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環境科学
笑気の沙汰
● 環境科学
だけであった。しかし、この物質は環境的には大変重要な物
笑わせるわけではない、笑気ガスの正体
質なのである。
筆者がカナダのカルガリ大学で博士研究員をしていたとき
世の中に歯科医院に行くのが好きな人はめったにいないと
のボスが、超音速旅客機のオゾン層への影響の研究で有名な
は思うが、その原因は恐らく歯を治療してもらうときの痛さ
ジョンストンの弟子にあたる人で、その研究室でフロン代替
であろう。現在は麻酔技術も進歩し、あまり痛い思いをしな
物をテーマにした研究を始めることになった。そして、いず
くても済むようになってはきたが、それでも恐怖のために嘔
れ書くことになる論文に使えそうな、オゾン層についての文
吐反射が酷くて治療にならない患者もいるという。そのよう
献を物色していたときに N 2 Oと再会した。不勉強でそれまで
な患者には、痛みへの恐怖心を和らげ、不安を取り去るため
全く知らなかったのであるが、この物質は対流圏ではきわめ
に、笑気(Laughing Gas)と酸素の混合気体を使用する笑気
て安定で、成層圏に到着すると酸素原子と反応してNOに変わ
麻酔が施されている。
る。このNOがO 3 の分解反応を触媒するので、N 2 Oはオゾン
笑気の正式名は一酸化二窒素(慣用名:亜酸化窒素、N 2 O)
層破壊物質なのである。大気中のN 2 Oの濃度は19世紀後半か
で、1772年にプリーストリーが発見した。この気体を吸入す
ら急速に増加しているので、本来は規制の対象になるはずで
ると軽く酔ったような感じになることから、眉唾な話ではあ
あるが、当時は人工化学物質であるクロロフルオロカーボン
るが、パーティなどを盛り上げるために使用されていたそう
類がオゾンホールの犯人扱いされていたために大して注目も
で、映画「リーサルウェポン4」には笑気パーティのシーン
されずにいた。
があるという。1795年にはデービーがこの物質に麻酔効果が
この窒素酸化物が環境問題の主役として登場してきたのが
あることを発見した。今ではどこの歯科医院にも笑気入りの
地球の温暖化についての議論の場である。今の日本では温暖
黒色のガスシリンダーが、あまり患者の目につかない所に置
化といえば、CO2 がやり玉に挙げられるが、京都議定書では規
いてある。ちなみに、N 2 Oが笑気と呼ばれるのは、吸入した
制の対象となる3種の非人工化学物質の一つとして、N 2 Oが
ときに笑いたくなるような愉快な気分になるからではなく、
CO 2 と並んで挙げられている。一酸化二窒素の温暖化指数は
麻酔効果によってひきつった顔が笑っているように見えるか
310とかなり大きく、少量でも温暖化を加速させる非常に危険
らだそうである。
な物質なのである。
「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)
」の最新の報告
人為起源の危険物質N2O
書(2007)には、
〔1〕2005年のN 2 Oの大気中濃度は319ppb
で、産業革命前と比べると18%ほど高く、
〔2〕過去数10年間
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一酸化二窒素は大気汚染の元凶である窒素酸化物の仲間で
の増加率は0.8ppb/年でほぼ一定で、
〔3〕現在のN 2 O 排出
あるが、化学の世界ではあまり目立たない存在で、以前は高
量の約40%が人為起源で、農業と牧畜、廃棄物処理が主要な
校化学の教科書の「倍数比例の法則」の説明で一度出てくる
放出源であると記されている。
世
界
を
解
【環境科学】
く
笑う
社会学研究科教授
御代川貴久夫
Kikuo Miyokawa
窒素は植物の生育には欠かせない元素である。植物に必要
は全体の約2.2%と大変小さく、しかも年々減少している。食
な窒素分は、マメ科植物に寄生して空気中の窒素を固定する
糧の大半を海外に依存している日本では、農業に関連する温
バクテリアなどによって供給される。またいったん動植物に
室効果ガスの問題を気にしなくても済むのである。しかし、
取り込まれた窒素分は、動植物が死んだときに好気性の硝化
OECD加盟の先進国で農業が主要な産業である国では全く
細菌によって亜硝酸塩や硝酸塩に変化し、これらの塩は嫌気
状況が異なる。たとえば、オーストラリア(2006)とニュージ
性の脱窒菌によってN 2 OやN 2 に変化する。すなわち、窒素は
ーランド(2005)の最新の温室効果ガス放出インベントリー
バクテリアを媒介にして大気と生物の間を循環しているので
では、農業部門からの温室効果ガスの排出量はそれぞれ全体
ある。このような窒素サイクルによって植物の摂取できる窒
の16%および48.5%を占め、基準年(1990)と比べるとほぼ
素分には一定の制限があるために、窒素の固定量が事実上、
横ばいか、10%以上も増加していると報告されている。この
人口の制限要因の一つであった時代が長く続いていた。この
ままでは温室効果ガスの排出量を減らすには飼育するウシや
制約を取り外し、人口増加への道を切り開いたのが、1840年
ヒツジの頭数を減らす以外に方法がないということになる。
のリービッヒの植物の成長理論と1914年のハーバーとボッシ
事実、食糧農業機関の統計によれば、牛肉・羊肉の生産量は
ュによるアンモニア合成法の開発である。この方法の開発に
温室効果ガスの削減義務のある先進国ではすでに減少し始め
よって植物の生育に必要な窒素肥料が必要なだけ入手できる
ているという。
ことになり、20世紀後半の人口爆発が可能になったのである。
漁業は牧畜と比べると温室効果ガスの排出量が小さく、動
現在の人口を支えるのに必要な食糧を生産するには、窒素肥
物性たんぱく質の供給源として、牧畜の理想的なオルタナテ
料の使用は避けられないために、土壌からの温室効果ガスの
ィブであり、漁獲高も年々増加する傾向にある。ただし、海
排出削減にはどうしても限界がある1)。
面漁業は長年の乱獲が祟って年々漁獲高が減少しており、養
一方、動物性たんぱく質の供給源である牧畜では、家畜の
殖漁業による漁獲高の増加分が、海面漁業の減少分を補てん
排せつ物の硝化・脱窒によって、かなりの量のN 2 Oが大気中
する形になっている。しかも、養殖漁業は、漁獲高の90%近
に放出される2)。ただし、牧畜では、消化管内発酵でCH 4を
くを中国が占めており、今後の拡大の余地はきわめて大きい。
多量に放出するウシやヒツジといった反芻動物が厄介な存在
現在の養殖漁業が環境的に健全な形で行われているとは言い
となっている。
難いが、発展途上国における動物性たんぱく質の需要に応え
るためには、牧畜業を拡大するのではなく、持続可能で生態
ウシのゲップが温暖化を加速
学的に健全な方法に基づく、漁業資源を活用する仕組みを作
りだしていく必要がある。
ウシやヒツジの家畜化は先土器新石器時代に中東地方で始ま
アースポリシー研究所のレスター・ブラウンは近著『プラ
ったとされているが、家畜化が可能になった最大の理由は反芻
ンB3.0』で、養殖漁業の問題点を指摘した後に、インドと中
動物とヒトは食糧が競合しないことである。ヒトのもつ消化酵
国で行われている粗飼料を用いたウシの飼育を優れた方法と
素では、β−グルコシド結合を切断できないために、我々は草
して紹介している。その意図は判然とはしないが、彼のよう
や木の主要な成分の一つであるセルロースを栄養とすることは
な著名な環境問題の専門家が温暖化への影響が大きい牧畜を
できない。一方、反芻動物はセルロースの消化酵素はもたない
奨励するなどとは、とても「正気の沙汰」とは思えない。
が、反芻によって細かく砕かれた繊維分(セルロース)が、胃
の中の共生細菌などによってブドウ糖へと分解される。最近で
は、穀類や骨粉を食べたり、ビールを飲んだりするウシもいる
1)日本の温室効果ガス放出インベントリー(2006)では、水稲とお
ことはいるが、食糧という面では反芻動物は人類にとってまこ
茶を除く一般の作物では肥料中の窒素分1kgから6.2 gのN 2 Oが
とに都合の良い存在なのである。ところが繊維分が分解される
過程で多量の C H 4 が発生するために3)、文字通り、ウシの
「げっぷ」によって温暖化が加速されることになる。
日本では、農業部門 4)からの温室効果ガスの排出量(2006)
発生するとされている。
2)家畜一頭から平均で約120g/年のN 2 Oが排出される。
3)I PCCのガイドラインによれば、羊および水牛一頭からのCH 4 排
出量はそれぞれ4.1および55kg/年である。
4)IPCCのガイドラインでは牧畜は農業分野に含まれている。
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