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太平洋版星条旗:解説

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太平洋版星条旗:解説
太平洋版星条旗:解説
吉田健正
目
「米軍日刊紙」として発行
対日本本土侵攻のための沖縄戦
次
戦勝ムード
「沖縄戦終わる」
相次ぐ日本各地への爆撃
琉球占領軍司令官はニミッツからマッカーサーに
降伏か徹底的破壊かを迫った最後通告
原爆投下とその反響
ソ連が対日参戦
「国体護持」を主張する日本に追い討ち攻撃
号外“Peace!”
占領軍が無血上陸
マッカーサー総司令部を設立
占領軍兵士の目に映った敗戦国日本
東条の自決失敗、「戦犯」指名手配
「甘い」占領政策への批判とマッカーサーの反論
天皇、マッカーサーを訪問
民主化政策
極東軍事裁判への準備
東西冷戦の暗雲
モスクワ外相会議
真珠湾攻撃の責任
軍隊内の人種差別問題
除隊・帰国
米軍統合
著者紹介
2008 年 6 月 23 日
6-14-7 Hongo, Bunkyo-ku, Tokyo,Japan 113-0033
email: [email protected]
〒 113-0033 東京都文京区本郷 6-14-7 電 :(03)3811-1683 Fax:(03)3811-0296
太平洋版星条旗:解説
米国国旗の名前をつけ、
「準米軍機関紙」と称される新聞『スターズ・アンド・ストライプス』は、
南北戦争の際に北軍兵士のために創刊され、第一次世界大戦のとき復刊された(1918 年 2 月 18
日~ 1919 年 1 月 31 日)。第二次世界大戦の際は、ロンドン版(1942 年 4 月 18 日~ 45 年 10 月
15 日)などヨーロッパ各地で発行され、ヨーロッパにおける連合側の勝利(1945 年 5 月 8 日、
V-E Day)から 1 週間後の 45 年 5 月 14 日、ホノルルで「太平洋版」が創刊された。『太平洋版
星条旗』は、題字の真上に“Pacific Edition”( 太平洋版 )、右下に「アジア太平洋地域向け」
と書かれていたが ( 本ページ下 , 左 )、戦線移動により、7月 17 日には「太平洋版」という文
字が消えて「アジア太平洋地域」が「中部太平洋地域」に変わった。45 年 9 月 28 日号に掲載
された公証人報告に“Middle Pacific Edition”(「中部太平洋版」) とあるので、それが当時
の公式名称であったものと思われる。「太平洋版」第 1 巻第 1 号としてスタートした新聞は、46
年 1 月 30 日の「中部太平洋版」第 1 巻第 222 号まで続いた ( 本ページ下 , 右 )。
45 年 10 月 3 日には、連合国最高司令官総司令部(G H Q)の情報教育局が東京で新たに P a cific Stars and Stripes を発行し、日本本土と朝鮮半島に駐留する米軍部隊に送付した。東京・
六本木の米軍赤坂プレスセンターにある星条旗新聞社が発行している現在の「太平洋版」であ
る(「太平洋版」には、さらに、それぞれの地域ニュースを入れた地方版――日本版、韓国版、
沖縄版、グアム版――がある)。
以下、本稿では「太平洋版」と「中部太平洋版」をともに『星条旗」として表記する。( )
内の日付は、特に断りのない限り、掲載日。(注)とあるのは、筆者の補足説明。
[最終版]
(1)
[2セント]
「米軍日刊紙」として発行
「太平洋版」を発行したのは米太平洋方面陸軍総司令部情報教育部。題字の左下に“U . S .
Forces Daily”
(米軍日刊紙)と明記されていたように、当時は米軍の純然たる「機関紙」であっ
た。(現在の Stars and Stripes は、米軍の「準機関紙」と呼ばれる。憲法による「言論の自由」
を保証されており、国防総省や米軍の検閲や管理を受けず、その見解を広報する任務も負って
いないものの、国防総省の認可と財政支援を得て軍関係者を対象に米軍施設内で発行され、軍
事関連の情報提供を通じて「(米)軍の緊急対応態勢を高める」という使命を掲げているからで
あろう。「掲載内容は米国政府の公式見解または米国政府が支持している見解と受け止めてはな
らない」と断っている。)
創刊号には、太平洋方面陸軍総司令官ロバート・C・リチャードソン中将による「星条旗ス
タッフへ」という挨拶文と社説が掲載されている。中将の挨拶文は、「太平洋版」の発刊を「東
京(日本上陸)への大きな一歩」と位置づけ、社説はヨーロッパ戦が終わったいま、これから
日本打倒のために集結する兵士たちに「敵への勝利という大きな目的を達成するため、正確で
誠実な新聞」を発行する、と述べた。
『星条旗』は、戦況を中心とした報道記事と写真はもちろん、「ブロンディ」や「ドナルド・
ダック」などの人気連続漫画や兵士たちの笑いを誘いそうな一コマ時評漫画、ハリウッドやブ
ロードウェイの情報、スポーツ、国内紙の簡単な紙面紹介、女性のセクシー写真などを満載し
た縦 42 センチ、幅 30 センチの日刊タブロイド紙 ( 日曜日は休刊。5 月 28 日から数日間は紙不
足を理由に4ページ、10 月 27 日の海軍記念日特集号が 16 ページになった以外は、すべて8ペー
ジ )。社説や投書欄もあり、セクシー写真を除くと当時の一般紙とあまり変わらない。
記事・写真は、
『星条旗』独自の記者やカメラマン(大半は軍人軍属)のほか、ANS(米軍ニュー
ス・サービス)、AP、UP、INS といった米国の通信社が提供するものを使った。記事の発信元は、
オキナワ、グアム、マニラ、ワシントン、ニューヨーク、サンフランシスコ、ドイツと太平洋
各地の米軍司令部、ロンドン、モスクワ、重慶、横浜……と国際的だ。太平洋の戦況について
は、グアムの米太平洋艦隊司令本部から発表されたものも多い。編集局長のチャールズ・アヴェ
ロン曹長のもとで編集され、ホノルル・アドヴァタイザー社で1日3回印刷された合計およそ
6万~ 9 万部が、飛行機と船で太平洋各地の部隊に送付され、購読者に配布された。
内容は米軍(米国)寄りの記事が大部分を占めるが、ニミッツ提督の沖縄作戦に関する著名
なコラムニストの批判記事とニミッツの反論、除隊されたものの輸送船不足で足止めをくらっ
た兵士の不満を取り上げたり、戦後の徴兵の是非を論じたり、手紙の検閲を漫画で皮肉ったり、
と必ずしも米軍に隷属的ではなかった。『星条旗』自身が検閲を受けたため、1日だけ通信社配
信記事だけで紙面を作った、という記事もある(46 年 1 月 11 日)。戦局が落ち着くにつれ、国
内の労働争議や事件などの記事が掲載された。なお、日本や日本人には、戦時中だけでなく戦
後も、“Jap”や“Nip”という表現が使われていることが多い。
アジア太平洋各地における日米の戦いの模様、第 32 軍(沖縄守備軍)牛島中将の自決に関
する目撃談、原爆投下やソ連の対日参戦に関する米国内の反応、戦争終結の舞台裏、日本の戦
争犯罪や天皇の地位をめぐる議論、真珠湾攻撃を許した責任の論議……など、研究者にとって
興味深そうな情報も多い。米国の太平洋戦史はもちろん、戦時プロパガンダ、投書欄に載った
兵士たちの声、戦時中の米国社会(後方)、『星条旗』そのものと米国メディアの戦争報道、米
国の日本観、ポツダム宣言、戦争末期から終戦直後における米ソ関係……に関心のある人にとっ
ても、貴重な研究資料となろう。一般兵士 (GI) のための新聞でありながら読者として日本を含
む諸国政府も念頭においたであろう米軍の機関紙が、何をどう報道し、何を無視したかを検証
することも、興味深いはずである。
スペースの都合で本稿では割愛せざるを得ないが、ヒトラー、他のナチス指導者、SS(親衛隊)、
(2)
ゲスターポ(秘密国家警察)、ユダヤ人大虐殺や捕虜虐待などの戦争犯罪、戦後ヨーロッパの動
静に関する記事もかなり多い。ニュールンベルク国際法廷は、11 月 20 日に開廷することが決
まり、ナチスによる数々の犯罪が改めて報じられた(10 月 19 日)。
戦勝ムード
1945 年 5 月 14 日の創刊号に載っているのは、上記の発行の辞のほか、那覇に迫る米軍、蒋
介石軍の福州到着と日本軍空港の攻略、3週目を終えた国連創設に関するサンフランシスコ会
議、B29 による名古屋焼夷弾攻撃、太平洋戦争に 600 万人投入予定などの日本本土進攻計画、ヨー
ロッパから太平洋へ配置転換される通信隊のハワイ到着、戦役期間や戦功に基づくポイント制
除隊手続きなどの記事のほか、硫黄島で不時着・炎上した B29 や、沖縄で女の子にスプーンで
携帯食を分け与える兵士の写真などである。東京大空襲や米軍の沖縄上陸は、創刊以前の出来
事である。
紙面は、戦勝ムードにあふれていた。創刊号によれば、陸軍歩兵部隊と海兵隊が日本軍司令
部のある首里に迫る中、太平洋方面 ( P O A ) 陸軍総司令部のリチャードソン中将は「対日勝利を
早く達成するため、ヨーロッパ戦勝利から3、4か月以内に、太平洋地域に大規模な陸軍部隊
を配備する」計画だと語っていた。対日戦略部隊を率いるのは、ダグラス・マッカーサー(42
年 4 月より連合軍西南太平洋方面総司令官)を予定していた。ビルマで勝利したばかりのイギ
リス軍、タラカン島(ボルネオの東)で戦闘中のオーストラリア軍とオランダ軍が、それに加
わるという。統合参謀本部が対日本本土攻略計画を策定中で、ニミッツ提督が対本土空爆をた
だちに強化すると語ったという UP 電も掲載されている。
その後、太平洋戦線での米軍優勢、ポイント引き下げによる除隊の進行、帰還兵の待遇(教
育費給付、治療、ローンなど)をめぐる論議、国連創設会議、国連戦争犯罪委員会による戦争
犯罪容疑者リストの作成状況、対日本本土攻撃の激化、ポツダム会談、米国の対日降伏勧告、
原爆投下、ソ連参戦、日本の降伏、急速化する除隊→帰国、米軍再編……などが目に付くよう
になり、やがて、スポーツ、労働争議、犯罪といった米国国内の話題や、戦後の世界に関する
記事が増えた。
対日本本土侵攻のための沖縄戦
米軍の対日作戦は、まず「オペレーション・アイスバー
グ(氷山作戦)」で南西諸島を抑えて、沖縄と硫黄島から
日本本土を攻略することにあった。そこで、沖縄に重装備
した大軍を投入し、海・空・陸を制しようとした。海と空
を早々とほぼ手中に収めていた米軍は、空軍・海軍の保護
のもと3月末から陸戦に集中し、同時に本土爆撃を展開し
た。
『星条旗』には、首里近辺での攻防戦で苦戦を強いられ
ながら、戦車に搭載した火炎放射器などを使って沖縄の日
本軍を追い詰める米軍の善戦と、マリアナ諸島や硫黄島か
ら飛んできた B29 による激しい名古屋空爆、それに続く九
州と四国の空港への艦載機攻撃、福岡県沖の大島と豊後水
道に面する山口県徳山にあった石油貯蔵基地への爆撃、浜
松や神戸や大阪への空爆、沖縄に向かっていた戦艦大和の
空中魚雷(aerial torpedo)投下による沈没などを伝える
記事や写真が相次いで掲載された。5 月 18 日には、1 面と
(3)
5面全体で、九州南海上で特攻機の突撃を受けて 700 人余りの人命と 22 の艦載機を失い、もう
もうと煙を上げている米空母フランクリン号の写真が米軍の一大被害を伝えた。
5月 23 日には、米国政府当局が「無条件降伏するか、ドイツより酷い目に遭うか選択せよ」
と日本に通告し、6月2日にはトルーマン大統領が太平洋の米陸軍を倍増し、対日攻撃のため
の空軍力も増強するとの特別教書を議会に送った。大統領
によれば、太平洋各地にいる日本軍を分断したまま敗北に
追い込む、戦艦、航空機、装甲車、大砲などを集中的に投
入して最少の人命をかけて勝利する、日本に海、空、陸か
ら絶え間なく圧力をかける、というのが対日勝利への作戦
だった。
しかし、サンフランシスコ発UP電は、鈴木貫太郎首相
が日本は「建国以来最悪の危機に直面している」「天皇陛
下以上に平和を熱望している人は世界にいない」と述べつ
つも、
「無条件降伏」によらない和平を求めた、と報じた(6
月9日)。
沖縄では、5月 24 日夜から翌日にかけて、日本の空挺
部隊が飛行場施設や駐機中の航空機に被害を与え、自らは
111 機を失うという「全く不思議な自決攻撃」を行った(注・
特別攻撃空挺部隊の「義烈隊」と「飛竜隊」が伊江島基地
などの飛行場に強行着陸し、あるいは米艦船に体当たり攻
撃をかけた)。U P 電によると、強行着陸して炎上を免れた
特攻隊員は全員が銃殺された(5 月 26 日)。日本軍司令部が首里から本島南端への撤退を余儀
なくされた5月末には、摩文仁一帯で住民を巻き込んだ壮絶な攻防戦が展開され、沖縄戦はい
よいよ終結へ向かう。
翌6月 19 日号1面のトップ記事は「崖っぷちの日本軍(Nips at ‘Dead End’)」という見出
しで、日本軍の敗北が目の前に迫っている状況を伝えた。
「沖縄戦終わる」
ここで、日米両軍の指導者に大異変が起こる。まず米第十方面軍の司令官サイモン・バクナー
中将が、6月 18 日の正午過ぎ、前線で戦闘を視察していたところ、岩から跳ね返った日本軍の
銃弾2個に胸を撃たれて気絶し、10 分後に死亡した。沖縄における米軍全体の指揮は、第三海
兵軍団長のロイ・S・ガイガー少将がとることになった(注・第十軍司令官の後任には、マッカー
サー連合軍西南太平洋方面総司令官が、首都ワシントンで陸軍地上軍司令官の地位にあったジョ
セフ・W・スティルウェル将軍を任命した)。沖縄方面根拠地隊の司令官・大田実海軍少将は4
人の部下とともに破壊され尽くした那覇港を臨む壕の中で「ハラキリ」をしたのが発見され (6
月 18 日 )、米第 96 歩兵師団司令官のクラウディウス・M・イーズリー准将も戦死した(6 月 20 日)。
22 日の早朝には、第 32 軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決した。米軍の歩兵たちを両将
軍の自決現場まで案内した料理人の話としてそれを報じた 6 月 28 日付けの『星条旗』によると、
2人は午前3時過ぎ、制服姿のまま司令部壕入り口の岩棚に敷かれた白い布の上に座り、まず
牛島が切腹、介添えが刀を振り下ろし、長が彼に続いたという。
牛島と長が自決した前日の『星条旗』1面には「沖縄戦終わる」という見出しが踊った。ニミッ
ツ米太平洋艦隊司令長官が、グアムで「6月 21 日に日本軍の組織的抵抗が終了した」として米
軍の勝利を宣言したというのである。記事は、「82 日間続き、4 週間前までに 3 万 5 千(中部太
平洋と西部太平洋の戦闘で最大)の米兵を死傷させ、9 万を超える日本兵を殺した激しい沖縄
(4)
戦が終わったことにより、米軍は日本本土からわずか 325 マイル(520 キロ)の地点に戦略拠
点を得た」と書いた。沖縄の米兵たちが戦闘終結を知ったのは、22 日、ラジオ放送を通じてであっ
たという。6 月 25 日には、大本営が同日、沖縄戦の敗北を認めたという、東京からの放送を伝
えた。
相次ぐ日本各地への爆撃
紙面には、沖縄での掃討戦に加えて、ラジオ放送を通じた日本政府の反応をまじえつつ日本
本土空爆の記事がますます増えた。米軍の久米島上陸を伝えた『読売報知』が、米軍は日本攻
略の前に中国大陸を攻める可能性が高いと報じたというラジオ東京の放送もあった(6 月 28 日)。
5月 11 日の特攻機による空母バンカーヒルの炎上は、6 月 29 日に写真つきで報道した。
対日地上作戦を指揮するマッカーサーのもとで、7月はじめ、米太平洋方面軍は中部太平洋
方面軍になり、南西太平洋方面軍は西部太平洋方面軍に変わった。対日本本土攻略戦と体制を
整えたということであろうか。マッカーサーのフィリピン作戦終了宣言(7月5日)により、フィ
リピンも重要な対日攻撃基地になりそうだと報じられた。
7月中旬以降は、米軍のマリアナ諸島やルソン島の制覇、オーストラリア軍のボルネオ油田
地域攻撃、米海軍の千島列島沿岸での攻撃、新潟や熊本、呉や宇部など瀬戸内海の主要戦略市
域や製油所への空爆、東京への連日爆撃、千葉・茨城・栃木など関東地域への空爆、下津・甲府・
明石などの製油所やアルミ工場への空爆や潜水艦による港湾内艦船への爆撃、東京沖の空母か
ら発進した爆撃機による激しい首都攻撃、東京に近い工業都市・釜石への艦砲射撃、東京湾の
横浜海軍基地などへの艦砲射撃と空爆、残り少なくなった日本の主要な海外基地・上海への空
爆……といった報道が続く。いずれも日本本土侵略への「準備攻撃(pre-invasion assault)」
と呼ばれた。日本側からの反撃はほとんどなかった。米軍の攻撃機は、マリアナ諸島、沖縄、
硫黄島だけでなく、日本沿岸の空母からも発進していた。報道は、米軍の日本本土上陸と米国
の勝利が近いことを匂わせていた。
琉球占領軍司令官はニミッツからマッカーサーへ
8月初めには、米軍の日本本土上陸を控えて、琉球列島占領軍の司令官がニミッツ元帥から
米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥に代わった(8 月 4 日)。ただ、海軍と海兵隊はニミッ
ツ提督、沖縄駐留の第八空軍を含む太平洋戦略空軍はスパーツ大将の司令下におかれたままで、
この三人体制はそれぞれの名前の一部をとって”MACNIMAATZ”と呼ばれた(8 月 6 日)。
(注・米軍は、3 月 26 日に慶良間諸島、4 月 1 日に沖縄本島に上陸し、太平洋艦隊司令長官
兼南西諸島軍政長官ニミッツ元帥の名で、南西諸島(琉球列島)とその近海および住民に対す
る日本の行政権をすべて停止して、同元帥の権限の下におくという海軍軍政府布告第1号「米
国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ告グ」を発令していた。米軍の沖縄上陸とともに、沖
縄戦の終結や日本の降伏受諾を待つことなく、琉球列島は日本の施政権から切り離されて米国
の管理下におかれ、さらにその権限が海軍のニミッツから陸軍のマッカーサーに移されたので
ある。)
沖縄戦の開始以来、日本の施政権から切りはなされていた沖縄について、米第5艦隊司令官
レイモンド・スプルーアンス提督は、マニラ湾での記者会見で、その戦略的価値を説きながら
も、米国がその沿岸諸島をどこかの大国 (power)が支配するのを好まないのと同じように、国
際政治上の大問題になる可能性がある、と警告した(8 月 25 日)。翌年1月のロンドン発 A P 電
は、「米国が支配する島々」を国連の主権下におくべきかについて、国連米国代表部の中で意見
が割れているという政府筋からの情報を伝えた(1 月 15 日)。代表団そのものは信託統治案を
支持したものの、特別軍事顧問ジョージ・ケニー大将が「United Nations= 国連(注・「United
S t a t e s = 米国」の誤植だと思われる)は軍事的価値のある島々を維持すべき」と論じたという
(5)
のである。記事によれば、「米国は米国人の血で確保した島々を手放すべきではない」という軍
関係省庁と、「(国連創設に関する)サンフランシスコ会議で、米国は暫定的な信託統治案に同
意しており、これらの島々を支配することによって前例を作るべきではない」という国務省の
対立であった。
降伏か徹底的破壊かを迫った最後通告
沖縄で組織戦が終了した直後の6月 27 日、『星条旗』
はサンフランシスコで国際連合の結成を協議してきた連
合側諸国の代表たちが、前日、世界の平和と安全保障を
維持するための国連憲章に調印したと報じた。『星条旗』
は、社説で、
「共産主義対資本主義」
「君主国対共和国」
「東
対西」
「大国対小国対中級国」
「非爆撃国と無傷国」といっ
た違いが存在するものの、世界的な平和と協調への大き
な一歩だと歓迎した。
太平洋戦争は、7月末、外交的な神経戦に発展した。
そして、連合側の巨頭会談、会談で採択されたポツダム
宣言、広島への原爆投下、ソ連の参戦によって、事態は
急転し、日本はいよいよ敗戦へ追い込まれた。
『星条旗』は7月 17 日にドイツのポツダムで始まった
トルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリン・
ソ連首相の巨頭会談(注・the “Big Three”はこれら3
人を指し、蒋介石を含んでいなかった)を連日取り上げた。
そして7月 26 日の1面で、連合側が日本に「抵抗を止めるか、さもなくば徹底的な破壊を
覚悟せよ」、と呼びかけたと報じた。「Ultimatum(最後通告)」という囲みの下に、
「米国、英国、
中国(注:中華民国)が日本に抵抗を止めるか、本土を壊滅されるか、との最後通告を発した」
「トルーマン大統領、チャーチル首相、蒋介石総統が協議して日本に戦争終結の機会を与えるこ
とに合意した」との英 BBC の放送内容を伝えるわずか 12 行の記事である(注・ポツダム宣言は、
トルーマンが、チャーチルと蒋介石の分も署名して発表した。中立国・ソ連のスターリンは署
名に加わらなかった)。
併せて、
「嘆願」という囲み見出しで、
「もし米国が無条件降伏に固執しなければ戦争を止める」
と「寛大な]措置を求める日本軍部のラジオ放送を伝えた。
『星条旗』は 7 月 27 日の2面に対日最後通告(いわゆる「ポツダム宣言」)の全文を掲載した。
対日最後通告は、日本国民をだまして世界征服へと誤導した勢力の排除、カイロ宣言の遵守と
国土の限定、日本軍の全面的武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の復活・強化、言論・
信教・思想の自由や基本的人権の尊重の確立を求め、日本軍の無条件降伏を宣言するか、迅速
かつ完全な壊滅を待つかの選択を迫っていた。
同日のワシントン発 A P 電によれば、連合側は最後通告への回答を待っているが、連合側が
得たのは日本の同盟通信社の放送だけだった。同盟は連合側が日本に無条件降伏を迫ったと伝
える一方で、権威筋からの情報として、日本は最後通告を“i g n o r e”し(注・鈴木首相が記者
会見で使った「黙殺」を同盟通信社が“ignore”と英訳して放送したという)、戦争を続行する
だろう、と伝えたという。最後通告は日本に「平和的な将来」を約束し、またソ連は中立国と
いう立場上署名しなかったにもかかわらず、日本は、連合側が日本人種を壊滅させるつもりで
ある、スターリンの非署名はトルーマン、チャーチル、蒋介石に痛烈な打撃を与える、と国民
に納得させようとしていると記事は報じた。
(6)
チャーチルの後任アトリー首相を加えた会談は8月1日の深夜に終了し、翌日コミュニケを
発表した(8月3日)。声明(いわゆる「ポツダム議定書」)はドイツ、ポーランド、イタリア
の戦後処理に関するもので、日本やアジア・太平洋については一言もなかった。
原爆投下とその反響
そして衝撃の8月6日が訪れた。同日の『星条旗』は、1面トップで、「『T N T 2万トン分に
相当する』原子爆弾が、日本に対して使われた」とのトルーマン大統領の発表を、ワシントン
発 AP 電で伝えた。トルーマンは、声明で、この「新型爆弾」について、米軍の破壊力の革命的
強化の始まりを意味し、爆弾は生産中で、さらに強力なものを開発中、と語った。トルーマン
はまた、「日本を全面的破壊から救うためのポツダム宣言を日本は拒絶した。その報いが原子爆
弾だ」と述べて原爆投下を正当化した。
原爆投下は、世界中で大きな反響を呼んだ。日本(放送によると)では「性急」「非人道的」
「野蛮」「無差別的」「かつて中国における日本の比較的に小規模な攻撃を人道の名において非難
した米国がやるにしては、許しがたい行為」という対米非難の声と次の目標は東京ではないか
という憶測が高まって、政府も人々も恐怖におびえた。ローマ法王のいるヴァチカンの新聞は
「(原爆の)発明家たちが人類のためにそれを破壊しなかったのは残念」で「死をもって死を制
する」のは非キリスト教的だとコメントし、英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙は「人
類は人類自身を破壊する手段を完成しつつある」と論じた(同)。原爆は、「マンハッタン計画」
により開発され、7月 16 日に、科学者と軍当局者が見守る中、ニューメキシコ州の砂漠での実
験で、その威力を見せつけたたばかりだった。原子爆弾そのものや、広島上空のきのこ雲、投
下後の広島市内の写真は掲載されなかった。
原爆投下が大きく報道され、新聞が飛ぶように売れた米国では、戦争終結が早まったと歓迎
する声に混じって、「文明の終わり」を懸念する識者もいた (7 日 )。原爆投下が家庭や職場や
街角で大きな話題になり、多くの市民が戦争短期化の可能性を喜んだが、新聞は「英米の科学
者が手にした責任」を問い始めた、という記事(8 日)が、そうした複雑な空気を伝えていた。
例えば『ニューヨーク・ヘラルド』紙は、社説で、「投下の即時効果を喜ぶにしては、われわれ
は結果があまりに未知で、恐ろしく、予測不可能な動力源に手をかけてしまったようだ」と論じ、
『ニューヨーク・タイムズ』は「人類への教訓」と題する3つの社説で「原爆による完全な破滅
という恐ろしい可能性を目にしては、もはやどの国も次の
戦争を望まないだろう」と書いた。スイスの『ディ・タート』
紙は米国の原爆投下を非難し、政府に抗議するよう呼びか
けた。
ソ連が対日参戦
8月8日の第1面には、“Reds Declare War on Japs,”
すなわち「ソ連、日本に宣戦布告」という特大の2段見出
しが踊った。記事によれば、ソ連は、対日開戦決定と同時
に、日本が同国に和平調停を依頼していたことも明らかに
したという。掲載されたソ連の声明によれば、日本がポツ
ダム宣言受諾を拒否したことでその和平調停依頼は意味を
失い、ソ連は戦争終結を早めるため連合側の要請に応えて
参戦を決定した、ということだった。
原爆投下からわずか3日後に発表されたソ連の決定は、
太平洋戦争の終結をさらに加速するだろうとして、首都ワ
(7)
シントンでは喜びをもって迎えられた。ちなみに、米国は、ソ連のヨーロッパ戦だけでなくシ
ベリア戦を支援するため、武器(物資)貸与法に基づいて、シベリア横断鉄道用の機材を含む
何百トンもの武器や物資を送り続けてきたという。
8月9日には、ソ連の参戦が現実のものとなった。ロンドンで傍受されたソ連の声明によれ
ば、同国の極東軍がトランスバイカリア地方の満州国境を渡り、いくつかの町と村を占領した
という。しかし、同日の8面のワシントン発 AP 電は、これでソ連は対日講和会議への参加資格
を得ることになるが、これが波紋の広がる外交的・領土的意味合いをもつだろう、と予測した。米・
英・中のパートナーになることにより、ソ連は例えば日本が第一次大戦以来支配してきた領土
のうち米軍がどの島々を戦略的に利用できるかの決定に参加できる、というのである。記事は
また、スターリンは、2 月のヤルタ会談でルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相に会っ
た際、太平洋戦争への参加を告げており、それは米・英・中の領土不拡張を約束したルーズヴェ
ルト、チャーチル、蒋介石によるカイロ宣言(1943 年)をソ連が受け入れたことを意味すると
も書いている。
長崎への原爆投下は、8 月 9 日の 1 面で、ソ連の満州進攻と一緒に報道された。長崎に2番
目の原爆を投下し、爆発を確認した米軍機は、米戦略空軍のスパーツ司令官に「結果よし」と
報告したという。上空から見たより具体的な被害状況(「長崎は火山のように今も火を噴いてい
る」)は、翌日から報道され、投下3分後の写真(きのこ雲)は 8 月 13 日の 6 面に掲載された。
9 月 20 日号は、ビルの下敷きになった一人の焼死体の写真を載せた。
「国体護持」を主張する日本に追い討ち攻撃
翌8月 10 日の『星条旗』は、1 面の 3 分の 1 ほどの特大見出し”JAPS CRY FOR PEACE”を使っ
て、日本が連合側に公式に降伏を申し出た、というホワイトハウスの発表に基づく UP 電を載せ
た。紙面の中央には、二人の米兵が「これまで見たうちで最も美しい日没だ」と言いながら旭
日旗(日本の軍旗)をあしらった夕日を眺めている時評漫画が載っている。
UP 通信社がカリフォルニアで午前4時半(日本時間午後8時半)ごろ傍受した日本の同盟通
信社の放送は、「日本政府は天皇陛下の意向に従い、ポツダム宣言を受諾する用意がある、とい
う決定を下した。ただしポツダム宣言は、元首としての天皇の大権を傷つけるいかなる要求に
も妥協するものではないと理解する」(大意)と伝えた。
その日『星条旗』が改めて掲載したポツダム宣言=対日最後通告は、天皇については、首脳
間で意見が割れたのか、戦争責任や戦後の地位を含めて、全く触れていなかった。
トップ記事によれば、日本はポツダム宣言の受諾を表明しつつ、国体護持という条件をつけ
たため、米・英・中・ソの4政府はそれを受け入れるかどうかをめぐって協議中だという。記事は、
日本側の条件が戦争終結を阻止することにはならないだろうと予測したが、同時に「天皇問題」
が4政府間の議論の中心になるだろう、とも述べた。ポツダム宣言の「民主化」政策と、これ
まで天皇を「神格化」してきた日本の国体との乖離をどう埋めるかとうのが問題だというので
ある(例えば 8 月 10 日の記事)。
事実、その後は、天皇の地位を巡って熾烈な交渉が行われたようだ。11 日、連合側4大国は、
日本にポツダム宣言の受諾を迫るとともに、日本政府と天皇は連合軍最高司令官の命令に全面
的に従わなければならない、また天皇は全日本軍に停戦と武器放棄を即時命じるよう要請され
るだろう、と発表した。その後の3日間は日本の降伏をめぐって情報が混乱した。
なかなかポツダム宣言の受諾に応じようとしない日本を降伏に追い込むため、米軍は長崎へ
の原爆投下後も B29 や沿岸の戦艦から東京、横浜、富山、東洋一といわれた大阪の巨大な兵器
工場、各地の工業地帯や軍事基地などに波状攻撃をかけた。
8 月 14 日発行の『星条旗』第 80 号は、1面に、スイスの日本大使館に届き、そこからスイ
(8)
ス外務省に送られた「降伏声明らしきもの」だが、米国の N B C 放送によると送信に2時間もか
かるほど長いため、その時点では内容は不明、という記事と、日本が「タイム・アウト(時間
かせぎ)」を取り過ぎるとして米国が拳銃を発射しようと構える時評漫画を掲載した。爆撃機
B29 は、日本各地への空爆を続けていた。
号外“Peace!”
その日のうちに、1面の大半を、“P e a c e”、そして刃のような形をした感嘆符”“!”が旭日
旗の中心にささっている文字と絵で飾った“EXTRA”( 号外 ) が2回発行された。紙面下から第
二面に続く“FLASH”( 速報 ) 記事は、ゴチック活字で太平洋戦争の終結を告げた。真珠湾攻撃
から 1347 日目の戦争終結は、日本がポツダム宣言を全面的に受諾したという知らせをスイス政
府から受け取ったトルーマン大統領から、ハワイ時間の午後1時 30 分に、発表されたという。
マッカーサー元帥が日本占領のための連合国総司令官に任命され、連合側は攻撃を止めるよう
命じられる一方で、日本の主要戦略地点を占領した。天皇「裕仁」が、15 日 ( 水 ) のハワイ時
間午後 6 時 30 分に、ラジオで終戦の詔書を読むということも報じられた。
2回目の号外は、表紙や大半の記事をそのままにして、天皇がすべての日本軍に戦闘を停止
すよう命令を下した、米国が敵対行為の即時停止とマッカーサーへの正式降伏通告の場所通知
を日本政府に命じた、という「速報」を追加した。8 月 15 日の新聞は、全米各地で人々が平和
到来に沸いた、と伝えた。
天皇は 15 日正午のラジオ放送で、「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以
て時局を収拾せむと欲し……」という戦争終結の詔書を読み上げた。しかし、『星条旗』は、放
送が行われたことは伝えたものの 、 具体的な内容は報道しなかった。17 日の紙面で、オースト
ラリアの情報大臣や米国のいくつかの新聞が詔書を非難した、と報じただけだった。詔書につ
いて、同情報大臣は「敗戦国という意識に欠け、挑戦的。謝罪の言葉もない」、『クリスチャン・
サイエンス・モニター』紙は「無条件降伏したとは思えない。日本は独善的な偽善も、天皇の
神性についての危険な神話も捨てていない」、
『ダラス・タイムズ・ヘラルド』は「裕仁、ヒトラー、
ムッソリーニは、あらゆる国際法を破った」と述べた(いずれも要旨)。18 日にはグアムの収
容所で頭を垂れて詔書放送を聞く日本人捕虜の写真を掲載した。
20 日には中国大陸で関東軍が降伏(ソ連軍はハルビンと奉天=現瀋陽を制覇)して、11 日
間続いた日ソ戦争は幕を閉じた。ただし、ソ連軍はその後、クリル(千島)群島にある日本の
基地や大連などを攻略し、日本政府はソ連軍が占領軍として北海道に空挺部隊を派遣するつも
りだ、とマッカーサーに訴えた (8 月 24 日 )。フィリピンのルソン島では、残留日本軍が 8 月
22 日に米軍と話し合った結果、28 日に全面降伏することに同意した。
占領軍が無血上陸
8 月 26 日(日)に空と海から日本に上陸するはずだったが、列島を襲った強烈な台風のため
沖縄からの出発を見合わせ、27 日には日本本土沿岸に停泊した艦隊で待機していた占領軍は、
ようやく 28 日朝になって第1陣の空挺部隊が厚木空港に、米第三艦隊が英国の戦艦などととも
に東京湾に到着した。ニミッツ提督の東京湾飛来(29 日)に続いて、30 日にはマッカーサーが
マニラから沖縄経由で厚木に到着し、横浜のニュー・グランド・ホテルで総司令部を発足させた。
東京湾内の戦艦ミズーリ号に司令部を構える米第三艦隊司令官ハルゼー提督は横須賀海軍基地
に司令官旗を揚げさせた。
いよいよ連合軍(進駐軍)による日本占領が始まった。日本軍からの抵抗はなかった。無血
上陸である。一般の日本人も、抵抗することなく、ほとんど無表情で占領軍を迎えた。しかし
8 月 15 日に阿南惟幾陸相ら、16 日には大西滝次郎海軍中将、24 日には田中静壱陸軍大将が自
(9)
決したほか、25 日のラジオ放送によれば皇居広場で一般市民を含む大量「ハラキリ」があった。
戦後の天皇の地位は未だに不明確だった。このままだと、天皇は占領期間中、マッカーサー
元帥から命令を受けるものの、戦争責任を問われないまま今後も天皇であり続け、国の形(政体)
は日本国民の意思にまかされる、と予想された。
降伏文書調印式は、9 月 2 日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号の甲板上で行われた。『星条旗』
は調印式について、場所、開始時間(ハワイ時間午後4時、日本時間午前9時)、出席者、ワ
シントンからのトルーマン大統領の挨拶をふくめてラジオ放送されることなどを事前に報じた
ものの、当日あるいは翌日、その模様を報道することはなかった。3 日になって、日本の降伏
条件を 10 センチほどに要約した記事、そして4日に署名するマッカーサーの写真を載せただけ
だった。
9月 10 日の紙面は、南京で関東軍総日本軍司令官・岡村寧次大将と中国陸軍総司令・何応
欽将軍との間で降伏調印して、8 年間に及ぶ日中戦争に決着をつけた、と報じた。沖縄の日本
軍が米第十軍司令官・スティルウェル大将との間で無条件降伏文書に調印して沖縄戦が公式に
終結したのは 9 月 7 日、香港の日本軍が降伏したのは 9 月 16 日だった。
マッカーサー総司令部を設立
第8陸軍偵察部隊の東京入り(9 月 5 日)に続いて、9 月 8 日にはセダンに乗ったマッカーサー
が第一騎馬師団をしたがえて横浜から東京に到着し、皇居からほど近い「米国大使館」(注・実
際には連合国軍最高司令官総司令部= G H Q)」に星条旗を掲げ、日本占領のための連合国最高司
令官としての職務に就いた (9 月 8 日 )。星条旗が掲揚されたのは、第一生命相互ビルの屋上だっ
た。第一騎馬師団の先頭部隊は、2台のジープを先頭に、まず皇居に入り、米国国旗、師団旗、
大隊旗を広げた。別の先陣偵察隊は国会議事堂の前を通って都心に入った。マッカーサーがま
ずやったのは、日本軍国主義の中枢・大本営への解体命令であった(9 月 10 日)。
マッカーサーは、「上陸はきわめてうまくいったので、占領軍は6か月以内におよそ 20 万人
規模に縮小されよう」(9 月 17 日)と述べた(注・マッカーサーは、すでに、当初の予定 50 万
人を 40 万人に変更していた)。
「20 万人」発言は、海外からの米兵の復員を加速化し、戦後の徴兵も止めたい連邦議会を喜
ばせた一方、国務省では驚きが広がった。国務省が戸惑ったのは、米国は早々と太平洋地域か
ら撤退して日本のことも日本にまかせるのではないかという印象を海外に与えることを恐れた
からである。対日占領政策を決めるのは政府(国務省)なのか現地のマッカーサー最高司令官
なのか、という問題を含んでいたため、アチソン国務次官代行はマッカーサー発言を確認した
いと述べ、トルーマン大統領自身が日本占領政策に決着をつける可能性がでてきた(9 月 18 日)。
東京を中心に本州各地を占領した米第8陸軍(およそ 15 万人)に加えて、9 月 22 日には第
6陸軍が九州に上陸した。
占領軍兵士の目に映った敗戦国日本
敗戦国日本は、占領軍の将兵たちにどう映っただろうか。彼らが日本に上陸する前に、中部
太平洋軍は日本の地理、文化、歴史、大東亜建設の夢、宗教、習慣などに関する、「日本情報訓
練プログラム」を立ち上げた(8 月 24 日)。日本人との摩擦を減らすためである。米軍は、日
本侵略に備えて兵士に事前に配布するためのガイドブックを用意していたが、侵略が占領に変
わったため、ガイドブックは配布されなかった(8 月 27 日)。
4人の米海軍兵が横須賀で母娘を含む3人の日本女性をレイプしたことが報じられ(8 月 31
日)、横浜では女性たちが続々と疎開先から帰ってきて米兵の服を洗濯し、腹をすかしている人々
はコックから食べ物をくすねようとし、子供たちは「タバコ」「ハロー」などと叫び、手を差し
(10)
出してキャンディを求めた(9 月 7 日)。武器運搬車で通信隊のカメラマンたちと田舎を訪れた
記者は、彼らを見た女性たちがあわてて逃げ隠れしたと書いた (9 月 17 日)。
厳しいモノ不足(→無法化した闇市、9 月 8 日)や食糧難に関する記事も散見される(9 月 12 日、
同 18 日、10 月 9 日、同 30 日、同 31 日など)。今冬は餓死者が出る可能性もあるという報道も
ある(9 月 29 日)。米兵を迎える歓楽街の様子もときおり報じられた (9 月 18 日、天皇のマッカー
サー訪問を伝えた 9 月 27 日)。戦争をすべて軍国主義者の所為にして、戦争を終わらせた天皇
を褒め称え、アメリカ人が戦争犯罪者を追放して日本に民主主義をもたしてくれると期待する
一般日本人の「偽善」を皮肉る記事もある(9 月 24 日)。『星条旗』は、9 月 27 日、敗戦直後の
東京を6枚の写真で紹介した。そこに説明つきで写っているのは、一面廃墟の中で自宅新築に
取り組む一家、やはり廃墟の中の野菜畑で鍬を振る男、道路わきで座って除隊を待つ兵士たち
の一群、日本機の残骸の上から空を見る少年、リアカーを引っ張って薪になるものを集める草
履ばきの女性、背中に赤子を背負い左手で男の子をひっぱって廃墟の中を歩くモンペ姿の女性
などである。
東条の自決失敗、「戦犯」指名手配
日本軍への嫌悪感や憎悪は紙面に強く反映さ
れていた。日本が極東地域で運営する捕虜収容所
で、
「少なくとも 23000 人」の米兵が「拷問、放置、
残忍な行為、残虐な医学実験」により死亡したと
いう報道(9 月 1 日)に加えて、9 月 4 日の新聞
は横浜で収容されて骨と皮だけになった米海兵数
人の写真、翌 5 日には「日本の残虐行為」と題す
る米国務省の発表に基づく長い記事、7 日には台
湾と満州で収容されていたウェインライト将軍の
記事とやつれ果てた姿の写真、8 日には日本人が
バットで米兵の頭を殴りつけたあとにやにや笑っ
て握手を求める漫画を掲載した。「残虐行為」の
記事は、日本が「文明の法律に対する、ありとあ
らゆる違反を行った 」 として、フィリピンで終戦
間際に確保したすべての捕虜を虐殺し、米国人捕
虜 750 人を乗せたまま沈没しようとした船の船倉
に手榴弾を投げ入れた、あるいは米人捕虜 150 人
を収容した空襲シェルター(避難所)を火の海に
して皆殺しにした、といった例を挙げた。
9 月 11 日の『星条旗』は、東条英機(「悪名高
い真珠湾攻撃の仕掛け人」「無謀にも西洋世界を
破壊しようと企んだ元首相」と呼んだ)が東京郊外でピストルによる自決を図った、と報じた。
喚問のためマッカーサー司令部に連行しようと、対敵情報担当将校たちが特派員たちと到着し
たときに起こったという。東条は、前日、A P 通信社の記者との単独インタヴューで、戦争を始
めた責任者は誰かという問いに、「それは、あなた方勝利者が決める。しかし、500 年、1000 年
後の歴史家は異なる判断を下すかもしれない」と述べていた。記者は、事前に、軍事裁判で裁
かれたら故ルーズヴェルト大統領を最大の戦争犯罪人と告発したあとハラキリをしたい、と東
条が語っていたと日本の有力者から聞いていたが、東条はそれについては何も語ろうとしなかっ
たという。9 月 15 日の第一面トップには、自決を図る直前に窓から顔をのぞかせている東条、
(11)
直後に意識不明でソファーに横たえられている東条、軍医の手当てを受けている東条の写真が
載っている。
東条が自決を図った 2 日後の 9 月 13 日、マッカーサー司令部は「指名手配書」に基づき未
逮捕の「戦争犯罪人」を一切検挙する権限を日本政府に与えた。明らかに、極東軍事裁判に備
えたものだった。これらの「戦争犯罪人」のうち、14 日には元文部大臣橋田邦彦と小泉親彦陸
軍軍医中将(元厚生大臣)が自決、15 日には東条内閣で外相だった東郷茂徳が捕まったほか、
42 年 4 月の「バターン死の行進」を命じたとされる本間雅晴中将や彼を継いで第 14 方面軍司
令官としてフィリピンの日本軍を指揮した黒田重徳中将らが自首し、黒龍会(注・実際には大
日本翼賛会)の指導者の一人・橋本欣五郎大佐らが自首を通告した。横浜刑務所に収容された
戦争犯罪容疑者は 17 日までに 26 人に及んだ(極東国際軍事裁判が始まったのは翌 46 年 5 月)。
9 月 21 日には、マッカーサーは、自決した杉山元陸軍大臣の後任として第一総軍司令官に任命
され連合側諸国の承認を受けたばかりの土肥原賢二大将の即時逮捕を命じた。
「甘い」占領政策への批判とマッカーサーの反論
マッカーサーの対日占領政策には批判もあった。例えばリチャード・ジョンストン UP 記者は、
「次はうまくやるさ」というタイトルのついた東京発の記事で、「日本国民は敗戦したというこ
とを知らない」と書いた(9 月 4 日)。そして、「一般大衆の多くは、戦争終結をもたらしたの
は連合軍ではなく、天皇の気高い意思表示だと信じている」、彼らはまだ「八紘一宇」を信じて
いると述べ、現在の優しい占領政策がこうした認識を増長させているとして、日本が完全に敗
北したことを軍政府が人々に分からせなければ、
「彼らに民主主義再教育をするのは無駄だろう」
と警告した。『ニューヨーク・タイムズ』は日本へのマッカーサーの対応を「今度の戦争の目的
からほど遠く」、「ドイツおよびイタリアへの対応より甘い」として、大統領、連邦議会および
連合国外相会議に再検討を呼びかけた(9 月 12 日)。
マッカーサーは、日本占領が手ぬるいとの「批判」に対して、捕虜を安全地帯に移す、占領
軍を安全に上陸させる、日本軍を完全に解体といったステップを踏んで、まず米兵の命を優先
することが大切だ、米国の世論は日本軍が完全に崩壊したことを見逃していると弁明した(9
月 12 日)。そして 、 占領軍は、天皇を崇拝する日本人の宗教に介入しないとして天皇制に理解
を示し、いずれは天皇の地位に関する状況の展開によっては天皇自身が民主的自由主義を示す
ことになるかも知れない、と述べた。
マニラ滞在中のフレッド・ハンプソン A P 通信記者も、日本軍の捕虜だった米兵たちが初期
占領政策についてきわめて批判的だとして、これでは「多くの日本人は敗北したことを認識せず、
現在の平和を天皇が命じた休憩だと誤解しかねないと警告した」と報じた (9 月 16 日 )。マッカー
サーは、9月にも対日「ソフト政策」に対する米国メディアの「性急さ」を批判した(9 月 14 日)。
「敵
(日本)の暴虐行為を考えれば、メディアが性急になるのも理解できる」としながら、
(米軍の上陸、
日本軍の解体、捕虜の救助といった)「安全上および軍事的都合」によりある程度の「抑制はや
むを得ない」と述べた。その上で、降伏条件は早急かつ全面的に適用されると約束した。また、
マッカーサーは戦後日本をもはや戦争のできない「四等国」と称する(9 月 12 日)など、日本
の弱体化を繰り返し強調していた。
天皇、マッカーサーを訪問
天皇の写真や処遇に関する記事もある。白馬に乗った軍服姿の天皇の写真はそれまでも掲載
されていたが、9 月 6 日の1面には軍服を着て、左手に銃剣、右手に帽子をもった天皇が侍従
らしき人の挨拶を受けてややうつむき加減で歩く姿が写っている(降伏直前に撮影されたとい
う)。9 日 18 日には、ジョージア州選出のリチャード・ラッセル上院議員(民主党)が、日本
(12)
の降伏条件に不満を表明し、天皇を戦争犯罪者として逮捕するよう求めた。天皇は退位して、
その座を 9 歳の皇太子に譲るのではないかという記事もある(9 月 21 日)。天皇は『ニューヨー
ク・タイムズ』のクラックギーン特派員と UP 通信社のベイリー社長とのインタビューで、彼自
身は戦争に反対したのだが、東条が勅語を悪用して真珠湾を攻撃した、と述べた(9 月 25 日)。
なお、
『星条旗』には、状況に応じて仮面を使い分ける日本人を描いた時評漫画(9 月 6 日)や、
おむつをかけた幼児(「枷を外された民主的な日本人」)が「古い日本」と書かれた人に指を向
けて「立ち去れ」と叫んでいる漫画を載せた(10 月 19 日)。人物はいずれも烏帽子を被っている。
9 月 27 日の1面トップ記事は、「ヒロヒト、前例のない訪問でマッカーサーにお辞儀」と題
して、すでに予告されていた米国大使館での天皇のマッカーサー訪問を伝えた。35 分間の会談
の内容は公表されなかったが、話題の中心は占領問題だっただろうと推測された。両手を腰に
当てたマッカーサーと、彼の肩の高さの天皇が並んで立っている、そのときの写真は、29 日の
1面に掲載された。日本の内務省が天皇訪問の記事や写真を発禁しようとしたことを受けて、
マッカーサーは、新聞・ラジオに対するあらゆる検閲や管理を止めるよう、日本政府に命じた(9
月 29 日)。
一方で、G H Q は9月中旬、占領軍に批判的な記事や社説を禁じていた(9 月 16 日)。原爆投
下は国際法違反だと社説で米国を非難した『朝日新聞』には、2日間の発行停止を命じた(9
月 18 日)。( その一方で、
『星条旗』は原爆投下後の広島を訪れた記者のレポート(9 月 12 日)や、
投下時に広島にいたイエズス会牧師の目撃談(9 月 21 日)や焼けただれた多くの被爆者を見た
という広島在住ロシア人女性の目撃談(11 月 1 日)を掲載した ) 。
民主化政策
GHQ は9月 21 日に本や新聞などに関する「新聞発行綱領(いわゆるプレス・コード)」を発令し、
「報道は絶対に真実に即すること」としながら、G H Q 批判、連合国に関する「虚偽的または破壊
的批評」、原爆関連の記事を禁じた。コードについて、『星条旗』は、「公安を害する」記事の掲
載を禁じた、と2、3センチほどで報じただけだった。
10 月 4 日、マッカーサーは、日本政府に言論・信教・集会に対するあらゆる制限を撤廃、未
だに活動している思想警察(注・特別高等警察=特高)を廃止、10 月 10 日までにすべての政
治犯を釈放するよう命じる「革命的マグナカルタ」を公布した。同時に、政治犯釈放に反対し、
天皇制に反対する者を治安維持法違反として逮捕すると述べていた山崎内務大臣の罷免を要求
した。
同紙は、すでに 9 月 25 日、最後の 8 面にわずか 13 センチの記事だったが、マッカーサーが、
「一億総懺悔」や「国体維持」をとなえて総辞職に追い込まれた東久邇宮稔彦内閣に代わって組
閣した幣原喜重郎首相に会って、これらの改革を命令したと報じていた。幣原内閣が婦人に参
政権を与え、投票年齢を 25 歳から 20 歳に引き下げる法案の議会提出を承認したとして、「政府
は国民の主人ではなく奉仕者であるべしというマッカーサー指令」を実行する最初の措置をとっ
た、というのも同じように短く報じただけだった(10 月 15 日)。同記事は、近衛文麿が現憲法(注・
明治憲法)下の天皇の地位を変えることなく議会の権限を強める憲法改定案を天皇に提出した
ことも伝えた。軍国主義者に対する公職追放令によって、幣原内閣の閣僚3人が辞職を迫られ
ることになったほか、元首相の鈴木貫太郎や東久邇成彦が公職に就けなくなった(1月 4 日)。
マッカーサーは 10 月末、統合参謀本部の指令を受けて、日本に、すべての外国との国交を
断絶し、全世界にあるすべての外交用資産(注・大使館、公使館、外交官宿舎など)と外交文
書を連合軍に引き渡し、中立国からその外交・領事団を引き揚げるよう命じた(10 月 25 日)。
また日本政府は、GHQの産業民主化政策に基づき、三井、三菱、安田という「日本の軍部
を支えた」財閥の解体を決定した (11 月 6 日 )。
(13)
極東軍事裁判への準備
極東軍事裁判の準備も進んでいた。12 月 4 日には、首席検事のジョセフ・キーナンが米司法
省出身の検事たち 19 人とともにホノルルから東京に向かった。キーナンによれば、天皇が同法
廷で裁かれるかどうかはまだ不明だという。キーナンはまた、一部の日本人は米連邦刑事法違
反の罪に問われると述べた(12 月 5 日 )。日本では、マッカーサーが、近衛文麿、木戸幸一を
含む9人の戦争指導者の逮捕を命じた(12 月 6 日)。翌 12 月 7 日には、マニラの軍事法廷が、
指揮下の日本軍に残虐行為を許したとして元第 14 方面陸軍司令官・山下奉文に死刑の判決を下
した。太平洋戦争に関して有罪判決を受けた最初の大物日本人であった。マッカーサーは1月
中旬、さらに 110 人の戦争犯罪容疑者の逮捕を命じた(1 月 18 日)。「死の行進」を命じたとして、
東京からマニラに呼び戻された本間中将の裁判は、『星条旗(中部太平洋版)』最終版の1月 30
日までは結審しなかった。
GHQ は、12 月中旬、国家神道の解体も命じた(12 月 17 日)。政府による神道への支援や監督、
軍国主義的・超国家主義的イデオロギー、教育現場での神道教育を廃止せよ、というのが骨子
であった。
天皇は年頭の詔書で「私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族
と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない」と自らの神
格性を否定した(12 月 31 日)。マッカーサーはただちにこれを歓迎したが、それは、日本の社
会的・経済的・政治的自由化を促進するために天皇はその地位に留まるべきだ、と彼が考えて
いた証であった(1 月 2 日)。オーストラリアとニュージーランドは天皇を戦争犯罪で裁くべし
だと主張したが、米国はそれに強く反対した(1 月 17 日)。
東西冷戦の暗雲
戦争では協力した米ソの間に、利害対立が芽生えていた。10 月 1 日には、ソ連のモロトフ外
相が、総司令部を太平洋4大国(米・英・ソ・中)が対等の権限をもつ組織に変えるべきだと
いう書簡を、バーンズ米国務長官に送った(10 月 3 日)。旧枢軸国との講和問題などを話し合
うため 9 月 10 日から開催されていた米・英・仏・ソ・中のロンドン外相会議は、米ソ間の意見
の違いにより 10 月 2 日に事実上決裂(10 月 2 日)し、その後は責任のなすり合いとなった(10
月 7 日)。日本占領のために設置されることになった極東諮問委員会の役割や権限についても、
意見が割れていた(注・委員会は、10 月~ 12 月にかけて 10 回開かれたが、ソ連は欠席した)。
トルーマン大統領は、ロンドン外相会議の決裂を否定し、米ソ間に利害衝突があったことはな
いとしつつも、両国では「お互いについて正しく伝えられていない」ことを認め、また原爆開
発技術は「ソ連を含むいかなる同盟国(a l l y)も共有しない」と明言した(10 月 9 日)。ドイ
ツで共産党がベルリンを支配下に収めた一方、米国国内では下院非米活動員会が共産主義者の
活動に対する監視を強め、6つのラジオ局の解説者に原稿の提出を求めた(10 月 16 日)。戦後
冷戦の暗雲は、すでに垂れ込めていた。
45 年 10 月 24 日には国際連合が正式に発足したが(注・ニューヨークの国連本部ビルが完成
したのは 1949 年)、『星条旗』はそれについて何も報じなかった。
トルーマン大統領は 10 月 27 日、12 項目からなる外交政策を発表した。「平和を確実なもの
にするために必要があれば共同で軍事力を行使してもよいと考えるすべての平和愛好国で構成
する国際連合を通じた平和維持」、「力づくで主権と自治権を奪われたすべての民族(人々)へ
のその返還」、
「領土不拡張」「明白な意思表示がある場合を除いた、友好諸国の領土不変更」「自
治能力のあるあらゆる民族(人々)への、いかなる外的介入もない自治権(承認)」などが骨子
であった。大統領はまた、「米国は、外国の軍隊によってどこかの国に押しつけられた政府の承
(14)
認を拒否する」と述べた。
ヨーロッパとアジア太平洋各地で終戦処理が進む一方で、インドネシアでは解放戦争が始ま
り、日本から解放されたばかりの中国は、10 月 28 日、内戦に突入した。重慶発 UP 電によれば、
重慶での国家統合の話し合いが硬直状態に陥り、合計およそ 100 万の「中央政府」軍と「共産」
軍が中国北東と南西にある 11 の省で衝突したのである。『星条旗』はその日から内戦がある程
度中断した 11 月末まで、ほぼ連日、各地での両軍の戦闘を報道した。
その間、米第7艦隊は蒋介石の国民党軍の輸送を支援して、共産軍から非難された。国民党
軍は、米国製のバズーカ砲、火炎放射器、機関銃などで武装し、3000 人の残留日本兵も義勇軍
として国民党軍とともに戦った。中国には、第一海兵師団、陸軍部隊も駐留していた。米軍と
中国共産軍が戦火を交えたことや、満州ではソ連が中国共産軍を支援していることが伝えられ
る(米国政府は介入を否定)など、内戦は複雑化する様相を見せた。11 月 27 日には、米空軍
がインドやビルマから 700 機の輸送機や攻撃機を国民党軍に届けた。同日、パトリック・ハーリー
駐中米国大使は、第 3 次世界大戦が始まりつつあるとして米国の中国介入に抗議し、辞任した。
『星条旗』は、「情報通の軍事筋の見解では第 3 次世界大戦の最初の戦闘」が中国北部と満州で
展開されている」という文章で始まる連載記事を 10 月 9 日から 12 日まで載せた。米国は、12
月 24 日、5,000 人の海兵隊員をホノルルから中国に追加派遣した。
モスクワ外相会議
モスクワで 12 月 15 日に始まったバーンズ米国務長官、ベヴィン英外相、モロトフ・ソ外相
による会議は、内容が明らかにされないままクリスマス明けまで続いた 。
「ロンドンの消息筋」によると、この会議で3国は米英中ソ4か国共同による日本占領と朝
鮮(半島)の5か年信託統治に合意した。原子力については、1月に決議案を国連総会に提出
するという米英案を採択し、決議案にはソ連、カナダ、中国、フランスも名を連ねることになっ
た、という。またワシントンで得た情報によれば、朝鮮半島の信託統治には中国も加わり、信
託統治終了後は朝鮮半島に独立が認められる、南の米軍司令部と北のソ連軍司令部が朝鮮半島
の統治について調整することも合意されたという(12 月 27 日)。翌日の『星条旗』は、ソ連が、
平和利用のための原子力管理に関する国連総会への共同提案や日本占領への参加に加えて、朝
鮮半島における5年後の完全独立を目指した暫定政府の設立、蒋介石総統を長とする民主的中
国政府の必要性に同意したと伝えた。29 日の紙面には、日本占領に関するマッカーサー連合国
最高司令官への諮問機関として4か国対日管理理事会を設置することなどを盛り込んだモスク
ワ宣言の内容が報道された。理事会の実権は、マッカーサーが握ったままであった。
しかし、事態は外相会議の思惑通りには進まなかった。例えばマッカーサー連合国軍最高司
令官は、陸軍省を通じて、朝鮮半島で進んでいる米ソ二重(分割)支配に異を唱えた(1 月 2 日)。
中国では、蒋介石総統の国民政府と毛沢東の共産軍が、トルーマン大統領の特使ジョージ・マー
シャル元帥(のちに国務長官や国防長官を歴任した)の調停でついに休戦に合意した。両軍の
即時停戦だけでなく、全国民の基本的人権の尊重、すべての政党の法的容認、反逆犯を除くす
べての政治犯の釈放も合意された(1月 10 日)。原子力管理については、バーンズ国務長官が
早期に特別委員会を設立するよう国連総会で呼びかけた(1 月 14 日)。長官は、陸・空・海軍
からなる国際平和軍の設置も国連に要請した。
日本の占領は、実質的に、これまで通りマッカーサー下の G H Q が指揮した。国際軍事裁判に
は、米国のほか、ソ連や中国の判事も招かれることになっていたが、指名権はマッカーサーにあっ
た(12 月 5 日)。
真珠湾攻撃の責任
(15)
日本降伏後は、日本に真珠湾攻撃を許した責任を問う議論を報じる記事が登場し始めた。8月
29 日号のワシントン発 UP 電は、
トルーマン大統領が陸軍と海軍の報告書を公表したが、
それはマー
シャル陸軍参謀長と攻撃時に海軍作戦部長だったハロルド・スターク提督、ハワイの防衛を担当
していたショート陸軍少将、キンメル海軍少将を厳しく批判した内容のものだった。トルーマン
とスティムソン陸軍大臣はマーシャルを擁護したが、スタークなどについては反論しなかった。
陸軍省の報告書によると、当時の政府内では、日本はハワイではなくまず南西太平洋を攻撃
すると確信されていたため、そのように布陣したという。翌 8 月 30 日、トルーマンは、真珠湾
事件の責任はいかなる個人にもなく、事態に備えていなかった国全体の責任だと述べた上、軍
事裁判に反対はしないが、開廷を命令するつもりはないと付け加えた。
『星条旗』は証人喚問を含め、委員会の活動をほぼ逐一報道した。当時の国務長官コーデル・
ハルは、「外交交渉で和平が得られる見込みはなく、日本はいつどこで攻撃するかも知れない、
と閣議で何度も警告した。ル-ズベルト大統領は何とか時間を稼ごうとした」と述べた(11 月
23 日)。12 月 14 日の記事は、両院調査委員会が時間を浪費しているとして、法律スタッフ全4
人が辞職し、委員長のバークレー上院議員も辞職の意向を示した、と報じた 。 委員会の活動や
それに関する報道は、その後も続いた。
軍隊内の人種差別問題
『星条旗』は、軍隊内の人種差別に対する黒人兵(ニグロ)の声も取り上げた。例えば「黒
人たちが語る戦後アメリカへの希望」と題する記事 (7 月 26 日 ) では、「同じ国のために戦って
きたのだから、黒人は戦前よりましな扱いを期待するだろう。白人と公平で同等の機会をもつ
べきだと思う」「ほとんどの戦後問題は皮膚の色に関係なく元兵士を襲うだろうが、黒人にはは
るかに難しいだろう」「南部出身の黒人は南部に戻るより、北部へ向かうだろう」といった6人
の黒人兵のコメントを顔写真入りで紹介した(注・『星条旗』に黒人の写真が掲載されるのはき
わめてまれだった)。
「東京で終わるはずの戦闘は、黒人が白人に「イェス・サー」と言うのを忘れたり、バスの
後部座席に座らなかったりしたために、われわれの故郷の街路で繰り返されるのだろうか。そ
れが、自由と平等を掲げるアメリカを防衛して帰国したわれわれの運命なのか」として、政府
に黒人差別政策を止めるよう呼びかける黒人兵の手紙(9 月 7 日)は、大きな反響を呼び、その後、
それに関する投書が相次いで掲載された(9 月 15 日、同 25 日、同 26 日など)。
また、『星条旗』はナショナル・アーバン・リーグ(注・ニューヨークを本拠とする黒人人権・
社会福祉組織)の代表レスター・グランガーとのインタヴュー記事も載せた(10 月 3 日)。グ
ランガーは、米海軍は非差別政策をとっているものの、首都ワシントンから離れれば離れるほ
ど違反が増え、テキサスでは海軍のバスや劇場で差別が見られると指摘し、帰還した黒人たち
は、雇用、給与、在郷軍人手当てなどについて白人と同等の扱いを求めるだろうから、当初は
サンフランシスコやオレゴン州ポートランドなどで人種間の緊張が高まるだろう、と予測した。
ちなみに、ブルックリン・ドジャーズが、プロ野球球団としては米国史上初めて黒人選手を入
団させたのは 45 年 10 月であった(10 月 24 日)。
12 月には黒人指導者たちがブラドレー将軍(注・ノルマンディ上陸作戦で米国陸軍グループ
を指揮した)に米国南部の在郷軍人における人種差別撤廃を要求したが、将軍は拒否したとい
う(12 月 10 日)。ブラッドレーが指示した調査によると、97 ある退役軍人擁護局の病院のうち
17 は緊急を除いて黒人を受け入れず、24 は黒人専用の病室をおいていた。フォレステル海軍長
官は、除隊された黒人兵が満員を理由にフランスのルアーブルで輸送船への上船を拒否された
という報道を受けて、すべての船舶と帰国兵待機所に、「人種や肌の色」によるいかなる差別も
禁止すると通告した(1 月 2 日)。
(16)
除隊・帰国
45 年 6 月に、太平洋各地からホノルルに集められていた1千人以上の兵士が輸送船でサンフ
ランシスコに帰還(6 月 6 日)して以来、大多数の兵士にとって最大の関心事であった復員(除
隊)に関する記事も増えた。
米軍は、ポイント制(注・軍役1か月につき1点、海外勤務1か月につき1点、勲章1個に
つき5点、18 歳の子供 1 人につき 12 点)により、当初は 85 点(将校や女性兵士はもっと低い
点数)を獲得した一般兵士に復員資格を与えていたが、45 年 9 月に 80 点(志願女性兵士は 41 点)
に下げた。ポイントはさらに低減され、46 年1月にはアイゼンハワー元帥が、兵役期間や点数
に限らず、不要な兵士はすべて除隊対象になると発表した。戦線にいてもやることがないとの
兵士たちの不満の声に応えたのだという(1 月 9 日)。実際、マニラやホノルルでは、帰国を待
ちわびる兵士たちが早期の除隊や輸送を求めてデモ騒ぎをすることもあった(12/26、1 月 7 日、
1 月 9 日)。何か月もの間、出発地のタナパグ(サイパン)、マニラ、東京、ホノルルの空港や
港湾には帰国を待つ兵士であふれ、到着地の本土東沿岸および西沿岸の各地は、除隊兵と彼ら
を迎える家族や恋人たちでごったがえした。
『星条旗』は、スタッフ除隊が早く進んだため、廃刊を予定の 2 月 23 日から 1 月 30 日に繰
り上げた。最終号の1面には、トルーマン大統領から「星条旗中部太平洋版」のスタッフへの
感謝の手紙がそのまま印刷されたほか、米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥と中部太平洋
総司令官リチャードソン中将の感謝の言葉が掲載された。
なお、最終号には、「兵士 4 千人がオアフを出航」、「労組委員長、乗客係増員を要求」(ホノ
ルルで帰還兵たちがマチョニア号に乗船していたちょうどそのとき、乗組員が乗客係を増員せ
よと船会社に要求するストライキに突入した)、「2 月 1 日後の出航は不確定」(帰国予定者が急
増する一方で、出航予定について情報がない)といった見出しのほか、「海軍士官のためのエ
リート『グリーン・ボウラーズ』発覚」(アナポリス海軍士官学校の同窓生相互昇格支援のため
の秘密組織がホノルルで活動していた)、
「ヘスの自己弁護要請、ニュールンベルクで拒否」、
「部
下が本間(中将)に不利証言」、「米軍のドイツ駐留、長期化か」、「ヤルタ会談でクリル群島を
ロシアに」(バーンズ国務長官によれば、ヤルタで千島群島をロシアに分割することが秘密裏に
合意された)、「トルーマン、議会に 37 億ドルの対英貸し付け承認を求む」、「陸軍のロケット、
垂直に 50 マイル飛行」といった記事が載っている。ほとんどが、終結したばかりの戦争を引
きずりながら新たな国際緊張を予兆させる記事だ。『星条旗』に匿名希望で送られた投書をすべ
て焼却する写真も掲載されている。
米軍統合
なお、1944 年に統合参謀本部の指揮で作成された陸軍(注・空軍隊は陸軍に属していた)
と海軍を統合する秘密計画は、権力集中化によるドイツのような軍事独裁化への懸念を口実に
する海軍指導部の反対(10 月 29 日、11 月 2 日)などにより、足踏みしていたが、12 月 19 日
にトルーマン大統領が議会に統合を提案してから、事態は動き出した。大統領は、統合の必
要性を、いつ起こるか分からない核時代の戦争に備えるため、と説明した。統合により、シ
ビリアンを長官に陸軍、海軍(海兵隊を含む)、空軍からなる国防省(Department of National
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略歴紹介
吉田健正(よしだけんせい) 1941 年、沖縄県で生まれる。ミズーリ大学、同大学院(いずれもジャー
ナリズム専攻)を卒業。沖縄タイムス、AP 通信社、ニューズウィーク東京支局で記者、在京カナダ大使
館で広報担当官を務めたあと、桜美林大学国際学部でカナダの政治・外交、ジャーナリズム、沖縄現代
史を担当。2006 年 4 月退職。著書に『沖縄戦――米兵は何を見たか 50 年後の証言』(彩流社)、『ミド
ルパワー・カナダの国際貢献』(同)、『カナダはなぜイラク戦争に参戦しなかったのか』(高文研)、『「軍
事植民地」沖縄――日本本土との < 温度差 > の正体』(同)、『戦争はペテンだ――バトラー将軍にみる沖
縄と日米地位協定』(七つ森書館)など。
2008 年 6 月 23
Fly UP