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第3号

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第3号
p可
q野心
激半半半半辛辛韮半半韮辛辛半半韮辛辛辛辛半半韮韮半半*韮半半*韮*坐坐*韮半半半半半半辛辛辛辛半半際
滞
粥
器
ぐるま
みず
器
終
;(財)新松戸郷土資料館館報第3号;
熱末末末末末末末末未恭末末末末末末兼木末未未未恭末末恭黍兼末末末末末末末末恭恭末末末末末末末末末末辰
戸弓、
卿r|雪
ごI柵二一
、幽一雫一
⋮坐
■ ■ 幸 屯
一
皿、
一
一
『ー‐
蹴織
もくじ
財団法人新松戸郷土資料館
◇八木乃橋………………・………・……・……・
◇江戸川と坂川…………・…・…・……………≦
◇坂川の源流…………・………………・……。こ
◇河川工事の始まり・江戸時代の河川工事
河川行政と河川の推移……..…・…4.と
◇坂川の橋の名称……………………………‐
◇江戸川・坂川の洪水と治水年表・水利権…・そ
◇余録・下谷の年中行事と農事暦
新松戸の野鳥……・…………・…………・
◇民具シリーズ「泥さらい」・日誌抄・…・・…皇
〒270千葉県松戸市新松戸3−27
新松戸市民センター(三階)
電話0473−44−1909
発行年月日昭和63年1月末日
−1一
地一帯は水害の絶えることがありま
によって排水が極度に阻害され、低
このような深い水田には、客土とい
杭を立てて境界線とするほどでした。
下谷の人々の食生活にとって貴重な
の宝庫でした。ここで採れた小魚は
今から二十数年前までの坂川は小魚
様子力らはとても想像できません力
蛋白源となりました。
って川ざらいをした土を入れ、少し
した。また、川ざらいをした土は泥
でも地盤を高くする努力がなされま
江戸川沿いにあるこの下谷地区は
肥として肥料に利用しました。胸ま
せんでした。
稲作を中心とした農業生産地域でし
でつかるほどのこうした深い田の農
どろ
た。しかしこの江戸川左岸地域は一
作業には必ず田舟が使われました。
水期におこなわれた泥さらいは、下
坂川にくらべると江戸川では本格
年中田の土が見えることがないほど
毎年二月下旬から三月にかけての渇
ではないほど近年まで悩まされつづ
一つでした。坂川本流の泥さらいに
谷の農家にとつ.て重要な年中行事の
ごえ
の戦いに明けくれたといっても過言
水はけの悪い所でした。まさに水と
期にかけて﹁下谷三千石﹂と呼ばれ
から網の目のように用排水路が堀ら
けました。低地の集落の中には古く
江戸川左岸地帯に明治カム昭和初
上質の濡米がとれた一大美田地帯で
ついては、関係各町村の耕作面種・所
的な漁業力行われていました一戦前
れ、田舟は農作業に欠くことのでき
決っており、村々をあげていっせい
有面穣・戸数などに応じて持ち場が
江戸時代から延々と続いてきた江
した。
できた耕地地図には﹁舟付場﹂とい
ない重要な農具でした。明治後期に
戸川左岸地帯の水との戦いは、明治
まではアユ、エビ、ボラ等が沢山採
戸時代以来水害の止む時がなく、そ
附近︶、松戸市小金大谷︵現在の西
山巳ノ起︵現在の南流山小、中学校
特に水はけの悪かった地域は、流
たって被害を及ぼしつづけましたが
坂川は下谷に住む人々に長年にわ
ていました。
まったくの手作業で泥さらいを行っ
ョレン・ウッル・スキなどを用い、
まではドロハライ・ヘドロカキ・ジ
昭和四十年代に機械が導入される
たり、下谷の子供達には恰好の遊び
した。この川で泳いだり、魚を採っ
常生活と深いかかわりを持っていま
消してしまいました。
どで水が汚染されこれらの魚も姿を
れたそうですが、戦後は工場排水な
う小字名が記録されており、いかに
れにつらなる江戸川の堤防は出水の
パーク附近、松戸市小金北割︵中央
一方では人々に恵みを与える川でも
戸川、坂川の洪水はほとんど毎年の
たびに決壊し、沿岸低湿地に水田を
公園附近︶、小金三反割︵新松戸南
ありました。
みの睡宮
かが分ります。
所有する村々の被害は大きく、明治
小から南中附近︶、松戸市伝兵衛新
る春には見事でした。トネリコは成
水とのかかわりが深い地域であった
期だけでも二十数回にも及ぶ被害を
田蓮田︵馬橋旭大橋附近︶、松戸市
農業で生計を立てていたのですが、
全国最大の河川である利根川は江
受けています。下谷地区のほぼ中央
稗田耕地、伝兵衛新田義呂︵日大歯
中には半農半漁でくらす家も何軒か
ぎんたんわり
ざろ
うまぬき
られており、これらの木が花をつけ
トネリコ、桜、花桃などの木が植え
場所でした。坂川の堤には榛の木、
は洗濯をしたり、野菜を洗ったり日
水のきれいだった頃の坂川で人々
を流れる坂川の治水は、江戸時代か
科附近︶、松戸市古ヶ崎午発︵松戸
長の早い木で、燃料の少い下谷では
きたわり
らの人々の最大の悲願でした。坂川
農協栄町支店附近︶、松戸市菖蒲沼
ありました。都市化が進んだ現在の
坂川沿岸の人々はそのほとんどが
は江戸川との合流点での落差がほと
︵馬橋高校附近︶などで畦などなく
一
,レト今具J恥や
んどなく、降雨による江戸川のわず
ようにくり返されてきました。
に行いました。
期に入ってもとどまることなく、江
鯨
一
かな水位の上昇や、台地からの出水
一
−2−
三 ■ 亨 一
江
ワラ、籾と共に重宝がられました。
らやっと川らしい体裁になります。
の遊水池を経て、⑤松戸市東平賀か
④松戸市根木内流山市前一・崎城山
一帯は昔の水田の面影もなく、総合
水が人工池へ注がれています。この
側百メートルの所にあり、自然の湧
︵野々下︶に県立流・山青年の家の牝
水は上流の一部の野川に原因の一端
時点で考えられることに坂Ⅱの汚
もみ
榛の木は湿地帯に育つ木で、高さが
この東平賀へは久保平賀、きよしが
はん
七、八米にもなり、この木に棒を渡
丘からの野川が流れ込み、地図上に
ています。しかし公園はまだ湿地帯
いため、野鳥の楽園でもあります。
も富士川として記載される地点です。
富士川の源の各々の遊水池は、柏、
公園の一隅に湧水が出ているが、こ
掛けるのはとても便利でした。
こうした下谷の風景も水の汚染が
その三市の管理下に置かれています。
流山、松戸の三市にまたがっていて
辛とんぼ等もいて、今年は蛍も見か
近の方の話によると、どじょう、塩
しさがあるのか少々荒れ、遊水池附
その為にかえって管理面でのむずか
木への流れとなり、地図上には野川
ぎこみ、この池から又、次の②古間
て、この湧水が園内の人工池へと注
もう一つの源はすでに枯れ果ててい
の水の源は埋立ててありわからない。
れによって成り立っています。そし
流れと、西の源流の野々下からの流
坂鵬は東の源流の大清水からの
だった跡をとどめて、周囲に緑が多
て見られなくなりました。
目立ちはじめる昭和四十年を境とし
けたとのこと、適切な管理がされれ
として書き込まれていますが、野々
て下流は、柳原桶門までですが、
ど③野々下の団地坂下の辺りであり、
としての型が整い始めます。ちょう
坂川に架かる橋は︵図参照︶①か
︵赤肌桶門︶までとします。
坂川 の
ばもっと自然がもどるかもしれませ
で三、四本の川が合流してやっと川
下、長崎へと流れが整い、この辺り
坂川の支流は今でも水がきれいで
ら③までの間の橋は、架け替え中の
今回取り上げる坂川は、堂の口橋
いう建物の前の水深はかなりありこ
新松戸を横ぎり江戸川へとつなが
ここは寓士見橋から富士川まで二百
から②までの根木内橋から八木南橘
す。坂川へ注いでいる支流は多岐に
川となります。④豊四季、松ヶ丘、
までの間は、名前の無い小さな橋が
っている坂川は、東山、酒井根、横
名都借を通り坂川へ入る川には家庭
3橋あり、⑦から⑧までの北千葉導
ものも含めて現在釣橋あります。◇
用雑排水が流れこみ、ひどく汚れて
水路︵坂川放水路︶には7橋が架け
メートルくらいあり、これからが坂
いて、この合流地点から特に汚れが
られています。
の家庭用排水のためであり、現在の
かったが、それも同様に平賀川から
賀川とが合流する地点も汚れがひど
大清水から②の合流地点までが約
合流地点までが約2205m、◇の
坂川の長さは①の野々下から②の
、
ひどく上図の⑤附近の上富士川と平
わかれて、源流①前平井、後平井
こには錦鯉がたくさんいます。
ん。⑤の地点のちょうど東葛建装と
があるようです。
で運んできた稲を土手にある稲架に
して稲架にしたのです。水路を田舟
運動公園等、公共施設が多く作られ
−
作、南増尾、小新山、新林、金ヶ作
木戸前、栗ヶ沢新田からの湧水が源
となっています。
坂川の東の源である柏市酒井根の
①大清水は、現在宅地造成の只中に
あり、小高い丘に囲まれた窪地には
一握の木が茂り、坂川の源である湧
水がわずかに出ている気配で、②柏
市東山の遊水池、③広池学園附近、
−3一
Fー‐
mとなっています。新松戸の区画整
崎橋までの縦六間川は、約2880
までが約390m、⑤から⑥の古ヶ
地から、⑤西栄町311112番地
横六間川の④西栄町3 1 1 1 2 3 番
ら③の赤肌桶門までは約8925m、
坂川の流れとなります。②の地点か
3180mあり、ここからが一本の
はその堤防を越流させて、堤防際に
低い堤防で防ぎました。大洪水の時
洪水は自然堤防や、部分的に築いた
があります。﹁関東流﹂では普通の
連続堤︵霞堤︶を設けることに特微
流河川に用いられ、雁行形をなす不
てつくられました。﹁甲州流﹂は急
川技術である﹁甲州流﹂をもとにし
ました。﹁関東流﹂は武田信玄の河
っ乞い”圃一匪味南蛮加﹂し一い、7斗抑鐸鰯に卜ふり〃
旗本領に対して行った工事のことで
は幕府が幕府領、藩が藩領、旗本が
するというものでした。﹁領主普請﹂
名領、旗本領、寺社領は国役普請に
ければなりませんが、それ以下の大
の大名は、今まで通り自力普請しな
ました嶋一匡役普誰﹂二十万石以上
々と鉄道網が整備されるにともなっ
しました。明治二十年代後半から次
よって舟運の重要性が相対的に低下
況も大きく変化して、鉄道の発達に
ました。その頃から社会経済的な状
たちは治水事業の促進を強く要望し
桜α一布匡議会ても地方淵蛍身の議員
必要がなくなっていきました。
明治の初めから同七年頃まで河川
として、本格的な河川改修の基盤が
家財政の拡大という社会情勢を背景
明治二十七年の日清戦争による国
事業の機構は、何回か変化がありま
日に公布されました。それによって、
整い治水三法が明治二十九年四月八
河川行政と河川の推移
て、舟運の地位が下がり低水工事の
理後、昭和師年5月に完成した北千葉
設けた遊水池に滞溜させ、それをさ
す。
ら⑨圭水機場までが約1500m弱あ
らに内側に設けた控え堤で防ぐ方法
れる昭和二十二年十二月三十一日ま
したが、それ以後は内務省が廃止さ
こと、行政組織も不完全だったこと
するには国家財政基盤が貧弱だった
摘をしています。またその後の﹁日
がり最適な対策となる﹂と重要な指
−4−
導水路︵坂川放水路︶は⑦の関の橋か
ります。この北千葉導水路が江戸川へ
続いた伊奈家も、寛政四年︵一七九
をとりました。しかしこの二百年間
旧幕時代から関係が深かったオラン
そそぐ地点の中洲あたりは、初冬から
での七十四年間にわたって、行政を
早春まで毎年水鳥の宝庫となります。
二︶閏三月、お家の内紛によって関
ダの技師を招聴し、技術の導入を図
りました。明治五年四月に来日した
の江戸川は、流水の疏通と川岸の保
明治二十九年に河川法が制定され
取り扱いました。
た。
謹のためには河道を直線化すればよ
ファン・ドールンは﹁治水総論﹂を
轄事業として実施していました.
いが、それには極めて多額の費用が
るまで、河川に関する法律は未整理
東郡代を罷免され、廃絶となりまし
江戸時代の河川工事
洪水防御を目的とした高水工事は地
かかる。そこで水釧を設置して水衝
して﹁大きく湾曲している松戸地先
幕藩領主が行った﹁普請﹂と農民が
方が行っていました。理由としては、
著したその中に河川工学の具体例と
自分たちで資材や人足を負担して行
全国的な運輸交通路として河川航路
のままで、国は主として舟運の便を
った﹁自普請﹂に大別できます。私
図ることを目的とした低水工事を直
達の町を流れる坂川は﹁自普請﹂に
部を守れば費用も安いし、効果も上
江戸時代の河川工事︵川普請︶は
河川工事の始まりは、慶長八年に
が重要だったこと、高水工事を実施
一沢四川工一馨α叩配まり
幕府を開いた徳川家康 の 分 身 万 能 代
よって出来ました。
普請には﹁公儀普請﹂幕府自らの
みずはね
官である伊奈熊蔵忠次︵備前守︶に
支出で行うもの。﹁大名手伝普請﹂
年間にもわたって伊奈家は治水や、
よってはじまりました。その後二百
利根川の約半分で、しかも勾配は利
本治水の説﹂では、江戸川の流路は
幕府が特定の大名に工事費用を負担
明治二十二年大日本帝国憲法発布
等があげられます。
潅概工事を行いました。幕府におけ
させるもので、一部は幕府が負担し
何
る河川技術はもっぱら﹁伊奈流﹂あ
『
した方がよいと述べ、そのための具
根脆より急なので洪水に江戸鵬へ流
ました。
河川法を再検討する必要力生じてき
昭和三十九年七月に河川法が全面
されました。その後、その改修改訂
的に改正され、新河川法として公布
明治八年六月十六日千葉県葛飾郡
な開発をしたため高い安全性や、水
が、首都圏域となった流域は飛躍的
竣工年月
坂川の橘の名称
●
●
体的な工事の方法を記しています。
川の堀江の水位零点を基準とするよ
松戸駅地先の江戸川で試験的粗柔工
資源の開発など新しい問題が発生し
一
一
利根川水系の計画や、工事には江戸
︵水制工三本、謹岸工一ヶ所︶の工
ました。各種検討した結果、昭和五
計画によって工事が進められました
事が試験的に施工されました。利根
十五年十二月十九日河川審議会を経
定言
、7になりました。
川水系における最初の政府直轄の河
改訂されました。
て、利根川水系工事実施基本計画が
明治二十年頃からは、ムルデルの
川工事でした。
改修計画にもとずいて河川工事が進
一顧:通、診棚
栄僑
竹の橋
中の橘
拾六町栃
三角橋
松栄橘
弁天橘
合川橋
根本橋
水堰橋
松の木橋
|平揃
坪︽]一一一幸︾P富I叫一︾一一唖牽
赤入砿
−5一
改築予徒
4 5 6 3 3 5 7 8 8 8 1 0 3 3 7 1 1 1 1 T 3 - 7 - 3 2
●
■
●
●
●
■
●
■
Q
●
●
められましたが、相次ぐ大きな洪水
に見舞われ、工事は完成していませ
んでしたが、次第に高水工事を中心
にした河川工事の着手となり、明治
水篭斐嬰算道切
橘 橘 橘 橋 僑 橋 橘
三十三年から新たな計画にもとずく
主 主 主 神 稲 仲 金
2 5 3 7 3 3 1 2 3 3 6 5 6 4 5 5
11110101031
33363257381045605558605958605i
55565656535455
高水工事へと引き継がれていくこと
になりました。
明治二十九年に制定された河川法
は、制定当時の社会経済情勢を反映
して治水に重点が置かれ、利水につ
いては充分な制度が用意されていま
せんでした。戦前においても改正の
〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 詔
〃 〃 〃 〃 〃
全
ハ
号
橘
道
橋
橘
◆
■
。
●
■
●
●
●
必要性が指摘されていましたが、戦
後新憲法が制定され、国の行政は大
きく変わりました。それにともない
58605956605859505050625559596060636362〃〃〃〃不曾
一
F一‐
荷W川津協川谷のW向向W蝋冊慮零冊号弥甜覧蒋崎甜
橘 栃 栃 僑 大 橋 橋 橋 怖 棚 砿 砺 闘 歩 橘 橋 橋 橘 砺 関 儒 橘 橘 棚
橋
明に
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●
●
●
●
●
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●
、
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●
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■
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●
●
●
●
建
設
た
が
昭
和
〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃
稲 上 清 長 馬 坂 幸 間 羅 差 I l l 横 新 新 鰭 大 新 四 八 思 富 八 長 椛
F一‐
江戸川・坂川の洪水と治水年表
事項
口寸〆口罰封呼川跨言四脚﹄Ⅷ]|匡〃い〃純靭﹀鯛Ⅳ形理科し埠曜君︾
洪水
洪水
坂川普通水利組合の設立
松戸町下矢切地先の柳原棚門改築
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃鴇〃f〃〃〃〃〃〃〃:
1 2 4 8 9 7 9 6 1 0 1 0 1 0 9 1 0 8 1 0 1 9 8 7
松戸市新松戸中央土地区画整理組合設立認可申請
豪雨で下谷地区浸水
新松戸地区上下水道使用開始
農業用水合理化事業に着手
台風二十四号による新松戸地区浸水
北千葉導水路新松戸排水機場の完成
独占排他的に継続して、公水、殊に
域間の住民、耕地や森林の所有者が
を妨害することによって成立する犯
提防決淡、水門破壊、その他水利
●水利防害罪
地、または家屋に対して課する地方税。
洪水・権現堂堤防決壊
河川の水を引用し又は、水面を利用
した公法人。水利組合と水害予防組
罪。
できる権利。
発電用水利権・水道用水利権・通
・用水権
航権・潅概用水利権・流木権の類
水利、土工に関する事業を営むた
●水利組合
めに地方公共団体または、一定の地
合とがあったが、一九四九年土地改
域内の土地家屋所有者によって組織
キャサリーン台風・江戸川大洪水
流山の揚水機改修
事業その他、土地または山林の利益
目的税の一・水利、都市、林道の
●水利地益税
と改称。
良法が制定され、前者は土地改良区
台風
伝兵術新田に排水機設撞
台風・洪水
豪雨
東西幹線用水路新坂川の堀さく
流山地先にヂーゼルエンジン揚水機を設置
県営坂川沿岸農業水利改良事業の起工
赤肌桶門改築
江戸川大洪水・東京湾岸海鰍起る
特定の企業者、公共団体、一定地
●水利権
5 1 0 4 4 8
関東大震災のため柳原桶門修理
古ケ崎地先に排水機を設立
575652524539
これらの事業で特に利益を受ける土
村総出の泥さらい
桶野口地先に三台の排水機設置
昭
となるべき事業の実施の徴用にあて、
︽L
−6一
〃〃〃〃〃和
キティ台風
坂川普通水利組合を坂川土地改良区に改称
県営農業水利事業の竣工
団体営かんがい排水事業の起工・新坂川の改修
洪水
江戸川堤防の拡幅工事・坂川の護岸工事
桶野口の坂川排水機場を経費一億円で完成
F
年代
363333282725242218161413137775126434239363629233
余釣
そ
家内安全、哩作を祈
0
下谷の年中行事と農事暦
行事名
元旦祭
七革がゆ
甲IllJ酉4︲11
七叩
噸する。
If
●りん専従叱
家からみてあきの方
ものと、花を川柳の
餅をマユに形どった
する。
に弊紙をつけて奉納
塩、魚、柄を供え榊
し、野菜、洗い米、
の田を五ヶ所ほど耕
蔵開き
促一
十一日
蔓,
o坂川くりはかつて植物の宝庫でし
た。川には柳藻、石菖藻、栃鏡など
の川藻が生えていました。又河骨も
群生し、まこもは地下茎を五月の下
旬位に抜きとり、生食するとやや甘
味があり、美味でした。川くりは匂
1J−f
木に飾る。マユの豊
作を祈願する。
べる。
小豆の入った粥を食
膿叩
五月五日
農邪
八月室日
十四日
IⅢ日
二十四日
二十五日
三十一日
農躯
九Ⅱ
農州
6f
さなぶり
︲F酎毎固守︽0.
七夕
迎え火
お盆
雌施流し
一j 枇緊
農躯
f側刷
えびす講
〆飾り。
新松戸の
野烏
ることもあります。、
中には、ビニールや釣糸が交ってい
ビルの間を好み、巣をつくる材料の
づくりには外敵の少ない民家の軒や
などを主に狸っているようです。巣
地や水田、坂川周辺などで蚊や娘子
峠かL李
燕は夏鳥で、えさは江戸川沿いの休耕
つばめ
し羽を休め体力を回復させるのです。
く旅の途中で日本に立ち寄り、しば
は、北極から南米の広大な草原に行
鵜・尉鵜・穂子鳥等でこれらの鳥達
つぐみじょ、7びたさあとり
って来ています。主に鴫類・千鳥類
0﹂畔呼◇かし︺り
渡り鳥の中の冬鳥が今新松戸にや
られます。
ていく鴬・青鵬・瑠璃鶴・賜等も見
うぐいすあおじるりぴたきもず
烏で、四季によって住む場所をかえ
また漂鳥といわれ年中日本にいる
などもこれらの仲間です。
です。推鳩・鴨・四十雀・軽鴨・鷺
きじばとからすしじゅうからかるがもさぎ
渡りをせず一年中同じ場所にいる鳥
雀・椋鳥等でこれらは留鳥といい、
すずめむくどり
新松戸で多く見かける野鳥は、鵜、
ひよど肋●.
§夢
緬和y〃
田起し、棚まき、代
かき、土ならし。
田械の終った日、荒
神梯に苗を奉納する。
代かき、土ならし、
早苗とり、田械え。
面日q夕剖0今。■d■勺且9︲可〃口・グーけBFJ
にきなぶりの時の苗
をタテガミにみたて
ヒエ抜き。
て飾る。
迎え火を焚いて仏を
迎える。
袋参り。
送り火。
神棚に〆縄をかける。
お飾り.門松立て、
醐宅き
##
米の出荷、肥料作り。
一﹃くり詞”p’し︲剰制閏一一斗JザTr・旬も
脱
菖蒲、半夏生、菖蒲、どくだみ、く
こ等が生え、くこは春は芽つみをし
てくこ飯、煮物、佃煮等にし、秋は
実をつみました。
ノjiう
一■けq、■〃■姑‘己50田●FⅡ■帥℃■■q
f盆グリ副ノ軸荊︾らf肩厚
マァ御鍔祇曲卜且刀尚噌レ李勿←
ように神様に祈噸す
る。
二〃はじめの午の日
の祭。
豆まき。
土月士百
乎児奈講
め し
ワラ仕躯.餅つき、
−7−
○大正から昭和の初期まで肥船とい
十五日
二十日
二十西日
三・日B型が0、
初午猟
二月一日
午の日
師分会
衣のつくろい。
農具の手入れ。作業
二J︲I
士ロn︼
八日節句
り の り 彼 の 巾
、患、岸箭
俵 紺 稲 理
詰 繁 子
う五十荷船によって藻刈を行いまし
た。後尾にスクリューを水平につけ
たような藻刈機を、土手からロープ
で曳き、樋の口から横須賀の関まで年
数回刈り、水の流れをよくしました。
○思井の関は幸田、芝崎、思井の三
三日
農事
三月三日
士一月羊日
農耶
し、槻もみ浸し
二十八日
苗代づくり、田おこ
寺の行事で白い象を
三十日
■価
障り甘茶を接待する。
万満寺の仁王様の股
ないように祈願する。
くぐり。痢気になら
籾蝋殺稲秋水農
す作“刈の、具
ノ
仁王股くぐり
荊雰
0
∼ 〆
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ミ
t (
リ
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燭
繭
庖天え61
伸びの
癒講すイビ
l
村にまたがっています が 、 水 利 権 を
持っている鰭ヶ崎が管理をしました。
日
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リ
現在の宮園団地の西側に水路を堀り
鰭ヶ崎の駅前を通り、鰭ヶ崎の田に
八日
農聯
八
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皿
用水として利用され、水利権を持た
ない三村は、この関のために排水す
ることが出来ず困りました。現在、
坂川土地改良区流山の用水機場が出
在は遊水池の様になっています。
来、鰭ヶ崎は思井の関を放棄し、現
月
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﹁泥さらい ﹂
名勾二候丁宿力’一二 F k 力 峨 で 〃
6 〃 〃 5
日誌抄
昭和唖年
目が御佃訓訓I刈り買判劇司剣棚図
横須賀小四年生来館
坂川の調査l②
坂川の調査l①
新南小農具版画展に協力参加
第四回子供歴史教室開催
﹁松戸と教育﹂
第十八回公開講座
﹁よみがえる川﹂完成
小山市有志来館・建設省制作
君津市有志来館
館研修﹁江戸川八十八ヶ所﹂
1229257
28
渇水期に行われる泥さらいは、農家
の人々にとって重要な年中行事の一
つでした。
田畑の間を流れる用排水路や屋敷
たまって水の流れが悪くなり、時に
まわりの堀などには、自然と泥土が
はガスの発生をまねきます。それを
技術的に作り出した身辺卑近の道具
E歩と嶋
私達の同胞が日常生活の必要から
流れを良くし、田舟を通りやすくし
とされています。分類項目は、
坂川の調査I︵⑤
坂川の調査l︿④
︿賓淵館利用のご案広﹀
▽僻鮮日街進水雌∼日曜日
▽時間叩時∼咽時︵ただし、入
館は晦時鋤分迄︶
▽所在地松戸市新松戸31”
▽入館料無料
新松戸市民センター3階
▽砥話念“・1909
坂川の調査l⑥
新松戸南小四年生来館
松戸市監査委員会来館
馬橋北小四年生来館
馬橋北小四年生来館
来館
て見ようと言うことになりました。
近在の屋号をもう少しくわしく調べ
O坂川の調査をしている内に、この
ことを感じました。
くの人々の労力と、歴史の中にある
なく渡っている橋や川が、やはり多
密接につながっています。普段何げ
○坂川叩と私域涯αで、らしは頚ユ牡ても
編集後記
大倉理事長自治大臣表彰
O資料やお聞き及びの事がありまし
坂川の調査l⑤博物館協会
﹁新松戸の野鳥﹂
第十九回公開講座
たら当資料館までお知らせ下さい。
−8‐
防ぐために、泥土をかきあげ、水の
たのです。坂川本流の泥さらいにつ
一、衣食住に関するもの
家屋・灯火具・調理、飲食用具
いては関係町村の耕作面積、所有面
祇、戸数などに応じて持ち場が決ま
食料及び噌好品・服物・履物・
保健用具
装身具・出産、育児用具・衛生
っており、村々をあげていっせいに
一度は大がかりに川底がさらわれ、
行われました。そして、五、六年に
どろごえ
携用具・防織色染に関するもの
農具・山樵用具・狩猟用具・漁
二、生業に関するもの
として田畑に入れられたり、堤防の
かきあげられた泥土は泥肥︵肥料︶
かきあげなどに使われました。
・蓄産用具・交易用品・其他
三、通信、運搬に関するもの
昭和四十年代に入り機械が導入さ
れるまでは、ドロハライ、ヘドロカ
四、団体生活に関するもの
運搬具・行旅具・報知具
用いたまったくの手作業でした。
館内大掃除
仕事納
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キ、ジョレン、ウッル、スキなどを
五、儀礼に関するもの
となっていて生活全般にわたります。
御
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