそのスペースすら
欠片もない、悲しいパンができあがった。がっちがちである。更に、
この村ではお米みたいな物が作られていて、粉もそれを砕いたもの
だ。つまり、米粉パンである。それががっちがち。そう、これはパ
ンというより煎餅である。
﹁スープに進水させ食事致してください⋮⋮﹂
﹁香ばしくていいんじゃないか?﹂
味に頓着しないルーナには大変助かるけど、大変申し訳ない。全
部美味しかった、ありがとうと笑ってくれるルーナの為に、次こそ
はまともに美味しい料理を作りたいものだ。そう、せめて、失敗し
てないご飯を。誰か私に文明の利器を、インターネットを、料理の
本を、クックなパッドを!
﹁あ!﹂
﹁どうした?﹂
よそった器をテーブルに運んでくれていたルーナの前に、自信満
々に一品差し出す。南瓜っぽい野菜の揚げ団子、蜂蜜で甘くしてあ
るからデザートだ。
﹁成功した!﹂
﹁よかっ⋮⋮くないな。指見せろ﹂
皮が硬くて包丁が滑り落ちた時に、ちょっと切った傷を目敏く見
つけられる。血は止まってるし、小さく裂いた布を巻きつけてるか
ら大丈夫なのだけど、ルーナは私の手から団子のお皿も取り上げて
しまった。
﹁洗い物は俺がする﹂
﹁断固となって拒絶する﹂
972
﹁最初は?﹂
﹁ぐー!﹂
じゃんけんぽん!
突如として仕掛けられたじゃんけんに反射で乗っかる。全力で開
いた私のぱーを、ぐーの拳を微塵も動かさずに指だけ跳ねあげたル
ーナのちょきが切り裂く。
﹁俺の勝ち。夕食にしよう﹂
しれっと運んでいくルーナの背中を見送る。家の中なのに木枯ら
しが吹きぬけて行った気がするのは何故だろう。
思い返せばじゃんけんを教えた十年前のあの日から、私はルーナ
に勝った覚えがない。じゃんけんというのは偶然と偶然のぶつかり
合い。相手のパターンを読んだり神に祈ったりと色々手はあるけれ
ど、基本は運、の、はずだ。
だけど、流石の私も気づいた。ルーナとのじゃんけんは運じゃな
い。強運ですらない。
絶対見てから動かしてる! 私の手が作り上げる前に出しきって
いるから、後出しに引っかかるかは分からないけど!
こうなったら、次のじゃんけんは秘儀を発動させるしかない。一
拳でぐーちょきぱー全出しの魔拳を!
そう決めたはいいけれど、問題は、実際にその時が来て咄嗟に魔
拳を繰り出せるかだ。今度練習しておこう。
特大煎餅はルーナに割ってもらって、具だくさんのスープに無理
やり浸して食べる。圧倒的に水気が足りない。
﹁今日は、何事を行ってきたの?﹂
﹁ん? 山豚を狩ってきた﹂
﹁ヤマブタ﹂
聞き慣れない単語だ。復唱した私に、ルーナは揃えた指をちょい
973
ちょいと動かした。その合図に掌をひっくり返して差し出す。
ゆっくりと掌に文字が書かれる。くすぐったくて思わず口元が緩
む。
﹁明日切り分けた肉が分配されるから、料理の仕方聞いてくるな﹂
猪でしたか。確かに、山にいる豚っぽいものだ。
猪は、猪鍋とか聞いたことがある。けど、そのままじゃ食べ慣れ
てない人には臭いとも聞いた。水菜とかなんかそれ系の野菜と煮る
といいとテレビで見た気がするけど、どうだったかな。
それにしても、ルーナの頭の中にしまわれている和訳辞書を私の
頭にもインストールしてもらえないかな。検索機能もばっちりだ。
まあ、そんな素晴らしい辞書も、私の頭に入る段階でエラーが出て
残念なことになりそうな予感しかしない。
洗い物してくれているルーナを眺めながら、洗濯物を畳む。この
もさぁとした服は洗うのも大変だったけど、乾かすのはもっと大変
で、更に畳むのまで面倒ときた。というか、畳めない。そのままか
けるしかなさそうだ。スカート部分引き千切りたい。
﹁今年は実りが多かったから、冬支度は困らないらしいぞ。薪割り
と手伝いで結構な食料と交換してもらえたしな﹂
﹁それはご安心をね﹂
﹁ああ、そうだ。リリィが今日作った堅パン、日持ちしそうだし作
り置いてもいいかもな。冬に毎日作るの大変だろ? 俺も手伝うか
ら、今度纏めて作らないか?﹂
﹁え!? ぐ、偶然の一品故に、製法が⋮⋮﹂
洗い物を終えたルーナは、今度は土間との段差に腰掛けて何をか
作り始めた。洗濯物を抱えて後ろから覗きこむ。
﹁何物を作成中?﹂
﹁罠。狸獲れたら、リリィの首巻き作ろう。きっと温かいぞ﹂
974
天井がみしりと家鳴りしたのは気のせいだろうか。いま天井にい
る存在が首巻になったら、きっと凄いホラーだ。想像してしまって
ひくりと頬が引き攣ったけど、ルーナが楽しそうですぐに綻ぶ。ル
ーナ、物作るの好きなんだな。次はどんなの作ろうかと考えている
姿が子どもみたいで可愛い。
﹁じゃあ、ちょっと仕掛けてくるな﹂
﹁はーい﹂
わざわざ上に向かって宣言して、ルーナが屋根裏に上がっていく。
その間に、着替えとタオルだけ選り分けて、残りの洗濯物をしまう。
しまい終えてリビングに戻ってくると、ルーナが裏口の前で待っ
ていた。
﹁別に中にいていいんだぞ?﹂
﹁別に、ギニアスが先に入室しても宜しいのよ!﹂
﹁入浴﹂
﹁にゅーよーく﹂
よしと笑ってくれて嬉しい。そして、言葉チェックがありがたい。
今度アリスちゃんと会えた時、見違えたと驚かせたいのだ。
﹁せめて上着取ってこい。外はもう結構冷えるぞ﹂
﹁はーい!﹂
ちょこちょこ入る言葉チェックを受けながら、家の裏に回る。途
中で薪置き場から薪も取ってきた。
土間はルーナが厚手のカーペットを敷いてくれたから靴下で大丈
夫だけど、流石に外は上げ上げ底の出番だ。ぐらぐら揺れながら薪
を持ったルーナの腕を掴む。見上げた顔の近さはまだ慣れなくて、
ルーナもそうなのか、お互いちょっと照れくさい。
ルーナが手際よく薪を放り込み、火をつけている横で一緒にしゃ
がみ込む。靴が高すぎて火元まで遠いけど、火を煽る段階になった
らやらせてもらう。本当は火をつけるところからやってみたいけど、
どうにも火打ち石が上手く使えない。今までは火を移させてもらっ
975
ていたから、練習してないつけがここで出た。料理に使っている火
は、朝ルーナがつけてくれた火をランプに移したのを使っている。
竹みたいな筒を吹いて風を送り込んでいる横で、ルーナがうちわ
みたいな物で風を送っている。最初はすぐ酸欠になっていたけど、
今は加減を覚えて、少し経ってから酸欠になるレベルに成長した。
﹁リリィ、顔真っ黒﹂
顔面煤だらけになるのは未だに変化がない。同じように筒を使っ
て拭いても汚れ一つないルーナの顔を見る。うん、今日も素敵です
ね。
軽い笑い声を上げて顔を擦ってくれていたルーナは、駆け抜けて
いった冷たい夜風にちょっと目を細めた。
﹁もういい頃合いだと思うから入ってこい﹂
﹁偶には、ギニアスより一番湯の入浴行わない?﹂
﹁外にいるリリィが心配で風呂どころじゃないから、即行出てくる
ぞ?﹂
﹁一番湯行って参るます!﹂
勢いよく立ちあが、ろうとして、はたと気づいてそろりと動きを
変える。転ぶ。
冷える外で山狩りしてきた人に火の番をさせて頂く一番風呂。外
から聞こえるゆっくり入れの声。急いで入っていたのに、なんだか
んだと話しかけてくる声に答えていたら、気がつけばまったり入っ
てしまっている事実。
今日も負けたとしょぼくれながら壁伝いにそろそろと進むも、途
中で、火の番で残るルーナを振り向いた。
﹁こ、これで終了したと思うな! 覚えるてやがれ︱︱!﹂
明日こそはルーナに一番風呂を使わせてやる! びしりと指さして宣言した私の声に合わせるように、どこかで聞
こえる犬の遠吠え。同時に私の頭の中を流れる、負け犬の遠吠えの
テロップ。これでは完全にチンピラの捨て台詞だ。何か付け足そう。
じりじり扉の前まで移動して、開けた段階でもう一回振り返る。
976
﹁ギ、ギニアスの男前︱︱!﹂
﹁ありがとう?﹂
﹁どういたすまして!﹂
急いで扉を閉めてお風呂場まで駆け込んで気づく。私は一体何が
言いたかったんだろうと考えながらお風呂場に入ると、小窓から声
が入ってくる。
﹁湯加減どうだ?﹂
﹁良好よ﹂
急いで逃亡した先は結局壁一枚隔てた場所だという状況に、私は
冷静になった。冷静になれば思考もクリアだ。そうして出た結論は
一つ。
ルーナは今日も格好いい。
ルーナはいつも、火の始末を終わらせてからお風呂に入る。冷め
る前にさっと入るだけのルーナに、偶にはゆっくり浸かってほしい
と思うのに、なかなか勝てない。じゃんけんが駄目、捨て台詞も駄
目。指相撲も腕相撲も足相撲も駄目だった。さあ、私がルーナに勝
てるものはこの世に存在するのか!
これが騎士ルーナと黒曜姫の黒曜なら、ウインク一つで相手をメ
ロメロにさせて言うことを聞かせてしまう。色気という名の武器だ
ったけど、あれは色気というより魔術の領域の気がする。目が合う
と動悸が激しくなって眩暈がして、終いには気絶してしまう。⋮⋮
毒ガスかな!
モーリーさんという名のエマさんと出会ってもう十日。あれ以降、
特に進展はない。というより、進展させようがないのだ。
薬の経過を見るという名目で、ほぼ毎日のように家を訪ねてはい
るけれど、マーカスさんがぴったり張り付いている。なんやかんや
と理由をつけてマーカスさんが出ていくと、必ず村人の誰かが訪ね
977
てくるのだ。おかげで、身のある話は全くできていない。
やっぱり見張られているんだなと実感できるタイミングに、彼ら
の人好きのする笑顔が恐ろしくて気持ち悪くなった。でも、笑って
誤魔化せなら、私だってお家芸であり国民芸。どの顔も同じ仮面の
ように見え始めた笑みを向けられても、相手をお客様だと思えば何
とかなる。スマイルゼロ円! いらっしゃいませお客様! 本日も屋根裏にはルーナ特製の罠が
張られておりますので、またのお越しを心よりお待ち申し上げてお
りません!
最初に寝ていた部屋に、隣の部屋にあったベッドを二人で引きず
ってきて寝室にした。流石に同じベッドで寝るのは問題かなと話し
合った結果だ。ルーナは椅子でいいと言っていたけど、断固として
ベッド移動を強行した。
そのベッドに腰掛けて、生乾きだった髪にタオルを押し付ける。
最初は、薬の包み紙にメモがあった。次は、もらった飴の包み紙
にメモがあった。次は、薬の中にメモがあった。でも、それから何
もない。恐らくマーカスさんの監視が厳しくなって何も出来なくな
ったんだろうとルーナが言っていた。
一通目には︻旅支度︼と書かれていた。二通目には︻リリィの靴
は任せろ︼。三通目は︻機会を待︼で途切れていた。慌てて書いた
んだろう。返事を渡せないでいるまま、今に至る。けれど最後が機
会を待てだったから、大人しく待つことにして、こっそり旅の用意
は始めた。
食料は、意外なほど回してもらえている。村を出ていけないよう
978
小出しにされるかと思ったけれど、冬籠り前にしてもたくさんもら
った。食料が少ないと村での生活に不安を持たれるからだろうとル
ーナが言っていた。
後ろ向きにベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
ツバキ、エマさんが生きていたよ。ディナストを呼び捨てにして
いたツバキが、エマ様と呼んでいた人がここにいるよと伝えたら、
ツバキはどうするだろう。
そして、イツキさん。私がこの世界で出会えた人があなたに繋が
ったらいいと思っていた。けれど、あなたの出会いがいま、私に繋
がっている。あなたがこの世界で出会えた人が、出会ってすぐの私
に好印象を抱いてくれた。髪と目の色が同じだったという理由だけ
で、信用したいと言ってくれた。
あなたが築いてくれた絆です。あなたが培ってくれた信用です。
あなたが齎した縁がいま、私達に道をくれています。
そう伝えられる日は来るのだろうか。
お風呂から上がったルーナが部屋に入ってくる。両腕を交差させ
て瞳の上に乗せたまま、口を開く。
﹁現在、大丈夫?﹂
ルーナが動きを止めたのが分かった。
﹃⋮⋮どうした?﹄
覗きこんでくる気配がする。瞳を閉じていても影が落ちたくらい
は分かるのだ。
顔を見られたくなくて横に転がって背を向ける。
﹃私は、この村が怖い、し、気味が悪いと、思う。ルーナ以外と結
婚したいとか、この村に残りたいとか、は、一切、思ってない﹄
﹃ああ﹄
﹃ごめん、ルーナ。こんな時に何言ってんだ馬鹿って、怒って、く
979
ださい﹄
﹃⋮⋮カズキ?﹄
ごめん、こんな時に甘えてごめん。
怒らせるくらいなら言わなきゃいいのに、ごめんね、ルーナ。思
ってるだけなら困らせることもないのに、甘えてごめん。伝えてご
めん。
帰りたい気持ちに嘘はない。アリスちゃん達に会いたい気持ちは
変わらない。
だけど、ごめん。
﹃私、ずっと、こんな風にルーナと暮らしたかった﹄
一緒に死なせかけた結果得られたこの時間がもうちょっと続けば
いいとすら、思ってしまった。
声が震える。ルーナの顔が見られない。
小さな衣擦れの音がして、交差した腕に少し湿った指が触れた。
びくりと跳ねてしまったのはルーナが怖かったからじゃない。ただ、
何を言われても泣き出してしまいそうな自分が情けなかったからだ。
ルーナはやんわりと力を籠めて私の腕を解き、顔の横に両手をつ
いた。
﹃怒るわけ、ないだろう。そう思ってもらえて、凄く、光栄だ﹄
そう言ってくれたルーナの声は震えて、唇が重なる寸前に見えた
顔は今にも泣き出しそうだった。優しいのに掻き抱くような手に抱
きしめられる。
﹃頼むから、そんな、そんなどうしようもないほど当たり前の願い
を、謝らないでくれ﹄
もう一度重なった口づけは深くて、どうしようもないほど幸せで、
どうしようもないほど温かかった。
980
次の日の朝、ルーナに抱きしめられた状態で目が覚めた私は、両
手で顔を覆って身悶えた。秋の夜って怖い。弱音がぼろぼろ出てく
る。秋の夜長に敗北した私が眠るまで抱きしめてくれていたルーナ
は、眠っても抱きしめてくれていたらしい。腕から出られない。今
日も朝からかっこいいですね。髭がちょっと生えてて可愛いです。
でも、あんまり生えてませんね。アリスちゃんもそうだったけど、
ちょみちょみしか生えてなくて、それも可愛いですね。
その寝顔を見て、私は決意した。私は朝からハイテンションにな
れるくらい、朝はわりと強いタイプだ。是非、夜にもそのテンショ
ンを引き継ごう。朝にも負けず、昼にも負けず、夜にも深夜にも負
けず、テンション高い女に、私はなりたい。否、なってみせる! 記憶の中でもうるさい私は、一日中うるさい女になるのだ!
しかし、その時の私は、夜だと弱音を吐きやすいと気づいたルー
ナが全力で甘やかしにくるなんて夢にも思わなかった。
更に、対抗策として心を籠めて語った、切なく泣ける屈指の名作
ごんぎつねやら忠犬ハチ公の話が、最後にごんが鬼が島に行って打
出の小槌で大きくなり、ハチが月に帰って美しい白鳥になってガラ
スの靴を履いて王子様と結婚した辺りで、一体何をしていたのか分
からなくなるなんて、知る由もなかった。
981
74.神様、少し婚活恋バナしてきました
今日のご飯作りは、形はちょっと違ってもお米だしいけるんじゃ
ないかなと期待して炊いてみたら、てろんてろんになってしまった
悲しいお米を見つめる作業から始まった。
始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子が泣いても蓋とるな。お婆ちゃ
んが教えてくれたお米を土鍋で炊くときの魔法の呪文だけど、何分
辺りで中ぱっぱになるのかは分からなかった。水は、合宿の時の飯
盒を習って掌が浸かるまでにしたけど、それじゃいけなかったのだ
ろうか。
しばらくうんうん唸った結果、蒸かしたお芋を繋ぎ代わりに団子
にした。団子万歳。団子は万能。
ふと思いついて箸に刺して直火で焼いてみる。確か、どっかの郷
土料理でこんなのあったはずだ。お醤油とかお味噌塗って食べてた
気がする。あれ? あれってこんにゃくだっけ? まあいいや、そ
のままでも美味しいはず! と意気込んで焼いてみたはいいものの、
意外と味がしなかった。お芋自体の味が薄かったらしい。鳴門金時、
紅あずま、彼らが恋しい。
味噌も醤油もないし、何塗ろうと考えながら卵焼き風オムレツを
作る。お醤油欲しい。欲しいというか食べたい。そして、いつもの
野菜スープの中では、さっき放り込んだ団子が膨張して鍋を占拠し
ていた。そっと蓋をして見ないふりをしたら、それすら持ち上げて
きて怖かった。
982
行き当たりばったりの夕食を、美味しかったとぺろりと平らげて
くれたルーナに合掌する。ぶよぶよのお団子、ほんとごめん。
相変わらず洗い物は奪われて、渋々洗濯物を畳む。スカート引き
千切りたい。
﹁歓迎会?﹂
﹁ここにきて二週間になるから、らしい。リリィの顔見せも兼ねた
いそうだ﹂
﹁明日?﹂
﹁明日の夜﹂
じゃあ、夕食の支度は要らないのかな。
私はエマさんの家に行くとき以外、基本的に外には出ないから、
どうも村の人達が焦れてきているらしい。
エマさんと話せるかもしれない。もう一人の協力者という人にも
会えたらいいなと思う。村の人達と一緒に、屋根直したり狩りをし
たり薪を割ったりと、色々しているルーナも会えていないというか
ら、難しいかもしれないけど。そして、いい加減エマさんにちゃん
と名乗りたい。
明日は気を引き締めて頑張ろう。この村に来て、ある意味初仕事
だ。バイトで鍛えた営業スマイルの出番である。
そう気合を入れた私がいま一番頑張っている事は、何か一つでも
ルーナと勝負できる方法を探すことだ。毎晩奮闘して、今のところ
完敗だ。完敗だと勝負にならない。平等の王者だと思っていたじゃ
んけんが通用しないとなると、何か勝負できるものがほしい。
今夜はくすぐりあいをしてみたけど、私が一人悶えるだけで、ル
ーナは無表情だった。でも、私はここに勝機を見たのである。だっ
て、無表情。平然としてるんじゃなくて、無表情。絶対どこかは弱
点だ!
983
ルーナだってくすぐったい所の一つや二つあるはずだと、それは
もう張り切った。しかし、散々ベッドの上でくすぐり合って埃をた
たせた後、私は気が付いてしまったのである。
ルーナの一つや二つの弱点を見つけ出す為に、私の十や二十の弱
点がばれたのではないか。そして結局、ルーナの弱点は分からなか
った上に、これ、勝負じゃなくてただのふざけあいだ、と。
﹁じゃあ、新しい家族、ギニアスとリリィの幸せを祈って、乾杯!﹂
村長さんの号令で、皆が高々と掲げた木のコップを打ち鳴らす。
私は大変控えめに腕を上げて参加した。昨夜くすぐり、くすぐられ
すぎて、筋肉痛だ。しれっとしているルーナの筋肉が羨ましい。
最初は一緒に座っていたけれど、すぐにわっと人に揉まれて席が
離れていく。この手慣れてる感が凄い。合図もないのに、あっとい
う間に間に入ってくるのだ。
﹁さあ、今日は飲め飲め!﹂
﹁偶には男同士の話でもしよう!﹂
そう言って肩を組まれたはずのルーナの周りには、いつの間にか
女の子が勢揃いしていた。凄い、年下から年上まで勢揃いだ。美人
から可愛いまで、清楚系からアダルティまで完全制覇!
﹁はい、女の子はこっちね﹂
﹁私、酒は、飲酒不能よ﹂
﹁大丈夫よ、白酒だから﹂
村長さんの奥さんは、ふくよかな手でそっと私の手に温かいコッ
984
プを持たせた。とろりとした白い液体の中に粒粒とした物が揺れて
いる。くんくんと匂いを嗅いで納得した。これ、甘酒だ。というこ
とは、ルーナのあれは日本酒みたいなものだろうか。
甘酒なら大丈夫かなと思うけど、万が一酔ったら困るから、ちょ
っとずつ口をつける。
下手に頑張るとぼろが出るのは分かっているので、ルーナと話し
合った通り、あまり喋らない。とりあえず、参加することに意味が
あると思っておこう。
刈取りが終わった後の畑を使って、お祭りみたいにあちこちにラ
ンプが吊り下げられ、色とりどりの紐が夜風に揺れている。結構肌
寒いけど、そのかわり星空が凄く綺麗だ。ただでさえ遮るものも汚
すものもない所に、冬の始まりを感じさせる寒さ。澄みきった夜空
は、見ていると焦点が合わなくなるくらい満天だ。
それを眺めていると、いつの間にか周りには若い男の人達がいた。
ルーナの所にいる女性達と同じように、年下から年上まで勢揃いの
上にイケメン揃いだ。親近感が湧く顔つきの人が一人もいないこと
に違和感がある。後、凄く疎外感を感じる!
﹁楽しんでる?﹂
頷く。それだけで笑い疲れた頬の下が引き攣る。こんな所まで筋
肉痛になるまで笑い過ぎた。
﹁俺達も、やっとリリィと話せるって楽しみにしてたんだ。もう身
体は平気?﹂
ずっと平気ですよ! と言ったら家に引きこもる理由が消え失せ
るから、とりあえず頷く。しまった、喋らない応対のレパートリー
が少なすぎる。
いろいろ話しかけてくれるけど、基本的に、はい、いいえ、後は
愛想笑いで誤魔化す。
﹁リリィって大人しいんだねぇ﹂
985
思わず噎せそうになる。凄い。喋らないだけで人生初の評価を頂
いた。
﹁この村の女の子って強いからさ、新鮮で可愛いね﹂
コップを持った手で示された方向には、ぐいぐいルーナに迫る女
性陣が見える。ルーナの腕を取って胸に押し付けるアダルティなお
姉さんを見て、自分の胸を見下ろす。うん、判断に困る胸だった。
もう一度顔を上げたら、そのお姉さんは目が合うとうふんとウイ
ンクしてくれた。流れるようなウインクが素晴らしい。私はカルー
ラさんから禁止令が出ているウインク。一回だけ今のはよかったと
絶賛されたウインクが、目に虫が入っただけだった時の空気が今で
も忘れられない。
カルーラさん元気かなと夜空を見ていると、ぐいっと肩を引っ張
られた。というより、肩を抱かれた。甘酒が︱︱! たぷんと揺れた甘酒が零れるかとはらはらしたけれど、とろみで
なんとか器の中に戻ってくれた。よかった。洗濯しなくて済んで本
当に良かった。ありがとう甘酒。気が利く甘酒で本当に良かった。
﹁ねえねえ、リリィはどんな男が好み?﹂
﹁あ、それ俺も聞きたい!﹂
﹁俺も俺も!﹂
ルーナの周りでは女性陣が同じ質問で迫っている。私は、静かに
甘酒へと視線を落とす。この状況は昨日話し合ったからある程度の
予想はついていた。
そう、ここは婚活会場!
外から来た人を身内に引き込む一番の方法が婚姻関係だから、ぐ
いぐい口説いてくるのだ。といっても、女性陣は本気に見える! ですよね! ルーナかっこいいですよね! そして私を口説いてく
ださる予定のイケメン達は目が笑ってない! 相手が私で大変申し
訳ございません!
私の人生初モテ期は偽りのモテ期でした。でも、私には、一生分
986
の恋愛運を使っても叶ったのが不思議でならないルーナがいるので、
それでいい。
だから、私の返事はこうだ!
﹁兄の如く色男で、兄の如く強敵強面で、兄の如く優しさで、兄の
如く素晴らしき男性よ!﹂
﹁お、お兄さん大好きなんだねぇ﹂
好きなタイプを詳しく言うと、濃紺の髪で水色の瞳をした身長高
いイケメンで、物作るの好きでご飯の出来栄えに頓着しなくて、私
と同じ春生まれのルーナです!
甘酒を持っていないほうの手をぐっと握り拳にして、全身全霊を
込めて語った。ルーナ大好き!
﹁じゃ、じゃあさ、この中なら誰がいい?﹂
若干どころか盛大に引き攣った顔が、私の後ろを見て更に引き攣
る。何だろうと振り向いたら、ルーナを取り囲んでいらっしゃった
女性陣が凄い形相でこっちに飛び込んでくるところだった。
﹁な、なんだよ、お前ら!﹂
男性陣も驚いていたので、彼らの予定にもなかった行動のようだ。
女性達は男性を押しのけて私の前後左右に陣取った。
﹁リリィ!﹂
﹁はい!﹂
﹁私達の中で誰が好み!?﹂
﹁はい!?﹂
モテ期!
﹁お前ら何やってんだよ! あっち行けって!﹂
若干垂れ目の男の人がルーナを示すけど、女性達は私の腕を掴ん
で離れようとしない。偽りのモテ期の次は、女性からのモテ期が!?
﹁だって、ギニアスさんに好みの女性を聞いたら、リリィと気が合
う人って! リリィの好きな人って言うんだもん︱︱!﹂
代理モテ期でした。
987
ルーナのほうを見ると、しれっとご飯を食べている。
女性陣の勢いに負けた男性陣は、肩を落としてルーナのほうに向
かっていく。これにて婚活会場解散。これよりただの飲み会へと移
行します。
ずいっと顔を寄せてきた女の子の顔にそばかす発見。リリィに会
いたい。
﹁ねえ、リリィ﹂
え、どこ!?
思わずリリィを探しかけて、慌てて顔面を取り繕う。そうです、
リリィは私でした。
﹁ギニアスさんの好みって分かる?﹂
飲み会へと移行しても、話す内容は恋バナで変わりはないらしい。
女性陣の視線は、ちらちらとルーナに吸い寄せられていく。当然私
も吸い寄せられている。イケメンの中でも輝くルーナは凄い。そん
な吸引力の変わらないただ一人のルーナを見て、ちょっと考える。
ルーナの好み。つまり、婚約者である私ということで宜しいか!
﹁馬鹿!﹂
﹁え﹂
﹁たわけ!﹂
﹁え﹂
﹁珍妙!﹂
どんどん曇っていく皆の顔に、私は頷いた。
どうです、私の婚約者趣味悪いでしょう! 寧ろ私が悪いでしょ
う! 本当にどうもすみません!
沈黙が流れる。どうしよう、この微妙な空気。ありとあらゆる意
味で私の所為だということは分かるけど、打開する方法がちっとも
分からない。いや、でも、まあ、ある意味恋敵との対決に打ち勝っ
988
たと思えばいいのだろうか。凄く微妙な空気だけど。
﹁あらぁ? どうしたの? 盛り下がっちゃった?﹂
間延びした声が聞こえて、星空に向いていた視線を下ろす。今の
誰が言ったんだろう。
﹁ねえ、あたしも混ぜてぇ﹂
気のせいか、目の前に立つ男の人から聞こえてきた気がする。
﹁ねえってば﹂
男の人は、じれったそうに身体をくねらせて、無理やり隣に座っ
てきた。そばかす可愛い女の子がずれて、椅子から落ちそうになっ
て口を尖らせる。
そして、気のせいじゃなかった。声はこの人から発せられている。
年上だろうか。痩せてひょろっとした身体をくねらせて引っ付い
てきた人に、女性陣からブーイングが上がる。
﹁ちょっとヒンネ、ずるいわよ。リリィはいま私達と話してるのよ﹂
﹁そうよ、ヒンネはあっちでお父さん達と話してなさいよ﹂
ヒンネと呼ばれた男の人は、嫌よぉと嘆いて私にしなだれかかっ
た。甘酒はご臨終です。そして、洗濯物が増えた私の心もご臨終で
す。
﹁あっちむさ苦しいんだもの。あたしもこっちがいいわぁ。あたし
だって心は女よ!﹂
そう叫んで抱きついてきたヒンネさんを引き剥がそうと、女性陣
が引っ張る。しかしヒンネさんは離さない。おっさん臭溢れる場所
には戻らないわと断固として離れないので、必然的に私も一緒に揺
すぶられる。目が回る上に、髪とか服がぐちゃぐちゃになってきた。
これはアイロンフラグ。石を熱して鉄で挟み、このもさぁとしたス
カートにかけるのかと思うと、手間が三倍、精神的負担は三十倍!
﹁しょ、少々待って! 何事か、ぶちぶちと申している! 服が破
損した予感が!﹂
きゃいきゃいと甲高い叫び声と、きゃあきゃあと低い叫び声に揉
989
まれていると、ひょいっと視線が上がる。
﹁妹は病み上がりだ。無理をさせないでくれ﹂
いつの間にか戻ってきたルーナに抱え上げられていた。やっと女
性陣と女性? の紛争から逃れられて一息つく。一息ついて自分の
姿を見下ろすと、結構な惨状だった。胸のボタンが引き千切れてい
る。縫い付けるのかと思うと、精神的負担は四十倍!
もう、明日に回そう。
全てを諦めた私の惨状を見て眉を寄せたルーナは、私の身体を抱
き直して抱きこんだ。
﹁リリィを休ませたいから、俺達はこれで失礼する﹂
私達の歓迎会をしてくれているのに、主役途中退場宣言!
そばかすの子がさっと青褪めて立ち上がった。
﹁リ、リリィ、ごめんなさい。私、調子に乗っちゃって、本当にご
めんね﹂
﹁大丈夫、私が眠いのみよ﹂
へらりと笑うと、彼女はほっとしたように力を抜いて、もじもじ
と両手を擦り合わせる。
﹁あ、あの、また、お喋りしてくれる? あのね、私達、リリィと
したいこといっぱいあるの。綺麗なお花が咲く野原とか、案内した
くって⋮⋮あの、だからね!﹂
﹁うん、ありがとう﹂
ぱっと上がった顔に咲いた満面の笑顔の中で、ちらりと動いた視
線の理由を考えてしまった自分が悲しい。こっそりと追った視線の
先にいたのはライさん達だった。
﹁女共がはしゃいじまったな。悪いな、ギニアス、リリィ。皆、あ
んたらと話せるのを楽しみにしてたんだ。だから、許してやってく
れ﹂
﹁ああ⋮⋮リリィが動けるようになったら、仲良くしてやってほし
い﹂
990
﹁おう! じゃあな、ゆっくり休めよ﹂
人の良さそうな笑顔が、耳当たりの良い言葉を、柔らかい声音で
届けてくれる。だけど、彼らの笑わない瞳の笑顔に見送られるのが、
ちょっとしんどい。でも、瞳の違和感に気付いてしまえるのは、ち
ゃんと、本当に笑ってくれる人達の笑顔を知っているからだと思え
ば、俯いてしまわないでいられる。
﹁ありがとうござりました! おやすみなさい!﹂
声を震わさずに言えたことを、リリィ達に感謝した。
ほとんどの村人があの場所に集まっているらしく、帰り道はしん
っと静まり返っている。そんな中でもエマさんとマーカスさんがい
なかったところを見ると、エマさんの監視はどんどんきつくなって
いるのかもしれない。
家について、ルーナがお風呂に水を入れてくれている間に、着替
えを用意する。そして、自分の惨状を見下ろして溜息をついた。服
どうしようかなと視線を下ろすと、何か違和感を感じて動きを止め
る。
﹁ん?﹂
何だか胸元がちくちくするのだ。草でも入ったかな、虫だと嫌だ
なと、ボタンが取れてしまった胸元を引っ張って中を覗きこむ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ルー、ギー! ギニアス︱︱!﹂
ポケットのない服の中に放り込まれていた紙を落とさないよう上
から大事に押さえ、お風呂場に特攻した。そして、小窓から飛び込
んできたカナブンもどきと運命の邂逅を交わし、即座に回れ右する。
ルーナを飛び越えてきたカナブンから逃げながら、私は、とてもユ
アンに会いたくなった。ユアンお元気ですか。私は今日も元気に廊
下で転んで鼻血ぶー。
991
一人で慌てて一人で怪我をした私だけど、幸いにも、蹲る私を抱
き上げようと覆いかぶさってくれたルーナに、紙の存在をこっそり
教えることに成功したから結果良しだった。
罠の確認という名目で屋根裏の狸を追い払ったルーナと一緒に、
どきどきしながら紙を開いたら読めなかった。この悲しみをどうし
よう。
﹃ルーナ⋮⋮異国の言葉で書いてある﹄
しょんぼりしながら紙を渡すと、最初は普通に眺めていたルーナ
が急にぐっと眉を顰めた。
﹃⋮⋮グラースと同じ言葉だ﹄
﹃暗号でしたか﹄
成程。誰かに読まれても大丈夫なように暗号にして託されたのだ
ろう。筆記体とは違う文字の崩し方に感心する。流石、皆あったま
いい。
不謹慎だけどちょっとわくわくしてきた私に、ルーナは何とも言
えない顔で首を振った。
﹃多分これ⋮⋮ただの悪筆だぞ﹄
切ない。
紙には、毎年この時期には酷い嵐が来ること。その嵐の後に騒動
を起こすので、村が騒がしくなったら荷物を持って家で待っていて
ほしいこと、もし家の外にいたら墓場で合流してほしいこと。そし
て、服を破ってごめんと書かれていた。
そのまま渡されてわたわたするより、思い切って放り込んでもら
ってよかったのかもしれない。
問題は、放り込んでくれた人が誰かということだ。十中八九、あ
の人だとは思うけど。
992
だって、あの人だけ笑っていない眼が真剣だった。周りと連携す
るように交わされる視線はなく、私だけを見ていた見た目は男、中
身は女性の例のヒンネさん。例のも何も、ヒンネさんは一人しかい
ないけど。
ちょっと色々びっくりしてそれどころじゃなかったけれど、あの
人だと思う。村の人達は独特の雰囲気がある。でも、あの人はモー
リーさんと似ていた。何がどう似ていたと聞かれると全く似ていな
いと答えるけど、なんというか、雰囲気だ。一体感がない感じがし
た。いい意味で。
ルーナも言っていた。この村の人達には独特の雰囲気があると。
だから、モーリーさんが私達を信じてくれたように、私達も逃亡
の仲間としてモーリーさんを信じられるのだ。
しゃがんで手紙を燃やしているルーナの背中を突っつく。硬い。
服を指で摘まんで引っ張ったら、その小さな動きに合わせて揺れて
くれる。楽しくなって、全部の指を使って背中を突っついていたら、
背を向けたまま私の両手を掴んできた。肩を越えさせたと思ったら、
その両手を掴んだまま、背負い投げするみたいに屈んで私を乗せて
立ち上がる。持ち上げられて浮いた足を折り曲げて、地面に着かな
いよう遊ぶ。
﹃アリスちゃん達に会いたいね﹄
﹃ああ、そうだな。帰ったら、またアリスと飲みたいな﹄
ちょっと待って。私一回目の飲み会知らない。腕相撲対決もした
らしいけどそれも見たことない。ボードゲームをやっているのはち
ょこちょこ見たことがある。
よく考えたら、私は親友と飲んだこともなければ、ボードゲーム
をしたこともない。まあ、したところで結果は見えているけども!
それにしても、折り紙やお喋りはいっぱいしたけど、これではま
るでルーナのほうがアリスちゃんの親友だ。
993
﹃私、帰ったらアリスちゃんと飲んで、腕相撲して、たわけの嵐を
頂いてチョップされるんだ!﹄
﹃⋮⋮カズキがいいなら別にいいけどな﹄
でも、二十歳の年齢制限どうしよう。この世界に来てからの時間
でも、春になったら誕生日かな。だったらお酒飲めるかな!
﹃ルーナ、ルーナ!﹄
﹃ん?﹄
﹃二十歳になったらお酒飲めるから、私とも飲んで!﹄
﹃ああ、そうか。それは楽しみ⋮⋮酒癖悪かったなぁ﹄
ティエンに騙されて一気飲みしたお酒の酒癖が悪かったのは、回
数に入れないで頂けると嬉しいです。
994
75.神様、少しお預けです
嵐は三日後にやってきた。
雨は思ったより降らなかったけれど、風と雷が凄まじく、全身を
強張らせる轟音が一日中轟いていた。
雨漏りがないか、被害はないか、村中を回っているというライさ
んが顔を出した時に、毎年この嵐が終わったらぐっと寒くなって冬
が来ると言っていた。お前達と過ごす初めての冬だなとも。
暴風の中他の家を周りに行く背中を見送って、そういえば、この
村の人の名前を全然覚えていないことに気が付いた。村の全景も、
初めてこの村に来た日見ただけだ。
離れることがこんなにも名残惜しくないのは初めてだ。名残惜し
く感じる暇もないのはしょっちゅうだったけど、離れることが事前
に分かっていて、早急の出発が楽しみでならないのも初めてである。
家からも出なかったし、人と名乗り合う機会も避けてきたから、
残るものが何もないのだ。出会いも名も心も、名残を惜しめるほど
関わらなかった。普通に、何の憂いもなく話して、遊んで、そうし
て日々を過ごしていたのならきっと残っていたであろう何か。それ
を惜しいとすらは思えない私を、村の人達は薄情だと思うだろうか。
助けてもらったし、屋根裏には日々見張りが入り込むけど、衣食
住の提供もしてくれた人達だったのに。一応今までのお礼を兼ねて、
薪をたくさん用意したので、冬を越すためにご活用ください。
唯一寂しいと思えるのは、ルーナと過ごせる穏やかな時間だ。で
も、このままここにいたらルーナといられなくなる未来しかない。
995
そもそも、二人だけで閉ざされる世界を望むのなら、最初からここ
にはいなかったのだ。
大丈夫だと自分に言い聞かせる。縋る願いを間違えるな。目指す
理由を惑うな。ここじゃなくてもそんな未来はある。閉ざされた場
所で他に選ぶ道がないから得られた場所じゃなくて、もっと明るい、
選んだ先で大切な人達に手が届く場所が。
私は、この世界で十年前、傲慢にも、そんな場所にルーナを連れ
ていきたいと思った。でも今は、連れていってもらいたいと思って
いる。でも、まだ、連れていきたいと思っている。
そして、一緒にいきたいと、願っているのだ。
アリスちゃん達に会いたいなと思いながら、服の上下を切り離す。
上は普通に持っていくとして、下はもさぁとした生地を纏めて縫い
つけて足元も全部塞ぐ。腰の部分に紐を通してから、持ち上げて眺
める。
﹃てれててっててーん!﹄
巾着袋ぉ∼!
大丈夫そうだと確認して、縄を埋め込んで縫いつける。
﹃てれててっててーん!﹄
リュックサック∼!
両手で掲げて物をまじまじと見上げて、力強く頷く。
﹃うん、無理がある!﹄
どうしよう。
煎餅パンやとりあえず適当に何でもかんでもしっかり焼いたパン
もどき、出汁が取れるからともらった肉や魚の干物などの日持ちが
する食料。防寒用がないのは痛いけど、服や手拭いなどなど。樹海
996
に挑むには無謀かと思える装備だけど、一応用意できた荷物だ。嵐
の日は流石に見張りはこなかったから気楽に準備ができた。
でも、問題が一つ。鞄類が一切無いのだ。遠くまで出かける必要
がないからだろうか、誰も鞄を持ってない。畑で取れたものを運ぶ
時は箱や、大きなザルみたいな籠に入れて運ぶ。他の家に遊びに行
くときは風呂敷みたいな布を使う。
つまり、用意した荷物を入れるものが何もないのだ。一応あれこ
れ考えて話し合っていたけど、色々と試す前に決行が決まった。
﹁カズキ、どうだった?﹂
お風呂場で木を削って水筒を作っていたルーナが帰ってくる。い
ろいろしないとカビるのは分かっているけれど、時間がないので特
急工事だ。
私は無言で巾着リュックを差し出し、交換で水筒を受け取った。
﹁やっぱり問題は強度だな。軽い物ならいいけどな﹂
﹃ですよねぇ﹄
﹁いっそ箱に取っ手をつけて背負うか?﹂
木箱を背負うのか。それは痛そうだ。そして重い。筒状の籠があ
ったらそれを包んで籠バッグみたいにするのに、それすらない。時
間あればルーナが革から作ってみるつもりだったけど、それも無理
そうだ。
結局、何枚もの布を無理やり縫い合わせて補強することで妥協し
た。重なった布が硬すぎて針が通らなくて、折らないように気をつ
けながらあちこちに押し付けたりして踊っていると、結局ルーナが
やってくれた。女子力っ⋮⋮いや、この場合は筋力?
油を入れた陶器の瓶を布でぐるぐる巻きにして、柔らかい物の中
に突っ込んで最後の準備が終了した。
一日中荒れ狂った嵐の所為で分かりにくいけど、もう夜になって
997
いる。夕食は日持ちがしない食材を中心にスープだ! いつも通り
である。
問題はお風呂だ。吹き荒れる雷鳴の中で火の番をしてもらうのは
心苦しいけれど、今度はいつ入れるか分からないので出来るだけ入
っておきたい。
ならばこれしかない。
﹃ルーナ!﹄
﹁断る﹂
﹃せめて提案聞いてから断わってください。最後くらい私がお風呂
番するから一番風呂どうぞ!﹄
﹁断る﹂
聞いた上でも断られた。でも、明日からも負担が大きいのはルー
ナだ。私も精一杯頑張るけれど、どうしたって力仕事はルーナに任
せることになってしまう。せめて今くらいはゆったりリラックスし
て寛いでもらいたいと思う。
だから今日は引き下がるつもりはない。たとえ実力行使でお風呂
に放り込まれても、髪の毛張り付かせて這い出てやる。絶対に諦め
ない。どんな手を使ってでも、ルーナを先にお風呂に入れてみせる
のだ!
気合を全身から滾らせている私は、今ならきっとオーラだって放
てているだろう。さあ、こい! 私は絶対に負けたりしない。今日
こそルーナに一番風呂を!
﹁一緒に入るか?﹂
﹃一番風呂いただきまぁす!﹄
お風呂、大変気持ちよかったです。
﹁⋮⋮⋮⋮で、何をやってるんだ?﹂
﹃お待ちしておりました!﹄
998
お風呂上りのルーナを寝室で待ち受けた私は、片膝をついて両手
を広げ、ルーナに背を向けていた。
﹃倒れたりすると、いつもルーナが運んでくれますね?﹄
﹁そうだな?﹂
首を傾げたルーナに、さあどうぞとバックで近寄る。
﹃もしもルーナが倒れた時は、私が運べるか実験してみようと思っ
ぶべる﹄
言い切る前に、お風呂上りでしっとりとした温もりが覆いかぶさ
ってきて潰れた。重い。凄く重い。後、硬い。ぬりかべが倒れてき
たらこんな感じかなと思うくらい重い。
﹁俺が倒れたら置いて逃げろ﹂
﹃そ、れは、いや﹄
﹁二人一緒に捕まるよりいい。俺一人なら何とでもなる。いいな?﹂
ルーナが倒れるくらいの怪我をして、足手纏いの私まで守る余裕
はないだろう。でも、怪我をしたルーナを置いて一人で逃げるのは
最終手段だ。
ぶるぶる震える足に気合いと踏ん張りを入れ、地面についている
腕に力を籠める。
﹃ぬ﹄
﹁お?﹂
﹃りゃぁあああああああああああ!﹄
﹁お前なぁ⋮⋮﹂
完全に立ち上がることは叶わなかったけど、中腰状態にまで復活
した私は、ルーナの足を引きずって三歩歩いた。ずしん、ずしん、
ずしんと響かせて辿りついたベッドに沈み込む。
咄嗟に重心を移動させてくれたのか、背中にいるルーナに潰され
ることはなかった。
﹃引き、ずって、なら、動け、る、か、ら、隠れる、くらい、でき
る、よ﹄
﹁息も絶え絶え﹂
999
﹃それ、は、しかた、ない﹄
文字通り全力を出したのだから息も荒くなる。ぜえはあと返事を
して、呼吸を整えている間、ルーナは静かに待ってくれた。私の上
で。潰れるほどじゃないけど重い。
﹃私、それなりに頑丈だから、使えるときはちゃんと頼ってくれた
ら、嬉しい﹄
﹁⋮⋮お前がいるから倒れられないと思えるし、色んなことがどう
でもいいと投げ出さないで生きていけるし、お前がいるから人間で
いられる俺が唯一頼ってもらえることを奪おうとはいい度胸だな!﹂
﹃ふひあ!?﹄
いきなり脇腹鷲掴みにしてくすぐってくるのは反則だと思います。
くすぐりくすぐられと、ぎゃあぎゃあ騒いでいる内にいつの間に
か眠ってしまった。
散々くすぐり倒されて息も絶え絶えのまま眠りについた私は翌朝、
ぐしゃぐしゃになったベッドの上でルーナに抱きしめられた状態で
目を覚ました。
起床一番のぼさぼさ頭で思う。何やってんだろう、私達、と。
そして、ルーナ今日もかっこいいですね。おはようございます、
と。
いつもの服の下に、裾を折り曲げて縫い付けたルーナの服を着る。
村を出られたら脱いでいくのだ。靴はエマさんが用意してくれると
メモにあったけれど、一応厚手の布を持っていく。
ルーナは剣がないことを気にしていたので、箒を渡したらぽんっ
と両手を打って裏に回り、鍬を持ってきた。こっちのほうが持ち手
が丈夫らしい。農業系騎士の出来上がりだ。かっこいい。惚れる⋮
⋮いや、惚れてた!
1000
いつも通りに朝ご飯を作り失敗していると、なんだか村が騒がし
い。エマさん達が何かをしてくれたのだろう。後は、騒ぎに乗じて
ここに来てくれるというエマさん達を待つだけだ。
なのに、ルーナがぱっと険しい顔を上げた。
﹁どうされたの?﹂
﹁誰か来る﹂
エマさん達じゃないのはその顔で分かった。息を飲んで三拍くら
いして、玄関の扉が激しく打ち鳴らされる。
﹁おおい! ギニアス起きてるか!? 悪いが手伝ってくれ!﹂
ライさんだ。
中途半端に立ち上がっていた私達は、すぐに扉に向かう。扉を開
けようとしたらルーナの手でくるりと回されて、気が付いたらルー
ナの背中を見ていた。
﹁朝からどうした? 何だか、やけに騒がしいな﹂
そこにいたのはライさんだけだった。その向こうでは男の人達が
慌ただしく走り回っていた。そして、更にその向こう、向かいの山
の頂上付近で煙が上がっている。
﹁昨日の落雷が山火事起こしやがった! この時期多いんだよ、ち
くしょう。人手が足りねぇ! 手伝ってくれ!﹂
﹁え?﹂
思わずルーナの背中を握ってしまった。ちょっと待って。それは、
困る。困るというより、嫌だ。だって、ちょっと待って。
﹁分かった。着替えてくるから少しだけ待ってくれ﹂
素早く会話を打ち切ったルーナは、私の背中に手を置いて中に押
し戻した。
﹁先に行け﹂
1001
その後に続く台詞が分かっているのが、苦しい。
﹃⋮⋮俺一人ならどうとでもなるから、先に行け?﹄
﹁ああ、隙を見て抜け出して追いかける。荷物は持てない分は置い
ていけ。俺も回収できないかもしれないけど、まあ、仕方ないな﹂
何回か大きく深呼吸する。一回じゃ駄目だった。何回も深呼吸し
て、ぐっとルーナの胸倉を掴んで引き寄せる。
そして、思いっきりキスをした。
﹃分かった! 待ってるから早く来てね! 気をつけて!﹄
ルーナを背負って山道駆け下りられるくらいだったらきっと連れ
ていってもらえたのだろう。足手纏いどうもすみません! 今度は
連れていってもらえるように精進します! でも、今度が無かった
らもっと嬉しいです!
自分からするのは珍しいからあんまりうまくできなかったけど、
歯は当たらなかったからよしだ。恥ずかしくないかといえば凄まじ
く恥ずかしい。でも、ルーナ大好き気をつけて!
握り拳でキスをした私に目をぱちりと瞬かせたルーナは、すぐに
苦笑した。
﹁全くお前は⋮⋮﹂
そして返ってきた唇を、慌てて両手で止める。瞬き再び。
カルーラさん達が教えてくれた手腕を発揮する機会がようやく巡
ってきた。
人差し指を自分の唇と、相手の唇に当てて、うっそりと微笑む。
たぶんうっそり。鏡で見たらげっそりやいにっかりだったらどうし
よう。
﹁キスは、次回まで、お、あ、ず、け、り!﹂
秘技、お客さんにまた来てもらう魔法の言葉!
あえて相手からの分を惜しませることで、自分からの分を惜しむ
1002
より効果があるそうだ。男にはおあずけのほうが効果あるのよと笑
う華麗なウインクが蘇る。
﹃ルーナからのキスは次回までお預かりします!﹄
どう!? 効果ある!? 次に繋げる気力湧き上がる!?
やっと披露できた秘技の成果をうきうき待っていた私の視線の先
で、ルーナがゆらりと揺れた。
﹁私だ、入るぞ﹂
鍵がない扉からするりと滑り込んできたエマさんは、土間で体育
座りする私を見てぎょっとした。その身体からは、何も荷物を持っ
ていないのにがしゃんと音がする。
﹁今はまだ外が騒がしいから、もう少し落ち着いてから出るぞ⋮⋮
どうした!? 気分が悪いのか!?﹂
﹃噛まれた⋮⋮﹄
﹁ん?﹂
﹁齧り付かれた⋮⋮﹂
﹁は? 何に? どこを?﹂
スカートを惜しげもなくまくり上げて、がしゃがしゃとそこを探
っているエマさんが首を傾げる。
﹁鼻⋮⋮﹂
﹁おう﹂
﹁頬⋮⋮﹂
﹁おう?﹂
﹁指⋮⋮﹂
﹁お﹂
﹁腕⋮⋮﹂
﹁お、お﹂
1003
﹁首⋮⋮﹂
﹁おおぅ⋮⋮﹂
キスのおあずけは守っていったけど、他の何かは確実に奪われた
気がする。
﹁⋮⋮何かよく分からないけど、大変だったんだな﹂
でも、いつまでも体育座りしているわけにもいかないから、ぱん
っと頬っぺたを叩いて気合を入れた。
エマさんはきょろきょろと家の中を見回す。
﹁ギニアスはどうした?﹂
﹁ライさんが、助力要請を﹂
ぎょっとして私の肩を掴んだエマさんからがしゃがしゃ音がした。
そのスカートの中が気になる。
﹁ヒンネはちゃんと山頂に火をつけてきたぞ!? 新参者は眺めの
いい場所には連れていかないはずだけどな⋮⋮くそっ、どうすべき
か﹂
﹁出立しよう、モーリーさん﹂
﹁だが、置いていくわけには。それに、騎士がいないと戦力に大幅
な差が﹂
紫色の髪をがしがし掻いている手を取って、息を吸う。
﹁大丈夫。ギニアスならば、確実に追走し、合流可能よ。寧ろ、追
い越しされる可能性もある程よ。よって、平気、大丈夫。先へ、行
こう﹂
ルーナが身軽に動けるよう、先に行こう。先に行くことが待つこ
とになる。
だから、行きましょう、エマさん。
足手纏いでも、足元に纏わりつくだけじゃない方法を取ることは
できる。たぶん、怖じないことだ。怖じず、待てる勇気は、とても
怖いけれど。
1004
少しの間見つめ合った後、私が握った手をぎゅっと握り返したエ
マさんは、大きく息を吐いた。
﹁失敗は許されない。だから、一つだけ聞かせてくれ。ギニアスは、
強いんだな?﹂
﹁はい﹂
﹁どのくらい?﹂
どのくらい!?
慌てて考える。
初めて見た鰐と戦いました。ヌアブロウに斬られて、高い崖から
濁流に落ちて、少年の頃から戦争に出ていました。
それらがぐるぐる頭を回って、かちりと答えになる。
﹁現在生きているくらいです!﹂
必死に考えてこれだと思う渾身の答えを披露したのに、エマさん
はぱちくりと瞬きした後、爆笑した。
これ以上適切なものはないと思った答えを爆笑された悲しみに打
ちひしがれている私の前に、足首を覆う長さの靴がぶらさげられる。
﹁いや、すまん。分かった。それなら大丈夫そうだな。ヒンネは先
に持てるだけの荷を持っていってくれているから、合流してから荷
を分けよう﹂
小刻みに震える靴で、まだ笑いが残っているのが分かったけど、
お礼を言って大人しく受け取った。
靴というよりは革を袋にして、かろうじて足の形にした感じだ。
手作り感満載で、本当にありがたい。だって、私が作ったら恐らく
革の巾着しかできないだろう。
﹁ああ、待て﹂
そのまま履こうとしたら、エマさんはまだごそごそスカートの中
を探っている。そうして出てきたのは見覚えのある物だった。
1005
﹁これを先に履いて中敷き代わりにしてから革を履け。これはな、
藁を編んで作るワラジっていう靴なんだそうだ。⋮⋮知人がな、持
っていた本に書いてあって、カガイガクシュウでやり方を習ったと
言っていたんだ﹂
ぎこちない発音で草鞋を撫でるその眼が私の黒を見て、愛おしげ
に細まっていく。
いる。ここに、いる。
私はとっさにエマさんの腕を掴んだ。
﹁ムラカミさん﹂
掴んだ腕が強張る。でも、離さない。
ムラカミさんが、ここにいた。エマさんの中に、そしてエマさん
が見た私の中に、ムラカミさんがいる。
﹁私と、故郷を同じくする、ムラカミ・イツキさん!﹂
エマさんの腕が私を掴み返す。振り払う理由はない。
その瞳の中にムラカミさんを見つけた。この人の眼に映っていた
のは私じゃない。私の黒の中に、ムラカミさんを探している。
﹁お前、まさか、色だけだと⋮⋮まさか、本当にイツキと同郷なの
か!? 同郷の単位は!?﹂
﹁せ、世界!﹂
すとんとエマさんが崩れ落ちた。それに引っ張られて私も座り込
んだ。
﹁イツキ⋮⋮﹂
紫髪の隙間から呆然とした呟きが漏れて、握られている腕に痛い
ほど力が篭もる。でも、振り払おうと思えない。だってその手は酷
く震えていた。
﹁エマさん、後でたくさん、お喋りしましょう。私、たくさん、伝
言したきことがあるの﹂
﹁⋮⋮ああ、私も、聞きたいことが、話したいことがあるんだ﹂
その為には、絶対にここを出なければいけないんだ。
1006
お互い頷いて立ち上がる。まずはやるべきことをやってからだ。
いつの間にか外は随分静かになっていた。今なら出られるかもしれ
ない。
エマさんがくれた靴を履いていた私は、不意に妙な気分になった。
なんだかお祭りの日のような、夜に外を歩いているような、非日常
の中にいるような、高揚感。
﹁エマ、さん﹂
﹁ん?﹂
私達の荷物もスカートの中に収容しようとしていたエマさんが振
り向いて、妙な顔をした。でも、その顔にうまく焦点が合わない。
﹁妙な、におい、が﹂
﹁匂い? 私は普段から薬草弄っているから鼻が馬鹿になっている
んだが⋮⋮いや、これはっ﹂
怪訝な顔をして私に走り寄ってきたエマさんは、はっとしたよう
にスカートをめくりあげて私の顔に押し付けた。
﹁まずい、吸うな!﹂
私に押し付けるより先に、ご自分のスカートなんだからご自分を
守ってください。
そう言いたかったのに、頭がぐらぐらする。せめて私のスカート
でエマさんの呼吸をと思ったのに、それより先にエマさんの身体が
どさりと私の膝の上に落ちてきた。その旋毛が銀色だったのを見て、
ああ、ディナストと姉弟って本当なんだなと、今更ながら実感する。
エマさんの後ろにマーカスさんがいた。何か棒を持っていて、あ
あ、それでエマさんを殴ったんだなと、分かる。分かるのに、思考
が散らばっていってしまう。
ふわふわぽわぽわ、妙な視界と一緒に、私の意識はふわりと溶け
て、宙に消えた。
1007
76.神様、少しふわふわします
くすくすと笑い声が聞こえる。
なんだろう。凄く楽しそうだ。でも、その笑い声はふわふわふわ
ふわ流れて、うまく掴めない。
﹁⋮⋮頼むから、やめてくれ。せめて、そいつだけは、逃がしてや
ってくれ﹂
きゃあきゃあ鈴のように広がる笑い声の中に一つだけ混ざる苦渋
の声。その声とたくさん話したいことがあったのに、声が出ない。
どうして声が出ないのか分からない。私は何をしようとしていただ
ろう。意識が纏まらないのを必死で掻き集めるのに、集めた傍から
霧散する。頭がふわふわとして、よく、分からない。
﹁ブジーア! お前は一昨年ミシクと結婚しただろうが!﹂
﹁やだ、モーリーったらぁ。この村はみーんな家族だもの。外の人
とだったら浮気だけど、そうじゃなかったら浮気じゃないのよ? だって、村の人の血を引く子どもだったら家族に変わりはないでし
ょう? マーカスだって、最初はジョルジュと一緒だったのよ?﹂
知らない名前の中に、ぽつぽつと知ってる名前があった。でも、
それがどうしたんだろう。ああ、それより、頭が変だ。
﹁⋮⋮どうして、分かった﹂
﹁気を紛らわすようにしょっちゅう染めてた髪、染めなくなっただ
ろ? だから、気が紛れる何かを見つけたんだろうと思ってね。ね
え、モーリー、俺寂しいなぁ。俺達、結構いい夫婦やれてたと思っ
たんだけど? 俺の何がいけなかった? 俺、結構楽しかったんだ
けどな﹂
﹁⋮⋮惚れた男がいる。だけど、それはお前じゃない﹂
1008
恋バナですか?
私もルーナの話ならできますよ。あれ? でも、ルーナ。ルーナ
はどこ? どうしてルーナがいないんだろう。待ち合わせしたのに
な。あれ? 待ち合わせしたのならいかないと。でも、どこに?
﹁人の数だけ理想の形がある。自分の理想以外の全てを否定できる
ほど、私は立派な人間じゃない。だがな、それを他者に押し付ける
な! 流れ着いた人間から選択肢を奪い取り、そうして生きるしか
ないように縛り付けることのどこに正当性を見出せと言うんだ!﹂
﹁この村は閉ざされているから平和なんだ。他所からの侵略を受け
ることもなく、侵略することもない。村人はみんな家族だから、ど
の子どもも村の皆の子どもだ。男女の諍いもない、金もないから醜
い相続争いや強奪もない。ここは、この世最後の理想郷だ﹂
﹁倫理も道徳も狂ったここは、ただの地獄だ!﹂
ばしんと弾ける音がして、何かが倒れた。でも、思考が上手く繋
がらない。音がして、誰かが倒れて、それが知ってる人で。エマさ
んが、叩かれた。だから? だから、目を、開けないと。
﹁あれ? 起きてる?﹂
かろうじて見つけた答えに従って、なんとか目を開くと、歓迎会
で見たことがあるような気がするけど気のせいかもしれない人がい
た。たぶんいたと、思う。この垂れ目を見たことがあるような。
﹁ブジーア? どうしたの?﹂
そばかすの子が、垂れ目の人の肩に顎を乗せて覗き込んできた。
板張りの天井が見える。ここは家の中だ。
﹁あれ? 目が開いてる? うそ、意識あるの? 香が効きにくい
体質かなぁ?﹂
﹁モーリーは薬草に慣れてるからだけど、リリィは何でだろうな。
まあ、どうせ動けないからいいだろ。ギニアスはライさん達が始末
したし、ゆっくり、慌てず、家族になっていけばいいさ﹂
私の上にブジーアと呼ばれた人が乗っている。服が下着だけにな
っていた。服⋮⋮もさぁとしたスカートはいらないけど、ルーナの
1009
服を着ていたのに。ああ、そうだ。ルーナ。ルーナと、家族、ルー
ナとなりたい。なのに、始末って何? 始末って、何を? 始末っ
て何だっけ。
ふわふわと意識が飛んでいくのに、気持ちが悪い。気色も悪い。
鳥肌がぞわぞわ立っていくのに、夢見心地な香りが消えない。
﹁やめろ! そいつに手を出すな! そいつを、そいつらを、もう
これ以上、この世界の理由で傷つけるな!﹂
エマさんが怒ってる。どうして?
理由を聞きたいのに、気持ちが悪い。
近づいてきた顔を、水の中でたゆたうような速さでしか動かせな
い腕を必死で持ち上げて押さえる。気持ち悪い、ルーナ、どうして
だろう、苦しい。分からない。理由を探す前に思考が散って理解で
きない。でも、気持ち悪い。気色が悪い。
﹁動けるの? 大丈夫、怖くないよ。手を繋いでいようか﹂
違う。手は、この人と繋ぎたいんじゃない。
違う。何が? 分からない。でも、違う。これは違う。
だって、私いま、ルーナのキスをお預かりしてるから、この人は
違う。
触らないで。乗らないで。あっちいって。触らないで、お願いだ
から、触らないで。あっちいって。
﹁結構動くな⋮⋮なあ、ミシク、香の残り持ってきてくれないか?﹂
﹁そうね、取ってくるわ﹂
大して力の籠められていない手を引き抜いて、必死にもがく。も
がいても水中にいるより鈍い動きなのが分かるけど、止めるわけに
はいかない。ここがどこか分からない。今が何か分からない。どこ
が今で何がいつか分からないけど、これじゃないのは、分かる。
だから、帰らないと。だから行かないと。
ルーナの所に、戻らないと。
1010
﹁はいはい、手はこっち。今日から俺達がリリィの家族だ、よ⋮⋮
⋮⋮⋮⋮え?﹂
突然、ブジーアの声が引き攣った。
私を跨いだまま前を見ている視線を追って、首をごとりごとりと
反らせていく。うまく動かない身体をもどかしく思いながら、必死
に眼球を動かして見たそこに、まさしく今必死で思い浮かべていた
人がいて。
私は、即、目を逸らした。
ぽわぽわとした点が浮かび上がってなんだかファンシーな視界に
なっているそこには、ライさんの顔面を鷲掴みにしたまま問答無用
で引きずる農業系騎士がいる。凄まじく怖い。鍬がこんなに怖い日
が来るなんて思わなかった。
ここは小さな小屋みたいな場所で、扉を出るとすぐ外になってい
た。立ち並ぶお墓にぞっと背筋が冷えたけれど、そこを顔面鷲掴み
にして歩いてくるルーナのほうがもっと怖い。
﹁お、おい、誰か止めろ!﹂
誰かが引き攣った声で叫んだと同時に、数名が飛び出していく。
鈍い身体では視線で追い切れず、次に見た時には別の誰かが顔面を
鷲掴みにされて、地面から持ち上げられていた。そして、そのまま
叩きつけられる。鍬すら使ってない。
さっきまですぐにぶれていた焦点がルーナに縫いつけられる。是
非とも解いていください。そう願ったら、願いが叶ったのかルーナ
が消えた。
目で追えなかったルーナを次に見つけたのは、さっきまでブジー
アがいた場所だった。正確には、さっきまでいたブジーアを回し蹴
りで吹き飛ばした後に立っている。足、長いですね。その腕が伸ば
された先では、鍬の持ち手を喉に突きつけられたマーカスさんがい
た。そのポケットから木で出来た丸い檻みたいな小さな籠が零れ落
1011
ちた瞬間、またあの匂いが広がっていく。
﹁⋮⋮カズキ、カズキ?﹂
しゃがんだルーナの手が頬を撫でるけど、それにすり寄ることも
出来ない。また焦点がぶれていく。
鼻を覆ったまま、丸い檻を外に放り出したエマさんも、痛そうな
顔をして私を覗き込んだ。
﹁香だ。依存性はないが意識の混濁が強く出る。⋮⋮大丈夫だ、時
間が経てば抜ける。怖かったな⋮⋮ごめんな、この世界こんなのば
っかりで、本当にごめんな﹂
エマさんが謝る必要はないのに、私の手を握って何度も何度も謝
るエマさんこそつらそうだった。ルーナの上着をかぶせられた瞬間、
視界が上がる。
ルーナは私を抱き上げたまま、少しずつ後退していく。何かを警
戒しているのかと思ったけど、単にエマさんがスカートの塊を抱え
てくるのを待っているだけだった。エマさんが先に扉を出ると、す
ぐに入口に移動する。
﹁追ってくるなら皆殺しにする。あいつらを殺さなかったのは、血
の臭いをさせて戻ってきたくなかっただけだ。だが、俺は、逆鱗に
触れられて、笑って許せる人間ではないぞ!﹂
足元に転がされたライさんを蹴り飛ばし、マーカスさんの足元に
吹き飛ばしたルーナの激昂は、私に向けられているわけじゃないの
に声が出ないほど怖い。抱き上げられている身体がかたかた震える。
それは私の恐怖じゃない。ルーナの、怒りだ。全身が震えるほどの
怒りを迸らせるルーナから目が離せない。ふわふわと霞がかった意
識は相変わらずだけど、目を閉じてしまった瞬間、ぴんと張りつめ
たものがぷつりと切れてしまうような気がして必死で意識を保つ。
﹃ルーナ⋮⋮﹄
1012
目蓋も、腕も重い。でも、もがくように持ち上げる。怒りが目に
見えそうなほど激昂しているのに、触れた頬は、氷のように冷たい。
﹃帰ろうよ⋮⋮﹄
早く帰ろうよ。早く、アリスちゃん達の所に帰ろうよ。
ここにあんまり長居すると、きっと遅刻しちゃうよ。だから、早
く行こうよ。アリスちゃん達との時間に遅刻してまで残るくらい大
事なものは、ここにはない気がする。
﹁⋮⋮⋮⋮そう、だな﹂
肺が空っぽになる息が降ってきて、ルーナの身体から力と熱が抜
けて、体温が戻ってくる。目に見える熱が抜けたのに身体は温かく
なっていくって不思議な現象だ。
﹁モーリー、走れるか?﹂
﹁ああ、幸い靴は脱がされていないしな﹂
﹁じゃあ、走るぞ﹂
﹁ああ!﹂
勢いよく頷いたエマさんは、一度だけ小屋の中を振り返る。そし
て、壁に背中を擦りつけて座り込んでいるマーカスさんを見た。
﹁マーカス、私との時間を楽しかったと思ってくれるなら、やっぱ
りお前、この村には向いていないと思うぞ﹂
じゃあなと言ったエマさんはもう振り向かなかった。その背に向
かって伸ばされたマーカスさんの手が力なく落ちたのを最後にルー
ナも走り出したから、彼がどんな顔をしていたのかは分からなかっ
た。
お墓の間を走り抜けるのは罰当たりだろうか。この地に眠られる
皆様、出来ましたら、広い心で声援など頂けましたら幸いです。
私は走っていないので、そんなことを呑気にぼんやり思っていた
ら、森に近いお墓の陰にしゃがみ込んでいる人がいた。
1013
草色の帽子を目深にかぶったヒンネさんだ。不安げに周りを見回
して草をちぎっていたヒンネさんは、私達の姿を見つけると同時に
ぴょんと立ち上がった。
﹁ああ、よかったぁ! もう、心配したわよ!﹂
﹁遅れてすまないな、ヒンネ。ああ⋮⋮荷物、持ってきてくれたの
か﹂
﹁ええ、だってあなた達に総がかりで、村中手薄だったもの、ライ
の家からは蜂蜜を瓶ごと頂いてきちゃったわ。そもそもこの瓶、元
はあたしのだったのよ! 中身は違うけどね﹂
家に置いてきたはずの私達の荷物がちゃんとある。ヒンネさんと
エマさんでそのほとんどを背負ってしまった。ルーナも背負ってい
るけれど、手は片方私で、片方鍬で埋まっている。私も何かを持ち
たい。でも、私が持つとルーナが重くなる。
﹁あら? リリィが泳いでるわよ?﹂
﹁ああ⋮⋮荷物を持ちたいんだろうが、持ったら俺の負担になるか
と躊躇してる﹂
﹁あらまあ。じゃあ、これでも持ってなさい。モーリーの最高傑作
よ﹂
渡されたのは、きょるんとした愛らしい目をした、首が捥げそう
な熊のぬいぐるみだった。凄く、怖い。
﹁女らしい所作は好かん、というより、うまく出来ん﹂
﹁あんたねぇ⋮⋮あたしだってもうちょっとは可愛く作れるわよ?﹂
呆れた声を向けられたエマさんは、ふいっと視線を逸らした。
﹁私の事より、ヒンネはいつまでその口調でいるつもりだ? 最初
の頃みたいに俺に戻ればいいんじゃないか?﹂
﹁そうなのよねぇ。生き残るために咄嗟にこの手を使ったのはいい
けど、これ、意外と癖になって戻らないのよねぇ﹂
それは深刻な問題なんですが、このぬいぐるみの定位置はここで
決定なんでしょうか? さしあたって重大な問題はそこだと思いま
す。これ、お腹の上に抱っこしてたら食い破ってきませんか? な
1014
んで口裂けてるんですか? 目だけは愛らしいのが逆に怖いです。
それぞれ荷物を持ち、私は呪いのぬいぐるみを抱えて出発準備が
整った時、ルーナが静かに視線を流した。それに気づいたのは、下
からルーナを見ていた私だけだ。
﹁⋮⋮誰だ?﹂
少し離れた場所に、ひっそりと佇む影があった。失礼ながら一瞬
幽霊かと思ったほど静かな人は、小柄なお婆さんだった。お婆さん
は、八本の花と小さな水筒を手に、ゆっくりとこっちに歩いてくる。
そして、私達の足元のお墓に花を供えて、水を入れ替えた。
まるで私達なんて見えてないかのようだ。
静かに手を合わせたお婆さんは、その体勢のまま、風のような声
で喋った。
﹁ああ⋮⋮口惜しいこと。こんなにも老いてしまわなければ、わた
くしも皆さんと一緒に走ったものを﹂
上品な声音は、ヴィーを思いだすほどだ。
﹁わたくしも友も、皆諦めてしまったわ。⋮⋮わたくし達にも、貴
方々のような勇気があればよかった﹂
一つ一つ、並んだ墓に花を供えていく背は酷く小さい。
﹁ねえ⋮⋮年老いた老婆の願いを、一つ聞いてはくださらないかし
ら?﹂
﹁⋮⋮私でよければ、伺おう﹂
祈りを捧げる横に片膝をついたエマさんに、お婆さんは嬉しそう
に微笑んだ。まるで子どもみたいな笑顔だった。
﹁誰かにこの村の存在を伝えて頂けないかしら。王になどと無茶は
申しません。けれど、どうか、この村の存在を日の元に。友は皆逝
ってしまったわ。そしてわたくしも随分年老いた。せめて、故郷の
土で眠りたいの。死に逝くその時、友が皆一様に恋い焦がれた故国
の土で、眠らせてあげたいの。でも、それが間に合わずとも、どう
かお願い。この村を壊してっ⋮⋮﹂
1015
最後の言葉は悲鳴だ。彼女とその友達は、いつから、何十年、こ
の村にいるのだろう。その慟哭を受け止める先に、私は相応しくな
い。だって、私は何も知らない。家に篭って、ただルーナに守られ
て、この村の全景すら見たことがない人間だ。同じ嘆きを知らない。
同じ苦しみを知らない。
お婆さんの嘆きを受け止めたのは、同じ苦しみを知った人だった。
折れそうな肩にそっと手を置いて、エマさんはお婆さんを抱きしめ
た。
﹁私は必ずこの村を解体する。長い無念を、そこで終わらせよう。
だから長生きしてくれ。その瞬間を共に見よう。約束だ﹂
お婆さんは声を上げない。その顔もエマさんの胸にあって伺えな
いけれど、骨と皮だけの手はしっかりとエマさんを抱きしめて何度
も頷いていた。
そうして私は、何も知らない村から飛び出した。何も知ろうとは
しなかった村はどんどん小さくなり、終いには森に飲まれて見えな
くなった。
あっちから見たら、森に飲まれたのは私達だろう。でも、森に閉
ざされていく村を見ると、やっぱり飲まれたのはあの人達のように
思えてならなかった。
1016
77.神様、この惨劇はちょっと予想外です
﹁ここまでよ。今日はここで休みましょう﹂
大きな木の洞の前で、ヒンネさんは荷物を下ろした。洞の中から
枯れ葉や虫を掻き出して荷物を入れる。
﹁思ったより進んだな。これはヒンネの手柄だな﹂
﹁いやぁん、もっと褒めてもいいのよ!﹂
﹁ああ、ギニアスは知らないよな。以前、ヒンネが森で迷ったふり
をしてここまで印をつけてくれたんだ。食料と水だけで出発したか
ら、逃げだすつもりがあると思われなくて後も付けられなかったし
な﹂
﹁褒めなさいよぉ!﹂
﹁縄を三本ほど用意して、一直線になるよう木に結んでいくんだ。
これなら方角が分からずとも惑うことはない。ただし、時間が必要
となるから、追手がかかっている状況では出来なくてなぁ﹂
﹁構いなさいよぉ!﹂
ずがんと両拳を地面に叩きつけて項垂れたヒンネさんの横に下ろ
される。比較的近い間隔で木があり、葉も蔦も生い茂っているから
分かりづらいけれど、もう日が落ちかけているようだ。
そして、誰かヒンネさんを構ってあげてください。
ここまで皆とにかく急いでいて、ほとんど言葉を交わすことなく
進んできた。
皆のやり取りをぼんやりとした意識で聞いていた私は、地面に下
1017
ろされて、ずっと触れていた温もりが離れていった寂しさで目を開
ける。目の前には、私を心配げに見つめるルーナがいた。その水色
を見ていると気持ちが落ち着いてきて、ずっと揺れていた思考が急
速に纏まっていく。そして、すぅっと背筋が冷えた。
小屋の中での異常な記憶が蘇った瞬間、私は目の前のルーナを突
き飛ばして洞から駆け出した。
﹁カズキ!﹂
ショックを受けたルーナの声に心が痛んだけれど、振り向く余裕
がない。抱きしめようとしてくる手を必死に振り払う。そして、少
し離れた場所で戻した。
﹃きぼちわるい⋮⋮においがぐるぐるずる⋮⋮鼻、鼻洗いたい⋮⋮﹄
前にテレビで鼻うがいというのを見たことがある。へぇーと思い
ながらチャンネルを変えたけど、こんなにも練習しておけばよかっ
たと後悔する日が来るとは思わなかった。
一回吐いたらちょっとすっきりして、ルーナが渡してくれた水で
口をゆすぐともっとすっきりしたけど、何かの拍子にむわっと湧き
上がってくる匂いに吐き気も蘇る。
﹁香酔いだな。これを噛んでいるとだいぶ楽だから、頑張って齧っ
てくれ﹂
エマさんが渡してくれた親指ほどの太さの蔦を口に入れると、グ
ミみたいにぐにぐにして一瞬固まる。思ってた食感と違い過ぎて吐
き出しそうになるけど我慢して噛んでいると、気分がすっきりして
きた。草っぽいけど野菜っぽさもあって、塩揉みしたイタドリみた
いな味だ。
﹁香酔いが出てきたってことはだいぶ抜けたな﹂
火の用意をしながら、エマさんは苦笑した。
﹁しかしお前、あの香はかなりきつい奴なんだぞ? 普通は夢見心
1018
地のまま何も分からなくなるんだ。それを散々動き回ったくせに、
慣れてない人間特有の香酔いはしっかり出るんだなぁ。⋮⋮ほんと、
イツキそっくりだよ﹂
遠い場所に思いを馳せたエマさんは、寂しそうに笑って首を振る。
何かを振り払った後、長い髪を掻き上げてぱっと笑った。
﹁飯の支度が終わるまでゆっくりしていろ。ギニアスもついていて
やれ。まだ吐きそうだったら全部吐かせたほうがいい。もし、再度
意識が混濁し始めたらすぐに呼んでくれ﹂
そう言ってご飯の用意を始めたエマさんとヒンネさんをぼんやり
見ていると、吸った息の中にあの匂いが蘇ってしまった。鼻の奥と
脳にこびりついて残っている匂いを早くどうにかしたくて、一所懸
命蔦を噛む。
がじがじと噛み締めていると、ふと視線を感じた。横には片膝を
ついたまま両手を浮かせたルーナがいる。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮触って、大丈夫か?﹂
﹁酔いの帰還により、うげろっぱする可能性があるが宜しいか?﹂
﹁いいに決まってるだろ﹂
吐く危険性のある人間を、前から抱きしめてくれるルーナの男前
度は留まるところを知らない。
﹁⋮⋮⋮⋮ねえ、うげろっぱが何か聞いていいと思う?﹂
﹁馬に蹴られると思うがなぁ﹂
そんなひそひそ話が聞こえてきたけど、聞こえないふりをした。
だって、何と聞かれても答えられない。意味なんてありません。な
んかこう、語呂が良かったからです!
1019
香酔いが落ち着いてくると同時に空っぽの胃が要求吼えしてくる。
まったく、躾けのなってない胃だ。
あっという間に用意されたスープと、私の煎餅パンが夕食となっ
た。スープの野菜が可愛い飾り切りだったので、この中で一番女子
力が高いのはヒンネさんとなりそうだ。
﹁さて、落ち着いたところで、自己紹介といかないか?﹂
﹁あ、賛成ぇ∼。じゃ、言いだしっぺからいきなさいよ、モーリー﹂
エマさんは頷いた。
﹁私はエマ。ガリザザの王族に姓はないから、ただのエマだ﹂
﹁あんた王族だったの!?﹂
驚愕に後ずさるヒンネさんにこっちがびっくりする。
﹁存じ上げなかった!?﹂
﹁あんた達知ってたの!?﹂
﹁初回訪問時に教えて頂いたよ!?﹂
私達が驚き合っている横で、ああと気の抜ける声と両手がぽんっ
と打ち鳴らされる音がした。
﹁いやぁ、丸薬処理できるって信頼してもらおうと思ってな。そう
いや、ヒンネには言ってなかったか。すまんすまん﹂
﹁教えなさいよぉ!﹂
やだ、あたしの今まで不敬すぎ!? と、ずがんと地面に拳を打
ち付けたヒンネさんが悲しい。そして、掌をひらひらさせて、悪い
悪いと絶対悪いと思ってない感じで謝っているエマさんは軽い。
﹁ほら、次はヒンネだぞ。そろそろ名前を教えてくれ﹂
ぺしぺしと背中を叩かれたヒンネさんは、恨みがましい目を向け
た。
﹁⋮⋮もういいわ。不敬なんて今更よ。どうせ、こっちが気にする
だけ無駄なんでしょ!?﹂
﹁まあそうだなぁ﹂
﹁気にしなさいよぉ!﹂
1020
わっと顔を覆ったヒンネさんを、早く名前∼と急かすエマさん。
頑張れヒンネさん。私はヒンネさんの味方です。でもエマさんの味
方でもあります。そして、当然ルーナの味方です。後、このスープ
凄く美味しいです。
里芋みたいなお芋をもぐもぐ噛んでいると、やがて達観した顔に
なったヒンネさんが自己紹介を再開した。
﹁その前に、あんた達グラース出身って本当?﹂
﹁ああ﹂
頬張った煎餅パンを詰まらせて悶えていた私に代わって、ルーナ
が返事してくれた。
ヒンネさんは、ふぅんと意味深な笑みを零す。勿体ぶってくれて
いる間に、ルーナが渡してくれたお茶を飲んで生き返った。スープ
に浸さなかったら、これ、凄い水分奪ってくる。
﹁聞いて驚きなさい! あたしはシャルン・ボーペルよ!﹂
﹁ボールペンさん!﹂
﹁ボーペルつってるでしょ﹂
﹁ひゃい﹂
頬っぺた引っ張られた。みょんみょん頬っぺた引っ張っていたヒ
ンネさん改めシャルンさんは、段々怪訝な顔つきになっていく。
﹁やだ、ちょっと、本当に知らないの!?﹂
﹁ひゃい﹂
﹁ギニアスも!?﹂
ルーナはちょっと考えた。しばし待つ。ローディング中。該当デ
ータありません。
﹁ちょっと、嘘でしょ!? 国の政策意味ないじゃない!﹂
信じられないと唸ったシャルンさんの向かいにいるルーナをちら
りと見上げる。あれ? これ該当データありませんの顔じゃない。
該当データはあるけど言いたくありませんの顔だ。
1021
﹁政策? ヒンネ⋮⋮じゃなかったな、シャルンは何をしている人
間なんだ?﹂
﹁作家よ、作家! 黒曜を周知の事実にするためにって王城から依
頼を受けて、王城監修の元で本を書いてる作家よ!﹂
みしりとルーナが持っているスプーンが嫌な音を立てた。私も嫌
な予感がしてきたよ、ルーナ。以心伝心。私達、いい夫婦になれま
すね。
﹁存在を迅速に土着させるためには、やっぱり若い世代と女性に定
着しなくちゃってことで、分かりやすく全年齢読めるように書いて、
それを国を挙げて広めてきたっていうのに、なんであんた知らない
のよ! ギニアスだって話題作りとして知ってなきゃまずいわよ!
? 後、本に因んだ小物販売も盛況で、本とそれの売上金の一部は
戦争孤児の養育費に使われているから買いなさい。直接募金も出来
るから、黒曜募金やってるところに直接しに行ってもいいわよ。と
いうか、行きなさい﹂
シャルンさんは、最後は真面目な顔でしめた。あの本にそんな裏
話とボランティア的な意味合いがあったとは。依頼主が王城という
ことも初めて聞きました。いや、まだ私が想像している本とは違う
可能性が僅かにでも残っている以上、希望を捨ててはいけない。
﹁へぇ⋮⋮それは読んでみたいな。無事に帰れたら送ってくれ。ち
なみに題名は?﹂
ガリザザの王族なら知らなくて仕方がないので、エマさんにそう
言われたシャルンさんはにこやかに頷いた。
﹁ええ、分かったわ。騎士ルーナと黒曜姫という本よ﹂
やっぱりね︱︱!
今度は私がずがんと拳を地面に叩きつける番だった。
そんな私の様子を、呆れきった目でシャルンさんが見下ろす。
﹁あんたそんな髪と目をしてるくせに、全く目にした事も耳にした
事もないって言うの? どんな環境で生きてきたのよ﹂
1022
日本という国で、一人暮らしの女子大生という環境です。だって、
どこの本屋さんにも置いてないんです。
﹁そろそろ書くことも尽きてきたから、心機一転して大陸を舞台に
書こうと思って取材に来たのよ。お世話になった宿屋の人に巡礼の
滝の話を聞いて見に行ったら、雇った護衛に荷物奪われて突き落と
されたあたしを笑いたきゃ笑いなさい﹂
笑えません。そして、笑うより先にやるべきことがある。
それは、私達の自己紹介だ。
どういう顔をすべきか分からない私の横で、無表情のルーナがス
プーンを圧し折った。駄目だ、これ。自己紹介は私の役目だ。
﹁あの⋮⋮シャーペンさん﹂
﹁シャルン・ボーペルつってるでしょ﹂
重ね重ね申し訳ありません。謝罪は後ほどで宜しいでしょうか。
﹁カズキ・スヤマと申すます⋮⋮﹂
﹁あらぁ、それがあんたの名前? 珍しい名前してるのね。グラー
ス出身じゃなかったの? ⋮⋮ん? どこかで聞いたわね﹂
その質問に答える前に、こちらをお聞きください。
私は、揃えた指先でそろりと隣を指した。
﹁私の婚約者で﹂
﹁あら、おめでとう﹂
﹁ルーナ・ホーネルトと申すます⋮⋮﹂
シャルンさんの時が止まった。
瞬きもない。呼吸をしているかも分からないくらい微動だにしな
い。
冷たい夜風が走り抜けていったのに、身震い一つない。
﹁ん、ちょっと寒いな﹂
スプーンを銜えたままのエマさんが細い枝を何本かくべて火を強
くする。ぱちぱちと生木が燃えていく。ぱちんと一際大きく爆ぜた
のは木の実だろうか。
それ以外はしんっと静まり返った空間のどこかで梟が鳴く声がす
1023
る。梟見てみたいなと、そんな場合じゃないのにちょっとそわそわ
してしまった。
﹁もうこの面子いやぁああああああああ!﹂
梟の声を吹き飛ばし、絶叫したシャルンさんに私も涙目になる。
﹁何故にしてルーナの顔存じ上げないよ︱︱!﹂
せめてルーナの顔を知ってさえいれば、この悲劇は避けられた。
その代わり、シャルンさんの名前はずっとヒンネさんだった可能性
もあるけれど、どっちが悲しいかはもう分からない。
シャルンさんはわっと両手で顔を覆った。
﹁初めて騎士ルーナを紹介してくれることになってた夜会で、黒曜
は故郷で新しい男とよろしくやってるだろうし、君は私の娘でもど
うかねと言ったおっさんを殴り飛ばして、返り血浴びてる美少女み
たいな美少年を見た瞬間、一目散で逃げたしたわよ! 今でも夢に
見るわよ! あの状態で、国の平和の為に貴方の黒曜を襲わせて浚
わせて、会う男会う男に惚れられてる本書いてますなんて言えない
わよ! 今度はあたしが死ぬわ!﹂
﹁おっさり死亡なさったの!?﹂
﹁おっさんよ、おっさん! 生きてるわよ! 精神的にあたしが死
ぬのよ!﹂
﹁よかったぁ﹂
﹁よくないわよ!﹂
おっさんの生存が確認されてほっとしたけれど、シャルンさんが
瀕死だ。
惨劇に大ダメージを受けたシャルンさんを慰める人がいない。ど
うしよう。エマさん、スープのお代わりしてる場合じゃないと思う
んです。この場で一番シャルンさんと付き合い長いのはあなただと
思うんです!
1024
﹁お、私が剥いた芋はすぐに分かるな! 皮が残っている﹂
駄目だ。お芋に夢中だ。ルーナは⋮⋮あ、駄目だ。私も声をかけ
たくない。
圧し折った木のスプーンを、そのままの体勢でみしみしと粉砕し
ていく様子に、私はそっと隣を離れ、項垂れるシャルンさんの背中
を叩いた。元気出してください。
﹁気合出してください!﹂
﹁なんの気合いよ! そもそも、王城と何度も擦り合わせて渾身の
黒曜姫を作り上げたのに、元祖がこれってことに立ち直れないわよ
!﹂
一番の惨劇を巻き起こしたのは私でした。土下座ものである。
﹁⋮⋮⋮⋮これ?﹂
低い声に慌てて振り向いたら、ルーナがいた。いや、最初からい
るけど。
火に下から照らされたルーナは、予想通りの顔をしていた。
﹁ぎゃあ怖い!﹂
﹁なんであんたが悲鳴あげるのよ! あげるのはあたしよ!﹂
﹁こ、こればかりは譲れぬよ!﹂
﹁譲りなさいよっ!﹂
これから樹海を越えていくメンバー紹介はこれで終わった。皆が
偽りの名前を脱ぎ捨て、ありのままの自分を曝け出し信頼を見せる。
その結果がこれだ!
﹁⋮⋮これとは、どういう意味だ?﹂
﹁そ、その顔は如何なものかと思われるよ!?﹂
﹁そ、そうよ! もっと言って黒曜!﹂
﹁私を防御壁とするも如何かと!﹂
私を盾にして、ルーナの前にぐいぐい押しこむシャルンさんの足
元で、エマさんはぐるぐる鍋を掻き回している。
1025
﹁この芋、こうやって食べると美味いな。もうないのか?﹂
﹁その芋は足が早いからそれしか持ってこなかったわよ!﹂
﹁なんだ。残念だな⋮⋮﹂
﹁もっと他に気にすべき事柄があるんじゃないの!?﹂
エマさんは結構マイペースだし、シャルンさんの喉がそろそろ心
配だ。
そして、私の婚約者は世界一怖い。
そんな風にして夕食は終わったけれど、これが波乱の旅の幕開け
となる事を、この時の私は知る由もなかった︱︱⋮⋮。
嘘です。
知ってた。凄い知ってた!
寧ろ、そんな予感しかしなかった!
1026
78.神様、ちょっとサバイバルおやすみなさい
﹁大体、なんで大陸にいるのよ! そもそも、いつこの世界に戻っ
てきたのよ! あたしがグラースにいた時はそんなの噂にすらなか
ったわよ!﹂
わぁっと顔を覆って泣くシャルンさんの横で、エマさんはてきぱ
きと空になった鍋を洗って片づけていく。ルーナは無言で明日から
に備えて、私の足に合うよう靴を調整してくれている。その眼はず
っと私を見ていて、逆に緊張してきた。私をというより、私の手元
をだ。
私は、火の明かりを頼りに木を削っている。さっき砕け散ったル
ーナの哀れなスプーン作りだ。危ないとは言われたけど、私もナイ
フの扱いに慣れないと、この先困る。ここには包丁や鋏なんてない
のだ。料理をするにしても、何かを切るにしても、ナイフでやらな
ければならない。みんな優しいから、頼めば誰かがやってくれる気
はする。けれど、それじゃ駄目だ。どれだけへたくそでも、扱い慣
れてなくても、やらなきゃずっとそのままだ。やってもへたくその
ままの場合もあるだろうけど、まあ、それはそれだ。
とにかく切っ先は絶対に身体以外へと向け、力を向ける方向に指
がないかを逐一確認するようにと念を押されて、遅々として進まな
いスプーン作りに精を出していた。
﹁あ﹂
ずべっとナイフの先が滑って間抜けな声が出る。次いでかんっと
響いたのは、私の指とナイフの間に滑り込んできた細長い石がたて
た音だった。滑らないようにと靴底に凹凸をつけていた石だ。その
持ち手だったルーナは、私が指を切り落とす直前に石を滑り込ませ
1027
てくれたらしい。お手数おかけします。今更ながら冷や汗かいた。
生木を弾いた炎に下から照らされながら、エマさんはすぅっと息
を吸う。
﹁それは私も聞きたい。いま外はどうなっている。イツキは、ツバ
キは、どうしているんだ⋮⋮⋮⋮どうしてあの薬をツバキが人に使
っているんだ。どうして、よりにもよってあいつが、そんな馬鹿な
ことをっ⋮⋮!﹂
エマさんは拳をぐっと握り、唇を噛んだ。
私はいったんナイフを置いて、力が入りすぎて固まった肩を押さ
えた。そしてルーナと目を合わせる。
﹁少々、長期の話となるよ﹂
私は神妙に頷いて、口を開いた。
﹁ルーナ、宜しく!﹂
﹁ここまでしてあんたじゃないの!?﹂
﹁私が状況報告致せば、何事も把握できぬうちに朝を迎える事態と
陥るよ!﹂
﹁あんたもう寝てなさい﹂
真顔で言われて、私も真顔で頷く。私ほど説明に向かない人間も
いないだろう。その理由が言葉だけじゃないと分かっているくらい
には賢いのである。
たぶん。
基本的にはルーナが、ルーナがいなくなってからの補完を私がち
ょこちょこと付け足して、あらかたの説明が終わった。といっても、
私が知っている事なんてたかが知れている。私は、私が実際に見え
ていた範囲しか知らないのだ。
1028
﹁嘘でしょう⋮⋮﹂
だから、震える手の甲をきしりと噛んだシャルンさんが無事を聞
いた建物も、人の安否も、全く分からない。グラースでもかなりの
爆弾が使われたということしか分からなかった。そしてルーナも、
グラースには戻れていないので正確な情報は持てていない。
﹁たった一年でそんな⋮⋮なんてこと⋮⋮﹂
そう呻き、両手で頭を抱えて俯くシャルンさんにかける言葉が見
つからない。ずっと、最後まで一言も喋らなかったエマさんにもだ。
エマさんは、膝に肘を置き、組んだ両手に額を置いたまま動かな
い。
まるで祈っているようだった。けれど、手の甲に食い込む指の強
さがそれを否定する。救いを求めている祈りというより、何かの決
意に見えた。
﹁⋮⋮そのヌアブロウという将軍は、討ち取ったのか﹂
﹁いや、ルーヴァルの王城にはいなかった。アリスも言っていたが、
あの男が他国の城を守る為に命を懸けるわけがない。だが、求めて
いるのは戦場だ。最早グラースとブルドゥス間にそれが見出せない
以上、ガリザザから出たとも思えない﹂
固く閉じた瞳が開かれないままの問いに、ルーナが答える。
少しの沈黙の後、ふぅーと長い長い息が吐かれた。
﹁ならば、最悪だな。これ以上あいつの元に戦力が集まると手が出
せなくなる﹂
そうして上がった顔には、なんともいえない表情が浮かんでいる。
泣きそうなのに、口元は笑っていて、眉は譲る気はないと言わんば
かりにきりりと吊り上っていた。たぶん、自分でもどんな顔をして
いるのか分かっていないのだろう。エマさんは、自分の眉間を指で
押さえた。
﹁私は七年前、選択を誤った。あいつが、ディナストが、王位を狙
1029
っているという情報は聞いていた。だから、同じように王位を狙う
兄弟達はいきり立っていた。⋮⋮だが私は、王位争いになど参入し
たくはなかった。どうせ兄弟の誰かが王になる。王になった所で、
全ての領地の管理は出来ないから、元々持っていた領地くらいは特
に反旗を翻したりしなければ今迄通りの統治が可能になる。玉座を
取った奴なら、どうせ王位争いをした奴らの領地を奪い取っている
から領土は増やしているしな。もっと欲しけりゃ、王となってから
周辺諸国を落としていくだろうと。少なくとも今までのガリザザは
そうやって来た。ならば、今あるものを失ってまで何かを得るため
に争いたくないと、思った。イツキがいて、ツバキがいて、皆がい
て、その今の方が大切で、他のものはどうでもよかった。⋮⋮だが、
それは誤りだった。私は、間違えたんだ﹂
ばちりと生木が弾ける音がする。生木を弾いた火に触れるように、
ふらふらと虫が火に飛び込んでいく。あっという暇もなく、羽に炎
がまとわりついて火の中に落ちていった。
﹁十年前、風呂に降ってきたイツキと出会った。数か月後、奴隷商
から逃げてきた子どもをイツキが庇い、ツバキと名付けた。⋮⋮楽
しかったよ。ディナストが兄皇子と戦うために進軍していた兵を、
突如私の領地に向けるまでは⋮⋮⋮⋮私は愚かだった。あの段階に
至ってもまだ、戦う決断ができなかった。戦いを回避する術を探す
ばかりで⋮⋮その結果全てを失って、この様だ﹂
握りしめた指先が皮膚を食い破り、血が滲んでいるのにその力は
収まらない。ぎりぎりと食い込んでいく爪先に、慌ててその手を取
る。
﹁エマさん!﹂
﹁私は、戦うべきだった﹂
けれど、エマさんは私の手を取らない。ぎりぎりと自分の手を締
めつけて血を流す。
﹁失いたくないのなら戦うべきだった。殺す決意も失う覚悟もなく、
守れるものなど何もなかったんだ!﹂
1030
﹁エマさん!﹂
﹁失いたくないのなら、躊躇ってはいけなかった! 自分の手が汚
れても、血と憎悪に塗れても構わないのだと言い切れない人間には、
何も守れない。過ごす日々があまりに優しかったから、私は忘れて
いた。本来、ガリザザの王族とは血を血で贖って生きてきたんだ!﹂
凄い握力の拳に指を捻じ込んでこじ開け、無理やり解いた指先を
三本纏めて握りしめる。指先ならこっちも圧し折られることはない
と思うので、存分にどうぞ。エマさんの手が抉れていくよりはまし
だと思った私の思惑は、普通に敗れた。
﹁あいたたたたたたたた!﹂
駄目だ。指三本でも結構な力だった。圧し折られることはないに
しても、掌を貫いてきそうな威力だ。
エマさんの話は聞きたいし、聞いてあげたいし、聞かなくてはい
けない事だとも分かる。分かるのだけど、自分で自分の手に爪を立
てて血を流す姿をただ見つめるのも嫌だ。だけど、私の掌に穴が開
くのも困る!
﹁あんたは何やってるのよ! エマも! ほら、手を離しなさい!
いい子だから!﹂
慌てたシャルンさんが割って入ってきたのを見て、エマさんがは
っと手から力を抜いた。素晴らしい握力を体験させて頂きまして、
大変ためになりました。二度目は、文字通りお手柔らかにしてもら
えると嬉しいです。
﹁⋮⋮すまない、六年ぶりにあの村から出られて、色々、噴き出し
た。⋮⋮興奮して悪かった。すまん、忘れてくれ﹂
﹁了解よ!﹂
忘れてほしいと言うのならば忘れよう。大丈夫です! 馬鹿に忘
却は御手の物です!
1031
両手で顔を覆って髪を掻き上げたエマさんは、もうさっきまでの、
熱を持っているのにどこか虚ろ目をしていなかった。
もう一度悪かったと言ってくれたけれど。掌に穴開いていません
から大丈夫です、どうぞお気になさらず。
﹁全く⋮⋮皇女様が庶民の手を握り潰すなんて外聞が悪い⋮⋮これ、
外聞の問題なの? そして、どうしてこんな時は動かないのかしら、
騎士ルーナ! 黒曜の手が砕けるわよ!?﹂
私の靴を目線の高さに合わせて凹凸を確認していたルーナは、話
を振られてこっちを見た。
﹁カズキならそこから盛り返せる﹂
体力測定では砲丸投げに適した握力は判明しなかったけれど、ル
ーナからの信頼に答えてみせよう。まずは握力を鍛えるところから
だ! 握り潰されかけた手は、今はちょっと油の切れたロボットみ
たいな動きしかできないけど、もう少し落ち着いたらなんとかなる
と信じている。
シャルンさんはきょとんと首を傾げた。
﹁黒曜は怪力なの?﹂
﹁正攻法とは言ってない﹂
﹁ああ⋮⋮⋮⋮﹂
握力を鍛えなくても何とかできるというルーナからの信頼に、私
はどう答えればいいのだろうか。私より付き合いが浅い、というよ
り数時間前初会話というシャルンさんが納得してしまった現実が悲
しい。私ももっとルーナと分かり合いたいものだ。婚約者なのに、
数時間前初会話のシャルンさんのほうがルーナを分かっている現実。
﹁それに﹂
﹁それに?﹂
今度こそルーナと分かり合いたいと身を乗り出した私に、まさか
の頭突きがきた。額と額でご挨拶。斬新な挨拶だ。そういえば、ル
ーナとこんにちはの挨拶をしなくなったのはいつ頃からだろう。礼
儀として挨拶は大事だけれど、親しくなればなるほど省略していく
1032
挨拶もある。だから、し続けているといつまで経っても親しくなれ
ない挨拶もあるから、挨拶って難しい。こんにちはとかこんばんは
がその代表だなぁと、どうでもいいことを考えていたら、ルーナの
目が細まった。
﹁助けを求めないお前も悪い﹂
﹁なへにひてふむふほ﹂
私の頬を片手でむんずと押し潰したルーナのおかげで、懐かしの
ひょっとこ再来。
﹁ウルタに連れ去られた際お前が言ったのは﹃助けて﹄じゃなくて
﹃非常事態で困惑事態発生ぞろ! 如何致せば宜しいか︱︱!?﹄
だったって? そう聞いた時、俺はどっちかというとお前に対して
怒りが湧き上がったからな? ティエンは、響く語尾が烏みたいだ
ったと腹抱えて笑っていたけど﹂
道理で、ウルタ砦に助けに来てくれたルーナが真っ先にした事が
頭突きだったわけだ。後、ティエン、私は別にかあかあ鳴いてませ
んよ。かーっ、かーっのエコーが烏みたいだったなんて失礼にも程
がある。全力で烏に謝ってほしい。
解放された頬っぺたを擦っていたら、あの時の額の痛さも思いだ
してそこも擦る。
﹁少女姿変装のルーナが可愛いと思考していた私に激怒したのだと
理解していたよ。ごめん、ルーナ!﹂
村娘に変装していたルーナだけど、あれは失敗だと思う。確かに
ちゃんとウルタ砦に入りこめていたけど、あんな美人さんな村娘A
は見たことがない。どこのお姫様かと思った。
﹁ちょっと黒曜、その話詳しく教えなさい!﹂
﹁必要あるか? 今それは必要か?﹂
前のめりに食いついてきたシャルンさんの顔面に、ルーナの反対
の手が食い込む。アイアンクロー痛いですよね! でも私、そこま
でめり込まされたことはありません!
1033
﹁ぐあああああああ!﹂
シャルンさんの悲鳴は大変男らしかった。それとルーナ、伝えた
いことは手じゃなくて口で言ったほうがいいと思うよ! 私やティ
エンやシャルンさんの頭が物理的にへこまない為にも、是非とも口
に出したほうがいいと思うよ!
あらかた片づけも終わったので、今日はもう寝てしまおうという
話になった。
﹁夜番は朝方に仮眠を取るとして、夜番二名、就寝二名が妥当だと
思うが、どうする﹂
私が使っていたナイフをしまい直したルーナの言葉に、異論は出
ない。私は、エマさんが荷物から取り出した何かの毛皮を縫い合わ
せた大きなマントみたいな物と、ルーナのマントを洞に置いてから
皆の元に戻った。
﹁そうよねぇ。寝るにせよ夜番にせよ、一人で凍死はするのもされ
るのも嫌だわ﹂
頷いたシャルンさんの口から出た息は白い。夜が更けるにつれて、
急激に寒さが増してきた気がしたのは気のせいじゃなかったようだ。
﹁山は冷えるからな。どうする? シャルンは私とでいいか?﹂
﹁王族となんて嫌よぉ。女の子同士で眠りなさい。ほら、カズキも
眠そうだから先に寝ちゃいなさいな﹂
大欠伸を見られていたようだ。私は基本的にルーナに抱えられて
自分で山道を進んでないのに、何だか申し訳ない。荷物を抱えて歩
いていた三人は欠伸一つしてないのに、歩いていない私だけが大欠
伸⋮⋮なんで皆さん欠伸しないんですか? 私が甘ったれなのか、
皆が強靭なのか。それとも、私の睡魔が強靭なのか。
﹁いいのか?﹂
﹁何がよ﹂
1034
エマさんはきょとんと首を傾げる。
﹁私は構わんが、お前、ルーナと抱き合って寝る気か? 大丈夫か
?﹂
﹁恋人同士を引き裂くなんて無粋な真似、シャルン・ボーペルの名
が廃るわね! さあ、寝なさいカズキ! 今すぐ騎士ルーナと一緒
に眠りについていい夢見なさい! 面白い夢だったらあたしにも教
えなさい!﹂
私は相手がルーナだと凄く嬉しいけど、どの組み合わせでも楽し
そうだと思うから、とりあえず肩を全力で揺さぶるのはやめて頂け
るともっと嬉しいです。
がくがくと前後に揺さぶられた視界の端で、ルーナの手がアイア
ンクローを構えたのが見えた。このままではシャルンさんの頭がピ
ーナッツみたいなくびれを帯びてしまう!
﹁うげろっぱ三秒直前! 二! 一!﹂
﹁ぎゃああああ!﹂
とにかく落ち着いてもらおうと思った冗談だったのだけど、どう
やら洒落にならなかったようで、シャルンさんは凄い勢いで飛びの
いてしまった。うげろっぱで通じ合える私達は、これから素晴らし
い旅ができると思います。どうぞ宜しくお願いします!
ルーナのマントを敷布団に、毛皮を縫い合わせたコートを掛布団
にして、靴も靴下も上着も脱ぐ。広げた上着は丸めて枕代わりにす
る。正座して高さを調整していると、ルーナもブーツを脱いで洞を
潜って入ってきた。そして、入口を厚手の布で覆う。覆うといって
も洞の全部を覆えるものはなかったから下半分だけだ。これだけで
も寝ころんだ時に直接風が当たらなくなってかなり違う。
﹁カズキ、奥に行け﹂
﹁出入り口近辺は寒がりよ?﹂
1035
﹁だからだ。寝床の向きも変えるぞ﹂
洞の入口から見て縦に敷いていた寝床を、ルーナは正座した私を
乗せたまま横向きに引っ張る。おおーと間抜けな声を上げて回った
私の肩に手を置いたと思ったら、次の瞬間にはルーナを見上げてい
た。
寝転がった私の横に並んだルーナが伸ばした腕は私の背中を越え
て、毛皮を私の身体の下に押し込む。風の入る入口側は全部ルーナ
の身体になってしまった。
﹁上掛を背中に巻き込んで、足は俺に絡めておけ。絶対に出すなよ。
凍傷起こしたら指が落ちるじゃすまないからな﹂
何度も念を押したルーナは、更にがっちり私を抱え込んで横にな
った。背が高いルーナはこの洞の中ではかなり窮屈だろうけど、曲
げた足を私に絡めて素足をくっつける。凄く温かい。体温の高さに
テンションの高低は関係ないようでがっかりである。関係あったら、
ほっかほかの私がルーナのあんかになれたのに。
私の顔を胸に押し付けて、毛皮を上に引っ張り上げたルーナは、
私の手を背中に回そうとして少し考えた。そして、引っ付いている
お互いの胸の間に押し込める。
﹁俺から離れないよう意識して眠れ。起きたらお前が凍死していた
なんて絶対に嫌だぞ、俺は﹂
﹁私も嫌じょ!﹂
ルーナの雰囲気が戦闘中みたいにぴりぴりしている。それだけ危
ないんだろう。冬の山で眠る危険は分かっているつもりだったけれ
ど、私が思っているよりずっと危ないんだとルーナの念の入れよう
で分かった。
丸まった身体の前に合わせた両手でルーナの胸を掴む。
﹁ルーナは寒いない?﹂
﹁大丈夫だ﹂
﹁私とて、起床時間してルーナが凍死していたら、泣き叫ぶではす
まぬよ﹂
1036
﹁身体が小さいほうが体温は下がりやすいから、これでいい。言っ
とくけどな、風邪を引いても致命傷になるぞ。特に今のお前は、体
力が戻ってきてるとはいえ、あれだけ弱った後だと自覚しろ﹂
致命的なことが多すぎた。役に立てないどころか迷惑をかけるの
は御免被る。
大人しく体力温存に努めよう。額をルーナの胸につけて目を閉じ
ていたけれど、ふと気づいて顔を上げる。ルーナはさっと顎を上げ
て私の無意識の頭突きを避けた。
﹁私なるは、最近の日常なるで睡眠ばかりなるを取っている気分ぞ
りよ﹂
﹁⋮⋮気絶と睡眠は違う。それに、眠れないよりましだろ﹂
﹁仰るれるられる通りですよございますね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか。眠いんだな?﹂
毛皮から出ていた時は、鼻の頭がつんとくるくらい寒かったけれ
ど、今はルーナの体温で温かい。胸から聞こえてくる心音と、引っ
付いているから分かる鼓動のとくとくとした動きは、優しいメトロ
ノームみたいだ。聞いていると私の心臓もタイミングが合っていく。
意識の中にとろとろと眠気が混ざる。眠くてうまく働かない私の
頭でも、こっちの世界の言葉を話せるようになった。随分馴染んで
きたものだ。私だってやればできるんだよ、アリスちゃん。頬っぺ
た引っ張りまくってくれたおかげだよ、アリスちゃん。
アリスちゃんに報告したいことが増えていく。
﹁眠いと一気に言葉が乱れるから分かりやすいな﹂
報告しないほうがいい気がしてきた。でも、まあ、ぼやけた思考
でも日本語じゃなくて一応こっちの世界の言葉が出てきたという所
だけは報告しても呻かれないだろう。
﹁ルーナあたたかたい⋮⋮﹂
﹁お前も温かい﹂
﹁ルーナの薫り高いがする⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮コーヒー豆になった気分だ﹂
1037
最近ずっとこの匂いに包まれて眠っていて、凄く幸せだ。なんと
いう贅沢。この凄まじい贅沢を節約しようとはちっとも思えない私
は、ゴージャスセレブなカズキの二つ名を名乗ったほうがいいかも
しれない。
﹁⋮⋮ルーナ、凄まじくかたたかい﹂
﹁温かいのはいいけどな、もう寝ろ﹂
確かに、充分眠ったはずなのに、もう駄目だ。意識がルーナの体
温に溶けていく。私はルーナの胸元をぎゅっと握って、額をつける。
﹁ルーナ⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁おさすみなさり⋮⋮﹂
﹁おやすみ、カズキ﹂
額に柔らかい感触が降ってきて、じんわりと広がった温もりに胸
まで満たされる。
﹁仲が良くて羨ましいなぁ。私も即座に解読できるようになりたい
ものだ。な、シャルン﹂
﹁羨ましいの!? あれ羨ましい類のものなの!?﹂
﹁お、雪だ。ついにきたか﹂
﹁あんたが振った話題なんだから続けなさいよぉ!﹂
外からそんな会話が聞こえてきたけれど、ほとんど寝入ってしま
った私は、雪にはしゃぐことができなかった。
1038
79.神様、ちょっとサバイバルおはようございます
水の中にいるみたいに、空気も意識もぼんやり溶ける中、耳が誰
かの声を拾ってきた。
﹁あの子と、イツキ? 発音合ってるかしら?﹂
﹁大丈夫だ﹂
﹁ありがと。あの子とイツキ、そんなに似てるの? 助けてって言
わないの?﹂
じんわりと体温で溶けるような微睡の中、誰かの会話がぼわりと
ぼやけて聞こえてくる。ちゃんと言葉として認識できているのに、
意味を理解するのに一拍を要した。
﹁そうだな。他にも、目が合った時に軽く頭下げる所とか、目線を
向ける位置とかな。助けを求めない所なんか、本当にそっくりだ。
イツキもそうだったよ。助言は求めても助けは躊躇うんだ。あいつ
の性格かと思ったが、カズキもとなると助けが求めにくい国柄なの
か?﹂
そんなところで国民性を判断されるとは思わなかった。
﹁お国柄なのかしらねぇ。豊かで安全な国だって聞いてたんだけど、
違うのかしら﹂
とろとろとまどろむ意識の中で、会話が続いていく。
﹁あ、いや、それはそうらしいぞ。若い娘が夜遅くまで出歩いて、
毎日普通に帰ってこられると聞いた。帰ってこられないのが例外だ
ったそうだ﹂
﹁あら、まあ! それは凄いわねぇ﹂
﹁危険なことは危険らしいが、それでも若い娘が一人で出歩くのも
普通だと言えるらしいから凄いよな﹂
1039
最近は物騒だと言いながら、やっぱりみんな帰ってこられると思
ってる。帰ってこられないかもなんて思わない。そう思うのは、帰
れなくなった時だと思う。
何かかちゃかちゃと音がして、液体が注がれる音がする。
﹁ありがとう﹂
﹁いいえ。で、それでなんで助言は乞うても助力は拒むのよ﹂
﹁拒むと言うより、求めてこないんだよなぁ。で、だ。まだ小娘だ
った私は、惚れた男の役に立ちたかった訳だ﹂
﹁詳しく﹂
見えないのに、シャルンさんが前のめりになったのが分かった。
ぬるま湯より心地いい温度にとろける意識が、勝手に二度寝を決
め込もうとしていて、睡魔と意識で愚図り合いだ。なんだか冬の日
曜日の朝みたいに気持ちいい。布団から出たくない。目も覚ました
くない。
﹁あれこれ試したけど、大丈夫だの、気にしないでだので弾かれて、
全く頼ってくれないんだよ。私は、そんな無理した笑顔が見たいん
じゃなくて、私の胸で泣け! と思っていたのに、弱音も吐かない
しな﹂
﹁そのあれこれを詳しくしなさいって言ってんのよ﹂
﹁で、だ。私が二歳年下の小娘だから頼ってくれないのかなと思っ
たわけだ﹂
﹁⋮⋮あんたの人の話聞かない所、王族っぽくて素敵よ。そう思う
ことにしたわ!﹂
シャルンさんがきぃって怒った。
﹁すまん、素で傲慢なんだ。これでも王族でな﹂
﹁自覚あるのなら何より。王族あるあるよねぇ﹂
﹁治らんけどなぁ。まあ気にするな﹂
﹁そういう無茶をさらりと言うのも王族あるあるなのよねぇ⋮⋮﹂
エマさんは全く気にしていない感じですまんと謝って続ける。マ
1040
イペースだ。
﹁一年経ってもそれでな、私もいい加減痺れを切らしてイツキにぶ
ちまけたわけだ。どうして頼ってくれないのか、私が小娘だからか。
それとも遠慮しているのか。そんなのどうでもいいから私を頼れ馬
鹿野郎。お前の弱音泣きごとなら全部ひっくるめて聞きたいんだと。
私は十五だったんだが、若かったなぁ﹂
﹁迫り方に欠片も浪漫がないけれど、まあいいわ詳しく﹂
﹁そうしたら、あいつは泣きそうにへらっと笑って、それ難しいっ
て言ったんだよ﹂
﹁難しい? 何が? あんたが頼りにならないって事? 王族に向
かって言うわねぇ、男黒曜﹂
呆れた声のシャルンさんも、結構言ってるような気がするなぁと
思っていたら、同じことをエマさんがからから笑いながら言った。
エマさん、気が合いますね。
﹁それ、はあどるが高いって泣くんだ。はあどるって何だと聞いて
も教えてくれなくてなぁ﹂
私は、会ったこともないイツキさんの答えを、何故か知っていた
ような気がした。
﹁あんた年上の男泣かせたの!?﹂
﹁泣き上戸だったんだ、イツキ﹂
﹁この女、酔わせて本音を吐かせやがった!﹂
﹁お、シャルン。いま言葉遣い戻ったぞ! よかったな!﹂
﹁異世界に一人放り出された男が頑張って張ってた意地を、矜持を
っ⋮⋮可哀相、イツキほんと可哀相!﹂
わぁっと泣きだしたシャルンさんの声を聞きながら、ようやくぱ
ちりと目が開く。目を開けたのに暗い。やけに濃密な空気と溶けそ
うなほど柔らかい温度に、一瞬ここがどこだか分からなかった。私、
1041
どんな状況で眠ったっけと、眠る前の記憶を必死に呼び覚ましなが
ら、とにかく明かりを求めて身体を捩る。
よし、動けない!
⋮⋮なんで!?
自分の状態を確認して、私はすぅっと息を吸った。
﹁ほわたぁ!﹂
﹁ぐっ⋮⋮!﹂
唯一動けた頭を思いっきり上げたら、脳天に衝撃が来た。そして
聞こえた呻き声に、事態を把握した。というより、思いだした。
私、寝起きそんなに悪いわけじゃなかったはずなんだけど、ほん
とごめん、ルーナ。
目を開けても真っ暗で、身動き取れないから慌ててしまったけれ
ど、そうだった。寒いからルーナに抱きしめられて眠っていたんだ
った。起き上がって土下座しようともがく私の腰に回していた手に
力を籠めて引っ付き直した後、毛皮を少しだけ捲ってルーナが覗き
こんでくる。それでも暗い。まだ夜明け前のようだ。
顎の下を擦りつつ、欠伸を隠したルーナは、少し溶けた声で聞い
てくる。寝起きって声が蕩けるよね本当にごめん。
﹁⋮⋮どうした? 怖い夢でも見たか?﹂
﹁ごめん、寝とぼけました⋮⋮﹂
何故かじっと合わせてくる水色を見上げていると、その眼がふわ
りと解けた。
﹁ならよかった﹂
朝、かは分からないけど、朝からルーナが優しい上にかっこよく
て幸せだ。なんか、私だけ幸せでごめんね、ルーナ。私は幸せなの
に、ルーナは顎に頭突きくらっての目覚めな上に、見下ろす顔がこ
れだ。なんか、ほんとごめんね。
﹁おはよう、カズキ﹂
謝ろうと思ったらキスされた。流れるようにキスしてくるから照
1042
れる暇がない。だから、唇が離れてから盛大に照れる。ぐわっと火
照ってくる頬を押さえて悶えていたら、ついでとばかりにもう一回
された。悶えるのはルーナから離れてからのほうが良さそうだ。
毛皮の中でもそもそと服を重ねていく。脱いで他の服に着替えて
しまうと、せっかく温まった体温を逃がすので勿体ないのだ。そう
やってごそごそ着替えていたら、幕の外の二人も気づいた。
﹁起きたようだな﹂
﹁⋮⋮恋人同士の目覚めの第一声って、もっと甘やかでいいと思う
のよね﹂
音が綺麗に届いてくる。きっと空気が冷えているからだろう。道
理で微睡んでいた上に毛皮をかぶっていたのに、会話がちゃんと聞
こえてきたわけだ。きんっと冷えた空気は、熱を奪う代わりに音は
すっきり伝えてくれる。なんかどういう反応でどういう現象がどう
たらとか、理科とか得意な人は説明できるのだろう。けれど私には、
鼻がつんっときて肌がびりびりするくらい寒い時は、空が澄んで綺
麗なのとなんか音が凄く綺麗に聞こえたよ! という事後報告くら
いしかできない。
お腹とか足先とか、要所要所を特に重点的にもこもこと巻いたり
して着込む。
先に着替え終えたルーナが毛皮を持ち上げた。着込んだ服を貫い
て骨まで届く寒さが一瞬で身体を駆け抜けていく。
﹁凄まじくよそよそしい!﹂
﹁確かに寒いな﹂
凄く寒い。隊長が発した親父ギャグに皆が返した態度みたいに寒
々しい! 最低でもカズキだけは反応してくれると思ったのにとしょんぼり
していた隊長、ごめんなさい。ギャグだったのか普通の言葉だった
のかすら分かりませんでした。
1043
ルーナが持ち上げてくれた幕の外はまだ真っ暗だ。つまり、まだ
朝は遠い。でも、そんなことよりもっと大事なことに私の眼は釘付
けだった。
﹁エマさん、シャルンさん、おはようございます! 降雪! ルー
ナ、降雪! 凄まじい! 降雪よ! 凄まじいね! 私、降雪、久
方ぶりに見たよ!﹂
﹁カズキの故郷はあまり雪が降らないって言ってたな﹂
﹁山間では降雪降るよ!﹂
眠る前に見た景色と全然違う。うっすらと雪が積もっているのだ。
暗い周囲は、火の番をしてくれた二人のおかげで保たれているたき
火に照らされた部分しか見えないけれど、周り中に雪が積もってい
る。木が生い茂って空は覆われているのに、それでも地面に積もっ
ているということは、木が無かったらおおごとだったのかもしれな
い。
敷いていたマントをはたいて木の屑を払いながら、ルーナは頷い
た。
﹁やっぱり降ったな。滑るなよ﹂
﹁了解じょ︱︱!?﹂
びしりと敬礼したら、見事につるりんと滑った。過去最高の滑り
っぷりだったかもしれない。
昨日ルーナに凹凸つけてもらってこの滑りっぷり。私の今日から
の任務は、ナイフの使い方をマスターするより先に、歩くことから
始めるべきかもしれないと、マントを投げ捨てたルーナに支えても
らいながら思った。
そして、重ね重ね本当にごめん、ルーナ。大好きです。
どうせ夜の山で出来ることも少ないと寝るのが早かったから、ぐ
っすり眠ったのに夜明けまでまだ何時間かある。夜番の二人はこれ
1044
から一眠りだ。二人が起きたら朝食にして出発という流れになる。
今晩の夜番は私とルーナだから、今日は一日が長そうだ。
羽織っていた外套を洞に敷いているシャルンさんの隠さない大欠
伸に吸い込まれそうになったので、負けじと大欠伸したら顎が外れ
そうになった。危なかった。
エマさんは結っていた髪を解いている。澄んだ赤毛の天辺はきら
きらとした銀髪で、アラザン乗せたベリーケーキみたいで美味しそ
うだ。
﹁エマさん、髪は染料しているよ?﹂
﹁ん? ああ、あの村で暇だったし、色んな組み合わせの結果を見
るのが面白かったんだ。村から逃げ出した後も、変装で役立つと思
ったしな﹂
つやつやの髪を振って軽く解き、手で梳いていたエマさんは、急
にあーと母音を漏らした。
﹁カズキ、聞いてもいいか?﹂
﹁何事でも宜しいよ!﹂
難しいことは分からないけれど、知ってることなら何でもどうぞ!
胸を張って答えたら、大欠伸再びのシャルンさんが呆れた目を向
けてきた。
﹁あんた、寝起きから元気ねぇ﹂
﹁私は朝からうるさい女ですから!﹂
さっきはちょっと寝惚けたけれど、基本的には朝っぱらからハイ
テンションです! アリスちゃんに毎朝うるさいと鬱陶しがられた
実績ありですから、信頼性抜群ですよ! でも、静かにしてたら調
子が狂うから騒げと怒るのだ。どうしろと。そして、怒るアリスち
ゃんも朝から元気だった。
ぴょんぴょんジャンプしながらエマさんを向き直る。ハイテンシ
ョンだけど、これは別にハイテンションをアピールしてるわけじゃ
ない。純粋に寒いのだ。
1045
白い息がもはぁと広がっていく。鼻の奥がづーんと痛み出して、
慌てて手袋をはめた掌で覆う。
﹁はあどるって、何だ?﹂
﹁はあどる﹂
﹁その⋮⋮イツキがだな、言っていたんだ﹂
半分寝ぼけながら聞いていたさっきの会話を思いだす。
﹁ハードル。私、先程の会話をしかと寝とぼけて盗み聞き致したよ﹂
﹁俺も聞いた﹂
片手を上げて自己申告したら、ルーナも同じように片手を上げた。
ルーナも起きていたようだ。つまり私は、寝ていたルーナに頭突き
をかましたんじゃなくて、起きているルーナに頭突きをかましたら
しい。多少の違いはあれど、土下座ものである事実は変わらなかっ
た。
﹁別に隠していないから別にいいさ。寧ろ寝ている傍でうるさくし
て悪かった。それはそれとして、はあどる、それだ。はあどるが高
いって何だ?﹂
話の流れからして、陸上の障害物競走で飛ぶあれ、ではないのだ
ろう。いや、ある意味そうなのかもしれないけど。
﹁えーと⋮⋮跨ぐには少々高い壁よ﹂
﹁跨ぐ壁?﹂
エマさんの眉がひょいっと上がった。言い方が悪かったと慌てて
言葉を探す。
﹁登山⋮⋮登る⋮⋮通り過ぎる⋮⋮⋮⋮﹂
﹁越える﹂
﹁それ! 越えられぬ壁! 乗り越えがたき壁!﹂
ルーナのおかげで助かった。⋮⋮あれ? これルーナに聞いても
らった方がいいんじゃないだろうか。何せ、私の国語辞典読んでた
ルーナだ。私だけでなく、一般日本人より語群が多いかもしれない。
ちらっとルーナを見たら、思いもよらず真剣に見つめられていて、
思わずじっと見つめ返してしまう。じぃっと見ていたけれど、そう
1046
いえば話していたのはエマさんだったと慌てて視線を戻すと、エマ
さんは難しい顔で顎に手を当てている。
﹁⋮⋮話は聞いていたと言ったな。あの流れの場合、それは、どう
いう意味だ?﹂
﹁私は、ムラカミさんでは無い故に、分からぬよ﹂
申し訳ございませんと謝ったら、エマさんはぶはっと噴き出した。
豪快な笑い方が可愛い。腕を当てて口元を隠す笑い方は、男っぽく
てかっこいいけど可愛い。
顔半分腕で隠れた顔に、エマさんの眼は切れ長なんだなと、今更
気づいた。
﹁それはそうだな。じゃあ、お前はどうなんだ? はあどる、高い
か?﹂
切れ長の目がじっと私を見ている。そして、じりっと首筋が焼け
たような気がして振り返ったら、水色の瞳も私を見ていた。ちなみ
に、洞の傍で腰かけたシャルンさんの瞳は、早く寝ましょうよと言
っている気がする。
1047
80.神様、少々とはなんだったのでしょう
﹁あくまで私の意見であって、イツキさんとは別人よ﹂
﹁ああ、分かってる﹂
私はイツキさんじゃないし、イツキさんと喋ったこともないし、
イツキさんをよく知らない。でも、イツキさんの気持ちが分かるよ
うな気がすると言ったら失礼だろうか。
助けを求めるのが恥ずかしいんじゃない。ハードルが、高いのだ。
﹁私は、助力を乞うた際、皆に不都合が生じた場合、見合う対価を
差し出せないよ。私が助力を乞うて生じた結果に見合える価値を、
私は私に見出せない﹂
助言は乞える。寧ろ積極的に聞きたい。私では到底考えもつかな
い方法は大変勉強になる。
でも、助力は違う。
﹁⋮⋮⋮⋮この世界の人間がお前達に向ける感情は、損得計算で成
り立っていると?﹂
苦しそうな声に首を振る。
違う、違うんです、エマさん。
信じてないからじゃない。疑っているからじゃない。
助けてと叫ぶのを躊躇うのは。
﹁助力してくれると、知っている故に、言い難いよ﹂
そう叫んだら、自分の身を省みず助けてくれる人がいると知って
いるから、言えなかった。
みんな優しい。優しくて、真面目だ。助けてと縋ったら、きっと
助けてくれる。それは自惚れじゃないと、今までの皆が示してくれ
1048
た。分かってる、信じてる。だから、言いたくない。
襲われた時、剣を向けられた時、私の代わりに剣を受けるのだと
分かっていて、乞うていいのか。同じことになった時、助ける力も
知恵も財産もないくせに、この世界で紡いできた歴史に一滴の血も
混ざっていない私が返せるものは何もないくせに、私が此処にいな
かったらしなくてよかった労力を、彼らに乞うていいのだろうか。
助けてと凭れかかり動きを制限して、取らなくてよかったはずの時
間を費やさせて、流さなくてよかった血をこの世界に流させるだけ
の価値が、自分にあるのだろうか。
この世界に来るまで、助けてという言葉はとても軽いものだった。
宿題忘れてた、助けて。
この荷物重い、助けて。
日常生活の些細な助けてを、互いの間でいったりきたりさせて、
助けて助けてもらってを繰り返した。別に助けてもらえなくても何
とかなるけど、手を貸してもらえたら助かるなぁというくらいの言
葉。自分が相手に求める助けては、自分が相手に返せる助けてだっ
た。
相手の人生どころか、命さえ危険に晒してしまう一方的な助けて
に、どうしたって怖じる。たくさんの申し訳なさと、自分の助けて
が齎す結果が、恐ろしくてならない。
日本で過ごした二十年弱の時間は、助けての恐怖を教えてはくれ
なかった。
自分の助けてに、そこまで真摯に向き合ってもらうような事態も、
経験しなかった。だから、この世界でたくさんの真面目で優しい人
に会って、初めて怖じた。
助けての責任の取りようがない自分に、愕然としたのだ。
せめて、助けてと縋り、その優しさに付け込んで強制的に助けて
もらわないようにしたかった。この優しい人達は、助けてと伸ばさ
れた手を叩き落とすなんてできない。その手を取った結果、自分に
1049
どれだけの不都合が伸し掛かるか分かっていても。
だから、皆が選ぶ隙を作らずに、助けて助けてと掴んで引きずり
こむのだけは避けたかった。せめて選べる時間が、選択が、あって
ほしかった。
だって、選べないのは苦しい。選べないと、覚悟も決意も出来な
いままになる。皆に背負わせたものを背負い返すことができるのな
らまだしも、そのどれも出来ない私が押し付けられるわけがない。
助けて助けてとむやみやたらと手を伸ばしていたら、皆がもう背
負えないと思った時、その手を弾かせてしまう。伸ばさなければ、
そんなこと、させなくていいんじゃないかとか、一度でも思ってし
まったら、もうどうしようもなくなったしまった。
私を助けるか助けないか選べ! そう考えるのが傲慢だと分かっている。分かっているけれど、一
度助けての恐怖が思い浮かんでしまったら、振り払い方が分からな
い。
助けて。
助けて。
助けて。
その結果を背負うことはできないけれど、私を助けて。
この世界で私が発する助けての言葉が、わがままと呼ぶことすら
おこがましいほどの要求であること、助けるかどうか選んでと口を
紡ぐこと。そのどちらも厭わしいことだと気づいてしまったら、に
っちもさっちもいかなくなる。何も持たないという事実が齎すもの
が、心許なさではなく、苦しさだなんて知らなかった。
誰かに恐ろしい目に合わされるより、助けを求めたことによって
大事な人達に持ち込む驚異のほうが、何倍だって恐ろしいなんて、
知らなかったのだ。
1050
空を覆う木の隙間から落ちてくる雪が視界の端を掠めて、しんっ
と静まり返った中で、染み渡るようなため息が聞こえた。
﹁カズキ、お前、そんなくだらないこと悩んで助けを求めてこなか
ったのか?﹂
呆れきったルーナの声に、慌てて振り向く。
﹁く、くらだない﹂
﹁くだらない。俺達に助けを求めてこないのは、元の世界に誰とも
比べようのないほど頼りになる人間がいるからかと、十年間嫉妬し
ていた俺に謝罪を要求したい気分だ﹂
﹁くだならいことではなきにしても、何が何やらごめん!﹂
思わず詰め寄ったら、今度はエマさんから同じ単語が飛び出す。
﹁まさかイツキもそんなくだらないことで悩んで⋮⋮いや、それっ
ぽい。凄くそれっぽいぞ! イツキはまさしくそんな感じだ! あ
りがとうカズキ! 十年来の謎が解けた!﹂
﹁わ、私と同意見であるかは定かではなきにしても、くだないらと
言われるば、ムラカミさん号泣致すと思われるよ!?﹂
またぐるりと元の方向向いたら、きらきらした目のエマさんに両
手を握ってお礼を言われた。ぶんぶんと私の手を振った後、すっき
りしたと言わんばかりの満面の笑顔で洞に向かって走っていく背中
を呆然と見送る。その肩を掴まれて、三度ぐるりと向きが変わった。
﹁くだらないだろ﹂
﹁それほどまでに!?﹂
﹁俺達だって別に誰彼構わず命懸けたりしない。お前が思うほど、
誰も彼もお人好しじゃないぞ、カズキ。寧ろ、割り切って切り捨て
るのは俺達の方が得意だ。ちゃんと選んでるよ。最初から、選んで
る。お前を失うくらいなら、お前を泣かせるくらいなら、死にかけ
る方がましだから俺達は手を伸ばしてるんだ。そうして何か不都合
が生じたとしても、それをお前に背負わせるほど柔じゃない﹂
1051
そこまで言ったルーナが屈む動作を見せた。それを目で追った時
には、膝裏から掬い取られて視界が上がる。
﹁と、言える立場だから言わせてもらうぞ﹂
﹁どういうことな意味? そして、何故にして担ぎ上げるの﹂
私を抱き上げたルーナの肩に手を置いて見下ろす。
﹁お前の悩みはくだらないと、今は言える立場だからな﹂
﹁立場﹂
﹁ただ、俺がお前の世界に何の後ろ盾もなく落とされて、お前の世
話になっていたら言えない﹂
ルーナは、さっきまでシャルンさん達が座っていたたき火の傍に
ある石に座った。その膝の上に下ろされて、マントの中にしまいこ
まれる。マントの隙間からたき火に木をくべた手が背中に回った。
﹁そんなこと気にするなと言える人間が言えばいい類のことだと、
俺は思う。だから、悩むなら、気に病む前に言ってくれ。そうじゃ
ないと、くだらないと一掃も出来ない﹂
﹁ルーナ、意味が難解よ﹂
﹁難しいことは言ってないつもりだけどな⋮⋮そうだな⋮⋮⋮⋮と
りあえず、遠慮とか気が引けることがあったら片っ端から俺に言っ
てくれ。俺は人の心が読めないから、言ってくれないと分からない
んだ﹂
心が読めないのは皆そうだよなぁと思いながら、ルーナが言って
いることを自分なりに噛み砕いて考える。難しいことは言ってない
つもりだと言ったけど、普通に難しい気がするのは私が馬鹿だから
か。
﹁⋮⋮⋮⋮とどのつまり﹂
﹁ああ﹂
﹁ルーナがニホンに訪れた際、私がくらだないと言えばよいという
ことで宜しいか?﹂
﹁違わないけど大幅に違う気がするのは何故だろうな﹂
馬鹿に説明する為にルーナが悩んでいる。国語辞書さえ読み込む
1052
ルーナでも、馬鹿に説明するのは骨が折れるようだ。私の馬鹿は、
天才を超えるし、秀才も超える。
﹁要は、謝る必要も気に病む必要もないことだと、俺に言う機会を
与えてくれということだ﹂
気にしなくていいよと言わせてほしいということだろうか。それ
なら私にも一つ心当たりがあった。なかなか言うチャンスがなくて
ここまで来てしまったけれど、一回ちゃんと言いたかったことがあ
るのだ。
﹁私も、一つ言いたいよ﹂
﹁ん?﹂
﹁ルーナも、リリィも、アリスちゃんも、エマさんも、隊長達も、
皆、この世界で起こった事態を私に謝罪するけれども、私とて、こ
の世界にいるは私の意見ではなくとも、いま、この場にいるは私の
意見だから、謝罪は不要よと、伝言したかった﹂
﹁意見というより意思だな。つまり、この世界こんなのばっかりで
ごめんなと謝らない代わりに、カズキは俺に助けを求めてくれるん
だな?﹂
そんな話でしたか? 確かハードルから始まったはずなのに、何
がどうなってこんな結論に? ハードルは一体どこに?
エマさんからの質問を受けていたはずなのに、私はどうしてルー
ナのマントの中で抱きしめられているんだろう。
始まりのエマさんは、すっきりとした笑顔で洞に飛び込んだ。
﹁よし! シャルン、寝るぞ! 来い!﹂
﹁散々待たせた挙句、そんな気迫滾らせて戻ってこないでくれるか
しら!? これから抱き合って眠る相手に色気出せとは言わないか
ら、せめて気合いも出さないでよ!﹂
﹁すやぁ⋮⋮﹂
﹁眠るのはやっ!﹂
1053
閉じた幕の向こうでシャルンさんが大変そうだけど、こっちはこ
っちでどうしよう。ルーナと向かい合って抱きしめられたままだ。
ルーナの足の上にいる分、座高がいつもより高くなってルーナの
顔が近い。私は、忘れていたことを思いだしてはっとなった。そう
だ、朝のキスの分を後で照れようと思っていたのに、これでは照れ
貯金が満額になってしまう。
﹁ルーナ!﹂
﹁ん?﹂
﹁恥を分散してくるので、別箇で着席希望するよ!﹂
﹁よく分からないけど、何の為に二人ずつに分けたと思ってるんだ、
お前は。別れて座ったら暖取りの意味がないだろう。それと、少し
だけ静かに。仮眠組がいるからな﹂
慌てて自分の口を押える。そぉっと振り向いたら、洞のほうから
ぐぉーと鼾が二人分。よかった、起こしていない。二人とも寝つき
がいいのもあるだろうけど、疲れているのだろう。
静かに静かにと自分に言い聞かせて、ルーナの耳元に唇を寄せて
声を潜める。
﹁ルーナがキス多々しかけてくるので、恥ずかしきを消化しきれぬ
故に、悶える時間を要求し﹂
瞬きの一瞬で、耳が口になっていた。ルーナは、もしも騎士を首
になったらマジシャンになったらいいと思う。後、温かいとゆでダ
コは大分差があると思う。
﹁は、恥ずかしき悶えるので、待機して!﹂
慌ててルーナの口を両手で押さえて、寝てる二人の邪魔はしない
ようひそひそと話す。あの鼾具合からすると大丈夫そうだけど、声
はかなり通ってしまうから気をつけよう。
口元を押さえた私の両手を片手で少しずらしたルーナが俯いてき
て、また頭突きかと反射で目を閉じたら、こつりと額が当たっただ
けだった。
﹁そうは言っても、やっと触れられるんだ。もう少し付き合ってく
1054
れ﹂
﹁もう少々とは?﹂
﹁⋮⋮後、百年くらい﹂
少々の定義を要求したい!
今までは一緒にいられなかった隙間隙間だったから、一緒にいら
れる喜びとルーナ大好きという気持ちだけだった。だけど、あの村
でも思ったけど、一先ず安全な日々の中で冷静にこうしている、ど
うにもこうにも恥ずかしい。
恥ずかしいけど嬉しくて、幸せだけど恥ずかしい!
嫌では全くもってないけれど、なんというかこう⋮⋮休憩が欲し
い。
﹁ルーナ、私は恥ずかしきを鎮静化目指すために、休憩時間を挟み
こんでほしいよっ﹂
潜めた声で必死に訴えたのに、ルーナは何だか楽しそうだ。
﹁カズキ、首まで赤いぞ﹂
﹁ルーナ!﹂
首筋を撫でられて、くすぐったいやら恥ずかしいやら熱いやら。
自分から抱きつくのは大好きだけど、ルーナに動かれると大変恥ず
かしい! せめて間を開けてくれたら落ち着けるのに、次から次へ
と畳み掛けてくるルーナをどうすればいいんだろう。今日は一日が
長いのに、夜明け前から体力を奪われると困る。私は今日、散々滑
って転ぶ予定なのに。
既に熱湯に浸かっているのに更に炙られて、煮立つ頭で必死に考
える。
﹁ル、ルーナ﹂
﹁ん?﹂
私がこの世界にいるのは、私が選んだことじゃない。
でも、私が此処にいるのは、自分で選んだ結果だ。
1055
そしてルーナも、選んで手を差し出してくれると言うのなら。
﹁た﹂
﹁た?﹂
ごくりとつばを飲み込んで、息を吸う。
どうしたって躊躇ってきた言葉があった。どっちを選んでも傲慢
で、ずるい選択肢があった。
それを口に出せと言うのなら、最初は、ルーナがいい。傷つくの
もねだるのも、巻き込むのも。凭れて、縋って、重荷になるだけに
はならないよう頑張りたい。けど、甘えるなら、ルーナにする。
﹁カズキ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮助けて、ください﹂
ルーナが息を飲んだのが分かった。いろんな意味で心臓がどくど
くと忙しく鳴いている。動きを止めたルーナの膝を跨いで座った状
態でずっといるのは、色んな意味で厳しい。やっぱりいったん離れ
ようと身動ぎしたら、腰に手が回ってがっちり抱きこまれた。苦し
い。
私の肩に額を置いたルーナは、長い長い息を吐いた。
﹁お前、それは、ずるいだろ﹂
﹁ルーナが待ってを受理してくださるないから!﹂
﹁助けを求めてくれるのはいい。念願叶ったというか、望むところ
だ。それはいいんだけどな。お前、よりにもよって⋮⋮ずるいだろ﹂
回った腕にぎゅうぎゅう力が篭もって、痛くはないけど苦しい。
こんなに苦しいのに痛くないのは凄いと思う。コツでもあるのだろ
うか。それはともかくとして苦しい。
﹁ル、ルーナ、苦しい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮俺も苦しい﹂
﹁私は締め付けをおこなってはおらぬよ!?﹂
﹁いや、俺より酷い﹂
﹁え!? ごめん!﹂
慌てて両手を広げて掌も開く。立ち上がれないけれど足も開いて
1056
いるから締めつけてはないはずだ。これでルーナは苦しくないはず
だと思ったけれど、腕による支えが無くなった私は更に苦しくなっ
た。
ルーナはそのまま動かない。苦しいと言っても息ができないほど
じゃないので、私もしばらくその体勢のまま待機してみる。ただ、
広げていた両手が寒くなったので、そぉっとお互いの胸の間に確保
したら、凄く温かかった。
1057
81.神様、もう少し小さくお願いします
﹁カズキ、そこの縄もっとぴんっと張りなさい! 届かないわ!﹂
﹁ぴよんと張るよ!﹂
﹁ぴんよ、ぴん! 余計なもの挟むんじゃないわよ!﹂
﹁ぴゅん!﹂
私達は、ロープで木を直線に繋いで、方角を確かめながら一直線
に進んでいる。空が見える場所や、しっかりとした背の高い木を見
つけたら、ルーナが登って太陽や星の位置で方角を確かめてくれた。
最初の時みたいに洞を見つけられることのほうが幸運で、ちょっ
と開けただけの場所で寝ることのほうが多い。そんな時は、ロープ
に繋いだ布を張ってテント代わりにして眠るのだ。
雪をどけ、今晩の野宿場所にテントもどきを張り終えて、私達は
一息ついた。
ルーナは木の上で方角を確認してる真っ最中だ。生い茂った木の
枝で見えないけれど、なんとなく見上げている私の横で、エマさん
はごりごりと丸薬の材料を混ぜ合わせていた。
﹁ルーナは凄いな﹂
﹁ルーナは凄いよ!﹂
﹁解薬であれを抜いてる最中だから、普通なら動けないくらいだる
いはずなんだがなぁ﹂
﹁ルーナ︱︱!?﹂
思わず叫んでしまった私の頭上から、大量の葉っぱと雪が落ちて
くる。そして、ずだんっと重たい音で危なげなく着地したルーナも
降ってきた。
1058
﹁何だ?﹂
﹁ルーナ気だるい!?﹂
﹁ん?﹂
小枝や葉をはたいているルーナを、上から下まで見て顔色を覗き
込む。いいか悪いかで聞かれるとよくはないだろうけど、他の皆の
顔色も寒さで白っぽいから何ともいえない。
﹁薬抜いてる途中だからだるいだろうって話をしてたのよ﹂
シャルンさんから補足を得たルーナは、合点がいったと頷いた。
﹁元から量を減らしていたからそれほどでもない。量を減らし始め
た頃のほうが厄介だったな﹂
﹁⋮⋮気づかないかった﹂
﹁航海中暇だったから、丁度いいかと思ったんだよ﹂
さらっと暴露されて仰天する。記憶が戻ってない頃から薬を抜こ
うとしてたなんて知らなかった。部屋が別々だったのはあるけれど、
後半は寝る時以外は一緒にいたのに。
そりゃあ、あの時はルーナも記憶を戻すことに積極的じゃなかっ
たし、ルーナが親しくなり直したのはアリスちゃんだったし、私は
いつでも馬鹿だったけど、一言くらい言ってくれても⋮⋮無理だ。
寧ろ、あの頃のルーナが私に話してくれる理由が一つもなかった!
でも、今は違うはずだ。役に立てる立てないは別として、話を聞
くくらいは出来る。
﹁ルーナも、私に、弱音泣き事うげろっぱ致してくれて宜しいよ﹂
﹁ああ、頼りにしてる﹂
間髪入れずにそう返ってきて面食らうと同時に、口元が緩む。こ
んな端々で、ルーナのテリトリーに入れてもらってるんだなと気づ
く瞬間嬉しくなる。私も、こんな嬉しさをルーナに渡せるといいな。
同じように笑ってくれたルーナは、汚れ物を持ち上げた。
﹁そこに川があったから、洗ってくる﹂
﹁あたしも行くわ。⋮⋮嫌そうな顔しないでくれる!?﹂
﹁俺は何も話さないぞ﹂
1059
﹁ほ、ほら、やっぱり人に話すことですっきりする事とかあると思
うのよね。男同士の話ってあるじゃない? あたし、たっぷり付き
合うわよ。女装の話とか、ちょろーと吐きだしてみるといいと思う
の﹂
うふんとウインクしたシャルンさんの目の前で、ルーナの指がご
きりと鳴った。アイアンクロー発動三秒前。
私は合掌した。エマさんも合掌した。イツキさんに習ったんです
か?
男らしい悲鳴が上がったと同時に、エマさんが鳴らしたちーんと
いう澄んだ音が響き渡った。
干した葉っぱを火で軽く炙り、それを砕いて混ぜる。他にもよく
分からない物を練ったり、潰したりして混ぜていく工程を眺めてい
ると、エマさんが色々教えてくれた。
﹁あの丸薬が阿呆みたいに高いのは、昔のガリザザの王族が、好い
た女を自分の元に止めおくために作らせたからなんだ。安い材料だ
と逃げだした先で作れるだろ? だから、自分の手元にいないと手
に入らない材料で作らせた、質の悪い物なんだよ﹂
﹁あくどいよ﹂
﹁だよなぁ。だから私は、解毒薬は絶対に安い材料で作ろうと決め
てたんだ。逃げ出した先でも作れるよう、そこらで手に入るような
材料以外は使わないようにしてな﹂
小瓶から何かを振りかけ、再び混ぜ始めた薬の中に自嘲気味な笑
顔が落ちる。
﹁一番手伝ってくれたのはツバキだったんだ。丸薬に縛られている
人間が、奴隷として繋がれていた自分みたいだってな。イツキに救
われた自分みたいに、皆自由になれたらいいねって言って、材料集
めも配合も、誰より熱心に考えて手伝ってくれたんだよ﹂
思わず固まってしまった私に、エマさんは自嘲を苦笑に変えた。
1060
﹁その様子だと、話に聞いた通り、ツバキは大分変っているんだろ
うな⋮⋮⋮⋮私が討ち取られ、瓦解したエデムの街でイツキを守ろ
うと追い詰められたんだろう。頑張り屋で、一途な子だったんだよ。
元は少数民族の出だとは思うが、物心ついた頃には奴隷商にいたそ
うだ。イツキから与えられる無償の愛に戸惑って戸惑って、狼狽え
る様にようやく子どもらしいと思ったのが印象的だったなぁ﹂
エデムとは、エマさんが統治していた地域の中心都市だ。ディナ
ストがいるのは皇都エルサムというらしい。元々ディナストが統治
していた場所は、なんともう壊滅している。エルサムに移住してす
ぐに他の王族が攻め込んだけれど、ディナストは別に応戦も仕返し
もしなかったらしい。でも、全然関係ない場所でその王族の人と戦
って、その人は負けて巡礼の滝に落とされている。あの村にいなか
ったということは、きっと助からなかったのだ。その後も、立て直
すわけでも統治し直すでもなく捨て置かれた街は、結局復興せずに
そのまま廃墟となったと聞いた。
﹁なあ、カズキ﹂
﹁はい﹂
﹁私な、戻ったらディナストを討つよ﹂
エマさんはさらっと凄い事を言う。驚きすぎて反応が返せない私
に、完成したルーナの薬がぽんっと渡された。すらりと長い指の中
で、存在感を主張している節が印象的な手だ。これは、頑張った人
の手だ。爪の間が薄ら染まっているのは薬を調合するからだし、節
がごついのは剣を振るうからだと知っている。
﹁私は本当はな、残虐なことも非道なことも平気な人間なんだ。そ
うでないと生き残ってこられなかったのもあるし、そうやって生き
残ってきた人間の血筋だから、それ自体は平気だった。ディナスト
も他を落として吸収したばかりの軍だったし、そいつらの身内を人
質にとって脅した上で、全軍上げてディナストを殺しにかかれば崩
1061
せたかもしれない。なのに私は、あの時それを躊躇った。そんなこ
とを平然とできる女だとイツキに知られたくなくて、血を流させず
に終わらせる方法がないかと後手を踏んだ。ただ王族に生まれたと
いうだけで上に立った、無能な小娘に統治されたエデムの民は哀れ
だ﹂
七年前と言ったから、その時のエマさんは十七歳くらいだ。日本
なら女子高生。ルーナ達もそうだけど、私達の感覚からすればまだ
全面的に守られる年齢の人が背負うものが、本当に大きい。その決
断に左右される人の数も、酷く多い。多過ぎる。
膝の上に落ちた粉をぱんぱんとはたいたエマさんは、思いっきり
伸びをした。
﹁私ももう二十四だ。小娘の時よりは図太くもなったし、この七年
後悔ばかりしてきた。やらなかったことへの後悔は本当に重かった
よ。バクダンをあいつの手に渡してしまった責任は取らなければな
らない。まだ情勢が分からないから王になるかどうかは決められな
いが、必要なら玉座も捥ぎ取る﹂
﹁ど、どのように?﹂
﹁そうだなぁ。まずは反ガリザザ勢力と繋がりたい。話を聞いた感
じだとルーヴァルが妥当か。ガリザザ内だと、どっちかというとこ
っちの首を狙ってきそうだしなぁ。昔、少数民族同士の組織がある
とか聞いたことがあるが、今はどうなっているやら。エデムの仲間
が生き残っていれば収集をかけたいが、何せ七年だ。あの頃使って
いた連絡網も難しいだろうが、何か使えるものが残ってないか調べ
ないとな﹂
すらすらとこれからの予定を上げていくエマさんをぽかんと見上
げてしまう。やりたいことを決めたら、それに向けてぐんぐん進ん
でいける人は凄い。こうしたいなと思っても、やり方が分からず変
な方向に突っ走っていってしまう私だから、余計にそう思うのかも
しれないけど。
私は何をすべきだろう。私の握力で出来ることだけじゃなくて、
1062
独り歩きしている黒曜の名前でもいい。私は、何ができるだろう。
﹁イツキも、必ず取り戻す。⋮⋮壊されたというのなら、負けた私
の所為だ。償えるかは分からない。だが、どうしても会いたいんだ。
会って、謝りたい。⋮⋮⋮⋮たった二年で、あいつを生涯の男と定
めた私を笑うか?﹂
覚悟を決めた切ない笑顔に、私は思わず視線を逸らす。あの、何
かすみません。
﹁何言ってんのよあんた。この人達一年なかったわよ﹂
綺麗になった食器を抱えて戻ってきたシャルンさんが、呆れた声
で返事を引き継いでくれた。仰る通りです。ルーナ大好き。
﹁そうか! そうだな!﹂
はっはっはっと豪快にお腹を抱えたエマさんが元気なら、もうい
いや。どうぞ笑ってください。ただの事実です。ルーナ大好き。
しかし、すぐに首を傾げる。よいせと荷物を置いたシャルンさん
の後ろに誰もいない。
﹁シャルンさん、ルーナは何処に?﹂
﹁ああ、ちょっと気になることがあるから先に行けって言ってたわ
よ﹂
﹁気になること﹂
﹁何かしらねぇ。あ、そうだ。カズキ、ちょっと来なさい﹂
手招きされてひょいひょいと近寄る。差し出された両手を覗きこ
めば、そこには棘のないサボテンみたいな多肉植物があった。ふわ
ふわとした産毛みたいなのがびっしり生えている。
﹁いいものあったからあげる。これあんたの分よ﹂
﹁これは何物ですか?﹂
﹁火草っていってね、これを潰して足先に塗りつけてたら凍傷起こ
しにくいの。食べても栄養満点。こんな外見なのに、雪の中でも凍
らず生えるから火の草なの。使って便利、食べても助かる万能草よ。
問題はたった一つ﹂
1063
急に神妙な顔になったシャルンさんに、ごくりとつばを飲み込む。
﹁すっごくまずいの。動物も食べないくらい激まずよ﹂
﹁それほどまでに!?﹂
﹁だからといって、手を加えれば加えるほど何故か不味くなるのよ。
そのまま食べるのが一番だけど、本当に切羽詰まらなきゃ食べたく
ない代物なのよねぇ﹂
産毛は舌に残りそうだけど、それを除けばぷりっとした美味しそ
うなこの植物が、そんな恐ろしいものだとは。ちょっと齧ってみた
い気もするけれど、悶絶した時の口直しがない状態でチャレンジし
ていいものか。
手袋の上に乗った火草をじっと見つめていたら、草むらががさが
さ動いて顔を上げる。
﹁ルーナ?﹂
積もった雪を落としながらぬっと現れたのは、やけに毛深くなっ
たつぶらな瞳のルーナだった。
またの名を、熊と呼ぶ。
急に息が吸いづらくなったのは寒さの所為じゃない。こんなに寒
いのに、脂っこいような獣臭さがむあっと湧き上がる。は、は、と
小刻みに吐く自分の息が白く散っていく。
思ったよりつぶらな瞳に、知っているくらいの大きさ。でも、思
っていたよりずっと、怖い。自分より大きい意思疎通できない動物。
少し動いただけでしなやかに動く肉は筋肉の塊だ。目の前の動物が、
突如豹変して一歩前に踏み出したら私は死ぬ。その恐怖は、私より
も本能が知っていた。
1064
思考がぐるぐる空回る。死んだふり? でも、熊は雑食だから死
体も食べるとお爺ちゃんが言っていた。じゃあ、大声で驚かせる?
声が出ません。大きな音を出す? 手持ちはふんわりとした産毛
を持った火草だけです。 じゃあ、死ぬ? 絶対嫌だ。
足がガクガクと震える。ほんの少しでもバランスを崩したらしゃ
がみ込んでしまう。そうしたら、もう駄目だ。背後は分からないけ
ど、何も物音がしない。誰も何も言えない。どうしよう、ルーナ。
声が、出ない。
﹁カズキ!﹂
声だけで雪が落ちてくるほどの怒声が響き渡った。全ての意識が
声に逸れる。熊も体勢を低くした瞬間、拳ほどの大きさの石が鈍い
音を立てて熊の脳天に当たり、ぼとりと雪に埋まった。
飛び出してきたルーナに腕を引かれて背後に回される。今のルー
ナは剣を持っていない。農具だけでどうするのとか、危ないとか、
思うだけで息が出来ない。
小刻みな息しか吐けない上に、極度の興奮で視界が点滅する。そ
の視界の中を妙にぼやけた光が横切っていく。
ルーナはたき火の組み木を掴んでいた。
﹁巣に戻れ!﹂
火のついた木を熊に投げつけ、農具の持ち手で熊の眼の間を打ち
付ける。熊は呻き声とも咆哮ともつかない声を上げて立ち上がった。
確実にルーナよりも大きい。一歩も引かずに鍬を構えたルーナの静
かな呼吸で揺れる肩と、半開きになった熊の口から覗く舌だけが動
いている。
熊が立ち上がってくるりと後ろを向くまで、たぶん一瞬だった。
なのに、時が止まったみたいに長い。
雪を蹴散らして森に消えていく熊の背中を見送って、一気に時間
が流れ出す。ぐしゃりと地面に座り込んだ音が四人分響いた。次い
で、ルーナ以外は止めていたらしい息が吐き出される音が続く。
﹁怪我はないな?﹂
1065
﹁な、いよ﹂
持ち手を抱えて長い息を吐いたルーナは、すぐに立ち上がった。
﹁足跡を見つけたから追ってみたらまさかここに続いているとは思
わなかった。肝が冷えた⋮⋮すぐに移動するぞ。荷物を纏めろ﹂
﹁そう、だな。夜になるが、ここで野宿するよりましだ﹂
最初に持ち直したのはエマさんだった。顔面蒼白になってもすぐ
に立ち上がって、さっき張ったばかりのテントもどきを解いていく。
﹁シャルン、私の鞄を取ってくれ﹂
﹁え、ええ⋮⋮⋮⋮なんなの、なんなのよ! 冬眠してなさいよね
!﹂
張りつめた空気が解けていく。私も慌てて立ち上がろうとしたら、
腰が抜けていて立てなかった。さっきまで感じなかった寒さが駆け
抜けていく。お尻冷たい。
脇の下に手を差し入れて持ち上げてくれたルーナにお礼を言いな
がら、なんとか足に力を入れる。そして、生まれたてのカズキが生
後三時間くらいのカズキになった頃には、撤収準備が整っていた。
役立たず、ここに極まり!
こんな時、一々方角を確認しながら進むのは気が焦る。空が見え
る場所が増えて星を見ながら進むことができたのは幸いだった。
みんなあまり喋らず、早足で黙々と進む。ずべっと滑った私を支
えてくれたルーナの横をシャルンさんが滑っていく。ちょっと坂に
なっているのだ。少し先で止まったシャルンさんはぷんすか怒って
いる。
﹁いったぁい! もお! 足元見えないわぎゃああああ!﹂
﹁どうした、シャルン!﹂
エマさんが滑りながら駆け寄っていく。私達も急いで近寄ると、
少し窪んだ場所に嵌ったシャルンさんが指さした先に、この森で偶
1066
に遭遇するそれと出会った。
ぼろぼろになった服に雪が降り積もっても溶けることがないのは、
それがもう体温を発していないからだ。
﹁⋮⋮こんな所にもいたのか﹂
人骨の前にしゃがみ込んで、エマさんが両手を合わせる。この森
には、今まであの村から逃げたと思う人の骨を見つけることがあっ
た。逃げて、逃げて、辿りつけなかった人達だ。そのほとんどが一
人だった。逃げようとする人が同時期に四人固まった私達は本当に
幸運だ。否、同時期というのは少し語弊がある。エマさんは、七年
待った。確実に生きて帰るために、仲間を探して七年間、変わって
いく外の世界に焦りながらも待ったのだ。
折れた骨が散乱する場所を見たルーナは、まずいなと呟いた。
﹁あの熊、もしかすると人の味を覚えたやつかもしれない。そうな
ると、追ってくるぞ﹂
﹁ちょっと、やめてよ!?﹂
エマさんも難しい顔で暗闇を見る。
﹁いや、あり得る。そうでなきゃ、わざわざ人の気配がして火が焚
かれている場所に寄ってきたりしないだろう﹂
﹁冬眠してないからお腹空かせてるだけじゃないの!?﹂
﹁それだと余計に獲物を追ってくるんじゃないか?﹂
緊張感が戻ってくる。少しでも距離を取ろうと歩き出したのに、
ルーナは険しい表情で後ろを振り返った。
﹁冗談じゃないぞっ、走れ!﹂
﹁嘘でしょう!?﹂
悲鳴を上げたシャルンさんの手を掴んでエマさんが駆け出す。私
の腕はとっくにルーナに掴まれて走り出していた。
ばたばたと走る足音と背負った荷物がぶつかり合う音、雪を踏み
抜いて湿った葉っぱや枯れ木を砕く音。そして自分の心臓と、皆の
呼吸音。そんな物だけが、雪に音が吸収される森の中に響いた。
1067
私の耳では拾えないけれど、ルーナが後ろを何度も確認している
から、真っ暗な背後に確実にいるのだろう。
﹁方角、方角どうするのよ!?﹂
﹁それよりも距離を取ることのほうが先決だろう! ルーナ、火を
焚くか!?﹂
﹁あんな小さな火じゃ無意味だ! 剣さえあればまだ何となるが!﹂
頭上はまた木に覆われて月明かりさえ入らない。それでも、僅か
な光を雪が弾いて、城だけが眩い。とにかく前に前に足を動かす。
左が地面についたら右を、右がつく前に左は地面を蹴っている。足
元は見えないけれど、必死に足に力を入れて進む。
なのに、急にかくんっと左の膝が折れた。腰が抜けた時の感触に
似ている。だけど決定的に違うのは、左の足が辿りつく先がない。
抜けたのは、膝でも腰でもなかった。
目の前を走っていたエマさんの身体が傾き、シャルンさんの身体
は完全に斜めになっている。
なかったのは地面だ。
﹁崖、かっ!﹂
唯一足を踏み外さなかったルーナが渾身の力で踏ん張っても、三
人分の体重を支えられるわけがない。その場に止まることを諦めた
ルーナは、私を引き寄せながら抱きかかえて下に滑り込む。
何度落ちても慣れることなんて一生ないと思うこの感覚に、ひゅ
っと吸い込んだ冷たい空気で肺が凍りつく。
私達は、夜のものか地獄の入り口か分からない暗闇の中へ、真っ
逆さまに転がり落ちていった。
1068
82.神様、ちょっと悪夢を見ました
人の体温は温かくてとても柔らかい。温度に硬さがあるなんて不
思議だけど、びっくりするくらい心地いいのだ。羽毛布団だって毛
布だって勝てないくらい柔らかくて温かくて、いつまでだって抱き
ついていたくなる。
私はルーナに抱きついて、抱きしめられて、額を合わせて笑った。
ああ、幸せだなぁ。なんにも怖いことなんてない。もうどこにも
行きたくないな。ずっとこうやっていたい。ずっとこうして、ルー
ナといたい。
ルーナ。
そう呼ぶだけで視線を合せてくれて、ルーナも穏やかに笑う。
嬉しくて、私は何度もルーナを呼ぶ。何度呼んでも、ルーナは呆
れず笑ってくれる。
私も飽きもせずにまた呼ぶ。
ルーナ。
変わらない笑顔が返ってくると思ったのに、急にかくんと足の力
が抜ける。何だろうと下を見て血の気が引く。足元にはぽっかりと
大きな穴が開いていた。慌てて伸ばした手は何も掴めない。だって、
ルーナがいない。さっきまでここにいたのに、そこには誰もいなか
った。
落下特有の浮遊感が下から上まで駆け抜けていく。強張った私の
腕を誰かが掴んで引き寄せる。ルーナだとほっと安堵して振り向き、
ぎょっとした。私を掴んでいる手は、知らない男のものだった。褐
色の腕に金色の腕輪がじゃらりと揺れる。
1069
身体ががくがくと震えて止まらない。何がこんなに怖いのか分か
らないけれど、掴まれた腕からじわりと広がっていく温度は、冷た
く硬い、まるで氷のような痛みを伴った。
暗闇にきらりと光る銀色が見えて、救いの光かと必死に目を向け
る。だけど、そこからぬぅっと現れたのは、腕が繋がった先、ディ
ナストだった。
自分が上げた金切声さえ吸い込んだ真っ黒な闇の中に押し倒され
る。背中を打ち付けたはずなのに痛くない。ただ怖い。
ディナストは笑っている。まるで子どものように無邪気な顔で笑
っているのに、何がこんなに怖いんだ。寒くもないのに自覚できる
程の鳥肌が全身を覆う。
声が出ない。喉が引き攣る。
怖い。
助けて、ルーナ。
覆いかぶさってきたディナストの銀髪に塞がれた視界の中で、私
は喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。
﹁カズキ!﹂
泡が弾けるみたいに世界が割れる。
目の前にある切羽詰まった水色の中で、酷い顔をした私が映って
いた。
﹁ルー、ナ﹂
やけに掠れた声しか出なかったけれど、ルーナがほっと安堵した
1070
のが分かる。私の肩を掴んでいた手が頬を撫でていく。なんだろう
と思ったけれど、すぅすぅする感触に泣いていたのだと分かった。
ルーナの肩越しに、シャルンさんとエマさんも心配そうに覗き込
んでいる。
﹁あんた、なんて声上げるのよ﹂
﹁酷く魘されてたぞ。やっぱり私の膝枕のほうが良かったんじゃな
いか?﹂
﹁⋮⋮あんたの足、あたしのより硬いじゃない﹂
そうか、エマさんの太腿は硬いのか。かっこいいですね。
目元を擦りながら、はっと顔を上げる。寒い時に泣いたら凍り付
いて凍傷になってしまう。鼻水凍って窒息する! 慌てて鼻を押さ
えたけれど、すぐに気づく。ここ、温かい。少なくとも鼻水で窒息
するような寒さじゃない。
首を傾げて周囲を見渡すと、丸いテントの中にいた。中心部分で
は火が焚かれているけど、少し離れた場所は物でごっちゃごちゃに
なっている。沢山の箱が大量に積まれているし、籠も詰まれていた。
このテントは、ガリザザの天幕に比べてぐるりと丸い。モンゴル旅
行に行った先生のお土産写真で見たゲルに似ている。
﹁こちらはどちら?﹂
﹁火草を集めていた部族の丸幕だ﹂
﹁人!﹂
人がいたなんて知らなかった。てっきりもっともっと先に行って
この森から出ないと他の人に出会えないと思っていたから驚いてし
まう。でも、ちゃんと話を聞いたら、私達が落ちたのは結構高い切
り立った崖で、登る道がないらしい。だから、その人達も崖の上に
行ったことはないという。今まで火草取り放題で独り占めひゃっほ
うと思っていたら、上から人が降ってきて仰天したそうだ。そりゃ
驚く。
﹁俺達が落ちたほうは木端微塵だけどな﹂
1071
それは申し訳なかった。この山積みの荷物は木端微塵になってテ
ントに収容されていたのだろうか。
﹁それにしたってあんた、丸幕破壊しての騒動でよく気を失ったま
ま寝てられるわねぇ﹂
面目次第もございません。自分でもびっくりです。
私の図太さここに極まり! と思っていたら、その答えはエマさ
んがくれた。
﹁睡眠は防衛本能だからな。暗殺者とか拷問に慣れてる奴らは、苦
痛を受けると反射で気を失うように訓練してるくらいだぞ。まあ、
雇い主は兄弟のどれかなんだけどな!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮王族あるあるぅ﹂
血なまぐさい情報をさらりっと言ってのけるエマさんの幼少期が
気になる。きっと美少女だったと思う。
ぐるりと周囲を見渡すと、木屑に塗れた火草も結構あった。これ、
全部洗うのかと思うと本当に申し訳ないけれど、おかげで全員助か
っている。ありがたい。何度も落ちたけど、その度生き残っている
私達は、運がないのかついているのか今一判断がつけられない。何
度も落ちたり落とされたりしているのは運がないけど、生きている
のは強運だ。
みんな立ち上がったり座ったりしているので、怪我もなさそうで
ほっとした。不運なのか、強運なのか悩むところである。後、よけ
れば火草洗うの手伝います。
﹁それより、カズキは悪夢でも見たのか?﹂
まだ心配そうな顔のルーナに、頷くべきかどうか悩む。
﹁怖いはその通りであるけど、凄まじく嫌であった、ような?﹂
﹁覚えていないの?﹂
﹁さほど。だが、起床一番乗りでルーナがいたので幸福であるのは
覚えているよ!﹂
﹁やだ! この子馬鹿だわ!﹂
1072
何故!? 今の会話のどこに馬鹿を暴露する台詞があったのだろ
うと、ぬーんと考える。分からない。まあいいや!
早々に諦めて、まだ心配そうな顔をしているルーナを覗き込む。
﹁ルーナ、おはよう!﹂
﹁おはよう。⋮⋮お前、本当に大丈夫か? 酷い顔色だぞ。そんな
に怖い夢だったのか?﹂
﹁覚えておらぬよ。だが、一番乗りでルーナがいるので、良いこと
がある気配がするよ!﹂
おみくじ大吉引いた気分だ。最近毎日大吉で幸せである。落ちた
けど。
大吉大吉とほくほくしていたら、苦笑したルーナのキスが額に降
ってきて、思わず首を竦める。恥ずかしがらず、どんっと待ち受け
たいけど、どうにも来ると分かると恥ずかしい。でも、隙間隙間で
しか会えないのは恥ずかしくなくても嫌だから、恥ずかしくても今
のほうが断然いいと思う。大吉大吉。
がやがやと外が騒がしくなって、皆の視線が入口を向く。
﹁おれ。入るぞ﹂
幕の切れ目をひょいっと持ち上げて入ってきたのは、ユアンくら
いの年の少年だった。狐の毛皮を首に巻いて、全体的にもこもこし
ている。温かそうだ。
﹁すげぇ声だったけど、大丈夫か?﹂
﹁平然よ﹂
﹁あ? まあ、あんな高いとこから落ちたんだ。悪夢の一つや二つ
見るよな﹂
その高さを見てないけど、知らないほうが幸せなことってあると
思う。知らないままでいよう。でも落ちたこと自体のショックはな
い。だって、散々落ちてきたのだ。落ちる瞬間はいつまで経っても
1073
慣れる気がしないけれど、落ちたことによるショックはほとんどな
いのである。慣れって凄い。落下の黒曜に改名しようか悩みどころ
だ。
少年は片手で持っていた鉄鍋を幕の上からぶら下がっている棒に
引っ掛けた。こういうのは見たことがある。囲炉裏だ。といっても
移動式のテントにあるのだから、簡易囲炉裏だけど。
﹁そんな時は、うまいもん食うのが一番だ! あんたらの手柄だか
ら、たくさん貰ってきたぞ、食え!﹂
ぱこっと木の蓋が外された中では、野菜とお肉がくつくつと煮え
ていた。
﹁てがら﹂
﹁あんたらと降ってきた熊肉だ。たんと食え!﹂
ひくっとシャルンさんの頬が引き攣った。ついでに私の頬も引き
攣る。あの熊、止まらなかったのか。どれだけお腹空いていたんだ
ろう。それとも私達が美味しそうだったのだろうか。
﹁あんたらのおかげで出発前にいいもん食える。ありがとな。食っ
たら出発するから、そのつもりでいろよ。じゃあな!﹂
あっという間に男の子は外に駈け出していった。色々忙しいのか
もしれない。名前も聞けなかったし、名乗る暇もなかった。
沈黙が落ちた私達の中央で、鍋がくつくつと煮えている。ぽこん
っと泡が弾けて、灰汁かうま味か分からないものが混ざっていく。
ぐぅっと鳴る音がして、慌ててお腹を押さえたら私じゃなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮食べないのか?﹂
不思議そうな顔をしてお腹を鳴らしたのはエマさんだったようだ。
既に器とスプーンを持ってスタンバイしている。
﹁ちょ、あんた、この熊﹂
﹁その可能性があると言うだけで確証があるわけじゃなし。それに、
シャルンを除いて少なくとも二年半は流れ着いた人間自体いなかっ
た。最後に脱走した人間は四年前。それもあの死体の服装とは違っ
1074
た。だから、あまり気にならん。食うか食われるかだろ。食えると
きに食わないともたんぞ。それともシャルン、お前火草で命繋ぐか
?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮頂きましょうか﹂
そんなにまずいんですか、火草。
初めての熊鍋よりそっちの方が気になってしかたがない。
熊肉は、想像していたより臭くはなかったけど、思っていた三倍
は硬かった。ちゃんと煮込めばとろとろになるらしいけど、そんな
時間はなかったようだ。
そう思っていたら、私が食べていた場所は筋部分だった。気づい
たルーナがちゃんと柔らかい部分も取り分けてくれる。いつまで経
っても噛み切れないからどうしようかと思った。
お鍋を食べ終わって人心地ついていたら、狐の少年と狸を巻いた
お爺さんが入ってきた。
﹁熊肉、馳走になった。脂が乗っていい熊じゃった﹂
もっさりと生えた白眉と白髭が温かそうなお爺さんの視線が彷徨
ったのに気付いたシャルンさんが私を見た。私はルーナを見た。ル
ーナとエマさんが視線を交わし合ったのは同時だった。
﹁では、私が代表としよう。私はエマ。数年前に巡礼の滝より落と
された人間だ。ここにいるのは全員そうだ。こいつなんて作家でな。
取材に行って物取りにやられたそうだ﹂
﹁護衛に突き落とされるなんて思わないわよ﹂
お爺さんは、おおっと声を上げた。見開かれ丸くなって初めて目
が見える。仙人みたいなお爺さんだ。山でひょっこり出会ったら福
がありそう⋮⋮つまり、私達は福に恵まれたのだ。だって生きてる。
拝んだら失礼かなとちょっとそわそわしてしまった。
1075
﹁信じるのかよ、おじい﹂
少年に詰め寄られたお爺さんは狸を揺らして頷く。虚ろな目をし
た狸と目が合ってしまった。きらきらしてるからガラス玉か何かを
はめ込んでいるのだろうけど、きらめいているのに虚ろなのはこれ
いかに。
﹁昔から、そういう噂はあった。あの人喰い森の奥に世捨て人の楽
園があるのではないかと。確かめようにもあの崖を登れた者がおら
んで今まで来てしまったが﹂
﹁だって、あれ噂だろ?﹂
﹁わしのおじいは空からしゃれこうべが降ってきたと言っておった
ぞ。わしの前には熊じゃったが。至福至福﹂
嬉しそうに笑ったお爺さんに、何ともいえない空気が流れる。そ
れは至福なんだろうか。追われた私達にとってはちっとも至福じゃ
なかったです。
少年はちょっとそわそわして私達とお爺さんを交互に見ている。
﹁連れて帰って大丈夫かな。この大事な時期に、頭領怒らねぇかな﹂
﹁熊肉の恩もあるじゃろ。このまま凍死させても目覚めが悪い。間
者とも思えんしなぁ﹂
﹁⋮⋮熊肉食べたし、しかたねぇな!﹂
熊肉強し!
個人的には鶏肉のほうが好きだったけど、そういえば鶏と蛙の肉
は似ていると聞いたことがあるけどどうなんだろう。熊肉は何と似
ているかと聞かれたら、筋部分は他に類を見ない硬さでしたと答え
るしかない。
熊肉の強さを噛み締めていると、エマさんが軽く片手を上げた。
﹁間者、と言ったか。どこを警戒しているか、聞いても構わないだ
ろうか﹂
﹁ガリザザだよ。我々は故郷を追われた部族の集まりでな。ガリザ
ザとしょっちゅう小競り合いしているんだよ﹂
﹁我々は怪しくないと?﹂
1076
﹁寧ろ怪しさしかねぇよ。幕壊すなよ﹂
ですよね。
あっさり答えた少年に、私達は素直に同意した。空から熊と一緒
に降ってきて、彼らの丸幕を木端微塵にした私達が怪しくなかった
ら、この世から怪しい存在は消え失せるだろう。
﹁じゃが、間者ならもうちっと怪しくないよう混ざってくるからな
ぁ。せめて崖下を彷徨っていてくれれば怪しみようもあったんじゃ
が﹂
ですよね。
私達はしみじみ頷いた。
﹁おじい、この幕も折り畳みたいけどいいか?﹂
ひょいっと外から覗いてきた人達を見るとき、首から見る癖がつ
いてしまいそうだ。兎、狐、狸、鼬、熊。⋮⋮蛇の人は巻いている
意味がない気がするんですけど、どうなんでしょうか。
﹁おお、すまんすまん。すぐに出るとしよう。お前さん達も⋮⋮じ
じいはこれだからいかんな。名乗っておらなんだ。わしはジジリじ
ゃ﹂
名前もほとんどじじいさんだった。覚えやすくて助かります。
﹁おれナクタ﹂
﹁私、カズキと申すます﹂
﹁⋮⋮あんた、言葉変じゃね?﹂
﹁ご安堵ください! 言動も妙よ!﹂
﹁すげぇ分かる﹂
ナクタはうんうんと頷いた。説得がうまくいって嬉しい。私の言
語力が向上したのか、色んな意味で説得量が増したのかは分からな
いけど。
﹁あたしはシャルンよ﹂
1077
﹁あんた男じゃねぇのか?﹂
﹁大人にはいろいろあるのよ⋮⋮﹂
﹁ふーん﹂
一応返事は返してくれたけど、凄くどうでもよさそうだ。ナクタ
はふいっと視線を逸らしてルーナを見た。
﹁そっちは﹂
﹁ルーナ﹂
﹁ふーん﹂
単語で成り立つ自己紹介。
シンプルな自己紹介が終わって、私達は促されるままに幕を出た。
すると、外にいた人達の手によってあっという間に荷物が運び出さ
れていく。骨組みも外していく。あんなに木を使っていたのかと驚
くと同時に、それくらい頑丈な幕だったから私達を受け止めてくれ
たんだと気づいた。
﹁おい、馬鹿﹂
﹁カズキよ﹂
自分が呼ばれていると疑いもせずひょいひょいと近づいて、つる
りと滑る。皆が踏み固めた地面は雪が固まって大変滑りやすい。
﹁へあぁ!﹂
﹁おい!?﹂
焦った声を上げたナクタの真ん前で仰向けに頭から転んでしまっ
た私を、慌てず騒がすルーナが支えてくれた。いつもすみません。
ルーナに掬い取られて抱き上げられた私の前を、荷物を持った人
が通り過ぎていく。その内の一人がひょいっと首を傾けて私の足元
を覗き込んだ。
﹁これ靴じゃないじゃないか。これは滑るよ。あ、そっちのお姉さ
んも同じの履いてるじゃん﹂
﹁だからこっちの靴渡そうとしたらすっ転んだんだよ。おまえ、ど
んくせぇなぁ﹂
呆れ声で二足のもこもことした毛皮のブーツを渡してくれたナク
1078
タに、お礼を言って受け取る。エマさんはシャルンさんの肩に掴ま
って履き替えていく。片手で器用に履き替えていく様子を真似て、
片足立ちになった瞬間滑った。ちょっとでも力の分散が傾けばつる
りんと行く。スケートより難しい。
﹁おっまえ、筋肉ねぇのな﹂
呆れきった声で言われて、そうか筋力の問題だったのかと気づい
た。でもこの地面、踏み固められてつるんつるんなので、筋力でど
うにかできる気が欠片もしない。こんな場所を歩いていくのかと思
うと、今からお尻が痛くなってきた。尻もちつきまくる気満々であ
る。
半分以上ルーナに抱きかかえられている状態で靴を履きかえる。
それを呆れて見ていたナクタは、分厚い手袋をはめた掌をぱふっと
打ち鳴らした。
﹁よし、馬鹿! 乗るぞ!﹂
﹁カズキよ﹂
否定はしないけど出来れば名前を覚えて頂けたら嬉しいです。
﹁乗るとは何事?﹂
﹁そりだよ。なんだ、お前、この山歩いて降りるつもりだったのか
? ばっかだなぁ﹂
﹁カズキと申すよ!﹂
崖から落ちたのにまだ山でしたか。その事実自体が初耳です。
ナクタに手を引かれて一歩踏み出す。ざくっと氷を貫く感触に感
動する。凄く歩きやすい。凄い、これが状況に適した靴。
感動して、調子に乗ってぴょんぴょんしていたら転んだ。調子に
乗るなという神様の思し召しである。
﹁ルーナ、熊の毛皮は私達に権利があるそうだが、どうする?﹂
﹁カズキに着せたいが、どうせ加工に時間がかかる。だったら渡し
て援助を得たい﹂
﹁そうねぇ、衣食住に変えてもらいたいわ﹂
1079
熊の毛皮をかぶって歩くのも捨てがたいけれど、美味しいご飯に
変わる方がありがたい。ルーナがジジリさん達と話している背中を
見ていたら、ナクタに引っ張られる。
あれだよ、あれと指さされた先には、サンタクロースが乗るそり
より脇が低い木のそりがあった。
﹁あれがおれのそりだぜ。凄いだろ。おじじ達は、あっちのでけぇ
やつで荷物運びながら来るけど、おれらは連絡兼ねて先に降りる。
お前おれの子分にしてやるよ!﹂
﹁こびん﹂
﹁子分だっつーの。年の近い奴いなくてつまらなかったんだよ。ほ
ら、乗れ!﹂
ぐいぐい押されてバランスを崩す。顔面からそりに突っ伏した私
を跨ぎ、そりを押してナクタが駆け出す。
﹁じゃあ、おじじ! おれ先に行くな!﹂
﹁え、ま、ルーナ!?﹂
﹁いっくぜぇ!﹂
腕立て伏せの要領で慌てて顔を上げたら、振り向いたルーナがこ
っちに走ってこようとしている所だった。けれど、既にそりは動き
出している。そりからはみ出している足を必死にそりの中に抱え込
む間に、あっという間にルーナが遠ざかっていく。
﹁登るの面倒だけど、降りるのは最高なんだぜ!﹂
﹁落ちるは結構だす︱︱!﹂
シートベルトのない激しく揺れるジェットコースターに乗ってい
る気分だ。びゅんびゅん風が切れる音がして、頬っぺたが凄い勢い
で冷えていく。どこに掴まればいいのか分からなくてナクタの足元
にひれ伏し、座席部分のでっぱりを掴む。
﹁顔上げろよ、勿体ない! 降りるときだけだぜ、この爽快感!﹂
頭を掴まれて顔を上げたら、視界いっぱいに真っ白い光が広がっ
た。森が途切れている。何もかもを一面雪が覆った世界を勢いよく
滑り降りていく。木が、草が、動物が、そこに見えたと思ったらあ
1080
っという間に消えていく。
一瞬景色に見惚れたけれど、少し先でぬぅっとそびえる木に気付
いて引き攣る。
﹁よいせっと!﹂
だけど、私が身体を強張らせている間に、ナクタはそりの左端を
だんっと踏みつけて角度を変える。そりは進路を左に逸らせて木の
横を通過していった。ただ滑り降りているんじゃなくて、ちゃんと
操縦しているんだと気づいて少し気が楽になる。
﹁岩︱︱!﹂
気が楽になったそばから岩の乱れ攻撃発生。ぼこぼこと突き出て
いる岩を、ナクタは楽しそうに避けていく。
﹁木︱︱!﹂
よく考えたら、落ちる経験は多々あれど、降りる経験はほとんど
なかった。落ちるのは一瞬だけど降りるのはかなり長い上に早くて
怖い。けど、慣れたら楽しいんだろうなというのは分かる。坂道を
自転車で滑り降りる感覚に近い。
﹁近道するぞ!﹂
﹁崖︱︱!﹂
あ、結局落ちるんですね。
激しく跳ねて空を飛んだそりにしみじみ頷いた私の涙が、きらり
と宙に散った。
1081
83.神様、少し考えました
叫び疲れて、最後のほうはただの呻き悲鳴になっていたそりの旅
がようやく終わりを告げた頃には、私は生まれたてのカズキになっ
ていた。足はがくがくで、何度も弾んで打ち付けて、転んでもない
のにお尻が痛い。
ナクタは、まだ結構な急斜面の途中でそりを止めた。まだ滑って
いけそうだなぁと思ったけど、それは素人考えだった。
先端に繋いでいた縄をぐるぐる丸めて握り、ナクタはそりを引き
始める。
﹁こっから雪が薄いんだよ。このまま滑ったらそりが壊れちまうか
らな﹂
﹁成程﹂
﹁それに、もうそんな遠くないぜ。ほら、あそこ見えるか? あれ
がおれらの拠点だぜ﹂
指さされた先には、先を尖らせた丸太の筏を立たせたような柵で、
ぐるりと囲まれた村があった。転々と動いているのは中で暮らす人
達だろう。
結構大きいんだなぁと呑気に眺めていたら、視界の端をぞろぞろ
と移動する人の群れが見えて瞬きする。拠点から離れて結構な数の
人が移動していた。
﹁あれ? 出陣早まったのか?﹂
﹁出陣?﹂
﹁ああ、近くにガリザザの小隊が荷を持って隠れてやがるって、密
偵が教えてきたから、そいつらと戦う景気づけに火草取りに行って
たんだよ。なのに、何でもう出てんだろう﹂
﹁何事かあった?﹂
1082
﹁かもな。急ぐぞ、どんくさ!﹂
﹁カズキと申すよ!﹂
荷物を持ってない私より、そりを背負って走り出したナクタのほ
うが断然早い現実に打ちのめされ、はしないけど、筋トレの決意を
促すには充分だった。
ナクタの案内で、ぞろぞろと人が移動していく一段上の道に出た。
それについていくのに必死だった私は、集団の中にちらりと見えた
後ろ姿に思わず立ち止まった。だけど、止まらない人の流れにその
頭はあっという間に見えなくなる。
﹁とりあえず拠点戻って話聞こうぜ﹂
促されているのに、足が動かない。どっどっと断続的に鳴る心臓
を押さえて、もう見えないと分かっているのにまだ姿を探す。
﹁ナ、クタ﹂
﹁なんだよ﹂
﹁この、出陣内容、聞いても宜しいか?﹂
首を傾げたナクタは足で雪を払った地面にすとんっと胡坐をかい
た。そして、あんま詳しく言えねぇけどと前置いて、棒で地面に何
かを書き始める。
﹁崖に挟まれた細い道の先が、行き止まりだけどちょっと開けてん
だよ。小隊はそこに隠れてやがって、そいつらが持ってる荷がちょ
っと重要で、奪い取るんだ﹂
﹁細き道は、危険では?﹂
﹁上も囲めるから、火矢で炙り出してから本隊で叩くんだよ﹂
ない頭で必死に質問を絞る。
﹁き、危険な兵器を、ガリザザが所持していると、聞きかじったこ
とがあるよ﹂
﹁なんだ、知ってんのかよ。バクダン、おれも見たことある。でも
あれさ、硬いから、飛ばすか上から落とすかして衝撃与えないと駄
1083
目なんだって、密偵のやつが言ってたよ。おれらが上を取るし、あ
んな狭い場所で飛ばしてきても壁が盾になるから平気だって﹂
細い道がグネグネ続いて、その先にぽっかり開いた場所があって、
小隊はそこに隠れている。そこを、上から遠距離で襲って、逃げだ
してきた者から本隊が叩く。上は押さえるっていうけど、全然心臓
が鳴りやまないのは、あの赤い頭を見たからだろうか。それとも、
私にだって分かる明らかな嘘が、そこにあるからか。
﹁密偵とは、赤髪の、青年?﹂
﹁⋮⋮お前、知ってんのか?﹂
﹁名は!?﹂
一瞬で警戒を浮かばせたナクタの肩を掴んで詰め寄る。偽名だっ
たら聞いても意味がないけど、あれが見間違いではないのだとした
ら、大変なことになるかもしれない。
私の勢いに飲まれたのか、ナクタはぽろりとその名を口にした。
﹁ゼ、ゼフェカ﹂
当たってほしくないことほど当たってしまう。神様は意地悪だ。
当たるなら宝くじがいいのに、どうしてこんなことばかり当たって
しまうんだろう。
﹁停止させて!﹂
﹁お、おい、なんだよ!﹂
﹁ゼフェカは、完全なる味方とは成り得ぬ可能性が高いよ!﹂
ツバキはいろんなところに潜り込んでは、ガリザザと戦わせたり
裏切ったりしていると聞いた。ここもそうだとしたら。ガリザザと
戦わせて倒してもらおうとしているのなら、まだいい。でも、つい
こないだまでルーヴァルに捕えられていたはずのツバキがここにい
るということは、抜け出したからだろう。ルーヴァルではガリザザ
を倒せないと見限ったからでなければ、ディナストの命令で来てい
る可能性が高いはずだ。
確証はない。自分の頭に自信なんてない。
でも。
1084
﹁なんだよ、お前、いてぇよ!﹂
﹁停止させて、ナクタ! バクダンは、地中に埋めても使用可能な
兵器よ! 火さえ使用可能ならば、一つでも弾けさせられるのなら、
連鎖で全て弾けるよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
﹁地面ごと、弾けることとなるよ!﹂
上じゃない。下だ。上から降らせるんじゃなくて、下を吹き飛ば
すのなら小さな火一つで事足りる。導火線さえ引けるなら、下から
上に火が駆け上がることだって出来るから、上を取られても吹き飛
ばしてしまえる。
そして、導火線は油を浸した細い縄でも十分なのだ。
ざっと青褪めたナクタの肩を掴んだ間、私も狼狽えて視線を彷徨
わせる。
﹁ル、ルーナ。皆、いつ頃、到着する!?﹂
﹁おじじの、そり、は、大きい、から。ゆっくり降りてくる、から﹂
視線の先を見て、ぎょっとする。見覚えのある断崖絶壁が掌サイ
ズに見えた。あんな遠くから来たのか。そりで凄いスピードだった
からこんなに遠かっただなんて気づかなかった。
立ち上がった私の手首を掴んだ手が震えている。さっきまで元気
いっぱいだったナクタが立てなくなっていた。
ルーナ、どうしよう。ルーナ。
﹁ま、まだ、私の意見が正解かは分からぬよ。でも、話を、伝達し
ないとならぬよ! 拠点へ帰還すると、このまま列に伝達すると、
どちらが早い!?﹂
﹁れ、列に伝えたほうが、早い、けど、でも﹂
私がいきなり飛び込んでいっても、終わってから話を聞くから閉
じ込めておけみたいな流れになると今までの経験で知っている。
申し訳ないけどナクタに頑張ってもらおうとその肩に手を置いて、
1085
ぎょっとなった。厚くてもこもこした服だったから分からなかった
けれど、その肩は酷く薄い。
﹁ナ、ナクタ。年齢は幾つ?﹂
﹁な、なんだよ、急に。十三だよ﹂
﹁ナクタ、私十九よ﹂
﹁馬鹿なのに!?﹂
﹁年齢と馬鹿に如何ほどの関係が!?﹂
﹁頭領が、おれは馬鹿だから、おれより馬鹿なのは年下くらいだっ
て!﹂
﹁年上であっても馬鹿の見本は今ここに!﹂
驚きすぎたのか、ナクタが立った! ナクタが立ったよ! アル
プスの草原を駆け回りたい気分だ。
私はナクタの手を握って、列の先頭目指して走り出す。靴を貸し
てもらえてよかった。ここでも転びまくっていたら間に合わない。
﹁ナクタは闘病さん? に、伝達して!﹂
﹁頭領だよ! 病気にすんな、馬鹿!﹂
﹁とうりょーさんに宜しく伝言お願いします!﹂
この列に混ざって頭領さんまで伝えてもらう方法も考えたけど、
それはナクタが無理だときっぱり言った。自分はまだ子どもだから
追い返されるのがおちだ、自分が来ていた事だけ後で伝えられて終
わるだろうと。
関係者のナクタでさえそうなら、私なんてもっと駄目だろう。牢
屋一直線だ。
やっぱり、直接伝えるしかない。それでも信じてもらえるかは分
からないけれど、バクダンの事だけでも聞いてもらえれば、判断の
材料にしてもらえるはずだ。
もしも聞いてもらえなくても、ツバキさえ止められれば、なんと
かなるはずだ。
﹁お、お前は、どうするんだよ!﹂
﹁ツバキに伝言すべきことがあるよ! それを伝言した上で、停止
1086
すべきか否かは、ツバキが知っているはずよ!﹂
待って、お願いだから待ってツバキ。私の考えたことが全部間違
っていたらいいけど、もしも合ってしまっているのなら、お願いだ
から待って。エマさんがくるまで、お願いだから。
これ以上、爆弾をこの世界で使わないで。エマさんの目の前で、
イツキさんの知識を使って、人を殺さないで。
﹁ツバキって誰だよ!﹂
﹁ゼフェカの偽物よ!﹂
﹁偽物!? 本物はどこだよ!﹂
﹁偽物の名前よ!﹂
﹁最初から偽名って言えよ!﹂
﹁ぎめぇ!﹂
﹁気持ち悪いヤギみたいな鳴き声すんな!﹂
ぎめぇ∼。
列と並行してばたばたと走っている私達の姿は下からも見える。
ざわざわとナクタの名前が広がっていく。
﹁ナクタ! お前ついてくんなって頭領に言われてんだろ!﹂
﹁ナクタ! お前またか!﹂
﹁ナクタ! 便所掃除させるぞ、馬鹿!﹂
普段のナクタの行動が大体読めてきた。
﹁それどころじゃねぇよ! ゼフェカが裏切ったぞ!﹂
走りながら怒鳴り返したナクタに、どっと笑い声が上がる。嫌味
な笑い方じゃない。でも、まるで信じていない遊戯の一環のような
笑い声だ。
﹁お前、新しいのが来るたびそんなこと言ってるだろ﹂
﹁今度はほんとなんだってば!﹂
﹁お前が戦士として戦いたいのは分かるけど、大人しくしとけって
!﹂
1087
﹁ほんとだって言ってるだろ! バクダンの情報が嘘だったんだっ
てば!﹂
﹁何度も実験しただろ﹂
﹁その実験用のやつだって、あいつが持ってきたやつじゃん!﹂
顔を真っ赤にして怒鳴るナクタの足が止まってしまって、慌てて
手を引く。嘘をついてきたわけじゃないけど、狼少年みたいな状況
になっているときは何を言っても駄目だ。
しかし、ナクタの隣にいる私を見て、皆の視線が訝しげなものへ
と変わる。
﹁おい、ナクタ。そいつ誰だ﹂
﹁お前、山に行ってたんじゃなかったのか? 火草取りさぼりやが
ったな?﹂
﹁ジジリはどうしたんだ?﹂
たくさんの視線を受けて、あ、と、気づく。
使えるかもしれないものが、一つ残っていた。でも、いいのだろ
うか。私だけじゃなくて、エマさんの迷惑にもならないだろうか。
どうしよう。この名前は大抵恐ろしい物を連れてきたけれど、何よ
りの身分証明という皮肉なものだ。
﹁人喰い森から熊と一緒に降ってきたから、オジジが連れて帰るっ
て! こいつが、バクダンのこと嘘だって!﹂
あれ、でも待って。その前に。
﹁ナクタ。黒曜ってご存知?﹂
﹁バクダン作ったやつと同郷の女だろ? 本とか出てるやつ﹂
ご存知でした。喜ぶべきか、言い訳に使えなくなってがっかりす
べきかは分からないけど、シャルンさん。国の政策ちゃんとうまく
いってますよ! こっちでまで周知されてますよ!
それにしても、どうしよう。独り歩きしているとはいえ、自分の
1088
通称を口にしていいのかどうかの判断すらできない。
逡巡して口籠った私を、不安そうなナクタが見ている。視線を彷
徨わせてツバキがいるであろう列の先を見ると、周りを岩肌に囲ま
れた地形があった。あそこがナクタの言っていた場所だとしたら、
迷っている時間はない。
信じる信じないは彼らの自由だ。だけど、考える余地があると少
しでも思ってもらえたなら、列の進行を遅れさせることができるな
ら。それで、いい。
﹁私は、カズキ・スヤマです﹂
エマさんは、ディナストを討つと決めた。その手から爆弾を捥ぎ
取ると約束してくれた。
じゃあ、私の覚悟はなんだろう。
この世界にいることは私が選んだことじゃない。でも、ここにい
るのは、こうしているのは、自分で決めたことだとルーナにも伝え
た。
﹁貴方々が、黒曜と呼ぶ、カズキです﹂
ここにいると決めた以上、この名前を避けては通れないのだ。
﹁バクダンは、衝撃であれ、火であれ、弾けます! 地中へ埋め込
むば、地面ごと弾ける兵器です! だから、お願い、進軍を、停止
してくださいっ!﹂
爆弾と一緒に挙げられる名前が通称である私が、爆弾で人が殺さ
れるかもしれない事態を見過ごすことは、許されない。
1089
﹁頭領!﹂
足並みが乱れて進みが遅くなった列をどんどん追い越し、後方の
確認に足を止めていた頭領さんを見つけ、ナクタが道から滑り降り
て駆け寄る。
﹁ナクタ! ついてくるなと言っただろう!﹂
﹁おやじ! ゼフェカはどこだ!?﹂
﹁この馬鹿娘が! 遊びに行くんじゃないんだぞ!﹂
え? いまなんと仰いました?
自分の耳を疑って、ナクタをまじまじと見つめる。もこもこした
服で体型が分からない。おれって言っているからてっきり男の子か
と思いきや、女の子だったとは思いもよらなかった。先入観で判断
して申し訳ありませんでした。
﹁バクダンは、地面に埋めたって使えるって! 衝撃がなくても、
火さえつけば、一個弾ければその衝撃で全部弾けるから、地面に埋
まっていたらこっちが壊滅するって!﹂
﹁なに?﹂
意気込んで叫んでいた内はこっちにも会話が聞こえていたけれど、
一呼吸おいて至近距離で話し始めた内容は届かなくなった。けれど、
頭領さんが聞く耳を持ってくれたみたいでほっとする。ナクタが私
を指さして何かを言っていて、きっと私が黒曜だとかそういうこと
を伝えているのだと思う。だって、頭領さんが私を二度見した。二
度見の黒曜は健在です。あれ? 違う、三度見⋮⋮四度、五度! そんなに意外ですか。新記録どうでもありがとうございます!
でも、頭領さん達の傍を何度見しても、目立つ赤髪を見つけられ
ないのが不安を煽る。
私とナクタが走ってきた道の先はどんどん上がっていって、これ
が壁を作っていくのだろう。下の道はもう大分細くなっていて、既
にこの辺りに仕掛けられていてもおかしくないと気づいてぞっとす
る。
1090
﹁ツバキ!﹂
そんなに遠くには行っていないはずだ。そう信じて声を張り上げ
る。
﹁ツバキ! どちら!? ツバキ! ツバキ!﹂
走りながら叫んだ視界の先で、目立つ色がちらりと雪景色の中に
見えた。
﹁ツバキ!﹂
少しだけ道をずれ、森の中に入りこむ。けれど、さっきまで走っ
ていた道沿いに走っていく。ちらちらと木の隙間に見える背中に確
信する。振り向かなくたって分かった。嬉しくはないけど、この世
界で意外と付き合いが多いほうだった。
﹁お、おい。どうしたんだ、ゼフェカ?﹂
木々の合間にぽつぽつと男の人がいて、走り抜けるツバキにぎょ
っとした顔をする。たぶん、彼らが﹁上を取るから大丈夫﹂の人達
なんだろう。
その誰にも返事をせず、ツバキは止まらない。
﹁ツバキを、停止させてください! ツバキ、停止して、ツバキ!﹂
﹁お前誰だ!?﹂
カズキです、馬鹿です、黒曜です!
そのどれでもいいけど、そのどれでも彼らにとっては知らない人
間だ。一応今まで仲間として潜り込んでいたツバキよりも、私を優
先してくれるはずがない。説明している間に逃げられる。そう焦っ
た私の前で男の人が目を見開いた。そして、信じられないと後ろを
振り向きながら頽れる。その首に刺さった細い針のようなものを受
けた他の人も、膝をついていく。
﹁う⋮⋮﹂
苦しそうな呻き声にほっとしてしまう。よかった、生きてる。
ツバキは逃げているのだろうか。それとも、仕掛けを作動させに
いっているのだとしたら、どうしよう。
ただでさえ走って乱れた息が冷たい空気を吸い込んで肺を焼く。
1091
走りながらだと喋れない。一瞬だけ躊躇ったけれど、結局足を止め
る。荒くなった息で膨らみきれない肺を精一杯膨らませて息を吸う。
﹁ツバキ! 皆、生存してる! だから、ツバキ、話をっ﹂
そこまで言った瞬間、顔の横に何かが突き刺さった。ぴりっと痛
みが走る。皮くらいは切れたかもしれない。
でも、構わない。ツバキが足を止めた。
仮令、私にナイフを投げつける為だとしても。
1092
84.神様、泣くのは小さい子だけじゃありません
目の前まで戻ってきたその姿は、もう間違えようがない。後ろ姿
でも確信があったけれど、向かい合えば違えようもなく、彼はツバ
キだった。
だけど、こんな顔、見たことがない。ツバキだけじゃなくて、他
の誰でも見たことがない。
ツバキは、ナイフが刺さっていない側の頬のすぐ傍に拳を叩きつ
けた。
﹁⋮⋮どうして、あんたが、生きてるんだ﹂
声が絞り出され、閉ざされた唇の奥からぎりりと歯が擦れ合う音
がする。瞳はぎらぎらと怒りと憎しみに似た何かを漏れ出させてい
るのに、どうしてだろう。泣きだす寸前の子どものように見えた。
﹁巡礼の滝から落ちたんだろ! なのになんで、なんで生きてるん
だよ! ルーナも⋮⋮どうしてあんただけが何も失わない! 命も、
恋人も、仲間も、なんでっ!﹂
逃げ出そうとしたわけじゃないのに、肩を掴まれて木に叩きつけ
られる。
﹁死ねよ! 死んでくれよ! せめてそれくらいは哀れであってく
れよ!﹂
痛みと衝撃で息が詰まったけれど、私よりよっぽど苦しそうなの
はツバキだった。
﹁ツバ、キ、話を﹂
﹁どうして﹂
﹁ツバキ﹂
1093
﹁あんたの周りの連中だけが、あんたを失わないんだ﹂
﹁話を﹂
さっきまでの激情を忘れたかのように、どうしてと、虚ろな声が
落ちる。小さな雫の音がして、本当に言葉が零れ落ちたのかと思っ
た。けれど、違う。一筋の雫は、ツバキの瞳から零れ落ちた。
どうして。
白い息と共に世界に散る言葉が、小さな雫と落ちていく。
﹁イツキ様だけが、救われないんだ﹂
哀哭とはきっとこういうことをいうのだと思った瞬間、両手が動
いていた。咄嗟にツバキの頭を抱え込む。どうしよう、泣かせてし
まった。相手が誰であれ、泣く人を見ると酷く動揺してしまう癖が
治らない。幼いリリィを前に狼狽えた時から対処法が変わらない私
は、全く成長できていない。それにしても、狼狽えるのは癖という
のだろうか。反射? 違う? 分からない。今はどうでもいい。
とにかく、泣き顔を見られたくないだろうと咄嗟に動いてしまっ
たけれど、先に伝えるべきだった。腕を振り払われたら止める術が
ないから、急がないと駄目だ。端的に、ツバキが耳を閉ざす前に分
かりやすく必要事項から!
﹁エマさん!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮エマ様を、馴れ馴れしく呼ぶな﹂
端的過ぎて伝わらなかった。さん付けなのは、本人がエマでいい
と言ったところをさん付けで勘弁してもらった経緯があるので、再
度の問答は勘弁してほしい。
﹁ツバキ﹂
返事はないけれど、構わず続ける。
﹁生存しているは、エマさんもよ﹂
1094
抱えていた身体が突然がくりと頽れた。引きずられて尻もちをつ
く。
身じろいで腕から逃れたツバキの顔は、きょとんとしていた。力
の抜けた自分の足と、震える手を不思議そうに見下ろして、また私
を見る。
﹁なに?﹂
幼子のような舌っ足らずな言葉に、呂律も回らなくなっていると
分かった。たった一言で、本人でさえ気づかないほど激しく動揺し
ているのは、それだけ張りつめていたツバキの心が見えてしまった
気がして、苦しい。
それほどまでに、彼にとって根本となる部分にエマさんがいるの
だ。私の言葉が嘘であると思いもしないのか。それは信じたいから
だろうか。エマさんの生存は勿論だろう。でも、それだけだろうか。
人を、世界を、昔見た幸せを信じたいから、あれほど虚ろだった瞳
から、こんなにも静かな涙が零れ落ちるんじゃないのだろうか。
﹁エマさんは、ルーナのようなお喋りの仕方が、かっこよいよ。と
ても、かっこよい。ルーナの解薬、調合してくれさっているよ。ツ
バキが、一等、お手伝い励んでくれたと申していたよ。お安く取得
できる材料で作成する為に、努力致したと﹂
﹁⋮⋮頑張れば、エマ様も、イツキ様も、喜んでくれんたんだ﹂
﹁あ、だが、エマさん、ぬいぐるみ製法は少々独特で、恐怖なぬい
ぐるみを作成致していたよ﹂
﹁俺にも、作ってくださったけど、怖かった﹂
﹁イツキさん、風呂場で登場したと聞いたじょ。私なるも、風呂で
あったが故に、何事か関係が存在しているかもしれぬと思考致すの
だれけども﹂
﹁あの石は、流水の中で反応するから、水場が共通なのはそれだと、
思う﹂
信じてもらおうと必死にエマさんを伝えていると、ツバキの額が
1095
肩にごつりと乗せられた。骨が当たって地味に痛い上に、結構重い。
ずしりと乗ってきた重さに、ルーナは今まで随分加減して体重を乗
せてくれていたんだなと分かった。
﹁エマ様⋮⋮?﹂
でも、文句を口に出すことはできない。私に伸し掛かる身体は酷
く震えていた。がちがちと鳴り響く歯の音と嗚咽が聞こえてきて、
どうすればいいのか分からない。
子どもに泣かれても盛大に狼狽えるけど、大の男に泣かれると更
に狼狽える。慰めるべきだろうか。いや、でも、慰め方が分からな
いし、何を以って慰めとするのか、何が慰めとなるのかすら分から
ない。私はルーナに抱きしめられると落ち着くし、人の体温は涙へ
の特効薬だと思うけど、このもこもこの服で体温は届くのか。悩ん
でいる内に、地面についたお尻から私の体温が奪われていく。
おろおろと彷徨わせた両手を、とりあえずツバキの背中と頭に当
てて、視線を彷徨わせる。誰かいないかと探す私の背後から多数の
足音が聞こえてきた。助かった。けれどこれは、ツバキが捕まるフ
ラグではないだろうか。殺されたりは、しないと、信じたいけど。
どうしよう、分からない。
緩慢な動作で顔を上げたツバキの顔が迷子の子どもみたいで、慌
てて裾でその頬を拭う。泣き顔なんて見られたくないだろうし、そ
の相手は少ない方がいいと思ったからだけど、この服吸水性が悪い。
服には染み込まず、広がっただけだった。なんかすみませんでした。
裾と顔を交互に見て狼狽えていると、目の前からツバキが消えて、
重さもなくなる。
ツバキの襟元を掴み上げて後ろに投げ飛ばしたのはルーナだった。
ルーナは肩で息をしながら私を見下ろして、急速に目つきを悪くす
る。手袋越しの指が私の頬を撫でて、そういえば切れていたと思い
だした。傷が残ってお嫁にいけなくならなくてもお嫁にもらって頂
1096
けると嬉しいです。
ルーナは、背中を木に叩きつけられて咽こんだツバキの胸倉を掴
み上げ、その顔面に思いっきり拳を叩きこんだ。殴られたのは私じ
ゃないのに、咄嗟に出てきた悲鳴を両手で口元を覆って隠す。人が
本気で怒ると、親しい人でも、それがルーナでも、本当に怖い。
唾と血を一緒に吐き捨てて口元を拭ったツバキは、口角を吊り上
げる。
﹁⋮⋮なんだよ、一発でいいのかよ?﹂
﹁カズキの前だからな。顔の原型を無くすのは後だ﹂
﹁ああ、怖い怖い。カズキ、俺から目を逸らさないでくれよ﹂
さっきまでの迷子はどこに行ったのだろう。憎たらしい笑顔を浮
かべてひらひらと手を振ってルーナを挑発している。でも、そのツ
バキの顔が強張った。強張った? 凍りついた? 違う。なんと表
現すればいいのか分からない。その顔は、歓喜に見えた。驚愕に見
えた。哀傷に見えた。その顔は、絶望にすら見えた。
﹁ツバキ﹂
ナクタや頭領さん、沢山の人がいるのに、誰もいないかのように
エマさんはまっすぐ歩いてくる。その様があまりに堂々としている
から、他の人が思わず道を開けてしまう。
﹁久しいな﹂
からりと笑うエマさんを呆然と見上げていたツバキは、はっと体
勢を整えて膝をついた。頭を垂れないのは、その視線がエマさんに
釘付けになっているからだ。エマさんはそんなツバキの前に片膝を
ついて目線を合わせ、無造作にその頭に手を置いて掻き回す。
1097
﹁でかくなったな。驚いたぞ﹂
ぐしゃぐしゃと髪を乱していたエマさんは、何の反応もないツバ
キに苦笑した。
﹁どうした? 遅くなったから怒っているのか? 遅刻にも程があ
るよなぁ﹂
﹁エマ、様﹂
﹁イツキも怒っているかな? 怒らせると怖いんだよなぁ、あいつ。
怖いから、一緒に怒られに行ってくれないか? な、頼むよ、ツバ
キ﹂
﹁俺、は﹂
悪戯っ子みたいに笑うエマさんを前に、ツバキの顔がぐしゃりと
歪み、額を地面に擦りつけた。エマさんの顔を見られないというよ
り、姿を見せたくないみたいに小さく縮こまる。
﹁俺、はっ⋮⋮!﹂
戦慄く唇から絞り出された声に、エマさんは縮こまった背に覆い
かぶさり抱きしめた。
﹁私が至らず、お前に苦境を強いた。お前が犯したものを罪と呼ぶ
のなら、それは私が負うべきものだ。⋮⋮すまなかった、ツバキ。
待たせて、本当にすまない。よく、務めてくれた。イツキを守って
くれてありがとう、ツバキ⋮⋮⋮⋮いい子だ。お前は本当にいい子
だよ﹂
ツバキが小さな子どもに見える。地面に額をつけ、小さく縮こま
る様は脅えきった子どもだ。
ただ喜ぶには時が経ち過ぎていて、ただ嬉しいと叫ぶにはツバキ
の手は血に汚れ過ぎている。だけど、ただ嫌わないでと叫ぶには、
幸福過ぎたのだろう。地面に擦りつけたまま漏れる嗚咽は、悲しみ
も歓喜も入交り、七年間の感情全てが漏れ出していく。
どうして私だけが失わない。どうして私だけが何も失くさないで
いられるのだと、ツバキは私を責めた。エマさんは、彼らが失くし
た、失くしたくなかった存在そのものだ。
1098
堪えて堪えて漏れ出した嗚咽だけが響く。けれど、途切れ途切れ
の嗚咽は、泣き叫ぶ彼の声だった。
しばらくして、ツバキはようやく顔を上げた。背を擦り続けたエ
マさんの手を両手で握り、ぎゅっと唇を噛み締める。
﹁エマ様、ガリザザはもう、立ち行かなくなっています﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮違う。あいつは、ディナストは、始めから立ち行かせる気な
どなかったんだ。お願いします、エマ様。どうかお戻りください。
あいつはイツキ様を手放さない。イツキ様を奪ったまま、世界を巻
き添えにして、消えるつもりです。⋮⋮⋮⋮お願いします、助けて、
ください。俺にはもう、どうしたらいいか分からないんですっ⋮⋮
お願いします、エマ様、お願い、です﹂
イツキ様を、助けて。
縋りつくツバキを抱きとめたまま、呆然と言葉を反芻したエマさ
んは、すぐにそれを振り払った。
﹁ああ、一緒に、帰ろう。⋮⋮あの日々はもう戻らないかもしれな
い。だが、それでも、帰ろうツバキ。一緒に、イツキを迎えに行こ
う。一緒に、イツキの所に帰ろう﹂
この世界で、きっと誰より近しい人の歴史が目の前の二人だった。
この世界で、私とイツキさんはたった二人の異界人だ。同じ歴史を
持つ、同じ国で育ったイツキさん。この世界では、誰より血が近い
だろう人。
だけど、彼の歴史を私は知らない。目の前の二人が、彼がこの世
界で築いた歴史で、絆だ。誰より近しい人を、誰より知っている人
達。もしかしたら、私が彼らと知り合っていたのかもしれない。そ
1099
う考えるときがある。
ルーナが私を見たから、なんとなく隣を見たら誰もいない。ナク
タを見たら逸らされた。困って彷徨わせた視線は、立ち尽くす集団
の中で一人だけ頬を掻いていた人に止まる。
﹁⋮⋮で、だ。俺はとりあえず、あんたらを牢に入れるくらいは許
されてもいいよな?﹂
ゼフェカに壊滅させられそうになった頭領さんは、引き攣る頬で
そう言った。
私とルーナは無言で頷く。かなりの温情だと思います。
かつ丼食べたい。
ばぁんと掌で机を叩いた頭領さんと向かい合った私は、無性に食
べたくなったどんぶり飯を思い浮かべていた。でも親子丼も捨てが
たい。いやいや待て、他人丼もいいな。趣向を変えて麺類なんてど
うだろう。ああ、愛しのラーメン。寒い時に食べるとまた格別で。
おうどんも素敵だな。お蕎麦も⋮⋮年越し蕎麦、こっちじゃ食べら
れないなぁ。
﹁お、潰れた。悪いな、小娘。一人ずつ話聞いてたら遅くなっちま
った﹂
外が寒いから、暖を求めて入ってくる虫を潰した頭領さんは、そ
の手を自分の服でごしごしこすった。洗濯する人が怒るに、ジジリ
さん達が取ってきた火草一枚。木屑塗れで洗うのが面倒な分を頂い
たのだ。賭けられるものを他に持ってない。なんなら火草二枚で。
﹁私が最後尾ですか?﹂
﹁おう。あんたが一番馬鹿そうだったからな!﹂
なんという慧眼。この人は人を見る目がある。天才じゃなかろう
1100
か。
一人ずつ分けられた部屋で待機している間に、皆の取り調べは終
わっていたらしい。他の人から入手する情報量を考えると、何時間
も一人待機になったのは仕方がないことだ。八割がた居眠りしてい
たので、別に全然退屈しなかったんだからね!
ちょっと、寂しかっただけである。
私に聞かれたことは、皆との関係とか、今まであった大まかな流
れとかその程度だった。他の人の話の裏付けというか、相違がない
かだけ調べられて終わったのは、真偽のほどは先の面子で散々確か
められているのだろう。
一応、大まかにこの場所の説明をしてくれた。ここはガリザザに
追い立てられた部族が集まる拠点の一つで、あちこちにあるらしい。
それで、ちょこまかとガリザザ軍の拠点を襲撃したり、嫌がらせし
ているのだそうだ。たぶん柔らかく言ってくれたんだろうなと思っ
ていたら、その内容が腐った卵投げつけたり、通る道を水で濡らし
て泥道にしたりとかだったから、本当に嫌がらせだった。
まあ、深くは聞くまいと質問を考える。他の人にも説明している
だろうことを重ねて聞くのは申し訳ないのだけど、一番不思議だっ
たことだけ聞いておこう。質問はないかと聞かれて、ありませんと
答えたら駄目なのだ。一つは質問を用意しておけと先生が言ってい
た。
﹁あの、何故にして私達を信ずるてくださった?﹂
﹁似顔絵があったからな﹂
あっさり答えた頭領さんが片手を上げたら、後ろにいた人が箱か
ら二枚の紙を出してきた。
﹁いま、周辺国で手を組んでガリザザ包囲網を張ってる。ルーヴァ
ルとも繋がってる訳だが、ルーヴァルがそれぞれの頭に向けて、こ
いつらを見つけたら保護してほしいと要望だしてきてな。これは美
化しすぎだろうと思ったら、ほんとだったときて驚いたぜ﹂
1101
差し出された紙には、リアルなルーナが描かれていた。凄い、そ
っくりだ。でも、実際のルーナはもっともっとかっこいいと思いま
すよ! リアルーナにはしゃいでいる私の横で、まじまじともう一
枚の紙を見つめた頭領さんは、憐れむような顔で私を見る。
﹁こっちはもっと美化してやれよと思ったら、美化してたんだなぁ﹂
描いてくれた人も、頭領さんも、なんかすみません。絵の中の二
割増しになった私を見て、なんだか申し訳なくなった。リアルーナ
はこんなに絵になるのに、なんかほんとすみませんでした!
簡単な取り調べが終わった頃、ノックがして男の人が入ってくる。
軽く頭を下げて挨拶したら会釈してくれた。
﹁頭領﹂
﹁おう﹂
﹁頭領が許可だしたあの二人、収拾つかないんすけど﹂
﹁あちゃー﹂
頭領さんは、額をべちりと叩いて呻く。首を傾げて続きを待って
いた私に告げられた言葉に、椅子を蹴倒して立ち上がる。膝打った。
痛かった。
1102
85.神様、小さな奇跡でよかったんです
野次なのか歓声なのか分からない怒声がわあわあと飛び交う中を、
すみません、ちょっと通ります、ほんとすみませんと、チョップの
手を前に前に差し出して人ごみを縫う。
ようやく最前列に辿りついて、がこりと顎が外れる。
﹁何事︱︱!?﹂
ルーナとツバキが殴り合っていた。武器は持ってないようだけど、
じゃれ合いとか鍛錬の度合いを超えている。
﹁来たか、カズキ!﹂
﹁エマさん! 何事!? ルーナとツバキ、何事!? て、停止さ
せねば!?﹂
﹁殴り合いで済むならそれでいい!﹂
腕を組んで豪快に笑ったエマさんは、止めるつもりはないらしい。
全然それでいいような形相じゃない気がします。
顔をぶん殴られたルーナは、口の中のものを吐き出して思いっき
り殴り返す。その上蹴るわ投げ飛ばすわの応酬で、口を挟む隙がな
い。殴った瞬間、殴られた瞬間、蹴った瞬間、蹴られた瞬間、ちょ
こちょこ出るだけである。
﹁う、あ、え、な、ちょ、た、ま、る、べ、ぽ、つ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あんた何言いたいの?﹂
﹁シャルンさぁん!﹂
何かは言いたいんです! 言うタイミングも言う言葉も見つから
1103
ないけど、何かは言いたいんです、何かは!
﹁何事でこのような事態に︱︱!﹂
﹁男は並んだ牢屋に入れられてたのよ! そしたら、ツバキがルー
ナを煽るわ、ルーナも真っ向から受けて立つわ!﹂
私や隣に入っていったエマさんは部屋だったけれど、どうやら男
性陣は牢屋一直線だったらしい。腕が立つからだろうけど、シャル
ンさんは完全なるとばっちりである。
﹁困った門番が制止を求めてあの頭領の親父呼んできたら、私闘準
備整えやがったのよ、あの親父︱︱!﹂
わあっと泣きだしたシャルンさんの背中を、うきうきした顔のナ
クタがぱぁんと叩く。
﹁すっげぇ燃えるじゃん! おれもやりたい!﹂
﹁あんたが女の子だったのも衝撃なのよ! 女の子が子分にしてや
るとかどこで覚えたのよ!﹂
﹁よう、馬鹿娘が世話になったな! しっかし、お前ひょろいなぁ
! 俺の子分になりたきゃもうちっと鍛えろよ!﹂
﹁こいつよ! この馬鹿親父だわ!﹂
一緒に部屋を出たはずなのに、いつの間にか案内してくれた男の
人だけになっていた理由が分かった。頭領さんは、大きなジョッキ
にたっぷりと麦酒を入れて飲み干している。飲み物持参で見学する
気満々だ。飲み干したそばからなみなみと注いでいる。腰を据えて
飲む気満々だ!
﹁なあ、先生よ。ここにいる間だけでいいからさ、馬鹿娘の相手し
てやってくれよ﹂
﹁なんであたしが!﹂
﹁俺らの拠点はさ、基本的にいつ皆殺しに合ってもいいように、女
子供は地方に散らしてるんだけどよ。ナクタは預ける機会を逸した
ままここでずるずる育ってきちまって、こんなになっちまったんだ
1104
よ。ちょっくら女らしさでも教えてやってくれよ﹂
﹁だから、なんであたしが!﹂
きぃっと怒ったシャルンさんは、頭領さんが視線を向けた私達を
見てはっとなった。
﹁何だ?﹂
﹁何事よ?﹂
﹁あたししかいなかった︱︱!﹂
両手で顔を覆って大いに嘆くシャルンさんに、エマさんと顔を見
合わせ首を傾げる。
でも、一際大きな音がして慌てて視線を戻す。クロスカウンター
が決まっていた。そこでどちらか、もしくは両方が倒れていたらお
開きになっていたのに、あいにくどちらも頑丈だ。殴り合い続行!
﹁大体、お前ずっと気にくわなかったんだよ!﹂
﹁その点だけは同感だ!﹂
﹁会えないくらい、なんだよ! 壊れていく様、傍で見せつけられ
るよりましだろ!﹂
﹁比べるものでもないだろうが! それ、より! よくも散々怪我
させてくれたな!﹂
﹁お前がちゃんと守らないからだろ、ばぁか!﹂
﹁カズキに八つ当たりしてるようなガキに言われたくはない!﹂
肉が殴りつけられる鈍い音の応酬と共に、口でも喧嘩している。
器用だ。凄いけど、全然嬉しくも感動もしない。
﹁感謝する﹂
感動はしないけど感謝はされた。何故。
飲み会のいい見世物になっている二人の殴り合いを見つめながら、
エマさんが言った。
﹁目に見える派手な騒動で、この地でのツバキへの憎悪が散った。
ありがとうとルーナに伝えてくれ﹂
1105
そう言われて初めて、二人に野次を飛ばす人達の眼が穏やかだと
気づく。ここの人達とどういう関係を築いていたかは知らないけれ
ど、ツバキは彼らを騙し、裏切り、殺そうとしていた。いや、して
いたどころか実行した。成功しなかっただけで、それは事実だ。事
情はどうあれ、事実なのだ。この後も、私やルーナは部屋に戻って
いいそうだけど、ツバキは牢に戻される。
それでも、いまこんな空気の中にツバキがいるのは信じられない
事なのだ。
﹁謝罪は、お前に送らせてくれ﹂
エマさんはまるで騎士みたいに膝をついて、私の手を取った。
﹁本当にすまなかった。⋮⋮私には、ツバキを許せと言う資格はな
い。だが、どうか、その怒りは私にくれないだろうか。殴ってもい
い、蹴ってもいい、命は⋮⋮出来ればもう十年ほど待ってほしいが、
エマ個人として出来ることは何でもする。だから、頼む。憎しみは、
あの子ではなく私に与えてはくれないか﹂
彼女の声は、喧噪の中でもよく通る。
誰にだって大事な人がいる。誰にだって大切なものがある。私に
とったら毒のような言葉ばかり吐いて、色々切り裂いてきたツバキ
にだって大事な人がいて、そのツバキを大事な人がいて。
触れ合った手の温度と一緒に、そんなことがじんわりと頭の中に
染み渡った。
化粧っ気もないのに、モデルも裸足で逃げだし猛ダッシュで戻っ
てきて友達になりそうなくらい綺麗な人が、私の手を握って膝をつ
いている。その背景でルーナとツバキが殴り合い。左側では大股開
いて坐っているナクタにシャルンさんが涙目でお説教、右では頭領
さんが麦酒髭をつけて大笑い。その周りでは、雪が降るのに酒に酔
って半裸になる人多数。皆さんこんばんは、今日初めてお会いした
カズキと申します。
人はこれをカオスと呼ぶ。
1106
ルーナの回し蹴りをもろに喰らったツバキが吹き飛び、観客の波
に弾き戻される。その勢いで飛び蹴り。ほあちゃあ。⋮⋮なんか、
もう、どうでもいい気がしてきた。
﹁寧ろ、謝罪はルーナへとお願い申し上げますよ﹂
元々ツバキに向かっていた感情は、怒りとは何か違った。ルーナ
や皆にした事は当然許されることではない。でも、彼に感じる感情
は、怒りでも、憎悪でもない。
遣る瀬無さだ。
許すことは許されないかもしれないけど、許さなくていいと言っ
てくれたのなら気が楽である。元来、怒り続ける集中力がない馬鹿
なのだ。許しはしないし、許されない。けれどそれは、憎み続ける
ことと同義ではない。彼に怒りを向ける人にやめてやってくれと情
状酌量を求めることはできない。でも、私にしたことは、もうしな
いでくださいで終わっては駄目だろうか。幸い、私には国同士のし
がらみとか役職関係の面倒とか、そういったもので絡まるものはな
い。ただただ私個人から、ツバキ個人への感情だけなのだ。この鳥
頭に、憎み続けろ、怒り続けろとは難題過ぎる。
それはエマさんへも同じだ。この鳥頭に、怨恨を移行してくださ
いといわれても、エラー連発するに決まっている。
﹁私、エマさんとは、憎しる関係性よりも、友達関係性のほうが、
好ましいと思われるのだけれども、如何であろうか! エマさん、
好きです、大好きです! 深く好きです! よって、お友達でお願
いします!﹂
王族であり年上であるエマさんに、公衆の面前で大胆な告白を繰
り出す。フラれたら、知り合いからお願いしますと再チャレンジす
る気満々である。
どきどきしながら握手を求めて片手を差し出していたら、身体が
浮いた。膝をついていたエマさんが私を抱え上げたのだ。その筋肉、
1107
私にも付け方教えてください!
エマさんはくるりと回って、殴り合う二人の前に飛び出した。
﹁お前達の決着がつかんから、商品は私が頂いた!﹂
歓声に負けない通る声で宣言すると同時に私を下ろし、顔をがっ
しりと固定する。そして、悪戯っ子みたいな顔をして、思いっきり
キスをされた。唇の端に。
酔っぱらった周囲は、よく分からないけど盛り上がっとけという
雰囲気でわぁっと盛り上がった。ナクタは真っ赤になった。頭領さ
んは寝ていた。
そして、お互いの胸倉を掴み合っていた二人は、糸が切れたかの
ように倒れ込んだ。
何故か勝者の座を掻っ攫ったエマさんは、拳を宙に掲げて周囲の
歓声を受けている。肩を抱かれて雰囲気に呑まれていた私は、はっ
とルーナに駆け寄った。未だ嘗てないほどぼろぼろだったけど、ど
うしてかっこいいんですか。鼻血出ようが頬が腫れようがかっこい
いとかどういうことだろう。ルーナはきっと、何時如何なるときで
もかっこいい姿以外は見せられない呪いがかけられている。
この呪い、解く方法を探すべきか否か。人はこれを惚れた欲目と
いうかもしれないけれど、ルーナにおいてはこれに当てはまらない
と思う。ちなみに、どんな時でも私を可愛いと言うルーナは完全に
当てはまる。後、眼科をお薦めします。
ちらほら雪が降る中、あの行き止まりでぽつんと動けないガリザ
ザの小隊が哀れである。自らが仕掛けた爆弾を踏んでくれる人達が
辿りつかなかった為、動けないのだ。掘り出そうにも上から狙われ
ていては動くに動けない。設置されている爆弾から伸びていた導線
は全て切られているから、掘り出すしかないのだ。
1108
その小隊の数を見て、エマさんは唖然としていた。少なすぎるの
だ。五十人もいなかった。幾ら爆弾があるといっても、この拠点を
攻めるには少なすぎる。
ディナストはやりたいようにやっていた。気が向けば断罪して、
面倒になれば離反しても追わない。褒美が欲しいと声の大きい人間
には財を渡し、手柄を立てた人間には何もない。そんなことを繰り
返していれば、例え爆弾という恐怖で支配していても反旗を翻され
る事態は避けられないだろう。ただでさえ周辺諸国中で無差別に恨
みを買い続けている。ルーヴァルから撤退するときも、行き当たり
ばったりで捕えた私を使ったくらいだ。
そんな状態でよくも今までやってこられたと思うけど、それこそ
がディナストの才なのだろう。無茶苦茶でもやってこられる頭と実
力を、もっと別の事に使っていれば素晴らしい賢帝となったかもし
れないのに。
そんな彼の元に残っている兵の数は、酷く少ない。今は皇都エル
サムを閉ざして立て籠っているという。ここにいた小隊もツバキも、
任務を焦ったのは早くしないとエルサムに戻れなくなるからだ。デ
ィナストがエルサムに立て籠もったのは、手を組んだ連合軍が本格
的に包囲網を縮めてきたからだという。ここにいる小隊は最後まで
ディナスト側に残った隊ということだろう。数少ないディナストの
兵の中、他国から渡ってきたヌアブロウの一軍がいることはなんの
皮肉だろうか。
﹁伝令、伝令︱︱!﹂
見張りが叫び、開門が叫ばれる。筏のような門が数人がかりで開
けられ、馬が数頭駆け込んできた。さっきまで寝ていた頭領さんが
いつの間にか起きている。上半身裸になっていた人達は、いそいそ
服を着ていた。酔いが醒めて寒くなったんですね。
1109
﹁ルーヴァルからの伝令だ。あんた達の知らせはさっき出したんだ
が、擦れ違いになっちまったな﹂
この伝令さんが情報持ち帰ったら、最初に出た伝令さんが無駄足
になってしまう。寒い中本当にすみません。速達に価値があったと
思って頂ければ救われるかもしれません。
それにしても、ルーヴァルからというと、アリスちゃん達の事が
聞けるだろうか。ユアンもアニタも、みんな元気だろうか。
そわそわしてしまったのがルーナに伝わって苦笑された。でも、
それだけで痛いのかちょっと顔を歪める。
﹁寒い中ご苦労だったな。すぐに部屋を用意しよう。馬はそいつに
渡してくれ﹂
﹁ああ、すまない﹂
深く外套をかぶった人が馬から飛び降りる。その声を聞いて、私
とルーナはばっと視線を合せて、弾かれたようにその人を見た。
﹁ちょうどそっちに伝令を送った所でな﹂
﹁入れ違いとなってしまいましたか。それは申し訳、な、い⋮⋮⋮
⋮﹂
こっちに歩いてきた集団が足を止める。
間違いない。間違えたりしない。ツバキの後ろ姿でさえ間違えな
かったのに、この人を間違えるはずなんてない。
身体を捻ったルーナに背中を押されて駆け出す。
その人は呆然と言葉を切り、フードと顔当てを乱暴に剥ぎ取った
後、反射のように腕を広げた。綺麗な金髪がこんな時でもさらりと
揺れる。
﹁アリスちゃ︱︱ん!﹂
1110
体当たりに近い勢いで飛びついたのに、危なげなく受け止めてく
れたアリスちゃんは、私の顔をがっしりと固定した。今日はよく固
定される日だ!
﹁カズキか!? 本当にカズキか!? 顔をよく見せろ!﹂
﹁私よ、アリスちゃん! 生存しているよ! お会いしたかったよ
! 足もあるよ! 頭は元来より存在しないじょ!﹂
﹁たわけは死んでも治らんと聞くから、そこは期待していない!﹂
期待していないという期待には添えたと思います!
顔を見せろと言われたけれど、嬉しさが噴き出してじっとしてい
られない。思いっきり首根っこに飛びついて抱きつく。たわけと怒
られるかと思ったら、予想に反して思いっきり抱きしめられた。
﹁⋮⋮⋮⋮探したぞ、親友﹂
背骨が軋むほど抱きしめられて、アリスの長い長い息が首筋に染
み込んでいく。会いたかったよ、アリス。本当に会いたかった。話
したいことがいっぱいあるんだよ。本当に、いっぱいあるんだよ。
﹁探されたよ、親友!﹂
﹁くそっ! 会えたら会えたで腹立たしいな、貴様は!﹂
﹁何故にして!?﹂
﹁貴様が元気だということはルーナも無事だな!﹂
﹁つい今しがたまで元気であったよ!﹂
﹁どういう意味⋮⋮ルーナ!?﹂
殴り合った痕跡を色濃く残した、というか、出来上がりほやほや
の殴り合った痕跡を晒したまま座り込んでいるルーナを見つけたア
リスは、私をぽいっと捨てて駆けだした。ポイ捨て禁止である。
ポイ捨てされた私は、マナーを守って自らゴミ箱めがけて再度の
ダイブを試みる。アリスちゃんを追いかけようとした私の背中にま
さかの体当たりが飛んできた。
﹁ぐえふ!﹂
﹁カズキの、馬鹿野郎!﹂
1111
﹁や、野郎では、なきよ!?﹂
背中からぎゅうぎゅうと抱き潰されて、蛙みたいな声が出る。苦
しさに溺れかけ、すぐにはっと首だけ回す。少し癖のある、ふわり
とした緑色が首筋を擽る。
﹁ユアン! いま、カズキと申した!?﹂
﹁⋮⋮ママって呼んでほしけりゃ呼んでやろうか!?﹂
ユアンの耳が真っ赤に染まった。渾身の力で身を捩って向かい合
う。首も真っ赤になったユアンの顔を、さっきアリスにされたみた
いに両手で挟む。
﹁思い、出した?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮出した。あんたは、カズキだ﹂
バツが悪そうに視線は逸らすものの、手を振り払ったり、逃げだ
そうとしないで大人しくされるがままになっている。
﹁もう、怖いは、ない? 悲しくは、ない?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん﹂
﹁それならばよきことよ!﹂
ユアンのお母さんの代わりになれたとは思えないけど、怖くなく
なる為の練習台になれたのならよかった。ずっと悲しいままなのは
寂しい。ずっと怖いままなのは苦しい。ユアンは頑張った。頑張っ
て、悲しかったことを思い出した。思い出したから、同じ場所で足
踏みせずに乗り越えられる。
﹁あんたは、ママじゃない﹂
﹁そうだすよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮でも、あんたがママだったらよかったって、思ってる﹂
﹁ユアンさえ宜しければ、何時如何なるときでもママと呼んでくだ
さりて宜しいよ!﹂
顔を真っ赤にしたユアンは、不器用に笑って見せた。ママ、ママ
と全開の笑顔を見せてくれた時も可愛かったけれど、どうしよう、
こっちのほうが何倍も嬉しい。
﹁ママになってくれてありがとう、カズキ。⋮⋮⋮⋮それと﹂
1112
言いづらそうに口籠り、ちらりと私を見る。
﹁⋮⋮⋮⋮あの日、八つ当たりしてごめん。俺、ひどいこと言った﹂
﹁了解したよ! だが、忘却したよ!﹂
今度は私から思いっきり抱きついたらユアンがたたらを踏んだ。
でも、倒れない。そういえば以前より身長が伸びた気がする。いろ
んな意味で成長したんだなぁ、私も年を取るものだ。⋮⋮よかった、
ユアンが頑張ってくれて本当に良かった。この力で無邪気に抱きつ
かれたら、色んなものをうげろっぱする自信がある。
アリスがルーナに手を貸そうと近寄る。ツバキを見て目を丸くし
たアリスに、エマさんが深く頭を下げた。おろおろしたツバキは、
エマさんに何かを言われて歯を食いしばって俯く。本当に子どもの
ようだ。その様子に、アリスが再び目を丸くしていた。
どういうことだと視線で呼びつけてくるアリスも何だかおろおろ
している。ぼろぼろのルーナに肩を貸して立たせながら、視線で私
を呼ぶ。
﹁マ、カズキ、アリスが呼んでるから、行こうよ﹂
癖になってしまったらしく、メカジキみたいに呼ばれて思わず噴
き出した。
﹁わ、笑うなよ!﹂
﹁事態が分からんから仕方がないだろう! たわけ︱︱!﹂
﹁うるせぇよ!﹂
心当たりがあった三名全員に怒られる。私が笑ったのはメカジキ
ですよ!
﹁なあ、今度は三対一で対決か!? おれ、カズキの味方で混ざっ
ていいか!?﹂
﹁ちょっと頭領! どう考えてもこの子あたしには荷が重いわ!﹂
うきうきと腕捲りしたナクタを後ろから羽交い絞めにして、シャ
ルンさんが引きずっていく。
1113
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮何がどうなっているんだ、ルーナ﹂
それを呆然と見送ったアリスは、質問の相手をルーナに変更した。
とても正しい人選だと思います。ルーナはちょっと考えた。
﹁理由をつけて、正当に、今までの鬱憤を晴らした﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか。私にも一発は残しておいてほしかったもの
だな﹂
﹁それは悪かった﹂
﹁だが、無事でよかった⋮⋮⋮⋮長くかかったが、返したぞ﹂
﹁⋮⋮ああ、受け取った﹂
何か借りていたのだろうか。物のやり取りをしているようには見
えなかったけれど、二人の間では成立しているようだ。
二人の視線が私を向いたので、へらりと笑ったら苦笑された。二
人で分かり合っているのは男の友情ですか。寂しいので混ぜてくだ
さい。
よく分からなかったけれど、ルーナとアリスが楽しそうだから私
も嬉しい。早く行こうよと裾を引かれて視線を向ければ、私より背
が高くなったユアンが照れくさそうに笑った。豪快に笑うエマさん
の手を借りて立ち上がったツバキもぎこちなく笑う。
皆が笑ってる。
やっと会えたばかりのアリス達と、あっという間に幸せになれて
しまった。
ああ、いいなぁ。やっぱり、こういうのがいいなぁ。色々あった
し、これからも色々あるんだろうけど、こうやって皆で笑えるなら、
いいなぁ。こういうのが、好き。色々あっても、こんな時間が当た
り前なら嬉しい。日常なら、こっちがいい。続くなら、この日がい
い。
1114
﹁早く行こう?﹂
﹁はぁい!﹂
﹁うわっ、ちょ、ママ!﹂
私はユアンの手を握って走り出す。
神様、神様、神様。
もうどこにも行きたくありません。ここがいいです。この人達と
こうしていられる時間があれば、もう、日本に帰れなくても後悔し
ません。帰れなくても構わないと言い切ることはできないけれど、
後悔は、もうしません。
だから、お願いします。
お願いします、神様。
ここにいさせてください。こうして、皆といさせてください。
その為なら何だってします。落ちても落ちても落ちても頑張りま
す。だから、お願いします。神様。
もう、無理矢理どこかに行きたくないです。
皆といたいです。皆と、ここで生きたいです。
そう願う。必死に祈る。そんなに大それたお願いをしたつもりは
なかった。欲張りすぎたつもりもなかった。けれど、願いは届かず、
祈りは引き千切れる。お前の願いは分不相応だと嘲笑うかのように、
私の目の前で門は閉じていく。
そうして私は、起こしてくれる人がいない場所で一人、悪夢の続
きを見ることとなる。
それでも私はもう、選んだのだ。
1115
1116
86.神様、少し不味過ぎます
﹁あんた、恋愛小説の一つも読んだことないの!?﹂
﹁だってつまんねぇじゃん。そんなの読んでる暇があるなら、おれ
は狩りいきてぇよ。あ、そうだ! お前に弓教えてやろうか!? 自分で取った獲物は格別にうまいぞ!﹂
身体が温まるお茶を貰って、ほくほくしながらルーナと一緒に幌
へと戻る。
私達は、皇都エルサムを包囲する連合軍に混ざるために移動を開
始していた。雪に阻まれてはいるものの、近日中には到着する予定
だろう。
幌の中には、胡坐かいて足元に座るナクタの髪を必死に梳いて結
い上げるシャルンさんがいた。
﹁いい本があるわ。それをみっちり読み込めば、淡い恋心の一つや
二つ理解できるようになるんじゃないの? あんた、今はまだいい
けど年頃になってそれじゃあ、親父さんの心配も分かるわぁ。大半
あのおっさんの所為だけど﹂
待って、シャルンさん。その本まさか例のあれじゃないですよね?
ルーナの指がごきりと鳴り、隣に座ったアリスちゃんがふいーと
視線を逸らした。ユアンはお茶を運ぶ手伝いをしてくれた。いい子
だ。
皆にお茶を配って回り、ルーナの横に座る。
﹁持ってるは持ってるぜ? 流行ってるからって親父が買い求めて
くれた。えーと、確か、シャボン・ペンバルとかなんとかいうやつ
が書いたの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮シャルン・ボーペルよ、お馬鹿。で、それどうした
1117
の?﹂
﹁それが聞いてくれよ! 二冊重ねるとすっげぇいい高さの枕にな
ってさ!﹂
﹁読みながら眠っちゃったのならまだしも、最初から枕にするやつ
があるか、この馬鹿娘︱︱!﹂
シャルンさんは大いに嘆きながら、なんとか気を落ち着かせよう
とお茶に口をつける。そして盛大に噴き出した。言葉もなく身悶え
た末に、ぱたりと動かなくなる。すわ毒かとパニックになりかけた
私を横目に、ルーナは普通に飲んでいた。⋮⋮いや、違う。普通じ
ゃない。眉間の渓谷が凄まじい!
﹁う、ぐっ﹂
ぺろりと舐めたユアンが渾身の力で呻く。しまった、こんなこと
なら最初に口をつけておくべきだったかもしれない。一口目が物凄
く勇気がいる。
﹁火草の茶だぜ。そりゃまずいさ。でもこれ、オジジが淹れた奴だ
ろ? 誰よりうまいんだぜ?﹂
慣れた様子で飲み干したナクタに勇気づけられ、私も一気飲みし
た。アリスとユアンも、覚悟を決めたようにぎゅっと目を瞑ってコ
ップを傾けた、までは覚えている。
気が付いたら、ルーナの膝を枕にして、額に手を置かれていた。
ルーナの両肩にはアリスとユアンの頭が乗り、白目を向いている。
結局火草の味は覚えていないけれど、知らないほうが幸せなこと
って、きっとある。
最近目が合っても合わなくても何かとキスをしかけてくるルーナ
が何もしてこなかったのは、人目が理由じゃないとだけは分かった。
1118
檻みたいな馬車に入ってるツバキに付き合って、エマさんもそこ
にいる。その二人にもお茶を渡してやってくれと頼まれた。それは
別にいいんだけど、これ、渡していいのだろうか。匂いも色も見た
目も普通なのに、幌の中四人の意識を奪ったお茶を一つ持って移動
する。もう一つはルーナが持ってくれた。どちらの両手が塞がって
いても転んだら大惨事になる。主に私が。
周りを囲んでいる人達に会釈して、檻を覆っている幕を持ち上げ
てもらう。
﹁エマさぁん、お茶をお持ちした故に覚悟してくださりよ﹂
ひょいっと覗き込むと、何故かアルプスの上でアルペン踊りをし
ていた。イツキさんに教えてもらったのだろうか。手を揺らすたび
に手錠がじゃらじゃらと鳴るツバキは、遊んでいたのを見られてバ
ツが悪そうだ。エマさんは楽しそうだけど。
﹁カズキか、悪いな。頂こう﹂
﹁エマ様、毒見が終わってからにしてください﹂
﹁お前、それこそ今更だろう﹂
苦笑で返されたツバキがぐっと詰まる。エマさんは別にこの馬車
にいる必要はない。私達と同じように自由に馬車に乗っていられる
けれど、ツバキと話したいからとこっちの寒い馬車に乗っているの
だ。
﹁エマさん、こちらのお茶、非常に覚悟が入用よ﹂
私が持っていた方をエマさんに、ルーナが持っていた方をツバキ
に渡す。くんっと軽く鼻を鳴らして納得した様子から見るに、飲ん
だことがあるようだ。知らずに飲んで失神するのは私達だけで充分
である。
﹁これなぁ、この匂いと見た目で何がこんなにまずいんだろうな﹂
ぐっと一気に煽ったエマさんの隣で、コップを掴み合ってぎりぎ
りと押し合いへし合いが繰り広げられている。せっかく顔の腫れが
1119
治まってきたのに、また殴り合いは勘弁してほしい。男の子は少し
くらいやんちゃな方がいいとは聞くけど、あの殴り合いはやんちゃ
の域を遥かに飛び越えている。
﹁うん、まずい! もういらん! 悪い、ツバキ。ちょっと尻が冷
えてきたから一旦出るな﹂
﹁はい、エマ様﹂
ぐいぐいとお茶を押し返しているツバキとルーナの攻防を横目に、
開けてもらった扉からエマさんが出てきた。思いっきり伸びをして、
ラジオ体操のような動きで身体を捩る。ぼきぼきと肩が鳴っている
から、ずっと同じ体勢だったのだろう。
﹁ツバキとルーナをご一緒は大丈夫ですよ?﹂
﹁基本的に、人が集まれば腹に一物二物、蟠りにしこりと、色々抱
えてるもんだしなぁ﹂
王族の感性が大雑把なのか、エマさんが豪快なのか。
﹁エマさんは、ツバキが如何様にしてルーヴァルより脱走したかご
存じ?﹂
﹁ん? ああ、ツバキは鍵開けの達人だぞ。しかも体中の関節外せ
るから、指か口が自由になったらほぼ逃げられる﹂
ツバキは牢屋と門番と手錠と手枷に謝ってほしい。後、自分の関
節にも謝ってください。関節だって、外されるためにはまってるわ
けじゃないんですよ!
ばきばきと背中も鳴らされる。真似して伸びたら、ぴちっとよく
分からない音が鳴った。やだ、私の筋って貧弱!?
﹁だからな、何も抱えない真っ新なイツキが眩しくならなかったよ。
あまりに無防備だから、どす黒いもん抱えた奴らさえ狼狽えてなぁ。
お前も、そうだと思うよ、カズキ。ルーナにとって、お前の仲間達
にとって、繋ぎなんだよ、お前は﹂
﹁繋ぎ﹂
1120
﹁お前を挟めば、大概のものが優しくなるんだ。人も、物事も、柔
らかくなる。お前達が間にいれば諍いなんて起こらないんじゃない
かと、甘えだと分かっているのに、そう思ってしまうくらいにな﹂
接着剤ほど強烈な存在にはなれない。重たい空気が苦手で、水に
流せるものは流して、なあなあにしちゃったり、そんなずるい処世
術だって確かにあった。でも、それが諍いのワンクッションになっ
たと言ってくれるのか。
﹁黒曜の名前はそこから来たんだろうな﹂
﹁え?﹂
二度見の落下黒曜がなんでしょうか。
﹁太陽の光をそのまま見ると目を焼くだろう? だが、黒曜石を磨
き鏡にして覗けば、光が柔らかく映るんだよ。だから古来より、太
陽を眺める際は黒曜石を用いたんだ。どんなに強い光を放つ現実で
も、お前を通すと世界が優しく、柔らかく見える。だから、お前の
通り名は黒曜なんだろうなぁ﹂
黒曜。そう呼ばれるのは髪と目が黒いからだと思っていた。
いや、エマさんの買い被りの可能性もある。だってそんなの大そ
れたことだ。
でもなんとなく照れくさくて、うへへと笑ってしまう。ちょっと
幸せを感じながら戻ってきた私を見て、気持ち悪いとツバキが呟い
た。
﹁カズキ、エマ様と何の話をしてたんだ?﹂
﹁私とムラカミさんは、牛乳と浸すたパン粉であるという話よ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ほんとに何の話してたんだ?﹂
エマさんが言ってくれたことは嬉しいことばかりだったけれど、
イツキさんと私は違う。イツキさんがエマさんにとってそういう存
在でも、私には過ぎた評価だ。でも、ハンバーグの繋ぎのような人
1121
間になれたらいいなと思う。ワンクッションと、混ざり合う手伝い
が出来たら更に嬉しい。
パン粉パン粉と心の中で繰り返していると、ルーナが無言なのに
気がついた。じっとツバキの手を見ている。その手にはまった手錠
にも、足枷にも布が巻かれていた。寒い中そのまま鉄に触れていた
ら凍傷になるからだろう。それにしてもルーナ、見過ぎである。繋
ぎたいんですか。後ろに並んでたら次は私と繋いでくれますか。列
はどこですか。
視線に気づいたツバキが、気味悪そうに手を引っ込める。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁そういえばカズキの指は、二本折れたなと﹂
﹁おい、おいおいおい!﹂
﹁大半は私の所為であった故、待って︱︱!﹂
ぎゅっと拳を握って指を確保したツバキ、一応ごめん。いや、多
大にごめん。
わたわたしていると、遠くから声がする。
﹁おーい、親父が⋮⋮じゃなかった、頭領が呼んでんぞー﹂
﹁ああ、分かった。ちょっと行ってくる。いい子で待ってろよ﹂
エマさんは、ナクタに振った掌で、檻越しにツバキの頭をわしゃ
わしゃと撫でた。ナクタの扱いもツバキの扱いも同じようだ。
﹁後、お前顔色悪いから、それちゃんと飲んどけ﹂
﹁う⋮⋮はい﹂
盛大に顔を引き攣らせたツバキは、それでも大人しくコップを手
に取った。嫌々だと顔に書いてある。けれど、ちらりとエマさんを
見てぐっと飲み干した。
本当にちっちゃい子どもみたいだ。ユアンのほうがまだ反抗期を
迎えた少年だった気がする。
1122
頭領さんの所に向かったら、アリスもユアンも揃っていた。シャ
ルンさんもいたけれど、私達を案内してくれたナクタを引きずって
出て行ってしまう。
﹁あたしは政治家でも戦士でもないからね。担当違いよ﹂
﹁おれは残るぞ!﹂
﹁あんたは年齢制限に引っかかるわよ! 後、お頭の下限にも引っ
かかってるわよ、お馬鹿!﹂
最後の言葉は私に突き刺さった。それを言われると私に大ダメー
ジである。皆の視線も私を向いていた。どうぞ、遠慮なく仰ってく
ださい。私がいることで、お頭の下限条件が物凄く下がっていると
いうことを!
簡単に組まれた机の上に大きな地図が広がり、その上に旗がぽん
ぽんと置かれていた。ルーナとエマさんはそれをじっと見る。それ
に習い、私も見た。うむ、現在地も分からない。
﹁ディナストがエルサムに立て籠もって何日経った?﹂
薬草が染み込んだ爪先で、とんっと地図が指される。成程、そこ
がエルサムでしたか。それで、私達は今どこにいますか?
﹁三週間だ﹂
答えたのはアリスだ。どうやら、この情報を伝令しに来たらしい。
アリスとユアン自ら伝令で走り回っていたのは、腕が立つのと身軽
なこと、そして私達を探してくれていたからだという。寒いのに、
鼻の上真っ赤にして走り回ってくれていたのだ。色々と込み上げて
くる思いを、凍傷防止効果のある火草に籠めて鼻に塗ろうとしたら
頬っぺたみょんみょんされた。
1123
﹁門が掌握されたのなら民はどうしている。中にどれだけ残ってい
るんだ﹂
﹁三十万だ﹂
﹁人質三十万⋮⋮でかいな。バクダンさえなければ、ディナスとの
手駒に数では圧倒的に勝っているんだが。兵糧は? 国庫内には飢
饉に備えた備蓄があったはずだが﹂
﹁恐らくはひと月保たんとラヴァエル様は見ている。離反した奴ら
が相当盗みだしていったようだからな﹂
地図の隅っこで落ちかけていた紙を見てみると、どこかの街が描
かれていた。でも、街というより一つの建物に見える。ぐるりと強
固な壁に囲まれた下から、上にぐるぐると家が連なり、頂上に宮殿
があった。左上に走り書きされている文字を眉間に皺を寄せて解読
する。
﹁え、る、さ、む﹂
﹁ん?﹂
﹁こちらの絵、エムサム?﹂
﹁ああ、それが我が祖国ガリザザが中心、皇都エルサムだ﹂
これがディナストのいる街。ガリザザの皇都。
モンブランみたいだと言ったら怒られるだろうか。
﹁そもそも、逃げだしてない奴らは、ディナストが戻ってくると分
かってても逃げだせなかった奴らだろ。戦う気力はねぇだろうな﹂
このままではまずいと分かっていても、他に行き場所がなかった
人達が残ってしまったのだ。そんな人達が閉ざされた門の中で、兵
士と爆弾に囲まれてどうにかできる気力すら沸かないと、頭領さん
は見ている。三十万の人が並んだらどれくらいの長さになるのか、
想像もできない。元々、ディナストの膝元でずっと抑圧されてきた
人達だ。逆らう気力があったのなら、とうの昔にそうしていただろ
う。
1124
﹁アリス、エルサムの周りは囲んでいるんだな?﹂
アリスの予備の剣を借りたルーナは、無意識にだろうけど剣の鞘
を触っていた。ずっと剣を持っていた人だから、なかった間は随分
違和感があったらしい。
﹁ああ、問題は人質と、どの国と部隊がディナストを討つかで少々
揉めている。ガリザザは、大きくなりすぎたからな⋮⋮だが、皇女
である貴女が存命ならば話は変わる﹂
﹁私を掲げてもらうのが妥当ではある。だが、国を取り戻した後も、
助力という形でかなり口を出されるだろうがなぁ。⋮⋮まあ、甘ん
じて受けるしかあるまい。ガリザザはもう、国として立ち行くまい。
制御する気もなく膨れすぎた。焼け野原と廃墟を放置しすぎだ、あ
の馬鹿は﹂
忌々しげに舌打ちしたエマさんが地図の外円をぐるりと撫でる。
文字がバツ印で塗り潰されている場所ばかりだ。そこには嘗て、村
があった。人が住んでいた。だけど、今はもう何もない。きっとこ
の中に、アマリアさんやアニタの故郷があった。
ディナストは何がしたかったのだろう。自分の首が閉まっていく
と分かっていて何もせず、グラースやブルドゥスにまで遠征して手
を出して、統治者としての死期を速めた。
それにしても、結局私達はこの地図上でどこにいるんですか。
聞こうと顔を上げたら、全員が流れるように視線を逸らした。え
? そんなに聞いちゃ駄目な感じの質問ですか?
びっくりして固まっていると、何だか外が騒がしい。
向こうに行ったはずのナクタが舞い戻ってくる。
﹁親父! 親父!﹂
﹁外じゃ頭領って呼べつっただろ!﹂
1125
﹁そんなのどうだっていいよ! 町民が群がってきやがるぞ!﹂
﹁なにぃ?﹂
皆が外に出ようとしている。私が一番入口に近かったから、邪魔
にならないようさっさと幌から出た。
﹁馬鹿! あんたは出ちゃ駄目よ!﹂
﹁え?﹂
外にいたシャルンさんが自分の外套を頭からかぶせる。なんだろ
うと思ったら、人の群れがぞろぞろと駆け寄ってきていた。恐らく
子供の、甲高い声が響く。
﹁いた! 黒曜だ!﹂
目がいい。そして、この声を遠くにいるうちから聞き分けていた
のなら、シャルンさんは耳がいいのだ。
幌から飛び出してきたルーナに肩を抱かれて、ぐるりと背中に回
される。
﹁何だぁ? てめぇら、あれを止めろ! それ以上近づけさせるな
!﹂
頭領さんの怒声に従って、集団とこっちを割るように部下の人達
が広がっていく。武器を持った人達を相手に集団は躊躇って、少し
手前で足を止めた。
﹁黒曜を渡せ!﹂
﹁あ?﹂
誰かが叫んだ言葉に、頭領さんが訝しげな声を上げる。
誰かの口が、俵型に開いていくのが、やけにゆっくり見えた。
﹁ディナストが﹂
ルーナの手が私の耳を塞ぐ。だけどその声は、やけに、響いた。
﹁巡礼の滝に落ちた黒曜を見つけてくればエルサムの民を解放する
1126
と、触れを出したんだ!﹂
一瞬で血の気が失せた私とは対極的に、隣の熱が膨れ上がる。不
自然に髪が浮き上がるほどの激情がルーナを走り抜けた。
﹁カズキが生きていること自体が既に奇跡の領域だぞ! 貴様らは、
実行不可能な難題を押し付けられただけだ!﹂
﹁だが、黒曜は生きているじゃないか!﹂
怒鳴ったアリスに沢山の声が反論してくる。一人が言えば沢山の
同意が、同じ言葉を繰り返せばそれにも沢山の同意が。
じりじりと集団の足が進み始めた時、彼らが割れた。列を割って
出てきたのは、見たことがある鎧を着た集団だ。どこで見たのだろ
うと記憶を探る。
﹁黒曜、ディナストが貴様を伽に所望した。貴様らが齎した悪夢に
嘆く我らが民を、よもや見捨てようとは言わぬな?﹂
ガリザザの、兵だ。
1127
87.神様、少し十年前に戻りましょう
﹁下がれ、無礼者が。エルサムを出ているということは、既にディ
ナストより離反した者どもであろう。それが、このエマアンペリー
スを前に、ディナストの命を優先するとでも申すか?﹂
酷く通る声で集まった視線にエマさんは怯まない。当然のものだ
と顎を上げ、胸を張る。
﹁お前達にとって私は、最早過去の亡霊だろうが、あいにくと奇跡
の恩恵を受けて命を繋いだ。元十三皇女エマアンペリースと名乗れ
ば、七年前に死んだ皇族であろうが思い出せるか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮本物であると証明きでるものがなければ、聞けぬ話だ﹂
﹁ディナストに問うて来ればよかろう? エルサムの門を開き、宮
殿の頂点にいるであろう愚弟に向かって、あの女は貴様の姉か、と﹂
ちらりとエマさんが視線を流してきた。なんだろうと辿った視線
の先には、枷を外されたツバキがいた。ツバキを見た瞬間、ガリザ
ザ兵の顔が憤怒に染まる。
﹁ディナストの犬が!﹂
﹁俺の主は、十年前からずっとこの御二方だ。一度たりとも主を変
えたことはない。俺がエマアンペリース様にお仕えしていたことは、
周知の事実だと思っていたが?﹂
この距離で歯噛みが聞こえてきそうだ。
エマさんが場を治めてくれそうだと、少し肩の力が抜けた。けれ
ど、すぐに駄目だと気づく。だってルーナやアリス達の緊張が全く
解けていない。エマさんの視線が、ガリザザ兵ではなく、その後ろ
の民衆から離れていない。
1128
沢山の人間が息を吸う音が聞こえる。
﹁皇族ならば、エルサムの民を救え!﹂
﹁ディナストの暴挙を許した責任を取れ!﹂
﹁皇族としての責務を、エルサムの民を救うことで果たせ!﹂
一気に吐き出された声が広がっていく。いつの間にか視界を埋め
尽くすほどの人が集まっていた。
﹁⋮⋮これだけの熱意をディナストに向けていれば、ここまで悪化
させなかっただろうにな﹂
﹁一言一句違わず同意いたします﹂
さっきまで横柄な態度を取っていたガリザザ兵が、憤怒の歯噛み
を悔しげなものへと変えている。
﹁⋮⋮貴方様がエマアンペリース様であるとは、一目で存じ上げま
した。ですが、お言葉に従うことはできませぬ。黒曜を、お渡しく
ださい﹂
﹁聞けぬ﹂
﹁ここで、黒曜と心中なさるおつもりか!﹂
﹁民の暴動も抑えられず、友を売るような皇帝に、お前は仕えたい
のか﹂
わあわあと沢山の声が反響する。羽虫のように小刻みに音が揺れ
るのに、音が多すぎてまるで世界が喚いているようだ。
なのに、そのどの声より、先頭の兵士の声こそが悲鳴のようだっ
た。
﹁貴女は賢い方だった! ならば、私などより余程理解されている
はずだ! 長年弾圧されてきた抑止が揺らぐいま、あの狂乱を押さ
える術は目の前の問題の、目に見える解決だけです!﹂
﹁聞けぬ!﹂
﹁エマアンペリース様!﹂
決裂が誰の眼からも見てとれた瞬間、兵士の後ろが爆発した。爆
弾なんてないはずなのに、何かが弾け飛んだ。それは、人の理性だ
ったのかもしれない。
1129
仲間であるはずの人を薙ぎ倒し、手も貸さずに踏みつける。そう
した人の波が、津波のように雪崩れ落ちてきた。見開かれてぎらぎ
らとした瞳が私を見つけ、筋が切れそうなほど開かれた掌が私に伸
ばされる。
﹁逃げろ!﹂
沢山の声が重なった。沢山の手が重なった。
だけど、そのどれもがぶれる。ルーナに担ぎ上げられたのだ。お
腹がルーナの後頭部に当たり、手足はルーナの胸元で纏められてい
る。私の手足を纏めた手とは逆の手で剣を抜き放ち、伸びてきた手
を薙ぎ払った。耳を劈く悲鳴が響き渡る。
﹁触るな﹂
聞いたことがない声で、ルーナが言う。
﹁誰も、カズキに触れるな﹂
雪が降る灰色の世界の中で、恐ろしい熱を纏った瞳が人々を見て
いた。
ルーナの周りだけ燃えているみたいに熱い。不自然に毛が逆立っ
ている。熱いのか寒いのか分からない鳥肌が立ち、息がしにくい。
﹁世界の為にカズキを贄にするというのなら、俺に殺される覚悟あ
ってのことだろうな﹂
誰も一歩も動けない。さっきまであれほど噴出していた人々の熱
が、全てルーナに移ってしまったみたいに静まり返る。
﹁そいつを、渡せ﹂
それでも、震える声が上がった。一つの声をきっかけに、ぱらぱ
らと同意が続く。もう一声続けば熱が戻るところで、ルーナの冷た
1130
い声が切り裂いた。
﹁何故﹂
﹁そいつの所為でどれだけ死んだ!﹂
﹁大陸の長年の信仰だと聞いていたが、巡礼の滝とは、無意味なも
ののようだな﹂
神様へ罪を問いにいき、生きていれば無罪。私がそれを大々的に
掲げることはできない。でも、そうだ。それは彼らが掲げていたも
ののはずだった。
﹁そ、それでも、生きているのなら、贖うのが筋だろう!﹂
﹁ならばお前達はカズキにどう贖うつもりだ! 皆で口に出せば己
に責任がないとでも言うつもりか!﹂
私に向けて怒鳴ったわけじゃないのに、身体の中から震える声が
駆け抜けていった。ルーナが、激怒している。本当なら私が感じな
ければならない感情かもしれない。なのに、感情がうまく動かない。
いま確かなものは、私を担ぎ上げたルーナの体温だけだ。
﹁そいつらがこの世界にあんなものを持ち込んだんだ! その責任
は取るべきだろう! あれの所為でエルサムの民は捕えられている
のだぞ! ずっと、ずっと虐げられてきた! あれが弾けないよう
息を殺し、死んだように生きてきたのは誰の所為だ!﹂
血を吐くような叫びを上げた男の人の手に、ルーナの剣が突き刺
さった。ひぃと悲鳴を上げたのは周りの人で、男の人は自分の身に
何が起こったか分からずきょとんとしている。
貫かれた自分の手と、ルーナの顔を交互に見て、じわじわと理解
していく度に顔が歪んで呼吸が引き攣っていく。
﹁この剣はお前を害した。ならばお前は、この剣を打った職人に贖
えと押しかけるのか﹂
﹁い、痛い﹂
﹁酔った人間に殴られれば、酒を造った人間を詰るのか。矢で射ら
れれば、矢羽根の動物を恨むのか。薪で殴られれば、木を切った樵
1131
を憎むのか﹂
﹁たすけてくれっ﹂
﹁お前達が言っているのはそういうことだ!﹂
引き抜いた剣を一振りして血を払ったルーナは、獣のように喉か
ら唸り声を上げた。激情が強すぎて、言葉より先に感情が音として
漏れ出ているのだ。
﹁カズキが潰されるくらいならと、一度はお前達の要望に付き合っ
てやった。だが、自らが掲げてきた神への信仰ですら目先の感情で
蔑にすると言うのなら、俺は二度と、カズキを犠牲になどさせない﹂
厚い雪雲が空を覆い、ルーナを失ったあの日みたいな灰色だ。そ
の日は土砂降りだった。いまは雪が降る。そして、地上の熱で溶け
ていく。
﹁バクダンを使ったのは誰だ。その知識を奪ったのは誰だ。誰より
もそれを分かっていながら、お前達は糾弾の方向さえやさしい方へ
と逃げた。何の後ろ盾もなく異世界に放り出された二人の異界人に
なら強いるは容易だろう。何年も目の前でバクダン振り撒いてきた
ディナストからは目を逸らし、何の武器も持たない女になら殴り掛
かれるんだからな﹂
﹁罪は贖われるべきだろうが!﹂
膨れ上がった同意の声を、冷たい声が切り裂いた。
﹁同郷であるを同罪とするならば、まずはお前達がカズキに贖え﹂
﹁お、俺達が何をしたっていうんだ!﹂
﹁救わなかっただろう。異界から現れた男が﹃同郷﹄の男に害され
ていたのに、お前達は何もしなかった。﹃同郷﹄の人間が罪を犯し
たんだぞ。贖え。カズキに、ムラカミに贖え。この世界全員で、二
人に贖え!﹂
足早に近寄ったルーナから、尻もちをついたまま逃げていく。そ
の人々を声と同じくらい冷たい瞳が見回す。大多数を眺めていた時
は、自分を見ろと言わんばかりん睨み付けてきたのに、ひたりと見
据えられた人から視線を逸らす。
1132
﹁何もしなかった自分達の罪を押し付けてしまえば楽だろう。不都
合全てバクダンの所為だと吐き捨てれば楽だろう。バクダンが悪い、
バクダンの所為だ。だから自分は悪くない。全てバクダンが悪いん
だ。バクダンが悪いから、バクダンの知識を奪われた異界人が悪い
んだ。そのうち、賭け事で負けても、その辺で転んでも、バクダン
が悪い、異界人が悪いと言い出しそうだな。⋮⋮この世界を運用す
る為に、二人の異世界人をくべるか。無尽蔵に燃え続けるとでも思
っているのか。その知識を捥ぎ取り、責任を押し付け、全ての言い
訳に使って、それでも燃え続けられると思っているのか! たった
二人だ。その程度をくべた火で紡がれる世界など、すぐに燃え尽き
るぞ。現に一人は燃え尽きた。それでもお前達はまだ分からないの
か!﹂
静まり返った空間で、ルーナの声だけが世界を制している。人々
は呼吸さえ許されないというように、微かな音さえ発していない。
だけど、ただ一人声を発した人がいた。最初にエマさんと話して
いたガリザザ兵だ。
﹁⋮⋮⋮⋮そうさ、人は弱い。自分が弱者であることを強者に責め
る。弱者であることを責める癖に、弱者の権利は己だけのものでな
ければならない。弱者故の責任の放棄を声高々に叫び、弱者への配
慮と優遇を、盾ではなく槍とする。弱さは権利じゃない、強さは罪
じゃない。そんな簡単なことすら認められない、弱い人間ばかりだ。
この国は変わらねばならぬ。だが、それには時間がいる。そして、
国民が変わるためには、国が生きていなければならぬのだ!﹂
風向きが変わり、妙な臭いが広がった。はっとなったルーナが誰
よりも早く口元を覆ったけれどもう遅い。力が入らなくなった膝を
つく。それでも立ち上がろうとするルーナの前に兵士が立った。そ
の後ろでは、人々までもが倒れていく。
﹁⋮⋮ここはガリザザ。香の大国と呼ばれた国だ。嘗ての栄光は見
る影もなく廃れ落ちようと、ここは我らが固執すべき故郷なのだ。
次代を、亡国の民にするわけには、いかぬ﹂
1133
﹁き、さま﹂
﹁許せとは、言わぬ。⋮⋮⋮⋮すまない﹂
ぽつりと降った男の言葉を最後に、意識は霞に巻かれて何も見え
なくなった。
鍵のかかった部屋で一人椅子に座る。ここはエルサムに近い街の
貴族の屋敷だ。明日には、エルサムについてしまう。
開かない窓から外を見続けて何時間経っただろう。物音一つしな
い部屋に、こんこんとノックが響く。返事はしない。向こうも求め
ていない。勝手に扉が開いて男が入ってきた。
﹁何か、ご要望はございませんか﹂
返事は返さない。だって、出して、ルーナに会わせてと散々叫ん
だのに叶えてくれなかったじゃないか。お茶もお菓子もドレスも要
らない。ルーナに会わせて。
振り向きもしない私に、男は怒りもしなかった。
﹁アリスローク・アードルゲが面会を申し出ておりますが、如何致
しましょう﹂
思わず振り向く。
﹁⋮⋮会える?﹂
﹁一人だけでしたら﹂
﹁即座に会う﹂
﹁畏まりました。すぐにお連れ致します﹂
恭しく頭を下げて出て行った男は、言葉通りほとんど待たせるこ
となくアリスを連れて戻ってきた。
1134
﹁カズキ!﹂
﹁アリス!﹂
扉が開くと同時に駆け込んできたアリスに駆け寄る。お互い手を
伸ばし、私はアリスの肘を掴み、アリスは私の肘を包んでいた。
﹁皆は如何している!?﹂
﹁ルーナ以外はそれぞれの部屋で軟禁状態だ﹂
﹁ルーナは!?﹂
﹁牢だ。香が切れた瞬間飛び起きて壁をぶち破った⋮⋮⋮⋮確かに
開けたところで逃げられはしなかっただろうが、何故、扉や窓じゃ
なかったんだ﹂
⋮⋮目の前にあったのが壁だったんじゃないでしょうか。
﹁何故にアリスがご存じ? 同室であった?﹂
﹁⋮⋮ぶち破られた隣の部屋にいたが、冗談抜きで怖かったぞ﹂
それは怖いだろう。寧ろ怖くない人間がいるかどうか聞きたい。
一度会話が途切れ、沈黙が落ちる。それで分かった。ああ、駄目
なんだと。
アリスは、出来ることがあればちゃんと教えてくれる。私が不安
にならないよう、ちゃんと言ってくれる。でも、そのアリスが沈黙
しているのは、駄目だからだ。
私が気づいたと、アリスも気づいた。
﹁いいか、カズキ。何があっても、私達は決してお前を諦めない。
必ずお前を救い出す。だからお前も、何があっても諦めないでくれ﹂
後頭部を包まれて胸に押し付けられる。アリスは私の身体を全部
包んで、歯を食い縛った。
﹁⋮⋮本当にお前を救いたいなら、ここで死なせてやるべきなのか
もしれん。⋮⋮だが、すまん。私には、出来んっ。酷だと分かって
いる! だが頼む、頼むから、死だけは選ばないでくれ! 何があ
っても死ぬな! 生きていろ!﹂
1135
トギが何か、聞いたよ。アリスは酷い事を言う。死ぬなと、あの
男を受け入れろと言う。
アリスは酷い事を言う。
アリスは、死なないでくれと。
アリスは、生きていくれと。
友達として、当たり前のことを願ってくれる。
だらりと身体の横に垂れていた手を緩慢に持ち上げ、アリスの背
中を握り締めた。
﹁ルーナがいい﹂
﹁ああ﹂
﹁ルーナが好き﹂
﹁分かっている。知っているっ﹂
﹁ルーナでないと、いやだぁ!﹂
酷い悪夢を、見ているようだ。
こんな悪夢、さっさと獏にでも食べさせてしまいたい。でも、食
べてくれる獏がいないから、世界中に悪夢が巻き散らかされた。
いない獏に祈りを捧げて待ち続けられるほど、人は馬鹿ではない。
悪夢を終わらせる夢を掲げ、世界は集った。爆弾は世界中で使われ
てその概念を撒き散らしたけれど、製法を知っている人間は数少な
い。その人間はいま、皇都エルサムに集まっている。
世界にとって、悪夢発祥の地は私達で、悪夢の象徴はディナスト
だ。
だったら、もう、ここで終わりにしよう。いい加減、終わらせな
ければ。
目標を同じくして世界が集った。こうまでしても、いま終わらせ
られないというのなら、永遠に終わりなど訪れない。爆弾はこの世
界にあってはならぬ、使用してはならない禍々しいものだという共
1136
通認識があるうちに排除できなければ、どちらにしろこの先何百年
も脅かされ続けることになる。
瞑っていた眼を開く。固く固く瞑りすぎていて、開いた瞬間ちか
ちかした。
﹁⋮⋮⋮⋮アリス﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何だ﹂
﹁お願いが、あるよ﹂
﹁お願い?﹂
そっと身体を離したアリスを見上げて笑う。ふざけた悪戯っ子み
たいに笑いたかったけど、歪になっていないだろうか。
﹁ルーナに、会いたい﹂
﹁⋮⋮心中するつもりか?﹂
﹁珍獣ではないよ﹂
﹁⋮⋮心中だ﹂
﹁珍獣?﹂
こんな時に知らない単語はちょっと困る。外に聞かれないようひ
そひそと内緒話をしている距離で、珍獣珍獣連呼していたらアリス
が説明を諦めた。つまり、あまりいい意味の単語ではないのだろう。
﹁それで、どうしたいんだ?﹂
珍獣で勢いが削がれた状態で、改めて聞かれると凄まじく言いづ
らい。でも言う。
ぼそぼそと伝えると、アリスはちょっと目を瞠った後、静かに伏
せた。
﹁アリス?﹂
﹁⋮⋮いや。何でもない。親友からの初めての頼みごとが、まさか
この手の話だとは思いもよらなかっただけだ﹂
﹁わ、私も、このような事態でなくば、人様にお頼みごとする事態
に陥るなどと、思いもよらなかったよ!﹂
1137
熱がぶばっと首から頬に弾ける。向かい合っていたアリスの頬に
も飛び火した。貰い事故である。
﹁照れるな! つられるだろうが!﹂
﹁わ、私とて恥で死亡致しそうであるに、殺生な︱︱!﹂
﹁なんかすまん!﹂
﹁こちらこそ申し訳ございません!﹂
真っ赤な顔で謝り合っていたら、さっきまで無表情で部屋に出入
りしていた男の人が、疑問符満載の顔をしていた。無表情崩したり。
その代わり、私とアリスの平常心も崩れ去る羽目になった。
床も壁も石で組まれた建物は、歩くたびに音が奥へ奥へと伝わっ
ていく。
以前もこんな場所にいたことがある。あの時は一人で凄く怖かっ
たけれど、冬じゃなかったからここまで寒くはなかった。まるで氷
の中を歩いているみたいに寒くて寂しい場所を進む。個人のお屋敷
でそんなに広くない牢屋は、すぐに目的の場所に辿りつけた。
暗い檻の奥で、微動だにせず座っている人を見つけて、ぱっと顔
が綻ぶ。
﹁ルーナ﹂
珍しく気付かなかったのか、呼んで初めてルーナが反応を見せた。
飛び跳ねるように立ち上がり、こっちに駆け寄ってくる。鉄格子越
しに伸ばして手を繋ぐ。
﹁ルーナ、私、ムラカミさんに会うしてくるよ﹂
﹁カズキ﹂
﹁エマさんより先頭で入出すらば、怒られるかな?﹂
﹁カズキ!﹂
怒声が割れんばかりに響いて口を噤む。
でも、すぐに開く。
1138
﹁ルーナ、こちらに、鍵があるよ﹂
反対の手で握りしめていた鍵を揺らすと、ルーナの目が見開かれ
た。寒さとそれ以外の理由で、鍵がかちかちと震える。震えを取り
繕ったりしない。そんな気力を使うくらいなら、全部ルーナに向け
ていたい。
﹁ルーナが、無理無謀を行わないならば、開けるよ﹂
﹁⋮⋮無理だと、誰が決めた﹂
﹃ねえ、ルーナ。私、いま助けてほしいんじゃないよ﹄
嘘だ。助けて。嫌だよ。助けて。
ごめんね、ルーナ。嘘ついた。ルーナが嘘だって気づいてるよう
な、へたくそな嘘をついちゃったよ。
だから、出来るだけ嘘を減らそう。
溢れ出る涙を堪えもせず、縋りつく。
﹃助けて﹄
﹁鍵を、渡せ!﹂
唸り声を上げるルーナの手を、鍵を握っている手も合わせて両方
で握る。鍵を捥ぎ取ろうとしたルーナを呼ぶ。
﹃ルーナ﹄
﹁頼む、鍵を渡してくれ!﹂
﹃お願い﹄
﹁カズキ!﹂
お願い、ルーナ。
﹃助けに、来て﹄
鍵が滑り落ちて石の上で跳ねる。
ルーナは、身体を支えていられないのか、ずるずると座り込んで
いく。その手に、格子の隙間から伸ばして回収した鍵を握らせる。
1139
﹃ねえ、ルーナ﹄
返事はない。構わず続ける。だって、時間が勿体ないよ、ルーナ。
私はルーナの手を握って、自分にできる精一杯の誘い文句を発動
した。
﹃十年前の続きを、しませんか﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
冷たい牢の中に、ルーナの間抜けな声が響いた。
1140
88.神様、もう少しで終わりにしましょう
﹁こちらでお待ちください﹂
案内兼見張りの人が、頭を下げて静かに扉を閉めた。
扉の前で、一人ぽつんと立ち尽くす。
花びらが浮かぶ甘い匂いのするお風呂を出たら、花びらが撒き散
らされた部屋に通された。蝋燭の上には曇りガラスみたいなカバー
がつけられていて光はやけに柔らかいし、私が着ている寝間着も柔
らかい。
それらを眺めて、私は静かに目を閉じた。
無性に恥ずかしい!
こんなセッティング要らない。勢いでぐあーっとそんな雰囲気に
なったあの日のようならまだよかったのに、こんな、さあどうぞ!
みたいなセッティング要らない!
恥ずかしい! 恥ずか死ねる! 恥ずかしいから寝る! 恥ずか
死寝る!
部屋の中心でどどんと存在感を主張しているベッドもあることだ
し、本当に寝てしまおうか。
そこまでぐるぐる考えて、すぐに首を振る。駄目だ。それだと何
の為に恥ずかしい思いを耐えてまでルーナを誘惑したのか分からな
い。ここでドタキャンしたら、一生後悔する。
両拳を握りしめ決意したのはいいけれど、ここで問題が一つ。
私はどうしているべきだろう。ベッドの上で正座? やる気あり
過ぎる。ベッドの下で貞子さん? こういう場面で別の女性に成り
きるのはよくない気がする。床で土下座? ある意味これが一番正
解な気が。
1141
ベッドに座るのもなんだか躊躇われて、壁に凭れて直に床へ座る。
なんとなく窓の下に座ったら、凭れた壁が寒くてお尻を引きずって
横にずれていく。暖炉の火はとても小さくて、部屋の中は深々と冷
え込んでいる。寒くない位置まで移動して、ようやく一息ついた。
一人で部屋にいる間に、私なりにいろいろ考えたことをアリスに
伝えてみたら、もう、この馬鹿誰か何とかしてくれという目で見ら
れた。でも用意してくれるらしい。ありがとう、アリス。凄く頼み
づらい内容でごめんね。
私的には名案のつもりなんだけど、名案であろうが妙な案であろ
うが、どっちにしてもルーナにも話しておきたい。それは事に及ぶ
前に話すべきか否か。ムードって大事だけど、明日の話し合いも凄
く大事だ。後で話し忘れても困るし、やっぱり先に話そう。
そう決意した時、ノックが響いた。
﹁はい、どんぞ﹂
噛んだ。
扉が開いて、いつもの無表情の男の人が入ってくる。そして、ぎ
ょっとして部屋の中を見回した。
﹁い、いない!? いや、確かに返事が!﹂
﹁いる。どけ﹂
﹁だが!﹂
﹁⋮⋮お前、部屋の中で見ているつもりか? そこまで無粋だと、
いっそ酔狂だと笑うぞ﹂
男の人はぐっと詰まって、もう一度部屋の中を見回す。ここにい
いますよと手を振ったら、再度ぎょっとされる。しかしすぐに表情
を取り繕い、失礼しますと頭を下げて出て行った。
ルーナは無造作に花を踏みながら歩いてくる。まあ、これだけ敷
き詰められていたら避けるのも一苦労だ。
﹁気分が悪いか?﹂
1142
﹁何事が?﹂
ひょいっと覗き込んできたルーナに首を傾げて、自分の待機場所
が悪かったとようやく気付いた。壁とベッドの隙間に体育座りして
たら、そりゃあ驚かれるだろう。単に窓際と窓側の壁に凭れたら寒
かっただけです。すみません。
﹁冷えるぞ﹂
伸ばされた手にお礼を言って立ち上がる。そのまますとんっとベ
ッドに誘導されて、隣にルーナが座った。ルーナの体重でベッドが
揺れた瞬間、いきなりとんでもなく恥ずかしくなる。最近ずっと抱
き合って眠っているのに、まるで初めて抱きしめ合った日のようだ。
﹃あ、あの、ルーナ!﹄
﹁⋮⋮ああ﹂
﹃私なりに色々と考えたんだけどディナストは別に私が好きでも何
でもなくてただ私で遊びたいだけだと思うからこっちからゲームを
提案してルーナ達が来てくれるまで逃げまくろうと思うんだけどや
っぱり甘いかなでも結構いける気がするんですよちょっとしか話し
てないけど自分が楽しめると思ったことには乗ってくるタイプな気
がしてだから色々考えてアリスちゃんに話したらお前馬鹿だなって
目をされてついでにお前馬鹿だなって言われたんだけど用意してく
れるって言ってくれたから明日はその装備で挑もうと思って﹄
﹁カズキ﹂
﹃ちょっと動きにくいけど備えあれば憂いなしって言葉が日本には
あってね大は小を兼ねるっていうのもあるけどこの場合の大って何
だろうって考えて結局分からなかったから数で押してみようって思
ってそれで﹄
﹁カズキ﹂
静かな声が私を呼ぶ。剣を握って硬くなった掌が触れたとは思え
ないほど柔らかく、頬に触れる。
1143
﹁泣いていいよ﹂
指先が頬を滑って目尻を撫でていく。
ルーナは、ずるい。
堪えているのを分かっていて、そう言うのだ。だからこれは、ず
るいじゃなくて酷いのかもしれない。ルーナは酷い。好きな人の前
では綺麗に、は、なれないけど、せめて普通の人の顔をしていたい
という乙女心を放り投げる。乙女心と私の顔をぐしゃぐしゃにして
しまう。ああ、なんて酷いのだろう。酷い。酷過ぎる。ルーナは酷
い。
酷く、優しい。
お風呂から出てそんなに経っていないのに、歯の根がかちかちと
鳴るくらい寒い。寒くて寒くて。この震えが寒さだと、思っていた
かったのに。
震える私の手を握り、ルーナはもう一度私の名前を呼んだ。
﹃こ、怖い﹄
﹁⋮⋮うん﹂
﹃行きたく、ない﹄
﹁⋮⋮俺も、行かせたくないよ﹂
ぐちゃぐちゃになった顔を隠すことも出来ない。
﹃こんなの、いやだぁ⋮⋮!﹄
嫌だ。こんなの嫌だ。
なんで無いの。なんで、こんなことしなくていい方法が無いの。
行かなくていい方法があるなら何でもするよ。
私が逃げても自害しても、エマさん以外を殺すって言われない方
法があるなら。
何でも、するのに。
1144
ディナストに引き渡されたくなくて探した方法が、ディナストに
引き渡されるという結論に辿りつくってどういうことなんだ。
そう叫びたかった。でも、誰に言えるのだ。国を守るために私を
犠牲にするともう決めているガリザザ兵に言う? 何の為に? 今
の今まで、ルーナに会いたいという願いすら叶えてくれなかった彼
らにそれを言って、それで、何になる。そんな事を言って解放して
くれるくらいなら、最初から私を捕まえにはこないのに。
ただ椅子に座って悶々としていただけの私より余程憔悴したアリ
スちゃんに言う? 何か手がないかと考えて考えて、そうして見つ
けられなかった希望に、私より打ちのめされたアリスちゃんに何を。
死が救いだと思わせてしまうほど追いつめたアリスに縋りついてし
まった上に、これ以上どうするの。
頭のいい人は、私が考える何百倍もの恐ろしいことを分かってい
る。私が想像するより何百通りもの苦痛を想像できる。それはルー
ナも同じだ。そんな人達が必死に考えてくれて尚、希望が見出せな
かったというのなら、もう、私にできるのは頑張ることしかないじ
ゃないか。泣いたって、ルーナを苦しめるだけで何の解決にもなら
ないじゃないか。
なのに、ルーナは泣かせてくるから酷い。
嫌だよ、ルーナ。時間が勿体ないよ。どんなに恐ろしくても、嫌
でも、気持ち悪くて吐きそうでも行かなきゃならないなら、せめて
今くらい楽しく過ごそうよ。優しく幸せな時間で過ごそうよ。
﹁俺はお前に泣いてほしいとずっと思っていたけど、泣かせたいわ
1145
けじゃないんだ⋮⋮⋮⋮なんで、世界はお前に厳しいんだろうな。
なんで、この世界の人間は、無尽蔵にお前達に甘えていけると思う
んだろうな﹂
ああ、でも、ルーナが言えなくなるのは嫌だな。言いたくないけ
ど聞きたくないわけじゃないんだよ。というか、もう、どうすれば
いいのか分からない。何が正しいのか何が正しくないのか。誰が悪
くて誰が泣いて、何が酷くて何が悲しいのか。
手を握られているから顔を覆うことも出来ない。ぐちゃぐちゃに
なった顔を見られたくなくて俯いたまま、唇を噛み締める。
﹁カズキ、お前には想像つかないかもしれないけど、世界には、死
にたくなるだけじゃなくて、女に生まれたことや、生きていること
を後悔させるような方法が沢山ある。⋮⋮俺はもう、お前を失いた
くはないよ。壊されるのは、嫌だよ。どんな意味でも、失いたくは、
ない、のに﹂
両手を握っていた手に肩を押されて後ろに倒れ込む。柔らかいベ
ッドは私の身体を跳ねさせはせず、沈みこませるだけだった。でも、
その感触を楽しむことはできない。
ルーナの手は、私の首に回っていた。
まだ触れているだけなのに、もう息ができないほど苦しいのは、
首を絞めるその人のほうがよほど苦しそうな顔をしているからだ。
﹁痛いんだ、カズキ。お前がくれた人間の心が、苦しいんだ。こん
なに苦しいなら、いっそ人形兵器と呼ばれていたままだったら良か
ったと、思うほどに﹂
ルーナは、もう人形だなんて呼べるはずもない瞳を、苦しげに歪
めた。
﹁俺が人形兵器でいられたのは、無くすものがなかったからだ。失
1146
うことを恐れるものがなければ何だって出来る。明日も命もいらな
いなら大抵の無茶は出来る。だけど、お前が心をくれた。お前が俺
を人間にした﹂
﹁ルー、ナ﹂
徐々に力が篭もっていく腕が、恐ろしいとは思えない。ただ、悲
しい。悲しくて、苦しくて、恋しい。
﹁痛いんだ、カズキ。お前を失うくらいなら、壊されるくらいなら、
いっそここで一緒に死にたいと思ってしまうくらい、痛いよ、カズ
キ﹂
殺されるわけにはいかない。死んだら、アリス達が殺される。で
も、ルーナの腕を振り払うことができない。怖くはないのだ。いっ
そそのほうが幸せじゃないかと、思ってしまう。怖いなら、痛いな
ら、苦しいなら、終わったほうがましなんじゃないかと。そうした
ら、もう、何も恐れるものはないのだ。明日なんて、来なければい
い。
ここで途絶えてしまえば、ずっと、ずっと、この夜の中にいられ
るのだ。
そう思うのに、それでも。
ルーナ。
それでも私は。
私の首にかかったルーナの腕の肉が盛り上がり、腕の筋が浮かび
上がる様が目に見えるほどの力が籠もる。
それでも、私の呼吸は止まらない。
ぱたりと、雨が降る。
ぱたりぱたりと、頬に雨が降ってくる。
水色から溢れだした雫は、水晶よりも美しかった。
﹁なのに俺は、お前を知らずに生きていきたかったとは、どうして
1147
も、思えないんだ﹂
腕の力はルーナの中で止まり、私にまで届かない。どこまで、こ
の人は一体どこまで優しいのか。
身体の横に投げ出していた腕を持ち上げ、硬く強張る腕に触れる。
﹃ルーナ、私、死にたくない﹄
二人分の涙で溺れそうだ。
﹃約束、したんだよ。リリィと、アリスと、皆に、死なないって。
絶対、生きて、帰るって約束して、だから、諦めたく、ない。私、
行ってきますって言ったんだよ。ばいばいじゃなくて、行ってきま
すって。だから、さよならしてないから、ただいまって、帰るんだ
よ﹄
ルーナの涙と私の涙が混ざり合い、頬を伝い落ちていく。
﹃ルーナ、私、生きていたいよ。ルーナと、生きていきたいよ。そ
の可能性が少しでも残ってるなら、それに、縋りたい。ルーナ、私、
生きて、ルーナと、ルーナ、とっ⋮⋮﹄
自分でも何が言いたかった分からないただの感情の羅列を、ルー
ナは、重ねた唇の中に全部飲み込んでしまった。
暖炉の火が小さかった理由がようやく分かった。
熱くて熱くて、溶けてしまいそうだ。
触れる場所も吐き出す息も、吸いこむ空気も、全部が熱い。
﹁⋮⋮これが十年前の続きなら、お前は消えてくれるのか﹂
﹃やだ、なぁ、ルーナ。人間は、そう簡単には消えないよ﹄
﹁瞬きの間に消えた奴が何を言う﹂
﹃私も、瞬きの間にルーナが消えて凄まじく驚いた!﹄
1148
ルーナが天井になって、そりゃあもう、心底驚いたものだ。
その時の気持ちを思い出し、状況も忘れて握り拳で力説すれば、
噴き出して笑ったルーナの汗が降ってくる。
﹁⋮⋮そうか、お前からすれば、消えたのは俺か﹂
小さく笑って降りてきた唇を重ねて、私達は夜を生きた。
夜は、痛くて苦しくてつらくて悲しくて。愛しくて恋しくて幸せ
で。
明けない夜はないのだというフレーズが、これほど恨めしいもの
だったとは知らなかった。
人質十五万人の解放と引き換えに私が中に入って、その後の十五
万人が解放という流れになっているそうだ。後の十五万人が解放さ
れないんじゃないかという話もあったけど、必ず解放されるだろう
と見る人のほうが多かった。ディナストは、良くも悪くも提示した
条件は守るのだ。
人質がいなくなったと同時に、連合軍が攻め入る。普通、籠城し
ている相手を落とすには三倍以上の戦力がいると聞く。ディナスト
についている兵士は少ないから、三倍くらいは余裕でいると思う。
それでも、どこも今までの戦いで戦力を削られた後だから、負傷兵
が多い。
今まで落とされたことのないエルサムは、堅城と呼ばれる都だ。
ぐるぐる回るモンブランのような地形の上にある宮殿までの道のり
は、ただでさえ罠が仕掛けやすいのに、そこに爆弾が加わったら時
間がかかるのは私でも分かる。
それでも、何の価値もない私と人質三十万を引き換えにするよう
1149
な馬鹿がディナストだ。私が一人いたところで盾にもならない。現
に、人質を解放し終えたら連合軍はエルサムを落しにかかるのだし、
ディナストだってそれは分かっているはずだ。でも、虎の子で命綱
のはずの三十万を解放する。私で、遊ぶために。
だから、それに賭ける。
甘いのだろう。世間知らずの馬鹿娘の浅知恵だろう。それでも、
何もせずに諦めるのは嫌だ。考えるのは止めない。抗うのは、止め
ない。最後まで何も諦めずにいようと決めていた。
だって、帰りたい場所がある。叶えたい約束がある。
その為なら、どれだけ無様でも足掻いてもがいて、ぐちゃぐちゃ
のぶさいくになっても鼻水啜って頑張るのだ。そんなでろでろの泣
き顔を晒しても、この人達は絶対嗤ったりしないから。
私の渾身の作戦を聞いたルーナは呆れながらも手伝ってくれた。
最後に寒くないよう外套を巻いてもらって完成だ。ガリザザ兵によ
ると、着飾る用意もされていたらしい。でも、なんでディナストに
会いに行くのに着飾らなければならないのか、三十文字以内で説明
してほしい。それ以上だと、馬鹿には理解できません。
飾りは要らない。だって、胸元に二本、耳元に一つ。いつでも揺
れてくれるお守りがあるのだ。
﹁剣は、どうするの?﹂
両目を腫らしたユアンが、短剣を両手で抱えている。
﹁所持してはいかないよ﹂
﹁でも、やっぱり持っていったほうがいいよ! 剣がないと、身を
守れないじゃないか!﹂
﹁だって私、扱えぬもの﹂
剣を扱えない私は、剣を持っていた方がきっと危険になるだろう。
1150
誰かの剣を受け止めることも、弾き返すことも出来ないのに、武器
を持っているという事実が相手を警戒させて手加減を躊躇わせる。
使えない武器では戦えない。
私は私の武器で行くしかない。無知は、たった一回しか使えない
武器だ。一度知ってしまえば二度と無知には戻れない。
無知だからやれる馬鹿がある。無知だから乗れる調子がある。
玩具になれというのなら、剣より無知を携えていく。
アリスは何も言わず私の前に立った。昨日の今日だから、ちょっ
と向かい合いづらい。照れを貰い事故させてごめんね、アリスちゃ
ん。
﹁おい、たわけ﹂
﹁突然のたわけを頂戴致しました!﹂
何故!?
もう立っているだけでたわけオーラを放出するほどの領域に達し
たとでもいうのだろうか。
そんなことを思っていた視界がアリスちゃんの胸で埋まる。深く
抱きしめられて、思わず抱き返す。
﹁何時如何なる時も、お前は私の親友であり、私はお前の親友だ。
何があろうと、それを忘れるな。お前がどれだけたわけで鳥頭で救
いようのない馬鹿であろうがだ!﹂
﹁了解よ! 私はたわけでとる頭で救いようのなき馬鹿であるよ!﹂
﹁そこではないわ、この、たわけ︱︱!﹂
頬っぺたみょんみょんがくるかと思いきや、変化球でひょっとこ
だった。
飽きさせず予測をさせない攻撃。流石アリスちゃん! アードル
ゲ唯一の男子!
﹁カズキ﹂
1151
振り向けば、ツバキを伴ったエマさんが入ってきた。
﹁エマさん凄まじくお綺麗よ!﹂
正装なのだろうか。何枚も布を重ねているのに、肩とかは透けて
いて、ちょっと寒そうだ。アラビアン! インド!? なんかそん
な感じ!
でもこの格好、たぶん男性用だ。だから、可愛いよりかっこいい。
エマさんが動くたびにちゃりちゃりしゃりしゃり音がする。目の
前で止まったエマさんが拳を握りしめた。その手に包帯が巻かれて
いて首を傾げる。
﹁⋮⋮⋮⋮今は、謝らん﹂
﹁宜しいと思うよ?﹂
そもそもエマさんは止めようとしてくれたのだから、今でも後で
も謝らなくて別にいいと思いますよ!
﹁⋮⋮私が自国の兵すら掌握できない結果を、これを、別にいいよ
とイツキみたいに許されるわけにはいかんからな。⋮⋮⋮⋮いいわ
けがあるか!﹂
私はイツキさんではありませんが、なんかすみません! 別にい
いですよと言わなくてよかった! 言ってなくても怒られたけど!
真顔で指差された。
﹁顔に書いてある﹂
消して頂けると嬉しいです。
ごしごし顔を擦っている私を、エマさんが抱きしめた。
﹁必ず迎えに行く﹂
﹁再度のお越しを、おもち申し上げていりますよ! 更にエマさん、
手の負傷は如何した?﹂
﹁え? ああ、えーと﹂
彷徨った答えをツバキが引き取る。
﹁あんたの所に行こうとされて、塞がれた窓をこじ開け、爪を剥い
でしまわれたんだ﹂
﹁エマさ︱︱ん!?﹂
1152
﹁刺繍然り、裁縫然り、芋の皮むき然り、細かい作業は苦手なんだ
!﹂
窓をこじ開ける作業は細かい分類に入るのだろうか。ルーナは壁
をぶち破った訳だけど、皆頭いいのにわりと力づくである。出して
と言っても聞いてくれなかったんだろうなぁと私でも分かった。ル
ーナは言う前にぶち破ったけど。
﹁エルサムへは俺とあんたが入る﹂
﹁ツバキも?﹂
﹁俺は、居所を知らせず長く離れているわけにはいかねぇんだ。そ
の場合、イツキ様が殺される﹂
﹁おおごとよ﹂
﹁ほんとにな﹂
そうか、一人じゃないのか。嬉しいのかと問われると、手放しで
喜べる人選ではないけれど、まあ、一人よりは。
そろそろ時間だと言われて外に出る。
外には、見たことのない数の人間がいた。
モンブランみたいな街を囲んだ、違う鎧を着た人達。街から生気
のない顔でぞろぞろ吐き出されてくる人達。それらを歓声を上げて
迎える人達。
いいなぁ。私もあっち側がいいなぁと、この期に及んでまだ思う。
上で決まったことに左右されて、なんとなくいつの間にか助かって
るほうが、どれだけいいか。
そんなずるいことを考えて、ルーナと手を繋いでガリザザ兵の間
を歩きだす。人々の顔はそれぞれだ。無表情の人、目を伏せる人。
憎悪や怒りを映した人があまりいなくて意外だった。
結構遠い場所に、見慣れた鎧が並んでいるのが見える。遠いから
1153
確実にそうだとはいえないけれど、あれはルーヴァルだ。もっと近
づけば、もしかすると見知った人を見つけられるかもしれないけど、
あいにく目指す先はモンブランだ。モンブラン食べたい。
ガリザザ兵の間を黙々と歩いていると、酷く不思議そうなナクタ
が頭領さんとシャルンさんに挟まれている前を通った。
﹁なあ、カズキ、どこいくんだ? そっちじゃねぇだろ? なあ、
おかしくねぇか? なんで? お前ら何でなんにも言わねぇんだ?
なあ、こんなの、おかしいんじゃねぇのか? なあ、親父、シャ
ルン、なんで? 人の所為にするなって、大人がおれらに教えてる
んじゃねぇのかよ。なのに、なんで? なんでこいつら、全部カズ
キの所為みたいにしてるんだよ。なんで、それなのになんで、てめ
ぇが傷ついたみたいな顔してるんだよ!?﹂
いろんな感情が渦を巻く。誰かの弱さが、誰かの強さが、全部混
ざって混沌とした雰囲気が出来上がった。こうなると分かっていた
人も、なんでこうなったのか分からない人も、感情を制御できず叩
きつけるだけの人も、全部放り出して逃げた人も、何も放り出せず
立ち止まった人も、憎まれる人も、憎まれ役を引き受けた人も、こ
うならないよう努力していた人も、こうなるよう走っていた人も、
誰かに愛される人も、誰かを愛す人も。
その全てを合わせて、世界と呼ぶ。
この世界は、強制的に進化させられてしまった。
本来なら、誰かが概念を思いつき、それを現実に出来るか思い浮
かべ、実際に試して。
そうして進むはずだった過程を飛び越して、爆弾という結果だけ
が与えられてしまった。
歩き始めたばかりの幼子でも戦士を殺せる兵器。そんなの思いつ
きもしなかった人達に、結果だけぽんっと与えられたそれは、まる
で魔法だ。現実感を伴わない凶悪な兵器。そんなものあるわけがな
1154
いと笑っている間に飲み込まれ、世界は混乱を極めた。
これは進化だった。けれど、概念すらなかった世界には早すぎた。
いつか誰かが思い浮かべ、そんなの出来ないと言われつつも浸透さ
せていったのなら何かは変わったのかもしれない。その結果、似た
ようなことになったのだとしても、この世界で完結する問題だった
のだ。
核を考えた人がいた。作った人がいた。使った人がいた。使う人
々がいる。
それは、あの世界を生きてきた人達が選んできた結果で、正しい
か間違っているかの論争でさえ自分達のものだ。
だけど、この世界は違う。
爆弾が持ち込まれた。バクダンを使った人がいた。バクダンを使
う人がいる。
世界は、誰の覚悟もなく、強制的に進化した。正しいか間違って
いるか、世界が責任を判じる前に現れて、使われてしまった。過程
を得なかった進化の混乱を、責める場所が分かりやすかったから、
余計に誰も考えなくなった。自分達の所為ではない、だって世界す
ら違う人間が持ち込んだ。せめてこの世界で生まれた兵器であった
のなら、もっと自分達の事として考えられたのだろうか。自らに降
りかかる悲劇としてだけじゃなくて、それを知った自分達がこれか
らどう向き合っていくかまで考えなければならないものだと。あれ
はただの災厄ではない。自然災害が齎す現象ではない。持ち込んだ
人間をどうこうしたところで、最早バクダンは消えてなくならず、
この世界に現れてしまったのだ。
だけど、いつかは気づくだろう。一段落した後に、これからどう
すると考える日は必ずやってくる。どうやったって明日は来るのだ。
生きている限り、明日は続くのだ。
バクダンを知った世界でどうやって生きていくのか、考えなきゃ
いけない時は、絶対にやってくる。あれはただの物だ。幾ら魔法の
ように突如のこの世界に現れたからといって、自然発生するものじ
1155
ゃない。自然が齎す脅威じゃない。人が齎す、禍だ。
バクダンを脅える恐怖の象徴としてではなく、ただの物として捉
える為には、人の心に考える余裕がいる。脅かされている真っ最中
にそんなことを考えられる人は少ない。
そして、目に見える分かりやすい終幕は、もうそこに見えている。
ぞろぞろと吐き出されてくる人の列が途切れた。
ぽっかりと開いた大きな門の奥にディナストがいる。その隣には、
ヌアブロウもいた。ずいぶん久しぶりだ。もう忘れてましたと言い
たいけど、ルーナを斬ったあの人をそう簡単には忘れられなかった。
﹃ねえ、ルーナ﹄
﹁ああ﹂
﹃イツキさんを助けて、私も助かって、全部一段落したらね﹄
繋いだ手に力を籠めると、それより少し強い力で握り返してくれ
た。
﹃神様とか、岩で砕ける荒波とか、なんか色々に向かって、ばかや
ろーって怒鳴る気がする﹄
﹁既に充分怒鳴る資格があり過ぎるけどな﹂
立ち止まった私達に焦れたのか、外壁の前に立つ兵士が黒曜を引
き渡せと指示を飛ばしてくる。
﹁⋮⋮おい、行くぞ﹂
﹁了解よ﹂
静かに促してきたツバキに頷いて、ようやくルーナを見上げた。
見たら離れ難くなるから、ぶれないよう前だけ見ていたけど、やっ
ぱり勿体なかったかもしれない。ずっと見ていればよかった。いや、
でも、見てたら泣きそうだからやめといて正解か。
まっすぐに見下ろす水色の瞳は、やっぱりどう見たって人形の眼
には見えない。ガラス玉なんかじゃない。もっと光を放つ、人間の
1156
宝石だ。
﹃頑張ってきます!﹄
﹁すぐ行く﹂
﹃うん!﹄
ぎゅっと握りしめた手を支えに、触れるだけのキスを交わす。
﹃行ってきます﹄
﹁⋮⋮すぐに迎えに行くから、絶対に帰ってこい﹂
﹃お任せあれ!﹄
立ち止まったルーナから後ろ向いて下がりながらも、手は離れな
い。届かなくなる最後の最後まで、指先は触れたままだった。
たくさんの視線の中を黙々と門まで歩く。日本では得るはずのな
かった経験だ。だけど、もうすっかり慣れっこです。私、アイドル
だって目指せるかもしれないよ! だって、こんなにたくさんの人
の前を歩けるんだよ! とか胸を張っていたら、震えていた足が調
子に乗るなと怒ってきた。普通にすっ転んだ。べしゃりと顔面から
いった。
﹁⋮⋮⋮⋮おい﹂
﹁一人で立ち上がられるよ﹂
貸してくれようとしたツバキの手を断って立ち上がり、三歩で再
び転んだ。べしゃりとすっ転んだ体勢のまま思う。転ぶにしても、
なんというかこう、儚げとか可憐な転び方ってあると思うのだ。何
が悲しくて全身を使った躍動感ある転び方を、この大多数の前に曝
さなければならないのか。
門に辿りつくまでにもう一回転んだけれど、その先でディナスト
は待たされたことを怒るでも不満げにしているわけでもなかった。
心底楽しそうに笑っている。
﹁生きていたとは面白いなぁ、黒曜。あのまま死んでいれば楽であ
っただろうに﹂
﹁生存致しているほうが、楽しいよ﹂
1157
﹁ふうん?﹂
顔立ちはエマさんに似ている。やっぱり姉弟なんだ。性格は、顔
が似ていると思うことすら申し訳なく思うほど似てないけど。
﹁次の排出の用意で一旦閉める。恋人と別れを惜しむなら今の内だ
ぞ?﹂
ちゃんと行ってきますもしたし、別れなら昨夜散々惜しんだ。嘘
です。明け方まで惜しみました。朝食食べてても惜しみました。
でも見る。
大きな扉がゆっくりと締まっていく。まっすぐこっちを見ている
ルーナに、ちょっとだけ持ち上げた掌をひらひらと振った私の腰が
掴まれる。なんだと思う間もなく顎も掴まれ、思いっきり上げられ
た。
﹁な!?﹂
押しのけようとしてもびくともしない。えげつない笑顔を浮かべ
たディナストの唇が重なると同時に、門が閉まる音がした。
咄嗟に唇を引っ込め、ディナストに噛みつかれたのは口の回りだ
けだからセーフだ!
入れ歯を外したお婆ちゃんみたいな口になったけど、セーフだか
ら問題ない!
ただし、顔面的にはアウトだった気がする。
1158
89.神様、少々しょっぱいこれが私の全力戦争です
私の顔を見たディナストは、思いっきり噴き出した。噴き出され
る顔である自覚はある為、特に感想はない。自分の反射神経を褒め
称えるにとどめた。
﹁顔を背けたり、気の強い女は頬を張ろうとしてきたが、唇のみ逃
げられたのは初めてだぞ﹂
声を上げて楽しそうに笑う顔が、やっぱりエマさんに似ていて、
思わず目を逸らす。逸らした先にいる今まで見た中で一番身体の大
きい男に、やっぱりクマゴロウだ、クマそっくりだと思った。
ヌアブロウは何も変わっていない。ブルドゥスにいた頃から、い
や十年前砦にいた頃から変わらぬ姿でそこにいる。大人の見た目の
変化なんて、子どもに比べたら微々たるものなのかもしれない。で
も、国を裏切り、海を渡り、大陸全てを敵に回した人とエルサムに
立て籠もって。そんな過程を得て尚、雰囲気すら変わっていない気
がする。
世界は変わった。けれど、彼は変わらない。それがいいことか悪
いことかは、分からなかった。まあ、見た目以外を変わった変わっ
ていないと判断するほど知らないのだけど。
私が見ていることにヌアブロウも気づいた。視線が合う。お前は
あの時殺しておくべきだった。あの時、そう断じた人の瞳は、すぐ
に門を向く。ああ、彼は既に、私になど興味はないのだと気づく。
じりっとした熱が彼を取り巻いている。横顔で分かるほどの壮絶な
歓喜が、その顔には浮かんでいた。その視線が向く先は、扉の向こ
うの戦場の気配か、ルーナか、アリスか。
1159
もうブルドゥスに見切りをつけたのか。だから私へのあのどろり
とした憎悪は失せたのか。
それとも、今から始まる戦いが嬉しすぎて、どうでもいいのか。
ぐいっと腕を引かれてたたらを踏む。ディナストはぐいぐいと私
を引っ張り、馬に引きずり上げた。
﹁全員、ここまでご苦労﹂
敬礼をした人もいた。頷くだけの人もいた。何の反応も返さない
人もいた。酷くばらばらの兵士達は、それでも誰一人違えることな
くディナストを見上げる。変な軍隊だ。軍隊と呼んでいいのかも分
からない、服装すらばらばらの人達は、奇妙なほど違和感がなかっ
た。
ディナストは鋭い声で馬のお尻を叩く。乗っている人間に何の遠
慮もなく馬が跳ね、凄まじい速度で走り出す。落ちたら死ぬ。でも
ディナストにしがみついてなるものかと、暴れ回る馬の鬣を渾身の
力で握りしめ、太腿に力を入れる。
﹁ではな諸君! 後は好きに遊んで、好きに死ね!﹂
なんだ、それ。世界中を混乱に巻き込んだトップに立つ人が締め
る言葉にしては、やけに簡単ではないだろうか。
そう思ったけど、馬はもう走り出していて、全てはあっという間
に消えていった。
同乗者の事を考えていない人が繰る馬に乗ると、こんなにも世界
が回るのだと初めて知ったかもしれない。今までいろんな人の馬に
乗せてもらったけど、荷物みたいに担がれた時でさえ一応気にかけ
てもらっていたんだなぁと、今更知る。
上下に揺れているのか左右に揺れているのか、それとも同じとこ
1160
ろをぐるぐる回っているのか。全く分からない!
うげろっぱするぞ、してやるぞ、覚悟しろ! そう唱えながら目
を回していると、突然馬が止まった。息をするのも忘れていて、よ
うやく呼吸を思い出す。
﹁見ろ、黒曜。あれが俺を殺す軍勢だ!﹂
何が楽しいんですかね。
ぐったりとしながら顔を上げる。いつの間にか地面がずいぶん遠
くなっていた。どうやら、モンブランの半分くらいを駆け上がって
いたようだ。
視界いっぱいに人がいる。残りの人質が解放されているようで、
ぞろぞろと波が移動して外に混ざっていく。あの人達が出たら門が
閉まって、攻城戦が始まる。
ルーナはどこにいるんだろう。望遠鏡欲しい。
﹁ヌアブロウが楽しそうで何よりだったなぁ﹂
あ、やっぱりあれは楽しそうだったんですね。
楽しそうというには、壮絶な歓喜だったけど。
﹁あれは戦場でしか生きられん男だからなぁ。戦場を奪われ、戦場
以外の場所で腐り死ぬのは我慢ならなかったのだろうな。あれは、
死に様にはこだわらんが、死に場所にはうるさい部類の男だ。俺の
下についている奴のほとんどはそういう一風変わっていると呼ばれ
る奴らばかりでな。御しづらく退屈させん奴らだった。しかし見事
に、他にいてもつまらんからとついてきた奴ばかりが残ったな﹂
﹁そして、集めて、貴方は何事を行いたかったの﹂
﹁遊んだだけだが?﹂
何を分かり切ったことをと返されて、ぽかんとすると同時に、や
けに納得した。こんな状況になって尚、彼らの中には悲痛さも悔し
さも見つけられない。願いが既に叶ったのか。それとも、目指した
わけではなかったからか。
1161
﹁ヌアブロウは死に場所を望んだが、他の奴らは基本的にその過程
を存分に楽しんできたぞ。俺も含めてな。だってなぁ、つまらんだ
ろう。せこせこ金を溜めても使えるのはせいぜい数十年。ちまちま
権力を手に入れても、これまた使えるのは数十年。維持する労力を
考えると、全くわりに合わん﹂
馬が動き出す。今度はかっぽかっぽとのんびりしたものだ。よう
やくまともに街の形状を見ることができる。上から見た感じだけど、
店は下のほうにあるみたいだ。この辺りでもぽつぽつお店はあるけ
れど、どちらかというと凝った装飾の家のほうが多い。上に上がる
ほど貴族の人の家になっていくようだ。でも、不便さは増すような
気もする。
﹁清く正しく生きようが、欲のみで生きようが、どちらにせよ死で
終わる。王族として生まれたのなら、他国民は虐げても自国民は守
れとぬかす奴らもいたが、そうして生きた結果を奴らが背負ってく
れるのか? 誰の言葉で選択しようが、どうせ背負うのは俺だ。こ
うしろああしろ、理想だ摂理だ正義だの言う奴らは、自らが掲げる
正義とやらの責任は負わんからなぁ。なら、やりたいようにやるの
もまた手だろう? 我慢するのも馬鹿らしい。だが、見ろ、黒曜﹂
指がぐるりと街を撫でていく。ディナストを討つために集まった
大陸中の人々がこっちを見上げている。
﹁好き勝手やっても、人はこれだけのことができるというわけだ﹂
﹁⋮⋮それは、楽しい事態か?﹂
﹁さあてな。だが、清く正しく生きる奴らには決して見ることが叶
わぬ景色だ。平坦に生きていては見れぬ景色、得られる記憶もまた
尊いではないか﹂
分からない。何を言っているのか、全く分からない。一応言葉は
聞こえているのに、単語としての意味は分かるけど、文章の意味が
全く分からない。
﹁得難いものにこそ人は価値を与える。ならば、何より価値あるも
のは、誰も到達した事のない史上最悪の人災ではないか?﹂
1162
﹁貴方は、価値ある人と成りたかった?﹂
﹁いや? 退屈こそが悪であるとは思っているが、人が与える価値
になど興味はないな﹂
分からない。今まで散々何やってんだこの馬鹿と言われてきたけ
ど、今の私の気持ちはそれである。まさかこの感想を自分以外の人
に持つ日がこようとは思わなかった。
何言ってるのこの人。
私が馬鹿だから分からないのか、それとも誰も分からないのかす
ら分からない。お願いですから日本語でお願いします。いや、日本
語でも分からない気がする。
﹁だが、面白いではないか。人は感謝より憎悪を覚える生き物だ。
どれだけ感謝を覚えても、次の些細な不満に塗り替える。正しさを
尊いといい、有難がるくせに、記憶に残るのは些細な不満だ。なら
ば憎悪ばかり覚えればどうなるかと思えば、自分より弱い者を探し
出す。復讐に来るかと思っていたんだがなぁ。だが、その弱き者の
身内に復讐されて、ひいこら泣き喚くさまは面白かったな! 自分
は手を出してこなかったのに、そいつに向かって、元凶は俺だと泣
き喚く! いやぁ、最高だった! つまり、元凶はこの俺だと分か
っていながら、手が届く範囲に八つ当たりしていると分かっていて、
弱き者を殺したんだぞ!? 身勝手ここに極まり! だが、俺の身
勝手のみが悪であると断じる様は面白くも不思議でなぁ。民草にと
っては、上に立つ者の犯すは罪で、己が犯すは仕様のないことだそ
うだ。同じ罪であるなら同罪であると思うのだが、大多数にとって
そうではないらしい。全く異なことだと思わんか?﹂
何言ってるのか本格的に分からなくなったけど、とりあえず、よ
く喋る人だということは分かった。⋮⋮これ、あれだったら嫌だな。
ちゃんちゃんちゃーん。ちゃんちゃんちゃーん。まあ、ここまでき
て知られたからには死んでもらうなんて理由では殺されないだろう、
と、思いたい。
1163
﹁なあ、黒曜﹂
﹁はあ﹂
呼ばれたのは分かったから返事は返す。
﹁俺はな、生まれた頃から色が分からん﹂
﹁え?﹂
﹁濃淡は分かるが色の識別はつかん。だが、人が発露した時に目に
映る炎の色が判じられる。誰に言っても理解されんがな﹂
驚いて振り返った先で、ディナストの顔がえげつない笑顔に変わ
った。笑顔がここまで凶暴な人はそうはいない。
﹁いろいろ試したが、喪失からの憎悪が一番美しい色をしていた。
この世で一番醜いものは決められんが、美しいものならあれが一番
だと断言できる。だが﹂
不自然に言葉が途切れる。
いつの間にか馬も止まっていた。頂上に辿りついたのだ。
どこかギリシャを思い浮かべる宮殿があった。ここまで柱運んで
くるの大変だろうなとかどうでもいいことがちらりと頭を過るのは、
現実逃避かもしれない。
﹁異界人のものは、まだ断じられるほど知らなくてな﹂
小脇に抱えられて馬から飛び降りる。下についてからぱっと手を
離されて尻もちをつく。痛みに呻く暇もなく、転がるように距離を
取る。あまり、近くにいたくない。あまりじゃなくてもいたくない。
﹁イツキ・ムラカミのほうは、興味が尽きずに少々急かし過ぎた。
あっという間に壊してしまった事を今でも悔いているんだ。せめて
あいつの世話をしていたやつをバクダンで吹き飛ばすのは最後にす
べきだったなとは思っている﹂
ディナストのどこかうっとりとした瞳が、憂いで伏せられる。
﹁一応一人ずつにはしたんだが、飛んできた掌が顔に当たって以来
1164
壊れてなぁ。一応それまでは感情を返してはいたんだぞ? 恐怖、
屈辱、羞恥、痛み、激怒、それらは大体見たが、どうにも憎悪がう
まくいかなかったから吹き飛ばしてみたんだが、あれは失策だった﹂
しょんぼりとした顔と、言っている内容がうまく結びつかない。
セミ、逃げちゃったとがっかりした子どもみたいな顔で、何を言っ
ているのだろう。
﹁この世に二人しかいないからな、お前を滝に落としたのも勿体な
かったとは思っていたんだ。どうせもうすぐ終わるからといいかと
は思っていたが、機会は廻ってくるものだなぁ﹂
ぱんっとディナストが手を打ち鳴らす。
﹁さあ、逃げろ黒曜。捕まえたら一枚ずつ剥いでいく。お前の仲間
の手が届くまでその身を守り切ってみせるがいい﹂
﹁は?﹂
﹁安心しろ。中に残っている奴らは手を出してこない。追うのは俺
だけだ﹂
何を言っているのか分からない分からないと思っていたら、単語
もうまく分からなくなった。楽しそうに笑う男の後ろで轟音と共に
爆炎が上がる。始まった。
﹁この遊戯は今まで何度かしてきたが、結構いいんだぞ? 恐怖に
怒りに羞恥に絶望。大抵の感情が見られる。大体見終わったなら、
死の恐怖はまだイツキでは見ていないから試してみよう。だから、
それまで飽きさせることなく逃げ惑うことだな﹂
一歩近づいてきたディナストから、反発する磁石のように身体が
押されて駆け出す。何も理解できないまま宮殿に飛び込む。走りな
がら必死に考える。ルーナ達が此処まで来てくれるのにどれくらい
かかるのだろう。三日? 四日? 七日? 十日?
⋮⋮よく分からないけど、とにかく逃げよう。
全く分からないディナストを少しでも理解できないかと話を聞い
てみたけど、驕っていたようだ。馬鹿でも分かるように話をしてく
れていた人達に囲まれていたから忘れていた。馬鹿に難しい話は分
1165
からない!
理解できたところで、説得も納得も、できるとは最初から思って
いないけれど。
構造も広さも全く分からない、異世界の、異国の、初めてきた宮
殿を走り回る。広さに比べて、人の気配は驚くほど薄い。嘗てはな
んか高そうなものが飾っていたんだろうと思う場所は空っぽで、絵
は傾いていて埃が積もっている。
とにかく距離を取ろうと走り、脇腹が痛くなった辺りで目に付い
た部屋に飛び込む。窓と扉の中間で立ち止まり、じっと扉を見つめ
て耳を澄ませる。足音がしたら逃げ出そうと耳を澄ませるけど、自
分の息と心臓の音がうるさい。座り込みたいけど、それだと走るの
が遅れてしまう。
足を止めてようやく思考に回せる。
⋮⋮⋮⋮とにかく逃げればいいのだろうか。ルーナ達が助けに来
てくれるまで、逃げて、逃げて、逃げまくれば。
爆音が響いている。外壁から落としているのか、それとも地面に
埋められている分に火がついたのか。その音を聞きながら、ぎゅっ
と手を握り締める。
色々独り歩きした黒曜という名の私が、この大決戦に置いて与え
られた役割。それは、ディナストの個人的な興味の鬼ごっこの追わ
れ役。
﹁⋮⋮⋮⋮なにそれー﹂
世界全然関係ない! ガリザザ関係ない! エルサムすら関係な
い!
そもそも黒曜っていうのは、ここから海を渡った向こう、航海二
か月。グラースとブルドゥスの国境線にあるミガンダ砦の男風呂に
落下した馬鹿の事だ。それが、思えば遠くに来たものだ。
1166
この世界に来ていろんなことがあった。いろんなことに巻き込ま
れて、いろんな人を巻き込んだ。ここでぱぁっと不思議な力に目覚
めて世界を救ったり、天使様が現れて願いを叶えてくれないだろう
か。頭良くなって、華麗に窮地を脱して、どうだこれが異界人の力
だと高笑い。
あり得ない。私は私でしかない。
そんな私に与えられた役が、バクダンを世界に振り撒き、世界で
遊んだガリザザの狂皇子ディナストの鬼ごっこの相手。しかも、黒
曜は関係ない。異世界人であることは重要だけど、知識や技術を求
められるわけではなく、ただただ感情を見せろという興味。
ここまで散々、黒曜だから黒曜がと言われてきたのに、最後の最
後でこれときた。
そんな場合じゃないし、別に楽観的になれる要素はないのに、ち
ょっと拍子抜けてしまう。
では、私とは何か。
ナイフで作っているスプーンは途中だし、まだルーナに見ていて
もらわないと指落としそうになる。ちょっと教えてもらった剣の持
ち方でも指が攣って、自分の足を貫きそうになる体たらく。言葉だ
って、未だにへんてこで、思考は馬鹿一直線。
ちょっとこの世界のことが分かって、ちょっと友達が増えて、ち
ょっと髪が伸びて切られてまた伸びた。
そんな感じの私の名前は、須山一樹。
須山一樹は、ちょっと名前が男の子っぽいだけで花も恥らう普通
の女子大学生だ。そう、普通だ。少々、十か月前に異世界に行って
いただけだ。
その世界で私は恋をした。
一生に一度の恋だ。
1167
そんな私の出来ること。
逃げること。
変わらないこと。
団子の入った野菜スープを作ること。
約束をすること。
約束を、守ること。
ゆっくりとした足音が聞こえてくる。そろりと重心を移動して窓
を掴んでぎょっとした。固定されていて開かない。慌てて椅子を掴
んで息を吸う。足音を殺して扉の後ろに回り、椅子を持ち上げて止
める。
扉が静かに開いていく。思いっきり振り下ろした椅子は剣の鞘で
受け止められ、横に弾き飛ばされる。ディナストの横をすり抜けよ
うとした腕を掴まれ、部屋の中に放り投げられ、背中を打ち付けた。
ディナストは、呼吸が詰まった私のお腹の上にどっかりと座り、
顔の横に剣を突き立てた。
﹁まずは一勝、と﹂
楽しそうに覗き込んでくる顔を睨み返し、押しのける。意外にも
あっさり離れていく。外套を渡すと寒いから、ズボンを脱いで叩き
つける。動きにくかったからちょうどいい。
﹃もってけどろぼ︱︱!﹄
相手がぽかんとした隙に部屋を駆けだす。
﹁うわああああああああああああああ!﹂
どうせ見つかった直後だし、叫んでも叫ばなくても関係ないやと
思いっきり声を張り上げる。何が何でも逃げてやる。何が何でも元
気に笑って帰ってやる。
1168
これは、私に取ったら命がけだけど、あっちにとったら好奇心と
遊戯の一環。でも、決めたルールは守るらしいディナストだから、
守ってもらおうじゃないか。
いろいろ考えた私の渾身の策。とにかく相手がその気にならなけ
ればいいんだ。やる気を削ぎ、気持ちを萎えさせればいいんだと、
考えて考え抜いた大作戦。
韋駄天走りで荘厳な建物内を駆け抜けていく私の足には、もこも
こと重なったズボンが波打っている。
ズボンだけでも後六枚! パンツだけでも十二枚!
上も含めたらまだまだあるよ!
﹃命まで剥ぎ取れるなら剥ぎ取ってみろ、ばかぁああああああああ
あああ!﹄
外で起こっている、恐らく歴史の中に名を残す大きな戦い。
それに比べたら、頂上にいるのに何としょんぼりな戦いのことか。
決死の覚悟でこの悪夢を終わらせようと戦っている人達が見たら、
遊んでるのかこのやろうと思われそうな、なんとも小規模な戦いだ
ろう。
戦いの理由は、ディナストが個人的興味を晴らそうとしているだ
け。
私はそれから逃げているだけ。
世界を決める戦いの上で行われるにはしては、なんともしょっぱ
い戦いである。
だが、どれだけ盛り上がりに欠ける残念な戦いでも、私の世界を
決める戦いだ。
しょせん私などこの程度。黒曜黒曜といわれても、中身が須山一
樹では、どう足掻いても二度見の黒曜の域から抜け出せない。大局
を見ることなんてできない。私は、私が見てきた世界すら端っこし
か知らないのだ。世界の行く末を決める決断なんてできないし、そ
んな案も浮かんでこないし、輝かしい剣術を披露することも出来な
1169
い。
分かるのは、元気に馬鹿やってると大切な人達が笑ってくれるこ
と。元気なく馬鹿やってると大好きな人達が心配してくれること。
黒曜黒曜言っている人達、どうか今の私を見てください! 自分
で着込んだ服が邪魔で汗かいてきました! これが黒曜と呼ばれて
いる須山一樹です!
黒曜は自分達とは違う異世界人と思っている人達の前に躍り出て、
転がり回りながら叫びたい。肩上げづらいと!
絶対帰る。
絶対笑ってルーナに抱きつく。
皆を傷つけるだけ傷つけて自分だけ楽になる死を拒んだ。
ならば、絶対生きて帰ろう。ルーナに、アリスに、あの時殺して
やればよかったと思わせるなんて、婚約者として、親友として、失
格だ。
それに、幾らなんでもこんな理由で殺されるなんて我慢ならない。
否。
﹃どんな理由でだって殺されるなんて嫌だっ︱︱!﹄
ほとんどノンストップで曲がった曲がり角でディナストに足払い
されてすっ転ぶ。
私は、瞳を覗き込んできたお綺麗なその顔に、全力でズボンをも
う一枚叩きつけた。
1170
90.神様、小さな子どもを探しています
ぜえはあ、ひいはあと擦れる息をなんとか続け、痛む脇腹を押さ
えて身体を引きずる。退路がない場所には隠れたくないけど、土地
勘、というか、建物勘がないからさっぱりだ。大きな壺に隠れてい
たら壺ごと叩き割られて心臓が止まりそうになった。
外を見たら、いつの間にか夕暮れになっている。
ずるずると壁に背中をつけて座り込む。あっという間に剥がれま
くった服で、良くも悪くも涼しい。汗が引いてきたから風邪ひくか
もしれない。
鼻を啜りながら白い息を吐きだす。
どうしてこんなにのんびりできているかというと、ディナストが、
疲れた、寝ると鬼ごっこを休止したからだ。今も下では凄い音が鳴
り響き、空より真っ赤な炎が上がり続けているというのに、なんと
も自由な人である。あれは私じゃなくて彼を追いかけてきた炎なの
だけど、それを見つつ、自分の目的より睡魔を優先させた。凄い。
途中で、別に一々脱いで渡さなくても、服に捻じ込んどいて捕ま
ったら渡せばいいと気づいた。捕まる度に、脱いでも脱いでもパン
ツです、カズキマトリョーシカ! とか思ってる場合ではなかった
のだ。
おかげで一々脱ぐ手間は省けたけど、その間に休憩が取れなくな
って倍以上疲れる羽目になったのはどうしよう。
それにしても、ディナストは全然必死に見えないまでも、楽しん
でいるようには見える。ルールを守って真面目に遊んでいるのだ。
ああして見ると全然恐ろしい人に見えない。ただのノリのよい人で
ある。
1171
この人実はいい人だから皆和解しましょうよーと夕日に向かって
叫びだそうとは全く思わないけど。
﹃お腹、空いた⋮⋮﹄
三食昼寝付きとは言わないから、食事は提供して頂けないだろう
か。これだと明日どころかこの後すら持たない。ディナストは今か
ら寝ているということは、朝まで寝るのだろうか。それとも夜に起
きて活動するという生活リズム乱れまくりの姿を披露してくれるの
だろうか。
出来ればそのまま朝まで眠ってほしいなぁと思いながら、食事を
探しに行こうと立ち上がる。久しぶりに食事の心配をした。今まで
衣食住の心配がなかったのは、本当にありがたいことだ。まさか、
皇都と呼ばれる場所でその全部の心配が出るとは夢にも思わなかっ
たけど。
お腹空いたけどこの隙に寝ておいたほうがいいのだろうか。どう
しよう。悩みながら、疲労でガクガク震える足を引きずって歩く。
逃げ回っていた範囲はなんとなく地理は覚えた。ここ曲がったらさ
っき捕まった部屋に出るくらいのことは何とか⋮⋮違う、ここどこ
だろう。部屋どころか渡り廊下が続いている。そういえば階段昇っ
たんだった。この宮殿平屋かと思いきや、上階があるのだ。玄関の
柱と吹き抜けが高すぎて、全部天井高いだけの平屋かと思ってしま
った。
ここ、上からも下からも後ろからも前からも見えるから、逃げる
ときは使わないほうがいいな。でも先は知っておきたいから今のう
ちに渡ってしまおう。
のろのろと進んだ先で、はっと顔を上げる。いい匂いがする! ご飯! ご飯食べたい! 皿洗いするから恵んでもらえないかな!
地上から立ち上ってくる焦げくさい臭いじゃない。ちゃんと料理
したご飯の匂いだ! 眠るなんてナンセンス。人は食べなきゃ生き
ていけない!
1172
皿洗いでも便所掃除でも何でもするから、パン一個でも恵んで頂
けませんか!?
疲れなんて忘れて猛ダッシュした私が見たのは、ぐちゃぐちゃに
荒れ果てた調理場の唯一綺麗に掃除された一角で、エプロンして鍋
からスープをよそっているツバキだった。
﹁ツバキ!﹂
﹁うわっ、あんた汚い! ちょ、ここ入ってくんな!﹂
私が現れたことに驚きはしなかったけれど、振り向いたツバキは
しっしっと虫でも払うように掌を振った。必死に頑張ってきたのに、
酷い話である。
でも、見下ろした自分の姿を見て納得した。この宮殿を汚してい
る埃に蜘蛛の巣や、泥と雪をばっちりお掃除してきたのだ。バイト
代ください。
私を上から下まで見下ろしたツバキは深いため息をついた。
﹁ちょっと動かず待ってろ。中に入るなよ! 鍋には絶対近づくな
よ!?﹂
念を押して去っていったツバキの指示に従って、中途半端に浮か
せた両手もそのままにして待機した。ディナストが追いかけてきた
ら、その時はツバキの指示をポイ捨てして走り去る気は満々だ。
五分ほどして誰かが走って戻ってきた。
ディナストにしては軽い足音だと分かっていつつ、びくっとして
しまう。そこにいたのがツバキで心の底から安堵する。ツバキを見
て安堵する日が来るとは思わなかった。
﹁ディナストはこの三日寝てねぇみたいだから、もうちょいは自由
にできそうだ。イツキ様用に用意しといた風呂があるから、入って
こい﹂
1173
﹁先に食事を分散して頂けると嬉しいよ﹂
﹁時間はありそうだから風呂が先だ。⋮⋮そしたら、イツキ様と、
食えばいいさ﹂
ぽつりと付け足された台詞に、黙って頷く。イツキさんに会うこ
とに異論は全くない。寧ろ、やっとという想いだ。
﹁だが、共にであっても先に食事を頂きたいよ⋮⋮﹂
お腹が盛大に鳴っている。
﹁お前汚ねぇから、絶対駄目だ。服は用意してやるからさっさと行
け!﹂
﹁服はこちらを﹂
﹁それじゃ風呂入る意味がねぇだろうが! ディナストが遊んでる
んだろ!? 分かってるから入ってこい!﹂
蹴り出された。比喩ではなく蹴り出された。そんなにイツキさん
のご飯があるここに私がいるのは嫌でしたか。嫌ですよね。私も料
理しているときにこんなでろんでろんが来たらおたまで叩きだす。
それを理解していても、私は戻ってきてひょいっと頭だけ覗かせ
た。
﹁ツバキ﹂
﹁まだいたのかよ﹂
﹁風呂の居場所が分からぬよ﹂
﹁⋮⋮こっちだよ﹂
案内してもらったお風呂は、思っていたよりこじんまりとしてい
て非常に居心地が良かった。実家のお風呂みたいだ。
でも、のんびりしていられない。急いで身体と頭を洗ってお湯で
流す。これはイツキさんのお風呂だから浸かるのは申し訳ない。流
すだけにしよう。急いで泡を落としてふと二の腕を見ると、赤い楕
円があった。打ち身だろうか。変なとこ打ったな、腕でこれなら背
1174
中とお尻は凄いことになってそうだと思っていたけど、別の事に思
い至ってお風呂に浸かってもないのに逆上せた。ルーナ大好き。
一人で身体をくねらせて悶えまくる。きょろきょろと周りを見て、
誰も見てないことを確かめ、そぉっと唇を寄せる。
﹁ふへ⋮⋮﹂
こんな事態なのに嬉しくなった。
生きてて嬉しい。ルーナ大好き。
ばしんと頬を叩いて気合を入れる。よし、頑張ろう。
脱衣所に出たら、下着と長いキャミソールみたいなのしかなかっ
た。待ってツバキ。これ、三回でアウトです。いや、その前に凍死
する。この夜すら越えられない。会いたくて震える前に寒さで震え
てアウトだ。
﹁ツバキ︱︱!?﹂
﹁うるせぇ! いるよ!﹂
ばんっと勢いよく扉を開けたら、その勢いで跳ね返ってきた。両
方向動く、だと⋮⋮?
ツバキは鼻を打ってしゃがみ込んだ私を立たせ、両手を広げさせ
る。
﹁そのままいろよ﹂
その手には何やらたくさんの布を持っていた。それを、あれよあ
れよという間に身体に巻いていく。あっち巻いてこっち巻いて引っ
掛けてと、ぐるぐる巻きつけられる。黙々と布を巻きつけていくツ
バキを見ながら思う。ミイラってこんな気持ちなのかな。
あっという間に長い大量の布が服となった。更に上からひらひら
と透ける長い布を肩から腰にかけて流したり、腰から足にかけて垂
らしたままくるりと帯に引っ掛けたりといろいろ足していく。追加
で増えていく小さなものから大きな布まで綺麗に纏わせきったツバ
1175
キは、ふぅと息を吐いた。
﹁後はリボンでもつけてろ。それも一枚だろ﹂
空っぽになった籠を抱えて立ち上がったツバキの裾を、慌てて引
っ張る。
﹁あ? これ以上布用意できなかったから、これで頑張ってくれよ﹂
﹁ツバキ、ありがとう!﹂
思ったより動きやすいのに、沢山の﹃一枚﹄を身に纏うことがで
きた。私一人だったら布があっても動けるように纏うことはできな
かった。しかも可愛い。そんな場合じゃないし、お洒落にそこまで
こだわりはないけど、可愛かったら嬉しい。
助かったのと嬉しかったので馬鹿みたいに大口開けた笑顔になっ
てしまった。案の定、ツバキはぽかんとしている。ちょっと阿呆面
過ぎました。ごめんなさい。
﹁ツバキ? あの、私﹂
﹁⋮⋮いや、あんたからすげぇ嫌そうな顔以外で礼を言われるとは
思わなかった﹂
﹁お腹空いたよ!﹂
﹁聞けよ!﹂
話してる途中に喋ってくるんだもん。でも、ごめん。カズキは急
には止まれませんでした。
冬は日が落ちるのが早い。外は、あっという間に夜になっていた。
高いモンブランの頂上で、冬の澄んだ空。さぞや満天の星が見える
だろうと思いきや、燃え続ける炎と煙で、星どころか月さえ見えな
かった。
轟音の中、地上から照らされる明かりで顔に影を乗せたツバキが、
食事を持って先を歩く背中を見る。手伝おうかと言ったけど、転ば
れる方が面倒だからと断られた。
ディナストに追われて散々走り回った宮殿内はどこも埃塗れで、
1176
掃除も手入れもされなくなって久しいと言った様子だった。なのに、
ここはそうじゃない。最低限の様相は保たれている。物が転がって
いるわけじゃないし、蜘蛛の巣は張られていない。鼠だって走って
こないし、お風呂場は黴もぬめりもなく、綺麗な石鹸が並んでいた。
お風呂場までの道だけ。イツキさんの行動範囲だろうか。維持され
ているのはそれだけに見えた。ツバキが片づけたんだろうなぁと、
他に人の気配がしない建物内を眺める。
﹁ツバキ﹂
﹁なんだよ﹂
﹁イツキさんは、どのような状態か?﹂
先頭を行く人の歩みは止まらない。
﹁基本的に、肩を叩いたり手を取らないと、人間全てを認識できな
い。ずっと、母国語で何かを喋ってる。⋮⋮俺の名前を呼んで、怒
ってる﹂
﹁怒るてる?﹂
﹁俺がイツキ様をああしてしまったから、怒ってるんだ﹂
急に立ち止まった背中にぶつかりそうになる。慌てて急ブレーキ
をかけた。カズキは急にも止まれたよ!
ただ立ち止まったのかと思いきや、目の前に扉があったからここ
が目的地のようだ。
﹁イツキ様は、ご自分の弱さを知っていた。だから、エマ様が敗れ
た時、知識を抱えたまま死のうとしたんだ。自分は拷問どころか恫
喝にさえ耐えられない。だから、脅えるままいいように使われる前
に、死ぬんだって﹂
ノックして、二秒待つ。返事はない。
ツバキは扉を開けて、一礼した。
﹁イツキ様、食事の用意が整いました﹂
返事は、返らない。
1177
開かれた扉の中に、その人はいた。
一つに纏めた男性にしたら長い黒髪を揺らし、部屋の中を歩いて
いる。ああ、日本人だなって分かる顔付きだ。でも、二十六歳にし
ては高校生のようにも見えるし、失礼だけど、老人のようでもあっ
た。背はそんなに高くない。女の子みたいに線が細いのは、痩せて
いるかだろう。頬がこけ、骨が浮き出た手を伸ばしてベッドの下を
覗いたり、椅子の裏に回ったりと何かを探している。ぶつぶつと何
かを呟き、探した物を見つけられなかったのか、またベッドの下を
覗き込む。
ぶつぶつと、ツバキの名前を呼びながら、黒い瞳をぎょろつかせ
ている。その言葉を聞き取ろうと耳を澄ませて、息を飲んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮だけど、俺が止めてしまった。死なないで、一人にしな
いでって、俺が縋ってしまったから、優しいあの人は俺を置いてい
けなくなった。そして、壊れるその時まで、死なずに傍にいようと
してくれたんだ⋮⋮なあ、イツキ様はなんて言ってるんだ?﹂
﹁ツバキを、探してる﹂
﹁⋮⋮そうか。やっぱり、俺を恨んでいるんだろうな。俺の所為で
こんなことになったんだから、当然だ﹂
目頭が熱くなる。胸も焼けるように熱く、痛い。呼吸すらも熱く
て、苦しい。
﹁俺の、所為だ﹂
唇を噛み切って食い縛ったツバキの前を、ふらふらとその人が通
り過ぎていく。
あんまりだ。神様、こんなの、あんまりだ。
﹁ツバキを、探してるっ⋮⋮!﹂
ツバキの名前を呼んで、瞳を必死にぎょろつかせて、両手を伸ば
す。
﹃ツバキはどこに行っちゃったんだろう。ツバキ、ねえ、誰かツバ
キを知らない? どうしよう。僕が目を放したから迷子にしちゃっ
1178
たんだ。どうしよう、僕の所為だ。誰か、ツバキを探して。どこか
で泣いてるかもしれない。また怖い夢を見て一人で泣いてたらどう
しよう。ごめんね、ツバキ。ごめんね、すぐに見つけるから! ご
めんね、ごめんね、ツバキ。待ってて、すぐに探すから。すぐ見つ
けるから待ってて、ツバキ。見つけるから、もう怖くないから、だ
から泣かないで、ツバキ!﹄
涙が止まらない。息が、出来ない。
そんなに広くない部屋の中で、またベッドの下を覗き込んだ動作
に嗚咽が漏れる。子どもが隠れられる場所を探しているのだ。きっ
と、やせっぽっちでがりがりで、奴隷商から逃げ出してきて脅える
子どもが隠れられる場所を。
﹁⋮⋮カズキ?﹂
﹁ツバキの身を案じて、ツバキを探してる。ツバキが泣いていない
かと、案じてる﹂
弾かれたようにツバキが視線を上げた。イツキさんは、また椅子
の裏に回って、今度は分厚いカーテンを捲っている。
﹃ツバキ? ツバキ、どこにいるの? エマ、ツバキがいないよ。
お願い、探してあげて。ツバキが迷子になっちゃったんだ。ツバキ
が一人になっちゃったんだ。お願い、誰か、ツバキを見つけて!﹄
片手で口元を覆い、小刻みに震える背中に触れる。何も言えない。
泣かないでなんて言えるはずもない。
どうしてだろう。なんで、こんなことになるんだろう。彼らの出
会いはこんな結末を迎えなければならないようなことだったのだろ
うか。彼らが過ごした時間は、きっと優しいものであったはずなの
に。
ツバキの大切な人がツバキを思っていることが、どうしてこんな
に苦しくなければならないのだ。
﹁この世界での出来事全部、あの人にとって苦痛でしかないのかも
しれない。俺も、エマ様も、あの人を悲しませることしかできない
1179
のかもしれない。それでも俺は、あの人に生きていてほしいんだっ
⋮⋮!﹂
血を吐くような叫び声にイツキさんの視線が私達で止まる。そし
て、ふらりと傾く。一房落ちた髪が顔にかかっても気にも留めず、
不思議そうに言った。
﹃⋮⋮誰?﹄
涙を袖で拭い、何度も息を吐く。初対面の人にはまず挨拶だ。そ
うですよね、イツキさん。国は違っても、世界は違っても、そうい
うのは変わりませんよね。
鼻を啜り、声が震えないようにつばを飲み込む。
恐ろしいことがあった心は、この世界を拒絶して閉ざされた。じ
ゃあ、どんな言葉も、あなたには届きませんか?
貴方がツバキを案じるその言葉は、初対面の私の声でもあなたに
届きますか?
﹃初めまして﹄
どこかぼんやりと溶けた瞳が見開かれる。
﹃須山一樹と申します。私ずっと、貴方と、話したかったんです﹄
私が差し出した手を呆然と握ったイツキさんは、呆けた声で﹃邑
上、一樹です﹄と、反射のように軽く頭を下げて教えてくれた。
1180
91.神様、小さな子どもが探しています
﹃あの、すみません。ツバキをどこかで見ませんでしたか? ツバ
キって僕の友達なんですけど、赤い、椿みたいな綺麗な髪をした男
の子なんです。よく怖い夢を見て魘されるんです。だから、昼寝し
てても傍にいて起こしてあげないといけないのに、僕、目を放して
しまって。手を繋いでたつもりだったのに、気が付いたらどこにも
いなくて。僕が、ぼぉっとしてたから﹄
イツキさんはきょろきょろと視線を彷徨わせる。
﹃もう、夕方になったのに、まだ帰ってこなくて。もう、ずっと帰
ってこなくて。夕方なのに、もう、ご飯の時間なのに。どうしよう。
ちゃんと手を握っていたはずなのに、どうしてどこにもいないんだ
ろう⋮⋮﹄
﹃⋮⋮夕方?﹄
外はもう真っ暗だ。イツキさんはきょとんとしてやせ細った腕で
分厚いカーテンを引いた。
﹃ほら、今日はずっと夕焼けなんですよ。それに、夕立が酷くて⋮
⋮⋮⋮そう、だから、ツバキが濡れてしまうから、探して、ツバキ、
ツバキを見ませんでしたか? これくらいの身長の男の子なんです
けど﹄
遠くで爆音が響く。イツキさんは、ああ、また落ちたと困った顔
になる。雷が酷くて、あの子が濡れてしまうから傘を、タオルを、
お風呂の準備をと、虚ろな声でふらりと歩き出した。
﹁⋮⋮イツキ様﹂
ツバキが、再びベッドの下を覗き込んでイツキさんの腕に僅かに
触れると同時に、一際大きな爆発が起こった。火の粉が天まで昇っ
ていく。イツキさんは身体を跳ねさせてツバキの手を振り払った。
その手がまるで焼けた鉄だったかのように触れた場所をぎゅうっと
1181
握りしめ、がたがた震えて悲鳴を上げる。
﹃いや、だ! 嫌だ、触るな! 僕に触るなぁ!﹄
﹁イツキ様!﹂
﹃近寄るな! いやだ、もう、いやだぁ! 触るな! 触らないで
くれっ!﹄
痩せて落ち窪んだ瞳は虚ろなのに鈍い光を放ち、折れそうな全身
を使って悲痛な声で叫ぶ。誰からも距離を取ろうとして振り回した
手が壁に当たってもお構いなしだ。自分の爪で肌を切り裂いても気
づきもしない。
﹁イツキ様!﹂
走り寄ったツバキにびくりと身体を竦ませ、イツキさんは背中を
壁に打ち付けた。ツバキは、はっと一歩下がり、即座に膝をつく。
そして、開いた掌を肩の高さで身体の横に浮かせる。
﹁お怪我を、されますから、どうか、イツキ様﹂
額が地面に突きそうなほど下げ、ツバキはゆっくりと言葉を紡ぐ。
﹁何も、致しません。俺は貴方に、何も、しませんから。怖いこと
も、痛いことも、絶対しません。貴方に差し上げるものは、貴方が
俺に与えてくださったものだけと誓います。ですから、どうか、脅
えないでください﹂
深く頭を下げているため、首筋まで全部曝している。両手を広げ、
跪き、危険はないのだと全身でイツキさんに伝えていた。
﹁何も致しません。何も、恐ろしいものはありません。俺が必ずお
守りしますから。ですから、どうか、怖がらないでください﹂
ゆっくりと、けれど必死に伝えるツバキの言葉にイツキさんの肩
の力が抜けていく。落ち着いたのかと思った。けれど、顔を上げた
ツバキの唇はぎゅっと噛み締められている。
﹃⋮⋮⋮⋮ツバキを、探さないと﹄
ぽつりと言葉が落ちて、イツキさんはよろめきながらベッドの下
を探す。
ツバキの言葉が、届かない。目の前にいるのに。ツバキを探すイ
1182
ツキさんが、イツキさんを待っているツバキが、目の前にいるのに。
それらは全部、優しいものであったのに。
﹃⋮⋮こんなに恐ろしい雷の音がしているのに、どうして僕は、あ
の子を見つけてあげられないんだろう﹄
どうして、互いへ届かないのだ。
湧き上がる言葉全てを飲み込んで、ツバキが笑顔を浮かべる。穏
やかな声で、今にも泣きだしそうな顔で。
﹁⋮⋮⋮⋮イツキ様、食事にしましょう。また、痩せてしまいまし
たね。どうか召し上がってください。イツキ様がお好きだと仰って
いたパンです。俺が、初めて貴方に作ったスープです﹂
爆音が響く。
﹃ツバキ、どこ!? 危ないから出ておいで! いい子だから、ツ
バキ! どうしよう、エマ! ツバキを探して! ツバキが殺され
る! 嫌だ、ツバキ! 待って、嫌だ、待ってぇ! ツバキを殺さ
ないで! お願い、ツバキ! 嫌だ、嫌だぁ!﹄
﹁イツキ様っ﹂
皆が泣いている。二人とも手を伸ばして探しているのに、互いに
届くものが爆音だけなんて、おかしいじゃないか。
言葉が届かない。音は刻み込まれた恐怖としてイツキさんに届い
てしまう。⋮⋮言葉が、届かない?
でも、私はさっき彼と会話をした。とても短い、自己紹介を。
それに気づいた瞬間、二人の間に躍り出る。
﹃邑上さん! 須山です! 私、須山一樹といいます!﹄
目の前に片手を差し出す。さっきと同じ行動をした私に、イツキ
さんの目はぱちりと瞬いた。
﹃あの、ご飯一緒に食べませんか! 私、今日の夕飯誘って頂いた
のを凄い楽しみにしてきました! ご相伴に預かります! お、お
ばんでやんす! こんばんは! お邪魔します!﹄
1183
空気を読んだ私のお腹が盛大に歌い出す。
イツキさんはぽかんとして、私の顔とお腹を交互に見る。
﹃あ、え⋮⋮⋮⋮どう、ぞ?﹄
言葉が届いている。言葉を音じゃなくて言葉として聞き取ってい
る。
イツキさんが言葉として認識できていないのは、こっちの世界の
言葉だ。言葉を認識できなくなるほど、つらいことがあったのだ。
彼にとって自分を壊すものでしかなくなってしまうような、反射的
に閉ざしてしまうほどの言葉を聞いたのだ。
彼を呼ぶ声も、優しい言葉も届かなくなってしまうことが、あっ
たのだ。
でも、彼が言葉として発している言葉なら、届いた。普段どれだ
け意識していなくても、今までどれだけ意識してこなくても。生ま
れて育った国の言葉は捨てられない。無意識だからこそ消えない、
私達の言葉。どれだけ化学が発達して、どれだけ星の反対側が近く
なろうとも、海に囲まれ閉ざされた、私達の国の言葉。
﹃あの、邑上さん﹄
﹃は、い﹄
﹃イツキさんとお呼びしても構いませんか?﹄
﹃ええ、どうぞ?﹄
爆音が上がる、帳が下りるように色を失っていくイツキさんを覗
き込み、声を張り上げる。
﹃じゃあ、是非私もカズキと呼んでください! イツキさんとおん
なじ字を書くんですよ! 一に樹木の樹でカズキです! いっつも
男の子と間違われるんですよ!﹄
﹃そ、れは、そうかもですね。女の子だと、珍しい名前ですね﹄
見て、私を見て! この、どこからどう見ても日本人だと分かる
平らな私の顔を見てください! 燃え上がり夜空を隠す炎じゃなく
1184
て、見たって面白くもなんともない顔をどうぞご覧ください! 世
界を震わす爆音じゃなくて、この毒にも薬にもならない世間話をお
楽しみください!
﹃ですよね! お父さんが息子が欲しかったけど、うち四人姉妹な
んですよ! それでせめて名前だけでも男の子に! って、息子に
つけたかった名前を私につけたんですよ!﹄
﹃四人とも女の子って、凄いですね﹄
がんがん畳み掛けていく。女が三人そろって姦しい。私は一人で
やかましい!
意識が外に逸れる前に、畳み掛けて畳み掛けて畳み掛ける。
お腹の加勢も手伝って、私はイツキさんと並んで夕食に辿りつく
ことができた。最初にしたことは、果実水の一気飲みである。お風
呂上りの畳み掛け。喉がからからになっていた。
さっきの爆音が大きかったから、ディナストが目を覚ましていな
いか確認してくると素早く飛び出していったツバキが作ってくれた
夕食を頂く。食べたことないはずなのにどこか懐かしい、大衆の味
がした。凄く食べやすい。
﹃それで、私があまりに点数取れないんで、先生が泣く泣く、名前
書いてたら三十点! って特別企画でテストしてくれたんですよ!
そしたら私、急ぎ過ぎて、一樹の樹をですね、右っ側も木にしち
ゃってですね。赤点頂きました!﹄
﹃それ、意味ないじゃないですか﹄
﹃先生の号泣も頂きました!﹄
﹃そりゃそうですよ﹄
ふはっとイツキさんが噴き出し、破顔した。あははと声を上げて
身体を揺らし、私の先生泣かせの歴史を聞いている。イツキさんが
こうやって笑ってくれるなら、私の残念な成績達も報われるという
ものだ。先生には本当に申し訳ないことしたと思っております。高
1185
校卒業まで、めげず諦めず投げ出さず、最後まで面倒見てくださっ
たことを、本当に感謝している。先生の、お前真面目にやってるの
になぁという、悲痛に満ち満ちた言葉は一生忘れません。
﹃でも、僕も昔しちゃったことがあります。急いでる時に画数多い
と焦っちゃいますよね﹄
﹃ですよねぇ﹄
﹃後、クラス替えとかすると名前読んでもらえないんですよね。僕
はカズキって呼ばれるんですよ﹄
﹃私は、性別書かれてる名簿だったら悩まれました。イチキとか、
イツキとか。書かれてないのだったら、迷わずカズキ君でした!﹄
﹃あはは! ですよね!﹄
笑いすぎたイツキさんが目尻に浮かんだ涙を拭っていると、ツバ
キが部屋に滑り込んでくる。音を立てずに戻ってきたツバキにイツ
キさんは気づかなかった。痛くなったらしいお腹を押さえて身体を
震わせている。
同じようにお腹の辺りに手を添えていたツバキは、呆然とその姿
に目を奪われていた。
﹁笑ってる⋮⋮イツキ様が、笑ってる﹂
ぼろりと零れ落ちた涙に、椅子を蹴倒して立ち上がる。
﹁泣き虫︱︱!?﹂
﹁う、うるさい!﹂
慌てて両手を広げて駆けだすと、腕で真っ赤な顔を隠したツバキ
に避けられた。そのまま壁に激突した私の足元に何かが転がってい
る。蹴飛ばしてしまっただろうか。なんだろうと視線を落として、
思わず真顔になった。
人生に教科書も参考書もない。チェック項目があって、これは用
意しましたか、これは解決しましたかとか、そんな物はないのだ。
ないのだから自分で覚えていなければならないけど、流石私だ。完
全に忘れていたわけじゃなくても、七割がた忘れていました。それ
どころじゃなかったともいう。
1186
足元でごろりと転がる、掌サイズの、石。
全体像は二等辺三角形。黒ずんだ部分以外はLEDのように点滅
している、石。
私とイツキさんを、こっちの世界に連れてきた、石。
石を見て、ツバキを見て、石を見て、ツバキを見る。
ツバキ、説明を求めます。
もう一度石を見てツバキを見たら、ツバキは私なんか見ていなか
った。石を拾おうとしゃがみこんだ体勢のまま固まっている。ツバ
キの目の前では、心配そうに屈みこんだイツキさんがいた。
﹃どうしたんですか? どこか痛いですか? えっと、ど、どうし
よう。あの、これ、使ってください﹄
﹁イツキ、様﹂
﹃え!? あ、あの、きゅ、救急車呼びましょうか!? どこか痛
いんですか!?﹄
しゃがみこんで嗚咽を殺すツバキを前にして、イツキさんがおろ
おろしている。目の前の人が誰だか分かっていない。でも、誰かが
泣いているのは認識していて、泣いている人がいるからハンカチ貸
して、救急車呼ぼうと一所懸命携帯を探している。流れるように、
当たり前のように、泣いている誰かに手を貸すこの人を、エマさん
もツバキも好きになったんだろう。
呼んではもらえない。分かってはもらえない。でも、ぼろぼろ涙
を零すツバキの前に屈みこむイツキさんがいるだけで、彼は息も出
来ないほど泣いている。今は外が少し落ちついているからかもしれ
ない。こんなのは今だけで、意識が向こうに持っていかれたらまた
悲しい悲鳴を上げるのだろう。
それでも。嬉しいと思う心は止められないのだ。
1187
ツバキは、震える手で伸ばされた手を掴み、額をつける。
﹁この世界が貴方を滅ぼそうとして、貴方がそれを受け入れてしま
うのだとしても、俺が抗う。抗ってみせる。⋮⋮世界が貴方を拒ん
でも、俺には貴方が必要です﹂
再び響いた爆音に言葉が溶けていく。イツキさんの瞳がぼやけ、
目の前で彼を思う人を捉えられない。この世界の音が、言葉が、彼
の正気を浚っていく。
けれど、音が鳴る前から繋いでいた手は、今度は振り払われなか
った。
﹃ツバキを、探さない、と﹄
ふらりと視線が彷徨う。
﹁ですが、貴方が望むのなら、俺は、絶対に貴方を帰してみせます﹂
﹃エマ、ツバキを見つけてあげて。お願い、誰か、ツバキを。お願
い、誰か、誰か﹄
﹁この石のことは、エマ様にも、伝えていません。他の誰にも、海
に沈んだとだけ伝えました。⋮⋮貴方を帰せると知れば、あの方は
きっと躊躇う。躊躇った自分を許せない。だから、全部、俺の独断
です。誰に責められても、誰に罵られてもいい。イツキ様、貴方だ
けは絶対に、元の世界に帰してみせます﹂
﹃ツバキを、助けて﹄
世界に鳴り響く爆音。空まで覆い尽くす噴煙。
寂れ、閑散とした、皇都の宮殿。荒れ果てる寸前、滅びの象徴の
ような宮殿の片隅で、かろうじて保たれた生活空間。世界の滅びが
集約したかのような場所で、閉ざされてしまった二人の言葉が擦れ
違う。思い合っているはずなのに交し合えない。痛みと苦痛に弾か
れてしまう。それでも捨てられないのだ。ここは、捨てられず、さ
れど願い切ることも出来ない絶望の中で何年間も過ごした二人が閉
ざされる場所。
1188
そんな場所に立つ私は、ごくりとつばを飲み込んだ。
ああ、どうか二人とも。
私の存在も思い出して頂けると、凄く嬉しいです。
1189
92.神様、少し幸せな悪夢を見ました
かつては偉い人の客間に使われていたという一室の隅で、外套を
羽織って丸まる。蜘蛛の巣が張っている暖炉は、蜘蛛のほうが先住
権ありそうなので退去は願えなかった。願えないというか、火を入
れたら外から居場所が丸分かりなので出来なかったともいう。
寒い。冷えていく手足を擦り合わせ、自分の息で温める。いつデ
ィナストが起きてくるか分からない状況で、イツキさんがいる傍で
眠る訳にはいかない。出来るだけ離れた場所で眠れそうなスペース
を教えてもらった。ここなら、家具がごちゃごちゃ倒れていて見つ
けづらいし、尚且つ風が入ってこないから温かい。温かいといって
もほかほかするわけじゃないけど、ツバキが用意してくれた毛布で
下半身を包み、お尻が冷えないようにした。
もう一度合わせた両手に息を吐きかけ、外套を鼻下まで引っ張り
上げる。首飾りを二本とも握りしめてぎゅっと目を瞑った。
石は、流水でその力を発揮すると、ツバキは言った。流水でなく
て、水の中で揺れていたらいい。イツキさんがこっちに現れた時の
石は、ディナストに捕えられる前に砕いてしまったと聞いてはいた
けど、それまでは手元にあったのだ。その時に色々研究していたら
しい。
溜息をつき、レールが壊れて傾いた分厚いカーテンの隙間から空
を見上げる。地上が明るすぎてそれを見つけられない。
もう一つの条件は月だと、ツバキは言った。
1190
十年前にイツキさんが現れた時は新月だったそうだ。私が二回目
に現れた晩、あの日は満月だったらしい。私が消えた晩はどうだっ
ただろうと記憶を辿れば、確か、満月だった。月明かりで明るいな
と思いながら、終戦に沸き立つ人の間を歩いた記憶がある。
新月と満月の日に石の力が強くなるとツバキは言った。
次の満月は、明日だとも。
﹃もう、今日かな﹄
日付は変わったのだろうか。
私達が現れた時間を考えると、月が見えていようが見えていまい
が関係ない。明後日か明日、ツバキは、イツキさんを日本に帰すつ
もりだ。
どうすると聞かれて、いらないと断った。後悔してないけどつら
い。つらいけど、後悔してない。
あのね、お母さん。あのね、私、好きな人がいるんだよ。その好
きな人がね、私を好きになってくれたの。それで、信じられないだ
ろうけど、婚約したんだよ。結婚の約束だよ凄いよね。もう、すっ
ごい大好きで、一緒にいたらいつも以上に馬鹿やっちゃうのに、可
愛いって馬鹿なこと言うんだよ。ルーナ凄いよね。眼科いったほう
がいいよね。それでね、お母さん。ねえ、お母さん。友達も出来た
んだよ。親友だっているんだよ。それでね、ママにだってなっちゃ
たし、熊だって至近距離で見ちゃったよ。それで、それでね、お母
さん。
﹃お母さんっ⋮⋮﹄
寒いよ、お母さん。寒いし、暗いし、怖いし、埃っぽいし、蜘蛛
いるし、さっきあっち走ってったの鼠だし、明日、また追いかけら
れるし。何度も倒されるけど、あれ痛いんだよ、お母さん。今のと
ころちゃんとルール守ってるけど、たぶん、あの人が怒った瞬間、
私殺されるんだよ。伽につきあえとか言ってたけど、あれ絶対ルー
ナを怒らせてその瞳の色を見ようとしただけで、私は殺す気満々だ
1191
よ。だって一回は滝に落とされたし。この宮殿、逃げ回ってたら、
あっちこっちに黒い染みがあったんだよ。枯れた花がいっぱいの庭
に、いっぱい、いっぱい、土が盛られてるんだよ。
好きな人がいるんだよ。好きな人達がいるんだよ。
でも、いまはここにいないんだよ。もう会えないなんて思いたく
ないけど、大変なんだよ。いい人も優しい人もいっぱいで、皆に助
けてもらって笑ってるよ。でも、結構、きついこともあって、きつ
い人もいて、あんまり知らないけど怖い人もいて。知らない間に知
らない事が罪になってて、しんどいことも、いっぱいあるよ。
お母さん大好きだよ。お姉ちゃん達も、お父さんも大好きだよ、
会いたいよ。そっちの全部を捨てたくないよ。
でも、私はもう、選んだんだよ。
会いたいよ、捨てたくないよ。同じくらい、こっちの皆にもそう
思うんだよ。大好きだよ。ずっと一緒にいたかったよ。そう、どっ
ちにも、思う。
でも、もう、離れたくないんだよ。ルーナといたいんだよ。ルー
ナと生きていきたいんだよ。もうルーナを泣かせたくないし、待た
せたくないし、今まで悲しませた分を塗り替えられるくらい、いっ
ぱい、いっぱい楽しいことしたいんだよ。一緒に買い物だって行き
たい。ルーナの服を選んでみたい。ルーナの私服ってあんまり見た
ことないんだよ。だって、基本的に隊服だったし、こっちじゃ用意
してもらうか、調達できた服を着る感じだったから。いろんな服を
着たルーナを見たい。ルーナにも選んでもらえないかな。無茶ぶり
かな。ルーナってどんなタイプの服が好きなのかな。ナース服だっ
たらどうしようね。
ルーナと食べ歩きとかもしてみたいんだ。手を繋いだり、腕組ん
で店を見て回って、美味しいものいっぱい食べたい。犬見て可愛い
って言って、猫見て可愛いって言って、雲見て形当てクイズしたい。
クッションの柄、悩みたい。カーテンの柄、悩みたい。コップ、お
1192
揃いのにしたいって言ったら、付き合ってくれるかな。喧嘩だって
したい。仲直りしたい。もっと笑いたい。もっと、もっと、もっと、
笑ってほしい。
﹃⋮⋮ごめん、お父さん、お母さん。千紗姉、美紗姉、亜紗姉、ご
めん、ごめんね﹄
帰らない。帰れないじゃなくて、帰らない。
今まで貰った恩を何一つ返さず、全てを投げ出して行く私を、許
さないでくれていい。ずっと怒ってください。ずっと、かんかんに
怒ってください。でも、ごめん。お願いだから、忘れないで。
﹃ごめんなさい、ごめんなさ、ごめんなさいっ⋮⋮﹄
みんな大好き。いつまでも大好き。いつまでだって、愛してる。
出来るなら、叶うなら、大好きな人達を紹介したかった。どっち
でも、私の大事な人達だと胸を張って言いたかった。でも、それは
無理だから。
寒いよ、お母さん。寂しいよ、お父さん。
でも、千紗姉。私頑張るから、見てて美紗姉。絶対に、最後まで
笑って生きてみせるから、馬鹿だなって怒って亜紗姉。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。さようなら。
私が生まれて初めて愛した人達の名は、家族だった。
ルーナは温かい。抱きしめても抱きしめられても温かい。声も温
かい。瞳も、偶に凄まじく怖いけど、私を見る瞳は温かい。
そのルーナが手招きしてくれて、嬉しくなって走り出す。広げて
くれた両手に思いっきり飛びついたら、抱きしめられたままくるく
ると回った。ルーナメリーゴーランドは楽しい。昔はルーナがティ
エンにしてもらって⋮⋮されていたけど、あれはメリーゴーランド
じゃなくてジェットコースターの類だった。
1193
くるくる回る視界の中に呆れ顔のアリスちゃんがいる。隊長もテ
ィエンもイヴァルもいる。エレナさんとリリィがスヤマ︵仮︶がお
菓子作って⋮⋮炭作ってる! いいなぁ、混ぜてほしいなぁ。エマ
さんとイツキさんが手を繋いでいて、ツバキが影から花を降らして
る。混ざればいいのに。
シャルンさんがナクタを追いかけて転んでる。ユアンとユリンが
なんか喧嘩してる。大人双子もなんか喧嘩してる。ダブル王子様も
喧嘩してるけど、ラヴァエル様が腕組んで大笑いしてる。ロジウさ
んは頭抱えてる。王女様達は一冊の本を挟んで真剣に話しこんでい
て、無表情のアマリアさんと、王女様達に負けない勢いのアニタが
混ざっている。
そして私は、その様子をルーナと手を繋いでお母さん達に説明す
るのだ。あれが隊長でね、髪の毛は最後の一本私の所為で無くなっ
ちゃったそうですと。そうしたら、お母さんはあんたまた馬鹿で人
様にご迷惑おかけしてって怒って、お詫びの菓子折りどこのがいい
かしらってお財布持って、お父さんはティエンの筋肉に憧れながら
誰かとキャッチボールしたそうにそわそわして、千紗姉は菓子折り
の種類をお母さんと相談してて、美紗姉はあんたこの中で誰が好み
って私を突っついてきて、亜紗姉は皆の髪の毛は染めてるのかどう
なのかに興味津々だ。
これは夢だ。分かっている。
こんなこと有り得ない。
でも、幸せで、夢だなんて無粋なことを言ってしゃぼん玉みたい
に割れちゃうのが嫌で、誤魔化して笑う。誤魔化さなくても、幸せ
すぎて勝手に笑ってしまうのだ。
ああ、夢だけど、夢だと分かっているけどもう少しだけ見ていち
ゃ駄目かな。もう少しだけ、叶わない夢に浸っていたい。
けれど。
1194
どちゃり。
鈍い、奇妙な音がして、シャボン玉は弾けた。
ごろごろと転がってくるそれをぼんやりと視線が追う。虚ろな目
と視線が合ったと同時に、噎せ返る鉄錆びの臭いに口と鼻を押さえ
る。その手を誰かが掴んだ。
﹁お前の恐怖は、どんな色だ?﹂
えげつない笑顔を浮かべて覗き込んできたディナストの向こう側
には、首のない男が倒れている。さっきまで繋がっていたはずのそ
こから噴き出す赤が、宮殿中で見かけた黒い染みを作っていく。
理解したくもないのに、思考がゆっくりゆっくりと回り始める。
じゃあ、さっき目が合ったあれは。
喉の奥が裏返りそうな私の悲鳴を聞きながら、ああ、いい色だと、
ディナストは満足げに笑った。
これが夢なら、早く覚めてほしい。でも、この悪夢は現実だ。あ
の時のように悪夢から救ってくれるルーナも、ここにはいない。
自分が発しているとは思えない悲鳴が喉の奥から湧き上がる。
﹃いや、嫌だ、嫌だぁ! 放して! 放して放して放してぇ!﹄
後ろから抱きこむように両腕を握られて押されていく。自分の腕
が痛むなんて全く考えられず、闇雲に身を捩ってもびくともしない。
踏ん張ろうとする足が、水より粘性のある液体で滑っていく。その
1195
ねちゃりとした感覚に足元から怖気が駆け上がり、余計にパニック
になる。
﹃放して、嫌だ、放してぇ!﹄
どれだけ人の気配が薄かろうと、宮殿にいたのは私達だけじゃな
い。最後までディナストについていた人が数十人は残っていた。
なのに、その人達の死体が廊下を埋め尽くす。体中の血を噴出さ
せて、辺り一面血の海と化している。噎せ返るような鉄錆びの臭い
に満ちていた。嫌だ、噎せたくない。噎せたらその分吸わなくちゃ
いけなくなる。この臭いを体内に取り込みたくない。鼻を、口を通
していきたくない。
絨毯が吸いきれなくなった血は、体重を乗せる度にぐちゃりと染
み出してきた。その上をディナストが私を歩かせる。
﹃嫌だ、いやぁああ!﹄
吸い込みたくないのに、全身を蝕む恐怖を止められずに悲鳴とし
て飛び出していく。進みたくもない。恐怖や怒りや悲しみや、そん
な感情が全部ぐちゃぐちゃに混ざり合い、思考までもが真っ赤に染
まる。泣き叫ぶ私を楽しげに見下ろしたディナストは、服の裾が真
っ赤に染まるのも構わずどんどん歩を進めていく。進みたくなくて
必死に背中を押し付ける。私の背中にお腹が当たるこの人が、これ
をした人だと分かっているけれど、彼との距離を取るよりこの道を
進みたくない。
﹁昨夜正門が破られた。あの勢いなら日没にはここに到達するだろ
う。思ったより保たなかったなぁ。眠ったのは勿体なかったか。こ
こまで大幅に予測が外れたのは初めてだ。壊れ方を見るに、バクダ
ンを落とす前に投擲手を射ったな、あれは。上から壊れていたから
なぁ。夜なのに鷹の眼を持った奴がいたとは、見事というべきか﹂
生命の象徴である赤がこんなにも溢れているのに、ここにあるの
は死だけだ。未だ血を流す身体が血の海で溺れている。命は尽きて
も、きっとまだ温もりがあるのだろうと思える肌の色を赤に染めて
沈んでいく。
1196
﹃嫌だ、ルーナ! ルーナぁ!﹄
ここにいるのは最後まで残った人達だ。逃げ出すわけでもなく、
最後を好きにしろと言われてもディナストの世話をしていた人達だ
った。彼が着ている服が綺麗なのは、彼らが用意したから。彼が眠
った寝台の用意だって、彼らがしていたのだ。
靴底から伝わってくるぬめりのある感触に耐えられず、ディナス
トの足を踏みつける。全体重を乗せたのに、ディナストはそのまま
進んでしまう。
﹁ははっ! 父親の足に身体を乗せて運ばれている幼子の遊戯を見
たことがあったが、よもや俺がその真似事をしようとはなぁ﹂
意に介さず進んでいくディナストが声を上げて笑う振動に揺られ
ながら、血の海を進む。前方から赤を飛び散らせながら、十人ほど
の人達が駆け寄ってきた。
﹁ああ、終わったか﹂
﹁はい。他に御用はございませんか? 殺したら終わりですから、
ちゃんと最後か考えてくださいよ? 流石に首が飛んだ後に御用を
承ることはできませんからね﹂
﹁道理だ。そうだな、とりあえずこれを持っていろ﹂
状況にそぐわない軽口の応酬に眩暈がする。
いま、私はどこにいるのだろう。私が見ている景色と、彼らが見
ている景色は同じなのだろうか。壁まで染め上げるこの赤は、本当
は錆なのだろうか。だから、こんなに脅える必要なんてなくて、た
だの整備不良とか手入れ不足とか、そんな。
これ、と、示された私の腕が、最初に頭を下げた人に渡される。
人形みたいに首ががくりと動く。振り払って逃げなきゃいけないの
に、身体も頭もうまく動かない。
﹁よし、ではいくか﹂
﹁外さないでくださいよ? あなた、変に横着するときあるんです
から﹂
1197
﹁ははっ!﹂
すらりと抜かれた剣が下げられた頭に叩き落とされる。ごとりと
重たい、命の音が響いた。
﹁無抵抗のお前達相手に苦痛を与えるほど鈍ってはいないぞ﹂
﹁それを聞いて安堵致しました。あなたにお仕え出来たこと、大変
楽しゅうございました﹂
﹁よく務めた。俺も楽しかったぞ。ではな﹂
目の前で何が起こっているのか分からない。ただ終わっていくそ
の瞬間を次々見せつけられる。ここで死んでいく人が誰か分からな
い。分からないのにその死が苦しい。無関係の他人だからと無関心
でいたいのに、死が、重い。重すぎる。
うまく理解できないのに、重さだけが増していく。
﹁お前で最後だ﹂
﹁はい﹂
私の手が荷物みたいに渡された。両手を一括りに片手で纏められ、
後ろから抱えられる。
﹁片手でいけますか?﹂
﹁いけなかったら精々苦しめ﹂
﹁嫌ですよ。じゃあ、心の臓にします?﹂
いろんな怨嗟を見た。いろんな憎悪を見た。
私に向かってきたものから、私を通り過ぎていくものまで、いろ
んな嘆きを見てきた。なのに、それを生み出した人達が終わってい
く様は、どうしてこんなに穏やかなのだ。負けたと悔しがることも、
叶わなかったと憤ることも、誰かの所為でと罵り合うこともない。
なんて穏やかで、満ち足りた顔をしているのだ。
﹁皇子﹂
﹁ああ﹂
﹁面白かったです﹂
﹁そうか﹂
﹁ええ﹂
1198
そうしてまた一つ、酷く穏やかな終わりが訪れた。
分からない。何を分かりたいのかも分からない。
罪を贖えと、人々は言った。では、この人達は贖ったのだろうか。
こんなにも幸せな顔をして死んでいったこの人達のこれは、贖いだ
ったのだろうか。どう見たって罰には見えない。だって、こんなに
も、穏やかだ。この死は苦しみではない。じゃあ、この人達は悪で
はなかった? だから罰せられなかった? 苦しむ人間が受けているのは、苦しいから罰で、だからその人間
が悪なのか?
分からない。皆が泣いた。誰もが苦しんだ。叫んで、押しつけて、
罵り、悔やみ、急速に変わりいく世界に恐れながらも先を探した。
苦しいから罪なのか。楽しんだ彼らが正義なのか。善は尊ばれ、
悪は罰せられるべきで、だから、彼等は死んで、穏やかに、面白か
ったと笑顔で死んで、その様は幸福で。幸福とは尊ばれるべきもの
で、ならば善なのか。善悪とは誰が、何が、判じるのか。
噎せ返る血の臭いの中で、思考が染まり、真っ赤に真っ赤に回る。
分からない。何が罰せられるべきで正しくあるべきで贖うべきで
悪は悪であるべきで正義は正義であるべきでだからここは真っ赤で
あるべきで何をどうすべきでどうあるべきでだから人は死ぬべきで
こうして死んでいくべきでだからこんなにも幸せそうであるべきで
べきでべきでべきで。
贖うべきだと、人々は私に言った。贖いとは、こんなにも幸せに
死ぬことなのですか。
常識が、道理が、理屈が、分からない。何がすべきで、何をすべ
きで、何が正しくて間違っているのか。誰が正しくて間違っている
のか、分からない。いや、そうだったらもっと簡単だったのだろう。
1199
誰も、正しくなかったら? 誰も、間違っていなかったら?
誰もが正しかったら? 誰もが間違っていたら?
こうあるべきだと言う言葉は、こうあってほしいというただの願
望であるのだとしたら?
分からない。私が英雄なら分かったのだろうか。賢者なら分かっ
たのだろうか。救世主なら、ヒーローなら、女神なら。私が私では
なかったら分かったのだろうか。
今の私に分かるのは、確実に終わる手段として、死は有効なのだ
ろうなぁとぼんやりと浮かんだことだけだった。
1200
93.神様、ちょっとほんとに待ってください
血の海を抜けてもその臭いが纏わりつく。その死が纏わりついて、
足が絡まる。
大きな音がした。酷く近いその音に、虚ろになった意識が緩慢に
引き寄せられる。渡り廊下が崩れていく。その先にあった建物でも、
あちこちで爆発が起こった。
﹁殺すなとは言っておいたが、さあて、あいつら最後の仕事はどう
だろうな﹂
﹃イツキ、さん⋮⋮﹄
爆炎と土煙が噴き上がる中を、誰かが駆け出してくる。よろめく
人の手を必死に引き、ツバキがこっちを睨み付けた。ディナストに
歯噛みをした瞳が私を向いて、酷く痛い顔をする。私、いま、どん
な顔をしているんだろう。血の臭いが濃くて、視界まで霞む。
ツバキに手を引かれていたイツキさんの足が折れた。虚ろな瞳で、
燃え上がる世界を見上げている。叫ぶ気力すら残っていないのか、
何かを呟きながら火を眺めていた。
﹁ディナストっ!﹂
剣を抜き放ったツバキを前に、血塗れの剣が血を払う。
﹁長い間、忠義なことだ。忠犬とは哀れなものだな、ツバキ。恩を
忘れる駄犬の方がよほど生きやすかろうに﹂
﹁⋮⋮俺は、狼にはなれない。俺は犬だ。イツキ様にもらった恩を
忘れるくらいなら、世界を呪った方がましだ!﹂
斬りかかったツバキの剣は早い。だけど、何故か、ああ駄目だと
思った。だって、きっと、ツバキのほうが強かったのなら、彼はも
うとっくにディナストを殺していると思ったのだ。
1201
ぎぃんと鈍く鋭い音が響き、ぐるぐると剣が回って遠くに落ちた。
ツバキの剣を絡めて捥ぎ取ったディナストが振り上げた手から、赤
が滴り落ちてくる。
﹁ここらにも埋めておいたが、さあて、姉上が上がってくるのが先
か、火の粉が移って我らが吹き飛ぶが先か。どう思う?﹂
﹁お前っ、いい加減に!﹂
短剣を構えて立ち上がったツバキの後ろで、イツキさんが座り込
んでいる。その手に抱えているのは瓶だ。炎を映してオレンジ色に
揺れている水の中では、あの石がぼんやりと光っている。
ディナストの眼がイツキさんを向こうとしているのに気付いて、
その裾を引く。
﹁⋮⋮⋮⋮どう、して、イツキさん、なの﹂
﹁何だ?﹂
視線が私を向いた。そのまま、私を見ていて。お願いだから、も
うイツキさんを見ないで。
あまり早く動かない思考が、恐怖を覚えるより先に思ったことを
行動していた。イツキさんを見ないで。あ、でもやだ。私も見ない
で。頬から落ちる血が怖い。
﹁何故、それほどまでに、イツキさん、なの﹂
何年も、何年も、正気を保てなくなってからも、何故イツキさん
を捕え続けるのだ。異世界人だから? それでも、私はあっさり落
としてしまえたじゃないか。惜しいかなと言っていたくらいで、あ
っさりと。そんなに異世界人を研究したいなら、異世界人の眼に映
った色を見たいなら、落とす前に幾らでも絶望させられたはずだ。
なのに、ディナストは忙しいからと特に姿を現すことはなかった。
それは、もう知っていたからだではないのか。異世界人であろう
と、感情でその瞳に宿す色は、こっちの世界の人と変わらなかった
のではないのだろうか。
じゃあ、どうしてイツキさんを捕え続けたの。死の恐怖の色だっ
て、もう、見たはずだ。脅え続けるイツキさんの眼にその色が浮か
1202
ばなかったはずがない。じゃあ、何なのだ。どうして、捕え続ける。
﹁あなたは、何を、見たかったの。本当に、見たかったは、憎悪?﹂
もう充分見たんじゃないの。自分で言ったじゃないか。その色が
一番美しいと。だったら、まだ、何を見たいの。
爆音が上がってくる。後ろからも爆炎が吹きあがる。ここは衛星
写真とかで見たら拡大に拡大を重ねないと見えもしないだろう。で
も、今ここにいると、まるで世界の全てが燃えているように見えた。
見上げた空は黒く覆われていて月が見えない。どっちにしても昼
間だから見えないだろう。でも、夜も地上が明るいし、煙いし、見
えないよ。
﹁カズキ!﹂
ずっと聞きたかった声に振り向くと同時にディナストが動いた。
指程の細さの刃物を投げつけた先で、火花が散り、地面が捲れ上
がる。爆弾が埋まっているのだ。
煙が晴れていく先で、ユアンを背後にかばったルーナとアリスが
マントで顔を覆っていた。ほっと全身の力が抜ける。距離があった
のか、距離を取れたのかは分からないけど、無事でよかった。
﹁カズキ!﹂
﹁ルーナ⋮⋮﹂
煤けたマントの裾は千切れ、怪我なのか汚れなのかも分からない
皆の惨状をぼんやり見つめる。
﹁生きてるな﹂
﹁ルーナ﹂
﹁なら、それでいい!﹂
強い水色が炎を打ち消す。赤を塗り潰して、世界が帰ってくる。
死が有効であろうと、死にたくない理由が、私にはあるのだ。そ
1203
れが幸せなことだと思えている内は、死んでいく人達の顔がどれだ
け幸せそうでも飲まれてはいけない。
﹁な、何事もされてはおらぬよ︱︱!?﹂
ぐわっと戻ってきた感情で一番に伝えてしまったのはそれだった。
ルーナ大好きと伝えるべきだった気がする。
﹁まだ、終わってはいないぞ!﹂
血の底から噴き上がるまぐまのように煮えたぎる怒声に、ルーナ
とアリスが向きを変えた。巨体を赤く燃えたぎらせる男が咆哮を上
げる。赤いのは比喩じゃない。
﹁ひっ!﹂
血の海が蘇る。だけど、この赤は違う。炎がヌアブロウの身体を
纏っている。なのに男は、燃えながらも歓喜の声を上げて剣を振る
う。
﹁もう、終わりだ。もうやめろ、ヌアブロウ!﹂
﹁終わらぬさ! 命尽きるその時まで、戦士とは戦士であり続ける
のだからな!﹂
﹁貴様には本国に妻子がいたではないか!﹂
﹁生きていく上で必要な金銭は与えただろう! 女子供など、戦場
には必要ない! 戦場とは、戦士の為だけの神聖なる儀式の場だ!﹂
﹁⋮⋮ならば、私は戦士にはなれぬ! 私もルーナも、騎士である
のだからな!﹂
振りかぶられた剣を避け、アリスはそのまま右に逸れる。さっき
までアリスがいた場所にルーナが滑り込む。
﹁逃げるか、アリスローク! アードルゲの名が泣くぞ!﹂
アリスが悲しげに首を振る。嘗ては彼を率いた人だった。ずっと、
隊長と呼んだ人だ。だけど、アリスはもう、彼をそう呼ばなかった。
ルーナが燃える剣を受け止める。
﹁貴様も、随分つまらぬ男に成り下がったな、ルーナ・ホーネルト。
戦う為だけに生きた貴様の美しさといったらなかったぞ!﹂
﹁お前は戦いに意味を見出した。俺達には、戦う理由が意味だった。
1204
それが違いだ、ヌアブロウ﹂
﹁だからこそ、相容れぬ!﹂
刃物が鈍く重く擦れ合う音が爆音に飲まれずに響き渡る。
剣が折れたのは、ヌアブロウだった。
砕け散った剣の破片が炎を弾き、きらきらと光る。その破片の中
で、満足げな顔をした男が倒れていく。死んでいく彼らはやっぱり
幸せそうだ。生き残ったルーナもアリスも、あんなに苦しそうなの
に。
首を小さく振り、視線を外したルーナ達が走り出そうとした先が
爆発する。まだ何本もの細い刃を構えているディナストから離れて、
イツキさんに駆け寄った。
﹃イツキさん!﹄
何も映していなかった瞳がびくりと跳ねた。私の身体にべったり
と張り付いた赤い色を見て、自分の身体を抱きしめて震えだす。慌
てて切り離せる部分の服を剥ぐ。対ディナスト用に着せてもらった
服がここで非常に便利だったのは皮肉だ。一番血に触れた靴も脱ぎ
捨てて、イツキさんと向き合う。
﹃赤が、たくさん、で。だから、僕が悪くて、それで、赤が﹄
﹃イツキさん!﹄
﹃赤い、色が、消えないんです﹄
お願い、聞いて。帰ってしまう前に、お願いだから、聞いて。
﹃イツキさん、あなたが探している赤は、どんな赤ですか﹄
﹃赤、が﹄
その眼が炎と血だけを映していて、乱暴に頬を掴んで視線を変え
る。彼へ届く言葉をいま喋れる人間は、私しかいない。お願い気づ
いて。私のことなんて覚えてなくていい。言葉も、聞こえないなら
それでいい。それでも、届いてほしい。
他でもない、彼らの為に。
﹃私は、たぶん、表面的なことしか分かってませんし、怖いってい
1205
っても、あなたの見てきたものからしたらたかが知れている程度で
しょう! でも、血は怖いです! 炎も、怖いです! でも私は、
あなたの傍でずっと泣いてる赤を知っています。あなたがつけた名
前を支えに、あなたを呼び続ける赤を知っています。イツキさん、
あなたが赤の花の名前をあげたんですよ!? だから、だからイツ
キさん、お願いですから、彼だけは、見てあげてください。あなた
があげた名前を宝物にしている人を、見つけてあげてくださいっ!﹄
私が無理やり向けた視線の先で、ツバキがディナストに短剣を振
りかぶり蹴り飛ばされた。地面に落ちると同時に身を低くして駆け
ていく。何度も何度も、血を撒き散らしながら咆哮を上げて向かっ
ている。
私は何の為にここにいるんだろう。意味なんて、ないのかもしれ
ない。別に私じゃなくてもよかったのかもしれない。それでも、い
まここにいるのが私なら、私は、私が出来ることをしたい。
﹃イツキさん!﹄
見開かれた瞳が見ている赤は、どれだろうか。流れる血? 噴き
上がる炎?
それとも。
﹃赤⋮⋮い、花﹄
滴が、頬についた煤を洗い流していく。
﹃お婆ちゃんちの庭に、咲いていたんです﹄
﹃⋮⋮⋮⋮は、い﹄
﹃今はもう、お婆ちゃんが死んで、家も、庭も、なくなったけど、
僕、それが、凄く、好きで﹄
﹃はい、イツキさん﹄
ルーナ達は、どこに埋まっているのか分からない爆弾を警戒して
近づけないでいる。でも、既に爆発したところなら大丈夫だ。抉れ
た土の上を走り抜け、少しずつ距離を縮めていく。いつの間にか、
たくさんの兵士がこの場に現れていた。
1206
その中で、汚れて尚、まるで月のように美しい銀髪を靡かせる人
がいる。こんな先陣を切っていいんですか、エマさん。ああ、でも、
これだけばらばらになった物を纏め上げる為には、目に見える戦い
を見せる必要があるのかもしれない。私達を掴まえたガリザザ兵も
言っていた。目に見える形での、目に見える終わりをと。人は色々
考える。考えるけど、色々ぐちゃぐちゃになってる時は、分かりや
すい形が必要だ。だって多くの人にとって、色々考えられるのは落
ち着いてからになるから。
エマさんと目が合っている気がする。でも、たぶん違う。エマさ
んが見ているのは、エマさんに釘付けになっている隣の人だ。
ぶるぶると震える手が私の手を握った。私も握り返す。お互いが
たがた震えているから、おあいこですね、イツキさん。
﹃⋮⋮あなたは、血を分けた人間が誰もいないこの世界を、愛せま
すか?﹄
﹃心を分けた人がたくさんいます。何もなかった私に、心を分けて
くれた人が、たくさんいます。私はそれが、とても、嬉しいんです﹄
﹃⋮⋮世界は、愛せませんか?﹄
困ったように眉根を下げるイツキさんと同じ顔を返す。私達は苦
笑した。
この世界大好きと叫ぶには、少々、厳しかった。
でも、好きなのだ。
全員じゃない。出会った全てとは言えない。でも、好き。
選択をできるくらい、あの人達が、大好きなのだ。
﹁カズキ!﹂
大回りして回り込んできたルーナ達の背中でディナストが見えな
くなる。腕を押さえてよろめきながら戻ってきたツバキは、へたり
込んだ私達の前にしゃがみ込んだ。
﹁イツキ様、お怪我は!?﹂
1207
怪我を確認しようにも触れることを躊躇っているツバキの手が、
逆に取られる。
﹁⋮⋮お前のほうが、傷だらけじゃないか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮え?﹂
ぎこちなく、イツキさんの口元が笑みの形を作っていく。自然と
笑うには、強張っているのだろう。でも、笑いたいのだ。
﹁僕は、お前を、見つけられたかな﹂
﹁イツキ、様﹂
目の前で涙を流す子どもの為に、笑ってあげたいのだ。
﹁ツバキ﹂
﹁っ﹂
迷子の子どもの、言葉にならない絶叫が聞こえた気がした。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮訛りすら、ほとんどないな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮た、滞在期間が、違われると、思われるよ!﹂
ぼそりと呟いたアリスに慌てて言い訳する。
﹁⋮⋮カズキ、俺、たぶんそういう問題じゃないって思う﹂
﹁⋮⋮やはり?﹂
言いづらそうに口籠ったけど結局言ったユアンに恐る恐る訪ねる。
神妙に頷かれた。やっぱりですか。私も薄々はそう感じていました。
ぐるりとルーナを向き直る。
﹁ルーナ! 馬鹿はお嫌いですか!﹂
﹁大好きだ﹂
﹁ありがとう、私なるもルーナ大好き! アリス、ユアン! 問題
なかったよ!﹂
ぐるりとアリスとユアンを向き直る。
二人の眼が馬鹿って言ってた。
﹁たわけ﹂
アリスには口でも言われた。ユアン、言いたいなら言ってもいい
1208
んだよ!
﹁ディナスト、お前は何がしたかったんだ。玉座が欲しかったんじ
ゃないのか?﹂
まだ平らな地面の中心に立つディナストを、離れた場所からたく
さんの鏃が狙う。ぎりぎりとこっちにまで聞こえてきそうなほど引
き絞られた弦に囲まれても、ディナストはどこ吹く風だ。
﹁おや、姉上。相変わらずお美しい。ご機嫌のほどは宜しくはない
ようですが﹂
﹁この状態で機嫌が良いほど物好きにはなれんよ。お前と違ってな﹂
﹁それはそれは﹂
芝居がかった様子で剣を収めたディナストは、従順を示すかのよ
うに両手を軽く広げた。でも、誰の気も緩まない。彼がこんなにす
ぐに投降するような人間とは、到底思えないのだ。
﹁⋮⋮なあ、ディナスト。何故私だった? 何故、イツキを奪った
? 七年も、イツキとツバキを囲い続けたのは何故だ﹂
ふむ、と、ディナストは少し考えこんだ。黙って対峙する二人は、
やっぱりよく似ていた。
﹁姉上とはあまりお会いしたことはありませんでしたが、幼き頃に
何度かこのエルサムにてお会いしましたね﹂
﹁ああ﹂
﹁成人されると姉上はすぐにエデムに篭られてしまいましたから、
それ以降ほとんどお会いしませんでしたが、兄上を殺しに向かって
いたら、姉上が男を囲われていると聞きまして﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ん?﹂
﹁玉座もいらぬ、手柄もエデムが成り立つ程度にしかいらぬと、力
も富も執着されなかった姉上が惚れた男はどんなものかと思いまし
て、興味が湧きました﹂
1209
﹁お前こそ、家族も兄弟も、私以上に興味がなかっただろう?﹂
呆れた声を上げたエマさんの言葉を次いだのは、意外にもイツキ
さんだった。
﹁⋮⋮⋮⋮好きだったんだよ﹂
意外な人から上がった意外な言葉に、全員の視線が集中する。デ
ィナストでさえも、不思議そうに振り返った。びくりと跳ねたイツ
キさんを庇い、咄嗟にその視線を遮ったツバキの背を握り、イツキ
さんはぐっと顔を上げる。
﹁昔、ここで、転んだディナストに手を貸したエマの瞳がとても綺
麗だったと、ディナスト、お前は言った。その色を、エマが僕らに
向けてくれていた。だから、手に入れたかったんだ。エマの瞳にそ
の色を灯したのが僕らだと思って、僕らを調べたかったんだ﹂
﹁だから何だ﹂
心底不思議そうに首を傾げたディナストの視線を真正面から受け
止めたイツキさんは、がくがくと震える手で私の手を握り締めた。
痛いくらいに握りしめる手を、同じくらいの力で握り返す。
﹁お前は、一番美しいものは憎悪ではないと、どうして分からなか
ったんだ。だって、喪失からの憎悪だなんて、愛していたからだ。
愛していたものを奪われたからお前を憎悪する色を、憎悪だけのも
のだなんて、おかしいじゃないか。エマが僕らにくれたものは、温
かいものだったよ。温かい、愛だった﹂
﹁待て! 私はお前に恋していたし、今でもしているぞ! 愛だけ
じゃないと、そこは間違えるな!﹂
﹁わ、分かってるよ!﹂
イツキさんの頬が燃え上がった。まさかの甘酸っぱい展開である。
酷く続けにくい雰囲気を咳払いで誤魔化して、イツキさんは深く
息を吸った。
﹁お前は、愛の存在を信じていた。だって、誰かが大切にするもの
を集中的に奪ったじゃないか。愛する場所を、物を、人を、あえて
狙って壊した。お前はそれを憎悪が見たいからと言ったし、そう思
1210
っていたみたいだけど、だったらどうして、エマが僕らに向けてく
れた瞳を美しいと思ったんだ﹂
イツキさんが正気を失う前、既に得ていた答えなのだろう。唖然
とディナストを見つめる私達の中で、ただ一人、確信を持って言葉
を紡ぐ。
﹁僕らを捕まえてエマを脅したって、エマからその色を得ることな
んてできなかっただろう。当たり前だよ。だって、お前が最初に美
しいと思った色は、憎悪なんかじゃなかったんだから﹂
唇を真っ白にして血の気が失せるほど恐ろしい相手を前に、がた
がたと震えながらも、イツキさんは逃げなかった。強い、人だ。真
実、そう思った。まるで氷を握っているように冷たい手をしている
のに、瞳を逸らさない。
しんっと静まり返った中で、ディナストはもう一度ふむと考えた。
﹁成程、一理あるな。それで、お前も随分酷い男だな。もう二度と
手に入らなくなった今になって初めて、それを言うか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前なんて、大嫌いだよ﹂
ざまあみろ。
イツキさんは真っ青に震え、泣きながら口角を吊り上げる。お前
なんか大嫌いだ。それが、うまく憎悪を繋げられないと言われてい
た彼の、精一杯の嫌悪だった。
﹁はっ! はははははっ!﹂
片手で目元を覆ったディナストは、身体をくの字にして笑い転げ
た。込み上げてくる笑いを残したまま顔を上げ、目尻を拭う。笑い
すぎて涙目だ。
﹁別の遊び方があったというわけか! もう試せんのはつまらんが
⋮⋮まあ、これもまた好き勝手やってきた結果というわけだな。で
は、最後に一つ試して行こう﹂
ごく自然な動作で無造作にディナストの片足が上がる。足を上げ
1211
たそこに、地面と同じ色をした細い縄があった。
﹁放てぇっ!﹂
エマさんの声が言い終わる前に数多の矢が放たれる。
﹁では諸君、冥府でも遊ぼうか﹂
﹁伏せろ!﹂
ルーナが短剣を投げながら叫ぶのと、振り下ろされたディナスト
の踵が齎した火花が世界を割ったのは同時だった。
熱風が世界を覆う。風すらも赤い熱が迫ってくる様が、やけにゆ
っくり見えた。地面が捲れ上がり、凄まじい力の奔流が捻じ曲がり
ながら天を目指す。
土も、緑も、空気も、命も、音も、視界も。それら全てを奪いつ
くし、天に昇った熱は、まるで竜のようだった。
﹁う⋮⋮﹂
一瞬の熱に炙られた瞳がごわついて、開けるのにもたつく。
細めてゆっくりと開いていた眼を、次の瞬間、私は思いっきり開
いた。ずきりと広がった頭痛も気にする余裕がない。
そこにあるのは、詰め替えたばかりのバスマジックリンクリン。
石鹸はそろそろ新しいのを出さなきゃいけない薄っぺらさ。タオル
は洗濯機に放り込んでいる。
曇りガラス風のプラスチック扉の向こうに、その洗濯機はあった。
足拭きマットは昨日洗ってふわふわだ。
﹁え⋮⋮?﹂
くるくる回して開ける窓は換気の為に薄く開けている。その隙間
から、ぱぁあんとクラクションの音が聞こえてきた。
一人暮らしである私の、1Kのお城。住み慣れた1Kを見て、お
湯の入っていないバスタブの中でざぁっと血の気が引いていく。
1212
﹁う、そ﹂
私、また、ルーナを。
置いてきてしまった⋮⋮?
﹁う⋮⋮﹂
自分以外の呻き声に慌てて視線を横に向ける。イツキさんが頭を
振りながら呆然としていた。緩慢な動作で私を見て、また洗濯機を
見る。⋮⋮あれ? さっきの呻き声、イツキさんじゃ、ない?
そういえば、バスタブからかなり上半身が出ている。べたりと座
り込んでいるにも拘らずだ。イツキさんもそれに思い当たったのか、
呆然としながらも二人同じタイミングで、そぉっと下を見る。
﹃カズ、キ、頼むから、そこ、は、踏まないでくれっ﹄
﹃い、痛い! この壁滑る!﹄
﹃ユアン! 髪を掴むな!﹄
﹃イツキ様っ、息、息が、できなっ﹄
一人暮らしのお城、1Kのお風呂場は狭い。
﹁え?﹂
﹁え?﹂
総勢六名を詰め込んだバスタブに、私とイツキさんの呆然とした
呟きが反響した。
1213
94.神様、ちょっと懐かしい夏です
バスタブから這い出た私とイツキさんは呆然と、重なり合った惨
状を見つめる。私達に押し潰された上にぎゅうぎゅう詰めになって
いた四人は、なんとか一息できる体勢に落ち着いて初めて周りを見
た。
バスタブに並ぶ、見慣れた人達のぽかん。見慣れた場所+見慣れ
た人達=すっごい違和感。なんだこの方程式。こんなの教科書に載
っていたら放り投げる。載っていない教科書も放り投げたけど。
﹃⋮⋮カズキ、ここは、どこだ?﹄
身動ぎ一つしないルーナの問いに、ごくりと皆の喉が鳴った。
﹁私の家⋮⋮というか、部屋﹂
﹁⋮⋮カズキさん、向こうの言葉で言わないと﹂
﹃カズキの部屋? じゃあ、ここは異世界か!﹄
ルーナが叫んだ。
﹁分かるんですか!? 日本語!?﹂
イツキさんも叫んだ。
﹃異世界だと!?﹄
﹃カズキの部屋熱い!﹄
﹃イツキ様の世界!?﹄
皆も叫んだ。
私はそれら全てを聞きながら両手で顔を覆った。
どうしよう、これ。
後、ユアン君。それは仕方がない。だってこっちは七月ですよ!
? とりあえずお風呂場から出よう、そうしよう。
1214
言葉を覚えるんじゃなくて、覚えてもらう手があったなんてと、
なんだかショックを受けているイツキさんが先陣を切ってお風呂場
から出ようとして、ぴたりと止まる。
﹁カ、カズキさん! 新聞ないですか!?﹂
﹁ないです! ちょ、ちょっと待ってください!﹂
慌てて靴を脱いでいるイツキさんの横で私も脱ぐ。実家ならいつ
もすぐ溜まって捨てるの大変なのに、一人暮らしだと新聞無くて困
ることが意外とある。新聞って、下に敷いたり詰めたりするのにか
なり便利だ。後、脱臭。
靴を脱いでも、服がまずい。煤と砂と泥と、血が、ついている。
﹁猥褻物陳列罪警報発令!﹂
回れ右して服を脱ぐ。流石にこれで部屋に突入する度胸はない。
サスペンスの定番、ルミノール反応が出てしまう。
﹃カズキ!﹄
﹃せめて分かる言葉で予告しろ!﹄
﹁カズキさん!﹂
﹃え、ちょ、何!?﹄
﹃うわー、見たくないわー﹄
後ろでごんごん音がする。回れ右をしてくれた皆の防具がぶつか
り合った音だ。狭くてごめんねと謝りつつ、服を置いて、更に髪を
ぶんぶん振って砂を落とす。軽く跳ねて固まった泥が落ちなくなっ
たのを確認して、長いキャミソールと下着でお風呂場を出る。バス
タブでは、ルーナとアリスに目隠しされているユアンがもがいてい
た。
ぺたりとフローリングの床が素足に張り付く。視界だけじゃなく
て、足先から感じる懐かしい違和感に込み上げるものを振り払う。
今はそれどころじゃない。1Kの私の部屋は、脱衣所の真向いがト
イレ。トイレに向かって左が台所、その奥の扉の先が居住空間だ。
私は、炊飯器と食器を乗せているレンジ台の下からゴミ袋を引っ
1215
張り出した。ちなみにレンジは、レンジ台じゃなくてツードアの冷
蔵庫の上にいる。
一枚一枚は薄いけど、重なると結構重たいゴミ袋を握り締め、額
をつける。あ、コンロの側面にカレーの垂れ後が。
お風呂場で水音と、うわっと悲鳴が上がる。どうぞ節水を心掛け
て頂けると非常に嬉しいです。
待って、お願いだから待って。考えるから。ちゃんと考えるから。
だって、だって、どうしよう。こんな、一か月で一年だよ。一日で
⋮⋮⋮⋮どれくらい?
ちょっと、計算できなかった。
携帯は置いてきた。電卓は持ってない。パソコンだ。パソコンつ
けて⋮⋮。
関節が固まったみたいにうまく動かない。どっ、どっと心臓が鳴
っている。駄目だ、しっかりしろ。しっかり、しろ。
ビニール臭い袋から顔を離し、よしっと気合いを入れてお風呂場
に戻った。
﹃これなるの中に、洗濯必須な服を纏め上げてください。靴はこち
らに陳列致してよ﹄
半透明のごみ袋を数枚引き抜き、それらは床に敷き詰める。後は
全部纏めて渡したら、全員固まった。
﹃カズキ⋮⋮これ、クラゲ?﹄
﹃生物では無きよ、ユアン。袋。びにーる袋﹄
﹃びにゅーる?﹄
﹃びにーるよ﹄
あんまりびよんびよんしたらすぐ破れるよ。それは安い分、薄い
のです。分厚いのはゴミがたくさん入るけど、その分高いし枚数も
入ってないのだ。
まじまじと眺めている皆を急かして、とりあえず装備を全部外し
1216
てもらう。危険はないからとイツキさんと一緒に説き伏せて、武器
も全部並べてもらう。
⋮⋮脱衣所が埋まった。皆、外に見えない武器を持ち過ぎである。
圧巻の武器を見下ろしていたイツキさんが服を脱いだ時、どこん
と重たい音がした。
﹁いっ⋮⋮!﹂
﹃イツキ様!?﹄
足を押さえて飛び上がったイツキさんの足元にしゃがみ込んだツ
バキに、狭い脱衣所で追突事故が広がっていく。狭くて本当にごめ
ん。
﹃これ⋮⋮﹄
﹁え?﹂
呆然とした声で持ち上げられたのは、半分以上点滅が消えた、あ
の石だった。
瓶は置いてきて自分だけ渡ってきたらしい石は、とりあえず水場
から離そうと窓際に干してきた。点滅が消えた場所は電球が切れた
みたいに真っ黒だ。点滅の光も酷く弱い。でも、こっちは水に浸け
て条件を揃えたら光り出す可能性が高いそうだ。他の石もそうだっ
たらしい。
そして、問題はこれからだ。
防具を外し、汚れた上着を脱いでもらってもまだ悩む。泥だらけ
煤だらけ何かは判断をつけたくない黒い染みだらけ。
いや、汚れは致し方ない。だって大規模な戦闘の後だ。皆が死に
物狂いで助けに来てくれたのだから、それに対してどうのこうのい
うつもりはない。ないのだけど、一人ならともかく、この人数がこ
の惨状で台所を通って部屋に行くと、大惨事掃除大変が勃発する。
1217
﹃しょ、少々待機!﹄
皆を脱衣所に押しとどめ、部屋に走り込んでパソコンをつける。
起動している間にそわそわ待ち、ようこそを経てぱっと変わった画
面の右下に視線を滑らせた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮え﹂
日付は、私が向こうに行った日のままだ。時間は三時過ぎ。時間
だけが数時間過ぎているけれど、日付は変わっていない。何度も確
認して見間違いではないと確かめる。
﹁前と、違う﹂
以前は伸びた髪も何故か向こうに行く前と同じ長さになっていた。
だけど、今回は向こうで切られて伸びたあの髪のままだ。それに、
以前はあれだけ引っ付いていたルーナは置いてきたのに、今回は全
員揃ってこっちに来てしまっている。
以前と違う。それを念頭に置かなくてはいけないようだ。違う違
うと比べられるほど経験してないけど。
﹁一年、経って、ない?﹂
いつの間にか後ろから覗きこんでいたイツキさんが、呆然と呟い
た。
﹁僕が、いなくなって、一年、経ってない﹂
イツキさんの言葉が止まる。そして、表情も動かなくなった。震
える両手で顔を覆い、長い髪をぐしゃりと握りしめる。
﹁帰れ、ない。こんなんじゃ、会えないっ⋮⋮﹂
泣き崩れたイツキさんに駆け寄ろうとしているツバキは、そこか
ら動くなとでも言われたらしく、ただのスライドドアしかないそこ
で足踏みしている。酷く切羽詰まった顔で、そのドアさえ閉まって
いないそこに結界でもあるかのようだ。
しんっと静まり返った部屋の中で、私は自分の頬をばしんと叩い
た。ぎょっとした視線が集まる。私だ。私が考えなくてどうする。
1218
だって、ここの部屋主だ。皆お客様だ。おもてなしは部屋主の仕事
だ。
今こそ、私が向こうで心配しなくてよかった衣食住の恩を返す時
が来たのである。不安で不安で堪らなかったとき、私の心配を言葉
と己の馬鹿だけにしてくれた皆へ、黒曜とか祭り上げられた幻想じ
ゃなくて私自身が返せるのだ。
まず、すること。
﹃皆、怪我は!?﹄
怪我の有無の確認からだ。ぱっと見でろでろでも実は大怪我をし
ているということが⋮⋮既にでろでろの場合はどうしよう。大怪我
している人がいたら、保険証どうしよう。
幸い全員軽症で、よかったと胸を撫で下ろした私とイツキさんは、
くらったら怪我どころじゃなくて即死だったからなとしれっと言っ
てのけたルーナ達に頭を抱えた。怪我の程度は家でどうにかできる
範囲だとは思う。ただ、如何せん治療道具がない。あるのは消毒液
と絆創膏くらいだ。
傷口を消毒する前に清潔にもしなければいけない。着替えだ。着
替えがいる。今は七月、夏真っ盛りだ。冬服のように一式揃えなく
ていいのはありがたいけど、何はともあれ最低でも下着一式はいる。
パンツとシャツ、パンツとシャツとぶつぶつ呟く。
財布は向こうだ。カードの類も一切合財向こうで、携帯も向こう。
でも、いま私の部屋には、もしもの時の為の現金五万がある。
これは一人暮らしする際のお母さんの教えだ。
五万。五万あれば、何かあってスーツだの喪服だの一式を急遽揃
えなくちゃいけなくなった時でも何とかなる。残った分をお財布に
収める余裕だってある。飛行機で飛んでかなきゃいけない時でも焦
らなくていい。だから、絶対に手持ちに現金で五万は構えておきな
1219
さい。そう言って、大学一年生の春に五万をくれた。幸いそんな事
態に陥ることなく今日まで大事にしまってきたそれを、使う時が来
たのだ。ちなみに、修学旅行の時は制服の裏に一万を縫いつけてく
れた。備えあれば憂いなし。あんたは馬鹿だけど、ちゃんと備えて
さえいれば馬鹿でもなんとかなるから安心しなさいと言っていた。
ありがとうお母さん。おかげで馬鹿でもなんとかなりそうです! お金って大事! お母さんの知恵袋って凄く偉大!
歩いていける範囲にショッピングセンターないのが痛いけど、コ
ンビニならある。コンビニにも男性用の下着やら何やら売っていた
はずだ。高いけど。
私はクローゼットを開け、中に敷いている消臭紙の下から五万円
を取りだし、ぎゅっと握りしめた。ついでに着替えも取り出してお
風呂場に戻る。
方針は、決まった。
﹃お風呂に入るよ!﹄
﹃何故だ!﹄
洗濯機を開けて中を覗き込んでいたアリスちゃんが吼える。
﹃母に救助を申し立ててくる故に、伝達してくるからよ!﹄
方針、家に助力を乞う! 以上!
私一人の手に負える問題じゃない。助けて、お母さんの知恵袋!
携帯がない以上、外に出て連絡を取ってこなければならない。で
も、こんなでろでろで出かけられないのである。
﹃一番風呂ごめん。だが、私が外出している合間に、皆、順序入浴
してぞ!﹄
﹃僕が入り方を教えます﹄
イツキさんより憔悴してみえるツバキを見かねたのか、無理やり
笑顔を浮かべて脱衣所に戻ってきたイツキさんが片手を上げた。 1220
でろでろのメンバーで飛び込んだバスタブが悲惨なことになって
いる。バスマジックリンクリンを噴射して猛スピードで磨く。床は
足で擦りまくった。ちょっと待って。すぐ掃除してすぐ汚れ落とし
て、すぐ電話してくるから。
シャワー全開で流しながら、そうだとイツキさんを振り向く。
﹁イツキさん、私、男兄弟がいなくて今一分からないんですが﹂
﹁はい?﹂
﹁皆のパンツとシャツのサイズ、Mですか? Lですか? たぶん
Sじゃないとは思うんですけど、うち、お父さんしか男の人いない
からよく分からないです﹂
﹁ああ、えーと﹂
じぃっと皆を見つめて、イツキさんも首をひねる。
﹃ええと⋮⋮ツバキ、ちょっと脱いで。寧ろ皆さん脱いでもらえま
すか﹄
冬服では分からなかったようだ。
﹁とりあえずLだと間違いはないんじゃないかなぁと。ユアン君は
Mでも充分そうで⋮⋮⋮⋮⋮⋮予告して入ってもらえませんか﹂
曇りプラスチック扉の向こうから恨みがましい声が聞こえてきた。
すみません。どうせシャワー噴射するならもう浴びちゃえばいいん
じゃないかなと。
ぐわーっとお風呂場を洗い、ついでに頭を洗って、身体も洗う。
皆が後ろを向いてくれている脱衣所に手を伸ばし、タオルと着替え
を引っ張り込む。中で着替えると濡れるけど、脱衣所で着替えるわ
けにもいかないから仕方ない。身体が乾く前に無理やり服をかぶる。
急がないと駄目だ。
お母さんが夕飯の買い物行く前に連絡しないと怒られる。夕飯用
意した後にこっち来てと言ったら、絶対怒られる。
わしわしと髪を拭きながらお風呂場を飛び出す。
﹃遅刻して申し訳ございませ凄まじく暑い!﹄
脱衣所すっごい暑い!
1221
むわっとした湯気が充満して、シャンプーの匂いが沸き立つ。
慌てて部屋に駆け戻り冷房を入れる。すっかり忘れていた。ごめ
んなさい、文明の利器! 愛してる!
脱衣所に走って戻り、洗面台に引っ掛けてあるドライヤーを引っ
掴んで炊飯器のコンセントを奪う。台所にどかりと胡坐を組んでス
イッチいれた瞬間、イツキさん以外が戦闘態勢に入って怖かった。
予告しなかった私も悪いけど、問答無用で短剣を引き抜いた三人は
正座してください。私、武器は全部置いてくださいと言った気がす
るんです。その短剣、床に並べてたのじゃないですね。さあ、どこ
から出した。素直に全部出したユアンを見習ってほしい。そのユア
ンはいま、クールにしたドライヤーの風を気持ちよさそうに受けて
いる。ユアン、二番風呂いってらっしゃいませ。
鞄に、封筒に入ったお金と、あんた馬鹿だから絶対携帯壊すから、
アドレスは絶対紙にも書いておきなさいと渡されたアドレス帳を入
れる。ありがとう、お姉ちゃんの知恵!
靴を履いて、とんとんと確かめる。今まで履き慣れていたゴム底
に違和感があった。今度はこっちで転びそうだ。アスファルトで転
ぶとダメージが桁違いだから、気をつけよう。
﹃着替えを買いものしてくるので、それまで何物か纏っていてよ﹄
﹃俺は、ついていかないほうがいいんだな﹄
﹃ルーナ、着替えが無きよ。大丈夫、平気よ。外出は、非常に安全
地帯だから﹄
靴を履いて、玄関すぐ横の脱衣所を覗き込む。イツキさんがユア
ンにシャワーの使い方を教えていて、残りのメンバーも真剣に聞い
ている。ルーナも聞いたほうがいいと思う。
﹁イツキさん! 部屋にあるものは何でも使ってもらって大丈夫で
すから! Tシャツとか、フリーサイズのあるんでクローゼットか
ら引っ張り出してください! ゴムのスカートとかだったら全員着
れるかもしれません!﹂
1222
﹁あ、はい!﹂
ズボン系は無理だろうけど、スカートだったらウエストフリーな
ら何とかなるかもしれない。ズボン⋮⋮ユアンだったらいけるかも
しれない。まあ、何はともあれ下着だ。
﹁後、パソコンも、大丈夫ですから﹂
﹁⋮⋮すみません。ありがとうございます﹂
一瞬詰まったイツキさんは、わざわざ振り返って頭を下げてくれ
る。私もそれに礼を返して、むあっと熱気渦巻くアスファルトの街
に踏み出した。
雪が音を吸いこんで、深々と閉じていく夜を知っている。
凍えそうな寒さの中で、全ての命の象徴のような温度を知ってい
る。その温度に抱かれて眠る心地よさを知っている。
だけど、灰色の熱さに焼かれるこの場所が、涙が出るほど恋しか
った自分も、知っているのだ。
1223
95.神様、ちょっとお弁当美味しいです
歩き慣れた道を、急がないとなぁと思いながらもふわふわした気
持ちで歩く。固い地面から跳ね返ってくる暑さ、耳を劈く蝉の叫び
声、後ろから通り過ぎていく自転車。このふわふわ感、例えるなら
あれだ。海とかで泳いだ後に感じるふわふわ感に似ている。
赤信号の前で立ち止まり、忙しなく行き来する車を眺める。特に
気にしていなかったけど、こうしているとこっちの世界は随分と音
が甲高いと気づく。向こうだと、人や動物の声以外は、風の音や木
と木がぶつかる音がメインだったから、聞こえてくる生活音はとて
も柔らかかった。
ついさっきまでの動揺が落ち着いても、色々切り替えがうまくい
かない。爆弾が爆発した熱と火薬の臭い。土中から捲れあがってく
る地面。噎せ返る真っ赤な世界。うだる暑さでぼんやりと混ざり合
っていく赤を、頭を一振りして振り払う。こうしているとまるで映
画を見ていたような世界。でも、あれは映画じゃない、夢でもない。
ここではない世界が確かにあって、私は確かにあそこにいた。その
証拠は、今度は思い出だけじゃない。もう会えない痛みだけじゃな
い。
今度は一人じゃないのだから、泣いて泣いて泣いて、蹲る暇もな
ければ、その必要もない。
1224
最近はめっきり見かけなくなった公衆電話を探しつつ、コンビニ
を目指す。確か、お爺ちゃんお婆ちゃんがタクシーやお迎えを呼ぶ
施設にはあったはずだ。病院とか公共施設に。
コンビニへの通り道にある薬局にも寄る。消毒液、ガーゼ、テー
プ、化膿止め、湿布、包帯、解熱剤。⋮⋮後、何がいるだろう。万
引きと間違われても仕方がないくらい、ふらふらと棚を行ったり来
たりする。お菓子は増えた。
一応お腹の薬も買っていこう。ご飯合わなかったら困る。他にも
ちょこちょこ思いつくものを放り込んでいく。こっちは排気ガスと
かあるから目薬もいるかな、ひえ∼るピタとかユアンが喜びそうだ、
水分補給用にスポーツドリンクとかもいるかな。
重い籠を持ってレジに向かっていた足をぴたりと止め、ぐるりと
向きを変えた。
そして、今まで縁のなかった場所で仁王立ちする。仁王立ちとい
うのは語弊がある。説明書を読みふけるけど、さっぱり分からない。
髭剃りとシェービングクリーム。要るだろうと思うんだけど、ど
れがいいのかさっぱりだ。色々あって全く分からないので、見覚え
のあるのを選んで籠に入れた。お父さんが使っていたと思われる商
品だ。実家のお風呂場で見た気がする。たぶん。
万札は余裕で飛んでいった。薬局怖い。楽しかった。
もう少しでコンビニに辿りつくなぁと、重い袋を持ち直した私の
肩がぽんっと叩かれた。
﹁一樹! あんた今日学校どうし⋮⋮⋮⋮何、その顔!﹂
﹁美代! 久しぶり!﹂
﹁何言ってんのあんた、昨日会ったじゃない﹂
大学でゼミも同じ友達の美代がびっくりした顔をしている。美代
1225
には昨日でも、私には結構な間があります。
﹁顔?﹂
﹁髪に隠れてるけど、左っ側、傷けっこうついてるよ﹂
綺麗に整えられた指が髪を掻き上げて、傷があると思わしきあた
りを触る。ぴりっと痛みが走る。爆発の余波で吹き飛んできた破片
か、それともディナストに追われていた時に擦りむいたのだろうか。
鏡見ていないから気づかなかった。着替えたりお風呂に入ったりし
ていて、皆と視線も合わなかったから誰も気づかなかったようだ。
道理でシャワー浴びてる時に違和感があったはずだ。それどころじ
ゃなかったけど、確認しとけばよかった。でも、髪に隠れるという
し、まあいいや。
﹁ちょっと、色々と﹂
﹁⋮⋮あんたまさか事故ったの!? 携帯も電源入ってないし!﹂
﹁あ、うん、そんな感じ⋮⋮あの、美代、ごめん。そんな感じで、
雑誌、壊滅しちゃったんです、よ。弁償する﹂
皆で回し読みしていた雑誌は全部あっちに置いてきてしまった。
そして、ブルドゥスの人達にパーカーと肌荒れにきび二の腕ぷるぷ
るを布教している。ブルドゥスの人にも、雑誌を作った人にも大変
申し訳ない事態だ。
﹁そんなのどうでもいいわよ。怪我は? 他には?﹂
﹁いや、そういうわけには駄目でしょ﹂
﹁駄目も何も、前に裕子が雨で全滅させた時も、しゃあないねで終
わったじゃん。真っ先にどんまいしたあんたが何言ってんのよ﹂
そういえばそんなこともあった。
﹁薬局で薬買ったの? で、あんたいまどこ行こうとしてんの?﹂
﹁コンビニ。携帯壊れちゃったし、公衆電話探しがてら買い物しよ
うかと﹂
美代はほっと胸を撫で下ろす。そして、鞄に手を突っ込んで、あ、
という顔をした。
1226
﹁じゃあ、怪我は大したことない? よかったけど⋮⋮しまった。
あたしいまスマホ家で充電中なんだよね。これからちょっと遠出で
さ。公衆電話なら、あのタバコ屋さんのとこにあったよ。代わりに
これあげる。前にお婆ちゃんち大掃除した時に出てきたの貰ったや
つ﹂
財布からぽんっと渡されたのはテレホンカードだった。まだ穴が
開くところが三つも残っている。よく分からないキャラクターが親
指を立ててご機嫌顔だ。
﹁いいの?﹂
﹁使わないでもう何年も財布の肥やしになってたし、代わりに使っ
てよ﹂
﹁ありがとう、美代﹂
﹁どーいたしまして﹂
タバコ屋さんならすぐだから財布にしまわず、ポケットに突っ込
む。
﹁美代、何か用事があった? ごめん、携帯見れなくて﹂
﹁ああ、うん。健のかてきょ、今日からちょっとの間要らないよっ
て伝えたくて﹂
健君は美代の弟で、私とお馬鹿同盟を組んでいる高校生だ。ごめ
ん、健君。授業で使おうと思ってた私の昔の参考書、全部向こうで
す。とにかく勉強が苦手な健君。馬鹿に対抗できるのは馬鹿だけだ
という謎の理論で抜擢されたバイトだったけど、今までそれなりに
うまくやっていた。だって、馬鹿同士。何がどう分からないかが分
かるのだ。
﹁親戚に不幸があってさ、ちょっとそっち行ってくるんだ﹂
﹁分かった。でも、あの、美代。夏休み中のバイトどうするかって
話前にしたけど、私、バイトもうできないと思う﹂
﹁ああ、健は別に受験生じゃないし、勉強の仕方だいぶ分かってき
たみたいだし、あんたの時間拘束し続けるのもねってお母さん達と
話してたのよ﹂
1227
﹁それは別にいいんだけど、ちょっと、時間が作れなくなりそうだ
から﹂
理由はちゃんと話せなかったけれど、美代は深くは聞かないでく
れた。それだけ伝えに来てくれたらしく、もう行くねと美代は手を
振る。
﹁あーあ、しっかし、健ががっかりするわ﹂
﹁健君、私より頭いいと思うよ﹂
﹁そうじゃなくてさ、まあいいや。じゃあね!﹂
﹁うん、ばいばい!﹂
新幹線の時間があるからと走っていった美代を見送る。暑い中、
連絡がつかない私に会いに来てくれたのだ。
﹁ありがとう、美代﹂
久しぶりに会った、全然久しぶりじゃなかった友達が、やっぱり
大好きだった。
タバコ屋さんでのんびり店番しているお婆さんに会釈して、公衆
電話にカードを入れる。実はテレホンカード使うの初めてで、ちょ
っとどきどきだ。一回引っ越して以来覚えていない実家の番号をア
ドレス帳を見ながら押して、繋がるのを待つ。
︻はい、須山です︼
ずっとずっと聞きたかった声が受話器の向こうで聞こえた瞬間、
いろいろ込み上げた。
﹁おかあ、さん﹂
︻ああ、カズキ? どうしたの? あなた今年の夏休みどうするの
? 去年は帰ってこないで薄情だことー。大学生活に浮かれちゃっ
てぇ︼
﹁お母さん﹂
︻今年はちゃんと帰ってきなさいよ。鈴木さんがあなたの好きな果
1228
物入ったゼリー送ってくれたから、帰ってこないと全部食べちゃう
わよ。鈴木さん、今度は山形ですって。転勤多いわよねぇ︼
﹁お母さん﹂
お願い、話を聞いて。
お願い、もっと喋って。もっと声が聞きたい。
﹁お母さん﹂
もう会わないと決めたはずなのに、いや、決めたからこそ、喜び
や切なさだけじゃなく申し訳なさが先立つ。先立つのに、嬉しい。
お母さん、私、お母さんにさよなら言っちゃった。ごめん、お母さ
ん。
︻⋮⋮なあに、あなた、まさか泣いてるの?︼
﹁あのね、お母さん。大事な話が、あるの。私携帯壊しちゃって﹂
︻いつか壊すと思ってたわ。ちなみにお父さん先週トイレに落とし
て壊したわ︼
﹁お父さんとお姉ちゃん達と一緒に、こっち来れる?﹂
︻なに、どうしたの︼
﹁凄く、大事な話があるの。戻りたいけど、ちょっと戻れなくて。
それで、ごめんだけど、来て、もらえませんか﹂
勝手にさよならしてごめんなさい。一人で勝手に決めてごめんな
さい。
︻⋮⋮あなた、どうしたの?︼
﹁お母さん、会いたい。会って、話したい﹂
︻⋮⋮分かったわ。それにしても、あなた、ちゃんと食べてる? 何かいるものあったら持っていくわよ︼
﹁あ!﹂
︻なによ、いきなり!︼
﹁手足の長い成人男性の服が欲しい。後、そんなに大きくない男の
人と、中学生くらいの男の子の服も!﹂
︻あなた、本当に何やったの!?︼
﹁何もやってないような凄くやらかしたような感じです!﹂
1229
なんかごめんなさい!
コンビニ行って必要な物を買って、帰り道はルートを変えてスー
パーに寄った。そして、よしと気合いを入れて走って帰る。太陽と
アスファルトの反射にじりじりと焼かれながら、猛ダッシュだ。
アパートに駆け込み、ノックする前に即座に扉が開いた。
﹃おかえり﹄
﹃ただいまよ!﹄
扉を開けてすぐにルーナがいる幸せ。ほっと肩の力を抜いたルー
ナがいる幸せ。
幸せなんだけど、ルーナ含めて部屋の中がカオス。
私は慌てて扉を閉めて、買ってきた物を冷蔵庫に放り込みながら、
ほかほかとさっぱりしたイツキさんをちらりと見る。全力で視線を
逸らされた。何も言いませんとも。手持ち札の少ない条件下で、頑
張ってくれたのは分かりますとも。
でも、私のよれよれジャージと、パジャマ二本、よく分からない
キャラクターがいい笑顔してるのと、ハート模様が散りばめられた
ズボンを穿いている三人。丈が足りない。しかも上半身裸。カオス。
柄が今一なのは安かったからです。二本で五百円だったよ!
戦利品である下着と髭剃りを差し出し、男子身づくろい大会が繰
り広げられている間にクローゼットを探る。私が入れていた時より
綺麗に入っていた。どうもすみません。
ちなみにアリスちゃんには、下着を渡す時に気を使ったら怒られ
た。普通のしかなくてごめんねと謝った瞬間、凄まじい青筋が額を
走り抜けていったのだ。
﹃⋮⋮唯一の男子といえど、忙しくてなかなか家に帰ることのでき
ない詫びを兼ねて、彼女達の趣味に付き合うことで鬱憤を晴らして
もらっていただけであって、貴様、私が好き好んであれを着用して
いたとでも思っていたのか?﹄
1230
﹃アリス。カズキの顔は手当てするから別の場所にしてくれ﹄
うんっと思いっきり頷いたら、特大の青筋を見せて伸ばされた手
が、洗面台から飛んできたルーナの声で彷徨った。ルーナ、よく分
かったね。背後どころかその眼は切り離しが出来るんですか?
結局チョップに収まったけど、思ったより痛くなかった。
ごそごそとクローゼットの中を漁る。
あれ、どこしまったかな。たぶん、どっかにあったんだけど。
テレビでやってて面白かったから買っちゃった! と、何個も買
ってきたお父さんが、節約の誓いをコロッと忘れたことに怒髪天を
衝いたお母さんに肉じゃがをじゃがじゃがにされていた物が確かど
こかにあったはずだ。これしかなかったからとそればかりを買って
きたのも敗因である。せめて皆も着られるMとかSにしてくれたら、
全部紳士用でもお母さんはあそこまで怒らなかったと思う。
一人髭を剃る必要がない上に、私の普通の上下で事足りたユアン
は、膝下までのズボンとTシャツを着て胡坐をかいていた。可愛い。
テレビに齧り付きつつこっちも気になるようで、あっちもこっちも
きょろきょろしている。しかし身体はテレビ寄りだ。正直でいいと
思います。でも、もうちょっと離れないと目が悪くなるよ。
﹃カズキ! カズキ、これ何!﹄
テレビの説明は既にイツキさんから受けているのか、偶にびくっ
としつつも不審がってはいない。でも、気のせいだろうか。テレビ
を乗せている倒した三段ボックスに傷がある気がする。さあ、斬り
かかったのは誰だ。
﹁あった、これだ。えーと﹃何とは何事?﹄﹂
﹃これ! このティヴィっていうの何言ってるのか分からないけど、
こいつ何!?﹄
﹃テレビよ。そしてそれらはペンギンよ﹄
﹃ぺんぎぃん﹄
1231
﹃極寒の地にて居住いたしている動物よ⋮⋮温かき居場所にも居住
して致していた気配もうするよ!﹄
﹃ぺんぎゅぃん。あれは? でかいの!﹄
﹃トド﹄
﹃とど﹄
地球世界の生き物動物紀行は、ユアンの心をがっちり掴んだ。目
をキラキラさせて齧り付いている。続けてサバンナとガラパゴスの
特集だよ、よかったね。音量上げていいよ。
ユアンの位置をちょっと下げてから、発掘した塊を三つ持って洗
面台に向かう。足の踏み場のなかった武器が、立てたり積んだりと
横に寄せられている。でも狭い。男三人がぎゅうづめだ。丈が圧倒
的に足りないズボンに上半身裸。カオス。バスタオルなくてごめん
ね。洗うのも乾かすのも面倒なので、フェイスタオル使用していた
ツケがまさかのルーナ達に回った。髪と身体で一枚ずつ使ったほう
が、バスタオル一枚干すより楽だったんですごめんなさい。
その様子を一歩離れて見ていたイツキさんは、私の高校ジャージ
の上下を着用していた。着れましたか。よかったです。
安全圏の服を着用しているイツキさんは、とても申し訳なさそう
に視線を逸らす。
﹃⋮⋮⋮⋮すみません﹄
﹃⋮⋮⋮⋮いえ﹄
﹃⋮⋮⋮⋮普通のは、皆さん、太腿が、どうあっても入らなくてで
すね。後、胸と肩と腕が﹄
﹃ほとんど全てと申しますね!﹄
筋肉ある成人男性が着られる服は、この部屋にはなかったようだ。
服を着ていたらそんなに太く見えないけど、要所要所の筋肉が張っ
ているから仕方ない。
髭を剃って整えた三人が手に取った下着のシャツを回収する。
﹃カズキ?﹄
﹃こちら着用のほうが、まだ、よきかなと﹄
1232
お母さん達がいつ来られるかは分からないけど、上に下着のシャ
ツしか着ていない男がぞろぞろいるよりましだと思うのだ。私は、
チューブ型の物体を三つ並べた。不思議そうに首を傾げた三人の隣
で、イツキさんがわっと声を上げる。
﹃あ、これ前テレビで見ました!﹄
﹃父が面白がり、大量購入を試みた結果、大惨事となった一部を頂
戴致しました﹄
﹃え、ええー⋮⋮﹄
圧縮Tシャツを解いて三人に渡す。これなら紳士用のLサイズだ
から皆着られるはずだ。なんとなく三つ貰ったけど、ちょうどよか
った。あの時の私を褒め称えたい。
﹃カズキ! あれ、あのでかい魚! 何ていうの!?﹄
﹃クジラー﹄
﹃カズキ、なんかクリラいなくなった! なんかうまそうなのが!﹄
﹃え!?﹄
チャンネルが変わっている。どうやら興奮したユアンがチャンネ
ルを踏んづけたようだ。テレビに映っているのはどこかの県のどこ
かの店の、行列の出来るラーメン。
皆の眼がテレビに向いている中、ユアンだけは私を見つめている。
私は無言で、さっき買ってきたお弁当を六人分差し出した。
近所の木村スーパーのお弁当、あのお店で作ってるし、店長の奥
さんが昔シェフやってて、シェフのきまぐれランチって名前のお弁
当、凄く美味しいですよ! 学生も、近所の主婦も、お年よりにも
大人気。洋風、和風、中華の三種類。シェフのきまぐれランチ、4
98円! 六人分は結構痛いけど、美味しいから皆さあ食べて!
﹃⋮⋮⋮⋮お前、作れよ﹄
ぼそっと呟いたツバキの頭をイツキさんがはたく。
﹃同感であるだがツバキ!﹄
1233
私は颯爽と立ち上がり、台所に戻った。そしてコンロの下を開く。
﹃ツバキ、こちらは、一人生活を致している私の調理器具です﹄
小と中の鍋一つずつ。中サイズのフライパン一つ。ボール一つ。
食器だって一人暮らし用の分しか想定していない。お箸もなけれ
ば茶碗もない。ラーメンにしたって、鍋で二人、フライパンで一人、
ボールで一人、回して食べたいというのか。どんぶりも一つしかあ
りませんよ!
美代とか友達が泊まることはあるけど、食器又は食料は持込み制
である。
﹃六人分一斉にまかなうは、私の腕では難しきよ!﹄
必殺カレー、鍋、スープの大鍋技が使えない上に、ご飯だって三
合までしか炊けない。そしてお米、後二合しかないのだ。明日木村
スーパーポイント三倍デーだから、まとめて買うつもりだったので
ある。
ぎゅうぎゅう詰めになってしまった、冬は炬燵に早変わりする暖
房器具兼テーブルに、かろうじて三つあるコップを並べていく。一
個は、こっちで口座作った時銀行でもらったコップだ。続いて、お
椀、お茶碗、中鉢を置いて、氷を放り込む。そこに、さっき作った
ばかりの麦茶を注ぐ。ペットボトルを買ってくればよかったんだろ
うけど、流石に腕が千切れそうでした。ごめんね。薬局でシャンプ
ーとか洗剤の追加も買ったのが大きかった。腕が痛い。
そうして私達は、シェフのきまぐれランチ弁当を頂いた。これ何
それ何と騒がしかったけれど、概ね好評だった。でも最初に、和風
を選んだイツキさんの卵焼きが私のより小さいとちくりと文句言っ
てきたツバキにうちのフォークは渡さない。ルーナとアリスとユア
ンに分配し、ツバキにはスプーンだ。付け合せのスパゲティに悪戦
苦闘するがよい! 割り箸ならあるよ! フォーク三本しかないん
1234
だ! ほんとごめん!
﹃カズキ、何か手伝えるか?﹄
﹃大丈夫。ルーナ達は休憩しているよ﹄
お弁当のパックを軽く洗い、ゴミ袋に突っ込む。さて、デザート
にアイス買ってみたんだけど、どうしようかな。
部屋の中を見ると、テレビを見ているようでいて、皆ぐったりし
ていた。そりゃそうだ。だって、さっきまで命がけで戦っていたの
だ。そこから休まず怒涛のお風呂と服なしの悲劇。疲れていて当た
り前だ。気は張っているようだけど、やっぱりどこか気だるげだっ
た。
一応お腹も膨れ、傷の手当てもしてさっぱりして、涼しい部屋で
座っていたら、眠くなったっていいと思う。ユアンは、象の親子を
見ながら船を漕いでいる。ルーナと目が合って、ユアンと布団を指
さす。ルーナは黙って頷いてくれた。そして、かくりと首を落とし
たユアンが倒れ込む前に抱き上げ、布団に寝かせる。
私は、パソコンの前で静かに座っているイツキさんを口ぱくと手
招きで呼んだ。イツキさんはツバキに小声で何かを言って、音を立
てないようそぉっと移動した。
﹁どうしました?﹂
﹁ちょっとご相談が﹂
﹁え?﹂
ひそひそと話しながら脱衣所に向かう。ここにあるのはルーナ達
の服だ。
﹁⋮⋮一応おしゃれ着洗いするつもりですが、洗濯機に入れて大丈
夫だと思います?﹂
﹁う、うーん、僕、あまり詳しくないんですけど⋮⋮色落ちするか
もしれません。染料がもろに草花ですし﹂
1235
﹁ですよね﹂
冬服だとそこに更に分厚さが加わる。いっそバスタブに入れて足
踏み洗いしたほうがいいのだろうか。マントなんて、安いカーテン
なんて目じゃないくらい分厚いし重たい。
﹁でも、カズキさん。とりあえず一旦休みませんか?﹂
﹁あ、お疲れのところすみません。ユアンの横で寝てもらえると。
客用布団ないので﹂
﹁いえ、そうじゃなくて﹂
イツキさんは更に声を潜めて手招きする。身を屈めて耳を寄せる
と、内緒話の態勢に入った。
﹁多分、カズキさんが休まないと、ルーナさん達休みませんよ。僕
も休まないとツバキ寝なさそうですし、ちょっと昼寝でもしません
か﹂
部屋の中を覗くと、全員会話もなくぐったりとしているにも拘ら
ず休む気配がない。成程、確かに。私とイツキさんは頷き合った。
皆の服は軽くゆすいでからバスタブに張ったぬるま湯につけてお
こうと、イツキさんと一緒に装飾品を外していく。
﹁⋮⋮⋮⋮僕、朝に学校行こうとしてて、向こう行っちゃったんで
す。学校にも行ってない、家にも帰ってこないで、次の日には公開
捜査されてたみたいです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
ぽつりと、イツキさんが言った。
恐らく、その頃は色んな所でニュースになっていたのだろう。だ
けど私は知らなかった。たぶん、一番ニュースになっていた一か月
は向こうに行っていて、帰ってきた頃には下火になっていたのだと
思う。何も解決していなくても、人の興味も関心も当事者以外の中
では薄れていく。今までは何とも思わなかったことが、苦い。
﹁⋮⋮⋮⋮あの、イツキさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
﹁私が、こんなこと言うのは無神経かもしれませんが⋮⋮十年経っ
1236
ていないのなら、引っ越しとか、してないんじゃないでしょうか﹂
はっとイツキさんが私を見る。
﹁⋮⋮会いに、いけますよ。一緒に、行きましょう?﹂
イツキさんは頷かなかった。でも、首を振りも、しなかった。
イツキさんは、部屋に戻る時には噛み締めた唇が少し赤くなって
いるだけで、苦悩をきちんとしまいこんでみせた。
﹃カズキさんのご家族がいらっしゃるまで高速で二時間はかかるそ
うですし、どっちにしてもお仕事終わってからになるでしょうから、
夜になります。それまで少し休みましょう﹄
﹃イツキ様、コウソクってなんですか?﹄
﹃えーと、通行に料金を取る代わりに、歩行者禁止にして速度重視
にした馬車道、かな。一般道より早いんだよ﹄
さらっと説明してのけたイツキさんに、おおーと感嘆の声を上げ
てしまう。アリスちゃんが私に向けてくる視線が冷たい。冷房要ら
ないんじゃないかな。
﹃そういう理由なので、皆、仮眠を取ろうよ。寝具はこれしかない
故に、服をかぶってよ﹄
前開きになっているパーカーやカーディガンを取り出す。こんな
時もバスタオルがあったら便利だ。バスタオル、異世界からお客様
をお迎えした時にとても有効だったなんて知らなかった。場所取る
しいらないやと思っていた過去の私に教えてあげたい。
クッションやぬいぐるみにタオル、果ては中身の入ったティッシ
ュの箱を枕にして皆で雑魚寝の態勢に入る。カーテンを閉めて冷房
の温度を一度上げてから、さあ、どこで寝ようかなとぎゅうぎゅう
1237
詰めの中に隙間を探すと、ルーナが手招きしてくれた。勿論飛び込
んだ。
ルーナに引っ付いて胸にすり寄る。同じシャンプーの匂いがして、
ちょっとくすぐったい気持ちになった。腰に乗っている腕に少し引
き寄せられる。そして、旋毛に長い息が染み渡った。
ただいま、ルーナ。ただいまできて嬉しい。ルーナお疲れさま。
ルーナありがとう。
ルーナ、大好き。
誰のものか分からない寝息が聞こえてきたから、伝えたかった言
葉を全部引っ付く体温に乗せる。
私も、ちょっと疲れた。
きちんと閉まりきっていなかったカーテンが少し開いていて、眩
しい夏の光が一筋差し込んでいるのをぼんやり眺めながら、私達は
すぅっと寝入っていった。
1238
96.神様、ちょっと真夏のホラーです
﹃カズキ﹄
もっと寝ていたかったけど、ルーナに呼ばれる方が嬉しかったか
ら、半分以上目を閉じたまま返事を返す。
﹃おはようごじゃります⋮⋮﹄
﹃悪い、誰か来た﹄
﹃え!?﹄
一気に目が覚めた。慌てて飛び起きる。すぃっと避けたルーナは
流石だごめんなさい。
目を擦りながら周りを見ると、カーテンが開いていてまだ強い西
日が差しこんできていた。いつの間にか全員起きていて、片膝をつ
いたまま固唾を飲んで玄関を見つめている。
インターホン鳴っただろうか。インターホン鳴って気づかなかっ
たなんて、ずいぶんぐっすり寝入ってしまっていたようだ。暑い日
に冷房の効いた心地よい部屋でのお昼寝。住み慣れた自分の部屋で、
ルーナとお昼寝。最高でした。
ピンポーン。
そんなことを考えていたらインターホンが鳴った。イツキさん以
外の身体が跳ねる。声は上げなかったものの、あれはなんだと驚愕
の眼で私を見た。
どうやら今のが初鳴りだったらしい。そうだ、この人達は気配を
読むのに長けていた。扉の前に立っている段階で気配を察知して起
きるくらい朝飯前だ。知ってた。でもびっくりした。
﹁一樹ー? いないのー?﹂
﹁美紗姉!﹂
上から二番目の姉だ。美代と名前が似てるから、美代のこと美紗
1239
って呼んじゃったことがある。ごめん、二人とも。
走って玄関を開ける。
﹁やっほー。私、今日早番だったから五時上がりだったんだー。あ、
車はあっちのスーパーに停めてきた。んで、はい。プリーン﹂
ここから車で一時間くらいの所に住んでいる美紗姉は、車を停め
させてもらったお詫びとお礼を兼ねて購入したプリンをくれた。他
にもちょこちょこ甘いものが入っている。遊びに来てくれる時もい
つも、木村スーパーでお菓子を買ってきてくれるのだ。
﹁ありがとう、美紗姉。あの、それで﹂
﹁ねえ、なんかお茶頂戴。喉渇いちゃって。今日もあっついわねー﹂
﹁あ、うん﹂
パンプスを脱いで、ついでにストッキングも脱いだ美紗姉は、暑
い暑いと胸元を開きながら自然な動作で私の横を通り過ぎた。いま
何時かなと、ガスのスイッチの所に表示された時計を見ていた私は、
反応が遅れる。ちなみに六時十五分だった。
﹁あ、ちょ、美紗姉!﹂
﹁え? なに?﹂
台所なんて数歩で通過してしまう。
いつもみたいに寛ごうとリビングに視線を向けた美紗姉は、ぴた
りと止まって固まった。その手からするりとストッキングが落ちる。
ふさりと落ちたストッキングが寂しい。
﹁⋮⋮わあ、カオスー﹂
それが、美紗姉が皆と交わした最初の言葉だった。
簡単に、異世界行って帰ってきて、異世界行って帰ってきたと説
明する。美紗姉は、ちょこちょこ質問をしてきたけど、後は黙って
聞いてくれた。
1240
今度は石が手元にあること。こっちでも条件が同じかは分からな
いけど、次の満月は五日後であること。
私も、一緒に行きたいこと。
否定も笑い飛ばすこともなく全部聞いてくれた美紗姉は、私が話
し終わったのを確認して、深い深いため息を吐いた。そして、ぐる
りと部屋の中を、皆を見回す。
﹁⋮⋮⋮⋮とりあえず、着替え、買ってくるわ。あんた、幾らなん
でもこれあんまりでしょ。イケメン達に何してくれてんのよ﹂
そう言って、ふらりと立ち上がる。
﹁美紗姉⋮⋮イケメン好きだよね﹂
﹁大好き﹂
暗くなってきた部屋に気付いて慌てて電気をつけたけど、美紗姉
の顔色は真っ白なままだ。
﹁⋮⋮信じて、くれるの?﹂
﹁何言ってんのこの馬鹿ついに本物の馬鹿になったかいや元々本物
の馬鹿だった、とは思った﹂
そこまで一息で言い切った美紗姉は、苦笑して私の額を小突いた。
﹁あんたは馬鹿だけど、無意味に嘘つかないし、こんな心臓に悪い
嘘はつかないし、嘘って分からない顔で嘘ついたり出来ないって、
知ってるからね﹂
﹁美紗姉⋮⋮﹂
﹁まあ、他にも理由はあるけど、何はともあれイケメンのウエスト
と股下測っていい? 後、肩幅。いやぁ、役得役得!﹂
﹁美紗姉!?﹂
しんっと静まり返った中じゃ気まずいにも程があるから、テレビ
でも見て寛いでほしいという美紗姉の要望通り黙々とテレビを見て
いた皆が計測されていく。青褪めても美紗姉のパワーは圧倒的だっ
た。言葉が通じないはずなのに皆の動揺が薙ぎ倒されていく。言葉
が分かるルーナとイツキさんさえ無言だった為、爛々とした美紗姉
1241
の圧倒的パワーだけが輝いていた。無言というか、何を喋ればいい
か分からなかったのだと思うけど。
﹁じゃあ、買ってくるわ。お母さん達には私から大まかな説明先に
しとくね。それと、たぶんどっかで夕飯になるから、今から予約取
れるとこ探しとくわ。あんたはでかけないように。あ、皆さん食べ
られない物とかあるかな?﹂
﹁分かんないけど、木村スーパーのシェフの気まぐれランチは和洋
中全部好評だった﹂
﹁おっけー。どこでもいいね!﹂
ほくほくとした笑顔で美紗姉が出かけていく。気をつけてねーと
見送って、振り向いたら全員隅っこのほうにいた。ルーナだけが静
かにこっちに戻ってくる。心なしかぶすっとしてる気が。あの、ご
めんね。美紗姉はいいお姉ちゃんなんですよ。ただ、イケメンが大
好きなだけで、あの、ほんとごめんね。怒るなら、是非とも、止め
られない無力な妹をですね。
ルーナは、真顔で私を見下ろした。ごくりと誰かの喉が鳴る。そ
の内の一名は確実に私だ。
﹃お前は、俺にも甘えろ﹄
﹃⋮⋮甘えるてた?﹄
﹃かなり﹄
溢れだす末っ子パワーは隠せなかったらしい。それをルーナに見
られていたかと思うと、思わず赤面した。
美紗姉が帰ってくるのと、お母さん達が到着したのはほぼ同時だ
った。美紗姉が買ってきてくれた服を皆が着ている間、私達は台所
でぎゅう詰めになっている。
イツキさんだけは、着替える前に脱衣所で髪を切っていた。成人
1242
の男性でこの髪の長さは目立つ。美容師の亜紗姉は快く引き受けて
くれたけど、前髪切るように買っていた散髪用のはさみの切れ味が
悪いと怒られた。そう言われましても、買ったばかりです。
家族が揃うといつもはわいこわいこと騒がしいのに、今は奇妙な
沈黙が保たれていた。じゃくじゃくと、髪が切られていく音だけが
響く。
リビングでは、服の着方に悩む声とかいろいろ聞こえてくるけど。
イツキさん、早く戻ってあげてください。
﹃しかし、異界渡りの状態が以前と違うということは、石自体が変
質しているということか?﹄
﹃だろうな。そうでなければ、以前カズキだけが消えたことに納得
がいかない﹄
﹃⋮⋮納得いくかどうかじゃないんじゃねぇの?﹄
﹃この服、イツキ様が最初に着用されていた服の構造に似てるな。
なんだっけ⋮⋮チ、チヤック。チアック? チアップ?﹄
イツキさん、早く戻ってあげてください。
チャックが未知の物体になっていくのを聞きながら、私はこっち
の沈黙を打ち破ろうと努力した。
﹁み、美紗姉! お金払う。レシート頂戴﹂
﹁社会人舐めんな。要らないわよ﹂
﹁そういう訳にはいかないよ!﹂
そこまで甘えるわけにはいかない。食い下がる私の肩を、お母さ
んがぽんっと叩いた。
﹁大丈夫よ。あんた、そっち行くんだったら大学中退するんでしょ
? まだ後期の学費振り込んでないから、そこから美紗に払っとく
わよ﹂
けろっと言ったお母さんに目が丸くなる。美紗姉が大まかな説明
1243
をしてくれているらしいけど、怒られるだろうか、信じてくれるだ
ろうか、悲しませてしまうだろうかとそわそわしていたのに、お母
さんは、あら、洗濯物? と腕捲りしてお風呂場に突入していく。
﹁お母さん!?﹂
﹁何よ、おっきい声出して。千紗、手伝って。今日は一晩中晴れる
から、今から干しときましょう﹂
﹁信じてくれるの!?﹂
﹁一樹、声が大きいわ。ちょっと寄って。お母さん、洗剤これでい
い?﹂
千紗姉から、よいしょと洗剤を受け取ったお母さんは呆れた顔に
なった。
﹁信じるしかないでしょ﹂
﹁だって、荒唐、無稽じゃない?﹂
﹁あんたが難しい単語をっ⋮⋮!﹂
﹁お母さん!?﹂
うっと涙ぐんだお母さんに変わり、亜紗姉が私を引っ張る。
﹁美紗姉が、あんたが向こうの言葉で会話してたって言ったから、
皆、信じるしかなかったのよ﹂
﹁え?﹂
﹁考えてもみなさいよ。あんたが! 新しい言語を覚える、そして
覚えられるなんて、何か特殊な事態があったとしか考えられないで
しょ﹂
なーるほど!
物凄く納得した。何よりの説得力を誇ったのは、私の馬鹿だった
のである。
私とイツキさんの頭がすっきりとしたところで、イツキさんが着
替えに行く。そして、ルーナ達が出てきた。美紗姉がにんまりと笑
って、私を突っつく。
﹁ねえねえ、一樹! あんた、そっちの世界で生きたいなんて⋮⋮
さては好きな人ができたわね!﹂
1244
﹁す、好きな人!﹂
﹁お父さんうるさい。ねえ、一樹、この中にいる!? この中でど
れ!?﹂
﹁この中に、お父さんの未来の息子が! あ、なんかどきどきして
きた﹂
赤面したお父さんが両手で頬を押さえて身悶えている。お母さん
と千紗姉も脱衣所から顔を覗かせていた。
﹁ねえ、いるんでしょ? 白状しちゃいなさいよ!﹂
せっつかれて、ちらりとルーナを見る。
﹁えーと、ルーナと、婚約、しました﹂
皆が目を見開いた。
﹁両想いどころかそこまで行ったの!? でかした!﹂
﹁ちょっと、どの人がルーナかお母さんに教えてから盛り上がりな
さい!﹂
お母さんが怒る。
﹁どれ!? どれがお父さんの息子!?﹂
お父さんが泣き出しそうだ。
﹁えーと、ルーナ、です﹂
私が前に押し出したルーナに、お父さんがわっと泣き出した。
﹁うわぁ、イケメンだ、イケメンだよぉ⋮⋮。パ、パパでちゅよー
とかやったほうがいい!? ねえお母さん、どう思う!?﹂
﹁子ども達が生まれた時と同じ行動取ってどうするんですか。ちょ
っと落ち着いてくださいよ﹂
お母さんに諭されて、お父さんは落ち着こうと正座する。いつも
なら体育座りなのに今日は正座だ。お父さんは混乱しているのか見
栄を張っているのか気になったけど、まあいつもの通りだったし、
私は何より優先すべきことを伝えようと口を開いた。
﹁あの、皆﹂
皆の視線が私を向く。
﹁ルーナ、私よりよっぽど﹂
1245
﹁⋮⋮⋮⋮初めまして。ルーナ・ホーネルトと申します﹂
﹁日本語、話せるよ﹂
時が、止まった。
﹁あんたが馬鹿なせいでいらない恥かいたわ﹂
美紗姉は運転しながらぷりぷり怒っている。私は助手席だ。後部
座席ではアリスちゃんとユアンがシートベルトを握り締めて、流れ
るネオンを何かの仇みたいに睨み付けていた。
ルーナと話がしたいというお父さんとお母さんと千紗姉の強い要
望により、ルーナはお父さんが運転するワゴンだ。亜紗姉は欠伸し
てたけどワゴンに乗り込んでいった。イツキさんは悩んだ結果、ワ
ゴンを選んだ。ツバキが絶対イツキさんの傍を離れないので、既に
四名が乗り込んでいた美紗姉の軽には乗れなかったのである。
悩んだけど、石は一応こっちの車に積んでいる。丁寧に布で包ん
で固定してるからたぶん発動したりしないだろうけど、万が一発動
してしまったら、二台に別れてる状態だと困る。
私達はお店でご飯を食べた後、実家に戻る途中だ。今は石がある
から、あの部屋に固執する必要はないと思う。それに、イツキさん
もそうだったけど、私達が向こうに行った時に月は関係なかった。
だから、部屋やこっちの世界に石があるとかじゃなくて、向こうの
世界の石が関係していたんだろうという結論になった。たぶんだけ
ど。
そして、私の部屋で六人は狭すぎるという結論にもなった訳で。
そんなこんなで、夜の街を実家目指してランデブー。洗濯物は、
家で干すことにしてビニール袋に入れて持ち帰ることにした。アイ
スとプリンは皆で食べた。美味しかった。
1246
﹁そりゃ馬鹿だけど、なんで私のせい?﹂
﹁だって、あんたが馬鹿だからあの人が日本語覚えたんでしょ?﹂
﹁なんで知ってるの!?﹂
﹁お姉ちゃんは何でもお見通しなんですよーっていうか、多分みん
な知ってるわよ﹂
﹁皆エスパーってずるいと思う。なんで私にも遺伝しなかったの?﹂
﹁いや⋮⋮お父さんは知らないかも﹂
﹁お父さんが遺伝した! じゃあ禿げないね!﹂
﹁お父さんの家系ふさふさだもんね。よかったわね。お母さんの家
系もふさふさだけどね﹂
前を走るワゴンではどんな会話が繰り広げられているんだろう。
そういえば、前に乗ってるメンバーで日本語話せないのツバキだけ
だ。疎外感満載だったらどうしよう。私も一緒に乗ってツバキと話
していたほうが良かっただろうか。いや、でもイツキさんいるし大
丈夫かな。
そんなことをぼんやり考えていると、ミラー越しに美紗姉と目が
合った。
﹁あのさ、一樹﹂
﹁うん?﹂
﹁私達、反対してないけど、別に賛成してるわけでもないからね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
赤信号で停まると前の車の様子が少し見える。後部座席のイツキ
さんが、横に座っているツバキに何かを教えて指差していた。
﹁特に去年だけど、あんたずっと元気なかったでしょ。その理由が
私達にもようやく分かって、だから、あんたが向こうで生きたいっ
て言った時、ああ、やっぱりって思ったよ。去年のあんたは、何を
無くしたんだろうって皆思ってた。そんなあんたを知ってるから反
対しないだけで、手放しで賛成してるわけじゃないからね﹂
青になって動き出す。
1247
﹁あんたが自分の人生を見つけたって言うんなら、例えそれが異世
界でも応援はしてあげたい。でも、わざわざ余計な苦労しなくても
とは思うわよ。家族だもん﹂
﹁うん﹂
﹁信じざるを得ない条件が揃ってる状態だし、あんたはもう決めて
て、時間があんまりないから、泣き叫ぶより楽しい時間を過ごした
いってなってるだけだって、忘れるんじゃないわよ﹂
﹁うん⋮⋮ごめん、美紗姉﹂
﹁何が﹂
﹁迷惑、かけて﹂
﹁イケメンの面倒を見ることの何が面倒なもんですか!﹂
﹃マ、カズキ﹄
後ろから控えめに聞こえてきたメカジキに、慌てて振り向く。
﹃ユアン、どう致した? 酔った?﹄
﹃俺は平気だけど、アリスが﹄
﹃え!? アリスちゃん!?﹄
船で酔っていたアリスちゃんだから、車にも酔うかもしれない。
船は、最終的には平気になっていたから大丈夫かと思っていたけど
甘かった。しかし、アリスは酔っていなかった。いや、酔ってる!
? 凄い無表情!
微動だにしないアリスに、美紗姉も慌てる。
﹁私の後ろの人大丈夫!? ミラーに映ってるの、真夏のホラー特
集みたいになってるんだけど!? 乗せた覚えがないのにいつの間
にか乗り込んでる奴だよ、これ!﹂
﹃アリスちゃん!? アリスちゃーん!?﹄
﹁ちょ、せめて瞬きするように言ってくれる!? イケメンなだけ
に迫力が半端ないわ! もしもーし! 死んでたら返事してくださ
い!﹂
沈黙が落ちた。美紗姉はぱっと笑顔になる。
﹁返事がない! 生きてるわよ!﹂
1248
とても素敵な笑顔だった。
1249
97.神様、ちょっと久しぶりの運転です
椅子を下げて、前に引く。ミラー調整して、後ろを見る。全員シ
ートベルトを締めたのを確認して鍵を回す。ぶろろろんとエンジン
が唸る。
﹁じゃあ、行くよー﹂
﹃大丈夫か!? カズキ、お前が本当に操縦できるのか!?﹄
﹁これでも免許持ってるんですけどね。仮免の時はこのワゴンで練
習してたし、多分大丈夫ー。でも久々だから、あんま驚かさないで
ください﹂
﹃駄目だ! こいつこっちの言葉話す余裕がない! イツキ様、下
りてください!﹄
﹁免許か⋮⋮いいなぁ﹂
いろんな思いが篭ったイツキさんの言葉にきゅっとなりながら、
私はアクセルを踏んだ。オートマ最高。ミッションだったら危なか
った気がする。ギア忘れた。
昨日実家に戻ったけど、今日は、家の車を借りてイツキさんの実
家に行くのだ。イツキさんはまだ迷っているみたいだけど、満月ま
で時間がないことと、お母さんとお父さんが、会うにせよ会わない
にせよ帰ってあげてと頼み込み、彼は頷いた。
学生の内に取っとくと後々楽だからとのアドバイスで、免許取っ
といてよかった。最初は大きい車で練習したほうが後々楽だからと
のアドバイスで、お父さんのワゴン乗り回していて良かった。普段
は乗らないからと、免許書携帯していなくて本当に良かった。携帯
してたら今頃向こうだ。無免許運転は御免被る。
1250
お母さんはワゴンの運転苦手だし、お父さんもお姉ちゃん達も皆
仕事だ。別に電車使ってもいいんだけど、せっかく車があって皆纏
めて移動できるんだから、車で行こうということになった。皆も電
車に乗るより気が楽だと思う。そして私も楽だ。
﹃イツキさん、何処か寄りたい場所があるならば、進言致してくだ
さい﹄
﹃カズキ! 俺、ぺんぎゅん見たい!﹄
北極は難しい! ⋮⋮いや、南極!?
あの頃は、とにかく何かに打ち込みたかったのが功を奏した。幸
いだったとは言いたくないし、忘れたかった訳でも振り払いたかっ
た訳でもないけど、とにかく何かを目指したかったときに、目標が
出来たのは助かった。おかげさまで免許も取れたし、気晴らしにあ
ちこち出掛けることも出来た。別にこんな事態を想定していたわけ
じゃないけども!
皆、外の景色に夢中になっている。イツキさんはそれらへの説明
と自らの葛藤で忙しそうだ。そして私は寂しい。運転手って孤独だ。
方向指示器を出して右折待機に入る。かっこんかっこんと鳴る音
に、皆はようやく慣れたらしくもう身を強張らせはしなかった。
﹃ルーナ、昨夜は両親と、何事をお喋りしていたよ?﹄
車の切れ目を見つけられず、結局矢印出てからの右折となる。の
んびり右折して、車を走らせる。
﹃話しかけてよかったのか?﹄
﹃別段平気よ? 視線は不可能だけども﹄
何だ。ルーナも外に夢中で、酷いわ、皆、私の運転が目当てだっ
たのね! とか心の中で遊んでたけど、単に話しかけていいのか分
からなかっただけのようだ。
1251
助手席に座るルーナは、黙々と読んでいた車の説明書を閉じた。
酔わないのかな。
﹃カズキは、凄く愛されて育ったんだなと、改めて思い知らされた
よ﹄
﹃⋮⋮何事を話したの?﹄
﹃娘さんを俺にくださいを﹄
﹃本人抜き打ちで!?﹄
ちょっと待って。道理で昨日イツキさんが何かを言おうとしては
何度も躊躇っていた訳だ! 今日の遠出の事だと思ってたのに、あ
の気まずそうな視線の逸らし方、絶対に話したかった要件はこっち
だ!
﹃え!? 皆、なんと!?﹄
﹃早まるな人生投げるにはまだ若いぞ気は確かか眼鏡要るか大丈夫
かしっかりしろ傷は深いぞもう駄目だ、もってけどろぼー、と﹄
一息で言ってのけたルーナは凄い。でも、その光景が目に浮かぶ。
結婚の挨拶を私の家族に話すのに、私が抜かされる悲しみ。混ぜ
て! 寂しい!
イツキさんの実家は、私の実家から車で一時間半くらいの所だっ
た。結構近くて驚いた。流石に高速は怖いので、下の道をのんびり
進む。途中で道の駅にも寄った。お昼もそこでとったけど、外国人
観光客と間違われたルーナ達は、英語で話しかけられて盛大に困っ
ていた。流石のルーナも知らない言語は喋れない。私とイツキさん
は通訳さんと思われたようで、翻訳してあげてという視線が集めら
れるも、勿論、二人揃って視線を逸らした。英語分かりません。
私はきつねうどん、ルーナとアリスちゃんもきつねうどん、ユア
1252
ンもきつねうどんの食券を買う。イツキさんはわかめうどん、ツバ
キもわかめうどん。
皆、自分の好きなの選んでいいんですよ⋮⋮?
ユアンの為にも肉うどんにしたほうがよかったかなと悔やんだ。
のどかな住宅街から、都会に比べたらのどかだけど田舎の中では
それなりに混み合った街中を抜けてまたのどか。景色の中にぱらぱ
らと田んぼや畑が混ざり、学校などの大きな建物が増えていく。コ
ンビニの駐車場が大型トラック用に凄まじく広いほどでもなく、普
通に広いくらいの田舎度の場所に、ででーんと現れるショッピング
センター。
かっこんかっこんと指示器を出して駐車場に入る。平日だけど他
に集まる場所がないからそれなりに混んでいて、立体駐車場に上が
っていく。
イツキさんの実家はこの近所だそうだ。本当はそのまま行こうと
思っていたけど、どうにもイツキさんの心の準備が整わないので、
ワンクッション置くことにした。幸いエレベーター付近の場所が開
いていて、そろーりそろーりとバックでいれる。
﹁ついた︱︱!﹂
久しぶりに使った神経から、どっと疲労が湧いてくる。筋肉痛に
はならないけど、神経が疲れた。
﹁お疲れ様です、カズキさん。あの⋮⋮何から何まで、本当にすみ
ません﹂
﹁大丈夫ですよ!﹂
何が大丈夫か分かんないですけど、なんか大丈夫ですよ!
さあさあエレベーターと待っていたら、扉が開いた瞬間四人が飛
びのいた。中に誰も載っていなくてよかった。載ってたら、何もな
い腰に手を当てて体勢を低くした四人は、完全にアウトだ。
いや、イケメンだったら許される。そんな気がする。忍者に憧れ
1253
る外国人観光客ですで通そう。そうしよう。別に誰かに説明する予
定もないけど、私とイツキさんは無言で頷き合った。
適当に店の中を見て回る。
﹃何事か、購入したいものがあらば申し出てね﹄
そう言ったはいいものの、女性服のお店がセールワゴンを出して
いてふらふらと寄ってしまう。特に他に目的がないからか、皆も集
まってしまった。
せっかくだからルーナの好みを探ってみよう。
﹃ルーナ、こちらどう思われる?﹄
﹃可愛い﹄
﹃こちらは?﹄
﹃可愛い﹄
﹃⋮⋮そちらは?﹄
﹃可愛い﹄
駄目だ、何にも分からない。
﹃アリスちゃん、アリスちゃん。こちらは?﹄
﹃分からん﹄
﹃こちらは?﹄
﹃分からん﹄
﹃⋮⋮そちらは?﹄
﹃分からん﹄
駄目だ。分からん。切ない!
紳士服もあるお店だから、ツバキは楽しそうにイツキさんに服を
合わせている。イツキさんもツバキに似合う服を探していた。
どうぞ、ルーナ達も自分の服を探しに行ってください⋮⋮。
やっぱり女の買い物に付き合わせるのは悪女だったかと反省して
いると、ユアンが横でそわそわしていた。
1254
﹃ユアン?﹄
﹃カズキは二番目の服が一番似合ってた﹄
﹃ユアーン!﹄
いい子! 大好き!
持ち帰れるかは分からないけど、厄落としも兼ねて存分に使って
こい! というお母さんからのお達しで、お金に糸目はつけない買
い物楽しい! 超楽しい! うきうきの私の手には袋が二つぶら下がっていた。ユアンが可愛
いと言ってくれた服と、本屋で買った雑誌だ! ⋮⋮どうやら私に
は、セレブ買いのハードルが高かったようだ。皆も何か買ってほし
い。何も欲しがらないのに、荷物は持とうとしてくれて丁重に断っ
た。
フードコートでおやつを食べる。食べ物には使っているから良し
としよう。
もぐもぐドーナツを頬張っていると、聞き覚えのある声が響いた。
﹁須山さん!?﹂
くるりと振り向くと、健君がいた。小さい子をぞろぞろ連れてい
る。
﹁あれぇ? 一樹じゃん﹂
﹁美代? あれ? 親戚のお家この辺なの?﹂
﹁そそそ。っていっても、もうちょっと山のほう。母さん達はお酒
とか果物とか色々買ってるから、チビちゃん達の世話頼まれちゃっ
て。私達は一番上だからねぇ﹂
そりゃ大変だ。健君は、子ども達にドーナツをせがまれている。
﹁おばさん達がいいって言ったらな﹂
けちの大合唱。
1255
﹁頑張れ、健! 私と一樹が応援しています!﹂
﹁須山さんはともかく、姉貴は頑張れよ!﹂
同感である。
ぶぅぶぅ文句を言う子ども達を、林檎ジュースでなんとか椅子に
収めた美代と健君は、ぐったりと背凭れに体重を預けた。
﹁で、一樹は何してんの?﹂
﹁ちょっと知り合いの家に行ってるところ﹂
﹁⋮⋮あんた、外人に知り合いいたんだね。大丈夫? 言葉通じる
? アルファベット書ける?﹂
﹁いやぁ、難しいですなぁ﹂
﹁やっぱり?﹂
同じタイミングで噴き出す。
﹁やだ、もう!﹂
﹁美代が言ったんじゃん! 事実を!﹂
﹁もう、馬鹿!﹂
箸が転がっても楽しい年頃は終わったはずなのに、偶に蘇ってく
る年頃に付き合ってくれる良い友達を持ったものだ。
けらけら笑う視界の端で、イツキさんが通り過ぎる学生の集団を
見ていた。ぎゅっと噛み締められた唇で、もしかすると、彼が通っ
ていた学校の生徒なのかなと気づく。そして、切なげに細められた
視線が時計を見て、はっと私の視線に気づいて逸らした。
行こうか、イツキさん。
私は、買い揃えた雑誌を美代に渡す。中身を確かめた美代は、ぐ
っと不機嫌になった。
﹁何、これ。要らないって言ったじゃん﹂
﹁うん、言ってくれたけど、私もう何も返せないから、せめて雑誌
くらいね﹂
﹁え?﹂
﹁美代、あのさ、私ね、あの中の紺色の髪の人と結婚するんだ﹂
﹁んぶふ!﹂
1256
美代がウーロン茶を噴き出した。健君はコーラを噴き出す。
﹁それで、大学、辞めるんだ﹂
﹁え、ちょ、冗談、でしょ?﹂
﹁ほんと﹂
健君が口元を押さえて叫んだ。
﹁あ、あんな信号機みたいな奴らなのに!?﹂
信号機!
赤、黄色、緑に紺色。確かに!
やめて、次から並んでるところ見たら信号機にしか見えない。地
毛なのに。
﹁だから、もう、会えるの最後だと思う。もう一回、会えてよかっ
た、皆にごめんねって伝えてくれると嬉しい。美代、友達になって
くれてありがとう。友達でいてくれてありがとう!﹂
二人がぽかんとしている間に距離を取る。イツキさんが押してく
れていたエレベーターに乗りこんで振り向くと、呆然と腰を浮かせ
た二人がいた。目が合った美代は、ぐっと何かを飲み込んで、唇を
開く。
﹁一樹! 一つだけ聞かせて! 何か嫌なことあったの!? だか
ら、辞めるの!?﹂
﹁違うよ、美代! 私、ここや皆が嫌で逃げたいんじゃない! こ
の人達と生きたいだけなの! そしたら、日本が遠くなっちゃった
だけー!﹂
﹁そっか! 分かったー!﹂
美代は片手を上げて、握り拳を突き出す。
﹁大好きだよ、頑張れ親友!﹂
﹁私も!﹂
大好きだよと言い切る前に扉は閉まってしまった。でも、伝わっ
た。そう、思う。
1257
1258
98.神様、少しの時間を大きな再会にしてください
泣いたら視界が悪くなって運転できなくなる。ずびっと鼻を啜っ
てハンドルを切った。
﹃⋮⋮カズキさん、ちょっと、休みますか?﹄
﹃大丈夫ですよ。あまりに遅刻すると、夕飯に待にあうなくなるの
で、進行しましょう﹄
﹃⋮⋮⋮⋮はい、すみません。そこ左です﹄
﹃ぎゃおす!﹄
イツキさんにナビしてもらって、ホームセンターの駐車場に停め
る。停めさせてもらうので何かお客さんにならなければと中に入っ
たら、皆の盛り上がりが本日一番だった。とりあえず、ツバキはそ
の神棚を置いてください。アリスちゃん、わんこはね、飼えないん
ですよ。ルーナ? スコップはですね、確かに戦時中何よりの武器
になったと聞くけど、今の日本では持ち歩いてる人そんなにいない
と思うんですよ。ユアン、折り紙はですね、色んな柄があってです
ね、大きさもいろいろあるし、なんと金と銀だけの特別なセットも
あるんですよ。そうだね、全部買っていこうね。
私は、除菌ティッシュと折り紙を購入して車に載せた。
﹃少し、歩きます﹄
イツキさんに先導してもらって、私達はじりじり照る中を歩き始
めた。皆、帽子をかぶっている。私もお母さんから渡された日傘が
なければ即死だった。帽子にするつもりだったけど、私の帽子はユ
1259
アンがかぶっているのだ。
ランドセルを背負った子ども達が、きゃあきゃあはしゃぎながら
通り過ぎていく。あれ? いま小学生が帰る時間だったなら、さっ
きショッピングセンターで見た制服組はサボリ?
﹃⋮⋮僕、中学生の弟がいるんですけど﹄
苦しさと切なさがない交ぜになった表情で周囲を見間渡しながら、
ぽつりぽつりと、イツキさんが教えてくれる。
﹃さっき、同じ制服の男の子達を見ました⋮⋮期末試験でしょうか
ね。誠二も、家にいるのかもしれません﹄
サボリじゃなかった。ごめんなさい、見も知らぬ少年達。嘗ては
あれほど苦しんだ試験だけど、ちょっと離れるところっと忘れてし
まっていた。そうか、夏休み前の期末試験か。幾ら普段勉強してな
くて、どれだけ勉強苦手でも、頑張ったほうがいいよ。夏休み補習
ってほんと悲しいから。私も先生も悲しかったから!
悲しみの夏休みをしみじみ思い出し、何気なく視線を向ける。
﹃ならば、あの少年も試験疲れで疲労真っ最中ですかね﹄
公園のベンチでぼんやり座る少年を示したら、イツキさんが真っ
青になった。
﹃カズキ! お前イツキ様に何を!﹄
瞬時に間へ割り込んできたツバキの横を、イツキさんがするりと
抜ける。そして、呆然と呟いた。
﹁セツ⋮⋮﹂
そう、呼んだ。
少年は、こんなに暑いのに日陰を探すこともなく、じりじり照り
つける太陽の下でぼんやりと道路を見つめている。
﹁あ、あの、大丈夫ですか?﹂
そっと声をかけてみると、ぼんやりした動きで私を振り向く。
1260
﹁すみません。余計なお世話だとは思いますが、熱中症になります
よ? 日陰に入って、何か水分を︱︱!?﹂
最後まで言う前に少年が倒れた。日傘を投げ捨てて支えて叫ぶ。
﹁ルーナ︱︱!﹂
﹁セツ!﹂
代表して私が声をかけただけで、皆も傍にはいてくれる。走り寄
ってきたルーナが誠二君を掬い取り、素早くボタンを外しながら首
の脈を取った。
﹃恐らく逆上せたんだろうが、気になるなら医者に見せたほうがい
いだろう﹄
﹁きゅ、救急車!﹂
お母さんから借りた携帯で救急車を呼ぶ。熱中症は怖いのだ。そ
れに、いつから座っていたか分からない以上、重症度も判断できな
い。誠二君と同じくらい真っ青になったイツキさんは、誠二君の手
を握り、がたがたと震えていた。
救急車にはイツキさんが同伴して、私達は病院名だけ聞いて後か
ら車で追いかけた。初めてくるところだから病院も分からなくて、
車を停めていたホームセンターの店員さんに聞いたら親切にも地図
を広げて教えてくれた。地図は105円だった。
﹁失礼します﹂
病室なので、静かに声をかける。ベッドの傍に座っていたイツキ
さんは、私達が入ってきたと同時に立ち上がった。
﹁あ、座っててください。どうでした?﹂
﹁熱中症です。幸い重症化してないので、迎えが来たら帰れるでし
ょうと⋮⋮よかった﹂
1261
﹁そうですか。よかったですね﹂
﹁はい⋮⋮救急車って初めて乗りました。同伴者って名前書かなき
ゃいけないんですね。焦りました⋮⋮﹂
﹁え!? ⋮⋮⋮⋮どうしたんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮すみません。お名前お借りしました。ご住所も﹂
﹁あ、どうぞ﹂
字は一緒ですしねとこそこそ話していると、外でばたばたと音が
する。
﹁誠二!﹂
飛び込んできた二人を見て、イツキさんの顔が苦痛に歪む。痛く
て痛くて堪らないと、今にも泣き出しそうに。それを見て、分かっ
た。ああ、彼らがイツキさんのご両親だ、と。
きっと、お母さん達より若い。なのに、やつれて隈の消えない顔
は色濃い疲労でまるでお母さん達より年上に見える。
汗だくになり死に物狂いで病室に飛び込んできた二人は、ベッド
で点滴を受けて眠る誠二君の手を握って頽れた。
﹁誠二、誠二っ⋮⋮!﹂
イツキさんのお母さんは泣いている。お父さんも、苦しくて堪ら
ないと俯く。眠る誠二君の手を離すと失ってしまうといわんばかり
に、縋りつくように握りしめていた。
よろめいたイツキさんが壁に背をつけた音で、お父さんが初めて
同室者の存在に気付いて振り向いて、ぎょっとする。色とりどりの
髪色の外人が並んでいるのだ。そりゃぎょっとする。寧ろ、よく最
初に気付かなかったものだ。それだけ、誠二君が心配だったのだろ
う。
それでも、動揺はすぐに感謝の念へと姿を変えたらしく、イツキ
さんお父さんは目を潤ませて頭を下げた。
﹁貴方達が誠二を見つけてくださったんですか。本当に、本当にあ
りがとうございます!﹂
1262
﹁この子、最近全然眠れていないみたいで⋮⋮先生も、疲労だと﹂
鼻を啜りながらお母さんも頭を下げる。痩せて、がりがりになっ
ていた。誠二君も、痩せて、顔色も悪くて。とても、育ち盛りの中
学生の男の子に見えない。
イツキさんにとって、長かった十年。同じくらい、彼らにも長く
て長くて堪らない十か月だったのだ。
﹁⋮⋮私、ではなくて、彼が、付き添ってくれたんです﹂
皆の陰になる隅に隠れていたイツキさんを示す。イツキさんの眼
が驚愕に見開かれる。非難するような、救いを求めるような、何と
も言えない縋りつく視線に首を振って答えた。伝える伝えないは私
が決められる問題じゃない。だけど、せめて、話す相手は私じゃな
くて彼がいい。
例えそうと知らずとも、ご家族は、彼と話がしたいのだ。
﹁そうですか。貴方が。本当にありがとうございました﹂
﹁誠二に代わってお礼を申し上げます。あの、宜しければお名前を﹂
イツキさんは、もうそんなに長くない前髪で顔を隠そうと俯き、
視線の位置を自分の足元に固定した。
﹁名乗る程の事じゃありません。どうか、お大事にと、お伝えくだ
さい﹂
﹁そんなこと仰らないでください。是非お礼をさせて頂きたいんで
す﹂
﹁いえ、本当に、結構ですから⋮⋮⋮⋮皆様、どうか、お元気でお
過ごしください。それで、本当に、充分です﹂
俯いたまま部屋を出て行こうと踵を返したイツキさんがお母さん
の前を通り過ぎる。取り付く島もない様子に、お父さんも残念そう
に肩を落とした。
﹁⋮⋮行きましょう、皆さん﹂
反射的にイツキさんの手を握る。それでも進もうとするイツキさ
1263
んと手を繋いだまま、私は一歩も動けない。
イツキさん、本当にいいんですか。本当に、最初で最後の機会を、
これで終わらせていいんですか。イツキさん、止めていいなら止め
ますから、お願いですから、止めてほしいって願ってください!
身勝手にもそう願う私の後ろで、小さな呻き声が聞こえた。
﹁誠二!﹂
﹁目が覚めたの、誠二!﹂
お父さんとお母さんがベッドに駆け寄る。気が付いた誠二君の手
を握り、よかったと涙ぐむ二人を見て、イツキさんは寂しそうに微
笑んだ。
﹃行きましょう﹄
﹁父さんっ、母さんっ、そいつ捕まえろ! 縛り上げろ! ぶん殴
れ!﹂
儚い微笑みが、怒声に凍りつく。
﹁お前、何失礼なこと言ってるんだ! お前を助けてくださった方
だぞ!﹂
目を覚ましたばかりだというのに、蒸気機関車の如く感情を滾ら
せる誠二君は、点滴が刺さっているのもお構いなしに枕を投げつけ
てきた。イツキさんに向けて投げられたそれは、前にいた私の顔面
にクリティカルにヒットした。
﹁どこ行く気だ! このっ、馬鹿兄貴!﹂
病室内が凍りついた。
冷房、効きすぎじゃないだろうか。
1264
﹁お前、何言って⋮⋮﹂
お父さんの震えた声に、誠二君はぎっ、と、強い光でイツキさん
を睨み付けた。でも、前にいる私に凄く突き刺さる。
誠二君は、点滴の棒を忌々しげに掴んで、スリッパも履かずに駆
け寄ってきた。まだ無理はしないほうがいいよと伝えたかったけど、
さっきまでの青白さはなんのその。暴走特急だ。機関車みたいにか
っかしてる。
﹁おい、兄貴﹂
﹁⋮⋮⋮⋮人違い、ですよ﹂
﹁俺のことセツって呼ぶ奴が、他にいるか!﹂
﹁人違いだ!﹂
﹁兄貴っ!﹂
逃げようとするイツキさんの腕を掴み、誠二君が背伸びした。
﹁そんな、全然変わってねぇ目してくるくせに、騙せると思ってん
のかよ! 俺はずっとあんたを見上げてきたんだからな!? 下か
ら見るあんたの顔を、俺が間違えると思ってんのかよ!﹂
振り払おうとする腕にしがみつく誠二君の後ろから、お父さんと
お母さんも必死に手を伸ばしてイツキさんの肩を掴んだ。身体を竦
めて顔を隠そうとする頬をお母さんが掴み、強引に自分に向ける。
まじまじと見つめる瞳に、みるみる涙が膨れ上がっていく。
﹁本当ね⋮⋮一樹だわ⋮⋮どうして気づかなかったのかしら、どう
見ても、一樹なのにっ⋮⋮! あなた、今まで、どこに!﹂
泣き崩れたお母さんごとイツキさんを抱きしめたお父さんも、人
目も憚らず声を上げて泣いた。
﹁探した⋮⋮探したんだぞ⋮⋮俺はずっと、一生だって、探し続け
るつもりでっ⋮⋮⋮⋮﹂
三人に抱きしめられたイツキさんは、真っ青にがたがた震えてい
る。抱き返すことも出来ず身体の横に落ちたままの手は、硬く握り
しめられていた。
﹁気味が、悪くないの。どうして、そんなっ、だって、僕はもう、
1265
二十六だよ⋮⋮﹂
震える声で脅えるイツキさんの手に、誠二君が触れる。
﹁ずるいよ、兄貴。自分だけでかくなっちゃってさ﹂
そうして、その腕に額をつけて涙を流す。
﹁⋮⋮⋮⋮会いたかったんだ、兄ちゃん。それだけじゃ、いけない
のかよ。あんたがここにいる。それだけで、もう、後のことはどう
でもいいくらい、俺達は、あんたに会いたかったんだよ﹂
イツキさんの喉から嗚咽が止まらなくなったのを聞きながら、私
達はそっと病室を出た。しばらく家族水入らずにしてあげよう。そ
う決意した私は、はっとなる。ナースステーションからカートが出
発したのだ。
検温に来た看護師さんに、どうか今は、ほんとすみません、二度
手間すみません、でもどうか今は水入らずでご勘弁をと、何度も頭
を下げる。ほんとすみません。
﹁それ、何かのコスプレ?﹂
特に気を悪くしたりせず、快く頷いてくれた看護師さんの邪気の
無い問いに、私は、信号機ですと答えた。ちなみに私は、停電した
信号機です。
﹃セツっていうのは、僕があの子につけた渾名なんです﹄
車に乗る前に、イツキさんはそう教えてくれた。
﹃昔、僕がいっちゃんって呼ばれてるのを聞いて、自分も渾名が欲
しいって駄々をこねたことがあったんですよ。じゃあせいちゃんっ
1266
て呼んだら、同じ園に誠也君がいて、せいちゃんはもういるから駄
目だって。でもお揃いがいいって言うから、イツキのツと、セイジ
のセを混ぜればいいかなって。⋮⋮小学生なりに考えたんですよ﹄
そう照れくさそうに笑うイツキさんに、ツバキがちょっと複雑そ
うだった。そのツバキはいま、イツキさんと一緒に私の車の後ろを
走っているイツキさんちの車に同乗している。
イツキさんのご家族も一緒に我が家へ向かっていた。どうしても
明日は仕事を休めないけれど、うちの近くのホテルから出発するそ
うだ。誠二君もそのお父さんの車に乗って試験だけ受けて、お母さ
んの迎えの車でまた帰ってくるという。
行きより二人分開いた車の後部座席では、シートを全部倒してい
る。ユアンは楽しそうに広々と使って転がっていたけど、いつの間
にか眠っていた。目新しいものばかりで疲れたのだろう。いつの間
にかアリスもうとうとしては、ユアンに蹴られている。寝相ってど
うやったら直るんだろうね。
﹃よかったな﹄
﹃ねー﹄
後ろを起こさないように声量を下げて会話をする。
﹃⋮⋮なあ、カズキ﹄
﹃はぁい?﹄
﹃イツキにはもう確認を取っているが、あの石は、どうする?﹄
﹃どう、とは?﹄
あの石が何かが分からないほど、そんなに多くの心当たりはない。
あの石とは、あの石だろう。今も車のトランクに入ってはいるけど、
ほんのりとしか光っていない、あの石。でも、少しずつ光は強くな
っていた。
﹃こっちに来たときにあれほど黒い個所が増えたのなら、恐らく、
戻ればもう使えなくなるだろう。イツキは、その権利の一切を手放
すと言った。お前があれを所持したいのなら、ずっと持っているこ
1267
とは可能だ﹄
﹁砕いて﹂
一瞬も、迷わなかった。
﹃⋮⋮いいのか?﹄
﹁いい。砕いて﹂
誰も、二度と私達のような思いをしなくていいように。
それは誰かの可能性を潰すかもしれない。誰かの出会いを奪うも
のかもしれない。
それでも、失わなくていいものを失う必要はないのだから。
1268
99.神様、小さな涙は許してください
イツキさんのご家族を連れて、連絡しておいた家に帰ると、夕飯
はお節だった。お正月! お餅にお汁粉におはぎ。でも、何故か節
分もやった。
いろんな話をした。主に皆が私達に質問して、私達が答えるとい
う感じだ。でも、楽しかった。みんな笑ってて、驚いて、面白がっ
て。凄く楽しかったのに、私は運転で疲れたのかいつの間にか眠っ
てしまっていた。
起きたらお姉ちゃん達と一緒に寝ていてびっくりした。
欠伸しながら、昨日は入れなかったお風呂に入る。適当に髪を拭
いてリビングに顔を出すと、皆もう起きていた。というか、出勤登
校組はとっくに出ている。時計を見ると十時に近い。お母さんとイ
ツキさんのお母さん誠子さんが洗濯物を干している。お母さんは、
私が起きてきたのに気付いて、籠を持って家に入ってきた。
﹁あんた、今日はどうするつもり?﹂
﹁家にいようかなって﹂
﹁馬鹿ね、出かけてきなさい﹂
﹁え? でも﹂
一緒に、いようよ。
私の勝手でいなくなることをもう決めていて、誰の説得も聞くつ
もりがない私の我儘だけど、出来るだけ長く一緒にいたかった。
だけど、お母さんは私の背中をぱしんと叩く。
﹁夜に幾らでもみんな一緒にいるでしょ。それより、少しでも沢山
の物を見てもらいなさい。同じ世界にいたって、環境なんて同じじ
ゃなくて擦れ違うのよ。出来るだけ沢山、あなたを育てて、あなた
1269
が置いていかなきゃいけないこの世界を、これからあなたと生きる
人達に見てもらいなさい。それは、凄く大事なことよ。あなたを支
えてくれる人が、あなたを理解してくれるものをうんと増やしてい
きなさい﹂
﹁お母さん⋮⋮﹂
﹁ほら、ユアン君がペンギン見たいって言うし、水族館行ってきな
さい。あそこ遊園地もあったでしょ? ほらほら、スタートダッシ
ュに出遅れたんだから、急ぐ!﹂
﹁は、はいぃ!﹂
つんつく背中を突っつかれて、身を捩りながら朝ごはんを詰め込
む。慌てて出かける服に着替えてキーを持つ間、ユアンとツバキは
テレビに齧り付いていたけど、ルーナとアリスはパソコン見ながら
メモってた。順応って凄い。全然違和感ないのも凄いけど、生まれ
た時から使ってましたみたいな顔でマウスクリックしてるルーナに
惚れそうだ⋮⋮いや、惚れてた! ルーナ大好き!
水族館行って、ユアンはペンギンのぬいぐるみとペンギンのステ
ンドグラスみたいな栞を買って、ツバキはタカアシガニのぬいぐる
みをイツキさんに買ってもらっていた。凄く嬉しそうだ。あんな顔
初めて見た。
アリスとルーナも何か買おうよと誘うと、アリスは散々迷って鯨
のストラップを手に取ってくれた。ルーナもルーナもと引っ張ると
ちゅーされた。違う。そうじゃない。
ルーナはちょっと考えて、鰐のストラップを選んだ。⋮⋮気に入
ったの? 色々思う所はあったけど、せっかくなのでお揃いにした。
ルーナとお揃いだと思うと可愛いような気がする。大事にしよう。
遊園地でも散々遊び倒した。くじ引きでもらった頭飾りも付ける。
ルーナの頭に狼、アリスの頭に兎、ユアンの頭に猫、イツキさんの
頭に鼠と、それぞれ動物の耳が生えた。可愛い。ツバキはヤギの角
1270
だった。そう来たかと思っていたら、私は触覚だった。一番外れた
気がしてならない。
家に帰ったら、今日は手巻き寿司だった。誰の誕生日でもないけ
ど誕生日ケーキもある。イツキさんのご家族も集合していて、皆で
いろんなものを巻きまくった。
ユアンが納豆気に入って、納豆巻きばかり食べている。美味しい
? よかったね。糸引いてるよ。
ケーキまで食べ終わって一息ついた頃、お父さんがいないなぁと
思っていたら、二階から大きな音がした。戦闘職四人が跳ね起きる
中、大量のアルバムを持ってよろよろとお父さんが降りてくる。見
るからに危ないその動きに、私は絶叫した。
﹁やめてぇええええ!﹂
そんな、恥の塊を持ってこなくてもいいじゃないか!
私の絶叫もなんのその。お父さんはほくほくとした顔でルーナを
手招きした。
﹁ルーナ君ルーナ君! 君に僕の宝物を見せてあげよう!﹂
﹁やめて、ルーナ! ねえ、ルーナ! わ、私と遊ぼう! ね!?
し、しりとりとか! おすしね! 手巻き寿司! しからだよ!﹂
﹁しおん﹂
﹁ん︱︱!﹂
しりとり終了! わずか一秒の命でした!
﹁これが、カズキが生まれた時の写真でぇ﹂
﹁ふ⋮⋮可愛いですね﹂
﹁だろ!? だろ!? この、どこ見てるか分からない眼がまた可
愛くってさぁ!﹂
﹁そこから!? やめてぇ、見ないでぇ⋮⋮﹂
お姉ちゃん達に阻まれて回収しに行けない私は、消え入りそうな
1271
声で懇願した。なのに、いつの間にかアリスもユアンもツバキも、
イツキさんまで混ざっている。酷い! 鬼! 悪魔! お父さんの
馬! 鹿!
﹁いいじゃない、私達も一緒に写ってて、一緒に恥かいてあげてる
んだから﹂
﹁基本、落ちて、こけて、転がって、消えていってるの私じゃない
︱︱!﹂
﹁そうね。後、満面の笑顔でピースした頭に鳥の糞﹂
﹁いやぁああああ﹂
両手を顔を覆って身悶えていると、救いの声が降ってきた。
﹁あなた達、あんまり一樹苛めちゃ駄目よ﹂
﹁千紗姉!﹂
﹁あ、ルーナさん。ビデオもありますよ﹂
﹁千紗姉︱︱!?﹂
裏切りは、慈母の顔をしていた。
︻お誕生日おめでとー!︼
︻はぁい!︼
ケーキを前に、二歳の私がご機嫌だ。お父さんとお母さんから貰
った兎のぬいぐるみに、千紗姉から貰ったキーホルダーのクマさん
をつけて、美紗姉と亜紗姉から貰った折り紙と似顔絵を握ってにっ
こにこだ。
でも、なんかもじもじしてる。
﹁⋮⋮私、なんでもじもじしてるの?﹂
﹁見て! みんな見て! これ、お父さんメロメロの秘蔵映像だか
ら!﹂
凄く嫌な予感しかしない。そもそも、ビデオ鑑賞って自体嫌な予
1272
感しかしない。今でさえ碌なことしてないのに、子どもの頃の映像
なんてもっと碌なことしてないに決まってる。お姉ちゃん達も、昔
の見るの恥ずかしいと、今まで上映されなかったら内容知らなくて
余計に不安だ。
︻おとーさん! おとーさん、あのね、もいっこほしい!︼
︻なに? なぁに? なにがほしいんでちゅかー?︼
お父さん、でれでれすぎである。どうしよう。自分じゃないのに
恥ずかしい。自分じゃないけど自分のことなので非常に恥ずかしい。
好きな人に昔の自分の阿呆を見られるのって、こんなに恥ずかしい
ことだったのか。
画面の中の私は、ぱっと阿呆面になって両手を広げた。
︻だっこ!︼
馬鹿だった︱︱!
両手を離したことにより、ぬいぐるみと手紙と折り紙が全部落ち
たことに衝撃を受けた画面の中の私は、どうやったら全部抱きしめ
たまま抱っこをねだれるのか、泣きべそをかきながら考えていた。
最終的には、全部握りしめたまま︻だっごぉ︼と大泣きしながら
部屋中を彷徨っている。
もうやめて! 私の羞恥心に耐えうる気力は空っぽです!
顔を覆って震えるルーナさん。いいんですよ。正直に馬鹿って言
っていいんですよ! 分かってるから! 寧ろ言って! 中途半端
な優しさなんていらない! いっそ馬鹿だと罵って!
ちなみに、三歳の私は、ぬいぐるみを服の中に押し込んで、手紙
と折り紙を口にくわえてだっこをせがんでいた。ただ、だっこと言
えないことに泣きべそをかき、二歳の時と同じ結末を辿ったのであ
る。
1273
四日目の朝、全員休みが取れたと聞かされた。じゃあ、皆でいけ
る場所を探そうと言うと、着物を着たお母さんと誠子さんが微笑ん
だまま首を振った。
﹁今日は、私達に付き合いなさい。全員よ﹂
﹁宜しく、カズキさん﹂
はあ、と、間の抜けた声で答えた私に、お母さん二人は顔を合わ
せて笑う。お父さんはそわそわしていて、イツキさんのお父さん和
樹さんに宥められていた。お父さんのほうが年上なんだけど、どう
見ても和樹さんのほうが大人である。
何故か着飾ったお姉ちゃん達も、顔を合わせて肩を竦めた。
知らぬは、私とルーナとアリスとユアンとイツキさんとツバキだ
けである。
⋮⋮結構知らなかった!
辿りついた場所に首を傾げる。お姉ちゃん達の格好といい、出席
するのかなと思ったけど、それにしては私はジーンズだ。なんだろ
うと思っていつもは縁のないお城みたいな内装の建物を眺める。イ
ツキさんも首を傾げていた。ここ、イツキさんのお家で経営されて
いるそうだ。凄い。きょろきょろと色々見回していると、気が付い
たらルーナ達がいなくなっていた。え、ちょ、寂しい!
慌てる私を、お母さん達は慌てず騒がず強制的に連行した。
その先でずらりと並べられたものに目を丸くする。それらとお母
さん達の顔を何度も交互に見た。
﹁勝手に決めてごめんね。でも、この先のあんたを全部渡すんだか
ら、せめて、思い出を私達に残してちょうだい﹂
1274
微笑むお母さんの声が震えていて、胸が締め付けられる。ごめん
なさい、お母さん、本当にごめんなさい。噴き出した想いは胸の中
には留まりきらず、自然と口から飛び出した。
﹁ごめんなさいっ﹂
﹁⋮⋮何言ってるの。あんたは本当に馬鹿ねぇ。お嫁に行くときは、
今までありがとうが定番でしょう?﹂
ウインクしたお母さんの眼にも涙が滲んでいたけど、皆、知らな
いふりをした。
亜紗姉が髪とメイクをやってくれる。
﹁誰もが惚れる可愛い子にしてあげる﹂
﹁亜紗姉!﹂
﹁私の美容師生命を懸けて﹂
﹁そこまで懸けないと無理な感じ!?﹂
プロである亜紗姉は、鏡越しに視線を逸らした。絶望である。
私の着ているドレスの裾をつついて、美紗姉が笑う。
﹁お父さんがさ、貸衣装じゃなくて世界に一着だけの衣装を! っ
て言ってたんだけどさ。ね、千紗姉﹂
千紗姉が手を握ってくれる。
﹁そうね。けどね、お母さんが、これまで沢山の花嫁さんを幸せに
してきた衣装なんだから、あやかりましょうって。素敵よ、一樹。
とっても似合ってる﹂
﹁千紗姉﹂
﹁亜紗の腕は最高ね!﹂
﹁千紗姉!?﹂
亜紗姉の腕がいいのはそんなの常識だけども!
問い詰めようとしたら、動くなずれるの厳命が入ってしまった。
唇がずれたら、口裂けの黒曜かな!
1275
締め切られた扉の前で、お父さんの腕を鷲掴みにして立つ。
普通、控室に新郎が来てくれるらしいけど、号泣するお父さんが
立ちはだかりルーナ達に会えることなくいきなり入場になった。
﹁まさか、一樹が一番に奪われるとはっ⋮⋮!﹂
﹁奪われる﹂
﹁一樹は一生家にいてくれるものだとっ⋮⋮!﹂
﹁お父さん!?﹂
おいおいと号泣するお父さんの腕を掴む力を籠める。そんな私達
に、無情にも入場の合図が送られてしまった。
私は、ぎゅうっとお父さんの腕を握り、開かれていく扉の先に歩
き出す。もふぁと広がるスカートに、履き慣れない靴。がくがく震
えておいおい号泣する支えのお父さん。転ぶ。絶対転ぶ。
﹁⋮⋮⋮⋮なんつーへっぴり腰の花嫁﹂
美紗姉のぽつりとした声に、亜紗姉と千紗姉が噴き出した。
待って、笑いごとじゃないですよ。だって、お父さんがくがくだ
よ。ぶるぶるだよ。なんかずっと小刻みに揺れてるのに大きくも揺
れてるんだよ。
寧ろ一人で歩いたほうがいいんじゃないかなと思いながら顔を上
げたら、左右に並ぶベンチには、スーツに着替えたアリスちゃん達
もいた。ユアンかっこいいよ、素敵だよ!
そして、その先、壇上に立つのはルーナだ。
あ、眩しい。眩しすぎて見えない。ルーナ大好き。凄くかっこい
い。ルーナ大好き。
あまりにかっこよかったから、思わず回れ右しそうになった。そ
の瞬間、ルーナの眼孔が鋭くなった。ベール越しでも何故か表情を
読まれたようだ。ルーナ凄い。
1276
なんとかそこまで辿りついた私の手がルーナに渡され、ない。お
父さん、手を離してもらえると嬉しい。転ぶよ。凄く転ぶよ。
号泣しながらお母さんに回収されたお父さんは、号泣しながら列
に並んだ。つまり、ちっとも泣きやまない。お父さん、そろそろ泣
き止んでくれないと、もらい泣きしそうなんですけども。泣いちゃ
ったら、亜紗姉の美容師生命が懸けられた特殊メイクが剥がれ落ち
てしまうから堪える。実はぬらりひょんの顔を作ってたと言われて
も納得できるくらい、顔面の皮膚が増えた。ミルフィーユ肌と呼ぼ
う。
泣きださないようそんなことをつらつらと考えていたら、誓いの
所になっていた。新婦はなんちゃらと聞こえて、慌てて誓いますと
言おうとしたら、沈黙をもって答えろだったので慌てて黙る。あや
うく元気よく宣誓する所だった。
指輪も用意してもらったので、ルーナはちょっと、いやかなり複
雑そうだったけど、苦笑してベールを上げた。
﹃最後まで締まらないな﹄
﹁違うよ、ルーナ。最初だよ!﹂
﹃⋮⋮そうだな﹄
﹁ルーナ大好き!﹂
﹃俺も、愛してる﹄
誓いのキスは、しょっぱかった。
ごめん、亜紗姉。耐え切れませんでした。
化粧を直してもらって、たくさん写真を撮った。本当にたくさん、
溢れんばかりの写真を撮った。
その時撮った写真は流石に間に合わなかったけれど、デジカメで
撮った分をラミネートして、アルバムを作って渡してくれた。
結婚式の後は、近くでやっていた夏祭りにも行った。貸衣装で全
1277
員浴衣を着せてもらって、花火も、見た。私もイツキさんも涙が止
まらなかったけれど、花火は、やっぱりとても美しかった。
﹁ハンカチ持った? ティッシュは?﹂
学校行く前みたいに忘れ物チェックが入る。でも、私が行こうと
しているのは学校でも遠足でもない。
今生の、別れだ。
水を入れたバケツに、そっと石を入れる。石は静かに底へと沈ん
でいき。プラスチックの水底にぽこりと弾かれた。
私達はリビングの中心で、お互いに触れたまま塊で集まっている。
お母さん達には、台所まで下がってもらった。万が一でも巻き込ん
でしまうのが恐ろしいからだ。
固唾を飲んで見守る中、石は、ふわりふわりと光を増していく。
それを確認して顔を上げると、私のお父さんとお母さん、イツキ
さんのお父さんお母さんが前に出てきていた。慌てて下がってもら
おうとしたら、四人は深々と頭を下げた。
﹁私達は、子ども達に生きていく知恵を教えてきたつもりです。裏
ワザから知恵袋、生きていく道が少しでも余裕を持って生きられる
ように、知っていることを、自らの経験から得たちょっとした近道
を、この子達に教えてきました。ですが、それらはすべてこの世界
でのことです。私達には、あなた方の世界で生きていく知恵を教え
てやることはできません。ですから、お願いします。この子達を宜
しくお願いします。守ってやってください。私達がもう守ってやれ
1278
ないこの子達を、どうか、生涯変わらず愛してやってください﹂
﹁僕達の娘が、彼らの息子が、この決断を生涯後悔することないよ
う、僕達は祈ることしかできない。結末を知ることすら叶わない。
だけど、僕達を安心させるために労力を使うのなら、どうか、全て
二人の為に割いてほしい。君達に幸あれ、僕達の宝に幸あれと、僕
達が死ぬまで願い続けていることを、どうか、忘れないでくれ﹂
お姉ちゃん達も伸ばした背はそのままに、深く、深く頭を下げて
いた。誠二君は下げない。ただ、ずっとイツキさんを見つめ続けて
いた。
ルーナと繋いだ手の力が強くなる。
﹁承知しました﹂
誰よりも深く頭を下げたルーナの横で、私も頭を下げる。リビン
グの床に止めどなく雫が落ちていく。
﹁今までありがとうございました! 大好きです! 愛してます!
私、この家族の一員で幸せでした! 今でも、幸せです!﹂
何かを伝えたかった。でも、もう、何も伝えるべき言葉はないよ
うにも思う。
お父さん、お母さん、千紗姉、美紗姉、亜紗姉。
大好き。愛してる。ずっと、一緒にいたかった。
ありがとう、ありがとう、ごめんね、ありがとう、ありがとう。
でも、そして、だから、ずっと。
﹁元気で!﹂
顔を上げたと同時に、世界は、ぶつりと途切れる。
意識が途切れるその瞬間、大好きな彼らの、泣き叫ぶ絶叫が聞こ
えた気がした。
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100.神様は、少々私に手厳しい!
沢山の人が私達を見ている。
沢山の人が私達を見て静まり返っている。
しんっとしているのに、人の気配だけがざわめきとなって伝わっ
てくる。それほどの数が、いま、ここに集まっているのだ。
皆が、私の言葉を待っている。
私は、緊張で渇いた口の中で何度もつばを飲み込んで、ぎゅっと
ルーナの手を握り直した。
﹁ルーナ! 結婚を前提として結婚してください!﹂
﹁喜んで﹂
わあああと地が割れんばかりの歓声が広場を覆う。
﹁⋮⋮⋮⋮それ、正に結婚式の真っ最中に言うべきことか?﹂
呆れかえったアリスの声も、重なった誓いのキスで更に膨れ上が
った歓声に埋もれて、間近にいるのに聞こえなくなってしまった。
﹁カズキ様、おかわり!﹂
﹁カズキ様、おかわり!﹂
﹁カズキ様、おわかり!﹂
﹁カズキ様、おかわり!﹂
次々に上がっていく手を前に、私は全身のバネを使って大きなば
ってんを作った。
﹁一杯のみであるよ! そして、一人、分かられた人がいたよ!﹂
1281
﹁そこをなんとか!﹂
﹁二杯の半分ならば宜しいよ!﹂
﹁結局一杯!﹂
どっと上がった笑い声にほっとしたら、後ろからおかわり合掌が
聞こえてくる。酔っ払い、一回言っても聞きゃしない。
﹁一杯のみであるよ︱︱!﹂
絶叫した私の周りにいた兵士達が割れていく。屈強の歴戦の勇者
たちが跳ね飛ぶように道を開けていく先にいたのは、新品の十円玉
みたいに輝く髪をした美しい少女だ。少女というよりは女性に近く、
女性というよりは少女に近い十七歳。すらりと伸びた手足に、成長
とともに消えたそばかす。美しい凛とした瞳はそのままの、とって
も可愛い女の子。
﹁カズキ、花嫁が花婿放って給仕しちゃ駄目だよ﹂
﹁リリィ!﹂
私は、おかわりを求める手に柄杓を渡し、酒樽の前から飛び降り
た。
リリィの髪には、私が投げたブーケの花が何本も飾られている。
﹁リリィ、可愛い! とてもお似合い!﹂
﹁ありがとう、カズキも綺麗だよ﹂
花嫁、ブーケを振りかぶって、投げたぁ!
翌日、新聞の表紙を飾ったテロップを知る由もない私は、可愛く
美しいリリィにうっとり見惚れた。
リリィは十七歳になっていた。私達が向こうで過ごした五日間で、
こっちは四年経っていたのだ。凄まじいずれに、肝が冷えた。次の
満月まで半月後とかだったらと、考えるだけでも恐ろしい。
﹁あれ? ユアンは?﹂
﹁向こうで腕試合大会やってるから、ユリンと混ざってるよ﹂
指さされた先では、やけに人が集まってるなと思ったら腕相撲大
会していたらしい。当然のように混ざっているティエンに、今では
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到底双子には見えなくなったユリンが玉砕している。爆弾によって、
背中と顔半分に火傷を残したユリンと、四年成長がずれてしまった
ユアン。二人はもう、双子には見えない。だけど、どちらも気にし
ていないらしい。それに、双子には見えなくても、兄弟にしか見え
ないのは変わらないのだ。
そして、まさか、ティエンとカルーラさんが結婚しているとは思
わなかった。更に、結婚するならエレナさんが理想なのとうっとり
と語ったドーラさんが選んだ相手がゆで卵⋮⋮隊長だとは思いもよ
らなかった。一体何がどうなってそうなったのか分からないけど、
まあ、幸せそうだから問題は何もない、はずだ。
次いで玉砕したイヴァルが身体ごと回転したけど、問題は何もな
い、はずだ。
またオリガミをしようねという約束を果たしたユアンとリリィは、
最近ちょくちょく二人で出かけてるらしいと、ユリンが悔しがって
いた。ユアンが帰ってくるまでは特定の相手を作らないスタンスだ
ったのに、当のユアンにいい雰囲気のリリィが! と、哀愁を漂わ
せていた。
ユリンは、ネイさんとよく飲みに行って愚痴を聞いてもらってい
るらしい。ネイさんは、ユリンからユアンの情報を聞いて人となり
を採点しているとカルーラさんが言っていた。ユアンはいい子です
よイギュネイシャボンさん! と言ったらチョップくらった。
会場内をきびきびと歩き回るエレナさんの左右に、きらきらと憧
れの眼で彼女を見上げる二人がいた。一人は国賓のはずなんだけど、
今日は無礼講らしい。だから、国賓がグラス回収してる。私の知っ
てる無礼講と違う。
国賓は、私の視線に気づいて、くしゃりと笑った。
1283
﹁アニタ、エリーゼ!﹂
二人に手を振る。二人はお互い目配せして、持っていたグラスを
傍のテーブルに置く。そして、とても優雅な礼をくれた。
アニタは、ルーヴァル代表として式に参加してくれたミヴァエラ
王子の婚約者としてここにいる。再会した途端、土下座に近い勢い
で謝られた。その横で、エリーゼも同じように土下座していた。何
事の謝罪︱︱!? と叫んでしまったけど、そういえば、故意と無
意識の違いはあるけれど、この二人に殺されかけたんだった。私が
許さなかったら修道女になると固く誓っていた二人に、可愛く笑っ
てくれたら許して進ぜようと悪代官になったらぽかすか殴られた上
に泣かれた。痛かったけど可愛かった。
エリーゼは昔、スヤマと呼ばれていた時代がある。綺麗な名前を
貰ったね、エリーゼ、よかったね。自分の居場所を守ろうと、ぎら
きらぎらぎら光って泣き叫んでいた子どもはもういない。今にも砕
け散りそうな刃物のような瞳は、今ではうっとりとエレナさんを見
上げている。あれ? 二代目ドーラの道を?
ついでに言うと、アマリアさんはお子さんが生まれたばかりで来
られなかった。おめでとうございます! 産後直後に王の元に現れ
た暗殺者をぶちのめした武勇伝は、未来永劫語り継がれる事でしょ
う!
ヴィーと、ヴィーの親友でブルドゥスの王女ヴァルとも、ようや
く話が出来た。ヴァルとエリオス様は、この城がヌアブロウ達に占
領されていた時、一緒に苦難を乗り越えていく内に仲良くなったら
しく、あっという間にご結婚されていた。なんなんですか。結婚ラ
ッシュですかと思っていたら、ラグビー部様とヴィーも結婚してい
た。思う思わないに拘らずラッシュでした。
四年経ち、ラグビー部様はラグビー監督様になっていて、書道部
様は書道部顧問様になっていた。エリオス様は、爆弾の後遺症で左
半身がうまく動かせないけれど、元々得意だったアンキの腕はさら
1284
に磨かれたと笑っていた。そして、あの時聞きそびれたアンキが暗
器だと、ようやく分かったのである。
東の守護地からは、力添えへの感謝と謝罪。そして、ユアンを守
ってくれてありがとうと、二人のサイン入りの手紙が届いていた。
ヒューハは、今も牢にいると言う。アーガスク様とエリオス様は、
あの時反旗を翻した騎士と軍士の罪は、国の責であると言って、彼
らを不問とした。勿論監視は付けられるが、彼等は戦災の被災者だ
と解放された。けれど、未だに牢から出ない人間が数多くいるのだ
と言う。処刑の沙汰を、彼等は今も待ち続けている。最初から許さ
れるつもりのなかった彼らにとって、許しは苦しみでしかないのだ
ろうか。けれど、新王の二人は、彼らが牢から出られる日が、両国
の戦争の終わりだと言った。だから、諦めないとも。
その日が来るのを、私はこの同じ世界で待っていたい。
もう一つ、二人は、私に権力はいるかと問うた。黒曜の名で、全
てから独立した機関を作れるし、その様な要望が多数来ていると。
私は断った。黒曜の名も、幻想も、すべて私には過ぎたるものだ。
卵焼きの焼け方が毎朝の大事件である私には、背負えるはずもない
ものである。
そう答えた私に、二人の王様は膝をついた。慌てる私の手を取り、
額をつける。
﹁貴女に報える世界を、必ず捧げよう﹂
寸分違えることなく発せられた言葉に、捧げられても困るので、
見せてもらうだけで充分ですと答えたら爆笑された。
﹁よ! カズキ! おめでとさん!﹂
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﹁ナクタ! ありがとう!﹂
﹁なあ、カズキ、シャルン見なかったか? あいつ、あんたの結婚
式に合わせて本出すんだって、毎日徹夜でさ。すぐ飯食うの忘れる
んだぜ? ったく、手が焼けるぜ﹂
﹁シャルンさんならば、あちらの木陰で直立不動であったよ?﹂
﹁あ、それ寝てるわ。わりぃ、ありがとな!﹂
ナクタはドレスの裾を縛り、豪快に駆け出して行った。シャルン
さんの女性言葉は今だ直らず、ナクタの言葉遣いも四年経っても直
る気配はないようだ。
イツキさんとツバキは、こっちに一緒に帰ってきてすぐにガリザ
ザへ、エマさんの元へと戻っていった。色々大変だろうし、風当り
も強いだろう。だけど、イツキさんは選んだ。エマさんの元へ帰っ
てくることを選んで、ガリザザへと戻った。
エマさんは、皇帝として頑張っている。結婚式に参加できないこ
とが無念でならないと四回くらい書かれたお祝いの手紙が届いた。
ガリザザは、恨みと悲しみを抱えたまま、なんとか回っている。今
はまだ半年近く国を開けるわけにはいかないけれど、いつか、こっ
ちに来られるくらい国を落ち着かせてみせると書かれてある。そし
て最後に、あの村は解いたと、一言だけ。
今度、イツキさんとエマさんの結婚式があるから、新婚旅行がて
ら行ってきたいけど、ルーナはあまり乗り気じゃないので、まあ、
要話し合いである。もしも行けたら、その時にはいっぱい話をした
い。
﹁カズキ?﹂
リリィが小首を傾げた。非常に、可愛い。
1286
ガルディグアルディア含むブルドゥス裏三家と、グラースでも同
じような立場にある三家は、今回の騒動で得て手を組んだ。総勢六
家による、雑貨店やカフェ、本屋などの店が二国に広がっている。
今回、目が届かず王都にまで手を出されたことを、彼等は相当頭に
来ていたらしい。情報収集を兼ねた、前代未聞のチェーン店の開催
である。アードルゲも相当関わっているらしい。実は、私はその内
のどこかで働かせてもらえる話になっている。グラースとブルドゥ
ス、どっちで暮らしてもどちらかに角が立つから、どうせなら交互
に暮らせばいいじゃないというヴィーとヴァルの提案だ。どこかの
店に私がいますよっていうだけで宣伝効果になるらしい。ちょっと、
客寄せパンダになった気分だ。
﹁そろそろ騎士ルーナの所に行ってあげなくていいの?﹂
はっとなる。リリィに見惚れていたけど、ルーナ大好き。今すぐ
会いたい。
そわそわし始めた私の両手を握りしめ、リリィはふわりと微笑ん
だ。
﹁言いそびれてたんだけど、カズキ、いらっしゃい﹂
﹁え?﹂
﹁それと﹂
背が伸びたリリィはもう、背伸びしなくても私の頬にキスが届い
た。
﹁おかえりなさい、カズキ﹂
﹁ただいま、リリィ!﹂
私には故郷が二つある。
それはとても苦しくて、とても幸せなことだった。
ルーナを探して広い庭園を彷徨う。監視カメラ代わりに立ってい
1287
る騎士と軍士の前を通り過ぎるたびに敬礼してくれるので、私も敬
礼を返していたら何度も転びかけた。
﹁カズキ﹂
﹁アリスちゃん!﹂
グラスを片手に珍しく一人で立っていたアリスが歩いてくる。酔
っているのか、頬が少し赤い。これも珍しい気がする。
﹁ルーナはどうした?﹂
﹁ご両親とお喋りされていたので、デザート巡りへと出立すらば、
帰還できぬこととなったよ!﹂
﹁たわけ﹂
酷く静かなたわけに首を傾げる。グラスを置いたアリスが無造作
に両手を広げたから、私も真似して広げた。そのまま抱きしめられ
て、私も思いっきり抱きしめる。
﹁私では、泣かせてやれんからな﹂
﹁え?﹂
柔らかく解けたアリスの瞳が近づいてきて、額に唇が触れた。
﹁好きだ、カズキ。愛してる﹂
﹁私も、アリスちゃんが大好き!﹂
アリスはふわりと笑う。
﹁知ってるさ。さあ、行け、親友! ルーナはあっちだ!﹂
﹁ありがとう、アリスちゃん!﹂
﹁おめでとう、カズキ!﹂
背を押されて駆け出す。
普通花嫁は走らないらしいけど、ここにいる人達はもう呆れもせ
ず、それどころかそれいけといわんばかりに道を開けてくれる。
その道の先に、ルーナがいた。
ずっと、この人を目指して走り続けた。その過程で、色んな景色
を見てきた。
人の心は脆い。脆さを補おうと鉄のような硬さを得れば、それは
1288
最早心とは違う異質な何かとなる。心のままに強くなろうとするの
なら、全てを受け入れず弾き返す硬さではなく、柔さで受け取るし
なやかさが必要なのかもしれない。
いろんな強さを、皆がくれた。しなやかさをくれた。しなやかに
強い心を構成する愛を、たくさん、たくさんくれた。
﹁ルーナ!﹂
﹁カズキ!﹂
両手を広げてくれたルーナの胸に飛び込む。もう何でもかんでも
歓声を上げる人達が、またわぁっと拍手を打ち鳴らす。花が降り、
世界を彩る。
目指した愛への道のりは、凄まじいほどの愛に満ちていた。
だから、世界は、神様は、私にとても優しかったのだ。
﹁ルーナ、大好き!﹂
﹁俺も、お前が大好きだよ、カズキ。愛してる﹂
そうして重なった幾度目かの誓いの口づけは、溢れんばかりの愛
おしさに満ちていた。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6752cd/
神様は、少々私に手厳しい!
2017年1月23日08時01分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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