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HIKONE RONSO_207_052

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HIKONE RONSO_207_052
52
イアーゴーと二三四ー
一拒まれた者たち一
田
依
義 丸
たとえば劇作家に演劇意識が認められることは至極当然のことであろうが,
シェイクスピアのいくつかの劇にあっては,登場人物たち自身がかれらを取り
巻く現実への働きかけにおいて強い演劇意識を披露することがある。そうした
劇のひとつが『オセロー』である。本稿では,登場人物の中でも特にイアーゴ
ーの演劇意識に焦点を当て,オセローとの関係の変化を調べることで彼の悲劇
を解明し,それを通してこの劇の意味をさぐってみたい。
二幕で場面がヴェニスからサイプラス島へと移るのに先立って,シェイクス
ピアはひとつの工夫をこらしている。デズデモーナがオセローについていくこ
とが一応めでたく決り一同退場したあとで,舞台を事実上イアーゴーに占めさ
せているのがそれである。まず,イアーゴーは言葉として舞台を支配する。静
エ まりかえった舞台に,ロダリーゴーの“lago!”(1,iii.301)という呼びかけ
がひびく。イアーゴーとロダリーゴーとの問にしばしやり取りがあったあと,
場面をしめくくるのもやはり独白をするイアーゴーである。彼は,今後のおお
よその劇展開となる,キャシオーやオセローに対する策略を前もって観客に知
らせるので,独白は一幕の終りにありながら内容的には次幕への方向性をもっ
ことになっている。この二幕への連続性は,エリザベス朝の舞台のように幕や
場の観念が存在しない場合は,より緊密なものとなろう。このようにして,独
ぬし
白の主のイアーゴーが以後のサイプラス島でのアクションを実質的に支配する
ような印象を与えることになり,観客は自然と彼を二幕以降の劇の劇作家・演
出家的位置に置くことになる。
1)引用行数は,MR. Ridley編のNew Arden Shakespeare版による。
イアーゴーとオセロー 53
ここでイアーゴーを描くのに演劇的用語を使ったが,これは別段目新しいこ
とではない。事実,多くの批評家たちの指摘してきたところである。たとえ
ば,比較的最近ではヤン・コッ1・がイァーゴーを“amachiavellian stage man一
。g。3と呼んでいる.。櫨先を辿れを勤一ライルの・。。i、、a,,i。u1。,。p。。,・
やハズリットの“an amateur of tragedy in real life”という表現と同系列に
入るものである。つまるところこれらは,イアーゴーの気質あるいは劇中の働
きについての比喩的な言いまわしなのである。イアーゴーを芸術家だとするブ
ラッドリー的主張などもこの例外でないことはいうまでもない。けれども,イ
アーゴーははるかに実質的な意味においても,劇作家であり,演出家なのであ
るQ
これまでのおおかたの批評家たちは,イアーゴーの口にする個々の動機に
注意を向けすぎてきたように思われる。コールリッジの有名な“the motive−
hunting of a motiveless malignity”に象徴される否定的な見方をつぐものも
ぞうした傾向を裏返しにしたにすぎない。重要なのは,散りばめられた動機の
底辺に横たわるものである。イアーゴーがその独白で直接仕返しを企んでいる
のは主にオセローとキャシオーに対してであるが,かれらへの恨みの根は予想
よりもずっと深い。イアーゴーはジェントルマン階層よりも低い社会的身分に
属している。これは,イアーゴーがデズデモーナと共にサイプラス島に着いた
すぐあとで,キャシオーから“good夏ago”(豆, i,97)と声をかけられている
時にイアーゴーが“Sir”と答えているところにも出ている。更に,イァーゴー
が必要以上にジェントルマン階層を意識している言動もこのことを支持する。
おう
たとえば,E. A。」.ホニグマンの指摘するように,ロダリーゴーと共謀してキ
ャシナーを襲ったあとの場面で,イアーゴーはグレイシャーノーやロードヴィ
ーコーといったヴェニスの‘gentlemen’に向って盛んに“gentlemen”という
語を使っている一“Light, gentlemen”(V・i・73);“Gentlemen all, I do suspect
2) J. Kott, ShakesPeare Our ContemPorary, London, Methuen, 1965, p. 86.
3) Cf. E. A. J. Honigmann, ShakesPeare: Seven Tragedies, London, Macmillan,
1976, pp・ 83−84.
54
this trash”(V. i.85);“Do you see, gentlemen”(V・i・108)。そしてイア
ーゴーはそうした階層の者と自分とを同格視しょうとさえしてもいる。それ
はたとえば,彼が傷ついたキャシオーに“brother”(V. i・71)と呼びかけて
いるところに現われている。こうした気持があるからこそ,“good Iago”や
“honest Iago”とまわりの者たちから呼ばれる時には逆に階層的な屈辱意識
をかき立てられるわけである。W.エンプソンの説明するように“good”や
“honest”という形容詞は身分の上の者が下の者へ見下げる気持をこめて付加
の
された語だったからである。
だが,こうしたイアーゴーにもその血筋を無視しうる唯一の場があった,そ
れが軍隊である。実際,高い階層の出身でない彼が副官にまでなりえるはずで
あった。ところがそこヘジェソトルマン階層のキャシオーをオセローが登用す
ることで出世が邪魔されたのである。このことを考えると,イアーゴーのかれ
らへの憎悪は必然である。その上,イアーゴーの目にはオセローはキャシオー
と同様の高い社会階層の人間として映っている。なぜなら,対向ローは将軍だ
といえども外国人であり,ある意味でイアーゴーと同じ拒まれた者であったも
のの,ヴェニスの有力者の娘と結婚することによってその社会の高い層の内に
実質的に入り込んだ一イアーゴーはこのように考えている一からである。こう
したイアーゴーの見方は,彼が二人用結婚についてキャシオーに説明している
言葉一“Faith, he to−night hath boarded a land carrack.”(工.ii.50)(ここ
で“land carrack”とは“large ship”の意である)にうかがうことができる。
これまで見れば,自らの昇進を阻害したオセローやキャシオーへのイァーゴー
の恨みの背後には,彼を拒む高い階層への憎しみがひそんでいることがわかる
であろう。
高い階層への嫌悪は,“courtesy”に対してイアーゴーが見せる反発にも出て
いる。この事実に我々がはじめて接するのは,エミリアにキャシオーがジェン
トルマンらしい挨拶をしているのを見て,イアーゴーが皮肉な忠告をすること
4) Cf. W. Empson, The Structure of, ComPlegi 1)Vords, London, Chatto and Windus,
1969, pp. 219, 222 n,
イアーゴーとオセロ・一i
55
で反応している場面においてである。
Cas.
Let it not gall your patience, good lago,
That 1 extend my manners; ’tis my breeding
That gives me this bold show of courtesy. (Kissing her.
Iago.
Sir, would she give you so much of her lips
As of her ton.aue she has bestow’d on me,
You’ld have enough.
(1[[e i・ 97mlO;9」)
しかしここではイアーゴーの“courtesy”への反発はあくまで暗示されるにと
どまっているが,少しあとのところではずっとはっきりとした形で現われてい
る。そこでは,デズデモーナに“courteSY”を示すキャシオーをイアーゴーは
傍白であざけっている。
(Aside) He takes her by the palm; ay, well said, whisper: as little
a web as this wi11 ensnare as great a fly as Cassio. Ay, smile upon
her, do: 1 will catch you in your own courtesies: you say true, ’tis
so indeed. lf such tricks as these strip you out of your lieutenantry,
it had been better you had not kiss’d your three fingers so oft,
which now again you are most apt to Play the sir in: good, well
kiss’d, an excellent courtesy; ’tis so indeed: yet again, your fingers
at your lips? would they were clyster−pipes for your sake . , .
(italics mine) (1. i. 167−177)
注目すべきは“play the sir”という表現である。ここでイアーゴーは表面的に
ジェントルマン
は“courtesy”をひけらかすキャシオーに「紳 士を気取っている」と悪口を
いっているのだが,その下には「紳士を演技している」という意味も隠されて
56
いるように思われる。イアーゴーは,ジェントルマンはジェントルマンである
ことを演じているにすぎないと,別のいい方をすると,高い階層の者たちはそ
の階層の振舞いを演じているだけだと考えているのである。このことと,イア
ーゴーがオセローとデズデモーナの結びつきをブラバンショーに暗示するのに
獣的なイメージを盛んに用いていることとは無関係ではない。
Even now, very now, an old black ram
Is tupping your white ewe;... (工.i.88−89)
...
凾盾普f11 have your daughter cover’d with a
Barbary horse (1. i. 110−111)
...
凾盾浮秩@daughter, and the Moor, are now making
the beast with two backs (1. i. 115−117)
イアーゴーには,所詮人間というものは,たとえ高い階層の者でも,ひと皮む
けばだれもが獣的存在なのだという底辺的な認識があるわけなのである。そし
てまさにこの“play the sir”に現われたイアーゴーの見方こそ彼に悪の発想を
与えることになるのだ。すなわち,もしそのように演技的にこの世が成り立っ
ているとしたら,そうした仕組みを逆手にとって現実に対する復讐行動の戦略
手段としても使えるのではな:いか。こうしてイアーゴーは自らを積極的に劇作
家・演出家の位置に置き,キャシオーを失脚させ,妻の不貞にオセP一を苦し
ませるべく,まわりの者たちを登場人物とした劇をつくり上げようとするので
ある。それは高い層の者たちから拒まれてきた自分をかれらを拒みかえす位置
にすえるという意欲的で果敢な試みとしてとらえられる。それは部分でしがな
かったイアーゴーの,全体を把握する位置への野望であり,自分を低きに位置
づけてきた現実を逆に支配しようとする,現実への挑戦である。そしてそのイ
アーゴーの上演する劇の舞台がサイプラス島なのである。この意味では,シェ
イクスピアはイアーゴーに彼の劇の舞台を提供すべく,わざわざ二幕でサイプ
ラス島に場面を移しているともいえる。ときに,海に浮かぶ島のヴィジョンは
イァーゴーとオセロー 5比
すでにそれだけで舞台のイメージを喚起させるに十分なものである。
イアーゴーがはじめて上演するのはキャシオーのけんかの場面である。それ
は筋書き通りに演出され,お目当のキャシオーの失脚が導き出されている。と
ころでこの場は観客である我々にイアーゴーの働きについてのもうひとつの情
報を与えてくれる。イアーゴーは上演する劇に自ら出演してもいるということ
である。更に場面の終りには,彼が演じていると意識している役柄も明らかに
されている。その役柄とは‘villain’。すでに副官をやめさせられたキャシオー
にその地位への復帰のためのとりなしをデズデモーナに頼むよう忠告したあ
と,イアーゴーは次のように独白する。
And what’s he then, that says 1 plab, the villain,
When this advice is free 1 gi ve, and honest,
Probal to thinking, and indeed the course
To win the IVIoor again? ...
. . How am 1 then a villain,
To counsel Cassio to this parallel course,
Directly to his good? Divinity of hell!
When devils will their blackest sins put on,
They do suggest at first with heavenly shows,
As 1 do now: . . .
(italics mine) (ll. iii. 327−330, 339−344)
イアーゴー1/1一一一見否定的にのべているが,実際には自分が悪魔のやり方をまね
ている‘villain’であることを確認している。そしてそうした‘villain’を役柄
として演じはじめているという意識の存在を思わず出た“play the villain”と
いう表現が証言している。それはキャシオーに対して用いた“play the sir”と
同じ,意味の二重性を担っている。すなわち,「悪事をはたらく」という意味
58
と共に「悪党役を演じる」というもうひとつの意味をも合わせもっているので
ある。他方ここで注意すべきは,イアーゴーは劇作家・演出家としての立場も
同時に維持しつづけていることである。演技する自分とそれを包む状況を客観
的に見る目の存在が“he”として対象化されているのがわかる。それは,自ら
の劇の出来ばえを一歩離れて見る者の目である。イアーゴーは出演者であり,
同時に上演者でもあるのだ。
イアーゴーがいよいよ仕かけるのが,この劇で最も長く最もよく知られた三
幕釈場の誘惑の場である。さてオセP一がここでどうしてイアーゴーの言葉に
影響されて行くのかという問題は,実は誘惑する者の側からだけ説明できるも
のではない,誘惑されるオセローの置かれた状況とその独自の姿勢の方からも
見なければならない。
この劇の序幕は,ヴェニス社会におけるオセP一の立場の特異1生を観客に知
らせている。元老院での彼の自己弁護からわかるように,オセローはブラバン
ショーによって厚く遇されてきた。このブラバンショーの態度はひとりの有力
者の物好きのそれではなく,ヴェニスの者たち一般に認められると考えてよ
い。南画P一はかれらの富を守る,ヴェニスには不可欠である軍隊の将軍だか
らである。けれどもこれは,あくまで公的な次元にとどまる。場が私的な次元
に移行すると,事態は一変する。彼を邸宅に何回となく招いて歓待してきたは
ずのブラバンショー一も,オ国軍ーが自分の娘と結婚するとなるとまさに手の裏
を反したように急に振舞いを変えている。彼は嫌悪や軽蔑の感情を露骨に表現
する。
Damn’d as thou art, thou hast enchanted her,
For 1’11 refer rrie to all things of sense,
(lf she in chains of magic were not bound)
Whether a maid, so tender, fair, and happy,
So opposite to marriage, that she shunn’d
The wealthy curled darlings of our nation,
イァーゴーとオセロー 59
Would ever have (to incur a general mock)
Run from her guardage to the sooty bosom
Of such a thing as thou? to fear, not to delight.
(工.ii.63−71)
“sooty”や“a thing”には,単に自分の同意なしに娘と結婚した男への父親の
憤り以上のものがこめられている。なるほどオセローは,進んでヴェニスとい
う国を自己の居場所と決めたのではあるが,その社会の内側にいる者にとって
彼はどこまでも呪い軍人であり,かれらの世界とは本質的には関わりのな:い異
邦人にすぎないのである。その上彼は黒い。オセローは二重の意味で異邦人な
のだ。だからそうした外国人とヴェニスの若い娘が結婚するなど,魔法の力に
よるとでもしなければ到底考えられないことなのである。
ヴェニス社会におけるこの特殊な立場は,オセロー自身によってもよくわき
まえられていた。デズデモーナに対する求愛の過程がこのことを物語ってい
る。オセローは彼女にはじめから積極的な働きかけをしているのではない。む
しろ臆病だといえる,彼の慎重で受身的な姿勢は,ヴェニスの女との結びつぎ
などありえないことを彼の側でもよく承知していることを伝えている。そもそ
も彼が愛を告白するに至ったのは,まずデズデモーサがその身の上下に興味を
示したからであり,次に愛の得られるほのめかしを彼女から受けたからであ
る。この意味では,ブラバンショーの言葉を借りて,“she was half the wooer”
(1.iii.176)とある程度いうことができる。
オセローはこれまでは,彼に唯一存在の許された軍隊という特劉な世界にあ
って,ヴェニス社会に対して異邦人としての立場に甘んじてきた。しかし,そ
こにデズデモーナとの予期せぬ愛が成立したのである。それはオセローのヴェ
ありよう
ニスでの有様を根本的に変えさせ,異邦人の位置から社会の内部に向って一歩
踏み出させることになった。もともと彼は内への方向性をもっていた。彼は自
ら進んでこの国に暮しはじめたのであり,劇の終りでわかることだが,トルコ
の支配下にあった町では,ヴェニスの国をそしるトルコ人を殺したことさえあ
60
る。デズデモーナとの結婚はこうした彼の内に秘められたヴェニス社会の内部
への動きを公然化しうる可能性を与えたことになる。
この傾向を更に押し進めることになるのが,ブラバンショーによる元老院へ
の訴え出の成.り行きである。そもそも深夜の緊急会議を知ったブラバンショー
がその場に訴え出ようとしているのは,二人の結びつきが“all rules of nature”
(工.iii.101)に反した誤りであるという自己の見方がヴェニスの他の主要な
人物たちによっても分けもたれていると信じているからである。
Or any of my brothers of the state,
Cannot but feel this wrong, as ’twere their own.
(1. iL 96−97)
そしてオセロ 一一もこのことがわかっている。だからこそ国家へのこれまでの貢
献や王族の血筋までをも頼みとしようと考えているのである(Cf,工.ii.19−
24)。しかながら,大公の裁きは両者にとって予想外の方向をとることになる。
大公は二人の結婚を認めようとするのである。もちろんこれは,将軍オセP一
がサイプラス島を脅かすトルコとの戦いに必要とされていることからくるのだ
が,表面的には,そして何よりオセP一にとっては,二人の愛の道程が受け入
れられたことになっている。このことがオセローにデズデモーナとの結びつき
の確かさを信じさせるのである。
サイプラス島におけるオセローの振舞いは以上の背景を考慮に入れてはじめ
て説明される。キャシオーのけんかの場面で,騒ぎに気づいて駆けつけたオセ
P一は混乱を屠の前にして興奮した調子で叫んでいる。
Why, how now, ho! from whence arises this?
Are we turn’d Turks, and to ourselves do that
Which heaven has forbid the Ottomites?
For Christian shame, put by this barbarous brawl;
イアーゴーとオセロー 6!
He that stirs next, to carve for his own rage,
Holds his soul light, he dies upon his motion;
(llll. iii. 160−165)
ここで重要なのは,オセローが‘Areツou turn’d Turks, and to yourselwes do
that…’ではなく,わざわざ“Are we tum’d Turks, and tO ourselz,es do that
…”
ニいっていることである。教旨ローは,キリスト教徒であるヴェニス人が
同志討ちをすることで異教徒であるトルコ人となってしまったことに憤ってい
るわけだが,代名詞“we”の使用は,オセローが自分自身をもヴェニス人の中
に含めようとしていることを示している。オセローは自らをヴェニス入と見倣
しそのように振舞おうとしているのである。
けれどもそれは,どこまでもうわべだけの模倣にすぎない。ほんとうは異邦
人である聾心ローにはヴェニス人の目あるいは意識が決定的に欠けている。現
に彼はデズデモーナの愛清に気づかず,彼女が非常に愛していた時に,自分の
顔をこわがっているのだと思っていた(Cf・191. iii.211−212)。だカミこうしたオ
セローにとって,この欠如を補う唯一の方法があった。それを外から借りれば
よいわけである。そしてそこにイアーゴーが存在したのだ。誘惑の御膳立ては
十分ととのっていたことになる。
他方,すでにデズデモーナとキャシオーとの仲をほのめかした誘惑者イァー
ゴーの方法のきわめつけも,オ心仏ーの異邦人性を突くというものであった。
彼は,自分はヴェニス人の性質をよく知っていると前置きしたあと,ヴェニス
の女たちは“do let God see the pranks/They dare not show their husbands”
(皿.iii.206−207)だということをオセローに教える。すでに触れた油点な境
位にあるオセP一はこのヴェニス女の一般性をそのまま受け入れるのである
一‘‘ cost thou say so?”(]量:. iii.209)。オセローがイアーゴーにデズデモー
ナが“whore”であるという証明を求めるのはまさにこうした心的状態におい
てである。
62
Villain, be sure thou prove my love a whore,
(皿.iii.365)
ところで,この時点以後のオセローについて,我々観客はある矛盾した動き
を感じる。それは,一方でオセP 一一はデズデモーナの不貞さを信じかねている
一“ P think my wife be honest, and think she is not,” (M. iii. 390)一
にもかかわらず,他方ではデズデモーーナが“whore”であることを証明するの
に彼自ら力をかしているように思われることである。たとえば,“the ocular
proof”(皿. iii.366)を要求しておきながら,結局“imputation and strong
circumstances”(皿1. iii.412)で満足するのもオセローの方である。実は,こ
こに見られる矛盾した気持の傾きは上で見たヴェニス女の一般性の受容という
ことを考慮することで説明できる。オセローには,彼が一般性を受け入れた時
に,その内容がデズデモーナにも及ばざるをえない論理的必然性があった。つ
まり,デズデモーナはオセローにとって,ヴェニス社会への入口であり,そう
であるからには彼女はヴェニス的なるものを完壁にそなえていなければなら
ず,従って彼女はヴェニス女の一般性をも共有していることになるからであ
る。むしろ彼女は不実でなければならないのだ。デズデモーナは「ヴェニスの
すれっからしの娼婦」 (lv. ii.91)のようにだれとも交わる存在であり,従っ
て彼女はオセP一が期待するほどしっかりと彼をヴェニス社会につなぎとめて
いる存在ではないことになる。そしてオセローは実質的に依然として異邦人だ
ということになる。さて,こうしたことが不可避の必然的な論理的帰結だとし
たら,そこに新しい意味を付加してむしろ積極的に別の目的に使えばしない
か。オセローが行おうとするのはまさにこのことであり,それこそ彼の以後の
矛盾した動きの源なのである。
二戸ローの積極的な姿勢の一端は,引用したイアーゴー・一への証明要求の言葉
の中にも認められる。オセローはたしかに一方でイアゴーに向って「貴様」と
呼びかけているのであるが,同時に“villain”はもうひとつの意味を合わせも
つように思われる。‘villain’という語には本来的な意味として「悪党」という
イアーゴーとオセロー 63
意味のあることを思い出すのも無駄ではないであろう。すなわち,オセローは
デズデモーナの不実さをほのめかすイアーゴーに「悪党」とも呼びかけている
のではあるまいか。そうだとすると,オセローはイアーゴーの悪党性に,より
正確にはその可能性には気づいており,その可能性にかけてイアーゴーを進ん
で“villain”役として位置づけようとしていることになる。オセローはイアー
コ㌧に“vil正ain”としての役柄に専念するように求めているのであり,逆にい
うとイアーゴーはこの時点から事実上日嗣ローによって自分の劇の劇作家・演
出家的な,全体を把握する位置から引きずりおろされはじめ,これまでも演じ
てきた“villain”という役柄の中にもつぼら閉じ込められていくことになるの
である。実際,三幕三場の終りでキャシオー殺しを命じるに至るのはオセロー
の方であるし,デズデモーナ殺しを決めるのもオセローである。イアーゴーは
デズデモーナ殺しについては思いとどまらせようとするが,彼の指図の言葉
“。、.,but let her live.”(皿. iii.481)はオセローの耳には入っていない。こ
うした動きを後証するように,イアーゴーはもともと忌日らオセローに放出し
の
た巨大な感情に呑み込まれていく。次のように歌いあげているオセローはイァ
ーゴーを圧倒している。
. . . Like to the Pontic sea,
Whose icy current, and compulsive course,
Ne’er iSeels retiring ebb, but keeps due on
To the Propontic, and the Hellespont:
(M. iii. 460−463)
またイアーーゴーはオ月山ーの感情の激しい動きにもついていけないでいる。
Can he be angry? . . .
(M. iv. !31)
s) cf. B. Everett, “Reflections on the Sentimentalist’s Othello,” Critical Quarterc’y,
工巫,1961,p.!31.
64
イアーゴーの立場の変化は,彼と状況との関わり合いの変化としても現われて
いる。つまり,これまで状況を統御してきたイアーゴーが,その統御力を次第
に失い,ついには状況によって支配されるようになっていくのだ。たとえば,
あとでもう一度触れることになる,イアーゴーとキャシオーの対話をオセロー
が見守る場面は,たしかにイアーゴー一が仕組んではいるのだが,デズデモーナ
にオセローが与えたというハンカチをもち込みこの場を決定的なものとしてい
るビアンカの登場はイアーゴーの意図したものではない。また,キャシオー殺
しを行おうとしているイアーゴーももうひとつの例である。
. . . whether he kill Cassio,
Or Cassio him, or each do kill the other,
Every way makes my game; . . .
(V. i. 12−14)
イアーゴーはこれから展開される場面の結末を以前のようには確定できないで
いる。彼は,いわば,状況に対して受身的になるに至っているのである。実
際,事態は彼が予想したどの可能性とも違って,キャシオーはけがをしながら
も生きており,ロダリーゴーの方も反撃を受けつつも生命に別条はない。その
ためにイアーゴーは,事態を繕うために自らロダリーゴーを殺さなければなら
な:いようなことになってくる。
ただここで重要なのは,こうした全体に対する支配力の明らかな喪失もイア
ーゴーには決して認識されていないという事実である。彼はこれまでと同じよ
うに全体を把握する位置にいて,現実を演出しているのだと確信しつづけてい
る。イアーゴーは,「悪党」(“villain”)という役の登場人物として機能させら
れているにすぎないことに気づかないのである。
それでは,イアーゴーを“vil工ain”役に固定し,彼にデズデモーナが“whore”
であることを証明させることでオセローが行おうとしているのは具体的に何で
あるのか。実をいえば,それはオセP ・一の“whore”的なるものについてのオ
イアーゴーとオセロー 65
ブセッションの意味を問うことに等しい。
考えてみれば,オセローがデズデモーナに関して“whore”という語を用い
ていること自体,奇妙といえば奇妙である。もっとも可能性としては,それは
オセローの軽蔑や憤りの気持の単なる一表現にすぎないということもありう
る。実際,すでに引用したこの語の初出のところでは,そうした種類のもので
あるのかどうか判断することはむずかしい。この一見取るに足らないように思
われる語が重大な意味を充填されたものであるらしいことが見えてくるのは,
それ以後に現われるオ山門ーの“whore”的なるものについてのオブセヅシ・
ンを知った時である。
“whore”という語をオセP 一一が二度目に口にするのは,ずっとあとになっ
て,四幕二場,いわゆる淫売宿の揚面がはじめられるところにおいてである。
6)
. . . this is a subtle whore,
A closet, lock and key, of villainous secrets,
24ynd yet she’ll kneel anA. pray, 1 ha’ seen her do’t.
(IV’. ii. 21−23)
こうのべたオセローが,エミリアを淫売宿の取りもちのかみさんに,デズデモ
ーナを娼婦に,そして自分をデズデモーナを相方とする馴染みの客に見立てる
ことに移るのは有名なところである。
(To Emilia) Some of your function, mistress,
Leave procreants alone, and shut the door,
Cough, or cry hern, if anybody come;
6) この“whore”はエミリアのことを指していると解することもできようが,次につ
づく淫売宿の場への連続性を考えると,グラソヴィル・パーカーが指摘しているよう
に(Cf. H. Granville−Barker,1)refaces to Shakespeare, Vo1,亘, London, B. T. Bats・
ford,19.・58, P.62 n),デズデモーナのことだと取るのが自然であろう。
66
Your mystery, your mystery: nay, dispatch.
(IV’. ii. 27−30)
この場でおもしろいのは,オセローが一方でデズデモーナは“false as he11”
(W.ii.40)であるといっているものの,他方でつづけて彼が彼女に対して用
いているイメージは,彼女のキャシオーとの特定の関係というよりは,複数の
男との関係についてのもの,いってみればデズデモーナの淫売性についてのも
のだということである。
The fountain, from the which my current runs,
Or else dries up, to be discarded thence,
Or keep it as a cistern, for foul toads
To knot and gender in!
(IV. ii. 60−63)
つついてこのイメージを引きつぐように,“whore”やこれと同義の語がオセP
一の口から連発されることになるのである。
Was this fair paper, this most goodly book,
Made to write “whore” on?. . . What, committed?
Committed! O thou public commoner!
(IV. ii. 73−75)
Impudent strumpet!
(工▽’.ii.83)
Are not you a strumpet?
(IV. ii. 84)
What, not a whore?
(IV. ii. 88)
イアーゴーとオセロー 67
1 took you for that cunning whore of Venice,
That married with Othello:
・ . 陰
(IV. ii. 91−92)
これだけ頻繁に出てくると,オ庶子ーのオブセッションはもはや明らかであ
る。そしてそれは,“whore”や“strumpet”といった語についてのオブセッシ
ョンであるばかりか,淫売宿の場に代表される状況のオブセッションでもある
のだ。
オセローのこうしたオブセヅションに気づかせるために,シェイクスピアは
劇のアクションにも工夫をこらしている。“whore”という語の最初の出現から
淫売宿の状況までの橋渡しとして,“whore”は肉体の形をとって舞台に出され
ている。ビアンカのことである。 (ちなみにチンティオの原話ではビアンカに
当る娼婦は,キャシオーに当る“captain”が襲われるところで,“…the captain
was one evening Ieaving the house of a strumpet...”と一度だけ無名で出て
の
くるだけであるが,これをシェイクスピアはひとりの独立した人物として登場
させている。)彼女の淫売性が機能しているのは,オセローが盗み冠するイァ
ーゴーとキャシオーの対話の場に彼女が現われるところにおいてである。この
場に先立って,シェイクスピアはまずビァソカの素性についてイアーゴーにの
べさせることで,観客に彼女が“strumpet”であることを意識させている。
Now will 1 question Cassio of Bianca;
A housewife that by selling her desires
Buys herself bread and clothes: . . .
. . . as ’tis the strumpet’s plague
To beguile many, and be beguil’d by one.
(IV. i. 93−97)
7) M. R Ridley (ed.), Othello (New Arden Shakespeare), Londen, Methuen,
1965, p. 244 (Appendices).
68
このあと展開されるイアーゴーとキャシオーとの対話について重要なことは,
脇から盗み見るオセローにとって,それが黙劇のような効果をもっていること
であり,更に,その黙劇がイアーゴーの意図とは違って,ビアンカの登場によ
って彼女の退場まで実際上つづいていることである。このことからオセP一
は,イアーゴーの指図を離れて,もっぱら自らの想像力を働らかせて見ざるを
えない状況に直面することになる。そしてそのことによって,ここでオセロー
によって見られるものが彼のオブセッションの連鎖の中に組み込まれていくこ
とになるのである。
ときに,オセローが全くイアーゴーからの予備的解釈をもたずに見ることに
なる状況とは,ビアンカの予期せぬ登場で,彼女とキャシオーとの間でオセロ
ーがデズデモーナに与えたハンカチがやり取りされるというものである。ハン
カチがオセローにとってもつ意味は,すでに三幕四場において明らかにされて
いるように,彼とデズデモーナとの結婚の結びつきを象徴するものであった。
それが今,キャシオーと彼の馴染みの娼婦のビアンカとの間で取り扱われてい
るのを目撃するのである。だから,オセP一はここで自分とデズデモーナとの
結びつき(ハンカチ)が,キャシオーと彼の娼婦とのそれと同じ次元で扱われ
ていることを見ることになるのだ。オセP一がここで決定的なもの乏して悟る
のは,自分とデズデモーーナとの関係がキャシオーとビアソカとの関係に類する
ものであるということ,換言すれば,デズデモーナが娼婦ビアンカと同じなの
だということであり,それはデズデモーナの淫売性についての確認となってい
る。彼自身の言葉でいえば,それは,デズデモーナが“that cunning whore of
Venice, that married with Othello”だということの確認なのである。従って
五幕一場で,キャシオーが襲われたのを確かめた戯口P一が,“.,.strumpet, I
come;” iV. i.34)という台詞を吐いてデズデモーナ殺害に向う時,彼の頭に
あるのはその殺害がデズデモーナに対してというよりもむしろ,彼女の淫売性
に対して行われようとしているのだという意識である。
他方,シェイクスピアはこの場の前後においても,このライト・モティーフ
が順調に引きつがれていくように配慮している。前の部分では,オセP一から
イアーゴーとオセロー 69
ののしりの言葉を受けたデズデモーナが,エミリアやイアーゴーを前にして,
その言葉を事実上くり返している。
. . . Icannot say “whore”:
It does abhor me now 1 speak the word;
(IV. ii. 163−164)
またあとの部分では,キャシオーが刺された現場にビァンカをもう一度登場さ
せて,そこで彼女自身の口からだけでなく,エミリアやビアンカ自身にもわざ
と“strumpet”という語を連発させてそのイメー・ジをいやがうえにも印象づけ
ている。
Emil. Fie, fie upon thee, strumpet!
Bian. 1 arn no strumpet, . . .
(V. i. 120−121)
ここまでくればオゼローのオブセッショソの意味も明らかになってきたであろ
う。それは,オセP一がヴェニス社会の内への方向性をもっていたこと,裏返
せぽ,彼の異邦人性にそのかぎがある。つまり,月山ローのようなよそ者にと
って,ヴェニス社会において接することができ,進んで受け入れてくれる女と
いえば娼婦以外にはなかったのである。しかし皮肉にも彼女たちによる異邦人
たちの受け入れば,逆に受け入れられた者たちの異邦人性を証明するものであ
り,かれらにこの事実を突きつけ返す。これ故に,ヴェニス女の一般性を信じ
ることで,それがデズデモーナにも適応せざるをえない論理的帰結を見てとっ
たオセP一は,すなわち,彼女が他の男とも容易に交わる,“whore”と何ら
変りのない存在となる必然性を見てとったオセP一は,むしろそのことを積極
的に先取りしてイアーゴーに証明させ,それを基盤として,自らに異邦人性を
突きつけてきた“whore”的なるものへの復讐を試みようとしたのである。そ
70
してそれは自らの異邦人性そのものへの復讐行為でもあったわけである。この
意味では,デズデモーナ殺害はそうした試みの完成である。デズデモーナを殺
そうとするナセローが,ついに彼女の首をしめる時,オセローが二度口にする
のは彼女の個人名ではなく,一般化された“strumpet”という言葉であるとい
うことは意味深い。
ヴィラン
これがオセ・一がイアーゴーの劇を事実上引きつぎ,彼に悪党役をやらせる
ことによって行おうとした試みの全容である。ここで注意しておかなければな
らないことは,このオセ仏心の積極的動きもあくまで隠されたものにすぎない
ということである。デズデモーナが“whore”だというイアーゴーによってな
される証明も,表面では,彼女がキャシオーと関係したことの証明になってい
る。このレヴェルでは,オセローは単に二人の関係について疑いを深め,つい
にそれを確信するというものであって,殺害はその不義に対する制裁と見られ
るのである。つまり,オ八戸ーがやろうとしたことは,イアーゴーのはじめた
異邦人誘惑劇の枠組をそのまま維持して,そこへ新しい内容をもり込むことで
あった。あるいはこういつた方がよいかもしれない,オセローの引きついだ劇
アクション
の劇的行動は,彼にとっては二層において展開したのだと。そして観客がふつ
う見るのは,その上層なのであり,その下層として我々の辿ってきたオセロー
の前向きの動きが常に隠されていたことになる。
オセローの意図がデズデモーナ殺害で成就しているとはいえ,殺害は実際の
出来事であり,彼は現実の次元でそれに対応しなければならない。具体的に
は,デズデモーナ殺害の事実が公にされ,事の真相が追究されているが,そこ
ではオセローの態度に新たな変化が認められる。これに先立つ,殺害直後のエ
ミリアとの場面では,“whore“的なるものについてのオブセッションがまだ残
っている。オセローはエミリアにデズデモーナを殺した理由を次のようにのべ
ている。
$ke turn’d to folly, and she was a whore.
CV・ ii・ 133)
イアーゴーとオセロー 71
ここでオセローのオブセッション(“whore”)はキャシオーとの浮気への言及
(“folly”)と並置されているのがわかる。つまり,殺害直後にはオセローはま
だ上述した劇的行動の二層に等しく関わっていることになる。ところが真相が
追究されはじめるとこの平衡状態がこわされる。下膨ローは自らの前向きの試
みの事実には一切蓋をしてしまって,すべてがデズデモーナのキャシオーとの
不義に由来し,これまたみなイアーゴーが教えてくれたことによっているよう
に主張している。
’Tis pitiful, but yet lago knows
That she with Cassio hath the act of shame
A thousand times committed; . . .
(V. ii. 211−213)
更に,イアーゴーの嘘が公にされる時には,オセローはイァーゴーを“villain”
呼ばわりさえしている。
Are there no stones in heaven
But what serves for the thunder? Precious villain!
(V. ii. 235−236)
明らかにここで“villain”とは,オセローがデズデモーナの淫売性の証明を命
じた悪の登場人物としてのイアーゴーに対してではなく,すべてを支配する悪
の演出家としてのイアーゴーに対して用いられているのである。オセローぱ
“villain”という言葉の意味の内実を以前とは変えているのであり,そうするこ
とでかっての悪の演出家の位置にイアーゴーを引き上げているのである。この
ことはオセローがもう一度同じ語をイアーゴーに向って発しているところで一
層はっきりとなっている。
Lod. And here another; the one of them imports
72
The death of Cassio; to be undertook
By Roderigo.
Oth. O villain!
(V. ii. 311−314)
オセローがキャシオーの暗殺について書かれた手紙のことを聞かされてイアー
ゴーをののしっているのは,考えればおかしい。なぜなら,そのキャシオー殺
しをもともと命じたのはほかならぬオセローだったからである。ということ
は,彼はここでわざと,イアーゴーを指図される位置から指図する者の位置へ
と押し上げようとしていることになる。そしてその全体を統御する者としての
イアーゴーについて“villain”という語を使っているのである。逆にいうと,
血目ローは,自らをイアーゴーに操られた犠牲者の位置に低めているのであ
る。それではなぜ彼はこのようなことをしているのか。答えは簡単である。オ
セローは自分をイアーゴーという悪人にだまされた悲劇的な人物にしょうとし
ているのだ。それは,“Soft you, a word or two:...”(V・ii・339)ではじま
の
るオセローの最後の台詞について,T. S.エリオットが指摘した自己劇化,す
なわち,まわりの現実に対して自らを劇化しそうすることによって自己を哀れ
な人物にしょうとするくボヴァリスム〉のはじまりである。彼はこのようにす
ることで,周囲の減たちばかりでなく,異邦人性によって振りまわされてきた
自分自身をもだまそうとしているのである。
このように,イアーゴーとの位置関係の変化はオセローにとって意味をもつ
ものであった。しかしながら他方,イアーゴーにはその事実は一切認識されて
いない。彼はその意識においては,自分が上演を企てた劇のはじめから終始変
らず,出演者であると同時に全体を把握した演出家の位置を維持しつづけたの
だと信じているのである。引き立てられたイアーゴーに切りつけたオセローが
彼を“devil”に見立てている時,イアーゴーは自ら進んでそうであることを認
めている。
8) Cf. T. S. Eliot,“Shakespeare and the Stoicism of Seneca,”Selected E∬ays, London,
Faber and Faber,1932, pp.130−131.
イアーゴーとオセロー 73
0th. lf that thou be’st a devi1, 1 cannot kill thee.
(Wounds lago)
Iago. I bleed, sir, but not kill’d.
(V. ii. 288−289)
事の真相が公にされたところがら終りまでに,寒風ローの二度の使用を含め
てイアーゴーはまわりから七回“villain”と呼ばれている。このことに象徴さ
れるように,イアーゴーのはじめた劇は彼の意図した通りに成功裡に幕を閉じ
ようとしているように見える。けれども,それはあくまでみせかけにすぎな
い。高い階層の者たちから拒まれてきたイアーゴーは,かれらを拒み返すため
にひとつの劇一と演を企てた。それは自己を劇作家・演出家として位置づけ,現
実を支配し全体を把握しようという野心的な挑戦であった。そしてそこに彼は
自ら悪党としても出演したのである。全体と部分の両方で予定通りの役割を果
すことによって成功するかに見えた時に,彼はオセP一の積極的な試みに巻き
込まれることになった。オセP一によって彼は悪党役としてもつぼら部分に閉
じ込められたのである。しかしながら,イアーゴーはこの事実を知らなかっ
た。彼は,ついに自分は全体を把握し現実を支配することで終ええたのだと信
じたのである。ここにこそイアーゴーの悲劇がある。
オ心門ーはヴェニス社会にとってほんとうは異邦人にすぎなかった。しか
し,イアーゴーは彼をその社会の高い階層に属することになった者と見た。そ
して彼に復讐を試みた。けれども,イアーゴーは逆にオセP一にまんまと利用
されたのである。だが,そのオセローもやがてすべてを失って終る。オセP一
は自殺し,イアーゴーはまもなく罪の罰を受けることになり,そしてサイプラ
ス島の統治はキャシオーによって引きつがれるのである。結局のところ,ある
意味で同じように拒まれた者同志がお互いを潰し合っただけであった。rオセ
P一』とはそうした二人の拒まれた者たちについての劇なのである。
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