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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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ペトロニウス『サテュリコン』研究( Abstract_要旨 )
五之治, 昌比呂
Kyoto University (京都大学)
2000-11-24
https://doi.org/10.11501/3176358
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
author
Kyoto University
亡 6コ
ご
氏
名
の
じ
まき ひ
士
ろ
昌 比 呂
五_
之 治
学位(
専攻分野)
博
学 位 記 番 号
文
学位授与の 日付
平 成 12 年 11 月 24 日
学位授与の要件
学 位 規 則 第 4 条 第 1項 該 当
博
(
文
第
学)
1
6
5号
研 究 科 ・専 攻
学位 論文題 目
ペ トロニ ウス 『
サ テ ユ リコン』研 究
論文調査委員
助教授 高 橋 宏 幸
(
主 査)
論 、文
教 授 中 務 哲 郎
内
容
の
要
教 授 エ リザベス
クレイク
旨
本論文は,ローマ皇帝ネロの寵臣であったティ トゥス ・ペ トロニウスにより紀元後60年代前半に書かれたと考えられる小
説 『
サテユリコン』 を取 り上げる。 第 1章が序論 として,伝承状況か ら形式およびジャンル,さらに,主題 と作品全般の性
質など,作品自体 に内在する解釈困難な諸点に日を向け,これら
て見直 しなが ら
を指摘 したのち,第 2章から第 4章はこれらの問題点について批判的な解決を試みる。 第 5章の結論は前章 までの検討を整
サテユリコン』
理 したうえで,作者ペ トロニウスの創作意図をさぐる。 従来の研究の不十分 さと行 き過 ぎを是正 しつつ,『
という作品独 自の語 りの仕掛けをテキス トに即 して明 らかにすることが本論文の目的である。
『
サテユリコン』 を初めて読 んだ者は誰で も,これはいかなる作品か, どのような意図の もとに創作 されたのか,との疑
問を抱 く。 その原因の第- として,作品が断片で しか伝わっていないとい う事情があ り,このことが全体像の把握を困難に
している。 しか し,それと同時に,一方には,雑然 として掴み所のない物語展開がある。 すなわち,主人公エンコルビウス
と恋人ギ トンが繰 り広げる恋愛 と放浪 という主筋 自体が多様 な逸話 と場面 を含むことに加えて,主筋 と関連の薄い挿話,あ
るいは,登場人物の吟唱とい う形でかな り長い独立 した詩編が組み込 まれる。 他方,叙述の調子 も場面ごとに写実的と情緒
的,あるいは,卑張 と高遠 というように極端に変化する。
このような作品について,第 1章第 1節では,まず,主題やモチーフの面から何 らかの一貫性 を見出そうとした従来の研
究,すなわち,「プリアボスの怒 り」説 と 「
ギリシア小説のパ ロディー」説には無理があることを確認する。そのうえで,
作品の叙述面での特質∴っまり,小説全体が物語の主人公でもあるエンコルビウス隼よって一人称で語 られる点に着 日した
研究方法を検討する。 これは近年 さかんに行われているもので,語 り手が描 き出す事柄は虚像であ り,この虚像 を現実のご
とく語る主人公 を作者は冷ややかに提示 しているとして,そこに生 じるアイロニーに作品の特質を認めようとする。 しか し,
これは基本的方向として妥当 と考えられるものの,従来の研究では 3つの問題点が指摘で きる。 すなわち, 1.エンコルビ
′
.テキス トの具体的分析の不十分 さ, 3. アイロニカルな要素に関する行 き過 ぎた革み取
ウスの性格造形に関する誤解, 2
り,である。本論文はこれらの問題点 を正そうとするが, もっとも根本的な問題点は′
1であるので∴これについて引 き続 き
第 2節で検証 した。エンコルビウスは修辞学教育の影響を強 く受けた青年であ り,彼の語 りは自分の経験 を修辞学の訓練に
常套の仮想的場面になぞらえる。 そこから,現実を歪める叙述表現がなされる,というのが従来の説明であった。この 「
現
実を歪める」 という点は正 しい理解であるが,修辞学そのもの,あるいは,修辞弁論風の語 り男 自体 を最初か ら否定的に捉
えることには根拠がな く,主人公の妄想の琴因を修辞学に帰す畠ことには間鹿があることを示 した.
信用できない語 り
第 2章はエ ンコルビウスが 自分の経験 を仮想的場面 になぞ らえて語 ることを現代の小説理論 に言 う 「
手」 とい う用語 を使 って捉え,その具体的な現れをテキス 吊こ即 して観察 した。一人称の語 り手が自分の経験 を語る形式の
小説では,ある出来事 につ、
いて,これに対処する際の性向や認識能力によりミ 語 り手がその実像ではなく,虚像 を読者の前
-
22 -
に提示する, ということがある。 そのような語 り手が 「
信用で きない語 り手」であ り,この語 り手に対 して作者は批判的な
日を向けていると考えられる。 エンコルビウスの場合 には,彼の経験する現実の多 くはきわめて卑俗 なものであるが,彼が
そこに叙事詩や悲劇などの仮想的場面 を重ね合わせるとき,そうしたフィルターを通 して高遇であるかのような幻想が示 さ
れる。第 1節は以上 を確認 して,次節以下の観察の前操 を示 した.第 2節はエ ンコルビウ女か 「
信用できない語 り手」 とし
9
章 9節から8
0章 6節 を取 り上げた。このエンコルビウス,ギ トンにアスキュル トスを加えた
て現れる典型的場面 として,7
三角関係の場面で,
,エンコルビウスは自分 と恋人ギ トンとの関係 を高潔な道徳観 にもとづ くかのように思い込んで語ってい
る。が,それ と同時に,エンコルビウス自身はそれ とは気づかぬまま,恋敵 アスキュル トスの現実的な言葉 とギ トンの薄情
な行動 をもまた夢 っている。 そこに現実を歪めて語るエンコルビウス のフィルターを露わにする作者の仕掛けがあ り,語 ら
れる幻想 についてアイロニーの効果が認め られることをテキス トの詳細な分析 により指摘 したO第 3節は同様の仕掛けが認
章 1- 4節)
, 2.ギ トンとの再会場面 (
91
草 1- 9節)
, 3.
・キルケ と
められる他の場面 として, 1.ギ トンとの戯れ (11
の逸話 (1
2
6-1
3
2
章)
, 4.鷲鳥 との決闘場面 (
1
3
6
章 4- 7節)について検討 した。ギ トンに関するエンコルビウスのメロ
ドラマ的な幻想 に対 して, 1ではアスキュル トスの言葉 によって, 2では描写 に込め られた二重の語義によって冷めた現実
が露呈 されていることを示 した。 3で は,
,エンコルビウスがキルケを女神のように美化 した描写が常套的修辞法に従 ってい
ることを観察 したうえで,ヰ ルケの言葉や仕草 に込め られた暗示がキルケの虚像 を露わにしていることを指摘 した。また,
4で時,鷲鳥への復讐 という馬鹿馬鹿 しさが明白な出来事 にまで叙事詩的な幻想 を重ねた表現が行われることを観察 した。
第 3章 と療 4章は,アイロニカルな要素に関する行 き過 ぎた読み取 りとい う第 1章 に示 した従来の研究の問題点 を正すた
めに,修辞学その ものが場面の中心に現れる箇所 を検申 した。このうち,第 3章はエンコルビウスに関わる場面 を扱い,第
1節で現存作品の冒頭 に置 かれたエンコルビウスによる修辞学教育批判のスピーチを取 り上げた。従来の研究はこのスピー
チが額面 どお りに受け取れない という理解 に立ってお′
り,そのもっとも有力 と思われる論拠 は,エンコルビウスは仮想弁論
(
修辞学の訓練 において特定の状況 を想定 して行われる弁論)を批判 しているにもかかわらず 自身のスピーチが仮想弁論の
特徴 を備 えた語 り方 となっている, というものである。 これに対 し,このスどこチは仮想弁論 を踏 まえることが明示 されて
いる一方,その内容は雄弁の重要性 を強調 してお り,修辞学 自体ではな く,当世の修辞学教育に対する批判 を 「
共通の トポ
ス」 として小説の中に挿入 したものであることを論 じた。
続 く第 4章は主人公以外の人物に論及 した。第 1節はアガメムノンのスピーチについて,第 2節はエウモルブス登場場面
を取 り上げた。従来の研究においては,この二人の登場人物 も作者が批判的に創作 したもの とされ,彼 らが直接話法で語る
スピーチや挿話は馬鹿げたも/
のであると解釈 され七 きたが,い くつかの点か らこの解釈は誤 っていることを指摘 したOそ し
て,アガメム ノンのスピーチは,、
文体 こそ修辞学教師に似つかわしい ものであるが,その内容は正当なものであること,エ
ウモルブスによるスピーチ,挿話,長詩は, どれも出来映えの悪い ものではな く,作者が 自分の趣味に合った小品 として小
説中に挿入 したものであることを示 し声0
第 5章は前章 までの議論 を総括 したうえで,ペ トロニウスの創作意図に考及 した。 まず,作者の主たる目的はあ くまで も
散文による冒険の物語 右書 くことにあ り,これを 「
ギリシア小説」 とは異なる作品に仕上げるためにさまざまな独 自の要素
を数多 く盛 り込んで創件 を行 った, という見通 しを示 し,そこから,注 目すべ き三つ.
の要素に触れた.第-に,作者はギリ
シア小説のパロディーを意図 した場面 を小説全体 に散 りばめた可能性があるが,現存するテキス トの量が限 られていること,
および,伸のジャンルとの共通性 も考慮七 で慎重である必要がある, と判断 した。第二に,修辞弁論的な直接話法 について,
このようなスピーチは,作者が一種の 「
遊び」 として修帝弁論風 に仕立てたものであ り,
・従来解釈 されているような,話者
のキャラクタ一
一 を浮 き廃 りにするためのものではないことを指摘 した。第三に,作品中に多数見 られる人物の外貌の リアリ
スティックな描写に目を向け,こうした描写は措かれる人物の内面的性向を照 らし出すことを意図 したものであ り,そのよ
うな手法は古典文学の中では特筆すべ きものであることを嘩摘 した。これ らに加え,第 2章で明らかにした,主人公の語 る
虚像 を暴露する物語技法上の仕掛けが 『
サチエ、
リコン』 とい う小説の独 自の特色であ ることをあらためて述べ,論の結びと
した。
- 2
3-
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
「
趣味の審判」 としてローマ皇帝 ネロに優雅 な技芸 に関する助言 を行 ったペ トロニウスの作 と考 えられる小説 『
サテユリ
コン』は,時代の欄熟 を生々 しく映 し出 した点でラテン文学の中に異彩 を放 つ
。
写本 に示 される題名は 「
サテエロス的な物
語」 を合意する一方,サ トウラ,すなわち,風刺 を基調 として雑多
\な要素 を盛 り込んだ文学ジャンんを想起 させるO そこか
ら,サテユロスの ように放縦 な登場人物たちの繰 り広げるさまざまな挿話が風刺や批判の対象 としているのは何か, という、
問いか ら出発 して作者の創作意図をさぐることがこれまでつねに作 品研究の中心 をな して きた。近年では,当時の世相,あ
るいは,.
実在の人物とその行動 と密接 に結びつける,やや素朴 な見方は顧み られることが少な くな り,他の関連する文学ジ
ャンルとの関わ り, さらに,叙述の技法や文体 に論及する, より文学的な理解が進め られてきた。なかで も,現存作品が断
片であること,比較すべ き他の作品が きわめて少ないこと, さらに,構成 と叙述の雑然 とした性質など,作品になんらかの
統一性 を見出すことが困難 な状況 において,全体 に一貫 した唯一の要素,すなわち,物語の語 り手 に注 目した研究が盛んに
なって きたことは当然 とも言 えや。 『
サテユリコン』 は主人公エ ンコル ビウスが一人称で語 る形式 を取 る。 性的倒錯者で盗
癖がある一方,文学 を偏愛す る主人公が彼の体験 した出来事 を語る とき,そこには しば しば歪みが生 じてお り,その歪みの
表現の狙いと効果 について問われる。 本論文は基本的にこの研究方向に沿っている。 その うえで,論者はまず 「
信用できな
い語 り手」 とい う現代の小説理論 を援用 した独 自の着眼か ら考究 し,主人公の語 りに虚像 を織 り込みなが ら,同時にこれを
露呈 させる作者の仕掛 けをテキス トに即 して観察 し,その効果 を明 らかにした。ついで,主人公の語 りについて修辞学教育
の影響 を過大視する従来の研究 に反論 して批判的な指摘 を加 え,その是正 を試みた。最後 に,以上の議論 を踏 まえて作品全
体の意図に論及 した。その間遭意識 と解決のための議論は全般 に穏当で着実であ りなが ら,
-解釈 に新たな視点をも提起 して,
作品について深い理解 を示 したことは評価 に値する。
論者は,第 5章 に示す ように,作者が書 こうとしたのはまず第- に散文による冒険物語であ り,盛 り込 まれた多様な要素
はこの基幹 に加 えられた 「
遊 び」,つま り,読者 を楽 しませるための肉付けである, とい う,ある意味で素朴 な立場 に立 っ
ている。 しか し, この論者の見方は本論文が 「
信用で きない語 り手」 という現代の小説理論 を論究の出発点 としたことと適
切 なバ ランスをとっている。 とい うの も,それは主人公の語 りに修辞学の及ぼ した害毒 を重視する立場, さらに,そこに作
者 による文学論の表明 まで見 ようとする立場など,テキス トか ら離れた理解や理論 に走 りす ぎた解釈 に対するアンチテーゼ
をな しているか らである。
第 3章,第 4章はこの是正 を意図 した観点か らの議論である。 やや反駁 にこだわった気味があるが,修辞学が挿話の中心
的素材 をなしている箇所 に焦点 を当て,修辞学 自体,あるいは,挿入 される独立 した辞桶そのものに批判の 目が向けられて
いないことを示 した。
.この論証では,修辞学教育 において行 われた 「
予備演習」や訓練項 目としての 「
共通の トポス」, ま
た,常套的に用い られた 「
格言的言い回 し」 など,教育の具体的な要素に論及 して説得性 を高めた。 と同時に,セネカの悲
劇やルカヌスの叙事詩めパ ロデ ィーと見 られることの多い挿入詩編 について,それ自体 として楽 しむ方向を示唆 したことに
は意義が認め られる。
本論文の主眼 となる議論 は第 2章である。 「
信用で きない語 り手」 であるエ ンコルビウスのフィルターを通 して 「
卑俗 な
現実」 ない し 「
冷めた現実」が どのように 「
叙事詩的 ・悲劇的な大 げさなどジ ョン」 として措かれているか,エンコルビウ
,
スの語 りの性質 とそこに施 された作者の工夫 について観察 した.取 り上げたそれぞれの場面 につ示 てテキス トの精密な分析
と解釈がなされているが,なかで も,キルケの姿の描写場面 についての考察では,文学上の常套が,一方で彼女を女神のよ
うに描 き出 しなが ら,同時に現実 を露呈 させることにも与 り,その両面で機能 していることを指摘 したことが評価 される。
このことを論者は,キルケの虚像 を出現 させる常套的描写パ ターンを丹念 に跡づけたのち,その裏で,常套的なモチーフや
語句の使用が彼女の実像 を垣間見 させ.
ている仕掛 けを検討することにより,論証 してみせた。
本論文 には,結論のあとに今後の課題 というより,む しろ,解釈の立場の表明のような記述が見 られるなど,全体の論甲
構成 にややちぐは ぐなところがある。 また,風刺詩や仮想弁論 といったローマ的色彩 に重 きを置かなかったことか ら;では,
ラテン文学 としての 『
サテユリコン』 の特色 は何か, という質問が調査委員か らなされた○ウェルギ リウス_
などでも登場人
物の抱 く幻想が物語展 開に重要な働 きを担 ってい草ことが指摘 されている一方,恋愛エ レダイア詩人たちはいわゆる 「
主観
- 2
4-
的文体」 により自分.
の恋 をさまざまな トポスの中において表現 した。 このようなことが 『
サテユリコン』に受 け継がれてい
るのかは次の大 きな課題であろうQ しか し, このような問題 を提起 していることは,それ 自体,本論文が作品理解 に適切 な
スタンスをとっていることの証左であると言 える
。
・
、
以上,審査 した ところにより,本論文は博士 (
文学)の学位論文 として価値 あるもの と認め られる。 平成 1
2
年1
0月 4日,
調査委員 3名が試験 を行 った結果,合格 と認めた。
- 2
5-
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